連載小説「あの箱庭へ捧ぐ」第一章
第一章 影を踏む
1
足立清二は到着時間の連絡を受けてから数十分は、事務室で待機していた。室内にある壁掛け時計をみずに、ここ数年愛用している腕時計をみつめる。そろそろ出迎えの準備をしなければならない。窓の外を見ると先日の梅雨入りが影響してか、空は気分がしずむほど曇っていた。
ウミホタルは海の生き物だ。甲殻類で刺激を受けると威嚇するために発光するらしい。そんな生き物から名前をとったうみほたる学園は全寮生で、日本全国から集められた生徒や教師、その他の関係者を含めて約八百人ほどの能力者たちが生活している。
都会から遥かに離れた山の中腹にあるため、自然に囲まれた広い敷地内に、大きな校舎や食堂が建てられていた。小さな雑貨店や洋服店もあるが、品揃えが良いとは言えない。男子寮と女子寮には中等部や高等部の生徒たちが住んでおり、先生や施設の職員たちは、アパートで暮らしている。年齢の制限はないが、十代から四十代ぐらいまでの能力者たちが学園に在学している。しかし、日本中のすべての能力者が集められているわけではない。全寮生のために敷居は高いのだろう。学費のこともある。学園内で働く者たちは、ある程度は免除されているがそれでも簡単に入れる学園ではないことは確かだった。
近年、ニュースでも取り上げられることが多くなった、不思議な能力を持つ人間。それは子どもから大人、男女関係なく発症する病気のようなものだとキャスターが言っていた。
能力病と呼ばれている。その力のせいで家に引きこもる子どもや大人が多くなった。子どもは学校に行かなくなり、大人は仕事をしなくなる。そんなふうに言われている。
その能力は多岐にわたる。魔法のように何もないところから火や水を生みだしたりする者もいれば、五感が異常に発達していたり、共感覚を持ち合わせている者もいるという。原理はわからない。けれど、わからないこそ恐れられて一か所に集められているのかもしれない。
どんどん増え続けている能力者を囲っておける場所は限られている。この学園以外にも、そういう学校や施設が増えているという。能力者の研究をしている場所もある。その中でも規則が厳しいと言われているこの学園は、一度入ったら卒業できるまで一時的な外出はおろか外との連絡も一切禁じられている。
*
「足立先生。ちょっとよろしいですか」
声をかけられたので事務室の扉から顔を出すと、そこにいたのは本間宗太という少年だった。顔は奇妙なほどに整っていて、美形と言っていいほどだった。街を歩くと必ず目を引くだろうその少年は、元子役の芸能人という経歴を持つ。彼は子役の頃に一世を風靡したらしい。言われてみれば確かにどこかで見たことのある顔をしている。そして学業に専念するという理由で、十二歳で芸能界を引退していた。現在は十七歳。これだけ顔が良いならば復帰してもよさそうなものだが。そんな彼がどうしてこの学園に在学しているのかと言えば、能力者になってしまったから。という理由の他ないだろう。
「どうした」
あまり時間はないが、足立は対応する。時間がかかることならば他の先生に託すが、そうでないならばやってしまおうと考えた。
「斎藤寧々さんが門の近くにいるのを見たんですけど、放っておいていいんですか」
本間の言葉に足立は目を丸くして、それからすぐに頭を抱えて大きく息を吐いた。「またか」と呆れたように呟く。
斎藤は問題児だ。予想できなかったわけではない。しかし、ここしばらくは大人しくしていたので油断していたことも事実だ。
「ありがとう。すぐに向かう」
「気を付けたほうがいいですよ」
「ああ」
本間の忠告を聞いてから、足立は急いで警備員に連絡する。電話で話した限り、監視カメラには斎藤の姿は映っていないとのことだった。本間の話を信じるならば、監視カメラの死角を突いて移動しているのだろう。しかし、そんな器用なことを斎藤ができるとは思えない。できるとすれば協力者がいる場合だ。斎藤の脱走騒ぎはこれで三回目だ。一回目は学園に入学したての頃、家に帰れないと知るや否や暴れて、教師たちを振りきって脱走しようとした。二回目は、斎藤が規則を破って謹慎処分を受けたのに、脱走しようとした。
これまでの斎藤には、計画性というものがまるでなかった。
協力者を得たうえで、斎藤が脱走計画を実行しようとしているならば、これは非常に厄介だ。斎藤が今までと同じで勢いだけで脱走しようとしていたなら、まだ楽だっただろう。
学園の門が開閉するには二つの理由がある時だけだ。一つは、教師が用事や休暇で外に出るとき。もう一つは新入生を迎える時だ。それ以外はよほどの理由がないと開かない。そして今日は、新入生がやってくる日だった。
このことは基本的に生徒には通知されない。だが、斎藤の持っている能力の事を考えれば、彼女がその情報を知っていてもおかしくはなかった。
斎藤は、聴覚が常人離れしている。どんなに小さな音でも、遠くの音でも聴くことができるらしい。
今日門が開くことを知っているのなら、斎藤が脱走する絶好の機会だと考えていてもおかしくはない。協力者の力を借りれば、監視カメラを避けながら門まで移動することも容易いだろう。
そこまで考察して、このままでは、新入生と斎藤が入れ違いになってしまう事実に気づいた。足立は急いで門へ向かった。事務所から門の間はそれほど距離はない。門前に着くと、連絡を受けた車の到着時刻と斎藤のことを警備員と話し合う。時間まで待機し、理事長たちの乗った車の到着と、斎藤を待ち伏せすることにした。
「厳重警戒だ」と足立は警備員の二人に言った。
2
車が二台、坂を登ってくる。監視カメラの映像を見ている警備員のひとりから、連絡が入る。足立はイヤホンから聞こえてくる声に返事をした。
足立は何気ない顔をして、身長が百八十センチある自分よりも高い壁に挟まれた重い鉄格子を両手で押す。地面に埋め込まれたレールと格子が甲高い音をたてながらゆっくりと動いていく。
通常、門には誰かが脱走しないように監視カメラと警報機がとりつけられている。しかし今回のように職員が出入りする際は、一時的に警報が鳴らないように設定している。
足立が片側の門を終点まで動かすと、もう片側の門を押していた警備員も開け終わったらしく、「ふう」という声が聞こえた。
左右の門が開き終わると、二台の車が徐行しながらうみほたる学園の敷地内に入ってくる。足立は車が二台とも門を通り終わったことを確認すると、辺りを警戒しながら、再び門に手をかける。
そのときだった。
「おい。そいつを捕まえろ」
足立よりも先に斎藤の姿を目で捕えていた警備員の叫び声が聞こえた。みると、確かにこちらへと走ってくる人物がいる。青い帽子を被った、少年とも少女とも見分けのつかない風貌をした人物。それは紛れもない、脱走犯。斎藤寧々の姿だった。
斎藤が門の外へ出ようと走っている。近くで停車した二台の車からは、もう誰かが降りようとしている。そして斎藤と、車から降りてきた足立とは面識のない女の子。おそらく話に聞いていた新入生がすれ違う。斎藤がその子に気を取られていたその一瞬。足立はその隙を狙って自分の影を伸ばした。
*
空は曇っているが、まだ雲の隙間からは太陽が見える。丁度いい天気だった。
うみほたる学園は能力者しか入れない。足立もその例にもれず。影を操ることが出来る能力者だった。
足立は自分の影を使い、斎藤の影を捕える。足立の影と斎藤の影が繋がり、ひとつになる。次に足立は右の足を真横に動かした。斎藤の右足の影が、斎藤の意思とは関係なく横方向へと動く。影が動くとどうなるか。影を作っている物体もまったく同じ方向に動くことになる。本来ならありえないことだ。しかし足立の能力は、そういう能力であった。
走っている斎藤の右足が影と同じく真横に動いた。斎藤はその場で体のバランスを崩して転んだ。
斎藤のうめき声が一メートルほど先から聞こえる。
足立は一歩も動かなかった。手を動かすことも、顔を動かすこともなかった。こうすることで、斎藤は起き上がれないし、例え起き上がれたとしても、動くことが出来ない。足立の影と斎藤の影が繋がっている限りは。
「取り押さえろ」
警備員がそう言って、もうひとり別の警備員と一緒に斎藤の両腕を片方ずつ掴んだ。斎藤は身動きが取れなくなった。
「離せ。あたしに触るな」
斎藤が無駄だとわかっているだろうに、叫んでいる。大人の男性二人に羽交い絞めにされていては、力で敵うはずもない。
足立はそれを確認すると、門から離れて斎藤の傍まで行く。歩きながら、足立は二週間前のことを少し思い出していた。斎藤が二回目に脱走しようとした時の事。斎藤はあのとき、果敢にも足立に殴りかかってきた。まあ言うまでもなく軽くいなしたが。
「斎藤。残念だったな」
足立は口角を上げてそう言った。
斎藤は足立の事を睨んでくる。
「こんな所、大嫌いだ」
斎藤はそう叫ぶと、観念したかのように抵抗するのをやめた。
一段落して足立は能力を解除すると、今度は車のほうに視線を向けた。みると乗車していたであろう面子は全員車を降りていた。堀田理事長。二台の車の運転手が二人。米田恵理子先生。川崎竜太郎。そして新入生の小池燐音という少女。みんな、困惑した表情でこちらを見ている。
足立は面倒だなと思いながら、理事長たちの近くまで歩いた。
「足立くん。これは一体?」
そんな足立を見てか、理事長が首をかしげながら尋ねてきた。
「お騒がせしてすみません。彼女の処分はこちらにお任せください」
理事長の目の前まで来ると、足立は言った。
「ああ。頼むよ」
返ってきたのはその一言だけだ。理事長は、それ以上何も言わず、川崎に何やら話しかけている。そしてそのまま川崎と共に一足先に本部へと向かうようだ。
足立へのそれは信頼からなのだとわかっていたが、その返答はとても淡白だと感じた。
一方、米田は「お願いします」と足立に向かって一礼した。足立も頭を下げると、「はい」と返す。米田は足立の後輩にあたる。彼女は今回、新入生と同性だからという理由で理事長に同行を頼まれたという経緯がある。
「そちらも、よろしくお願いします」
足立はそう言ってから、米田の後ろで怯えているだろう少女をみた。少し長めの前髪から覗く瞳は、何を考えているのかまるでわからない。小池は不安そうな顔こそしていたが、怯えている様子はなかった。そのことに安堵して、足立は彼女に話しかける。
「こんにちは。初めまして、足立清二と申します。よろしく、小池燐音さん」
小池は僅かに頭を下げてから、「よろしく、お願いします」と小さな声で言った。
「そんなに緊張しなくていいよ。怖いお兄さんじゃないから。隣のお姉さんも、ちょっと顔が怖いかもしれないけれど、優しい――」
最後まで言い終わらないうちに、米田が咳払いして「足立先生っ」と声を裏返した。本人が気にしていることを言ってしまったらしい。
「ほんの冗談ですよ。怖いと思ったことはないです」
足立は弁解のつもりで言う。
「言われ慣れているので、大丈夫ですよ。気にしていません」
米田が、嘆息しながら言った。
わざわざ言うということは、相当気にしているなと足立は思う。実のところ、米田の顔を怖いと思ったことは一度もない。むしろ美人の類に入るだろう。何でこんなところで働いているのか疑問に思うぐらいだ。しかし彼女にも彼女の事情がある。根掘り葉掘り聞くつもりはない。
「それでは、こちらの件が片付いたら改めてそちらへ顔を出しますね」
足立は米田たちに別れを告げると、自分の目先の仕事へと戻る。米田と小池も理事長たちの後を追って本部へと向かうようだ。
警備員二人に捕らえられたままの斎藤は、落ち込んだ表情で項垂れていた。足立はそれをみると、頭を掻いた。
まずは保健室に行って、斎藤の怪我の手当てをしなければならない。
3
斉藤への罰則は、反省文だけでは足りないのではないか。彼女の脱走未遂は今回で三回目だ。根本的な原因を解決するためにも、行動の制限をかけたほうが良いのかもしれない。足立はそう考えて、斉藤にとある罰を追加することにした。
「新入生の面倒をみる?」
罰について伝えると、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして、斎藤が足立の言葉を繰り返した。
「今回だけ特別だ。反省文と合わせて二つの罰をお前に科す」
足立は、斉藤に向かってそう言った。
「それはいいですけれど。新入生に関しては、罰にならないんじゃないですか。あの子、あたしと同室だって聞きましたよ」
斉藤は首を傾げて言った。
これは足立も先ほど知ったことだが、どうやら今は斎藤が一人で使っている女子寮の部屋に、新入生の小池が新しく入る予定だったらしい。通常は、新入生の入寮が生徒に知られないようにするため、当日まで告知しないことになっているが、斉藤は同じ部屋に入るということで、事前に知らされていたみたいだ。
足立は女子寮について詳しくはない。どの生徒たちが同じ部屋なのか、資料を確認しない限りは知らない情報だ。しかし今回は米田が、斉藤の部屋に小池が入ることをわざわざ足立に教えてくれたのだ。
「何か運命的なものを感じたから」だそうだ。
正直よくわからない理由だと思ったが、都合は良かった。斉藤のためになることだと思ったからだ。
それから脱走騒ぎの協力者だが、斉藤は頑なに口を割らなかった。協力者などいないの一点張りだ。このままうやむやになりそうだった。
あれから一日経ち、斉藤と小池の様子をみているが、どうやら上手くやっているようだった。二人で食堂へ昼食を食べに来ている。
足立は二人より先に昼食を食べ終わり、食器を片付けると外へ出た。近くのこげ茶色のベンチに座り、二人が食堂から出てくるのを待つ。傍から見たら怪しい行動ではあるが、これも仕事のうちだった。新入生というものはとても危ういものだ。来たばかりでここの生活に慣れていない。だから先生をやっている限り、注意してみていなければならない。そして問題が起こればすぐに対処するべきだ。
勿論その職務があるのは足立だけではない。米田もそうだ。特に彼女は、小池の担当だと聞いた。できるだけ近くにいるだろう。
*
数分後。斉藤と小池が、食堂から出てきた。何かしゃべっているが様子がおかしかった。小池が口元を押さえている。彼女は膝から崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。
斉藤が慌てて、食堂にいる人に声をかけている。中にいた米田が、急いでかけつけていた。何か袋のようなものを持っている。
足立は近くまで行くと、すぐに事態を把握した。
「まだ気持ち悪い?」
米田が、小池の背中をさすっていた。おそらく嘔吐したのだろう。先ほど食べたものと思われるものが、袋の中にみえた。強いストレスを感じて胃腸に負担がかかっていたのだろう。小池は学園へ来てから今まで、無理をしていたのかもしれない。生活環境が変わったばかりですぐに慣れろというのは酷な話だ。
足立は落ち着くまで待ってから、声をかけた。
「大丈夫か。そこのベンチに座ったらどうだ」
米田が頷いて、小池を先ほど足立が座っていたベンチへと誘導した。斉藤も一緒だった。
「足立先生。少しの間、お願いします」
米田がそう言って、使用した袋を持って食堂へ戻る。水を持ってくるそうだ。
足立はベンチに座っている小池と斉藤の前に立っていた。そういえば飴を何個か持っていたな。と思い出したので、ズボンの右ポケットに手を入れた。
「小池。いい物をあげよう」
そう言って、足立はポケットの中に忍ばせてあった個包装の飴の中から、イチゴ味と袋に書いてあるものを取り出した。
「あ、ありがとうございます」
小池が微かに嬉しそうな顔をして、足立に向かってお礼を言った。
「吐いたから、胃液で口の中が不味いだろう」
「は、はい」
小池は足立の言葉に、苦笑いしながら頷いた。
それから小池は飴の袋を開けて、赤い飴玉を口に一つ含んだ。飴玉は少し小池の口には大きいのか、頬の膨らみがはっきりとみて取れた。時折、飴玉と小池の歯が擦れるような音がした。
それをみていた斉藤が、自分も欲しくなったのか、「足立先生。それもう一個ないんですか」と尋ねてきた。
仕方ないなと思い、足立は再びズボンの右ポケットの中を探る。飴の袋を何個か取り出した。中にはまだ中身がある、膨らんだ状態の飴の袋があった。ちなみに紫色のブドウ味と書いてある。
「あるけど、これ俺の分」
そう言って、足立は少し意地悪をする。ほんの冗談のつもりだった。場を和ませたかったのだ。
「え? じゃあいいです」
斉藤が怒ったような口調で言った。真に受けられたらしい。
足立は笑った。
「冗談だよ。ブドウ味でよければあげるよ」
「ありがとうございます」
斉藤が笑顔で元気よくお礼を言った。
それから、斉藤は足立からブドウ味の飴を受け取った。
「俺は、禁煙中なんだよ。だから飴を舐めていたんだ。最近また値上がりしただろう。外に行っても高いから。また新しい飴を買わないとな」
そう言いながら、足立は息を吐いた。ヘビースモーカーとまではいかないが、喫煙者だった。かと言って電子タバコは苦手だったため、飴でごまかしていたのだ。
「ここって結構、給料が高いって聞きましたけれど」
どこで誰が言っていたのか。斉藤の発言に足立は驚いた。
「一体誰から聞いたんだ」
「あたしは耳がいいので。風の噂で聴いたんですよ」
斉藤の返答に、足立は彼女の能力について思い出していた。斉藤は耳が異常に良いのだ。
これには足立も苦い顔をするしかなかった。この学園にいる限り、どこで誰が何を聴いているのかわかったものではない。
「給料はな。使いこんでいるから」
そう言って、足立は笑ってごまかすしかなかった。小池を一瞥する。
足立も小池の能力の事は、知っている。だから何かを思うことすら今はためらわれた。
米田が戻ってくる姿が目に入る。足立はそれを確認すると、今度はしっかりと小池のほうをみる。
「小池。あんまり無理するなよ。具合が悪いならすぐに近くの先生に言えよ」
「は、はい」
小池は飴に妨害されながらも返事をして、足立の言葉に頷いた。
「よし。じゃあ、またな」
米田と入れ替わるようにして、足立は事務所の方へ向かって歩きだす。
斉藤が足立に向かって手を振った。隣で小池が軽く頭を下げていた。
「足立先生。ありがとうございました」
すれ違いざまに米田が言ったので、足立は無言で手を振る。
自分が汗をかいていることに気づいたのは、事務所の入口の前だった。
タイミング良く、足立のスマートフォンが振動する。ズボンの左ポケットからそれを取り出して画面をみてみると、メールが届いていた。差出人は、「いのう研究所」
足立は肝を冷やし、内容を確認せずに画面を閉じた。そのままポケットにしまう。
別にやましいことがあるわけではない。そう思いながら、足立はどんな顔をしていいのかわからない。だから無理に表情を作らずに、仕事に戻ることにした。
4
女子寮の裏手に山道がみえる。そのすぐ傍に、プレハブで建築された小屋が建っている。元々は登山の際に利用されていたらしいが、最近は滅多に利用する者がいない。数年前の土砂災害の影響で登山が禁止されているせいだ。
空いているならと、今は洸生会が借りて利用している。洸生会というのは、うみほたる学園の生徒たちを卒業へと導くために創られた、生徒主体の組織だ。洸生会の存在自体が学園内で公にされているわけではないので、隠れ家とも言えるかもしれない。
小屋の中には、小さな棚と湯沸かしポットがある。ソファとテーブルも置かれ、客間としても使えるようになっていた。
そんな場所に、川崎竜太郎はひとりでいた。授業が終わると、いつもここに来て理事長から受け取った在校生の資料を読み漁る。最近はそれが日課になっていた。
自分で淹れた緑茶を呑みながらソファに座って、しばらく資料を見ていると誰かが入口の扉を開けた。入口の外で靴を脱ぐと、近くに置いてあった灰色のスリッパを履いた。
「よ。やっているか」
少年が陽気にやってきて言う。
「そんな、お店じゃないんだから」
竜太郎は、困った顔をして彼をみた。本間宗太。竜太郎と同じ学年で、同じクラスの友人であり、洸生会のメンバーのひとりでもあった。彼はとても整った顔立ちで、クラスの女子たちからも一目置かれる存在だ。何せ、元子役だ。一部の生徒たちからは敬遠されている。しかし持ち前の明るさからなのか、友人は多い。
「あの子は?」
部屋の中を見まわしながら、宗太が竜太郎の向かい側のソファに座った。
名前を言わなかったが、宗太が誰のことを尋ねたのか竜太郎にはわかった。小池燐音。先日、学園に入学したばかりの、洸生会の新メンバーだ。
「僕の靴しかなかっただろう。今日はまだ来ていないよ」
竜太郎はそう答えた。
「そうか」と宗太は呟くように言うと、ソファに仰向けで寝ころんだ。自分の家のようにくつろいでいる。竜太郎はソファから立ち上がると、宗太の分の緑茶を淹れる。
「出席は自由だ。ただ依頼があったときには協力してほしいとは伝えてあるよ。彼女は君の事が苦手そうだったけれど」
急須にお湯を淹れながら、竜太郎は言った。
うみほたる学園に入学したての小池を、竜太郎は洸生会に誘った。小池は嫌そうに顔を歪めていたが、理事長も関わっていることを告げると拒否権がないと悟ったのか、参加してくれた。小池を洸生会へ向かえ入れた日。竜太郎以外のメンバーとの顔合わせをした。とはいえ小池が入る前の洸生会のメンバーは竜太郎と宗太の二人だけ。小池は宗太と会うなり怯えた様子だった。
色々な出来事が一気に彼女を襲ったので、竜太郎は少しだけ彼女を心配している。
「そうだろうな」
宗太はそう言いながらあくびをすると、起き上がる。
テーブルに置かれた資料の一つを手に取って、顔をしかめた。無言のまま、それをみつめていたので竜太郎は気になって、淹れた緑茶をテーブルに置くと宗太の見ているものを覗いた。
「それ。斉藤のものか」
竜太郎が言うと、宗太は手に持っていた紙の束を元の位置に戻した。
「ああ。斉藤だな」
宗太はそれだけ言うと憂いた表情で、窓の外に視線を送る。そこには、山に生い茂っている木々の葉っぱがみえていた。
斉藤寧々。小池が入学してきたあの日に、脱走しようとした生徒だ。彼女は竜太郎の友人で、宗太にとっては特別な人であった。宗太と斉藤はかつて良い仲だった。しかし色々あって今は仲がこじれてしまっている。
そんな彼女のことが書いてあったので、宗太も思わず凝視してしまったのだろう。
二人が元の関係に戻ることは難しいと竜太郎は思っている。単純な問題ではないのだ。むしろ、そうさせた原因は竜太郎にある。
「なぁ……」
竜太郎が宗太に言葉をかけようとした時だった。
誰かが扉を叩く音がして、竜太郎と宗太はほとんど同時に部屋の出入り口のほうへ視線を向けた。扉を開けたのは、先ほど話題に上がった少女。小池燐音だった。
「あの」
か細い声が聞こえる。扉を大きく開けたわけではなく、部屋の中まで入ろうとしない。
「まさか来てくれるとは思わなかった。遠慮せずに入ってくれ。何もないけれど」
竜太郎はそう言って、小池の分の緑茶を淹れようと湯呑を棚から出そうとした。
そのとき、彼女は言った。
「違うんです。その、斉藤さんの事でご相談が」
彼女の口から斉藤の名前が出る。竜太郎は思わず手を止めた。
「斉藤がどうかしたの」
ソファに座ったままの宗太が、真面目な顔をして小池に尋ねた。
「戻ってこなくて」
ぽつりと、不安そうに小池が言った。
「戻ってこない?」
竜太郎と宗太は首を傾げた。
「授業が終わって、一緒に寮に帰ろうとしていたのですが。足立先生に呼ばれてるって言って、それ以降戻ってこなくて」
「それって、単純に足立先生の話か何かが長引いているんじゃないの」
宗太の指摘に、小池は首を横に振った。
「しばらくして足立先生と会って。そうしたら、知らないって言われて。でも、それは嘘で」
小池はどこか混乱している様子だった。
竜太郎は顔をしかめた。
「小池さん。落ち着いて」
言いながら竜太郎は、嫌な予感を覚えていた。
「ねぇ、何で足立先生の言葉が嘘だってわかるの。ひょっとして足立先生の心、よんだの」
宗太の表情は、どこか小池を疑っているかのようだった。
小池は怖いのか、竜太郎とも宗太とも目を合わせずに頷いた。
「罪悪感で、いっぱいでした。だから嘘をついているのがわかったんです」
何があったのかはわからないが、何かが現在進行形で起こっていることは理解した。
竜太郎は棚の上に置いてある固定電話の受話器を取って、幾つかボタンを押して内線に繋ぐ。理事長と連絡が取れると足立先生の事を伝えた。理事長から帰ってきた言葉は「早急に対処する」だった。
竜太郎は電話を終えると小池と宗太にそのことを伝えた。
「だから僕たちは、一度冷静になろう」
いつの間にか立ち上がっていた宗太のほうを見て、竜太郎は言った。今は抑えるように宗太に目配せする。
「竜太郎。お前なら、斉藤の居場所がわかるんじゃないのか」
宗太が睨むような目つきで、竜太郎の事をみていた。斉藤の事となると冷静でいられないのは変わっていないらしい。
竜太郎は息を吐く。
「やってみるけれど、あてにはしないでほしいな」
困ったようにそう言うと、竜太郎はその場で瞼をゆっくりと閉じて、能力を使った。
どれだけ遠くの場所にいても彼女の姿を捕らえることが出来る。竜太郎の能力はそういう能力だった。
5
「いのう研究所」から連絡があった。職員を向かわせたので、午後八時に被験者を連れて例の場所へ来いという。
足立は自分の計画に自信はなかった。けれど上手くやれば自分を呪縛し続けている煩わしいあれとおさらばできる。そう思うとやらざるを得なかった。
今日は午後から休暇だ。明後日までの連休だった。
午後五時半。斉藤寧々を呼び出す。斉藤をかどわかすことに抵抗がなかったわけではないが、口は上手く回ってくれた。彼女は学園を出たがっていたから誘惑するのは容易いことだった。斉藤には、学園の外へ出してやる。少しだけ協力してくれたらあとは自由だ。と言いくるめた。
斉藤は足立の住むアパートで、待機してもらうことにした。
午後六時。足立は何食わぬ顔で食堂へ。向かう途中、斉藤を探しているのか、小池燐音が話しかけてきた。斉藤のことを問われたので、「知らない」と嘘を吐いた。小池に心をよまれても平気なよう、極力何も考えずに答えた。とても罪悪感を覚えた。
午後六時半。自分の食事を終わらせ、斉藤のために弁当を買ってアパートに帰ろうとした。電話が鳴る。理事長からの呼び出しに、嫌な予感がする。
とりあえず怪しまれないように一度アパートへ戻り、斉藤に弁当を渡して理事長のいる学園本部のある建物へと向かう。
午後七時。足立は理事長室にいた。部屋には理事長と、米田がいる。なにやら不穏な空気が流れている。
「足立くん。君は自分が何をやっているのか理解しているのかね」
理事長の威圧的な態度に、足立は委縮してしまいそうだった。
「何の話ですか」
と足立は何食わぬ顔で、冷静に尋ねた。
「とぼけるのもいい加減にしたまえ。君がしたこと、こちらはもう把握している」
「とぼけてなどいませんよ。本当にわからないのです」
「君がいのう研究所と繋がっているのは、知っている。本来ならばあの手の研究所から生徒たちを守ることが、君の仕事なのではないのかね」
理事長が怒りをあらわにした。目の前にある机を、力任せに手のひらで叩く。
その通りだ。何も言い返す言葉はない。
足立は無言で、理事長から目を逸らした。
もうごまかしも言い訳も利かない。理事長にはすべてを知られている。それを理解して、足立は息を吐いた。
「裏切り者の私の処分はどうしますか。理事長。私はもう覚悟しています」
「解雇処分だろうな。だが、その前に君がこんなことをした理由を知りたい」
理事長の問いに、足立は素直に答える。
「理由ですか。お金ですよ。ギャンブルに使い込んでお金で困っていたところに、優しい研究員さんが助け船を出してくれたのです」
「金に困っているなら、能力者を連れてこい。買い取ってやるとでも言われたか」
「ええ。そうです」
まるで見てきたとでも言う理事長に、足立は頷いた。
「自分を差し出しても良かったのですが、年齢が低ければその分高く買い取ってくれると言われたので仕方なく。この学園を出たがっていた生徒を一人、連れていこうと目論んでいました。そのほうが拉致して連れていくよりずっと楽でしたから」
「まったく、馬鹿な真似を」
理事長が頭を抱えていた。
「足立先生、どうして。斉藤さんは、あなたにとって物だったのですか。あの子は何度も脱走しようとして、そのたびにあなたに捕まっていたけれど。あなたのことを嫌っているようにはみえませんでした。むしろ信頼しているようにみえました。だからあなたの話を信じているのですよね。それを裏切ったのですか」
米田が、声を震わせていた。足立は彼女をも、失望させてしまったのかもしれない。
「ええ。斉藤はとても扱いやすかったですよ」
足立は笑いながら言った。それは事実であったから。けれど少しも悪いと思っていないわけではない。迷いはあった。純粋に足立の事を信じる斉藤が、その曇りのない瞳が。希望に満ちた眼が。足立に罪悪感を覚えさせる。
米田が、いつの間にか足立の目の前に立っていた。足立より頭一つ分低いところから、彼女が睨みつけてくる。なるほど彼女の顔が怖いと言われていた理由が少しだけ理解できる。凄味があった。足立のことを許さないとでも言いたげだった。許してほしいとも思わなかったが。
*
誰かが扉を叩く音がした。米田が訝し気な顔をして扉のほうへ行く。足立はその場から動けなかった。
「あなたたち」
米田の動揺する声が聞こえてきたが、足立は振り向くことが出来なかった。
剣呑な目つきで、じっと理事長が足立のことをみていたからだ。足立は目が逸らせなかった。
「ごめんなさい、今取り込んでいるの。少し待っていてくれる?」
米田の申し訳なさそうな声が聞こえる。
「いえ。今、中に入らせてください。足立先生と話がしたいんです」
物怖じしない、聞き覚えのある少年の声が聞こえた。
「竜太郎」
米田が彼の名前を呼ぶ。そう、その声は川崎竜太郎だった。
「お願いします。足立先生の話が聞きたいっていう人がいるんです」
「でも……」
米田先生はこの状況に困惑しているようだった。川崎の性格も良く知っている彼女には、この状況を上手く判断することが出来ないのだろう。だがそれだけではない様子だった。他にも誰かいるのだろうか。足立は振り向くことが怖かった。
「入りなさい」
低くどっしりとした声で、理事長が言った。
足立は顔を強張らせた。
「理事長。ですが」
「聞こえなかったのか。入りなさいと言ったんだ」
「は、はい」
流石に理事長には逆らえなかったのか、米田が扉をさらに開けた音がする。
「どうぞ。入ってください」
「ありがとうございます」
川崎が丁寧にそう言うと、足立のすぐ隣まで歩いてきた。足立はそれを見ると、後退するように三歩ほど足を動かした。
部屋に入ってきたのは川崎だけではなかった。そこには、小池と本間。そして今一番姿をみたくなかった斉藤まで居た。足立は彼女にあわせる顔がないと思っていた。だから姿を確認しても誰とも目を合わせなかった。
理事長も斉藤の姿を確認すると、安堵したのか多少は表情を和らげた。
「思ったより早かったが、よくやってくれた。竜太郎」
どうしてか、理事長が川崎の事を褒める。
「勝手な行動をしたのに、怒らないのですか」
川崎は、不安そうな声で言った。
「君たちがそうすると思っていたのでな。足立君に彼女の居場所を聞くのも手だが、君たちが動いても構わないと思っていた。だから早急に対処する。としか君に言わなかっただろう」
「手のひらの上にいるようで、癪ですが。まぁ、理事長の予想通りですよ。僕が能力を使って斉藤の居場所を突きとめました。何も知らない斉藤は、僕たちの声を聴いてあっさりと扉を開けてくれましたよ」
それは、足立にとって不都合な会話だった。
「あたし、信じません」
部屋に入ってからずっと沈黙していた斉藤が、口を開いた。
「ここに来るまでに、能力を使って色々と聴いていました。足立先生が、あたしを売ろうとしていたこと。あたしを物としてみていたこと。でもそれは、嘘ですよね。足立先生は、あたしをこの学園から出してくれるって。願いを叶えてくれるって言っていましたもんね」
真っすぐに、斉藤が足立の事をみてくる。足立はその瞳から逃げるように目を逸らした。
「売り物としてみていたことは、本当だ。君を学園から出してやるって言ったことも本当だ。けれど、君の願いを叶えることはできない。君を君の実家に連れていくつもりなんか、なかったよ」
「嘘ですよ」
震えた声で、斉藤が否定する。
「嘘じゃない。何を期待しているんだ。私は君を利用しようとした。だたそれだけの話だよ。自分の借金を消そうとして、自分の代わりにお前を研究所に差し出そうとした。本来の役目を放棄した。自分の保身のことしか考えていなかった。最低な人間だよ」
「足立先生。お願いだから本心を言ってください。あたしはそんな話が聴きたいわけじゃないんです」
「私の本心が聴きたいんだったら、小池に頼めばいいだろう」
その足立の一言で、斉藤の視線が小池に向けられることになった。斉藤も知っているのだ。小池が他人の心をよめることを。そして斉藤だけではない。その場にいた全員の視線が小池に集まっていた。
「燐音。あたし」
斉藤がしかめ面で小池の方を見ていた。申し訳ない気持ちが半分、知りたい気持ちが半分というところだろうか。
「気にしない」
呟くようにそう言うと、小池が足立に近づく。小池の能力は、他人の心をよめる。彼女の能力発動の条件を、足立は知らなかったが、それほど制限はないように思えた。なぜならば食堂での一件は、彼女の能力が起こしたことのようだったからだ。
「足立先生。ごめんなさい」
どうして小池が謝るのか。謝るのは足立の方であるのに。そう思いながら、足立は右手を胸にあてた。
自分はいつからこんなに臆病になったのだろうか。ああそうだ。きっとあの時だ。
あの日に、すべてが始まったのだ。
6
子どもの頃。足立は影踏み鬼という遊びが大好きだった。鬼になって友だちの影を踏んで捕まえるのが、楽しくて仕方がなかった。そのため、捕まる側になった場合はわざと捕まったりすることもあった。
自分から友だちを遊びに誘うときは、必ずと言っていいほど影踏み鬼だった。それほど好きだった。得意な気分になれた。
大人になるにつれ、その楽しかった子ども時代を懐かしむことが少なくなってきた。就職すると、仕事ばかりに傾倒するようになった。それでも一応、恋人はいたが優先順は低かった。だからだろうか。あの日、彼女に振られてしまったのだ。
「いつも仕事ばかりで。私たちって本当に付き合っていたの」
そんなことを言われてしまった足立は、酷くショックを受けた。確かに仕事が忙しいという理由で何度もデートの誘いを断ったり、会っても手の一つも繋いだりしなかったが。そんな風に思われていたなどと知らなかった。足立は今まで文句の一つも言わなかった彼女に対し、とても楽な付き合い方のできる女性だと思っていたのだ。だから足立は彼女と別れたくなかった。彼女以外の女性と付き合える自信がなかったのだ。
「どうせ、都合のいい女としか思っていなかったんでしょう」
足立は、彼女の言葉を否定することが出来なかった。しかし、それでも彼女と離れたくはなかった。彼女がいたおかげで仕事を頑張れていたことだけは、確かだったからだ。
その日の夕方。意気消沈し、公園で呆けていた足立は、強く子どもの頃に戻りたいと願った。何のしがらみもないあの頃へと戻れたならば、こんな辛い想いなどすることはなかったのにと。
その結果、足立は能力が使えるようになった。気づいたときには、小鳥が空を羽ばたけなくなっていた。小鳥の足は地面にまるで吸盤のように吸いついて離れない。翼を広げ、飛ぼうともがくその姿は滑稽にみえた。今の自分のようだと思った。
小鳥の影が足立の影と重なっているために、動けないのだと気づくのに時間がかかった。陽が落ちて辺りが暗くなり影が出来無くなるまで、足立は小鳥の不思議な行動を観察し続けた。
足立はしばらく能力の事を、自分はおかしな幻覚でもみたのだろうと思っていた。だから病院に行くことはなかった。人と影が重ならないよう意識していれば日常生活に支障は出なかったし、何よりも彼女との別れを忘れて仕事に没頭したかった。そうして一週間が経った頃。友人から酒を呑みにいかないかという誘いがきた。彼は足立と特に親しい友人だった。仕事の日だったが、終わってから呑みに行く予定にした。彼になら足立の身に起きたことを話してもいいかもしれないと思ったのだ。
当日、足立は仕事が終わると約束の時間に、友人と居酒屋へ向かった。店に着き呑み始めると、足立は早速、恋人との話を友人にした。友人は笑わずに慰めてくれた。そしてもう一つの出来事だが、やはり彼にも話すことはなかった。話せば、彼の事も失ってしまうのではないかと思ったのだ。
「でもまあ。能力病じゃないが、人の心をよめたら楽だよなぁ」
唐突に彼がそんなことを言うので、足立は首を傾げた。
「能力病?」
聞き覚えのない言葉だった。
「何だ。お前、知らないのか。ある日突然、超能力が使えるようになる病気だよ。最近増えてきているんだと」
「へぇ。そんなものがあるのか」
超能力と聞いて心臓が跳ね上がったが、何とか平静を装う。まさか。自分のあの影の力は、その能力病というものではないのだろうか。そう思ったら疑惑は膨らんでいく。
「お前、どれだけ仕事しかみていないんだよ。もう少し時事ネタとか知っていないと時代に取り残されるぞ」
「それは」
足立に、反論など出来るはずもなかった。すべて彼の言うとおりだった。
*
その後、足立は能力病というものをインターネットで調べた。全国に約八百人程いるらしい。中には能力者を集めた学園があるらしく、能力病は病気ではなく、才能だとうたっていた。胡散臭いなと思いつつも、足立はその学園に興味を持った。うみほたる学園。足立はそこへ行けば仲間がたくさんいると思った。痛みを分かち合える仲間が。
学園へ電話をして事情を話したら、明日にでも来てくださいと言われて、足立は仕事を休むことにした。ためらうことはなかった。三十二歳にもなって学園に興味を持つなど、仕事の同僚に笑われるだろうかとも思ったが、気にしないことにした。
足立の住む県と学園のある県は距離がある。今まで一度も訪れたことのない土地だった。足立は車に乗り、四時間かけて学園へ向かった。到着すると大きな門が開いて、理事長に出迎えられた。そこから話はとんとん拍子に進んだ。
足立は当初、入学する話になるのかと思っていたのだが、理事長からの提案で、今の仕事から転職するという形で、学園の教師となるよう勧められた。足立は教員免許も持っていたし、体裁も良いだろうということだった。断る理由はなかった。迷わずうみほたる学園の教師になった。
足立の能力の事を知らない周囲は反対したが、どうでもよかった。とにかく自分の居場所が欲しかった。
教師で能力を持っている人間は特に珍しいことではないらしく、先生にも生徒にもすぐに受け入れられた。敷地内にあるアパートで独り暮らしをするのも、すぐに慣れた。この学園には足立と同じような悩みを抱えている人間がたくさんいる。それだけで安心できた。信じられないくらい、充実した日々を送っていた。
学園に務めるようになって、二年が経った頃だった。突然、元恋人と共通の友人からメールが来た。今どうしているのかとか、当たり障りのないメールの終わりに、衝撃的なことが書かれていた。
足立の元恋人が、別の人と結婚したそうだ。
目の前が真っ暗になった気がした。それと同時に、自分がまだ彼女に未練があったことに驚いた。自暴自棄になって、学園の外に出る用事があるときは、必ずと言っていいほどギャンブルに行くようになった。しかし、すぐにお金はつきた。窮地に陥った足立はある話を思い出した。
この学園には。というより能力者たちには、研究者という敵が存在する。特にいのう研究所という場所には、決して近づいてはならない。彼らから能力者たちを守ることが、うみほたる学園の教師の仕事のひとつだ。何故なら彼らは、能力者の研究に余念がないからだ。特にいのう研究所は、時に非道な実験も行うという噂だ。
追い詰められていた足立は散々迷ったが、彼らに会うことにした。最初は身売りでもしようと考えていた。しかし、いのう研究所の研究者が、年齢的に若い層を求めていることを知り、ならばと生徒をひとり差し出そうと思った。そうして今の状態から抜け出そうとした。後悔するとわかっていて、大事なものを自ら壊した。もう後戻りできない場所まで来てしまっている。足立は理事長にこの件がばれた時、もう潮時なのだと思った。この二年間、毎日が楽しかった。以前の仕事をしていた時よりもずっと心が晴れやかで、天職ではないかとさえ思っていた。
これは罰だ。私利私欲のために行動した報いだ。
斉藤の代わりに、足立はいのう研究所に自分を差し出すつもりでいる。
7
小池は、膝から崩れ落ちそうだった。隣にいた斉藤がとっさに彼女の肩を支えなければ、そのまま地面に膝を着けていただろう。
「足立先生」
小池の声は震えていた。彼女は涙を流していた。両手で顔を覆い、とめどなく流れる涙を拭っていた。
小池と向かい合ってから数分が経った頃の事だった。その間、誰も何も言わずに足立と小池の事を見守っていた。
小池の呼びかけに、足立は首を横に振った。
「最初から、そうすればよかったんだ。そうすれば、誰も傷つかずに済んだ」
足立は自分の心をよんだであろう小池に向かって、そう言った。
後悔と申し訳なさが混ざり合って、どうにかなりそうだった。
「どう、して」
小池が、足立に対して何か納得のいかないことを聞きたがっていた。
「これは私の問題だからだ。自業自得というやつだよ」
足立はそう言って自嘲した。
斉藤が小池の肩を支えながら、じっと彼女のことをみつめていた。その表情はどうしたら良いのかわからないという感じだった。
「燐音。足立先生は、何を考えているんだ」
斉藤が、顔をしかめながら小池にそう尋ねた。しかし小池はずっと涙を流すばかりで、言葉をしゃべることはなかった。まだその場に足立本人がいるせいなのか。それとも泣きじゃくっていて上手く言葉が発せられなかったせいなのかはわからなかった。
足立はその場から離れようと扉のほうを向く。いのう研究所の職員と約束した時間が、迫っていた。
「待ってください」
足立は川崎に呼び止められた。
「足立先生。もしかして研究所へ行くおつもりですか」
その場にいた誰もが、はっと息を呑んだ気がした。
「どうしてそう思う」
足立は振り向きもせずに答えた。
「足立先生が斉藤を研究所に連れていこうとしていたことは、能力を使った斉藤からきいています。今日、斉藤が足立先生のアパートにいたのは、おそらく引き渡しの約束の時間まで待機させるためでしょう。けれど、その計画は失敗した。研究所の職員とはまだ連絡を取っていない。なら先生はこのまま職員に会いに行くはずだ。自分という能力者を差し出しに。そう考えるのが妥当だと思いますけれど。違いますか」
川崎の指摘に、足立はしばらくの沈黙の後ゆっくりと息を吐いた。
「理事長が君に目をかけている理由が、なんとなくわかるよ。そう、君の言うとおりだ。私はこれから、研究所の職員に会いに行くつもりだ」
足立は、諦めに満ちた表情で言った。
「どうしてですか。そんなこと、する必要はないはずです。わかっていますよね。会いに行けばどうなるのか」
川崎の問いに、足立は頷いた。非人道的な実験をするという噂が流れているくらいだ。ただで済むとは思っていない。しかしもう、他に手がないのだ。
「ああ。だがもうこれしか方法はない」
手足を引きちぎられようが何をされようが、重荷を一生背負うよりもずっと良い気がする。それに足立が今ここで逃げたなら、その後のこの学園にいのう研究所が害を成さない保証はない。だから足立は覚悟したのだ。この学園を守るために。これもまたエゴかもしれないが。
「許しません。そんなこと、させません」
先ほどまで黙っていた米田が、足立の前に立ちふさがった。扉の前で米田は両腕を肩の位置まで持ち上げて、両の手のひらを広げていた。
足立は一瞬だけ目を丸くしてから、彼女に向かってこう言った。
「米田先生。そこを通していただけませんか」
しかし足立の要求に、米田は首を横に振った。
「できません」
米田は、はっきりとした声でそう言った。意見を曲げる気はない。とでも言いたげな態度だった。
足立は困ってしまった。眉をひそめる。気づいたら、みんなが足立の前に立っていた。
「あたしも反対です」と斉藤が言った。
「俺もです」と本間宗太も賛同する。
小池は泣きながら、うんと頷いた。
「足立先生。あなたは自分の事も他人の事も、もっと大事にしてあげてください。本当に大事なものを見失わないでください。こんなにも、あなたの事を大切に想ってくれている人たちがいるのですから。僕たちと一緒に、解決方法を探しましょう。一番良い方法がきっとあるはずです」
川崎の言葉が、足立の心に響いていた。大事なもの。足立にとって大事なものとは何なのだろう。足立はあんなに酷いことをしたはずなのに、今自分の目の前にいるこの人たちは、足立の事をこんなにも想ってくれている。それがとても嬉しくて、哀しかった。
自分の欲しかったものは、本当は何だったのだろうか。
足立の口から、息がもれたような声が出る。当惑したように額に眉をよせ、足立は立っていた。何も言い返す言葉がなかった。
「観念したらどうだ。足立くん」
そう言った理事長に、視線が集まる。
「ここは私が動いて研究所の奴に、にらみを利かせてもいいのだが。君の返答次第だな」
理事長の頼もしい言葉に、足立はしばらく沈黙していた。
これでもまだ足りないと思ったのか、理事長は続けた。
「もちろん解雇はしない。借金も私がなんとかしよう。その代わりと言っては何だが、君に一つ仕事を任せたい。洸生会のことは知っているね。顧問を務めてほしいんだ」
「え。洸生会の」
理事長の唐突な提案に、足立は驚いたように目を見開いた。
理事長は頷く。
「ああ。私も忙しくてね。監督役が欲しかったところだ」
「ですが、私は」
足立は返答に困っていた。顔色を窺うように、視線を川崎のほうへ向ける。彼が洸生会の生徒代表と知っていたからだ。
「足立先生。僕からもお願いします。先生のお力が必要なんです」
川崎がそう言って、丁寧に頭を下げた。
同じく洸生会のメンバーである本間も、何も言わずに頭を下げた。小池も泣きながら、足立先生に向かって頭を下げていた。二人とも、洸生会のメンバーの一人として、足立の加入に反対する気はないようだった。
「洸生会って?」
斉藤が首をかしげていた。この場で彼女だけが、洸生会について詳しく知らないためだ。
「この学園の生徒たちを、卒業へ導く手助けをするための組織だよ。発足者は理事長だけれど、僕が洸生会の代表なんだ。今のメンバーは、僕と宗太と小池だけだ」
川崎が顔を上げると、斉藤に向かって説明した。
斉藤は驚いた表情をしたが、すぐに理解したように足立に視線を送ってくる。
「足立先生が顧問になるのでしたら、あたしもメンバーに入れてほしいのですが」
意外なことに、斉藤がそう申し出てきた。
「何を言っているんだ。斉藤」
足立は動揺して、声を荒げた。
「ダメですか。理事長の許可がいるんですか。なら、理事長。加入の許可をください」
斉藤がそう言って、理事長のほうをみた。
「いや。だから、私は引き受けるとは一言も」
焦るようにそう言うも、斉藤は一歩も引かなかった。
「でも、迷っているんですよね。だったら、足立先生が引き受けない可能性はゼロじゃないです」
核心をつくように言われ、足立は何も言い返すことができなかった。
「もう一押し必要なら、あたしがそのきっかけになります」
斉藤はさらにそう言うと、右手を強く胸に当てた。
何を言おうとも、彼女には叶わないのかもしれないと、足立は思った。
理事長は顔に微笑を浮かべると、言った。
「いいだろう。斉藤寧々。君が洸生会のメンバーに加入することを許可しよう。他の者もいいね」
「斉藤なら、良いですよ。小池とも仲良くなったみたいですし」
川崎がそう言うと、斉藤と小池が嬉しそうに顔を見合わせた。小池はいつの間にか泣き止んでいた。
本間は肩をすくめていたが、何も言わないということは、反対する気もなさそうだった。
「それで足立君。君はどうするんだ」
理事長に尋ねられると、、足立は深く息を吐いた。
こういう状況にでもならなければ、足立は了承しないこと。理事長はすべて読んでいたに違いない。足立はこの場にいるみんなに背中を押された。みんなの優しさに答えなければならない気になっていた。
「まったく、強引ですね。私が顧問にならなかったら、きっとみんな哀しむんでしょう。わかりました。顧問の件、引き受けます。その代わり、後始末は理事長に任せます。本当に、ありがとうございます。ご慈悲をくださったこと、恩に着ます」
そう言うと、足立は理事長に向かって深々と頭を下げた。
*
「あの、足立先生。自分のことを許してあげて下さい。きっと先生に見合う良い人がまた現れます。もしかしたら、もう近くにいるのかもしれませんし。その時に、きっと幸せを手に入れることができます。そう、信じてください」
話がまとまって竜太郎と宗太と斉藤と小池が理事長室を後にすることになったとき、小池が足立に向かって最後にそう言った。それはきっと足立の心をよんだ小池だけが知りえる情報から、小池がどうしても伝えたかった言葉だったのだろう。足立はそれを聞くと、優しく笑って「ありがとう」と言った。
竜太郎は何となく、足立の後ろに立っていた米田を見る。深い意味はない。ただその時の米田の安堵した顔がとても美しく思えた。おそらく足立本人を覗いて、この場で一番ほっとしているのは彼女だろうと思えるほどに。
ただの気のせいではないことを祈って、竜太郎は理事長室の扉を開ける。外に出ると街灯が竜太郎たちを照らす。灯りの中に立ったまま、竜太郎は自分の影を見つめた。まるでもう一人の自分みたいだなと思った。
(第二章へ続)
連載小説「あの箱庭へ捧ぐ」序章
序章 心を知る
淡いピンク色のルームウェアには、白と黄色の小さな花柄が入っている。小柄な女の子が、驚いた表情でこちらを見ていた。
川崎竜太郎は目の前の少女に、まだ名乗ってもいないのに名前を呼ばれたような気がして、不思議に思った。彼女の視線は真っすぐに向けられている。竜太郎は、首を傾げた。彼女とは、どこかで会ったことがあるのだろうか。思い出せない。
「あなたを迎えに来ました」
そんな二人の様子に気づいたそぶりもなく、隣にいたショートカットの髪型が似合う長身でスーツを着た女性、米田恵理子がにこやかに言った。彼女は竜太郎の通う「うみほたる学園」の先生で、竜太郎と十歳近く歳が離れている。三十路に差し掛かっている彼女だが、見た目は幼く童顔のためか実際の年齢よりも若く見られることが多い。よく竜太郎と姉弟だと間違えられることがあった。
訳がわからないといった表情で、米田の言葉に少女は首を横に振った。声が出ないのか、小さく「いや」というかすれた言葉だけが聞こえたような気がした。
「残念ですが、あなたはもう我々が保護することが決まっています」
米田の感情のこもっていない声が、部屋に響いた。拒否権はないのだと表情が告げている。竜太郎は少し可哀想だと感じたが、そんなことは関係ないのだとも理解していた。
「どうして」
と少女の呟きが、竜太郎の耳に届く。
「それが、君が手に入れた力の代償です」
竜太郎は歳の近い少女に向かって、冷たく言い放った。
六月の、梅雨が始まったばかりのころだった。竜太郎と米田は学園の理事長に連れられて、小池燐音という名前の少女の自宅へ訪問していた。依頼者は彼女の両親で、母親のほうは泣きはらした顔を隠すように、ハンカチを両手で持っていた。
「米田くん。着替えを手伝ってあげなさい」
竜太郎の後ろにいた年配の男性が、そう言ってから部屋を出た。彼はうみほたる学園の代表、堀田理事長だ。
竜太郎は理事長が階段を降りようとしていたので、慌てた。彼は数年前、病気で足を悪くしたため、杖をついていた。補助をしなければ、理事長はひとりで階段を降りることが出来ない。二階に上がる際も、竜太郎が補助をしなければいけなかった。
理事長は、燐音の両親と話がしたいと言った。部屋の中に燐音と米田を残して、彼女の両親と理事長と竜太郎は一階にある客間へ向かった。
*
その家は、一般家庭にしては裕福なようであった。西洋風な照明とソファを置いており、竜太郎と理事長は黒い革のソファに座るように促された。竜太郎は慣れない手つきで足の悪い理事長の補助をしてから、ソファに腰を下ろした。座った瞬間の革特有の音が、竜太郎にはどうしても蛙の鳴き声のように聞こえた。
「それで、お嬢さんの力というのは何か、あなた方は理解しているのかね」
理事長がさっそく、本題に入る。顔つきはいつになく真剣で、落ち着いた声色をしていた。今まで何人もの能力者を見てきた彼は、鋭い針のような観察眼を持っているのだろう。小池の事を一目みただけで何かを察したようだった。
小池の両親は、竜太郎と理事長の向かい側のソファに座っていた。母親は変わらず顔をうつむきがちにして、ハンカチを握りしめていた。父親は剣呑な目つきで理事長をみつめている。
「はい。家内が言うには、娘に。燐音に心の中が見透かされているようだと。言葉は悪いのですが、それが気持ち悪いと言うのです」
父親は眉をひそめて言った。
「それを聞いてあなたは、どう思ったんだね」
理事長は表情を変えずに、父親に尋ねる。
「私は。そんなこと、あるはずがないと、思いました」
父親は辛そうな表情をした。彼の事を考えると、心が痛い。大切な娘を疑うことがどれほどの苦痛を伴うのか、竜太郎には想像がつかない。
「それで、我々に検査してほしいとのことだったか」
「はい」
理事長の言葉に、父親は頷いた。
依頼内容を確認した理事長は、険しい顔をしながらこう言った。
「結論から言いましょう。お嬢さんは、能力者だ」
「やっぱり」
母親の口から、悲観の声が漏れる。
竜太郎が視線を向けると、何かやましい気持ちがあったのか、母親は泳ぐ魚のように目を逸らした。
「彼女の部屋に入った瞬間、彼女は我々が来ることをあらかじめ知っていたかのように落ち着いていた。そのあとすぐに何らかの別の理由により驚いていた様子だったが、それは人数かもしれない。こいつが居たからな」
理事長が竜太郎を横目でみた。流石に、小池の事をよくみている。竜太郎は口を開きかけたが、理事長はすぐに続けた。
「随分と若い奴を連れてきたのでな。あなたたちも予想していなかったことだろう」
「なるほど。すると娘は、私たちが想像していた来客を知っていたと」
理事長の言葉に、父親が納得した。
燐音には、今日の来客を事前に知らせてはいなかった。そして燐音に用がある客人が来る可能性などないに等しかった。彼女はここ一年ほど家に引きこもっていたからだ。彼女に友人がいたかどうかはわからないが、彼女を外に連れ出そうと思う友人はもうとっくに諦めていることだろう。なので最初に部屋に入った時、もっと驚いてもおかしくはなかったと父親は説明してくれた。
「お嬢さんは、あなたたちの心をよむことができる能力を持っている。これは確定してもいいだろう。そういう能力を持つ者は稀に存在する。扱い方はわかっているから、安心してほしい」
理事長はそう言ってから竜太郎に目配せをしてくる。竜太郎は急いで、理事長に持たされていた黒い鞄から書類を二枚取り出した。一枚は入学案内と書かれた紙。一枚は秘密保持と書かれた契約書。それを白いレースの布が掛かったテーブルに置いた。
これは決して悪徳な契約書ではない。理事長が代表を務め、米田が先生として働き、そして何より竜太郎が生徒として通う、うみほたる学園の入学手続きに必要な書類だ。
「よく読んで、ここにサインを。お嬢さんの安全は、我々が保証します」
言いながら右の手のひらを使って署名の欄を示す。それから胸ポケットに忍ばせていた黒いボールペンを渡した。
なんだか怪しげな台詞を吐いたが、竜太郎は真面目な顔を崩さないように務めた。
「何を見て何を聞いても。絶対に不機嫌な顔をしないように」
と竜太郎は理事長からきつく言われていた。それがこの場に同席させてもらうための条件であった。
ボールペンを手に取った父親は、少し渋っている様子だった。顔をしかめたまま、入学案内と睨み合っている。隣の母親は、入学案内と父親の顔を交互に見ている。何か焦っているようにもみえた。彼がサインすることを迷っているせいかもしれない。
「学園に入ってしまったら、しばらく娘とは会えなくなるんですか」
父親の質問に、理事長は頷いた。
「そこに書いてあるとおり、基本的には卒業まで帰省は出来ないが、あなたたちが希望すれば面会をすることは可能だ」
「そうですか」
複雑そうな顔を浮かべながら、父親は意を決したようにボールペンを握り直して書類にサインを書き始めた。
父親の隣で母親がほっとしたような表情をしたことを、竜太郎は見逃さなかった。けれど何も言わないように、堪える。理事長の言うことを聞くまでもない。人の家庭の事情に首を突っ込むことが良くないことは、竜太郎もわかっている。
書類にサインをし終わったころ。米田と小池が二階から降りてきた。彼女は笑いもせず泣きもせず、ただそこに居た。感情を押し殺しているようにもみえた。
忘れることはないだろう。無表情という言葉が似合うその顔に、竜太郎は恐ろしさを感じていた。
*
「何ですか。あれ」
帰りの車内で、竜太郎はついに我慢ができなくなって理事長に尋ねた。乗っているのは運転手と理事長と竜太郎だけで、小池と米田は後続の車に乗っているので話を聞かれる心配はなかった。
「あれとは何だ」
後部座席で隣り同士に座っている理事長と竜太郎は、顔も合わせずに会話をする。
「小池燐音の母親の態度ですよ。すごく嫌な気持ちになりました」
竜太郎の目には、母親が娘を厄介払いしたいだけにみえたからだ。
「あんなものはまだ序の口だ。まだ直接言葉にしないだけマシなほうだ」
「そういうものですか」
「そういうものだ」
竜太郎の質問を、理事長は肯定する。竜太郎は納得したくはないと思った。
「竜太郎。彼女には彼女の事情があるのだろう。そこは我々に口を挟む権利がない」
「わかっています。でも、彼女が。小池燐音が」
竜太郎が言葉を最後まで言わないうちに、理事長が言う。
「可哀想とでも思うのか。お前は。ならば自分が何をすべきなのかもわかっているだろうな。私が今回、何故お前に付き添いを許可したのかも」
理事長が竜太郎に顔を向けたことに気づき、竜太郎も理事長のほうをみて頷いた。
「はい」
「彼女をメンバーに加えなさい。彼女の能力はきっと役に立つ」
何の話か、竜太郎には直接言われなくてもわかっていた。今回の同行はそのための調査でもあったからだ。
竜太郎の所属する「洸生会」これはうみほたる学園の生徒たちを卒業へ導く手助けをするために発足された秘密組織である。現在のメンバーは代表である竜太郎を含めて二人。小池燐音は、彼女の両親から能力の検査依頼があった時点で新メンバー候補となった。すべては理事長自らが決めたことだ。
「人の心を知ることが出来る能力ですか。便利そうですね」
あくまでも利用価値のあるものとして、竜太郎はそう言った。
自分が何をするべきなのか。わかっている。自分が小池にしてやれることは何なのか。わかっている。彼女をメンバーに迎えたうえで、卒業まで導いてやらなければならない。
小池燐音の能力を消失させること。それが理事長からの依頼だった。
(第一章へ続)
詩「私のヒーロー」 黒宮涼
体が弱くても
心が強くなくても
空を飛べなくても
今すぐ駆けつけてきてくれなくても
君がそこで笑ってくれているだけで 十分なんだ
君がそこで笑ってくれているだけで 元気がでるんだ
だから さあ 笑って
いつもみたいに おはようって 笑って
悲しい気持ち 全部 吹き飛ばすみたいに
黒宮涼の「目」で見、「心」に感じた詩2編
「台風の後」
道端に小さなサンダルがおちている
フェンスの向こうにあるマンションの一階
暴走した風にあおられて
きっとそこから飛ばされたもの
「すみません。このサンダルお宅のですか」
そんなこと言う勇気はなくて
わたしは通り過ぎる
帰り道 同じ場所を通ると
サンダルが綺麗に揃えられて置いてあった
誰がやったかわかるはずもない
持ち主よ 早く取りに来い
「おばあちゃん」
一瞬 両目を見開く
また瞼を固く閉じる
掴んだ手をぎゅっと握ってくる
ねぇ あなたは今 何を思っているの
目は 見えているの
耳は 聞こえているの
想う心は どこにあるのか
それは わたしたちには一生わからない
あなたは わかっているのかもしれないけれど
連作短編小説「玉木さんと鈴木くん その4『進路』」
俺の両親は共働きで二人とも医者だ。頭が固くていつも偉そうで人を下に見ている。俺も医者にしようと厳しい教育をしていた。俺が中学でグレなければ今もずっと続いていただろう。ただ父親だけは未だに諦めていないらしい。
「先生から電話があったぞ」
恐らく俺が全教科赤点をとったことによる「息子さん、このままだと留年しますよ」みたいなことを言われたに違いないと思いながら、俺は親父の小言を聞く。
「まったく、いい加減にしてくれ。今年は受験だ。遊んでいる暇などないぞ。今まで大目に見てきたが、髪の毛もそろそろ黒に戻したらどうだ」
「嫌だ。親父もいい加減に諦めれば」
「ヒロ。お前はこの先どうするつもりなんだ」
「親父には関係ない」
この問答をどれだけ繰り返しても、俺の中の結論が変わることなどない。親父だって俺が髪の毛を茶髪にして、喧嘩上等。校則を破ってばかりいる原因が自分にあることぐらいもう気付いているはずだ。それでもまだ俺が医者になることを諦めていないのならば、親父こそ馬鹿だ。
「関係ないわけがないだろう。お前は俺の息子だぞ」
「俺は、お前のことを親父だなんて思ったことはない」
勢いでそう言ってしまって、俺ははっとして口をつぐんだ。父の隣で不安そうな顔をずっと浮かべていた母を一瞥する。さらに険しい表情になった母を見て、俺は言ってはいけないことを言ってしまったのだと自覚する。
「……悪い。言い過ぎた」
「いや。お前がそう思っているのならもう好きにすればいい」
「え?」
親父の意外な言葉に、俺は目を丸くする。素直に謝ったのにその返答は予想していなかった。
「出て行け。この家から」
「ちょっと、お父さん」
親父の発言を、母は止めようとしてくれていたが意味もなく。俺は親父がものすごく怒っているのを感じ取っていた。
「わかったよ。言われなくても出てってやるよ」
俺は舌打ちをしてそう吐き捨てた。本当に出ていこうと思い、自室に戻って大きめのカバンに着替えを詰め込む。後ろから母親の声が聞こえてくるが、俺は無視して詰め終わった荷物を持って家を出る。行き先はいつものところだった。
「また家出してきたの。勉強の邪魔になるから出て行ってくれないかしら」
隣の家に駆け込むと、幼馴染の玉木梓から辛辣な第一声を浴びせられた。そう、俺の玉木家への家出はもう何度も繰り返されたことだった。子どものころから変わらない。俺の憩いの場所になっていた。俺がこうして家出をするたびに隣のおばさんは仕方ないといった顔をして俺の家に一報をする。そして翌日に、母親が迎えに来るというのがいつものことだった。しかし最近は母親が迎えに来ようがなんだろうが、二三日は家に帰らないようにしている。たった一日の家出など、子どもみたいで嫌だからだ。
「お前の邪魔はしないよ。どうしても嫌なら、別の所に行く」
「そうしてくれると、ありがたいわ」
いつもだったらこんな言葉、平気なはずだった。ただ今日、違う点があるとすれば父親が俺に向かって「出て行け」といったこと。普段ならば俺が勢いで「出て行く」と言って家出をするところなのに。今回は珍しく親父から突き放されたのだ。傷ついていないはずがない。
「そうかよ」
俺は小さく呟いて、それから荷物を持ち直す。
「やっぱり他に行く」
「そう。いつも強引に泊まるのに、どういう風の吹き回し」
「別に関係ないだろう」
「そうね。他に行ってくれたほうがこちらとしても助かるわ」
迷惑をかけている自覚はあったので、何も言い返せなかった。
「じゃあな、ガリ勉女」
「うるさいわ」
俺の精一杯の皮肉に、耳に手を当てて聞こえないふりをする梓。一応気にしてはいるらしい。玉木家を出ると、眩しい夕日が目に入った。思わず瞼を閉じる。
「さて、どうしたものか」
俺はそう呟きながら、右手で太陽の光を遮る。季節は春で、もう外も夏のように暖かくなってくる頃だった。何人かの友人宛に、家に泊めてもらえないかとメールを送る。これで誰からも良い返事が来なければ野宿でもするかと考えていた。一人目の返信。ダメ。二人目もダメ。三人目も四人目も勘弁してくれと返信が来た。俺は仕方がないので公園で野宿するルートを選ぶことにした。
所持金三千円。俺はもっと持ってくればよかったと後悔していた。最初は玉木家に泊まる予定だったので、お金など必要ないと思っていたのがいけなかった。高校生なので当然カードも持っていない。友人宅にも断られた俺は、一人公園で寝袋もなしにベンチに横になるしかなかった。
「ちくしょう。梓め。一生恨んでやる」
俺より勉強をとったことを後悔させてやる。と一人で愚痴りながら携帯を見る。親からの不在着信が一件も入っていないところに虚しさを感じる。俺のことはどうでもいいのか、それとも玉木家に居ると思って安心しているのか。その場合まだ玉木家に電話していないことになる。やはりどうでもいいのか。電池がもう半分程なくなっている。残量が減るたびに俺の中の不安が増していくようで、俺は見るのをやめた。ベンチに横になっていると固くて背中が痛いので、起き上がる。隅を見ると鳥の糞らしきものが見えて、俺はそこらに落ちていたスーパーのチラシを上においた。横になる前にベンチもティッシュで軽く拭いているが、綺麗とはいえなかった。正直、俺は家に帰りたかった。柔らかいベッドが恋しい。
「鈴木くん?」
不意に声をかけられて、俺は視線を向ける。公園の入り口に立っていたのは女の子で、俺はその顔に見覚えがあった。
「白井さん? もしかして遊びに来ていたのか」
そこにいたのは白井みづきという梓の友人だった。お互いの家に遊びに行くほど仲がよく、俺が玉木家に行くとたまに顔を合わせることがあった。
「ううん。親戚の家がこの公園の真裏で、今日は法事があったからそのまま泊まるの。今は、ちょっとコンビニに行く途中で」
白井は首を横に振りながらそう言った。ああ。そうか。と俺は思い出していた。この子は必要以上に他人に気を使う。今だって俺に話しかけなければ時間を割くこともなくコンビニに行けたのに。
「そうか。いってらっしゃい」
俺は自然に右手を振る。この公園はダメだなと頭で考えていた。白井に見つかってしまって居心地が悪い。
「あの。どうしたの、その荷物」
白井が指摘したのは、俺が家出するときに持ってきたボストンバックだった。中身は衣類で鞄はそれなりに膨らんでいた。
「あー。気にしないで」
「旅行にでもいくの」
「まあ、そんなとこ」
「そっか」
会話が途切れる。俺は白井に本当のことは言わなかった。言ったところで白井を頼れるわけでもないと思っていたからだ。白井がさっさとコンビニに行くことを俺は願っていた。ところが、白井は俺の座っているベンチの近くまで来た。俺は心臓が飛び跳ねそうになる。白井はポケットから携帯電話を取り出すと、何やら操作しだした。なんだろうと思いながら白井をじっと見つめていると、白井は画面をこちらに向けた。
「さっき、梓ちゃんからメールが来ていたの。鈴木くん、旅行じゃなくて家出でしょう」
それは証拠をつきつけるようだった。俺は図星をつかれて顔をしかめた。つまり白井は俺の家出を最初から知っていて、俺の姿を見つけたから声をかけたということらしい。メールには俺を探している。見かけたら連絡下さい。と書いてあった。
「あいつ。自分で追い出しといて何してんだ」
俺はそう言って頭を抱える。
「梓ちゃんなりに、心配しているんだと思うよ。隣、いい?」
白井がそう言うので、俺は頷いて少しだけ横にずれる。思えばこうして白井と二人で話をするのも久しぶりだった。
「コンビニ行かないの」
「鈴木くんに話があるから。後でいい」
「家の人が心配するだろう」
「それは鈴木くんも」
「俺は、心配なんかしてないだろ」
自分でそう言って、溜息をつく。気分は最悪だった。
「ねぇ、鈴木くん。何で梓ちゃんがあんなに勉強ばかりしているのか、その理由を知っている?」
「知らない。自分のためとか言いそう」
何故、白井がそんな話をするのか俺はわからなかった。てっきり家出のことを説教されるのかと思っていたのに。
「鈴木くんのためだよ」
「は? 何で」
予想外の答えに、俺は目を丸くする。勉強と俺とどういう関係があってそうなるのだ。俺が困惑した顔をしていると、白井は言った。
「何となく聞いてみたんだ。将来なりたいものでもあるのかなって。そのために勉強しているのかと思っていたの。でも、鈴木くんが医者になりたくないから、自分が医者になるんだって言ったの。最初は意味がよくわからなかったんだけど、鈴木くんの両親が医者だって聞いて、何だか納得しちゃった」
「何だよそれ」
俺は梓らしいと思う反面、怒りが湧いてきていた。梓は俺と俺の両親のために犠牲になるつもりなのだ。そんなので俺と俺の親父が納得するとでも思っているのだろうか。
「梓ちゃんは、鈴木くんを解放してあげたいんだと思う。そのために必死になって勉強している。鈴木くんはここで何をしているの」
「俺は……」
言葉が出なかった。俺はずっとあの両親から逃げたかった。だから何度も何度も歯向かって俺は俺のしたいようにするんだって粋がっていた。けれど、結局俺は何がしたいのか未だにわかっていない。俺はただ自分のことだけを考えていた。梓が俺のために何かをしようとしていることなんてまったく気づいていなかった。
「こんなことじゃあ、去年の恩返しになんてならないとは思うけど。今度は私が貴方たちを助ける番。だから、もっと梓ちゃんと向き合ってあげて。誰かのためにそんなに必死になれるなんて、凄いことだと思うから」
去年。そう言われて俺は思い出していた。去年の夏。俺と白井はあの時もこうして話をしていた。友だちになりたい人がいるのと、白井は切り出した。俺は親身になって相談に乗ったのを覚えている。
「白井。十分だよ」
俺は立ち上がる。このままここにいてはダメだと思った。俺は梓と話し合わなければならない。
梓は玉木家の門の前に一人立っていた。白井と別れた後、きっと彼女が梓にメールを送ったのだろう。帰ってくるとわかって出迎えてくれたのだ。
「おかえりなさい。遅かったわね」
梓は俺の姿に気がつくとそう言った。
「お前なぁ。出て行けって言ったのそっちだろう」
「あら。そうだったかしら」
とぼける梓の目の前に立つと、俺は何となく昔話をする。
「だいたいお前は昔からそうだ。素直じゃないうえに嘘つきだ。覚えているか? 小学生のころ、お前の家でご飯を食べさせてもらったとき。俺が嫌いなピーマンを食べ残すたびに、お前が食ってくれていた。自分もピーマン嫌いなのにな。俺は毎回『あずさちゃんに食べてもらった』って言うのに、お前は俺が全部食ったって嘘をついた」
だから褒めてあげてと言うのだ。俺は両親に褒めてもらった覚えがない。梓はそれを知っていて、可哀想だと思ったのだろう。だから嘘をついてまで俺を立てようとしてくれた。余計なお世話だと俺は思っていた。梓は、その後も数々のつまらない嘘をついた。ほしいものがあったときは大抵ほしくないと言うし、基本は心配をかけたくないとか相手に気を使ってとかそういうものばかりだ。
「そんなもの。覚えていないわ。何が言いたいのよ」
俺はボストンバックを道路に置くと、首を傾げる梓を自分の胸へと引き寄せる。
「つまりお前はそういう奴だ。人のために自分を犠牲にしても平気なんだ。けれど、そんなのは間違っている。俺のためにお前が医者になろうだなんて、そんな馬鹿みたいなこと俺は望んじゃいない。だからもう必死で勉強なんかしなくていい。頑張らなくていいんだ。つまらない反発はもうしない。親父とはちゃんと話し合う。それで、医者にならないことを許してもらう」
俺ははっきりとそう口にした。医者にはならない。それはもう俺の中では決まっていること。だからどうしたらいいのかを考えて、出したことだった。梓には自分のなりたいものになってほしい。俺は覚悟を決めたのだ。
「何よそれ。私がいつヒロのために医者を目指しているって言ったの。私は好きで勉強しているの。勘違いしないで」
「白井から聞いたんだよ。どうせ俺と親父たちのためだろう。違うのかよ」
俺の言葉に、梓は観念したかのように嘆息した。
「そうよ。私、おじさんたちと約束したの。私が医者になったらヒロのことは諦めるって。ヒロのことを自由にしてくれるって」
「そんな約束したのかよ」
俺は驚いて声を荒げた。思っていた以上に最低な親父だった。俺は思い出す。中学に入るまで梓の成績はそんなに良くなかったはずだ。そうだ。俺が髪の毛を茶色にしたあの頃から急に真面目に勉強に打ち込むようになったのだ。
「だって仕方ないじゃない。あんたの辛そうな顔を見ていたら、放っておけなかったのよ」
「だからって、ばかか? 放っておけばよかったんだ」
「放っておけるはずないわ。だって――」
梓が言葉を言い終わる前に、俺はあることに気付いた。身体が密着しているせいか、梓の体温が妙に熱い。いや、熱すぎる。その異変に気づいた俺はとっさに梓の両肩に手を置き、身体から引き離してから顔をまじまじと見つめた。
「ちょっとまて、お前。熱があるんじゃないか」
梓は顔色が悪く、呼吸も荒かった。俺は確信して梓の額に右手をあてる。やはり熱い。
「大丈夫よ。熱なんてないわ」
「ばかやろう。俺のことずっとここで待っていたのか」
俺はそう梓を叱りつけた。どうせ昨日も夜中まで勉強していたに違いない。俺は今まで気づけなかった自分にも、体調が悪いことを隠していた梓に対しても憤怒していた。
「そんなんじゃないわ」
「もういいっ。とにかく家に入れ」
「大丈夫よ。このままでも」
俺は渋る梓を家の中へと押し込んだ。どうしてそんなに抵抗するのか理由はすぐにわかった。中に入ると俺たちを出迎えたのは、俺の親父と母親だった。玄関での問答が聞こえたのか居間から出てきたのだ。
「ヒロ」
「親父? どうしてここに」
俺は驚いて一瞬だけ本題を忘れそうになったが、すぐに我に返ると梓の腕を掴んで前に出す。
「そんなこと今はどうでもいい。親父。こいつ熱があるみたいだ。今すぐ治してくれ」
親父は俺の言葉に眉毛を少しだけ動かして、それから何も言わずに梓の手を両手で包むように握った。
「母さん。梓ちゃんを寝かせるから用意を頼んでくれ」
「わかった」
母親はそれを聞くと頷いて、慌てて梓の母を呼びに行った。親父は「歩けるかい」と梓に聞くと手を引いて奥まで歩いて行った。俺はというと、そのまま玄関で立ち尽くしていた。しばらくして荷物を外に置きっぱなしだったことを思い出して取りに戻り、俺は玉木家を見上げた。自分は無力なんだと痛感した。梓が体調を崩してしまったのはすべて俺の責任だ。荷物を肩に背負い直し、建物から視線を外す。俺は宛もなくゆっくりと歩き出した。
「悪いな、有沙。突然押しかけて」
「いいよ。それよりさっき家に電話したら、おばさんが凄く心配していたよ。おじさんに止められているから電話もできないって嘆いていた。それと、伝言。梓の風邪はすぐ治るから安心してだってさ」
床に布団を敷きながら有沙が言った。俺はあの後電車に一時間程揺られて、一人暮らしをしている梓の姉、玉木有沙のアパートに転がり込んだ。有沙は俺より六歳年上で、社会人だ。頼れる姉貴だと思っている。一人暮らしの女性の部屋に転がり込むのはいかがなものかと思い選択肢から外していたのだが、完全に行く場所を失っていた俺は最後の手段として選んだのだ。
「そうか。別に心配なんてしてない」
「梓も大概だけどさ。あんたも時々素直じゃないよね」
有沙の言葉に俺は何も言い返せなかった。ベッドの上で胡座をかいて有沙の姿を見つめていると、枕が飛んできた。それは顔面に当たり、俺は後方に倒れた。
「いってー。何しやがる」
言いながら起き上がると、有沙は腹を抱えて笑っていた。
「あっはっは。らしくない顔しているからつい。悩んでるんでしょう。話だけでも聞くけど」
「笑いながら言うことじゃないだろ」
「ごめん。真面目に聞くね」
拗ねたように言うと、有沙は先程まで緩みきっていた顔を整え、俺の横に座った。ベッドが二人の体重で軋む。寝巻き姿の有沙姉ちゃんを見るのは、本当に久しぶりだった。子どもの頃はよく俺と有沙と梓の三人で雑魚寝することもあったから、見慣れていたはずなのに。
「俺は勉強が嫌いなんだ。親父と母さんが強要してくるから。医者になるために勉強は大事だって。俺が自分でなりたいって、言ったわけじゃないのに。勉強ばかりで友だちと遊ぶこともできなくて、辛かった。だから俺は有沙たちが羨ましかった。隣の芝生は青いって言うだろ。まさにそれだったんだ。俺は玉木家に生まれてきたかったっていつも思っていた」
「ふーん。うちは逆だったな。隣の家はお金持ちでいいなって。家がうちより大きいし、車もうちより高そうなもの乗っていたじゃない」
「その代わり、家にほとんど親が帰ってこなかったけどな」
皮肉を込めて俺は言う。どんなに勉強をしても欲しいものが手に入っても、一番大事なものが欠けていたように思う。俺はずっと、寂しかったんだ。
「家庭教師のお姉さんとかいたじゃん。あの人元気なの」
有沙がそう尋ねてきたので俺は思い出す。そういえばそんな人もいたなと。
「あー。あの人は母さんの高そうなネックレス盗んだのがばれて首になった」
「うわー。そんな話聞きたくなかった」
遠い目をしている有沙に、自分で聞いたんだろうとつっこみたかった。実際、俺もあまり思い出したくなかった。すごい剣幕で怒る母に、下手な言い訳をする家庭教師。俺はそれをこっそり見ていたのだ。彼女が首になってからだと思う。俺の中でそれまで自分を形成していた何かが崩壊したのは。
「髪の毛染めてピアスあけて喧嘩して。今でもそうだけど、中学時代はアホなことして先生に呼び出しくらうとか日常だったな」
「私が実家に帰ると毎回、顔に痣つくっていたよね」
「その点、高校入ってからあんまり呼び出されなくなったよ。俺成長しているだろ」
「あー。はいはい。で? さっきから思い出話しばっかりで本題に入ってないよ」
痛いところをつかれて、俺は苦笑い。悩みを有沙に話すのは何だか恥ずかしいから、つい遠回りをしてしまった。
「有沙姉ちゃん。俺、医者になろうかなって思うんだけど。今さらだよな」
意を決し言うと、有沙は無言で顔を固まらせた。真面目な顔をして俺は有沙を見つめ続ける。
「は? 待って、どういう心境の変化なのそれは」
「予想通りの反応をありがとう。今まで散々、反発してきたからな。自分でもびっくりするよ。梓が俺のために医者になろうとしていたことと、無理をして体調を崩したことが主な理由なんだけどな」
俺は正直に言った。俺のために熱を出した梓を見て、俺は助けてやりたいと強く思った。もし自分が医者だったら、もっと早く体調の変化にも気付いてやれたかもしれないと思った。
「確かに今さらだけど。でも、いいんじゃないかな。なりたいって思ったんならなれば。まだ間に合うと思うよ。私なんて大学行くまで自分が何の職に就くかまったく決めてなかったんだよ。それが今じゃデザイン関係の仕事してるんだよ。そう思うと高校生で将来のこと考えられるなんて凄いよ」
有沙はそう言って軽く拍手をしてくれる。
「今までこんなに強く、何かになりたいって思ったことはなかった。親父の言うとおりにするのは癪だけど、俺は俺なりに頑張りたい。だからやっぱり親父と話し合わないといけないよな」
「うん。おじさんとおばさん喜ぶと思うよ。梓も多分、応援してくれると思う」
誰かのためなら、きっと人は動けるのだろうなと思う。大切な人のためならなおさら。これから死ぬほど勉強しなければいけないのは億劫だけれど、俺は頑張れそうな気がしていた。
「有沙姉ちゃん。ありがとう」
明日も仕事だからとベッドで眠る有沙に向かって、俺は言う。それから床に敷いてくれた布団に入り電気を消す。
「頑張れ。ヒロ」
眠りに入る間際、有沙がそう言ってくれたような気がした。 (完)