連載小説「あの箱庭へ捧ぐ」終章

終章 業を卒わる

   1

 毎年決まった時期に、大勢の人が卒業を迎えるのが普通の学校という認識がある。けれどこのうみほたる学園では、個人によって卒業の有無が毎月審査されている。教職員での全体会議の後、理事長が許可すれば卒業という形が決まる。この理事長の審査というのが実に厳しく、教師たちがもうこの生徒の能力は消えていて、社会に出しても大丈夫だろうと判断しても、却下される場合が多い。そのため、学園を巣立つ能力者が頻繁に出るということはない。
 しかし今月は卒業を迎える生徒が一人、中等部にいる。
 足立清二はコーヒーを飲みながら、事務室で彼女の資料をみていた。丸一年ほど在学してようやく卒業が決まった。彼女の能力は透視。最終検査の結果、現在は完全に能力が使えなくなっている。
 その少女の名前は丸川玲奈。以前、洸生会と関わったことがある。その時は足立に出来ることはなかったので他のメンバーに任せたが、その関りが今回の卒業に大きく影響があったらしい。
 洸生会の顧問としても教師としても、嬉しい限りである。
 学園を去る日の数日前には、ささやかなお別れ会が開かれる。彼女と深く関わった教師と生徒が参加する予定だ。今日はその準備で忙しい。
「足立先生。倉庫にあったこっちの飾は使えます?」
 関西出身の先生に後ろから声をかけられたので、足立は振り向いて彼の持っていた段ボールに入った物を確認する。
「はい。大丈夫そうですね」
「せやったら、あれはもう処分しちゃいますね」
「お願いします。念のため全部を確認しておきますので」
「はい。お願いします」
 頭を下げると、彼は段ボール箱を置いてさっさとどこかへ行ってしまった。
 足立はそれを見送ると、もう一度丸川の資料に目を通す。
 母親との確執があったが、洸生会の依頼達成にて解消済み。互いに歩み寄ることが出来るようになった。依頼内容。思い出の小箱の譲渡。依頼者は丸川の母親。使用能力、透視。心をよむ。過去視。使用者、丸川玲奈。小池燐音。川崎竜太郎。
 今後の彼女については、家族に任せるしかないだろう。この卒業は終了地点でもあり、スタート地点でもある。
 足立は彼女の未来に幸多からんことを願っている。

   *

 一通り見終わると、ついでに次の資料を取り出す。
 寺沢椎也。食堂の事務職に就いて二年。二十歳の青年だ。
 彼の能力は他人に幻覚をみせるものである。彼は元々身体が弱く、能力の影響により身体に変化があったため、健康な成人男性となる。そのため彼の能力には要注意。
 米田恵理子からの依頼により、彼が他人に幻覚を売っていることが判明し、早急に対処した。その能力は副作用のように身体に影響を及ぼし、不可解な行動をさせる。
 依頼内容。能力の悪用。幻覚の売人をみつけ、売買の禁止を言い渡す。拒否された場合、理事長に引き渡し。処遇は任せる。依頼者。米田恵理子。使用能力。幻覚をみせる。遠くの音を聞く。心をよむ。過去視。使用者。寺沢椎也。斉藤寧々。小池燐音。川崎竜太郎。
 寺沢の件は、能力を悪用しないと約束したが、彼自身の体調を考慮して特例で能力の保持に務める。
 この件に足立は一切関与していないが、洸生会の顧問として目を通しておく。
 次の資料に目を移す。
 川崎琴乃。川崎竜太郎の実妹。空間に自分の望む世界を創る能力を持っていた。
 彼女の能力は消えているが、特殊な事情があって卒業は見送られた。今は米田恵理子の住むアパートで米田と一緒に暮らしている。
 琴乃は本来なら十一歳なのだが、五年前から能力の維持と、身体への負担を止めるため。それと兄である竜太郎の記憶が戻るのを待つため身体の時間を止められていたので、実際には心身共に六歳のままだ。学園外で暮らすのは、当分無理だろう。
 ところで彼女たちの両親だが、今は田舎で農家をやっているらしい。五年前の火事の後、彼らもひどい火傷を負い重症だった。一命をとりとめたが目を覚まさず、植物状態になっていた。そのため親戚の家に行くことになった竜太郎と琴乃は、能力が発覚したことによりうみほたる学園ヘ入学することになったのだ。
 そして両親は、火事から一年後に目を覚ました。学園での竜太郎と琴乃の事情を知った両親は、最初こそ反対していたが他にどうすることもできないと、息子と娘に会わないことを決め田舎で新たな生活を始めた。
 今回、竜太郎の記憶が戻ったと連絡をしたら電話越しに泣いて喜んでいた。琴乃のことも一緒に伝えたが、やはり五年という月日は長く、幼いままの姿だとわかっているので複雑な心境だと語っていた。
 二人に会うことは可能だと伝えたが、いつになるかはわからないが心の準備が必要なためすぐには会いに行けないと言われた。
 足立は仕方のないことだと思った。時間の流れというものはときに残酷だ。
 洸生会にとって琴乃の件は正式な依頼ではないが、一応記載されている依頼内容は、以下の通り。
 依頼内容。川崎琴乃の救出。学園本部の地下で眠っている琴乃を救う。依頼者、米田恵理子。使用能力。箱の中に世界を創る。対象の時を止める。心をよむ。使用者。川崎琴乃。黒川大志。小池燐音。
 足立はふと思う。
 小池燐音の名前をよく目にするなと。
 洸生会の資料を過去に遡る。ここには、依頼のあった生徒や職員の名前しか書いていないため、彼女の名前の記載されている資料を探すのは容易かった。
 足立はとある資料に目を止めた。
 小池燐音に関する依頼だった。彼女はまだ六月に入学したばかりである。資料に彼女の名前が記載されるようになる最初の資料らしかった。それも足立が顧問になる前だ。
 小池燐音。他人の心がよめる能力を持つ。能力が暴走することもあるため、監視すること。
 依頼内容。能力の消滅。学園からの卒業。
 それ以上の情報は何も書かれていなかった。
 依頼者は理事長および彼女の両親らしく、洸生会の正式な依頼と書かれていた。
 この学園の入学者は、卒業を目標とするが、こういう依頼という形にされているのは例外だった。両親がよっぽど、能力を嫌っているのだろう。洸生会の依頼として受理されてしまっていたらしい。これを書いたのは理事長だ。手描きでサインまで入っている。
 足立は「ふうむ」と呟き、思わず眉間にしわを寄せる。 
 これまで、洸生会は生徒たちの手助けを目的とした組織だと足立は認識していた。あくまでその最終目的地に卒業があり、能力の消滅があると。
 ここまではっきりとその文字が書かれていることなど今までみていた資料には一度もなかった。
「そこに本人の意思はなく、か。本人が望んで手に入れたものなのにな」
 足立はそう独り言を呟き、机にすべての資料を置いた。それから立ち上がると、部屋の扉の近くまで歩いた。
 扉を開けると、夏の生温い風が出迎えてくれた。冷房のかかった部屋から蒸し暑い廊下へ出たからだ。
 まだまだ暑いなと思いながら、足立は明日から来る九月の事を考えていた。

   2

 食堂を貸し切った丸川玲奈のお別れ会は、十人ほどの少人数で行われていた。というのも、彼女の交友関係、お世話になった先生方が両手の指で数えるのに足りたからだ。
 出席者は理事長。担任の先生。彼女と同室だった女生徒や他に友人が数人。洸生会で彼女に関わった川崎竜太郎と小池燐音。それからこのお別れ会を取り仕切った足立清二を含める先生が数人。あとは、食堂の外から興味本位で覗きに来ている野次馬ぐらいだった。
「本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます」
 そんな堅苦しい挨拶から始まった会は、足立が進行役を務めていた。
「玲奈がここに来たのは一年ほど前だったか。よく頑張ったと思う」
 理事長の挨拶が入り、お別れ会は緊張が走る。彼がその重厚な声で話始めると、まるでお別れ会ではなく、本物の卒業式のようになった。
 その光景をみていた燐音は、自分のお腹のあたりが痛くなるのを感じた。自分の番がいつかくるのだろうかと想像して、身体を強張らせた。
「能力は、本人がそう願ったこと。願望を元に生まれる。私はそれを守るために、この学園を創った。能力は精神的な成長と共に消えるというのが、私の結論でな。そもそも能力がどのようにして発症するのか。色々と言われてはいるが、私はこう考えている。能力は別に病気ではない。世間的にはそうなっているが、私の考えとは違う。能力とは才能である。元々その人間がもっていた素質なんだ。だから玲奈は偉いと思う。その素質を自分でみつけて、自分の物にした。ちゃんと成長してこの学園から卒業という形になった」
 理事長の言葉をきいていて、燐音は少しだけ心の負担が軽くなるのを感じた。
 足立から理事長に卒業証書のような紙が渡される。そして理事長から丸川へまた手渡される。
「卒業おめでとう」
 丸川は慣れない手つきで、言葉と共にその卒業証書を受け取った。
「ありがとうございます」
 丸川はお別れ会の間。一度も泣かなかった。
 燐音は偉いなと思いながら、その細やかな会を見守った。

   *

 その後は丸川から短めの挨拶があって、それからジュースで乾杯をした。
 燐音は隣の席に座っていた川崎とグラスを鳴らし、一口飲んだ。リンゴの仄かな味が口の中に広がる。
 目の前に出してあったお菓子を食べたり、写真を撮りに来た先生に向かって作り笑顔を向けたりした。写真は苦手だったが、一緒にいた川崎が自分の隣で、右手の指を二本立ててピースをする姿が何だかおかしくて、苦手意識など風船のように飛んでいった。
 記憶を取り戻してからの川崎は、表情が少し柔らかくなった気がしたが相変わらず笑うのは得意ではない様子だった。
 丸川に挨拶をしたかったが、彼女は遠く離れた席にいるので無理だなと思っていたら、しばらくして川崎が行こうと言うので、彼女のところまで歩いた。
「丸川さん。卒業おめでとうございます」
「おめでとうございます」
 川崎と一緒にそう挨拶をすると、丸川は「ありがとうございます」と笑顔を向けてくれた。
「私、二人には感謝しているの。改めてお礼を言わせて。本当にありがとう。あなたたちが母の願いをきいてくれていなかったら、きっと和解なんてできなかった」
 丸川がそう言って、川崎と燐音に向かって頭を下げてきた。
 川崎が首を横に振る。
「いいえ。丸川さんが頑張ったからですよ。いい関係が続くと良いですね」
「ありがとう。あなたたちのことも応援しているわ。さっき理事長も言っていたけれど、能力は私の一部だから。使えなくなってもここにあるって、わかるの。あなたたちも早く取り戻せるといいわね」
 丸川はそう言いながら、自分の胸の辺りに右手を置いた。彼女の言っている言葉の意味が、燐音にはまだよくわからなかった。だから川崎の一歩後ろで、燐音は呆けた顔をしていた。
 燐音の能力は、他人が何を考えているのかわからないことが不安で、生まれたものだ。でも普通の人は他人の心がわからない。当たり前のことだ。
 それを受け入れると言うこと? だとしても、今の燐音にはそれが出来ない。
 自分は無力だと自覚している。父親と母親の期待に答えられない。普通には生きられない。それが申し訳なくて、けれどどうしようもなくて。哀しくて、淋しくて、苦しい。
 だから家族仲が悪かった丸川がこうして関係を修復していることを、羨ましいと燐音は思う。息苦しくなって、その場を離れたくなった。
 燐音はお礼を言うと、そっと丸川の側から離れた。川崎はまだ何か彼女と話したそうだったので、彼からも離れて元の席に行く。
 途中、足立と目が合った気がして気のせいということにしたかったのだが、そういうわけにはいかなかった。
「どうした」
 心配そうに顔を覗き込まれて、燐音は「どうもしてないです」と返事をした。
「最近気づいたんだが、小池は顔に出るタイプだ。体調が悪いのか」
「大丈夫です」
「無理はするなよ」
「はい」
 一瞬だけ間を空けて、燐音は頷いて返事をした。
 みんなが優しいことはわかっている。みんなが気づかってくれていることはわかっている。ただその優しさが、燐音を追い詰めていることを誰も知らない。

   3

 お別れ会が終わり、竜太郎が小池と共にプレハブ小屋へ行くと、部屋には気まずい空気が流れていた。それというのも、現在部屋には二人いて、その関係が接着剤でくっつけられた割れたマグカップのようだったからだ。今はこうして無理矢理くっつけて接点を作っているが、両者ともあの出来事以来、会うことさえ避けていたのだ。
 あの出来事。というのは、交際していた本間宗太と斉藤寧々が破局を迎えた日のことだ。
 竜太郎は、あれで良かったのかと常々思っていた。しかしどうしようもなかった。他に手がなかった。
 宗太の視た斉藤の未来で、誰かが血を流すことになる。それがいつどこで起こる出来事なのかはわからない。けれど竜太郎と宗太はそれを回避するために、現在を変えた。
 竜太郎は宗太に協力する形で斉藤の過去を知り、最善の方法で二人を別れさせた。彼女が一番傷つかない方法をとったつもりだった。
 斉藤の宗太への信頼を裏切るという方法を。
 しかし、本当にこれで良かったのか。答えは出ないままだ。
 扉を開けると宗太と斉藤は一つのソファに座ってはいるものの、互いに目を合わせず、それぞれ別の方向を向いていた。
「あ。終わったの」
 部屋に入ると、斉藤がソファから立ち上がり、真っ先に小池のほうへ歩いていった。本当に仲良くなったなと、竜太郎は思う。二人は女子寮で同室らしく、それも当然の事かもしれない。
 竜太郎は、宗太が座っているソファと対面した向かいのソファに座り、宗太に問いかける。
「何か話した?」
「何も」
「そうか」
 会話はそれで終わった。
 斉藤と小池が、お別れ会で貰って来たお菓子を机に並べている。
 竜太郎は立ち上がりお茶を淹れに行く。湯沸かしポットにお湯が入っているか確認してから、急須に茶葉を入れてお湯を注ぐ。
 人数分の湯呑は斉藤が持ってきてくれた。
「そういえばさ。さっきお前の妹に会ったんだけど」
 竜太郎が丸い木製のお盆の上に置かれている湯呑に緑茶を注いでいる最中に、斉藤が唐突にそう言った。
「え。そうなのか」
 思わず目を丸くする。
「そうだよ。米田先生と一緒にいた。あたしお前に妹がいるなんて初めて知ったんだけど。びっくりした。あんなに可愛い妹がいたんだ。何で言ってくれなかったの」
「それは、色々と事情があって」
「事情って何」
「言えない」
 斉藤の疑問に、竜太郎は答えられなかった。
 あの出来事を語るには、五年前の話から始めなければならない。それには時間がかかる。まだ竜太郎の中でも、整理しきれていない部分があった。
「またあたしは、のけ者にされるんだね」
「え?」
 斉藤の表情に、暗い影が落ちた気がした。
「いつもそう。あたしはなんにも知らない。あたしにだけなんにも教えてくれない。竜太郎が記憶喪失だったことも知らなかった。友人なのに」
「それは」
 どんな言葉を返せばいいのか。竜太郎にはわからなかった。
 確かに、この場にいる中で斉藤だけは竜太郎の事情を何も知らなかった。
 米田は一体、斉藤にどこまで話したのだろうか。
「友人だからって、何でも話せるわけじゃない」
 宗太が言う。それは宗太と斉藤のこの部屋に来て初めての会話だったのだろう。
「親友でも?」
 と斉藤が宗太のほうをみて質問した。
「秘密は誰でも持っているものだし」
 宗太は斉藤と目を合わせようとしない。
「恋人でも?」
 斉藤の問いに、宗太は答えない。
 部屋に沈黙が流れた。それは流れ星のように綺麗なものではない。暗雲のようだ。
 竜太郎は淹れた緑茶を、一つずつ静かに中央のテーブルの上に置く。四つ置き終えると、竜太郎はお盆をポットの横に戻した。
 その間、誰も口を開かなかった。
「とりあえず、せっかく淹れたからお茶を飲んでほしい」
 竜太郎はそう言いながら、ソファに座り直した。

   4

 燐音は部屋の空気に、息が詰まりそうだった。
 寧々が何に対して怒っているのか、燐音は知っている。一方で、本間が罪悪感を抱えていることも知っている。川崎も本間よりの感情で、どちらかというと迷いを感じていることも燐音は知っていた。
 燐音はソファに座り、川崎が淹れてくれた緑茶をゆっくりと口に含む。
 これで二人も落ち着いてくれたらと、燐音は思う。
「何か事情があるんだろうなってことは、わかる。でも、言ってくれなきゃわからない。教えてくれなきゃ何もわからないんだ。あたしは馬鹿だから、いろんな事に気づかない。気づけないことが悔しい」
 向かい側のソファに座った寧々が、緑茶を一口飲んでから言葉を紡いだ。じっと湯呑に入った緑茶をみつめている。
「あたしの妹の時もそうだったんだ。あたしは妹が苦しんでいることに、なんにも気づかないでなんにも知らないで、好き勝手にやっていた。あたしはいつもそうなんだ。後悔したって遅いのに。手を伸ばした時にはもう、間に合わないかもしれないのに。誰もあたしを頼ってくれない。いや、あたしが人に頼られようだなんてむしの良すぎる話なのかもしれない。けれど、苦しんでいたなら頼ってほしかったな」
 そう言って、寧々はとても淋しそうな顔をした。
 色々な感情が、燐音の中に入ってきた。その結果、糸が絡まり合ったように複雑になってしまった。燐音はそれをどうにかしてほどけないかと考えた。
 自分にそれができるだろうか。そんなふうに思った。
「あの」
 と口から思わず言葉が出た。
 隣に座っている川崎と、向かいのソファに座っている本間と寧々の視線が一斉に燐音に集まった。
 燐音は自分が来る前の三人の関係など知らないし、ましてや何があってこうなったのかもまったくわからない。事情を知らない自分が口を出していいものじゃないと理解はしていたけれど、どうしても我慢できなかった。
 胸の奥のもやもやを晴らしてしまいたかった。だから勇気を出して言った。
「もっと、ちゃんと。お互いに話し合ったほうがいいと思います。そうしたら、ちゃんと理解し合えると思います」
 これは燐音の、ただのエゴだ。それはわかっている。
 この人はこう思っているのに。あの人はこう思っているのに。どうしてそれが伝わらないんだろう。もどかしい。そんな考えは全部、燐音の身勝手な我儘だ。
 他人の心なんて、知るものじゃない。
「嫌だって言ったら?」
 本間の視線が、針のように尖っていた。
 燐音は今まで、彼と目を合わせることが出来なかった。人見知りのせいだけではなく、彼に苦手意識があったためだ。けれど今この瞬間だけは、誠意をみせなければ伝わらないと燐音は思った。だから頑張って本間の目をみて言う。
「私があなたたちの思っていることを、ここですべてお話します」
 嘘偽りなく、すべて。
 本当はそんなことをするべきではないのかもしれないけれど。と燐音は思う。けれど、誰にも後悔はしてほしくなかった。偽善だと、おせっかいだと罵られても構わないと思った。このままでいいはずがないという感情だけが先行していた。
 そんな燐音の思いが通じたのか、本間が目を閉じて深く息を吐いた。
「わかったよ。俺もそろそろ話してもいいのかもしれないと思っていたし」
 彼は目を開けるとそう言った。
「宗太。だがあの件は、回避出来たのか」
 川崎が顔をしかめて言った。
「そうだね。まずはそこから話さないと。少々ややこしいんだ」
 宗太が困ったように眉をひそめていた。彼の隣に座っていた寧々が、彼のほうをみつめている。
 やっと話す気になったかと思っている様子だったが、寧々は口に出して言わなかった。
「寧々と小池は知らないだろうけれど、実は俺。未来を視ることが出来るんだ」
 本間は真剣な表情でそう言った。嘘はひとつもついていない様子だった。
 寧々と燐音は目を丸くして驚いていた。
 そういえば、本間の能力については今まで一度もきいていなかった。なるほど、だから彼は洸生会に所属しているのだ。能力者の中でも有効な利用価値のありそうな能力を持っている。その事実に気づいて、燐音はすべてが腑に落ちた。
 洸生会に入るべくして、入った人物だと思った。

   5

 寧々の未来を視たときに出てきた高い塀。学園の周りを囲う一面の壁。それを見上げる彼女は、まるでそこから出たがっているかのように宗太には思えた。
 だからあの日。寧々が脱走を試みた日。たまたま彼女をみかけた時。どこか既視感を覚えた。
 宗太は未来視の内容を寧々と小池の二人に軽く説明すると、竜太郎のほうをみて言った。
「竜太郎。結論から言うと俺たちの計画は失敗した。あれのおかげで、寧々が学園を脱走しようとしたことを考えれば、俺たちのした行動の結果が未来視に現れたんだ。だから未来を変えることはできなかったんだと思う」
「そうか。でも、なんでそれがわかったんだ」
 竜太郎が胸の前で腕を組みながら言う。
「思い返してみると、未来視で高い壁をみたのは、寧々がそれをみていたから。つまり脱走を考えていた。あのまま俺と寧々が交際を続けていれば、そんなことを考えるとは思えない」
「断定しないでくれる」
 宗太の推測に、寧々が不服そうに声を荒げる。
「なら、何でお前は脱走しようとしたんだ」
 宗太はそう尋ねながら、今日初めて寧々の顔をしっかりとみた。 
「それは、前から計画を立てていた事よ。あたしはここを出て妹に会いたいだけなのよ。毎回そう。あんたと別れたことが原因とか、そんなことは絶対にない。もしもあの日まだ付き合っていたとしても。あたしはあんたと一緒に脱走しようと思っているでしょうしね」
 彼女は怒ったような顔をして言った。
「俺がお前について行かないって言ったら、どうするつもりだった」
 宗太の一言に、寧々が顔をしかめる。
「どうして、そんなことを言うの」
「その可能性もあるって、言いたいだけだよ。俺はお前と違って、帰る場所がないんだよ。前に言っただろう。俺がこの学園に来る前のこと」
「子役タレントだった話?」
「そう。仕事で得た収入をすべて親に使い込まれていたっていうな。だから家に戻るつもりはないし、そういう未来を視た。俺はこの学園に、逃げてきたようなものだから」
 寧々は何も言えなくなってしまった様子だった。
 宗太は自分の境遇を可哀想だとか思ったことはないし、憐れんでほしくないと思っていた。けれどそんなこと伝わらないのだろうなとも思う。
 どういう未来を歩んでいたとしても、ぶつかる問題だったと思う。
「話を戻してもいいか」と宗太は続ける。
 もう一つ重要なことを話すのを忘れていた。
「一番問題なのは、誰かの血だった。でも、あの日。小池が学園に来て、寧々が脱走しようとした日。俺のとった行動が、また未来視と同じ結果を生みだした。寧々。俺はお前に謝らなくてはいけないことがある」
「何?」
 寧々が首をかしげる。
「寧々が脱走しようとしていることを、足立に伝えたのは俺だ」
 寧々の事を真っすぐにみながら、宗太は言った。
 あの日。宗太が足立に寧々が脱走しようとしていることを告げ口しなければ、寧々が足立の能力で怪我をすることはなかっただろうと思う。
 宗太は少し離れた場所で、その光景をみていたのだ。
 未来を変えようとした行動のすべてが、そのまま現在になった。その時に気づいた。そして宗太は落胆したのだ。結局、やはり何をしても未来視の結果を変えることが出来ない。
 竜太郎が現在を変えることは出来ると言った。宗太もそれを信じた。
 でも結果は変わらなかった。
 それどころか、大切な人を二度も傷つけることになってしまった。
「お前が怪我をした原因は俺だ。ごめん」
 宗太は寧々に向かって頭を下げた。
「斉藤。お前と宗太が別れるきっかけをつくったのは僕だ。すまなかったな」
 そう言って竜太郎も寧々に向かって頭を下げたようだった。
「二人とも、頭を上げてほしい」
 と寧々が言うので、宗太と竜太郎はほとんど同時に頭を上げて彼女をみた。
「あんたたちがしたことは、許せない。けれどあたしが一番怒っているのはそれを今まで黙っていたことよ。それは理解している?」
 寧々の言葉に、宗太は頷いた。
「だったらいいわ。でも今度からは、ちゃんと相談して。勝手に人で実験しないで。苦しかったら苦しいって言って、助けになるから。あたしの能力はその声を聴くための能力なんだから」
「ごめん。ありがとう」
 宗太は寧々に精一杯の謝罪と、お礼を言った。
 よっぽど泣きそうな顔をしていたのか、寧々が小池と竜太郎がいるにもかかわらず両腕を伸ばしてきた。
 宗太はその腕に包まれる。
「あの、恥ずかしいんだけど」
「我慢して。これは今まであたしにひどいことをした罰なんだと思って」
「それを言われると、何も言えないな」
 宗太は小池と竜太郎の視線を感じながら、その罰を甘んじて受け入れることにした。

   6

 宗太と斉藤を二人きりにしてやろうと思って、竜太郎は小屋を出た。小池も後からついてきた。
 九月に入ったというのに、外はまだ蒸し暑さがあった。残暑というよりは、まだ夏の暑さが現役のように思えた。
 竜太郎はまだ靴を履いている途中の小池のほうをみていた。足を入れる場所が狭いのか、履くのに苦労している様子だった。彼女は入口の前にある段差を椅子のようにして座り込んでいた。
 その様子をみながら、竜太郎は考えていた。
 お別れ会の時に、一緒にいた小池が先にその場を離れたけれど、その後も少しだけ竜太郎は丸川と話をした。
「川崎くん。ちょっと雰囲気が変わった?」
 丸川にそう指摘されて、竜太郎は驚いた。
「気のせいじゃないですか」
 とそのときは返したが、記憶が戻ったことにより自分でも気づかないうちに何か以前と違う人間になっているのかも知れないと感じて不安になった。
 いつも通り過ごしているつもりだったのだが。
「二人が仲直りして良かった」
 両足の靴を履き終わったのか、小池が竜太郎の隣まで来ていた。
「ああ」と竜太郎は頷く。
 余計なことをしてしまったと、反省をしなければならない。
 今後どうなるのかはわからないが、もう二人の関係については何も言わないでおこうと心に決めた。
「ごめんなさい」
 小池が唐突に言う。
 心をよまれたのかもしれないと思い、尋ねてみる。
「どうして謝るんだ」
「川崎くんは怒られただけだったから」
「気にしないでいい。僕は友人が困っているのを助けたかっただけだ。それがどんな結末になったとしても、後悔はしていない」
 竜太郎は言いながら、改めて自分の記憶を辿る。
 彼女と初めて会った日の事を、今ははっきりと思い出していた。

   *

 小学生の頃の記憶だ。あの日、竜太郎は学校の授業をさぼっていた。初めての事ではない。何度目かの欠席だった。一回目は体調が悪くて普通に保健室で休ませてもらった。それで何故かとても気が楽になったから、今度は誰にもみつからない場所を探して、二回三回とさぼった。それがあの無人の音楽準備室だった。
 何が嫌だったとか、そういうものは何もなかったと思う。いや、自覚がなかっただけなのかもしれない。
 学生生活が嫌だったわけではない。多くはないが友人もそれなりにいたし、放課後のサッカークラブだって一番に集合するくらいには楽しんでいた。
 ――ただ疲れてしまったのだと思う。
 絵に描いたような学生生活が、竜太郎にとって負担になっていたのだと思う。無意識に無理をして笑っていたのだと思う。
 音楽準備室で授業をさぼっている間は、そんな必要はなかった。憩いの場所だった。
 だからあのとき、そこに突然現れた女子生徒の姿に驚き、そして怯えた。竜太郎がこうして授業をさぼっていることを先生に教えるのではないかと。
 だが彼女は予想を裏切り、竜太郎の目の前で膝を抱えて座るだけだった。
 そこで気づいたのだ。彼女もまた自分と同じなのだと。
 ひとつ違う点があるとするならば、彼女はさぼり慣れていない様子だった。何故なら、彼女もまた竜太郎の姿に驚き、うろたえていたからだ。
 それが小池燐音だ。何の縁があってか、今竜太郎の目の前にいる少女が彼女だ。
 小池はあの日以来、準備室に来ることはなかったが、その後偶然にも全校生徒が参加するレクリエーションで同じ班になり再会した。
 竜太郎は、小池があの時の子だとすぐに気づいた。向うもそうだと思う。しかし互いに話をすることはなかった。イベントで必要な会話をすることはあったが、それ以外ではまったく言葉を交わすことはなく、友人関係になることもなかった。ただ班が同じだった顔見知り。それだけだった。
 一年はあっという間に過ぎ、竜太郎が不登校になったために接点はなくなってしまった。そしてあの火事があり、竜太郎は記憶をなくしてしまったのだ。
 小池とこうして学園で再会したのは、まったくの偶然だった。彼女のことを覚えていなかったことに関しては、申し訳なく思う。小池のほうが竜太郎の事を覚えていてくれたことは、記憶を思い出した今、とても嬉しく思っている。

   *

「あれでよかったのかな」
 と呟くように、小池が言う。
 小池は昔から変わらない。人に気を使ってばかりだ。だからこそ心をよむ能力なんてものを手に入れてしまったのだろう。
 能力は人の願いによって生まれる。彼女が何を願っていたのかなんて、尋ねなくてもわかってしまう。
「小池は正しいよ」
 と竜太郎は肯定する。
「小池がどう思っているかは僕にはわからないけれど、少なくとも僕は小池の事を正しいと思う。君は純粋に他人の幸せのために動ける人だ。それはとても尊いことだと思う」
「そんなことは、ないと思う。今回も自分が役に立てたのかもわからないし」
 小池が、自信のなさそうな声で否定する。
「いいや。小池は役に立っていたよ。君は君が思っているよりずっと凄い。その事実を受け入れてもらわないと僕は困ってしまう」
「どうして?」
 不安そうな表情で、小池が竜太郎に問う。
「僕が苦しんでいるときに、いつも傍に居てくれるのが小池燐音だからだ。僕はそれで何度も救われた。本当はずっとお礼を言いたかったんだ。ありがとう。今も昔も、君には感謝している」
 小池が口を開けて呆気にとられた表情でこちらをみている。それから急いで顔を両手で隠した。
「そんなこと。言ってもらえる資格なんてないのに」
「あるよ。充分ある。僕と小池はとても似ている。今はまだ難しいのかもしれないけれど、ゆっくりでいいんだ。確実に進んでいるから。君のペースで歩んでいけばいいんだよ。僕もそうする」
 竜太郎は言いながら思う。
 いつか彼女も自分も、能力を失う日が来るのだろう。けれど、それがいつになるのかはわからない。不安もあるが、希望もある。だから亀のようにゆっくりでいい。自分たちはまだ若くて、時間なんて山ほどある。現在が辛く哀しいものでも、遠い未来のその先は何が起こっているのかなんてわからない。
 だからその日が来るまで、目の前で泣いている他人の心がよめる彼女と、一緒にゆっくりと歩んでいこう。

(完)

連載小説「あの箱庭へ捧ぐ」第五章

第五話 過ぎ去りし刻

   1

 それは、小さなまるいほう石みたいにキラキラしていた。
 おとうさんとおかあさん。それからおにいちゃん。
 キラキラしたおもい出が、琴乃のたからものだった。
 おとうさんはまい日、おしごとへいく。ちょっとさみしいけれど、琴乃たちのためにまい日がんばっているんだよ。とおかあさんがいっていた。だから琴乃はまい日おとうさんをおうえんすることにした。
 おかあさんはまい日お花に水をやったりおせんたくをしたり、おそうじをしたり。琴乃たちのためにごはんを作ってくれる。琴乃はおかあさんもはたらきものだとおもうから、おかあさんのこともおうえんするね。っていったら、とてもうれしそうにわらってた。
 おにいちゃんはまい日、学校へいっておべんきょうをしている。かえってくると琴乃にたくさんおはなしをきかせてくれるの。琴乃も早く学校へいきたい。琴乃が学校へいけるのは、らい年のはるなんだって。そんなにまてないよ。
 琴乃はようちえんで自分の名まえをいっぱいれんしゅうしたの。かん字もすこしだけべんきょうしたんだよ。だから早くいきたいな。たのしみ。
 おかあさんがキッチンでお夕はんを作ってる。
 おにいちゃんは、テーブルでうんうんいいながら、しゅくだいをしている。
 琴乃は、それをニコニコしながらみている。
 おとうさんがかえってきた。
 おにいちゃんと琴乃は、おとうさんをおでむかえするの。
 それから、みんなでお夕はんをたべて、あったかいおふろにはいるの。
 それからそれから。みんなでいっしょに寝るんだよ。
 おとうさんとおかあさん。それからおにいちゃん。
 おやすみなさい。またあしたもたからものの一日になるといいな。

    *
 
 うみほたる学園に来てからというもの。小池燐音は不思議な夢をみることが多くなった。それは決して悪夢というわけではないのだが、目を覚ますたびに、何故だか哀しい気持ちになる。その夢を燐音は嫌だと思ったことは一度もなかったが、焦燥感に駆られることだけが、気がかりだった。
 幸せな家族の夢であるはずなのに、どうしてこんなにも泣きたくなるのだろう。どうしてこんなにも助けたいと願うのだろうと、燐音は胸が苦しくなる思いをしていた。
 しかし、自分にはどうすることもできないのだと理解している。このことを他の誰かに相談することもできないでいる。
 気がかりなことが、もうひとつある。
 川崎竜太郎の事だ。
 燐音は彼に会ったあの日。二つの点で驚いた。一つは、彼が家に来ること。これは、燐音の両親も知らなかったらしく、心をよむ能力を使っていても知りえる情報ではなかった。そして二つ目は、燐音が川崎のことを知っていたこと。
 六年前の話だ。燐音は当時小学三年生だった。友人と呼べるクラスメイトが一人しかいなく、その子と別々の学級になってしまった春の終わり。燐音は川崎と出会った。
 燐音はクラスに馴染めない生徒だった。ある日、授業に変更があったらしく、教室の場所がわからくなってしまい困ったことがあった。普段は遅刻もしない真面目な生徒だったのに、誰かに聞く勇気もなかった燐音は、生まれて初めて授業をさぼった。
 酷く情けない気持ちになりながら、同時に初めての体験に緊張していた。本来ならば授業の時間だが、燐音は学校内を彷徨うように廊下を歩いていた。
 こんなときに誰かに会ってしまったらと思うと、心臓が痛くなる。どんな言い訳をしたらいいかもわからない。頭の中が真っ白だった。どこへ行こうかと迷ったが、足は自然と大好きな音楽室に向かっていた。
 誰もいないことを祈りながら、扉の空いていた教室に恐るおそる足を踏み入れた。音のしない音楽室。そこには、誰もいなかった。
 燐音は少し安心して、教室の中を意味もなく歩いた。教室の隅にあるピアノは、蓋が閉まっていた。それを開けて鍵盤を触ることは出来なかったが、椅子に座って空中で指を動かして、ピアノを弾く真似をした。
 それから音楽準備室の扉も開いていたので、中を覗いてみる。楽器がたくさん置いてあった。それらを鳴らすことはしなかったが、あまりみる機会のないバイオリンなど、オーケストラで使うような楽器が置いてあり気分が高揚した。
 だから、部屋の奥である人物をみつけたときは心臓が一気に跳ね上がって、口から飛び出してしまいそうになった。
「ひっ」という息を吸う音が口から漏れたので、慌てて右手で唇を押さえた。音楽準備室の奥の棚に寄りかかるようにして、その子は体育座りをしていた。相手もすぐに燐音の姿に気づいて、一瞬だけ目を見開いてから慌てたように顔を膝に埋めた。彼は逃げることもせず、ただ子犬のように怯えていた。
 それが、川崎竜太郎と小池燐音の初めての出会いだった。
 燐音はこの場から立ち去ろうとも思ったが、自分もどこへ行けばよいのかわからなかった。しばらく動けずに、口を押えたまま放心していた。
 そんな状況で、「あの」と、先に声を発したのは意外にも目の前の少年だった。
「ごめんなさい。ここに居させてください」
 その声はとても小さく、けれど明瞭に聴こえた。もちろん燐音には、断る理由などなかった。だから「はい」と少年と同じく小さな声で答えた。
 どうしようかと思ったが、燐音はその場に彼と同じ姿勢で座った。そしてすぐに後悔した。彼と向かい合わせに座ってしまったことに。
 頭の中は白紙だった。何もわからなかった。ただ一つわかることがあるとすれば、目の前の彼も、燐音と同じ状況だということ。
 それから授業が終了するチャイムが鳴るまでの間。燐音とその見知らぬ少年は、何も会話をすることなく、二人とも無言で膝を抱えて座っているという不思議な時間を過ごした。
 その日の燐音はずっと緊張していて、チャイムが鳴って教室へ戻った後もそれは解けなかった。燐音のほうが先に準備室を出たのだが、去り際に彼が顔を上げて「ありがとう」と言った姿が目に焼き付いていて離れなかった。
 それからずっとだ。名前も知らない彼を、音楽準備室の奥で怯えていた彼を、燐音はずっと忘れなかった。覚えていた。あの日の記憶を、忘れられるはずがなかったのだ。

   *

 次に会ったのは、全校生徒が参加するイベントで、偶然にも同じ班になったときだった。話しかける勇気はなかったが、燐音はそこで彼について色々なことを知った。
 名前が川崎竜太郎だということ。燐音と同じ学年で、違うクラスだということ。普段からあまり話すほうではないこと。
 イベントは一年間を通して数回に渡って行われた。クイズや謎とき。班で協力することが多かったため、言葉を交わすことはたまにあった。慣れるまでは大変だったが、楽しかったことを覚えている。
 一年はあっという間に過ぎ、班で集まることもなくなってしまったので、小学四年生の頃には川崎との接点はなくなってしまったが、たまに姿をみかけることはあった。しかしいつしかそれもなくなり、転校してしまったのだろうかと思っていた。
 そして、六年ぶりに燐音は川崎と思わぬ形で再会したのだ。
 川崎は、燐音の事をみても驚く様子がなかった。それですぐに彼が自分の事を覚えていないことに気づいた。
 燐音にとってあの一年間の記憶はとても大切なものだったのに、川崎にとってはそうではなかったということがわかってしまった。それがただひたすらに、哀しかった。

   2

 米田恵理子からの呼び出しに、川崎竜太郎は頭をかしげながら応じた。幻覚売買事件から一日後の事だった。
 プレハブ小屋には、米田と竜太郎と本間宗太。それから、この場所に初めて来たであろう寺沢椎也がいた。寺沢は部屋の中を品定めでもするかのようにじろじろとみていた。
「ここはいい場所ですね。秘密の話をするのにもってこいだ」
 寺沢はそう言いながら、満足したかのようにソファに座った。竜太郎と宗太が一つのソファに座り、その対面のソファに米田と寺沢が座っていた。
「それで、今日は何の話ですか。昨日の件は、終わりましたよね」
 竜太郎は真面目な表情で、米田と寺沢に向かって問う。
「話があるのは、俺じゃなくて。米田先生ですよ」
 寺沢はそう言って、にこりと笑う。
「ええ。この場にいる全員は知っている問題で、彼にはそれを解決するために協力してもらおうと思って来てもらったの」
「問題って。何の」
 尋ねると、米田は真っすぐに竜太郎のほうをみた。
「あなたの、失くした記憶の問題よ」
 米田の言葉に、竜太郎は目を丸くした。彼女の口からその話を聞くのは、もうここ何年もなかったせいか、驚いた。そして気になるのは、この場にいる全員と言ったこと。
「寺沢さんに、話したんですね」
 確認すると、米田は黙って頷いた。
 どうしてそんな勝手なことを。と、怒る間もなく寺沢が口を開いた。
「俺の能力が、他人に幻覚をみせることが出来るのは知っていますよね。そしてその幻覚は、能力の対象者が、みたことのある人物や物しか出てこない」
 竜太郎は目を丸くする。しかし、予想できたことだ。
「つまり、僕の記憶を元に幻覚がつくられていたわけですか」
 冷静に言うと、寺沢が頷いた。
「そういうことです。なので、それを伝えに来ました。米田先生から君の事情を聞いたので。君が何の幻覚をみたのかは知らないですが、君がそう思うならそうです」
 寺沢の言葉に続けるようにして、米田が言う。
「竜太郎。あなたは一体どんな幻覚をみて、どこまで思い出しているの。私はあなたの記憶を戻すきっかけをつくりたいの」
 竜太郎は返答に困ったが、彼女の気持ちを無下にすることも出来なかった。
 米田は五年前。竜太郎に手を差し伸べてくれた人間の一人だ。それからずっと竜太郎のことを見守ってくれた人だからこそ、恩を感じている。彼女の気持ちは嬉しい。けれどそれを、記憶の事を口にすることが、竜太郎には難しいことだった。

   *

 プレハブ小屋の空気は、張り詰めていた。
 竜太郎は、落ち着くために一度深呼吸をする。隣に座っている宗太をみると、不機嫌そうにその綺麗な顔を歪めていた。
「ちょっと、勝手なんじゃないですか」
 長考していると、唐突に宗太が言った。黙ってみていることが出来なかったらしい。
「勝手?」
 気に障ったのか、米田が眉をひそめる。
「だってそうじゃないですか。竜太郎が記憶をとり戻したいって思っているとは限りませんよ」
 宗太の言葉に、竜太郎は自分の頭の中を見透かされた気がした。確かに彼の言うとおりだった。自分の記憶については、戻っても戻らなくても、どちらでもいいと思っていたからだ。
「むしろ、とり戻したくないと思っている可能性もある。って、俺も米田先生に助言しましたけれどね」
 宗太と寺沢の言い分に、米田は急に不安になったのか顔をしかめながら竜太郎のほうをみる。竜太郎は黙ったまま、彼女のことをみつめた。
「そうなの。竜太郎」
 米田が尋ねてくる。
「一言でこの感情を表してしまえば怖い、です。僕がみた幻覚は、とても幸せそうな家族の記憶でしたが、どこか他人事のようにも感じています。それは幻覚だからでしょうか。寺沢さん。改ざんされた記憶だから?」
 竜太郎は米田から目を逸らし、寺沢のほうをみる。疑問はたくさんあった。だがそのどれもが雲のようにつかみどころがなかった。これは本当に自分の記憶なのか定かではなかったのだ。
「あくまでも、記憶を元につくられている幻覚。夢。その人の願望が脳裏に映像として現れている。という説明をすれば、理解できますか。だから君の言う改ざんされた記憶というのも、あながち間違っていないんです。それが幸せな記憶であればあるほど、現実は幸せではないかもしれない」
 残酷な話だと思った。だがそれと同時に寺沢の説明に納得してしまっていた。
 竜太郎は、米田から聞いた話を思い出してみる。幻覚をみた生徒たちのおかしな行動。ぼーっとしたり、突然叫びだしたり。自分が一番欲しかったものや、幸せだった頃の記憶をみて、現実に戻って絶望する。それはそんな行動をとりたくもなってしまうのも当たり前なのかもしれないと思う。
「なるほど。だから我に返った時、みんなおかしな行動を取っていたんですね。副作用みたいな感じで。もう味わえないはずの幸せな記憶だったから」
「まあ。だから人によって副作用が出る出ないがあるんでしょう。元々記憶のなかった君が、出なかったように」
 思い返してみれば、竜太郎は幻覚をみたはずなのに、ちっともおかしくなどならなかった。竜太郎には元々覚えている記憶がなかったから当たり前の話だったのかもしれない。
「米田さん。僕は、記憶を思い出さなくてはいけないんですか」
 竜太郎は米田に尋ねる。真っすぐに彼女の目をみながら。
「少なくとも私は、そう思っているわ。あなたがこの学園に来てから。この五年間ずっと」
 米田は何かを決意したかのような眼差しで、竜太郎の事をみていた。
「あなたは何かを知っていて、そう思っているんですよね」
 竜太郎は米田にそう尋ねた。
 ずっと疑問だった。米田がここまで竜太郎の記憶にこだわる理由。きっとそこには、何かがあるのだろう。
「それは――」
「良いんです。わかっていますから。あなたにも守秘義務があること。僕に言えない、僕の記憶の事。だから、僕が自ら思い出すまで何もできない。そうですよね」
 米田が何かを言おうとしたのはわかっていたが、竜太郎はそれを遮った。
 この五年間。ずっと傍で見守ってくれていた彼女。米田が辛い立場だということは、十分理解しているつもりだ。その点で言うと、理事長のほうがもっと辛いとは思う。
 すべては、竜太郎が記憶を失ってしまったせい。その理由さえ、竜太郎は知らない。
「そうね。正直に話すわ。さっきも言ったとおり、私はあなたの記憶が戻るきっかけをつくりたかった。だから寺沢くんの能力は都合がよかったのよね。あなたたちに依頼すれば、寺沢くんの能力と接点がつくれる。生徒たちにこれ以上広まらないようにっていうのも本心だったけれど、本当の目的はこっちだったの」
 記憶の件を聞いてから、そうじゃないかとは思っていた。疑問が一つ解消された。竜太郎は米田に向かって尋ねる。
「寺沢さんの存在を、最初から知っていましたか」
「知っていたけれど、確証はなかった。能力者のリストをみて寺沢くんの能力のことは知っていた。けれど、幻覚を売っているのが、彼だという決定的な証拠はなかったの。だからあなたたちに依頼した。犯人をみつけてほしいと」
「随分、回りくどいですね」
 米田の回答に、竜太郎の腹は立たなかった。ただ他にやり方はなかったのかと思った。
「そうするしかなかったのよ。竜太郎。あなたのみた幻覚に出てきた家族は、どんな人達だった?」
 米田の質問に、嘘を吐く必要はない。竜太郎は出来るだけ詳細に答える。
「大人の男性と女性。それから小さな女の子がいました。僕はその人達が誰だか、すぐにわかりました。僕の両親と妹です。僕たちは一緒に海にいました。とても楽しそうでした」
 語り終えると、米田は優しい表情で、竜太郎に質問を投げかけてきた。
「もし家族に会えるとしたら。どうする?」
「それが可能ならば彼らに会って、忘れてしまったことを謝りたいです」
「その答えが聞けただけで十分よ」
 そう言って米田がソファから立ち上がる。竜太郎は思わずその動きを目で追う。
「あなたの妹に、会わせてあげる」
 その場にいた誰もが、予想できない一言だったと思う。

   3

 小池燐音は普段からあまり一人で行動することがない。何かをするときは決まって斉藤寧々と一緒であった。ただその日はなんだか胸騒ぎがして、昼御飯の後、用事があると告げ寧々と別れて、ひとりプレハブ小屋へ向かった。
 小屋の中には来客用の立派なソファが置いてある。けれどその人物は、窓際の床の上で膝を二つに折って座っていた。
 何かがあったのは、尋ねなくてもわかった。心が悲鳴を上げていたから。燐音は、能力で彼の心がわかってしまう。
 燐音が部屋に入ると、川崎竜太郎が驚いた表情でこちらをみた。
 川崎の目の前まで行くと、「座っていい?」と彼に尋ねる。彼は無言で頷いた。燐音は川崎から数歩離れた場所に、彼と同じように両手で膝を抱えて座る。スカートではなかったので、裾を抑える必要はなかった。
 いつかと同じように、燐音と川崎は対面で座っていた。けれどそのことを覚えているのは、自分だけなのだろうなと燐音は思う。なんだか緊張して、燐音は川崎の顔から視線をはずす。
「そこに座るんだ」
 川崎が戸惑ったように言う。
「うん」と燐音は頷いた。じっと自分の膝小僧をみつめた。
 川崎がこの状況に既視感を覚えてくれていたらと、願わずにはいられなかった。
「小池。ここの生活にはもう慣れた?」
 川崎が、唐突に質問を投げかけてきた。
「うん。二か月近く経つし」
 燐音は頷きながら言った。
「そうか。僕はここに来て五年経つんだ。時々ここの外の世界がどんなふうなのか、気になって、後から来た人に色々聞きたくなるんだ」
「え?」
 それはまるで、ここの世界しか知らないみたいな言い方だった。燐音は思わず川崎の顔をみる。彼から、嘘は感じられなかった。
「僕には、学園に来る前の記憶がないんだ」
 燐音の疑問に答えるように、川崎が衝撃の事実を告白する。
「さっき五年前からここにいるって言っていたけれど、それ以前の記憶ってこと? そんな」
 そんなの、あんまりだ。そんな言葉を呑み込んだ。口には出せずに、俯く。泣いてしまいそうになって、燐音は膝に顔をうずめる。自分が今どんな顔をしているのか、川崎にみられたくなかった。彼がどんな顔をしているのかも、みたくなかった。
 声が震えてしまっていなかったか、心配になった。彼に悟られてはいけないと思った。負担をかけてしまうから。
「別にそれが辛いとか、苦しいとか思ったことはないけれど。だからこそ誰かの過去を大事にしたいって思ったんだ。過去視の能力は、そういう気持ちから生まれたものだから。でも僕は今、自分の過去を知ることが怖いって思っている」
 川崎の吐露に、燐音は今にも壊れそうな桟橋の真ん中に立っている気分になった。少しでも足を踏み出せば、川崎も一緒に落ちてしまいそうだ。
「こんな話してごめん。記憶がなくてごめん」
 川崎は優しい口調で燐音にそう告げると、それ以上は何も言わなかった。気づいているのかいないのか。本当は何度も自分の事を覚えていないか聞きたいと思っていた。でもそれは出来なかった。する勇気が持てなかった。六年前の思い出を、覚えていないとはっきりと言われてしまったら、自分の中で積み上げていた大切なものが崩れてしまいそうだったから。
「謝る、必要はないと思う」
 燐音の口から、震えた声が出た。隠すことが出来なかった。
「それでも。君には謝らなくてはいけない気がしたから」
 哀しいとか淋しいとか色々な感情がぐちゃぐちゃになって、燐音の瞳から溢れていった。涙が重力に逆らえずに、ジーンズの上に一粒一粒落ちていく。
「教えてくれて、ありがとう」
 燐音は精一杯の勇気を出して、顔を隠したまま一言だけ小さな声で呟いた。
 これ以上は何も望んではいけないような気がした。燐音の過去の記憶を、川崎の能力で視ることは可能だろうけれど、それを提案するのは気が引けた。自分の過去を知ることが怖いと嘆く川崎には、何も言えなかったのだ。

   *

 それから川崎は、燐音に昨日視た幻覚の話をしてくれた。記憶の一部がそれに反映されていることも教えてくれた。それによると川崎には妹がいるらしい。彼女の名前は、川崎琴乃。彼女が六歳の時から、学園の中心部にある本部の地下室で眠っていることを、川崎は今日、米田恵理子から聞かされたという。
「詳しくは教えてくれなかったけれど、川崎琴乃に会わせてくれると米田先生は約束してくれた。けれど気持ちの整理がつかなくて、僕は時間が欲しいと答えた。それからずっとここにいる。ひとりで考えたかったんだ」
 燐音は川崎の話を聞いている間に、涙を拭いて頭を上げていた。彼の視線は少しだけ下を向いていて、目があうことはなかった。
 もしかしたら自分は、ここへ来てはいけなかったのかもしれないと燐音は思った。立ち上がろうとしたけれど川崎が続けて、「けれどダメだね。ひとりでいると悪い方向にしか考えられない。君が来てくれてよかった」と言ってくれたのでやめた。
 燐音が学園に来てからこうして川崎と二人きりになることはほとんどなかった。意図的に避けていたのもあるが、川崎が一人でいるところもあまりみることがない。大抵は、米田先生や本間宗太と一緒にいることが多かったためだ。
 けれど今だけは、他の人に来ないでほしいと願う。「来てくれてよかった」と言ってくれるこの人との時間を大切にしたいと、燐音は思ってしまったから。
 
   4

 一週間はあっという間に過ぎていった。
 竜太郎は米田にまだ返事をしていない。彼女の方も忙しいのか、顔をあわせても何も言ってこなかった。
 ところがその日。竜太郎に一通の手紙が届いた。差出人は、米田恵理子。手紙を渡してくれたのは、足立清二だった。何故彼がと疑問に思ったが、答えは手紙の中にあった。
 部屋で本間宗太と一緒に読んでほしいと白い封筒の表に書いてあったので、竜太郎はその日の夜に寮の自室で宗太と二人で封を開けた。綴じてあったシールは、ピンク色の宝石の形をしていた。
 簡単に言えば手紙の内容は、川崎琴乃についての詳細だった。
 琴乃の能力は、空想でひとつの世界を創ることが出来る。その世界は彼女の願望で創られた永遠の世界で、それを維持するため理事長が別の能力者を使って琴乃の時間を止めたこと。
 米田が琴乃の待遇を良く思っていないため、竜太郎の記憶が少しでも戻る兆候がみられたら、彼女は理事長に逆らうと決めていたらしい。そのひとつが、竜太郎と寺沢を会わせることだった。
 寺沢の能力は対象者の記憶を元に幻覚を作るため、それがきっかけになり竜太郎の記憶の一部を戻したかった。荒療治だったかもしれないと反省の文字も書かれていた。
 計画がある。と手紙の中の米田がいう。
 そのための協力者として足立。そして事情を知っている宗太の二人の名前があがっていた。
 手紙の最後は、『次の日曜日。午前十時に学園本部に集合してほしい』という文章でしめられていた。
「竜太郎。考えていた答えは出たか」
 隣で一緒に手紙を読んでいた宗太に、そう問われる。
 竜太郎は答えた。 
「米田先生の言うとおりその子が辛いめにあっているのだとしたら、僕は助けたいって思うんだ。それは僕が兄って立場にいるからではなく、生徒たちを助ける洸生会のメンバーだからだ。理由はそれでもいいだろう」
 宗太が頷く。
「ああ。いいと思う」
 答えなど最初から考えるまでもなかったのだと竜太郎は思う。色々な事実を突きつけられて混乱していただけなのだ。洸生会として動けばいい。悩む必要などなかった。
「けれど一つだけ我儘を言うならば。もうひとりだけ協力者を増やしたい」
 竜太郎には考えていることがあった。宗太には伝えても良いと思うことだ。
「俺は別に構わないが、誰だ」
 宗太に向かってその名を告げる。
「小池燐音」
 意外だったのか、宗太が目を丸くしていた。
「彼女が必要なんだ」
 竜太郎は真剣な表情で言った。
「理由を聞いても良いか」
 宗太の質問に、嘘を吐く必要はない。だから竜太郎は正直に答える。
「彼女に僕の記憶の話をしたんだ。だからまったくの無関係というわけではない」
 宗太は竜太郎の言葉を予想していたかのように、表情を変えなかった。
「それで何で必要と言い切るんだ。確かに彼女の能力は便利だ。けれど、わかっているのか。理事長の意向に逆らうんだ。ただで済むとは思えない。それに彼女を巻き込むことになるんだぞ」
 核心をつくように、宗太が言った。それが彼の優しさなのだと、竜太郎は知っている。
「それでも」と竜太郎は言う。
「よく考えての事なのか」
「それに彼女は、きっと断らない」
 宗太の言葉に、竜太郎は頷きながら断言した。

   5

 協力してほしいことがあるんだ。と川崎竜太郎が言った。
 理由は聞かなくてもわかっていた。川崎琴乃を助けるために手を貸してほしいと彼は思っている。小池燐音は自分にできることがあるならば喜んで協力すると、迷わずに答えた。
 一緒にいた本間宗太には、理事長に逆らうことになることを理解しているのかと問われたが、燐音はわかっていると返答した。
 それでも。琴乃を閉じ込めているという事実が、燐音にはどうしても間違っていると感じる。だから協力させてほしいと伝えると、本間は納得した様子だった。
 そうして日曜日。川崎と本間と合流した燐音は、学園本部へと向かっていた。そこで米田恵理子と合流する予定らしい。
 本部は学園の中心部にある建物で、生徒たちは滅多に出入りすることはない。緊張した面持ちで三人は正面玄関の前に立っていた。
 しばらくすると自動ドアが開き、奥から米田が姿をあらわして言った。
「来たわね」
 川崎は「お待たせしました」と軽く頭を下げながら言った。
「安心して。警備員はいるけれど、私が何とか出来るから。琴乃ちゃんを助けてあげて」
 声を押さえながらそう言って、米田は微笑む。燐音はその姿に違和感を覚えたが、彼女は何か別の事を考えているとかそういったことは心をよんでもわからなかった。ただ伝わってきたのは不安と哀しみだけだった。
 本部の玄関口には警備員が一人立っていて、米田は彼に何やら告げていた。「特別指導」という単語が耳に入ってきて、燐音は少しだけ胸をざわつかせた。米田の嘘を、警備員は信じるのだろうか。緊張感が漂っているような気がした。
 不安に思い、川崎をみると、彼も表情を強張らせていた。
 警備員との話が終わると、米田はそのまま歩き始める。
「こっちよ。ついてきて」
 言われるままに、三人は米田の後ろをついて歩いた。
 エレベーターに乗り、地下へ向かう。
「竜太郎くんと琴乃ちゃんは五年前、この学園へ来たの」
 米田がエレベーターの番号を押しながら、過去の事を話し始めた。
「そのとき私もまだここに来て間もなかった。慣れない仕事に四苦八苦していたわ。そのときに二人に出会った。竜太郎くんが十二歳。琴乃ちゃんが六歳のころだった」
 エレベーターは静かな音を立てて下がっていく。
 燐音と川崎と本間は、米田の話を真剣な表情で聞いていた。
「その時竜太郎くんは既に記憶を失っていて、琴乃ちゃんより先にこの学園へ来たの」
 しばらくすると、エレベーターは高い音を鳴らして地下一階で停まった。
 米田は一度そこで話を切ると、再び歩く。彼女が向かった先に大きな扉があった。そこには玄関に立っていた人とは別の警備員が、二人立っていた。米田は二人に挨拶をして、「許可はとってあるわ」と告げた。米田の再びの嘘に、警備員たちは不審に思うこともなく米田に一礼をして、それから扉の鍵をカードキーで開けた。

   *

 中に入ると、そこは大きな部屋だった。くまのぬいぐるみや積み木。子ども用のおもちゃが部屋の端のショーケースの中に入れられていた。中央にはベッドがある。そこに女の子が寝そべっていて、それを見守るように椅子に座っている男の人がいた。男はこちらに気づくそぶりもみせなかった。おそらく能力で琴乃の時間を止めている人物こそが、その男だったのだろう。
「琴乃ちゃんの時間は六歳のまま、こうして止められているの」
 米田が説明する。
 五年間。彼女はここでこうして眠ったまま、どんな夢をみているのだろうか。
 燐音はそれを想像して気持ち悪さを感じていた。それとほぼ同時だったと思う。
 川崎が突然走りだし、琴乃をみつめたままの男に掴みかかった。止める間もなかった。米田さえ予想もしていなかった出来事だったらしい。
「竜太郎くんっ」と米田が慌てたように叫んだ。
 川崎は一瞬我に返ったのか、自分の行動に当惑した表情をみせ、男を突き飛ばした。彼は、椅子ごと床に倒れた。
「うっ」
 うめき声をあげる男は、やっとこちらに気づいたのか起き上がりながら驚いた顔をした。
「君たちは、一体……」
 その場にいた全員が、川崎の行動に動揺していた。
「目が覚めましたか」
 川崎が剣呑な目つきで男をみおろしていた。
 燐音はとっさに、能力を使って川崎の心をよんでしまった。彼の心の揺らぎが、いつもより大きく、混乱しているように思えたからだ。
 そうして燐音は川崎が、記憶を取り戻したことを知った。彼は琴乃をみた瞬間に自らの記憶をすべて思い出した。そして男に対して記憶が戻ったことによる感情の混乱をぶつけてしまったのだ。
 それは当然の事だったように思う。仕方のないことだったと。理由を知れば、誰も彼の事を責められないと燐音は思う。
「交代の時間……。でもなさそうだな。米田さん。事情を説明してくれないか」
 男は倒れた椅子をそのままに、立ち上がるでもなくそのままその場にあぐらをかいて座った。面倒だったのか、それとも立ち上がる気力さえないほどに能力を使って疲弊していたのか。男は米田のほうを真っすぐにみた。
「すみません。黒川さん。こんな起こし方をするつもりではなかったのですが」
 米田が額に眉を寄せながら言う。
 燐音は口元を両手で押さえながら隣をみると、本間が嫌なものでもみるように、苦い顔をして川崎に視線を向けていた。
 川崎が黒川という男から目を離し、ベッドであおむけになって眠っている琴乃の近くへ寄って彼女に声をかけた。
「琴乃。起きろ。お兄ちゃんだぞ。迎えに来たんだ。一緒にここから出よう」
 それはまるで、本物の兄のような振舞いだった。
 川崎の手が琴乃の肩に触れようとしたときだった。
 黒川が立ち上がり、川崎の腕を掴んだ。
「あなたがこの子のお兄さんだというなら、やめてあげてください」
「え?」
 黒川の言葉に、川崎が顔をしかめた。
「この子は、幸せな夢を見続けています。ここでこうしていることが、この子の幸せなんです」
 それが当たり前かのように、黒川は言う。
「何を、言っているのですか」
 川崎の声が震えていた。
 黒川の言葉の意味は、燐音にも理解できなかった。
「みてください。この子が大事に抱えているもの。六歳の子どもが、なにも理解していなかったとでもお思いですか。この子は、この宝箱の中に幸せな世界を創造したんです」
 黒川の声は優しく部屋に響いた。
 みんなの視線が、琴乃のほうへと向けられていた。彼女はその小さな両腕で大事そうに、小箱を抱えていた。それが琴乃の小さな幸せの世界のようだった。
「黒川さん。琴乃ちゃんをこのままにしていて良いと本気で思っているんですか」
 米田が黒川に向かって尋ねる。
 黒川は一瞬迷うような表情をみせたが、琴乃をみつめる目は、自分は間違っていないとでも言いたげだった。
「少しだけ時間が進んでしまいました。彼女の体に負担がかかってしまいます。私が力を行使しないと、彼女は弱っていく一方なのです。彼女はこうしている間にも自らの意思で能力を使い続けています」
 黒川の説明に、米田が首を横に振りながら言う。
「なら、なおさらこのままにしておくのは」
「本当にそう思いますか。米田さん。あなたは知っていますよね」
 黒川が米田のほうをみずに、そう言った。彼の能力はみつめている間だけ、対象の時間を止める能力なのかもしれない。と燐音は思った。
 米田は黒川に返す言葉がないのか、そのまま黙り込んでしまっていた。
「それでも、琴乃を解放してほしいです。彼女のためにも。こんなことは間違っています」
 川崎が顔をしかめながら言った。
「もしも罪悪感からそう言っているのなら。あなたはこの子に会うべきじゃない。その理由は、あなたが一番よくわかっているはずです」
 川崎が肩を落とした。琴乃を助けに来たはずなのに、何もできないと、このまま助けられないのかもしれないと思っている様子だった。
「わかっている」
 川崎は悔しそうに唇を噛んだ。彼は何を思い出したのか。燐音にはそこまで知ることはできなかった。
 黒川がゆっくりと川崎の手を離した。
「理解していただけましたか」
 黒川は息を吐いた。
 燐音は、自分が今できることは何なのかを考えていた。何のためについてきて、ここまで来たのかを考えていた。協力するとは言ったものの、具体的に何をすればいいのかわかっていなかった。だから今のこの状況を鑑みて、頭を回転させた。
 そして気づいた。燐音には、燐音にしかできないことがあった。
 そこに思い当たった時、燐音は勇気を出さなくてはならなかった。
「待ってください」
 燐音にしては大きな声だった。僅かに声が裏返ってしまったので恥ずかしかった。
「小池?」
 本間が首をかしげて、こちらをみていた。
「川崎くんが、私をここに連れてきた理由がやっとわかりました」
 燐音は真っすぐに川崎をみつめて言った。
「琴乃ちゃんの心を、知りたかったんですよね」
 川崎の方も、琴乃ではなく燐音のほうをじっとみつめていた。
 そうだ。と肯定するかのような沈黙の後、川崎が口を開いた。
「琴乃と会話ができれば。小さな声でも聴きとることができれば、斉藤でもよかったんだ。けれど小池の能力があれば今の状態でも琴乃の気持ちを知ることができる。だから君が必要だったんだ。どうしても」
 燐音は、自分が必要とされた理由がはっきりとわかって安堵した。
「小池。琴乃はなんと言っているんだ」
「それは――」
 燐音が川崎に答えようとした時だった。
「やめて」
 突然、米田が拒むように言った。
 黒川以外全員の視線が、彼女に向けられた。
「やめて、それ以上は言わないで。知らないで。知らなくてもいいことよ。小池さん。あなたも言いたくないでしょう。ねぇ。そうでしょう」
 米田の声が震えていた。
「米田さん」
 黒川が琴乃から視線を外さずに彼女の名を呼んだ。その顔はとても苦しそうだった。
 彼は何かを知っているのかもしれなかった。 
「知らないほうが幸せなこともあるのよ」
 諭すかのように米田は言うが、燐音は首を横に振った。それは否定だった。燐音は米田の言葉を否定した。
 米田は矛盾していた。彼女は川崎の記憶を取り戻そうと奔走していたはずなのに、いざこの時が来たのにも関わらず、それを邪魔しようとしている。
 ――なぜ?
 隠そうとしている真実があるのだろうか。川崎の記憶を戻し、琴乃を助けたい気持ちと、琴乃の心を知ることは別物なのだろうか。黒川の言葉も気になる。だとしてもただ一つ分かることは、それは間違っていること。
「違います。米田さん。貴女のそれは、ただの過保護です。五年もここにいて。川崎くんが、何も成長していないなんて。まさかそんなこと、思っていませんよね」
 米田が守ろうとしているものが何なのかは知らないが。知らないほうが幸せだとは限らない。昔のことは知らないが、川崎が五年間ここで頑張ってきた意味がきっとあるはずだ。
 米田の瞳は揺らいでいた。肩が震えている。
「思っていないわ。あなたならわかるでしょう。けれど、知ってしまったらきっとショックを受けるわ。傷ついてしまうわ」
 米田の姿は、母親を想起させた。いや、きっとそうなのだろう。五年という間に、川崎と親子のような関係を築いていたのかもしれない。思えば彼の名前を呼ぶとき、ひと際優しい声色だった。 
「米田さん。貴女が思っているよりずっと。川崎くんは強いんですよ」
 そう言って、燐音は微かに笑った。
 この数か月間。燐音が知る限り。川崎竜太郎は思ったよりずっと頼りになるし強い。燐音はそう思っていた。
 だから協力してほしいと言われたとき、驚いたと同時に、それだけ自分が信頼されていることに嬉しさを感じた。それが彼に手を貸そうと思った理由だった。
 燐音は琴乃のそばに立った。彼女の心の声に集中する。本当はずっと聴こえていた彼女の心の声に、耳を傾けた。
 それから話し始めた。琴乃が心の内に秘めていたその想いを。自分はこのために来たのだと思う。

   6

 さいきん、おにいちゃんが学校のはなしをしてくれなくなった。
 琴乃がおねがいしても、おにいちゃんははなしたくないっていうの。
 おにいちゃんは学校がきらいになっちゃったのかな。
 琴乃はかなしい。おにいちゃんから学校のはなしがきけなくなったら、とってもさみしいから。

 今日はなぜか、おにいちゃんがずっとへやにいる。
 いつも学校へ行っているじかんにおにいちゃんがへやにいるなんて、へんなかんじ。
 かぜをひいたのかなっていったら、おにいちゃんはちょうしがわるいんだっていってた。早くなおるといいな。

 つぎの日も、またつぎの日も、おにいちゃんはへやにいる。
 まだちょうしがわるいのかな。なにかのびょうき?
 おかあさんにきこうとおもったら、おかあさんがこわいかおをしておにいちゃんをみていたから、琴乃はなにもきけなくなっちゃった。
 おにいちゃんもしかして、ずる休みなのかな。
 
 よる。おとうさんとおかあさんがけんかしている。
 おにいちゃんのことでけんかしているみたいだった。
 どうしてこんなことになったのっておかあさんがないて、おとうさんはおかあさんのせいだっていってる。
 琴乃はかなしくなってないちゃった。
 おにいちゃんはそれをみて、へやにとじこもっちゃった。
 もうどうしようもなかった。
 かぞくが、ばらばらになっちゃう。
 
   *

 おにいちゃんが琴乃に、おにいちゃんのもっているひみつをおしえてくれた。
 おにいちゃんはさいきん、へんなものが見えるんだって。
 いえのそととか、いっぽも出ていないのにわかるんだって。
 見ようとおもえば学校も見えるんだって。
 おにいちゃんは、琴乃に学校でなにをやっているかおしえてくれるっていったの。
 おにいちゃん。学校に行くのはいやだけど、見るのはいいなんておかしいっていったら、おまえも行けばわかるっていわれた。
 それでけんかになっちゃった。
 おにいちゃん、もう琴乃をへやに入れてくれないの。
 琴乃はしかたないからおとうさんとおかあさんのへやでねるの。
 でも、おとうさんとおかあさんもけんかしているから、琴乃はおかあさんとおとうさんとべつのおふとんでねるの。
 いっしょにねたいなぁ。
 おにいちゃん。琴乃のこときらいになっちゃったのかな。
 ごめんなさい。あやまるから。
 琴乃、おにいちゃんにきらわれたくない。
 おにいちゃん。
 おにいちゃん。
 へやから出てきて。おねがい。なんでもするから。
 おにいちゃん――。

   *

 ゆらゆらゆらゆら。なんだろう。
 おへやの中で赤いひかりがゆれている。
 あれはにかいのおにいちゃんのへやかな。
 おかあさんとおにわであそんでいたらへんなひかりがみえて、それをいったらおかあさんがあわてておうちの中に入ってっちゃった。
 きょうはおとうさんがおやすみで、おへやでテレビをみてるの。
 おにいちゃんはきょうもへやにとじこもっている。
 琴乃。おかあさんにじっとしててねっていわれたから、青いいろの小さくてやわらかいボールをりょうてにもって立ってたの。
 おかあさんはおうちに入ったままずっと出てこないの。おかしいなっておもっていたら、だんだんへんなにおいがしてきたの。おかあさんが、たまにおりょうりをこがしたときのにおい。
 くろいけむりがね。もくもくしているの。へんだなっておもった。
 でもね。琴乃。こわくてうごけなかったの。
 そしたらとなりのおうちのおばさんがきてくれて、琴乃をだきしめてくれた。
 おばさんが「だいじょうぶ?」ってなんかいもきくの。
 琴乃は「だいじょうぶだよ」ってなんかいもこたえた。
 おばさんに「おうちに、まだだれかいる?」ってきかれたから、琴乃は「おとうさんとおかあさんと、それからおにいちゃんもいるよ」ってこたえた。
 そうしたら、おばさんのかおがもっているボールみたいに、青くなったの。
「すぐたすけがくるからね」っておばさんがいった。

 しょうぼう車ときゅうきゅう車と、それからけいさつの車がきた。 
 なんだかいっぱいしらないおとなの人が、しょうかかつどうっていうのをしていた。
 琴乃はおにわから外のどうろにでて、おばさんとふたりでそれをみてた。
 おうちのやねから火が出てたの。
 赤いひかりだと思ってたのが、火だったの。
 だれかが「かじ」だってさけんでた。
 琴乃。こわくてずっとふるえてた。となりのおばさんのうでにずっとしがみついてた。
 おばさんはずっと琴乃のそばにいてくれた。
 しょうぼうたいいんさんが、もえているおうちに入っていって、しばらくしたらだれかをかかえてもどってきたの。
 おとうさんかな。おかあさんかな。っておもって、琴乃は、はしったの。
 ちかくにいったらそれがだれだかわかった。
 
 ――おにいちゃんだった。
 
 おとうさんとおかあさんは、おにいちゃんのあとにたすけだされたの。
 おとうさんとおかあさんと、それからおにいちゃんは、ひどいやけどをおっていた。 
 琴乃はなみだがとまらなくなった。
 ぜんぶおにいちゃんのせいだ。
 きっとおにいちゃんが火をつけたんだ。
 だってさいしょにみた赤いひかりはおにいちゃんのへやだった。
 おにいちゃんなんか、だいっきらい。おにいちゃんのせいで、おとうさんとおかあさんもひどいけがをして、めをさまさなくなっちゃった。
 ぜんぶ。ぜんぶ。ぜんぶ。おにいちゃんのせいだ。
 おにいちゃんが琴乃のだいじなものぜんぶ、うばっていったんだ。 
 おうちにはもうなにものこっていなかった。
 ぜんぶもえちゃった。

   *

 おとうさんとおかあさんとおにいちゃんは、にゅういんしている。
 おとうさんとおかあさんがめをさまさないから、琴乃はしんせきのいえにいくことになった。しょくぶつじょうたいっていわれたけれど、琴乃はよくわからなかった。
 いつめざめるかわからないって、どういうこと?
 おにいちゃんはちゃんとめをさましたのに、どうしておとうさんとおかあさんはめをさまさないの。
 おにいちゃんがどうなるのかはしらない。
 できることなら琴乃は、もうおにいちゃんにはあいたくない。
 琴乃がいつまでもかなしいかおをしていたら、しんせきのおじさんがちいさな「はこ」をくれた。
 そこに、これからあたらしいたのしいおもい出を入れようっていわれた。
 琴乃は、それはいやだなっておもった。
 だから琴乃はたのしかったころのおもい出を、このはこに入れようっておもった。
 キラキラのおもい出。
 げん気だったころのおにいちゃんとおとうさんとおかあさん。このはこに入れてこんどこそたいせつにしようっておもった。
 なにかへんだなっておもったのは、すぐだった。
「はこ」のなかにみんながいた。
 琴乃はうれしくなっちゃっておじさんにいったの。
 そしたらおじさんが、おかしなものをみる目で琴乃をみたの。
「なにかおかしいかな?」ってきいたら、おじさんはあわてておかしくないよっていってくれた。
 でもね。つぎの日、つえをついたおじいさんが琴乃のところにきたの。
 琴乃、おじいさんのはなしがよくわからなくて。
 のうりょく? すごい? 琴乃。てんさいなの?
 おじいさんについていったら学校にいけるんだって。
 琴乃が学校にいきたいっていったら、おじさんがいいよっていってくれた。
 でもお金がかかるのかなって、しんぱいになった。
 おとうさんとおかあさんは、いつもお金とおにいちゃんのことでけんかしてたから。
 おじいさんは、しんぱいいらないよっていってくれた。ほじょきんっていうのがでるんだって。

 それから琴乃は、おじいさんについていって学校に入ったの。
 でもおもっていたものとは、なんだかちがうみたい。
 おじいさんは、しんぱいいらないよっていうの。
 でも琴乃、みちゃったの。
 おにいちゃんがいる。
 おにいちゃんはまだ琴乃に気づいていないけれど、おにいちゃんがいるの。
「琴乃は、おにいちゃんにあいたくない」
 そういっていやがっていたら、おじいさんにあることをいわれた。
 ねむるんだって。そうしたら琴乃がもっているあの「はこ」のせかいの中に琴乃も入れるんだって。ずっといられるんだって。
 だから琴乃はねむっているの。
 ずっと。しあわせなせかいでくらすの。

   7
 
 小池燐音が泣いていた。
 満杯の器に水を入れ続けているときみたいに、涙が瞳から溢れていく。頬を伝って涙の粒が床に落ちていった。最初こそ零れ落ちてくる涙を拭いながら、ずっと泣きながら話していたのだが、途中から面倒になったのかそれすらしなくなった。
 小池は目に涙をいっぱいためて、話していた。竜太郎はそんな彼女の顔をみていることが出来なくなり、視線を自分の足元に移した。灰色の固そうな床がそこにあるだけだった。
 小池の話す言葉ひとつひとつに、竜太郎は琴乃の想いを感じた。
「もういい」
 竜太郎は、震えた声で言った。
 全部。そう全てを思い出した。
 小池が急ぐように涙を服の袖で拭い、竜太郎のほうをみた。
「もういいんだ。もう、わかったから」
 諦めたように竜太郎は言った。しかし、小池が首を横に振る。
「待って。最後まで。きいてほしい」
 小池の言葉に、今度は竜太郎が首を横に振った。
 聞きたくないと思った。これ以上は、知りたくないと思った。琴乃の心の声を聴いて、この先を知ることをためらった。
 覚悟していたはずだった。どんな過去があっても、妹が自分の事をどんなふうに思っていたとしても、すべて受け入れるつもりだったはずなのに。
 琴乃が自分に会いたくない。そう思っているのなら、やはり会わないほうがいいのだろう。
「僕は琴乃を助けなければと思っていた。けれどそれは、間違いだったんだな」
 そう言って、竜太郎は目を伏せた。
 米田が竜太郎の両肩を後ろから両手で掴み、部屋から出るように促してくる。竜太郎の言葉を肯定するような行為だと思った。
 竜太郎は米田の気持ちもわかるような気がした。彼女の行為は常に竜太郎の事を思っての事だとも理解している。だから促されるまま、部屋を出ようと思った。
 黒川が倒れたままだった椅子を起こし、最初に座っていた場所と同じ位置に戻したのがみえた。そして彼は何も言わずにそこに座った。
「おい、待て」
 宗太の静止する声が聴こえた。竜太郎は立ち止まった。入ってきた扉の前に動線を塞ぐように、宗太がそこに立っていた。
「そこをどいてくれないかな。宗太くん」
 米田が言った。
「いやです。だってそれこそ間違いでしょう」
 宗太が怒ったようにそう言った。
「でも。それでも、あなたはそこをどかなくちゃいけない。竜太郎くんはこれ以上ここにいてはいけないわ」
「は? 竜太郎をここに連れてきたのは、先生だろう」
「私は竜太郎くんの記憶が戻って、琴乃ちゃんをここから連れ出せるのなら何でも良かったの。琴乃ちゃんの本心なんて知らないし、知りたくもなかったの。だから、あなたたちが小池さんを連れてきたとき、嫌な予感がしていたの」
「自分勝手ですね。先生」
「私もわかっているわ。けれど、こうするしかないの」
 愁いを帯びた表情で、米田が言った。
「竜太郎。お前が家に火をつけたのが真実でも。琴乃ちゃんがそれに気づいていたとしても。琴乃ちゃんに嫌われていたとしても。お前はそれを、受け入れなければいけないって、わかっているよな」
 とても強い口調だった。宗太は容赦なく竜太郎の胸に剣を突き立てるように言葉を投げつけてきた。
 竜太郎は手のひらで拳をつくって自分を奮い立たせる。そうして思い出した記憶の断片を繋ぎ合わせて言葉にする。
「ああ、そうだよ。僕が火をつけた。琴乃の思っているとおりだ。何も間違っていない。あの日、僕は父親とケンカをした。学校へ行けと頭ごなしに怒鳴られた。もう何もかもが嫌になった。僕はすべて燃えてなくなればいいのにと願った。願ってしまったんだ」
 その瞬間、世界が竜太郎の願いを叶えた。
「突然、指先に火がともった。最初は幻かと思った。けれど気が付いたら僕の周りは火に囲まれていた。どんどん燃え広がって家を焼き尽くしていった。恐ろしい光景だった。けれど僕は何もできなかった。その場に立ち竦むしかなかったんだ」
 燃え盛る炎の中。思い出したのは血相を変えて部屋に飛び込んできた父親の顔と、母親の顔。怒っているのか、哀しんでいるのかわからないそんな表情をしていた。
「それも、もしかして竜太郎の持っている能力のひとつだったのか」
 宗太が顔をしかめながら竜太郎に尋ねる。
 発火の能力は、この場にいる中では米田しか知らない事実だった。宗太にすら明かしていなかった。
 竜太郎は宗太の質問に、無言で頷いた。
「次に目が覚めたとき、僕は病院にいた。どうして病院にいるのか、自分が誰なのかもわからなかった。医者に一時的な記憶喪失だと言われた。火事で大したやけどもなく、奇跡的に命は助かったということだった。僕は過去を失った。だから過去を求めた。過去視が使えるようになったのはその時だ。皮肉なことに自分の過去は視えなかったけれど、他人の過去が視えるようになったんだ。だから僕はこの能力を、他人を助けるために使おうと思った。人には過去を大事にしてほしかったから。目の前に杖をついた知らないおじいさんが現れたのは、それから数日経った頃だった。理事長は、ことの経緯について教えてくれた。発火能力の事。それで家が火事になった事。家族についてはなにも教えてくれなかったけれど、記憶が混乱しないようにしてくれたのだとその時は思っていた。僕は過去視の能力について理事長に相談した。彼は理解を示してくれて、最初からそうするつもりだったのだろうけれど、うみほたる学園に入学することを提案してくれたんだ。それで理事長に、僕の才能を生かさないかと言われた。どうせ居場所なんてなかったから、僕は悩みもせず答えを出したんだ」
 竜太郎は自分の罪を懺悔するかのように、目を細めながら話した。
「そうしてそこから五年もの間。両親の事も妹の事も忘れてのうのうと生きてきた。僕は、最低だ。自分がしたことを全部忘れて、大事な家族のことも放置していた。僕が友人たちと笑って過ごしている間に、僕の家族はずっと苦しんでいたかも知れないのに。助ける? 勘違いも甚だしいよ。すべて僕のせいなのに」
「だからこそ、川崎君には最後まで聞いてほしい。琴乃ちゃんの話はまだ終わっていないから」
 小池が、竜太郎のことを真っすぐにみていた。
「怖いんだ」
 竜太郎は弱々しい声で言った。
「怖いんだよ。恐ろしいんだ。これ以上何があるのか。どんな恐ろしい言葉が出てくるのか。それを考えるだけで怖い。僕は弱い。だから学校へだって行きたくなかった。ある日突然、すべてが嫌になった。無理をして面白くないことに笑ったり、出来ないことを出来るふりをしたり。そうしたことに疲れたんだ。それは今だって同じだ。逃げ出したくてたまらない」
「だからって、逃げんなよ」
 宗太が呟くように言った。
「大事な場面で逃げんな。自分が壊れそうで、守りたくて逃げるのはいい。けれど、違うだろ。今は違うだろう。妹を助けることから逃げるな。洸生会としても、生徒を助けるって言ってただろう。自分で一度決めたことぐらい守れ。守り抜いてみせろ。妹がそんなに大事なら。最後まで聞いて、受け止めてやれよ。それができないっていうのなら、最初から守れない決意をするな」
 宗太が竜太郎を追い詰めるつもりでその言葉を発しているわけではないことぐらい、わかっている。竜太郎のためを思って言ってくれていることぐらい、理解していた。
 ふと気が付くと、小池が竜太郎のすぐ傍まで近づいていた。
 竜太郎は怯えた目で小池をみた。
「どうしても伝えてほしいことがあるって、琴乃ちゃんが」
「琴乃が?」
 小池の言葉に、竜太郎は目を見開いた。
 小池が黒川のほうをみる。
「少しだけ待っていただいても、いいですか」
 その目は真っすぐだった。黒川は少しだけ迷った様子だったが、「ああ」と答えた。
 米田も小池の様子をみて何かを感じたのか、大人しく竜太郎の肩から手を離した。
「琴乃ちゃん。ずっと川崎君のことをみていたの。眠りに入ってからとても幸せだったけれど、あるときふと外の世界と繋がった。怖かったけれど、みてみたの。そうしたら川崎君のことがみえた。この世界の中からなら外の世界をみることができた。だからみていたの。琴乃ちゃんは、五年間。ずっと川崎君のことをみていた」
 予想外のことだった。
 琴乃が創った世界と、外の。現実の世界が繋がっていたなど。そんな都合の良いことがあるのだろうか。いや、あるのかもしれない。それが彼女が望んだことだったならば、あるいは。
「それで?」
 竜太郎は小池の言葉に耳を傾けていた。ようやく向き合うことができそうな気がした。
「川崎君は五年間。記憶がないながらも、洸生会のリーダーとして頑張っていた。その姿をみて、琴乃ちゃんはいつの間にか川崎君を応援するようになっていたの。頑張れって応援しながら、ずっとみていたの。恨みとかそんなものいつの間にか忘れていた。川崎君が誰かを助けようと必死に努力しているところをみていたから、許そうと思えたって。琴乃ちゃんはもう、川崎君の事を恨んでいないの」
 小池の優しい声に、竜太郎の視界に映る彼女の姿が、どんどんぼやけていった。
 いつからか、竜太郎は泣くという行為が出来なくなっていた。それは病院で目覚めたあの日から今までずっとだ。だが今は違う。竜太郎は記憶を取り戻し、泣くことも取り戻していた。竜太郎の瞳から、涙が自然に流れていた。
 五年間の竜太郎の努力を、琴乃はみていてくれた。その事実がわかっただけで充分だった。竜太郎は報われのだ。
「琴乃は、僕を許してくれるのか」
「うん」と小池は頷いた。彼女も泣きそうだった。
「罪は充分に償えたよ。だから。ね。もういいんだよ。罪悪感から解放されても。いいんだよ」
「そうかぁ」
 安堵したような声が、竜太郎の口からもれた。
 それから竜太郎の涙が止まるまでの間。静かに時が流れていった。

   8

 それは怒りであり、呆れであり、落胆でもあった。
 小池燐音は部屋に近づいている誰かの心を感じ取り、自分たちが入ってきたこの部屋に一つしかない扉の方をみつめた。外には警備員の青年だけがいるはずだった。
「どうした?」
 本間が燐音の様子に気づいたのか、同じく扉に目を向ける。川崎も同じ方向をみて「理事長だ」と言いながら服の袖で涙をぬぐった。
 米田は身体を強張らせていた。黒川は椅子に座ったまま、みんなと同じように扉を凝視していた。
 燐音達が部屋に入って、何分が経過していたのだろうか。わからないが、理事長がここへ来るという事実だけがそこにあった。
 扉が開いて先に入ってきたのは、警備員だった。次いで杖をついた理事長がゆっくりと入ってきた。そしてその後ろには、困った顔をした足立の姿もあった。
 足立は協力者という話を川崎からきいていたので、おそらくは理事長を足止めしてくれていたのだろう。しかし、今ここにいるということは失敗した。ということだろう。
 誰も足立を責められない。一番難しい役回りをしていた彼を、むしろよくこの時間まで頑張ってくれたと褒めるべきだと燐音は思った。
「君たちは、一体何をしているのだね」
 嘆息を吐きながら、理事長は言った。低い重厚な声だった。
 燐音は息をのんだ。
 理事長からしたら、米田のしたことは裏切りだ。この部屋に燐音たちを招き入れたのだから。覚悟の上だったが、いざその時が来ると恐ろしく、燐音は身体の震えに気づかれないよう、右手で左腕を軽く抑えた。
「すみません。理事長」
 米田は気まずそうに理事長と目を合わさずに答えた。理事長の鋭い目が米田を突き刺す。
「状況は?」
「えっと。なんと申せばいいのやら」
「簡潔に。はっきりと」
 強い口調で理事長が言う。
「私が、竜太郎くんたちをここへ連れてきました。琴乃ちゃんに会わせたくて」 
「そうか」
 理事長は米田の言ったことに頷いて、それから川崎に視線を向けた。
「それで、話は済んだのか」
「話って」
 川崎が首をかしげる。
「琴乃と話したんだろう」
「話というか。琴乃が何を思っているのかは、知ることができました」
「なるほど」
 理事長は燐音のほうを一瞥する。すべてを理解したような表情だった。
 この場でそんなことが出来るのは、一人しかいない。
「竜太郎。真実を知った今、君はどうしたいんだ」
「それでも、僕が思うことは変わりません。川崎琴乃を兄としても助けたいし、洸生会としても救いたい。理事長には申し訳ありませんが、琴乃をここから連れ出したいと考えています」
 真剣な表情をして、川崎が言った。
 理事長は一服するかのように長い息を吐いた。そこに呆れも、怒りもなかった。ただ安心したという感情を燐音は感じ取る。
 ああ、やっとか。という心の声が聴こえた。
 理事長は優しい声色で言った。
「いいだろう。ここから出て行くがいい」
「え?」
 予想外だったのか、川崎が目を丸くする。
 随分とあっさりと言うので、戸惑っている様子だった。
「良いのですか」
「良いも何も。最初からそのつもりだった」
「は?」
 呆気にとられる川崎やその場にいた全員が、理事長の行動を目で追ったと思う。

   *

 理事長が動かない足を引きずるようにして、ゆっくりと杖を使って前進した。黒川はそれをみもせずに琴乃から視線を外さないまま椅子から立ち上がり、理事長に場所を譲った。理事長が椅子にゆっくりと座る。体の前に置いた杖は支えにして、持ち手に両手をかぶせるようにしていた。そうして目の前で眠っている川崎琴乃をみつめながら、静かに口を開き昔話を始めた。
「五年前だったか。家が火事になった記憶喪失の男の子がいるんだが、おかしなことを言っていると知り合いから連絡があった。おそらく能力が関係しているから来てくれんかと。きけば他人の過去が視えるのだと。ああこれは、当たりだと思った。竜太郎は学園へ連れて行くことに決めた。そのとき妹は何の能力もなかったから、たった二人残った兄妹を引き離すことになってしまったが。まぁしばらくして琴乃もおかしくなったと連絡があった。私は二人とも学園で面倒をみることにした」
 そこまで話して、理事長が深く息を吐く。彼は眠っている琴乃から目を離さない。
「琴乃の能力は特殊でな。最初は琴乃が作った小さな箱庭だったんだそうだ。それが突然、中の物が動き出した。琴乃は能力に目覚めていた。彼女はそれを小さな箱の中の世界と呼んでいた。私もまだみたことがないものであったから、どう対応して良いものかわからなかった。しかも彼女はまだ幼い。細い糸みたいな少女でな。ちょっとハサミを入れただけで切れてしまいそうだった。だから成長を見守ろうと思っておったが。琴乃が学園にいたくない。兄をみたくない。と言い出した。琴乃は気づいておったのだ。兄が自分の事すら忘れてしまっていることに。私は考えた。どうしたらまだ六歳のこの子を救えるのか。悩んだ末に琴乃の時間を止め、竜太郎の記憶が戻るのを待った。彼の記憶さえ戻れば、この子を受け止めることができるだろうと期待して」
「じゃあ琴乃の時間を止めたのは、琴乃のために?」
 川崎が目を丸くしながら、理事長に尋ねた。
 理事長は頷いた。
「ああ。それともう一つ理由がある。琴乃の能力は思ったより彼女自身に負荷をかけていたらしい。そのまま弱っていく彼女を、救う手立てがそれしかなかったのだよ」
 理事長はゆっくりと杖を支えに立ち上がり、片手で琴乃の手を取った。その瞬間、少女の手が微かに動いた。
 いつの間にか、黒川が琴乃から視線を外していた。能力を使うことを止めたらしい。
「起きておるのだろう」
 理事長の言葉に反応するかのように、琴乃の閉じた両の瞼の端から、涙が流れていった。
「どう、しよう」という声が部屋に響く。琴乃の口から発せらせた声だった。
「琴乃」
 優しい兄のような川崎の声が彼女に呼びかける。
「どうしよう。消えちゃう」
 それは縋るような声だった。琴乃が理事長に触れられている手とは反対の手で、小さな箱を小さな手で抱えていた。その中で何が起こっているのか、外からみている燐音たちには何もわからなかった。
 きっとその中には、琴乃が創った彼女だけの世界があるのだろう。
「琴乃、本物のお兄ちゃんの顔がみたいの。でも目を空けたら、琴乃の世界が消えちゃう」
「怖がることはない。それでいいんだ。消えても誰も怒りはしない」
 理事長が優しくそう言って、微笑んだ。
「本当に、お兄ちゃんもお父さんもお母さんも怒らない?」
 琴乃の質問に、川崎が答える。
「ああ。怒らないよ」
「みんな、琴乃と仲良くしてくれる?」
「勿論。みんな琴乃の事が大好きだからね」
「もうケンカなんてしない?」
「しないようにする。だから」
 目を開けてほしい。と川崎の心がそう言った。口に出さなくても琴乃には伝わったのか、彼女はゆっくりと目を開く。宝物でもみるかのように慎重に、でもしっかりとその瞳は川崎竜太郎の事をみていた。
「お兄ちゃん」
 琴乃は兄に呼びかけるとほほ笑んで、箱を抱えていた手を離す。その手を川崎に向かってゆっくりと伸ばした。
 川崎はその手を大切そうに両手で握った。
 お兄ちゃん、大好き。と琴乃の心が言った。
 誰にも知られなかったが、燐音にだけははっきりと伝わっていた。

   9

 時間の流れというのは残酷だ。
 竜太郎は琴乃と手を繋いでいた。五年ぶりに会った妹は、当時の幼い姿のままだった。
「黒川さん」
 竜太郎は琴乃を五年間見続け、彼女の時間を止めていた能力者に話しかけた。
 彼は静かにそこに立っていた。
「私は決して間違っていなかったと思います」
 黒川は呟くように言った。
 竜太郎は真っすぐに彼をみて頷く。
「はい。それはわかっています。一番つらい役割を押し付けてしまったこと。まずは謝らせてください。すみませんでした」
 謝罪と共に、竜太郎は黒川に向かって深々と頭を下げる。
「お兄ちゃん違うよ。おじちゃんは琴乃の我儘をきいてくれたいい人だから。ありがとうでいいの」
 隣にいた琴乃がそう言って、右手は竜太郎と繋いだまま、黒川の手を左手で握った。
 竜太郎と黒川はほとんど同時に目を丸くして、琴乃の行動に驚いた。
「ね」という琴乃に、竜太郎と黒川は顔を見合わせた。それから竜太郎は、黒川に向かって「妹の我儘に付き合ってくださって、ありがとうございました」と言ってもう一度頭を下げた。
「人生というものは、生きていれば何とかなると思います」
 黒川の言葉に、竜太郎はゆっくりと頭を上げて彼の顔をみた。
「だから私は、理事長のしたことが間違いだったとは思いません。その役目を私が担ったことも、偶然ではなかったと思います。あなたたち兄妹の今後に不安はあれど、助けになってくれる人たちがいることは忘れないでください」
 黒川の言葉に、竜太郎は部屋にいる一人一人の顔を改めてみる。
 洸生会という居場所をくれた理事長。不器用だけれど見守ってくれている足立。母親代わりになってくれていた米田。親友であり同士である宗太。友人であり恩人でもある小池。それから、この場にはいないが大切な友人の一人である斉藤のことも思い浮かべた。
「ありがとうございます」
 竜太郎は感謝してもしきれないと思った。
 記憶をなくしていた五年間。常に不安が付きまとっていた。このまま何も思い出さずに生きていくのだろうか。それでいいのだろうか。自分にいたはずの家族は、今何をして何を思っているのだろうか。そんなことばかり毎日思っていた。
 忘れられた側の気持ちを考えると、息苦しくて、まるで窓のない部屋に閉じ込められているようだった。
「竜太郎くん」
 米田が眉間にしわを寄せながら、声をかけてきた。
「色々とごめんなさい。私、自分勝手だったわね。でもどうにかしなきゃ。何かしなきゃって。焦っていたの」
「米田先生は悪くないですよ。僕たち兄妹のことを考えてくださったんです。理事長も、黒川さんも。だから僕たちは誰の事も責めたりしませんし、恨んだりしません」
 同意を得るかのように、竜太郎は琴乃に視線を向ける。琴乃は「うん」と元気よく答えた。
「今後の事だが」
 理事長が椅子に座ったまま、呟く。それから米田のほうをみて言った。
「米田くん。君が二人に親心を持っているのなら、一つ提案がある」
「何ですか」
 米田が目を丸くした。
「君の住んでいるところは、敷地内のアパートかね」
「そうです。うみうしのB棟です。」
「琴乃の時間は五年前で止まったまま、ようやく動き出したばかりだ。つまり琴乃はまだ六歳。どうだね米田くん。君が彼女を引き取っては」
「え?」
 予想外の提案に、米田が呆気にとられたように口を開けている。
「本来なら女子寮の方で暮らすのが良いんだが。六歳の女の子をいきなりぽんと放り込むわけにも行くまい。五年前ならいざ知らず。今の彼女には時間が必要だろう。心と体を箱庭の世界ではなく、現実世界になじませるためのな。事情を知っている君なら適任だと思うが。どうだろう」
「そういうことなら。私、琴乃ちゃんと一緒に暮らしても良いです。私の部屋なら、竜太郎くんも自由に出入りしても構いませんし」
「良いんですか」
 竜太郎は戸惑いを隠せずに尋ねる。
 米田が竜太郎のほうをみて頷く。それから琴乃のほうをみて恐るおそる尋ねた。
「琴乃ちゃんは、それでも良い?」
「うん。お姉さんは良い人だって、琴乃知ってる。本当はお兄ちゃんと一緒に暮らしたいけれど、ダメなんでしょう。それはわかるから。琴乃はお姉さんと一緒に暮らしたい」
 純粋な琴乃の目が、真っすぐに米田に向けられていた。
 米田は琴乃に向かって微笑んで、「ありがとう。これからよろしくね」と言った。
 それをみた黒川が黙って部屋を出て行く様子をみて、ああ。あの人も琴乃の今後を心配していたのだろうなと理解した。
 先ほど彼の言っていた言葉を心の中で反復する。助けになってくれる人たちの中に、きっと彼自身も含まれていたのだ。
 本当にありがとうと、竜太郎は思った。

(終章へ続)

連載小説「あの箱庭へ捧ぐ」第四章

第四章 幻を覚える

   1

 米田恵理子の担当する教室は、真面目な生徒が多い。これは恵理子の自慢だった。それが一瞬にして崩れ去ってしまう日が来るとは、恵理子を含め同僚の先生たちも思っていなかっただろう。
 八月の後半に差し掛かったころだった。うみほたる学園には夏休みという概念はない。生徒たちは卒業まで実家へ帰省してはならない規則がある。一般的に言う夏休み中も、補習授業があったり、敷地内にある農園の作業の手伝いなど、イベントも多いため学園での生活は続く。そのため教師たちは、シフト制の休暇を取ることになっている。
 恵理子も普段の休暇では、学園の敷地内にあるアパートでのんびりと本でも読んで過ごすか、学園外へ遊びに行くついでに実家へと帰省する。
 今年の夏休みも普段と変わらず、帰省して久しぶりに親と会うつもりでいた。しかし、予定を変えなければいけない事件が起こってしまったのだ。

   *

 その日、恵理子は洸生会という生徒のために創られた組織の拠点を訪れていた。洸生会を知っている者はこの学園内でもごくわずかで、恵理子はその中のひとりだった。しかし依頼というものは一度もしたことがなく、今回が初めてだった。
「おかしな行動をする生徒がいる?」
 向かい側のソファに座っている少年が、首をかしげながら恵理子の言葉を反復した。
 部屋には恵理子と洸生会の代表である川崎竜太郎の二人だけがいた。他にもメンバーはいるはずだが、今日は不在らしい。
 恵理子は竜太郎がこの学園に来たばかりの頃から知っているし洸生会が創設されたときにも立ち会っていたので、この場にいることはとても気楽だったが、真面目な話をしているからか緊張感があった。
「ええ。具体的には、補習中にぼーっとしているかと思えば、急に立ち上がって奇声を発したりね。注意してもまったく聞かないの。仕方がないから保健室に行くように言ったけれど、結局行かなかったみたいで。その後は図書室で寝ているのを発見したの。まるで電池が切れたようだったわ」
「米田先生でも、てこずる生徒がいるんですね」
「これは深刻な問題なの。他の先生にも協力してもらって、別の学年クラスでも変わったことがないか調べたわ。そうしたら、私のクラスの他にもおかしくなった生徒が数人いることがわかったわ」
「一人二人ではないということですか。幸い、僕のクラスにはそんなことをする生徒は居ませんが。もっと調査するべきでしょうね。話は聞いてみたのですか」
「もちろん。それでわかった事なのだけれど。どうも、幻覚を視ていたらしいの」
「幻覚?」
 恵理子の言葉に、竜太郎が眉をひそめた。
「みんな、幻覚を買ったって言っていたのよ」
「買ったって。誰かが、売っているってことですか」
 竜太郎が目を丸くしている。
 当然、売る人がいれば買う人もいる。需要がなければ売られることはない。売るだけでその先に進まなかったのだとしたら、簡単な話だったのだが。
 恵理子は短く息を吐く。
「私も、そう思うわ。どこで、誰から買ったのと問いただしたけれど、誰も口を割らないのよね。全校生徒の名簿を調べてみたけれど、幻覚を作れそうな能力者の候補は数人いるわ。そこで、仕方なくあなたたちに依頼することにしたのよ。丁度いい人材がいるじゃない」
 恵理子はそう言って竜太郎に目配せする。
 今この場にはいないが、他人の心をよむ能力を持った少女が、洸生会に所属している。恵理子はそれを知っている。彼らなら解決できる事件だと思って。だから依頼しに来たのだ。
「ええ。こちらの手の内を知らなければ、可能でしょう。ただ、売人が名乗っていなければ、心をよんでも客は売り手の名前を知ることはできない。変装をして姿をごまかしている場合もありますし、直接会うのは至難の業でしょう」
 竜太郎の説明に、恵理子は困った顔をした。彼の推理は的を射ているだろう。恵理子もその可能性を考えていなかったわけではない。
「なら、どうすればいいと思う。自身の持つ能力が原因で、平凡な人におかしいと思われる行動をしているのなら、こんなに心配しなくてすむのだけれど。能力者が、能力を悪用して他人を巻き込んでいるとしたら、問題よ。何としても止めさせなければいけないわ」
 恵理子は、顔をしかめながら言った。
 能力者がらみの問題は、学園内部で解決するしか方法がない。だから恵理子は洸生会に頼らざるを得なかった。
 この学園には教師や警備員はいるが、警察の代わりになる大きな組織がない。場合によっては外の警察に頼ることになるだろうが、そもそもこれは犯罪に値するのだろうか。
 仮に犯罪だとしても、立件は難しいだろう。売人が能力で幻覚を作り出しているのならば、物的証拠を出すことが不可能に近いからだ。
 時期尚早かもしれないが、今のうちに対処する事が正しいと恵理子は考えている。この学園には身体は大人だけれど、思考が成熟していない者たちもたくさんいると恵理子は思っている。だからこそ、広がる前に止めたいのだ。
「米田先生の気持ちは、わかりました。こちらでも出来る限りの事はしてみます。犯人が特定できれば良いのですが」
 竜太郎の返答に、恵理子は満足して頷いた。
「ええ。お願いね。あなたたちにこんなことを頼むのは心苦しいけれど、私たちも自由に動けるわけではないから。犯人が特定出来たら連絡を頂戴。その後の事はこちらに任せて」
 恵理子は竜太郎にそう告げると、小屋を後にすることにした。
 もう一つの目的も、達成できると良いなと願いながら。

   2

「それで、あたしたちは何をすればいいわけ」
 斉藤寧々が竜太郎の目の前で、首をかしげて言った。
 洸生会のアジトであるプレハブ小屋には現在、竜太郎と斉藤。そして小池燐音の三人がいた。竜太郎の座っているソファの前にはテーブルが置いてあり、その向う側のソファに、斉藤と小池が横並びに座っている。
 依頼内容について、竜太郎の口から説明していたところだ。
「斉藤は、能力を使って怪しい会話をしている奴をみつけてほしい。そして小池にはそいつが嘘をついていないか、能力で確認してほしいんだ」
 作戦を説明しながら、竜太郎は二人をみる。
 小池は何も言わずに頷いたが、斉藤は額にしわを寄せた。
「なるほど。でも、そいつが声を発していなかったらみつけられないよ」
 斉藤の言葉に、竜太郎は頷く。
「それでも構わない。直接会って取引しているのかどうかが、わかるはずだ」
「そいつがこそこそやっているのなら、どちらにしろこの学園内だとリスクが高すぎる。色んな能力者がいるんだ。みつかる確率が高すぎる。そんなことも考えられない犯人なのか。そいつは一体何のために、そんなことをしているんだ」
 斉藤の疑問はもっともだった。ただの馬鹿であるのか、それとも他に目的があるのか竜太郎にもわからない。
「それを、確かめなければならない」
 竜太郎は眉をひそめた。
 正直なところ情報が少ない現状で、犯人を特定するのは至難の業だ。濁った水の中に手を入れて、すばしっこい魚を捕まえようとしているのと同じことだろう。
「わかったよ。じゃあしばらくの間、静かにしていてくれる。集中するから」
 斉藤は竜太郎の返事を聞く前に、両目を閉じて両耳を両手で覆うように触った。その行動から察するに、彼女は早速能力を使って犯人の捜索をしてくれているようだ。
 竜太郎は半端に開けた口を黙って閉じるほかなかった。斉藤の邪魔をしたくない。斉藤の隣に座っている小池は、大分前から唇のひとつも動かしていなかった。
 しばらくの間は三人の間に沈黙が流れるかとも思ったが、斉藤が何やらぶつぶつとひとり呟いていた。
「これは違う。これも。んー。どこだ」
 険しい顔をして、斉藤は頭を悩ませている様子だった。
 しかし彼女は、能力を上手いことコントロールしているようだ。竜太郎は思わず感心してしまっていた。
 斉藤の首元には、普段の余計な音を遮断する為のヘッドフォンがかかっている。これは彼女がここへ来る前から愛用されているものだ。当時は能力をコントロールしきれていなかった斉藤が、苦肉の策で着けていたものだ。ヘッドフォンからは極小音で音楽を流しているらしい。ヘッドフォンの機能、ノイズキャンセリングで音を最小限に押さえないと、大勢の人の声が聴こえるために頭がおかしくなりそうだと斉藤は言っていた。
 だが近頃は、ヘッドフォンをつける機会が減ったらしい。今はこの学園の数いる能力者の中では、彼女の能力をコントロールする力は高いと言えるのではないだろうか。
 竜太郎は、斉藤の力を信じて待つことにした。小池も不安そうな顔をひとつもせずに、両手で両耳を覆いながら目を閉じている斉藤をみつめていた。
 そして数分が経ち、斉藤は「あっ」という声と共に、両目をぱっと開けた。
「聴こえた」
 斉藤がはっきりとそう言って、竜太郎のほうに視線を向けてきた。
「どんな会話だった」
 竜太郎が尋ねると、斉藤は両耳から両手を離した。
「おそらく本人じゃない。ただの噂話。でも、かなり有力な情報。午後六時。雑貨屋の裏路地。フードを被った男。そいつが幻覚を売ってくれるらしい」
 斉藤はそう言うと、座っていたソファの背もたれに身体を預ける。力を抜いたようにそのまま項垂れて、息をゆっくりと吐いた。
「お疲れ様。それだけの情報があれば充分だ」
 竜太郎は斉藤に向かって、労いの言葉をかける。
 後は、直接本人に会って小池の能力を使い、真偽を確かめるだけだ。
 竜太郎は疲労している斉藤のために、空っぽになっていた湯呑に、新しい緑茶を急須から注ぐ。斉藤は小さな声で「ありがとう」と言ったが、今はそれを呑む力もないらしく、ただソファに埋もれるように座っていた。
「こんなことに力を使ったのは初めてだ。あたしでもこんなふうに役に立てることがあったんだな」
 斉藤がそう言いながら、右手でこめかみを触っていた。それはまるで恥ずかしさに顔を隠すような仕草だった。
 竜太郎はそんな彼女の様子をみて、思わず口角を上げた。
「そのための洸生会だからな。生徒たちの手助けをする。それは何も自分たち以外の生徒たちってわけじゃない。自分たちだってその対象になる」
「それは、お前も含まれるのか」
 斉藤の問いに、竜太郎は頷く。
「もちろん」
「そっか」
 斉藤は納得するようにそう言って、自分の首にかけたままだったヘッドフォンを耳につけた。これ以上会話を続ける気はない様子だった。
 竜太郎は小池のほうに目を向ける。彼女は困ったような顔をして、竜太郎と目を合わせた。
「もちろん、君も助ける対象だよ」と声をかけようか迷ったが、やめておいた。言われなくてもわかっているだろうから。
 竜太郎は窓の外を確認する。午後六時まではまだ時間がある。色々準備をして、それから向かおうと思う。

   3

 自分の事を嗅ぎまわっている人がいる。寺沢椎也は本能的にそれを感じていた。別に誰から聞いたわけでもない。ただの勘だった。
 心当たりがなかったわけでもないが、それでも自分は間違っていないという考えであったから、逃げも隠れもしないつもりだった。
 椎也は幻覚を作り出せる能力を持っていた。それも相手のみたい幻覚を、何でも。
 売人を始めたのは、この能力を生かすためである。別に金が欲しいわけではない。この学園で金を持っていたとして、使い道はそんなにないからだ。ならばなぜこんなことをしているのかといえば、人のため。この言葉に尽きる。
 この学園には可哀想な人が多すぎる。自分の能力がそんな人達をたった一時でも救うことが出来る。椎也はそう考えていたのだ。
 学園に来て数週間。椎也もここでの生活に慣れ、食堂での事務仕事も慣れてきた。行動を起こすなら今だと思った。 
 今日は少しだけ残業して午後五時半に退勤し、一旦近くのアパートに帰宅する。私服に着替えて雑貨屋へと向かった。
 鼻歌交じりに道を歩いていると、犬の散歩をしている学生とすれ違う。
「こんばんは」と軽く挨拶を交わし合った。
 学生は犬に引っ張られるようにして寮のほうへ歩いていった。おそらくあの犬は寮で飼っている柴犬だ。みたことがある。
 そんなことを思いながら目的地に到着すると、椎也は最近のいつも通りに雑貨屋の裏路地に立つ。別に誰かと待ち合わせているわけではないので、ここからはひたすら人を待つことにする。

   *

「午後六時。雑貨屋の裏路地。フードを被った男。そいつが幻覚を売ってくれるらしい」
 噂を流し始めたのは二週間ほど前だった。最初こそ人は来なかったが、最近は一人二人来るようになった。この調子で広まれば、この学園中の人間が救えるかもしれない。そう考えると自然に笑顔になった。
 腕時計を確認すると時刻は丁度午後六時を回ったところで、椎也は着ている黒いパーカーのフードを頭にかぶせる。
 今日はどんな客が来るだろうか。どんな顔をしてくれるだろうか。
「あなたですか。幻覚を売ってくれるという人は」
 眼鏡をかけた少年と、隣に少女が一人。いや、二人が立っていた。全員学生服を着たままだ。この時間帯は、生徒たちはとっくに寮に帰って私服に着替えているはずだ。先ほどすれ違った学生も私服を着ていた。だから珍しいなと思った。
「そうです。どなたでもみたい幻覚。いや、夢をみることが出来ます」
 自分で言葉にしてうさんくさいなとも思うが、嘘はひとつも言っていない。
「夢、か。物は言いようだな」
 背の高いほうの少女が言う。
「買うのはどなたですか。もしや全員ですか」
 椎也の問いに、三人は顔を見合わせた。
 それから眼鏡の男が剣呑な目つきで、こう言った。
「いいえ。あなたを止めに来ました」
「止める?」
 椎也は彼の言葉に、顔をしかめた。
 今まで数人の客を相手にしてきたが、そんなことを言った人は初めてだった。一人もいなかった。椎也はまるで自分が悪いことをしているという物言いの彼に、不快感を覚えていた。
「そうです。幻覚を売っている売人を捕まえて止めさせるようにと、とある人に頼まれまして」
「頼まれた? 誰に。なんで止めなきゃいけないんですか」
 尋ねると、少年は首を横に振った。
「それは言えません。プライバシーを守るためなので。それと、悪いことだからです」
 少年は、はっきりとそう言った。
 悪いこととは、心外だ。と椎也は思った。だから食い下がることにする。
「ふーん。言えないのに、俺のすることを否定するんですね。でも俺がしていることって、別にこの学園の規則に反しているわけじゃないですよね。能力を利用することが悪いことでしたら、俺もしません。でもそうではないですよね。俺は何も悪いことはしていないです」
 椎也がそう言うと、背の高いほうの少女が額に眉をひそめて言い返してきた。
「あんたな。そういうの屁理屈って言うんだ。大体、能力の悪用は禁止されている」
 椎也は頭を回転させて次の言葉を探す。目の前の人達の言いなりになることはしたくなかった。彼らは何か勘違いしている。
「これだけははっきり言えます。俺は悪用はしていません。ただ利用しているだけです。それもむしろ、悪というよりは善意でやっていることですので」
「善意?」
 少女の疑問に、椎也は堂々と答える。
「そう。善意です。これはみんなの幸せのためにしているんです」
「幸せ? あたしはあんたが何を言っているのかがわからない。人に幻覚をみせて結果的に悪影響が出ている。まさか知らないとか言わないよね」
「何の話ですか」
「とぼけるな」
 随分と口の悪い少女だと思った。そしてその子に隠れるように後方に立っている小柄な少女は、先ほどから一言もしゃべっていない。少々気味が悪いと思った。
「あなたから幻覚を買った人間が、授業中に異常な行動をするんです。これでも悪用していないと言い張るんですね」
 ため息をつくように、眼鏡の少年が言った。
「そうなんですか。知らなかったな」
 椎也は顔色一つ変えずに、そう言った。
 それをきいた少年が、何故だか無口な少女の方に視線を向けた。
「嘘です」
 ぽつりと、小さな声で少女は言った。まるで一円玉がカーペットに落ちたときみたいに、本当に微かな声だった。
 確かに。能力を使用されたことによって、副作用による異常行動の可能性は十分あり得る話だ。椎也はそれを知っていたのだから、嘘をついたともいえる。
 見透かされたような気がしたので、もしかしたら今のはそういう能力だったのかもしれないと考えがよぎる。
「随分と素敵な能力をお持ちですね」
 椎也が言いながら視線を向けると、無口な少女は肩を震わせた様子だった。どうやら本当に能力らしい。
 口の悪い少女が、椎也の視線を遮るように一歩前へと進み出た。
「この子がどんな能力を持っていたって、あんたには関係ない」
 睨むような目つきで、少女は言った。
「まあ、確かにそうですね。でもそれなら、俺がどんなふうに能力を使おうが、君たちには関係のないことですよね」
 椎也が言うと、少女は首を横に振る。
「それとこれとは別問題だ。とにかく、こっちはあんたの嘘をすべて見破れる。無駄だってことだよ」
「厄介ですね。では正直に言います。副作用の可能性は考えていなかったわけじゃないです。けれど、実際に使用してみないとわからないことってあるでしょう」
 言いながら椎也は肩をすくめた。
 嘘は通用しないとなると、これ以上ごまかすのは無駄のようだった。
 口の悪い少女はため息をついた。
「それなら、わかった時点でやめたほうが懸命だったよ。こうして問題になっているんだから」
「何か代償があるとしても、それが誰かの救いになるなら、何の問題もないと思いますけど」
「さっきから何を言っているんだ。善意とか幸せとか救いとか。あんたの考え方はどこかおかしい。売人をやめないって言うんなら、こっちとしては理事長に突き出すしかないんだけど。それでもいいの」
 少女の言葉に、椎也は眉をひそめた。
 彼女たちがどうして、自分の邪魔をしようとするのかがわからない。人のために何かをしてやろうと思っただけなのに。悪意なんか微塵もない。どうしてそれをわかってくれないのかがわからない。椎也は本気でそう思っていた。
「あなたに悪意がなくても。他の人がそれを悪意だと思ったなら。それは悪意なのかもしれないです」
 不意に、無口な少女が口を開いた。
 椎也は目を見開いて問う。
「どうして」
「人って、そんなに強くないです。あなたもそれは理解しているはずです。あなたは善意だって言うけれど、本当にそうですか。あなたは人を救いたいと思っていますけれど、本当にそうですか。本当はあなたが――」
「黙れっ」
 少女の見透かすような物言いに、椎也は思わず声を荒げて叫んだ。
 少女は再び肩を震わせ、怯えるように胸の前で両手を合わせた。
 傍にいた眼鏡の少年が、少女の肩に手を置く。大丈夫だと言いたそうな瞳で、少年は少女をみつめていた。
 だが椎也は少女にそれ以上の言葉を言ってほしくなかった。認めたくはなかった。
「何ですか。俺の心の中でも覗いているみたいな、その能力。俺よりよっぽど悪用しているじゃないですか。そう思いませんか。他の人がそれを悪意だと思ったなら悪意なのかもしれないって今、あなた自分で言いましたよね。俺はこれ、悪意だと思うんですけど」
「違います」
 弱々しい声で、少女は否定する。
「違うんですか。なら俺も違いますね」
 椎也は、言葉でなら彼女に勝てると思った。彼女はその自信のなさが、敗因だ。
 そんな椎也をみてか眼鏡の少年が、ゆっくりと息を吐いて言った。
「このままじゃ、らちが明かないな」
 少年は、椎也に歩み寄ってきた。
 少女たちより一歩前に出て、椎也と対峙していた。
「寺沢椎也。あなたの過去をみせてもらいます」
 少年はそう言うと、突然に椎也の右腕を掴んできた。
 とっさに抵抗しようと掴まれた方の腕とは逆の手で、彼の手を掴んだ。

   4

 あの窓からみえる風景だけが、世界のすべてだった。
 欲しいと言ったものは大抵手に入った。流行りのおもちゃや優しい両親、何を言っても怒らない友人。だからそれが寺沢椎也にとって世界のすべてとなった。
 椎也は先天的な肺の疾患を有していた。一生抱えていかなければいけなかった。だから椎也の世界にあるもの以外はすべて諦めるしかなかった。
 朝起きるのが怖かった。今日もちゃんと生きているだろうかと心配した。大きく体を動かすことも、走ることも出来ない自分が腹立たしかった。
 しかし、それももう数週間前のこと。
 椎也は今、本当に欲しいものを手に入れている。
 朝起きるのが、怖くなくなった。今日もちゃんと生きているだろうかと心配する必要もなくなった。大きく体を動かしても、走っても、何故だか身体は元気だった。
 身体の異変が、突然使えるようになった能力と同じようにきたことも、ちゃんと理解している。だからこれを失うとき、椎也の身体も元に戻ることも知っている。
 それは何もかも唐突に起こったことで、きっかけなど無いに等しい。ただ前日に、夢をみた。それだけだ。他には何もない。
 どんな夢だったか。椎也が元気に外を走ったり、いたずらをして両親に本気で怒られたり、友人と本音で言い合いしている夢だった気がする。
 椎也にとってまさにそれは夢であり、ありもしない幻覚であった。
 夢から覚めると、不思議と身体が軽かった。
「治療はもう必要ない」と初老の主治医に伝えると、当然驚かれ身体中を検査された。
 能力が最初に発動されたのは、その時だった。椎也は無意識に能力を使ってしまったらしい。ほんの数分間。主治医は幻覚を視ていた。若くして亡くなった息子に会っていたと彼は言った。
 彼は当惑していたが、すぐにあらゆる可能性を考え、最終的にそういう能力だと結論付けた。
 主治医と同様に。いや、それ以上に椎也自身も戸惑っていた。身体の事も能力の事も驚愕し、そして感嘆していた。
「これは君の精神的な問題でもあるんだよ」
 と主治医は言った。椎也は首を傾げた。
「私の知り合いに、そういったものに詳しい方がいてね。治療は一旦中止にせざるを得ないし、せっかくだからその方に会ってみるのはどうだろうか」
 主治医の提案に、椎也は二つ返事で了承した。
 うみほたる学園の話をきけば聞くほど、興味がわいた。能力者ばかりを集めた学園。色々なものを諦めてきた自分には、勿体ないほどの場所だ。
 主治医の紹介で、理事長に会うことができた。理事長は椎也の能力を聞くなり入学を勧めてきた。学園に興味があると伝えると、理事長は喜んだ。
 そうして椎也は二十歳という年齢になって、学園という場所に足を踏み入れることになった。
 幼少期からまともに学校というものに通うことができなかった椎也にとって、うみほたる学園は思っていた以上に面白い場所だった。
 理事長と相談して、学園とはいえ年齢的にも生徒ではなく働いてみないかと言われたときは、自分にできるだろうかと思ったが、心配するほどではなかった。食堂で一緒に働く仲間はみんな気のいい人たちで、そして同時に自分と同じ能力者で、そして可哀想な人たちであった。
 例えば職場いじめを受けていた人。両親からDVを受けていた人。大切な人と死別した人。そういう人たちを、椎也は憐れんだ。そして自分の能力を使えばその人たちの心を救うことが出来るのではないかと考えたのである。
 例え一時の幻覚という名の夢であっても。自分に都合の良い夢であっても。彼らは救われるはずだ。
 そうして椎也自身も、救われたかった。誰かの役に立ちたかった。
 ただの自己満足かもしれない。ただの偽善かもしれない。
 それでも、何かしたかった。何かしてやりたかった。
 この醜い感情を誰が許してくれるだろうか。

   5

 幻覚を視た。
 両親と妹。四人で海に行くというものだった。ほんの一瞬だったけれど、とても幸せそうな光景だった。
「竜太郎」
 斉藤の声が聴こえて、竜太郎は現実に引き戻された。
「大丈夫か」
 心配そうな顔をして、斉藤が竜太郎の目の前に立っていた。どうやら彼女が寺沢椎也との間に入って、彼から引きはがしてくれたらしい。
「あ、ああ」
 竜太郎は頭を抱える。
「何か前と様子が違うって、燐音が言うから心配した」
 斉藤に言われて、竜太郎は小池のほうをみた。彼女も不安そうな表情でこちらをみていた。
「ありがとう。二人とも」
 竜太郎は礼を言った。
 寺沢に何をされたのか、考えるまでもなかった。
「幸せな夢を、視ることはできましたか」
 寺沢が竜太郎に向かって、笑顔でそう問いかけてきた。
 彼がこの幻覚を、夢と称すのが何となくわかった。それは確かに夢であった。ほんの一時の、泡沫の夢。目を覚ませば一瞬で消えてしまいそうなその夢は、とても大切な竜太郎の記憶であるはずのもの。ただの願望かもしれないもの。
「ええ。一瞬だけでしたが。そしてあなたのことも概ね理解できました」
 竜太郎はそう答えると、寺沢のほうを真っすぐにみた。
「よかった。俺の事を理解できたんですね」
 寺沢が満足そうな表情を浮かべ、竜太郎の事をみていた。
 米田恵理子から受けた依頼内容は、犯人の特定だ。たった今、寺沢が竜太郎に能力を使ったことで、彼は言い逃れのできない状態になった。身体を張ったこと、怒られるだろうか。そう思ったが、止まらなかった。
「あなたは、可哀想な人です」
 竜太郎の言葉に、寺沢の眉根がぴくりと動く。これが、彼が一番言われたくない言葉であることは、彼の記憶を視る限り明白だった。
「何を言っているのか、わかりませんね」
 とぼけるように、寺沢は言った。
「あなたは色々なものを諦めてしまった。それが可哀想だって言っているんです」
「君にそんなことを言われる筋合いは、ないと思いますけれど」
 寺沢の言葉に、竜太郎は頷く。
「ええ。そうかもしれません。ですが、あなたにだって他に出来ることが沢山あると思うんです。こんな能力の使い方をせずとも、あなた自身が幸せになることだってできるはずなんです」
 寺沢が嘲笑する。
「俺が、幸せになる? 俺は十分幸せですよ。十分すぎるぐらい。日常的に感じていた息苦しさもないし、能力だって使える。今ならなんだってできます。俺は幸せです」
 自信満々に言う寺沢に向かって、竜太郎は首を振る。
「いいえ。そう思い込んでいるだけです。本当は、いつそれが終わるのか怯えているんですよね。そんな状態で、本当に幸せだと言えるのですか」
「それは――」
 寺沢が言い淀み、迷いをみせた。
 竜太郎はたたみかけるように話を続ける。
「自分は幸せだと思い込んで、自分より不幸せだと思う人達に、能力を使って一時の幸せをみせてあげよう。御立派な考えですけれど。それって人を下にみているだけですよね。そうやって自分と比べて、自分はその人達よりマシだと思い込んで、優越感に浸っているだけですよね」
「それの何が悪いと言うのですか。俺は可哀想なんかじゃない。俺より可哀想な奴はいっぱいいる。だから俺はそいつらに恩を売ろうとしているだけです」
 寺沢の言い分は、無理に自分を肯定しようとしているように思えた。それは悲痛な叫びだったのかもしれない。
 今、寺沢が言ったことは本心だろう。ならば竜太郎がかけるべき言葉はこうだ。
「そうやって売った後。あなたに残るものは、一体何でしょうか。してあげた事に対する報酬は、お金ですよね。でもそれってあなたを本当に幸せにするものですか。あなたの本当に欲しいものは違いますよね。誰かの役に立ちたくて。自分の存在意義を確かめたかっただけですよね」
 竜太郎はとても冷静に言った。
 過去の記憶を視るときに、竜太郎は相手の感情も何となくだけれど感じ取ってしまう。小池ほどの精度はないし、あくまでも過去の感情だ。現在の時間のものではない。それでも、竜太郎は過去も現在も彼の感情は同じものだと思った。
 彼は病気のせいで色々なものを諦めてきたのだと思う。彼が何を願って能力を手に入れたのかが竜太郎には何となくわかる。彼は。寺沢は、夢をみたかったのだ。それは、眠るときにみる夢ではなく、叶えたかった夢だ。諦めてしまった夢だ。
 寺沢が、自分を落ち着かせるかのように深く長く息を吐いた。
「そこまでいうのなら、どうすればいいのか教えてください。俺は、どうするべきだったのか」
「少なくとも、周りを巻き込むべきではなかったと思います。あとは、弱い自分も可哀想な自分も、受け入れることが大事だと思います」
「そうか――」
「簡単にはいかないかもしれませんが。あなたは頭の良い人です。きっと前に進めますよ」
 酷なことかもしれないが。と竜太郎は思いながら、彼にその言葉を贈る。
 けれど寺沢はそれで納得してくれたのか、幻覚を売ることを止めると約束してくれた。
 
    6

 このうみほたる学園に来てから、もう何度目かの朝焼けをみた。窓からみえていた月は、いつの間にか沈んでいた。かわりに現れた太陽に、椎也は目が眩んだ。
 欲しかったすべての物を手に入れて、その後に残るものは何だろうと、ずっと考えていた。一晩中。自分の『本当』について考えていた。
 力を失いたくないと、どれだけ願っても無駄だとわかっている。けれどそれだけは、諦めたくない夢だった。いつかは、絶対にその時が来る。
 今日も朝が来た。仕事に行かなければならない。石のように重い身体を動かして、出かける準備をした。仕事に行きたくないわけではないが、昨日の疲れがとれていないような気がした。

   *

 玄関を出て、ゆっくりと職場へ向かう。食堂へ着くと、誰かが待っていた。
 ショートカットの良く似合う、黒色のスーツを着た女性だった。
「寺沢椎也くん」
 名前を呼ばれても特に驚かなかった。彼女の風貌をみるに、普通の人間ではなさそうだったからだ。
「誰ですか」と椎也は質問した。
「米田恵理子。ただの教員よ。洸生会から、昨夜の報告を受けたわ。あなたは幻覚の販売をもうやらないと約束してくれたようね」
彼女。米田の返答に、椎也は一瞬で状況を理解した。
「ああ。あなただったんですね。彼らに依頼したのは」
 椎也は言うと、昨夜のことを思い出した。
 知らない学生が三人ほど、椎也に会いに来たのだ。彼らは言った。幻覚を売っている売人を捕まえて止めさせるようにと、とある人に頼まれたと。それがおそらく、今椎也の目の前にいる女性だ。
「ええ。そうよ」
 米田が頷いた。
「ならもう解決済みです。俺はもう能力を使いません」
 彼らの前で誓ったことだ。この言葉に嘘はない。
 竜太郎と呼ばれていた少年。彼の能力は非常に厄介だった。どういう能力か具体的にはわからないが、椎也のことを理解したような口ぶり。あの無口な少女と並んで、人の事を見透かせるような能力だと推測できる。
 彼らの前で、嘘は吐けない。これはもう、素直に諦めるしかないと思った。だから彼らの言うとおりにするしかなかったのだ。
「そうなのだけれど。ひとつ気になることがあってね」
 米田がゆっくりと、息を吐きながら言った。
 気になること。と椎也は心の中で反復する。
「何ですか」
「あなたが、川崎竜太郎に能力を使ったと聞いたわ。何の幻覚を竜太郎にみせたの」
「さぁ。能力を使っている間。俺には、他人の幻覚を視ることが出来ません。というか、わざわざ俺に話を聞きに来ずとも、先生なら学園内にいる能力者の資料やらなんやらで、それぐらいわかるんじゃないですか」
 米田の質問に、椎也は肩をすくめながら言う。
「それじゃあ意味がないと思って」
 米田はそう言いながら、眉をひそめていた。
「何の意味ですか」
 そう問いかけると、米田の瞳が揺らいだように感じられた。
「それは答えられないけれど、もう一つ質問があるの」
「何でしょう」
「その幻覚は、その人がみたことのある物で構成されているのかしら」
 嘘を吐く必要もないので、その質問には素直に答える。
「俺の能力は、他人の願望を幻覚としてみせているだけです。でもその元となる人物などはその人の記憶のはずです。聞いたことありませんか。寝ている間にみる夢は、みたことのある人物しか出てこない。俺の能力は、幻覚でもあるし夢でもある」
 米田は納得したのか、「そう。わかったわ。ありがとう」と、それだけ言って去ろうとしたので、椎也は「ちょっと待ってください」と呼び止める。
「ずるいじゃないですか。俺に色々と質問しておいて、それだけですか。俺、昨日から損しかしていないじゃないですか」
「損? 自業自得じゃないかしら」
 米田はそう言って、首を傾げた。
「うわ。この人、最悪だ。昨日の少年よりたち悪そう」
 椎也は米田に聞こえるか聞こえないかの声量で、呟くように言った。
「竜太郎よりは悪くないわよ」
 米田はそう言って、嘆息をもらした。
「先生が生徒の事を、悪く言っちゃダメなんじゃないですか」
 指摘すると、米田が困った顔をする。
「う。そうだけど。子どものころから知っているから、つい」
 意外な返答に、椎也は少しだけ目を丸くした。
「長い付き合いなんですね」
 米田は頷いた。
「ええ。と言っても五年ぐらいだけれど。彼が十二歳のころにこの学園に来た時、同時期に私も赴任したの。子どもの成長って早いわね。あっという間に身長を越されたわ」
 米田の言葉に、椎也は昨日の竜太郎の姿を思い出す。
「確かに、身長は俺とさほど変わりませんでしたね。なるほど、それで目をかけていると」
 納得したように、椎也は言った。
 米田にとって竜太郎は、特別な想いのある生徒らしかった。もしかしたら、息子のような存在なのかもしれない。
「もういいかしら。あなたとの話は終わったの」
 呆れた様子で、米田が言った。
「まだダメです。こっちは、俺のやりたかったことを潰されているんですよ」
 椎也は引きとめるるもりで言う。
「納得したわけじゃないのかしら」
「あれ以上は面倒くさかったから」
 米田の疑問に、椎也は本音をもらした。
「そう。なら、あなたが納得するまで依頼者の私が相手をしないといけないわね」
 米田に真っすぐな瞳を向けられて、椎也は戸惑った。
 とことん話に付き合うわよという態度を取られると、椎也も困ってしまう。忘れるところだったが、椎也は出勤前なのだ。残念だが、お茶を飲むような時間はなかった。
「まあ、俺これから仕事なので、今日のところは勘弁してあげますよ。それじゃあ」
 椎也はそう言うと、さっさと米田に背を向ける。
「待って」と、今度は椎也が呼び止められる番だった。
「何ですか」
 これ以上は遅刻するなと思いながら、椎也は仕方なく振り向いた。
「最後に一つだけいいかしら」
 米田が、真剣な表情で言った。

(第五章へ続)

連載小説「あの箱庭へ捧ぐ」第三章

第三章 未知が来る

   1

 本間宗太が斉藤寧々に初めて会ったのは、一年前のこと。黒板の前に立たされ先生に挨拶を促されて不機嫌そうな寧々の顔を、宗太は覚えている。その顔がとても好きだと思ったと本人に言ったら、顔を真っ赤にして彼女は怒っていた。
 うみほたる学園の男子寮と女子寮は向かいあって建っていて、その間を遮るものは丁寧に手入れされた花壇と煉瓦道ぐらいのものだ。
 宗太と寧々の部屋は互いに二階にあり、互いの窓は部屋が見える位置にあった。カーテンを開けるのは朝とみんなが寝静まった夜の二十三時頃。意図せずその時間になるとどちらが先にカーテンを開けるか競争のようになっていた。
 スマートフォンは学園内に持ち込み禁止なので、二人とも持っていない。いや、もともと持っていたのに、学園へ入学すると同時に没収されたというほうが正しい。学園の外との連絡を取れなくする意図があるのだろう。希望すれば手紙ぐらいは出せるらしいが、書いてもいっこうにこない手紙の返事を待つよりは、最初から書かないほうがいいと宗太は思った。それに宗太には手紙を出したいと思う相手がいなかった。
 夜なので窓も開けられない。だから宗太と寧々は会話をしないけれど、手を振って挨拶する。
「おやすみなさい」と口を動かす。 
 いつの間にかそれが日課になってしまっていた。
 毎晩、宗太はどうしてそんなことをするのかを考えた。もしかしたら自分も彼女もお互いのことが好きでそういう行動をとってしまうのではないかと思っていた。だがその考えはすぐに捨て去らなければならなかった。なぜならば自分に誰かを好きになる資格はないと宗太は思っていたからだ。
 毎晩好きだと思いながら、毎晩その考えを捨てる。もう幾度それを繰り返しただろうか。
 あるときは朝方までそんなことを考えていて、眠れない日もあった。それでも捨てるしかなかった。
 それが自分と彼女のためだと思っているからだ。

   *

 宗太には特別な力があった。相手の未来が視えるというものだ。相手の手に触れるだけでそれがわかってしまう。そのために、色々な物事を諦めなければならない。宗太にとってはそれが最善だと結論が自分の中で出ている。
 宗太の力の事を知っている者は学園内にたった二人だけだ。ひとりは学園の理事長と呼ばれる人で、もうひとりは宗太の友人である川崎竜太郎だ。
 宗太を学園に入学させた理事長が知っているのは当然のことだが、どうして竜太郎が宗太の能力について知っているのかというと、宗太が自ら彼に話したことがあったからだ。それは彼が、宗太と真逆の能力。相手の過去を視る能力を持っていたからなのか、それとも彼の人柄がなせる業だったのかはわからない。だが、宗太と竜太郎はそれがきっかけになって仲の良い友人になったことは確かだった。
 竜太郎と宗太が互いの能力を知った後、二人とも理事長に呼び出された。理事長は咳払いをしてから宗太たちに向かってこう尋ねてきた。
「二人とも、時間についてどう思う」
 その問いに宗太と竜太郎は困惑したが、それも最初だけだった。まずは竜太郎が答えた。
「とても大事なものだと思います」
「その理由は?」
 理事長が軽く首を傾げながら言った。
「過去は変えられませんが、知ろうと思えば誰でも知ることは出来ます。それによって相手を理解することができます。それを知って現在でどんな行動をとるのか。それがとても大事なことだと思います」
「そうか。それはとても大切なことだな。では、君の持っているその能力を大事にすると良い」
「はい」と竜太郎が頷くのをみてから、理事長は宗太のほうへ視線を向けた。宗太はごくりと唾を呑んだ。
「次は君が答える番だ。宗太」
 促されて、宗太は伏し目がちに言った。
「俺は、竜太郎とは逆です」
 それは宗太の本心からの言葉だった。
「ほう。何故そう思う」
「未来も変えられないからです。未来は普通の人間なら知ることはできません。俺はそれをずっと知りたかった。だから願望が能力というひとつの形になったのだと思います。でもそれを手に入れたところで、どうしようもないことに気づきました。俺が視た未来は確定で訪れます。だから大事にしたところで、悪い未来は悪いまま来てしまいます。それが俺の時間は大事にしても無意味だと思う理由です」
 宗太ははっきりと口にした意見を、自分で哀しいと思った。
 どうしてと幾度も思った。そして答えは一向にでなかった。
「宗太は、自分の能力を大切なものだと思っていないということだな」
 理事長の言葉に、宗太は頷く。
「はい。俺はもう、この力がなくなってほしいと思っています」
「果たして本当にそうだろうか。もしそうならば、能力はとっくになくなっていると思うのだが。君はまだ能力が消えていないのだろう」
 確信をつかれて、宗太はしりごみした。
「それは――」
 宗太は、反論ができなかった。理事長はすべてを見透かしたように、微笑んでみせた。しわの寄った顔は、彼が古希を超える年齢だという事実を改めて感じさせる。
「よく考えて、悩むことだ。結論が簡単に出る問題ではないだろうがね」
 宗太はその言葉に対して、返事をしなかった。
 もう充分だ。と思った。もう自分は嫌というほど悩んで、苦しんでいると思う。そんな気持ちを察してか、理事長がもう一度口を開いた。
「私は、能力者になったことがないので君たちの気持ちはわからない。だが理解しようと努力してきた。そのうえで言わせてもらおう。答えはない。しかし、答えを作ることはできる」
「答えを作る?」
 意外な言葉に、宗太は首を傾げた。隣に座っていた竜太郎も同様だ。
 理事長は頷き、言った。
「君たちの能力は、今まで誰も――いや、もしかしたら探したらいるのかもしれないが。前例がない。ただ君たちはここに存在する。答えを探している。探すことができる。ならば答えを作ることも可能ではないのか。と私は思う」
「それは、自分たちの好きなように答えを出しても良いということですか」
「そういう解釈もできる。という話だ。能力者を研究している連中は怒るだろうが、そんなことは君たちには関係ない。君たちは君たちの答えを作れば良い」
 宗太と竜太郎は互いの顔を見合わせて、それから理事長の顔に視線を戻した。
「わかりました」と二人はほぼ同時に返事をした。
 途方もない話だと宗太は思った。テストの答案ならば最初から答えがある。しかし、これには最初から答えがない。宗太と竜太郎はその答えのない事柄を、討論しなければならなかった。けれどそれが面白いと感じていることも事実だった。
 だから宗太はあの日。寧々の方から想いを伝えられた日。思わず口にしてしまったのだ。
「試しに付き合ってみる?」
 両思いだとわかって有頂天になっていたわけではない。宗太はいたって冷静だった。冷静に、じゃあ試してみようと思ったのだ。そうして宗太は初めて寧々の手を握った。宗太は触れた相手の未来を、その先の人生を少しだけ視れてしまう。
 宗太は答えを出すために、寧々のことを利用しようと考えたのだ。
 寧々の未来で視えたものは三つ。高い塀。恐らく学園の周りを囲っている塀だ。それから、見知らぬ女の子。そして、誰かの血。
 宗太は恐ろしいものを視てしまった気がして、すぐに手を離した。
 宗太は視えた未来に対して、これは寧々にとってどんな意味があるのだろう。と考える。それと宗太にとってもどんな意味のあることなのだろう。
 考えて、考えて……しばらくして考えるのをやめた。そんなことはどうでもいいと思った。事実としていずれ訪れる未来には変わりがない。未来は変えられないのだから。
 ただ宗太は思っていた。誰にも血を流してはほしくないと。

   2

 交際を開始しても、宗太と寧々はいつもと変わらない日々を過ごしていた。恋人らしく放課後は一緒に帰ったりせず、手はあの日に繋いだきり触れてもいない。それ以上の行為も勿論していない。いつもと同じように休憩時間に他愛のないおしゃべりをして、二十三時の「おやすみなさい」をする。
 しばらくそんな日々が続いた。交際していることは誰にも言わなかった。二人だけの秘密だった。示し合わせたわけではないのだが、寧々の方も仲の良い友人にさえ、教えていない様子だった。
 そんな状況を打破してくる人物がいるとは、その時は想像もしていなかった。
「そういえばこの学園、交際禁止だってこと知ってる?」
 川崎竜太郎は机で書類と睨み合いながら、自然な会話の流れでそう尋ねてきた。
 一つ前の会話と言えば「もうすぐ夏祭りだ。楽しみだな」である。
 竜太郎と共に所属する洸生会のアジトで、一緒に書類の整理をしていたときだった。
 作業をしていた宗太は、手を止めて目を丸くした。
「え。何? そのどこぞのアイドルグループみたいなルール」
 バインダーを持ったまま尋ねる。子役だった時代を振り返ってみても、そんなルールを律儀に守っているアイドルなんてきいたことがない。芸能人の熱愛の噂は、スタジオの廊下を歩いているだけでも、耳に入ってくる。噂好きのスタッフがひとりでもいると大変だ。
 竜太郎が、宗太を一瞥してから書類に視線を戻しながら言葉を紡ぐ。
「知り合いからきいた話なんだが、以前交際していると噂がたった人がいて。その噂をききつけた先生が二人を呼び出したらしい。それで別れさせられたって」
「それって中等部の生徒?」と宗太は首をかしげる。そんな話をきいたのは初めてだった。
「いや。高等部だったと思う」
 顎に右手を当てながら、竜太郎が視線だけ次の書類に目を通しながら口だけ動かした。
 宗太は言葉を探していた。黙ったままでいると竜太郎がこちらに視線を向けてきた。眼鏡の向うにある彼の目と、宗太の目が合った。
「面倒なことになる前に、斉藤とは友人関係に戻ったほうがいいんじゃないか」
 すべてを見透かしているような竜太郎の発言に、宗太はうろたえた。
「何で、そのことを知っているんだ」
「みていればわかる」
 そう言いながら、竜太郎は持っていた書類を机の上に置いた。
「俺が斉藤とも友人であることを忘れるな。彼女を大切だと思うなら、彼女を傷つける前に元の関係に戻るべきだ」
 竜太郎なりに言葉を選んだのだろう。気を使われていることに少しだけ気分が悪くなる。
「つまり別れろってことだろう」
「そうともいう」
「いいよ」と宗太は迷いもなく言った。予想外の返答だったのか、竜太郎が目を丸くした。
「目的はもう終わっているし」
「何の?」
 竜太郎が首を傾げた。
「俺の能力の発動条件、知っているよね」
 宗太が尋ねると、竜太郎は頷いた。
「ああ。相手に触れないといけないんだろう。僕の能力も同じ条件だから知っている」
「そのためには相手と、スキンシップが出来るぐらいに仲良くならなくてはいけないだろう」
 宗太の言葉に、竜太郎が怪訝な顔をした。
「まさか。そのためだけに斉藤と交際しているのか」
「そのまさかだよ。俺はこの力の答えを出すために、寧々の告白を受け入れた。彼女を利用しているんだよ」
 宗太は、口角を上げて笑ってみせた。
 宗太が最初にこの能力に気づいたとき。母親の手に触れたことで、母が泣き崩れている光景を視てしまった。自分が母から離れてどこか遠い場所へと行かなければならなくなったことを、そのときに知った。宗太は母以外の家族や仲の良い友人の未来を視ることが怖くて、距離を置くようになった。
 宗太は幼いころから芸能界という荒波にのまれながら、とてつもない将来への不安を感じていた。そんな自分の未来が知りたくて望んで手に入れたはずの能力を、宗太はいらないとさえ思った。だからこそ宗太はこの学園に自ら来て入学させてもらった。誰もが望んで入学したわけではないこの学園に。
「どうかしている」
 呆れたように、竜太郎が言った。
「自分でもそう思う。でも、好きじゃなかったら付き合っていなかったよ」
 信じてもらえないかもしれないけれど。とは言わなかった。それは無意味な言葉のように思えた。
 どうして彼女だったのかと問うまでもなかったのか、竜太郎はそれ以上は何も言わなかった。触ることが重要ならば自分でもいいじゃないかとは、彼は決して言わなかった。わかっていたのだ。同じ条件で発動する能力を持っている竜太郎は、自分と宗太が触れた場合に、能力が相殺される可能性があることを。それがなければ宗太も迷わず竜太郎に触れ、彼の未来を視ていただろう。
 宗太と竜太郎は同じなようで同じでない。対照的な存在だった。だから共に洸生会に所属させられたと言っても過言ではない。
「彼女の未来について、僕はきいてもいいのか」
 竜太郎が、唐突にそんなことを尋ねてきた。
「いいけれど、あんまり良いものじゃなかったよ」
 宗太はそう答えると、視たままを竜太郎に伝えた。彼になら話しても構わないかと思った。それだけ信頼していた。
 話が終わると、竜太郎が顔をしかめた。
「それは、まさか斉藤の血じゃないよな」
 そうやって言葉にされると、改めて宗太は考えてしまう。あれが誰の血で、どんな意味があるのか。
「そんなまさかは、あってほしくないけれど」
「だが斉藤の未来を視て、斉藤の血ではないのだとしたら、一体誰の血だ? そんな恐ろしい場面を視て、お前はどう思ったんだ」
 竜太郎の真剣な表情に、宗太は困った顔を返す。
「例え誰の血であったとしても、俺にはどうすることもできない。未来の出来事だとしても、俺にとってはすでにあった過去と同じだよ」
「だったら、それを知った今。お前はどんな行動をとりたいんだ。未来を変えたいのか、変えたくないのか。どっちなんだ」
「そういう問題じゃない」
 竜太郎の言葉を、宗太は首を振って否定する。
「そういう問題だろう」と竜太郎はさらにそれを強く否定した。
 宗太は目を見開く。
「お前は何度も、変わらないって諦めたかもしれないが、今は僕がいるだろう。過去を知って、理解して。現在の状況を良くすることは出来ると僕は信じている。お前の未来視が、お前にとっては過去なら、現在を変えることは出来るはずだと僕は信じる」
 竜太郎みたいな考え方が、自分にも出来ればよかったのに。と宗太は思わずにはいられなかった。
 そしてそういう風に言ってくれる友人を持って、心の底から感謝した。
 理事長が答えを新しく作れと言った意味が、わかった気がした。一人では作れなかった答えを、二人でなら作れるような気がした。
「ありがとう」
 宗太は呟くように、礼を言った。

   3

 それから宗太と竜太郎は、二人でとある計画を立てた。
 現状を変えるにはまず、現在進行形で続いている宗太と寧々の関係性を解消することだった。現在で変えることが出来るものがそれしかなかったのだ。
「まず初めに言っておく。斉藤とお前のどちらかが、この学園を去ること。この方法は避けたい。何故なら卒業するか、退学になるかのどちらかだからだ。僕の言いたいことはわかるな」
 竜太郎は、真剣な顔をしていた。冷静に考えて、卒業も退学も実現するのは大変な事だ。まず前者は宗太たちの意思ではどうにもならない。それを決めるのは教師たちや理事長だろう。
 この学園は、一定の年齢で卒業という概念がない。卒業の条件はただ一つ。能力者ではなくなることだ。そしてそれを審査して通ったら卒業できるという規則だ。
 そして後者は、問題を起こすなどして誘導することは可能だが、これも最終的な判断は理事長になる。
「わかっているよ。卒業はともかく、退学なんてしたらあいつを哀しませることになる」
 宗太が視た斉藤寧々の未来は、おそらくもう少し先の出来事ではないかというのが、竜太郎と話して出た結論だ。では、ほんの数分後の未来を視ることはできないのか。と竜太郎は言った。宗太は今まで力をコントロールするという考えがなかったと答えた。
 竜太郎はこう提案してきた。
「僕と宗太の能力は、時間跳躍ができない。ただ視ることができるだけだ。だから斉藤の直近の未来を視て、どうしたら彼女を傷つけず穏便に別れることができるか考えよう。僕が彼女の過去を視て色々とフォローをする。お前は嫌かもしれないが」
 宗太の未来を視る力は、その未来に到達する過程において、行動を変えたところで変わることはない。それは、宗太が試した結果でわかっていることだ。しかし竜太郎の過去を視る能力は、すでに起こっている出来事を視て、良い方向にも悪い方向にも変えていける能力だ。だからその二つを上手く利用すれば酷いことにはならないのではないかと、竜太郎は考えているらしい。
 まったく彼らしい、と宗太は思った。
 相手の過去を視ることができるということは、相手の弱みを握ることと同義だ。それを使って相手を脅すことだってできるはずだ。だが竜太郎はそんなことはしないと宗太は思う。彼を信頼していなければ、宗太は竜太郎の提案にのらなかった。
 竜太郎はいいやつだ。そのことを知っているから、宗太は彼を信じることが出来る。
「いいよ。そうしよう。頼りにしている」
 単純な想いならば、簡単に別れようと告げれば済む話だった。けれどそれは宗太にはできない。できないぐらいに、彼女。寧々と過ごした時間は大切なものだった。
 彼女と過ごす毎日は、キラキラした宝石みたいに輝いている。とても大事な思い出だった。
「だが問題なのは、どうやって斉藤の手に触れるかだ。僕では、お前のように彼女の手に気軽に触れることはできない」
 竜太郎が眉をひそめながら言った。
「手相をみると言って、触れてみたら」
「冗談を言うな。それでいいならば、お前が斉藤と交際することにした理由がわからなくなる。それに斉藤は占いなど信じないだろう。僕も手相占いなどはできない」
「じゃあ、俺みたいに斉藤と付き合う?」
 宗太が軽口をたたくと、「宗太」と呆れたように目を細めながら、竜太郎が宗太の名前を呼んだ。いい加減にしろとでも言いたげだったので、宗太は肩をすくめて謝った。
「ごめん。これも冗談」
 ひどく悪い冗談だったと、宗太も思った。
 自分が一番傷つく。だがそれも悪くないと思った。これからやろうとしていることに比べたら、小さな傷だったからだ。
「まぁ手に拘らなければ、いくらでも方法はあるんだがな。後ろから肩を叩くとか」
「無難だなぁ」
「残念そうに言うな」
 いかに自然に身体に触れるかの議論をして、そうして最終的にはやはり後ろから話しかけて肩を触ることにした。
 最悪の事態を防ぐために、宗太は寧々と別れる選択をとった。
 寧々の過去を視て、彼女がどういう人生を歩んできたのか。それを知って自分たちがどういう行動をとるのか考える。とても最低な計画だった。けれどやらなければならなかった。
「ごめんね。君のためなんだ」
 本人の目の前で、その言葉を口にする勇気はない。

   4

「斉藤」
 という竜太郎の呼びかけから、この計画は始まる。
 竜太郎が寧々の肩に触れていた。名前を呼ぶとほぼ同時に、右手を彼女の肩に置いたのだ。
「何?」
 何も知らない斉藤寧々がそれに気づき、振り向いた。彼女の視線は竜太郎と、そのすぐ後ろに立っている宗太に向けられた。
 寧々は着けていたヘッドフォンを耳から外し、驚いたように目を丸くしていた。
 宗太は、彼女の気を一瞬でも逸らそうと彼女に話しかける。
「ちょっといい?」
 彼女の気を一瞬でもこちらに向けさせるためだ。竜太郎は能力を使っている間、目を閉じている。動くこともできないので、こうするしかなかった。
「どうしたの二人とも」
 寧々が肩にかけたヘッドフォンを片手に持ったまま、首をかしげている。
 授業の合間の休憩時間だった。廊下に出ていた寧々がどこかへ行こうとしているところを呼び止めた。
「次の授業で使うプリントを配らなきゃいけないんだけど、手伝ってほしいと思って」
 宗太はそう言いながら、両手に抱えるように持っていた紙の束を半分ほど右手に取って渡そうとした。
「別にいいけれど、君たち二人で充分じゃない?」
 寧々の素朴な疑問に、宗太は首を振る。
「まだあるんだ。先生がまだ準備できていないって。忙しそうだった」
 嘘は言っていないが、残りは先生が持ってくるつもりだったところを、宗太たちが親切なフリをして「取りに戻ります」と言って利用したのだ。
 罪悪感がないわけではなかったが、これも寧々のためだと気持ちを誤魔化す。
「そうなんだ。それで、川崎はいつまであたしの肩に手を置いているわけ?」
 指摘されて、心臓がはねる。
「ああ。すまない」
 竜太郎が慌てたように、寧々の肩から手を放す。それから、宗太のほうを向いてアイコンタクトをしてきた。もう充分なようだ。
 寧々は宗太たちをみて訝しんでいたが、教室の中に戻るとプリントを配ることを何も言わずに手伝ってくれた。手際よく枚数を数えて、机に置いていく。
 宗太と竜太郎は寧々を教室に残して、職員室に残りのプリントを取りに行くことにした。道すがら、宗太は竜太郎から過去視の結果を聞く。
「斉藤がこの学園に来た理由がわかった。あいつには妹がいるらしい」
「そうなのか」
 初めて知る事実だった。
「斉藤はここに来る前、素行の良い生徒ではなかったらしい。まぁ、今も良いとは言い難いが。不良だったらしい。それで悪い噂を流されて、それが妹の耳に入った。妹はとても繊細な少女で、深く傷ついていた。あの斉藤の妹だとレッテルを張られ、いじめを受けていたらしい。妹が自殺未遂をした原因が自分だとわかった斉藤は、能力を欲した。妹のどんな小さな声でも聴くことが出来るようにと、願ったんだ」
「それであいつ、耳がいいのか」
「そうだな。僕が視ることが出来たのはそこまでだ。斉藤は能力を手に入れた後も色々あって、この学園に連れてこられたんだろうな。妹の記憶が強かったから、妹に関連する過去を視ることが出来たのだろう」
 竜太郎の言葉に、宗太は納得していた。
 ただ問題はここからだった。その過去を踏まえて、斉藤と別れる計画を立てるのは、沸騰したお湯の中に手を入れるぐらいに勇気のいることだった。火傷をするとわかっているのに、それをしないといけないのは、とても酷なことだ。
「少なくとも避けなきゃいけないことは、悪い噂を流すことだな」
 竜太郎がそう言って、廊下を歩く足を止めた。職員室まで、あと数歩というところだった。少しだけ前を歩いていた竜太郎が、宗太のほうを向いた。
「宗太」
「なんだ」
 名前を呼ばれて返事をすると、僅かな間を開けて、真剣な表情で竜太郎がこう言った。
「お前、斉藤に嫌われる覚悟はあるか」
 宗太は迷わずこう答えた。
「もとよりそのつもりだ」
 たとえどんな結果になっても、最悪の未来のためには悪魔にだってなる覚悟だった。

   5

 授業が終わって、夕食までの空き時間。夕陽が落ちていく速度で、宗太の気分も落ちていった。
 宗太と竜太郎は、男子寮の同じ部屋に住んでいた。二人の狭い部屋には、勉強机と椅子が二脚ずつあり、二段ベッドもあった。
 その部屋に今は宗太と竜太郎ではなく、宗太と寧々がいた。
 男子寮には、女人禁制という規則がある。よほどの例外がない限り許可なく女性職員と女子生徒は、男子寮には立ち入り禁止なのだ。
 しかし宗太たちは今、その規則を破っていた。
 これは竜太郎が立てた計画の最終段階だった。そしてその計画を立てた張本人は、現在この部屋にはいない。何処かで時間を潰していることだろう。
 寮の裏口から誰もいないことを確認して、寧々を招き入れた。部屋に入るまでの廊下を歩くときは緊張した。
「この漫画、この間面白いって言っていたやつ」
 宗太は何食わぬ顔をして、右手に持った漫画を寧々に渡す。
「ありがとう。でも本当にあたしここに居ていいの。ばれたらまずいんじゃない」
 寧々は自分がここにいることがばれることを恐れて、小さな声でそう言った。
「大丈夫。誰か来たらすぐわかるだろう」
 宗太はそう言って、寧々の左耳を指で示して彼女の耳の良さを指摘する。
「そうだけど」
 寧々がすこし困った顔をした。
「自室までは貸出出来るんだけど、漫画は外に持ち出し禁止だからさ」
「どうせルールを破るなら、そっちを破ればよかったのに」
 寧々がそう言って軽く笑う。
「でも、たまにはこういうハラハラドキドキするのもいいかと思って」
「スリル満点だね」
 声が部屋の外に漏れないように、宗太たちは出来るだけ小さな声で笑いあった。
 こうしている間にも、時間はゆっくりと流れていった。宗太たちの目線より上にある壁掛け時計の針の音が、嫌に大きく聴こえる。
「寧々」
 宗太は落ち着いた声で、彼女の名前を呼ぶ。
「ん?」
 寧々が首をかしげる。その手には、先ほど渡した漫画があった。
「付き合ってくれて、ありがとう」
 それはとても深い意味のある言葉だ。色々な意味を含めたありがとうだった。そんなこと、寧々は知ってか知らずか「こちらこそ」と返事をくれた。宗太は微かに笑みを浮かべた。
 それから数十分。寧々が漫画を読んでいる間。宗太は別の漫画を読んでいた。大学生の主人公が、同じ学部の女性と恋に落ちる青春漫画だった。宗太が体験することはないであろうキャンパスライフが繰り広げられていて、羨ましいと思った。
 芸能界にいる限り、普通の学生生活など送れない。そして今も、決して普通の学園生活を送っているとは言い難い。だから、これは宗太にとって、夢物語であった。
 もっと普通に竜太郎や、寧々と出会っていたらともう幾度も考えた。
 一方、寧々が読んでいるのが、少年漫画。料理を作ってバトルするギャグ漫画だった。時折、隣から聴こえる寧々の笑い声が、なんだか心地よかった。ずっとこの時間が続けば良いとさえ思っていた。
 漫画を読み終わると、宗太と寧々は他愛のない話をした。授業の話だったり、休日の過ごし方だったり、男子寮と女子寮の違いの話が、特に面白かった。
 そして午後六時半は、あっという間に来てしまった。
「そろそろ、帰るか」
 宗太は唐突に、寧々にそう尋ねた。
「え。もうこんな時間」
 時計をみて、寧々が驚いたような声を上げる。
 竜太郎との約束の時間だった。彼が帰ってくる時間は、事前に打合せしていた。宗太は重い腰を上げて、座っていた椅子から立ち上がる。寧々のほうをみると、彼女も慌てて立ち上がった。
「誰もいないといいけれど」
 宗太は緊張した面持ちで、部屋の扉の前に行く。
「ちょっと待って」
 寧々が能力を使って、部屋の周辺の音を聴いている様子だった。目を閉じて、集中している。
「足音が近い」
 寧々が呟いた。

   *

 そこからは、もうあまり思い出したくはない記憶だ。
 扉が開くと、そこにいたのは竜太郎と先生だった。宗太と寧々は逃げることが出来なかった。いや。逃げることなど、宗太は最初から考えていなかった。
 これは寧々にとっては酷い裏切りの話だ。宗太の信用は地に落ちた。宗太は、言い訳もせずに先生に寧々を部屋に入れた事実を、正直に話した。そして寧々にも、竜太郎に先生をこの部屋に連れてくるように指示していたことを伝えた。
 勿論この全てが、宗太と竜太郎の計画であることは伝えなかった。
 その日以来、寧々は宗太の事を嫌うようになった。会えば必ずと言っていいほど睨まれるし、きつい言葉が飛んでくる。それに呼応するように、宗太も彼女に対する態度を変えた。
 二十三時の「おやすみ」はなくなったのに、宗太はついカーテンの前に立ってしまう。窓の向こうで、一向に開かないカーテンに淋しさを感じながら、でもこれで良いのだと自分に言い聞かせた。
 宗太と寧々はきちんとした話をせずに別れた。裏切って嫌われるという考えられる中でもっとも最悪な手段で、破局した。
 これで本当によかったのかと、今でも疑問は残る。変な噂が流れないように、細心の注意をはらって行動したつもりだった。彼女との関係を切ってまで、彼女を守りたいと願った。その結果がいつ出るのか、宗太にはわからなかった。
 そう、例の少女に出会うまでは。
(第四章へ続) 

連載小説「あの箱庭へ捧ぐ」第二章

第二章 透し視る

   1

 学校のテストの時間は、いつも憂鬱だった。頭が良いほうではなかったため、悪い点数を取ったら母親に怒られた。丸川玲奈はそれが嫌で仕方がない。事前にテストの内容がわかったらどんなに楽かと、玲奈は思う。かと言ってテスト用紙を盗んだり、テスト中にカンニングする勇気も度胸もなかった。
「はぁ」
 玲奈は、ため息を吐く。
 テストの時間にひとりきりで教室にいて、ひとりきりでテストを受けているこの状況に、すっかり慣れてしまっている自分に嫌気がさしていた。
 黒板。教壇。玲奈の座っている椅子。テスト用紙と鉛筆と消しゴムの置かれた机。この教室には、それだけしかなかった。殺風景なこの部屋は、玲奈のために特別に用意されたものであった。そうしないといけない理由が、玲奈にはあった。
「えーと。これわかんないから適当でいいや」
 そんなふうに呟きながら、玲奈はマークシートの一部を鉛筆で塗りつぶす。こうして独り言を呟いていても、部屋に誰もいないため怒られることはない。どうして先生すら立ち会わないのかは、玲奈が一番よくわかっていた。
 この教室は、監視されている。監視カメラがあるわけではないが、玲奈にはそれがわかる。何故なら玲奈と同じ能力を持った人間が、このうみほたる学園には存在しているからだ。
 一年前。玲奈は母に連れられて、この学園を訪れた。理由は透視能力の発症だった。いつからとは、具体的にはわからない。しかし、いつの間にか玲奈は物体を透視する能力を手に入れてしまっていたのだ。
 そのことに気づいた日。玲奈は恐怖と同時に喜びを感じていた。この能力があればどんなことだってできる。そう思ったからだ。
 この能力に抵抗がないわけではない。他人のカバンの中身や財布の中身を、視ようと思えば視れてしまう。視る必要のないもの。視てはいけないものまで、視えてしまうのだ。それを視てしまえば、無意識に自分が犯罪者になってしまうのも避けられないだろう。そんなことは嫌だった。まっとうに生きることを両親は願っていたし、もちろん玲奈自身もそうでありたいと思っている。
 けれど、どうしても。ひとつだけやってはいけないことが、頭の中を過ってしまう。もう怖いテストの日だって恐れる必要はなくなったのだと。この能力を使えば、カンニングをしても絶対にばれることはないのだと。そう確信したとき、玲奈は思わず笑みをこぼしていた。自分の愚かな考えに自嘲した。
 結局、実行することはなかったのだけれど。

   *

 マークシートを全て塗りつぶし終わったころだった。突然、教室の扉を叩く音がした。まだ終わりの時間でもないはずなのにと、玲奈は首を傾げた。
「失礼します」と職員室にでも入るようなかしこまった態度で、その少年は扉を開けた。玲奈は首を傾げたまま、「はい」と返事をした。鉛筆を机に置くと、玲奈は両手を膝の上に乗せた。
 眼鏡をかけた少年は教室に入ってくるなり、「テスト中に失礼します。記入は終わったと思いますが」と衝撃的なことを口にした。
「どうして」
 わかるんですかと問いかけて、玲奈は気づく。この少年の顔に見覚えがあることに。そう、玲奈は彼に会ったことがある。確か、玲奈と同じような能力で、テスト中に玲奈の監視を任されている人物。川崎竜太郎である。
「忘れてしまいましたか。僕の能力は、どんなに遠くでも見通せる能力です」
「すみません。テストが終わって気が抜けているんです。頭が回っていないと言いますか」
 玲奈はそう言いながら、右手で頭部に触れる。
「そうですよね。こんなときにすみません。でも、今の時間でないとタイミングがなかったものですから」
「今の時間?」
「はい。あなたがマークシートをすべて埋め終わった今の時間。テストの時間がまだ終わっていないこの、少しもてあます時間です」
「それは本来、見直しする時間だと思うのですが」
 テストの時によく先生が、記入し終わってもテストは時間いっぱい見直しをしましょうと言うものだ。確かに彼の言うとおり、見直しなど数分で終わるので時間をもてあますかもしれないが。
「それは失礼しました。どうぞ、見直してください」
「その間、あなたはどうしているつもりですか」
「外に出て、もう一人の子と一緒に待っていますよ」
「もうひとり?」
 尋ねると、彼は頷いた。
「はい。いるんです。教室の外に」
 玲奈の透視能力には、欠点がある。近くの対象物しか透視できないことだ。対象物に触れると精度は上がるが、逆に言えばそのぐらいの距離にいないと使えないということだ。
 だから教室の外の廊下を、玲奈は透視することが出来ない。
「では」と彼は言ってさっさと教室を出て行く。玲奈はなんなのだろうと首をかしげながら、マークシートをもう一度確認する。先ほどの彼が気になって、玲奈は集中することが出来なかった。しかたなく、滑るように視点を動かして、見直しをする。終わるのに、二分もかからなかった。

   2

 テスト用紙を再び机に置いたころだった。先ほどと同じように、川崎竜太郎は教室に入ってきた。しかしさっきと違ったのは、小柄な少女を連れているところだった。先ほど言っていたもうひとりが、彼女だと理解するのは一瞬だった。
「失礼します」と川崎が言うのに続いて、その女の子も小さなか細い声で、同じように言った。まるで親の真似をするひな鳥みたいだなと思った。
「丸川さん。紹介します。彼女は、小池燐音さんです」
 川崎が促して、小池は頭を下げた。そしてまたか細い声で、「初めまして。よろしくお願いします」と挨拶をした。
「彼女は僕の、助手ということになりますかね」
「助手? 川崎くんは、探偵か何かやっているの」
 助手と聞いて真っ先に浮かんだのがそれだった。冗談を言ったつもりはなかったが、「そうだったら良いんですけれど」と言って川崎が笑った。
 川崎も笑うことがあるのだなと、玲奈は漠然と思う。なんとなく、笑わない人だと思っていた。
「それで、川崎くんと小池さんがこの時間にここに来た理由は?」 
 玲奈は単刀直入に聞いた。気になって仕方がなかった。
「僕らがこの時間にこの教室を訪れた理由は、ただ都合がよかったからです。この時間であれば、他の誰にも邪魔をされずにあなたと話ができる。と」
 教室には玲奈と川崎と小池の三人だけだった。
「小池。あれを」
 川崎が、小池に目配せする。
 小池はそれまでずっと、何か袋のようなものを右手に持っていた。気にならなかったわけではない。玲奈自身に関係のあるものだとは思っていなかったのだ。
 白と黒のストライプ柄をしたビニール製の手提げ袋。学園内にある雑貨屋さんで貰えるものだ。雑貨屋「ライフ」可愛い文房具や小物が売っている。学園では、毎月現金で三千円の支給があるため、そのお金で好きなものが買えるのだ。しかし、種類が豊富なわけではないのでえり好みはできない。店員は年齢が二十代以上の人たちばかりで、ほとんどが能力者だった。
 袋は何か入っているのか、僅かに膨らんでいた。小池は川崎に促されて、少し慌てたように袋を開いてその中に左手を入れる。そうして彼女が取り出したのは、どこか見覚えのある小物入れだった。それは、小池の小さな手の平におさまるほどの大きさで、外装は紺色に塗られてるスチール製の箱だ。ところどころ錆びている。
「なに。それ」
 玲奈は顔をしかめながら尋ねた。
「実はあなたに、頼みたいことがあります」
 川崎は箱を小池から受け取ると、そう言った。
「頼みたいこと? その箱に関することなの」
 玲奈の中で、また疑問が生まれる。ひたすら首を傾げるしかなかった。
「ええ。一言で伝えます。この開かずの箱を、あなたに透視してほしいのです」
 真面目な顔をして、川崎が言った。
 玲奈には彼が何を言っているのか、まったくわからなかった。どうしてその必要があるのか理解できなかった。川崎の能力で玲奈と同じことが出来るはずなのに、どうして彼は自分で視ないのだろう。何か理由があるのだろうか。
「それは、川崎くんには出来ない事なの」
 玲奈は素直に疑問をぶつけてみる。
「はい。あなたではないと意味がないのです」
 そう言って川崎は頷いた。
「どういうこと。私に関係がある箱ってこと? 身に覚えがないんだけれど」
「そうですね。あなたが知らないのも当然です。これは、あなたの家族から受け取ったものですから。そして本来ならば、あなたに渡さずにあなたの卒業まで厳重に保管されるはずでした」
 川崎の言葉に、玲奈は思わず目を見開く。
 家族から。という事実に信じられない気持ちになったが、それよりも本来ならば知らされずに保管されるはずだったものを、どうして玲奈にみせたのか。彼の考えがよめない。
「この箱には、おそらくあなたに関連したものが入っていると思います。だから僕が視るわけにはいかないのです」
 怖いという感情が、玲奈の胸の奥で嵐のように吹き荒れる。右手で、左手を掴む。体が震えているような気がしてならなかった。幸いにも、そんなことはなかったのだが。
「もしそうだとしても。私には、それを視ることはできないわ」
 しばらくの間の後、玲奈は言った。
「どうして」と川崎が尋ねてくる。
「私にとって良いものが入っているとは、思えないからよ」
 玲奈の言葉に、川崎は何も返しては来なかった。困っているのかもしれないし、真面目な顔のまま、何かを考えているのかもしれなかった。玲奈には川崎が何を考えているのかわからない。けれどそれは玲奈の本音だったものだから、訂正する気はなかった。
 しばらく沈黙が流れた。それを破ったのは、意外にもずっと黙っていた小池だった。
「あの。そうとは限らないのでは、ないかと」
 言葉の最後は自信がなさそうに消えていった。彼女は玲奈と目を合わせようとしない。それを不快だとは思わないが、もっと自信を持てばいいのにと、憤りを感じた。
「どうしてそう思うの」
 強い言葉にならないように気を付けたつもりだったが、果たしてそれが彼女に伝わったかどうかはわからなかった。今にも泣き出しそうにみえるその瞳は、水面に反射する日差しのようで、今の玲奈には眩しかった。
 玲奈は、小池の返答を待っていた。小池の隣に座っている川崎も、彼女の言葉を待っている様子だった。彼女のことをみつめている。
「あなたは先ほど、身に覚えがないと言いましたが、本当はそうではない。と思います。あなたはただ怖がっているだけ、なのだと思います」
 何かに慌てたように、小池は言った。
「それは……」
 玲奈は何も言い返せなかった。確かに彼女の言うとおり、箱にまったく見覚えがないわけではない。しかしどこでみたのか、思い出せないのだ。
「思い出してください。それはきっと大切な記憶です」
 小池は勇気を振り絞るように、そう言いながら箱を玲奈の机の上にそっと置いた。繊細なものを扱うかのような手つきだった。
 それをじっとみつめていた彼。小池の隣に座っている川崎が、何かに頷いた。
「丸川さん。実は僕、もうひとつ能力を持っているのですが。今、きっとあなたの役に立つと思います」
「え?」
 唐突な川崎の言葉に、玲奈は本日何回目かわからないが、首を傾げた。
「僕は、他人の過去を視ることが出来ます。信じられないかもしれませんが」
 川崎はそう言って眉をハの字にした。
 玲奈は首を横に振る。
「信じられないものは、ここじゃ普通でしょう。だから、気にしないで。でも、その能力は本当に今、役に立ちそうね」
 ふぅっと玲奈は息を吐く。自分の過去を覗かれることに、気持ち悪さを感じないわけではない。しかしそれしかこの胸の中にあるもやをはらせないのなら、川崎の能力に頼るしかないと、玲奈は思った。
 川崎は微かに頬を緩めた。
「箱の記憶だけ、視てもいいですか」
「お願いしてもいい?」
「はい」
 川崎は頷いた。それからゆっくりとパイプ椅子から立ち上がり、座ったままの玲奈の前に、右手を差し出した。
「どちらの手でも構いません。触れないと視られないのです」
「わかったわ」
 玲奈は握手をするように、右手を差し出した。
 川崎がその手に触れると、両目を閉じた。彼の手は、温かかった。

   3

 玲奈の祖父が亡くなったのは、中学一年生の頃だった。
 玲奈にとっての祖父は、温厚で優しい人物であったが、それは玲奈の母にとってはそうではなかったらしい。玲奈の祖父は、母の父親でもあった。母にとっての祖父はとても厳格な人で、そんな祖父が一度だけ、母に贈り物をしたことがあるという。
 それが、紺色の小物入れの中身だった。
「私が社会人になるときにね。これを贈ってくれたのよ」
 母は嬉しそうに言った。
「でも私、鍵を失くしてしまったのよね」
 そしてそう言うと、すぐに表情を曇らせた。
 紺色の箱には鍵穴があり、鍵がないと開かないようだった。
「何が入っていたのかも、もう思い出せないわ」
 哀しそうな母の表情に、玲奈も哀しい気持ちになった。
 その話を母から聞いたのは、まだ祖父が亡くなる前だ。その頃の母は、まだ玲奈にとって優しい母親であった。
「どうして、そんなに大切な箱なのに、鍵を失くしたの」
 と玲奈が尋ねると、母は困ったようにこう言った。
「仕事の忙しさにかまけて、箱の存在を忘れていたの。それで、鍵もいつのまにかどこかへいってしまった。恥ずかしい話ね」
 どうして今になってその箱をみつけてしまったのか、母はわからないと言った。せめて中身のことを思い出せればと言う。
「探そうとはしなかったの」
 そう尋ねると、母は言った。
「探したわよ。部屋中をくまなく。でも結局、みつからなかった」
「おじいちゃんは、このことを知っているの」
「言っていないけれど、多分気づいていると思う。あんまり口をきいてくれないから」
 母はそう言うと、淋しそうに笑った。
 祖父が亡くなる直前、何があったのか玲奈は知らない。もしかしたら箱の事で喧嘩したのかもしれないと思っている。何故なら祖父の亡くなった日。玲奈が学校から帰ると母は不機嫌で、そのあとすぐに病院から電話がかかってきたのを覚えているから。

   *

「結局。箱の中身が何か、わからずじまいだったな」
 小池と共に廊下を歩きながら、竜太郎は言った。
 堀田理事長から洸生会に依頼があったのは、つい先日の事だった。丸川玲奈の母親から箱を預かった。この箱を玲奈に渡してほしいと言伝されたという。原則、卒業するまでは外部からの荷物は衣類品以外渡せない。それが学園の規則なのだから理事長も本来ならば卒業まで箱を保管、又は返却するつもりだった。しかし、洸生会の依頼にしてしまえば話は別らしい。理事長のずるさが垣間みえた。
 母親の真意はわからない。娘に渡せばこの箱の中身を彼女が知ることが出来る。それをわかっているはずだ。ただ丸川と母親の関係性を理事長から聞いていたので、簡単には箱の中身をみないだろうと竜太郎は思った。だから丸川本人に直接提案してみたのだ。箱の中身を透視してほしいと。
「うん。もう視るしかなさそう」
 小池が頷きながら言う。
「視てくれると思うか」
 竜太郎が尋ねると、小池は長い髪を揺らしながら頷いた。
「きっと、視るよ」
 小池の言葉に力強さを感じて、竜太郎は足を止めた。小池もどうしたのとでも言いたげに足を止めた。
「何で、そう言い切れるんだ」
「だって、丸川さん。お母さんの事が大好きだから」
 小池の言葉に、竜太郎は目を丸くした。
 理事長から聞いていたのは、丸川玲奈は透視能力のせいで、カンニングの疑いをかけられた。それを知った母親との関係が悪化したという事情だ。
 だからお互い嫌っている。と竜太郎が勝手に思っていたのかもしれない。
 小池は人の心をよむことが出来る能力を持っている。丸川は母親の事を嫌ってはいない。彼女が言うなら、そうなのだろう。と竜太郎は思い直し納得した。
「そうか」
 竜太郎はそう言って、また歩き出した。小池もそれに続くように、竜太郎の後ろをついてくる。
 やれるだけのことはやった。自分たちが彼女の役に立てたのか。それを知るのはもう少し後の事だろう。
 あとは丸川玲奈。彼女次第だった。

   4

 きっかけは何気ない一言だった。
「カバンの中、もうちょっと探したら。底のほうにあるよ」と、玲奈は定期券を失くしたと騒いでいたクラスメイトに対して、そう助言をしたのだ。もちろん能力を使わない限り、そんなことはわかるはずがない。でも玲奈はわかってしまったのだ。透視能力があったから。
 ただの親切心で、能力を使ったつもりだった。玲奈にもまだそんな良心が残っていたことを褒めてほしいぐらいだった。
 定期券は本当にカバンの底のほうに隠れていて、クラスメイトの彼女はそれをみつけると、すごく喜んでいた。お礼を言われたが、同時に不信感を抱かせてしまった様子で、「どうしてわかったの」と、彼女は驚いたように目を丸くしながら言った。
 玲奈は焦りを感じたが、それを必死に顔に出さないようにした。
「えっと。そうじゃないかなって。ほら、定期券て薄っぺらいでしょ。パスケースに入れていたとしても鞄の中で横になっていたら、他の物に隠れていてみつからない時ってあるじゃない」
 玲奈の言い訳に納得してくれている様子だったが彼女は終始、首を横に傾げていた。
 玲奈がしたことは普通じゃない。ありえないことに対して、疑問を持つことは真っ当だ。「ねぇ、丸川さんもしかして透視能力でも使ったの」
 彼女は冗談交じりに、笑いながら尋ねてきた。
「え?」
 玲奈は動揺が隠せなかった。
「だってさ。そうでもないとあり得ないじゃん。何だっけ。最近はやりの能力病でも発症したの」
 彼女の質問に、玲奈は必死に声の震えを抑えた。
「そ、そんなわけないじゃない。あれって社会不適合者とかがなるやつでしょ。私は普通に学校に通っているし、不登校になったわけじゃない。だからあり得ないよ」
 世間的には、社会不適合者が能力を発症する確率が高いと言われている。そのため病気と言われたりしている。そのことは、ニュースでも取り上げられているため誰でも知っている情報だった。
「それもそっか」
 そう彼女は笑って返していたが、次の日からなんだか嫌な噂が流れるようになった。このクラスに、能力者がいるという噂だ。
「まじかよ」
「ほんとだって」
 教室にいると、嫌でも会話が耳に入ってくる。
「透視能力とか、一度は夢見たやつじゃん」
「お前、あんな噂本当に信じてるのか」
「全部透けて視えるのかな。体とか骨まで視えたらもうレントゲンいらないだろ」
 クラスメイトの男子が、けらけらと笑っていた。
 視ようと思えば視えるけれど。と玲奈は口には出さずに思った。
 噂が落ち着くまでは何を言われても仕方のないことだなと諦めながら、明日から始まる憂鬱なテストのことを考えていた。
 また悪い点数を取ったら、母親に怒られる。そのことだけが頭の中を駆け巡る。もういっそのこと、透視能力を使って他の人の回答を盗み視ようか。でも変な噂が流れているこの状況で能力を使ったら、自分が能力者だと確定してしまう。
 悪い考えが、頭の中で浮かんで消えてを繰り返した。それはテストの直前まで続いた。

   *

 玲奈はテスト期間中、最後までカンニングをしなかった。
 勇気がなかった。たったそれだけの理由だ。母に怒られるのは嫌だが、落胆させるのはもっと嫌だと思ったからだ。だから真面目にやることにした。後悔するかもしれない。なんて思うが、行動してもっと嫌なことになるぐらいならやらないほうが良いと思った。それにせっかく勉強したのに、その努力を水に流すことになる。
 テストがすべて無事に終わり、帰り支度をしていた時だった。
「あーあ。透視能力でもあったらテストも楽なのにな」
 誰かが言った。テストの事で頭がいっぱいで、誰もがその噂を忘れていたと思うのに、蒸し返す者がいた。
「他の人の答え視られるじゃん。ねぇ、丸川さん」
 名指しされて、心臓が跳ね上がった。
 何も悪いことはしていないはずなのに、冷や汗を掻いている。
「え?」
 大波が玲奈のほうへと押し寄せてきているような気がした。おそるおそる声の主の方をみると、以前玲奈が透視能力を使ってなくしものを探してあげたクラスメイトの女の子だった。
 教室にいた担任の先生が、彼女の発言に反応する。
「どういうことだ。それは」
「実は……」
 そうしてクラスメイトの彼女。もう名前も思い出したくない彼女が、あることないことを説明しはじめた。
 パスケースの件は真実だが、その後のカンニングの話はすべて作り話だ。偽物だった。それをさも事実かのように彼女が話すものだから、その場にいた者たちはそうかもしれないと思ってしまったのだ。
「透視能力が、あるのか」
 と先生に問われ、玲奈は否定しなかった。良くも悪くも正直者だったのだ。嘘をつけなかった。それがよくなかった。
「でも、カンニングはしていません」
 誰も玲奈の言葉を信じてくれなかったのだ。
 本当です。信じてください。そう言っても先生は疑うのをやめなかった。玲奈のテスト用紙をすべて確認して、間違っている問題があるにも関わらず、ばれないようにわざと間違った答えを書いたのだろうと結論を出した。透視能力があるからという理由だけで、玲奈のすべてを否定した。玲奈の能力の事をよく理解もせずに、カンニングしたと決めつけた。
 そこにあるのは悪意だった。
 学校に呼び出された母はカンニングの件を聞くと、最初は「そんなことをするはずがない」と味方してくれていたが、透視能力の話を聞くと、顔を青ざめた。
「それは本当なの」と玲奈に事実を確認してきたので、玲奈は透視能力のことだけを肯定し、カンニングのことは否定した。
 母は酷く落胆したような表情をしてこう言った。
「もういいわ」
 それは呆れから発せられた言葉だったと思う。
 母さえも、玲奈の言葉を信じてはくれないのだとそのときに理解した。玲奈はもう何を言っても無駄だと思った。だからそれ以上何も言わなくなった。 
 結果を言えば、透視能力を使った証拠がないということで、自宅謹慎ということになった。その間、玲奈は母と一度も会話をしなかった。父は仕事ばかりでいつも家にいない。
 ここからは理事長から聞いた話だ。
 母から、うみほたる学園という能力者たちを集めている学園に電話があったらしい。娘が透視能力を発症したと相談を受けたという。どうしたら良いのかわからないのでそちらで引き取ってほしいと。理事長はすぐに丸川家へと向かったそうだ。
 そうして玲奈は、うみほたる学園へ入学することになった。
 これが一年前の話である。

 5

 小さな紺色の小物入れの箱が、玲奈の自室の勉強机の上に置いてある。玲奈はそれをじっとみつめて、集中していた。
 女子寮なので同室の女の子がいたが、その子は外出中だ。どこへ行ったのかは知らないが、しばらく戻っては来ないだろう。
 玲奈が箱とにらめっこをして何分経ったのかはわからない。ただ椅子に座ったままずっと透視するかどうか悩んでいたのだ。
 この箱を渡された意味を、ずっと考えている。
 川崎の過去を視る能力でこの箱の記憶を聞いて、玲奈は箱について思い出した。母の大事なものを、どうして母が私に渡そうとしたのか。理由がわからない。わからないから怖い。
 小池が指摘したとおり、玲奈はただ怖がっているだけなのだ。
「あの子。エスパーみたいな能力でも、持っているのかな」
 呟くように玲奈は言って、困ったように眉をハの字にしてひとりで笑う。
 玲奈は深く呼吸し心を落ち着かせる。それから箱の上部にゆっくりと右手の人差し指で触れた。
 能力を使うと、箱の中身が透けて視えてくる。
「これは、万年筆と、紙?」
 その紙は、カードのように小さなものだった。そこにはこう書かれている。

『就職おめでとう。君の未来が、とても明るいものでありますように』

 名前は書いていなかったが、達筆なその文字をみて玲奈はすぐにそれを書いたのが祖父であると気づいた。
 玲奈は箱からゆっくりと手を離す。やはり玲奈がみて良いものではないと思った。これは母に贈られたものだ。祖父から母への愛の詰まったものだ。
 そう思いながら、玲奈は椅子から立ち上がった。
 母にこの箱を、返さなければならない。

   *

 丸川玲奈が竜太郎の所へやってきたのは、箱を渡した翌日の事だった。クラスを教えていたので、彼女は授業の合間の休憩時間に竜太郎の教室にやってきた。
 竜太郎は丸川が教室の前で立ち止まるころには、彼女の前に居た。竜太郎の持つもう一つの能力。どんなに遠くのものでも視えてしまう眼で、丸川が教室に向かってきていることを知っていた。
「びっくりした。今、呼ぼうとしていたのに」
 当然、丸川は驚いた顔で竜太郎の事をみた。
「呼ばなくても、視えるので。用があって来たのでしょう」
「そうだったわね。あなた、視えるんだった」
 丸川がそう言って頭を掻く。
 竜太郎は丸川に、廊下の端まで歩くように伝えた。二階の廊下の行き止まりには、すりガラスの窓があった。その前まで来ると、竜太郎と丸川は立ち止まる。
 本当はこの場に小池燐音も呼んで、玲奈の心をよんでほしかったが、そう都合よく彼女は居ない。斉藤寧々と一緒にどこかへ行ってしまったからだ。
「これ」
 丸川が雑貨屋の袋を竜太郎に向かって差し出す。中身は視なくてもわかっていた。丸川の母親から受け取った箱だ。どうやら彼女は、それを竜太郎に渡すために教室に来たらしい。箱の入った袋を胸に押し付けるように渡してくるので、竜太郎は仕方なく受け取る。
「視たの。中身。何が入っていたと思う?」
 丸川の問いに、竜太郎は答える。
「社会人になったときのお祝いです。それを長期で放置していたのですから、お菓子類ではないでしょうし。小さな箱に入っているので、何となくですが予想はできます。おそらくペンか何かかと」
「ほとんど正解かな。万年筆だったよ」
 丸川はそう言って微笑んだ。
 少し嬉しかったが、竜太郎は顔に出さなかった。他の事を考えていたからだ。
 洸生会への依頼は、丸川玲奈に箱を渡すことだ。透視を頼んだが、本来の目的は達成している。箱を返されても困るのだ。
「あのさ、川崎君。一つだけお願いしてもいい?」
 真剣な表情の丸川に、竜太郎は思わず「何ですか」と返す。
「あなたと小池さんが、誰に何を頼まれていたのか知らないけれど、私はこの箱を受け取れない。中身を知った今だから、なおさら思う。この箱を、持ち主に返してほしいの」
「それは」
 竜太郎は額に眉を寄せた。
 箱を母親に返すということがどういうことなのか。丸川は理解しているのだろうかと、竜太郎は思っていた。小池はどう転んでも良いと思うと言っていた。それが丸川の選択だと。だが竜太郎の考えは違った。
 丸川の母親は、鍵をなくして開かなくなった箱を娘に渡したかった。彼女に箱の中身を視てほしかったのだ。そこに何か意図があるはずだ。
 中身は万年筆だと丸川は言った。果たしてそれは本当の事だろうか。
「丸川さん。あなたのお母さんがこの箱をあなたに渡したかった理由を、理解していますか」
 竜太郎はいつになく真剣な眼差しで、丸川をみつめた。
 肩までの黒い髪の毛が、不安そうに揺れていた。
「みて見ぬふりをしていませんか」
 丸川が目を見開く。
「わかっている」と言った彼女が一歩後ずさるのを、竜太郎は見逃さなかった。
「お母さんは、ただこの箱の中身が知りたかったんでしょう。だから私にこれを渡すように頼んだ。違う? だから返すのよ。あなたに頼みたいのは、箱の返却と、中身が万年筆だったって母に伝えてほしいの。それとメッセージカードに書かれていた言葉」
 そこまで言って、丸川が口を右手で押さえる。彼女にとってそれは、余計なことまでいってしまったということだろう。
「メッセージカード」
 竜太郎は気になった単語を繰り返す。とても重要なことのような気がした。
「何と書かれていたんですか」
 竜太郎の質問に、丸川は観念したように口から手を離した。
「就職おめでとう。君の未来が、とても明るいものでありますように。って。でもこれは、祖父が母に向けたメッセージで、私にはなにも関係がない」
 答えながら丸川が首を振る。
 丸川の母親が本当に伝えたかったことが、竜太郎にはなんとなく理解できる気がした。
 竜太郎は柔らかく笑う。
「本当にそうでしょうか。そのメッセージは、あなたの母親が伝えたかった言葉と同じなのではないですか。誰かに何かを贈るという行動は、良くも悪くも相手の事を想ってすることでしょう。あなたの記憶を視たところ、この箱はお祝いのために贈られたものです。あなたの母親は、あなたのことを想ってこの箱をあなたに渡してほしいと言ったと思います。ですから――」
「だとしてもよ」
 竜太郎の言葉を遮るように、丸川が声を荒げた。
「そうだとしても、私は。私たちの未来は、決して明るいものにはならない。あなただってそうでしょう。能力が使えるようになって、病気だって言われて。いつ治るかわからないって言われて。私、知っているのよ。この学園から卒業して外の世界に戻った人はほとんどいないって。つまりそれは、一生治らないかもしれないってことでしょう」
 彼女は過去に囚われたままなのかもしれない。と竜太郎は思った。確かに能力を発症する病気は、いつ治るかわからない。けれど、絶対に治せないわけではない。そのためにつくられたのが洸生会なのだ。
「それは違います」
「何が違うっていうのよ」
「一生治らないってことはないです。卒業生だってゼロではありません。ちゃんと前例はあります。明るい未来だってあります」
 竜太郎の言葉に、丸川が目を見開いた。その瞳は水面のように揺れている。
 嘘はひとつも含まれていなかった。事実、過去に何人かは卒業している。ただ彼女が知らないだけである。原因は卒業式を大々的に行わないからだろう。卒業のタイミング。つまりは能力者が能力を失うタイミングが決まっているわけではない。学園という体裁をとってはいるが、個人が重視されているため、内輪のお別れ会はあっても行事としての卒業式は行われないのである。入学式も同じだ。なので、いつの間にか入学してきていつの間にか卒業しているなんてことが、ざらにあるのだ。
 竜太郎は丸川に、悲観してほしくはないと思った。自分たちの未来を、勝手に否定してほしくなかったのだ。
「ほん、とうに?」
 かすれた声が、丸川の口から零れた。
 竜太郎は黙って頷く。それから丸川に袋を返した。
「だからそれは、受け取ってください。僕たちはあなたの母親に、あなたの手にその箱が渡ったことを伝えなければなりません」
 丸川が震えた手で、箱の入った袋を受け取る。彼女は自分の顔を隠すように袋を持ち、身体を震わせていた。泣いているところを、竜太郎にみられたくないようだった。
 丸川は嬉しくて泣いているのだと、竜太郎は勝手に思った。そうでないといけなかった。そうでないと、誰も救えないのだ。

 6

 空は気持ちのいいほど晴れていて、玲奈は前を歩く米田先生の後を歩きながら、これから会う人たちの事を考えている。
 両親が面会に来た。米田先生にそう告げられた時、玲奈は自分の耳を疑った。この一年間、一度も面会に来なかった両親が来てくれたことに信じられない気持ちになった。
 何か心境の変化があったことだけは、確かなのだろう。この右手に持った袋の中に入った箱のおかげだろうか。
 会っていない時間を埋められるとは思えないけれど、それでも今は落ち着いて話ができるような気がしていた。
 明るい未来が本当にあるのなら、それは家族と一緒のほうがいい。そうに決まっている。
 学園本部の高い建物の中に、来客用の個室がある。玲奈はその部屋に通された。そこで待っていたのは、セミロングの髪型をした母親と、恰幅の良い父親だった。二人はどこか緊張した面持ちでソファに座っていた。
「それでは、二時間ほどしたらもう一度来ます。それまでは家族の時間をゆっくりとお過ごしください」
 米田先生が言った。軽く頭を下げる。
 玲奈は頷いたが、たった二時間しか両親と話をする時間がないのか。とも思った。
 残念な気もするが、一時間も話が持たない気もしていたので、妥当な時間なのかもしれなかった。
「ひ、久しぶりだな」
 たどたどしい口調で、父が言った。
「うん。久しぶり。元気だった?」
 玲奈は少し意外に思っていた。この場に母だけではなく、父まで来た事に。
「元気だ。それより悪かったな。長いこと面会に来てやれないで。淋しかったんじゃないか」
「私の事なんか忘れちゃったんじゃないかって思っていたよ。でも大丈夫。友人もいるし、ここでの生活に慣れちゃったから」
 そこまで言って、これはただの強がりだと素直に言えばよかったと後悔した。
「そうか」
 父はそう言ってから、口を閉じてしまった。
 玲奈は父と母の向かい側のソファに座った。二つのソファの間には、木製のローテーブルがある。玲奈は自分を落ち着かせるように呼吸すると、持っていた袋から小物入れを取り出して、テーブルの上に置いた。
 今日、何故二人がここに来たのか、玲奈は理由を考えていた。川崎の言った通り、この袋の中の小物入れが関係しているのなら、玲奈はそれを確かめなければならなかった。
 父と母の視線が、テーブルの上に置かれた小物入れへと集まっている。
「今日ここに来た理由。この小物入れと関係しているの」
 玲奈は勇気を出して、父と母にそう尋ねた。
 母は静かに口を開いた。
「その箱は、自室を整理していた時に偶然みつけたのよ。とても懐かしい気持ちになってね。その後、箱の鍵を一生懸命に探したの。時間はかかってしまったけれど、やっとの思いで探し出して、中身を確認したわ。それで、これをあなたにもみせたいと思って、理事長さんに託したの。あなたがそれを持っているということは、中身を視たのよね」
 母の問いに、玲奈は素直に頷いた。
「うん」というと、母は安堵した表情をみせた。
「でも鍵があるのなら、どうして能力を使わせたの」
 素朴な疑問に、母は首を横に振った。
「それは理事長さんの提案にのらせて頂いただけよ。あなたのことだから、普通には受け取ってくれないだろうって。私も同じように思ったから承諾したの」
 理事長も母も、玲奈の性格をよく知っているようだった。だから回りくどいやり方で、玲奈に箱の中身をみせた。それを理解して、玲奈は少しだけ顔を綻ばせた。
「それからお父さんとお母さん。ちゃんと話し合って、お互いに反省したの。あなたのことを考えてあげられてなかったことに気づいたの。不思議ね。その箱に。いいえ、お父さんに気づかされたみたいだった」
 そう言う久しぶりに見る母の顔は、少しやつれていた。
 母の言葉に、玲奈は祖父の顔を思い出してみる。晩年の祖父は優しく、朗らかな表情で、玲奈の名前を呼んでくれていた覚えがある。
「あの時は、信じてあげられなくてごめんね」
 それはとても温かな言葉だった。
「それから、改めてこの言葉を送るわ。あなたの未来が、とても明るいものでありますように」
 玲奈の心の中で固まっていた氷が、母の一言で溶けていくような気がした。

(第三章へ続)