連載小説「あの箱庭へ捧ぐ」第二章

第二章 透し視る

   1

 学校のテストの時間は、いつも憂鬱だった。頭が良いほうではなかったため、悪い点数を取ったら母親に怒られた。丸川玲奈はそれが嫌で仕方がない。事前にテストの内容がわかったらどんなに楽かと、玲奈は思う。かと言ってテスト用紙を盗んだり、テスト中にカンニングする勇気も度胸もなかった。
「はぁ」
 玲奈は、ため息を吐く。
 テストの時間にひとりきりで教室にいて、ひとりきりでテストを受けているこの状況に、すっかり慣れてしまっている自分に嫌気がさしていた。
 黒板。教壇。玲奈の座っている椅子。テスト用紙と鉛筆と消しゴムの置かれた机。この教室には、それだけしかなかった。殺風景なこの部屋は、玲奈のために特別に用意されたものであった。そうしないといけない理由が、玲奈にはあった。
「えーと。これわかんないから適当でいいや」
 そんなふうに呟きながら、玲奈はマークシートの一部を鉛筆で塗りつぶす。こうして独り言を呟いていても、部屋に誰もいないため怒られることはない。どうして先生すら立ち会わないのかは、玲奈が一番よくわかっていた。
 この教室は、監視されている。監視カメラがあるわけではないが、玲奈にはそれがわかる。何故なら玲奈と同じ能力を持った人間が、このうみほたる学園には存在しているからだ。
 一年前。玲奈は母に連れられて、この学園を訪れた。理由は透視能力の発症だった。いつからとは、具体的にはわからない。しかし、いつの間にか玲奈は物体を透視する能力を手に入れてしまっていたのだ。
 そのことに気づいた日。玲奈は恐怖と同時に喜びを感じていた。この能力があればどんなことだってできる。そう思ったからだ。
 この能力に抵抗がないわけではない。他人のカバンの中身や財布の中身を、視ようと思えば視れてしまう。視る必要のないもの。視てはいけないものまで、視えてしまうのだ。それを視てしまえば、無意識に自分が犯罪者になってしまうのも避けられないだろう。そんなことは嫌だった。まっとうに生きることを両親は願っていたし、もちろん玲奈自身もそうでありたいと思っている。
 けれど、どうしても。ひとつだけやってはいけないことが、頭の中を過ってしまう。もう怖いテストの日だって恐れる必要はなくなったのだと。この能力を使えば、カンニングをしても絶対にばれることはないのだと。そう確信したとき、玲奈は思わず笑みをこぼしていた。自分の愚かな考えに自嘲した。
 結局、実行することはなかったのだけれど。

   *

 マークシートを全て塗りつぶし終わったころだった。突然、教室の扉を叩く音がした。まだ終わりの時間でもないはずなのにと、玲奈は首を傾げた。
「失礼します」と職員室にでも入るようなかしこまった態度で、その少年は扉を開けた。玲奈は首を傾げたまま、「はい」と返事をした。鉛筆を机に置くと、玲奈は両手を膝の上に乗せた。
 眼鏡をかけた少年は教室に入ってくるなり、「テスト中に失礼します。記入は終わったと思いますが」と衝撃的なことを口にした。
「どうして」
 わかるんですかと問いかけて、玲奈は気づく。この少年の顔に見覚えがあることに。そう、玲奈は彼に会ったことがある。確か、玲奈と同じような能力で、テスト中に玲奈の監視を任されている人物。川崎竜太郎である。
「忘れてしまいましたか。僕の能力は、どんなに遠くでも見通せる能力です」
「すみません。テストが終わって気が抜けているんです。頭が回っていないと言いますか」
 玲奈はそう言いながら、右手で頭部に触れる。
「そうですよね。こんなときにすみません。でも、今の時間でないとタイミングがなかったものですから」
「今の時間?」
「はい。あなたがマークシートをすべて埋め終わった今の時間。テストの時間がまだ終わっていないこの、少しもてあます時間です」
「それは本来、見直しする時間だと思うのですが」
 テストの時によく先生が、記入し終わってもテストは時間いっぱい見直しをしましょうと言うものだ。確かに彼の言うとおり、見直しなど数分で終わるので時間をもてあますかもしれないが。
「それは失礼しました。どうぞ、見直してください」
「その間、あなたはどうしているつもりですか」
「外に出て、もう一人の子と一緒に待っていますよ」
「もうひとり?」
 尋ねると、彼は頷いた。
「はい。いるんです。教室の外に」
 玲奈の透視能力には、欠点がある。近くの対象物しか透視できないことだ。対象物に触れると精度は上がるが、逆に言えばそのぐらいの距離にいないと使えないということだ。
 だから教室の外の廊下を、玲奈は透視することが出来ない。
「では」と彼は言ってさっさと教室を出て行く。玲奈はなんなのだろうと首をかしげながら、マークシートをもう一度確認する。先ほどの彼が気になって、玲奈は集中することが出来なかった。しかたなく、滑るように視点を動かして、見直しをする。終わるのに、二分もかからなかった。

   2

 テスト用紙を再び机に置いたころだった。先ほどと同じように、川崎竜太郎は教室に入ってきた。しかしさっきと違ったのは、小柄な少女を連れているところだった。先ほど言っていたもうひとりが、彼女だと理解するのは一瞬だった。
「失礼します」と川崎が言うのに続いて、その女の子も小さなか細い声で、同じように言った。まるで親の真似をするひな鳥みたいだなと思った。
「丸川さん。紹介します。彼女は、小池燐音さんです」
 川崎が促して、小池は頭を下げた。そしてまたか細い声で、「初めまして。よろしくお願いします」と挨拶をした。
「彼女は僕の、助手ということになりますかね」
「助手? 川崎くんは、探偵か何かやっているの」
 助手と聞いて真っ先に浮かんだのがそれだった。冗談を言ったつもりはなかったが、「そうだったら良いんですけれど」と言って川崎が笑った。
 川崎も笑うことがあるのだなと、玲奈は漠然と思う。なんとなく、笑わない人だと思っていた。
「それで、川崎くんと小池さんがこの時間にここに来た理由は?」 
 玲奈は単刀直入に聞いた。気になって仕方がなかった。
「僕らがこの時間にこの教室を訪れた理由は、ただ都合がよかったからです。この時間であれば、他の誰にも邪魔をされずにあなたと話ができる。と」
 教室には玲奈と川崎と小池の三人だけだった。
「小池。あれを」
 川崎が、小池に目配せする。
 小池はそれまでずっと、何か袋のようなものを右手に持っていた。気にならなかったわけではない。玲奈自身に関係のあるものだとは思っていなかったのだ。
 白と黒のストライプ柄をしたビニール製の手提げ袋。学園内にある雑貨屋さんで貰えるものだ。雑貨屋「ライフ」可愛い文房具や小物が売っている。学園では、毎月現金で三千円の支給があるため、そのお金で好きなものが買えるのだ。しかし、種類が豊富なわけではないのでえり好みはできない。店員は年齢が二十代以上の人たちばかりで、ほとんどが能力者だった。
 袋は何か入っているのか、僅かに膨らんでいた。小池は川崎に促されて、少し慌てたように袋を開いてその中に左手を入れる。そうして彼女が取り出したのは、どこか見覚えのある小物入れだった。それは、小池の小さな手の平におさまるほどの大きさで、外装は紺色に塗られてるスチール製の箱だ。ところどころ錆びている。
「なに。それ」
 玲奈は顔をしかめながら尋ねた。
「実はあなたに、頼みたいことがあります」
 川崎は箱を小池から受け取ると、そう言った。
「頼みたいこと? その箱に関することなの」
 玲奈の中で、また疑問が生まれる。ひたすら首を傾げるしかなかった。
「ええ。一言で伝えます。この開かずの箱を、あなたに透視してほしいのです」
 真面目な顔をして、川崎が言った。
 玲奈には彼が何を言っているのか、まったくわからなかった。どうしてその必要があるのか理解できなかった。川崎の能力で玲奈と同じことが出来るはずなのに、どうして彼は自分で視ないのだろう。何か理由があるのだろうか。
「それは、川崎くんには出来ない事なの」
 玲奈は素直に疑問をぶつけてみる。
「はい。あなたではないと意味がないのです」
 そう言って川崎は頷いた。
「どういうこと。私に関係がある箱ってこと? 身に覚えがないんだけれど」
「そうですね。あなたが知らないのも当然です。これは、あなたの家族から受け取ったものですから。そして本来ならば、あなたに渡さずにあなたの卒業まで厳重に保管されるはずでした」
 川崎の言葉に、玲奈は思わず目を見開く。
 家族から。という事実に信じられない気持ちになったが、それよりも本来ならば知らされずに保管されるはずだったものを、どうして玲奈にみせたのか。彼の考えがよめない。
「この箱には、おそらくあなたに関連したものが入っていると思います。だから僕が視るわけにはいかないのです」
 怖いという感情が、玲奈の胸の奥で嵐のように吹き荒れる。右手で、左手を掴む。体が震えているような気がしてならなかった。幸いにも、そんなことはなかったのだが。
「もしそうだとしても。私には、それを視ることはできないわ」
 しばらくの間の後、玲奈は言った。
「どうして」と川崎が尋ねてくる。
「私にとって良いものが入っているとは、思えないからよ」
 玲奈の言葉に、川崎は何も返しては来なかった。困っているのかもしれないし、真面目な顔のまま、何かを考えているのかもしれなかった。玲奈には川崎が何を考えているのかわからない。けれどそれは玲奈の本音だったものだから、訂正する気はなかった。
 しばらく沈黙が流れた。それを破ったのは、意外にもずっと黙っていた小池だった。
「あの。そうとは限らないのでは、ないかと」
 言葉の最後は自信がなさそうに消えていった。彼女は玲奈と目を合わせようとしない。それを不快だとは思わないが、もっと自信を持てばいいのにと、憤りを感じた。
「どうしてそう思うの」
 強い言葉にならないように気を付けたつもりだったが、果たしてそれが彼女に伝わったかどうかはわからなかった。今にも泣き出しそうにみえるその瞳は、水面に反射する日差しのようで、今の玲奈には眩しかった。
 玲奈は、小池の返答を待っていた。小池の隣に座っている川崎も、彼女の言葉を待っている様子だった。彼女のことをみつめている。
「あなたは先ほど、身に覚えがないと言いましたが、本当はそうではない。と思います。あなたはただ怖がっているだけ、なのだと思います」
 何かに慌てたように、小池は言った。
「それは……」
 玲奈は何も言い返せなかった。確かに彼女の言うとおり、箱にまったく見覚えがないわけではない。しかしどこでみたのか、思い出せないのだ。
「思い出してください。それはきっと大切な記憶です」
 小池は勇気を振り絞るように、そう言いながら箱を玲奈の机の上にそっと置いた。繊細なものを扱うかのような手つきだった。
 それをじっとみつめていた彼。小池の隣に座っている川崎が、何かに頷いた。
「丸川さん。実は僕、もうひとつ能力を持っているのですが。今、きっとあなたの役に立つと思います」
「え?」
 唐突な川崎の言葉に、玲奈は本日何回目かわからないが、首を傾げた。
「僕は、他人の過去を視ることが出来ます。信じられないかもしれませんが」
 川崎はそう言って眉をハの字にした。
 玲奈は首を横に振る。
「信じられないものは、ここじゃ普通でしょう。だから、気にしないで。でも、その能力は本当に今、役に立ちそうね」
 ふぅっと玲奈は息を吐く。自分の過去を覗かれることに、気持ち悪さを感じないわけではない。しかしそれしかこの胸の中にあるもやをはらせないのなら、川崎の能力に頼るしかないと、玲奈は思った。
 川崎は微かに頬を緩めた。
「箱の記憶だけ、視てもいいですか」
「お願いしてもいい?」
「はい」
 川崎は頷いた。それからゆっくりとパイプ椅子から立ち上がり、座ったままの玲奈の前に、右手を差し出した。
「どちらの手でも構いません。触れないと視られないのです」
「わかったわ」
 玲奈は握手をするように、右手を差し出した。
 川崎がその手に触れると、両目を閉じた。彼の手は、温かかった。

   3

 玲奈の祖父が亡くなったのは、中学一年生の頃だった。
 玲奈にとっての祖父は、温厚で優しい人物であったが、それは玲奈の母にとってはそうではなかったらしい。玲奈の祖父は、母の父親でもあった。母にとっての祖父はとても厳格な人で、そんな祖父が一度だけ、母に贈り物をしたことがあるという。
 それが、紺色の小物入れの中身だった。
「私が社会人になるときにね。これを贈ってくれたのよ」
 母は嬉しそうに言った。
「でも私、鍵を失くしてしまったのよね」
 そしてそう言うと、すぐに表情を曇らせた。
 紺色の箱には鍵穴があり、鍵がないと開かないようだった。
「何が入っていたのかも、もう思い出せないわ」
 哀しそうな母の表情に、玲奈も哀しい気持ちになった。
 その話を母から聞いたのは、まだ祖父が亡くなる前だ。その頃の母は、まだ玲奈にとって優しい母親であった。
「どうして、そんなに大切な箱なのに、鍵を失くしたの」
 と玲奈が尋ねると、母は困ったようにこう言った。
「仕事の忙しさにかまけて、箱の存在を忘れていたの。それで、鍵もいつのまにかどこかへいってしまった。恥ずかしい話ね」
 どうして今になってその箱をみつけてしまったのか、母はわからないと言った。せめて中身のことを思い出せればと言う。
「探そうとはしなかったの」
 そう尋ねると、母は言った。
「探したわよ。部屋中をくまなく。でも結局、みつからなかった」
「おじいちゃんは、このことを知っているの」
「言っていないけれど、多分気づいていると思う。あんまり口をきいてくれないから」
 母はそう言うと、淋しそうに笑った。
 祖父が亡くなる直前、何があったのか玲奈は知らない。もしかしたら箱の事で喧嘩したのかもしれないと思っている。何故なら祖父の亡くなった日。玲奈が学校から帰ると母は不機嫌で、そのあとすぐに病院から電話がかかってきたのを覚えているから。

   *

「結局。箱の中身が何か、わからずじまいだったな」
 小池と共に廊下を歩きながら、竜太郎は言った。
 堀田理事長から洸生会に依頼があったのは、つい先日の事だった。丸川玲奈の母親から箱を預かった。この箱を玲奈に渡してほしいと言伝されたという。原則、卒業するまでは外部からの荷物は衣類品以外渡せない。それが学園の規則なのだから理事長も本来ならば卒業まで箱を保管、又は返却するつもりだった。しかし、洸生会の依頼にしてしまえば話は別らしい。理事長のずるさが垣間みえた。
 母親の真意はわからない。娘に渡せばこの箱の中身を彼女が知ることが出来る。それをわかっているはずだ。ただ丸川と母親の関係性を理事長から聞いていたので、簡単には箱の中身をみないだろうと竜太郎は思った。だから丸川本人に直接提案してみたのだ。箱の中身を透視してほしいと。
「うん。もう視るしかなさそう」
 小池が頷きながら言う。
「視てくれると思うか」
 竜太郎が尋ねると、小池は長い髪を揺らしながら頷いた。
「きっと、視るよ」
 小池の言葉に力強さを感じて、竜太郎は足を止めた。小池もどうしたのとでも言いたげに足を止めた。
「何で、そう言い切れるんだ」
「だって、丸川さん。お母さんの事が大好きだから」
 小池の言葉に、竜太郎は目を丸くした。
 理事長から聞いていたのは、丸川玲奈は透視能力のせいで、カンニングの疑いをかけられた。それを知った母親との関係が悪化したという事情だ。
 だからお互い嫌っている。と竜太郎が勝手に思っていたのかもしれない。
 小池は人の心をよむことが出来る能力を持っている。丸川は母親の事を嫌ってはいない。彼女が言うなら、そうなのだろう。と竜太郎は思い直し納得した。
「そうか」
 竜太郎はそう言って、また歩き出した。小池もそれに続くように、竜太郎の後ろをついてくる。
 やれるだけのことはやった。自分たちが彼女の役に立てたのか。それを知るのはもう少し後の事だろう。
 あとは丸川玲奈。彼女次第だった。

   4

 きっかけは何気ない一言だった。
「カバンの中、もうちょっと探したら。底のほうにあるよ」と、玲奈は定期券を失くしたと騒いでいたクラスメイトに対して、そう助言をしたのだ。もちろん能力を使わない限り、そんなことはわかるはずがない。でも玲奈はわかってしまったのだ。透視能力があったから。
 ただの親切心で、能力を使ったつもりだった。玲奈にもまだそんな良心が残っていたことを褒めてほしいぐらいだった。
 定期券は本当にカバンの底のほうに隠れていて、クラスメイトの彼女はそれをみつけると、すごく喜んでいた。お礼を言われたが、同時に不信感を抱かせてしまった様子で、「どうしてわかったの」と、彼女は驚いたように目を丸くしながら言った。
 玲奈は焦りを感じたが、それを必死に顔に出さないようにした。
「えっと。そうじゃないかなって。ほら、定期券て薄っぺらいでしょ。パスケースに入れていたとしても鞄の中で横になっていたら、他の物に隠れていてみつからない時ってあるじゃない」
 玲奈の言い訳に納得してくれている様子だったが彼女は終始、首を横に傾げていた。
 玲奈がしたことは普通じゃない。ありえないことに対して、疑問を持つことは真っ当だ。「ねぇ、丸川さんもしかして透視能力でも使ったの」
 彼女は冗談交じりに、笑いながら尋ねてきた。
「え?」
 玲奈は動揺が隠せなかった。
「だってさ。そうでもないとあり得ないじゃん。何だっけ。最近はやりの能力病でも発症したの」
 彼女の質問に、玲奈は必死に声の震えを抑えた。
「そ、そんなわけないじゃない。あれって社会不適合者とかがなるやつでしょ。私は普通に学校に通っているし、不登校になったわけじゃない。だからあり得ないよ」
 世間的には、社会不適合者が能力を発症する確率が高いと言われている。そのため病気と言われたりしている。そのことは、ニュースでも取り上げられているため誰でも知っている情報だった。
「それもそっか」
 そう彼女は笑って返していたが、次の日からなんだか嫌な噂が流れるようになった。このクラスに、能力者がいるという噂だ。
「まじかよ」
「ほんとだって」
 教室にいると、嫌でも会話が耳に入ってくる。
「透視能力とか、一度は夢見たやつじゃん」
「お前、あんな噂本当に信じてるのか」
「全部透けて視えるのかな。体とか骨まで視えたらもうレントゲンいらないだろ」
 クラスメイトの男子が、けらけらと笑っていた。
 視ようと思えば視えるけれど。と玲奈は口には出さずに思った。
 噂が落ち着くまでは何を言われても仕方のないことだなと諦めながら、明日から始まる憂鬱なテストのことを考えていた。
 また悪い点数を取ったら、母親に怒られる。そのことだけが頭の中を駆け巡る。もういっそのこと、透視能力を使って他の人の回答を盗み視ようか。でも変な噂が流れているこの状況で能力を使ったら、自分が能力者だと確定してしまう。
 悪い考えが、頭の中で浮かんで消えてを繰り返した。それはテストの直前まで続いた。

   *

 玲奈はテスト期間中、最後までカンニングをしなかった。
 勇気がなかった。たったそれだけの理由だ。母に怒られるのは嫌だが、落胆させるのはもっと嫌だと思ったからだ。だから真面目にやることにした。後悔するかもしれない。なんて思うが、行動してもっと嫌なことになるぐらいならやらないほうが良いと思った。それにせっかく勉強したのに、その努力を水に流すことになる。
 テストがすべて無事に終わり、帰り支度をしていた時だった。
「あーあ。透視能力でもあったらテストも楽なのにな」
 誰かが言った。テストの事で頭がいっぱいで、誰もがその噂を忘れていたと思うのに、蒸し返す者がいた。
「他の人の答え視られるじゃん。ねぇ、丸川さん」
 名指しされて、心臓が跳ね上がった。
 何も悪いことはしていないはずなのに、冷や汗を掻いている。
「え?」
 大波が玲奈のほうへと押し寄せてきているような気がした。おそるおそる声の主の方をみると、以前玲奈が透視能力を使ってなくしものを探してあげたクラスメイトの女の子だった。
 教室にいた担任の先生が、彼女の発言に反応する。
「どういうことだ。それは」
「実は……」
 そうしてクラスメイトの彼女。もう名前も思い出したくない彼女が、あることないことを説明しはじめた。
 パスケースの件は真実だが、その後のカンニングの話はすべて作り話だ。偽物だった。それをさも事実かのように彼女が話すものだから、その場にいた者たちはそうかもしれないと思ってしまったのだ。
「透視能力が、あるのか」
 と先生に問われ、玲奈は否定しなかった。良くも悪くも正直者だったのだ。嘘をつけなかった。それがよくなかった。
「でも、カンニングはしていません」
 誰も玲奈の言葉を信じてくれなかったのだ。
 本当です。信じてください。そう言っても先生は疑うのをやめなかった。玲奈のテスト用紙をすべて確認して、間違っている問題があるにも関わらず、ばれないようにわざと間違った答えを書いたのだろうと結論を出した。透視能力があるからという理由だけで、玲奈のすべてを否定した。玲奈の能力の事をよく理解もせずに、カンニングしたと決めつけた。
 そこにあるのは悪意だった。
 学校に呼び出された母はカンニングの件を聞くと、最初は「そんなことをするはずがない」と味方してくれていたが、透視能力の話を聞くと、顔を青ざめた。
「それは本当なの」と玲奈に事実を確認してきたので、玲奈は透視能力のことだけを肯定し、カンニングのことは否定した。
 母は酷く落胆したような表情をしてこう言った。
「もういいわ」
 それは呆れから発せられた言葉だったと思う。
 母さえも、玲奈の言葉を信じてはくれないのだとそのときに理解した。玲奈はもう何を言っても無駄だと思った。だからそれ以上何も言わなくなった。 
 結果を言えば、透視能力を使った証拠がないということで、自宅謹慎ということになった。その間、玲奈は母と一度も会話をしなかった。父は仕事ばかりでいつも家にいない。
 ここからは理事長から聞いた話だ。
 母から、うみほたる学園という能力者たちを集めている学園に電話があったらしい。娘が透視能力を発症したと相談を受けたという。どうしたら良いのかわからないのでそちらで引き取ってほしいと。理事長はすぐに丸川家へと向かったそうだ。
 そうして玲奈は、うみほたる学園へ入学することになった。
 これが一年前の話である。

 5

 小さな紺色の小物入れの箱が、玲奈の自室の勉強机の上に置いてある。玲奈はそれをじっとみつめて、集中していた。
 女子寮なので同室の女の子がいたが、その子は外出中だ。どこへ行ったのかは知らないが、しばらく戻っては来ないだろう。
 玲奈が箱とにらめっこをして何分経ったのかはわからない。ただ椅子に座ったままずっと透視するかどうか悩んでいたのだ。
 この箱を渡された意味を、ずっと考えている。
 川崎の過去を視る能力でこの箱の記憶を聞いて、玲奈は箱について思い出した。母の大事なものを、どうして母が私に渡そうとしたのか。理由がわからない。わからないから怖い。
 小池が指摘したとおり、玲奈はただ怖がっているだけなのだ。
「あの子。エスパーみたいな能力でも、持っているのかな」
 呟くように玲奈は言って、困ったように眉をハの字にしてひとりで笑う。
 玲奈は深く呼吸し心を落ち着かせる。それから箱の上部にゆっくりと右手の人差し指で触れた。
 能力を使うと、箱の中身が透けて視えてくる。
「これは、万年筆と、紙?」
 その紙は、カードのように小さなものだった。そこにはこう書かれている。

『就職おめでとう。君の未来が、とても明るいものでありますように』

 名前は書いていなかったが、達筆なその文字をみて玲奈はすぐにそれを書いたのが祖父であると気づいた。
 玲奈は箱からゆっくりと手を離す。やはり玲奈がみて良いものではないと思った。これは母に贈られたものだ。祖父から母への愛の詰まったものだ。
 そう思いながら、玲奈は椅子から立ち上がった。
 母にこの箱を、返さなければならない。

   *

 丸川玲奈が竜太郎の所へやってきたのは、箱を渡した翌日の事だった。クラスを教えていたので、彼女は授業の合間の休憩時間に竜太郎の教室にやってきた。
 竜太郎は丸川が教室の前で立ち止まるころには、彼女の前に居た。竜太郎の持つもう一つの能力。どんなに遠くのものでも視えてしまう眼で、丸川が教室に向かってきていることを知っていた。
「びっくりした。今、呼ぼうとしていたのに」
 当然、丸川は驚いた顔で竜太郎の事をみた。
「呼ばなくても、視えるので。用があって来たのでしょう」
「そうだったわね。あなた、視えるんだった」
 丸川がそう言って頭を掻く。
 竜太郎は丸川に、廊下の端まで歩くように伝えた。二階の廊下の行き止まりには、すりガラスの窓があった。その前まで来ると、竜太郎と丸川は立ち止まる。
 本当はこの場に小池燐音も呼んで、玲奈の心をよんでほしかったが、そう都合よく彼女は居ない。斉藤寧々と一緒にどこかへ行ってしまったからだ。
「これ」
 丸川が雑貨屋の袋を竜太郎に向かって差し出す。中身は視なくてもわかっていた。丸川の母親から受け取った箱だ。どうやら彼女は、それを竜太郎に渡すために教室に来たらしい。箱の入った袋を胸に押し付けるように渡してくるので、竜太郎は仕方なく受け取る。
「視たの。中身。何が入っていたと思う?」
 丸川の問いに、竜太郎は答える。
「社会人になったときのお祝いです。それを長期で放置していたのですから、お菓子類ではないでしょうし。小さな箱に入っているので、何となくですが予想はできます。おそらくペンか何かかと」
「ほとんど正解かな。万年筆だったよ」
 丸川はそう言って微笑んだ。
 少し嬉しかったが、竜太郎は顔に出さなかった。他の事を考えていたからだ。
 洸生会への依頼は、丸川玲奈に箱を渡すことだ。透視を頼んだが、本来の目的は達成している。箱を返されても困るのだ。
「あのさ、川崎君。一つだけお願いしてもいい?」
 真剣な表情の丸川に、竜太郎は思わず「何ですか」と返す。
「あなたと小池さんが、誰に何を頼まれていたのか知らないけれど、私はこの箱を受け取れない。中身を知った今だから、なおさら思う。この箱を、持ち主に返してほしいの」
「それは」
 竜太郎は額に眉を寄せた。
 箱を母親に返すということがどういうことなのか。丸川は理解しているのだろうかと、竜太郎は思っていた。小池はどう転んでも良いと思うと言っていた。それが丸川の選択だと。だが竜太郎の考えは違った。
 丸川の母親は、鍵をなくして開かなくなった箱を娘に渡したかった。彼女に箱の中身を視てほしかったのだ。そこに何か意図があるはずだ。
 中身は万年筆だと丸川は言った。果たしてそれは本当の事だろうか。
「丸川さん。あなたのお母さんがこの箱をあなたに渡したかった理由を、理解していますか」
 竜太郎はいつになく真剣な眼差しで、丸川をみつめた。
 肩までの黒い髪の毛が、不安そうに揺れていた。
「みて見ぬふりをしていませんか」
 丸川が目を見開く。
「わかっている」と言った彼女が一歩後ずさるのを、竜太郎は見逃さなかった。
「お母さんは、ただこの箱の中身が知りたかったんでしょう。だから私にこれを渡すように頼んだ。違う? だから返すのよ。あなたに頼みたいのは、箱の返却と、中身が万年筆だったって母に伝えてほしいの。それとメッセージカードに書かれていた言葉」
 そこまで言って、丸川が口を右手で押さえる。彼女にとってそれは、余計なことまでいってしまったということだろう。
「メッセージカード」
 竜太郎は気になった単語を繰り返す。とても重要なことのような気がした。
「何と書かれていたんですか」
 竜太郎の質問に、丸川は観念したように口から手を離した。
「就職おめでとう。君の未来が、とても明るいものでありますように。って。でもこれは、祖父が母に向けたメッセージで、私にはなにも関係がない」
 答えながら丸川が首を振る。
 丸川の母親が本当に伝えたかったことが、竜太郎にはなんとなく理解できる気がした。
 竜太郎は柔らかく笑う。
「本当にそうでしょうか。そのメッセージは、あなたの母親が伝えたかった言葉と同じなのではないですか。誰かに何かを贈るという行動は、良くも悪くも相手の事を想ってすることでしょう。あなたの記憶を視たところ、この箱はお祝いのために贈られたものです。あなたの母親は、あなたのことを想ってこの箱をあなたに渡してほしいと言ったと思います。ですから――」
「だとしてもよ」
 竜太郎の言葉を遮るように、丸川が声を荒げた。
「そうだとしても、私は。私たちの未来は、決して明るいものにはならない。あなただってそうでしょう。能力が使えるようになって、病気だって言われて。いつ治るかわからないって言われて。私、知っているのよ。この学園から卒業して外の世界に戻った人はほとんどいないって。つまりそれは、一生治らないかもしれないってことでしょう」
 彼女は過去に囚われたままなのかもしれない。と竜太郎は思った。確かに能力を発症する病気は、いつ治るかわからない。けれど、絶対に治せないわけではない。そのためにつくられたのが洸生会なのだ。
「それは違います」
「何が違うっていうのよ」
「一生治らないってことはないです。卒業生だってゼロではありません。ちゃんと前例はあります。明るい未来だってあります」
 竜太郎の言葉に、丸川が目を見開いた。その瞳は水面のように揺れている。
 嘘はひとつも含まれていなかった。事実、過去に何人かは卒業している。ただ彼女が知らないだけである。原因は卒業式を大々的に行わないからだろう。卒業のタイミング。つまりは能力者が能力を失うタイミングが決まっているわけではない。学園という体裁をとってはいるが、個人が重視されているため、内輪のお別れ会はあっても行事としての卒業式は行われないのである。入学式も同じだ。なので、いつの間にか入学してきていつの間にか卒業しているなんてことが、ざらにあるのだ。
 竜太郎は丸川に、悲観してほしくはないと思った。自分たちの未来を、勝手に否定してほしくなかったのだ。
「ほん、とうに?」
 かすれた声が、丸川の口から零れた。
 竜太郎は黙って頷く。それから丸川に袋を返した。
「だからそれは、受け取ってください。僕たちはあなたの母親に、あなたの手にその箱が渡ったことを伝えなければなりません」
 丸川が震えた手で、箱の入った袋を受け取る。彼女は自分の顔を隠すように袋を持ち、身体を震わせていた。泣いているところを、竜太郎にみられたくないようだった。
 丸川は嬉しくて泣いているのだと、竜太郎は勝手に思った。そうでないといけなかった。そうでないと、誰も救えないのだ。

(続)

連載小説「あの箱庭へ捧ぐ」第一章

第一章 影を踏む

 1

 足立清二は到着時間の連絡を受けてから数十分は、事務室で待機していた。室内にある壁掛け時計をみずに、ここ数年愛用している腕時計をみつめる。そろそろ出迎えの準備をしなければならない。窓の外を見ると先日の梅雨入りが影響してか、空は気分がしずむほど曇っていた。
 ウミホタルは海の生き物だ。甲殻類で刺激を受けると威嚇するために発光するらしい。そんな生き物から名前をとったうみほたる学園は全寮生で、日本全国から集められた生徒や教師、その他の関係者を含めて約八百人ほどの能力者たちが生活している。
 都会から遥かに離れた山の中腹にあるため、自然に囲まれた広い敷地内に、大きな校舎や食堂が建てられていた。小さな雑貨店や洋服店もあるが、品揃えが良いとは言えない。男子寮と女子寮には中等部や高等部の生徒たちが住んでおり、先生や施設の職員たちは、アパートで暮らしている。年齢の制限はないが、十代から四十代ぐらいまでの能力者たちが学園に在学している。しかし、日本中のすべての能力者が集められているわけではない。全寮生のために敷居は高いのだろう。学費のこともある。学園内で働く者たちは、ある程度は免除されているがそれでも簡単に入れる学園ではないことは確かだった。
 近年、ニュースでも取り上げられることが多くなった、不思議な能力を持つ人間。それは子どもから大人、男女関係なく発症する病気のようなものだとキャスターが言っていた。
 能力病と呼ばれている。その力のせいで家に引きこもる子どもや大人が多くなった。子どもは学校に行かなくなり、大人は仕事をしなくなる。そんなふうに言われている。
 その能力は多岐にわたる。魔法のように何もないところから火や水を生みだしたりする者もいれば、五感が異常に発達していたり、共感覚を持ち合わせている者もいるという。原理はわからない。けれど、わからないこそ恐れられて一か所に集められているのかもしれない。
 どんどん増え続けている能力者を囲っておける場所は限られている。この学園以外にも、そういう学校や施設が増えているという。能力者の研究をしている場所もある。その中でも規則が厳しいと言われているこの学園は、一度入ったら卒業できるまで一時的な外出はおろか外との連絡も一切禁じられている。

   *

「足立先生。ちょっとよろしいですか」
 声をかけられたので事務室の扉から顔を出すと、そこにいたのは本間宗太という少年だった。顔は奇妙なほどに整っていて、美形と言っていいほどだった。街を歩くと必ず目を引くだろうその少年は、元子役の芸能人という経歴を持つ。彼は子役の頃に一世を風靡したらしい。言われてみれば確かにどこかで見たことのある顔をしている。そして学業に専念するという理由で、十二歳で芸能界を引退していた。現在は十七歳。これだけ顔が良いならば復帰してもよさそうなものだが。そんな彼がどうしてこの学園に在学しているのかと言えば、能力者になってしまったから。という理由の他ないだろう。
「どうした」
 あまり時間はないが、足立は対応する。時間がかかることならば他の先生に託すが、そうでないならばやってしまおうと考えた。
「斎藤寧々さんが門の近くにいるのを見たんですけど、放っておいていいんですか」
 本間の言葉に足立は目を丸くして、それからすぐに頭を抱えて大きく息を吐いた。「またか」と呆れたように呟く。
 斎藤は問題児だ。予想できなかったわけではない。しかし、ここしばらくは大人しくしていたので油断していたことも事実だ。
「ありがとう。すぐに向かう」
「気を付けたほうがいいですよ」
「ああ」
 本間の忠告を聞いてから、足立は急いで警備員に連絡する。電話で話した限り、監視カメラには斎藤の姿は映っていないとのことだった。本間の話を信じるならば、監視カメラの死角を突いて移動しているのだろう。しかし、そんな器用なことを斎藤ができるとは思えない。できるとすれば協力者がいる場合だ。斎藤の脱走騒ぎはこれで三回目だ。一回目は学園に入学したての頃、家に帰れないと知るや否や暴れて、教師たちを振りきって脱走しようとした。二回目は、斎藤が規則を破って謹慎処分を受けたのに、脱走しようとした。
 これまでの斎藤には、計画性というものがまるでなかった。
 協力者を得たうえで、斎藤が脱走計画を実行しようとしているならば、これは非常に厄介だ。斎藤が今までと同じで勢いだけで脱走しようとしていたなら、まだ楽だっただろう。
 学園の門が開閉するには二つの理由がある時だけだ。一つは、教師が用事や休暇で外に出るとき。もう一つは新入生を迎える時だ。それ以外はよほどの理由がないと開かない。そして今日は、新入生がやってくる日だった。
 このことは基本的に生徒には通知されない。だが、斎藤の持っている能力の事を考えれば、彼女がその情報を知っていてもおかしくはなかった。 
 斎藤は、聴覚が常人離れしている。どんなに小さな音でも、遠くの音でも聴くことができるらしい。
 今日門が開くことを知っているのなら、斎藤が脱走する絶好の機会だと考えていてもおかしくはない。協力者の力を借りれば、監視カメラを避けながら門まで移動することも容易いだろう。
 そこまで考察して、このままでは、新入生と斎藤が入れ違いになってしまう事実に気づいた。足立は急いで門へ向かった。事務所から門の間はそれほど距離はない。門前に着くと、連絡を受けた車の到着時刻と斎藤のことを警備員と話し合う。時間まで待機し、理事長たちの乗った車の到着と、斎藤を待ち伏せすることにした。
「厳重警戒だ」と足立は警備員の二人に言った。

 2

 車が二台、坂を登ってくる。監視カメラの映像を見ている警備員のひとりから、連絡が入る。足立はイヤホンから聞こえてくる声に返事をした。
 足立は何気ない顔をして、身長が百八十センチある自分よりも高い壁に挟まれた重い鉄格子を両手で押す。地面に埋め込まれたレールと格子が甲高い音をたてながらゆっくりと動いていく。
 通常、門には誰かが脱走しないように監視カメラと警報機がとりつけられている。しかし今回のように職員が出入りする際は、一時的に警報が鳴らないように設定している。
 足立が片側の門を終点まで動かすと、もう片側の門を押していた警備員も開け終わったらしく、「ふう」という声が聞こえた。
 左右の門が開き終わると、二台の車が徐行しながらうみほたる学園の敷地内に入ってくる。足立は車が二台とも門を通り終わったことを確認すると、辺りを警戒しながら、再び門に手をかける。
 そのときだった。
「おい。そいつを捕まえろ」
 足立よりも先に斎藤の姿を目で捕えていた警備員の叫び声が聞こえた。みると、確かにこちらへと走ってくる人物がいる。青い帽子を被った、少年とも少女とも見分けのつかない風貌をした人物。それは紛れもない、脱走犯。斎藤寧々の姿だった。
 斎藤が門の外へ出ようと走っている。近くで停車した二台の車からは、もう誰かが降りようとしている。そして斎藤と、車から降りてきた足立とは面識のない女の子。おそらく話に聞いていた新入生がすれ違う。斎藤がその子に気を取られていたその一瞬。足立はその隙を狙って自分の影を伸ばした。

   *

 空は曇っているが、まだ雲の隙間からは太陽が見える。丁度いい天気だった。
 うみほたる学園は能力者しか入れない。足立もその例にもれず。影を操ることが出来る能力者だった。
 足立は自分の影を使い、斎藤の影を捕える。足立の影と斎藤の影が繋がり、ひとつになる。次に足立は右の足を真横に動かした。斎藤の右足の影が、斎藤の意思とは関係なく横方向へと動く。影が動くとどうなるか。影を作っている物体もまったく同じ方向に動くことになる。本来ならありえないことだ。しかし足立の能力は、そういう能力であった。
 走っている斎藤の右足が影と同じく真横に動いた。斎藤はその場で体のバランスを崩して転んだ。
 斎藤のうめき声が一メートルほど先から聞こえる。
 足立は一歩も動かなかった。手を動かすことも、顔を動かすこともなかった。こうすることで、斎藤は起き上がれないし、例え起き上がれたとしても、動くことが出来ない。足立の影と斎藤の影が繋がっている限りは。
「取り押さえろ」
 警備員がそう言って、もうひとり別の警備員と一緒に斎藤の両腕を片方ずつ掴んだ。斎藤は身動きが取れなくなった。
「離せ。あたしに触るな」
 斎藤が無駄だとわかっているだろうに、叫んでいる。大人の男性二人に羽交い絞めにされていては、力で敵うはずもない。
 足立はそれを確認すると、門から離れて斎藤の傍まで行く。歩きながら、足立は二週間前のことを少し思い出していた。斎藤が二回目に脱走しようとした時の事。斎藤はあのとき、果敢にも足立に殴りかかってきた。まあ言うまでもなく軽くいなしたが。
「斎藤。残念だったな」
 足立は口角を上げてそう言った。
 斎藤は足立の事を睨んでくる。
「こんな所、大嫌いだ」
 斎藤はそう叫ぶと、観念したかのように抵抗するのをやめた。
 一段落して足立は能力を解除すると、今度は車のほうに視線を向けた。みると乗車していたであろう面子は全員車を降りていた。堀田理事長。二台の車の運転手が二人。米田恵理子先生。川崎竜太郎。そして新入生の小池燐音という少女。みんな、困惑した表情でこちらを見ている。
 足立は面倒だなと思いながら、理事長たちの近くまで歩いた。
「足立くん。これは一体?」
 そんな足立を見てか、理事長が首をかしげながら尋ねてきた。
「お騒がせしてすみません。彼女の処分はこちらにお任せください」
 理事長の目の前まで来ると、足立は言った。
「ああ。頼むよ」
 返ってきたのはその一言だけだ。理事長は、それ以上何も言わず、川崎に何やら話しかけている。そしてそのまま川崎と共に一足先に本部へと向かうようだ。
 足立へのそれは信頼からなのだとわかっていたが、その返答はとても淡白だと感じた。
 一方、米田は「お願いします」と足立に向かって一礼した。足立も頭を下げると、「はい」と返す。米田は足立の後輩にあたる。彼女は今回、新入生と同性だからという理由で理事長に同行を頼まれたという経緯がある。
「そちらも、よろしくお願いします」
 足立はそう言ってから、米田の後ろで怯えているだろう少女をみた。少し長めの前髪から覗く瞳は、何を考えているのかまるでわからない。小池は不安そうな顔こそしていたが、怯えている様子はなかった。そのことに安堵して、足立は彼女に話しかける。
「こんにちは。初めまして、足立清二と申します。よろしく、小池燐音さん」
 小池は僅かに頭を下げてから、「よろしく、お願いします」と小さな声で言った。
「そんなに緊張しなくていいよ。怖いお兄さんじゃないから。隣のお姉さんも、ちょっと顔が怖いかもしれないけれど、優しい――」
 最後まで言い終わらないうちに、米田が咳払いして「足立先生っ」と声を裏返した。本人が気にしていることを言ってしまったらしい。
「ほんの冗談ですよ。怖いと思ったことはないです」
 足立は弁解のつもりで言う。
「言われ慣れているので、大丈夫ですよ。気にしていません」
 米田が、嘆息しながら言った。
 わざわざ言うということは、相当気にしているなと足立は思う。実のところ、米田の顔を怖いと思ったことは一度もない。むしろ美人の類に入るだろう。何でこんなところで働いているのか疑問に思うぐらいだ。しかし彼女にも彼女の事情がある。根掘り葉掘り聞くつもりはない。
「それでは、こちらの件が片付いたら改めてそちらへ顔を出しますね」
 足立は米田たちに別れを告げると、自分の目先の仕事へと戻る。米田と小池も理事長たちの後を追って本部へと向かうようだ。
 警備員二人に捕らえられたままの斎藤は、落ち込んだ表情で項垂れていた。足立はそれをみると、頭を掻いた。
 まずは保健室に行って、斎藤の怪我の手当てをしなければならない。

 3
 
 斉藤への罰則は、反省文だけでは足りないのではないか。彼女の脱走未遂は今回で三回目だ。根本的な原因を解決するためにも、行動の制限をかけたほうが良いのかもしれない。足立はそう考えて、斉藤にとある罰を追加することにした。
「新入生の面倒をみる?」
 罰について伝えると、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして、斎藤が足立の言葉を繰り返した。
「今回だけ特別だ。反省文と合わせて二つの罰をお前に科す」
 足立は、斉藤に向かってそう言った。
「それはいいですけれど。新入生に関しては、罰にならないんじゃないですか。あの子、あたしと同室だって聞きましたよ」
 斉藤は首を傾げて言った。
 これは足立も先ほど知ったことだが、どうやら今は斎藤が一人で使っている女子寮の部屋に、新入生の小池が新しく入る予定だったらしい。通常は、新入生の入寮が生徒に知られないようにするため、当日まで告知しないことになっているが、斉藤は同じ部屋に入るということで、事前に知らされていたみたいだ。
 足立は女子寮について詳しくはない。どの生徒たちが同じ部屋なのか、資料を確認しない限りは知らない情報だ。しかし今回は米田が、斉藤の部屋に小池が入ることをわざわざ足立に教えてくれたのだ。
「何か運命的なものを感じたから」だそうだ。
 正直よくわからない理由だと思ったが、都合は良かった。斉藤のためになることだと思ったからだ。
 それから脱走騒ぎの協力者だが、斉藤は頑なに口を割らなかった。協力者などいないの一点張りだ。このままうやむやになりそうだった。
 あれから一日経ち、斉藤と小池の様子をみているが、どうやら上手くやっているようだった。二人で食堂へ昼食を食べに来ている。
 足立は二人より先に昼食を食べ終わり、食器を片付けると外へ出た。近くのこげ茶色のベンチに座り、二人が食堂から出てくるのを待つ。傍から見たら怪しい行動ではあるが、これも仕事のうちだった。新入生というものはとても危ういものだ。来たばかりでここの生活に慣れていない。だから先生をやっている限り、注意してみていなければならない。そして問題が起こればすぐに対処するべきだ。
 勿論その職務があるのは足立だけではない。米田もそうだ。特に彼女は、小池の担当だと聞いた。できるだけ近くにいるだろう。

   *

 数分後。斉藤と小池が、食堂から出てきた。何かしゃべっているが様子がおかしかった。小池が口元を押さえている。彼女は膝から崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。
 斉藤が慌てて、食堂にいる人に声をかけている。中にいた米田が、急いでかけつけていた。何か袋のようなものを持っている。
 足立は近くまで行くと、すぐに事態を把握した。
「まだ気持ち悪い?」
 米田が、小池の背中をさすっていた。おそらく嘔吐したのだろう。先ほど食べたものと思われるものが、袋の中にみえた。強いストレスを感じて胃腸に負担がかかっていたのだろう。小池は学園へ来てから今まで、無理をしていたのかもしれない。生活環境が変わったばかりですぐに慣れろというのは酷な話だ。
 足立は落ち着くまで待ってから、声をかけた。
「大丈夫か。そこのベンチに座ったらどうだ」
 米田が頷いて、小池を先ほど足立が座っていたベンチへと誘導した。斉藤も一緒だった。
「足立先生。少しの間、お願いします」
 米田がそう言って、使用した袋を持って食堂へ戻る。水を持ってくるそうだ。
 足立はベンチに座っている小池と斉藤の前に立っていた。そういえば飴を何個か持っていたな。と思い出したので、ズボンの右ポケットに手を入れた。
「小池。いい物をあげよう」
 そう言って、足立はポケットの中に忍ばせてあった個包装の飴の中から、イチゴ味と袋に書いてあるものを取り出した。
「あ、ありがとうございます」
 小池が微かに嬉しそうな顔をして、足立に向かってお礼を言った。
「吐いたから、胃液で口の中が不味いだろう」
「は、はい」
 小池は足立の言葉に、苦笑いしながら頷いた。
 それから小池は飴の袋を開けて、赤い飴玉を口に一つ含んだ。飴玉は少し小池の口には大きいのか、頬の膨らみがはっきりとみて取れた。時折、飴玉と小池の歯が擦れるような音がした。
 それをみていた斉藤が、自分も欲しくなったのか、「足立先生。それもう一個ないんですか」と尋ねてきた。
 仕方ないなと思い、足立は再びズボンの右ポケットの中を探る。飴の袋を何個か取り出した。中にはまだ中身がある、膨らんだ状態の飴の袋があった。ちなみに紫色のブドウ味と書いてある。
「あるけど、これ俺の分」
 そう言って、足立は少し意地悪をする。ほんの冗談のつもりだった。場を和ませたかったのだ。
「え? じゃあいいです」
 斉藤が怒ったような口調で言った。真に受けられたらしい。
 足立は笑った。
「冗談だよ。ブドウ味でよければあげるよ」
「ありがとうございます」
 斉藤が笑顔で元気よくお礼を言った。
 それから、斉藤は足立からブドウ味の飴を受け取った。
「俺は、禁煙中なんだよ。だから飴を舐めていたんだ。最近また値上がりしただろう。外に行っても高いから。また新しい飴を買わないとな」
 そう言いながら、足立は息を吐いた。ヘビースモーカーとまではいかないが、喫煙者だった。かと言って電子タバコは苦手だったため、飴でごまかしていたのだ。
「ここって結構、給料が高いって聞きましたけれど」
 どこで誰が言っていたのか。斉藤の発言に足立は驚いた。
「一体誰から聞いたんだ」
「あたしは耳がいいので。風の噂で聴いたんですよ」
 斉藤の返答に、足立は彼女の能力について思い出していた。斉藤は耳が異常に良いのだ。
 これには足立も苦い顔をするしかなかった。この学園にいる限り、どこで誰が何を聴いているのかわかったものではない。
「給料はな。使いこんでいるから」
 そう言って、足立は笑ってごまかすしかなかった。小池を一瞥する。
 足立も小池の能力の事は、知っている。だから何かを思うことすら今はためらわれた。
 米田が戻ってくる姿が目に入る。足立はそれを確認すると、今度はしっかりと小池のほうをみる。
「小池。あんまり無理するなよ。具合が悪いならすぐに近くの先生に言えよ」
「は、はい」
 小池は飴に妨害されながらも返事をして、足立の言葉に頷いた。
「よし。じゃあ、またな」
 米田と入れ替わるようにして、足立は事務所の方へ向かって歩きだす。
 斉藤が足立に向かって手を振った。隣で小池が軽く頭を下げていた。
「足立先生。ありがとうございました」
 すれ違いざまに米田が言ったので、足立は無言で手を振る。
 自分が汗をかいていることに気づいたのは、事務所の入口の前だった。
 タイミング良く、足立のスマートフォンが振動する。ズボンの左ポケットからそれを取り出して画面をみてみると、メールが届いていた。差出人は、「いのう研究所」
 足立は肝を冷やし、内容を確認せずに画面を閉じた。そのままポケットにしまう。
 別にやましいことがあるわけではない。そう思いながら、足立はどんな顔をしていいのかわからない。だから無理に表情を作らずに、仕事に戻ることにした。

 4

 女子寮の裏手に山道がみえる。そのすぐ傍に、プレハブで建築された小屋が建っている。元々は登山の際に利用されていたらしいが、最近は滅多に利用する者がいない。数年前の土砂災害の影響で登山が禁止されているせいだ。
 空いているならと、今は洸生会が借りて利用している。洸生会というのは、うみほたる学園の生徒たちを卒業へと導くために創られた、生徒主体の組織だ。洸生会の存在自体が学園内で公にされているわけではないので、隠れ家とも言えるかもしれない。
 小屋の中には、小さな棚と湯沸かしポットがある。ソファとテーブルも置かれ、客間としても使えるようになっていた。
 そんな場所に、川崎竜太郎はひとりでいた。授業が終わると、いつもここに来て理事長から受け取った在校生の資料を読み漁る。最近はそれが日課になっていた。
 自分で淹れた緑茶を呑みながらソファに座って、しばらく資料を見ていると誰かが入口の扉を開けた。入口の外で靴を脱ぐと、近くに置いてあった灰色のスリッパを履いた。
「よ。やっているか」
 少年が陽気にやってきて言う。
「そんな、お店じゃないんだから」
 竜太郎は、困った顔をして彼をみた。本間宗太。竜太郎と同じ学年で、同じクラスの友人であり、洸生会のメンバーのひとりでもあった。彼はとても整った顔立ちで、クラスの女子たちからも一目置かれる存在だ。何せ、元子役だ。一部の生徒たちからは敬遠されている。しかし持ち前の明るさからなのか、友人は多い。
「あの子は?」
 部屋の中を見まわしながら、宗太が竜太郎の向かい側のソファに座った。
 名前を言わなかったが、宗太が誰のことを尋ねたのか竜太郎にはわかった。小池燐音。先日、学園に入学したばかりの、洸生会の新メンバーだ。
「僕の靴しかなかっただろう。今日はまだ来ていないよ」
 竜太郎はそう答えた。
「そうか」と宗太は呟くように言うと、ソファに仰向けで寝ころんだ。自分の家のようにくつろいでいる。竜太郎はソファから立ち上がると、宗太の分の緑茶を淹れる。
「出席は自由だ。ただ依頼があったときには協力してほしいとは伝えてあるよ。彼女は君の事が苦手そうだったけれど」
 急須にお湯を淹れながら、竜太郎は言った。
 うみほたる学園に入学したての小池を、竜太郎は洸生会に誘った。小池は嫌そうに顔を歪めていたが、理事長も関わっていることを告げると拒否権がないと悟ったのか、参加してくれた。小池を洸生会へ向かえ入れた日。竜太郎以外のメンバーとの顔合わせをした。とはいえ小池が入る前の洸生会のメンバーは竜太郎と宗太の二人だけ。小池は宗太と会うなり怯えた様子だった。
 色々な出来事が一気に彼女を襲ったので、竜太郎は少しだけ彼女を心配している。
「そうだろうな」
 宗太はそう言いながらあくびをすると、起き上がる。
 テーブルに置かれた資料の一つを手に取って、顔をしかめた。無言のまま、それをみつめていたので竜太郎は気になって、淹れた緑茶をテーブルに置くと宗太の見ているものを覗いた。
「それ。斉藤のものか」
 竜太郎が言うと、宗太は手に持っていた紙の束を元の位置に戻した。
「ああ。斉藤だな」
 宗太はそれだけ言うと憂いた表情で、窓の外に視線を送る。そこには、山に生い茂っている木々の葉っぱがみえていた。
 斉藤寧々。小池が入学してきたあの日に、脱走しようとした生徒だ。彼女は竜太郎の友人で、宗太にとっては特別な人であった。宗太と斉藤はかつて良い仲だった。しかし色々あって今は仲がこじれてしまっている。
 そんな彼女のことが書いてあったので、宗太も思わず凝視してしまったのだろう。
 二人が元の関係に戻ることは難しいと竜太郎は思っている。単純な問題ではないのだ。むしろ、そうさせた原因は竜太郎にある。
「なぁ……」
 竜太郎が宗太に言葉をかけようとした時だった。
 誰かが扉を叩く音がして、竜太郎と宗太はほとんど同時に部屋の出入り口のほうへ視線を向けた。扉を開けたのは、先ほど話題に上がった少女。小池燐音だった。
「あの」
 か細い声が聞こえる。扉を大きく開けたわけではなく、部屋の中まで入ろうとしない。
「まさか来てくれるとは思わなかった。遠慮せずに入ってくれ。何もないけれど」
 竜太郎はそう言って、小池の分の緑茶を淹れようと湯呑を棚から出そうとした。
 そのとき、彼女は言った。
「違うんです。その、斉藤さんの事でご相談が」
 彼女の口から斉藤の名前が出る。竜太郎は思わず手を止めた。
「斉藤がどうかしたの」
 ソファに座ったままの宗太が、真面目な顔をして小池に尋ねた。
「戻ってこなくて」
 ぽつりと、不安そうに小池が言った。
「戻ってこない?」
 竜太郎と宗太は首を傾げた。
「授業が終わって、一緒に寮に帰ろうとしていたのですが。足立先生に呼ばれてるって言って、それ以降戻ってこなくて」
「それって、単純に足立先生の話か何かが長引いているんじゃないの」
 宗太の指摘に、小池は首を横に振った。
「しばらくして足立先生と会って。そうしたら、知らないって言われて。でも、それは嘘で」
 小池はどこか混乱している様子だった。
 竜太郎は顔をしかめた。
「小池さん。落ち着いて」
 言いながら竜太郎は、嫌な予感を覚えていた。
「ねぇ、何で足立先生の言葉が嘘だってわかるの。ひょっとして足立先生の心、よんだの」
 宗太の表情は、どこか小池を疑っているかのようだった。
 小池は怖いのか、竜太郎とも宗太とも目を合わせずに頷いた。
「罪悪感で、いっぱいでした。だから嘘をついているのがわかったんです」
 何があったのかはわからないが、何かが現在進行形で起こっていることは理解した。
 竜太郎は棚の上に置いてある固定電話の受話器を取って、幾つかボタンを押して内線に繋ぐ。理事長と連絡が取れると足立先生の事を伝えた。理事長から帰ってきた言葉は「早急に対処する」だった。
 竜太郎は電話を終えると小池と宗太にそのことを伝えた。
「だから僕たちは、一度冷静になろう」
 いつの間にか立ち上がっていた宗太のほうを見て、竜太郎は言った。今は抑えるように宗太に目配せする。
「竜太郎。お前なら、斉藤の居場所がわかるんじゃないのか」
 宗太が睨むような目つきで、竜太郎の事をみていた。斉藤の事となると冷静でいられないのは変わっていないらしい。
 竜太郎は息を吐く。
「やってみるけれど、あてにはしないでほしいな」
 困ったようにそう言うと、竜太郎はその場で瞼をゆっくりと閉じて、能力を使った。
 どれだけ遠くの場所にいても彼女の姿を捕らえることが出来る。竜太郎の能力はそういう能力だった。

 5

「いのう研究所」から連絡があった。職員を向かわせたので、午後八時に被験者を連れて例の場所へ来いという。
 足立は自分の計画に自信はなかった。けれど上手くやれば自分を呪縛し続けている煩わしいあれとおさらばできる。そう思うとやらざるを得なかった。
 今日は午後から休暇だ。明後日までの連休だった。
 午後五時半。斉藤寧々を呼び出す。斉藤をかどわかすことに抵抗がなかったわけではないが、口は上手く回ってくれた。彼女は学園を出たがっていたから誘惑するのは容易いことだった。斉藤には、学園の外へ出してやる。少しだけ協力してくれたらあとは自由だ。と言いくるめた。
 斉藤は足立の住むアパートで、待機してもらうことにした。
 午後六時。足立は何食わぬ顔で食堂へ。向かう途中、斉藤を探しているのか、小池燐音が話しかけてきた。斉藤のことを問われたので、「知らない」と嘘を吐いた。小池に心をよまれても平気なよう、極力何も考えずに答えた。とても罪悪感を覚えた。
 午後六時半。自分の食事を終わらせ、斉藤のために弁当を買ってアパートに帰ろうとした。電話が鳴る。理事長からの呼び出しに、嫌な予感がする。
 とりあえず怪しまれないように一度アパートへ戻り、斉藤に弁当を渡して理事長のいる学園本部のある建物へと向かう。
 午後七時。足立は理事長室にいた。部屋には理事長と、米田がいる。なにやら不穏な空気が流れている。
「足立くん。君は自分が何をやっているのか理解しているのかね」
 理事長の威圧的な態度に、足立は委縮してしまいそうだった。
「何の話ですか」
 と足立は何食わぬ顔で、冷静に尋ねた。
「とぼけるのもいい加減にしたまえ。君がしたこと、こちらはもう把握している」
「とぼけてなどいませんよ。本当にわからないのです」
「君がいのう研究所と繋がっているのは、知っている。本来ならばあの手の研究所から生徒たちを守ることが、君の仕事なのではないのかね」
 理事長が怒りをあらわにした。目の前にある机を、力任せに手のひらで叩く。
 その通りだ。何も言い返す言葉はない。
 足立は無言で、理事長から目を逸らした。
 もうごまかしも言い訳も利かない。理事長にはすべてを知られている。それを理解して、足立は息を吐いた。
「裏切り者の私の処分はどうしますか。理事長。私はもう覚悟しています」
「解雇処分だろうな。だが、その前に君がこんなことをした理由を知りたい」
 理事長の問いに、足立は素直に答える。
「理由ですか。お金ですよ。ギャンブルに使い込んでお金で困っていたところに、優しい研究員さんが助け船を出してくれたのです」
「金に困っているなら、能力者を連れてこい。買い取ってやるとでも言われたか」
「ええ。そうです」
 まるで見てきたとでも言う理事長に、足立は頷いた。
「自分を差し出しても良かったのですが、年齢が低ければその分高く買い取ってくれると言われたので仕方なく。この学園を出たがっていた生徒を一人、連れていこうと目論んでいました。そのほうが拉致して連れていくよりずっと楽でしたから」
「まったく、馬鹿な真似を」
 理事長が頭を抱えていた。
「足立先生、どうして。斉藤さんは、あなたにとって物だったのですか。あの子は何度も脱走しようとして、そのたびにあなたに捕まっていたけれど。あなたのことを嫌っているようにはみえませんでした。むしろ信頼しているようにみえました。だからあなたの話を信じているのですよね。それを裏切ったのですか」
 米田が、声を震わせていた。足立は彼女をも、失望させてしまったのかもしれない。
「ええ。斉藤はとても扱いやすかったですよ」
 足立は笑いながら言った。それは事実であったから。けれど少しも悪いと思っていないわけではない。迷いはあった。純粋に足立の事を信じる斉藤が、その曇りのない瞳が。希望に満ちた眼が。足立に罪悪感を覚えさせる。
 米田が、いつの間にか足立の目の前に立っていた。足立より頭一つ分低いところから、彼女が睨みつけてくる。なるほど彼女の顔が怖いと言われていた理由が少しだけ理解できる。凄味があった。足立のことを許さないとでも言いたげだった。許してほしいとも思わなかったが。

   *

 誰かが扉を叩く音がした。米田が訝し気な顔をして扉のほうへ行く。足立はその場から動けなかった。
「あなたたち」
 米田の動揺する声が聞こえてきたが、足立は振り向くことが出来なかった。
 剣呑な目つきで、じっと理事長が足立のことをみていたからだ。足立は目が逸らせなかった。
「ごめんなさい、今取り込んでいるの。少し待っていてくれる?」
 米田の申し訳なさそうな声が聞こえる。
「いえ。今、中に入らせてください。足立先生と話がしたいんです」
 物怖じしない、聞き覚えのある少年の声が聞こえた。
「竜太郎」
 米田が彼の名前を呼ぶ。そう、その声は川崎竜太郎だった。
「お願いします。足立先生の話が聞きたいっていう人がいるんです」
「でも……」
 米田先生はこの状況に困惑しているようだった。川崎の性格も良く知っている彼女には、この状況を上手く判断することが出来ないのだろう。だがそれだけではない様子だった。他にも誰かいるのだろうか。足立は振り向くことが怖かった。
「入りなさい」
 低くどっしりとした声で、理事長が言った。
 足立は顔を強張らせた。
「理事長。ですが」
「聞こえなかったのか。入りなさいと言ったんだ」
「は、はい」
 流石に理事長には逆らえなかったのか、米田が扉をさらに開けた音がする。
「どうぞ。入ってください」
「ありがとうございます」
 川崎が丁寧にそう言うと、足立のすぐ隣まで歩いてきた。足立はそれを見ると、後退するように三歩ほど足を動かした。
 部屋に入ってきたのは川崎だけではなかった。そこには、小池と本間。そして今一番姿をみたくなかった斉藤まで居た。足立は彼女にあわせる顔がないと思っていた。だから姿を確認しても誰とも目を合わせなかった。
 理事長も斉藤の姿を確認すると、安堵したのか多少は表情を和らげた。
「思ったより早かったが、よくやってくれた。竜太郎」
 どうしてか、理事長が川崎の事を褒める。
「勝手な行動をしたのに、怒らないのですか」
 川崎は、不安そうな声で言った。
「君たちがそうすると思っていたのでな。足立君に彼女の居場所を聞くのも手だが、君たちが動いても構わないと思っていた。だから早急に対処する。としか君に言わなかっただろう」
「手のひらの上にいるようで、癪ですが。まぁ、理事長の予想通りですよ。僕が能力を使って斉藤の居場所を突きとめました。何も知らない斉藤は、僕たちの声を聴いてあっさりと扉を開けてくれましたよ」
 それは、足立にとって不都合な会話だった。
「あたし、信じません」
 部屋に入ってからずっと沈黙していた斉藤が、口を開いた。
「ここに来るまでに、能力を使って色々と聴いていました。足立先生が、あたしを売ろうとしていたこと。あたしを物としてみていたこと。でもそれは、嘘ですよね。足立先生は、あたしをこの学園から出してくれるって。願いを叶えてくれるって言っていましたもんね」
 真っすぐに、斉藤が足立の事をみてくる。足立はその瞳から逃げるように目を逸らした。
「売り物としてみていたことは、本当だ。君を学園から出してやるって言ったことも本当だ。けれど、君の願いを叶えることはできない。君を君の実家に連れていくつもりなんか、なかったよ」
「嘘ですよ」
 震えた声で、斉藤が否定する。
「嘘じゃない。何を期待しているんだ。私は君を利用しようとした。だたそれだけの話だよ。自分の借金を消そうとして、自分の代わりにお前を研究所に差し出そうとした。本来の役目を放棄した。自分の保身のことしか考えていなかった。最低な人間だよ」
「足立先生。お願いだから本心を言ってください。あたしはそんな話が聴きたいわけじゃないんです」
「私の本心が聴きたいんだったら、小池に頼めばいいだろう」
 その足立の一言で、斉藤の視線が小池に向けられることになった。斉藤も知っているのだ。小池が他人の心をよめることを。そして斉藤だけではない。その場にいた全員の視線が小池に集まっていた。
「燐音。あたし」
 斉藤がしかめ面で小池の方を見ていた。申し訳ない気持ちが半分、知りたい気持ちが半分というところだろうか。
「気にしない」
 呟くようにそう言うと、小池が足立に近づく。小池の能力は、他人の心をよめる。彼女の能力発動の条件を、足立は知らなかったが、それほど制限はないように思えた。なぜならば食堂での一件は、彼女の能力が起こしたことのようだったからだ。
「足立先生。ごめんなさい」
 どうして小池が謝るのか。謝るのは足立の方であるのに。そう思いながら、足立は右手を胸にあてた。
 自分はいつからこんなに臆病になったのだろうか。ああそうだ。きっとあの時だ。
 あの日に、すべてが始まったのだ。

 6

 子どもの頃。足立は影踏み鬼という遊びが大好きだった。鬼になって友だちの影を踏んで捕まえるのが、楽しくて仕方がなかった。そのため、捕まる側になった場合はわざと捕まったりすることもあった。
 自分から友だちを遊びに誘うときは、必ずと言っていいほど影踏み鬼だった。それほど好きだった。得意な気分になれた。
 大人になるにつれ、その楽しかった子ども時代を懐かしむことが少なくなってきた。就職すると、仕事ばかりに傾倒するようになった。それでも一応、恋人はいたが優先順は低かった。だからだろうか。あの日、彼女に振られてしまったのだ。
「いつも仕事ばかりで。私たちって本当に付き合っていたの」
 そんなことを言われてしまった足立は、酷くショックを受けた。確かに仕事が忙しいという理由で何度もデートの誘いを断ったり、会っても手の一つも繋いだりしなかったが。そんな風に思われていたなどと知らなかった。足立は今まで文句の一つも言わなかった彼女に対し、とても楽な付き合い方のできる女性だと思っていたのだ。だから足立は彼女と別れたくなかった。彼女以外の女性と付き合える自信がなかったのだ。
「どうせ、都合のいい女としか思っていなかったんでしょう」
 足立は、彼女の言葉を否定することが出来なかった。しかし、それでも彼女と離れたくはなかった。彼女がいたおかげで仕事を頑張れていたことだけは、確かだったからだ。
 その日の夕方。意気消沈し、公園で呆けていた足立は、強く子どもの頃に戻りたいと願った。何のしがらみもないあの頃へと戻れたならば、こんな辛い想いなどすることはなかったのにと。
 その結果、足立は能力が使えるようになった。気づいたときには、小鳥が空を羽ばたけなくなっていた。小鳥の足は地面にまるで吸盤のように吸いついて離れない。翼を広げ、飛ぼうともがくその姿は滑稽にみえた。今の自分のようだと思った。
 小鳥の影が足立の影と重なっているために、動けないのだと気づくのに時間がかかった。陽が落ちて辺りが暗くなり影が出来無くなるまで、足立は小鳥の不思議な行動を観察し続けた。
 足立はしばらく能力の事を、自分はおかしな幻覚でもみたのだろうと思っていた。だから病院に行くことはなかった。人と影が重ならないよう意識していれば日常生活に支障は出なかったし、何よりも彼女との別れを忘れて仕事に没頭したかった。そうして一週間が経った頃。友人から酒を呑みにいかないかという誘いがきた。彼は足立と特に親しい友人だった。仕事の日だったが、終わってから呑みに行く予定にした。彼になら足立の身に起きたことを話してもいいかもしれないと思ったのだ。
 当日、足立は仕事が終わると約束の時間に、友人と居酒屋へ向かった。店に着き呑み始めると、足立は早速、恋人との話を友人にした。友人は笑わずに慰めてくれた。そしてもう一つの出来事だが、やはり彼にも話すことはなかった。話せば、彼の事も失ってしまうのではないかと思ったのだ。
「でもまあ。能力病じゃないが、人の心をよめたら楽だよなぁ」
 唐突に彼がそんなことを言うので、足立は首を傾げた。
「能力病?」
 聞き覚えのない言葉だった。
「何だ。お前、知らないのか。ある日突然、超能力が使えるようになる病気だよ。最近増えてきているんだと」
「へぇ。そんなものがあるのか」
 超能力と聞いて心臓が跳ね上がったが、何とか平静を装う。まさか。自分のあの影の力は、その能力病というものではないのだろうか。そう思ったら疑惑は膨らんでいく。
「お前、どれだけ仕事しかみていないんだよ。もう少し時事ネタとか知っていないと時代に取り残されるぞ」
「それは」
 足立に、反論など出来るはずもなかった。すべて彼の言うとおりだった。

   *

 その後、足立は能力病というものをインターネットで調べた。全国に約八百人程いるらしい。中には能力者を集めた学園があるらしく、能力病は病気ではなく、才能だとうたっていた。胡散臭いなと思いつつも、足立はその学園に興味を持った。うみほたる学園。足立はそこへ行けば仲間がたくさんいると思った。痛みを分かち合える仲間が。
 学園へ電話をして事情を話したら、明日にでも来てくださいと言われて、足立は仕事を休むことにした。ためらうことはなかった。三十二歳にもなって学園に興味を持つなど、仕事の同僚に笑われるだろうかとも思ったが、気にしないことにした。
 足立の住む県と学園のある県は距離がある。今まで一度も訪れたことのない土地だった。足立は車に乗り、四時間かけて学園へ向かった。到着すると大きな門が開いて、理事長に出迎えられた。そこから話はとんとん拍子に進んだ。
 足立は当初、入学する話になるのかと思っていたのだが、理事長からの提案で、今の仕事から転職するという形で、学園の教師となるよう勧められた。足立は教員免許も持っていたし、体裁も良いだろうということだった。断る理由はなかった。迷わずうみほたる学園の教師になった。
 足立の能力の事を知らない周囲は反対したが、どうでもよかった。とにかく自分の居場所が欲しかった。
 教師で能力を持っている人間は特に珍しいことではないらしく、先生にも生徒にもすぐに受け入れられた。敷地内にあるアパートで独り暮らしをするのも、すぐに慣れた。この学園には足立と同じような悩みを抱えている人間がたくさんいる。それだけで安心できた。信じられないくらい、充実した日々を送っていた。
 学園に務めるようになって、二年が経った頃だった。突然、元恋人と共通の友人からメールが来た。今どうしているのかとか、当たり障りのないメールの終わりに、衝撃的なことが書かれていた。
 足立の元恋人が、別の人と結婚したそうだ。
 目の前が真っ暗になった気がした。それと同時に、自分がまだ彼女に未練があったことに驚いた。自暴自棄になって、学園の外に出る用事があるときは、必ずと言っていいほどギャンブルに行くようになった。しかし、すぐにお金はつきた。窮地に陥った足立はある話を思い出した。
 この学園には。というより能力者たちには、研究者という敵が存在する。特にいのう研究所という場所には、決して近づいてはならない。彼らから能力者たちを守ることが、うみほたる学園の教師の仕事のひとつだ。何故なら彼らは、能力者の研究に余念がないからだ。特にいのう研究所は、時に非道な実験も行うという噂だ。
 追い詰められていた足立は散々迷ったが、彼らに会うことにした。最初は身売りでもしようと考えていた。しかし、いのう研究所の研究者が、年齢的に若い層を求めていることを知り、ならばと生徒をひとり差し出そうと思った。そうして今の状態から抜け出そうとした。後悔するとわかっていて、大事なものを自ら壊した。もう後戻りできない場所まで来てしまっている。足立は理事長にこの件がばれた時、もう潮時なのだと思った。この二年間、毎日が楽しかった。以前の仕事をしていた時よりもずっと心が晴れやかで、天職ではないかとさえ思っていた。
 これは罰だ。私利私欲のために行動した報いだ。
 斉藤の代わりに、足立はいのう研究所に自分を差し出すつもりでいる。

 7

 小池は、膝から崩れ落ちそうだった。隣にいた斉藤がとっさに彼女の肩を支えなければ、そのまま地面に膝を着けていただろう。
「足立先生」
 小池の声は震えていた。彼女は涙を流していた。両手で顔を覆い、とめどなく流れる涙を拭っていた。
 小池と向かい合ってから数分が経った頃の事だった。その間、誰も何も言わずに足立と小池の事を見守っていた。
 小池の呼びかけに、足立は首を横に振った。
「最初から、そうすればよかったんだ。そうすれば、誰も傷つかずに済んだ」
 足立は自分の心をよんだであろう小池に向かって、そう言った。
 後悔と申し訳なさが混ざり合って、どうにかなりそうだった。
「どう、して」
 小池が、足立に対して何か納得のいかないことを聞きたがっていた。
「これは私の問題だからだ。自業自得というやつだよ」
 足立はそう言って自嘲した。
 斉藤が小池の肩を支えながら、じっと彼女のことをみつめていた。その表情はどうしたら良いのかわからないという感じだった。
「燐音。足立先生は、何を考えているんだ」
 斉藤が、顔をしかめながら小池にそう尋ねた。しかし小池はずっと涙を流すばかりで、言葉をしゃべることはなかった。まだその場に足立本人がいるせいなのか。それとも泣きじゃくっていて上手く言葉が発せられなかったせいなのかはわからなかった。
 足立はその場から離れようと扉のほうを向く。いのう研究所の職員と約束した時間が、迫っていた。
「待ってください」
 足立は川崎に呼び止められた。
「足立先生。もしかして研究所へ行くおつもりですか」
 その場にいた誰もが、はっと息を呑んだ気がした。
「どうしてそう思う」
 足立は振り向きもせずに答えた。
「足立先生が斉藤を研究所に連れていこうとしていたことは、能力を使った斉藤からきいています。今日、斉藤が足立先生のアパートにいたのは、おそらく引き渡しの約束の時間まで待機させるためでしょう。けれど、その計画は失敗した。研究所の職員とはまだ連絡を取っていない。なら先生はこのまま職員に会いに行くはずだ。自分という能力者を差し出しに。そう考えるのが妥当だと思いますけれど。違いますか」
 川崎の指摘に、足立はしばらくの沈黙の後ゆっくりと息を吐いた。
「理事長が君に目をかけている理由が、なんとなくわかるよ。そう、君の言うとおりだ。私はこれから、研究所の職員に会いに行くつもりだ」
 足立は、諦めに満ちた表情で言った。
「どうしてですか。そんなこと、する必要はないはずです。わかっていますよね。会いに行けばどうなるのか」
 川崎の問いに、足立は頷いた。非人道的な実験をするという噂が流れているくらいだ。ただで済むとは思っていない。しかしもう、他に手がないのだ。
「ああ。だがもうこれしか方法はない」
 手足を引きちぎられようが何をされようが、重荷を一生背負うよりもずっと良い気がする。それに足立が今ここで逃げたなら、その後のこの学園にいのう研究所が害を成さない保証はない。だから足立は覚悟したのだ。この学園を守るために。これもまたエゴかもしれないが。
「許しません。そんなこと、させません」
 先ほどまで黙っていた米田が、足立の前に立ちふさがった。扉の前で米田は両腕を肩の位置まで持ち上げて、両の手のひらを広げていた。
 足立は一瞬だけ目を丸くしてから、彼女に向かってこう言った。
「米田先生。そこを通していただけませんか」
 しかし足立の要求に、米田は首を横に振った。
「できません」
 米田は、はっきりとした声でそう言った。意見を曲げる気はない。とでも言いたげな態度だった。
 足立は困ってしまった。眉をひそめる。気づいたら、みんなが足立の前に立っていた。
「あたしも反対です」と斉藤が言った。
「俺もです」と本間宗太も賛同する。
 小池は泣きながら、うんと頷いた。
「足立先生。あなたは自分の事も他人の事も、もっと大事にしてあげてください。本当に大事なものを見失わないでください。こんなにも、あなたの事を大切に想ってくれている人たちがいるのですから。僕たちと一緒に、解決方法を探しましょう。一番良い方法がきっとあるはずです」
 川崎の言葉が、足立の心に響いていた。大事なもの。足立にとって大事なものとは何なのだろう。足立はあんなに酷いことをしたはずなのに、今自分の目の前にいるこの人たちは、足立の事をこんなにも想ってくれている。それがとても嬉しくて、哀しかった。
 自分の欲しかったものは、本当は何だったのだろうか。
 足立の口から、息がもれたような声が出る。当惑したように額に眉をよせ、足立は立っていた。何も言い返す言葉がなかった。
「観念したらどうだ。足立くん」
 そう言った理事長に、視線が集まる。
「ここは私が動いて研究所の奴に、にらみを利かせてもいいのだが。君の返答次第だな」
 理事長の頼もしい言葉に、足立はしばらく沈黙していた。
 これでもまだ足りないと思ったのか、理事長は続けた。
「もちろん解雇はしない。借金も私がなんとかしよう。その代わりと言っては何だが、君に一つ仕事を任せたい。洸生会のことは知っているね。顧問を務めてほしいんだ」
「え。洸生会の」
 理事長の唐突な提案に、足立は驚いたように目を見開いた。
 理事長は頷く。
「ああ。私も忙しくてね。監督役が欲しかったところだ」
「ですが、私は」
 足立は返答に困っていた。顔色を窺うように、視線を川崎のほうへ向ける。彼が洸生会の生徒代表と知っていたからだ。
「足立先生。僕からもお願いします。先生のお力が必要なんです」
 川崎がそう言って、丁寧に頭を下げた。
 同じく洸生会のメンバーである本間も、何も言わずに頭を下げた。小池も泣きながら、足立先生に向かって頭を下げていた。二人とも、洸生会のメンバーの一人として、足立の加入に反対する気はないようだった。
「洸生会って?」
 斉藤が首をかしげていた。この場で彼女だけが、洸生会について詳しく知らないためだ。
「この学園の生徒たちを、卒業へ導く手助けをするための組織だよ。発足者は理事長だけれど、僕が洸生会の代表なんだ。今のメンバーは、僕と宗太と小池だけだ」
 川崎が顔を上げると、斉藤に向かって説明した。
 斉藤は驚いた表情をしたが、すぐに理解したように足立に視線を送ってくる。
「足立先生が顧問になるのでしたら、あたしもメンバーに入れてほしいのですが」 
 意外なことに、斉藤がそう申し出てきた。
「何を言っているんだ。斉藤」
 足立は動揺して、声を荒げた。
「ダメですか。理事長の許可がいるんですか。なら、理事長。加入の許可をください」
 斉藤がそう言って、理事長のほうをみた。
「いや。だから、私は引き受けるとは一言も」
 焦るようにそう言うも、斉藤は一歩も引かなかった。
「でも、迷っているんですよね。だったら、足立先生が引き受けない可能性はゼロじゃないです」
 核心をつくように言われ、足立は何も言い返すことができなかった。
「もう一押し必要なら、あたしがそのきっかけになります」
 斉藤はさらにそう言うと、右手を強く胸に当てた。
 何を言おうとも、彼女には叶わないのかもしれないと、足立は思った。
 理事長は顔に微笑を浮かべると、言った。
「いいだろう。斉藤寧々。君が洸生会のメンバーに加入することを許可しよう。他の者もいいね」
「斉藤なら、良いですよ。小池とも仲良くなったみたいですし」
 川崎がそう言うと、斉藤と小池が嬉しそうに顔を見合わせた。小池はいつの間にか泣き止んでいた。
 本間は肩をすくめていたが、何も言わないということは、反対する気もなさそうだった。
「それで足立君。君はどうするんだ」
 理事長に尋ねられると、、足立は深く息を吐いた。
 こういう状況にでもならなければ、足立は了承しないこと。理事長はすべて読んでいたに違いない。足立はこの場にいるみんなに背中を押された。みんなの優しさに答えなければならない気になっていた。
「まったく、強引ですね。私が顧問にならなかったら、きっとみんな哀しむんでしょう。わかりました。顧問の件、引き受けます。その代わり、後始末は理事長に任せます。本当に、ありがとうございます。ご慈悲をくださったこと、恩に着ます」
 そう言うと、足立は理事長に向かって深々と頭を下げた。

   *

「あの、足立先生。自分のことを許してあげて下さい。きっと先生に見合う良い人がまた現れます。もしかしたら、もう近くにいるのかもしれませんし。その時に、きっと幸せを手に入れることができます。そう、信じてください」
 話がまとまって竜太郎と宗太と斉藤と小池が理事長室を後にすることになったとき、小池が足立に向かって最後にそう言った。それはきっと足立の心をよんだ小池だけが知りえる情報から、小池がどうしても伝えたかった言葉だったのだろう。足立はそれを聞くと、優しく笑って「ありがとう」と言った。
 竜太郎は何となく、足立の後ろに立っていた米田を見る。深い意味はない。ただその時の米田の安堵した顔がとても美しく思えた。おそらく足立本人を覗いて、この場で一番ほっとしているのは彼女だろうと思えるほどに。
 ただの気のせいではないことを祈って、竜太郎は理事長室の扉を開ける。外に出ると街灯が竜太郎たちを照らす。灯りの中に立ったまま、竜太郎は自分の影を見つめた。まるでもう一人の自分みたいだなと思った。
(続)

連載小説「あの箱庭へ捧ぐ」序章

序章 心を知る

 淡いピンク色のルームウェアには、白と黄色の小さな花柄が入っている。小柄な女の子が、驚いた表情でこちらを見ていた。
 川崎竜太郎は目の前の少女に、まだ名乗ってもいないのに名前を呼ばれたような気がして、不思議に思った。彼女の視線は真っすぐに向けられている。竜太郎は、首を傾げた。彼女とは、どこかで会ったことがあるのだろうか。思い出せない。
「あなたを迎えに来ました」
 そんな二人の様子に気づいたそぶりもなく、隣にいたショートカットの髪型が似合う長身でスーツを着た女性、米田恵理子がにこやかに言った。彼女は竜太郎の通う「うみほたる学園」の先生で、竜太郎と十歳近く歳が離れている。三十路に差し掛かっている彼女だが、見た目は幼く童顔のためか実際の年齢よりも若く見られることが多い。よく竜太郎と姉弟だと間違えられることがあった。
 訳がわからないといった表情で、米田の言葉に少女は首を横に振った。声が出ないのか、小さく「いや」というかすれた言葉だけが聞こえたような気がした。
「残念ですが、あなたはもう我々が保護することが決まっています」
 米田の感情のこもっていない声が、部屋に響いた。拒否権はないのだと表情が告げている。竜太郎は少し可哀想だと感じたが、そんなことは関係ないのだとも理解していた。
「どうして」
 と少女の呟きが、竜太郎の耳に届く。
「それが、君が手に入れた力の代償です」
 竜太郎は歳の近い少女に向かって、冷たく言い放った。
 六月の、梅雨が始まったばかりのころだった。竜太郎と米田は学園の理事長に連れられて、小池燐音という名前の少女の自宅へ訪問していた。依頼者は彼女の両親で、母親のほうは泣きはらした顔を隠すように、ハンカチを両手で持っていた。
「米田くん。着替えを手伝ってあげなさい」
 竜太郎の後ろにいた年配の男性が、そう言ってから部屋を出た。彼はうみほたる学園の代表、堀田理事長だ。
 竜太郎は理事長が階段を降りようとしていたので、慌てた。彼は数年前、病気で足を悪くしたため、杖をついていた。補助をしなければ、理事長はひとりで階段を降りることが出来ない。二階に上がる際も、竜太郎が補助をしなければいけなかった。
 理事長は、燐音の両親と話がしたいと言った。部屋の中に燐音と米田を残して、彼女の両親と理事長と竜太郎は一階にある客間へ向かった。

   *

 その家は、一般家庭にしては裕福なようであった。西洋風な照明とソファを置いており、竜太郎と理事長は黒い革のソファに座るように促された。竜太郎は慣れない手つきで足の悪い理事長の補助をしてから、ソファに腰を下ろした。座った瞬間の革特有の音が、竜太郎にはどうしても蛙の鳴き声のように聞こえた。
「それで、お嬢さんの力というのは何か、あなた方は理解しているのかね」
 理事長がさっそく、本題に入る。顔つきはいつになく真剣で、落ち着いた声色をしていた。今まで何人もの能力者を見てきた彼は、鋭い針のような観察眼を持っているのだろう。小池の事を一目みただけで何かを察したようだった。
 小池の両親は、竜太郎と理事長の向かい側のソファに座っていた。母親は変わらず顔をうつむきがちにして、ハンカチを握りしめていた。父親は剣呑な目つきで理事長をみつめている。
「はい。家内が言うには、娘に。燐音に心の中が見透かされているようだと。言葉は悪いのですが、それが気持ち悪いと言うのです」
 父親は眉をひそめて言った。
「それを聞いてあなたは、どう思ったんだね」
 理事長は表情を変えずに、父親に尋ねる。
「私は。そんなこと、あるはずがないと、思いました」
 父親は辛そうな表情をした。彼の事を考えると、心が痛い。大切な娘を疑うことがどれほどの苦痛を伴うのか、竜太郎には想像がつかない。
「それで、我々に検査してほしいとのことだったか」
「はい」
 理事長の言葉に、父親は頷いた。
 依頼内容を確認した理事長は、険しい顔をしながらこう言った。
「結論から言いましょう。お嬢さんは、能力者だ」
「やっぱり」
 母親の口から、悲観の声が漏れる。
 竜太郎が視線を向けると、何かやましい気持ちがあったのか、母親は泳ぐ魚のように目を逸らした。
「彼女の部屋に入った瞬間、彼女は我々が来ることをあらかじめ知っていたかのように落ち着いていた。そのあとすぐに何らかの別の理由により驚いていた様子だったが、それは人数かもしれない。こいつが居たからな」
 理事長が竜太郎を横目でみた。流石に、小池の事をよくみている。竜太郎は口を開きかけたが、理事長はすぐに続けた。
「随分と若い奴を連れてきたのでな。あなたたちも予想していなかったことだろう」
「なるほど。すると娘は、私たちが想像していた来客を知っていたと」
 理事長の言葉に、父親が納得した。
 燐音には、今日の来客を事前に知らせてはいなかった。そして燐音に用がある客人が来る可能性などないに等しかった。彼女はここ一年ほど家に引きこもっていたからだ。彼女に友人がいたかどうかはわからないが、彼女を外に連れ出そうと思う友人はもうとっくに諦めていることだろう。なので最初に部屋に入った時、もっと驚いてもおかしくはなかったと父親は説明してくれた。
「お嬢さんは、あなたたちの心をよむことができる能力を持っている。これは確定してもいいだろう。そういう能力を持つ者は稀に存在する。扱い方はわかっているから、安心してほしい」
 理事長はそう言ってから竜太郎に目配せをしてくる。竜太郎は急いで、理事長に持たされていた黒い鞄から書類を二枚取り出した。一枚は入学案内と書かれた紙。一枚は秘密保持と書かれた契約書。それを白いレースの布が掛かったテーブルに置いた。
 これは決して悪徳な契約書ではない。理事長が代表を務め、米田が先生として働き、そして何より竜太郎が生徒として通う、うみほたる学園の入学手続きに必要な書類だ。
「よく読んで、ここにサインを。お嬢さんの安全は、我々が保証します」
 言いながら右の手のひらを使って署名の欄を示す。それから胸ポケットに忍ばせていた黒いボールペンを渡した。
 なんだか怪しげな台詞を吐いたが、竜太郎は真面目な顔を崩さないように務めた。
「何を見て何を聞いても。絶対に不機嫌な顔をしないように」
 と竜太郎は理事長からきつく言われていた。それがこの場に同席させてもらうための条件であった。
 ボールペンを手に取った父親は、少し渋っている様子だった。顔をしかめたまま、入学案内と睨み合っている。隣の母親は、入学案内と父親の顔を交互に見ている。何か焦っているようにもみえた。彼がサインすることを迷っているせいかもしれない。
「学園に入ってしまったら、しばらく娘とは会えなくなるんですか」
 父親の質問に、理事長は頷いた。
「そこに書いてあるとおり、基本的には卒業まで帰省は出来ないが、あなたたちが希望すれば面会をすることは可能だ」
「そうですか」
 複雑そうな顔を浮かべながら、父親は意を決したようにボールペンを握り直して書類にサインを書き始めた。
 父親の隣で母親がほっとしたような表情をしたことを、竜太郎は見逃さなかった。けれど何も言わないように、堪える。理事長の言うことを聞くまでもない。人の家庭の事情に首を突っ込むことが良くないことは、竜太郎もわかっている。
 書類にサインをし終わったころ。米田と小池が二階から降りてきた。彼女は笑いもせず泣きもせず、ただそこに居た。感情を押し殺しているようにもみえた。
 忘れることはないだろう。無表情という言葉が似合うその顔に、竜太郎は恐ろしさを感じていた。

   *

「何ですか。あれ」
 帰りの車内で、竜太郎はついに我慢ができなくなって理事長に尋ねた。乗っているのは運転手と理事長と竜太郎だけで、小池と米田は後続の車に乗っているので話を聞かれる心配はなかった。
「あれとは何だ」
 後部座席で隣り同士に座っている理事長と竜太郎は、顔も合わせずに会話をする。
「小池燐音の母親の態度ですよ。すごく嫌な気持ちになりました」
 竜太郎の目には、母親が娘を厄介払いしたいだけにみえたからだ。
「あんなものはまだ序の口だ。まだ直接言葉にしないだけマシなほうだ」
「そういうものですか」
「そういうものだ」
 竜太郎の質問を、理事長は肯定する。竜太郎は納得したくはないと思った。
「竜太郎。彼女には彼女の事情があるのだろう。そこは我々に口を挟む権利がない」
「わかっています。でも、彼女が。小池燐音が」
 竜太郎が言葉を最後まで言わないうちに、理事長が言う。
「可哀想とでも思うのか。お前は。ならば自分が何をすべきなのかもわかっているだろうな。私が今回、何故お前に付き添いを許可したのかも」
 理事長が竜太郎に顔を向けたことに気づき、竜太郎も理事長のほうをみて頷いた。
「はい」
「彼女をメンバーに加えなさい。彼女の能力はきっと役に立つ」
 何の話か、竜太郎には直接言われなくてもわかっていた。今回の同行はそのための調査でもあったからだ。
 竜太郎の所属する「洸生会」これはうみほたる学園の生徒たちを卒業へ導く手助けをするために発足された秘密組織である。現在のメンバーは代表である竜太郎を含めて二人。小池燐音は、彼女の両親から能力の検査依頼があった時点で新メンバー候補となった。すべては理事長自らが決めたことだ。
「人の心を知ることが出来る能力ですか。便利そうですね」
 あくまでも利用価値のあるものとして、竜太郎はそう言った。
 自分が何をするべきなのか。わかっている。自分が小池にしてやれることは何なのか。わかっている。彼女をメンバーに迎えたうえで、卒業まで導いてやらなければならない。
 小池燐音の能力を消失させること。それが理事長からの依頼だった。

(続)

詩「私のヒーロー」 黒宮涼

 体が弱くても
 心が強くなくても
 空を飛べなくても
 今すぐ駆けつけてきてくれなくても
 君がそこで笑ってくれているだけで 十分なんだ
 君がそこで笑ってくれているだけで 元気がでるんだ
 だから さあ 笑って
 いつもみたいに おはようって 笑って
 悲しい気持ち 全部 吹き飛ばすみたいに

黒宮涼の「目」で見、「心」に感じた詩2編

「台風の後」

道端に小さなサンダルがおちている
フェンスの向こうにあるマンションの一階
暴走した風にあおられて
きっとそこから飛ばされたもの
「すみません。このサンダルお宅のですか」
そんなこと言う勇気はなくて
わたしは通り過ぎる
帰り道 同じ場所を通ると
サンダルが綺麗に揃えられて置いてあった
誰がやったかわかるはずもない
持ち主よ 早く取りに来い

「おばあちゃん」

一瞬 両目を見開く
また瞼を固く閉じる
掴んだ手をぎゅっと握ってくる
ねぇ あなたは今 何を思っているの
目は 見えているの
耳は 聞こえているの
想う心は どこにあるのか
それは わたしたちには一生わからない
あなたは わかっているのかもしれないけれど