詩「私のヒーロー」 黒宮涼

 体が弱くても
 心が強くなくても
 空を飛べなくても
 今すぐ駆けつけてきてくれなくても
 君がそこで笑ってくれているだけで 十分なんだ
 君がそこで笑ってくれているだけで 元気がでるんだ
 だから さあ 笑って
 いつもみたいに おはようって 笑って
 悲しい気持ち 全部 吹き飛ばすみたいに

黒宮涼の「目」で見、「心」に感じた詩2編

「台風の後」

道端に小さなサンダルがおちている
フェンスの向こうにあるマンションの一階
暴走した風にあおられて
きっとそこから飛ばされたもの
「すみません。このサンダルお宅のですか」
そんなこと言う勇気はなくて
わたしは通り過ぎる
帰り道 同じ場所を通ると
サンダルが綺麗に揃えられて置いてあった
誰がやったかわかるはずもない
持ち主よ 早く取りに来い

「おばあちゃん」

一瞬 両目を見開く
また瞼を固く閉じる
掴んだ手をぎゅっと握ってくる
ねぇ あなたは今 何を思っているの
目は 見えているの
耳は 聞こえているの
想う心は どこにあるのか
それは わたしたちには一生わからない
あなたは わかっているのかもしれないけれど

連作短編小説「玉木さんと鈴木くん その4『進路』」

 俺の両親は共働きで二人とも医者だ。頭が固くていつも偉そうで人を下に見ている。俺も医者にしようと厳しい教育をしていた。俺が中学でグレなければ今もずっと続いていただろう。ただ父親だけは未だに諦めていないらしい。
「先生から電話があったぞ」
 恐らく俺が全教科赤点をとったことによる「息子さん、このままだと留年しますよ」みたいなことを言われたに違いないと思いながら、俺は親父の小言を聞く。
「まったく、いい加減にしてくれ。今年は受験だ。遊んでいる暇などないぞ。今まで大目に見てきたが、髪の毛もそろそろ黒に戻したらどうだ」
「嫌だ。親父もいい加減に諦めれば」
「ヒロ。お前はこの先どうするつもりなんだ」
「親父には関係ない」
 この問答をどれだけ繰り返しても、俺の中の結論が変わることなどない。親父だって俺が髪の毛を茶髪にして、喧嘩上等。校則を破ってばかりいる原因が自分にあることぐらいもう気付いているはずだ。それでもまだ俺が医者になることを諦めていないのならば、親父こそ馬鹿だ。
「関係ないわけがないだろう。お前は俺の息子だぞ」
「俺は、お前のことを親父だなんて思ったことはない」
 勢いでそう言ってしまって、俺ははっとして口をつぐんだ。父の隣で不安そうな顔をずっと浮かべていた母を一瞥する。さらに険しい表情になった母を見て、俺は言ってはいけないことを言ってしまったのだと自覚する。
「……悪い。言い過ぎた」
「いや。お前がそう思っているのならもう好きにすればいい」
「え?」
 親父の意外な言葉に、俺は目を丸くする。素直に謝ったのにその返答は予想していなかった。
「出て行け。この家から」
「ちょっと、お父さん」
 親父の発言を、母は止めようとしてくれていたが意味もなく。俺は親父がものすごく怒っているのを感じ取っていた。
「わかったよ。言われなくても出てってやるよ」
 俺は舌打ちをしてそう吐き捨てた。本当に出ていこうと思い、自室に戻って大きめのカバンに着替えを詰め込む。後ろから母親の声が聞こえてくるが、俺は無視して詰め終わった荷物を持って家を出る。行き先はいつものところだった。

「また家出してきたの。勉強の邪魔になるから出て行ってくれないかしら」
 隣の家に駆け込むと、幼馴染の玉木梓から辛辣な第一声を浴びせられた。そう、俺の玉木家への家出はもう何度も繰り返されたことだった。子どものころから変わらない。俺の憩いの場所になっていた。俺がこうして家出をするたびに隣のおばさんは仕方ないといった顔をして俺の家に一報をする。そして翌日に、母親が迎えに来るというのがいつものことだった。しかし最近は母親が迎えに来ようがなんだろうが、二三日は家に帰らないようにしている。たった一日の家出など、子どもみたいで嫌だからだ。
「お前の邪魔はしないよ。どうしても嫌なら、別の所に行く」
「そうしてくれると、ありがたいわ」
 いつもだったらこんな言葉、平気なはずだった。ただ今日、違う点があるとすれば父親が俺に向かって「出て行け」といったこと。普段ならば俺が勢いで「出て行く」と言って家出をするところなのに。今回は珍しく親父から突き放されたのだ。傷ついていないはずがない。
「そうかよ」
 俺は小さく呟いて、それから荷物を持ち直す。
「やっぱり他に行く」
「そう。いつも強引に泊まるのに、どういう風の吹き回し」
「別に関係ないだろう」
「そうね。他に行ってくれたほうがこちらとしても助かるわ」
 迷惑をかけている自覚はあったので、何も言い返せなかった。
「じゃあな、ガリ勉女」
「うるさいわ」
 俺の精一杯の皮肉に、耳に手を当てて聞こえないふりをする梓。一応気にしてはいるらしい。玉木家を出ると、眩しい夕日が目に入った。思わず瞼を閉じる。
「さて、どうしたものか」
 俺はそう呟きながら、右手で太陽の光を遮る。季節は春で、もう外も夏のように暖かくなってくる頃だった。何人かの友人宛に、家に泊めてもらえないかとメールを送る。これで誰からも良い返事が来なければ野宿でもするかと考えていた。一人目の返信。ダメ。二人目もダメ。三人目も四人目も勘弁してくれと返信が来た。俺は仕方がないので公園で野宿するルートを選ぶことにした。

 所持金三千円。俺はもっと持ってくればよかったと後悔していた。最初は玉木家に泊まる予定だったので、お金など必要ないと思っていたのがいけなかった。高校生なので当然カードも持っていない。友人宅にも断られた俺は、一人公園で寝袋もなしにベンチに横になるしかなかった。
「ちくしょう。梓め。一生恨んでやる」
 俺より勉強をとったことを後悔させてやる。と一人で愚痴りながら携帯を見る。親からの不在着信が一件も入っていないところに虚しさを感じる。俺のことはどうでもいいのか、それとも玉木家に居ると思って安心しているのか。その場合まだ玉木家に電話していないことになる。やはりどうでもいいのか。電池がもう半分程なくなっている。残量が減るたびに俺の中の不安が増していくようで、俺は見るのをやめた。ベンチに横になっていると固くて背中が痛いので、起き上がる。隅を見ると鳥の糞らしきものが見えて、俺はそこらに落ちていたスーパーのチラシを上においた。横になる前にベンチもティッシュで軽く拭いているが、綺麗とはいえなかった。正直、俺は家に帰りたかった。柔らかいベッドが恋しい。
「鈴木くん?」
 不意に声をかけられて、俺は視線を向ける。公園の入り口に立っていたのは女の子で、俺はその顔に見覚えがあった。
「白井さん? もしかして遊びに来ていたのか」
 そこにいたのは白井みづきという梓の友人だった。お互いの家に遊びに行くほど仲がよく、俺が玉木家に行くとたまに顔を合わせることがあった。
「ううん。親戚の家がこの公園の真裏で、今日は法事があったからそのまま泊まるの。今は、ちょっとコンビニに行く途中で」
 白井は首を横に振りながらそう言った。ああ。そうか。と俺は思い出していた。この子は必要以上に他人に気を使う。今だって俺に話しかけなければ時間を割くこともなくコンビニに行けたのに。
「そうか。いってらっしゃい」
 俺は自然に右手を振る。この公園はダメだなと頭で考えていた。白井に見つかってしまって居心地が悪い。
「あの。どうしたの、その荷物」
 白井が指摘したのは、俺が家出するときに持ってきたボストンバックだった。中身は衣類で鞄はそれなりに膨らんでいた。
「あー。気にしないで」
「旅行にでもいくの」
「まあ、そんなとこ」
「そっか」
 会話が途切れる。俺は白井に本当のことは言わなかった。言ったところで白井を頼れるわけでもないと思っていたからだ。白井がさっさとコンビニに行くことを俺は願っていた。ところが、白井は俺の座っているベンチの近くまで来た。俺は心臓が飛び跳ねそうになる。白井はポケットから携帯電話を取り出すと、何やら操作しだした。なんだろうと思いながら白井をじっと見つめていると、白井は画面をこちらに向けた。
「さっき、梓ちゃんからメールが来ていたの。鈴木くん、旅行じゃなくて家出でしょう」
 それは証拠をつきつけるようだった。俺は図星をつかれて顔をしかめた。つまり白井は俺の家出を最初から知っていて、俺の姿を見つけたから声をかけたということらしい。メールには俺を探している。見かけたら連絡下さい。と書いてあった。
「あいつ。自分で追い出しといて何してんだ」
 俺はそう言って頭を抱える。
「梓ちゃんなりに、心配しているんだと思うよ。隣、いい?」
 白井がそう言うので、俺は頷いて少しだけ横にずれる。思えばこうして白井と二人で話をするのも久しぶりだった。
「コンビニ行かないの」
「鈴木くんに話があるから。後でいい」
「家の人が心配するだろう」
「それは鈴木くんも」
「俺は、心配なんかしてないだろ」
 自分でそう言って、溜息をつく。気分は最悪だった。
「ねぇ、鈴木くん。何で梓ちゃんがあんなに勉強ばかりしているのか、その理由を知っている?」
「知らない。自分のためとか言いそう」
 何故、白井がそんな話をするのか俺はわからなかった。てっきり家出のことを説教されるのかと思っていたのに。
「鈴木くんのためだよ」
「は? 何で」
 予想外の答えに、俺は目を丸くする。勉強と俺とどういう関係があってそうなるのだ。俺が困惑した顔をしていると、白井は言った。
「何となく聞いてみたんだ。将来なりたいものでもあるのかなって。そのために勉強しているのかと思っていたの。でも、鈴木くんが医者になりたくないから、自分が医者になるんだって言ったの。最初は意味がよくわからなかったんだけど、鈴木くんの両親が医者だって聞いて、何だか納得しちゃった」
「何だよそれ」
 俺は梓らしいと思う反面、怒りが湧いてきていた。梓は俺と俺の両親のために犠牲になるつもりなのだ。そんなので俺と俺の親父が納得するとでも思っているのだろうか。
「梓ちゃんは、鈴木くんを解放してあげたいんだと思う。そのために必死になって勉強している。鈴木くんはここで何をしているの」
「俺は……」
 言葉が出なかった。俺はずっとあの両親から逃げたかった。だから何度も何度も歯向かって俺は俺のしたいようにするんだって粋がっていた。けれど、結局俺は何がしたいのか未だにわかっていない。俺はただ自分のことだけを考えていた。梓が俺のために何かをしようとしていることなんてまったく気づいていなかった。
「こんなことじゃあ、去年の恩返しになんてならないとは思うけど。今度は私が貴方たちを助ける番。だから、もっと梓ちゃんと向き合ってあげて。誰かのためにそんなに必死になれるなんて、凄いことだと思うから」
 去年。そう言われて俺は思い出していた。去年の夏。俺と白井はあの時もこうして話をしていた。友だちになりたい人がいるのと、白井は切り出した。俺は親身になって相談に乗ったのを覚えている。
「白井。十分だよ」
 俺は立ち上がる。このままここにいてはダメだと思った。俺は梓と話し合わなければならない。

 梓は玉木家の門の前に一人立っていた。白井と別れた後、きっと彼女が梓にメールを送ったのだろう。帰ってくるとわかって出迎えてくれたのだ。
「おかえりなさい。遅かったわね」
 梓は俺の姿に気がつくとそう言った。
「お前なぁ。出て行けって言ったのそっちだろう」
「あら。そうだったかしら」
 とぼける梓の目の前に立つと、俺は何となく昔話をする。
「だいたいお前は昔からそうだ。素直じゃないうえに嘘つきだ。覚えているか? 小学生のころ、お前の家でご飯を食べさせてもらったとき。俺が嫌いなピーマンを食べ残すたびに、お前が食ってくれていた。自分もピーマン嫌いなのにな。俺は毎回『あずさちゃんに食べてもらった』って言うのに、お前は俺が全部食ったって嘘をついた」
 だから褒めてあげてと言うのだ。俺は両親に褒めてもらった覚えがない。梓はそれを知っていて、可哀想だと思ったのだろう。だから嘘をついてまで俺を立てようとしてくれた。余計なお世話だと俺は思っていた。梓は、その後も数々のつまらない嘘をついた。ほしいものがあったときは大抵ほしくないと言うし、基本は心配をかけたくないとか相手に気を使ってとかそういうものばかりだ。
「そんなもの。覚えていないわ。何が言いたいのよ」
 俺はボストンバックを道路に置くと、首を傾げる梓を自分の胸へと引き寄せる。
「つまりお前はそういう奴だ。人のために自分を犠牲にしても平気なんだ。けれど、そんなのは間違っている。俺のためにお前が医者になろうだなんて、そんな馬鹿みたいなこと俺は望んじゃいない。だからもう必死で勉強なんかしなくていい。頑張らなくていいんだ。つまらない反発はもうしない。親父とはちゃんと話し合う。それで、医者にならないことを許してもらう」
 俺ははっきりとそう口にした。医者にはならない。それはもう俺の中では決まっていること。だからどうしたらいいのかを考えて、出したことだった。梓には自分のなりたいものになってほしい。俺は覚悟を決めたのだ。
「何よそれ。私がいつヒロのために医者を目指しているって言ったの。私は好きで勉強しているの。勘違いしないで」
「白井から聞いたんだよ。どうせ俺と親父たちのためだろう。違うのかよ」
 俺の言葉に、梓は観念したかのように嘆息した。
「そうよ。私、おじさんたちと約束したの。私が医者になったらヒロのことは諦めるって。ヒロのことを自由にしてくれるって」
「そんな約束したのかよ」
 俺は驚いて声を荒げた。思っていた以上に最低な親父だった。俺は思い出す。中学に入るまで梓の成績はそんなに良くなかったはずだ。そうだ。俺が髪の毛を茶色にしたあの頃から急に真面目に勉強に打ち込むようになったのだ。
「だって仕方ないじゃない。あんたの辛そうな顔を見ていたら、放っておけなかったのよ」
「だからって、ばかか? 放っておけばよかったんだ」
「放っておけるはずないわ。だって――」
 梓が言葉を言い終わる前に、俺はあることに気付いた。身体が密着しているせいか、梓の体温が妙に熱い。いや、熱すぎる。その異変に気づいた俺はとっさに梓の両肩に手を置き、身体から引き離してから顔をまじまじと見つめた。
「ちょっとまて、お前。熱があるんじゃないか」
 梓は顔色が悪く、呼吸も荒かった。俺は確信して梓の額に右手をあてる。やはり熱い。
「大丈夫よ。熱なんてないわ」
「ばかやろう。俺のことずっとここで待っていたのか」
 俺はそう梓を叱りつけた。どうせ昨日も夜中まで勉強していたに違いない。俺は今まで気づけなかった自分にも、体調が悪いことを隠していた梓に対しても憤怒していた。
「そんなんじゃないわ」
「もういいっ。とにかく家に入れ」
「大丈夫よ。このままでも」
 俺は渋る梓を家の中へと押し込んだ。どうしてそんなに抵抗するのか理由はすぐにわかった。中に入ると俺たちを出迎えたのは、俺の親父と母親だった。玄関での問答が聞こえたのか居間から出てきたのだ。
「ヒロ」
「親父? どうしてここに」
 俺は驚いて一瞬だけ本題を忘れそうになったが、すぐに我に返ると梓の腕を掴んで前に出す。
「そんなこと今はどうでもいい。親父。こいつ熱があるみたいだ。今すぐ治してくれ」
 親父は俺の言葉に眉毛を少しだけ動かして、それから何も言わずに梓の手を両手で包むように握った。
「母さん。梓ちゃんを寝かせるから用意を頼んでくれ」
「わかった」
 母親はそれを聞くと頷いて、慌てて梓の母を呼びに行った。親父は「歩けるかい」と梓に聞くと手を引いて奥まで歩いて行った。俺はというと、そのまま玄関で立ち尽くしていた。しばらくして荷物を外に置きっぱなしだったことを思い出して取りに戻り、俺は玉木家を見上げた。自分は無力なんだと痛感した。梓が体調を崩してしまったのはすべて俺の責任だ。荷物を肩に背負い直し、建物から視線を外す。俺は宛もなくゆっくりと歩き出した。

「悪いな、有沙。突然押しかけて」
「いいよ。それよりさっき家に電話したら、おばさんが凄く心配していたよ。おじさんに止められているから電話もできないって嘆いていた。それと、伝言。梓の風邪はすぐ治るから安心してだってさ」
 床に布団を敷きながら有沙が言った。俺はあの後電車に一時間程揺られて、一人暮らしをしている梓の姉、玉木有沙のアパートに転がり込んだ。有沙は俺より六歳年上で、社会人だ。頼れる姉貴だと思っている。一人暮らしの女性の部屋に転がり込むのはいかがなものかと思い選択肢から外していたのだが、完全に行く場所を失っていた俺は最後の手段として選んだのだ。
「そうか。別に心配なんてしてない」
「梓も大概だけどさ。あんたも時々素直じゃないよね」
 有沙の言葉に俺は何も言い返せなかった。ベッドの上で胡座をかいて有沙の姿を見つめていると、枕が飛んできた。それは顔面に当たり、俺は後方に倒れた。
「いってー。何しやがる」
 言いながら起き上がると、有沙は腹を抱えて笑っていた。
「あっはっは。らしくない顔しているからつい。悩んでるんでしょう。話だけでも聞くけど」
「笑いながら言うことじゃないだろ」
「ごめん。真面目に聞くね」
 拗ねたように言うと、有沙は先程まで緩みきっていた顔を整え、俺の横に座った。ベッドが二人の体重で軋む。寝巻き姿の有沙姉ちゃんを見るのは、本当に久しぶりだった。子どもの頃はよく俺と有沙と梓の三人で雑魚寝することもあったから、見慣れていたはずなのに。
「俺は勉強が嫌いなんだ。親父と母さんが強要してくるから。医者になるために勉強は大事だって。俺が自分でなりたいって、言ったわけじゃないのに。勉強ばかりで友だちと遊ぶこともできなくて、辛かった。だから俺は有沙たちが羨ましかった。隣の芝生は青いって言うだろ。まさにそれだったんだ。俺は玉木家に生まれてきたかったっていつも思っていた」
「ふーん。うちは逆だったな。隣の家はお金持ちでいいなって。家がうちより大きいし、車もうちより高そうなもの乗っていたじゃない」
「その代わり、家にほとんど親が帰ってこなかったけどな」
 皮肉を込めて俺は言う。どんなに勉強をしても欲しいものが手に入っても、一番大事なものが欠けていたように思う。俺はずっと、寂しかったんだ。
「家庭教師のお姉さんとかいたじゃん。あの人元気なの」
 有沙がそう尋ねてきたので俺は思い出す。そういえばそんな人もいたなと。
「あー。あの人は母さんの高そうなネックレス盗んだのがばれて首になった」
「うわー。そんな話聞きたくなかった」
 遠い目をしている有沙に、自分で聞いたんだろうとつっこみたかった。実際、俺もあまり思い出したくなかった。すごい剣幕で怒る母に、下手な言い訳をする家庭教師。俺はそれをこっそり見ていたのだ。彼女が首になってからだと思う。俺の中でそれまで自分を形成していた何かが崩壊したのは。
「髪の毛染めてピアスあけて喧嘩して。今でもそうだけど、中学時代はアホなことして先生に呼び出しくらうとか日常だったな」
「私が実家に帰ると毎回、顔に痣つくっていたよね」
「その点、高校入ってからあんまり呼び出されなくなったよ。俺成長しているだろ」
「あー。はいはい。で? さっきから思い出話しばっかりで本題に入ってないよ」
 痛いところをつかれて、俺は苦笑い。悩みを有沙に話すのは何だか恥ずかしいから、つい遠回りをしてしまった。
「有沙姉ちゃん。俺、医者になろうかなって思うんだけど。今さらだよな」
 意を決し言うと、有沙は無言で顔を固まらせた。真面目な顔をして俺は有沙を見つめ続ける。
「は? 待って、どういう心境の変化なのそれは」
「予想通りの反応をありがとう。今まで散々、反発してきたからな。自分でもびっくりするよ。梓が俺のために医者になろうとしていたことと、無理をして体調を崩したことが主な理由なんだけどな」
 俺は正直に言った。俺のために熱を出した梓を見て、俺は助けてやりたいと強く思った。もし自分が医者だったら、もっと早く体調の変化にも気付いてやれたかもしれないと思った。
「確かに今さらだけど。でも、いいんじゃないかな。なりたいって思ったんならなれば。まだ間に合うと思うよ。私なんて大学行くまで自分が何の職に就くかまったく決めてなかったんだよ。それが今じゃデザイン関係の仕事してるんだよ。そう思うと高校生で将来のこと考えられるなんて凄いよ」
 有沙はそう言って軽く拍手をしてくれる。
「今までこんなに強く、何かになりたいって思ったことはなかった。親父の言うとおりにするのは癪だけど、俺は俺なりに頑張りたい。だからやっぱり親父と話し合わないといけないよな」
「うん。おじさんとおばさん喜ぶと思うよ。梓も多分、応援してくれると思う」
 誰かのためなら、きっと人は動けるのだろうなと思う。大切な人のためならなおさら。これから死ぬほど勉強しなければいけないのは億劫だけれど、俺は頑張れそうな気がしていた。
「有沙姉ちゃん。ありがとう」
 明日も仕事だからとベッドで眠る有沙に向かって、俺は言う。それから床に敷いてくれた布団に入り電気を消す。
「頑張れ。ヒロ」
 眠りに入る間際、有沙がそう言ってくれたような気がした。 (完)

連作短編小説「玉木さんと鈴木くん その3『姉妹』」

 私は一という数字が好きだ。おやつが貰える順番。出席番号の最初の数字だ。一位を取ると金メダルが貰えるところも好きだ。整理番号の順番待ちも最初で、とにかく得することがたくさんあるから良い。だから私はそれ以外の数字はあまり好まない。
「二がある」
 トランプの数字を見て私は顔を引きつらせていた。今は見たくない数字。
「ちょっと、有沙。持っているカード言ったらダメだろ」
「ごめん」
 鈴木ヒロにそう言われて、私は謝る。ヒロは隣の家に住む幼馴染だ。
 大富豪というトランプゲームがある。ジョーカーの次に強いカードが何故か二なのである。そして私の好きな一のカードは三番目に強い。トランプはゲームによってカードの強さが違ってくるところが好きじゃない。でも暇な時に誘われてしまったらやるしかないだろう。
「あがったわ」
 不意に妹の梓がそう言って、ジョーカーをキングの上に置いた。何故大富豪はジョーカーが一番強いのか。私は不服に思いながらも次のターンで最後に二を置いて、なんとかヒロには勝った。
「次は七並べやろう」
 私がそう提案すると、梓が眉をひそめた。
「私は、そろそろ勉強に戻りたいのだけれど」
 最初からあまり乗り気ではなかったのはわかっていたけれど、そう改めて嫌そうな顔をされると困る。ヒロを見ると気にする素振りはなく、勝手にカードを切って三等分にし始めた。
「これで最後だからさ。付き合ってよ」
 私はそう言いながら分け終わったカードを右手にとる。目の前に分けられたカードを見て梓はしぶしぶ手に持った。
「本当に、最後よ」
 私は今度こそ一番に終わってやると思いながら、手札を見て七を出す。手元には一が二枚も入っていて私はそれを見て終始にこやかだった。
「ところでさ。二人はまだ付き合ってないの」
 調子に乗った私は、そんなことを聞いてみる。思えばこうして実家に帰ってくるたびに質問しているような気がする。
「その可能性は皆無だわ」
 梓がきっぱりと答えて、呆れたようにため息を吐いた。
「まぁ、梓がこう言っているからな」
 ヒロまで同じ意見らしい。
「ふーん」
 納得したように頷いたけれど、それじゃつまらないとも思った。幼馴染だと近くにいすぎて恋愛対象にならないのはわかる。何しろ私自身もヒロとは幼馴染の関係で、六つも離れているせいか弟以上にはどうしても思えないからだ。けれど、私は梓とヒロに交際して欲しいと思っていた。それは梓の生真面目な性格じゃあ貰い手がないのではないかという勝手な心配だった。
「ならヒロ。私と付き合わない?」
 私は冗談で言った。驚いたのか「は?」と言ったきりしばらく目を丸くして、二人とも言葉を失ったようだった。カードを置く手も止まり、梓とヒロの視線はしばらく私のところで停止していた。
「やだ。真に受けないでよ二人共。高校生に手を出したら犯罪よ。冗談に決まっているじゃない」
 私が訂正すると、ヒロは苦笑い。
「……好きにすればいいわ」
 梓は呆れたようにそう言った。少しでも動揺してくれたらよかったのに、顔色一つ変えない。けれど、梓は突然手持ちのカードをすべて重ね、床に置いた。
「ごめんなさい。やっぱり私、勉強に戻るわ」
 それは何か思うことがあったのか、なかったのか。梓はそう言って立ち上がり、部屋を出て行く。本当に何を考えているのかわからない。
「あ、おい。梓」
 ヒロが呼び止めようとするも、梓は無視する。扉が閉まって部屋には私とヒロの二人だけが残されていた。
「寒くなってきたね。暖房つけようか」
 私の言葉に、ヒロは黙って頷いた。もうすぐ冬が来る。

 付き合っていた彼氏の浮気現場を見てしまったのは二週間前のこと。あれから一度も連絡を取っていない。向こうからの電話やメールには一切反応しないことにしている。私が何より衝撃を受けたのは、私のほうが浮気相手だったことだ。知り合いにそれとなく聞いたらもう五年も付き合っているらしい。私とはたった三ヶ月の付き合いだった。
「近藤も早く結婚すればいいのに」
 浮気していることも知らないで、知人はそんなことを言っていた。その近藤は私に無視されるとアパートに乗り込んできた。部屋に入れないと、その後も何度か尋ねてきた。私は居留守を使うようになった。そのうちに諦めるだろう。
 いつもはクリスマスより前のこんな時期に実家に帰省することはなかった。それでも帰ってきたのは不安だったからなのかもしれない。たった二日の滞在だったけれど、大分心が癒やされた気がする。
「――何で、いるの」
 アパートに戻ると、扉の前に人影が見えた。私は思わず呟き、はっとして口を押さえた。幸いまだ距離があり、向こうも気づいていないようなので私は建物の影に急いで隠れた。近藤哲夫はまだ来たばかりなのだろうか、チャイムを押して困ったように首をひねっている。私は携帯電話を取り出して、マナーモードになっているか確認する。以前設定したままになっていたのでとりあえずは安堵した。
 近藤はまだ私のことを諦めていないということなのだろうか。期待などしないほうがいいのはわかっている。それに、この関係を続けるのは嫌だ。五年付き合っている彼女に悪いし、何より私が本命じゃないのが気に食わない。
 携帯が振動して、メールが来たことを知らせてくる。
『家にいないのか。今どこにいる』
 そのメッセージを見てから返信せずにいると、
『話がある。どこにいるか教えてくれ』
 続けざまにそうメールがきた。私はそのメールにも返信をしなかった。このまま姿を見せる訳にはいかない。会ってしまったら、口から気持ちが溢れ出そうだ。
 たった今歩いてきた道を引き返すことにした私は、これからどうするか考えていた。ストーカーというものでもないので、警察には相談できない。何よりあまり騒ぎ立てたくはない。こういう時に頼れるのは誰だろう。
 唐突に携帯電話が振動した。長い振動なのでメールではなく電話の方だ。私はその瞬間、電話の主が近藤ではないかと思って戦慄した。それでも会社や家からかもしれないと思い、おそるおそる画面を見てみる。そこには意外にも鈴木ヒロと表示されていて、私は思わず首を傾げた。
「もしもし。どうしたの」
 電話にでると、当たり前だけどヒロの声がした。
「有沙。なんかあった?」
 ヒロが突然に核心をついてくる。何かの超能力なのかと思った。
「え? 何で」
 尋ねると、「様子がおかしかったから」とヒロが言った。
「家に行ったらもう帰ったって言われてさ。本当は居る時に聞きたかったんだけど」
「何であんたがかけてくるのよ」
 ヒロの声を聞いて安心して、そんな言葉を漏らした。先程まで張っていた気が抜けていく。 携帯電話を持つ手が震えていた。
「ヒロ」
 名を呼ぶその声は、震えていたと思う。
「やっぱりなんかあっただろう」
「助けて。もう、どうしたらいいのかわからない」
 立っていられなくなり、私は人目もはばからずにその場で泣き崩れた。

 実家とアパートは電車で約一時間の距離にあった。私はヒロが来るまで駅前のファーストフードの店で時間をつぶすことになった。まずはトイレへ行き、化粧直しをした。泣いたせいでメイクが崩れて外を歩ける顔じゃあなくなっていたのだ。アイラインが落ちて目の下が隈みたいになっているのを、なんとかファンデーションでごまかす。
 お腹が減っていたので、次にハンバーガーを食べることにした。
「おまたせ」
 一時間半後、改札から走ってきたのかヒロは息を切らして私の前に現れた。その頃にはハンバーガーも食べ終わっていて、ぼうっとガラス窓の外を見ていた。
「来てくれてありがとう。おごるよ」
「それより、大丈夫なのか。力になれるかどうかわからないけど、話だけでも聞くよ」
「コーラでも飲む」
 私がそう言って席から立ち上がり注文カウンターへ行こうとすると、腕を掴まれた。
「有沙!」
 大きな声で名前を呼ばれた。店内は人の声で騒々しかったが、ヒロの大声に驚いた人が何人もいたのか一瞬だけ静かになった気がした。私も目を丸くしてヒロのことを見ていた。
「ヒロ。大丈夫だよ。見ての通り、私はもう泣いてない」
 電話口で泣きじゃくっていた私を、ヒロは心配している。わざわざ電車に乗ってかけつけてくれた。私はそんなヒロの優しいところが好きだと思う。大事な家族だ。
「……わかった」
 ヒロはそう言って大人しく先ほど私が座っていた席の右隣に座ってくれた。私はカウンターへ行きコーラとついでにフライドポテトを頼み、品物を受け取ってから席に戻った。
「ただいまー。ポテトも頼んじゃった」
「おかえり」
 誰かとメールをしていたのか、私が来ると携帯電話を慌てて閉じたように見えた。私に気を使ったのか、家に連絡でも入れたのかもしれない。コーラとポテトを載せたトレーを置き、席に座ると私は早速本題に入った。
「彼氏に、五年付き合っている彼女がいるんだってさ」
「なにそれ。最低」
「だよね。彼女と居るところ見ちゃってさ。なんていうの。もう夫婦みたいな雰囲気を醸し出しているの。あれじゃあ、勝ち目ないよ」
 思い出して、また泣きそうになるのを必死でこらえる。
「ちゃんと別れたのか」
 ヒロの質問に、私は首を横に振る。
「あいつの中ではまだ付き合っているんだと思う」
「だと思った。だから泣くはめになるんだよ。今すぐそいつをここに呼んでちゃんと別れるべきだと俺は思う」
「それは……」
 ヒロの指摘に、私は顔をうつむかせる。ヒロの言う通りだとは思うけれど、それが簡単にできていればこんなことにはなっていなかったと思う。
「大丈夫だ。俺に任せろ」
 ヒロが自信ありげにそう言ったので、信じてみることにした。

 ヒロの指定で、話し合いは近くの公園ですることになった。時刻は午後四時を回っている。季節柄そろそろ日が落ちてきてもおかしくないころだった。近藤哲夫は私の呼び出しに最初こそ喜んでいるようだったけれど、私の隣にいる正体不明の高校生ぐらいの茶髪少年を見て訝しんでいた。ヒロは近藤のことを睨みつけるように見ていた。しかし近藤は怯む様子もなく。
「何? やっと連絡してくれたと思ったら男なんか連れて。年下が趣味だったわけ」
「違うわよ。話があるの」
 近藤の心無い言葉に、私は首を振って否定する。
「じゃあ、こいつは有沙の何なの」
「俺は弟だ」
 私が返事をしようとしたら、ヒロに先を越された。うん。間違っていないけれど事情を知らない人に言うことじゃない。近藤はヒロの返答に気分を害した様子で、舌打ちした。
「弟がいるとか、聞いてないんだけど。俺が聞いていたのは妹じゃなくて弟の話だったのかよ」
「妹は妹よ。この子は実家の隣の家に住んでいて、家族同然に育ったの」
 言い訳みたいになってしまって、私は近藤と話をするのも億劫になった。会ったらまた近藤への想いが甦ってきてそのままズルズルと交際を続けてしまうのだろうなと勝手に思っていた。けれど、そんなことはなかった。
「まぁいいや。俺もお前に話があったんだよ。なあ、お金貸してくれない」
 近藤のこの言葉を聞いた瞬間、私の近藤への執着が一気になくなってしまったのだ。
「は? 何で」
 唖然としていると、近藤は続けた。
「とりあえず十万でいいよ。口止め料。お前、俺に彼女がいるって聞いたんだろ。それで俺と別れたい。そうだろう」
 近藤はまっすぐに私の目を見て言った。私と連絡が取れなくなった理由も、今日ここに呼び出された理由も、すべてわかっていたらしい。
「そ、そうだとしてもどうして口止め料なのよ」
 疑問を口にする。口止めをしておくべきなのは、口の軽い友人の方だろう。
「俺、彼女と結婚するつもりだから。浮気してたのバレたら不味いんだよ。だからまずは十万貸して。結婚資金の足しにするから」
 近藤の信じられない言葉に、私は憤怒する。悪びれる様子もない上に、都合よく私から金をむしりとろうとする、だなんて。しかも、結婚資金にする? そんなのあり得ない。今本当に可哀想なのは私ではなく、その彼女の方かもしれない。
「嫌よ。絶対にお金なんか貸さない。返す気もないんでしょう」
 拳を握りしめ、強い意思を持って私ははっきりとそう言った。
「あ? ちゃんと返すし」
「ふざけないでよ。あんたなんて大っ嫌い。今すぐ私の目の前から消えて」
 私はそう言ってやった。心がすっきりしたように思える。
「何だと?」
 私に掴みかかろうとしたのだろう、近藤の右手が動いた。その瞬間、隣に立っていたヒロが私をかばうように前に立つ。それを見て近藤の動きが止まる。
「ヒロ」
 私は驚いた。ヒロはずっと近藤を睨みつけていた。
「さっきから黙って聞いていれば。金を貸せだ? 有沙のことを何だと思ってるんだ」
「君は年上に対しての口の聞き方がなっていないようだね」
「質問に答えろよ」
「答えたところで何だ。ガキには関係のないことだ」
「泣いていたんだぞ。有沙は、お前のことで泣いていたんだ。あの有沙姉ちゃんが、傷ついてどうしていいかわからなくて泣いていたんだ!」
 ヒロが、近藤に向かってそう叫んでいた。昔の懐かしい呼び方をされて、こんな時なのに嬉しくなった。子どもの頃の思い出が蘇ってくる。「有沙姉ちゃん」「有沙姉ちゃん」という幼いヒロの幻聴が心のなかに響き渡る。外見がいくら変わっても、根本的なものは何一つ変わらない。やはりヒロは、根の優しい私の弟だ。
 私は近藤との日々を思い返す。会社の飲み会で偶然同僚の友人だと言う男に出会ったのがきっかけだった。私がお酒に弱くて顔を真赤に染めていると、「大丈夫?」と声をかけてきてくれた。アパートが近かったので何となく一緒に帰ることになって、送ってもらった。その後、近くのコンビニで偶然再開して、連絡先を交換。そこから交際するまでに一ヶ月もかからなかった。私はどんどん彼にのめり込んでいったと思う。信頼できる友人だからと、同僚が言っていたのを思い出す。彼のこと、全然見抜いていなかった。
「私は、あなたの一番になりたかった」
 私は呟くようにそう言った。
「有沙」
 ヒロが振り向いて私に視線を送る。
「一番になりたかったんだよ。二番目は嫌なの。私だけを、見ていて欲しかった」
 我慢できなくて、私は目から涙を零した。思えばヒロの目の前で私は泣いたことがなかった。お姉ちゃんだからと、いつも我慢していたからだ。
「ごめんなさい、お金は貸せない。お願いだから、もう私の目の前に二度と現れないで。浮気していたことは誰にも言わないから」
 そう言うしかなかった。正直、近藤の彼女に全部バラしてしまいたかった。こんな非道な奴と結婚したら、絶対に幸せになれないからと助言したかった。けれど、私はこれ以上近藤に関わらないほうが幸せだ。それだけはわかる。私は服の袖で涙を拭いた。
「ちっ。わかったよ。使えねぇ女」
 近藤は舌打ちして毒を吐くように言った。
 どうして私はこんな暴言を吐くような男を好きだったのだろう。去っていく近藤の後ろ姿に視線を送る。それから隣にいるヒロを見て、私はその震えている拳を優しく包み込むように握る。ヒロは我慢してくれているのだと理解した。本当は一発殴ってやりたいのだろうと思う。けれど、そんなことをしてもなんにもならないことをこの子はわかっているのだ。
「ありがとう。ヒロ」
「ごめん。有沙姉ちゃん」
 ヒロが公園にある木の陰を一瞥する。誰も居ないと思っていた公園に、私たちが立っている場所から数メートル離れたところに人がいた。まったく気が付かなかった。私が視線を向けると、相手が姿を見せた。
「梓? どうして、ここに」
 私は驚いて声を上げる。
「俺が呼んだんだ」
 心当たりがある。ヒロは誰かにメールを送っていた。きっとその相手が妹の梓だったのだ。梓はまっすぐに私の方に歩いてくる。その表情は何か怒っている。何に対して? 私はわからなかった。けれど梓は私の目の前に来ると突然、両手を私の両側の頬に強く押し付けた。
「お姉ちゃんて本当にばかだわ」
「へ?」
 潰された顔と驚きで、マヌケな声が出た。
「いつも何も言ってくれないの。悪い癖だわ」
「それは、皆に迷惑かけたくなくて」
「それがダメだって言っているの。迷惑かけていいのよ。泣いたっていいのよ」
 妹に叱られるなんて、思ってもみなかった。これじゃあ、どちらが姉なのかわからない。
「ご、めんなさい」
「お姉ちゃんは、相変わらず一番が好きなんだね」
「聞いていたの」
「うん。だからいつも私は後回しにされるの。私がどんな気持ちだったか今ならわかるでしょう。お姉ちゃん」
「う。ごめんなさい」
 私は目を泳がせる。顔を背けたくても、両手で固定されていて動かせなかった。
「大丈夫よ。あの人には無理でも、お父さんとお母さん。……それからヒロも、お姉ちゃんが一番だから」
 梓の言葉に、私は目を丸くする。
「あんたの一番はお姉ちゃんじゃないの」
 質問して、ちょっと恥ずかしくなった。これじゃあ拗ねているみたいじゃないか。
「私の一番は今のところ、勉強ということにしておいて」
 梓はそう言って私の頬から両手を離した。
「ちょっと、何よそれ」
「嘘。お姉ちゃんが一番よ」
 梓は子どもみたいに、悪戯に笑んだ。そういえばここ何年か、梓の笑った顔を見ていなかったかもしれない。梓も少しずつ変わっているのだろうか。心とか身体とか、私の気付かないうちに成長しているのだろうか。そうだったら嬉しい。
「じゃあ、俺たち帰るな。もう大丈夫そうだし」
 いつのまにやら、ヒロがブランコに腰掛けていた。お尻に鎖が食い込みそうなほど小さいブランコなのに、平気で座っていた。
「うん。二人ともありがとうね」
私がお礼を言うと、ヒロは私の顔を見て笑った。
「有沙姉ちゃん、帰ったら顔洗いなよ。化粧酷いことになってる」
「わかってるよー。もう」
 恥ずかしくて思わず顔を両手で覆う。気付いてもそういうことは言わないで欲しかった。まったく、デリカシーがない。
「お姉ちゃん。またいつでも帰ってきて。お父さんとお母さんが喜ぶわ」
「わかったからもう行って。私は一刻も早く化粧を落として楽になりたいの」
「わかったわ。またね」
 手を振って別れを言う。梓とヒロが肩を並べて歩いて行く。その後ろ姿を見て私は思う。ヒロが私を助けてくれたのは、恐らく私だけのためではないのだろう。私が梓の姉で、家族だから。私は今まで、何でも妹より先に手に入れないと気がすまなかった。裏を返せば、私は妹が取られてしまわないように先回りしていただけだったのだ。それでもヒロになら妹を上げてもいいと思ってしまうのは、きっと彼が誰よりも優しい性格をしているからなのだろう。

 数日後のことだ。私の同僚が近藤の件について謝ってきた。浮気のことは約束通り誰にも話していないはずなのに何故か知っていた同僚を問い詰めると、近藤は他の女性とも浮気していたらしい。それが彼女にばれてしまったというわけだ。いよいよ困った近藤は友人である私の同僚に相談してきてその流れで私のことも聞いたみたいだった。
「本当に、ごめんな」
「いいよ、もう。終わったことだもの」
「お詫びに飯でも奢らせてくれ」
「じゃあ、焼き肉でも奢ってもらおうかしら」
「おう。じゃあ、それで」
「今度はフリーの人紹介してよね」
 私はそう言って同僚に向かって微笑んだ。
 今日は仕事が終わったら、妹にメールをしてみよう。そう思いながら、私はからになった紙コップをゴミ箱に捨てた。(つづく)

連作短編小説「玉木さんと鈴木くん その2『再会』」

 昔、と言っても小学生の頃の話だ。私には好きな人がいた。初恋というのは特別で、高校生になった今でも宝物のように記憶の中で彼は輝いている。けれど、時々ノイズ混じりに彼女のことも思い出すのだ。かつて私の親友だった玉木梓は、いつも寂しそうな顔をしていた。

 ラブレターを書こうと言って梓を巻き込んだのは私だった。彼女が彼の家の隣に住んでいる幼馴染という立場が羨ましかった。だからあの日、私は梓に頼み事をしてしまったのだ。今でも私は、そのことを後悔している。
「おまじない?」
 私は友達の鏑木智子から聞いた単語を復唱してみる。
「そう。昔流行ったでしょう。恋のおまじない」
「そんなの信じる人だっけ」
 私は思いがけない言葉に、目を丸くする。そんなものが流行ったのは小学生や中学生ぐらいまでのことだと思っていた。まぁ、大人になっても信じている人がいなかったら週刊誌とかにミチコの占いとかいう胡散臭い占い師のコラムが載らないと思うんだけれども。私はそういうの信じていないという話だ。
「もう。信じるとか信じないの話じゃなくってね」
「じゃあ、何」
「やったことがあるかないかって話し」
 智子が言いながら机を右手で軽く叩く。この子は話すときに何故か手が動く。その仕草が可愛いんだけれども痛くないのかな。
「やったことはないよ」
 私は正直に答えた。幾つか聞いたことはあっても実践した覚えはない。
「うっそだー。本当?」
「本当。嘘は嫌いなの。そういう智子は何かやったことあるの」
「勿論あるよ。例えば消しゴムに好きな人の名前を書いたり」
「うわ、それやってる子いたー」
 言いながら私は頭を抱える。思い出していた。小学二年生の頃、授業中に消しゴムを拾ってあげたらケースの隙間から『とうま』と青いペンで書かれているのが見えてしまったことがある。気づいていないふりをしたけれど、あれ以来その子と「とうまくん」の関係が気になってしばらく目で追っていたのだ。恋が叶ったのかどうかはまったくわからないけれど、今度本人に聞いてみようかな。確か今は、隣のクラスにいるはずだから。
「運命の赤い糸なんかも信じちゃったりして」
「智子、純粋すぎ」
 私と智子はしばらくそのおまじない話しで盛り上がり、智子はチャイムが鳴ったので自分の席に戻っていった。
 お祭りの話が出たのはその日の放課後だった。毎年市外からも参加者が集まるほどの大きなお祭りで、私と智子は電車に乗って行くことにした。混雑するのはわかっていたので早めに帰る予定を組み、私たちは次の土曜日を楽しみにしていた。

 浴衣を着ている女性たちを尻目に私と智子は派手な洋服を着ている。智子に至ってはノースリーブに短パンという露出高めな格好であった。肩まで長い髪の毛を頭の上で括り、お団子にしてピンで留めている智子は化粧で大人っぽさを出しているが、子どもみたいにはしゃいでいた。出店が立ち並んでいるところは人も多い。私は智子を見失わないように必死だった。
「え? 何、聞こえない」
 智子が何かを話しかけてくるが周りの音楽や話し声にかき消されていた。智子は私の方を見ながら右手と左手を使って人の少ないスペースを指し示した。智子の誘導で脇道に入ると、やっと一息ついた。
「思った以上に人が多いね」
「潰されるかと思った」
 智子も私も人混みが苦手というわけではなかったが、予想外の混雑具合に音を上げていた。
 さてこれからどうしようという時だった。人混みを逃れてきたのか二人組の女子たちが私たち同様にこの脇道に入ってきた。
「ちょっと休憩しましょう」
「うん」
 一人はピンク色の浴衣を着ていて、もう一人はクリーム色のワンピースを着ていた。二人がこちらに気付いて視線を合わせる。
「あ」
 私はその見覚えのある顔に目を丸くした。向こうも気づいて私と同様に。いや、それ以上に驚いている様子だった。
「あず……」
 思わず名前を呼ぼうとして私は右手で口を覆った。呼んでいいものかどうか迷ってしまったのだ。
「彩芽」
 ワンピースを着た女の子が私の名前を呼んだ。懐かしい彼女の声。昔の思い出が蘇ってくる。かつて私の親友だった女の子。名前は玉木梓。
「久しぶりー。元気だった? 奇遇だねー。そっちの子は梓のお友だち?」
 私は早口で話しかける。梓とまともに会話するのは小学校四年生以来だった。ラブレター事件の後、五年生でクラスが離れたせいでそのまま仲直りもせずに一緒に遊ぶこともなくなった。
「本当。久しぶりね。この子は友だちの白井さん」
 紹介されて、白井さんとやらがこちらに一礼する。
「そっか。そうなんだ。へぇ。梓は変わらないね。顔を見てすぐにわかったよ。逆に私の事よくわかったね。昔と全然違うでしょ」
 私はそう言って自分の茶色に染めてパーマもかかっている髪の毛を自慢げに、見せつけるように手ですくう。
「彩芽も変わらないわね。確かに見た目は変わったけれど、雰囲気でわかったわ」
 そう言って梓は微笑む。気まずい空気が流れている気がした。浮気がバレた男ってこういう気持ちなのかなと、ばかなことを考えた。
「そうかな」
「うん。あ、私たちはもう行くわ。会えて嬉しかったわ」
 梓は腕時計を見てからそう言って、手を振る。話したいことは山ほどあったけれど、そうさせてはくれないらしい。
「私も、会えてよかったよ。楽しんできてね」
「ありがとう」
 梓は白井さんを連れて人混みに戻っていく。何だか寂しかった。私の知っている梓はもういないみたいに思えた。梓は今の私を見てどう思ったのだろう。急に不安になった。
「今の子。彩芽の友だち?」
「昔のね」
 智子に尋ねられて、私はすぐに答えた。
「今は違うの? そういうのあるよね。中学の頃に仲よかった子がお互い違う高校行って疎遠になるの」
 何かを悟ったように智子が言う。小学校の時の親友だと告げたくても言葉が出てこなかった。
「て、彩芽は何で泣いてるの」
 私の頬を涙が伝っていることに、智子は私より先に気づいた。何故なのか自分でもわからなかった。梓との再会は私の心を大きく揺さぶっていた。そこには後悔しかなかったからだ。
「え。あれ、何でだろう。変だな。悲しくなんかないのに」
 私はそう言いながら腕で涙を拭う。
「あの子となんかあったの」
 そう尋ねられて、私は智子になら話してもいいと思えた。それだけ私の中で智子は大きな存在で、大切な友だちになっていた。

 私たちはそのままお祭りから離れて、近くの公園のベンチに二人で座った。手には自販機で購入したりんごジュースの入ったペットボトルを持っている。智子はみかん味がいいといったので話を聞いてもらう代わりに私がお金を出した。明かりは電柱に設置してある蛍光灯一つで、辺りはほとんど暗かった。目の前にはブランコが二つ等間隔に並んでいる。少し遠くの方から祭り囃子が聞こえてきていた。
「梓は私の親友だった子なの」
「うん」
 私が話しだすと、智子は相槌を打ってくれる。
「小学一年のころからの友だちでね。昔は本当に仲が良かったの。でも四年生のときにある出来事があって気まずくなったの。一緒にいることもなくなって、クラスも離れちゃった。中学までは同じ学校だったんだけど、一度も同じクラスにならなかった。梓が市外の高校を受験したのも私と会いたくなかったからなのかな。なんて思ったりもした」
「何で気まずくなったの」
 智子がペットボトルに口をつける。
 私は続ける。
「私の初恋の相手がね。梓の幼馴染だったんだ。家が隣同士でさ。仲も良くて。正直に言うと妬いてたんだよ。子どもだからそれがまだ良くわかってなかったんだ。今思い出しても恥ずかしい」
「なるほど、初恋か」
 ジュースを一口飲み込んでから、智子がしみじみと呟く。
 いつもだったら智子の初恋はいつかと追求するところだが、今日の私にはそんな余裕はなかった。私もペットボトルのフタを開け、りんごジュースを一口飲む。気温も高いが過去を打ち明けるという気恥ずかしさから身体も熱く感じて、私は右手で顔を仰いだ。
「あの日も梓の家で遊んでいた。梓のお母さんの作るパンケーキがおいしかったな。それでふと思いついて、ラブレターを書こうって言ったの」
「ぷっ。ラブレター、書いたの? あんたが」
 智子が私の言葉を聞いて突然吹き出すように笑ったので困惑する。
「ちょっと、なんで笑うの」
「あはは。だって柄じゃないし。想像したら笑えてくる」
 確かに恋文など書くようなしとやかな性格でもないけれど、笑うことはないと思う。私は頬を膨らました。
「むぅ」
「あっはは。ごめん。で、それ渡せた?」
「渡したというか。――書いたの私じゃないんだよね」
「え」
 意表を突かれたのか、マヌケな顔をして智子が首を傾げた。
 そう、これはラブレター事件。(と私が勝手に名付けた)普通の話じゃないのだ。
「それって、どういうこと」
「梓にラブレターを代筆してもらったの。文章を考えたのは勿論私だけど、文字は梓が書いたものなの。差出人は書かずにポストに入れた。でもすぐにそれが梓の字だってわかったみたいで、翌日その男の子は梓に返事をしたの」
「なんて?」
 智子は眉をひそめて尋ねてくる。私の現状を考えるとあまりいい答えは思い浮かんでいないのだろう。
「この手紙は誰に書かされたんだ? って」
「え。それじゃあ」
「うん。字は梓のものだけど、これは梓の意思で書いたものじゃないって気付いたんだと思う。でもね。梓は本当のことは言わなかった。自分で書いたって言いはったみたいなの」
 私はわかっていたのだ。梓は絶対に本当のことを言わないこと。きっと嘘をついて私を守ろうとすること。だから私は嘘が嫌いだ。嘘つきも、嘘をつかせる自分も。
「男の子から返事の手紙を、これを書かせたやつに渡してくれって言われたんだって。なんて書いてあったと思う? ごめんなさい。こういうことする子を好きにはなれませんって」
 言いながら、私は顔を両手で覆う。思い出すだけで胸が苦しかった。本当にばかなことをしたんだと思い知らされたあの瞬間。すべてを見通されていたんじゃないかと錯覚した。
「彩芽。大丈夫?」
 智子が私のことを心配して顔を覗き込んでくる。
 私は頷いて、続きを話す。
「それでね、私は自分のしたことが恥ずかしくなって。つい言っちゃったの。梓は嘘つきだから、信じてもらえなかったんだよって。私だって本当はわかってたんだよ。梓のつく嘘はいつだって誰かのためだってこと。梓が一番傷つく言葉を、私は言っちゃったんだ」
 私は深く息を吸い、心を落ち着かせる。
「あとはさっき言ったとおり。今はもう友だちでもなんでもないんだと思う」
「それが悲しくて泣いた?」
 智子にそう尋ねられて、私は目を細める。
「どうなんだろう。自分でもよくわからない。ただひとつ言えることは、私があのときのことをずっと後悔しているってこと」
 私は目を閉じた。梓があの白井さんと一緒に歩いて笑っているところを想像してみる。もしかしたら白井さんじゃなく、そこに自分がいたかもしれないと思うと寂しかった。
「でも、元気そうでよかった」
 私は小さな声で呟いた。智子には聞こえていたのかいないのか、俯いている私の頭を軽くなでてくれた。私がもう一度泣いてしまわないかと心配してくれたのだと思う。
「彩芽に一つ、おまじないを教えてあげる」
「こんなときに何?」
 智子の唐突な言葉に、私は首を傾げる。
「友だちと仲直りのおまじない。手を出して」
 智子がそう言いながら、私の左手を掴む。手のひらに智子の人差し指が円を描いた。くすぐったくて手を離そうとするけれど、智子の手が離してくれなかった。
「彩芽が梓ちゃんと仲直りできますように」
 智子の祈りに似たその言葉に、私は目を丸くした。このおまじないに似たものを知っている。
「智子、このおまじないって」
「あ。知ってた? 本当は自分で唱えるんだけど、人にやってもらったほうが効力あるかなって思ってさ」
「それってさ。この後私の手を舐めるつもり?」
「え。舐めるんだっけ」
 驚いたようにそう答えられて、私は智子がこのおまじないをうろ覚えなのだと理解した。私の記憶が正しければ、手のひらに丸を書いて「仲直りできますように」と唱えてからその手を舐めるというおまじないなのだけれど。
 智子の思わぬボケに私は思わず笑ってしまった。
「あはは。なにそれ。しっかりしてよ」
「ご、ごめん。人に舐められるとか最悪だよね。今の聞かなかったことにして」
 智子が慌てた様子で言う。
 私は目に涙が滲むくらいに笑い転げてから、「いや、最高だよ。智子。ありがとう」と礼を言った。智子は顔を赤らめて「何が最高なの。もう」と言って頬を膨らませていた。
 智子に話を聞いてもらったからか、私は清々しい気持ちになっていた。
「よし決めた。明日、梓に会いに行く。せっかくおまじない掛けてもらったしね」
 私はそう言って立ち上がる。
「おまじないのことは忘れてー」
「それはダメ」
 必死になる智子に向かって、私は首を振ってから悪戯に笑ってみせた。明日もこうして笑っていられるといいなと思った。

 翌日、午後三時。私は宣言通りに玉木梓の家に向かった。家を出る直前、智子にメールを送ったら笑顔の絵文字付きで「ガンバレ」と返信がきた。私はそれだけで勇気がわいた。智子がおまじないをかけてくれた左手を右手で包む。きっと大丈夫だと自分に言い聞かせた。
 玉木家への道順は身体が覚えていたのか、何も考えずとも迷わずに歩けた。途中の薬局のカエルみたいな緑色のマスコットは子どものころより色が薄くなっていたけれど、凄く懐かしく思えた。たった五分の道のりが長く感じる。あの頃空き地だった場所にはコンビニができていた。玉木家が見えて、そのお隣の家も目に入った。かつてラブレターを投函した白い郵便受けは健在だった。
 私は緊張していた。二つの家を挟んで、道路の真ん中に突っ立っていた。一度深呼吸をしてから玉木家のインターホンに近づく。小学生の頃は背伸びをしないと押せなかったボタンが、今は目線のすぐ先にある。私は心臓が高鳴るのを必死で抑えながら右手の人差し指でボタンを触る。その時だった。
「じゃあ、また後で」
 という言葉とともに、玄関の扉が開いた。門の柵越しに見えた顔に、私は毒気を抜かれる。
 茶髪で、耳にピアスをつけた同年代ぐらいの少年が立っていた。梓の親戚か何かだろうかと考えた。
「あれ。お客か」
 少年と目が合ってしまい、私は反射的に頭を下げる。
「あの。梓さんいますか。佐伯って言えばわかると思うんですけど」
 と私が言うと、少年は私の顔をまじまじと見つめてくる。
「佐伯」
 名前を復唱されて私が困惑した顔をすると、何かを思い出したように「ああ」と言った。
「佐伯彩芽か。一瞬、わからなかった。なるほど」
「何で、下の名前を」
 少年の言葉に、私は不審に思う。
「何でって。彩芽ちゃんだろ。小学生のとき一緒のクラスだった。もしかして俺のこと覚えてない? 鈴木ヒロ」
 そう言って、すっかり声変わりをしている鈴木くんは微かに笑った。
 初恋の人を、覚えていないわけがなかった。その顔。よく見ると確かに鈴木くんだった。私は二つの理由で愕然としていた。一つは、鈴木くんの風貌が違いすぎて誰だかわからなかったこと。顔も大人びていたし、声だってあのころよりうんと低い。茶髪にピアスで、ズボンだって腰で履いている。まるでクラスで悪ぶっている不良と同じだった。
 もう一つは、鈴木くんが玉木家から出てきたこと。それはつまり高校生になった今でも梓の家と交友があるということ。まさか付き合っているなんてことはないだろうか。いや、それならお祭りに女友だちと一緒には来ないだろう。
「ごめん。梓の親戚の人かと思っちゃった。恥ずかしい」
私はそう言って頭をかく。
「まぁ、仕方ないだろ。久しぶりだし。梓に用があるなら家にあがれよ。今呼ぶからさ」
 鈴木くんはそう言ってから、家の中にいる梓に声をかける。しばらくして物音と共に梓が顔を出した。
「どうしたの。彩芽」
 梓は驚いた顔をしていた。
 私は左手に力を入れる。鈴木くんとの再会は予想外だったけれど、ちょうどいい機会なのかもしれないと思った。あの時の真実を今ここで鈴木くんにも知ってほしい。
「話したいことがあるの。よかったら鈴木くんも。あ、用事があるなら無理にとは言わないから」
「俺もか? んー。急ぎでもないし、別に構わないけど。とりあえず中で話そう。暑くて敵わん」
「そうだね。お土産もあるしおじゃましようかな」
 私は持っていた手土産のバウムクーヘンの袋を目線まで上げた。今朝、駅前の店で買ったものだった。

 七年ぶりの玉木家は多少家具の配置が違うものの、あまり変わりがなく懐かしい気分にさせられた。梓の母親とも久しぶりに挨拶を変わし、思い出話しに花が咲いた。
「で、話したいことって何かしら」
 飲み物とバウムクーヘンが目の前に出された後、すぐにそう切り出したのは梓だった。梓の母親は気を使ったのか何なのか卒業アルバムを探してくるとかで客間を出て行った。部屋に残されたのは私と梓と鈴木くんの三人だった。
 私は緊張のあまり、自分の左手を右手で握りしめていた。おまじないが効いてくれるように願うことしか今はできない。しばらく逡巡したが、つばを飲み込んでから私は尋ねた。
「ラブレターのこと、覚えている?」
 言葉を発してからの沈黙がこんなに長いと感じたのは初めてだった。
鈴木くんは首をひねって考え込んでいる様子だったが、梓は静かに目の前にあるアイスティーをストローで一口飲み、答えた。
「覚えていないわ」
 私は拍子抜けしてしまった。七年間、ずっと後悔と共に生きてきた私は、もしかしたら梓も私と同じようにラブレターのことを引きずっているかもしれないと淡い期待をしていた。そんな自分が否定された様な気がする。
「本当に、忘れたの。小学四年生のときよ。鈴木くん宛のラブレターよ。書かせたじゃない。私が。梓に」
 私は言いながら、思わず机を両手で叩いていた。アイスティーの水面が振動で波紋を描いた。
 梓はストローでアイスティーを一周かき混ぜる。氷のぶつかる音が部屋に響く。
「そんなことあったかしら。よく覚えていないわ」
「なら、私たちがどうして遊ばなくなったか覚えている?」
「それは、彩芽が遊ぼうって言いに来なくなったからだわ」
 梓の言葉に、私は衝撃を受ける。そして思い出したのだ。梓は昔から受け身で、自分から動いて友だちを増やそうとする子ではなかった。根は真面目で、私が誘ったら絶対に断らない子だった。何で忘れていたのだろう。気まずかったから遊ばなくなった? それは私の方だけだ。梓は、そんなことはまったく気にしていなかったのだ。
「そう。よくわかった。梓にはその程度の思い出だったってことね」
 呟くように、私はそう吐き捨てた。
 梓のことだ、嘘の可能性はある。けれどそんなことより思い出そうとする素振りも見せない梓に対して私は幻滅したのだ。
「あのさぁ。ラブレターってもしかして昔、梓が自分で書いたって言って俺にくれたやつ? やっぱりあれ、彩芽ちゃんが書かせたのか」
 不意に鈴木くんがそう言ったので、私は顔を赤らめる。
「やっぱりって。鈴木くん誰が犯人かわかっていたのね」
 覚悟したうえで真実を言ったのだが、やはり恥ずかしい。
 鈴木くんはあっさりと頷いた。
「ああ。何となくそうなのかなって思っていた気がする。梓は言わなかったけれど、よく考えたらあの頃って梓の周りにいて、そんなこと頼むやつなんて佐伯ぐらいだもんな」
 確かにそうだ。あの頃私は梓のたった一人の友だちで、親友だった。気づいていないなどどうして思っていたのだろう。私は赤くなった顔を隠すように両手で覆う。
「あの時は、本当にごめんなさい」
 ちゃんと目を見て謝ろうと思っていたのだが、それはできなかった。指の隙間から視線を合わせられずにバウムクーヘンを見つめた。
「俺は気にしないし、大丈夫だよ。梓なんか忘れているぐらいだしな」
 鈴木くんがそう言ったので、私はゆっくりと顔を覆っていた手を離す。見ると、鈴木くんは私に向かって微笑んでいた。思えば鈴木くんはいつも優しかった。あの頃から変わっていない。私はそういう鈴木くんだから好きになった。見た目は変わってしまっても、性格は変わっていないのだと感じられた。今はもう鈴木くんへの気持ちはないけれど、だからこそ綺麗な記憶のまま心に閉まっておきたい。
「昔のことをいつまでも引きずっていたら前に進めないもの。さっさと忘れたわ。そんなもの。もし覚えていたのならきっと、『次は自分で書きなさい』って文句の一つでも言うでしょうけれど」
 梓が言う。
「お前。本当は覚えてんじゃないのか」
「さぁ。何のことかわからないわ」
 鈴木くんの問いに、梓は首を傾げてとぼけた。
 真意はわからないけれど、私も鈴木くんと同様に梓がまた本当のことを言わなかったのだと思った。私は自分の左手を改めて見つめる。智子のおまじないは、どうやら効いてくれそうだ。
「梓。鈴木くん」
 私はちゃんと顔を見て、二人の名を呼んだ。視線がほぼ同時に向けられる。
「昔みたいに、また仲良くできるかな」
 言うと梓と鈴木くんは顔を見合わせてから頷いた。私は思わず泣いて、そして嬉しくて笑った。帰ったら智子に連絡しよう。泣き虫だって笑われるかもしれないけれど、きっと一緒に喜んでくれる。(つづく)