連載小説「あの箱庭へ捧ぐ」第一章

第一章 影を踏む

 1

 足立清二は到着時間の連絡を受けてから数十分は、事務室で待機していた。室内にある壁掛け時計をみずに、ここ数年愛用している腕時計をみつめる。そろそろ出迎えの準備をしなければならない。窓の外を見ると先日の梅雨入りが影響してか、空は気分がしずむほど曇っていた。
 ウミホタルは海の生き物だ。甲殻類で刺激を受けると威嚇するために発光するらしい。そんな生き物から名前をとったうみほたる学園は全寮生で、日本全国から集められた生徒や教師、その他の関係者を含めて約八百人ほどの能力者たちが生活している。
 都会から遥かに離れた山の中腹にあるため、自然に囲まれた広い敷地内に、大きな校舎や食堂が建てられていた。小さな雑貨店や洋服店もあるが、品揃えが良いとは言えない。男子寮と女子寮には中等部や高等部の生徒たちが住んでおり、先生や施設の職員たちは、アパートで暮らしている。年齢の制限はないが、十代から四十代ぐらいまでの能力者たちが学園に在学している。しかし、日本中のすべての能力者が集められているわけではない。全寮生のために敷居は高いのだろう。学費のこともある。学園内で働く者たちは、ある程度は免除されているがそれでも簡単に入れる学園ではないことは確かだった。
 近年、ニュースでも取り上げられることが多くなった、不思議な能力を持つ人間。それは子どもから大人、男女関係なく発症する病気のようなものだとキャスターが言っていた。
 能力病と呼ばれている。その力のせいで家に引きこもる子どもや大人が多くなった。子どもは学校に行かなくなり、大人は仕事をしなくなる。そんなふうに言われている。
 その能力は多岐にわたる。魔法のように何もないところから火や水を生みだしたりする者もいれば、五感が異常に発達していたり、共感覚を持ち合わせている者もいるという。原理はわからない。けれど、わからないこそ恐れられて一か所に集められているのかもしれない。
 どんどん増え続けている能力者を囲っておける場所は限られている。この学園以外にも、そういう学校や施設が増えているという。能力者の研究をしている場所もある。その中でも規則が厳しいと言われているこの学園は、一度入ったら卒業できるまで一時的な外出はおろか外との連絡も一切禁じられている。

   *

「足立先生。ちょっとよろしいですか」
 声をかけられたので事務室の扉から顔を出すと、そこにいたのは本間宗太という少年だった。顔は奇妙なほどに整っていて、美形と言っていいほどだった。街を歩くと必ず目を引くだろうその少年は、元子役の芸能人という経歴を持つ。彼は子役の頃に一世を風靡したらしい。言われてみれば確かにどこかで見たことのある顔をしている。そして学業に専念するという理由で、十二歳で芸能界を引退していた。現在は十七歳。これだけ顔が良いならば復帰してもよさそうなものだが。そんな彼がどうしてこの学園に在学しているのかと言えば、能力者になってしまったから。という理由の他ないだろう。
「どうした」
 あまり時間はないが、足立は対応する。時間がかかることならば他の先生に託すが、そうでないならばやってしまおうと考えた。
「斎藤寧々さんが門の近くにいるのを見たんですけど、放っておいていいんですか」
 本間の言葉に足立は目を丸くして、それからすぐに頭を抱えて大きく息を吐いた。「またか」と呆れたように呟く。
 斎藤は問題児だ。予想できなかったわけではない。しかし、ここしばらくは大人しくしていたので油断していたことも事実だ。
「ありがとう。すぐに向かう」
「気を付けたほうがいいですよ」
「ああ」
 本間の忠告を聞いてから、足立は急いで警備員に連絡する。電話で話した限り、監視カメラには斎藤の姿は映っていないとのことだった。本間の話を信じるならば、監視カメラの死角を突いて移動しているのだろう。しかし、そんな器用なことを斎藤ができるとは思えない。できるとすれば協力者がいる場合だ。斎藤の脱走騒ぎはこれで三回目だ。一回目は学園に入学したての頃、家に帰れないと知るや否や暴れて、教師たちを振りきって脱走しようとした。二回目は、斎藤が規則を破って謹慎処分を受けたのに、脱走しようとした。
 これまでの斎藤には、計画性というものがまるでなかった。
 協力者を得たうえで、斎藤が脱走計画を実行しようとしているならば、これは非常に厄介だ。斎藤が今までと同じで勢いだけで脱走しようとしていたなら、まだ楽だっただろう。
 学園の門が開閉するには二つの理由がある時だけだ。一つは、教師が用事や休暇で外に出るとき。もう一つは新入生を迎える時だ。それ以外はよほどの理由がないと開かない。そして今日は、新入生がやってくる日だった。
 このことは基本的に生徒には通知されない。だが、斎藤の持っている能力の事を考えれば、彼女がその情報を知っていてもおかしくはなかった。 
 斎藤は、聴覚が常人離れしている。どんなに小さな音でも、遠くの音でも聴くことができるらしい。
 今日門が開くことを知っているのなら、斎藤が脱走する絶好の機会だと考えていてもおかしくはない。協力者の力を借りれば、監視カメラを避けながら門まで移動することも容易いだろう。
 そこまで考察して、このままでは、新入生と斎藤が入れ違いになってしまう事実に気づいた。足立は急いで門へ向かった。事務所から門の間はそれほど距離はない。門前に着くと、連絡を受けた車の到着時刻と斎藤のことを警備員と話し合う。時間まで待機し、理事長たちの乗った車の到着と、斎藤を待ち伏せすることにした。
「厳重警戒だ」と足立は警備員の二人に言った。

 2

 車が二台、坂を登ってくる。監視カメラの映像を見ている警備員のひとりから、連絡が入る。足立はイヤホンから聞こえてくる声に返事をした。
 足立は何気ない顔をして、身長が百八十センチある自分よりも高い壁に挟まれた重い鉄格子を両手で押す。地面に埋め込まれたレールと格子が甲高い音をたてながらゆっくりと動いていく。
 通常、門には誰かが脱走しないように監視カメラと警報機がとりつけられている。しかし今回のように職員が出入りする際は、一時的に警報が鳴らないように設定している。
 足立が片側の門を終点まで動かすと、もう片側の門を押していた警備員も開け終わったらしく、「ふう」という声が聞こえた。
 左右の門が開き終わると、二台の車が徐行しながらうみほたる学園の敷地内に入ってくる。足立は車が二台とも門を通り終わったことを確認すると、辺りを警戒しながら、再び門に手をかける。
 そのときだった。
「おい。そいつを捕まえろ」
 足立よりも先に斎藤の姿を目で捕えていた警備員の叫び声が聞こえた。みると、確かにこちらへと走ってくる人物がいる。青い帽子を被った、少年とも少女とも見分けのつかない風貌をした人物。それは紛れもない、脱走犯。斎藤寧々の姿だった。
 斎藤が門の外へ出ようと走っている。近くで停車した二台の車からは、もう誰かが降りようとしている。そして斎藤と、車から降りてきた足立とは面識のない女の子。おそらく話に聞いていた新入生がすれ違う。斎藤がその子に気を取られていたその一瞬。足立はその隙を狙って自分の影を伸ばした。

   *

 空は曇っているが、まだ雲の隙間からは太陽が見える。丁度いい天気だった。
 うみほたる学園は能力者しか入れない。足立もその例にもれず。影を操ることが出来る能力者だった。
 足立は自分の影を使い、斎藤の影を捕える。足立の影と斎藤の影が繋がり、ひとつになる。次に足立は右の足を真横に動かした。斎藤の右足の影が、斎藤の意思とは関係なく横方向へと動く。影が動くとどうなるか。影を作っている物体もまったく同じ方向に動くことになる。本来ならありえないことだ。しかし足立の能力は、そういう能力であった。
 走っている斎藤の右足が影と同じく真横に動いた。斎藤はその場で体のバランスを崩して転んだ。
 斎藤のうめき声が一メートルほど先から聞こえる。
 足立は一歩も動かなかった。手を動かすことも、顔を動かすこともなかった。こうすることで、斎藤は起き上がれないし、例え起き上がれたとしても、動くことが出来ない。足立の影と斎藤の影が繋がっている限りは。
「取り押さえろ」
 警備員がそう言って、もうひとり別の警備員と一緒に斎藤の両腕を片方ずつ掴んだ。斎藤は身動きが取れなくなった。
「離せ。あたしに触るな」
 斎藤が無駄だとわかっているだろうに、叫んでいる。大人の男性二人に羽交い絞めにされていては、力で敵うはずもない。
 足立はそれを確認すると、門から離れて斎藤の傍まで行く。歩きながら、足立は二週間前のことを少し思い出していた。斎藤が二回目に脱走しようとした時の事。斎藤はあのとき、果敢にも足立に殴りかかってきた。まあ言うまでもなく軽くいなしたが。
「斎藤。残念だったな」
 足立は口角を上げてそう言った。
 斎藤は足立の事を睨んでくる。
「こんな所、大嫌いだ」
 斎藤はそう叫ぶと、観念したかのように抵抗するのをやめた。
 一段落して足立は能力を解除すると、今度は車のほうに視線を向けた。みると乗車していたであろう面子は全員車を降りていた。堀田理事長。二台の車の運転手が二人。米田恵理子先生。川崎竜太郎。そして新入生の小池燐音という少女。みんな、困惑した表情でこちらを見ている。
 足立は面倒だなと思いながら、理事長たちの近くまで歩いた。
「足立くん。これは一体?」
 そんな足立を見てか、理事長が首をかしげながら尋ねてきた。
「お騒がせしてすみません。彼女の処分はこちらにお任せください」
 理事長の目の前まで来ると、足立は言った。
「ああ。頼むよ」
 返ってきたのはその一言だけだ。理事長は、それ以上何も言わず、川崎に何やら話しかけている。そしてそのまま川崎と共に一足先に本部へと向かうようだ。
 足立へのそれは信頼からなのだとわかっていたが、その返答はとても淡白だと感じた。
 一方、米田は「お願いします」と足立に向かって一礼した。足立も頭を下げると、「はい」と返す。米田は足立の後輩にあたる。彼女は今回、新入生と同性だからという理由で理事長に同行を頼まれたという経緯がある。
「そちらも、よろしくお願いします」
 足立はそう言ってから、米田の後ろで怯えているだろう少女をみた。少し長めの前髪から覗く瞳は、何を考えているのかまるでわからない。小池は不安そうな顔こそしていたが、怯えている様子はなかった。そのことに安堵して、足立は彼女に話しかける。
「こんにちは。初めまして、足立清二と申します。よろしく、小池燐音さん」
 小池は僅かに頭を下げてから、「よろしく、お願いします」と小さな声で言った。
「そんなに緊張しなくていいよ。怖いお兄さんじゃないから。隣のお姉さんも、ちょっと顔が怖いかもしれないけれど、優しい――」
 最後まで言い終わらないうちに、米田が咳払いして「足立先生っ」と声を裏返した。本人が気にしていることを言ってしまったらしい。
「ほんの冗談ですよ。怖いと思ったことはないです」
 足立は弁解のつもりで言う。
「言われ慣れているので、大丈夫ですよ。気にしていません」
 米田が、嘆息しながら言った。
 わざわざ言うということは、相当気にしているなと足立は思う。実のところ、米田の顔を怖いと思ったことは一度もない。むしろ美人の類に入るだろう。何でこんなところで働いているのか疑問に思うぐらいだ。しかし彼女にも彼女の事情がある。根掘り葉掘り聞くつもりはない。
「それでは、こちらの件が片付いたら改めてそちらへ顔を出しますね」
 足立は米田たちに別れを告げると、自分の目先の仕事へと戻る。米田と小池も理事長たちの後を追って本部へと向かうようだ。
 警備員二人に捕らえられたままの斎藤は、落ち込んだ表情で項垂れていた。足立はそれをみると、頭を掻いた。
 まずは保健室に行って、斎藤の怪我の手当てをしなければならない。

 3
 
 斉藤への罰則は、反省文だけでは足りないのではないか。彼女の脱走未遂は今回で三回目だ。根本的な原因を解決するためにも、行動の制限をかけたほうが良いのかもしれない。足立はそう考えて、斉藤にとある罰を追加することにした。
「新入生の面倒をみる?」
 罰について伝えると、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして、斎藤が足立の言葉を繰り返した。
「今回だけ特別だ。反省文と合わせて二つの罰をお前に科す」
 足立は、斉藤に向かってそう言った。
「それはいいですけれど。新入生に関しては、罰にならないんじゃないですか。あの子、あたしと同室だって聞きましたよ」
 斉藤は首を傾げて言った。
 これは足立も先ほど知ったことだが、どうやら今は斎藤が一人で使っている女子寮の部屋に、新入生の小池が新しく入る予定だったらしい。通常は、新入生の入寮が生徒に知られないようにするため、当日まで告知しないことになっているが、斉藤は同じ部屋に入るということで、事前に知らされていたみたいだ。
 足立は女子寮について詳しくはない。どの生徒たちが同じ部屋なのか、資料を確認しない限りは知らない情報だ。しかし今回は米田が、斉藤の部屋に小池が入ることをわざわざ足立に教えてくれたのだ。
「何か運命的なものを感じたから」だそうだ。
 正直よくわからない理由だと思ったが、都合は良かった。斉藤のためになることだと思ったからだ。
 それから脱走騒ぎの協力者だが、斉藤は頑なに口を割らなかった。協力者などいないの一点張りだ。このままうやむやになりそうだった。
 あれから一日経ち、斉藤と小池の様子をみているが、どうやら上手くやっているようだった。二人で食堂へ昼食を食べに来ている。
 足立は二人より先に昼食を食べ終わり、食器を片付けると外へ出た。近くのこげ茶色のベンチに座り、二人が食堂から出てくるのを待つ。傍から見たら怪しい行動ではあるが、これも仕事のうちだった。新入生というものはとても危ういものだ。来たばかりでここの生活に慣れていない。だから先生をやっている限り、注意してみていなければならない。そして問題が起こればすぐに対処するべきだ。
 勿論その職務があるのは足立だけではない。米田もそうだ。特に彼女は、小池の担当だと聞いた。できるだけ近くにいるだろう。

   *

 数分後。斉藤と小池が、食堂から出てきた。何かしゃべっているが様子がおかしかった。小池が口元を押さえている。彼女は膝から崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。
 斉藤が慌てて、食堂にいる人に声をかけている。中にいた米田が、急いでかけつけていた。何か袋のようなものを持っている。
 足立は近くまで行くと、すぐに事態を把握した。
「まだ気持ち悪い?」
 米田が、小池の背中をさすっていた。おそらく嘔吐したのだろう。先ほど食べたものと思われるものが、袋の中にみえた。強いストレスを感じて胃腸に負担がかかっていたのだろう。小池は学園へ来てから今まで、無理をしていたのかもしれない。生活環境が変わったばかりですぐに慣れろというのは酷な話だ。
 足立は落ち着くまで待ってから、声をかけた。
「大丈夫か。そこのベンチに座ったらどうだ」
 米田が頷いて、小池を先ほど足立が座っていたベンチへと誘導した。斉藤も一緒だった。
「足立先生。少しの間、お願いします」
 米田がそう言って、使用した袋を持って食堂へ戻る。水を持ってくるそうだ。
 足立はベンチに座っている小池と斉藤の前に立っていた。そういえば飴を何個か持っていたな。と思い出したので、ズボンの右ポケットに手を入れた。
「小池。いい物をあげよう」
 そう言って、足立はポケットの中に忍ばせてあった個包装の飴の中から、イチゴ味と袋に書いてあるものを取り出した。
「あ、ありがとうございます」
 小池が微かに嬉しそうな顔をして、足立に向かってお礼を言った。
「吐いたから、胃液で口の中が不味いだろう」
「は、はい」
 小池は足立の言葉に、苦笑いしながら頷いた。
 それから小池は飴の袋を開けて、赤い飴玉を口に一つ含んだ。飴玉は少し小池の口には大きいのか、頬の膨らみがはっきりとみて取れた。時折、飴玉と小池の歯が擦れるような音がした。
 それをみていた斉藤が、自分も欲しくなったのか、「足立先生。それもう一個ないんですか」と尋ねてきた。
 仕方ないなと思い、足立は再びズボンの右ポケットの中を探る。飴の袋を何個か取り出した。中にはまだ中身がある、膨らんだ状態の飴の袋があった。ちなみに紫色のブドウ味と書いてある。
「あるけど、これ俺の分」
 そう言って、足立は少し意地悪をする。ほんの冗談のつもりだった。場を和ませたかったのだ。
「え? じゃあいいです」
 斉藤が怒ったような口調で言った。真に受けられたらしい。
 足立は笑った。
「冗談だよ。ブドウ味でよければあげるよ」
「ありがとうございます」
 斉藤が笑顔で元気よくお礼を言った。
 それから、斉藤は足立からブドウ味の飴を受け取った。
「俺は、禁煙中なんだよ。だから飴を舐めていたんだ。最近また値上がりしただろう。外に行っても高いから。また新しい飴を買わないとな」
 そう言いながら、足立は息を吐いた。ヘビースモーカーとまではいかないが、喫煙者だった。かと言って電子タバコは苦手だったため、飴でごまかしていたのだ。
「ここって結構、給料が高いって聞きましたけれど」
 どこで誰が言っていたのか。斉藤の発言に足立は驚いた。
「一体誰から聞いたんだ」
「あたしは耳がいいので。風の噂で聴いたんですよ」
 斉藤の返答に、足立は彼女の能力について思い出していた。斉藤は耳が異常に良いのだ。
 これには足立も苦い顔をするしかなかった。この学園にいる限り、どこで誰が何を聴いているのかわかったものではない。
「給料はな。使いこんでいるから」
 そう言って、足立は笑ってごまかすしかなかった。小池を一瞥する。
 足立も小池の能力の事は、知っている。だから何かを思うことすら今はためらわれた。
 米田が戻ってくる姿が目に入る。足立はそれを確認すると、今度はしっかりと小池のほうをみる。
「小池。あんまり無理するなよ。具合が悪いならすぐに近くの先生に言えよ」
「は、はい」
 小池は飴に妨害されながらも返事をして、足立の言葉に頷いた。
「よし。じゃあ、またな」
 米田と入れ替わるようにして、足立は事務所の方へ向かって歩きだす。
 斉藤が足立に向かって手を振った。隣で小池が軽く頭を下げていた。
「足立先生。ありがとうございました」
 すれ違いざまに米田が言ったので、足立は無言で手を振る。
 自分が汗をかいていることに気づいたのは、事務所の入口の前だった。
 タイミング良く、足立のスマートフォンが振動する。ズボンの左ポケットからそれを取り出して画面をみてみると、メールが届いていた。差出人は、「いのう研究所」
 足立は肝を冷やし、内容を確認せずに画面を閉じた。そのままポケットにしまう。
 別にやましいことがあるわけではない。そう思いながら、足立はどんな顔をしていいのかわからない。だから無理に表情を作らずに、仕事に戻ることにした。

(続)

連載小説「あの箱庭へ捧ぐ」序章

序章 心を知る

 淡いピンク色のルームウェアには、白と黄色の小さな花柄が入っている。小柄な女の子が、驚いた表情でこちらを見ていた。
 川崎竜太郎は目の前の少女に、まだ名乗ってもいないのに名前を呼ばれたような気がして、不思議に思った。彼女の視線は真っすぐに向けられている。竜太郎は、首を傾げた。彼女とは、どこかで会ったことがあるのだろうか。思い出せない。
「あなたを迎えに来ました」
 そんな二人の様子に気づいたそぶりもなく、隣にいたショートカットの髪型が似合う長身でスーツを着た女性、米田恵理子がにこやかに言った。彼女は竜太郎の通う「うみほたる学園」の先生で、竜太郎と十歳近く歳が離れている。三十路に差し掛かっている彼女だが、見た目は幼く童顔のためか実際の年齢よりも若く見られることが多い。よく竜太郎と姉弟だと間違えられることがあった。
 訳がわからないといった表情で、米田の言葉に少女は首を横に振った。声が出ないのか、小さく「いや」というかすれた言葉だけが聞こえたような気がした。
「残念ですが、あなたはもう我々が保護することが決まっています」
 米田の感情のこもっていない声が、部屋に響いた。拒否権はないのだと表情が告げている。竜太郎は少し可哀想だと感じたが、そんなことは関係ないのだとも理解していた。
「どうして」
 と少女の呟きが、竜太郎の耳に届く。
「それが、君が手に入れた力の代償です」
 竜太郎は歳の近い少女に向かって、冷たく言い放った。
 六月の、梅雨が始まったばかりのころだった。竜太郎と米田は学園の理事長に連れられて、小池燐音という名前の少女の自宅へ訪問していた。依頼者は彼女の両親で、母親のほうは泣きはらした顔を隠すように、ハンカチを両手で持っていた。
「米田くん。着替えを手伝ってあげなさい」
 竜太郎の後ろにいた年配の男性が、そう言ってから部屋を出た。彼はうみほたる学園の代表、堀田理事長だ。
 竜太郎は理事長が階段を降りようとしていたので、慌てた。彼は数年前、病気で足を悪くしたため、杖をついていた。補助をしなければ、理事長はひとりで階段を降りることが出来ない。二階に上がる際も、竜太郎が補助をしなければいけなかった。
 理事長は、燐音の両親と話がしたいと言った。部屋の中に燐音と米田を残して、彼女の両親と理事長と竜太郎は一階にある客間へ向かった。

   *

 その家は、一般家庭にしては裕福なようであった。西洋風な照明とソファを置いており、竜太郎と理事長は黒い革のソファに座るように促された。竜太郎は慣れない手つきで足の悪い理事長の補助をしてから、ソファに腰を下ろした。座った瞬間の革特有の音が、竜太郎にはどうしても蛙の鳴き声のように聞こえた。
「それで、お嬢さんの力というのは何か、あなた方は理解しているのかね」
 理事長がさっそく、本題に入る。顔つきはいつになく真剣で、落ち着いた声色をしていた。今まで何人もの能力者を見てきた彼は、鋭い針のような観察眼を持っているのだろう。小池の事を一目みただけで何かを察したようだった。
 小池の両親は、竜太郎と理事長の向かい側のソファに座っていた。母親は変わらず顔をうつむきがちにして、ハンカチを握りしめていた。父親は剣呑な目つきで理事長をみつめている。
「はい。家内が言うには、娘に。燐音に心の中が見透かされているようだと。言葉は悪いのですが、それが気持ち悪いと言うのです」
 父親は眉をひそめて言った。
「それを聞いてあなたは、どう思ったんだね」
 理事長は表情を変えずに、父親に尋ねる。
「私は。そんなこと、あるはずがないと、思いました」
 父親は辛そうな表情をした。彼の事を考えると、心が痛い。大切な娘を疑うことがどれほどの苦痛を伴うのか、竜太郎には想像がつかない。
「それで、我々に検査してほしいとのことだったか」
「はい」
 理事長の言葉に、父親は頷いた。
 依頼内容を確認した理事長は、険しい顔をしながらこう言った。
「結論から言いましょう。お嬢さんは、能力者だ」
「やっぱり」
 母親の口から、悲観の声が漏れる。
 竜太郎が視線を向けると、何かやましい気持ちがあったのか、母親は泳ぐ魚のように目を逸らした。
「彼女の部屋に入った瞬間、彼女は我々が来ることをあらかじめ知っていたかのように落ち着いていた。そのあとすぐに何らかの別の理由により驚いていた様子だったが、それは人数かもしれない。こいつが居たからな」
 理事長が竜太郎を横目でみた。流石に、小池の事をよくみている。竜太郎は口を開きかけたが、理事長はすぐに続けた。
「随分と若い奴を連れてきたのでな。あなたたちも予想していなかったことだろう」
「なるほど。すると娘は、私たちが想像していた来客を知っていたと」
 理事長の言葉に、父親が納得した。
 燐音には、今日の来客を事前に知らせてはいなかった。そして燐音に用がある客人が来る可能性などないに等しかった。彼女はここ一年ほど家に引きこもっていたからだ。彼女に友人がいたかどうかはわからないが、彼女を外に連れ出そうと思う友人はもうとっくに諦めていることだろう。なので最初に部屋に入った時、もっと驚いてもおかしくはなかったと父親は説明してくれた。
「お嬢さんは、あなたたちの心をよむことができる能力を持っている。これは確定してもいいだろう。そういう能力を持つ者は稀に存在する。扱い方はわかっているから、安心してほしい」
 理事長はそう言ってから竜太郎に目配せをしてくる。竜太郎は急いで、理事長に持たされていた黒い鞄から書類を二枚取り出した。一枚は入学案内と書かれた紙。一枚は秘密保持と書かれた契約書。それを白いレースの布が掛かったテーブルに置いた。
 これは決して悪徳な契約書ではない。理事長が代表を務め、米田が先生として働き、そして何より竜太郎が生徒として通う、うみほたる学園の入学手続きに必要な書類だ。
「よく読んで、ここにサインを。お嬢さんの安全は、我々が保証します」
 言いながら右の手のひらを使って署名の欄を示す。それから胸ポケットに忍ばせていた黒いボールペンを渡した。
 なんだか怪しげな台詞を吐いたが、竜太郎は真面目な顔を崩さないように務めた。
「何を見て何を聞いても。絶対に不機嫌な顔をしないように」
 と竜太郎は理事長からきつく言われていた。それがこの場に同席させてもらうための条件であった。
 ボールペンを手に取った父親は、少し渋っている様子だった。顔をしかめたまま、入学案内と睨み合っている。隣の母親は、入学案内と父親の顔を交互に見ている。何か焦っているようにもみえた。彼がサインすることを迷っているせいかもしれない。
「学園に入ってしまったら、しばらく娘とは会えなくなるんですか」
 父親の質問に、理事長は頷いた。
「そこに書いてあるとおり、基本的には卒業まで帰省は出来ないが、あなたたちが希望すれば面会をすることは可能だ」
「そうですか」
 複雑そうな顔を浮かべながら、父親は意を決したようにボールペンを握り直して書類にサインを書き始めた。
 父親の隣で母親がほっとしたような表情をしたことを、竜太郎は見逃さなかった。けれど何も言わないように、堪える。理事長の言うことを聞くまでもない。人の家庭の事情に首を突っ込むことが良くないことは、竜太郎もわかっている。
 書類にサインをし終わったころ。米田と小池が二階から降りてきた。彼女は笑いもせず泣きもせず、ただそこに居た。感情を押し殺しているようにもみえた。
 忘れることはないだろう。無表情という言葉が似合うその顔に、竜太郎は恐ろしさを感じていた。

   *

「何ですか。あれ」
 帰りの車内で、竜太郎はついに我慢ができなくなって理事長に尋ねた。乗っているのは運転手と理事長と竜太郎だけで、小池と米田は後続の車に乗っているので話を聞かれる心配はなかった。
「あれとは何だ」
 後部座席で隣り同士に座っている理事長と竜太郎は、顔も合わせずに会話をする。
「小池燐音の母親の態度ですよ。すごく嫌な気持ちになりました」
 竜太郎の目には、母親が娘を厄介払いしたいだけにみえたからだ。
「あんなものはまだ序の口だ。まだ直接言葉にしないだけマシなほうだ」
「そういうものですか」
「そういうものだ」
 竜太郎の質問を、理事長は肯定する。竜太郎は納得したくはないと思った。
「竜太郎。彼女には彼女の事情があるのだろう。そこは我々に口を挟む権利がない」
「わかっています。でも、彼女が。小池燐音が」
 竜太郎が言葉を最後まで言わないうちに、理事長が言う。
「可哀想とでも思うのか。お前は。ならば自分が何をすべきなのかもわかっているだろうな。私が今回、何故お前に付き添いを許可したのかも」
 理事長が竜太郎に顔を向けたことに気づき、竜太郎も理事長のほうをみて頷いた。
「はい」
「彼女をメンバーに加えなさい。彼女の能力はきっと役に立つ」
 何の話か、竜太郎には直接言われなくてもわかっていた。今回の同行はそのための調査でもあったからだ。
 竜太郎の所属する「洸生会」これはうみほたる学園の生徒たちを卒業へ導く手助けをするために発足された秘密組織である。現在のメンバーは代表である竜太郎を含めて二人。小池燐音は、彼女の両親から能力の検査依頼があった時点で新メンバー候補となった。すべては理事長自らが決めたことだ。
「人の心を知ることが出来る能力ですか。便利そうですね」
 あくまでも利用価値のあるものとして、竜太郎はそう言った。
 自分が何をするべきなのか。わかっている。自分が小池にしてやれることは何なのか。わかっている。彼女をメンバーに迎えたうえで、卒業まで導いてやらなければならない。
 小池燐音の能力を消失させること。それが理事長からの依頼だった。

(続)

詩「私のヒーロー」 黒宮涼

 体が弱くても
 心が強くなくても
 空を飛べなくても
 今すぐ駆けつけてきてくれなくても
 君がそこで笑ってくれているだけで 十分なんだ
 君がそこで笑ってくれているだけで 元気がでるんだ
 だから さあ 笑って
 いつもみたいに おはようって 笑って
 悲しい気持ち 全部 吹き飛ばすみたいに

黒宮涼の「目」で見、「心」に感じた詩2編

「台風の後」

道端に小さなサンダルがおちている
フェンスの向こうにあるマンションの一階
暴走した風にあおられて
きっとそこから飛ばされたもの
「すみません。このサンダルお宅のですか」
そんなこと言う勇気はなくて
わたしは通り過ぎる
帰り道 同じ場所を通ると
サンダルが綺麗に揃えられて置いてあった
誰がやったかわかるはずもない
持ち主よ 早く取りに来い

「おばあちゃん」

一瞬 両目を見開く
また瞼を固く閉じる
掴んだ手をぎゅっと握ってくる
ねぇ あなたは今 何を思っているの
目は 見えているの
耳は 聞こえているの
想う心は どこにあるのか
それは わたしたちには一生わからない
あなたは わかっているのかもしれないけれど

連作短編小説「玉木さんと鈴木くん その4『進路』」

 俺の両親は共働きで二人とも医者だ。頭が固くていつも偉そうで人を下に見ている。俺も医者にしようと厳しい教育をしていた。俺が中学でグレなければ今もずっと続いていただろう。ただ父親だけは未だに諦めていないらしい。
「先生から電話があったぞ」
 恐らく俺が全教科赤点をとったことによる「息子さん、このままだと留年しますよ」みたいなことを言われたに違いないと思いながら、俺は親父の小言を聞く。
「まったく、いい加減にしてくれ。今年は受験だ。遊んでいる暇などないぞ。今まで大目に見てきたが、髪の毛もそろそろ黒に戻したらどうだ」
「嫌だ。親父もいい加減に諦めれば」
「ヒロ。お前はこの先どうするつもりなんだ」
「親父には関係ない」
 この問答をどれだけ繰り返しても、俺の中の結論が変わることなどない。親父だって俺が髪の毛を茶髪にして、喧嘩上等。校則を破ってばかりいる原因が自分にあることぐらいもう気付いているはずだ。それでもまだ俺が医者になることを諦めていないのならば、親父こそ馬鹿だ。
「関係ないわけがないだろう。お前は俺の息子だぞ」
「俺は、お前のことを親父だなんて思ったことはない」
 勢いでそう言ってしまって、俺ははっとして口をつぐんだ。父の隣で不安そうな顔をずっと浮かべていた母を一瞥する。さらに険しい表情になった母を見て、俺は言ってはいけないことを言ってしまったのだと自覚する。
「……悪い。言い過ぎた」
「いや。お前がそう思っているのならもう好きにすればいい」
「え?」
 親父の意外な言葉に、俺は目を丸くする。素直に謝ったのにその返答は予想していなかった。
「出て行け。この家から」
「ちょっと、お父さん」
 親父の発言を、母は止めようとしてくれていたが意味もなく。俺は親父がものすごく怒っているのを感じ取っていた。
「わかったよ。言われなくても出てってやるよ」
 俺は舌打ちをしてそう吐き捨てた。本当に出ていこうと思い、自室に戻って大きめのカバンに着替えを詰め込む。後ろから母親の声が聞こえてくるが、俺は無視して詰め終わった荷物を持って家を出る。行き先はいつものところだった。

「また家出してきたの。勉強の邪魔になるから出て行ってくれないかしら」
 隣の家に駆け込むと、幼馴染の玉木梓から辛辣な第一声を浴びせられた。そう、俺の玉木家への家出はもう何度も繰り返されたことだった。子どものころから変わらない。俺の憩いの場所になっていた。俺がこうして家出をするたびに隣のおばさんは仕方ないといった顔をして俺の家に一報をする。そして翌日に、母親が迎えに来るというのがいつものことだった。しかし最近は母親が迎えに来ようがなんだろうが、二三日は家に帰らないようにしている。たった一日の家出など、子どもみたいで嫌だからだ。
「お前の邪魔はしないよ。どうしても嫌なら、別の所に行く」
「そうしてくれると、ありがたいわ」
 いつもだったらこんな言葉、平気なはずだった。ただ今日、違う点があるとすれば父親が俺に向かって「出て行け」といったこと。普段ならば俺が勢いで「出て行く」と言って家出をするところなのに。今回は珍しく親父から突き放されたのだ。傷ついていないはずがない。
「そうかよ」
 俺は小さく呟いて、それから荷物を持ち直す。
「やっぱり他に行く」
「そう。いつも強引に泊まるのに、どういう風の吹き回し」
「別に関係ないだろう」
「そうね。他に行ってくれたほうがこちらとしても助かるわ」
 迷惑をかけている自覚はあったので、何も言い返せなかった。
「じゃあな、ガリ勉女」
「うるさいわ」
 俺の精一杯の皮肉に、耳に手を当てて聞こえないふりをする梓。一応気にしてはいるらしい。玉木家を出ると、眩しい夕日が目に入った。思わず瞼を閉じる。
「さて、どうしたものか」
 俺はそう呟きながら、右手で太陽の光を遮る。季節は春で、もう外も夏のように暖かくなってくる頃だった。何人かの友人宛に、家に泊めてもらえないかとメールを送る。これで誰からも良い返事が来なければ野宿でもするかと考えていた。一人目の返信。ダメ。二人目もダメ。三人目も四人目も勘弁してくれと返信が来た。俺は仕方がないので公園で野宿するルートを選ぶことにした。

 所持金三千円。俺はもっと持ってくればよかったと後悔していた。最初は玉木家に泊まる予定だったので、お金など必要ないと思っていたのがいけなかった。高校生なので当然カードも持っていない。友人宅にも断られた俺は、一人公園で寝袋もなしにベンチに横になるしかなかった。
「ちくしょう。梓め。一生恨んでやる」
 俺より勉強をとったことを後悔させてやる。と一人で愚痴りながら携帯を見る。親からの不在着信が一件も入っていないところに虚しさを感じる。俺のことはどうでもいいのか、それとも玉木家に居ると思って安心しているのか。その場合まだ玉木家に電話していないことになる。やはりどうでもいいのか。電池がもう半分程なくなっている。残量が減るたびに俺の中の不安が増していくようで、俺は見るのをやめた。ベンチに横になっていると固くて背中が痛いので、起き上がる。隅を見ると鳥の糞らしきものが見えて、俺はそこらに落ちていたスーパーのチラシを上においた。横になる前にベンチもティッシュで軽く拭いているが、綺麗とはいえなかった。正直、俺は家に帰りたかった。柔らかいベッドが恋しい。
「鈴木くん?」
 不意に声をかけられて、俺は視線を向ける。公園の入り口に立っていたのは女の子で、俺はその顔に見覚えがあった。
「白井さん? もしかして遊びに来ていたのか」
 そこにいたのは白井みづきという梓の友人だった。お互いの家に遊びに行くほど仲がよく、俺が玉木家に行くとたまに顔を合わせることがあった。
「ううん。親戚の家がこの公園の真裏で、今日は法事があったからそのまま泊まるの。今は、ちょっとコンビニに行く途中で」
 白井は首を横に振りながらそう言った。ああ。そうか。と俺は思い出していた。この子は必要以上に他人に気を使う。今だって俺に話しかけなければ時間を割くこともなくコンビニに行けたのに。
「そうか。いってらっしゃい」
 俺は自然に右手を振る。この公園はダメだなと頭で考えていた。白井に見つかってしまって居心地が悪い。
「あの。どうしたの、その荷物」
 白井が指摘したのは、俺が家出するときに持ってきたボストンバックだった。中身は衣類で鞄はそれなりに膨らんでいた。
「あー。気にしないで」
「旅行にでもいくの」
「まあ、そんなとこ」
「そっか」
 会話が途切れる。俺は白井に本当のことは言わなかった。言ったところで白井を頼れるわけでもないと思っていたからだ。白井がさっさとコンビニに行くことを俺は願っていた。ところが、白井は俺の座っているベンチの近くまで来た。俺は心臓が飛び跳ねそうになる。白井はポケットから携帯電話を取り出すと、何やら操作しだした。なんだろうと思いながら白井をじっと見つめていると、白井は画面をこちらに向けた。
「さっき、梓ちゃんからメールが来ていたの。鈴木くん、旅行じゃなくて家出でしょう」
 それは証拠をつきつけるようだった。俺は図星をつかれて顔をしかめた。つまり白井は俺の家出を最初から知っていて、俺の姿を見つけたから声をかけたということらしい。メールには俺を探している。見かけたら連絡下さい。と書いてあった。
「あいつ。自分で追い出しといて何してんだ」
 俺はそう言って頭を抱える。
「梓ちゃんなりに、心配しているんだと思うよ。隣、いい?」
 白井がそう言うので、俺は頷いて少しだけ横にずれる。思えばこうして白井と二人で話をするのも久しぶりだった。
「コンビニ行かないの」
「鈴木くんに話があるから。後でいい」
「家の人が心配するだろう」
「それは鈴木くんも」
「俺は、心配なんかしてないだろ」
 自分でそう言って、溜息をつく。気分は最悪だった。
「ねぇ、鈴木くん。何で梓ちゃんがあんなに勉強ばかりしているのか、その理由を知っている?」
「知らない。自分のためとか言いそう」
 何故、白井がそんな話をするのか俺はわからなかった。てっきり家出のことを説教されるのかと思っていたのに。
「鈴木くんのためだよ」
「は? 何で」
 予想外の答えに、俺は目を丸くする。勉強と俺とどういう関係があってそうなるのだ。俺が困惑した顔をしていると、白井は言った。
「何となく聞いてみたんだ。将来なりたいものでもあるのかなって。そのために勉強しているのかと思っていたの。でも、鈴木くんが医者になりたくないから、自分が医者になるんだって言ったの。最初は意味がよくわからなかったんだけど、鈴木くんの両親が医者だって聞いて、何だか納得しちゃった」
「何だよそれ」
 俺は梓らしいと思う反面、怒りが湧いてきていた。梓は俺と俺の両親のために犠牲になるつもりなのだ。そんなので俺と俺の親父が納得するとでも思っているのだろうか。
「梓ちゃんは、鈴木くんを解放してあげたいんだと思う。そのために必死になって勉強している。鈴木くんはここで何をしているの」
「俺は……」
 言葉が出なかった。俺はずっとあの両親から逃げたかった。だから何度も何度も歯向かって俺は俺のしたいようにするんだって粋がっていた。けれど、結局俺は何がしたいのか未だにわかっていない。俺はただ自分のことだけを考えていた。梓が俺のために何かをしようとしていることなんてまったく気づいていなかった。
「こんなことじゃあ、去年の恩返しになんてならないとは思うけど。今度は私が貴方たちを助ける番。だから、もっと梓ちゃんと向き合ってあげて。誰かのためにそんなに必死になれるなんて、凄いことだと思うから」
 去年。そう言われて俺は思い出していた。去年の夏。俺と白井はあの時もこうして話をしていた。友だちになりたい人がいるのと、白井は切り出した。俺は親身になって相談に乗ったのを覚えている。
「白井。十分だよ」
 俺は立ち上がる。このままここにいてはダメだと思った。俺は梓と話し合わなければならない。

 梓は玉木家の門の前に一人立っていた。白井と別れた後、きっと彼女が梓にメールを送ったのだろう。帰ってくるとわかって出迎えてくれたのだ。
「おかえりなさい。遅かったわね」
 梓は俺の姿に気がつくとそう言った。
「お前なぁ。出て行けって言ったのそっちだろう」
「あら。そうだったかしら」
 とぼける梓の目の前に立つと、俺は何となく昔話をする。
「だいたいお前は昔からそうだ。素直じゃないうえに嘘つきだ。覚えているか? 小学生のころ、お前の家でご飯を食べさせてもらったとき。俺が嫌いなピーマンを食べ残すたびに、お前が食ってくれていた。自分もピーマン嫌いなのにな。俺は毎回『あずさちゃんに食べてもらった』って言うのに、お前は俺が全部食ったって嘘をついた」
 だから褒めてあげてと言うのだ。俺は両親に褒めてもらった覚えがない。梓はそれを知っていて、可哀想だと思ったのだろう。だから嘘をついてまで俺を立てようとしてくれた。余計なお世話だと俺は思っていた。梓は、その後も数々のつまらない嘘をついた。ほしいものがあったときは大抵ほしくないと言うし、基本は心配をかけたくないとか相手に気を使ってとかそういうものばかりだ。
「そんなもの。覚えていないわ。何が言いたいのよ」
 俺はボストンバックを道路に置くと、首を傾げる梓を自分の胸へと引き寄せる。
「つまりお前はそういう奴だ。人のために自分を犠牲にしても平気なんだ。けれど、そんなのは間違っている。俺のためにお前が医者になろうだなんて、そんな馬鹿みたいなこと俺は望んじゃいない。だからもう必死で勉強なんかしなくていい。頑張らなくていいんだ。つまらない反発はもうしない。親父とはちゃんと話し合う。それで、医者にならないことを許してもらう」
 俺ははっきりとそう口にした。医者にはならない。それはもう俺の中では決まっていること。だからどうしたらいいのかを考えて、出したことだった。梓には自分のなりたいものになってほしい。俺は覚悟を決めたのだ。
「何よそれ。私がいつヒロのために医者を目指しているって言ったの。私は好きで勉強しているの。勘違いしないで」
「白井から聞いたんだよ。どうせ俺と親父たちのためだろう。違うのかよ」
 俺の言葉に、梓は観念したかのように嘆息した。
「そうよ。私、おじさんたちと約束したの。私が医者になったらヒロのことは諦めるって。ヒロのことを自由にしてくれるって」
「そんな約束したのかよ」
 俺は驚いて声を荒げた。思っていた以上に最低な親父だった。俺は思い出す。中学に入るまで梓の成績はそんなに良くなかったはずだ。そうだ。俺が髪の毛を茶色にしたあの頃から急に真面目に勉強に打ち込むようになったのだ。
「だって仕方ないじゃない。あんたの辛そうな顔を見ていたら、放っておけなかったのよ」
「だからって、ばかか? 放っておけばよかったんだ」
「放っておけるはずないわ。だって――」
 梓が言葉を言い終わる前に、俺はあることに気付いた。身体が密着しているせいか、梓の体温が妙に熱い。いや、熱すぎる。その異変に気づいた俺はとっさに梓の両肩に手を置き、身体から引き離してから顔をまじまじと見つめた。
「ちょっとまて、お前。熱があるんじゃないか」
 梓は顔色が悪く、呼吸も荒かった。俺は確信して梓の額に右手をあてる。やはり熱い。
「大丈夫よ。熱なんてないわ」
「ばかやろう。俺のことずっとここで待っていたのか」
 俺はそう梓を叱りつけた。どうせ昨日も夜中まで勉強していたに違いない。俺は今まで気づけなかった自分にも、体調が悪いことを隠していた梓に対しても憤怒していた。
「そんなんじゃないわ」
「もういいっ。とにかく家に入れ」
「大丈夫よ。このままでも」
 俺は渋る梓を家の中へと押し込んだ。どうしてそんなに抵抗するのか理由はすぐにわかった。中に入ると俺たちを出迎えたのは、俺の親父と母親だった。玄関での問答が聞こえたのか居間から出てきたのだ。
「ヒロ」
「親父? どうしてここに」
 俺は驚いて一瞬だけ本題を忘れそうになったが、すぐに我に返ると梓の腕を掴んで前に出す。
「そんなこと今はどうでもいい。親父。こいつ熱があるみたいだ。今すぐ治してくれ」
 親父は俺の言葉に眉毛を少しだけ動かして、それから何も言わずに梓の手を両手で包むように握った。
「母さん。梓ちゃんを寝かせるから用意を頼んでくれ」
「わかった」
 母親はそれを聞くと頷いて、慌てて梓の母を呼びに行った。親父は「歩けるかい」と梓に聞くと手を引いて奥まで歩いて行った。俺はというと、そのまま玄関で立ち尽くしていた。しばらくして荷物を外に置きっぱなしだったことを思い出して取りに戻り、俺は玉木家を見上げた。自分は無力なんだと痛感した。梓が体調を崩してしまったのはすべて俺の責任だ。荷物を肩に背負い直し、建物から視線を外す。俺は宛もなくゆっくりと歩き出した。

「悪いな、有沙。突然押しかけて」
「いいよ。それよりさっき家に電話したら、おばさんが凄く心配していたよ。おじさんに止められているから電話もできないって嘆いていた。それと、伝言。梓の風邪はすぐ治るから安心してだってさ」
 床に布団を敷きながら有沙が言った。俺はあの後電車に一時間程揺られて、一人暮らしをしている梓の姉、玉木有沙のアパートに転がり込んだ。有沙は俺より六歳年上で、社会人だ。頼れる姉貴だと思っている。一人暮らしの女性の部屋に転がり込むのはいかがなものかと思い選択肢から外していたのだが、完全に行く場所を失っていた俺は最後の手段として選んだのだ。
「そうか。別に心配なんてしてない」
「梓も大概だけどさ。あんたも時々素直じゃないよね」
 有沙の言葉に俺は何も言い返せなかった。ベッドの上で胡座をかいて有沙の姿を見つめていると、枕が飛んできた。それは顔面に当たり、俺は後方に倒れた。
「いってー。何しやがる」
 言いながら起き上がると、有沙は腹を抱えて笑っていた。
「あっはっは。らしくない顔しているからつい。悩んでるんでしょう。話だけでも聞くけど」
「笑いながら言うことじゃないだろ」
「ごめん。真面目に聞くね」
 拗ねたように言うと、有沙は先程まで緩みきっていた顔を整え、俺の横に座った。ベッドが二人の体重で軋む。寝巻き姿の有沙姉ちゃんを見るのは、本当に久しぶりだった。子どもの頃はよく俺と有沙と梓の三人で雑魚寝することもあったから、見慣れていたはずなのに。
「俺は勉強が嫌いなんだ。親父と母さんが強要してくるから。医者になるために勉強は大事だって。俺が自分でなりたいって、言ったわけじゃないのに。勉強ばかりで友だちと遊ぶこともできなくて、辛かった。だから俺は有沙たちが羨ましかった。隣の芝生は青いって言うだろ。まさにそれだったんだ。俺は玉木家に生まれてきたかったっていつも思っていた」
「ふーん。うちは逆だったな。隣の家はお金持ちでいいなって。家がうちより大きいし、車もうちより高そうなもの乗っていたじゃない」
「その代わり、家にほとんど親が帰ってこなかったけどな」
 皮肉を込めて俺は言う。どんなに勉強をしても欲しいものが手に入っても、一番大事なものが欠けていたように思う。俺はずっと、寂しかったんだ。
「家庭教師のお姉さんとかいたじゃん。あの人元気なの」
 有沙がそう尋ねてきたので俺は思い出す。そういえばそんな人もいたなと。
「あー。あの人は母さんの高そうなネックレス盗んだのがばれて首になった」
「うわー。そんな話聞きたくなかった」
 遠い目をしている有沙に、自分で聞いたんだろうとつっこみたかった。実際、俺もあまり思い出したくなかった。すごい剣幕で怒る母に、下手な言い訳をする家庭教師。俺はそれをこっそり見ていたのだ。彼女が首になってからだと思う。俺の中でそれまで自分を形成していた何かが崩壊したのは。
「髪の毛染めてピアスあけて喧嘩して。今でもそうだけど、中学時代はアホなことして先生に呼び出しくらうとか日常だったな」
「私が実家に帰ると毎回、顔に痣つくっていたよね」
「その点、高校入ってからあんまり呼び出されなくなったよ。俺成長しているだろ」
「あー。はいはい。で? さっきから思い出話しばっかりで本題に入ってないよ」
 痛いところをつかれて、俺は苦笑い。悩みを有沙に話すのは何だか恥ずかしいから、つい遠回りをしてしまった。
「有沙姉ちゃん。俺、医者になろうかなって思うんだけど。今さらだよな」
 意を決し言うと、有沙は無言で顔を固まらせた。真面目な顔をして俺は有沙を見つめ続ける。
「は? 待って、どういう心境の変化なのそれは」
「予想通りの反応をありがとう。今まで散々、反発してきたからな。自分でもびっくりするよ。梓が俺のために医者になろうとしていたことと、無理をして体調を崩したことが主な理由なんだけどな」
 俺は正直に言った。俺のために熱を出した梓を見て、俺は助けてやりたいと強く思った。もし自分が医者だったら、もっと早く体調の変化にも気付いてやれたかもしれないと思った。
「確かに今さらだけど。でも、いいんじゃないかな。なりたいって思ったんならなれば。まだ間に合うと思うよ。私なんて大学行くまで自分が何の職に就くかまったく決めてなかったんだよ。それが今じゃデザイン関係の仕事してるんだよ。そう思うと高校生で将来のこと考えられるなんて凄いよ」
 有沙はそう言って軽く拍手をしてくれる。
「今までこんなに強く、何かになりたいって思ったことはなかった。親父の言うとおりにするのは癪だけど、俺は俺なりに頑張りたい。だからやっぱり親父と話し合わないといけないよな」
「うん。おじさんとおばさん喜ぶと思うよ。梓も多分、応援してくれると思う」
 誰かのためなら、きっと人は動けるのだろうなと思う。大切な人のためならなおさら。これから死ぬほど勉強しなければいけないのは億劫だけれど、俺は頑張れそうな気がしていた。
「有沙姉ちゃん。ありがとう」
 明日も仕事だからとベッドで眠る有沙に向かって、俺は言う。それから床に敷いてくれた布団に入り電気を消す。
「頑張れ。ヒロ」
 眠りに入る間際、有沙がそう言ってくれたような気がした。 (完)