短編小説「公園」

 大手部品メーカーに入社して十年目の春、瀬川雪夫は転勤を命ぜられ、K市の郊外にある独身寮へ移った。外壁にひび割れが目立つコンクリートの三階建てで、部屋は二階の中ほどだった。前の寮とほとんど変わらない造りで、部屋に入っても気持ちが高揚したり、沈むようなことはなかった。ただ部屋の入口のちょうど前に、非常階段のあることが不満といえば不満だった。上の階から下の階まで続いていて、二階部分で折り返すための踊り場があった。用もないのにここを住人たちに日常的に通られたら、何となく鬱陶しさが溜まっていくようで気持ちはよくなかった。だが十日ほど経つと、それはいらぬ心配であることを知った。
 扉を押しあけると塀の外は小さな公園になっていた。低い樹木が西側に数本と、生垣に囲まれるこぢんまりとした長方形の一画は、箱庭そのままを思わせた。色あせた遊具はさらされた時の長さを感じさせる。雪夫は休日になると、この北側に備わっている非常階段の踊り場に出て、まばらな子供たちの戯れを眺めるようになっていた。
 仕事は扱う部品が異なるだけで製造、検品されたものを梱包出荷する作業であった。ただ以前のように残業はなく、定時に工場の門を出る日が続き、時間をもてあまし気味になる。夕食を工場内の食堂で済ませ、寮に帰るとまだ夕暮れの気配は感じられなかった。
 二週間ほどで仕事には慣れたが、人間関係をどうやって簡素にしていくかを考えていた。仕事上の会話はやむを得ないが、私語はほどほどにしなければならない。むやみに自分を開け晒すと、いつか誰かとつるんで動かなければならなくなる。トラブルになったり、まきこまれたり、赤の他人に付け込まれることになったりしたらとんでもないことだ。ろくな事にならない。
 そういえばと、雪夫は洋服掛けの横に置きっ放しのギターケースに目をやった。ここへきてからまだ一度もふれていない。留め金具を外してふたを開けると、弦が何かを呟いたような気がした。そうだ、ギターがあったのだ。時間はいくらでもある。少し弾いてみようと、雪夫はネックをわしづかみにした。誰にも習わず、誰にも聞かれたくなく、ただギターに歌わせ、ひとり満足の世界に浸っていたい雪夫には格好な楽器だった。音合わせをするが思うように指が動かない。ゆっくりと丁寧に音をさぐり出す。かれこれ十分ほどすると、ようやく馴染んでほっとする。レパートリーがあるというほどの腕はなく、好きな曲のフレーズを何度も弾いて楽しむのが自分流だった。 
 ある日、雪夫は工場から帰ると、ふと非常階段の踊り場に出て、薄くなっていく西日の公園を眺めていたくなった。腰を下ろして、もう誰もいない公園の左端に目をやる。木枠の中の砂山に、何かを作った跡なのだろうか、木漏れ日を受けた明暗がある。中ほどに青い滑り台が、西日を受け流して傾斜の先を着地させている。右には赤茶けたブランコが、風でも吹いてくれよと待っている。合間のベンチは手持ちぶさたなのか、くすんだ黄色でいじけている。雪夫は見渡しているうちに、そうだここでギターを弾いたら遊具たちが喜んでくれるかもしれない。自分が楽しめれば遊具たちも楽しいはずだと部屋に戻った。片手でギターのネックをつかみ、もう片方でゴミ箱を引っさげた。踊り場でゴミ箱を裏返して腰を下ろす。そしてギターを抱え、指慣らしをする。さあ、まずはあの砂場には何を弾いてやろうかと思案する。思案するほどの曲はないのに、一人芝居を密かに楽しむ。初めてのことだからと、雪夫は一番好きな“禁じられた遊び”をと構えた。気持ちを込めて一弦七フレットに小指を乗せる。おもむろに立ち上げると、思ったよりも音が宙に飛んで行く。夕日に誘われ空に舞い、なめらかに旋回して砂場の小山に舞い降りる。自分の満足は砂場の満足と、余韻にひたる。風はそよともせず、遠くで車の音がかすかに聞こえる。静かだと雪夫は思った。青い滑り台には“月光”、赤茶けたブランコには“ラグリマ”を弾いた。満足すると雪夫はギターを扉に立て掛けた。ここは、この場所はいい。誰もいない、誰にも聞こえない。ここさえあれば何も要らないような気分にさせた。
 月末の水曜日。仕事を終えて作業実績の報告に事務室へ行くと、現場主任の佐々木さんが、「瀬川くんどうだ、もう慣れたんじゃないか」と実績表を見ながら柔らかな口ぶりで言った。雪夫は迷うことなく「はい」とだけ答えた。「そうか、それじゃあ急で何だが、この金曜日に遅くなってしまったが、君の歓迎会をやりたいんだ。都合はつくかね」と、四角い顔の眉を上げて言った。
 雪夫は返事に詰まった。今になって歓迎会と言われてもなにか釈然としない。仕事はほとんど問題なく消化しているし、関係部署にも顔を覚えてもらったはずだ。作業をこなしている同僚たちとも、最低限の意思疎通はできている。だがそんなことが断る理由にはならない。
「何か予定でもあるのかい」
 四角い顔が言葉じりを下げた。
「あ、いえ別に予定は」
 雪夫はあわてて答えた。
「ああそうかそれはよかった。それじゃあ詳細は松本君に聞いてくれよな」
 雪夫は、ひと言「分かりました」と頭をさげて事務室から出た。この職場には確か自分を入れて十二人いる。雪夫はロッカーに向かいながら、一人ひとりの顔を思い浮かべた。よほどでなければ自分から言葉を発しない雪夫は、それでも言葉をかけられればそつなくかえしている。相手がどう思っているかは知る必要もない。だが、歓迎会とくればどうしたって酒が出る。飲んだ勢いでからまれはしないかと不安になる。あの顔は、あんな顔になってこんなことを言うのかも、あの顔は、あの顔の通りで、ああいうことを愚痴るのだろうか。あの顔は…。
 社員食堂で夕食を取っていると、「ここいいですか」と、同じテーブルにトレイを置いた女性の声がした。見上げると前には、職場の事務室にいる多村という目のはっきりとした年上らしい女性だった。空いているテーブルはいくらでもあるのに、どうしてここに座るのかと、雪夫は訝しさより腹立たしかった。早く食事を終えて逃げる場面だと、まずご飯をかきこんでチキンカツをほお張る。
「ねえ、瀬川さんってさあ、歓迎会にくるよねえ。そりゃあ瀬川さんがこなかったらおかしいし、わたし絶対行くわよ」
 立ったままでいきなり口走ると、椅子を引き出して腰を下ろした。
「え? 知ってるんですか」
 雪夫は唖然とした。笑うところを見たこともない顔がいきなりこれだ。顔を向けずにとぼける。
「わたしってあんまり瀬川さんと喋ってないし、今度の歓迎会では絶対喋るよ。だから今から楽しみなのよねえ」
 箸を持ったままで身を乗り出す。
 雪夫は返事ができないように口の中へ食事を詰め込んだが、過ぎて目に涙を溜めてしまう。
「ねえ、いくらお腹が空いているからって、そんなに急いで食べなくてもいいじゃないのよ」
 見苦しい姿になっているのは間違いなく、うつむきながら食べたものを少しずつ喉に通してお茶を含む。
「それにしてもあれよねえ、やるのがちょっとおそいよねえ、どう思う?絶対遅いよねえ」
 そう言われても雪夫は返事のしようがない。遅いといえば確かにそうだが、主任とすればそれなりの考えがあってのことだろう。
「あのさあ、瀬川さんってもうすぐ一か月になるよねえ。それでさあ歓迎会の場所って知ってる?」
 今日、それも帰りがけに知らされただけなのに、何時、何処でが分かるもんか。
「いや、詳しいことは松本さんから聞くことになっているから大丈夫です」
 雪夫は箸を盛んに進めて、なんとか食事を終えると、椅子から腰を上げた。
「あれ、なによそんなあ。せっかくここへきていろいろ聞きたかったのにさあ。もう少しお話をさせてよ」
 いかにも不満そうに口をとがらせた。
 雪夫にそのつもりはなく、
「今日、ちょっと急いでいるんで。じゃあお先に失礼します」
 軽く頭を下げると、食器を載せたトレイを片手に、足早で返却口へ向かった。
 あの多村さんが、いきなりあんな調子だから当日が思いやられる。雪夫は工場門を出ると、今日の職場の面々を思い浮かべてみた。明日はそれとなく言葉をかけてくる人がいるだろう。だが長話だけは避けなければと胸に言い聞かせる。
 寮の門を入り、玄関でスリッパに履き替え、すぐの階段を上がる。薄暗く長い廊下の中ほどにある部屋に入ると、雪夫はまずテレビをつける。腕枕で今日のことを思い出してみる。多村さんは例外として、その他の人たちは歓迎会のことなど我関せずの顔つきだった。何らかの素振りがあってもよさそうなものだが気配もなかった。主任が詳細は聞いてくれと言っていた松本さんでさえ、なんの変化も見せなかった。この職場に入って間もない雪夫は、いつか袋小路に追い込まれるのではと、うす気味悪さを覚えた。それでも明日はどうしたって松本さんに何時、何処でを聞かなければならない。こちらから向かうべきか、あちらからくるのを待つべきか。
 翌日、始業ミーティングの中で、主任の佐々木さんが相変わらず作業ミスが減らないと言葉を強くした。この言葉を雪夫が聞くのは初めてだった。あるいは自分のことを指しているのかもしれないと心配になる。誰の事を指しているのか、当事者もそれ以外の人も、他人事のような顔をしている。ミーティングが終わると各人が作業場へ散って行く。雪夫は自分のミスでないことに自信はあったが、一抹の不安はぬぐえなかった。呼吸を整え持ち場へ向かおうとしたその時、後ろからそっと肩を掛けてきた者がいた。ギョッとして振りむくと松本さんだった。緊張して言葉を待つと、
「明日、分かってるな。六時、『みのり屋』だ」
 特別表情を変えることなく、はっきり言うと足早に先を行った。
 雪夫はほっとした。もしも聞き取れなかったら、すぐに聞き返すことができただろうか。おそらくできない。大変な事になるところだった。胸をなで下ろした雪夫は持ち場へと急いだ。

 今日も無事に仕事を終え、ロッカーに向かいながら夕食をどうしようかと迷う。また多村さんに相席でもされたらたまらない。別に好き嫌いがあってのことではないが、あれこれと早口で詮索されるのがたまらなく苦痛になる。雪夫は考えたあげく食堂にはよらず、明日の歓迎会の場所を確かめに行こうと決めた。その店の見当はおよそついていた。工場から出て二百メートルほど先の交差点を中心に、左右の道路を見て行けば必ずあるはずなのだ。そう思いながら着替えを済ませると、わき目も振らずに工場門を出る。この町へきてから雰囲気を確かめに何度か歩いている町内で、数軒の飲食店がある通りだ。雪夫は交差点を右に折れた。らしき店がすぐ目に入る。何のことはないと、『みのり屋』の看板を確かめ、今度は同じ並びで食事どころを探す。丼もののメニューがある店に入った。社員食堂とは違う味付けと、ボリュームをゆっくりと楽しみ店を出る。まずはひと安心と、雪夫は交差点の先にあるプレイランドを横目にして、足を寮のある方に向けた。まだ工場から出てくる人たちがいる。すれ違う人に誰がいようがいまいが関知せず、雪夫は目線を先に置いて足を速めた。
 寮に帰ると夕暮れがきていた。部屋に入ると、やはり明日の歓迎会のことで頭の中がいっぱいになる。自分が主役になるってことは、どう振る舞えばいいのだろう。放り出された送別会とはわけが違う。どう考えても明確なイメージが湧かない。このひと月近くで、個人的に誰彼と親しくなったわけでもなく、ただ作業言葉のやりとりで顔色を作ってきただけだ。考えるほどに胸が苦しくなる。自分から動いて、相手の反応をうかがうなんて器用なことはできない。かえって気まずさが残るだけだ。そう思うと雪夫は、なりゆきに任せるしかあるまいと、大きくため息をついた。
 翌日は始業から他人の動きや、目線が気なって仕方がなかった。こんなことで作業ミスでもしたらいい訳もできない。必要にせまられやむなく事務室に足を運ぶと、多村さんが一瞥しただけでパソコン画面に目を戻した。
「すみません、この製品のバーコードを確認したいんですが」
 雪夫がメモ書きを差し出すと、多村さんは無表情でパソコン越しに受取り、一覧表のファイルを棚から取り出した。付箋を人差し指でなぞりながら該当のページを広げ、メモとつき合わせる。
「はい、これは量産品ですから変わりませんよ。それ位もう覚えてくださいね」
 多村さんは、面倒臭そうにメモを雪夫に突き返した。
 雪夫は何か悪い事でもしたかのように、背を丸めて事務室のドアを押した。
 昼食はいつもより遅く行った。職場の同僚たちとは離れたテーブルで隠れるようにすませる。食堂から出ると雪夫は労務管理棟の横に、鯉を泳がせている丸い池に足を運ぶ。誰もいないベンチに腰を下ろすと、鮮やかな化粧をして鰭を振る鯉に目線を投げた。
 終業のベルがけたたましく鳴る。雪夫はおもわず直立した。終礼がすむと忘れ物を装い作業場へ戻る。(焦るな、早まるな)みんなの姿が見えなくなってからロッカー室へ向かうことにしていた。集合場所は知っている。雪夫は時を見計らうとゆっくり作業場から出た。
 定刻に『みのり屋』入ると、もうみんなが揃っていたように見えた。誰がいて、誰がいまいが気にもかけなかった。空いている席をと、目をうろうろさせていると、世話人の松本さんが手を上げて指さした。角テーブルを寄せた席の真ん中寄りで、主任の佐々木さんが手まねきをする。雪夫は右から回り込んで会釈をし、席に着いた。それと同時に松本さんが立ちあがり、「それでは始めるとします」と言って雪夫に、挨拶をすることを求めた。雪夫はあわてた。挨拶のことは聞いていないし、考えてもいない。ましてや喋ることは苦手ときている。目を見開いたまま呆然としていると、主任の佐々木さんが、「簡単でいいよ、名前とこれからよろしく程度で」と身を寄せて言ってくれる。
「今月、転勤してきた瀬川雪夫です。これからもよろしくお願いします」
 雪夫は立ち上がるなり、みんなに聞こえるように挨拶をした。ぺこりと頭を下げて腰を下ろすと、佐々木さんにも頭を下げた。すぐに女店員がオーダーを聞きに入る。まず乾杯に瓶ビールを六本と、それぞれにメニューから好きな物を選んだ。乾杯をすると腹が減っていると見え、みんなが黙々と食べ、コップを傾ける。腹が落ち着いたのか、ようやく会話が聞こえるようになる。雪夫は佐々木さんの隣で会話に聞き耳を立てるが、内容が聞こえるほどの声はない。表情の乏しい隣同士のひそひそ話や、携帯を開いて指と目を動かしている者。そもそも他人の話や行動に興味を持たない雪夫は、このまま時間が過ぎてお開きになればと思っていた矢先に、座っていた多村さんが後ろに寄ってきた。
「はいどうぞお、今日はお疲れさん。よろしくねえ」
 手にはビール瓶とコップを持っている。
 雪夫は戸惑った。あまり飲むまいと決めていた雪夫は断りたかったが、今日はそうもいかなく、多村さんが手にしているコップを貰おうとすると、
「これはわたしのよお、あんたのコップを出しなさいよ空にしてからさあ」
 と、丸い眼を光らせる。
 これはえらいことになったと雪夫は目をしばたかせた。
「一杯だけにしてくださいね」
 雪夫はすがるように多村さんの目を覗いた。
「あああ、飲めるじゃん瀬川さん、いけるいける」
 多村さんが手を叩いて喜ぶと、みんなの目が雪夫に集中した。驚いたような顔、うすら笑いをする顔、呆れた顔をする者。多村さんと雪夫を、交互に見て何か呟く者。注目されているとも知らず、雪夫は多村さんの握っているコップになみなみとビールを注いだ。
「あああ、そんなにもう瀬川さんったら」
 そう言いながら多村さんは、コップに唇をつけると喉を鳴らしながら飲み干した。
 雪夫は呆気にとられて多村さんを見つめた。
 これはまずい、と席を立つ雪夫に多村さんは、
「なによお、逃げないでよお」と、後を追おうとする。
「トイレ、トイレ」
 ここは時間を稼ぐ必要がある。雪夫は一度店を出た。町のネオンが星空を暗くしている。このまま帰ってしまおうかとふと思う。しかしそんな勇気が雪夫にはない。あの多村さんは誰かをつかまえ、ひとりはしゃいで飲み比べでもやっているのではとないかと、そろりと戻る。
「あれえ、ながかったのねえ、まってたのよお」
 顔を見つけた多村さんは、席を立って雪夫の横に座った。
「ちょっと無理です。本当にあまり飲めないんですよ。勘弁して下さい。お願いです多村さん」
 雪夫は手を合わせ、機嫌を損なわせないようにのどを絞った。
「ああしょうがない人ねえ。ま、いいか。じゃあまたあとでね」
 多村さんはふっくらした顔を、雪夫の顔に近づけて含み笑いをした。
 多村さんの独宴会になってしまった歓迎会は、一時間ほどでお開きになった。宴会を一時抜け出したこともあって、非難めいた言葉や態度があると思っていたが、何の反応もなかったことに、雪夫は安堵とは別に、存在感の無さを覚えた。
 交差点までくると、それぞれが思い思いの方向へ帰って行く。雪夫は前を歩いて行く人影を意識して距離を置いた。左に折れると、街路灯のあかりが夜の帳を照らしている。一歩一歩確かめるように足を運んでいると、追い越そうとする人の気配を感じた。足音が側に並んだ瞬間、左の腕を絡め取られた。多村さんだった。
「ねえ、だいじょうぶなのお、わたし心配だったのよお。送って行くからねえ。寮なんでしょう」
 まさかと、雪夫は多村さんの顔を覗く。あの飲みっぷりでどうやって帰るのか、あるいは誰かが送って行くのだろうかと気には掛けていたが、あとから追いついてくるとは思いだにしなかった。
「うん、おれ全然大丈夫ですから、ひとりで帰れます。多村さん、気持ちはありがたいけど、そこまでしてもらわなくてもいいですよ。ありがとう」
 雪夫の正直なところだった。
「いいのよお、わたしの帰るところもさあ、そっちのほうなのよねえ。だからあ、いっしょに帰ることにすればいいじゃん」
 言っていることがまともなのか、酔いまかせの出鱈目なのか分からない。しかしこんな所で押し問答をしていても、みっともないだけだ。
「ああ、そうなんだ。じゃあそうしましょうか」
 雪夫はやむを得ないと、快さを見せた。
「瀬川さんはあんまり飲めないのねえ、わたしい、がっかりしたわあ。今日は張り切って瀬川さんと飲んで、いっぱいしゃべりたかったのにさあ、ねえ本当は飲めるんでしょう。顔にそう書いてあるものお」
 多村さんは組んでいる腕を痛いほどに引っ張った。
「いやあ、好きじゃないんですよ」
 雪夫は言葉短かに答えた。
「ああそうなのお、じゃあ飲めば飲めるんだあ」
 勝手に解釈される。
 転勤の理由は協調性のなさと、酒での失敗の積み重ねだと思っている雪夫は、本当のことを言えるわけがない。これを機に気持ちを入れ替えて、まずは仕事に慣れ、そして人にも少しだけ慣れ、お金を貯めて独身寮を卒業することだ。
 多村さんの攻勢をしのいでいるうちに寮の前まできた。やれやれと門に入ろうとするが、多村さんは腕を放そうとしない。
「多村さんありがとう。もう着いたからね」
 雪夫は言い聞かせながら腕をほどこうとした。しかし多村さんは放すどころか強く引いて、
「ねええ、ここを一周しようよお、それから先はまた考えようよ、ねえ」
 と、駄々をこねる。
 雪夫は突き放すことだけは避けようと、
「あのさ、じゃあここを一周して今日はさよならしましょう。おれも多村さんもつかれてるんですから」
 これで納得してもらおうと力をこめた。
「やああ、うれしいわあ。さあ一周一周」
 腕を引かれて雪夫はこの先を案じた。
 多村さんは、何かの歌をハミングしながら、時折スキップをしてみせる。寮の裏側になる公園に差し掛かると、防犯灯のあかりが遊具たちを淋しく見せている。そういえばこのところギターを弾いていない。今日の歓迎会のことが、たえず頭の中を駆け巡っていて、それどころでなかった。多村さんのハミングは何かの歌なのか、それとも即興なのか知りようもない。
「あらあ、かわいい公園があるのねえ、ほらあ、あのペンチがさあ、わたしたちを待ってるみたい。ねえ少しやすもうよお。わたしい、つかれちゃったしい」
 この先が読めなくなった雪夫は、もう成り行きにまかせるしかなかった。薄汚れたベンチに腕を組んだまま二人で腰を下ろす。多村さんの問いかけに答えながら、あかりの中にいる遊具たちに目をやる。
(もし、今この二人があの砂場で山を作ってトンネルでも掘ったら、無邪気な笑顔になるだろう。あの青黒い滑り台で、どちらが先に滑って降りて振り返るだろう。赤茶けたブランコでは足を踏ん張り、限りない遠くを見るだろう。あかりをにぶく反射する木々の葉と生垣、そしてあせた原色の遊具たち。“グリーンスリーブス”がそこを舞い、旋回する)
「ねえ、瀬川さん何を考えてるのお」
 雪夫は我に返った。
「うん、今日のこと」
 出まかせだった。
「瀬川さんってさあ、年はいくつなの」
 急に話の質が変わった。
「ああ、多村さんといっしょだよ」
 これ以上話を進めるとヤバイことになる。
「多村さん寒くなったよ。歩こうよ」
 雪夫は立ち上がった。多村さんの腕を引っ張り上げる。
 雪夫は話がまずい方向へ進まないように、今日はあの人が酔っていたとか、多村さんにお酌をしてもらいたい人が手まねきをしていたとかを、適当に話して反応を聞き歩いた。
「さあ、約束の一周ですよ。楽しかったね多村さん。機会があったらまたね。じゃあ」
 雪夫はしぶしぶ腕を放す多村さんから、さりげなく距離を取って、小さく手を振った。

 月曜日。普段通りに出社して普段通りに仕事をこなした。多村さんとはよほどの疑問やトラブルがないかぎり顔を合わすことがない。事務室へは終業時に出来高表を提出するだけだった。あの多村さんは仕事に対しては厳しく冷たささえ感じたが、歓迎会のことを知るやいなや、食堂でいきなり一方的に突っ込んできた。まるでずっと前からの知り合いのように。はたしてあんな多村さんは金曜の夜のことをどう考えているのだろうか。案外、あれは冗談、冗談とケロリとしているのかもしれない。とりこし苦労であればよいのだがと、雪夫は強く願った。仕事が終わり出来高を事務室へドキドキしながら届けに入ると、多村さんがパソコンから目を離して顔をあげ、片目をつむって照れ笑いをした。
 部屋に帰ってひと休みすると、雪夫はギターとゴミ箱を持って非常口を開けた。まだ明るい公園に誰もいない。ゴミ箱に腰を下ろして金曜の夜のことを思う。あの黄色いベンチに多村さんと腕を組んで腰を下ろしていた。ここから見れば間違いなく恋人同士だ。薄いあかりの下での語らいがあれば、なんとロマンチックな光景だろう。雪夫はギターを抱えると“夜霧のしのび逢い”を弾いた。(砂場よ滑り台よブランコよ、今この公園は二人のものだ。優しい眼差しで祝福しておくれ)こんな言葉が出てきそうになってしまう。
 それからは毎日、非常階段の踊り場でギターを弾いた。公園のあせた色どりの遊具たちを、眺めて弾くギターに飽きはこなかった。砂場に滑り台に、ブランコにベンチ。そこに加わったあの日の二人。それらを見守る樹木たちに生垣。同じ曲を何度も弾いた。誰もいない、誰にも聞かれないことが、こんなにも愉快なものかと、雪夫はひとり酔いしれた。
 土曜の夕暮れ、雪夫は食事を外で済ませてきた。非常口を開けると、はずんでいる子供たちの姿はない。まだなごり惜しそうな遊具たち。日が薄れ、静寂が忍び寄り孤独を誘い出すと、雪夫はギターを抱えた。“主よ人の望みの喜びよ”を弾く。流れる旋律が箱庭公園を周回する。遊具たちが合唱を始める。砂場はバリトン、滑り台はテノール、ブランコはメゾソプラノ。雪夫が夢心地で繰り返していると左目の隅に動くものが映った。二人の幻影か? いや違う。親子連れだ。この時間に一体…不可解よりも雪夫は不快になった。親子と思われる連れは、あの黄色いベンチに腰を下ろした。まだ幼い子供を母親がなだめているように見える。突然、幼児が悲鳴に近い泣き声を上げた。雪夫が反動的に不協和音を叩きつけると、ピタリと泣きやみ二人の驚きが返ってくる。雪夫は動けなかった。いや動かなかった。驚きの目線が怖かった。防犯灯がともり出す。母親は機嫌の戻った幼児の手を握って立ちあがる。雪夫は幼子連れの後姿を、いまいましく見送った。
 朝のミーティングが済むと、作業場に向かいかけた雪夫を、主任の佐々木さんが呼び止めた。
「今日、仕事が終わったら少し時間をくれんか。すぐ済むから」
 一歩前に出て眉を上げた。
「あ、はいわかりました」
 何かひどいミスでも犯したのだろうかと、雪夫は不安になる。すぐに済むのならこの場でもよさそうなものを、仕事が終わってからとは何事か。作業場の変更でも告げられるのだろうか。でなければ、まさか今になって多村さんとのことでもないだろう。だとすれば私生活か。ここへきてからは、人様に後ろ指を指されるような覚えはない。考えれば考えるほど仕事のさばきが悪くなる。
 一日の仕事が終わり作業場から離れる。重い足取りで事務室に向かう。扉を引いて中に入ると、思った通りに多村さんが顔を上げる。出来高表を主任の佐々木さんに渡してそのままで待つ。手早くパソコンにインプットすると、腰を上げて右の続き部屋を指す。狭い資料保管室のカビ臭さの中で、佐々木さんはひそひそと話した。雪夫は耳をしっかりと傾けて聞き逃しのないように集中した。
「ここだけの話だ。いいな」と念を押した。雪夫は深くうなずいた。
ー自分がこの部署にいるのは六月十五日までだ。それで自分の後釜にお前が入ることは、転勤してくる前から決まっている。だからそのつもりでこれからの仕事をやってくれ。ひと月以上、無難にこなしてはいるけど、それだけで役職は務まらない。上流から下流までを、いつもどんな状態になっているのか、頭の中に入っていなければならない。それと人間関係。これは仕事以上に厄介だ。もう気がついてはいるだろうが、自分勝手の個人主義がまかり通っている。おとしめたり、られたり、責任転嫁は当たり前の職場だ。この先のことはお前が考えてやることだからああせい、こうせいとはとは言わん。それと多村だ。ここにはたったひとりの女だ。多村あずみ三十歳、独身。分かってるな。あとは仕事の引き継ぎだけだ。たのむぞー佐々木さんはとつとつと話して、聞きたいことはないかと言った。聞きたいこともなにも、青天のへきれきで、どんどん頭に血が上っていく。不思議そうな顔の多村さんを横目に、雪夫は事務室を出た。

 のんびり夕食どころではなかった。とにかく寮へ帰って気持ちを静めなければならない。ロッカー室で急いで着替え、急いで歩いた。部屋に帰ると雪夫は仰向けになって一点を見つめた。いったいこのおれに何が起きたんだ。いや正確には起きていたんだ。おれが知らなかっただけだ。どうする、これからとんでもない荷物を背負うことになる。おれにはできない。まだ日にちはある。断るか。断れば今のままでいられるわけがない。また転勤か。いや転勤はもうごめんだ。せっかく手に入れた非常階段の踊り場を失いたくはない。雪夫は頭を抱えた。職場の人間が次々と頭に浮かぶ。男が十一人、そして多村さんだ。多村さんはおれより年上だ。おとしめたり、られたり、責任のがれ転嫁は当たり前。これってどうする。どうするって言ってもどうしようもない。今までこんなふうにやってきても、毎日の仕事は大きな損失もなく終わっているじゃないか。そうだよ、今まで通りでいいじゃないか。身に降りかかる火の粉は、うちわで他の部署へ扇ぎ飛ばせばそれでいい。なにもじたばたすることはない。雪夫は長い時間を悶々として、考えを固めると急に腹が減ってきた。
 翌朝のミーティングで、雪夫は連絡事項を聞きながら作業者の顔色をうかがっていた。聞いているふりだけの顔、顔、顔。うつむいたままの顔、瞳の焦点が定まらない顔、生あくびをする顔、こんな作業者の集まりでも一日の仕事は何とか消化できるのだ。何人かは年上だろう。そんなことは、みんながもともと関心はないのだ。適当でもいい職場は、適当にやっていればそれでいいと雪夫は確信した。
 一日の仕事が終わり寮に帰る。適当でいいと思ったものの、やはり作業者の動きは気になった。いつもとは疲れ方が違う。これが重圧というものだろうか。そのうちにこれも慣れるだろうと言い聞かせる。
 気持ちを休めるためにギターを持って非常口から出る。ゴミ箱を裏返して腰を下ろす。緑の箱庭はいつもと変わらぬ雰囲気で迎えてくれる。と、ベンチに人の姿があった。雪夫は目をこらした。親子連れらしい二人は、おそらくあの土曜日の親子ではないか。地味な服装もよく似ている。眺めていると遊具で遊ぶでもなく、ただベンチに座っていて、時折、言葉を交わしているだけだ。雪夫は困った。また突然、悲鳴のような泣き声をあげられたらたまらない。ただベンチから立ち去るのを待つしかない。だがいつまでたってもその気配がない。それよりも、時々こちらに目線を向けているような気がしてならない。雪夫はギターを弾くのをやめた。部屋に戻ると、これは弱ったことになったと、ため息と舌打ちをくりかえした。
 翌日の仕事で初めて作業ミスをしてしまった。下流の作業者の指摘が事務室に届いていた。主任から小言をもらっているのを、多村さんが笑いをこらえるように口を片手でふさいでいる。雪夫は黙って頭を下げるだけだった。仕事場に戻って考えると、どうしても納得がいかない。毎日こなしている作業なのに、信じられない間違いが起きた。考え事でもしていたのだろうか。しかしあの場面を多村さんに見られたのはくやしい。いつかそのことで近寄ってこられたらどうしようか、どう言い訳をしようかと思いながら仕事の手を速める。
 ロッカーで着替えをしていると、ふとあの親子連れが浮かんだ。まさか今日もくるんじゃないか、いやもうきているんじゃないかと急いで職場を出た。どうしてこんなに急いでいるんだと、自分に問いかけても答えが出ない、見つからない。
 そっと非常階段のドアを開けて目を凝らす。きている。雪夫は静かにドアを閉めると部屋に戻った。脱力感が雪夫をおおう。叫びたいのをこらえて歯ぎしりする。これからどうしたらいいんだ。この場所を占領された絶望感がきりきりと身体を締め付ける。雪夫は寝転がると放心状態になる。これは自分の意志ではどうにもならない。いい機会だ、会社を辞めるかと考える。だが待てよ、まだたった二日のできごとだ。慌てるな、しばらく我慢をして様子を見よう。突然現れたものは、突然いなくなってもおかしくない。明日からは姿がないかもしれないし、明後日かもしれない。雪夫はこの週末までそうすることに決めた。
 またもや作業にミスがあった。こんなバカなと、事務室へ状況確認に行く。まったく同じ間違いをしている。納得がいかず首をかしげていると、多村さんは含み笑いをして小首をかしげた。これは直接下流の作業者に聞いてみる必要があると、ドアを勢いよく開けて作業場へ急ぐ。しかし、そこで雪夫の気持にブレーキがかかった。早まるな、年上と思われる松本作業者だ。もう一度だ、もう一度だけ様子をみよう。疑うのは勝手だが、それがはっきりとした自分の間違いであったら、リスクが大きすぎる。

 今日もきている。雪夫は非常階段の扉を閉めた。あと一日だ。もし明日もくれば考えよう。目がうつろになる。多分、期待はできないだろう。あの親子にとって公園は日常のひとつになったとみえる。であれば、あの親子も箱庭の一部分と見てやることが正しいのかも知れない。雪夫は頑な心を少し開いてみた。そしたらあの親子のためにひとつ曲を弾くことにしたらどうか。そうすればこの気の重さも軽くなり、いつか楽しさに変わっていくかもしれない。この箱庭の中にどんな幸せが生まれるのか、試してみるのもいいではないか。雪夫は真剣に考えてみる。何にしようか。頭に浮かんだのは、“シチリアーナ”だった。さっそくギターを抱えて練習を始める。気持ちをこめてゆっくりと立ち上げる。メロディを強調してやわらかく弾く。これでいい、雪夫は弾き終えると、思ったより上手にできたことで気持ちが高ぶった。まだいるだろうか。非常口の扉をそっと開くと、薄くなった日ざしを受けて二人は並んでそのままだ。雪夫ははやる気持ちを抑えて部屋に戻る。左手でギター、右手でゴミ箱を持って踊り場に出る。そのまま、そのままずっと動かないでおくれと、願いながらゴミ箱を裏返す。ギターを抱えネックを握る。さあ、箱庭の中の造形になった親子に歓迎の歌を届けよう。雪夫はたったいま練習したばかりの“シチリアーナを、指をしならせ立ち上げる。メロディが羽ばたいて西の空から旋回する。ベンチの親子を巻くように、優しく包んで舞い上がる。雪夫は夕暮れ時の情景に酔いしれた。弾き終えて造形になった親子に目線を移すと、願った通りそのままだった。箱庭はおれのものだ。雪夫はこの先も、ずっとおれのものだと確信した。
 休日に雪夫が外で昼食をすませて帰ると、部屋のインターホンが鳴った。ドキリとして受話器を取る。初めてのことで、何事かと身体がこわばる。用務員の声のようで、面会人がいるとのことだった。いったい誰だろう。まったく心当たりがなく首をかしげる。ひょっとして、まさかあの多村さんではないかと顔が浮かんだ。今になって留守ですとはいかない。何の用か見当もつかないが、仕事のことではないだろう。おそるおそる管理室へ向かう。「瀬川ですが」、と管理室の用務員に顔を出す。
「ああ、瀬川さんだね。面会室、ほら玄関の横」
 小柄な用務員は、扉から上半身を出して指さした。
 雪夫は、誰ですかと聞くことさえ忘れていた。
(多村だ、わかってるな)あの時の佐々木さんの言葉がよみがえる。
 縦長すりガラスのドアの前に立ち、呼吸を整える。ぎこちないノックをして、返事を待たずにそっと開ける。テーブルを挟んで、右のソファにいた飾り気のない女性が、中腰になって顔を上げた。見覚えはない。と、その右隣りに小さな人影が動いた。子供づれだった。
「瀬川君わかるよね、わたし」
 返事のしようがなかった。
「春子よ、春子」
「ええぇ、あぁ!」
 雪夫は目をむいた。
「何、どうしたの、いきなりこんな所へきて」
 頭の中が真っ白になる。何をどう考えればいいのか見当もつかない。
「近くに住んでるのよ」
 本当に春子さんかと思うほどの変わりように驚いた。
「ギターを弾いていたでしょ、外の階段で」
 ああ、そういえば…そういうことだったのかと、雪夫は納得しながら、まじまじと春子さんの顔を見つめた。
「先週、久し振りにあの公園へ行ってベンチに腰を掛けていたら、ギターの音がしていたのよ」
 ベンチの幼児が大声で泣き出したあの日だ。
「あの時ね、佑香を連れて公園を出てから思ったの。ギターってすごい音が出るんだと」
 その日はそれだけで、ギター弾きはおれだと思っていなかったことになる。雪夫はその先を知りたかった。
「それでなんとなく思い出したのよ。ギターロマンの瀬川君をさ。まさかねえ、独身寮にいるなんてびっくり仰天よ。いつ転勤したのよ」
「うん、先月。放り出されてこんなもんさ」
 なんとなくはいいが、あの踊り場でギターを鳴らしたのは、このおれだということが判ってここにきたのだろうか。今一つ腑に落ちない。
「ここの寮に昔、旦那がいたのよ。それはどうでもいいんだけど、瀬川君がいるわけがないと思いつつも、なつかしくなって、もしかのもしやでたずねたわけよ」
 雪夫は思わず声を上げた。
「ということはこの工場の男と結婚したんだ」
「うん、友だちの結婚式に行って、その時に知り合ったのよ。でももう別れちゃった」
「何だって」
 雪夫は耳を疑った。こんな幼い子がいるというのにと、雪夫は驚きをかくせなかった。のどが渇く。
「子供の前でそんなことを言わなくたって…佑香ちゃんだっけ、ジュースでも飲もうか」
 母親の横で硬い表情のままだ。
「佑香ちゃん飲む?」
 春子さんは顔を覗き込む。
 こっくりとして見上げる。
 雪夫は面会室から出ると、管理室の前にある自販機に硬貨を入れた。
 テーブルに二本のペットボトルを載せて幼子を見ると三四歳か。伏し目がちの白い顔で、柔らかそうな髪を後ろで束ねている。
「ほんと、なつかしいね」
 春子さんは目じりを下げた。
 雪夫にそんな感慨は湧かなかった。転勤前の同じ工場にいたころ、もう六七年前のことだ。長い片思いが実り、有頂天になっていた。それが二か月足らずで一方的に別れを告げられ、奈落の底に突き落とされた絶望の日々。
「うん、そうだね」
 雪夫はペットボトルを口にする佑香ちゃんに、目をやりながら素っ気なく答える。
「迷惑だったかな、やっぱり」
 春子さんは声を落とした。
「いや、ぜんぜんそんなことはないよ。ほんと」
 雪夫は慌てた。
「じゃあまたお話にきていい?」
 春子さんは消え入るような声で言った。
「うん、ぜんぜんかまわないよ」
 言葉のやり取りはよどみがなく、断る真っ当な理由も気持もなかった。

 日曜日。雪夫はどこへ行く気にもなれなかった。あの春子さんと偶然とはいえ、あまりにもできすぎている。うがった見方をすると、工場の誰かが春子さんと交流があり、その中で転勤してきたおれの存在が知られることになったのではないか。そして寮の辺りを注意深く見ているうちに、公園で接点が生まれたのかもしれない。あるいは単に近所で見かけ、確信をもってここへ訪ねてきたのか。あるいは…。
 いずれにしたって現実はもう動かしようがない。考えてみれば、あれは同じ工場に配属され、職場は違っていたがおれの一目ぼれでずっと思い続けていた。色白の一重まぶたで中肉中背、ショートボブの柔らかそうな髪。見かけると胸を躍らせ、ひとり紅潮した。言葉をかける機会もなく、またかける勇気もなかった。すでに恋人がいても不思議ではない。それが吹っ切れたのは成人になった翌年だった。狂ったようにラブレターを何度も何度も書き直した。そして渡せる機会を待っていた。付き合っている人がいたってかまやしない。ことわられたらそれまでと腹をくくった。
 初めてのデートはまだ明るい夕方の喫茶店。緊張したままで時間は過ぎる。相向かって何を話せばと思案するだけで言葉が出ない。春子さんもうつむいたままで言葉がない。そうだと、雪夫はギターのことを話し始めた。春子さんに、この曲って知ってる? と反応を待つ。知らないと一言。じゃあ、あの曲は? と聞く。知らないと答える。じゃあこんな曲はとハミングする。さあと首をひねる。この他に話すことがなく、雪夫はぼそぼそと仕事の話をするしかなかった。日曜にボウリング場へ行くことを約束して、その日は別れた。その後は映画を観にいったり、動物園へ行ったりと、決して夜の公園や、遊技場へは近寄らなかった。そして最後になったデートの前日ー〈お付き合いやめましょう〉ーのメール。それで終わった。何がどうしてどうなったのか分からなかった。
 週明けは雨だった。仕事に出る足が重い。雪夫はミーティングが済むと呼び止められる。事務室に入ると佐々木さんは渋い顔をした。また同じ仕事のミスだった。これからのこともあるんだから、もっと集中してやれよと強い言葉をもらう。パソコン画面を見ている多村さんは聞こえない風を装っている。事務室を出ると雪夫の胸は熱くなった。やはり何かがある。このごろは仕事以上に、人間観察に気持ちを入れていたことはあるが、手を抜いていた覚えはない。この短期間で三度目だ。このままでは信用どころか居場所を失ってしまう。雪夫は心を決めた。仕事を終えるとロッカーでのろのろと着替えを済まし、誰もいなくなったのを確認すると、忘れものをしたかのように作業場へ戻った。下流の作業場の製品台帳を丹念に調べるとやはりあった。古い登録コードナンバーの一ページが最後にファイルされている。さあこれをどうするか雪夫は考えた。これを持ち出して明日のミーティングで公開するか、それとも直接、松本作業者に問いただすか。ここは覚悟のしどころだ。年上だからといって気遅れ遠慮はできない。しかし、すぐに思いは崩れ落ちた。ー知らない、使った覚えはないー松本作業者にそう言われればそれまでだ。現場を取り押さえるしか術がない。雪夫は立ちつくした。
 どうしたことか翌日からその週は、事務室へ呼ばれることがなかった。何かを察知されたのかもしれない。それでこの先も、不可解なことが起きなければよしとしょうと、雪夫の気持はおさまりつつあった。
 その後、仕事から帰って階段の踊り場でギターを抱えていても、なぜか気持ちが乗らなかった。それがどうしてなのか、雪夫には充分過ぎるほど分かっていた。

 土曜日。やはりインターホンが鳴った。午前の十時過ぎだ。いくらなんでも早い。まだ布団の中の雪夫はしぶしぶ起き上がった。黒いジャージの上下に着替え階段を下りる。
 面会室には先週と同じように、地味な服装の親子がソファに腰を下ろしていた。雪夫は、意識した明るい声をかけて、テーブルを挟んで座った。春子さんが何となく落ち着かない。
「ねえ、動物園へ行かない?」
 前のめりになって言う。
 雪夫は開いた口がふさがらなかった。ついこの間、奇跡的な接点ができたばかりだというのに、余りにも突飛でしかも強引だ。
「え! 動物園、遠いよ。電車で行くと乗り換えもあるし」
 雪夫はこらえきれず顔を曇らせた。それにしてもこの積極さはどうだ。以前の春子さんとはまるで違う。
「あのさ、車を借りたの」
 細い目をいっぱいに開けて雪夫を見つめる。
 これは逃げられないと雪夫は観念する。待ってるからと言われ、部屋でぐずぐずと着替えをする。運転は大丈夫なのだろうかと、ペーパードライバーの雪夫は心配になる。
 子供を後ろの座席に座らせ、春子さんは慣れた手つきでカーナビを検索している。助手席の雪夫はだまってシートベルトを肩から掛けた。
「さあ、しゅっぱーつ」
 春子さんの声は溌剌としていた。
 ハンドルさばきは、熟練ドライバーのようにそつがない。片道二車線の県道から、四車線の国道に入っても巧みに車を走らせ、幹線道路に乗り入れる。信号が多く長い区間を抜けると目的地に着く。一時間ほど費やして駐車場に車を停める。
「さあ着いたよ」
 後ろの座席に声をかけると、佑香ちゃんは目を閉じていた。ぐずるのも構わず、春子さんは両手で抱えおろす。
「わあ、久しぶりよね」
 春子さんの声がはずむ。
「ねえ、瀬川君とここへきたのはいつごろだったか覚えてる」
 雪夫ははっきりと覚えている。あれは紅葉にはまだ早い空の高い日だった。動物園へ行こうと言い出したのは自分だった。あまり話すこともできないデートを繰り返してきて、考えた末に思いついたのだった。ここへくればいろんな動物を見ながら広範囲を歩くことになる。そして何よりその動物の大きな動作や仕草を見て、同じように笑ったり驚いたりできるし、交わす言葉も自然と多くなる。二人で楽しい日を過ごすことがかなうはずだ。実際、あれほど充実した一日を二人で共有したのに、次の約束の前日にメールが一通ー〈お付き合いやめましょう〉
「うん、覚えているさ」
 雪夫はひと言が精いっぱいだった。
「ああ、あの何、恐竜だっけ。まだあるよ。ほら見て」
 子供の手を引く春子さんは、オーバーな動作で指をさす。
「ああ、ほんとだ」
 ばかでかいコンクリート製の恐竜像に目を向けるが、それだけだった。
 春子さんの気持ちが分からなかった。それに自分がここへどうしてきているのかも分からなかった。わずか二か月たらずの交際で、春子さんのメール一通、たった一行、ー〈お付き合いやめましょう)ー〈なぜ、どうして〉ーの返信を自分に送る権利はなかった。ただ情けなかった。
 昼が近くなり食事でもと、雪夫は以前にはなかった売店で、焼きそばとお好み焼きを買う。飲み物を自販機で買い、三人でなんとなく時間を過ごす。周囲から見れば間違いなく子連れの夫婦だろう。雪夫は思うと同時に、春子さんはどういう積りなのだろうと、いくら考えても及ばない。
 ペンギンの動作に佑香ちゃんが声を上げると、春子さんも声をあげ、雪夫がつられた。
 日が傾き始めて出口へ向かう。
 混雑する幹線道路に入ると佑香ちゃんは瞼を閉じた。春子さんは、ただ真っ直ぐ先を見てハンドルを握っている。雪夫はいたたまらなくなった。
「春子さん、ちょっと聞いていい」
「え」
 真っ直ぐ向いたままだ。
「どうして確信もないのに寮へ面会にきたの」
 今さら聞いても同じことを答えるのは承知だった。
「あの公園から帰る時に、ピンとくるものがあったのよ」
 やはり同じようなことを言う。
「ふーん」
 だとしたらおれのことは、頭の中から消え去っていたわけでもないことなのか。それとも結婚した相手と別れてから頭の中へ、むくむくと浮かんできたのだろうか。
「あんな場所で、ひとりギターを弾いている人なんか、見たことも聞いたこともないよ」
 ギターなどに興味のかけらもなかった春子さんには、理解のできない人間がここにもいると映ったのだ。あそこはおれに唯一の幸せをもたらしてくれる居場所で、誰にも知られたくない非常口の踊り場だ。あの生垣に囲まれた小さな公園は、さらさらの砂場が左にあって、歓喜が地面に刺さる青い滑り台があって、思いを空に投げかける赤いブランコがある。そして主のいない黄色いベンチ。それらを心に取り込み、ギターを弾いて情景を作り上げる。なんという幸せか。それを理解のできない人間と見るのは勝手だ。だがその人間を思い出して訪ねてくる春子さんも理解できない。
「ふーん」
 雪夫の目線はダッシュボードの辺りに下がった。
「わたしがね、瀬川君と別れたのはさ、デートしていてもギターとか夢のような話ばっかりでつまらなかったのよ」
 やはりそうだったのか。
「手を握ってくれたこともなかったしね」
 雪夫は目を伏せた。
「男と女でしょ。手を握り合ったり、腕を組んだり、抱き合ってキスの一回もなかったのよ」
「……」
「そんなことって女から求められないのよ」
「……」
「それで別れましょうって言ったら、瀬川君は理由も聞かずに…それで終わったわ」
 春子さんは淡々としていた。
 信号の多い幹線道路から国道に入ると、三車線の中央を選んで車はスピードを上げる。
「それから一年後に結婚して、その二年後は離婚よ」
 声を落として春子さんは、追い越し車線にハンドルを切る。
「これって誰が悪いと思う?」
 そんなことは当事者ふたりの問題で、事情などは聞きたくもなかった。雪夫は取り合うこともなく、
「佑香ちゃんは何歳なの」
 と、春子さんの横顔に聞く。
「四歳」
 素っ気なく答える。
「ねえ、誰のせい」
 しつこい春子さんに雪夫は、
「あんたたち二人の責任でしょ」
 と、言葉を投げつけた。
「瀬川君ねえ、分かってないね。あんたのせいなんだよ」
 わけの分からない、とんでもない言葉が飛んでくる。
「わたしはね、あんたと別れてやけになったのよ。初めての交際が、あんなかたちで終わったのに、ものすごく腹がたったのよ。情けなかった」
 雪夫は黙って言い分を聞く。
「面白いもんね、すぐに先の旦那と知りあい、結婚してしまったもんね」
 自嘲気味だ。
「瀬川君さあ、責任取ってくれる」
 責任とはなんだ。ずいぶん重い言葉を軽く使う。
「瀬川君さあ、あんた今のままの生活を続けていたら人間終わっちゃうよ」
 そんなことを春子さんに言われる筋合いはない。
「今からでも遅くはないよ。わたしんとこへきなよ」
 とんでもないことを口走る。
「瀬川君さあ、人間らしく生きなよ。嬉しいことがあったら口を開けて笑って、相手が怒ったら自分も怒って、悲しいことがあったらかまわず涙を流して、楽しいことがあったら手を叩いて喜んでさ」
 そんなことは人間性の問題で、とやかく言われることはない。
「うらの階段でギターを弾いて、ひとり満足をいつまでできると思っているのよ」
 よけいなお世話だ。
「そういうのをさあ、ロマンチスト症候群と言うらしいよ」
 低い声で春子さんは言い聞かすように目を向けた。それは病気なのかと問いたかったが、よいことを言われそうにない。雪夫の気持ちは深く沈んだ。
 いつのまにか車は県道を走っている。春子さんは口を閉じた。
 信号待ちで止まった瞬間、携帯が鳴った。春子さんは慌てて携帯を取り出す。
「ちょっと遅くなったかしら。うん、もうすぐ帰れる。ごめんね、あずみさん」
 ドキリとした。まさか、まさかあの多村さんではないのか。春子さんも多村さんも、寮から遠くない所に住んでいるらしい。これが本当だと困ったことになる。雪夫は人違いであることを祈った。
携帯をポケットに入れると信号が変わった。春子さんはハンドルを握り直すとアクセルを踏み込んだ。
ほどなく寮の前までくるとスピードをゆるめ停止する。雪夫がドアを開けようと、ノブに手をかけると春子さんは、「ちょっと待って瀬川君、ほら携帯の番号を教えてくれないと」と、ハンドルから両手を離した。
 雪夫は一瞬とまどったが、姿勢を戻して番号をはっきりと伝えた。
 今度の日曜も外へ出る気にならなかった。雪夫はテレビに目をやるだけで何をする気にもなれない。    
ロマンチスト症候群ってなんだろう。そもそも症候群って病人の集まりではないのか。つまり、夢見る病人であれば、ギターに夢を託す病人とも取れる。何にしても、普通ではない精神状態そのものたちの群れなのだろうか。いやロマンはあこがれ、夢だから病的な症候群とは言えないのではないか。考えが及んでいるのか、はたまた巡っているのかまるで分らない。
 翌朝、なかなか布団から起き上がれない。雪夫は仕事を休む理由を考え始める。いやここで仮病を使って休むと、昨日の春子さんの言う、ロマンチスト症候群の病的な予備群から抜け出せないかもと、あらぬ方へ考えが飛躍して布団を蹴りあげる。
 朝のミーティングで雪夫は、多村さんの表情を何気なく見る。こっちを見て表情に、それらしきものがあったら胸に留めておかないといけない。悟られないように目線を飛ばしていると、終了間際、表情にわずかな笑みがあるのを雪夫は見逃さなかった。作業場に向かいながら雪夫は思うー多村さんは春子さんと交友関係にある。
 仕事が始まると、今度は下流の作業者の動作が気になりだした。目の届くぎりぎりの所にいる松本の動きがせわしくなったり、止まったりする。雪夫は注意していなければと、仕事の手を緩めたりする。このところ作業のミスが発生していないからと油断はできない。
 仕事を終えると雪夫は、社員食堂で食事を取ろうとロッカーへ向かった。もしかして多村さんが現れ、相席するのではないかと考えたからだ。春子さんとのことを口にすれば、それはそれでいい。しなかったらこの先を考える必要がある。雪夫ははっきりさせておきたいのだった。
 食堂の入口が見える所に席を取って、普段からゆっくり食事をする雪夫は腰を据えて箸を進めた。しかし多村さんは食事を終えても姿を見せなかった。
 寮に帰り一日を思うと、明日も同じ緊張があるのだと滅入りそうになる。
 雪夫は非常口の扉を開ける。踊り場に出て柵にもたれる。まだ明るい公園に誰もいない。生垣の中の砂場、滑り台、ブランコ、そしてベンチ。それらがギターの音色をいつも待ちわびていたのに、それらしい表情がなくなった。雪夫は肩を落とした。
 翌日のミーティングがすむと呼び止められ、ギクリとした。作業ミスか。頭をよぎった。いつも厳しい佐々木さんが訳あり顔で、
「なあ瀬川、多村と松本の仲を知ってるか」
 何を話すかと思っていたら意外も意外だ。雪夫は驚き首を横に振った。
 ー二人は多村がひとつ年上で、もう何年も付き合っていること、喧嘩して別れたと思っていたら、いつの間にか仲直りしていること、こんなことをどうしてバラすかというと、歓迎会のあとで多村がお前と一緒に帰ったこと、おまけに腕を組んで歩いていたことが奴の耳に入ったらしい。だから分かるだろう、お前の仕事のミスはたぶん奴が仕組んだことーそこまで言うと佐々木さんは雪夫の肩をポンと叩いて、
「気をつけろと言ったのは、そういうこともありうるということだ。見たか昨日の二人のにやけた顔。前の日に濃密なデートでもしたんじゃないか」
 と、薄笑いをして事務室へ消えた。
 雪夫の腹は煮えくりかえった。何ということだと松本の作業場へ向かっているうちに(待てよ)、おれにもその責任がいくらかあるような気がする。うしろめたさを感じた雪夫は(これでおあいこだ)と、その場で踵を返した。

 土曜日の昼前に携帯が鳴った。春子さんだ。雪夫が耳をあてるとご飯を食べに行こうという。車が借りられたから玄関に出ていてと、返事もしないうちに切られる。
 急いで着替えて外に出ると計ったように車がくる。雪夫は助手席に乗ると、
「どこへ行くの」
 と、たずねる。
「ファミレス」
 ひと言で車を走らせる。どこまで行くのか知るはずもないが、またあずみさんという人から借りた車だ。苗字はなんて言うのかと聞きたくても聞けない。そのうちに分かることだと気にかけるのをやめる。
 国道へ出ると数分でファミレスに着く。佑香ちゃんを抱き下ろしているのを待っていると、
「何をしてるの、早く店に入って席を取りなさいよ」
 と、厳しい顔をされる。
 ファミレスが初めての雪夫は勝手が分からず、まごついていると受付の店員に何名様ですかと聞かれる。
「三名」と答えると、「お子様はいらっしゃいますか」、だ。
 席に案内されてほっとするが、騒々しい店内に辟易する。メニューを見て春子さんが注文を大声で店員に伝える。
「瀬川君、わたしの言ったこと分かってくれたの」
 テーブルに両肘を立てて言う。
「ロマンチスト症候群のことだったよね」
 雪夫はどう答えていいのか、今もって分からない。
「わたしだって、夢見る少女時代はあったわよ。だけど社会人になってからは、まわりについて行かなければと夢見ている場合じゃなくなったのよ」
 春子さんは、自分の変わりようが正しいと言わんばかりだ。
「でも、おれの目に春子さんは清純で、夢見る乙女にはっきりと見えていたよ」
 雪夫はいまだにイメージを失っていない。
「見た目だけではわからないのよね」
 春子さんは背を反らして足を組んだ。
「ギターを弾いては、春子さんと音楽を語り合い、一緒に唱歌を口ずさんだり、白い雲の上で散歩してみたいねとか、いつも夢に思いをはせていたよ」
 うつろな目を天井に向ける。
「ロマンチストだね。いつまでたっても」
 なぐさめているように聞こえる。
「そのころからもうロマンチスト症候群だったのかなあ」
 雪夫は何となく分かってきたような気がした。 
「わたしはロマンチストを卒業していたから、瀬川君との付き合いでは、いらいらのしっ放しだったわ。べつに嫌いではなかったのにさ」
 はっきりとした言葉と目で雪夫に言う。
「おれの一方的な思いや夢だけを、春子さんに分かってもらえると信じていたんだろうね」
「だから交際をやめた反動が、ロマンチストっぽくない男をすぐ捕まえることになったのよ」
 春子さんはうつむいた。そして、
「ねえ、ロマンチックな夢を追うのはもう卒業しなさいよ。また瀬川君に声をかけられた女が不幸になるよ」と、諭すように言った。
雪夫はもっとものような気もした。春子さんは食事の追加が欲しいと店員を呼ぶ。瀬川君は欲しいものはないのと聞くが、食事には程度がある。
「だからわたしが不幸になったのは、瀬川君のせいなのよね。責任を取ってと言いたいけれど、まだ遅くないからきなよ、わたしんとこへ。ロマンチストを卒業させてあげるから」
 返事に窮した。言わんとすることは分かるが無茶苦茶だ。言葉を返したいが、また自分が責められるだけだと、雪夫は口をつぐんだ。
 佑香ちゃんはお腹が満足したのだろうか、せわしなく動きだした。春子さんもフォークを皿に置き、食事は終わった。雪夫はレシートを手にして先に腰を上げる。このまま、またどこかへ車を走らせるのだろうかと、雪夫は気を揉んだが、春子さんはそんな素振りもなく、きた道を真っ直ぐ戻った。
「じゃあまたね。今度までにいい返事をするのよ。分かってるよね」
 春子さんの言葉を背中で聞いて、雪夫は車から降りた。
 その後も仕事でトラブルに巻き込まれることなく、人との関係も薄いなりに維持できていた。      
 だが、今日も工場から帰って、雪夫が寮の非常口に出ると、砂場、滑り台、ブランコがギターの旋律を待ち望んでいるように思えない。黄色いベンチに親子連れがいるように感じるのだ。あの親子のせいで一体感はなくなった。調和のない箱庭にギターを弾いても、旋律は舞いあがりもせず、何のハーモニーも生まれない。感傷も、感動も、なんの情景だって生まれない。雪夫は今日も肩を落として背を向けた。

 六月が目の前になっていた。主任の佐々木さんが十五日で他部署に移り、十六日からは雪夫が入ることになっている。雪夫はこれから薄い人間関係を、無理に濃くしようとは思わなかった。一人ひとりに細くて強靭なモリを打ち込み、細い釣り糸で操ろうと、作業の様をさぐっていた。もちろん松本さんや多村さんにしても同じことだった。この職場の全責任を、おれが背負って行かなければならない。つい二か月前までのことを考えると、今もって信じられない。雪夫は背中に一本太い筋を入れなければと、自覚みたいなものを初めて感じた。
 土曜の午後に携帯が鳴った。春子さんが夕食をしようと言う。これまでと一緒で、迎えに行くから待っててと、それだけ言って携帯を切る。約束の時間に寮を出ると車はまだきていない。雪夫が時計を確かめようとした時、道路の向こう側で手を振っている人が目に入った。春子さんだった。雪夫はどうしてあんなところにと思いながら、信号のある所まで歩いた。北にある公園の方向へ五十メートルほどだ。春子さんも向こう側を、同じように歩いている。歩行者用の手押し式信号を押して渡る。笑顔の春子さんは、
「ごめんねこんな所で。車、借りられなかったの」
と、申し訳なさそうに言う。
「ううん、いいよ。ここからまだ遠いの」
 その方が気がかりだった。
 春子さんは先になって歩きだした。さらに北へ同じくらい行くと、車線のない道へと右に折れる。見渡せば住宅地だ。
「こっちよ」
 今度は左に折れてすぐのアパートに足を運んだ。
「え、ここって」
 雪夫が二の足を踏んでいると、
「早くおいでよ」と、強く手まねきをする。
 このまま立っているわけにもいかず、招かれるままに開いたドアから中に入る。人の気配がありはしないかと、足を揃えて耳を澄ませていると、
「上がってきなさいよ」と、大きな声がした。
「おじゃまします」
 雪夫は声をかけて廊下の暖簾を手で分ける。
「こんな所でごめんね」
 春子さんは部屋のテレビをつけると、
「少し待っててね、すぐ食事の準備するから」と、右のキッチンらしい方に消えた。
 雪夫はまさかここで食事をと、予想もしていなかったことに、ただ茫然とするばかりだった。しかしまだ人の気配が気になって仕方がない。そういえば今日は佑香ちゃんの姿が見えない。隣の部屋で眠っているのだろうかと耳を立てるが、テレビの音がやけに大きく、ほかの物音は聞こえようがない。雪夫は部屋を見回した。何にもない。あるのは折りたたんだテーブルと、壁に吊るされた白いエアコンだけだ。
「瀬川君、できたからそこにあるテーブルを立ててよ」
 はずんだ声がした。
 雪夫は腰を上げてテーブルを真ん中に持ってくる。春子さんは、ホットプレートを両手でつかんでテーブルに載せると、キッチンに戻ってコップとロング缶を手にしてきた。
「はい、乾杯しましょう」
 春子さんは、雪夫のコップにビールを注ぐと自分のにも注いだ。雪夫の戸惑いは続いていた。ビールは含んでから喉にゆっくり通すことを心がけた。プレートのフタを取ると肉と野菜の炒め物だった。湯気の立つ中、遠慮がちに箸をのばす。
「遠慮しないでね」
 春子さんは肉と野菜を足しながら言う。
「佑香ちゃんは寝ているの」
 雪夫は食卓に現れないのを不審に思った。
「うん、あずみさんの所で預かってもらっている」
 そういうことだったのかと、雪夫は春子さんをあきれ顔で見た。三十分も経っただろうか、雪夫は膝を立てて帰ろうとした。
「ねえ、せっかくここで食事をしたんだから少し休んでいきなさいよ」
 春子さんの言葉に雪夫は乗らなかった。
「今日は帰るよ」
 はっきり言ってドアを押した。外は薄暗くなっていた。雪夫は足を速めた。住宅地を抜け、車のライトがちらほら行き交う道に出る。雪夫は複雑な気持ちを抱えてただ歩いた。
寮に戻り、非常扉を開く。気持ちを静め、踊り場で腰を下ろす。あの春子さんがおれを強く引っ張っている。おれを見捨てたあの春子さんがおれを…今度はおれが春子さんを突き放す番か…。防犯灯のあかりがぼんやりと箱庭を浮かび上がらせている。春子さんの顔が浮かぶ。あの色白で細い目の丸顔が、純真であり無垢でもあると信じていた春子さんが、今は見る影もない子持ちのバツイチだ。それでも春子さんはおれにとっては春子さんだ。
 おれはロマンチストだったのだ。いや、今だにロマンチストなのだ。薄灯りが届く砂場、影をつくる滑り台、ブランコにベンチ。この情景がロマンチストを進行させて症候群になったのか。雪夫はギターを持ち出すでもなく、箱庭を見遣るばかりだった。
 部屋に戻り、ポケットから携帯を出す。
「さっきはごめんね。どうしてもお願いがあるんだけど聞いてくれない」
 春子さんの声は沈んでいた。
「今からきて欲しい所があるんだけど大丈夫?」
 春子さんは佑香と一緒でもよければと返事をくれる。
雪夫は前にきたことのあるこの公園の、黄色いベンチに腰をかけてほしいと伝える。
 雪夫はギターを抱えて待った。
 佑香ちゃんを自転車に乗せた春子さんは、ほどなく現れる。入口で佑香ちゃんを抱えおろした春子さんは、手を引いてベンチに並んで腰を下ろす。
 それを目にした雪夫はおもむろにギターを構え、呼吸を整えると力強く前奏のアルペジオを弾き始めた。“いい日旅立ち”だった。やわらかに芽吹くメロディは、萌黄色を舞い踊らせて箱庭を旋回する。一回、二回ー雪夫は弾き終えると酔いしれたまま余韻を残してゆっくりと腕を下ろした。そしてベンチの春子さんに目を遣ると胸を突きぬかれた。両手で顔を覆い、肩を大きく震わせている。
この箱庭はもう幻想をかもしだす所ではなくなった。目の前の情景は現実そのものだ。現実を受け止めよう。そして昔の春子さんを探そう。気持の中に取り戻そう。雪夫は立ち上がると、顔を向けた春子さんに優しく手を振った。
六月十六日。朝、佐々木さんのあとを引き継いで、半円形に集まった作業者の前に立ち、最初のミーティングを行った。
「今日からこの職場の主任として仕事をやることになりました。よろしくお願いします」
 ここまで言うと雪夫は頭を下げた。そして、
「これから嬉しい時は笑って、怒りたい時は怒って、悲しい時は目を伏せて、楽しい時ははずみたいと思います。皆さんもそんな気を持って仕事に取り組んでほしいと思います。以上で終わります」
 この言葉に作業者の皆が呆気に取られ、不思議そうな顔で持ち場へと散って行った。
 主任の初仕事を終えると、雪夫は引っ越し先で待つ春子さんの方へ、夕日を右に受けながら胸を張って歩きだした。  (完)