回想録「翻弄 ある名古屋の宿の物語 第五章死と別れ編

【ノリタケの森】
 梅雨の合間、六月の額紫陽花がまぶしく、そんな中、風に当りながらノリタケの森に筆者は妻に車イスを引っ張ってもらいやって来ている。ノリタケの森は十年程前に出来た。日本陶器、外国ではノリタケチャイナの工場跡である。筆者は小学生の頃夏になるとこのレンガ造りの工場群を通り児玉市民プールまでよく通った。
 西区のこの辺は明治の殖産工業で栄えた地でノリタケや豊田織機があった。いずれもレンガ造りで戦争中は爆撃を恐れコンクリートでレンガは隠されていた。ノリタケの煙突は四本だったが角度により一本だったり二本だったり四本だったりして見えた。世界遺産でも良かったろうが何故かそうはしなかった。ノリタケドームのビジョンも名古屋財界の反対で出来なかったと聞いている。名古屋駅からも十分程歩いて行け、実現すれば多方面に利用出来良かったに違いない。トヨタの産業技術館もレンガ造りでみごとな景色を与えてくれる。
 ノリタケは妻の祖父がボイラーマンをしていたり、中村の則武から仕事に行った人も多かったりと縁が深い。かつては陶器の絵付けも手書で職人も多く、女性の職工も多数居て数千人の従業員数だったようだ。私はノリタケのチーフデザイナーと友人になりよくノリタケ内にある工房に通った。チーフデザイナーは児島さんといいアメリカのノリタケでは彼の創ったディナーセットが超人気で百億円以上は売れアメリカのノリタケに貢献したと聞く。だから児島さんは特別扱いだった。ノリタケには陶芸を教える教室があり先生をしていた。教室には東京からわざわざ通う人もあり金持ちの夫人の巣でもあった。
 筆者は中日倶楽部という会に所属し栄のノリタケギャラリーへ会員十数人で作品を展示する機会があり当時書いた俳句百数十種を和紙に書き展示した所、目に留まる人があり知った中の一人が児島さんだった。その時知り合った中には山崎竹堂という俳句の師がいて、彼は山頭火百周年で一位になった人だった。彼の事は後で書くつもりでいる。ノリタケは財閥解体で伊奈製陶、日本特殊陶業等に分かれたが森村グループの中核である。やはりバブル崩壊で陶器は売れず今はコンピューターの一部分砥石で成り立っている。現在ノリタケ本社工場はイオンに建て替え中で三年後には出来、辺りは一変し交通量も増えるだろう。
 ノリタケの森内部にはいろいろな施設があり一階はレストラン二階はギャラリーになっている建物があり、筆者は三年程友人の浅野総一郎や高木文子と児島先生でええ人会という名前で四人のグループ展を開いた。児島先生は陶芸、総一郎は絵画、高木さんは布で絵画を創る千切り絵、私は戯画と陶板に俳句を、そんな自由な出品だった。入場者も連休には千五百人程来た。栄のノリタケギャラリー程ではなかったがまずまず好評で作品も良く売れた。
 ノリタケの森にはオールドノリタケの展示場、陶器の実際作る工程を知らせる棟、商品を展示販売するショールーム、喫茶、噴水、芝の広い森があり子供連れや犬連れの人も多い。ノリタケの森からほんの三分程のトヨタ産業技術記念館もやはりレンガ造りで織機の機械の展示、実際に動く姿、又トヨタ自動車の歴史や昔の車の展示を楽しく見て歩ける。こちらはやはりトヨタと言うことで外国人の客が多く喫茶やレストラン、土産コーナー等がある。

【名古屋城と寺、徳川美術館】
 西区はなんと言っても名古屋城があり見所は城を一周し外から見る姿がいい。特に北側から見る城壁の石垣はすばらしく春の桜や藤の姿が美しい。清洲櫓は信長が偲ばれ特に見事だ。将来木造に復活するかもしれないが筆者もそうなる事を望んでいる。城内部の復元された御殿も見事で見るべきだ。外堀通りから東へ行けば古い名古屋に出会える。市役所や県庁の建物も個性的で内に入れば大理石の立派な姿が見える。建物の東裏は閑静な通りで外国の要人等を迎える県や市の公館がある。入る事が出来ないが外から庭が見え雰囲気だけは味わえる。外堀の東の通りを行けば、かつての裁判所跡の市政博物館があり立派な大理石とステンドグラスが迎えてくれる。建物に趣があり中に入ると牢屋や裁判の風景が見えるようになっている。今の建築と違い遊び心のある内装で楽しむ事が出来る。裁判風景も創ってあり、かつての裁判のやり方が判って面白い。
 東区は寺が多い町でもある。一番は尾張徳川の菩提寺建中寺で春のつつじが有名だ。白壁町や葵町いずれも高級住宅地でかつての高給取りの武家屋敷が偲ばれる。二葉館では川上貞奴や福澤桃介の愛の巣が分かり立派なステンドグラスや電力王だった桃介の電気が配線として見られ興味深い。やはり徳川美術館は季節ごとに展示が変わり、行くべきだろう。牡丹の季節が最も良い。展示では信長秀吉家康の所有の品や利休の手造りの茶杓「泪」や茶器もあり能装束の多さも目立つ。刀剣の展示、源氏物語、千代姫の人形も見逃せない。
 筆者は美術館裏にあった手の入ってなかった森で遊ぶのを楽しみにしていたがやはり放っておくのはもったいなかったのであろう、徳川園という名園になり池のある景色を回遊出来るように変えられた。中にはゼットンのレストランがあり素敵なフランス料理が楽しめ、弟の娘のブライダルもした。姪は英国人と結婚したが外国人好みの庭なのだろう。徳川美術館を東へ行くと名古屋ドームがあり野球ばかりでなく各イベントを楽しめる。筆者はアムロのコンサートやK1グランプリでアンディフグを見た。
 横道へそれたがそろそろ本題へもどろう。一夫は故郷の山歩きが日課となり毎日体を鍛えていた。美代子は毎日花を活けたり押花で絵を作ったりして二人共一人娘里美の死を忘れようとしていた。だが死は残酷な現実だった。もはや会う事は出来ないのである。何度戻って来いと願っても虚空に手を伸ばすばかりでかなわぬのであった。一夫は従業員の中島にホテルは任せきりにし自分は自分の世界に閉じこもるようにしていた。美代子も同様だった。里美の息子達は順調に育っていた。長男の篤志は東大を卒業し厚生省に弟の匡志は早稲田を卒業し外資系の企業に進んだ。
 政志は姉の死が理解出来ず眠れぬ夜を過ごしビールと眠剤が離せなくなった。政志はバブル期に作った借金の金利と返済に追われ自分を見失いかけていた。一日三十万以上必要な銀行支払いは重荷で毎日それと戦わねばならず、地価の下落は銀行の信用も失い銀行からいろんな物を押しつけられるようになった。企業の主体性は奪われ言いなりに従うようになって行った。だが子供の教育費は待ったなしに必要で多い時は年に六百万は必要だった。毎日毎日が何とか金にしようともがいた。溺れた人のようにむやみに手を動かすが渦が立つばかりで虚しく沈んでしまうようにもがく毎日を送っていた。
 彼の回りに死んで行く人がいた。匠の食風という雑誌を出版する寺松氏が肝臓ガンに倒れ五十歳前に死んだ。自分の死を見てやろうとすごい執念の死だった。最期は達磨のような目を見開き絶えた。寺松氏と共通の友人だったJAZZの鈴木尚さんが胃ガンに倒れ後を追った。いずれも日本酒好きだった。鈴木尚さんはビッグバンドで市民ホールを満員にする程力のあるJAZZマンだった。彼はフリューゲルホーンの演奏者というよりも人脈があり、人と人を結びつける独特のキャラクターの持ち主だった。政志は自分のホテルの一階にあるパブシアターアバで月に一度の演奏会をお願いしていた。尚さんの胃ガンが見つかったのは偶然だった。鶴舞にある横山胃腸科で演奏会を開いた時、院長が検査をして行けと言ってそこで見つかった。
 その夜お互い行き付けの今池にあるガンドラで会った。ガンドラはがんばれドラゴンズから取った名でドラゴンズの佐藤社長の私設秘書の谷さんが経営していた。尚さんは手術すべきかどうか私に聞いて来た。私は手術しなさいと勧めた。金山の市民病院に入院したがもう手遅れだった。死ぬ前日にも覚王山のJAZZ喫茶スターアイズで演奏会をした。私も見に行き、もう休んだらと言ったら、一瞬くやしそうな顔をした。その翌日別れた奥さんや娘達に送られて旅立った。まだ六十才になったばかりの死だった。六十才と言えば俳句の山崎竹堂さんもそうだった。山崎さんとはノリタケの中日展で知り合い彼の所属する自由律俳句の会に誘われた事から始まった。私が数回出席し、会の俳句を選評し何故か山崎さんの句を選んだことから交際は深まった。句は「人の死へあっけらかんと冬花火」というものであった。彼は山頭火百周年で首席を取ったり島歌で同じく首席を取り句碑を造ってもらったり俳句の世界では著名な方だった。知り合って一年程で病に倒れ入院中句会に参加し酒を飲み一晩で死んだ。葬儀の日、雪が激しく舞い彼の生き方のようだった。
 政志は五十歳から絵を描こうと若い頃から決めていたので五十から戯画をよく描いた。文章はなかなか芽が出ず画に詩を含めた詩画が好きだった。そんな頃詩人の鈴木孝さんと知り合った。一回りも年上だったが中部地区では代表的詩人だった。彼に可愛がられ十年程過ぎた政志が六十三才の時、過労で死んでしまった。彼は半田の有名人でもあり大きな葬儀だった。政志はその頃自分を見失い酒に溺れボードレールの酔いたまえの詩ばかりを口遊んでいた。

【外国人の労働者】
宿泊業界にとって飲食税が廃止されてからの数年間はどの施設も豊かな時代だった。ほんの数年間の事だったが。消費税が始まり何かと重税感を覚えるようになるまでは。世界では中国で天安門事件がヨーロッパではベルリンの壁崩壊と様々な事件があり日本もその影響を受けた。
政志の宿では中国の就学生がアルバイトでよく来るようになり他のアジア人達も続いた。バプではフィリピンのタレントからロシアのタレントに変わり日本中のホテルでも旧共産国からタレントが入った。
 政志は旅行業者のつきあい旅行でハワイへ何度か行ったがアメリカの興業でも旧共産圏の踊り子達があふれるようになった。人が旧共産圏からヨーロッパばかりか日本にも来るようになり時給も下がり、物の値段も下がった。愛知県ではトヨタ系が臨時工としてブラジル国籍の日系を盛んに就職させた為ブラジル国籍の日系人が愛知県中に目立つようになり宿泊業にも流れて来て日本中は人でグローバル化して行った。気がつくと政志の宿も十カ国以上の人が働くようになっていた。入管もその都度法律を変え、ある時はイランイラク戦争で兵士をしていたイラン人が街で麻薬や偽のテレカを売った。名古屋の大須にもアジア人達が買い物に訪れ町を発展させた。段々外国人抜きではならなくなりつつあった。
 政志はフィリピンショーを止めロシアショーを入れる事を決め、東京のプロダクションに頼みモスクワメロディという三人娘を頼んだ。言葉は英語で通じ、感性も日本人と余り変わらなかった。ただプライドは高くすべて国で面倒見てもらっていたせいか医療費も政志が実費負担しなければならなかった。以後政志は彼等を国民健康保険に加入させた。一夫の宿もスリランカの親子が手伝うようになっていた。不況が進み稼働率が悪くなった工場はまず外国人労働者を切り、職を失った彼等はいろんな職につくようになり一夫の宿に流れて来たのである。スリランカは厳しいカースト制があり一夫の雇った親子は上流の人達で息子は教育がてら連れて来られていた。
 政志の名古屋の宿にも以前スリランカから娘がアルバイトに来たことがあった。彼女は同じ国の宝石商の愛人と一緒に来日しその後男に捨てられ流れて来ていた。多情な女で日本人の男と恋に落ち、その男の妻と殴り合いの修羅場を演じ政志は苦労したことがあった。他にも子供達の英語教育にカナダ人の女性を雇ったことがあったが彼女も恋多き女性だった。ショーに来るロシア人も年々違って来ていた。旧ソヴィエト時代に教育を受けた者はしっかりしていたがベルリンの壁が崩れて以後育った娘達には、余り節操がなかった。日本もある時期からフリーセックス化したがロシアはもっと若い頃からそのようだった。
 若くして離婚経験する者が多く、子持ちになってから子を母国に置いて日本へ仕事に来るのである。特にウクライナの娘は年収も少なく、アジアの国よりも低く百円のお金にもこだわった。チェルノブイリ事故を経験した彼女等は厳しさを知っていたようだ。現実にチェルノブイリへ父親が事故後働きに入り死んだ娘もいた。ロシアの娘の中にはウォッカの飲み過ぎで早死にする男の娘達もいた。彼女等はエジプトや中東でダンサー経験がありロシアと中東の深いつながりを感じさせた。
 国情によって各々違うが特にアジアの小さい国の娘達は家族の為に出稼ぎに出、中国や欧米から来る娘達は自分の為や日本を吸収する為に入国するが彼等の多くは人権もなく職場の保障もなくやって来る。彼等を食い物にする日本人も多い。彼等と比べ国が安定している日本に育った子供達は豊かで親の愛に守られ実に幸福だ。国が乱れるとその国の国民は遊民となり出稼ぎに行かなければならない。貧しい国の女性は性さえ売らねばならない。かっての日本のように。
 政志は入国管理局へ三カ月に一度ずつ延長手続きに興業ビザで来るタレントを連れ行かねばならなかったが初めは法務局内の狭い事務所のみだったのが年と共に外国人が増し、法務局の一フロワー全部を使うようになっていた。特に就学生留学生が増え外国人労働者がいろんな企業が求めるようになってからは本当に増えた。今後も少子化の日本は外国人が必要な事は身を持って理解出来た。しかし日本は島国で長い鎖国の歴史もあり排外的で基本的には血の交わりを望まない。ヨーロッパが難民や移民に苦しんでいる例もあり今後日本も岐路に立たされる事は政志にも認識出来た。日本はインバウンドに今喜んでいるが今後難しい問題に出会うだろう。政志は外国人のアルバイトやタレント達を扱いそう予見していた。
 天安門事件のすぐ後に政志は上海に行った事があった。まだ古い上海の気配が残っている頃で東洋のマタハリ川島芳子が関東軍と密議をした上海大厦に泊まり上海を味わったが帰国後中国人のアルバイトに三十年は遅れていると言った処、中国人のアルバイトは薄笑いを浮かべ何も答えなかった。それから二十年以上経た今政志はいつのまにか中国に追い越された日本を思い知らされるようになった。中国の発展は早く日本の二十年以上の停滞はあっという間に逆転してしまった。初めて上海へ行った三年後再び上海へ行った政志は新しい高速道路や地下鉄に出会い驚いた事があった。中国人は政志が味わった子供の頃地下鉄開通の新鮮な喜びを今度は上海っ子達が喜んでいたのである。

【愛知万博】
 政志は二千五年に開かれる愛知万博に期待していた。セントラルタワーズの中に多くの飲食店やマリオットホテルが出来、名古屋の飲食業界も随分変わり政志の宿も影響を受け宴会客が減少していた。JR東海の戦略はうまかった。セントラルタワーズに出来た飲食店には売り上げ目標を立てさせ、達成出来ないと閉店させるか場所の悪い所に移動させられた。又駅内にラーメン横丁を作ったりとかつての国鉄時代とはまるで変わった。それだけJR東海には優秀な人材が入社したのだろう。
 しかし万博の波及力は大きく万博前から名古屋は宣伝され政志の宿も一夫のホテルも宿泊客が増加し売り上げも伸び政志は少し助かった。この頃下がり続けた地価はようやく底を示し始めていた。万博で名古屋地区も見直され始めていた。だが大きな土地を持つホテルや旅館は資産が見直され不良債権が問題にされるようになり不良債権となったホテル旅館は容赦なく融資を打ち切られ競売に出された。第一ホテル系やビューホテル系も民事再生法で新しい道を探さねばならなくなった。全国のホテル旅館も次々と再生法を出した。政志が若い頃世話になった法華倶楽部も上野の店を売ってなんとか存続した。
 政志の宿も融資を受ける銀行の目が厳しくなった。まずバブル期に東海銀行から融資を受け買収したマンションが不良債権となり再審査を受ける事になった。政志は苦しいながら金利返済は滞った事がなかった。しかし東海銀行は圧力をかけて来た。追加担保を要求して来たのである。応じないと債権を売るという。小泉首相の政策もあったろう。それだけ日本経済は病んでいた。二億の借金が一億に減っていたにもかかわらず容赦なく政志の買ったマンションは債権をオリックスサービサーに売られてしまった。同時に子会社が持っていたゴルフ場の会員権も六百万の債権ごと売られてしまった。事実は東海銀行が自分の子会社のフロンティアサービサーに債権を買わせオリックスサービサーは隠れ蓑で政志を窮地に追い込んだのである。まず子会社の債権六百万は一年後が返済期限だったので政志はなけなしの金で支払いを済ませた。一億円は二年後が返済期限で万博での売り上げが見込めたのでとにかくお金を貯めねばならなかった。

【不良債権とハイエナ企業】
 銀行は仁義なき戦をしていた。小泉首相は日本経済を立ち直らせるため強い指導力で不良債権をなくそうとした為、自己資本比率の目標に達しない銀行は合併を余儀なくされ企業も身売りするか民事再生を考えねばならなくなった。政志は東海銀行の銀行員に多分お前の銀行は地元の人間を泣かせるのだから数年先にはなくなるだろうと言った。その後東海の名はなくなり次々と合併し今に至っている。政志は根本から自分の宿の経営を考え直さなければならず、とにかく借金を減らす事が先と考えねばならなかった。
 同時期、住友銀行からも一夫の背負った借金二億の返済条件に政志の保障を求められたので政志は従った。又、メインバンクの大垣共立銀行の政志の宿に対する見方も厳しくなり再審査され不良債権が三億六千万円程あると当時の中村支店長吉田氏に言われ、政志は止む無く無駄な資産を売却する事にした。
 まず椿神社の裏の土地を泉不動産の取り引き先が隣地の為欲しがっていると話があり売却する事にした。八十坪の土地一億円弱での取引である。話は進み名古屋銀行中村支店で取引が行なわれる事になった。売却先は新興企業の本洲建設でバブル崩壊以後地価が安くなった土地を買い駐車場ビジネスで急成長していた。椿神社の裏の土地も坪百万以下と最盛期の十分の一以下で地上げし日銭として駐車場は利益を上げた。こういう駐車場ビジネスで急成長は幾つもあった。泉不動産は本洲建設に入り込み機に敏なことから本洲建設よりだった。政志の土地に勝手に杭を打ち調査する等無礼な面もあり、当日も社長が政志に高く売りつけやがってと言った時、政志は腹が立ち取引を中止しようと思ったことがあった。しかしバブルで傷付いた企業と身軽に土地を買い伸びた会社の差は大きく、政志は我慢せざるを得なかった。取りあえず借金は一億減りその後も不良債権処理に急がねばならなかった。
 今、東海銀行も住友銀行も合併し東海は名さえ残っていない。大垣共立とはそのまま取引が続いている。それは厳しいながらうまく政志の会社を指導して来たからに依る。大垣共立中村支店の支店長は吉田さんから金森さんに変わった。金森支店長は吉田さんより更に厳しく政志の宿に当たって来た。東海銀行からフロンティアサービサーに債権を売られたマンションは万博以後名古屋銀行が融資してくれ事なきを得た。名古屋銀行中村支店の担当池田君は熱心に政志の宿を良い方向に導いてくれ、政志は感謝している。情のある銀行と非情な銀行の差は大きく企業生命さえ委ねなければならず、どの銀行を選ぶかが経営者にとって重要な事であると認識するように政志はなって行った。
 その後近くの親しいタオルを扱う富士さんも倒産したが社長の西川さんが後日三菱銀行に頼り過ぎた為こうなったと言っていた。中小企業は銀行が潰すつもりならどうにでもなる弱い存在で西川さんは高いリース料の機械を無理やり導入させられリース料が払えず倒産せざるを得なかったようだ。メガバンクは時に許せない事をする場合があり要注意である。その頃芦原の八木君に会ったが疲弊していると言っていた。バブル期に過剰投資した宿は日本中、病んでいた。バブル期宿は高級化路線を目差し一泊二食三万円の宿が流行した。旅行業者も点数制で宿を採点し評価を付け各旅館も競って良い旅館を目差し、同じような設計で画一的なサービスと同じ顔の宿がそこかしこに出来た。そんな旅館はバブルが崩壊すると今度は売り上げを伸ばす為に一泊二食一万円以下でも泊め、数を求めるようになった。当然やって行けるはずはなく、多くの旅館がハイエナ企業の餌食とならざるを得なかった。
 ハイエナ企業の流行する時代となり大旅館が何軒も買収されて行った。又各公共の宿も売り出され同じような目にあった。愛知県でも営業力の弱い宿を買収する企業があった。それは魚社会と同じで強い魚が弱い魚を食べ大きくなる図式と似ていた。愛知では鯱亭グループ等が代表的である。そんな一つのセラヴィグループは港区にイタリア村を造り今度は自分が倒産してしまった。鯱亭グループを率いる渡辺氏は早大の演劇出身で宿に色んな演出をするのが得意で全国的に弱った宿を援けその傘下に置いた。そんな彼にも困難な時があった。山海に源氏香をオープンさせた時である。彼は不思議なエネルギーで乗り切り今に至り大きなグループを造り東海一の宿屋のオーナーとなっている。彼の他にも愛知には個性的な宿屋の主人がいる。三河の明山荘の杉山氏と知多日間賀島の中山氏だ。杉山氏は蒲郡で一番の宿になった。彼の成功は彼の商法に依るだろう。彼は間口の広い商売をする。従業員も多人種でコンパニオンも平気でスーパーコンパニオンを呼ぶ、ひがきホテルは形に拘った為、民事再生の道を選ばざるを得なかった。
 ホテル明山荘は、形に拘らず売り上げを伸ばす営業をする。現代的でクールな戦略で成功した。日間賀の中山氏は彼の人間性そのまま島中を一つの方向に導く指導力があり篠島は漁業関係者と宿がうまく行かなかったのに日間賀は中山氏の力で結束している。タコからフグへそれも彼の力で島を豊にした。タコ饅頭タコ飯、海苔も彼の発案である。彼にも厳しい時代があった。内海の宿マニスがうまく行かなかった時だ。まだ洋式のホテルは内海には合わなかったようだ。イタリア地中海風のプルメリアもうまく行かなかった。温泉を売り物の観光地には和式の旅館が日本人には合うようだ。

【コンピューター】
横道にそれてしまったが政志の宿に話を戻そう。
政志の子供達は無事大学を卒業し二人の娘はホテルの事務所で長男は焼肉のさかいに弟は日本中央競馬協会JRAに就職し茨城県美浦のトレーニングセンターの寮に入った。一夫の古希の祝は多治見滝呂にあるフランス料理店で家族だけでやった。川沿いにあり良く流行る店で文化に飢えた地元の客が多く集った。残念なことに二年後改装した途端過大投資のせいでやって行けずオーナーが自殺し閉じてしまった。その後一般の家庭に生まれ変わっている。
 政志の宿では女中頭のテル子が定年退職、みどりが女中頭に替っていた。支配人の横井は賭博依存症が止まずとうとう問題を起こし、わたなべ旅館へ政志が考えたコンパニオンパックスポーツパックのノウハウを持ったまま数人のコンパニオンを引き抜き移って行った。政志は角抜きの将棋を打たなければならない気がし迷ったが去る者は追わずに徹しなければならず大西を支配人にした。政志の宿はテル子横井が去り、戦力は大幅に低下し房子と共に戦わねばならなくなった。
 時代はあっという間にポケベルから携帯電話にテレックスからウィンドウズの時代に替っていた。宿泊予約業務もコンピューターなしでは考えられない時代が急速にやって来た。旅行業も飲食業も急速にコンピューター化し、それに付いて行けない会社は潰れて行った。政志は早くからこれからの時代はコンピューターが主役と思い宣伝もコンピューターの画面に映像を流した。反響はすぐ表れ、知らない大会社からも予約が入るようになった。画面はサンプロセスの國井君に任せ作らせた。子会社もチケットガイドMOOと画面を流し丁度長野オリンピックもあり売り上げを伸ばし一番多い時は一億円を越えた。
 しかし時代は急速で専門知識のない政志は遅れている自分に気付かされた。二年もするとどの宿もコンピューターを取り入れ最新の画面を作り宣伝するようになり飲食業も従い、政志の宿も予約が取れなくなっていた。新しく参入した旅宿とかグルメ情報とかに頼るようになって行った。コンピューターは日本ばかりでなく外国人も直接予約が入るようになり毎年訪れる客も出来た。又外国旅行客のバイブルロンリープラネットを読んで訪れる客も次第に増して行った。その頃大きな問題は宿泊分離で一泊二食の宿泊客は減少し朝食だけや泊まりだけの客が増した事である。朝食は東海地区独特のモーニングを好み夕食は山ちゃんとか風来坊で手羽先や名古屋名物をという流れだった。一泊二食重視の日本旅館はどうしても不利で売り上げは当然下がってしまう。
 日本旅館が次第に不利になって行く中で税理士をする房子の義父が血を洗面器一杯吐いて倒れた。肝臓ガンだった。すぐに日赤に入院した。担当の医師は、あと一月か二月の命だろうと宣告した。無論家族にだけだったが。参議院に人を送り込む程力のある義父だったが病魔は深く進行していた。一週間程入院すると痛みに襲われるようになり段々強くなりモルヒネを打たねばならなくなって行った。次第にモルヒネの量は増えたが義父は十分その知識も有り拒否しようと痛みに耐えていた。ガンは進行ガンで衰えは激しく医者の言った通り二月は持たなかった。義父の好きな言葉酔生夢死そのままにルイ十三世を飲み散財の限りを尽くした人生は酔生夢死そのものだった。葬儀は親族だけのを一柳葬儀社に頼み本葬は駅前のセレモニーホールを使った。顧問先の多い事務所葬は参加者も多く政治家も沢山来た。
 政志の書いた脚本七色紙で重要な役盲目のお姿を公演してくれた増原さんが不慮の死を迎えた。アパートの部屋が燃え消そうとヤカンのお湯を浴び死んでしまったのだ。名古屋中の増原ファンや彼が育てた演劇人が集り盛大な音楽葬だった。今まで経験した事のない演出の葬儀で政志はあれ程多くの人に愛され惜しまれた死はないと増原さんを羨ましく思った。話は前後するが一夫や美代子の姉妹達も死んで行った。まず美代子の姉円頓寺の姉様が死に次に小山の富さが便所の中で倒れたまま息を引き取り、次に一夫が頼りにしていた好子に少しボケが入り肺気腫になり質屋で死んだ。一夫は宿が成長していく中でいつも相談相手の好子を失った事は支えを失ったようで痛手だった。数年して大須の花様が老衰で亡くなった。残ったのは、中村のさあ様と美代子だけとなった。美代子の姉妹達が亡くなっていく中で一夫の姉弟も亡くなっていった。川向こうの姉は母のはくと同じく七十二歳に脳溢血で死に夫の八十一は追うように肝臓ガンで死んで行った。いずれも一夫が世話になった人だった。一夫のホテルを田舎で手伝っていた弟の四郎も肝臓ガンで死んで行った。

【フランス料理】
 二〇〇五年の愛知万博に政志は期待しそれを機に借金も半減したいと考えていた。メインの大垣共立中村支店の支店長金山氏は鋭く数字を立て返済予定を迫り売上目標や原価率等も毎月具体的に政志は計画目標を立てねばならなかった。数字との闘いが日夜政志を苦しめ焼肉のさかいの東京支店に勤める長男に家にもどれと頼みに上京した。政志と房子だけではもう宿を守れないと思ったからだ。長男は仕事の関係で三重県の白子支店に移った後帰って来たが、すぐに日本料理研修の為に京都の「吉兆」に働きに行き実際にはその一年後政志の宿にやっと入社した。万博の始まる半年前になっていた。
 とにかく身軽な経営を目差し借金を減らしたかった政志にとって万博頼りだった。思った通り名古屋の宣伝もあり一年以上前から目立って名古屋に観光客や視察に訪れる客が増え、野球パック、相撲パック、コンパニオンパックいずれも良く、売り上げは好調で政志の計画目標は達成することが出来た。万博までの三年間で借金は以前の半分程に減っていた。二男の駈がJRAに就職した次の年の正月に政志の五十才の誕生日をマリオット最上階のフレンチレストラン三国で祝うことになった。三国の内装には高島屋が参加し内装工事の職人が長く政志の宿に泊まっていた御礼の意味もあった。代金は給料をもらい始めた駈が払うことになった。JRAの待遇は良く何かと付随の手当が多く恵まれていた。駈は低金利で会社の貸してくれた金でアルファロメオを買い、熱田神宮でお祓いしてもらう為、わざわざ美浦から車で来た。家族でフランス料理と高いワインを味わいながら政志の五十才を祝った。料理の最後にチーフが大きなケーキのスイーツをプレゼントしてくれた。束の間の家族で楽しい時を過ごした政志は房子と共に再び戦場という宿に戻らねばならなかった。ただ京都から帰った長男の造が会社に入り娘を含め家族一家で宿を経営することになった。

【戯画】
 五十才を過ぎてから政志は若い頃から決めていた戯画を描くようになった。経営が順調とは云えず絵を描く事は心の安定に非常に役立った。彼の絵は幼児の描くようなものそれを目差した。パウルクレーのまだ手探りをしているそんな絵画を望んだのだ。思うままに手を動かす色も和紙から浮かび上がって来るそのままに。円空が木片から浮かび上がって来る仏を彫ったように和紙に向うと何かが浮かんで来るそれを描き色も無邪気に付ければ良い。そんな風に。彼は鯱が好きだった。名古屋のシンボル、それに色んな色を付ける。鯱は金ばかりではない。季節ごとに時間に依って色を変える。日の出や夕暮れの赤に輝く時、晴れた日に青に染まる時、変幻自在だ。彼は心が定まらない時は不動を描いた。お不動さんは表情豊かで左右目が違う。髪もインドから来たのか縮れている。長毛ではない仏像は多い。政志の家系は縮れている者が多くその点では共通性があった。多分南から渡って来たのだろう。
 世界では戦争が起きた。イラク戦争である。イラクがクウェートを攻め占領するとアメリカのブッシュ大統領が怒り、アメリカがイラクを攻めたのだ。ブッシュがヒットアンドアウェイで終決したので早く片付いたがそれでは終わらず長く戦争の時代が再びやって来た。二十一世紀に突入してからも世界は逆に再び殺し合いの時代に戻っている。本当の意味での人間愛の哲学が完成してないからだろう。キリスト教もイスラム教も狭い自分達の教義に閉じこもり殺し合っている。日本でもオウムがサリン事件で沢山の人を殺した。二十一世紀の初めは二十世紀と同じく殺し合いの中で始まった。違うのは核の下で大戦には至らないことだ。

【宗春】
 政志は尾張徳川藩主宗春が好きだった。彼が宗春を知ったのは中小企業家同友会で宗春の勉強会に出席してからだ。尾関さんが中心メンバーで、まだ宗春が知られてない昭和六十年前後だった。尾張七代藩主で将軍吉宗に反撥し市場経済を開き芸処名古屋の礎を作った彼の生涯は政志を魅了した。現代でも経済を保護主義にするか開放にするかいつも問われるが宗春は温知政要という自作の書の中で忍と慈で国を治め祭や催事で民を楽しませる政事を行うのが為政者のあるべき形と説き、吉宗とまっこう対立しわずか十年足らずで藩主を追われ死ぬと墓石にまで鎖で縛られた反骨の一生を送った人である。大きせるを吹かせ名古屋の町を牛に乗り大見得切って巡ったかぶき者だった。商標の問題で南山大学の安田文吉さんや八百彦と政志は争った事もあるが今では妥協しなかった事を後悔している。商標権は宿で取ったがもっと一人歩きすればより宗春流だったろうと考えている。政志は宗春会席を板長に作らせ販売した。又宗春だけでなく信長の長篠合戦で味噌が食された故事から陣中焼という独特の赤味噌も販売した。もうすぐ名古屋城内にも土産横丁が出来るようだがそこでも販売されると良いだろう。新しい土産として。

【火事】
 政志がばたばた動いているうちに二〇〇五年の前年となり万博が近づき関連の動きが大きくなった。一夫の宿は瀬戸から近く海上の森からも三十分程で車で行け便利だった。万博の年はある程度の売り上げが見込め一夫は親類の小出家の別荘を借り期間中コンドミニアムとしてホテルの別施設として貸す事にした。一軒一泊何人泊まっても二万円という手頃な価格だった。又一夫の宿は万博期間中借りたいという話もあった。テレビプロデューサー天野氏の話である。その後その話は立ち消えとなったがかえって宿泊が高単価で売れ良かったと思う。
 万博協会は駅前のダイヤビルの中にあり房子の従兄の名鉄観光加藤氏も出向していたので入場券を政志の宿でかなり販売した。万博グッズは伊藤忠が独占していたが宿で契約し土産として月三百~四百万円は期間中売れた。万博の事はここでは省略するが政志の家族は何回でも行ける券を買い、暇があると良く行った。万博の客は政志の宿では埼玉や群馬の客が多くそれまで余り来た事のない土地の人が多かった。政志はこの年純利益を一億円と目標を立てていたが所有のゴルフ場倒産で二千万近い損金を出したもののほぼ一億近い利益を出す事が出来た。この年何故かあさくまの近藤誠治社長と知り合い時折店へ訪れた。房子は実家の死んだ父と誠治社長が面立ち白髪の似合うのに驚いた。
 徐々に借金が減り六億五千万程になっていたが苦しい時に借りた短期の借金一億円弱の返済が迫っていた。そんな冬の日寮が燃えた。一番古い従業員、以前女中頭をしていて定年後清掃に回っていた五十年勤続の八重子が鍋に火を付けたまま部屋を空け火事を出したのだ。炎が上がり近隣の人が気付き連絡を受けた支配人が消火に走ったが炎の勢が強く間に合わなかった。火は隣の家まで焦がしていた。消防車がすぐ何台もやって来て、誰も居ないかを確かめた後消火に当った。政志は寮を見た途端最悪の事が浮かび目の前が暗くなった。
 火災の事後処理は地元の消防団や近隣へのお詫びで大変な作業だったが保険はアイピーシーハマジマがやってくれ千五百万下ろしてくれた。寮は丁度以前から会計関係の会社が欲しがっており政志は売却する事にした。七千万円弱で売れ一億円の短期借入金を二千万円程の預金と保険金を崩した金等で無事返済する事が出来た。まさしく禍を転じてであった。
会計関係の会社の本社は東京にあり政志は長男の造を連れ上京し取引を済ませた。大垣共立も立ちあってくれ無事その場で一億円の借金返済も済ませた。政志は造を伴い帰りに天ぷらが有名な山の上ホテルへ行き二人で活きの良い天ぷらを食べた。山の上ホテルは二・二六事件で反乱将校が占拠した事で有名でロビーは昔さながらエレベーターも修理はなされているものの事件当時のまま残され政志は好きなホテルでもあった。天ぷらは素材が日本中の鮮度の良い物が集められ拘りがあった。政志は何回か利用していた。
 寮を売却した事を一夫は怒っていた。苦労して手に入れた思い出があり、息子を許せなかった。一夫の名古屋の宿での思い出は拡張の連続で息子の借金返済の事等考える事もなかった。それだけ順調で儲かった時代を過ごして来たのである。世代間での歴史の違いは大きかった。
一夫達戦中派世代は一途に仕事さえすれば良かった。しかし彼等の生んだ団塊世代はやみくもに仕事をするのではなくいつも新しい波を乗り越えて行かねばならなかった。世の中は新しい物を作り過ぎ団塊の世代は必ずそれを吸収し消化しなければならず、中には過食で体を壊す者もあったし毒に耐えられない者もあった。誰もが本当はこう叫びたかった「もう新しい物は生み出さないでくれ、もう何も望まないなから」だが世の流れは無常で虚無を克服するには新しい物を作り出す以外にないと進まねばならなかった。多くの者は疲れ果て荒波に沈んで行かねばならなかった。
 団塊の世代は幾つも生み出したが幾度も挫折した。戦争で皆が挫折した世代と違い団塊の世代はサーファーのように幾つも波を越える処世術が要ったのである。幾回も淘汰を経験し乗り越えた者だけが生き伸びることが出来たのである。政志はシジフォスの神話の中で繰り返される穴を掘り又穴を埋める作業を続ける拷問のように借りては返す作業を銀行との間に繰り広げ次第に疲労して行った。
 一夫や美代子は故郷に居て以前のように政志は儲けていると信じていた。だが現実はそうではなかった。一夫や美代子は里美の死以来、現実から目を背け現実から遠ざかり自分達の空間だけで生きるようにしていた。一夫は山歩きに美代子は花に。

【骨折】
 そんなある日、美代子が客にお茶とお菓子を届けようと中庭を歩いた時、小さな石に足を取られ、うっかり転んで足を折ってしまった。彼女はもう七十五歳を過ぎていた。老女にとって骨折は命取りになる場合もある。一夫は美代子を名古屋に連れて帰り中村区にある城西病院に入院させた。一夫は美代子の病室に自分もソファーに寝泊まりし生涯の伴侶である傷付いた美代子の面倒を看るようになった。入院は三カ月続いたが、それは国が骨折は三カ月の入院と決めていたからである。政志は名古屋のホテルから歩いて二十分と近く、毎朝父母に会いに出掛けた。美代子にはリハビリの時間が与えられ彼女も従っていたが復活には遠く歩くようにならなかった。
 三カ月後。美代子は城西病院を退院し一夫に連れられ田舎のホテルへ帰った。一夫は政志に手すり等を用意するように頼み、政志は友人の高橋に頼み一週間程で完了した。高橋は政志の南山時代の同級生で片方は義眼で介護用品を商っていたのである。同級生達は彼をガンチャンと呼び無類のドラゴンズファンでもあった。一夫は家政婦も頼まず一人で美代子の面倒を見るようになった。ただ週に二回の介護士だけは頼んだ。美代子は死が近付いていると感じいつまでも生きとれんと弱音を吐くようになって行った。

【中村観音と美代子の死】
 政志は目覚めが早くなり散歩するようになりその度に独学の俳句を作るようになった。散歩すると中村区でも花が多いことに気付き季節ごとに句が詠めた。彼は歩いて十五分程の中村観音別名白骨観音へ参ることが多かった。中村観音は空襲の流れ弾で焼けたが観音だけは焼け残った。女郎達の無縁仏の骨と全国から集めた女の黒髪で造った観音は黒ずんだものの焼け跡にすくっと以前のまま立っていて戦後寺は再建され観音はそのまま祀られていた。中村観音には当地で行き倒れた役者の父を忍び藤山寛美が建てた芸人塚もあり碑には芸の一文字だけがあり政志は毎朝それに水を掛け祈った。祈ると少しは心が落ちついた。
 中村観音は羽衣町という以前の遊郭の真中にあり女郎達の信仰の拠り所であった。近くには伸び盛りの鵜飼病院があり南側には名古屋銀行がある。美代子は一夫の甲斐甲斐しい看護にも拘らず段々弱って行った。人は歩けなくなると体力を失って行く。美代子は土岐市民病院に入退院を繰り返すようになった。とうとう八十二歳の師走に再入院した時には命の糸が消えかかっていた。政志が見舞いに行った木枯らしに枯葉が激しく舞う日、余りの美代子の変わり様に彼は動転してしまった。

 それから二週間経った一月の十日過ぎ美代子は旅立った。政志は家族で駆け付けたが死に目に会えなかった。すぐ様政志は一夫と相談し葬儀の用意をしなければならなかった。お通夜と葬儀は中村葬祭ですることになり、仮通夜は名古屋の自宅へ美代子の亡き骸を持って来て取り行なった。一夫は自分の時の分まで美代子の葬儀は立派なものと考えていた。政志は一夫の希望通り大きな葬儀を行ない参列者も千人を越えた。

【襟裳岬】
 美代子の死から三年程した六月に政志は戻ると次男駈の新しい赴任先北海道の浦河町へ旅行した。駈はすでに結婚していて二人してJRAの牧場のある浦河で住む事になり出掛けたのである。千歳空港へ迎えに来ていた駈の車で夕張でメロンを買い、帯広では輓曳競馬をバーベキューをしながら見て北海道で有名な菓子店六花亭へ行き浦河のホテルで泊まった。翌日は牧場のドーム二十個分はあろう広さと蝦夷鹿の跳ぶ姿に驚きながら、息子の与えられた宿舎を見て過ごし、夕方には襟裳岬へ白夜の下、向かった。
 風の強い襟裳には痩せた北狐がうろうろ歩いていて吉田拓郎の碑があった。碑には森進一が歌った襟裳岬(岡本おさみ作詞 吉田拓郎作曲)の詩があった。碑にはこうあった「理由のわからないことで悩んでいるうち 老いぼれてしまうから 黙り通した歳月を ひろい集めて 暖めあおう」政志はまるで自分が歌われているような気がした。

 八時半過ぎ。ようやく暗くなり車で帰り襟裳市内にある寿司屋でつぶ貝を食べながら政志は再び先程の歌詞を小さく口遊んでいる時、長男の造から携帯電話に電話がかかって来た。造は「どうもホテルで食中毒が出たみたい どう対応していいか教えて欲しい」と、政志は飲んでいた日本酒も覚め現実社会にもどされて行った。

 筆者はその後政志のホテルがどう食中毒事件を乗り切ったかその後のリーマンショックに耐えたのか知らない。ただ政志が銀座通りのイタリアレストランリコッタで昼からワインを飲む姿がよく見られたという噂を聞くし一夫が入院したという話も聞いた。 (完)

回想録「翻弄 ある名古屋の宿の物語 第四章翻弄編」

 一夫は里美の死で大きなものを喪失した自分を感じていた。美代子は死んでゆく自分の子達の死を思い出し、ただ死から逃げたかった。花を愛することで逃げていたのだ。政志は手術と姉の死、二つの事件で今までの行け行けの人生から逆の方向に歩き始めていた。
 日本中がバブル崩壊で氷を浴びせられたように凍りつき血さえ通わない時代がやって来た。敗戦後はただ飢えから解放されればよく突っ走り豊さを求めた。物があふれ大量生産大量消費になった時、日本は方向性を見失いギアーチェンジする時期を向かえていた。すさまじく日本的なものを破壊した時代でもあった。技の沢山が失われ、大量にやって来る均一製品に変わった。それはデフレを生み出した。日本の企業は生産地を求め人件費の安いアジア各地へ行った為国内の中小零細企業は体力的に耐えられず多くが滅びざるを得なかった。
 スーパーの進出は小売店を圧迫し商店街はシャッター通りになり各地の町は色気を失って行った。世の中には仁も義も消え男は侠気を失い女性は優しさという美徳を失って行った。

【草薙(くさなぎ)の剣】
 デザイン博が開催されて以降名古屋の街は花に彩られ実に綺麗になった。デザイン博は熱田区で行なわれたが、筆者は少し熱田についても書きたいと思う。熱田区は名の通り熱田神宮を中心に出来た門前街から広がった。熱田神宮には日本武尊ゆかりの地で草薙の剣が祀られている。武将の里でもある。頼朝は神宮内で生まれ信長は戦勝祈願し壁まで寄進している。武尊が何故草薙の剣を伊吹山まで持って行かず殺されてしまったか謎だが草薙の剣は戦時中疎開された以外ずっと神宮内にある。
 剣が青銅か鉄か誰も見たことがないので分らないが一度江戸時代に見ようとした神官は罸ですぐ様死んだと言う。神殿はやはり空襲で焼け伊勢神宮から古い社殿をもらい再建され今に至っている。剣は平家が滅んだ時壇ノ浦の海に消えたはずだが、あれはレプリカで本物は神宮にあったと言う。戦中は熱田神宮の前身の気比神社に疎開されたが大高の小高い山にあるそこは安全だったようだ。神宮内の宝物館には寄進された沢山の刀剣や槍等の武具がある。神宮には西行の腰掛け石等他にも名所は沢山あるが今は書かない。私は正月は熱田神宮は人が多く避け、手前の西高蔵にある高蔵神社に行くことにしている。高蔵神社はそれなりに由緒があるし静かに詣でることが出来るのだ。
 デザイン博は、川並町にある日比野市場東側にあった貯木場を埋め立てられた地にセンチュリーホールを造り行なわれたが同時に出来た日本庭園が実にすばらしい。名古屋には珍しい池のある庭園で水に浮かぶ和風建築が美しいし、観月会、茶会、句会には持って来いだ。茶会と言えば高蔵にある雲心寺で同門の花会でよく使用した。隣の青大悲寺は尼寺で紅葉が美しい名古屋の隠れた名所だ。
 熱田にも名物はあるが中でもこの十年有名になったのが鰻のひつまぶしの蓬莱軒だろう。以前は神宮内の庭の見える小さな店だったが移築してから見る間に有名になった。私は隠れた名店として市場内にある一力を薦める。市場内にあるので魚が安く仕入れ出来何でも安価で美味しくいただける。市場に近い事で尾頭橋や中川区の五女子にかけての地区には寿司店が多くいずれもうまい。中でも英寿司は昔気質の店主が居て卵焼きから注文などしては口も聞いてくれない。回転寿司は一軒もない。
 話をもどそう。バブル崩壊は一夜にして価値観を変えた。土地神話も崩れた。戦後一度も土地は下がった事はなかった。逆に土地さえ持っていれば良かった時代だったのである。一夫は故郷で趣味のホテルを経営し家康のように目配せし名古屋のホテルを見てれば良いと安易に考えていた。政志の近くからバブル崩壊の波は始まった。JCの先輩白石薬品が株式投資の失敗で破綻した事から始まった。次に遠縁の牛田家具がマンション経営に失敗し続いた。

【バブル崩壊】
 一夫の宿にも序章はあった。順調だった昭和六十年を境に売り上げは低迷するようになっていた。次の年一夫が信用し任せきりにしていた会計に店の金を二千万程横領される事件があった。会計の女性は銀行へ行くと言って出掛けそのまま着服するという大胆さで信用する一夫の目を逃れた。美代子は女の勘の良さで気付いていたが夫には言い出せなかった。経理を美代子が不得意で薄々分っているものの見過ごしてしまった。
 経理の女性は現金の他に印紙や切手を買ってはそのままチケットショップに売ったり宿の所有の絵や陶器を横流ししたりする等して金にし、ブランド品を買い、女性特有の性癖を満足させていた。政志が気付き追求したが彼女は身体検査出来ない女の武器で店を止めた。三年後松岡の経営する寿司屋で五千万を横領し中村警察に捕まったが、現金商売のスキを付く手口だった。二千万円着服されても大丈夫な程一夫の宿は利益を上げていたのだ。
 政志も胆嚢を摘出して以来、やはり仕事の情熱を失い小説を書く事や旅で不安を紛らしていた。四十歳になった時名古屋の逃したオリンピックが隣の国のソウルで開催され同級生の小笠原と梶山を誘い見に行った。十年ぶりの韓国は見違える程発展していた。朝鮮戦争の跡はなく車は現代自動車が造りソウル市内を走っていた。オリンピックのメイン会場は日本とは違いコンクリートが平らではなく建築が雑だった。地方出の年配者が長いヒゲと黒い帽子チマチョゴリを着て昔ながらの民族風だった。入場券を幾らでも買えなかなか韓国人には高価で行き渡ってないと察せられた。政志達一行は五競技見た。水泳、陸上、重量上げ、柔道、ボクシングだった。陸上は選手が特に黒人の選手は動物そのものに見えた。水泳の女子は美人が多く見とれた。面白かったのはボクシングで韓国人のボクサーがアメリカの選手に負けると会場内の照明が消えてしまった。韓国人の愛国心が見えた行為だった。
 次の年は家族でサイパンへ行った。サイパンからテニアンへセスナで渡った。両島とも日本軍玉砕の島である。戦跡を巡ったが原爆搭載の島テニアンは興味深かった。港は戦争中そのままで巡洋艦を通す為の鉄柵はそのままで滑走路も風化していた。ホテルはなく名鉄の遺骨収集者用のバラックがあるのみだった。家族で海に初めて潜った。インストラクターは名古屋から出張で来ていた。
 テニアンは潜る最高のスポットらしく、初めてなのにアクアラングを付けて十メートル程潜り底で魚と戯れた。初めて見る別世界で世界観や宇宙観さえ変わる程の美しさで竜宮城の伝説も納得出来た。サイパンでは家族と共に潜水艦に乗ったり泳いだり燈台をレストランにした処で食事をしたりと楽しい時間を過ごした。テニアンからサイパンに飛ぶセスナは乗務員がサンダル履きで曲芸飛行まがいの旋回をしてくれ太平洋の青さが目に映りこのまま吸い込まれてもいいと思う瞬間だった。
 小説はがんセンターで書き始めたジャパユキマリーが認められ風媒社から公刊された。続いて名古屋悪女物語も出版した。この頃日本はバブルの絶頂期で特に駅西の土地は海部首相の兄弟が経営するシンコーホームが地上げする等して見直されていた。政志は駅西の発展もようやく始まったと思った。彼は駅西の小さなビルを泉不動産の仲介で買収したり椿神社裏の土地を二億で買ったりと政志自身が時代に遅れまいとしたのである。
 こうして故郷に造ったホテルと合わせ宿の借金は十億円を越えていた。資産が四十億と言われた時代は良かったがその後十六年地価は下り続け政志の目算はまるきり狂っていた。時代は残酷で勝者と敗者を生み出す。バブルは株や土地を買った者を敗者に早く売り抜いた者を勝者にした。駅西でも見切り千両と土地を売却した人が居た。銀座通り一番東側にあった太閤饅頭を不具者の息子と作っていた宇佐見さんとその前の森山商店だ。二人共坪八百万で売り三億円程手にし、その後幸福に暮らしている。
 政志はバブル期に自ら作った借金に苦しむようになった。商売は攻めている中はいいが守るようになると苦しいし伸びもなくなり内部から腐って行くようになる。旅館業は他企業や公営施設からの参入もあり過酷な商売競争に曝された。特に施設が老朽化することにより競争力を失うことは致命的でありリノベーションを続けなければならない。いい時は続かない。絶頂から序々に企業の力は衰えてゆく。新しい商品を生み続けねばならない宿命を企業は背負っている。
 一夫の宿も同じことが言えた。昭和六十年台を絶頂に売り上げは下がって行った。平成になり十億円以上の借金を背負った政志はそれと戦う日々を送るようになった。里美の死は追い討ちをかけ、精神的支柱を失った政志は酒に頼るようになって行った。平成二年からの社会は実におかしな世界だった。銀行が平静を失い方向転換した。恐ろしい勢いで銀行同士の合併が始まった。銀行は弱い体力しかない企業を容赦なく切り捨てるようになって行った。拓銀や長銀が潰され北海道の企業は苦しくなり長銀に頼っていた旅館の多くも潰れて行った。山一證券等の証券会社も潰れて行った。
 一夫が新しく故郷に造ったホテルは新しく珍しさや施設の面白さも手伝って二年間は地元の企業や住民に愛された。しかし全体的に売り上げが少なく返済までには至らなかった。月百万以上必要な金利も名古屋の宿に頼らざるを得なかった。名古屋の宿の責任を負うようになった政志は企業を生き残らせる方向を考えるようになった。丁度その頃隣の宿が交通公社の教えで全面改装し政志の宿も改装を考えねばならず新たに国民金融公庫から八千万円借り改装工事をした。今までの借金と合わせ月に金利だけで八百万強銀行に支払わなければならず自転車操業状態になって行った。唯売り上げは急には下がらずなんとか経営はして行けた。
 この頃名古屋のホテルでも潰れる店があった。友人の中区の伏見荘がオーナーの自殺により倒産した。日本旅館を建て直しビジネスホテルと賃貸住宅にしたものでうまく金を回せなかったようだ。ロイヤルホテル弁天閣のオーナーの神谷さんが病に倒れ小牧に新しくホテルを建築した養子さんが返済に行き詰まり倒産と、昔からの宿も潰れる所が続いた。政志は一日三十万円近く必要な金利に毎日啄木の歌のようにじっと手を見る日々を過ごすようになった。返済は折り返し資金で間に合わせた。それには保障料が必要で保障料も重く圧し掛かって来た。
 政志と同じ事は日本の多くの中小企業にも言えた。日本経済は負の連鎖に苦しみ時の小渕首相が特別保障枠を作り過剰債務に苦しむ中小企業を助けることになった。政志は八千万を借りた。特別保障も返済金利が必要でそれも折り返さなければならなくなった。まるでシシュポスの神話のように掘った穴を埋め又堀り、埋めるという虚しい行為を続けるジレンマだった。そんな政志を見捨てる従業員もあった。
 営業の山口は女性スタッフと共に去り副支配人の河合は政志が信じられなくなったとはっきり言って退職して行った。それ以前にも出入りの多い職種でもあり同級生で雇ったハーフの村田も辞めて行った。村田は米軍にいた父親がアメリカに帰国した後母と共に捨てられた男だった。辞めて行った彼等に替って自分の会社を潰した八神が入社して来た。政志は反対だったがやはり同級生で雇っていた大西が是非雇ってくれと言うので雇った。政志は心底八神の生き方が信じられなかった。だが一夫から受け継いだ男気が彼を救ってやれと命じたのだ。
 八神は中川区で小さな鉄工場を商っていたが無計画な経営でそれを潰し行くあてもなく匿ってくれと言うのを一夫の宿に匿ってやったものである。冬中四カ月一夫の宿で匿われた後名前を変えて入社を希望した。一夫の小さなホテルは逃避先にはもって来いで他にもそんな男を雇ったこともある。その後何年かして八神は政志のもとを去って行った。八神の他にも政志のスタッフには問題のあるスタッフが居た。特に支配人の横井には賭博依存症があり時々大博打をして借金を背負い狂う時期があった。早く退職させるべきだったが頭が良く仕事も早く何かと便利なのでなかなか辞めさせることが出来なかった。他にも板長の名村は離婚してからというもの女好きで口が柔らかい事からすぐ女が出来社内の女に手を付けた。裏では仕入れ先からマージンをもらうこともあり政志を悩ませていた。
 一般の会社なら男女関係や業者との癒着は厳しく処罰されるが水商売の宿は鷹揚で見過ごしている場合が多い。しかしあえて厳しくする必要があった。

【大学生】
 故郷へ帰って小さなホテルを営むようになった一夫と美代子は創業した時のように二人で洗濯をしたりと昔を思い出し楽しんでいた所に娘の突然の死に出会い戸惑ってしまった。予想外の出来事は二人に重く圧し掛かり茫然とした日々を送るようになった。冬は閑散期で体を動かす事も少なくなり余計娘の事が思い出されてしょうがなかった。故郷の冬は雪が少ないかわりに寒さが厳しい。水道が凍る程だ。椿ばかりで他の花は咲かない。どうして娘は死んだ、そればかりを繰り返すが答えは返って来なかった。春が来て四月になり孫の篤志の東大入学の日が来て美代子は上京した。半年待てばと娘の死を悔み他の親達に交って入学式に参加した。
 政志夫婦は長女奈々子の信州大学へ車で送って行った。奈々子は浅間温泉にある女子用のマンションから大学へ通うようになっておりそのマンションへ行ったのだ。日用品を買い備えマンションを用意し政志だけはその日の内に帰名した。雪の残る畑が見えるマンションだった。二十数年ぶりの大学の雰囲気は懐かしく華やいでいてもう一度帰りたいと思った位だった。奈々子の入学以来十年間政志は四人の子の大学と向き合う事になった。政志には娘二人と息子二人居たが娘二人は則武小学校卒業後奈々子は公立中学から淑徳高校へ二女の明子は小学校から直接淑徳学園へ進み高校まで過ごし、息子達は則武小学校卒業後直接政志と同じ南山学園へ進んだのだった。
 名古屋の宿は相撲パックで北陸の客が沢山来るようになっていた。大相撲名古屋場所は毎年七月に開催され二週間と短いが貴ノ花の息子若花田と貴花田の人気はすごくブームを十両になる前から起こし相撲人気を呼んでいた。バブル崩壊以後も人気のあるものには金を惜しまず使う風習が始まっていた。北陸からは東京や大阪よりも近い名古屋が選ばれ相撲好きなファンを集めた。政志は枡席と椅子席のチケットを宿泊料に上乗せして販売した。
 夕食にはチャンコ鍋を付けた。名古屋なので味噌味で豚肉を入れたチャンコだった。単価は椅子席でも宿泊料込で三万円を超え枡席だと一人四万五千円から五万円になった。無論枡席にはABCとあり、いずれも四人単位なので三人でも枡席だけは四人分を負担しなければならなかった。若貴が人気の絶頂期はなかなか席が入手困難だった。政志は早い予約は中日新聞で遅い予約はかね秀等のお茶屋に頼んだ。売り上げが相撲期間中だけで五千万円程になり千人から千五百人の客が来た。朝稽古見学のサービスもし、車で十分程で行ける武蔵川部屋に見に行った。当時武双山が平成の怪物と言われていて人気があった。
 武双山は色黒で動作が猛獣のようで人間離れしていた。この頃から駅ビルが新しいツインビルに建て替えられる工事が始まる事になっていた。駅ビルは築五十年以上経ちかって東洋一と言われた偉容も古び新しい名古屋にはふさわしくなかった。JR東海は反対運動を恐れ旅館組合交渉にも気を使っていた。政志は東急ホテル建設反対で建築そのものを無くすことは出来ず単に客室数を減らす等の妥協で終わると思ったので建築中の工事関係者を宿泊させる事で五―六年間旅館が潤うと発言した。
 建築が始まり大工事が始まった。基礎に三年近くかかり旧ビルの基礎に使われたシベリア松は一本一本ぬかれ鉄筋に変わった。政志の旅館には東京から基礎工事専門業者の成和機工が泊まってくれた。三年間ずっと十人程は泊まってくれた。それ以後もビルが建ち進むにつれ宿泊人員は増し多い時は三十名近くになった。建築には高島屋が係わっていて数人泊まってもらった。ツインビルの建築中随分政志の宿は助かった。

【阪神大震災】
 里美が自殺してからというもの保夫は酒の量が増し依存症になっていた。職場の第二日赤も休みがちになり家族崩壊の危機を迎えた時悪いことに血栓に襲われた。最初足が痛いと整体に通っていたが治らず日赤で診てもらったが原因不明だった。もう少しで死ぬ所だったが一夫が近くのかんやま内科の先生に診てもらった所症状を聞いただけでひょっとしたら血栓ではないかと言われ再び第二日赤で診察を受け血栓と分った。
 一日が山と言われ一夫と美代子は又死がやって来ると心配した。血管に網をかける方法で固まった血を取り肺や心臓に行かないようにした。肺や心臓に行けば急死の可能性もあったのである。保夫は若い体力で病気を乗り越え三カ月の入院で生を長らえた。気まずくなった日赤を退職し一年間政志が面倒を見る事になった。保夫は医療関係の仕事しか合わずその後は再び病院勤めに戻り、居合抜や山登りで体を戻して行った。足の大静脈が詰まり歩行が少し困難で鍛える必要があった。人間の体は大きな血管が詰まると毛細血管が補うようになっており神経さえ通れば体が元のように動くようになる不思議な復旧力を持っている。
 突然の身内の死は一族に大きな影響を与えずにはおかなかった。二年後、里美の二男匡志が早稲田大学へ行き政志の二女の明子が神戸学院大学へ入学した。政志は一夫と美代子を連れ家族総出で神戸へ行きシルフィードという神戸港周遊の船に乗った。次の日は二号線を車で行き一の谷を見て平家を偲んだ。神戸学院は、西明石から北上した神戸西区の高台にある学校である。明子は大学から五分程で歩いて行けるマンションで生活する事になり姉の奈々子が日用品を備えた。小ぢんまりとした大学で政志は淑徳学園と同じく父兄会の役員となり会毎に神戸に行くことになった。総会後は明石の人丸花壇という老舗の旅館でいつも会食した。渡り廊下で露天風呂へ行ける名旅館だった。
 神戸のホテルは何処も個性的で前日はスペイン風のモントレに泊まった。神戸にはいろんな旅館が加盟する案内所神戸フロントがあり送客の多い兵庫県の客を送客してもらっていて年に二回は営業に政志は行くのが常で行くと決って神戸フロントの坂下さんと車で兵庫県内の旅行業者を回った。次の年の一月中旬、ある朝早く明子から電話が入った。すごい地震に襲われ、とにかく神戸を離れ名古屋へ向かうと言って来た。その後電話は繋がらなくなった。阪神淡路大震災である。明子は九州へ逃げ飛行機で帰名した。政志は地震の大きさに驚いた。一月後客の多い神戸へお見舞に行く事にした。神戸までは新幹線で行くことが出来たがそれから先は地下鉄を利用し三ノ宮まで行った。三ノ宮からはバスである。
 三ノ宮は悲惨だった。ビルが崩れ車がつぶれているものが沢山あった。デパートも崩れ、ひしゃげ完全に倒れたビルもあった。バスで行くと家屋が九十度回ったものや完全に破壊されたもの、まるで戦後の焼跡のようで政志は過去の駅裏を思い出した。リュックに運動靴の人が多く通常の背広と革靴スタイルは神戸にはふさわしくなかった。神戸では所々におにぎりとお茶を配る所があり優しく声掛けしている。その夜は市内で唯一営業しているオークラに泊まることにした。オークラは液状化した土地に囲まれていた。犬が一匹捨てられたのか迷ったのかうろついていた。ホテルの内部は以前泊まった時と同じく何処も傷んでいる風はなかった。

【淡路島】
 翌日の朝タクシーで神戸フロントへお見舞いに行った。神戸フロントは大丈夫だったが水道は来ておらずトイレはバケツの水で流さねばならなかった。五万円お見舞金を置きすぐ港まで行き淡路へ向った。港は起重機がすべて倒れていた。淡路は客が多くレンタカーで車を借り津名から回った。津名港はひどい状態で津名の旅行業者は何処も未来が見えないと言った。津名から洲本に行き洲本の旅行業者を数軒回った。いずれも一万円ずつお見舞を持って行った。洲本は津名港と違い地震の影響は余りなかった。阪神淡路地震は線で来たようで少しでもはずれると大丈夫なようだった。この日は淡路全体を回り洲本で泊まることにした。前年出来たばかりの白亜のホテルで一番上の階に大浴場があった。流石に宿泊客は地震対策の作業員ばかりだった。
 翌朝洲本港から関空までフェリーに乗りタクシーで大阪まで出て新幹線で名古屋まで帰った。日本は阪神淡路大震災でますます力を弱め不景気さを増して行った。政志の宿がなんとか持ち堪えたのはツインビル建設に伴う宿泊客と一九九七年に名古屋ドームオープンがあったからだ。政志はスポーツやコンサートで他県から人が集うことを相撲パックで覚えた。名古屋ドームオープンで中日戦がある毎に何万人もの集客があり中日✕巨人戦の時や大きなイベントには近県から人が集まった。ただチケットを入手するのが困難でその方法を考える必要があった。
 彼はシーズン券を手に入れようと思ったが、シーズン券は高価で先銭が要った。彼は友人関係からドラゴンズの佐藤社長を知り一番入手困難な外野指定券を四十席団体席で手に入れ他にオパール席も多い時で三十席入手した。総額一千三百万円程前年の十二月までに振り込みが必要で先銭を予約者から予約金として戴くことを決め相撲パックと同じく野球パックで売ることにした。名古屋ドームオープン以後二年は面白いように客は来た。野球パックはチケット付で組んだ。夕食は弁当を頼んだ。三菱系の菱重興産と取引がありドームの至近にバスが置ける駐車場を持っているので便利だった。
 こうして政志の宿はコンパニオンパック野球パック相撲パックと三本柱のセールスポイントを持ち特にスポーツパックは夏の閑散期に売り上げがあるので旨味があった。ドームオープン以後二年間は五千人程の客を扱い売り上げもそれだけで一億近くになった。ドーム二年目には星野監督が中日をセリーグ優勝させ日本シリーズもあったので更に売り上げは増した。
政志の男の子は南山学園を卒業後長男は地元の名古屋学院大学へ次男は麻布大学へ進んだ。次男の麻布大学は神奈川県にありやはり家族で下宿を探しに行った。神奈川県の相模原までは箱根越えをして行った。途中箱根駅伝で著名な富士屋ホテルで休みして行った。富士屋ホテルは歴史ある趣漂うホテルでロビー前の池の鯉を見ながらコーヒーが飲めた。庭を歩き別棟のバンケットルームを眺めるとまるで舞踏会の音楽が聞こえるような空気が流れている。又館内には図書室もありかつては華族の避暑に利用されていたのが頷けた。麻布大学はのんびりした大学で生徒もバンカラで勉強にはもってこいだ。次男は大学へ入ると馬術部へ入部した。

【七色紙】
 政志はこの年NACという企画会社に頼まれ戯曲を書いた。七色紙という土佐紙の物語で高知まで飛んで高知県一周を妻とした。戯曲を書く為である。土佐紙の里は高知市内から一時間程行った伊野町にある。和紙会館もあり清流の脇に建てられていて宿泊設備もある。土佐は愛知県とも縁がある。山内一豊が愛知県出身で土佐藩を治めるようになった山内家は元々の地侍を下に置き上士と下士に分け下士の身分から竜馬や中岡慎太郎が幕末出て活躍する。政志は海添いに南下し高知から中村市まで車で行った。土佐の墓は皆海の見える方向にあり行った時が六月だったので、鰹のたたきが名物で途中の飲食店で食べた。又フォエールウォッチングが出来南国の潮騒を浴びながらの旅は楽しかった。高知にある城西館は吉田茂ゆかりの宿で竜馬の生誕地前にある都市旅館としては大きく立派で卓袱料理を出してくれる。
 七色紙の芝居は遠山氏演出で名古屋の劇団ひらき座の増原さん始め団員の皆さんと芸創センターや西春の会館で上演され好評だった。

【高層ビル群】
 一九九九年に新しい駅ビルツインタワーが落成した。北側にマリオットホテルが南側に高島屋と事務所ビルが双子の当時としては名古屋一高いビルだった。
 このビルの完成で駅周辺の地図が一変したと共にビルの高層化も加速して行った。以前にも高いビルはあった。滝兵ビルが錦通りに国際センターが桜通りに建った。滝兵ビルは東京海上ビルに買収され滝兵は倒産を免れ社長はアメリカへ逃避しアメリカで再び成功したが長者町の繊維街の衰退の象徴的出来事だった。国際センタービルは円頓寺の南側に建ち多くの外国人を集め留学生修学生の集う場でもあった。階上に東天紅という中華料理店があり中村ライオンズでお世話になるようになった政志はビル内に中村ライオンズの事務所があり昼食をよく食べに行った。その他に栄には中央高校跡にナディアパークが出来名古屋の中心部はますます名古屋駅周辺と栄地区に絞られて行った。

【武蔵丸】
 相撲パックが絶頂の頃泉不動産の小酒井さんから電話があり武蔵川部屋の名古屋宿舎の鎌倉ハムの寮が鎌倉ハムの倒産により出ることになったので政志に世話してやってくれと依頼して来た。政志は武蔵川部屋は大所帯で難しいのではないかと答えたが困った親方が一度挨拶に来るという。松岡が蟹江店で二子山部屋を預かっているので知っている松岡蟹江店の支配人に聞いたがやはり政志の宿では難しいのではないかと言われ、かえって政志は少し腹立たしく、男気を出してしまった。結局三年預かる事にした。何も知らずに預ったのである。六月に相撲取り達はやって来た。四十人近い大きな男達である。まず一人ずつ政志の前で博徒がするように足を半跏に組み仁義を切る。
 とうとう相撲取り四十人近くを預かる日々が始まった。彼等の中には二人の髪結いと呼び出し一人が居た。後は親方とコーチの鈴木さん、引退した力士からコーチになった一人という構成だった。その夜チャンコ場が設けられた三階で政志の家族、県会議員須原章氏、中村区役所区長の鬼頭さん、銀座通り商店街会長の加藤さん、それに、武蔵川特別顧問のポール牧等と親方、コーチの鈴木さん、武蔵丸、武双山等と鍋を囲んで簡単な顔合わせをした。
 先乗りの数人は二週間前から来ていた。準備があるからである。場所前の一週間前に本隊が来る。翌日から土俵作りが始まった。プレハブで練習場が出来ダンプで赤土を持って来てプレハブ内部に山が出来る。赤土にセメントと塩を入れ順番に土を固め土俵を作って行く。若い衆が上半身裸で作って行く。土俵が出来ると俵で円を作る専門職がやって来て土俵が出来上る。ほぼ先乗りが一週間で作ってしまう。次の朝早くから稽古が始まるからだ。
 カチカチに固められた赤土は激しい稽古にも大丈夫で塩を大量に入れるのは傷をしても化膿しない為のようだ。稽古が始まった。まず四股を踏み次に柔軟体操で股割りをし、稽古柱では張り手をする。体が柔らかくなったところでぶつかりだ。大きな体と体がぶつかり大きな音がする。時には十人程で輪を作り四股を踏みながら土俵の回りをぐるぐる回る。朝五時頃から下の位の者から集まり十人程になるには六時頃になる。七時過ぎにコーチの鈴木さんが、七時半頃親方が来て座敷の方に座る。コーチは竹刀を持って土俵側に立ち大声で相撲取りを皆指導する。武双山は八時近くに来て大きな四股を踏んだり股割りをしたりチューブで作ったもので腕を鍛えたりする。武蔵丸はその後のそっとやって来て鉄砲をする。番付上位と下位では体の違いが明らかでいつも誰かがぶつかり稽古でしごきに合う。
 しごきに合うのは幕下上位の者が多い。関取りのぶつかりは最後の方で行なわれ、熱心な者がぶつかって行く。稽古の終りがけに十両以上同士のぶつかり稽古が始まり上位の者が大きく胸を張り頭から当る相手の頭を受け止める。大きな音がする。やはり関取り以上の稽古は迫力がある。看板力士は数人で後はつけ足しというか明らかに体力も違い、上に行くのが難しいと分る。余程素質と稽古量がないと上位には上れない。十両以下は給金も安く二カ月に八万円しか入らない。足らない部分は付人となり関取りからもらう。十両以上は月給があり月に三十万以上もらえる。他に祝儀が大きく一回で十両で十万円、関脇なら二十万、大関なら三十万円となる。
 だから人気がありお呼びの席がかかる程収入がいい。多分祝儀は税対象ではないはずだ。祝儀が親方に入りどう分配されるかは知らない。場所前にお座敷の席は集中し夜な夜な関取は正装し付人を連れ出て行く。付人は位によって何人かずつ付く。親方にもコーチにも専属の付人が付く。だから付人の居る関取や親方はあらゆる事は付人に任せ何もしない。風呂では下着も着せる。ただ棒立ちにしていればいいだけだ。トイレの紙も付人が用意する。政志は過去にもそんな風習は経験したことがある。ある宗教の教祖的な人と長唄の家元である。やはり彼等は何もせず、すべて弟子に任せていた。下の世話まで。日本の家元制度や宗教会は長くそうして受け継がれて来たのだろう。かつてからその制度は存在した。武将のお小姓も芥川の書いたお尚が若い弟子を偏愛した話もそこから来たのだろうと思う。
 相撲の話にもどるが、朝稽古は十時頃終り風呂から上った順にチャンコに付く。関取のチャンコは朝十時半頃だ。親方が上席に座り、番付の順に並んでいく。チャンコの席には関取と親方、それにコーチと贔屓筋が付く。まず丼にビールが注がれる。武蔵川の相撲取りはほとんど場所中や稽古中にアルコールは飲まず、水かミルクしか飲まない。料理はチャンコの他にサラダや健康的な料理が多く品数も多い。すべてはチャンコ番の相撲取りが料理を作る。贔屓筋から贈り物の食品も多く、それとチャンコ番を使い味付けする。たとえばキムチの場合はキムチチャンコ、肉の時は肉鍋風チャンコとなる。
 幕下以下の相撲取りは関取りの後でチャンコを食べる。残り物に栄養がある。チャンコが終ると自由時間だ。大方は昼寝をする。食って寝る。それが太る為の仕事には一番必要だ。武蔵丸は余りチャンコが合わず、ハンバーガーを付人に頼んでいた。十個程大きな手ですぐに食べた。武蔵丸は稽古の終った土俵上ではしゃいだ悪戯が好きで花火を付人に向け打ったりした。
こうして二週間が過ぎ場所前日に土俵を清める儀式がある。小さな太鼓を中央につるし二人で棒を掴み持ってもう一人の呼び出しが叩き土俵一周し清め回り終った所で初日の取り合わせを相撲甚句の口調で唄い上げる古式豊かな儀式で部屋を貸した者にとっては、一番誇りを覚える時である。
 ホテルは和室一室を親方夫婦にもう一部屋をポール牧夫婦にビジネスの部屋を関取に一室ずつ当てていた。他の相撲取りや床山、呼び出しは三階の広間で雑魚寝、区切った三十畳程をチャンコ場として使っていた。一番困ったのはゴミの多さとトイレを壊すこと。便座が重さに耐え切れず壊れてしまうのと風呂の循環装置が髪で詰まる事であった。女性の長い髪では詰まらないのに相撲取りの髪は駄目だった。鬢付け油を毎日付けその髪を毎日洗う為だろう。館内中鬢付けの香が漂う。甘味な香に陶酔する程に臭いは強い。床山も大変な仕事である。二人で三十数人の長い男の髪と格闘するのだから。
 場所が始まった。三段目から順にタクシーで県体育館に向かう。関取は午後、専属の車で行く。運転手は専属で友人かアルバイトが多い。武蔵丸は段々勝ち進んで行った。十二日目位から毎夕丸関を迎えるファンが多くなって行った。十四日目まで勝ち進み政志は不安になった。優勝でもすればパレードや出迎えはどうするのだろう。テレビで見た事はあるが実際となると恥をかかないだろうか。コーチの鈴木さんに聞いてみた。だが貴乃花も全勝で丸は負けるだろうと思っているようで暖気に構えている。仕方なく見様見真似で紅白の幕をバックに前方に和机に白布を掛けとにかく待つ事にした。
 テレビで見ているとやはり不安通り丸関が貴乃花に勝ち、優勝してしまった。大変な出来事である。酒屋からは樽酒が届く。四斗樽である。魚屋からは大きな鯛が届く。部屋を預る政志は覚悟を決めた。何故かパレード中大雨が降った。テレビから映像が流れて来る。丸関の紋付きも助手席のコーチの鈴木さんもずぶ濡れである。パレードを見守る中村警察の人々も雨に打たれている。
 武蔵丸関の車が着く頃、ロビーは何処から人が湧いたのかという程一杯である。親方が置かれた樽酒の前で大関を待つ。親方とて自分の優勝はあっても弟子のは初である。親方も誰も作法を余り知らないようだった。ぶっつけ本番である。大関が着くと、そのまま内に入り親方の出す枡酒をぐいと飲む。拍手があがる。全員が二階の政志が用意した会場に集まる。丸関が中央に座り鯛を大きく持ち上げる。フラッシュカメラの音で場内は充満する。後はなにがなんだか分らぬ程の混乱である。その日の打ち上げパーティは八事迎賓館に決っていた。一時期伊藤忠問題で悪名を世に馳せた伊藤寿永光の奥さんが経営する結婚式場だった。会場には政志の同級生達も小笠原を含め十数人集まってくれた。
 こうして政志の宿には武蔵川部屋が毎夏やって来るようになり、三年を過ぎ親方の次男が急死した事から二年伸び五年政志は世話する事になった。武蔵川部屋のエピソードは沢山あると聞いておりこれ以上は書かない。ただ五年後武蔵川は五場所優勝者を出すという絶頂期を迎え親方も理事長となったが相撲界に問題が起こり親方も責任を取り辞任した。政志はいずれこうなると予感していた。若貴が引退すると共に人気も冷え込み相撲人気も低迷する時を迎えた。政志の宿も相撲パックの客は来なくなった。政志はポール牧と友人になったがポールさんも自殺してしまった。ポールさんは政志とゴルフ友達でもあった。プレイ中に女子大生と交際していると言った。ポールさんの奥さんはマネージャー兼で実に良く出来た人だと思っていたので心配が走った。その後奥さんと別れたと聞いた。ポールさんは色香に人生を失った、と政志は思った。

【再建】
 バブル崩壊後長く暗い日々が続いていた。宿の売り上げも低迷するようになっていた。いろんな業種で倒産する会社が続いた。宿泊業界もその中にある。ゴルフ場が一番ひどかった。一夫の近くでは地元の産業が陶器に関わる会社が多く、やはり三十名以上の従業員の中小企業から倒産して行った。バブル期などはこの店でも高級陶器を使ったがあっという間に粗雑な器が好まれ百円ショップが繁栄した。職人にとっても不遇な時代が始まった。芸術家にとっても。 一夫の故郷でも村一番の資産家と言われた陶器商を営む人が倒産し驚いたことがあった。
 一夫の故郷のゴルフ場も倒産した。日東興業の新陽カントリーである。日東興業は日本最大のゴルフ場経営の会社だったが倒産間近には会員を騙すような事を平気でした。会員権を安価で募集し金を集めると倒産したのである。その後、新陽カントリーはゴールドマンサックスが買収した。
 日東興業の事件以来何処のゴルフ場も同じように倒産して行った。倒産したゴルフ場を安く買い叩く会社も現われ、同じような事は宿泊業でも言え、再建事業が流行するようになった。投資額の五―十パーセントで買い叩くのである。公共設備も同じように売り出され同じように買う業者が現れ、国や県も同じように持て余すバブル期に造った建造物を売り出した。仁義なき戦いが始まった。銀行も同じように土地価格が下がり不良債権化した会社を容赦なく倒産に追い込むようになった。政志の宿もバブル期資産価値が四十~五十億と言われたものが十数年土地価格が下がり四億弱となり各銀行も厳しい目で政志を見るようになった。政志は完全に時代に翻弄され始めた。(続く)

回想録「翻弄 ある名古屋の宿の物語 第三章かげり編」

 平成二十九年の春、現在筆者は先年の脳梗塞の後遺症による足のリハビリ中で苦労しているが名古屋駅周辺の変わりように驚いている。今までは駅の東側、名古屋で言う駅前の摩天楼化が驚異だったがリニア新幹線が近くなって来た現在、これからの駅西の変貌の仕方は興味深い。今、花の面では駅西の方がはるかに美しい。特に八重桜が咲きつつじが咲く頃駅西は花に彩られる。駅前にはほとんど花がない、ツインビルの電飾がなくなった今何か違った憩が駅前には必要だろう。
 中村区にはいろんな顔がある。近代化された駅前とは別に西側には未だに影の一面が残っている。戦争という災禍をひきずっているし山口組の中心である弘道会本部もある。犯罪が多いと言われがちだが凶悪犯罪は意外と少ない。問題を抱えた国鉄が二十数億円の負債を棚上げし民営化され中部地区はJR東海に生まれ変わった現在すさまじい勢で発展して来た。今後もJR東海を中心として名古屋地区は発展して行くに違いない。

【ステーション】
 菜種梅雨がつつじを濡らしている。向う側の道路はひどい時は三列もの観光バスが客待ちしている。駅西の内も外側も待ち合わせの人々で一杯である。バスガイドが行き先のプラカードを持ち、いそがしく歩いている。毎朝の見慣れた光景だ。駅は以前から待ち合わせに最適な場所だった。銀の柱、金の柱、壁画前、時計等いろいろ有った。人は集う。何の時もステーションは必ず利用の場所だ。出会い、別れ、幾多の再会の感涙や別離の涙を駅は忘れない。こうして駅を中心に人は集い出発して行く。汽車や電車、バスやタクシーを利用して。
 飲食店も駅を核点に幾つも出来、沢山の人々を集めている。名古屋駅もそうだ。一日何十万人もの人々が行き交い食事をし、時には酒を飲む。喜怒哀楽も駅は知っている。名古屋ばかりではない。日本全国いや世界各地の駅で。時に映画にもなる。ドラマの場であるからだ。テルミナ、ステーション、ターミナル、スタシオン、いろんな言語で語られドラマは出来た。戦争に送り出す時、避難する時、就職の時、学校へ送り出す時、数限りない出発がある。歌も出来る。すぅーとメロディが浮かんで来る。人は駅での出来事は忘れられない。駅近くに宿屋街も出来る。こうして街は広がっていく。一夫の宿もこうして出来、大きくなっていった。
 名古屋駅があったからである。時代と共に宿泊業界も姿を変えて行く。客の目的が変わったり広がったりするからだ。百貨店や量販店も変遷した。駅と共に商圏が出来た。デパートもツインビルに高島屋がオープンして様変わりした。ツインビルに出来た多くの飲食店やマリオットホテルも名古屋のホテル、飲食業にとっては影響の大きい出来事だった。なごや飯を食べさせる店も沢山出来た。きしめん、ういろ、守口漬だけと言われた名古屋名物も十指で足らない位になった。新しく手羽先、鰻のまぶし、味噌カツ、味噌煮込、名古屋名物は安価で取っ付き易く各地に広がり支店も出来た。

【バブル】
 さて本題にもどろう。昭和六十年に年間六億円の売り上げになった一夫の宿はますます充実していった。だが盛夏の後忍び寄る秋の気配に気が付かなかった。日本の景気も潮目が変わったことに気付かなかった。それは田中首相がロッキード社から嵌められた事から始まった。薄氷が割れるようにみるみる氷は解けゆく。アメリカが怒ったのだ。怒らしてはならない相手に違いなかった。日本は三十年でそれを忘れてしまったのだ。ジャパンアズナンバーワンと浮かれていた日本に冷水が浴びせられ日本は二回目の敗戦を味わって行く。
 初めは誰も気付かずバブルの美酒に酔い続けていた。政志が三十六才になった時宿は絶頂期を迎えていた。彼はホテル業界の風雲児と呼ばれ義父からも認められるようになって有頂天だった。彼は宿の三十五周記を盛大にやろうとした。彼の歴史は宿の歴史でもあり記念として残そうとしたのだ。取引先、顧客、旅行業者を集め盛大に祝った。一夫夫婦も大いに喜び美酒に一夫は一日酔っていた。海軍を終戦で追われ戦後の日本を生き抜き宿は三十五周年を向かえた。思い出が彼の脳裏を巡って酔いが心地良かった。
 日本は焼ける木が終りがけに燃え盛るように最後に大きな柱を立て燃え上っていた。バブルである。地価も株価も毎日鰻上りに上っていた。浮かれた日本人の多くが毎日それを肌で感じのぼせ上っていたし、紙面やテレビもその話題で一杯だった。戦争の狂気を忘れたように経済の戦勝に酔いしれた。秋の気配が忍び寄っていることも知らず。のぼせ上り醒め易いのが日本人の特性だ。狂気の日々は続かないのも知らず。
 一夫の宿にやってくる客もバブリーになっていた。金にいとめをつけず遊ぶ人々が増したのだ。どの会社も好景気で宴会の予算は上り、料理も高い物は活造りも追加で頼まれた。コンパニオンも多く呼ばれ、いろんなショーも頼まれた。酒は飲み放題が多くウイスキーはへネシーや高価なスコッチが。全てが狂っていた。ゴルフ場も会員権相場が上り新規のゴルフ場の募集は三千万円を超えるものが多かった。地価が上ったのでゴルフ場の三十万坪近い土地はそれなりの価値があると言われたのだ。仇花になろうとしていた。業火とも知らず人は熱狂に飛び込もうとする。誰もが経済の膨張に乗り遅れまいと日々を送っていた。昭和天皇が崩御されたのは昭和六十四年正月七日だった。宿は新年宴会時期でその日はキャンセルが二百人以上来た。 神国日本はやはり天皇の国なのだと思い知らされた一日だった。

 政志は台湾に知人が多く出来、よく台湾へ行くようになっていた。ショービジネスは日本より台湾の方が進んでいたしテレビでビデオを見るのも台湾の方が早く政志は研修に行ったのだ。台北にあるショーパブを何箇所か回りタレントを見たりした。花蓮では山岳民族の舞踏と歌のショーを見たりした。台湾は食も日本に似ていて魅力的だった。友人に伴われて行った砂糖工場で振る舞われた料理の多さにびっくりし、仕事中も関係なく出された台湾酒に台湾流で乾杯した。結婚十周年も家族旅行で台湾へ行った。一番下の息子が花蓮から台北へ帰る電車で、日本語でこの子が悪いと叱られたりもした。台湾人が山岳民族と話す時公用語が日本語である事を知った。台湾には日本統治の影響が色濃く友好的で日本語もよく通じた。
 青年会議所の活動を政志は積極的ではなかったが腕白相撲には一生懸命に協力した。一代目貴ノ花の息子二人が小学生で腕白相撲に参加し活躍していた頃でこの年からJCの協力事業の一つになって行った。彼は中小企業家同友会の北中村支部長もして何かと交友関係を築こうとしていたのだ。旅館組合の青年部では急に青年部長の千歳楼の桜井氏が止める事になり、政志が愛旅連青年部長になった。つくば万博が関東で催され政志は家族を連れ上京し、つくば万博へ行った。東京のホテルが満室でパチンコ屋の上のビジネスホテルへ泊まり翌日はつくば近くの急造の仮設ホテルでひどい目に遭ってしまった。彼はこの年JCで一緒だった杉山氏と二十一世紀の駅西を考える会を立ち上げた。二人とも駅西生まれで差別を受け、駅西をどうにかしようとの思いが強かったのである。二人はまず駅西前の三重銀行内で写真展を開いて昔の駅裏を見せることでアピールしようとした。数人の同志も集まり会は始まった。

 この時期人件費が急上昇し経営を圧迫し始めていた。人不足に各企業は悩み人件費が上ったのである。人件費が上がると全ての物価も上る。一夫の宿の給与も上り募集しても人は集まらずパートの時間給も上り忘新年会の繁忙期は一時間千円を越えた。仕事はあっても人が居なくて仕事が回らないそんな状況がどの会社でも存在するようになった。

【ホテル反対運動】
 東急ホテル建設の話が持ち上がり愛知県旅館組合が反対運動を起こすことになり神谷理事長の下会員が集まり集会を開いたが大口副理事長が東急ホテルの専務と話し合いを進め客室を減らすことで妥協してしまい、政志は少し不満を持った。東急ホテルは女子大小路に建築が始まりその後広小路にあった朝日新聞跡にヒルトンホテルが出来、やたらとバイキングで昼夜集客し名古屋のホテル事業はヒルトンを真似バイキングを売るようになり飲食業界全てに影響を与えるようになった。ヒルトンホテルはアメリカ式営業方法で推し進め比較的のんびりした名古屋のホテル業界に大きな刺激を与え各ホテルは稼働率アップと売上高を競うようになり旅館はなかなかそれに連いて行けなくなった。キャッスルホテルは乗り遅れウエストンと提携しヒルトンホテルを追うようになる。
 一夫の宿にもビジネスホテルと旅館の良い部分を持つクラウンホテルというライバルが出来、農協観光から送客の多かった一夫の宿はクラウンホテルに客を奪われるようになった。客のニーズは、客室は個室で宴会は和室でという風に移行した。その後クラウンホテルは温泉を掘り名古屋市内では珍しい温泉型のホテルとなりユニークな存在となり一夫の宿を脅かした。
JCや旅館組合はオリンピック名古屋誘致に尽力したが京城に敗北、名古屋は一時期無気力になってしまった。京城はキーセンパーティ土産等でオリンピック委員を接待し名古屋は負けたのだった。桑原県知事派が買い占めた東部の丘陵地帯は売れ残りその後の愛知万博を待たねばならなかった。オリンピック誘致に失敗した仲谷県知事は辞任し、その後名古屋球場の社長となり変な事件に巻き込まれ自殺してしまう。名古屋の観光もこれにより立ち遅れることになった。
 一夫の宿は梅田板長がうまく料理をこなし、大きな団体も扱っていたが客の中から料理の不満が噴出し政志と対立した梅田板長はとうとう去って行き替りに伸和調理師会から名村板長が来た。名村板長はわたなべ旅館の板長だったものを一夫が引き抜いた形となった。名村板長は古い形の板長で手の遅い男でその後政志を悩ませるようになる。段取りが悪く大きな団体客に料理が遅く客を逃がすようになったのである。クラウンホテルの出現や板長の交替で営業力を失いつつあった一夫の宿はその後ゲリラ戦のような企画頼りになって行った。

【外タレ】
 六十五才を過ぎた美代子は急に体力がなくなってゆき宿とは別の居住空間を求めるようになり南山町へ住みたいと言い、南山短大横にある一軒屋に住むことになり移って行った。一夫と二人の生活は軍隊の官舎以来の事だった。一夫夫婦の心のすきを突くように経理のAが売り上げを使い込み二千万円程の空をあける事件を起こした。一夫と政志の間にも少しずつずれが生まれていった。
 政志はパブシアターアバのショーのタレントを集める為にフィリピンのマニラでオーデションを行いダンサーやシンガーを選びに行くようになった。フィリピンの大統領はマルコスで夫人はイメルダだった。フィリピンの貧しいタレントの家族を思い日本へ出稼ぎに来るのもかつての日本と同じで一族の生活の為と認識し日本の豊かさの裏返しの薄っぺらに驚いた。アジアの貧しさと日本の豊さのギャップは何処から来るのか考えるようになった政志はいずれ小説を書きたいと思うようになった。アジアは揺らいでいた。韓国では光州事件がベトナムではアメリカが負け中越戦争が起こる。
 カンボジアではポルポトが大虐殺を行い中国では紅衛兵が造反有理を叫んでいる。毛沢東はアジア人全体に何らかの影響を与えずにはおかなかった。アジアばかりではなく、中南米、特キューバや南米にも。政志は毛沢東の矛盾論や文芸時評を読み多くの詩に触れた時、熱い毛沢東の志を感じ青春を思い出さずにはおかなかった。彼の時代の熱気は総じて連合赤軍の浅間山荘で終わってしまったが熱い中国のマグマは深く滲透し狂気まで生みポルポトのような狂信者を生んでしまったのだろうと政志は納得した。
 政志もアジア人の一人に違いなかったのだから。彼の経営するパブシアターへ来ていた台湾の娘達も造反有理は知っていた。ツーハンユーリと政志がへたな中国語で言うと笑って聞いていたのが印象的だった。政志はアジアを考えるようになった。政志の時代は大亜細亜を求めた一夫の世代の熱気を少しは受け継いでいるのだ。日本の敗戦でアジアは自国で独立を成し遂げなくてはならなくなった。事実そうなっていったが、貧しいアジアはいろんな誤謬を犯しながらも独立を達成していった。
 ベトナムは脂っ気の全くないホーチミンの下、アメリカに勝ち統一ベトナムが出来たがアメリカと戦う時旧日本軍人が顧問としてゲリラ戦を教えた事を忘れてはならない。アジアには古い日本の息吹が死滅せずに生き残り影響していたのだ。日本で独立の気運を学んだ若者達が故郷の国に帰り独立戦士として戦い独立を成し遂げて行った。スカルノもマルコスもアウンサンもそうだ。日本は逆にアメリカに依る民主主義を取り入れ繁栄もしたがいろんな矛盾も生み続けた。
 あさま山荘事件を考える時、政志は名古屋人として東海高校の加藤兄弟が参加していたことが忘れられない。旧弊な名古屋に加藤兄弟が育ったことは意外に思えたのだ。JCでは、少し違った動きがあった。JC全国のトップに立った麻生太郎が転向右翼の鈴木清純を使い天皇主義を浸透させようとしたことがあった。政志は反撥したがJCは何故か首相の考え方の手先になる場合がある。オリンピックモスクワ大会ボイコットの時もそうだったしグローバリズムの先兵になろうとした時もあった。
 JCは名古屋で世界会議を行うことになり政志も広報として手伝うようになった。政志はJTBの中部地区の勉強会の一員に選ばれ、各地の宿屋を研修するようになった。中部地区は広い。東は静岡県、西は滋賀県、北は富山県までと大きな観光地があり全国でも有名な宿屋がある。勉強会の参加者はお祭り広場でという催事を旅館に取り入れた山代の百万石、テレビで全国一の旅館になった能登は和倉温泉の加賀屋、舘山寺のロイヤルホテル、伊豆長岡の南山荘等であった。いずれも大旅館で売り上げも大きかった。小旅館としては野沢温泉の住吉屋、諏訪の緑水荘等があった。政志の宿は都市旅館として一軒だけだった。メンバーは各旅館を泊まっては会議を持ち政志には非常に勉強になった。その後芦原温泉の八木旅館が加わった。

【胆石】
 旅館経営に熱中するようになった政志の体に異変を感じるようになったのは三十五歳を過ぎた頃からだった。初めは蕁麻疹から始まった。最初は肉類だけだったが段々水にまで反応するようになった。それから腰痛で月に一度程体が動かせなくなった。なかなか病院でも何が原因か判らなかったが近くのかんやま内科の先生に診てもらったところ、病状を言っただけで判ったようで胆石ではないかと腹にゼリーを塗り音波を当てて胆石を探り当ててくれた。完山先生はその後政志の弟の保夫が日赤の職員でありながら日赤でも判らなかった血栓を見付け命を助けた名医であった。完山先生は何時でも患者の往診に行く忙しさで命を縮めてしまったが問診だけで大概の病気を当てる昔ながらの名医だった。
 政志は思い切って手術をしてもらうことにした。県立がんセンターで再度診断を受けた。胃カメラを飲みバリュームで胆嚢を診てもらった時、手術の担当医が胆道に石があったら諦めてくれよと淡々と言った。まだ石を破裂させる技術も取り出す技術も確立されてない時代で胆道に石が出来ると死と直結していた。政志は三十八歳で生を諦めるのかと妻や子供達の顔が浮かんだ。いつかは生を諦める時が誰にも来ることは解ったがまだ少し早過ぎると手術に賭けた。 彼は入院中になかなかまとまって時間を取れなかったのでフィリピンの出稼ぎで来る娘達の小説を書こうと思った。宿が暇になる正月明けに入院した。座って半畳寝て一畳の病室で入院生活が始まり原稿用紙に向き合った。三十歳から夜の太鼓という同人誌に詩や小説を発表していたし小説の材料は揃っていたので二週間程で百枚位書き手術に臨んだ。入院中は個室ではなくずっと退院まで大部屋で過ごした。個室は深夜バタバタと音がし家族の泣き声に変わる。病室で入院患者が死ぬ。それはがんセンターでは日常的だった。まだがん研究は未開発で五年生存率は少なかった。県の病院は古く設備も整っているとは言えない時代だったのである。幸運にも政志の胆道に石はなく胆嚢だけを取るだけで手術は終わった。流石に、術後は書く力はなくその後は階段を歩くなどして体力強化に取り組んだ。
 病室からは小牧空港を離着する飛行機がよく見えた。丁度、飛行航路になっているようだった。小牧空港のずっと手前に森が見えた。松坂屋の株買収で悪名を馳せた伊藤富士丸弁護士邸の大きな敷地だった。一月足らずの入院だったが六十キロあった体重は五十キロに落ち体力も失せていた。初めて風呂に入れてもらった時が生き返ったようで感動的だった。婦長の厳しさが印象的で、死を見続けている者の峻厳さと納得した。見舞客と喫茶室へ行くのが楽しみでもあった。手術待ちの患者達の多くも喫茶室へ来ていたがレーザー光線の為だろう顔の至る所に黒い線が入っていた。入院中にも会社の給料計算や袋を打ち出す作業からは解放されず一旦外出届けを出し半日帰社して作業した。コンピューターを動かせるのは政志しか居らず外出時間が届けより遅くなり婦長に随分叱られてしまった。
 退院した政志の人生観は少なからず変わっていた。今までの行け行けの力はなくなり人生どうせ起きて半畳寝て一畳でしかないと思うようになっていた。これから体力回復に二年程要することになる。

【北方領土】
 青年会議所で日本JCに出向することになっていた政志は北方領土返還で日本中のメンバーに出会い二回根室に行くことになった。日本は金余り状態、ソ連は国力が落ちていた。歯舞、色丹二島だけに限れば何兆円かのお金さえ保障すれば返還可能な時代でもあった。ロシア帝政末期共産主義運動の高まりに金に困ってアラスカをアメリカに売ったようにソ連が国力を失った時にチャンスは有ったと政志には思えた。しかし日本は四島返還に拘り続けそれ以後も返還は不可能になっている。
 会議中、夜は花咲蟹が食べ放題だった。特に味噌の部分に日本酒を混ぜて食べると美味で政志は舌鼓を打った。運動はノシャップ岬の先端まで行って島影に向かって帰せと叫ぶだけのものだったが先端にある民宿で出されたタラバ蟹の活けを冷えた海に泳がせたのを食べる醍醐味があった。根室のメンバー遠藤氏の店で出された秋刀魚のリュウベも美味しく臭みもなく食べられた。花咲港は海猫が舞い港で大きな若布が捕れた。花咲蟹は現地で食べるべきで空輸しただけで味が落ちる鮮度が大切な蟹と理解した。二回の根室旅行はJCの楽しい思い出を政志に残した。
 一月に一度がんセンターへ診察に通うようになった政志だったが、胆嚢を手術した患者は三分の一が肝臓が悪くなる因果関係があり心配したが政志の場合悪くならず済んだ。ただ太り易くなり体重が増すと種々の病気が出てくると言われ注意していたが医者の言う通り段々と政志の体重は増して行った。元の六十キロになるのに五年を要しなかった。政志は県の旅館青年部長であり東海三県の総会を蒲郡のふきぬきで開催した。創業者の広本さんが出席し盛大だった。
 その時までに政志は愛知県内の部員をなるべく多く声をかけ集めようと尽力した。名古屋だけの青年部から本当の意味の愛知県の青年部にしたかったからだ。日間賀の中山氏、三谷の明山荘の杉山氏、一番若い幡豆の加藤氏、豊田市内の宮澤氏、山内氏等が手伝ってくれるようになった。青年部の総会は毎年開催され参加者を集めるのに苦労していた。東京で開催されることが多くその頃長野県の藤井荘の藤沢さんが全国会長をやっていた。
 藤沢さんは旅館の革命児で会員に新鮮な風を送っていた。彼の影響力は強く今の旅館の基を創ったような人だった。宝石箱のような旅館創りが彼の思想で今でも通用するだろう。彼は脳の病気で若くして急死してしまったが後進に残したものは大きかった。全国にテーマパークが出来始め東京地区に出来たディズニーランドの集客力があり全国から客を集めるようになっていた。青年部総会の行なわれた九州の嬉野温泉和多屋別荘の小原さんも小さなテーマパークを開いたばかりで見学に行った。小原さんは五十億の大型投資でテーマパークを造り百億の借金に苦しむことになる。
 愛知県では知多半島がブームになっていた。魚友やまるはが名古屋から客を集め旅館では鯱亭の渡辺氏や三船の中村氏が活躍するようになっていた。名古屋から一時間程で車やバスで行ける知多は手頃な海沿いの観光地で海があり魚も旨かった。海水浴だけだった客が活魚を求めバスを連ねたのである。

【南山町】
 南山町に住むようになった一夫と美代子はゆとりが出来、人生を楽しむようになっていた。中村区則武と昭和区南山町では環境も文化度もまるで違っていた。話す言葉や話題もまるで違う。中村は古い町で古色蒼然としている。南山町は高級住宅が多く文化の臭いにあふれている。敷地もどの家も広く木々や花にあふれている。古い家屋の立ち並ぶ中村とまるで南山町の佇まいは違う。新しい町と農家から始まった中村とは上町と下町の違いがあった。一夫は杁中から行くのではなく石川橋から山崎川を上る形で家へ向う道を通ったので特に閑静な佇まいは長く暮らした則武とは違った。
 南山町には道三窯や美術品を売る店、西洋家具を売る店、小粋なレストランが点在しちょっと立ち寄るには最適だった。六十才を過ぎ花に囲まれ生活したいと望む美代子は戦争や商売競争、育児で忘れていた青春というものを取り戻そうと一夫を連れそぞろ歩こうと南山町を巡ったのだ。山崎川添いは桜の時期は特に美しい。師範免許を取った西川右近の家がある。借りた家はそんなに立派とは言えなかったが南山短大横で秋にはどんぐりが落ちる別天地だ。振り返れば忙しい人生を送り続けていて後を見る余裕等なかった。
 商売は政志夫婦に任せてもやって行けるようになっている。自分達夫婦は残りの人生を楽しんだ方がいいと美代子は考えるようになっていた。一夫の方は美代子とは違った。彼の年は三歳近く美代子より若く体力も海軍で養った為か強く自分では年より二十才は若いと思える。彼の世代は仕事が人生そのものでそれ以外は遊びで罪悪感さえ覚えるのだ。彼は故郷で小さなペンション経営をと考えるようになっていた。
 美代子は宿では新しい習い事として謡曲を習い始めていた。特に親しい従姉弟の駒瀬良治の三男直也が東京芸大音楽学部邦楽科を卒業し十年の内弟子を経て観世喜之門下で能を教え始めていた。独立したばかりで生徒はなく白羽の矢が立ったのが美代子で名古屋の一番弟子となった。政志も房子も同じく弟子になり共に宿で習うようになっていた。茶道は表千家、華道は村雲流、日本舞踊は西川流、能は観世と美代子は習い事の多い日課を送るようになった。政志たちも同じく多趣味になって行った。
 政春は美代子の甥ながら一才年上で年が近く幼い頃から良く気が合い、仲が良かった。政春は中国戦線で七年兵士として働き終戦後肺病で五年病床に伏せたがその後回復して中学の同級生が興した新東工業で部長をするようになっていた。その長男が正憲ことマー坊で政志の朋輩だった。政春には妹が一人居て県警捜査一課に勤める富田愛治に嫁いでいた。愛治は海軍では潜水艦乗りで水上機を乗せた最新艦に乗っていた。彼は人情家の部分があり、ある事件で裏取り捜査で犯人を連れ歩いている時、犯人を信じ過ぎ逃げないと信用したことから手錠をつけたまま犯人に逃げられるという失敗をし、出世の機会をそれ以来失ってしまった。
 夜半にやって来るマスコミの取材も女房のきぬときちんとこなしていた。マスコミの受けも良かった。その子の幸治を政志は可愛がっていた。マー坊の弟直也が東京芸大の音楽学部邦楽科を卒業し十年間の内弟子も終り独立して能を教える立場になり親の良治が美代子に生徒を紹介してくれるよう頼んだことから面倒見の良い美代子が自ら生徒になり政志や房子も同時に否応なく生徒となった。能の演目は歌舞伎の原型が多く平家物語から来ているものが多く政志には違和感なく入って行くことが出来た。政志は平家物語が好きだったのである。世阿弥観阿弥の文章もよく理解出来た。その後政志と房子は六年程能を習うことになった。
 一度上京し直也の高輪プリンスホテルでの結婚式に参加した事があった。他とは違った婚礼だった。無形文化財や国宝の能楽師が多く参加し芸道を厳しく言い通常の幸せとか赤ちゃんのこととかは全く出ず、ひたすら芸道の道が大事と連呼する婚礼だった。プロの世界の厳しさを教えられ芸術を求める人達の一途な生き方が政志は分った気がした。
 昭和六十年を過ぎ一夫の宿の売り上げが停滞するようになった。下がりはしなかったが五億数千万円から六億円の間を行き来し政志が望んだように七億の売り上げには行かず土地を買い増した事や投資のツケがのしかかる事になった。返済が厳しくなり折り返し折り返しで資金を借りる事が続くようになった。反面地価が上り続け航空会社がホテル用地を探すのに一夫の宿が狙われ坪一千万円総額五十億円ではどうかという話が来たりし今までの経済観念が狂い始めた。日本経済も完全にバブル状態に入りおかしな時代が始まった。日本経済新聞やビジネスサテライトも煽り立て日本全体が踊り出し、翻弄されるようになった。
 テレビでは静岡県熱川温泉の旅館の物語「細腕繁盛期」が視聴率を集めていた。

【裸文化】
 南山町に仮住居するようになった一夫は満足の行かない己を治められなくなっていた。彼は借り屋の経験がなく、賃貸に住むのに慣れなかった。六十才を過ぎ思うことは故郷の事だった。郷愁を覚え始めたのだ。錦を飾って故郷へ帰る、それが彼の時代の理想であった。遠い未来の事等どうでも良かった。残された人生を今まで通り燃焼させたいのだ。彼は年よりずっと若い自分の体力を知っていた。まだまだやれる、隠退など出来るもんか、再び自分の理想の宿を造ってやる。そんな欲望にあふれた。祖父以上に大きな建物を造り故郷に錦を飾るんだ。その欲望は日増しに強くなって行った。彼は宿を始めてから六十才までに二十回程の増改築を繰り返し、成功してきた。次から次へ移る時代のニーズに合わせ戦って来た戦士でもあった。勝者だった。
 この頃メガバンクの体質が変わり始めていた。資産が脹れあがった企業に金を貸し付け、利益を上げようとし始めた。金余りの時代でもあった。狙いは大きな資産を抱える六十才過ぎの経営者に当てられた。一夫の宿にも今まで鼻も引っかけなかった住友銀行名古屋支店の副支店長が相続税対策の先生を伴って来て融資を頼んで来た。今まで取引もない大銀行が飛び込みでやって来て金を借りて下さいと言うのである。世の中の動きは激しいと一夫は思った。他に東海銀行も同様の動きをした。その頃一夫の宿はある事でトラブルのあった商工中金から大垣共立銀行に大方の借金を移していた。一夫や政志はこの頃から銀行対策に悩むようになる。
 時代は常軌を失った動きを始めていた。ゴルフ場の相場価格が暴騰し新設ゴルフ場は三千万円を超える所もあった。名門ゴルフ場の権利は、一億円を超える処もあった。世界も狂っていた。カジノ経済が始まり通貨がまず狙われた。メキシコがやられ、タイやマレーシアがやられた。投機筋が自由に通貨を売り買いし相場を動かすのである。彼等はその国に住む人など関係ない。通貨を上下させるだけで利益を上げるのである。狙われた通貨はその国の経済を左右しその国の生活さえ危うくする。兆単位で動かせる力を持つ投機筋は狙った国の人々の生死さえ左右する。朝百円で買えたものが夜には千円になってしまう。そういうことが日々続きあっという間に経済破綻する。
 当時のマレーシアの大統領マハティールが怒って「これ以上通貨をもてあそぶと死ぬことになるぞ」と言い放ったことがあった。政志はルックイーストを唱えたマハティールをアジア一優れた人物と尊敬していた。
 メガバンクの融資申し込みにより一夫は現実に故郷にホテルを造ることを考えた。美代子は夫の考えを又道楽が始まった普請道楽ぐせが止まらん人だと呆れていた。政志は四十才になりJC卒業が近づいていた。この頃JCの会員の遊びが派手になっていた。バブルで世の中が狂い滅茶遊びが流行していた。繁栄の後に文化の爛熟期が来るように。人は狂い性も乱れ種々の異様な花々が咲き乱れる頃になる。
 週刊誌はヘアーヌードが各誌を飾り巷は不倫ゴッコ、テレビは政志の知り合いの天野氏が考えた乳房の小さい若々しい女性で兎ちゃんが「効能は」と温泉をはやらせ日本中が裸であふれた。アメノウズメが天照の岩戸から出て来たのを祝い裸で踊り祝ったのと同じで日本は裸文化がずっと生き抜いて来たのだ。三河の温泉にはスーパーコンパニオンが出現し瞬く間に浸透して行き普通のコンパニオンでは客を満足させなくなった。こうして性文化が世にあふれJCにも津波のように押し寄せて来たのだ。JCのメンバーは大阪からは日本人のふりをした朝鮮人の阿野スキャンダルを東京からはロマンポルノの女優を呼び派手に座敷で遊んだ。内容は書くのに憚れるので、遠慮するがチップが乱れ飛びまさしく乱痴気パーティだった。政志の宿も加担した。遊びを提供するのが宿屋の使命であると割り切った。バブルの徒花でこうした遊びは行なわれバブル崩壊と共に消えて行った。
 この時期名古屋中にいろんな風俗店が街を飾った。駅西も風俗街となって行った。スーパー温泉が賑わうようになったのもこの頃からだ。温泉と風俗店、日本中が裸文化の復活に雀躍したのだ。健康ブームもやって来てカロリー計算がレストランでは必要になった。

【ファミレス】
 中村区役所近くにスカイラークとディニーズが出来、一夫は一家で出掛けるようになった。ファミリーレストランは手頃で家族中楽しむ店造りがしてあり日本中に出来て行った。ほかにも回転寿司チェーン、ラーメンチェーン等が出来、日本中に支店を造り日本の食を変えていった。チェーン店が出来る影で昔ながらの店は滅びる運命にあった。
 こうして政志はバブルの絶頂期に青年会議所を無事卒業した。十年間のJC生活では沢山の友人も出来たが一番すごい男と思ったのは同期入会のサンデーフォークの井上氏だった。政志より四才ほど年少だったが目のつけ所が他とは違った。とかく入り込めない興業の世界に入り若い新人シンガーやグループを育てチケットぴあの基を創った。三十代の若さで死んだが仕事がいそがし過ぎインスタントラーメン生活が彼の生命を縮めたのは誠に惜しかった。
 平成二年にバブルは弾けた。まるで風船が膨らみ過ぎ最後に爆発するように。

【平成】
バブルが弾ける前年一夫は故郷に客室十一部屋の小さなホテルを一億六千万円投資して創っていた。お金は名古屋の本館を担保に二億四千万円までの返済はいつでも良く利子のみを払っていくというゆるい融資だった。住友銀行名古屋駅前の宮崎副支店長に依る融資だった。当時の支店長がバブル崩壊直後に殺されたが、その直属の副支店長で事件後別会社クオークの部長に移動されクーポンの精算を依頼してくれ、政志は再び会うことになる。別の意味で戦友であった。各銀行は融資合戦をしており随分ゆるやかな融資があったのである。
 昭和天皇は日本の浮沈を見続け、自らも幾多の悲運を見続け戦後は日本中几帳面に巡行を行なった言葉では言い尽くせない人物だった。彼は独特のキャラクターで戦犯になることもなく乗りきり国民にも愛され続けたが長い歴史を持つ天皇の中でも稀な存在だったろう。彼の死は日本には大きく、その死以後日本はいろんな業にまみれることになる。今までパンドラの箱を空けずにいたものが開いてしまったのである。年号は昭和から平成に移った。
 一夫や美代子の人生にもまもなく不幸がやって来た。一夫の故郷に造った小さなホテルは文化的で土岐市には珍しい施設でよく客が来た。近くの企業が接待に使ったのである。美代子の理想花に包まれたホテル。二千坪の敷地に建物百五十坪あとはほとんどが庭で季節ごとの花が咲いた。それは猩猩袴の群生から始まった。猩猩袴には花の中に星空があり小さな花の集合が宇宙を創った。捩花や土筆が土手を飾り花の息吹を感じさせ雪柳へと続いた。雪柳はみごとな枝をなびかせ枝こぶしや桜の開花を待った。五月になると山つつじが輝き赤や朱や桃色の爆発を見せ種々の花々が咲き乱れる春爛漫の季節となった。
 水が流れる所に咲く春蘭や二人静は可憐でそこには山菜も育った。六月から初夏に移ると虎の尾や螢袋が咲きどんな器にも活けることが出来た。夏にはまむし草や利休梅が咲いた後大きな向日葵や芙蓉が太陽に向って誇らしげで夏の終りは曼珠沙華が真紅に燃える。美代子は自然に咲く花の他に二反程田に菖蒲を咲かせ花と戯れ自分の晩年を過ごそうとした。施設も食堂に暖炉をヨーロッパから取り寄せたものを使い、他に合掌風の造りには囲炉裏と桧風呂を用意した。外に日本庭園と池を配し鯉を泳がせた。茶室も造り都忘れと名付けた。
 一夫や美代子の造ったホテルは理想を追い過ぎた趣味的要素の多いホテルで利潤を考えた施設ではなかった。投資の割には売り上げが少な過ぎるホテルで名古屋の本館に頼らねばならない体質のものだった。一夫や美代子が何人かの従業員を連れ去った後、政志は両ホテルの経営に苦しむ事になった。特に一夫夫婦の新しく造ったホテルの売り上げは年に二千万円弱位しかなく足を引っ張るようになった。

【里美の死】
 一夫夫婦の岐阜へ嫁いだ長女里美はその後どうなったか。里美は男の子二人を県立岐阜高校に行かせていた。二人とも里美が幼い頃から公文で教育したことから優秀だった。この頃里美は更年期に入り健康特に精神が安定していなかった。夫との関係もうまくは行ってなかった。前年新しく土地を買い事務所を新設しコンピューター販売に力を入れた事が重く里美に伸し掛かっていた。営業を十名程入れ互いに売り上げを競わせたが当初は順調に売り上げが伸びたものの一旦伸びが止まるとなかなか思った数字はいかなかった。一億円の投資の返済や利子は待ったなしでそれが余計に責任感の強い里美を苦しめるようになった。
 長男篤志の大学受験と重なり頭が一杯になる程悩むようになった。勧められた川柳で心を紛らそうとしたがなかなか心は収まらなかった。仕事やゴルフ等趣味に没頭し愛の失せた夫の冷淡さに自殺を考えるまでに気は落ち込むようになった。里美は何とか自分の魔の空間から逃げようともがいたが、もがくほどに輪が広がる水のように、とりとめもなく更に深く沈み込んで行ってしまった。息子の受験の為にと勇気を振るって生きようと思うのだが泡ばかりとなった水にはどうしようもなかった。精神科にも何度か訪れ薬を処方してもらったが逆に不眠に襲われ悪い方向ばかりを考えるようになった。里美は生を持て余しただ逃げたくなった。

 死の前日夫がゴルフに行くのに付いて両親のいる故郷の下へと行った。別れを言う為ではない。ほんの微かな生きる為の希望を持って。里美は故郷の生まれだった。三才足らずで名古屋へ親と共に出たので思い出はないが空気感だけは残っている。しかしすべては空だった。もう何もかも虚しく思えるのだ。親との会話も。
 美代子は里美の体から生の息吹が失せているのを直感した。一夫は少し鈍感で気が付かなかった。まさか娘が生を絶とうとしているとは思い付かなかったのだ。故郷での会話が里美の生きている間の最期となった。
 翌日の早朝五時に珍しく政志は目を覚まし呼ばれるようにホテルのフロントに向かった。

 政志がフロントに着くのと電話が鳴るのと同時だった。電話を取る。向こう側から里美の義姉の上ずった声が聞こえて来た。
「里美さん、今岐阜病院に運ばれました。生死は分りません、とにかく来て下さい」
 政志は嫌な予感にとらわれた。姉の精神が弱っているのは母の知らせで知っていた。「チャーもう駄目だわ」、そんな母の言葉が共鳴し心臓が高鳴った。政志は急いで着替え、車に乗り電話をしておいた弟の保夫の家で保夫を拾い、岐阜へと走らせた。まだ朝早く一時間ほどで着くことが出来た。
 丁度病院の前を通った時、棺を乗せた霊柩車を見た。丁度棺を乗せている処だった。政志は多分姉のだろうと直感した。政志は病院を通り越し、五分ほど離れた里美の暮らす自宅へと向かった。彼が着いた時、もう姉の亡き骸は自宅に運ばれていた。義姉が里美の唇に紅を塗っていた。里美の息子達が寄って来た。二人とも茫然とした顔付きだ。政志は里美の額に手を当てた。まだ温かかった。生を失って間がないようだ。保夫に温かいぞ、手を当ててみろと言ったが弟の保夫は怖いのか手を出すことはなかった。里美の瞳からは何故か涙が流れ潤んでいた。
 義姉が淡々と死に化粧を施している間に二人の息子が腹の空いているのに気付き弟と共に近くの喫茶店へ連れて行きモーニングを頼んだ。政志はコーヒーだけを飲みパンや果実等は二人の里美の息子達に食べさせた。二人は腹が空いているようでパクパク食べた。
 家へもどると姉の死に化粧は済んでいた。義妹が里美の手を切ったのであろう安全カミソリと簡単に便箋に書かれた遺書を持って来た。遺書にはお扶けマンの父が最後は、扶けてくれなかった等と書かれ、夫や息子その他の人の事は書かれていなかった。
 里美は手を切り風呂で血を出そうとしたが適わず首を吊ったものだった。政志には最期の情景が浮かんで来た。父母や息子たちの事を思い泣きながら首を吊ったのだろうと推測出来た。
一時間位経った頃一夫や美代子が虚ろな表情でやっと着いた。政志は保夫と共に一旦名古屋へ帰り着替えと用意を整え再び岐阜へ向った。その夜は会館での通夜である。あわただしく時は過ぎて行った。

 次の日は葬儀である。政志も追悼の挨拶をした。里美の親友の中日新聞のオーナーの娘加藤さんと息子の篤志がやはり追悼し加藤さんは美しいままに逝った篤志は価値観の違いに苦しみ死を選んだと立派な言葉で母を送った。
 岐阜城下にある焼場へ行ったが政志は父母に頼まれたにもかかわらず姉の骨を拾う事は出来なかった。同腹の死は自分の死と直結し自らの骨を拾うようでとても同席出来ず焼場外にある木の下で姉との思い出を辿っていた。泣けてしようがなかった。
 里美は四十五歳で政志は四十二歳だった。
 里美の死の影響は大きく両親はじめ政志や保夫にもダメージを与えた。一夫は娘の死が今まで兄妹達の死よりも最も悲しかった。美代子は余計花に逃げるようになり押花の絵に凝ることで忘れようとした。政志は毎晩眠剤をビールで飲むようになり保夫は酒に溺れた。篤志、匡志兄弟は母の死に負けず勉強に励んだ。翌年篤志の東大受験があり見事ストレートで受かった。政志の長女奈々子も信州大学へ入学した。親戚一同里美はどうして半年待てなかったのか、と悔んだ。

 平成二年の春、風向きが変わった。
 恐ろしいほどの下げが始まった。株も会員権も土地も下がり続け日本経済はすべて狂った。あれほど自身にあふれていた日本も首を切られた武士のように力を失って行き銀行は態度を変えた。政志の近くでは三枝会計の三枝先生が言ったように株券や会員権はただの紙切れになって行った。
 日銀の総裁が暴騰した物価を氷詰めにした事が余計全てを駄目にしてしまった。血が通わない生き物のようにゾンビとなった日本経済は迷走し続け何処へ漂流するか分からなくなってしまった。(続く)

回想録「翻弄 ある名古屋の宿の物語 第二章成長編」

 新幹線開業により大量輸送が可能になり旅も変わり日本人の意識も変わっていった。
旅行会社は各々大きくなり修学旅行、団体旅行を激しく争奪合戦をし始めた。そうなると旅行業者は旅館を自分の意のままにしたいと考えそれぞれ協定旅館組合の組織を競って作った。各地域に支部を結成し全国総会は春に行なうようになった。
 六十年安保はあったものの日本経済は着実に伸び各家庭の所得も倍増した。旅行ブームで団体旅行が盛んになり各旅行業者も団体旅行を集めるようになった。その頃になるとそれぞれ得意な分野があり例えば交通公社は一般団体、近畿日本ツーリストは修学旅行、日本旅行は創価学会等で日本交通公社が断トツの売り上げで他のエージェントをはるかに引き離していた。

 一夫の宿は引き続き日本旅行の駅内案内所と国鉄の旅行案内所に頼っていた。宿の規模ではそんなに門戸を開ける必要はなかった。宿泊料一泊二食三千円総使用料四千円程度、売り上げ年四千万円前後、三十人の従業員を養うにはそれで十分だった。人件費が一人月平均三万円もいかなかったからである。諸物価も安価で月に百万円程度で済んだ。カレー百円きしめん六十円、コーヒー百円が相場だった。
 四十畳の広間末広がよく稼働するようになった。朝は夜行で来る団体の朝食休憩に昼は昼食、宴会場に、夜は宴会と団体夕食に利用した。回転率が恐ろしく良かった。日本はサービス産業がまだ未成熟だった。一夫の宿は時流に乗っていたと言える。
フロントと客室の間に中庭を設け池を造り鯉を泳がせた。フロントの上が一夫夫婦の居室だった。六畳と十畳二間だったが今までと比べればそれで十分だった。
政志の弟の保夫は成長し小学校へ通うようになっていた。小学校へ通うとすぐ近くで評判の加藤塾で勉強を習うようになった。加藤塾の経営者は女性で熱血指導で有名だった。弟が講師でその後の連城三紀彦である。連城三紀彦のペンネームは銀座商店街にある幽泉堂の主が名付けた。漢詩の連理の枝から選んだ縁起の良い名前だった。主は印鑑造りの名人で良く知っていたのだろう。
 熱血指導の加藤田美子先生は出来ないと墨で顔に大きく丸や×を書き恥を知るように教え、保夫もいつも顔に丸や×を書かれ帰って来た。誰もそんな先生に憤りを覚える者はなく彼女のそうした熱血ぶりが知らされ余計塾は人気となった。連城さんはどうも姉に対するコンプレックスがあったようだ。
 政志は中学三年生になっていた。隣の教室の生徒はやんちゃな生徒が多くガラス窓が半分程割られる騒ぎがあった。丁度世の中が荒れ出した時代でもあった。隣の生徒は担任の浅野先生に罰として半数近くが丸坊主にされた。南山は髪が自由で普通中学は三分刈りが普通で長髪は憧れである。坊主は南山の生徒にとって恥辱以外の何ものでもなかった。中学三年生は反抗の季節でもある。反抗を窓ガラスを割る事で表現したのだろう。生徒会長になった梶山が男女交際を認めさせようと動いたことがあった。南山学園には男女交際禁止という厳しい校則があったが思春期の生徒にとっては衝動に反する規則で梶山が皆を動かしたのだろう。梶山は在日だった。叔父がヤクザの親分で複雑な面を持った少年だった。中学一、二年生は学年でも三番か四番と成績優秀だった。もの想う頃になって下り始め三年になると急下降し普通の成績になった。親は小さなパチンコ屋を営んでいた。その頃はパチンコ屋は小さく何処も家庭の延長のような形だった。製作所も小さく政志の近くの民家ではベニアを合わせパチンコ台を作る所、釘を打つ所等分かれてそれぞれ家庭で作っていた。釘師も居て中村区はパチンコの製作拠点だった。パチンコを発案した正村は大門に店を構えていた。
 政志の同級生のパチンコ屋の息子は梶山を含め栄で店を持つ池田、港の橋本、それにチューリップの著作権を持った成田等が居た。橋本の父は数軒パチンコ屋を持っていたが他は小さかった。南山学園は差別がないので親は好んで子弟を入学させたかったようだ。生徒も親の職業がなんであろうと関係なく友情を育んだ。六年一間教育なので兄弟のような関係が出来て行く。ただ中学三年生は普通校では高校受験の年であり一つの関門を通らなければならないが、南山にはそれがない為一つの弊害としておっとりとした人間に育ってしまう。中には高校受験をするものが居て十人程の生徒は他の高校へ行った。政志の友人の桜庭もそうだった。広小路の下田金庫の息子木下と二人して普通の公立高校へ進学した。デカイは、猪飼が二人いたので大きい方の猪飼で彼は柔道で東海高校へ推薦入学して行った。一つの関門を通らず貫けて残った生徒達は上の高校生活に期待を持った。新校舎に移ることが分っていた。ベビーブームで定員が五十人程増やされることになり高校では二百五十人程になるという事だった。
 中学の卒業式は教会ミサが行なわれ男女一緒に卒業した。何の感慨も無かった。卒業前の関東方面の旅行、特に東京、日光、箱根の方が印象深かった。まるでお上り同然の旅だった。珍しい事なので父の妹の東京の叔母が土産を持って会いに来た。東京へ行くのが大きな旅の時代で、親類が上って来る事は珍しい事だった日光東照宮と華厳の滝が印象に残っている。バス旅行で初めて見る東京はやはり名古屋と比べはるかに大きかった。日本は集団就職真っ盛りの時代、優雅に修学旅行する自分達との格差を覚えながらの旅行だった。
 その頃名古屋へ来る修学旅行は年二万人程で宿泊はほとんど名古屋観光会館が握っていた。小中学生が多く長野や京都等の学生が占めていた。一夫の宿には春と秋に高校生が東北等からやって来た。修学旅行よりもその出迎えをする為に前の晩から泊まる前泊の近畿日本ツーリストの職員が多かった。朝夜行で着き名古屋を素通りして京都奈良や飛騨方面へ出向く客が多かった。名古屋市も駅内に観光案内所を設け、たまに外人等も一夫の宿には送客があった。

 名古屋へ来ても観光する所が名古屋城以外にないと言う人が市内外の人に多かった。一夫は名所は至る所に有り他地域は何でもない所を名所旧跡にしているのに名古屋は有り過ぎて見逃しているだけといつも思っていた。名古屋人自体が郷土の事を何にも知らんし行政も第二次産業に目をやるばかりでサービス観光業には力を入れんといつも疑心を感じていた。事実中村区だけでも秀吉にまつわる跡や信長や清正にまつわる寺社等いくらでもある。秀吉は大阪のシンボルみたいになってしまったが本当は尾張中村で幼少期育っている。秀吉、清正で名付けられた道路町名も多い、他の観光地は何でもないような所を史跡にしているのに名古屋人は郷土愛が足らんのだと常々思っていた。事実名古屋は探していくと史跡の宝庫だということが分かる。県や市は産業に力を入れ観光に力を入れなかったのは事実だ。城の他に当時の観光客が行くのは熱田神宮、テレビ塔その位だった。
 政志はすんなり南山高校に入学した。定員が増えクラスも一つ増やされた。ただ他から来た生徒は英語力が劣り新設のクラスにまとめられた。四クラスから五クラスになった旧来の生徒にとっては新しい生徒達は新鮮でもあった。しかし彼等は異質でなかなか南山中学から上った生徒には馴染まなかった。日本は戦争という大きな傷を負ったままブルドーザーのように突っ走っていた。山紫水明だった自然も壊しつつ近代文明への扉を開け続けていた。都市化が進み東京一極集中が叫ばれそれでも日本は加速度のついたエンジンを止めることはなかった。至る処に居たもの乞いの傷痍軍人達も見掛けなくなった。冷戦下至る所で小さな戦争はあったものの日本が巻き込まれることはなかった。日本はアメリカの庇護の下ぬくぬくと成長することが出来た。この年はオリンピックの開催が東京でおこなわれる年だった。電化製品が普及しテレビも皇太子の婚礼以後家庭に無いのが不思議となった。トランジスターが流行し、テレビもトランジスターの七インチを屋外へ持ち出す者もいた。政志の南山高校のクラスへも坂(坂は二人いて大きい方)がひっそり持って来て机の下で見ていた。
 この年は南山学園の成長の年だった。大学の校舎が新設され移って行った。空いたスペースは南山の事務所と講堂、食堂に変わった。南山中学高校は真新しい新校舎の方へ移り以前の校舎へ海外子女向けの国際部が入った。グラウンドも男子部専用となり、体操はそこで行なわれることとなった。オリンピックは宿泊業にとっても大きなチャンスだった。人が動いたのである。ますます旅行は盛んになり一夫の宿も観光客がよく来るようになった。名古屋の名物はまだういろときしめんの時代だった。駅弁は松浦弁当それが代名詞だった。駅弁業界にだるま寿司がその頃割って入った。名古屋駅には名物の風呂と床屋があった。早川である。いずれも蒸気は国鉄のものを使っていた。私鉄も充実し名鉄は名鉄百貨店地下から近鉄は新しく建てられた近鉄ビルから直接行けるようになった。空港も新しくなりローカル空港から国際空港になり旅がますます盛んになる要素が出来た。名古屋から出発する新婚旅行はいままでの南紀や熱海伊豆から南九州へ移っていた。栄の国際ホテルのほか、駅前に都ホテル、観光ホテルも新しくなり新婚旅行やブライダルの中心となった。日本旅館も部屋に風呂付きトイレ付きが要求されるようになり一夫も一部改造し八部屋を対応出来るようにした。日本がぜいたくになるにつれ宿への要求は次々と高まってゆき対応出来ない宿は落とされるようになり廃業する処も多くなった。
 名古屋市もやっと観光に目を向けるようになりテレビ塔を中心にセントラルパークが整備されロスアンジェルスと都市間での姉妹提携されることとなった。名物も天むす、あんかけスパ、名古屋スパゲティ、寿がきやのラーメンが有名となった。ステーキはあさくまが名古屋人の舌に合い木曽路がしゃぶしゃぶで共に食肉業界の牽引車となり日本の食までも変えて行くことになった。又中村区の大門から発した味噌煮込みの山本屋は中日ビルに店舗を開き名古屋名物として味噌煮込みを定着させて行った。一夫の一家は山手通りに出来た焼肉の店トニオへドライブがてらよく行った。名古屋は東へ東へと発展し始め山手通も丘陵地を急に開いた場所である。トニオの肉は目の前で焼いてくれシズル効果満点で合掌造りを基本に造った本体と共にサービス方法がユニークだった。中華の信忠閣や青柳ういろうも店舗を構え名古屋大学前を通る山手通は新しい名古屋のスポットとなった。南山大学とも近く大学の教会も通りから見える位置に建った。高速道路東名や名神が開通したのもこの年で車社会が確実に到来した。

 日本人誰もが東京オリンピックに魅せられテレビに釘づけとなった。印象に残ったのは何といってもチェコスロバキアの女子体操のチャスラフスカの演技だった。大人で華麗な肢体が飛び跳ねる様に日本人誰もが驚き感動した。ソ連は日本人にとっては憎むべき国であり、戦後も毎日ラジオの短波で共産主義の宣伝が耳に入って来ていた。チャスラフスカが日本と共産国の隔たりを縮めたことは確かだろう。男子体操もみごとであった。特に小野選手は鬼に金棒、小野に鉄棒と言われた位鉄棒の演技はすばらしかった。山下跳びの山下や鞍馬の笠原やオールマイティの遠藤も忘れられない。その他ボクシングやレスリングも格闘好きの日本人にとっては人気のスポーツだった。オリンピックの最後を飾るマラソンは哲のアベベが表情を変えずに淡々と走り円谷が追い駆け一等最後運動競技場のトラックまでもつれ円谷が英国のヒートリーにかわされる等本当に劇的だった。東京オリンピックは劣等感一杯だった日本人に希望と未来をもたらしたのは間違いなかった。

 その頃政志の叔父の平吉は反面教師だった。病弱で喘息を患い麻雀屋も止め寝込むようになっていた。面倒は金銭的には妹の好子が生活費を負担し愛人の佳子が看護していた。佳子は平吉が中村遊郭から水揚げして来た。政志に平吉はいつも「勉強なんかするな、遊ばな人生は分らん」と言っていた。平吉は生来の遊び人だった。若い頃から芸者遊びで身体も持ち崩し俳句で身を立てようと放浪した人物だった。中学三年生から毎週土曜政志はひばり荘へ呼び出され従兄の輝夫と共に四合瓶の酒を空けなければならなかった。酒の修業である。つまみ兼夕食として佳子が鉄火巻をいつも出してくれた。盥にはいつも鯉が泳いでいた。鯉の生き血は精がつくと言われたからだ。平吉は政志の幼い頃からいつも新しい目を開かせてくれた。自然に対する、生き物に対する、五七五は小学生の頃姉と共に並べて言葉遊びをすることを教えられた。
 叔父の自由な考え方と一神教のキリスト教とは余り合わなかった。自我の出て来た政志は南山の考え方と合わない時があった。自我を表現するのが若者の特権である。ユダヤ色の強いアメリカのハリウッド映画を南山では見せられたが一夫の影響で嫌米的になった政志はヒットラーが好きな子供だった。十戒やベンハーは面白かったもののドイツの英雄ヒットラーに魅力を感じていた。ヒットラーは虐殺者で何百万ものユダヤ人を殺した。しかしスターリンや毛沢東、アメリカだとて無差別に非戦闘員を殺したじゃないか、勝手にそんな論理を立てそれを表現する為に上履きのサンダルにハーケンクロイツをマジックで描いた。それを宗教の時間、教師の神父に見咎められたが、政志は反撥した。それ以来どうも政志は南山学園には必要のない生徒と思われたようだ。為政者は必ず功罪がある。ヒットラーもすべて悪ではない。第一次大戦の敗戦国となり賠償金の支払いと不景気でドイツ経済はどうしようもない状況だった。そこにヒットラーが現れドイツ国民に仕事を与えた。アウトバーンの建設やらで職のないドイツ人に仕事を与え経済も発展した。

 それで止めればよかったのだが夢想家の彼は第三帝国を夢見、戦争に突っ走ってしまった。第三帝国は神聖ローマ帝国で反キリストではない。無論ユダヤ人の大量虐殺しかもガス室で殺す等非人道的に決っている。しかしアメリカの原爆投下はどうなんだ。ソビエトのやったことはどうなんだ。政志は逆に反撥しヒットラーの著作わが闘争や第三帝国等を読んだ。極東軍事裁判も矛盾だらけで勝者が敗者を裁くなど茶番でしかない。BC級戦犯は私は貝になりたい、のテレビのように可哀想でならない等を考え言葉に表わした。日本の社会の表面には出て来ないが、随分遅くまでBC級戦犯の刑は続いていたのだ。政志は右翼的少年と自覚し又先生達もそう見えるようになった。
 アメリカではケネディが大統領になりベトナムからフランスが去った後介入しソ連がキューバに核を持ち込もうとし第三次大戦の危機がやって来た。南山はのどかで静かだったが世界の情勢は次々と転回していた。政志はそんなに先鋭ではなくやはり南山風に穏やかな学園生活を送った。
 栄地区の発展の影で広小路が衰退し始めた。キャバレーも流行から遅れクラブやスナックの方に移行し、やはり広小路のキャバレーに次第に客が入らなくなり錦三丁目が盛り場の中心となった。旅行が一般となるにつれ各地に大型のホテル、旅館が出来大きな温泉場も出来た。九州では別府、北海道の定山渓、中部の下呂温泉、関東の草津温泉、熱海、伊豆、箱根、北陸の山代山中、片山津、関西の白浜、雄琴、山陰の城崎等であり、各温泉ごとに集客力を競うようになった。団体、組合、企業が集って旅行を行うようになり益々集客力のある地域、施設が望まれるようになり各県も観光課を作り県ごとに争うようになった。愛知県は遅れていた。観光貿易課の中に観光担当があり独立した課ではなかった。その為になかなかまとまって県として動けなかった。一夫はいつも他の県と比べ愛知県の動きが悪いことに憤りを感じていた。名古屋市も観光には余り力が入っておらず更に動きが悪かった。いつしか一夫は中村区の旅館組合の支部長になっていたのだ。あいまい屋の本当に小さな宿からやっとここまでにしたという感慨が湧いた。中村区だけで組合員は五十人近くいた。名古屋はじめ一夫の宿は名古屋でも集客数では一、二になった。子供も二人は南山へ一人はまだ小さいが育つだろう一夫は半ば人生を満足していた。
 愛知県の旅館組合長はべんてん閣の神谷一英さんになっていた。神谷一英は立志伝中の人だった。故郷を出て名古屋市内にやって来て馬車引きで儲け出しその後は出来た資金を元に日銭商売に徹し駅前のマーケットでは立ち飲み屋で権利を得ていたし中京競馬場にも食堂を出し愛知県中に六店のホテルを持っていた。名古屋駅前に旅館を出したのが宿泊業の初めでその後、稲沢や小牧にホテル兼レジャー施設を。栄にもホテルを出し当時珍しいチェーン店を持ったホテル業のオーナーだった。神谷氏の下に中支部長の大口喜三が居た。大口さんは非常に発想の多い人物だった。一夫は、神谷氏は実行の人、また大口氏は口先の人と常々思っていた。
東京に初めて出来たビジネスホテルは全国に飛び火し、次々と各都市に出来た。名古屋に一番最初に出来たのは駅から徒歩で二十分程離れたローレンホテルだった。駅前の毎日ビルにニュー名古屋が出来たあと名鉄グランドホテル、都ホテルを各私鉄が造り名古屋もホテルが増えていった。ユニークなのは東山に藤久ホテルが出来たことだ。プール付きの本格的レジャーホテルで名古屋には早過ぎるのではと思わせた。ラブホテルとは違い日本のレジャー化を先取りした先駆的施設だったが、やはり名古屋人には向かず余り客は来なかった。藤久がつぶれ番頭をやっていた伊藤が一夫の宿の番頭になった。頭の良い男で仕事は良く出来たが遊ぶのも好きだった。夜仕事が終わると必ず遊びに出掛けた。いつ寝るんだろうと思わせる程で思った通り続かず一年半程で止めてしまった。
 人事面で一夫を悩ましたものは板場の問題だった。板場の世界は一夫の経営する宿とは別のもので板場組合が別に命令系統を握っているやっかいなものだった。従業員であって宿に完全に仕えているのではなく自分達は包丁一本の世界でいつでも親方の指示で何処へでも旅に出るという組織だった。一夫の宿は伸和調理士会という組合からいつも板場を派遣してもらっていた。いつも板場は親方の指示で動いた。どんなに店がいそがしかろうと親方の命令で何処へでも行ってしまう組織だった。小僧の時から育てられ古風に育てられるので大柄偏屈になった。
仕事を覚えるのは親方の作るのを盗み見して覚え、決して手を取り足を取りという教え方ではなかった。調味料の分料もすべて盗み見てメモに書き止め覚えるのである。特に日本料理は古来からの伝統を重んじすべて決め事なのでそれを覚えるだけで大変な作業だった。何度も一夫は煮え湯を飲まされた。一度等はいそがしい忘年会の際中、総上りと言って板場全員が止めてしまい困ったことがあった。日本料理は江戸時代に完成しそれを頑なに伝承して来たのが板場社会だった。日本文化の伝承と同じで家元制度みたいに各流派があった。一夫の宿は小さい頃は一人の板前で済んだが段々多くなり多い時は四人の常時雇いといそがしい時に頼む手板が居た。手板を頼むのも親方次第で給与も日に八千円程と高かった。板前は粋で男らしくよく女にもて一夫の宿でも女中さんとの恋愛事は日常だった。一夫は子飼いの板前をいつも欲しいと思うようになった。しかし、なかなか容易な事ではなく結局家の者が腕を持たなくてはと考えた。政志を板前にと思ったが政志は不器用で向きそうもなかったし興味も無さそうだった。そんな頃伊藤さんの弟子でまだ若い坪井悟が来た。頭が良くすぐ日本料理を覚え急の客に対応する等要領も良かった。
 一夫は彼を折を見て板長にした。坪井は短気ですぐ切れる事もあったが商品開発能力があり宴会客が増え、客が客を呼び店もいそがしくなっていった。この年ビートルズが日本にやって来て名古屋でもコンサートが催され政志の同級生の山下が参加し楽しかったと興奮していた。催されたNHKのコンサートホールは栄にあり美術館も併設していた。ビートルズは政志の世代に多大な影響を音楽のみならず人生にも与え続けていった。美代子の世代をリードしていたのは戦後ずっと美空ひばりだった。毎年御園座でひと月間の舞台を行なっていた。美代子は友達と共に見に行った。
 政志は流行し始めたボーリングに初めて同級生の武山と中川区のセントラルボールへ行きプレイを楽しむようになった。一ゲーム三百円とまだ高価だったが小使いでまかなえた。ボーリング場は名古屋駅まで送迎バスが出ていてそれを利用した。宿には民音の紹介で芸能人が出入りしていた。グループサウンドの各面々もやって来た。はしだのりひことシューベルツ、ヒデとロザンナがやって来て美代子はロザンナや他の女性歌手と女子浴場に入ったと話していた。井上陽水はボサボサの長髪と古いジーパン姿でやって来て一夫も美代子も彼の事を知らなかった。加藤登紀子は妊娠中やって来た。
 政志は学校が終わると栄にある小さな栄図書館や愛知県立図書館へ寄るようになった。ごくたまに鶴舞図書館へ行った。図書館は本が沢山読めると共に他の学生と話せる社交場でもあった。政志はオーソドックスな明治の日本文学や十九世紀末のフランス文学にのめり込んだ。又漢詩が好きで特に影響を受けたのは中唐の詩人李賀とパリの憂愁を書いたボードレールだった。政志は段々多感な青春を送るようになった。
政志の姉の里美は東京女子大か奈良女子大へ進学したがったが名古屋を離れることを嫌った一夫夫婦に反対されそのままストレートで行ける南山大学へ進学することを決めた。里美はよく宿のフロントの手伝いをしたり好子が営む質屋の年末のいそがしい時は手伝いに出掛けた。里美の同級生には新聞社の社長の娘やデパートのオーナーの娘、医者の娘等裕福な家庭の娘が多くいつも自分の処程貧しい家はないと呟いていた。
 里美は高校二年生から広島出身で名古屋工業大学へ通う大学生から家庭教師として数学や化学を教えてもらっていた。教師の名前は高橋君と言った。初めて政志が会うタイプの人で多趣味で勉強以外の色んな事を教えてくれた。姉が好きなようで二人でいる時はちょっと違う空気が流れていた。流行のウエスタンが好きでメロディを口遊むのが常だった。広島でも爆心地からは離れていたようで余り原爆の話はしなかった。ジョン・ウェインが銀幕の大スターでインディアンとの戦いでは騎兵隊姿が凛々しくまぶしい程だった。巷ではウェスタンカーニバルやロカビリー全盛だったが南山は無風でオーソドックスな音楽や文化が主流と言えた。美代子は小さな手のり猿を飼いいつも伴うようになり家族旅行にも連れて行った。高橋君も伴った。美代子は誰でも家族のように扱い皆そのように家族の一員になった。人懐っこかったのである。悪戯心もあり高橋君とも大浴場に入り恥かしがるのをからかったりもした。高橋君は名工大の建築課で習い将来も有望だった。一夫夫婦は里美との結婚もいいかもと考えていたようだった。
 里美も政志も思春期に入っていたが二人とも奥手で恥ずかしがりだった。里美はいつも人気があり求愛する男も多かったが誰にもなびかず内にこもっていた。小学生時代同じく学級委員をした野口君は里美への片想いを思いつめ自殺してしまった。そんなことやらで里美は臆病になっていたのかもしれない。それともあいまい屋の過去の記憶が邪魔していたのかもしれなかった。高橋君は家庭教師をやめてからもよく実家に帰るように遊びに来た。
一夫の宿へはたまに長野県や岐阜県の山村の小学生が修学旅行に来た。修学旅行生は宿に一合ずつ米を持って行くのが決まりだった。食料難の時代の名残だった。ポリバケツを用意し米を集めた。米は翌日炊いて食事に出した。又、宿では受験生を受け入れるようになった。個室と相部屋があり個室は一泊二食七千円位、相部屋は一泊二食五千円位で受けた。まだ家庭はそんなに豊かではなく受験生は各地を泊り歩き、経費もかかるので相部屋も人気があった。各旅行業者も受験シーズンになると受験生の宿と名を付けて積極的に販売するようになった。修学旅行と受験生の宿には一人二畳位で部屋を用意した。十畳なら五、六人の定員という具合に。食事は広間か食堂を利用した。添乗員は一人一室必要で四畳半か六畳の部屋を使い、バスの乗務員も同じだった。小さな修学旅行でも三人は要るので日本旅館は広い部屋が多いのでそういう時は邪魔な存在だった。
 各旅行業者の手数料も最初八パーセントだったのが十パーセントは当然となり将来高くなることを予想させるようになっていた。旅行は旅行業者が支配するようになり固定客のいない宿は支配されるようになった。大型化を図った旅館はどうしても旅行業者頼りになり旅行業者も無理を言うようになった。車の両輪という言葉を良く旅行業者は使うようになったが実際は一方通行が多く主従関係の形になっていった。
 宿屋にとって一番大切なのは女将で次は仲居頭だ。美代子は名古屋で有名なやり手女将の一人となり従業員掌握力も持っていた。隣の旅館の女将は運転手として使う愛人が居たものの女手一つで権力を持っていた。商売敵として有名だったのは大門にある久本旅館の女将が美人女将として有名で交通公社に受けが良く送客してもらっていた。美代子にライバル意識があり送客実数を競っていた。駅前の千代田の若女将は東海銀行一の美人を大女将が引き抜いて来て女将にした位でやはり美人女将として有名だった。各旅館に女将はいてそれぞれ個性があったが名古屋の宿は温泉場程ではなくどちらかというとのんびりしていた。日本で有名なのは和倉温泉加賀屋のカリスマ女将だった。北陸という一種独特な風土の中で仲居さん則営業マンという厳しい環境の中で仲居を掌握するにはすご腕が必要だった。日本中から良い仲居を集めるのは女将の大切な仕事でその腕力により売り上げ額が決まり加賀屋は女将の力で売り上げを伸ばし後進ながら和倉一の宿になっていった。美代子には加賀屋の女将程ではないが姉御気質があり仲居(名古屋では女中)を掌握していた。女将は人情の機微が分っておらなければならない。 過去を持つ女性が仲居になるケースが多くそれを理解してやらねば連いて来ない世界なのだ。女中頭の八重子は身持ちの固い女性だったが若い頃の犯あやまちで二号になったことがあり亭主が死んでそれ以来、男性嫌悪していた。客に対して抜群のサービス良しではなかったが間違いない接客をし女中頭として皆を押さえる力もあるので頭になった。次の副女中頭は敏子でやはり二号さん上りだった。愛想が良く接客も親切なので宿では一番人気が良かった。他に十数人女中は居た。若い娘は九州出身が多く集団就職で名古屋へ来て最初の仕事が合わず紹介やら直接面接で来た者が多かった。他には芸者あがりで三味線を弾ける者やいろんな所から流れて来る者がいた。やはり九州出身の則子はどこか魅力のある女性で客にも人気があり噂も多かったが板前と運転手の藤井とを天秤に駆けた後、結局藤井を選び結婚して二人共々宿を止めてしまった。男女の恋愛事は始終あり、誰と誰がくっついたとか別れたとか日常茶飯事なので一夫や美代子は余り干渉しなかった。
 政志は杁中からバスで通っていたが帰路途中栄で下車することが多かった。栄は名古屋の中心でバス停の向う側に栄町ビルが出来、一階にスパゲティ専門店わかが出来た。早速悪友と共に食べに行った。ナポリタンを頼み食べてみた。近くの駅西商店街にあるケンコーという喫茶店で卵を下に敷いて焼いた名古屋独特なスパゲティしか知らなかったので専門店のスパゲティはあっさりしていた。タバスコの使い方を知らずケチャップと間違える友人もいたりで新しい出会いは新鮮だった。粉チーズの存在も初めて知った。栄には丸栄の隣に明治屋と丸善がありもう少し歩くと服部時計店等があった。
 栄図書館や県立図書館、美術館NHKホール、テレビ塔等があり栄で降りると便利だった。NHKホールの南側にプロテスタントの教会があり金城の生徒達が利用していた。市電が廃止され駅前のロータリーにあった青年の像も栄のセントラル道路は噴水とともに出来た。青年の像のモデルとなったのは駅内にある早川浴場の縁者ということだった。
政志は城好きな少年だった。愛知県内にある城を調べ絵に描いたりしていた。名古屋城へもよく行き石垣の美しさや複雑な造形に感心した。石垣の組み方、石にあるいろいろな印に不思議なものを覚え調べると石垣を造った各藩の印だと分った。薩摩なら丸に十の字とか各種の紋様があった。二の丸から入るとそこには旧陸軍の兵舎跡がありそのまま名古屋大学の寮として使われていた。又「王名により死を賜う」という碑があり不思議に思った。後日分ったのは幕末斬死された渡辺新左衛門等を祀る碑だということだった。幕末名古屋でもそんな事件があったんだとつくづく思い尾張が何故官軍をすんなり通したのか分って来た。名古屋城を歩いて一周するといろいろ分って来る事があった。外堀には瀬戸電が走っていてうまく利用したもんだと感心したし東側の内堀にはテニスコートとして利用されている処もあった。石牢もあり清洲から移築された隅櫓は信長を連想させ興味が湧いた。城の西側には軍の病院が壊されキャッスルホテルに建て換わっていた。北側の内堀は一番眺めが良く幾重にも織りなす石垣の美しさは比類なく堀の水も満々とし土居下と言って抜け穴があるという事だった。
 城内部には御深井おふけ丸という場所があり陶器が焼かれていたと聞いた。大凧に乗った盗賊柿木金助は何処で凧を上げ金鯱の鱗を剥がしたのだろうと連想したり名古屋城の歴 史を紐解いたりしていた。更に資料を調べて行くと金鯱は豊臣から大阪夏の陣で破って戦利品として奪った慶長大判や小判で造られた事、有事の時は降ろされて戦費として使われるよう家康が考えた事、江戸時代何度も降ろされ改鋳され藩費として利用され鱗が随分薄くなってしまった事等つくづく家康の配慮の深さに感動した事等思いをめぐらせ面白かった。もし城を枕に官軍と戦っても善戦したのではないか、日本の歴史もすっかり変ったのではと推測し余計に郷土の歴史に興味を持っていった。
 名古屋は城下町であると共に門前町でもある。熱田神宮の門前町としても栄え両方合わさって名古屋が出来た。日本武尊やまとたけるのみことゆかりの地であり頼朝も生まれている。信長が今川義元と戦う時戦勝祈願し勝って帰って信長塀を寄進した史実もある。熱田は武将を千年にも渡って輩出した地でもあり神宮内の蔵には草薙の剣他奉納された多くの刀や槍がある。勉強してゆくと熱田も実に面白く学生時代の政志には面白かった。又美代子が戦前開催され観覧した汎太平洋博の会場となった鶴舞公園にも行ってみた。ロココ風の大理石の噴水があり当時を偲ばせた。歩いてみると古墳があって桜の名所ばかりではないと知らされた。
 政志は郷土の歴史好きの少年になっていった。又図書部というサークルに入り読書にふけった。姉の里美の影響で白樺派の文学を読んだりヘルマンヘッセやロマンロラン、ヴィクトルユゴー、トルストイ等オーソドックスな本ばかりを読んだ。時には文学散歩として同級生の筧(かけひ)と共に藤村堂へも行った。中津川まで電車で行きバスに乗り換え馬籠まで行った。全く田舎の中にあり鄙びていて一軒ある峠の茶店が印象に残った。スポーツは苦手だったが同級生の鬼頭と県庁近くにあったスポーツ会館で柔道を習ったがいっこうに上達しなかった。又学校のサークル山岳スキー部に入り山へ行くことになった。入部の際入ろうと勧めたのは菅だったが菅は一度入部の際顔を出したきりで止めてしまった。政志だけが残りクラブ活動を続けた。山歩きは初めてではなかった。従兄の輝雄や小山のヒロサと共に白樺湖や槍ヶ岳へ行ったことがあった。白樺湖は幻想的で美しかった。長野駅からバスに乗り高山植物が美しい七島八島から車山を歩き白樺湖へ出た。夏なので草木が若々しく輝き高山植物が各種華麗な花を咲かせすばらしい景観に心が躍った。燕岳から槍へ縦走した時は最初の行程は景色もなく黙黙と林の中を歩いて登って行くだけでつまらなかったが一端開けると眼下にすばらしい景観が広がりなんとも言えず心が解放された気になった。ただまだ中学生だったので体力がなくいずれもバテバテで疲れきってしまった。白樺湖はバンガローに泊った。まだ宿泊設備は余りなくホテルは一軒もなかった。バンガローに寝て近くにある炊飯場で飯盒で米を炊きカレーで夕食を取った。槍では山小屋に泊った。粗末な山小屋にすしづめで男も女も枕を並べて休んだ。歩荷が八十キロ程の荷を背負いゆっくりゆっくり登っていたのが印象的だった。山岳部では主に御在所へ登った。御在所はいくつもルートがあり時には山中で死ぬこともあり油断しては駄目ということだった。山岳部では岩と岩の間を抜けるへっつりという技法やザイルの使い方を習った。山岳部には同級生の柴田がおり彼は山登りをストイックに取り組んでいた。政志は余り彼のようではなく楽しむ山登りの方が好きだった。個人的に菅と御在所を別ルートで行ったり山副と恵那山へ登ったりした。
 御在所へ行った時は水晶岳から川を伝って歩いた。川辺でテントを張ったが夜中に山鼠にじゃがいもをかじられてしまった。川の水は清々しく流れていた。恵那山は中津川からバスに乗り行った。雨の中を歩きがま蛙がやたらに居たのが印象的だった。山歩きではないが山副とは静岡県の寺で泊り勉強したのを覚えている。学校では長距離走で体を鍛えられたり校舎の避難階段を利用しザイルの勉強をしたりした。

 高校二年生になると政志は自分の脳の線がいろいろ繋がって行くのを感じた。成績も良くなっていった。クラス分けで他から来た生徒も一緒のクラスになった。英語はAとBの成績に分けられ政志は成績上位のAの方にクラス分けされた。すでに大学受験の用意だった。姉の里美は本当の所東京の大学へ行きたかったが一夫や美代子に反対されそのまま推薦入学出来る南山大学の英文課に進むことが決った。南山の生徒はのほほんと育つことが多い。穏やかな環境で伸びやかに育成されるため厳しい社会とは合わない場合が多い。先生も同様に良い人が多い。厳しかったのは英語教育に情熱を燃やす中村敬先生だった。答えられないと容赦なくピンタが飛んだ。数学の福山先生は五島列島出身で祖先からのキリスト教信者で人徳者だった。国語の久田先生はフェミニストで女とは言っていかん、おみなごと呼べなどと言う人だった。
 漢文の徳川先生はいつもだらしなくズボンの前が汚れていた。社会の家田先生は優しく歴史を教えてくれた。体操の伊藤先生も厳しくはなくそれぞれの能力に合わせ教えてくれた。図工の大嶽先生は個性を重視し自らも日展の作家だった。高校になると先生も若干変わり体操は尾ノ内先生となった。英語は黒川先生になった。社会は新任の星野先生等であった。音楽は都築先生だった。政志は何故か尾ノ内先生に嫌われ体操の時間いつも殴られた。政志を見るだけで殴りたくなるようで、毎時間終わりがけにピンタを張られた。政志が殴られてもせらせら笑うので余計腹を立てたようだ。政志の時に見せる反逆態度が気にくわないようで放校したいようで父親も学校まで呼び出された。十五歳、十六歳は社会や学校に反逆したい要求が出て来る頃であり、政志はその衝動を抑えられなかった。
 ただ幸運と言えたのは共産主義に出会わなかったことだ。社会はその頃コミュニズムが荒れまくっていたのに。日本が戦後共産主義の洗礼を受けたのはロシアのラジオ短波放送ではなくシベリア抑留組が実際帰国してからだ。彼等の一部は帰国するとすぐにデモをやり労働運動に参加したりした。美代子の姉の夫のように帰国してからすぐ鉄屑屋を始めるのは力がある方でなかなかそうはいかなかった。大方は抑留生活を引き摺って帰って来て社会に流された。同級生の菅の父親もシベリア帰りだったが彼は妻の元へ帰り職場の炭鉱へ復帰した後塩化ビニールの仕事を始めた。子供を失くしてからの再出発で姉の居た名古屋を頼った。当時流行した唄声喫茶ではカチューシャやロシア民謡がよく歌われていた。進駐軍は主にアメリカ兵でその下でもソ連の影響はいろんな面で入って来ていた。労働運動や学生運動も盛んで六十年安保で燃え上り次の時代を予感させていた。南山学園はその動きとは全く無縁で保守的と言えた。七十年安保が迫って来て中国や朝鮮の思想も日本に入り込んでいき、日本の急速な発展もいろんな矛盾を露呈し何か次の時代の恐怖を予感させていた。
 そんな頃キューバ危機が起こり、世界は核戦争一触即発状態だった。冷戦の終局は近いのかと思わせた瞬間フルシチョフがケネディに妥協し事なきを得たが本当に危うい立ち位置に世界はあったろう。ベトナム戦争も泥沼化しアジアも不安定だった。沖縄は完全に基地化しベトナム戦争の前線となっていた。B52が沖縄から飛びベトナムに爆弾を下していた。日本では公ではないが軍需産業が息を吹き返し日本自体がアメリカ軍の製造工場になって経済もうるおった。アメリカの支配が続く日本には逆に毛沢東やチェゲバラの思想が入り込み、ますます日本は曖昧模糊の国となった。世界のうねりとは関係なく政志達姉弟は愛に包まれ幸福な学校生活を送っていた。
 一夫の宿は利益が上るようになり車はクラウンとローレルを二年ごとの車検のたびに換えた。一夫は税金の問題はすべて三枝会計に頼むようにしていた。なるべく節税したかったからである。何か問題が起きるともめ事は義姉の好子に税の問題は三枝会計にと決めていた。税理士の三枝先生は頭の冴えた男で税務署にも顔が効いた。三枝電機の息子で出生も良く一夫とは飲み友達でもあった。この頃法人になれ、と一夫に勧めていた。一夫はまず有限会社にし頃合を見て株式会社にするつもりだった。銀行は中央相互銀行と大和銀行毎日集金に来る名古屋相互銀行を利用し新しく駅前に支店のある三和銀行を利用するようになっていた。まだ金を借りたことがなく預けて定期を積むだけの関係だった。

 美代子は西川流の日本舞踊を習い呑み込みが良く型をすぐ覚え、客に踊りを披露するようになり名取の免許を取り次はお茶の習い事に熱中するようになった。冬休みに政志が駅内を歩いていると偶然同級生の小笠原に会った。ジョニーウォーカーの紙袋を大事そうに持っているので聞いてみると、沖縄旅行からの帰りで今から家に帰ると言う。まだビザの要る時代で観光して来たと聞いた。沖縄はまだ海外旅行と同じで通貨もドルを使っていたようだった。政志はその冬もやはり志賀高原へスキーをしに行った。同級生五人で行った。割と旅行は自由で南山は解放的だった。
 車は急速に販売台数を伸ばし一家に一台あるようになっていた。道路も急速に整備され名岐バイパスも出来、美代子は免許を取り初乗りを、名岐バイパスで行なった。政志には恐怖の時間だった。名古屋近郊では新しい温泉が出来た。長島温泉、尾張温泉でいずれも歌謡ショーを見せ、多くの客を集めるようになった。いずれの温泉も車で行けば早く、ちょっと遊びに行くには適当だった。この年は政志の修学旅行の年で夜行の寝台列車に乗り九州へ行った。長崎ではグラバー亭や殉教した碑等を見、兄弟学校の長崎南山を訪問した。次の日熊本城を見て自由時間を楽しんだ。熊本城は清正の造った城であり西南戦争で傷ついた堀石が生々しかった。宮崎で青島へ行きザボンを食べて帰った。長崎で食べたチャンポンの味がいつまでも残っていた。
 一夫は姉の里美に宿をつがせるか政志にするか迷い始めていた。もし家庭教師の高橋と結婚することになれば里美の線は消えるが政志ではどうも頼りないしと思っていた。美代子は長男に後をやらせるのが当然と考えていた。一夫は宿屋の商売には料理の修業が一番必要だといつも反省を込め考えていた。いつも板場には苦労させられた過去の思いがあったからだ。その頃駅前にあった名古屋館が東名高速近くに蕎麦屋を開店し転業していたし信忠閣は香港に店を出したり焼売の店を出したり中華料理に転進していた。一夫も転業を考えなかったわけではない。朝早くから夜遅くまで仕事漬けの宿屋より、きりの良い飲食業が魅力に思えた。旅館への大きな波がやって来ていた。駅前の地価が高騰し宿屋では商売が合わなくなって来たのだ。地価が上がれば税も上がり、収益性が良いとは言えず売却して転業する宿や全く止めて人生を遊ぶ者も現われた。駅前と比べ駅の西側の地価は余り上らず近代化の波も来ず街はどんどん古びて行った。駅西商店街も人が通らなくなり住宅街はそのままだった。一夫の宿はそのまま営業を続け旅館数が減った事で客が増していた。駅近くにビジネスホテルが出来始めたがまだ本当のうねりとは言えず旧来からの一泊二食の宿屋が多かったし、客も一泊二食を望んでいた。まだレストランも少なくフランチャイズの店もなかった。駅西にも地下街エスカが出来その他各地にも広がって名古屋は地下街の町と言われるようになった。

 政志は高校三年生になり南山も三年生に対し大学受験のモードに入った。大学に行かない生徒は数人しか居らず全員が大学受験を希望し南山大学へ推薦入学する者は四十人程で他は受験組だった。受験組も国公立志望向きと私学希望組更に理科系か文化系が細かく分けられた。政志は美術の先生に将来専門に美術をやるように勧められ親に相談してこいと言われたりしたこともあったが東洋哲学に興味を覚え印度哲学のある京都大学への志望を決めていた。私生活放りっぱなしの宿屋を嫌いお金から逃避したかったのかもしれない。最初は竹林の七賢人の生き方が理想と思い次に変人の生き方に憧れた。特に林士平等寛政の三奇人に興味を持った。又王陽明の陽明学に興味を持ち大塩平八郎の知行合一の実行の考え方に傾斜していた。高二末の実力試験がたまたま良く先生からもこのままガンバレば京大は大丈夫かもしれないと言われその気になっていた。
 この年は中京商業が強く春の甲子園で優勝した年でもあった。帰りのバスで同じ杁中から乗り込む中商の野球部と会いよく知っていた。中商は八事近くに校舎グランドを持ち南山とはいがみ合っていた。よく南山の生徒が殴られたりたかられたりする関係で集団で の喧嘩が起こりそうであった。ひばり荘の叔父平吉の喘息が悪化し伏せるようになり甲子園の高校野球のテレビにくい入る事が多かった。叔父の死は近く夏までだろうと言われていた。テレビはカラーが普及し始め宇宙中継も始まりケネディ暗殺の映像が流れショックを世界に与えた。ソビエトとアメリカの宇宙へのロケット競争は激しさを増していた。アメリカが月へ飛ばし成功すると今度はソ連が女性宇宙飛行士テレシコワを飛ばし私はカモ メと言わせたりと世界を驚かせた。宇宙旅行もそんなに遠くないなと希望を抱かせたが地球上では血なまぐさい戦争が続いていた。
 ベトナム戦争が激しさを増していたのである。アメリカはベトナム戦で出口が見えなくなると常軌を逸するようになっていた。枯れ葉剤を散布しあらゆる植物を死滅させ森を裸にする等又枯れ葉剤に毒性があり遺伝子に大きな影響を与え次世代までも影響する事などおかまいなしに散布した。新型ヘリコプターで機上掃射しナパーム弾を使いまるで節制がなかった。勝つ為にはなんでもやるのがアメリカと世界に思い知らせた。日本人は太平洋戦争でのアメリカの無差別爆弾投下や原爆投下、火災放射を思い出し再び恐怖で一杯になったが、その裏では日本人がベトナム戦争には大きく加担していた。名古屋でも三菱重工や豊和工業は軍需工場として稼働していた。同級生の小笠原の工場では銃器のバネを作っていた。三菱自動車のパジェロは他国へ持って行きそこで銃座をつければ山岳戦に有効だったし三菱キャタピラは戦車の整備に三菱航空機はヘリコプターや戦闘機の修理に利用された。国鉄は物資輸送に特に航空燃料の輸送に活躍した。米軍の戦死者は日本へ運ばれ遺体は洗われ化粧されてから米軍へ帰され親族の元へ帰された。
 又米軍の休暇で遊びに来るのも沖縄や日本本土だった。政志はそういう現実とは無関係で温かい南山や宿屋の息子として育っていた。日本はこうしていろいろな矛盾を抱えたまま発展していった。飛行機は戦後初YS11が始めて飛んだが戦後の航空機製造はアメリカの圧力でなかなか進まなかった。航空機とは別に車産業は順調に伸びていた。豊田も日産も本田も。電化製品もどんどん売り上げを伸ばしていた。一夫の宿も順調でまもなく来る大阪万博を待っていた。万博を機に名古屋へも客がやって来ると期待させていたからである。夏になり平吉の喘息はますます悪化し、入退院を繰返すようになった。夏の甲子園で中商が春夏連覇し病床でそのテレビを見て平吉は二、三日後に息絶えた。名古屋の葬場は八事に整理されていたのでタクシーを連ねて行った。政志は自分の息子のように可愛がってくれた叔父の死が悲しくてしょうがなかった。親戚が集まりはしゃぐ弟を殴ったのを覚えている。
 愛知県旅館組合長神谷一英は非常にユニークな発想の持ち主で組合の事務所愛旅連ビルを栄の一等地を買いそこにレジャービルを建てテナント料でまかなえるようにし五階に会議室を六階に事務所と理事長室を造り千人の組合員を束ねるようにした。そればかりでなく借金体質の宿泊産業には金が必要と商工中金から融資を引き出せるように組合が斡旋し手数料が組合に入るようにし又春にホテルレストランショーを真似、組合独自で旅館近代化設備展を開催し、利益を上げるようにした等ユニークだった。自分は女子大小路にロイヤルホテルを造り愛知県旅館組合の総会はそこで行なうよう抜け目もなかった。環境十六団体の組合長も兼ね権力も持っていた。神谷会長の下の副会長は中区の支部長の大口喜三氏が付きやはり大口氏もかなりのユニークな人物だった。愛知県内では知多方面は海水浴客が客を集め、渥美地区は伊良湖にビューホテルが出来ハワイアンショーで売り外人ショ ーの魁となり客を集めていた。
 犬山では明治村が集客力があって人気があり迎帆楼が犬山城の近くでガンバッテいた。三河では蒲郡がまごおりにひがきが出来、ふきぬきと競うようになっていた。蒲郡ホテルは独自に固定客を集めていた。島では篠島で古城館が老舗を誇り、日間賀は釣客で客を集めていた。定光寺の千歳楼が急拡大を図り名古屋の客や多治見等から客が良く来た。名古屋では藤田観光が錦と金山でワシントンホテルを造り、ビジネスホテルの走りとなった。以後錦三丁目が夜の盛り場の中心となっていった。ホテルを中心に街が形成される場合が多い。宿泊客が飲食や二次会に利用しそれを目当てに店を新しく作る人が居て街は順々に出来上ってゆく。郭でもかってそうであった。郭を中心に街は形成した。ホテルには他の地から人がやって来ていろんな文化も流れて来る。そこに新しい文化の出会いがある。名古屋人とは違う異文化との出会いで洗練された新しい文化が出来てゆく。錦三には色んなクラブやスナックと共に夜食用のカレー店やうどん屋がオープンし他にステーキの店、懐石の店、しゃぶしゃぶの木曽路いろんな種類の店が出来ていった。
 温泉場でも同じだ。旅館を中心にお土産屋や飲食店が広がっていった。ところが大旅館が館内に土産物や夜食処を設置した為に浴衣がけで街を気軽に散策する人が少なくなり街が衰退してゆく現象がこの頃出始めた。旅館が売り上げの囲い込みをすることにより温泉街が衰退し街の魅力を失い、地域のイメージが悪くなり地域に集客力が無くなり旅館自体も客が来なくなるという悲劇が起こった。街は人ぐるみで話し合いを持ち、相互に利益のある方にもってゆくべきでそうした街だけが生き残る方向がこの頃出来始めた。
 一夫の宿は規模がまだ小さくこの現象にはならなかった。一夫は町内でいろんな役に付き町の有力者でもあった。そういう意味では懸命であった。名古屋は観光に余り力を入れず魅力的な信長秀吉家康等の史跡ばかりでなく他にもいろんな歴史を売る力に欠け観光地とは言い難かった。ういろ、きしめん、守口漬が名古屋の土産の代名詞で新しい息吹はまだ年月を必要とした。そんな中で両口屋と長崎堂が気をはいていた。旅館では中小企業センターが出来ると共に隣接の長谷川旅館がビルに建て直してもらい、千代田もビルに又雇用センター近くの舞鶴館もビル化した。大門にある旅館はそのままだった。
 政志は受験勉強に近くの河合塾へ通った。まだ校舎は古いビルしかなく名古屋校が駅西にあるのみだった。高校生の生徒数は百人もなくまだ予備校が一般とは言えなかった。問屋街はにぎわっていた。長者町や岐阜の繊維街は遠くから外商が来て盛んに取り引きしその度に喫茶店を利用した。コーヒーの松葉がチェーン展開し始め大型店を造った。長者町では名古屋弁の商人言葉が使われコーヒーや冷コーで商談するのが通例だった。一夫の宿に広島からハチダイヤの営業マンが泊まるようになった。駅西商店街では西河被服が仕事場の正服を扱ってハチダイヤの商品を販売し坪井仐店では洋仐を盛んに商っていた。一夫の宿の近くに万勇が日用品を全国の産地から仕入れ軍隊式教育で社員を育て大きくなっていた。駅西には他にもいろんな問屋があり側島商店は絹を商い山増耐火は炭を小川商店ではラタンを等幅が広かった。
 南山大学英文科へ進んだ里美は男女共学ではなく交際さえ許されていない環境から急に男性が教室に居るのに戸惑ったが段々慣れていった。もともと勝気な性格で何ごとにも挑戦的でいろんなクラブにも出入りしすぐ大学生活を楽しむようになった。女子部からそのまま一緒に来た友人も多く他の高校から来た学生とは違い南山学園の空気にそのまま解け込んでいった。軽音楽と落研のクラブに良く出入りし友人も作った。父の勧めで運転免許を大治自動車学校で取り車にも乗れるようになり、たまに仕事も手伝うようになった。
 政志は受験勉強に身が入らずむしろ読書にかける時が多かった。余り意義が感じられない受験勉強より生きる意味は何かを教えてくれる読書の方が意味があると哲学者を読んだ。政志はある種のニヒリズムに落ち入り抜け出せなくなっていた。キリスト教のように一神教に身を委ねるなど考えられなかったし他の宗教の多くも信じられなかった。政志は印度に鍵があるような気がし印度哲学に魅かれていった。印度哲学科のある京大を志望した。京都大学は東洋系にも強く中国の詩の翻訳も多くしていた。多くの生徒達は生活を重きに置きその為に受験校を決めるが政志はもっと根源的なものが必要だった。多くの古典を読むうち政志はもの狂ほしさが自分に合っていると思ったし、魂が言霊を欲しがっていると感じるようになっていた。政志はローマがキリスト教を国教にしそれ以後こじつけの多くなったカソリックより東洋哲学の方が本物に思えたのだった。実利的な一夫の生き方より雲を見上げぼんやりとする詩人に心魅かれた。
 政志は中原中也の詩集をポケットに入れどこにでも持って行った。中也の詩がその頃の自分に合っている気がしたからだ。汚れちまったの詩は心を抉っていた。太宰や三島は彼の世代の多くが影響を受けたようにやはり彼も同じだった。こうして三年生は本の中で生活し卒業式を向かえた。小笠原が何か変わった事をしようと政志に提案し彼等はマントを着て出席しようということになり政志は叔父の形見の古い外套を借り下駄を履いて卒業式に出席した。それが精一杯の表現だった。良くない事は政志が生徒代表挨拶の途中遮ったことだ。政志と小笠原は講堂から追い出され卒業延期の処分を受けた。すでに小笠原が早稲田大学の受験に成功していたので幸い退学の処分は免れた。二週間後親と共に高校へ行きやっと卒業証書をもらい卒業することが出来た。
 京大受験には楠崎と二人で行った。宿泊は新橋の旅館で前を舞妓が歩く受験とはかけ離れた宿だった。翌朝寝過ぎて仕方なく知らない女性の車を止め京大まで乗してもらいやっと間に合った。こんな具合で受かるはずもなく受験に失敗してしまった。ただ国語の試験に夏目漱石について書けという問題だけは解答用紙いっぱいに書いた。夏目の作品はすべて読んでいたからである。政志は早稲田と京大の二つしか受けておらず二つとも失敗し浪人することになった。予備校は東京市ヶ谷にある城北予備校を選んだ。陸軍省のあった所が陸上自衛隊の本部になっていてその隣に城北予備校はあった。東京大学入試合格者が多く先生も東大出身者ばかりだった。下宿は杉並区下井草にあった。前もって姉の里美が決めてくれていた。中央線の荻窪からバスで二十分程乗り下井草まで行きバス停の前に下宿はあった。二千坪程の敷地に農家の面影を残す建物の横に二階建ての下宿屋は建っていた。一畳千円で月六千円の家賃、風呂もトイレもなく、風呂は近くの風呂屋へ行かねばならなかった。その他に生活費として月三万円もらいそれを食事代や日用品に使った。洗濯は自分で手洗いした。
 予備校では東京出身者と地方出身者の学力の違いに驚かされコンプレックスに悩まされた。数学は東大受験の問題が出されとても連いてゆけなかった。京大は先生の眼中になかった。南山は地方の有名校でしかないと思い知らされてしまった。梅雨時になり高台にある予備校の校舎から雷が回りのビルに落ちるのが見えた。市ヶ谷の坂は急で陸上自衛隊本部には適していると思った。まさかそこで三島由紀夫が切腹しようとは思わなかった。小笠原がよく下宿を訪れ、早稲田が授業がなく暇していて麻雀をよく誘った。政志はうるさく感じたが受験勉強に連いてゆけない淋しさも手伝って麻雀に走ってしまった。麻雀は父母が警察に呼ばれるのを後で見て知っていた。別に教わらなくても役づくり位は覚えていた。そのうち井上が下宿に住むようになり同級生も時々やって来るようになっていった。
 市ヶ谷からよく散歩で浪人同士近くを歩いたことがある。飯田橋から四谷へ、違う日は赤坂見附へ一度は国会図書館の人達に紛れ、赤坂離宮へ行ったことがあった。まだ改装前で飾られた七宝や各種の装飾品が珍しく日本の伝統美が無雑作にいっぱいあり明治の遺稿を楽しんだことがあった。浪人時代は今春みすみす又過ぐという感じで過ぎ、翌春京大は受けず早稲田と学習院を受けた。早稲田は学園紛争が荒れに荒れ授業は余り行なわれていなかった。南山で教わった歴史の家田先生の勧めもありマンモスでない学習院大学の仏文科に行くことになった。
 入学式は中央にあるピラ講で行なわれた。ピラ講はピラミッドのような講堂という意味だったろう。学習院大学には旧街道跡や乃木邸、堀部安兵衛の血洗いの池等が残っている。フランス文学科は教授陣が揃っていてサンテグジュペリの山崎先生モーパッサンの鈴木先生ル・クレジオの豊崎先生、サルトルの白井先生等がいて政志は文章論の篠沢秀夫先生がユニークと思った。政志は西武新宿線で下井草から新宿へ行き山手線で大学のある目白まで通っていて途中で降りる新宿で途中下車することが多かった。新宿は魅力にあふれていた。紀伊国屋書店があり、アートシアターがある。天井桟敷がテントの芝居をやり舞踏集団もいる。フーテンが巣くっているし樽小屋がある。ジャズ喫茶やロック喫茶もあり新しい文化が溢れていた。
 深夜喫茶では詩人がものを書いていてごちゃまぜの世界は彼の育った駅裏と同じ臭いがした。次第に政志は新宿の迷宮の渦に巻き込まれていた。まるで万華鏡を見ているようで新宿自体も次々と色や模様を変えめくるめく宇宙のような星雲に追い込んだ。政志は方向性もないまま大学生活を送るようになっていた。
 一夫は隣の幼稚園が郊外の子供の多い所に移転したいので売却したいと園長から言われ迷っていた。幼稚園は敷地百五十坪あり土地代は二千万だった。その他に宿を拡張した場合別に二千万合計四千万円必要だった。今までの借金とは違い大きかった。冒険に思えた。持ち金は二千万近くあったがその上の二千万は足らなかった。親類に借りるにしても額が大き過ぎた。行きつけの大和銀行に頼みに行ったがなかなか是と言わず検討しますと言ったきりだ。流石に踏み切るには即決出来なかった。
 そんな折相場で儲けないかと勧誘され色気を出して手を出してしまった。綿花相場で最初は営業の言う通り買っていればすぐ元手の倍程になったが、ある時一日で綿花が値下りし損失を出してしまった。それを取り返そうと資金を追加したがとうとうストップ安をつけ、元手どころか一千万の損失が出て追証を要求された。そうなると一夫は目が真っ暗になり営業の言う通り追証を出し又更に追加資金を出してしまった。営業の言う通り相場を続けていると損失が増えるばかりで、一夫はとうとう腹が痛み入院してしまった。
 余りのストレスで十二指腸潰瘍になってしまったのだ。入院は十日程で済んだが相場を決済するのに大事な二千万円の大方失くしてしまっていた。どうしても隣地は欲しく美代子のへそくりや親類で二千万円は工面したがまだ二千万円足らず、再度大和銀行に頼みに行くとようやくOKが出て安堵していると借りる三日前になって支店長が謝りに来て本部決裁が降りないから駄目と言われ困っていると以前声をかけたことがあった中央相互銀行が融資に応じてくれ事なきを得た。一夫は反省し自分を振り返ってみた。普段は冷静なのに勝負事になると熱くなる自分に気付いた。相場には魔力があることも分かりもう二度と手を出すまい忘れるために仕事に熱中することにした。

 初めての大きな借金だったが大阪万博の関連の予約が順調に入って来ていた。特に団体予約が多く料金も良かった。大阪の宿泊は満室で名古屋から万博会場まで新幹線を利用すれば一時間ちょっとで行け大阪での宿泊を避ける団体には丁度良かったのである。ある程度の目安がつきほっとしていたが人が足らないのに気が付き従業員集めをしなければならなくなった。大阪の宿は従業員集めに今までの三割増しで募集し始め全国から人を集めた。 
 名古屋までそれは普及し人件費が高騰して行った。名古屋でも一割から二割は上った。板前も増やし板長に連いて三名の見習いが来た。その中に中津川出身の坪井がいた。里美は大学に行きながら宿のフロントを手伝っていた。政志は学習院へ行き、保夫は東海中学へ入学した。一夫は借金の不安はあったものの万博関連でいそがしくなり売り上げが上りひとまず安心し仕事に打ち込んだ。三月末で幼稚園は立ちのき、早速一夫は造築に入った。幼稚園の校舎を一部残し六十畳の広間に改装した。西側だけは取り壊し地下駐車場付きの二階建ての客室を八部屋造った。すべて風呂付きトイレ付きの部屋で旅行業者の要望に答えた。一番西側にあった土蔵はそのまま利用し一夫夫婦の居室とした。幼稚園を買収したことにより総敷地三百十坪部屋数三十室中広間大広間のある収容人数百二十名の名古屋では大きい旅館となった。一夫夫婦が住み初めた土蔵には古事記伝、神皇正統記、明治初年の尋常小学校の教科書等が置き忘れられており、驚いたのは銀で換算された鵜飼家の持っていた骨董品のお下見帳や造り酒屋時代の大福帳の数々だった。お下見帳には数々の貴重な書画や古陶器等が記載され銀換算で四貫目あり当時の鵜飼家の栄華が彷彿と浮かんで来た。
 元々この地は幼稚園以前は茶室が建っていて母屋と続いていたのだろう、庄内川まで自分の土地で歩いて行けたと聞くから明治の世は相当な資産を持っていたと推測出来た。二代続く株式相場の損失で鵜飼家はその資産と骨董品を失い力を失ってしまったが戦後すぐの頭首はまだ様がつき影響力を持っていた。幼稚園を買収し造築したことで一夫の宿は宿泊客宴会客共に増し、繁栄の基礎となった。襲われた不景気も旅行ブームで相殺され一夫の宿は日銭を稼ぐようになった。しかし宿泊業は間違いなくホテルの時代に変わりつつあり特に宿泊特化型のビジネスホテルが旅館に変わりつつあった。
 温泉地は違う動きをし大きな旅館が増えて行った。一夫もいずれ一泊二食の宿ではやってゆけないだろうと予感していた。この頃ビジネスホテル勉強会があり一夫も参加したことがあり確信を深めた。政志は一夫の事は考えず自分中心にものごとを考えていた。里美にも政志にも恋の季節はやって来ていた。里美は弟の政志は本に埋もれた人生を送るようにしたいと考えていたが自分自身は南山大学の軽音楽の人達と交際し始め、恋を芽生えさせていた。南山大学の軽音楽部はデパートの屋上のビアガーデンで演奏のアルバイトをし遊ぶ金を得てたまにする演奏会の元手としていた。又ダンスパーティでもパーティ券を売り金にしていたが里美はそのマネージャーみたいな事をしていた。

 政志は学習院では写真部や戯曲研究会に所属していたが戯曲研究会は革マルの巣のようなクラブで学習院大学の学生運動のアジトでもあった。彼の書いたものも革命的ではなくマルクス主義とは離れていて書き直すように言われ政志は書く物はもっと自由でなければならないと反撥しクラブとは離れていった。写真は撮らなかったものの写真部の部員達と交わり友達も多く出来た。臼井さんや関川がいた。
 フランス文学ではエミールゾラやモーパッサン等十九世紀末の文学からダダイズムシュールレアリズムの作品に変わって行きアンドレブルトンのナジャに影響された。映画ではゴダールの奇狂いピエロが自分の事のように思え印象的だった。美術はエコールドパリの画家達を見てシャガール、ミロ、カンディンスキー、クレーを愛し特にクレーのまだ手探りしているのシリーズには心を抉られた。詩はエリュアール、ランボー、ロートレアモン、無論ボードレールの悪の華には心振え愛読した。夏休みに南山の親友菅と東北を旅行した。チリ地震の爪跡が三陸の海岸に残っていた。金色堂や毛越寺を見て藤原三代の栄華に驚き東北文化の高さを知った。大学の勉強は興味がなく学内の図書館でよく本を読んだ。図書館近くの公孫樹がすばらしく狂う程すべてが黄色く思えた。日本の古典では一休宗純の狂雲集がピカソみたいに生命感があふれ驚きやはり手離せない一冊となった。大学生活は本の虫で過ごしていた。新宿西口が整備され始め公園で手造りの詩集を売ったりして買ってもらった事もあった。だが閉じこもって本ばかりを読んでいる時代ではなかった。マルセル・デュシャン等の芸術否定の時代であり、サルトルのアンガージュマンで政治やデモへの参加が問われ政志も態度を決めなければならなかった。ベトナム戦争激化でどうしても関係ないとは言えなかったのである。何処か政志は戯研の主催するデモに参加した。戯研で渋澤龍彦氏を呼んでシンポジュームを開いたことがあった。渋澤先生は山崎先生と東大文仏科の同期でその関係で嫌々みえたようだった。サド裁判の最中で性の問題がクローズアップされた時代だった。デモをする戯研とはぜんぜん美意識が合わずかみ合わないまま終わってしまった。フロイト学派が芸術世界にも勉強された時代でフロイトを吸収しなければならないと政志も何冊も書物を読んだ。フロイト左派のE・フロムの自由からの逃走はナチスドイツを理解する上で重要な作品で影響を受けた。エロスは大学生の政志には乗り越えねばならない問題でもあり興味を持った。政志に恋人が出来、性の要求に逆らえずいろいろ煩悶した時代だったからでもある。性愛は古来より文学、芸術一般の永遠のテーマで表現出来た者が本物と言える。ピカソもダリもそれが多くのテーマだった。

 とうとう大阪万博が始まり、びっくりする程の人が動いた。縄文時代の生命力をテーマとした岡本太郎の像が中央にシンボルとして建った。一大イベントである。一夫の宿にも予想通りそれ以上に近くなって予約する団体を含め沢山の客が来た。怖い程の人の流れだった。会期間六カ月の間に六千万人もの人が動いたのである。一日多い時で三十万人以上の人が押し寄せた。大阪には五万人程のパイしかなく京都、滋賀、三重県を含めても十数万人で愛知県へも客が来た。日本中から客が来たので一泊では済まずついでに二泊三泊と近くの観光を楽しんだのである。万博が日本人の意識を変えたのかもしれない。仕事漬けの日本人が旅で楽しむことを覚えたのである。一番動いたのは農家だった。  農協が動いたのである。全国の農協は組合員の農家を集めバスや鉄道を貸し切り万博へと押し寄せ、帰りに伊勢や鳥羽等伊勢地区を含め関西地区へ山のように動いたのである。以来農協は何かある毎に会員を集め全国各地へ旅立つようになった。

 関西地区ばかりでなく東海地方の至る処の観光地へも人は流れ観光地を育てた。万博は日本の宿を育て観光地も育てたのである。まだ農協観光はなく各旅行業者が農協を動かしていった。万博は更にファーストフードの味を日本人に教えその後ファーストフードは定着しチェーン店を各地にオープンさせ、日本人にも完全に定着させていった。政志もデイトで万博に行き初めてフライドチキンを食べてその味を一生忘れなくなった。万博は日本の食さえも変えて行った。この頃から各フランチャイズの飲食店が出来始め全国展開するようになったのである。万博の目玉は宇宙から持って来た月の石だった。宇宙旅行も遠くないと思わせたのもこの頃だった。一夫の宿では団体が連日やって来た為いそがしい日々が続き従業員全員が疲れ果てる状態で人手不足が深刻な状態となり、一夫は人集めに奔走するようになった。借金は順調に返済出来た。里美はやって来る外人客の通訳兼フロントを手伝っていた。一度オーストラリアの青年と万博に行き帰れなくなって大阪で泊まると言って美代子に叱られ、当日帰名させられたことがあった。里美の英語は中学高校で南山学園での会話授業で慣らされていたし大学も英米科で流暢となっていた。南山学園ではすでに外人教師で会話を中学から教えていたのである。教育学習では南山の後輩の竹下景子を教えたりしていた。
 日本の産業は急速に発展していたが光と影が出始めた。公害が各地で問題化し始めたのである。四日市では喘息公害が出てひどい時は名古屋まで悪い空気が流れて来ていた。四日市の奥座敷湯の山は名古屋から適当な観光地でロープウエイで御在所頂上まで行けスキーを楽しむ事も出来るようになり政志もホテル湯の本へ泊りスキーを楽しんだことがあった。愛知県内では茶臼山の小さなスキー場しかなく伊吹山と並び名古屋からは手頃なスキー場でもあった。正月になると元旦に熱田神宮を詣で一夫の宿では従業員を連れバスをチャーターし伊勢神宮か豊川稲荷へ正月明けの暇な日に行くのが習慣だった。名古屋人の多くがそうしていた。おちょぼ稲荷へ毎月末に行くことがあった。おちょぼ稲荷は水商売の為の稲荷で縁起かつぎに詣でる名古屋人も多くなり帰りにはなまず料理を食べるのも風習だった。日々がせわしいので一夫夫婦にも従業員にも親睦が必要だったのである。

 政志は親とは無関係で恋人との愛欲に耽りジョルジュバタイユの本に凝っていた。まるで生活感がなく遊び呆けていたのだ。当時若者に流行した映画「明日に向って撃て」や「俺達に明日はない」や「イージーライダー」のように暮らしていた。新宿では百円寿司が売れ始め学生がバイトで働いていた。政志の頭の中はまるで迷宮の世界に入っていた。なかなか逃げ出せず無為に日々をなんとなく送っていた。政志は行き詰まっていた。彼を変えたのは恋人が妊娠し。子供を堕ろす事件があった事だ。彼に生活の当てがなく親も不安に思ったのだろう恋人と引き離され、無理やり堕ろされてしまった。彼にとっては屈辱だった。政志は学習院にもどったがそのまま仏文科の勉強を続ける気力を失っていた。ただ生活力をつけることばかりを考えるようになった。
 丁度その頃新宿騒乱事件が起きた。学生運動は激しさを増し行き尽く所まで行かねばならず機動隊との対決もいつかは最終決戦が行なわれなくてはならない状況だった。同級生の早川が革マルで参加した。早川は東京理科大学の学生で政志が紹介した学習院哲学科の桜井さんと同棲するようになっていた。早川は行動的な男で革マルでも先頭でゲバ棒を振るい戦う武闘派でもあった。彼は新宿騒乱の時も真先に参加しやはり先頭で機動隊に突っ込んで行き逮捕された。政志は別のグループで参加したが後ろの方に混じっていただけで行動隊とは言えなかった。その夜早川が帰って来ないのを心配した桜井さんが政志の下宿を訪れ一緒に探してくれと頼み、政志は早稲田大学まで二人で歩いて探しに行き早川は見つからず早朝まで探し回った。 結局早川が逮捕されているのを知りお互い分かれ、下宿にもどった。あれこれ行き詰まった政志は心をクリーンにしようと旅をすることにし下宿に住むようになった同級生の梶山と長野へ一旦行くことにした。梶山の従兄は長野市からバキュームカーで下処理の契約をしたり、パチンコ屋を経営する等していた。従兄は徳山氏と言い、後にかっぱ寿司の創業者となった人物だがまだその頃は新婚で梶山と政志はその奥さんの手料理を戴いた後やはり徳山さんの持つアパートに住み込み、パチンコ屋のアルバイトをする事になった。玉運びの仕事だった。まだ自動化しておらず手打ちの時代で玉が詰まるとガラスを叩いて店員が呼びつけられ、あわてて玉を運びチューリップにサービスの玉を入れる簡単な作業だった。
 アパートは寒くせんべい布団に二人くるまって寝た。二週間程で政志はそこを止め梶山と別れ上野から北海道へ向かった。学習院大学仏文科の同級生小山健を頼ったのである。東北本線に乗り青森駅で降りその夜は青森で一泊した。雪の舞う青森は歌の津軽海峡冬景色そのものだった。次の朝青函連絡船に乗り北海道へ渡った。汽車に乗り換え札幌へ向かう。列車ではストーブが焚かれ汽車から出るススが雪を汚していた。小山家は政志温かく迎えてくれた。小山の父母は国後からの帰国者で北方領土返還を願っていた。バイトはたぬき小路にある丸美百貨店の土産物売場の店員で木彫りの熊を観光客に売る仕事だった。店の前ではアイヌ人が木彫りの熊を実演で彫っていた。
 札幌は毎日雪で毎朝の雪おろしが大変だった。寝る時は大きな丹前のような布団で寝せてもらった。暖房はコークスで大きなコークスの貯蔵庫が室内にあり政志は北海道の暖房の良さにびっくりした。小山の家は月寒公園から近く休日には公園へ行き北狐の多さに驚いた。時々配送の車で荷物を札幌駅へ持って行き時計台等を見た。一月近く働いた時、政志は一夫夫婦が探しているのを丸美の社長に知られ連絡されたと知り、丸美を止め小山宅を後にし北海道旅行へ出掛けた。三月初旬で流氷のあるサロマ湖から釧路へ行き、港でびっちりと着氷した凹凸の激しい流氷がはるか彼方まで連なっているのに驚き、人っ子一人いない波止場で日本の広さを再認識した。汽車で網走へ迎いレーダーがソ連を向いているのを見て日本の軍備を思った。
 海岸には小さな小屋があり漁師がいそがしく働いていた。網走ではコロポックルの木像を買い実家への土産とした。再び青函連絡船に乗り本土へ戻り学習院の同級生平塚のいる天童へ向かった。平塚家も政志を優しく迎えてくれ、おいしい地の酒をいただき久しぶりに酔ってしまった。平塚家には校倉造の米倉があったり、トイレも四畳半はある和室に黒塗りの便器が置かれ、しかも小便器は藍色のすばらしい絵柄の陶器で平塚家の位の高さを推測させた。平塚の母が御飯を差し出す時いちいちお盆に載せて奉仕するのを見て昔ながらの古式ゆかしい接待に感動した。平塚家から少し山の方へ歩いて行くと更に雪深い山村が表れ、雪囲いのあるかやぶきの東北風の家が点々と連なり別の空間に来たようでまるで昔話しの世界に入り込んだ気持ちになった。その村には平塚の高校の同級生がおり伺ったがゲーテやシラーの著作があり明治期の文学青年のような風情に時間がもどった気になった。
 雪深い東北の文学はこうして生まれるんだと再認識し畑焼きの幻想的な景色を見ながら平塚家へもどった。次の日山寺へ行き芭蕉の「山寺や岩にしみ入る蝉の声」の碑等を実際に見て句のそのままの奇岩に驚き芭蕉の野ざらし紀行のすばらしさを再認識し東北旅行の意味を深く思い新しい出会いに旅の深さを噛みしめた。東北旅行の終りに湯治場へ行きたく思い平塚にどこか良い処はないかと聞くと銀山温泉がひなびていて良いと聞いたのでバスで雪深い道を頬が真っ赤なバスガイドのしゃべりを小鳥のさえずりのように聞きながら行った。
 バスから見える角巻の女性達が東北地方の細雪に美しく映って見えた。銀山温泉は頂上にスキー場があり山から流れる雪解け水が川をつくり、川の対面に連なる木造の建物が湯治場だった。中の木造三階建ての藤屋旅館に政志は一泊二食三千円の部屋を頼んだ。部屋は粗末で火鉢が一つあった。普通の宿泊客は湯治の為来る客が多く自炊し何泊も泊まるので一泊八百円位で泊まる形となっていた。風呂は政志の家の男風呂と同じ位で五、六人用だった。湯は暖まり湯冷めせず石鹸も必要ない様だった。政志が風呂に入った時は誰も入っておらずのんびり体を伸ばすことが出来た。政志の家出旅行は終わり一度秋田まで出て汽車で上野まで帰り新幹線に乗り換えて名古屋へもどった。

 美代子は行方不明の息子を案じ足止めの祈願をおちょぼ稲荷にしていた。不思議とおちょぼ稲荷の足止めの願は効き、政志はその通り名古屋へ足が向いた。政志が旅に出る時姉の里美が三万円の交通費だけは用意してくれた。三万円を足代に使い残りはバイト代で生活していた。それで十分やっていけ政志は、少しは生活力が付き毎日腕立て伏せと腹筋運動を欠かさなかったので体力もついた自分を感じていた。本の虫で生活力の無さを恥じていた政志は友人達の家族に迷惑を掛けたものの、なんとか何でもやっていける自信が湧いていた。一夫は帰って来た息子に怒る気にもなれずよく帰って来たなと精一杯の嫌味を言っただけだった。
 世の中じゅうが荒れていた。とくに学生運動が盛んで授業を休講する大学も多く何処に日本が向かうか分からない状態だった。一夫はぶれず忙しい宿の将来ばかりを考えていた。その頃世代間で考える事に大きな隔たりがあった。一夫世代は仕事人間で仕事が生き甲斐で政志の世代の意識が全く分からなかった。学生運動は社会にはずれた駄目な学生達がするものと思っていた。政志達の世代は甘えの世代でもあった。親の稼ぐ金を当てにし遊びまくるか学生運動に走るかいずれにしても駄目な世代で、いずれ日本は滅びて行くと一夫の世代は政志の世代を危惧していた。
 実際、一夫の世代は戦争が終わってからは休みもなく仕事漬けで仕事が生活のすべてで仕事が本能にまで高まり金を得ようとしないことは信じられない事で否定すべき事だった。高等小学校で学生は終わり十代半ばで冷たい世間の荒波にさらされ戦争にまで狩り出された一夫にはのうのうと育ち大学まで親の金で行く等許せない事でもあった。ただ学歴のない自分達の世代のつらさを十二分に分っておりせめて息子達にはと考えたのが息子世代にはかえって重荷でもっと自由にと反撥しがちの世代だった。当然一夫の世代は学生運動等思いもつかなかったのである。一夫は息子の政志の行動は自分の考えでは考えも及ばなかった。どう政志を指導していいか一夫は煩悶していた。美代子も、おちょぼ稲荷の足止めで政志は帰って来たものの息子が理解出来なかった。
 政志は大学生活を再びしようとしていたが中退し半ば大学生活の方向性を失っていた。李賀が進士に落ち洛陽で博打にふけったように人生サイコロふってのと麻雀にこってしまった。大学と雀荘の間を通っている日々を送っていた。浅田哲夫と目白駅でよく出くわした。女性を待っていた。その女性が一度雀荘にやって来て政志はお手合わせしたことがある。わずか三巡で女性は大三元を上った。みごとな業だった。政志はお見それしましたと麻雀を切り上げた。その頃三島由紀夫が市ヶ谷で切腹した。政志は三島が時代錯誤と完全否定した。三島の書いた葉隠れの解説では人生好きなことをするのが良いと断定していたではないか切腹するのが三島の好きな事だったんだと思った。丁度経済科の牟田口と真鍋呉夫の家へ遊びに行っている時、真鍋氏にも三島の死をどう思うかと聞かれ同様に答えた。真鍋氏は三島よりで三島の死は意味のある事としたかったようだ。
 政志はこれ以上文学を続けるとよくない結果しかないと思うようになり、菅の三軒茶屋の下宿に泊まり二週間永井荷風の全集を読みふけった。荷風が何かヒントを与えてくれるかもしれないと思ったからである。荷風が何故アメリカ物語やフランス物語の頃の社会派を捨て大逆事件以後雨潚潚を書き巷のもの書きに変じたのか興味があったからである。荷風の流転は見事だった。政志は影響され自分も巷の現実や生活に生きようと考え始め、大学を止めようと決心した。
 政志は一夫に電話し宿を継ぎたいと申し出た。一夫は政志の心を読みかねたがとりあえず上京し政志に会ってみることにした。政志は勉強し始めたモーリスブランショやE・フロムの本を処分し文学から完全に離れようと決心した。彼はまず宿泊業界の事を知ろうと考えビジネスホテルの雄、法華倶楽部を試してみようと考えた。一夫も法華倶楽部の事は一度研修した事があり知っていた。政志は上野池の端にある東京店で面接を受け仮採用され次に京都駅前にある本店で性格テスト知能テストを受け合格し採用された。その頃法華倶楽部は九州地区に展開しており新しく出来た鹿児島店でもいいかと聞かれ了承し、中途採用ながら七月から働くことになった。
 汽車で鹿児島に着き一泊宿に泊ってから翌朝天文館近く山口町にある法華倶楽部鹿児島店へ行き十階にあるレストランで働くことになった。そこからは桜島が前面に広がり見ることが出来た。寮や風呂は七階にあり住み込みで働くことになった。従業員食堂も同じ階にあり便利だった。寮は蚕棚で二段ベッドが一室に三つあり六人の共同生活だった。今までの自由な生活とは違い不自由だったが人生をやり直すつもりで我慢することにした。ただ苦労したのは飛び交う薩摩弁だった。外国のようでいつも叱られているようだった。調理場で働くコックは鹿児島市内の人間ではなく地方出で言葉が余計なまっていたのだろう。
 それにも三カ月程で慣れた。鹿児島の気風は政志には合っており、鹿児島が第二の故里のように思うようになっていった。東京は砂漠のように虚ろでけっして故里とは思えなかった。鹿児島は名古屋よりも政志には合っていた。慣れてくると皆優しく接してくれた。従業員食堂のおばちゃんは特に人間味あふれひどいなまりだったが政志には優しかった。同じ寮には鹿児島大学へ通う伊集院がおり特に気が合った。剣道をやっており私塾から学費や生活費を援助してもらい塾長の言いつけは絶対と言っていた。市内には温泉が至る所にありホテルの近くにもありよく行ったが刺青の若衆が沢山いてみごとさに政志は息を飲んだ。
 レストランから見る桜島は時間と共に七色に色を変え陽が当たると美しく輝き見事で政志は休みがあると乗船券十円を払い渡った。生活に必要な為そんなに安価だった。桜島に渡ると溶岩道路を歩いて赤池港まで行き休息した。休日の時には島一周を歩きぐるっと海 岸に添って歩き一周した。溶岩は削られて売られ軽石や何かに利用されるようでクレーン車がいつも動いていた。政志は三カ月程で寮を引き揚げ、城山の麓にある下宿へと移った。下宿から城山まで十分程で行けるので散歩道となり毎朝登るようになった。城山には西郷隆盛が最後隠れた洞があり歴史を感じさせた。城山を少し下りた坂に介錯された地があり西郷軍の最後の戦いがまざまざと浮んだ。城山からは市内が一望出来、しかも錦江湾を隔てて桜島が望めた。桜島が鹿児島人の誇りであり依り所という事がよく分かった。
 街の中にはザビエル教会も見えフランシスコザビエルの布教が鹿児島から広がったことが理解出来感慨深かった。レストランではウエイターのサービスを主任の坊垣さんから教えてもらった。まだ鹿児島では珍しいフルコースのメニューがあり覚えると共に、郷土料理の薩摩揚げやきびなご豚の角煮等も覚えた。伊集院と共に鹿児島大学で講義を受けたり城山観光ホテルの釣堀でマスを釣り料理してもらって食べたりした。天文館では昼休みにジャズ喫茶に行きジャズを聞きながら本を読んだ。鹿児島はラサールがあるせいか文化的だった。名古屋よりはるかに文化があふれていた。島津家の別邸磯公園にもたまに行った。 
 磯公園は浜辺にあり薩摩ビンカラや芭蕉布の工場跡地等があり幕末の殖産興業の思いを偲ぶことが出来た。海ではパラセーリングをする若者達がいた。鶴丸城にもよく行った。人は、城で本丸がなく城壁も低く堀もないのも同じで開放的で攻め易い城で西南戦争の傷がそこかしこに残っていた。城の近くには木曽三川で切腹した藩士達の碑もあった。島津の徳川に対する考え方や逆に徳川の接し方も分かり鶴丸城は興味深かった。政志の下宿の近くに家老平田篤胤の家が残っており粗末な木造建築にも平田なりの人物像が浮かんだ。
薩摩の家は少し高床式になっていて名古屋との違いを感じた。市内の川には石造りの橋が幾つもあり明治の建築技術の高さが想像出来た。政志は鹿児島市内を歩く度にいろいろ興味が湧き歴史が偲ばれた。レストランにはよく外国人が来て政志が通訳がわりに接客した。ほとんどのスタッフは英語が話せなかった。

 政志が鹿児島に馴染み始めた頃、名古屋では里美が南山大学の同級生で軽音楽部をやっていた男と恋愛し美代子が結婚に反対したことから家出する事件を起こしていた。それを聞いた政志は急遽名古屋へ帰り岐阜へ姉を探しに行った。二人の住むマンションは住所も分からないのに何故か政志はすぐ分かった。導かれるようにそのマンションに行ったのである。姉弟には不思議に呼び合うものがあり東京でも偶然上京した里美に国電でばったり会うこともあった。政志は里美と二言三言話すと名古屋へ帰り一夫や美代子に報告した。一夫は二人を一緒にしなければ仕方ないなと思うようになっていた。里美の既成事実を受け入れたのである。

 政志は姉が手伝わなくなった宿を考え、早く帰ろうと決心した。鹿児島へ帰ると島へ一度行ってみたくなり休日の日に波止場から東シナ海を渡り奄美へ行く船に乗った。平家物語で有名な鬼界ヶ島へ一度行ってみたくなったのだ。鬼界ヶ島へは十六時間荒波を渡って行かねばならない。行き交う船は波に埋もれ、時折先端が見える程のすさまじい荒れた海だった。慣れたものでその船の中で平気で食事をする島の人達がいた。政志は船酔いでとても食事が通る所ではなく横になりこみ上げるものを圧さえる他なかった。
 鬼界ヶ島へやっと着くと珊瑚だらけの島で背の低い樹木が海岸以外の地をおおっていた。骨のようなくだけた珊瑚と羊の骨が散らばる海岸は澄んだ青い空と海とまるで青と白だけの空間にいる気にさせた。日常を忘れさせるには十分な大気を吸い、政志は太古を思わずにはいられなかった。民宿で一泊し翌日急遽出ることになった鹿児島行きの船に乗った。行きとは違い帰りの海は穏やかで陽射しも暖かく島人の蛇味線を引く音が心良く響き、政志は以前祖先がこの海を渡って来たに違いないと確信した。祖先から受け継いだかすかな記憶が蘇えって帰って来たと思わせたのだ。あるいは一夫の海軍時代の水夫だった頃の記憶だったかもしれない。一夫はこの海を何度も行き来したに違いないから。政志はこの海の荒れや凪ぎが慣れたものに思えてしょうがなかった。蒼穹も見慣れたものだったのだ。

 鹿児島へもどった政志は早く名古屋へ帰ろうと思い店長にその旨を伝えた。店長は事情を理解し承諾してくれた。鹿児島は名残りおしかったが最後に天文館にあるジャズ喫茶を訪れた。政志が好きだったコルトレーンやオーティスレディングは若くして死んでいたし悼む気もありコルトレーンのスケッチオブスペインを聞いた。桜島ともお別れだった。毎日見ていた七色に変幻する山も噴煙も見れないかと思うと寂しかった。政志は故郷を離れるような気がした。東京を離れる時はそんな気はせず鹿児島には特別な思いが残った。鹿児島の女性に桜島は貴方にはもったいないと言われた事があったが真に鹿児島人が桜島を愛し誇りに思っているか思い知らされたことがあり、かごんまの気持が良く解った。惜別の念を残し政志は電車に乗った。子供時代からの袂別でもあった。いろんな思いを乗せ電車はゆっくり名古屋へ向かった。
 無論不安はあったがやってやるという力強いものが政志を動かせていた。名古屋駅は以前のまま特に駅西は昔より少し寂れているように感じた。政志を一夫は優しく迎い入れた。フロントに東京から従姉の土屋千穂子が手伝いに来ていた。姉の里美も結婚まで岐阜から呼びもどされフロントでやはり仕事をしていた。調理場は坪井が板長となっていた。政志は何よりも一夫に連いて行こうと考え一図に一夫の真似をしようと考えた。一夫は何も教えなかったが見様見まねで覚えることにした。宿は日本旅行社の名古屋駅内案内所と国鉄と旅館組合が出した国鉄OBが働く国鉄案内所からの送客が多かった。毎日挨拶に行くことになっていた。日本旅行会の案内所には冷房がなく毎日車で二貫目の氷を大気を冷やすために持っていく仕事があった。 氷は駅西銀座通りの所商店という氷製造所で買った。政志はフロントの仕事はすぐ覚えたが毎晩の精算は計算機もない時代でソロバンを使い二時間程かけ計算した。終ると十二時近くになり夜食を取りに駅西銀座通りにある徹夜食堂へ行った。徹夜食堂は昼はやっておらず午後四時から明朝まで営業していた。体格の良い大将と競馬好きの三ちゃんという若い男の人が調理をし大将の奥さんがウエイトレスをしていた。いずれのメニューも安価で量も多く独特なサラダが美味しかった。客層は駅西のこと良くはなく土方や立ちんぼうも来たが庶民的でどんな人も受け入れていた。
 駅西銀座通りには魚半というきしめん亭があり竹内八百屋を曲った所に三河屋という丼と麺を商う店があり隣にお好み屋もあった。いずれも味が良く人気店だった。三河屋は政志の幼い頃からあり、よくカツ丼や志の田うどんを食べた。お好み屋には美人姉妹がいて特に名古屋名物のどて煮が旨く姉妹目当ての客でにぎわっていた。又コーヒー屋としては鬼頭不動産の隣の京屋があり注文はいつも京屋だった。京屋は小粋な女将が一人でやっていてどうも二号さんのようだった。京屋の隣に吉田屋魚店があり宿の鮮魚を仕入れていた。野菜関係は竹内商店、酒は酒津屋、米屋は則武米屋と皆銀座通りか近くにある商店ばかりだった。竹内商店の大将は美人妻と共に働きゴルフにこっていた。酒津屋の大将はいかにも苦労人といった風でいつも酒屋の大きくて丈夫な布地のまいかけをし重い酒六本入りの木箱やビールケースを運んでいた。吉田屋の大将は朝早くから仕入れをし魚を見る目が確かで働き者で遊びに株で儲けているようだった。一夫は近くの商店を大事にする事で宿の評判も上がると近くの商店を可愛がっていた。一夫は苦労人で又苦労人の商売人が好きだった。一夫は協調性があり美代子は感性でものを考える方でいつも食い違ったが一夫が折れることでいつもバランスを取っていた。美代子は買い物好きで名鉄デパートの外商カードを持ち里美を連れよく買い物に名鉄へ行った。すでに婚礼道具を集め始めていたのだ。
 一夫と美代子は名古屋式の派手な婚礼を考え着物は箪笥一杯にと注文し始めた。名古屋は買い揃えた着物を披露する風習があり広間一杯に飾ろうと美代子は考えていた。一夫は里美を精一杯送り出そうとお金は惜しまなかった。家具一式は美代子の親戚筋の牛田家具店で買うことにしていた。他に茶道具も陶器は加藤作助のものを漆器類は六句の祖父江商店でと決めていた。一夫は出来るだけ多く里美に持たせ送り出すことが仕事を手伝ってくれた里美に対する感謝と思っていた。美代子は自分が出来なかった分だけ余計にと考えていた。婚礼は両家の見栄の見せ場であり美代子は負けたくなかった。美代子の好きな歌舞伎の役者のように大見栄を切りたかったのだ。美代子は家紋入りの式布や天幕も用意し婚礼に備えた。
 一夫夫婦の結婚式は戦時中でもあり極々簡単なものだった。あれから三十年も経ってないのに娘には豪華な婚礼をしてやれるその満足感があった。自分の時は山口県三田尻にある海軍官舎で出席者は十人足らず、酒は水筒に入れ三三九度もやった。料理も隣の奥さんが作ってくれた有り合わせのものだった。婚礼は岐阜市の長良川添いの都ホテルで出席者百人を超える盛大なものだ。時の流れを感じた。無論日本の平和と繁栄があってのことだ。自分達夫婦も戦後休みもなくガンバッテ今日がある。仲介人に日本旅行会の所長今井氏に頼んだ。何処か手落ちがないかまだ不安だった。完璧に婚礼をしたかったのだ。大阪万博の助けもあり経済的にも十分だ。出来る限りの事として娘を送り出したい。美代子も同じ考えだった。

 政志は姉の結婚には反対ではなかった。ただ幼児の頃から相談相手でもあり何かと頼ることが多かったので淋しさが手伝いしっかりしなければ、との思いが強かった。丁度同じ頃東京から手伝いに来た従姉の千穂子と一夫の希望もあり調理長の坪井との縁談が決まりつつあった。 一夫は坪井を一族に取り入れることでとかく不安がつきまとう板場を従属したいと考えていたのだ。千穂子の婚礼も決まった。一夫も美代子も血の結びつきが結束には一番と考えていた。当時の考え方は富める者が貧しい一族の面倒を見て一族を栄えさせていくという昔ながらの考え方が一般だった。特に農家はまだ貧しく都市部との差が増し都市で成功した者は故郷の農家出身者の面倒を見るのが通常だった。坪井は付知の農家の二男坊だった。地元の高校を出ると板場世界に飛び込み腕を磨いていた。日頃から物覚えが良くセンスがある事から早く一本立ちし一夫の下で板長になった。千穂子は東京が嫌になり叔父を頼って名古屋へ来て一夫の宿で仕事をするようになり坪井を知った。一夫は東京にいる妹の面倒を見てやってという願いを受け、千穂子を坪井と一緒にさせることが万事うまくいくと考えていたのだ。東京の妹の夫は陸軍で知り合った戦友達と興した会社がうまく軌道に乗り成功したが暮らしは質素で貯財に努めていた。千穂子には弟の徹がいて二人姉弟だった。一夫のすぐ下の妹の子である姪の千穂子がやはり可愛かった。
 政志は従姉の千穂子の事は子供の頃から知っており親しみがあったが坪井の事は短気で板場気質の自分とは少し違う世界で育った人物だと思っていた。二人の結婚には賛成していた。里美と千穂子は同じ年、坪井は一才年上、千穂子の弟の徹と政志は同じ年、とにかくこの世代の人間は多かった。学校はすし詰め受験も戦争状態、結婚も同時期とすべて勝ち残りゲームの中で生きなければならない世代だった。この頃の女は二十五歳までに結婚しないと婚期に遅れると言われていた。男は二十八歳頃までにそれが常識的で大体男も女もそうなりなんとかカップルが出来ていた。

 里美の結婚の日がやって来た。一夫は岐阜市内の地図をくまなく見て嫁ぎ先の教材屋を営む小幡家が何処にあるか調べ、荷物がもどることなくちゃんと行けるように地図の上に赤で線を入れ牛田家具店に渡した。嫁を送る時に投げる餅やお菓子の詰め合わせは二百個用意した。二階の窓から投げる為である。結婚式当日は晴れていた。まず玄関に九曜星の入った天幕を張り里美は花嫁衣裳で近所回りに挨拶に行った。白無垢が青空に映え余計真っ白に見えた。一夫はとうとうやって来たこの日を万全にやろうと心を引き締めた。牛田家具のトラック二台が紅白の幕で飾られ岐阜へ出発した。お祝いの菓子や餅を二階から投げ終った一夫達夫婦と政志や保夫も自家用車で岐阜へ出発した。
 くれぐれもギア―をバックに入れないよう縁起を担いだ車は一直線に進んだ。都ホテルは長良川添いの風光明美な場所にある。金華山も眺められ岐阜城が頂上に立っている。信長ゆかりの名城である。岐阜市内には岐阜提灯を売る店等があり政志は京都の町に似ているなと思った。披露宴は二階のバンケットルームで挙行された。参加者は両家から六十人ずつを越え百数十人という盛大さだった。政志は婚約者を共なった。披露宴は順序だって行なわれるようになっていた。一夫は随分演出も進化したな、随分派手になったものだと感慨をもってじっと見詰めていた。里美の晴れ姿は涙があふれるので余り見ないようにしていた。美代子は食い入るように娘の衣裳を見詰めていた。政志は宴の途中キャンドルサービスで姉が近くに来ると涙が止まらなくなった。里美も政志の涙を見ると自身も泣き始めた。政志は姉との思い出が駆け巡って涙が出てしょうがなかった。姉からは幼児の頃から病弱だった美代子に替りいろいろ世話を受けた。小学校の時かばってもらった事、自転車で合乗りして交差点でオートバイに当てられ政志が吹き飛ばされ脳振盪で一瞬気を失い二人でとぼとぼ自転車を引き摺り帰った事。中学高校での事等いつも里美に庇われて育った事等が思い出されたのである。小幡家の父親は八の字のひげを生やした頑固そうな義父に見え一夫は一瞬不安に襲われた。一夫はなんといっても里美を包んで育てて来た。
 果して娘は耐えられるだろうか、自分が娘の決意に負け結婚を許したのは間違いではなかったかと思ったのだ。しかしどの家族でも娘を嫁がせる時は覚悟が要る。後は小幡家に任せるしかないと思い直した。里美の新婚旅行はグァムへ行った。長良川を三十分程上った新しい住宅地に新居を構えた。こうして二人の生活が始まった。政志は婚約者との婚礼を進めていた。婚約者との交際はすでに六年経っていた。六年の間にいろいろな事件があった。長過ぎた春である。
 なかなか婚約者の親の許しは当然得られなかった。政志は大学を中退し何も決め手がなかった。生活力もなく仕事も学歴もない男に誰が大事な一人娘をやれるもんか、顔を出直して来いと婚約者の両親から思われていた。婚約者の名前は加藤房子と言った。房子は市川房江の房から取って父親がつけたものである。父親は社会党の党員で市川房江を真から尊敬していたからである。彼はダンディズムの塊のような男だった。職業は税理士で仕事は事務員にやらせ自分は政治家の面倒を見たり芸術家と交わったりといそがしくしていた。
 無類の本好きでもあり作家の初版本や豆本を集めたり好きな作家の全集を買い集めたりして本棚は一杯だった。彼は散財家でもあった。国際ホテルに巣くい名古屋では珍しくホテルを社交場に使い錦のクラブへ通う紳士だった。粋な彼の性格が政志を受け入れる許容を与えていて結婚が許された。何を考えているか分からない所がある政志にかすかな希望を持ったのかもしれない。又彼が経営する経理事務所は顧問先が多く収入があり彼に散財する金銭的ゆとりを与えていた。彼はブランド思考が強くネクタイや靴はイタリアの製品背広やコートはイギリス製、カバンはフランスのオートクチュールとダンディの極みだった。
 政志が初めて彼に会ったのも国際ホテルの源氏というバーだった。それには里美も同席した。すでに彼はウイスキーのロックを何杯か飲んでいた。酒に酔わなければこういう席に出られない恥ずかしがりの性格で錦のクラブでスコッチをあおって来たのだった。房子は名鉄百貨店の特選売場に勤めていた。その職場も父親が決めたものだった。父親と違い母親は地味な人で県二から三井物産に勤めた経歴があるにもかかわらず表には出たがらず夫を立て気性は動じない風だった。房子はなんと言っても一人娘の自由気ままな部分がありお嬢様だった。房子の両親の姓の加藤は母方のものだった。父親は奈良県にある十津川村が山嵐で二千人余り死んだ時北海道に新十津川村を作った郷土の子孫で貧しく育ち、中央大学時代結核を病み五年余り日赤で療養し軍隊にも入らずに済み戦後もなかなか食べる所までは生活力がなかったが貴族院議員をしたことのある叔父の勧めで加藤家に養子に入ったのだった。加藤家は元は岩手の黒沢尻で家老をしていた家系でその子孫は気位が高かった。両親とも大正生まれにしては背が高く、父親は痩身母親はがっちりした躰をしていた。
 政志は身の程知らずの部分があり加藤家の一人娘と結婚しようとしたのである。房子の父親は自分と同じように養子にして行く行くは税理事務所の跡継ぎにすればいいと考えていた。政志はそうとは知らず三年間はとにかく一夫に連いて仕事を覚えようとしていた。とにかく今までの人生を一度精算しようと考え他事は考えず仕事に没頭しようと考えたのである。
結婚式も披露宴も国際ホテルで挙行した。披露宴は両家でバランスを取る為各八十人ずつの百六十人で行なわれた。加藤家は社会党の政治家が多く芸術家も同席した。すべて加藤家の父親の関係だ。仲介人には地元の市会議員の近藤昭夫氏に頼んだ。加藤家の父親が面倒見て育てた政治家で一夫の宿へ組合関係でよく来る客でもあった。父親に育てられた政治家は多く顔も効いた芸術関係は友人達だった。政志の方は親戚筋や商売関係が多く学習院の友人も呼んだ。政志には貯えがなくすべて親頼りだった。一夫は喜び続きだったが出費も多く大変だったが景気がいいので何とか乗り切り安堵していた。政志は精神的に借金だらけだった。今までの人生は金を稼ぐ技も知らずすべて親がかりで精神的に親に頼ったことが重荷だった。まずその借りを返すことが大切と考えた。政志と房子の結婚は何とか済み、新婚旅行は京都奈良へ行った。京都は大原にある日本旅館に泊まり奈良は鹿が遊びに訪れる奈良ホテルに泊まった。奈良ホテルは木造だったが印象に残る建物だった。夕食は興福寺近くの公園内にあるお茶屋で食べた。提供された器は赤膚焼で地元の陶器で奈良の伝統を感じた。京都奈良は何度か来たことがあったが何故か新鮮に感じられた。四月初旬で春爛漫だった。
 秋に二人の間に奈々子が生まれた。里美にも篤志が生まれた。一夫はまだ四十代後半で孫が出来喜んだ。美代子も同様に喜び出産直後の奈々子の生まれた日赤に駆け付けて行った。奈々子は丸々とした元気な子だった。岐阜で生まれた篤志は逆子で心配したが背の高い男の子だった。一夫の宿は順調だった。国鉄には松浦商店が弁当を独占していたが、だるま寿司が割って入っていた。だるま寿司は国鉄に入り込むのに二千万円使ったと聞いていた。名古屋駅内の南側に食堂街が出来政志は時々きしめん屋に食べに行った。駅西にはビジネスホテルが建ち始めた。富士ホテルやステーションホテル、スター名古屋である。広小路の東側にも何軒かのビジネスホテルが出来た。一夫が公旅連で一緒の榊原さんは日本旅館を壊し、半分マンションで半分はビジネスホテルと言うマンション業者と組んで名古屋ライオンズホテルを建てた。日本旅館が都市部ではビジネスホテルに変わる激しい波は止まらなく押し寄せるようになった。
政志は旅館組合の下部組織の青年部に入った。青年部は名古屋だけで五十名位中村支部だけで二十余名いた。青年部には覚王山にある井善や井清寿といった宿泊は名目だけで高級料亭の子息もいた。その他宿泊は形だけで料亭が本業なのは市内に多く千種の春日荘や栄の翠芳園がありいずれも県庁や市の接待に使う事が多かった。まだ県内にある旅館の若い経営者を束ねる力はなく名古屋市のみの動きだった。政志は中村区の青年部員から麻雀に誘われることが多く紫水さんや大観荘さんと共に熱田の乙部さんや千種の村瀬さんと雀卓を囲んだ。政志がゴルフを教わったのは青年部で参加してからだった。青年部活動が名古屋市内から愛知県全体に広がったのは神谷会長が桜の季節に産業貿易館でホテル旅館近代化設備展を開くようになり県内から組合員が集まるようになり、青年部がその手伝いをするようになり県単位で考えるようになってからだ。組合員は千人を数え宿泊業飲食業共に上向きで設備を近代化することは重要だった。神谷会長の尽力もあり三河地区や知多地区の旅館が力を合わせるようになり設備展にはバスで来る地区もあった。
 旅館組合が組合員から出資金を集め東京に旅館会館を造り全国総会が東京で行なわれるようになった。まだ青年部は名古屋の会員の親睦で集る場合が多く、なにかと集り会議が終ると大体雀卓を囲んだ。新年会は覚王山の井善でやるのが常で新年会が終ると場所は替えずにそのまま麻雀をやった。井善さんは門からいかにも高級料亭らしく数寄屋造りで内には長い廊下があり途中に待ち屋があり日本庭園を眺めながら一休みすることが出来る形だった。木造建築の二階の広間で宴会は行なわれ青年部は会費一万円と奉仕料金で飲みもの付きで日本料理を味わうことが出来た。オーナーの村瀬さんの腕にはスイスの高級時計、着る物も高級オーダー品といかにも料理屋の旦那という風情だった。いろんな団体から名古屋で大会を開きたいと組合に要望があった時は千名単位で来た時は中村支部が請け負い各旅館に分け振った。大門地区で千名位の収容があり一夫の旅館もそれに部屋を提供した。 各種のスポーツ大会も都市で持ち回りが多く何年に一度は必ず名古屋へ来て大切な客であった。しかし大門の旅館街は遊郭時代と同じで古く客の要望にそぐわない場合が多く段々とビジネスホテルに客を取られ宿泊業界ではやっていけない状態が明らかになった。又経営者の不幸もあり転廃業が続くようになった。
 中区錦地区ではワシントンホテルが宿泊施設ではなく飲食テナントビル展開し始め錦はいろいろな業態で彩られた。名古屋駅前に旧交通公社ビル等を壊しターミナルホテルを建設することが決まり大店舗に旅館組合は反対運動を起こし一夫も積極的に反対に参加したが結局国鉄が資本を出したターミナルホテルが出来ることになった。もう都市部でのホテル建築ラッシュの波は止められず多くの旅館は消えて行く運命を辿った。中支部長の大口さんも日本旅館を壊し名古屋プラザホテルを錦三に建てビルの一階にはクラブが出来た。
 一夫も迷い始めた。このまま日本旅館としてやって行けるかどうか不安がよぎった。今は利益が上がっているのだが将来はどうなるのだろう、そう思った。だから息子の政志も法華倶楽部へ入社させたのだ。ビジネスホテルは立地が一番だ。駅に近い方が有利に決まっている。
一夫の宿は駅から五百メートルと至近ではなく言わば中途半端な位置にある。果してビジネスホテルに転業してもやってゆけるだろうか、不安は尽きなかった。政志が帰名して結婚もした。将来を思うとホテルの波に旅館は勝てないに決まっている。駅裏にあると言うギャップを払い名古屋でも一番流行る宿にして来た自負もある。商売は地のりだけではなく情熱が一番何にも増して有効じゃないか、宴会はどうする。一夫の将来不安は深かった。美代子はいつもの営業は怠らなかった。国鉄の中に入り込み挨拶したが、国鉄も少し変わりつつあった。国鉄の抱える負債は大きく変わらざるを得ない処まで来ていたのだ。管理職の締めつけが厳しくなっていた。象徴的な事件が起きた。旅客のセンター長が新任の東大出の課長にさぼっている事を咎められ反抗した所、首を切られ名鉄観光へ行くという事件だった。国鉄は組合の活動に手を焼き、サービスの悪さは顕著でまるっきり方向性を失くしていた。東大出の一部の役員が権力を持ち下まで命令が届かない血の流れの悪い組織になっていた。
 一夫の近くでも事件が起きた。一夫の宿の隣の宿が国鉄案内所の職員にワイロを渡しそれが露呈し無期限送客停止になる事件だった。国鉄には国鉄指名の業者がおり利益を上げていたが職員との癒着が多く問題だった。ワイロの横行は常套化し国鉄OBが窓口を担当する案内所まで汚されていたのだった。事件は一夫が骨を折り神谷氏と話を付け隣の宿は許された。

 政志と房子の結婚生活は最初うまくはいかなかった。政志は房子の実家には余り行かず義父母はそれを不満に思っていたし、美代子はお嬢さん育ちで気の付かない房子が気に食わなかったからである。嫁と姑の問題で政志はおもしろくなくなりなるべく暇な時は営業で外に出るようにしていた。営業は面白く旅館で飛び込みセールスをする店は珍しく営業で客を取れたからである。政志は大型免許を取り三菱ローザの中古のマイクロバスを買い送迎するようにした。 中村区には三菱重工の岩塚支店があり挨拶に行くと菱重興産の部長が提携してくれ工場の忘年会を送客してくれた。三菱は枇杷島にもあり送客してくれた。政志は中村区の主な工場や会社をセールスし客を取るよう努力し客も付いた。又旅行業者も歩き送客を頼んで歩いた。地方の旅行業者も尋ねて歩いた。彼は一夫夫婦が参入してなかった農協観光を協定してもらった。又伸びつつあったトヨタの専用旅行業者であった碧海観光や名邦旅行にも入り込みトヨタをお客にした。彼は地方に目を付け客の多い長野や兵庫県の旅行業者へ歩き送客してもらうようにした。旅好きの政志は旅をしながら営業出来る事に喜びを感じていた。嫁や姑の煩わしさや雑事はそれで解消出来た。奈々子の次に二年後次女の明子が生まれた。

 里美にも次男の匡志が出来た。一夫は次々と生まれる孫に嬉しかった。名古屋は東へ東へと都市化していたが駅前の千代田旅館が名東区で買っておいた土地が約千倍で売れ全国の長者番付で八位になった。本当に山の中だったのが造成され住宅地となった。その地域はオーナーの名を取って千代が丘と名付けられた。ちなみに七位は長者町土屋直三で千代田の所有地の隣地だった。千代田は納屋橋にビジネスホテルを造ったり栄にも千代田ハウスを建てたり千代が丘に神戸牛の店を造ったり、事業展開を多角化させた。
 その頃から日本の土地のバブル景気が始まり土地が急上昇して行った。首相の田中角栄が日本列島改造論を発表し益々輪をかけて行った。千代田は手に入った資金にものを言わせ駅前の旅館を壊し神戸屋という洋食の店と和食の店の入ったビルを建てた。この頃から都市部特に東京の地価が上がり銀座の中心部一坪一億円になった。土地成金も数多く生まれた。江戸から続く日本人の地味な生き方や価値観が変わり始め翻弄され始める。田中首相は日中国交を始め戦前のように中国が日本と近い国になった。田中首相はアメリカ越しに日中国交をした為アメリカからロッキード事件で失脚することになる。中国旅行も解禁となり、一夫と美代子は国民服が一般の中国旅行をし現地の中国人に好奇あふれる目で見られた。
 名古屋と中国南京市が姉妹提携しセントラルパークに記念モニュメントが建てられ名古屋も中国とより近いものになった。中国の友好には地元の市会議員近藤昭夫や焼鳥のさんわが尽力した。近藤昭夫は青松葉事件の碑の再建にも力を入れて骨を折り一端二の丸にその碑は建てられた。県体育館が名古屋大学の寮跡城の南側に出来、スポーツの殿堂となり大相撲が毎年開催されるようになった。戦前日本の貿易額は対中国が一番で一時途絶えていたが再び貿易が再開したことにより再び日中貿易が盛んになっていった。パンダが上野動物園にやって来て人気を集め替りに中国の留学生や修学生が沢山やって来るようになった。日本の産業は外国の下請企業に頼るようになっていたが特に繊維業界は初め韓国から次に台湾へ移り安価な製品を大量に仕入れ物価も下がったが、日本の生産工場を衰退させるようになっていた。繊維から始まった生産の外国依存は他の産業にも波及しスーパーや専門商社が安売り合戦をし庶民もそこに走ったことから各地の商店も商店街も衰え始める。
 外食産業もファーストフードが普及し全国チェーンが出来、ラーメンや回転寿司等一つの商品で勝負するチェーン店も出来、店舗を増やし地元の食堂や寿司店は苦しくなって行った。牛丼のよしの屋もこの頃出来た。旅館業界は千人収容の旅館が各温泉場に出来、客もその旅館に行ったことから収容五十名程の小旅館は苦しくなっていった。大旅館は客集 めに色んな企画を立て旅館もショー化して行った。伊良湖ビューホテルがタヒチショーで当ったことから全国の大中旅館は外国ショーを催す事が流行した。政志は文学を完全に捨て仕事に打ち込むようにしていたが心の淋しさはぬぐえず栗田勇の著作を読んで慰めていた。
 又彼は円空等の木喰に興味を持った。円空は中村区にもあった。黄金を西に曲ったすぐに願成寺があり、そこには八百万の神しか彫らなかった円空が柿本人麿呂像を二体造っている。円空が人麻呂に憬れを持っていたのは確かで衆生の救いを探し放浪した彼の意志が伝わって来る。円空は出会う人が病で苦しむならば木っ端仏を与えたが十二万体もの像を造るよう願かけた彼の強い魂が伝わって来る。衆生の救いが彼の望みで行基の造った寺に彼は多くの仏像を残している。特に多いのは中川区にある荒子観音で生木を彫った仁王の 他に千数百体の像が残っている。荒子は前田利家が育った地でも有名である。

 美代子は西川流の踊りの名取の上級である師範まで取り今度はお茶とお花に挑戦し始めた。元々少女の頃千秋のお寺で習っていたがもう一度本格的に習い一期一会の精神を覚え客を接待しようと考えた。茶道は表千家で花道は村雲流で共に樹神先生に習った。樹神先生は七十才近い老人だが元気で若い頃は日本陶器の絵付け師をしていた。同門には日本陶器の美術サークル出身の人が多かった。政志も房子も共に習った。美代子は茶道を習い始めると道具に興味を覚え政志に運転させ瀬戸の赤津にある加藤作助の工房を尋ねた。赤津の作助の工房はひときわ立派な工房で二十数代続く加藤家の歴史をもの語る。黄瀬戸が有名で茶道界でも作助は名が通っている。政志が入口から少し坂を上り玄関を上ろうとしていると偶然同級生の田沼に会った。
田沼の父親は田沼起八郎と言い著名な陶芸家で東京芸術大学に居た時師の藤井達吉に連いて瀬戸まで来た達吉の秘蔵っ子だった。達吉は戦時中瀬戸へ疎開して来て小原和紙や瀬戸の陶芸の発掘に力を注いだ。起八郎は実力のある陶芸家だったが地味で余り実力通り世間の評価はされなかった。息子の春二は遥か遠く起八郎には及ばず当時は苦しんでいた。春二は作助の長男の伸也に師事していて、偶然工房で出会ったのだ。伸也に春二が叱責されているのをこの日見た。伸也は共に瀬戸の陶芸を上げていこうとしていたのだろうと政志は思った。
 当時瀬戸には加藤陶九郎を先頭に加藤瞬陶、加藤鈔、鈴木青々と日本で指折りの陶芸家が居たが政志は伸也が若いながら迫力を放っており次代を背負うに違いないと直観した。田沼とは再び交際し陶器を注文したりした。春二は毎年暮になると翌年の勅題の茶碗を挨拶に持って来るようになった。美代子は政志と共に西区の六句にある古道具や丸吉を尋ね器や漆器を求めた。幕末の陶芸家春岱しゅんたいの器や輪島の絵違いの八寸皿等を買った。時々丸吉を訪れ面白いものを探すのが親子の共通の楽しみになって行った。

 一夫も政志も古い日本旅館に限界を感じ始めていた。大門の旅館や駅前の松岡のような立派な材料で造ってあるわけではない造築を重ねた日本家屋に未来を覚えなかった。儲かってはいたが将来不安はあった。客のニーズは年と共に高くなって苦情が来るようになった。特に施設についてだった。家庭が立派になり自分の家より更に良い施設が要求されるようになった。政志は多分中途半端な木造ではやって行けなくなるだろうと考えていた。政志はファーストフードがこれから飲食業の主流と考え宿がビル化しなければファーストフードに走ろうと思い一夫に打ち明けると一夫は政志の決意に逡巡した後やはり将来の事を考えると建て直した方が良いと決め政志の方向を認めた。政志は東京で開催された城堅人というホテル旅館の講師に依頼し現在の場所が何に適しているか調べてもらった。マンションやファッションホテルも可能性があり調査したかったのである。城先生は新しい形の和食を主体とした料理旅館が良いと簡単な計画図面まで持って来た。一階に池の流れる大きな和食のレストランを持つユニークな宿の形が示されていた。東京に五人百姓という古民家風の和食の店が流行しているということで見に行って竃のある面白い形の和食堂を案としていた。制服も忍者風でユニークだった。
 政志は一夫と相談しその方向で建て直すことにしたが一番問題は資金の件だった。投資額二億は今までと違い莫大で一夫も相当な決心が必要とまず日頃利用している三和銀行に相談したが無しのつぶてで埒が明かず中央相互も同様だった。一夫は組合が相談する商工中金に話を持って行く事にし神谷理事長に依頼した。組合は融資相談もしていて成功報酬も取っていた。神谷会長は一夫や政志を伴い商工中金名古屋支店を訪れなんとか一億五千万融資してもらえることになった。成功報酬として組合が三十万取ることになった。融資額と同じ年一億五千万が売り上げの目安となった。当時の考え方は投資額と同額の売り上げが一般的目安で一夫の宿の今までの売り上げの約倍だった。一夫には相当重い売上げ目標だった。清水の舞台から飛び降りる勇気が要り一夫は建築にゴーサインを出した。若さは向こう見ずの処があり政志は借金の怖い世界に体を投げた。高度成長の時代は利子が高くても物価上昇が大きく土地上昇も見込め何んとかなったが、売り上げ目標を細かく宿泊と宴会それと新しく開店する和食の店の売り上げを入れ見込みの計算をし売り上げ目標とした。
 金利は一割を越え毎年一千五百万円程考慮しなければならなかった。飲食税は一泊二食一万円以上の客にかかり宴会も飲み物を入れて三千円以上の客に一割必要だった。人件費も計画に入れ政志と細則を立て計画書を作った。一泊二食一万円はバス付のお客様料金でそれ以下のお客様もいた。総消費単価が一泊二食一万円越えはやっとで半数のお客様はそれ以下だった。宴会客三千円越えはほとんどのお客様が該当し飲食税の対象となった。飲食税は県税で月末までにその月の分を払う必要があり一夫は月締めを毎月二十五日にしていた。給与も二十五日締めだった。コンピューターの無い時代で全て手作業で計算しなければならなかった。毎日給与計算や飲食税計算在庫計算で時間を要したし決算となると更に時間が必要になった。飲食税は月末と定められ一日でも遅くなると計算報酬五パーセントがもらえずどうしても間に合わせなければならなかった。
 給与も遅払は許されず日々の計算は大変だった。旅行業者の支払手数料も各々違い特殊な計算式でやらねばならずやはり時間を必要とした。自動計算機やフロントマシーンが出来るまでそして各旅行業者が旅行業者で手数料計算を済ませてくれるまで旅館の帳場でする経理事務は大変な作業だった。一夫は政志が来るまでほとんど一人でやり政志が入るとなるべく任せるようにした。ただ給料は自分の手に握り月末に手渡しする楽しみは捨てなかった。御苦労さんと給与袋を渡す時の充実感は耐え難かった。その時見せる従業員一人一人の見せる表情で従業員各々の宿に対する忠誠心や満足度が汲み取れるからだ。宿屋の主人は何もやってないと思われがちだが、やろうと思えば仕事は無限にありなるべく自分は外交とか交際に時間を割き他は従業員任せにする場合が多い。特に旅行業者との付き合いや種々雑多な行事、組合旅行も多く宿の主人は旅行を休む時としている人が多い。一夫は旅行業者に送客してもらうより手数料の要らない直接お客様が申し込んでくれるお客様、つまり顧客を多くしようと願っていた。

 一夫の頼りにする日本旅行会は日本旅行と名を改めそのころ流行した浅田美代子の赤い風船という歌の赤い風船を標語に使うようになっていた。千穂子と結婚した板長の坪井は宿が建て変り客数が増えると自分の手に余すと言い出し政志の慰留も聞かず二人とも宿を去って行った。次の板長には伸和会から梅田板長が入った。梅田は手早い男で料理の腕は良いとは言えなかったが例え数百人入ろうとあぐまず時間内にやりとげる板長だった。一夫は坪井は名古屋弁のかんこうのいい(工夫の良い)男だったが梅田は段取りが良く手早く各々一長一短があるものだとつくづく思った。坪井の裏切りには腹が立ったが去る者追わずだと諦めた。
 古い木造を壊しビルを建てるのは大変な事だった。建築期間中なるべく売り上げは下げたくないので工事現場に毎朝簡易の組み立て式の橋を作り午後四時には一端はずし翌朝五時には再び渡すという大変な作業をやった。建築は一夫の抱え大工の小森建築を使った。小森は木造の頃からの大工でビルでもやれるかと聞いた所やりますと答えたので任せることにした。政志はもっと手慣れた一流の建築屋の方がいいと言ったが一夫は譲らなかった。一夫にはお大尽気質がありお抱え大工にやらせるのが粋と思っていた。小森は材木を見る目があり材木屋へ行っては珍しい材木を買って来て自慢していた。小森は無垢の柱より丸のまま柱を使うのが日本の宿には適していると丸の材料そのまま内装に使った。建築には工程があり基礎工事から始まった。無論それまでに木造を壊すのに一月要した。一夫と美代子には思い出が多過ぎ、壊す毎に涙が頬を伝った。基礎工事には十メートルの杭を数十本打たねばならない。その前に三メートル程土を削ると昔そのままの田に運ぶ水路跡等が出て来て荘園だった頃を偲ばせた。杭打ち職人、鉄筋工、土止めのベニアを張る職人等工程毎に違う職人が来て一夫は毎日現場を覗く楽しみに喜びを覚えた。一夫は小森の手伝いまでした。以前から体を動かす事が好きでじっとしていられなくなるのだった。保夫も鉄筋を繋げる時の溶接の手伝いをしてうっかり火を直焼して傷めてしまった。政志は苦手で工事の行程を見て違いがないか点検していた。
 工事中隣の女将が来て自分の所もと言い出し小森に依頼し小森は隣の宿の為に勝手に図面より一メートル以上隣の宿から離し建て始めた。隣の宿が建て直す時を考えての事だった。政志は腹が立ったが一夫が黙っておれと命じたので我慢した。各階毎にコンクリートミキサーがセメントを入れ段々建ち上って行った。八カ月の工期も無事終り六階建てのビルは完成した。一階はフロント、調理場、小会議室、二階に宴会場三階から五階までが客室六階に政志夫婦が住んだ。六階の居室から一メートル離れてボイラー室、貯油タンク室電機設備を配した。地下室はなく地下には重油を入れる三トンの貯油タンクを造った。こうして昭和五十年三月に第一期工事ビルは完成した。丁度四月からは暇な時期だったので慣らし運転の時期と思い従業員教育、各旅行業者への挨拶回り顧客訪問等に一夫や美代子、政志夫婦は一所懸命だった。借金や利子はすぐ払って行かねばならず待ったなしで余裕等余りなかった。開業費、当初の諸経費を考えておらねばならないのが三カ月程で運用費を使い資金が底を着き始めたお盆に運悪く食中毒を出してしまった。丁度一夫夫婦は里美の新居に招かれて不在だった。政志が突然来た中村保健所の担当官二人と対応した。中村保健所に地方の医院から連絡が入ったのだ。
 政志には寝耳に水の事件で対応方法が分からなかった。担当官は個室に通すよう命じ何か含みのある言い方をした。十名までの被害者で収まればマスコミには伏せると言い宿帳を持って来させお盆中の客の住所を調べあげた。政志は世間知らずで、後で他の食中毒事件で判明したが担当官が暗にワイロを要求しているとは知るよしもなかった。担当官は冷蔵庫内を調べ毎日使った食品を一人分ずつ取り置きの温蔵庫はあるかと政志を叱り冷蔵庫内の食品を幾つか持って行った。すべての従業員の検便を要求すると共に毎日の台帳等のコピーも保健所へ持って帰った。結果は検便からも食品からも菌は出ず空気中にある浮遊する菌ではないかと言うものだった。保健所が持って行った宿泊名簿から電話した所七人の調子悪い人が出た。しかし一夫の宿は営業停止とテレビ放映された。すると、電話で食事した者だがお腹がおかしくなったから営業保証医療保証にしろ等の電話があり、一日の売り上げが異状に高く税務署に報告してもいいか、と言うと急に売り上げを一カ月と一日を勘違いしていたと言いだし、その分だけを一夫は支払い無事済んだ。保健所の探し出した患者には一夫や美代子が走り医者代や見舞金を払い済ませた。テレビの影響は大きかったが人の噂はで一月程で忘れ去られていった。
 政志は納得が行かなかった。保健所の担当官に悪意を感じたからだ。役所意識がまだ強い時代で庶民は随分下に見られ、命令口調が一般だった時代、政志は対応がまずくボロカスに非難された。坐る席が上下が分かってないとか言葉使いが目上にするものじゃないとまで言われ政志は大きく傷ついた。後日納得の出来ない政志は挨拶がてら中村保健所に行き事件の担当官に十人以下でもテレビ放映された事、三日の営業停止は厳しいじゃないかと尋ねると、担当官は調理場は使用禁止で宿泊はそうではない自粛だと言ったので法律はどうなんだと食い下がると口ごもりもう事件は終わったんだから次へ進め云々と話は終わってしまった。政志は自分の未熟を心から悔いた。食中毒事件では悪く言う者がある半面、逆に応援してくれる客がいたりで世間の裏表を政志は実感した。

 事件が終わり夏が過ぎ秋が来ると急に客が押し寄せるようになった。オープン効果が出始めたのである。名古屋にはまだ宿泊施設が十分ではなく古い施設が多かったので新しいビルの宿は有利だった。その年の決算で売り上げは予定の一億五千万を越え利益も弱冠だったが出た。翌年は売り上げが二億を越え最終純利益も前年の倍程になった。政志は広間を建て換えようと思い計画を進めた。まだ改造してない幼稚園の教室を直し広間にした部分を建て替え収容を増したかったのだ。売り上げが順調に伸びた宿だったが一階に造った和食の店かまど焼だけは苦戦していた。炭火焼きとかまど御飯が売り物の店だったが魚や海老の焼けるのが遅く客を待たせる場合が多くなかなか客が定着しなかった。かまど焼はその後違う形で全国に定着して行ったが政志の望んだようには売り上げが着いて行かなかった。
 一日五万円の売り上げは政志の考えた一日十万には遠く政志の高望みに違いなかった。政志は自分の方向性と店の将来性をこの店に賭けていた。しかし飲食店経営が初めての政志は性急で彼の思惑通りにはうまく行かなかった。スタッフも彼の思い通りには動かずなかなか売り上げは伸びなかった。逆に宴会部門は伸びていた。忘年会新年会は客が押し寄せ、春になると歓送迎会に力を入れた為客集めに成功した。ただ夏から秋の九月までは閑散期で宿泊に頼る他なかった。
 政志が二十八才の秋に造築した広間と和洋どちらでも利用出来るバンケットルーム、結婚式場が完成し一階には喫茶室、衣裳室が完成した。政志は婚礼に力を注ごうとしたのである。土蔵を壊す事にはためらいがあり迷ったが収容人員を増やす為に壊さざるを得なかった。秋になると柿がなり土蔵の姿は一幅の絵だったが仕方なかった。四階に自室を造り政志他家族が移った。この年の投資額は約一億円で売り上げ目標は年三億円だった。目標額は一年目に達成出来た。広間の稼働が良かったのである。まだ名古屋に広間が足らず三 百人から八百人の問い合わせが多かった。しかし収容はせいぜい百八十名まででそれ以上は諦めなければならなかったが大人数の客が増えたのである。婚礼もオフの四月、五月、九月、十月に入り年五十組程やることが出来た。結婚式の際の和式神前祭礼の神主には同級生の小笠原の友人伊藤に頼んだ。伊藤は父親が若くして死に中学から神主を習い覚えていた。着付けは以前より知人の川島三千代先生に頼んだ。婚礼には宣伝が必要とテレビの宣材をつくり三百万円程の契約で放映した。その他パンフレット代新聞広告等で広告費八百万円程使った。年の広告費は年三パーセントと決めていたので少しオーバー気味だった。すべてがまあまあ順調だった。婚礼のない年に一番閑散期の八月には流しソーメンで客を集めたり夏祭りと称し美空ひばりの真似が上手なかすみショーや大須演芸場の芸人ショーをしたりで客を集めた。
 この年の六月に政志の長男の造が生まれた。初めての男の子で中村の叔母さんが強くな る為には一度捨てなければならないと近くのお地蔵さんの前で捨てて拾うという儀式をした。この時の建築も一夫がお抱えの小森工務店を頼んだ。小森工務店の社長の息子が板場に入社した。この頃の支配人は前の投資の時入社した横井だった。女中頭には駅前の比較的大規模で人気のあった武蔵屋が廃業することにより紹介でやって来たトシ子がする事になった。その下に掃除婦から女中になったテル子がついた。二人とも人気がありサービス業に適していた。支配人の横井は癖のある男でまだ三十才と若く仕事には計算も早く向いていた。
 こうして一夫の宿は充実し伸びて行った。政志は営業マンも募集した。初め千歳楼の営業をやっていた滝が入り熱心でトヨタ関連に顔が効き、客を集めたが従業員同士のトラブルで止めてしまった。次に来た河合と山口が戦力になった。政志は二人の個性に合わせ営業させた。山口は大同とか工場に強く組合に入り込んだ。河合はこつこつ自分の顧客を掴むタイプで段々客は増えて行った。政志は地域を限定し、ここからここは山口、ここからそこは河合、このエリアは自分と決め絨毯営業を進めた。足で稼ぐ営業は地味だが効果があった。
 県庁や市役所も同じで階ごとに担当を決め三人で全て営業した。まだサービス業の営業は珍しく客はすぐ付いた。どの施設も待つばかりで余り営業はしてなかった。宣伝も同じで新聞の空枠指定は安価で効果が上がった。ダイレクトメールも一回三千通はやった。婚礼部門にはブライダルが強いロイヤルホテル弁天閣から岩井が来て司会がうまく人気を集めたがむらっ気が強く長くは続かなかった。次に来たのが祖父江で西武系のホテルでやはりブライダルをしていた。映画のニューフェイス出身で話し方がうまくやはりブライダルの専門家だったが競輪に溺れ婚礼のお金を集金に行っては横領し警察沙汰になり止めてしまった。更生してからは地獄の特訓の講師になった。岩井や祖父江の後は河合が継ぎブライダルの演出を考えたりしていた。宴会で一日五百人以上収容しても板長の梅田は平気でうまくこなしていた。
 梅田は結婚式場の流れ作業的な調理経験があり丁寧とは言えなかったが手際良かった。一夫の宿は売り上げが年五億円を達成し全盛と言えた。やはり木造として残った部屋は苦情が多く消防署も木造を嫌ったこと等で第三期で木造を壊し新館を建てることにした。世の中の流れは高級化だった。全国のどの旅館も高級化しそれに成功した施設だけが生き残るようになっていた。建築費が坪五十万程だったのが百万を越えるようになっていた。総投資額が二―三十億はざらになって施設によっては百億を越える場合もあった。旅行業者も客のニーズの高まりに合わせより高級化を望み連いて行けない施設は取り残され商売を足元から考え直す状況に追い込まれていった。中部では山代の百万石がお祭り広場を作り館内を毎日お祭りの場とすることで客を集めた。高級化の流れは深まり一夫は旧館を新しくすることを決意し政志に案を練らせた。
 丁度南側隣地の杉戸家が売却を申し入れ、買うことにし総投資三億円で新館一会亭を造ると共に杉戸家を買収した。政志は新しく造る部屋を囲炉裏や次の間付きにしたり部屋風呂とトイレを別に併設した。一階には美代子の希望で懐石の店一期一会を造り料理も本格化しようと考えた。陶器や漆器も買い換えた。この年十二月に政志の次男駈が生まれ政志の子供達は四人となった。一期一会には小森建設の次男を板長にした。政志や房子は三十歳になっていた。房子の両親が政志を認めるようになったのはこの頃からだった。政志は芸者からコンパニオンに移った宴会のやり方をホテルで見てこれから来るコンパニオン宴会の企画を立て新しくコンパニオンを集める会社「もぉやぁこ観光」を作り別法人とした。
 これまで政志夫婦の年収は六百万程だったが、月百三十万程にし生活を安定化させた。初め二人から始めたコンパニオンはみるみる増えてゆき登録七十名となった。ホテル部門六十五名と加え月末の給与支払は百五十名近くになりコンピューターを利用した。従業員教育が必要となりその費用を予算化し実施した。政志は仕入にも注意し冷凍物は熱田市場の大東魚類から海老等を仕入れるようにし宴会には大海老を利用した。コンパニオン宴会は政志が考えた当時流行のテニスルックを制服に採用した事から激発的になりマスコミもこぞって取り上げたのでトヨタ関連等が多く利用した。
 フリーカメラマンの浅野氏がフォーカスやフライデーに取り上げ又テレビ局の天野氏がイレブンPMやトゥナイトで放映し、ますますコンパニオン宴会が増えて行った。ただその弊害もあり学校関係からは嫌われるようになった。忘新年会の十一月から二月の四カ月と夏場の閑散期の売り上げは二倍半程違いがありその是正も問題だった。政志は三十才になって交際範囲の狭い自分を反省し旅館青年部でよく話題にのぼる青年会議所に入ることを決め、近くの学習院大学で知っていた児山に紹介者を依頼し入会することにした。宿の収客は顔の広さによる所が多くなるべくつながりで客を呼ぼうと考えたのだ。しかし青年会議所は友人は出来るが商売とは余りつながらないと知った。入会の年にシティマラソンの芽ばえである名古屋城を周回するハーフマラソンを白石委員長の下手伝った。

 駅西に高砂殿が開業しブライダルを集め一夫の宿の婚礼数は激減してしまった。婚礼専門の業者の時代になりホテルの婚礼数は減ったのである。他者との出会いを覚えていた政志は会社の進むべき道をいつも直す為に日本コンサルタントグループに依頼し会社の誤りをいつも見詰め直させていた。社則や業務規定をこの頃作った。一夫の頃の安いボーナスや給料は是正され、国民保健から社会保健に変り従業員の待遇も善可されて行った。しかし一般企業との賃金格差は大きく宿泊業界の遅れはどうしようもなかった。政志は大企業と中小企業のどうしようもない格差を縮めようともがいたがどうしようもなかった。始めから学歴も違い格差がつくことは仕方ない事でもあった。部門別に収入の差があり弱い部を直し婚礼の少なくなった衣裳室や喫茶を改造しパブにすることにし一部の駐車場へ拡張し収容八十名のパブシアターを造ることにしフランス帰りの画家で同級生の浅野モオムに室内装飾、宣伝等を依頼した。
 当初はナポレオンのキープ等で売ったが難しく試行錯誤が続いた。安定し年四千万円の売り上げが出来るようになったのは外人ショーを開始しショーを見ながら酒を楽しめるようにしてからである。カラオケは当初宴会場で用意したが一年目は利用客もなく遊んでいたが次第に宴会に必要品となった。パブシアターアバも初め八トラックで利用者が多く一人で何曲も歌うので悩まされたが全自動を導入し客も増したことから非常に楽になった。音響設備にも一千万円程投資し巨大な画面で自分が映るのが見えまだ名古屋では珍しい設備で遠くからの客も来場し宿泊客と混じって楽しんだ。
 外人タレントのノウハウは近くにあったホテルニュー淡路の営業所長に入管手続き等を教えてもらい犬山の古城館の大矢社長の紹介で台湾ショーから始めフィリピンショーへと続いた。オイルショックが急に襲いA重油が月額百万円超の支払いになり経営を圧迫すると共に各物価も異状な値上りをしバブルに繋がって行った。バブルの波はすさまじい勢いでやって来てすべての値段が上がり地価や建築費又株価も鰻昇りだった。宴会場でもウィスキーのオールドからリザーブへそしてへネシーへと変わって行った。雲竜ビルの和食の店へ働きに行っていた坪井が困窮し妻の千穂子が一夫に助け船を出して来た。一夫は千穂子が可愛いいのですぐに手を出し営業成績の悪かったかまど焼の店長に再雇用することにした。坪井は昼食から始め夜の活魚料理もうまく軌道に乗せた。

 コンパニオンもテニスばかりではなくレオタードやバニーも取り入れ全国的に有名になりコンパニオンパックが売りに売れ昭和六十年には総売り上げが六億円となりフロントと二階部分を改造し西鶴の間に仏間を設けた。翌年南側の錦龍の寮を買収し寮十五部屋を造った。この年前年の売り上げで飲食税が名古屋で一番になり一夫は県税に表彰された。次の年美代子の姉好子の依頼で駐車場として借りていた部分にビジネスインを建てた。それと同時に喫茶をかまど焼の処へ移設、かまど焼をビジネスインに移しこづちを移設した。こうして創業三十五周年に走っていったのである。 (第三章に続く) 

回想録「翻弄 第一章名古屋駅裏編」

 兵舎のトタン屋根を貫いてグラマンが機銃掃射の大きな穴を一直線にブツブツと、描いていく。一夫は、どうにでもなれーと捨て鉢に一列に並んだ海軍官舎のベッドの上で不貞寝していた。今日、特攻隊編入の命令が届いたばかりだ。ソ連が参戦し北海道が危ないから向こうから来る敵艦を迎え撃つというのだ。海軍に入ってから特に特攻兵を霞ヶ浦、土浦航空隊で教えるようになってから、いつの日にかは自らも同じ死への道がやってくるかもしれない。怖くはなかった。

「俺は軍人だ。とうとうやって来た」そう覚悟を決めた。しかし何故か腹が立った。教育部隊として山口県の三田尻で働いていた時、移動が決った。まだ結婚して僅か一年である。妻は三田尻の官舎に置いたままでいる。すぐ帰れるだろうと上官は言ったはずだ。それがいきなりの特攻隊編入である。戦争が始まり香港湾攻略に参加した時、オーストラリア兵が湾に沢山浮かんでいるのを、流石日本海軍、無敵なんだと誇らしく思い、いつかはアメリカの一州を統治することになるんだと、皆で話し合ったものだ。風向きが変ったのはミッドウェーで日本海軍が敗けたようだと噂が立ってからだ。まさかと思ったが、何か軍の動きがおかしかった。敗け知らずの零戦が空中戦で負けることが多くなった。
 アメリカは次々と新鋭機を出して来るのに比べ日本は開戦当時の零戦に頼ったままだ。攻めに行っても必ず敵が待ち受けている。暗号が解読されているのではないか、そんな噂が囁かれるようになった。通信兵の一夫には、それが何を意味するか、手に取るように分った。自らの敵は、逆に自らにある。来る所が分れば、先回りして、そこで待てばよい。秘密を自らばらすようなものである。事実、海戦でもいつも敵の動きが早くなった。山本提督が敵機に落とされてすべてが顕著になっていった。長官も待ち受けされていたような気がした。負け将棋のように段々、戦力を奪われてゆく。
 特攻が始まり、他に手はないのかと皆が疑問を感じるようになってから空襲が始まり、次々日本の都市が爆撃されるようになった。飛行場や軍事工場も爆撃を受けた。霞ヶ浦に居る時、防空壕が直撃され、多くの少年兵が死んだ。なんとも悲惨な姿だった。手や足が飛び散り、内臓までも四散していた。いかにも日本の崩れゆく様を象徴していると思った。怒りが込み上げて来た。敵に対する憎しみと、祖国に対する不信、両方が相まって、その夜は飯も通らなかった。
 妻の美代子は、夫が単身赴任すると、名古屋の姉好子の所へ一旦身を寄せた。二十年五月半の事だった。名古屋も空襲が多くなり、姉は故郷である一宮の千秋町へ疎開していった、そこへ、爆撃された。焼夷弾が雨霰と落ちる夜、怖くなり、自分も千秋へ向かった。丁度、名古屋城が燃えた日だった。みごとな炎だった。姉の家も焼夷弾を防ぐ方がなく、燃えきった。美代子にはどうしようもなかった。辺り一面火が付いた。どうやって逃げたのか記憶にない程だ。 庄内川を渡る頃、北東の方を見ると鮮やかに城が燃えているのがその方向に見えた。やっとのことで千秋へとたどり着く事が出来た。たった一日の出来事が、煙と炎の間に霞のようにかすんだ夢の出来事だった。城の横に連隊本部があり、狙われたのだろう。姉の家が燃えたのも名古屋駅から五百㍍程の位置にあり、やはり駅が狙われたのだろう。
 千秋に居た姉は家が燃えた事を知ると、逆上し美代子に兵隊の嫁が守れんかったのかとあたんしてきた。美代子にはなすすべがないことも分かっていたが、姉は夫が満州へ兵隊に取られ留守を預かる身として責任を感じていたようだ。姉の好子とは八才違うが、今までいろいろ美代子は世話になった。初めての結婚は歯科医師に見そめられ十八才で嫁いだが、その夫も病弱でわずか二年も経たぬ間に教連の軍事訓練で粟粒結核に倒れ一年程で世を去った。
 二人の子を残して。若過ぎる美代子にはどうする術もなかった。その時も姉の好子が骨を折り、妹の為に尽くした。一夫とは、死んだ夫の弟ということもあり、再婚してはどうかと話があり、軍人ということで又死ぬかもしれぬと反対もあったが、二人の子持ちになかなか相手もなく、止むなく美代子は決断した。新婚ということもあり、子供達は両方とも各々、夫の里と美代子の里へ里子に出された。婚礼はごく粗末に三田尻の官舎の中で十人足らずで行なわれた。戦時中でもあり、水筒の酒で三々九度の盃を交わした。料理も同僚の教官の妻が用意した簡単なものであった。
 一夫はその頃海外勤務を終り、新兵の頃成績が良く恩賜の銀時計を賜わっているので階級章にも八重桜がついており、帰るとすぐ教育部隊に回された。
 一夫は海軍軍人としては恵まれていた。戦況が傾き負け戦が続くまでは、特に香港湾時代、指揮部付きとしてイギリス商館の豪奢な邸宅を占居し優雅な生活を送っている頃には、地元の娘とデイトしたこともあったし、彼女と初恋を味わったこと等、日本海軍の兵士は当時、地元には人気があったし、モテもした。戦争は勝っている間はチヤホヤされるが、一端下り坂になると、すべてが悪い方向に行く。人心も離れてゆく。裏表がはっきりしている。一夫は勝ち戦さの時は、海外に居て、戦況が変わる昭和十八年に帰国し教育部隊に配属された。国内では食糧不足になっている中、軍隊で飢える事はなかった。生徒の親から付け届けがあったし、むしろ裕福と云えた。缶ミルクやビール等も容易に手に入ったし、嗜好品も不自由はなかった。ただ転属してからは顔がきかず、余り今まで通りとはいかなかった。妻が空襲に合った事や名古屋が焼けた事もすぐ知らされた。美代子が無事で千秋へ疎開したことを知り安堵の胸をなで下した。
 そんな頃同じく航空隊もよく空襲を受けた。日本中、何処も逃げ場所がない状況だった。槍衾という言葉の通りアメリカは日本を徹底的に打ちのめした。物量にもの言わせるアメリカ流のやり方で、とうとう原爆という大量破壊兵器まで開発し、日本を追い込んだ。ソ連も参戦し満州からカラフトまで数日間で占領した。もう次は北海道である。航空兵力もほとんどないのに日本は守らねばならない。もう特攻しかなかった。そんな時一夫は、特攻隊編入を命ぜられ千歳へと向った。幸いに日本が降服を決断した日が八月十四日であり、玉音放送で十五日に国民に知らされることとなり、千歳へ向かう列車の中で一夫は終戦を知った。一端航空隊へ着任し残務整理にあたった。武装解除と書類の焼却である。
 片方で進駐して来た陽気なアメリカ兵がプールで水浴びする様を見ながらの仕事である。一月ほど仕事をした後、海軍を放り出された。失業である。退職金も何ももらえず放り出されるのである。日本が倒産したことは、一時に兵役に付いていた六百万人以上の失業者を生み出した。皆、どうやってでも食って行かねばならない。乞食になったのだからすべてが無から始めることとなった。一夫は一端故郷の父母の下へと帰り美代子を呼び寄せた。農家のスタートである。子供の頃から慣れ親しんでいるので、米作りは別に問題はなかった。ただし美代子には慣れた仕事ではなかった。前夫の残した二人の子供は戦時中、疫痢にかかり死んでしまっていた。二人とも朝元気だったのに夜熱を出し一晩で逝ってしまうという慌ただしさだった。
 終戦の翌年に長女が生まれ、三年後に長男が生まれた。その間、美代子は農家の嫁に居たたまれず生まれた赤子を連れ名古屋へ逃げ出した。その頃は姉の家も粗末ながら再建しており、そこへ身を寄せた。一夫は仕方なく故郷を捨て父母を置いて美代子を追った。収入の道がないので、義姉と相談、古着商の行商をすることになった。当時、収入の道を断たれた多くの家庭が、着物や金めのものを売ることで何んとか一日の米代にしていた。新製品はまだ出まわっておらず、古物が主流で流通していた。二人は近郊の農家に行商して歩き何んとか銭やら米、野菜を手に入れることが出来た。しかし二年程で新しい品物が流通するようになり、古物の値段が付かなくなった。
 次に何をやるか、二人には思い浮かばなかった。ただ古着仲間達がよく噂している、行商の時、地方から来る行商達が旅館を利用する名古屋駅前の香取旅館のことをよく耳にした。毎日ほぼ満員でよく儲かっていると噂していた。夫婦は旅館をやろうと思い立ちすぐ義姉に相談した。義姉の好子は、それじゃあと言って駅裏の四十坪の土地を売ってくれた。一夫はそこに小さな旅館を建てることにした。材木は、郷土からトラックで運んで来た。トラックは役場のを無料で拝借した。役所も大雑把な世の中である。大工は、昔気質の小森に頼んだ。こうして昭和二十五年の春、完成させることが出来た。二番目に出来た息子の政志は赤子だったが、現場近くでむしろを敷き遊ばせておいた。四畳半の部屋であったが、八部屋の小さな宿屋が出来た。二階が五室の客室で一階に帳場と自宅、三部屋の客室を設けた。二階の東側の窓から焼跡が広がっていた。昭和三十年代に入ると再建された城が見えた。回りは焼跡だらけで風呂の跡とみられる洋風のタイルが残っていた。所どころに焼夷弾が落ちており、爆撃のすさまじさを思わせた。焼夷弾は缶詰状のものと筒状の二種類あった。半年遅れで隣に宿屋が出来、商売を競うようになった。隣の女将は娼婦あがりで、運転手をしていた愛人と住むようになった。一夫の宿には時々、部屋を借りに来ていた。いろんな男と情を交わす為である。一夫には、逆境の中で暮して来たのであろうと推測出来た。
 初め、商いはとても順調とは言えなかった。二人は素人で客にろくに挨拶も出来なかったから。行商の客の中には、一時の快楽を楽しむカップルもいた。その頃、名古屋駅裏には国鉄の用地に朝鮮半島の人達や戦争で放り出された各種の人々が巣くうようになり巨大なマーケットとバラックの住居で生活するようになった。闇市ではなんでも商いされていた。生活必需品、衣服、食糧、宝石類等々、簡易宿舎も乱立し、休憩三百円宿泊千円、娼婦はちょっと間千円、泊り三千円で売られていた。女達は二㍍おきに立ち夏はシュミーズだけの姿で立ちんぼうしていた。まさしく女の樹木、不思議な樹海だった。美代子の姉の好子は、夫がシベリアへ抑留され、マーケットで引き揚げ者用の甘酒の屋台を開いた。兄の平吉は魚屋で仕事したことがあり鰻を扱い羽振りが良かった。本来平吉は趣味人で芸者遊びも好きだったが、中村遊郭にも足しげく通うようになった。駅裏にまたたく間に出来た部落には二、三万人の町が出来た。今で言うスラム街である。岐阜や三重県からは、物資を求め一日何千人もの買い出しがやって来た。 彼等は一日の安宿を探した。一夫の宿にはそういった客が来たのである。駅裏の活気はこうして生まれた。混沌で無秩序なうごめき、何んでもありだが、何かが一つの方向に流れているという途方もない生活の息吹、敗戦が生み出した闇、とてつもないエネルギーを持った暗黒星雲のと同種の爆発のような巨大な力の放出、莫大な魅力を持った駅裏、とても清潔とは言い難い街、千人に近い娼婦達の発する吐息、嗚咽、そんな中にも新しい社会の流行がやって来る。パチンコ屋の開店、薬の安売り屋の出発、薬の一括仕入れと大量販売、地方から沢山買いに来る人の群れ、豚の臓物を売るとんちゃん屋が数軒出来、どぶろくも売り始めた。屋台では串に刺したもつ煮が流行り、安酒と共に客が口にし、へべれけになった。酔うとたいがいは軍歌を歌い出し、皆、相の手を打った。喧嘩も多く、何かと些細な事で腹を立て、衝突や殴打が絶え間なかった。たまには人情沙汰もあり、博徒のピストル乱射もあった。こんな中にも力が強い者が現れ、力関係が出来るようになった。ある者は親分となり子分を持った。朝鮮半島から来た人達にも上下が出来た。勿論、半島の人達は儒教に従い男女、年齢によって上下関係が厳しかった。

 一夫夫婦の宿は、予想より流行らなかった。二人とも素人である。一夫は軍人上り、武家の商法、美代子は奥様育ち、商売の機微を知るのに数年要した。隣の宿が女の子達、つまり娼婦を置くようになり、流行った。夫婦は真似をすることとなった。女の子は割と容易に集った。それだけ食えない娘達が多くいたのだ。夫婦は三食を約束した。おかしな家庭が始った。一夫は、軍隊で覚えた生活がなにかと役に立った。当時は風呂もマキで沸していた。マキ割りと釜炊きも重要な仕事だった。炊事や洗濯もお手のもの、夫婦でよく働いた。掃除もお茶のダシガラを使い、廊下はピカピカだった。各室にハタキでホコリを落し、フトンはより陽に当て出来るだけ快適にした。基本が大切と、小まめに働いた。当時は、知多方面から行商に来る魚屋がおり、わたり蟹の色彩が良く大きなのを運んで来た。いろんな魚もおり、氷で冷やす冷蔵庫を買い、そこで鮮度を保った。わたり蟹の蒸したものは身が沢山あり、極上だった。
 軍傷者の行商は腕が一本なかった。それでも重い荷物を持ち名鉄電車でやって来た。美代子は口がこえていて、食べる物には目がなかった。夫婦は魚屋の贔屓となった。食卓は全員が一緒だった。夫婦が上座に座り、あとは各々だった。赤だしは名古屋の濃い赤だし、味も辛く濃厚だった。御飯は純米、真白で新米は、それだけで食べることが出来た。子供も食卓を同じくした。にぎやかな方が食が良くはずんだ。娘は、シィさん、青森出で十三歳の時売られ、郭を点々とし、一夫の処へやって来た。のぶ子は、陽気な娘、米兵好きで、ジャズに凝っていた。 疱瘡跡のあるセツ子は瀬戸の出身でどうも韓国籍のようだ。帰郷すると、猫の肉の佃煮を持って来ることがあった。他にそろさんレイ子、マリ子等がいた。それぞれ馴染みの客が居て、のぶ子には米兵の客がいた。彼はジープで乗り着け、しばらく電蓄から流れるジャズでチークダンスを楽しんだ後、のぶ子と戯れた。いつもチョコレートやガムやいろんな菓子を持って来てくれた。米軍は物資が豊富で、美代子の姪で米軍の病院に勤めるキヌ叔母さんも、何でも持って来てくれた。夜やって来ると病院から盗んで来たペニシリンを娘の性病よけにお尻に注射を打っていた。まだ珍しいダンボールに入ったアイスクリームさえくれた。いちご味のを政志は一番好きだった。幻灯機も借りて来てアメリカの映画を見せてもらった。一夫は氷とミルクでアイスクリームを作ったが、アメリカから来る本物のような風には出来なかった。
 政志は、のぶ子に広小路へ連れて行ってもらった。広小路は栄えており、広小路をブラブラするのが流行り広ブラと言われた。広小路には米軍の指令部があり、のぶ子の愛人の黒人兵が仕事をしていたので挨拶に行ったのだ。戦前は銀行だったが、進駐軍が接収し使っていた。広小路には竹カゴを背負いクズ拾い用の竹のハサミで拾い上げる。煙草の吸い殻を集めるシケモク拾いの人が何人かいた。くわえ煙草をする人が多く、平気で吸い殻を捨てる人が多く、シケモク拾いは集めて煙草を巻き直してつくり売る商売だった。のぶ子と兵士は政志を観光ホテルへ連れて行ってくれた。
 観光ホテルは米軍兵が多く利用しておりレストランでジュースとビーフシチューを御馳走してもらった。初めての洋食に政志は驚いた。米兵のジミーは伍長で優しかった。帰りは二人をジープで家まで送ってくれた。その後も広小路へは何度か父母に着いて行った。タクシーで一夫は乗り着け、中華料理を食べに行った。タクシーから降りる時は必ず高額のチップを渡した。チップがその頃は常識だった。広小路は名古屋の中でもオシャレな町で広ブラが流行した。東京の銀座を真似して銀ブラならず広ブラなのである。広小路には映画館が出来キャバレーも何軒か出来た。ダンス場も出来社交ダンスが流行した。一夫と美代子も夜な夜な練習によく出掛けた。タップも一般になり、日常までタップシューズを履く者まで居た。アメリカの文化が街に溢れた。映画館は客が溢れ、通路まで一杯だった。キャバレーは一時の陶酔を求める男で鈴なり、とにかく陽気な日本人は、戦争など忘れたように新しい文化に走った。自由も溢れていた。とかく何かと縛られていた戦時中、時を失った反動は大きく、娯楽に皆夢中だった。勤勉な国民性は唯仕事から良く働き良く遊ぶ、そんな風に変った。

 政志は父母に名古屋城に連れて行ってもらった。焼跡は広っぱになっており、何もなかった。鹿だけがお堀におり、印象的だった。名古屋の都市計画が始った。広漠とした焼の原に十字に百メートル道路を造り火災の広がりを防ぐというのだ。道路は何処も広く取り次の世代のものだ。名古屋的関所はなくなり、碁盤の目のように計画された。整然とした町づくりは逆に人間味を奪ったかもしれない。空襲がなかったらあんなに容易に町づくりは出来なかっただろう。昭和三十年代になると、顕著に町づくりが加速した。出来た百メートル通の上に一端進駐軍のキャンプが出来、カマボコハウスが並んだ。至る所にあった墓地も平和公園に集められ広大な墓地が完成した。

 一夫と美代子は旧い名古屋が好きだった。よく円頓寺や大須へ足を運んだ。円頓寺は終戦前のにぎわいを残しており、円頓寺の七夕祭りに政志は着いて行った。叔母の家の隣は芸者置屋でいつも三味線の音がしていた。色町は他にあった。中村遊郭も盛んで名古屋駅から商店街が中村大門まで続いた。名古屋の盛り場はこうして再び勢をもどしていった。ほとんどビルは残っていなかった。広小路にあった銀行、証券会社の燃え残りのビルだけが残っていた。納屋橋には屋台村が出来、にぎやかになった。簡易の屋台は、すぐ用意出き店を焼失した多くの飲食店が参加することが出来た。一夫の家の辺りには支那ソバの屋台が毎夜やって来てラッパを鳴らし夜鳴きソバと云われ、哀愁をこめた音を響かせた。一夫の宿の人達も客と共に愛好した。再び名古屋は活気を帯びた街になっていった。
 政志が五才位になる頃には、三十坪程買い足し離れの四室を増やした。一夫夫婦は商売にも慣れて来た。客は輪タクと呼ばれる自転車に簡単な客席をつけた人力車でやって来た。輪タクは当時車の余りない日本にとっては便利な乗り物だった。タクシーの多くは三ナンバーの外車の古が多く三マンと呼ばれていた。故障も多くエンジントラブルは常日頃だった。
 子供達は、ガキ大将を中心に集るようになった。地域でも年長の子供がガキ大将となり遊んだ。遊びは、缶けり、竹馬、缶で馬をつくった簡易の道具、二つの缶を綱で繋ぎ首から吊ったものや、隠れんぼ、カゴの中の鳥、かあごめかごめ、かごの中の鳥はいついついある、あの子が欲しい交換しましょ、そう言いながら二組に分かれ、一人づつ取り合う簡単な遊び等をやった。神社の楠の木の巨木に登り巣のような家を作り遊ぶのも流行した。
コマ回しを男の子はやった。喧嘩ゴマと言ってコマを回し勢いのある方が勝ち駒を取り合う遊びは面白かった。正月にはタコ上げや百人一首の坊主めくり、ハゴ板をやった。その頃には玩具も流通するようになっていた。仲間はそれぞれ呼ぶ時に愛称で呼び合った。政志ならマー坊、照夫ならテー坊、そんな具合に、地域にはベビーブームで沢山子供が群れていた。
 何かと集り集団となった。いい事も悪い事もすぐ流行した。広場には子供が集まり自転車で紙芝居のおじさんも毎日来たし、時には鈴虫やキリギリスを売りに来る人もいた。昆虫は共食いが多くオリの中で食い合っていた。正月には商売屋には三河漫才がやって来て簡単な獅子舞をやって小遣いをもらった。簡単な鼓で調子を取り三番叟などを歌った。ふし回しが独特で各店を祝って歩いた。一日で相当回るようだった。美代子は何かと縁起を担いだ。夜蜘蛛も殺しちゃ駄目だとか、坊主が来るとその日はまるきし客がないだとか、客商売の浮き沈みばかり気にしていた。煙草の火は他人の煙草に着けちゃ駄目と言って縁起を担いだ。
一夫が故郷へ帰るのもしばしばだった。故郷はタクシーか、国鉄バスを利用した。故郷の家には池があり鯉が泳いでいたが、水かまきりや源五郎と言った水中生物が居た。お爺さんはいつも兎をつぶして五目飯を作るのが風習で残った肉の内臓やらを鯉が池でついばんでいた。横に水車小屋があり水が回るかろやかな音を響かせていた。
 その祖父母が、中風で倒れ、名古屋へ来ることになった。もうすぐ政志が小学校へ入学する頃だった。幼稚園は、お寺の隣にあった。お寺の裏に墓があり、代々の坊主が眠っていた。
まだその頃は田舎の風情が残っており、虫も沢山居た。玉虫の居る木があったり、夏には、にいにい蝉の次に油蝉、たまには熊蝉もいた。くすさんと呼ばれる巨大な蛾が飛んで来たり紙切虫の各種、神社には揚羽蝶の各種特に青筋揚羽がよく飛んでいた。政志は虫取りに出掛けた。父の故郷はもっと条件が良かった。蛍は六月イルミネーションで稲穂を飾ったし六月から七月に移ると源氏蛍から平家蛍へと変わり、余計鮮やかに田んぼを照らした。夏はひぐらしがカラカラと鳴き秋はとんぼが飛んだ。赤蜻蛉は、種類が多く、稲穂に紋の入った羽根を止まらせた。真紅のも居たり、豊富だった。塩辛とんぼや鬼やんま、銀やんまは池に卵を産みつけた。 特に鬼やんまは、優美で直線を描き飛んだ。折り返す所も決めており航路が決っているようだった。一夫の故郷と美代子の故郷では昆虫の種類がまるで違った。美代子の郷里の千秋では甲虫が沢山居た。蚊帳の中まで飛んで来た。くわがたは余りなく、甲虫が大量に繁殖した。寺の竹林を揺すると、ばたばたと落ちて来た。勝栗のお尚さんが土産として持って来るのは甲虫だった。ただ一度、電車の中で逃げ出したのは大変だったようだ。お尚はお盆にやって来た。
ただ伊勢湾台風で土壌が浚われたのか生態系がそれ以後変わってしまった。早朝起き出すと、従兄のヒロサと蝉を見に行った。さなぎから生まれ変わる脱皮は美しかった。美代子の里では、愛称にさを付けた。広夫ならヒロサ、幸夫ならユキサと言った具合に、小さな小川に入り雷魚漁りも楽しみの一つだった。
 一夫は中風になった父母の為に土地を買い足し隠居屋を建てた。小さかったが窓が沢山あるいい家だった。そこへ政志と姉が同居することになった。お爺さんは、ハンサムで田舎の光源氏と仇名された。お婆さんは、色白で明治生まれとしては巨漢だった。朝から二人ともきざみ煙草が欠かせなかった。二人とも養子で十六才の時結婚し、十四人の子をもうけた。半分は五才までに死んでしまった。美代子の最初の夫が長男で一夫は次男だった。長女は既に三菱系の男に嫁いでおり孫は幾つか自分の子より年長だった。三菱系に勤める小出八十一は、苦労して英語を学び香湾で出世した苦労人だった。当時は三菱石油に勤めていた。
 祖父母が名古屋へやって来ると三文菓子屋をやると言って玄関の脇を改装し小さな駄菓子屋を始めた。万引が多く、年寄は動作が緩慢なのをいいことに子供はすばやく万引し防げなかった。とても収入にはなり得なかった。宿屋の方は順調だったが、もう一年で売春禁止法が発行することになり、一夫は決断し娘達に一年部屋を貸すことにした。娘達に勝手に商売しろということである。菓子屋は一夫と美代子がやることになった。パンも置くことになり敷島パンを置きたかったが、駄目で二流のパン屋に頼むことにした。お好み焼や焼ソバも始め大きな鉄板を買った。夏はかき氷をした。味にこる一夫は熱心に研究し、辺で一番おいしい店にした。氷も何種類も考えた。砂糖は高価なので、サッカリンという糖分を使い、イチゴや、ミカン等のシロップを作った。氷あずきや、その上に練乳をかけたもの等、旨さは格別だった。駄菓子は西区の新道へ仕入れに行った。ごつい運搬用の自転車に乗せてもらい政志はよく同行した。いろんな問屋があった。籤付きのものオモチャのおまけ付きのもの、夜店用の香具師が扱うもの等、何でも売っていた。万引は少なくなり店も良く客が来るようになった。

 シベリア抑留も終り叔母の好子の下へ夫の和夫が帰って来た。シベリアで知ったのか朝鮮で戦争が始まる事を知り、帰国するとすぐ様鉄くず屋を始めた。金属を集め解かし棒状にして売るのである。回りから労務者を集めちょっとしたバタ屋部落をつくった。市の持つ空地を利用し、またたく間に作った。トタン屋根と簡単な柱、畳はなくゴザを引き入口は、布一枚、葵車に住む住人も居た。スラムと言えばスラム、バタ屋と言えばバタ屋、それでも和夫にとってはシベリアよりましな生活が存在した。本当に戦争が、半島で起こった。バタ屋部落が出来てすぐの事である。和夫の故郷の奈良の桜井から親類を集め手伝わした。昇ニイ(昇兄ちゃん)やら旭兄ちゃん等である。和夫と好子には子がなく、養子として男の子をもらって来た。照夫ことテエ坊は悪戯な子供だった。好子が溺愛した為そう育ったのだろう。
 好子には兄が一人女姉妹が六人いて、二番目に遅い子だった。それぞれ姉達は嫁いでおり、兄だけは、愛人を囲いどちらかと言えば田舎芸術家というか、遊び人(良く言えば遊民)だった。自らは俳号無銭を名乗り俳句集に投稿等していた。政志が知る頃は好子が金を出し近くで麻雀屋を開いていた。ひばり荘という名の店で現実にひばりを飼い良い鳴き声がするよう大事に育てていた。竹ひごを買い込み器用に鳥小屋を手造りした。幾つも鳥カゴが外にかけられて良い鳴き声を披露していた。兄妹の中では、威張っており怒ると三角に目を光らせるので三角さんと呼ばれていた。政志の小遣い稼ぎは、ひばりの餌に公園の生け垣に巣くう地蜘蛛を捕って来ることだ。地面に入った袋状の巣は破れ易く抜き取るのが難しかった。袋の中には一匹愛嬌のある小さな赤茶色の蜘蛛が居た。ひばりにやると旨そうについばんだ。駄賃にはいつも五拾円もらった。当時としては大金だった。叔父の平吉は他にもいろんな所へ政志を連れて行った。庄内川に釣ざおを持って自転車で政志を後に乗せて行った。舟釣と岸釣があり、鰻を沢山釣った。魚籠も鰻を捕る竹で作った。鰻の魚籠も手造りだった。早朝その魚籠を川の中に置いて、夕方捕りに行くのである。その時は船頭の居る小舟を利用した。庄内川には渡し舟もあり、風情のある時代だった。さおで釣るのも良く釣れた。叔父は良く鰻の習性を知っており、幾匹も捕れた。鰻をつかむのが政志の仕事である。ぬるぬるの身は、すぐ政志の手をすり抜けた。その姿を見るのが平吉は楽しそうだった。ある時はひばりを捕まえに畑へ行った。綱で捕まえるのである。平吉はよくひばりの巣がある場所を知っており、うまく雲雀を捕まえた。捕まえると手造りの籠に入れ、鳴かした。根気の要る作業だった。日頃短気の平吉は、そんな時は全く違った。又ある時は蝗を捕りに行った。袋を作り入口に竹で筒を付けて逃げられない形にした。蝗はいくらでも捕れた。捕って帰ると佃煮にして食べた。その時は政志の姉の里美も一緒だった。
 姉はチャーとかチャー坊と呼ばれていた。政志が幼い頃、里美と呼べず、チャーとだけ呼んだのでその愛称になった。里美は目が大きく可愛いらしく祖父母が大事にしていた。里美はラジオから聞こえる浪曲や、なにわ節を聞き覚え真似して祖父母に聞かせるので特に可愛がられた。それに比べ政志は無口で余り愛されていなかった。政志と里美は隠居家の方に同居していた。造りつけの二段ベッドの上に里美が、下に政志が寝、和室に祖父母が寝起きし、窓際に広い勉強の為の台が造りつけであり南側で明るかった。二階は一間だけだが十畳あり、やはり明るかった。家の外に十坪程の庭があり祖父の牛太郎がいろんな木を植えた。桜の木を植えたのが一番嬉しかった。農家は一反三百坪の敷地が標準なので町とは違ったが、町では坪庭が一般なので、牛太郎はそれで満足した。テレビはまだ普及しておらずラジオが普通の伝達手段だった。歌謡曲も流れたがやはり浪花節や広沢虎造の浪曲の方が多かった。

 美代子は映画好き芝居好きで、よく観劇を楽しんだ。御園座へ政志もよくお供をした。歌舞伎も政志には興味が湧いた。特に八百お七がはしごを登っていく姿や勧進帳の弁慶と富樫の場面は印象に残った。八百お七は人形浄瑠璃で黒子が後で役者を操る真似をする所、勧進帳では弁慶が義経を杖で幾つも打ち叩く所等いつまでも目に残った。舞台の横の部屋から流れる曲や拍子木の音が面白かった。御園座も古いままで焼失前だった。
 こうして政志は多くの人に可愛がられ育っていった。一年の幼稚園を終り小学校へ入ることになった。今は三校合併しほのか小学校になったが以前は則武小学校と言い八十年以上続く名門校だった。校舎は木造で二階建て空襲にも会わず昔の通だった。街の形も戦争前と変わらず、古めかしかった。各区ごとに分団をつくり、一斉登校した。子供が多く、各部屋ごとに六十名で八―九クラスあった。一年で五百人のマンモス校だった。戦後のベビーブームの只中で、政志の年を含め二十三年生れが一番多いのだ。遠足もバスを連ね行かねばならない。とにかく冬は寒かった。足袋を二重に履き鼻水をたらたら流し一張羅の服をテカテカにして通った。ストーブが一つ、コークスを炊き、その当番もクラスで任命された。ストーブの前に皆群がった。毎昼の給食当番も任命され、給食室まで取りに行かねばならなかった。それでも昼食は楽しかった。見たこともない物が出される事が多かったから。脱脂粉乳のミルクは進駐軍から寄附され、毎昼出た。脂の抜かれた乳は独特の味がした。それと食パン。たまに異物が混入し、衛生的とは言い難かった。蠅が入っていることもあった。先生に訴えても、一語「そうか」と言ったきりだった。パンにレイズンが入る時も、進駐軍からのプレゼントと言われた。 肉は決って鯨肉でとても固かった。その頃は鯨が漁の主流でノルウェーと一―二を競っていた。鯨は捨てる所が何処もなく、皮やヒゲも利用された。鯨を打つキャッチャーボートの射手が男の最高の仕事ともてはやされた。何十トンもある、巨体を解体するのも今では外国人に残忍と指摘されるようだが華やかな仕事と言われた。かつてはアメリカも船団を率い日本近海まで鯨を捕りに来て、その鯨油を使い産業革命をしたのに、まるっきり変心して日本を悪く言う。鯨油から石炭へそして石油へ、資源は変った。政志の子供時代はそんな時代の激変にあった。
 北の方では、にしん漁が盛んだったが、漁獲漁が急になくなり、獲れる魚も変って言った。
 世界は核時代に入り、フランスや印度、英国等が核実験に走るようになった。ソ連は短波放送で共産主義の宣伝に終始した。又戦争が始まるような不安が誰それとなくあった。日本はアメリカにおんぶにだっこの状態だった。
 そんな時、起こるべくして朝鮮戦争が起きた。政志は覚えている。ある夜のぶ子の愛人の黒人兵のヤンキー、ジミーが「明日、又戦争に参加する命令が来た」と、泣きながら一夫や美代子に話しているのを。
 朝鮮戦争は始め中国軍が百万人規模で参加し同じ共産国の北朝鮮を助けた事から韓国軍は京城を占領され、国土の八十パーセント以上奪われてしまった。そこでアメリカのマッカーサー司令長官が陣頭で指揮を取り仁清上陸作戦に自ら出向いた。激戦だったが劣勝を挽回した韓国軍は中国軍を破り押しもどした。一端、南北境界線を決め休戦した。一夫の同期の海軍軍人も呼び出され、参加した。公式には知られてないが仁清辺の海図を知る元日本海軍兵は参加したようだ。日本は再軍備をアメリカに要求されたが、時の吉田茂総理が断りかわりに警察予備隊を結成した。極東は危うい状態だった。いつ戦争の火が起こってもいい状況だった。

 シベリアから帰って鉄屑屋を始めた和夫は急にいそがしくなった。鉄や銅が高騰し和夫の商売はいそがしくなった。子供達は大きな磁石を持ちぶら下げて歩いた。道にも何処にでも鉄の粉は落ちていて、磁石にくっついた。一日集めると和夫の店が十円か二十円で買ってくれた。分銅器で図られ一モンメ幾らで商いされた。そのうち大人まで乗り出し鉄泥棒まで出始めた。電信棒に二人で一本づつ登り両方から電線を切断してしまうことまで横行するようになった。電線はドラム缶で焼きバレないように上から古タイヤで隠した。銅が解けてそれを棒にし売るのである。いろんなものが持ち込まれた。戦前の警察官が持っていたサーベルも多く持って来られた。政志も焼跡に磁石を持っていったが、ある時缶詰状のものを探し出し鉄屑屋に持って行った。中にまだ火薬が残っていた。ノボ兄はそれを見つけると、「こりゃいかんわ、焼夷弾だがや、まだ火薬も入っとるわ、まぁええわ、これやるわ」と言って、小遣の五十円を政志に渡した。五十円は大金だった。当時の小遣は一日十円が相場だったから。その十円に目の色を変える、それが日本の状況だった。何年か前まで欲しがりません勝つまではとスローガンを口にしていた国民が皆、あさましい姿に化した。隣国の戦争はこれ幸いと金儲けに走った。

 小学校に通うようになった政志は、内気な子だったが、怒るとガンとして動かない頑固な一面を持った子供だった。講堂は平屋で余り大きくなく二千人の生徒を収容するには十分な広さとは言い難かった。何かの折、政志はむくれ講堂に行くのを嫌がった事があった。問題を起こすとすぐ姉の里美が説得に呼び出された。
政志は姉の言うことは必ず聞き、言う事を聞いたから。里美は体の弱い美代子にかわって政志の面倒をよく見ていた。勉強用具の点検や朝食の世話も良くした。
 小学校一―二年生の時、余り生徒が急に増えるものだから、二部制が取られた。時間差登校である。朝登校せず午後から登校し授業を受けた。教室が不足していたのである。戦後のベビーブームはすさまじく巨大な市場を生んだ。その年代が時代を牽引して行くことになる。又その事は競争社会の幕開けでもあった。生まれた時から何事も比べられ、ふるい落とされる。ブームを巻き起こす年代でもあった。揺り籠から墓場まで、いつもその世代が時代を造り出してゆく。
 小学校からパン食が出され、米に代った。アメリカの政策だったのかもしれない。パンに肉、そしてコカコーラ、コーヒー、いずれも巨大なアメリカという生産国があった。食べるものから欧米化が始った。昼食にマカロニ、カレーが出され、もの珍しく皆食べた。カレーは特に子供に人気だった。家庭の食事のメニューに加わり通常化した。小麦も肉もアメリカから買わねばならないように組み入れられた。白いシチューのメニューもあった。プレゼントし、それに馴染ませ、浸透させてゆく。それは、キリスト教の布教と同じ方法だった。アメリカという戦勝国は何でも出来、巧妙にやってのけた。
 薬も同じだった。アメリカの製薬会社は多くの薬を開発し日本に与え、その効果を知らしめた。日本は結核の多い国だった。戦後すぐは死亡のトップはいつも結核だった。小学校からツベルクリンを注射の回し使いで打たれた。肝油を多くの児童が学校で出された。
 戦後しらみが多く発生し日本人を悩ませた。ある時、政志の学校も全員、運動場に呼び出され皆で立っている所にセスナが飛んで出て、DDTを散布した。頭から浴びた、そんな事が平気で行なわれた。
 政志の小学校時代は、そうして始まった。
新しい物が始まった。テレビである。政志が一年の時、家庭に入って来た。初めは税務署が目をつけるかもしれないと、用心して隠れ隠れして、隠居場でこっそり見た。初めはNHKだけの、それも日に二―三時間しか放映してないという一元放送だった。内容は私の秘密、ジェスチャー、相撲にプロレス、ボクシングと内容は少なかった。私の秘密は高橋圭三アナが担当し、人気があった。政志は日露戦争の旅巡港閉鎖作戦に参加した。杉野兵曹長が出演し広瀬中佐を忍んで涙したのを覚えている。プロレスは相撲界からプロレスにかわり大活躍した力道山に人気は集中した。次から次へと対決するアメリカのプロレスラーが空手チョップで形勢逆転するのを、敗戦国日本人はこ気味良く見た。ボクシングは海老原が紙ソリパンチと言われ人気があった。こうしてテレビは庶民に浸透していった。各家庭で買えないので風呂屋とか、飲食店とか客寄せに必要で持つ所に皆集った。家庭で持っている家は近所の人が集った。近所づき合いの多い時代でもあった。街頭テレビも各処にあって人を集めた。こうしてテレビは各家庭に入り込み段々映画館より人気になっていった。国民的人気の出る番組も出て来た。「君の名は」等は視聴率を集め、井戸端会議の話題を独占した。テレビの次は冷蔵庫、又その次は洗濯機と次から次へと電器製品が各家庭に入り込んで行った。美代子も洗濯は盥に洗濯板だった。女性には厳しい作業が、洗濯機と後に出た乾燥機は便利で非常に重宝した。洗濯は宿屋にとっては重労働だったのである。
 掃除、洗濯は、宿屋の大切な仕事だった。たとえどんなにオンボロでも清潔さが保たれていればいい。暖房設備がない時代、冬は各部屋に火鉢を入れた。帳場には火鉢、酒の燗がうまく出来た。寝る時は湯たんぽかアンカをフトンに入れた。アンカは便利だった。湯たんぽのように火傷をすることなく、炭一つでいつまでも暖かかった。七輪で起こす火も大切だった。その上で色々料理することが出来た。あられは美代子の里から送られた餅を小さく平らにしたもので、それを特殊な焼く道具を使うと膨らんで食べることが出来た。他に焼き餅や時には一夫の村から送ってくる鶫を焼いて食べた。鶫は渡り鳥で禁漁だが村辺の人はカスミ網で捕まえた鳥を平気で食べた。山村の風習として冬に蛋白源として蜂の幼虫や蝗等を食べる。へぼは蜂の幼虫で蛹も入っており食べると香ばしかった。地蜂を飼う習慣もあり、女王蜂を捕まえ、巣を創らせるのだが、肉の一片を糸につけ女王蜂が取って飛ぶのを追っ駆けるのも山中歩かねばならず大きな作業だった。
 土地土地でいろんな習慣があり、とんでもないと思うものをその地の人は口にする。名古屋では十月の秋祭の時、決って箱寿司を作ったが、その時は決って小さな魚もろこを使いもろこ寿司を作った。あれも蛋白が不足しがちな冬に向っての食物だったろう。箱寿司は家々の個性が入り色々な絵が出来た。名古屋文化の一つと言えるだろう。

 一夫の宿に間借りした娘達も一年の約束を過ぎそれぞれの道を歩かねばならなかった。ジミーの愛人ののぶ子は朝鮮戦争が済んだらアメリカで結婚すると決めていた。せっちゃんは馴染みの客、サラリーマンの吉田さんの所へ嫁に行くと言った。洋子は恋破れガス中毒で自殺した。美代子は駆け付け、死に化粧を施してやった。肌が中毒でピンク色に染まっていた。小股の切れ上った美人の道子は馴染みの江川さんに青酸カリを飲まされ死ぬ手前で助かった。江川さんはタクシーの中でサイダーと共に青酸カリを飲み死んだ。無理心中を図る前に一夫の宿に火をつけた。政志が、煙を見て火事だ火事だとはしゃぐのを姉の里美に叱られた。火は一室焦がしただけのボヤで終った。シィさんは、脳性梅毒が悪化し、精神病院に美代子に連れてゆかれ入院した。青森から売られ売られした物語を東北弁で話すシィさんの幼さや父母をけっして恨まない言動に美代子は涙が止まらなかった。
 こうして皆別れて行った。一夫は元の宿にもどり再開した。もとの客はもどらず、逆に風態の悪い客達の巣となった。東京から中日―巨人戦の度に名古屋球場にダフ屋をやりに来る浅草のヤクザの一団やら日用品を苦学生と偽り売るスーチャンという男、流れ者で背中に刺青の入った梅鉢さん、四国からは新聞発行元だと称する総会屋の元締め根元さん、稲葉地一家の親分は愛人とヒロポンを楽しみに来ていた。チンピラの菅原は美しい恋人と愛を確かめる為にやって来た。おかしな人達の溜り場となった。逆に中村署の刑事が麻雀でサボル為にやって来たり、国鉄のポッポ屋が徹夜勤務のアケに酒を飲むために来たりと、一風変わった宿になった。
 その頃美代子は体調が悪くなり児島という針医者に看てもらうことが多かった。夜は梅鉢さんとこいこいに興ずるようになった。一晩中、一文幾らで遊ぶのである。政志は眠くなるまで後で見ることが多かった。青丹に赤丹、猪鹿蝶に牡丹の短冊、桐札の存在、博打の展開は後で見ているだけで面白かった。美代子は玄人相手ながら負けることが少なかった。ただ時の流れに身を任せ、暇を持て余していたのだろう。一夫は妻を放っておいた。どうしようもなかったのだ。余りの世の中の変遷に戸惑っていた。疑問を感じなかったのではない。軍隊生活の規律が奪われた瞬間から、混沌に身を委ねる他なかった。世間の大概の日本人もそうであった。皆忍び寄る退廃から逃げようがなかった。一夫は、時に酒に溺れた。いつも憂さをはらすには酒が一番良かった。刑事が来た。毎晩来て酒二合につまみをねだった。県警の一課、殺人犯を扱う敏腕刑事だった。彼は、ただ酒を飲む事で一日の憂さを晴らしているのだ。
 混沌はいつまでも続かない。混沌を続けるには相当な体力がいるからだ。人間は耐えきらなくなり、バランスを求めるようになる。
 宿泊業も変わりつつあった。皆が余暇を求めるようになり、旅は心の一番の癒しと観光旅行を求めるようになって来た。経済も動くようになり、営業が増し出張という仕事も多くなって来た。東京から名古屋に来るには汽車でも八時間を要し、どうしても一日の宿が必要になった。名古屋駅近くの宿が求められるようになり、一夫の宿も電話が掛かるようになって来た。宿屋の形態も時代と共に変化する。
 ダフ屋の一団とインチキ学生のスーチャンが喧嘩した。ダフ屋の一条と村瀬はいつもツルんでいたチンピラだった。伴淳の所へ挨拶と称し、駄賃をもらって来るのも一緒、ヒロポンにふけるのも一緒、そんな奴等だった。ある時、些細な事で殴り合いとなり、喧嘩に強いスーチャンが空手二段の腕をふるい、一条と村瀬を殴り飛ばした。その場はそれで一端収まったが、殴られた二人が浅草の親分と兄弟の盃を交わしている大須の親分の所へ駆け込み、仁義を通そうと考えたのか、大須の親分が若衆を復讐に送り込んで来た。若衆はスーチャンを近くの神社へ話しがあるからと連れて行き、二人がスーチャンの腕を抱え、もう一人が後から短刀で刺した。スーチャンは血だらけになりながら逃げ込んで来て宿の床下に隠れた。刺した方の三人は追って来て宿屋中探し回ったがスーチャンは声も上げず、隠れていた。パトカーが来るのと、三人が消えるのと同時だった。刺した若衆はその夜のうちに自首して出た。スーチャンを救ったのは一夫だった。近くの外科へ行き手術をし、なんとかスーチャンは命をとり留めた。
 そんな事件があって一夫は、嫌になりもっとまともな宿にしようと考えるようになった。

 昭和三十三年は一家にとって多難な年になった。この地方にとっても。政志は小学三年生を向かえた。八月に築港からポンポン船に乗り、篠島へ海水浴に行った。一夫の繊維古物商時代の友人岸田一家を共だって二家族での旅行である。名古屋港の事を当時は築港と呼んでいた。一時間余りのゆっくりとした船遊びだった。船の生簀では珍しい魚が泳いでいた。鮫の子供やエイの子供、見た事もない鮮やかな色の魚達である。潮風がたまらなく快適で日差しの照り返しが船の鉄板に反射し夏本番を感じさせた。大東館という宿に一家族ずつ部屋を予約して泊った。大時計が玄関に飾られた宿だった。途中に寄った日間賀はオンボロの猟師の家が立ち並び漁師の島を思わせた。篠島は海岸線に添ってしらす干しが行なわれ、独特の臭気を漂わせていた。しらす干しの前に海水浴場はあった。
 岸田家の一人娘京子と姉の里美、政志の三人で泳いだ。泳ぐより波間にただよう南の海を思わせる熱帯魚や紫うにの存在の方に興味が湧いた。ひとでや宿かり、舟虫の大群も居て日頃にはない風情を政志は覚えていた。
 岸田は一夫と同じく駅裏の闇市にある繊維の組合で古着を扱っていた。陸軍の下士官時代は山下兵団に居て、シンガポールへ攻めて行った時は最前線で活躍したと豪語していた。山下将軍はマレーの寅と怖れられ、米軍に勝って降服を促す時にYESかNOかとフォードの会社で迫った将軍である。敗戦の後、シンガポールで開かれた軍事裁判で絞首刑が決まり、ある丘の一本木に吊るされてしまった。
 岸田は要領の良い男で組合の株を買い占め知らぬうちに理事長に納まってしまった。今は勝手に得た地位を良い事に、繊維会館という貸ビルを建てオーナーに納まっていた。戦後すぐは少し目鼻がきく奴の方に権力が集中した時代である。岸田はゴルフに麻雀・囲碁に生活を傾けた。女房が体が弱いせいもあった。愛人に雀荘をビル内に開かせ自分もそこで遊んだ。一夫とはヘタな囲碁仲間だった。美代子も加わり舌戦ばかりやっていた。一夫は守る囲碁、美代子は攻め続ける囲碁、岸田はうかがう囲碁と性格のはっきり現われる対極だった。岸田は男の子のない自分を悲しみ、換わりに政志を可愛がった。プロレスごっこの相手をして遊んだりした。

 夏が過ぎ九月になり、もうすぐ十月という時にそれはやって来た。伊勢湾台風である。風がものすごいうなりを立てて吹いた。今までとは全然違う台風である。一夫の家族は全員集められ宿で一番安全と思われる新館の離れの一室にろうそくの中、肩を傍めあった。家が壊れそうな音がし、かわらが飛んだ。トタン屋根やベニヤ板や色んなものが飛ぶ音が聞こえた。家が壊れると皆が震え上っている時、一夫は意を決して家を守る事を考え、機敏に行動した。雨戸を閉め木材でつっかい棒し家を安定させた。今にも天井から屋根が飛ばされそうで、しっかり柱を持っていた。壁が落ちる反響がすさまじく全てが破壊されてゆく様だった。
 明け方になり、ようやく風も弱くなりヒューヒューという音に変り、静かになってゆくと、皆部屋から抜け出した。近くの公園の木はすべて倒れたり折れたりし、道は川になっている。近所の人も顔を出すようになり、安全を確かめあった。
 宿は壁が相当落ち、瓦も半分程めくれた状態だった。大工の棟梁が駆けつけてくれていた。
 それから二週間程、電気のない生活が続いた。宿には港区や南区からの避難客が泊まりに来ていた。両区は相当やられたらしい。新聞に被害状況が紙面を踊っていた。死人が大分出たらしい。中村区はまだましな様だった。それでも駅周辺や中村区全域に道が水につかり、動けない様子だった。子供は元気だった。川になった道を楽しむように手製の簡単な船を造ったり、トラックの荷台に捕まったりして、避難ゴッコをして遊んだ。
 小学校へも南区から避難の生徒が一時疎開して来た。いかにも農家の子という風情だった。一夫一家の不幸な出来事は台風だけでは済まなかった。

 宿には、いろんな住人がいた。住人といっても人ではなく、青大将の夫婦と家守、むかで、何種類の蟻達、体長十センチ程もあるゴキブリも捕る大型の蜘蛛、井戸にはヒルが居たし夏にはガマ蛙が姿を見せ、秋になると蟋蟀が忍び鳴いた。青大将は昼アベックで逢瀬を楽しみに来る若いカップルの布団の中で寝て居て驚かしたり、時には天井からブラ下ったり一夫を吃驚させたり愛嬌たっぷりだった。ヒルは時々風呂水に居て血を吸って悪さをした。
 天井に蜉蝣が卵を生み付けると、誰かが死ぬと美代子が嫌っていた。この秋の九月末、隠居家の天井に卵を生み付けた。美代子の悪い予感は的中してしまった。
 祖父の牛太郎は中背の整った顔をし田舎の光源氏、プレイボーイと噂され五十半ばに十八歳の女子事務員に手を出し子を生ませる等の醜聞の絶えないお爺さんだった。その娘が結婚しすぐ一年足らずの内に息子を生み日が合わぬと離縁され悲期の最後を遂げてから親類に子は貰われその子をみる度に罪の意識を覚えたのか、その事については口にしなかった。祖母のはくは、十六歳で養子縁組で一緒になったが、次々と子が生れ十四人の子を持った。一夫は次男で長男は美代子と結婚したものの結核で倒れわずか四年足らずで死んでしまった。他の子も五歳まで生きる子は少なく半分は死に戦後まで生き残ったのは七人しかいない。仕方がないことを方言でかんかないと言うが、はくの口ぐせは、いつもかんかないだった。きせるで煙草を吸うのが癖でいつもきせるが手離せなかった。祖父母は二人とも中気で倒れたが、余りひどくなかったのか名古屋へ来る頃は元気になっていた。祖父は来名してから毎晩二合の晩酌を欠かせなかった。礼儀正しいせいか無口の政志とは受けのよい姉の里美とは違い反りが合わなかった。祖母は寒い日、着物の裾を捲くると火鉢にひょいと乗り股火鉢をした。政志も一度真似をして畳を炭で焦がし美代子に叱られた。祖母のはくは、政志をわしの真似をしたのだろうと庇ってくれた。
 牛太郎が倒れたのは来名後五年経た頃だった。伊勢湾台風直後で一夫夫婦が大変な時だ。
 台風が過ぎた二―三日後突然口から悪いものを吐いた。少量だったが、血の固まったものだったろう。それから以後起きれなくなり寝たきりとなった。孝行な一夫は、よく面倒を見た。往診に来た医師の見立ては、胃がんだろうとのこと、命もよくもって三月位だろうとのことだった。
 だがそんなに持たなかった。柱の振子時計がやたらと大きくコチコチと秒針を鳴らしていた。相当痛いのを我慢していたのだろう。牛太郎の体力は残っていなかった。そのまま深い眠りについた。九月末のことだ。
 白い装束に着替えさせられた。頭にも白い三角の頭布が巻かれ、旅立つ準備が整えられた。一夫も喪主として白い袴を履き、やはり真白い着物に着替えた。通夜には元々親類は多かったが他にも政志が会ったこともない豊橋や藤岡からも親類の人達が来た。夜には八百彦から弁当が百五十程届けられた。大きな葬儀となった。坊主も里の寺から曹洞宗の八人が来た。総八と呼ばれる一等格式の高いものだ。チャランポランの大きな鳴物に続き般若心経が読まれ個人の経歴を伝えるお経となった。政志はこの大きな行事に戸惑いながら目新しいものに驚いていた。
 翌日、当時はまだ有った黄金(こがね)の焼場へタクシーを連ねた。焼き上り、骨拾いの儀式となった。大きな箸で二人で小さな喉骨や他の骨を拾った。政志も手伝った。骨は一杯あるのにほんの一部しか骨壺には入れられず残りはうず高く積まれた他の骨と一緒に捨てられた。何故か寂しい思いがした。
 家に帰り庭を見ると、祖父が植え大事に育てていた桜の木が何故か枯れていた。祖父と共に逝きたかったようだ。
 十月に入り半ばに政志の弟の保夫が生まれた。まるで祖父の生まれ変りのようだった。悲しみの後に嬉しさがやって来る。家族皆が喜びに湧いた。一夫は分銅のついた量りで赤ちゃんを乗せ体重を量るのが楽しそうだった。何モンメになったぞと美代子と共に嬉しがった。
 政志も学校から早く帰って弟を見たくなった。死の後にやって来た誕生は光を家族に与えた。病弱だった美代子も血の流れが変化したのか、元気になった。
 ただ政志は死について考え込むようになっていった。一日何時間も空虚に思い悩んでいた。鬱になった息子を心配したのか一夫が担任の先生に相談したことがあった。先生は職員室に政志を呼び出し、こう告げた。「人の一生は、与えられた鰻重をどう食べるかだ。それを考えろ」と。祖父が死んで半年が過ぎた。祖母の元気がなくなって行った。祖母は明治中期の生まれながら大柄で太ってもいたが、急にやせ出し、心配した一夫夫婦は祖母を連れ京都奈良へ家族旅行に行くことにした。まだ寒い三月末春休みになってからの事だ。
 初めに奈良公園へ行った。鹿と戯れ、鹿せんべいをやったり大仏さんを見たり、興福寺の五重塔を見たりし、祖母は興奮したようだ。みやげ品では真鍮製の赤い大仏や五重塔、鹿を売っていた。政志はガラス製の鹿を買った。
 奈良公園の近くの小さな宿に泊り翌日京都へ向った。「おこしやす。可愛いいぼんぼん」京ことばは政志には珍らしかった。一日目は南座へ行き流行のかしまし娘の三人を見た。面白く祖母も喜んだ。翌日早朝宿を出発し嵐山へ向った。嵐山近くの梅の木の下近くで祖母は嬉しさの余りか脱糞をしてしまった。公衆トイレへ行き、美代子が近くの衣料品店まで走り桃色の腰巻きを買って来てあわてて祖母から汚れた下着と交換させた。旅を楽しむどころではなくなった。猿山もそうそうにし、あわてて帰名した。祖母はそれからまもなくして亡くなった。
 祖父母の死、二人の死は政志に無常を嫌おうなく覚えさせた。何の為に、いつも考えるようになって行った。もう一つ政志の心を傷つける事件があった。不用意に女の先生が、彼にマー君の家は、可哀相ね、あんな仕事してるからねと、言った言葉だ。政志は分からなかった。どういうことだろう、どうして可哀相なんだろう。給食費もちゃんと払っているのにといろいろ考えた。家に帰り姉の里美にたずねた。「チャー坊、なんでうちは可哀相なの」姉は少し時間を置いて「うちは、女の人置いとるでしょ、それでいかんのだわ」と、苦しそうに言った。政志は、それでも判然としなかった。分かったのは数日してからだ。せつ子に聞いてからだ。せつ子は、「私達悪いことでお金もらっとるでしょ、それで先生そう言ったんだわ」政志は漠然と分かって来た。うちは特殊な事でお金を得とる所なんだ、よく聞く娼婦ってなんだろう、いろいろ考え分って来た。クラスでは食費や他の経費を払えない子が十人近くいた。彼等はいつも寂しい思いをしていた。子供は意外と敏感なのだ。差別ということを段々考える子供になっていった。他の親達の視線が気になり出した。彼等は他とは違う目で政志を見ている。そう感じるようになった。
 一夫や美代子にも子供に対し負い目はあった。たまに遊びに来る警官達も「売春禁止法が開かれるので、気を付けなかんよ、市川房枝という女代議士さん、いらん事してくれたわ、わし等も大変だわ、娘達が居なくなると、きっと犯罪もふえるで」と、注意してくれた。
 こうして多難な小学校三年生は過ぎて行き、いろんな意味で政志は成長していった。朝は美代子が起きられず、まかないの佐藤のおばちゃんが朝食も作ってくれた。佐藤さんは元芸者さんで、三回結婚歴があり、三回とも夫が死ぬという回り合わせを持った人だった。昔日本髪を結ったせいか頭のてっぺんに大きなハゲがあった。昔の老人の女性は、そんな女の人が多かった。
 政志は毎朝、美代子の背の後で見て覚えた花札のこいこいを佐藤のおばちゃんと一文一円でして目を覚まし朝食を食べるのが日課だった。佐藤さんも嫌がらずつき合ってくれた。花札は芸者時代に覚えたようだ。小学校四年になり新築の分校本陣小学校へ四年生と五年生が行くことになった。一夫の宿からは一キロ余り離れていた。学校の回りは池か田んぼばかりだった。学校の回りをお茶の木がぐるりと植えられていた。四階建てのコンクリートの建物で真新しく入口前には朱呂の木が植えられた小庭があり運動場も広く新鮮だった。
やっと学校不足が解消されゆとりが出来た。政志は美代子の勧めで石川啄木の歌集「一握の砂」や「悲しき玩具」を読むことになった。いつもカバンの中に入れておき、愛読書となった。啄木の歌は何故か子供の心にもすうっと入って来た。情景や心情が素直に感じられるのだ。
 「東海の小島の磯の白砂」の歌や「たらちねの母を背負いて」の歌は愛称歌となった。クラスの担任は歌集を見つけて「こんなの分かるの」と不思議そうな顔をした。紋白蝶や黄色い蝶が菜の花やキャベツ畑を舞う暖かい学校の近くだった。六月に入ると、近くの田んぼが蛙の卵でいっぱいになった。すぐに卵がかえり、おたまじゃくしになった。おたまじゃくしが大きくなり、足や手がはえ段々成長してゆく。そんな長閑な学校だった。

 美代子の姉妹達は何かと集まるのが常だった。姉四人は地名と様で呼ばれ、下の二人が呼びすてだった。一番上の姉は、円頓寺の姉様、二番目は大須の平子花子だから花様、三番目は中村の岩田さわのさあ様、四番目は小山の平子富だからトミ様、五番目は好子、そして六番目が美代子だった。話す時はひどい名古屋弁だった。
 円頓寺の姉様は少しため口、夫は駅前の市場の鰻屋で番台を持っていた。夫の駒瀬又三郎は魚屋の親爺らしく粋でやんちゃだった。二番目の大須の姉が一番美しい名古屋弁の上町言葉を話した。戦前は手焼きせんべい店を開いていたが今は江戸時代からある長屋で土産の卸屋を営業していた。さあ様の夫は、豊田織機に勤め特殊な腕を生かし高級取りだった。四番目だけが農家だった。それぞれが地域の名古屋弁を話した。少しづつ違う名古屋弁でそれぞれ特色のある方言だった。地域地域、場所と職業によって方言はそれぞれ違うように発展したのだろう。姉妹も年によって、各々少しづつ考え方が違っていた。明治生れと大正生れでは違うし、昭和になればもっと違う。人はそれぞれ世相に影響され育つのだ。
 正月には皆好子の家へ集った。政志には好都合だった。お年玉がいっぺんにもらえるから。一人づつ個性豊かな姉妹、一番上の姉様は意地悪で人情家、夫に仕え、しかも牛耳っていた。夫が今夜は遊郭へ遊びに行くと言うと、絹の着物に派手な長襦袢、装飾品の数々を添え喜んで送り出すという明治生れの女の気骨を持っていた。二番目の花は名古屋弁のなもえもを多用し最も丁寧な方言を使い姉妹を宥める役、三番目のさわは新聞は朝日という一徹な生き方をする反面、痩せた人はカマキリの八割などと言う独特な表現の名古屋弁を駆使するユーモアを持った女性、四番目の富はもう女の子供はもう止めるということで名付けられ一人だけ農家に嫁ぎ一所懸命土に生きる女性、夫はふんどし一つで足踏みしたくわんを漬けていた。五番目の女の子はもうよかろうと名付けられた好子が姉妹のリーダーシップを握りいつも親戚全体の相談役、六番目の美代子は生れてすぐ父親が死に母親と共に姉妹の間を預けられ育ち何かと子供扱いされていた。実際長女と美代子では親と子の年の差があり、事実おいの方が年長だった。実家はかつての士族で尾張平氏の流れだった。信長は平氏を名乗ったので平のままだったが、家康の時代になって源氏を名乗ったことから平の下に子をつけて平子にした。徳川に遠慮したようだ。だから姉妹全員、気位が高かった。

 昭和三十年代に入ると、経済も動くようになったのだろう。名古屋のシンボルとして百メートル道路、進駐軍が朝鮮戦争に行きキャンプが空いた処にテレビ塔が出来た。東京タワーより早く出来た塔だった。展望台のある所まで階段を上るのが流行した。名古屋城も同時期に鉄筋で作られた。金鯱が雌雄各々トラックに乗せられ、市中をパレードしたのを政志は広小路へ見に行った。昭和三十年代広小路は華やかで秋祭りには、市電を飾りつけ花電車を走らせたり戦争特需でキャバレー業界も景気が良くホステスがパレードに加わる等して戦後に一時期ぱっと咲いた花の時期だった。
 一夫の宿も客が来るようになって来た。東京からの出張族が客の半分を占めるようになって来た。名古屋駅からの紹介があり、一夫はよく自転車で駅まで客を向かいに行った。駅裏はまだまだ汚なかった。以前にも増して駅前と駅裏の差が出るようになって来ていた。駅内部も戦争当時と変わらず汚れていた。靴みがきが何箇所かあったし、電話もあったが旧式のぐるぐる回して交換台につなぐものしかなかった。食堂はキッチン日本食堂が開き洋食が食べられる唯一の店だった。
 一夫は思いきって隠居屋を壊し商売を拡張しようと考えるようになった。土地も好子の持っていた隣接の九十坪を売ってもらい旧館とくっつけるように改装した。部屋も二十位に増していた。
 段々宿はいそがしくなったが、里美や政志は放っておかれるようになった。政志は五年生の時初めて大須のスケートリンクに行った。平屋の体育館のような建物だった。中に貸靴屋もあり、軽食コーナーもあった。毎日曜美代子に千円小遣いをもらい、稲葉地の姉様の孫の駒瀬正憲、通称マー坊と滑りに行った。スキーの名選手トニーザイラーの映画「白銀は招くよ!」の音楽に乗り何回も只回った。政志はクラスでも一―二番目の背の小さい方なので女の人の股の間を抜けて行くのが爽快だった。帰りには近くの食堂でカレーを食べるのが常だった。大須のリンクの近く大須観音の脇には、納屋橋のたもとにあった蛇の焼いた物やら猿の頭蓋骨や諸々の不思議なものを売る店があった。不可思議というだけで世界は大きく拡がった。大須と円頓寺という二つの商店街は違う動きをした。円頓寺は寂れ、大須は発展したのである。大須は信長ゆかりの町である。ゆかりの寺が幾つもある。円頓寺は清洲越えからの家康の町である。五条橋からの堀川の眺めはとても良い。蔵跡や屋根神様も風情良く残っている。信長の復讐なのか大須が発展し円頓寺が傾いていったのは。ただ息吹はある、円頓寺にも。名古屋駅の発展による影響が近付きつつあるのだ。デザインの良い店が近くに出来始めた。今芽生えの時なのだろう。それぞれの町に好みの店がある。
 円頓寺なら創業以来味の変わらない洋食の勝利亭、和食の麒麟亭、和菓子の美濃忠、大須なら鰻の奴、昔のきしめんを出してくれる演芸場隣の麺類処、大須に近い矢場町にあるとんかつの矢場とんである。
 筆者は五条橋から見える堀川の流れを見ながら勝手にこう思った。水上交通や馬を使えば以外と近いのではないか。信長時代、庄内川のすぐ下の大正橋の近くの手習いをしていた寺まで清洲から馬で走れば早いのではないか、大須までも三十~四十分で行けるのではないか、名古屋城築城の際、清正は篠島近くの無人島から石を船で運んだと言う、築城の為堀川は造られた。船で行けば数時間で着くことが出来たはず、飛騨から材木は木曽川を筏で流し運んだと聞いている。今でも堀川添いには材木問屋が沢山ある。伊勢湾台風の時貯木場の材木が流れ、それで被害は大きくなったが、昭和末まで材木の上で曲乗りの競技が行なわれたはずだ。考えてゆくと、昔は水上路海路がすべてつながっていたのではないか、物資は案外早く流通したのではないか、堀川を遡上するぼらの群のように流れたのではないか、こう思った。
 一夫の里も、岩村藩の西の端にあり一夫が育った祖父母の家は江戸時代は岩村の出城跡だった。霧が城で知られる岩村城は石垣が有名で日本一高い処に建てられた山城である。信長の姉が女城主として居たが武田と内通したことで信長が攻め滅ぼしている。その時の戦いに参戦したであろう一夫の祖先は槍一本携えて逃げ帰ったという伝えがあった。高台には狼煙台跡が残っていて湯が池に湧き出していたことから湯洞と言われた。一夫の祖父母佐久衛門夫婦は湯洞の隠居と呼ばれ、石高は百数十石毎年秋になると蔵に米が運ばれたと聞く。蚕を飼い養蚕農家でもあった。随分女工さんや手伝いの男衆がいたと伝えられる。四百坪の敷地いっぱいに建物は建っており、いろんなものが荷車で運ばれるようになっていた。牛太郎が養子で来たものの才覚がなく子が多く、又死んだことから治療費にかかり、家が傾いていったと伝えられる。現に母のはくが誰それん家は羨ましい。息子は二人とも戦死したので軍事恩給が沢山もらえるらしい。うちは結核ばかりで苦しくてかんかないと嘆いていた程だ。一夫は祖父母に育てられた。大きな屋敷の中で、使用人達と共に育った。先々代の角次郎はやり手で宮大工をし家を富ました。角次郎の頃、養蚕も始めた。
 村の中に中仙道の裏道中馬街道が走っており姫街道とも云われ大名の息女や公家の娘が嫁ぐ時に通ったようだ。湯洞にも立ち寄り茶を楽しんだと伝えられている。又、明治の女官長下田歌子は一夫の縁続きの久保田せつと女学校が一緒で良く馬で岩村から遊びに来たという。歌子は乃木将軍と意見が合わず対立したと聞く。又、卒業式に編み上げの皮靴と袴姿を流行させたことでも有名である。岩村は国学が盛んで多くの儒学者を排出し、郡上一揆を収めたことで有名だった、
 一夫のまだ幼い頃は、こうして村の大隠居の下で育てられた。一夫の親類、弟妹達もそれぞれ個性があった。父牛太郎の弟山内の叔父は藤岡村に居て志野焼の発見と再生に成功した荒川豊蔵と共に丁稚に出た後、第一次大戦の頃騎馬兵として出兵し、戦勝すると近衛騎兵となった。すごい尊皇論を唱える人でもあった。又その弟の安藤浅市は大工でよく政志を可愛がってくれた。その妻がグラマンの機上掃射を受け赤子と共に殺されると、子供の順子と圭治の生き方が変ってしまった。二人とも一夫が引き取り面倒をみるようになった。
 一夫の長姉の小出タカは三菱系の三菱石油を興した小出八十一の下へ嫁ぎ、その家が、村はずれの川の向こうにあったから川向こうと呼ばれていた。築三百年以上の古民家だった。一夫は宿を増築する度に八十一から資金を借りていた。几帳面に利子をつけて毎月返済した。二番目の姉は長江和市という駄知にある陶器を焼く時に欠かせないゴロを焼く家に嫁いでいた。ゴロは陶器が割れないように包んで焼くものだった。駄知というその町は陶器の窯元ばかりだった。カマグレと陶器職人を呼ぶが、宵越しの金は持たない気風があり、食べる事には贅沢だったし、美術品、特に日本画とか陶芸には惜しまず金を使っていた。行くと決って出前の寿司を御馳走してくれた。山間にあるのに非常においしい寿司で政志は鉄火巻が好きだった。甘く多分トロが巻かれていたのだろう。山から水を引き池を造り色鮮やかな鯉が泳いでいた。又、目白やうぐいす等の渡り鳥を捕っては飼って楽しんでいた。政志は従兄姉達と少し山へ入った清流で夏は泳いだ。幼魚が群れ遊び時々あぶが血を吸う小川で石で流れを塞き止め深みを作っては飛び込んだ。三番目からは、一夫にとって妹になる。三番目は同じ姓で遠縁にあたる。一二三は東京の商社を仲間で起こし、働いていた。戦時中は中国へ従軍していた。住まいは赤羽根の団地にあった。子供は二人いて政志とは同じ年の従弟の徹と里美と同じ年の千穂子がいた。お盆になると毎年帰郷して名古屋へも立ち寄った。徹は頭が良く二人で碁の五つ並べをして楽しんだ。始めは政志が優勢だったが、すぐ徹の方に手を読まれ、負けるようになった。次の妹は絹江で今の恵那、当時は大井と呼んだが、恵那郷の近くに一山尾張徳川家の御殿医の家系だった加藤家の別荘があり、そこを南方戦線でマラリアを災った加藤家の二男冬二が養生の為にもらい嫁に絹江を軍隊仲間に紹介され、結婚し一緒にすむようになった。絹江は産婆の資格を持ち市民病院の看護婦だった。別荘は山の一番高い所にあり、陽当たりが良かった。別荘には皮の座布団や冬二が明治大学に行っていた頃集めた書籍等見慣れない物が沢山あった。肝臓を病んだ冬二は時折、病院に入院するようになっていた。別荘の風呂は五右衛門風呂だった。下駄を履いて体を沈めるのだが、慣れぬ政志は同い年の従弟睦に習いながら、一緒に入って遊んだ。睦の下に妹の恵子が三歳違いでいた。睦とは、別荘の前を流れる浅い川を足で渡って恵那郷まで三十分程歩いて行って遊んだ。恵那郷には観光船があり、よく変った岩がある景観を見ながら遊覧した。
 次は男の兄弟で小さい頃に養子として福岡家へもらわれていった。少しやんちゃに育ち若い頃不良だった。博打好き女好きで十八才の時とうとう勘当され、一夫の宿に居候していた。それでも悪い癖は直らず女にちょっかいを出したりヒロポンに溺れたりしていた。美代子が怒ると、一夫に助け船を出し「兄さん兄さん」と甘い声を出した。一夫はそんな弟が不憫でやはり甘やかした。四郎が少し改心したのは義父が京都の南禅寺山門で割腹自殺してからだった。四郎が地元の博打で相当の借金をつくってしまったからだ。最後の妹は鈴子で近くから養子をもらった。婿養子の耕太郎は農業だけでは飽き足らず小原和紙の新人作家山内一生に襖を作らせ売り歩いていた。
 一夫にも美代子にも親類が多く何かと相談に来たりで二人はよく世話をした。政志や里美もよく親類の家に遊びに行ったりした。まだ日本全体が貧しい時代、少し成功した者が身寄りの面倒を見るのは当り前だった。
 小学校五―六年生の頃、保夫を生んだ美代子は体力回復に政志を連れ毎月二十一日に覚王山の弘法さんに月参りをするようになった。赤子の保夫は背負って行った。名古屋駅前から市電に乗りコトコト覚王山まで乗って行った。今池から登り傾斜が強く随分な坂道を電車は上っていた。
 覚王山の山の中には四十八ヶ所巡りが造られ、いろんな地蔵や小さいお堂に各印所があり割といい運動になった。夏になると蝉しぐれの中を歩いた。油蝉が滅茶苦茶多く政志は素手で捕まえて遊んだ。中には卵を生む蝉もいた。覚王山の縁日には店が並び色んな物が売られていた。市電の電停から十メートル程歩くと覚王山の入口があり商店街が並んでいた。その商店街の入口に木造三階建ての特徴ある唐風の望楼があった。覚王山の帰りには必ず電停前に新築された三階建てのビルにある食堂でオムライスを食べた。
 六年生になると、本陣小学校から則武小学校へもどされた。その時生徒は二校に分けられクラスも七クラスに減り、クラスの人数も少なくなった。
別れは寂しかったが今までも転校生は多く、すぐなじんだ。クラスは進学組とすんなり黄金中学へ行く者とに分けられた。私学を希望する者は授業後に補習が行なわれるようになった。生徒の中でも進路の違う者の間でいろいろ問題が起きるようになった。私学を目差す者は裕福な家庭が多く、放ったらかしの多い生徒の方は貧しい家庭の者が多かった。いじめが横行するようになった。政志も少しいじめに合い、校舎裏へ連れて行かれ殴られたことがあった。
 政志は姉が通う南山学園を目差すこととなった。南山は中学高校六年間教育、カソリックの学校で一夫や美代子も安心出来たのだろう。成績さえ良ければ大学まで行く事が出来た。受験の日は緊張した。特に面接は初めての事なので心が高く鳴った。家の宗教は、余暇はいかに過ごしているのか等聞かれた。政志は余暇の言葉さえ知らず、どぎまぎしてしまった。無事面接も通過し結果を待つ事となった。結果は試験会場の南山学園で発表された。
 南山学園は昭和区の杁中という今までの中村区とは違い山の手の環境がすばらしくいい場所にあった。

 名古屋駅の駅長室や旅客、鉄道警察等から紹介された客が来るようになった一夫夫婦は思いきって好子から譲ってもらった隣地に造築することにした。一階に広間三十畳と二階に客室四部屋を造った。同時に玄関にロビーと大きめの男風呂を造った。日本に旅行ブームの魁のような風が吹き始めていた。一夫夫婦もよく観光地の宿に泊り勉強するようになった。今までは素人で何も分からず客層が悪くいろんな雑事に追われた反省もあった。板前を雇い料理も充実させ始めた。そうすると広間が生きるようになり、国鉄の職員が仕事明けの朝や三交代なので朝、昼、晩の三回団体で来るようになった。国鉄の職員達は酒好きが多く良く酒を飲み歌を歌った。まだ軍歌全盛の頃で他には民謡が多く皆口を合わせ合唱した。汽車の乗務員は寒いので酒飲み乗車は常だった。
 美代子はよく駅に挨拶に出掛け営業するようになった。本来営業は好きだった。行商で鍛えられた営業力が有り、すぐ客は友達になった。駅長とも旅客所長とも近付きになり、そうすると輪が広がり、口づてに名が知られるようになっていった。客も増えた。
 一夫は親子でよく定光寺の応夢亭や蒲郡のふきぬきに泊りに出掛けた。定光寺は中央線の汽車で行った。トンネルを幾つも抜け定光寺に着くとすばらしい山々に囲まれ大きな岩の間を流れる川のある景観地だった。駅から川の上に作られた橋の間に工夫を泊める宿千歳楼があった。宿からせせらぎの間を一時間程抜けると、定光寺があった。尾張徳川家の歴代の藩主を弔う墓があった。入口には左甚五郎の眠り猫の彫り物があり、東照宮を意識したものだと分った。
 夏には、川で泳いだ。定光寺の山には、七ふし虫という枝に不思議な化けた虫がいて、興味が湧いた。
 三河の蒲郡ふきぬき湯泉は一時期日本一の規模の宿だった。水車風呂が有名で男女混浴の風呂で着換え室だけが男女別々で中へ入ると一緒になった。大きな岩を組み合わせており、岩を登って周遊することが出来た。木造の大きな造りの宿で幾つも部屋があり、中の壁や天井に絵が雑然と飾られていた。そこで料理を頼むと部屋まで運んでくれた。海は宿全面にありプライベートビーチになっており泳ぎに出たが決して水は綺麗ではなかった。
 五十年以上経った今、偉容を誇ったふきぬきはもうない。定光寺の浮沈と共に大きくなり凋んでいった千歳楼も残骸を無残に晒している。だが応夢亭は昔のまま営業している。筆者は世の中の無常を思うと共に何故応夢亭は生き残ったのか考える。愛岐国道が出来てから定光寺や古虎渓は繁栄し一時期沢山施設が出来た。いずれももはやない。千歳楼は地元の陶芸家と組み文化的に非常に貢献したし陶九郎や鈴木青々等著名な陶芸作家の器を使い人気があった。愛知の宿の中で一番特色があったはずだ。ところが愛岐道路が有料ではなくなりダンプカー道路になると眺めが良く春の桜、秋の紅葉の風情が失われ急速に衰退してしまった。そんな中応夢亭は生き残っている。ただただ拡張せず昔ながらに商っていたから生き残ったのだろう。五十年前から山に一棟ずつ小屋を作り料理を部屋出しするという方式が良かったのではないか、料理も良くサービスも良かった。それを守り続けていたんだろうと勝手に筆者は考える。五十年以上前、一夫は利用する度心付けを女中と板前に渡した。調理長が必ず挨拶に来た。ずっと馴染みの客を大切に来たのだろうと推察された。
 美代子は各地の宿屋へ行き勉強するとすぐに良い処は取り入れた。朝の寝起きには決って砂糖づけの小梅を出した。到着の際にはお菓子ととびきり良いお茶を出した。到着の時の印象はすごく頭に残る。愛知は茶処でもある。一番良い煎茶を名古屋の銘菓と共に出した。
宴会の為にと三味線や西川流の踊りを習った。宴会場で披露するようになった。客が岡崎の方なら岡崎五万石を山梨の方なら風林火山と言うように。すると客は喜び噂を流してくれた。岡崎は岡崎師範が有り当時の名古屋の教職の半分を占めていたし市や県の教育委員会にも力があった。学校が宴会で来るようになり口コミで客は広がった。当時の国鉄は国労、道労等組合組織が強くその方面の客も来るようになった。
国鉄は上意下達の会社でもあった。官僚社会で上部を占める東大出が権力を振るっていた。東大出のエリートは三十歳前後で課長になった。その課長が接待費の使い道を左右させた。一夫も裏金作りの偽の接待費の領収書を作らされた。すべて東大出の課長の為の裏金づくりだった。後々国鉄が民営化されJRになってから体質は随分変わりそんな事はなくなったが、そういう裏金づくりはよく行なわれ、国鉄の赤字体質につながった。
 美代子は器にも気を使うようになった。
輪島の御膳を大小五十組づつ揃えたり、漆は高山まで行って、春慶塗で揃えたり今里有田の器で器を用意したりした。又、着物道楽でもあり大島のや、絞の羽織、名古屋帯等を愛用した。着付けは五分でこなし帯は何十種も自分で考案した。まだブラジャーは一般的ではなくさらしで乳房をぐるぐるに締めるのが常だった。誰もが女性はそうしていた。胸が大きいのを恥とした時代である。すっきり着こなすのがスマートだった。芸者もよく来るようになった。駅近くの旅館へは中京連のお姉さん達が来た。鯱ほこ立ちをする喜久さんは有名だったが、名妓連に属し中京連ではなかった。民謡名古屋名物や名古屋音頭シノノメ節等郷土の音曲をよく三味線の音と共に聞いた。美代子も三味線で覚え、客に披露した。ハシ袋に名古屋名物を印刷してもらい、名古屋弁と共に客に覚えてもらおうとした。時々やって来る杉戸市長の十八番でもあった。おてもやんを編曲したメロディーは覚えやすかった。
 しだいに宿は客がつくようになり、客層は良くなっていった。旅行業者の力も強くなり交通公社や近畿日本ツーリスト、日本旅行会等も客を送ってくるようになり、協定話となった。
 まだ名古屋にホテルは少なく名古屋観光ホテルとあと二軒位しかなかった。
 政志は六年生になり、駅前に名鉄百貨店が四階建てでオープンしたので同級生と遊びに行った。商品は余りなくパンフレットが珍しくもらいに行ったついでに、四階にある食堂へ寄った。食堂ではラーメンかカレーを注文した。その頃にしては、それでも十分な冒険と言えた。
 中京幼稚園の前を通る十八軒通りが舗装されることになり、工事が始った。今の二十二号線である。まだアスファルトの道は少なくつばめが滑走する間を工事車輌はやって来た。
 一夫は旅行業者との協定を考え始め、早速取り組んだ。協定してもらう為には色んな関門をクリアーしなくてはならない。保健所の届け、採点表がいる、又消防署に図面、消防点検の有無、避難訓練の実施の有無等、又警察署には必ず宿帳が必要だった。所轄官庁との繋がりが大切と思い知らされ、準備した。
 さて各旅行業者との折衝も関門が幾つも有った。まず地域の旅館組合に加盟する必要があった。中村区なら中村区の旅館組合へ、そしてその上に愛知県の旅館組合更に上に全国の旅館組合そんな図式だった。中村旅館組合のメンバーは多く、駅前の旅館二十軒程、元遊郭をやっていて旅館に転身した大門の施設、その他に点在する旅館と数十軒あった。元遊郭の旅館街だけで収容千人程、中村だけで総数二千名程の収容があった。団体旅行が増え始め旅行業者もパイが必要となり始め中村旅館組合は重要だった。旅行業者はなるべく沢山の旅館を傘下にするべく協定旅館連盟には力を入れていた。一夫はまず中村旅館組合へ加盟し、次に日本交通公社を狙った。日本交通公社は駅前の小さなビルに有り何度も足を運び加入することが出来た。次に日本旅行会に頼んだ。日本旅行会は駅ビルに間借りしていて知り合いも多く、出張所が名古屋駅の東側の最良の場所にあった。通行する人が多く、旅行を頼む人が多かったのである。日本旅行会もコネですんなり加盟出来た。加入する時は必ず審査が要った。名古屋以外の地域の有力旅館の主人と旅行業者の審査する人と常に一緒だった。近畿日本ツーリストも加入出来た。
 旅行業者にはいろんな規定があり、いずれもクリアーしなければならなかった。たとえば客室には窓側に必ず応接セットが必要だとかトイレが男女別にあるか、風呂も男女別にあるか、風呂付の部屋が幾つあるか、他にテレビの有無、洗面の有無、押し入の数、床の間の有無と花は活けてあるか等、細かい規則がいっぱい有った。一夫はその為に部屋を改装して備えた。大型の木造旅館が度々火災に合うことが多く死者も出て、その度に消防法が厳しく見直され、消防の設備点検も審査された。
 木造の建て物は特に厳しくチェックされ、その度に緊張せざるを得なかった。
 こうして旅行業者とのつながりも深まってゆき観光旅館として体裁を整えて行った。施設が充実してゆく喜びは一夫にも美代子にもあった。各地から団体も来るようになった。一泊二食付きが原則で夕食は部屋出しが多かった。心付けも常識で必ず女中さんの手元には月十万円近く手に入った。女中さんはその中から何割かは板場に渡さなければならずそうしないと板場からいじめに会った。板場は威厳を持ちピリピリしていて、ひどい時は包丁の柄が飛んで来た。板場社会の徒弟制度は厳しかった。反面、仕事が終わると男女が一緒に風呂に入り仕事の憂さを晴らした。恥ずかしさは感じず、農家でも男女混浴は当たり前だったし鷹揚な時代だった。板前は朴歯の一本足の下駄を履き調理用の白衣を伊達に着る粋な職種であった。だから女に良くもて、女中さんとも良く関係が出来た。
広間が出来、部屋も増すと従業員の数も増えていった。常時三十人程を雇うようになっていた。下足番や風呂番等他には居ない職種もあった。雑役が多く必要な仕事であり、流れ着くいろんな過去を持つ人のたまり場でもあった。
 風呂番の稲川さんは相当いい処のおぼっちゃんだったが身を崩し妻と離婚し行く処がなく住み込みで働くようになった。住込みは家もなく身寄りもない人にとっては恰好の逃げ場である。三食めしには困らないし給与までもらえる。考えて見れば別天地である。風呂番という風呂の湯かげんを見て客にうかがいを立てる仕事だった。きついのは灯油を貯灯タンクに入れる時位だ。二十リッター入りの油を幾つか自分の体より高くまで上げいれなければならない。その時は高齢化し体力の衰えた身にはつらかった。逆に女性の体を平気で見れる陰美な快楽もあった。稲川さんは肺を患っていることを隠し倒れ死ぬまでやりぬいた。
 靴番の亀さんも芸者遊びで身を崩し行く処もなく流れて来た老人だった。稲川さんより品が良くかつては大店の亭主だったようだ。彼は仕事にはプロ意識のようなのがあった。靴番はお客さんの靴を預かり間違いなくその客に出すようにするのだが、彼は客がどんな靴を履いて来たか百足あっても客と靴を覚え間違いなく出すことが出来た。預った靴は必ず磨いてピカピカにして出すのもサービスだった。それも必ず行なった。客は汚れた靴が綺麗になってもどって来るので感動した。顧客の顔を必ず覚えなくてはならない有名ホテルのドアーマンと同じことが宿屋の下足番のプロ意識だった。
 亀さんは或る朝出勤しないのを起こしにいった女中が死んでいるのを発見したという突然死だった。一夫夫婦は、そんな薄倖な従業員の死もちゃんと葬儀を出し見送った。政志の世話になったまかないのおばちゃんは直腸ガンに患かり実家の海部郡へ帰って行った。一夫は見舞に行った。風呂に入ると痛みが和らぐと云う。死ぬ前日、やはり見舞に行くと、「死ぬ時は時間がかかるの、苦しいの」と聞いた。一夫は「すぐ済むよ、あっという間だよ、そんなに苦しまないでも逝けるよ」と、答えた。おばさんは甥に看とられ旅立っていった。
 こうして政志の小学校時代は終わり、南山中学に入学した。私立の南山中学は、中村の下町の小学校とはまるで違った。第一生徒の話す言葉が違った。名古屋弁丸出しの中村とは違い上町というか政志にはよそよそしく感じられた。ただし三カ月で悪貨が良貨を駆逐するように皆名古屋弁の方に汚染されていった。姉の里美がすでに南山中学女子部に二年違いで通っていたので当然のように通い出した。ただ女子部と男子部とはまるで違っていた。女子部は昭和区の隼人池の前の抜群に良い環境の中にビルとして燦然と輝いているのに男子部は木造校舎のまま、教室が足らないのかプレハブ教室がある位でその差は歴然としていた。無論能力差もあり常時女子が上であった。入学の際も難しさは女子部の方が上だった。男子は東海という絶対的なライバルがおり、能力差もあった。
 男子部と女子部の間の小高い丘の上に教会があり、その下にピオ館があった。南山学園はイエズス会が経営するカソリックの神学校である。イエズス会は十字軍に参加したことのあったフランシスコ・ザビエルも宣教師をしていた。非常に厳しい教義の下教育が指導される学園だった。女子部の制服は修道女が着ているものを模していた。男子は普通の中学生が着るツメエリの黒い制服である。ただ革靴を履くことになった。カバンは自由で政志は肩から下げるズックの物を選んだ。帽子は着用の義務があり他にも生徒手帳が渡され、細かい校則がふんだんに有った。各記念日には教会でミサが行なわれ生徒は必ず集合しミサ台の前に着座した。その時だけ男子女子も一緒になった。教会に入る時は皆水で頭を清めた。聖歌が聖歌隊によって歌われパイプオルガンの演奏の下ミサが行なわれた。新しい文化との出会いであった。ステンドグラスから入る光で教会の中は、種々の光が屈折し神々しい雰囲気があった。
 教会の下のピオ館には外国人の宣教師やシスターが出入りし日本人しか見たことのなかった政志にはとても奇異なものだった。段々日が経つにつれ日常的な光景になり、慣れ親しんで行く。それは長年異教徒にキリスト教を浸透させる教育を研究して来たイエズス会の方針だったのだろう。毎週宗教の時間は必ずあった。少しづつキリスト教は心に入って行きいつしか身についてゆく、そんな校風南山学園だった。
 生徒は今までの閉鎖された地域と違い広い範囲から集っているので多様だった。名古屋全区ばかりでなく中央線で東濃から来る生徒や関西線で来る三重県の生徒がいた。親の職業もまちまちで多くは中小企業の経営者の息子大企業の部課長の子弟、特に目立つのは差別を受けていた地域の子供だった。親がその地域での差別を嫌ったのだろう南山学園という広い視野を持った教育を願い送り込んだ。特に多かったのはパチンコ屋の息子だった。彼等は日本人以外の国籍、韓国人、朝鮮人、台湾人等が含まれていた。皆そんな事には拘らず交遊するようになった。学校ごとに生徒の親の職業のカラーは違った。東海色は医師の子弟が多いが南山色には余りいなかった。女子部の方が両親の出身は男子部より良かった。エリート校だった。こうして知らぬ間に政志の心にも南山学園の気風が入り込んで行った。
 又も一夫夫婦は造改築を始めた。隣接に六部屋と女中部屋、里美と政志の部屋等を造ったのである。渡り廊下でつないだ女子風呂も森を模した美術タイルをはった目新しい感覚で創った。
 政志と里美は仕事を優先し段々遠くに追いやられる自分達に不満を抱くようになっていた。守られた隠居屋という空間から女中部屋の真向かいという仕事と密着した空間に入り込んでしまった。いつも親と同時に商売という厳しい戦いに対して行かねばならない。常在戦場は子供には余りに過度な対外意識を強いた。
 南山では厳しい授業が始まった。特に英語の中村敬先生の授業は熱血ですさまじかった。質問に答えられないと容赦なくピンタが飛んだ。まだ戦後の気配を残した頃、先生が生徒を殴る事は日常だった。特に南山では、教育には鞭が必要と考えられていた。古文の久田先生は出勤簿の柄でよく叩いた。英会話のラホージ先生はチェコ人で質問に答えられない生徒は罰として広場を何周か黙々と歩かせた。理科の小林先生は殴らなかったがチクチクと生徒を追い込んだ。
 秋になると、学園の木々が色付き紅葉した葉が舞った。生徒は枯葉を拾い集め掃除した。

 旅行業者の協定に成功した一夫夫婦は益々商売熱心になっていった。影のある日影の商売から明るいまっとうな宿屋にもどった喜びは大きかった。しかも子供達は私立の南山学園へ入学した。次男の保夫はまだ幼いが、すべてが軌道に乗り動き始めた。そう確信した。
 一夫は大治自動車学校で習い運転免許を取得し中古のニッサンブルーバードを買った。家族、宿中皆で喜んだ。誰しも車など一生持てるとは思わなかった。その頃から車社会が始まりモーターリゼーションが叫ばれるようになった。道路もどんどん舗装され伸びて行った。事故で死人がよく出るようになった。宿には駅内の日本旅行会から当日客が送客されるようになった。駅内の日本旅行会の所長今井さんは、桑名の人でフィリピンで裸同然で捕虜になった後、昔いた国鉄のコネを生かし日本旅行会に入社し駅内の所長にまで出世した苦労人だった。日本旅行会は国鉄OBの社員が多かった。一夫とは軍隊時代の話でウマがあい、一夫を可愛がった。一夫も日本旅行会を大事に思い毎晩のように接待した。宿は毎日満員になるようになった。予約で部屋が空いていても当日客でほぼ満員になった。当日申し込みは唯一旅行業者として駅内にカウンターを持つ日本旅行会が多かったのだ。ブルーバードが役に立つようになった。駅への出迎いにといそがしく走り回った。職員の為には一夫はあらゆるサービスをした。それだけ送客してもらっているのだ。駅裏の宿は未だに駅前の宿に比べ不利だった。特に松岡旅館、舞鶴館、五月支店等は脅威だった。ビジネスホテルはまだ名古屋にはなく一泊二食付きの日本旅館が一般的だった。東京でやっとビジネスホテルの走りとして上野に法華倶楽部が出来た。都市旅館の衰退とビジネスホテルの興亡が始まろうとしていた。

 政志に友人が出来始めた。一宮奥町から通ういつも殴られ役の山副やバネ屋の息子小笠原等とは仲が良かった。地元の山田香や鬼頭も小学校からの友人だったし隣の牧野小学校から来た坂達とも往復のバスが同じで何かと仲が良かった。則武小学校と牧野小学校では違いがあった。則武小学校の方は古くからこの地に住みつき何代も暮らした人達がおりしきたりを重んじていた。牧野小学校の方は戦争被害者達が多く集まり朝鮮人韓国人が三割を占め闇市に生活する人達の子弟が多く存在した。おのずと考え方も違った。菅洋一郎は南山中学へ入学し政志と同じクラスで友達になった。親は満州からの引き揚げ者で父はシベリア抑留組だった。洋一郎の前に子が六人いたが皆帰国の途中死んでしまっていた。戦後生まれた洋一郎は両親の溺愛のもと育った。駅裏のど真中に小さな工場を借り塩化ビニールを作っていた。南山からの行き帰り一緒になるので自然と近付いた。一宮から通う山副とは家をよく行き来し互いの家に外泊することがあった。山副の家は繊維工場を営み九州から集団就職で来る娘達を雇っていた。いわゆるガチャマンの山副の家は中庭のあるロの字型の大きな家で廊下の行き詰まりに便所があった。手水鉢で手を洗い掛けられた日本タオルで手を拭くという古式ゆかしいものだった。
 喫茶店好きの市民はコーヒー通でもあり近くの店でブルーマウンテンを味わった。クリームを表面に浮かべ飲み味と香を楽しんだ。奥町を流れる川へ遊びに行ったりもした。他に瀬戸から来る生徒は加藤姓が多く陶器を扱う家から、一宮の生徒は繊維を扱う家の子弟そんな地域性があった。小笠原の家は雁道にありバネを造っていた。家は工場とは離れた所に有り裕福だった。一夫の宿の一室を使い山副ととんちゃんパーティを開いた。駅裏のマーケットの中には韓国人がその頃はまだ捨てていた豚の臓物を使いとんちゃんとして売るようになっていた。そんな店が数軒出来た。一夫は時々政志を連れて行き密造のまっこり酒を飲みとんちゃんに舌鼓を打った。一等好きだったのは慶北館という店だった。店の女主人は洗濯するのと同じ手つきで豚の内臓をらっかせいや辛子や七種の薬味を入れもむように味付けをした。たまらなく美味しく一人前八十円だった。それを千円買い大きな袋につめて持って来て七輪の上で焼いた。辺り一面香ばしい臭いがたちこめ、余計おいしく味わうことが出来た。
 娼婦が林のように立つ小道から入った処にある店だった。菅の家のすぐ近くでもあった。
 小笠原家は伊勢湾台風の時、水が入り作っていた石鹸が海水で駄目になりバネ屋に転業していた。父親は若い頃本田会の四天王と呼ばれた渡世人崩れでいつも七部袖の上着をはおっていた。小笠原自体は頭がチリチリで黒人とのハーフみたいで可愛らしい顔をしていた。こうしていろんな友達と知り合い今までの狭い地域性とは違う交流を覚えていった。

 一夫が属する中村旅館組合の主流は大門にある遊郭の店が売春禁止以後料理旅館に転業したものが多く十数軒あり収容人員が多く一大勢力だった。四海波、稲本、松岡は大店でつる屋、久本等は中堅だった。業者は始まった旅行ブーム、団体や組合、各種スポーツ競技の配宿に大きなパイを持つ大門街は便利だった。
 阿部定子を刑期後雇い可愛がった四海波のオーナーは慶応ボーイで地域のボス的存在だった。ノウちゃんと呼ばれ背が高くいつも運転手付きのアメ車に乗っていた。遊郭の転業先にはもう一つあり風俗の流れを組むトルコ風呂(今のソープランド)に転業する店が多く特殊浴場と公式には呼ばれ、組合長に四海波のノウちゃんが選ばれなっていた。中村警察署との話し合いが多く四海波の主人は最適だった。トルコ風呂には蒸し風呂があり健康を売るはずだったがそれが表向きで裏では昔と変わらず春を売っていた。かつての遊郭の造りは客室が四畳半の客を持て成す部屋とその奥に二つの床を敷く寝室の二部屋に別れていた。どの店も改造する意志はなく段々宿泊客の求める形態の部屋とはギャップが出来るようになっていた。
 新しく始めた一夫の宿は旅行業者の求めるように改装され駅に近く大門の旅館に勝るようになっていた。ビジネス客はあまり大門にある宿まで強いて行かなかった。駅から近いと言っても場所が不案内で送迎の必要性があった。一夫は二台新車を買い運転手も雇った。トヨタのクラウンとニッサンのローレルである。クラウンは送迎にローレルは私用に使うことが多かった。運転手の藤井は豆に車を洗い磨きいつもクラウンはぴかぴかだった。
 昭和三十年代の終り、その頃にはどの店も車を持つようになっていた。各家庭も持つようになり道路も整備された。庶民に人気のあったのは大村昆が宣伝するミゼットだった。大衆化の波はすごい勢で浸透し商品もより安価になって行った。国鉄名古屋駅も美化され空襲の跡も消えて行き、中に国鉄案内所が出来、宿に客を紹介するようになった。一夫の宿も国鉄の知人のコネを生かし旅館の内では一番に送客してもらった。日本旅行会と国鉄案内所という二本柱を持ったことで一夫の宿はますます潤うようになった。お客様の送迎は大切だった。他の旅館は今まで通り地図で存在位置を知らせる方法のみだったが、タクシー代が要らず迎えに来てくれる。しかも高級車で、それは重要なことだった。
 日本旅行会での評判は駅前の五月支店が良かった。地理上やはり有利だった。名古屋市内もビルラッシュが始まり栄に中日ビルが名古屋駅前に大名古屋ビルヂングが建ち広小路にはガーデンビルが建った。

 政志の通う南山学園ではミサの度に説教があり、よく旧約聖書の一部が聞かされた。政志が印象に残っているのは三人の息子が才能をどう生かすかという話だった。タレントというユダヤの通貨でそれは現わされた。十タレントもらった長男は無くさないようにそれを土に埋め五タレントもらった次男はそれを元手に商いでもうけ出し三タレントもらった三男はすぐに使ってしまう、そんな話だった。タレントはその後芸能人という意味で日本では使われるようになった。その他毎朝の祈りの時間が有り、毎週宗教の時間が有った。南山中学では英会話が外人教師によって教育され生きた英語が重要とされた。英会話はその後実生活で役に立つようになった。
 中学一年の冬、初めて政志は学校からスキー訓練に新潟の赤倉へ行った。非常に楽しい思い出が残っている。夏は水泳教室も知多の海で開かれ遠泳が行なわれた。政志はカナヅチで遠泳には向かなかった。南山学園は一学年二百人程で小さくホットな学校だった。生徒は皆兄弟のように育ち、一生そのつながりの中で生きるようになる。

 一夫夫婦は商売熱心だった。良く旅もし、他の旅館を見て歩き勉強した。旅行会社から海外旅行が勧められるようになり旅行好きの美代子がいつも率先して同行した。その頃人気だったのは台湾、香港、マカオだった。台湾では売春ツアーが多くペイト温泉が人気で娘が平気で裸で接客した。美代子は助兵衛な男客の中に入り逆に知り合いの男達をからかう程だった。その頃のアジア諸国はまだ貧しく、貧しい国の常で女性が商品になり外貨を集めた。かつての日本がジャパユキとしてアジア各地に飛んだように。日本の各温泉地も枕芸者が居て旅行客を楽しませていた。特に北陸はその頃女性で売っていた。
 美代子の姉の好子は、すでに離婚していた。シベリアから帰って来た夫は商に猛けすぐに儲け出したが、シベリアで失った青春を取り返そうと或る女性に惚れ家を出て女の住む四日市へ逃げてしまったのだ。鉄屑屋の跡は弟の昇が継いでやっていた。残った好子は質屋を始め、質屋組合で知りあった坂野を妻帯者にもかかわらず奪い引き入れていた。好子は多情な女性だった。質屋はよく儲かり姉子気質もあるのか親類一同の面倒を良く見る相談役となった。ぜん息を悪化させた兄平吉が食べれなくなると、麻雀屋を金を出し開かせ何とか食べれるようにした。西元の間に養子でもらった輝夫がいたが坂野の事もあり一時期姉の岩田さわの下へ預けた。さわの長男は名古屋大学へ通う学生であったので家庭教師として最適だった。
 好子は武勇伝の多い女だった。質屋へ通う客の中には犯罪者もいて、刑事と内通して盗品と分かると店を出た後に逮捕される方法でいくつも感謝状をもらっていた。一夫夫婦の良き相談相手で困り事があると、一夫は何んでも相談に行った。土地も義姉の力で広げる事が多かった。平吉の麻雀屋ひばり荘の前に豆腐屋が建っていたが、移転するというのでそれも買い古家を壊し更地にして一夫に駐車場として貸してくれた。駐車場は一夫に非常に助かった。車でやって来る客も増え駐車場は必要不可欠となって来たからである。昇に嫁が必要になり同じ親戚筋から美津子を見合わせ結婚させた。その縁結びも好子が骨折った。
 政志は学校帰りに発売となったコカ・コーラを飲んだ。発売当初コーラは強く何故か喧嘩がしたくなり駅内で通りがかりの同じ位の男の子を殴ったことがある。普段はおとなしい方で暴力など振るったことなどないのに。まだサイダーかラムネ、たまにジュースしか飲んだことがなかった。コーラは怖い飲み物だな、直感的に思った。興奮剤として飲み多分麻薬性があり常習となるんだろうと予感した。事実それ以後コーラはよく飲まれ、飲むと常習者となった。
 中村区には世に知られた会社が三つあった。ラムネ製造の森川飲料、カレーのオリエンタル、ハム製造の鎌倉ハム、いずれも政志の宿から近くにあった。オリエンタルカレーはよくバルコニーのあるバスでウエスタンを歌う女性シンガーを乗せ宣伝に走っていた。政志の宿の近くの公園にもよくやって来て歌いながらカレーの宣伝をしていた。チンドン屋よりも力強くアピール力があった。
 交通公社は駅前の国鉄バス乗り場横の小さなビルの中にあり、たまに一夫の宿にも送客があった。旅行ブームと共に大きくなり旅行業者の中の中核となった。異彩を放ったのは駅前のバス停前で叩き売りみたいに旅行を売る谷川屋旅行会だった。政志は帰りのバスでいつも見て奇異に感じたものである。その頃温泉場や各地の観光地では客の呼び込みをしていたが、その流れを組んだようだ。宿の名の入った旗を持ち、今夜の宿はお決まりですかと呼びかけキャッチセールスするのは何処でも行なわれていた。その客を捕まえる能力が宿の売り上げに直結していた。
 谷川屋旅行会は各温泉ごと観光地ごとに紙を刷り市場感覚で商売していた。地域地域の集客は激しい競争となり始めていた。名古屋からは下呂方面伊豆箱根方面等が人気だった。まだ航空運賃が高く海外旅行はメイン商品ではなかった。ただ各旅行業者は海外旅行の幕開けを予感しルートづくりに懸命となった。まずは旅館のオーナーが狙われ海外旅行客とならされた。
 美代子は海外旅行が好きだった。特に香港マカオは装飾品や時計が安く買い物が楽しかった。旅館の女将は大変な仕事で始終神経を尖らせていなければならない。家庭もあり守って行かねばならない。朝は朝食の準備、お客様のお送り、昼は掃除の点検と昼食客、夜はお出迎えと夕食、お客様のお出掛けと会計、深夜の見回りと激務の連続だ。他に家庭の事もある。海外旅行の時だけが羽根を伸ばせる自由な時間だった。
 一夫も香港や台湾には着いて行った。いずれも海軍時代の青春を過ごした場所だった。戦いのなくなったかつての場所は観光地として蘇り栄えようとしていた。
 台湾はかっての日本の統治ではなく将介石の治める中華民国となっていた。一夫は基隆の港に駐留して台北や他の地は初めてで、日本統治の頃と違い異国として味わうことが出来た。香港もオーストラリア兵の死骸が浮かぶ湾ではなくネオンが美しく湾に彩を浮かべるものであり、美代子に連いて回る買物も楽しく感じられた。
 戦争もなく日本は復興した。そう感じられる日々が続いた。戦争時代が遠く思われ日本の繁栄、日々変わってゆく生活が恐ろしい程だった。テレビはCBCや東海テレビ等民放が参入し日々歌番組やドラマ等見せてくれる。放映時間も長くなった。電化製品も次々と新しい商品が生まれ火鉢が電機ストーブかガスストーブに、洗風機もガタガタうなり声を上げるものから静かなものへ、最近では冷房機を入れなければならなくなった。整備を導入するには金が要る。便利になるごとに沢山の金が必要になって来る。一夫は各室に冷房機を入れなければならなくなった。 
 会計は正規の料金の他に奉仕料として十五パーセントの割増をもらっていた。五千円の宿泊料なら五千七百五十円、一万円を超える場合飲食税として県に十パーセント収めなくてはならなかった。一万円の宿泊料なら一万千五百円と飲食税千百五拾円足してもらっていた。奉仕料で大半の給与がまかなえた。北陸の旅館などは全チップ制で女中さんには給与を払わない地域もあった。北陸の仲居さんは営業マンでもあり客集めから客に二次会の世話、芸者の世話、枕代つまり売春のマージン稼ぎやストリップ小屋への紹介料等が仲居さんの収入となった。北陸の旅館は腕の良い仲居をいかに集めるかが勝負だった。一夫の宿の女中さんも一度北陸のある旅館に全員引き抜かれたことがあった。そんな戦いも旅館にはあったのである。
 一夫の宿の裏側は森になっていて、地元の有力者鵜飼家の茶室と蔵が残っていた。空襲でおお方燃えてしまったが、茶室の横の手洗いの石や渡ってゆく飛び石、蔵は燃え残っていた。鵜飼家はかって造り酒屋を営み、儲け出し庄内川まで自分以外の土地は歩かなくてもよいという程の財力を持っていた。名古屋駅西側の入口を開けるのに尽力した程の有力地主だった。二代続けて株で大損、没落し戦前の勢はなくなったが、まだ地元の有力者の権力だけは持っていた。息子がその茶室跡に幼稚園を造り始めた。雑木が生い茂っていた土地に土木業者が入り整地が始まった。何故か蛇が沢山巣くっていた。池に使われていた奇石や手洗いの石は近くの実家の方へ運ばれて行った。蔵はそのまま残った。鉄骨で校舎は造られ小さな幼稚園は完成した。政志の弟の保夫が通うようになった。保夫は家が隣なので気が向かないとすぐに帰って来る幼い児だった。
 幼稚園から西一歩道を隔てた所に飯田女学院跡があった。空襲はそこまでで駅の西側にあった家はすべて焼失していた。飯田女学院からもう少し西側は以前の通り田舎の風情そのままだった。当時は地域の事を高針地区と呼んでいた。小出、寺島、杉戸、鵜飼が独占したこの地域は江戸時代、もっと下か上ぼれば則武荘、高針荘と呼ばれた平安の荘園時代と変わらずゆったりと時は流れたのだろう。昭和十二年中村区が名古屋市に合併するまで旧弊とした気風のまま人は育ったようだ。昭和十二年は面白い年であった。笹島から東洋一と云われる名古屋駅が現在の場所に移転したのである。すごい工事であった。基礎にはシベリア松を何千本も使い土地を固めた。この駅が出来たことにより中村はいや名古屋全体が発展してゆくことになった。

 この年中村が名古屋市に合併することになり記念に赤鳥居のモニュメントが出来中村公園や太閤神社が設備された。都市計画が発表され田んぼばかりの中村が変貌することになった。遊里ヶ池が埋め立てられ日赤が出来た。楠橋の東の方にはスーパー銭湯の走りのような施設が出来演劇も見せた。文化住宅と称する建て売り住宅が随分建ち人口を増やした。住民は秀吉や清正がシンボルと格付け二人にまつわる地名を名付けた。太閤通り清正通り等である。中村区の骨格が出来、点と線を結び街が広がっていった。
 旅館街は笹島駅近くのものはそのまま残り新しい駅ビルの近く何軒か建つことになった。旧の旅館街には夏目漱石が書いた三四郎の作品に出て来る角屋、その他信忠閣、舞鶴館、五月本店、支店、神谷等があった。名古屋駅前には長谷川旅館、遊郭で儲け出し駅前に出店した松岡、香取旅館、煉瓦屋等があった。
 大名古屋ビルヂングが出来ると香取はその中に入り木造旅館の時程客が来なくなった。松岡駅前店が一角を占め駅前に凛と建って一軒勝ちするようになった。松岡は旅行業者に頼らず顧客だけを対象にし場所が良いせいかそれで十分やってゆけた。一夫は松岡駅前店をうらやましく思った。
 大門の旅館の経営者は昔ながらの旦那衆気質が抜けず趣味に生き商売に熱心とは言えなかった。稲本は茶室があり稲本流という独自の茶道を行なっていた。隣の大観荘にも茶室があり茶道の他に日本画、謡曲等多趣味で松岡西店は木材集めに四海波は水泳にとそれぞれ違っていた。一夫は無趣味で仕事を好んだ。 
 栄に丸栄とオリエンタル中村百貨店が出来、松坂屋も改装し百貨店業界が花開いた。名古屋駅前と栄地区に分断された名古屋の商圏はそれ以来激しく競争することになった。広小路地区は段々しぼんで行った。
 大門地区ではユニーが小さなコンクリートの店を造りスーパー業界の魁となった。政志は学校の帰り寄り道して眺めに行った。駅西銀座通りはファッションの店まどかが流行し大須商店街には米兵が出来た。こうして名古屋の町にシンボル的に店が出来、人が往来するようになった。
 名古屋の町にはそれぞれ特長があった。繊維なら長者町菓子玩具は西区新道、道具漆器は西区の六区古本は上前津その他武家屋敷が連なった黒門町鉄砲鍛冶のあった鉄砲町等々地名でそこがどんな処かすぐ分った。金山には金山体育館があり夏の相撲興業が行なわれた。夏の楽しみの一つであり、小学校からも見物に行く行事が行なわれた。政志の通う則武小学校には土俵があり相撲が盛んだった。冷房設備のない体育館では決った時間に酸素吸入が行なわれ少しは暑さよけというより酸欠対策だった。小学校の冬は寒く皆鼻水を垂らし足袋を二重に履く等して防寒したが押しくらまんじゅうという体を押し当てる遊びが暖かく一番防寒になった。
 商売熱心になった一夫夫婦は一方住ま居には全く無関心で玄関を改造した八畳位の所に二人と保夫が住み里美や政志は女中部屋の前の天井裏の小部屋に追いやられた。その状況を見た好子の姉達が余りに可哀想と言った程である。政志は屋根に上り眼下の風景を見るのが楽しみとなった。宿では三度自殺する人が続いた。二人は男性の一人客で老人だった。一人は服毒でもう一人は首を欄間に掛け首を吊っていた。足が届くのに足を自分で上げ死ねるもんだと皆不思議に思った。二人とも遺書があった。病気を苦にし絶望の末の自殺だった。両方とも遺族が各故郷から来て検死の後運ばれていった。一人は若い女性の服毒だった。両手両足を浴衣のヒモで縛り乱れないようにし枕銭を置いた見事なものだった。余り見事な死に方だったので刑事が不審死を訝った位だ。枕銭と宿に対するお詫びとお金を役所に渡し葬式を上げてくれという遺言が供えられていた。他にも自殺未遂は何度かあった。胃洗浄をしながら救急車で運ばれてゆく姿は醜かった。自殺は宿屋にとって宿命だったが迷惑な事だった。流石に始末したその夜だけは部屋を空け脱臭した。美代子は客にいかに喜んでもらえるか感動を与えることが出来るか、それに自分も喜びを感じると思った。宿屋は客の命さえ預っている。金も命もと思うようになり一期一会を更に考えた。
 美代子は茶を習い始め客の接し方の礼法をますます磨いて行った。器の勉強もし始めた。美代子は実に多趣味だった。娘の里美には和琴を習わせた。宿では盗難もよくあった。貴重品は宿側が預り無くなると責任を負う約束なのだが面倒臭さがりうっかりそのまま部屋に置いてゆく客が多く部屋を空けた隙に狙われた。内部での犯行かも知れず現金は確証がないのでどうしようもなかった。盗る方もそれを知っていて現金ばかりをねらった。
 お尋ね者が泊まる事もありそういう時は警察に連絡し決して宿で逮捕はさせず帰って何処かへ寄った所を捕まえてもらった。お礼参りを恐れたからである。宿は何かと警察に頼む事が多いし警察も犯罪探査に宿の協力は欠かせない。客同志の喧嘩、各種のトラブル、宿はたまに予想外の事件が起きる事がある。近くの貸駐車場にお客様の車を入れていた処そっくり盗まれたことがあった。影も形も無くなった車の所有者のお客は当然宿側の責任を問うたが宿には責任がないことが分かりお客様に迷惑を掛けたことがあった。サービスが悪い設備が悪い等々、宿はクレームをつければ何処にでもクレームを付けることが出来る商売で、一夫夫婦はいつも対処しなければならなかった。食中毒はいつ起こるか分からない。神経が安まることが無かった。
 畢竟二人は仕事漬になり子供達は放任されることになった。麻雀が流行り出した。国鉄や旅行業者は特別ルールがありイーソを鳥と呼び一枚ごとにドラとなりチーピンがあると鉄砲と呼ばれ鳥が撃たれて死ぬという変わったルールでやっていた。三交替なので暇が出来ると集まり雀卓を囲んだ。負けた人がカァーとなり徹夜麻雀になることもあり宿がその場を貸すことになる。客は勝手なもので夜は夜食を持ってこい酒を持ってこい等要求する。女中さんが仕事終りには経営者の美代子が世話をすることになり当然寝不足になり朝は起きられない。不規則な生活が続き体調が悪くなって行く。体に鞭を打ち仕事を続ける。そんな悪循環の連日だった。  変わった客も来るようになった。民音と契約した宿には芸能人が多くやって来た。歌手や有名俳優である。芸能人の生活も朝は遅く夜も遅い仕事で昼まで寝て仕事の舞台に出て、夜遅く帰って来てそれから以後遊ぶ、それにも合わせた。田宮二郎が来た時は女中頭まで余りの美男子にのぼせてしまって食事の世話も出来ない。美代子が代って世話をした。
 政志の中学時代は、成績は鳴かず飛ばず体育と音楽も出来ない駄目な部類の生徒だった。劣等感を覚えたものの中流で行こうなどと安易に生きていた。冬のスキーだけは楽しく同級生達と連れ立って志賀高原へ行った。長野駅で夜行列車は休息を取り、その間に信州ソバを食べに行った。志賀高原パークホテルは木造で食堂からすぐにスキー場のリフトまで行けた。
ガラス窓に幾つも氷の結晶が出き雪の印を浮き上がらし美しかった。雪はさらさらして光に当たるとキラキラ光りスターダストになった。旅館の人達は優しく皆親切だった。高天原の山頂までリフトに乗り直滑降で急斜面を下ったりボーゲンやクリスチャニアを勉強したりし楽しんだ。
 この間テレビでは六十年安保の映像が流れたり山口二矢が社会党委員長浅沼稲次郎を刺殺する場面を写し出し、政志は少なからず社会に対し目を向くようになった。
 日本の成長は加速度を増していた。名古屋では数年前に地下鉄東山線が開通し駅前に巨大な地下街が出来、今度は新幹線が出来東京名古屋間を三時間で走ると言う。駅裏の整理が始まった。元々国鉄用地や名古屋市の土地に戦後のどさくさに不法に建てたバラック街である。それでも土地交渉は難儀な仕事である。話は進みどんどん駅裏は変貌して行った。駅西に新幹線の駅口を造らねばならず工事は急ピッチで進んで行った。懐かしい店がどんどん壊され空地となって行き駅工事が始った。樹林のように客待ちで立ちんぼうしていた女達も消えてゆき駅裏は確実に変わろうとしていた。でん助賭博やガマの油売りの軽快なしゃべりも駅の前に立たず寂しい街となり始めた。市場街はそのままビルを建て残り繊維組合の岸田さんは亀島に名毎ビルを造り組合員ごと移って行った。一夫の宿には夜行列車の汽笛が聞こえなくなりいつしか建築の槌音に変わった。
 駅西口が出来たのは政志が南山中学へ通うようになってからだ。汚れた溝内の柱も装飾され戦後は感じられなくなった。唯一中央コンコースの大時計がそのまま時を刻んでいた。
駅西は椿神社東まで整備されたが銀座商店街から西はそのままだった。椿神社の神主の一色さんは下野一色にあった源氏の流れで極東軍事裁判で処刑された松井岩根大将と血類だった。松井大将は南京虐殺の汚名で死ぬ事になったが攻略の時は提灯行列で名古屋中大変な騒ぎで喜んだという。碑は終戦直後池に沈められ隠されたが、日本が講和条約を結んでから椿神社へもどされたと言う。一色さんの母上は一弦琴の名古屋市の無形文化財で行事がある度に演奏を聞く事が出来た。
 椿神社の南側にあった真弓牧場は牛がいなくなり真弓商店と駐車場になった。丸一のり店は丸一ストアーのビルを造りそこで食料品全般を販売している。カナリヤを駅裏で売っていた井上鳥獣店は駅西銀座通へ移り、何軒かの商店も銀座通へ移転した。
政志は新幹線で豊橋までの一区間同級生の鬼頭と試乗したが余りに早過ぎて何の感慨も残らなかった。一夫の宿は客が一変した。東京からの出張が減り半分程になった。一夫は増えている観光客を伸ばそうと考えるようになった。同時に朝食休憩昼休憩、団体宿泊、修学旅行等も狙い販路を増やそうと考えた。 (第二章に続く)

著者  平子 純
発行者 もぉやぁこ観光㈱
発行日 二〇一六年六月吉日