回想録「翻弄 ある名古屋の宿の物語 第二章成長編」

 新幹線開業により大量輸送が可能になり旅も変わり日本人の意識も変わっていった。
旅行会社は各々大きくなり修学旅行、団体旅行を激しく争奪合戦をし始めた。そうなると旅行業者は旅館を自分の意のままにしたいと考えそれぞれ協定旅館組合の組織を競って作った。各地域に支部を結成し全国総会は春に行なうようになった。
 六十年安保はあったものの日本経済は着実に伸び各家庭の所得も倍増した。旅行ブームで団体旅行が盛んになり各旅行業者も団体旅行を集めるようになった。その頃になるとそれぞれ得意な分野があり例えば交通公社は一般団体、近畿日本ツーリストは修学旅行、日本旅行は創価学会等で日本交通公社が断トツの売り上げで他のエージェントをはるかに引き離していた。

 一夫の宿は引き続き日本旅行の駅内案内所と国鉄の旅行案内所に頼っていた。宿の規模ではそんなに門戸を開ける必要はなかった。宿泊料一泊二食三千円総使用料四千円程度、売り上げ年四千万円前後、三十人の従業員を養うにはそれで十分だった。人件費が一人月平均三万円もいかなかったからである。諸物価も安価で月に百万円程度で済んだ。カレー百円きしめん六十円、コーヒー百円が相場だった。
 四十畳の広間末広がよく稼働するようになった。朝は夜行で来る団体の朝食休憩に昼は昼食、宴会場に、夜は宴会と団体夕食に利用した。回転率が恐ろしく良かった。日本はサービス産業がまだ未成熟だった。一夫の宿は時流に乗っていたと言える。
フロントと客室の間に中庭を設け池を造り鯉を泳がせた。フロントの上が一夫夫婦の居室だった。六畳と十畳二間だったが今までと比べればそれで十分だった。
政志の弟の保夫は成長し小学校へ通うようになっていた。小学校へ通うとすぐ近くで評判の加藤塾で勉強を習うようになった。加藤塾の経営者は女性で熱血指導で有名だった。弟が講師でその後の連城三紀彦である。連城三紀彦のペンネームは銀座商店街にある幽泉堂の主が名付けた。漢詩の連理の枝から選んだ縁起の良い名前だった。主は印鑑造りの名人で良く知っていたのだろう。
 熱血指導の加藤田美子先生は出来ないと墨で顔に大きく丸や×を書き恥を知るように教え、保夫もいつも顔に丸や×を書かれ帰って来た。誰もそんな先生に憤りを覚える者はなく彼女のそうした熱血ぶりが知らされ余計塾は人気となった。連城さんはどうも姉に対するコンプレックスがあったようだ。
 政志は中学三年生になっていた。隣の教室の生徒はやんちゃな生徒が多くガラス窓が半分程割られる騒ぎがあった。丁度世の中が荒れ出した時代でもあった。隣の生徒は担任の浅野先生に罰として半数近くが丸坊主にされた。南山は髪が自由で普通中学は三分刈りが普通で長髪は憧れである。坊主は南山の生徒にとって恥辱以外の何ものでもなかった。中学三年生は反抗の季節でもある。反抗を窓ガラスを割る事で表現したのだろう。生徒会長になった梶山が男女交際を認めさせようと動いたことがあった。南山学園には男女交際禁止という厳しい校則があったが思春期の生徒にとっては衝動に反する規則で梶山が皆を動かしたのだろう。梶山は在日だった。叔父がヤクザの親分で複雑な面を持った少年だった。中学一、二年生は学年でも三番か四番と成績優秀だった。もの想う頃になって下り始め三年になると急下降し普通の成績になった。親は小さなパチンコ屋を営んでいた。その頃はパチンコ屋は小さく何処も家庭の延長のような形だった。製作所も小さく政志の近くの民家ではベニアを合わせパチンコ台を作る所、釘を打つ所等分かれてそれぞれ家庭で作っていた。釘師も居て中村区はパチンコの製作拠点だった。パチンコを発案した正村は大門に店を構えていた。
 政志の同級生のパチンコ屋の息子は梶山を含め栄で店を持つ池田、港の橋本、それにチューリップの著作権を持った成田等が居た。橋本の父は数軒パチンコ屋を持っていたが他は小さかった。南山学園は差別がないので親は好んで子弟を入学させたかったようだ。生徒も親の職業がなんであろうと関係なく友情を育んだ。六年一間教育なので兄弟のような関係が出来て行く。ただ中学三年生は普通校では高校受験の年であり一つの関門を通らなければならないが、南山にはそれがない為一つの弊害としておっとりとした人間に育ってしまう。中には高校受験をするものが居て十人程の生徒は他の高校へ行った。政志の友人の桜庭もそうだった。広小路の下田金庫の息子木下と二人して普通の公立高校へ進学した。デカイは、猪飼が二人いたので大きい方の猪飼で彼は柔道で東海高校へ推薦入学して行った。一つの関門を通らず貫けて残った生徒達は上の高校生活に期待を持った。新校舎に移ることが分っていた。ベビーブームで定員が五十人程増やされることになり高校では二百五十人程になるという事だった。
 中学の卒業式は教会ミサが行なわれ男女一緒に卒業した。何の感慨も無かった。卒業前の関東方面の旅行、特に東京、日光、箱根の方が印象深かった。まるでお上り同然の旅だった。珍しい事なので父の妹の東京の叔母が土産を持って会いに来た。東京へ行くのが大きな旅の時代で、親類が上って来る事は珍しい事だった日光東照宮と華厳の滝が印象に残っている。バス旅行で初めて見る東京はやはり名古屋と比べはるかに大きかった。日本は集団就職真っ盛りの時代、優雅に修学旅行する自分達との格差を覚えながらの旅行だった。
 その頃名古屋へ来る修学旅行は年二万人程で宿泊はほとんど名古屋観光会館が握っていた。小中学生が多く長野や京都等の学生が占めていた。一夫の宿には春と秋に高校生が東北等からやって来た。修学旅行よりもその出迎えをする為に前の晩から泊まる前泊の近畿日本ツーリストの職員が多かった。朝夜行で着き名古屋を素通りして京都奈良や飛騨方面へ出向く客が多かった。名古屋市も駅内に観光案内所を設け、たまに外人等も一夫の宿には送客があった。

 名古屋へ来ても観光する所が名古屋城以外にないと言う人が市内外の人に多かった。一夫は名所は至る所に有り他地域は何でもない所を名所旧跡にしているのに名古屋は有り過ぎて見逃しているだけといつも思っていた。名古屋人自体が郷土の事を何にも知らんし行政も第二次産業に目をやるばかりでサービス観光業には力を入れんといつも疑心を感じていた。事実中村区だけでも秀吉にまつわる跡や信長や清正にまつわる寺社等いくらでもある。秀吉は大阪のシンボルみたいになってしまったが本当は尾張中村で幼少期育っている。秀吉、清正で名付けられた道路町名も多い、他の観光地は何でもないような所を史跡にしているのに名古屋人は郷土愛が足らんのだと常々思っていた。事実名古屋は探していくと史跡の宝庫だということが分かる。県や市は産業に力を入れ観光に力を入れなかったのは事実だ。城の他に当時の観光客が行くのは熱田神宮、テレビ塔その位だった。
 政志はすんなり南山高校に入学した。定員が増えクラスも一つ増やされた。ただ他から来た生徒は英語力が劣り新設のクラスにまとめられた。四クラスから五クラスになった旧来の生徒にとっては新しい生徒達は新鮮でもあった。しかし彼等は異質でなかなか南山中学から上った生徒には馴染まなかった。日本は戦争という大きな傷を負ったままブルドーザーのように突っ走っていた。山紫水明だった自然も壊しつつ近代文明への扉を開け続けていた。都市化が進み東京一極集中が叫ばれそれでも日本は加速度のついたエンジンを止めることはなかった。至る処に居たもの乞いの傷痍軍人達も見掛けなくなった。冷戦下至る所で小さな戦争はあったものの日本が巻き込まれることはなかった。日本はアメリカの庇護の下ぬくぬくと成長することが出来た。この年はオリンピックの開催が東京でおこなわれる年だった。電化製品が普及しテレビも皇太子の婚礼以後家庭に無いのが不思議となった。トランジスターが流行し、テレビもトランジスターの七インチを屋外へ持ち出す者もいた。政志の南山高校のクラスへも坂(坂は二人いて大きい方)がひっそり持って来て机の下で見ていた。
 この年は南山学園の成長の年だった。大学の校舎が新設され移って行った。空いたスペースは南山の事務所と講堂、食堂に変わった。南山中学高校は真新しい新校舎の方へ移り以前の校舎へ海外子女向けの国際部が入った。グラウンドも男子部専用となり、体操はそこで行なわれることとなった。オリンピックは宿泊業にとっても大きなチャンスだった。人が動いたのである。ますます旅行は盛んになり一夫の宿も観光客がよく来るようになった。名古屋の名物はまだういろときしめんの時代だった。駅弁は松浦弁当それが代名詞だった。駅弁業界にだるま寿司がその頃割って入った。名古屋駅には名物の風呂と床屋があった。早川である。いずれも蒸気は国鉄のものを使っていた。私鉄も充実し名鉄は名鉄百貨店地下から近鉄は新しく建てられた近鉄ビルから直接行けるようになった。空港も新しくなりローカル空港から国際空港になり旅がますます盛んになる要素が出来た。名古屋から出発する新婚旅行はいままでの南紀や熱海伊豆から南九州へ移っていた。栄の国際ホテルのほか、駅前に都ホテル、観光ホテルも新しくなり新婚旅行やブライダルの中心となった。日本旅館も部屋に風呂付きトイレ付きが要求されるようになり一夫も一部改造し八部屋を対応出来るようにした。日本がぜいたくになるにつれ宿への要求は次々と高まってゆき対応出来ない宿は落とされるようになり廃業する処も多くなった。
 名古屋市もやっと観光に目を向けるようになりテレビ塔を中心にセントラルパークが整備されロスアンジェルスと都市間での姉妹提携されることとなった。名物も天むす、あんかけスパ、名古屋スパゲティ、寿がきやのラーメンが有名となった。ステーキはあさくまが名古屋人の舌に合い木曽路がしゃぶしゃぶで共に食肉業界の牽引車となり日本の食までも変えて行くことになった。又中村区の大門から発した味噌煮込みの山本屋は中日ビルに店舗を開き名古屋名物として味噌煮込みを定着させて行った。一夫の一家は山手通りに出来た焼肉の店トニオへドライブがてらよく行った。名古屋は東へ東へと発展し始め山手通も丘陵地を急に開いた場所である。トニオの肉は目の前で焼いてくれシズル効果満点で合掌造りを基本に造った本体と共にサービス方法がユニークだった。中華の信忠閣や青柳ういろうも店舗を構え名古屋大学前を通る山手通は新しい名古屋のスポットとなった。南山大学とも近く大学の教会も通りから見える位置に建った。高速道路東名や名神が開通したのもこの年で車社会が確実に到来した。

 日本人誰もが東京オリンピックに魅せられテレビに釘づけとなった。印象に残ったのは何といってもチェコスロバキアの女子体操のチャスラフスカの演技だった。大人で華麗な肢体が飛び跳ねる様に日本人誰もが驚き感動した。ソ連は日本人にとっては憎むべき国であり、戦後も毎日ラジオの短波で共産主義の宣伝が耳に入って来ていた。チャスラフスカが日本と共産国の隔たりを縮めたことは確かだろう。男子体操もみごとであった。特に小野選手は鬼に金棒、小野に鉄棒と言われた位鉄棒の演技はすばらしかった。山下跳びの山下や鞍馬の笠原やオールマイティの遠藤も忘れられない。その他ボクシングやレスリングも格闘好きの日本人にとっては人気のスポーツだった。オリンピックの最後を飾るマラソンは哲のアベベが表情を変えずに淡々と走り円谷が追い駆け一等最後運動競技場のトラックまでもつれ円谷が英国のヒートリーにかわされる等本当に劇的だった。東京オリンピックは劣等感一杯だった日本人に希望と未来をもたらしたのは間違いなかった。

 その頃政志の叔父の平吉は反面教師だった。病弱で喘息を患い麻雀屋も止め寝込むようになっていた。面倒は金銭的には妹の好子が生活費を負担し愛人の佳子が看護していた。佳子は平吉が中村遊郭から水揚げして来た。政志に平吉はいつも「勉強なんかするな、遊ばな人生は分らん」と言っていた。平吉は生来の遊び人だった。若い頃から芸者遊びで身体も持ち崩し俳句で身を立てようと放浪した人物だった。中学三年生から毎週土曜政志はひばり荘へ呼び出され従兄の輝夫と共に四合瓶の酒を空けなければならなかった。酒の修業である。つまみ兼夕食として佳子が鉄火巻をいつも出してくれた。盥にはいつも鯉が泳いでいた。鯉の生き血は精がつくと言われたからだ。平吉は政志の幼い頃からいつも新しい目を開かせてくれた。自然に対する、生き物に対する、五七五は小学生の頃姉と共に並べて言葉遊びをすることを教えられた。
 叔父の自由な考え方と一神教のキリスト教とは余り合わなかった。自我の出て来た政志は南山の考え方と合わない時があった。自我を表現するのが若者の特権である。ユダヤ色の強いアメリカのハリウッド映画を南山では見せられたが一夫の影響で嫌米的になった政志はヒットラーが好きな子供だった。十戒やベンハーは面白かったもののドイツの英雄ヒットラーに魅力を感じていた。ヒットラーは虐殺者で何百万ものユダヤ人を殺した。しかしスターリンや毛沢東、アメリカだとて無差別に非戦闘員を殺したじゃないか、勝手にそんな論理を立てそれを表現する為に上履きのサンダルにハーケンクロイツをマジックで描いた。それを宗教の時間、教師の神父に見咎められたが、政志は反撥した。それ以来どうも政志は南山学園には必要のない生徒と思われたようだ。為政者は必ず功罪がある。ヒットラーもすべて悪ではない。第一次大戦の敗戦国となり賠償金の支払いと不景気でドイツ経済はどうしようもない状況だった。そこにヒットラーが現れドイツ国民に仕事を与えた。アウトバーンの建設やらで職のないドイツ人に仕事を与え経済も発展した。

 それで止めればよかったのだが夢想家の彼は第三帝国を夢見、戦争に突っ走ってしまった。第三帝国は神聖ローマ帝国で反キリストではない。無論ユダヤ人の大量虐殺しかもガス室で殺す等非人道的に決っている。しかしアメリカの原爆投下はどうなんだ。ソビエトのやったことはどうなんだ。政志は逆に反撥しヒットラーの著作わが闘争や第三帝国等を読んだ。極東軍事裁判も矛盾だらけで勝者が敗者を裁くなど茶番でしかない。BC級戦犯は私は貝になりたい、のテレビのように可哀想でならない等を考え言葉に表わした。日本の社会の表面には出て来ないが、随分遅くまでBC級戦犯の刑は続いていたのだ。政志は右翼的少年と自覚し又先生達もそう見えるようになった。
 アメリカではケネディが大統領になりベトナムからフランスが去った後介入しソ連がキューバに核を持ち込もうとし第三次大戦の危機がやって来た。南山はのどかで静かだったが世界の情勢は次々と転回していた。政志はそんなに先鋭ではなくやはり南山風に穏やかな学園生活を送った。
 栄地区の発展の影で広小路が衰退し始めた。キャバレーも流行から遅れクラブやスナックの方に移行し、やはり広小路のキャバレーに次第に客が入らなくなり錦三丁目が盛り場の中心となった。旅行が一般となるにつれ各地に大型のホテル、旅館が出来大きな温泉場も出来た。九州では別府、北海道の定山渓、中部の下呂温泉、関東の草津温泉、熱海、伊豆、箱根、北陸の山代山中、片山津、関西の白浜、雄琴、山陰の城崎等であり、各温泉ごとに集客力を競うようになった。団体、組合、企業が集って旅行を行うようになり益々集客力のある地域、施設が望まれるようになり各県も観光課を作り県ごとに争うようになった。愛知県は遅れていた。観光貿易課の中に観光担当があり独立した課ではなかった。その為になかなかまとまって県として動けなかった。一夫はいつも他の県と比べ愛知県の動きが悪いことに憤りを感じていた。名古屋市も観光には余り力が入っておらず更に動きが悪かった。いつしか一夫は中村区の旅館組合の支部長になっていたのだ。あいまい屋の本当に小さな宿からやっとここまでにしたという感慨が湧いた。中村区だけで組合員は五十人近くいた。名古屋はじめ一夫の宿は名古屋でも集客数では一、二になった。子供も二人は南山へ一人はまだ小さいが育つだろう一夫は半ば人生を満足していた。
 愛知県の旅館組合長はべんてん閣の神谷一英さんになっていた。神谷一英は立志伝中の人だった。故郷を出て名古屋市内にやって来て馬車引きで儲け出しその後は出来た資金を元に日銭商売に徹し駅前のマーケットでは立ち飲み屋で権利を得ていたし中京競馬場にも食堂を出し愛知県中に六店のホテルを持っていた。名古屋駅前に旅館を出したのが宿泊業の初めでその後、稲沢や小牧にホテル兼レジャー施設を。栄にもホテルを出し当時珍しいチェーン店を持ったホテル業のオーナーだった。神谷氏の下に中支部長の大口喜三が居た。大口さんは非常に発想の多い人物だった。一夫は、神谷氏は実行の人、また大口氏は口先の人と常々思っていた。
東京に初めて出来たビジネスホテルは全国に飛び火し、次々と各都市に出来た。名古屋に一番最初に出来たのは駅から徒歩で二十分程離れたローレンホテルだった。駅前の毎日ビルにニュー名古屋が出来たあと名鉄グランドホテル、都ホテルを各私鉄が造り名古屋もホテルが増えていった。ユニークなのは東山に藤久ホテルが出来たことだ。プール付きの本格的レジャーホテルで名古屋には早過ぎるのではと思わせた。ラブホテルとは違い日本のレジャー化を先取りした先駆的施設だったが、やはり名古屋人には向かず余り客は来なかった。藤久がつぶれ番頭をやっていた伊藤が一夫の宿の番頭になった。頭の良い男で仕事は良く出来たが遊ぶのも好きだった。夜仕事が終わると必ず遊びに出掛けた。いつ寝るんだろうと思わせる程で思った通り続かず一年半程で止めてしまった。
 人事面で一夫を悩ましたものは板場の問題だった。板場の世界は一夫の経営する宿とは別のもので板場組合が別に命令系統を握っているやっかいなものだった。従業員であって宿に完全に仕えているのではなく自分達は包丁一本の世界でいつでも親方の指示で何処へでも旅に出るという組織だった。一夫の宿は伸和調理士会という組合からいつも板場を派遣してもらっていた。いつも板場は親方の指示で動いた。どんなに店がいそがしかろうと親方の命令で何処へでも行ってしまう組織だった。小僧の時から育てられ古風に育てられるので大柄偏屈になった。
仕事を覚えるのは親方の作るのを盗み見して覚え、決して手を取り足を取りという教え方ではなかった。調味料の分料もすべて盗み見てメモに書き止め覚えるのである。特に日本料理は古来からの伝統を重んじすべて決め事なのでそれを覚えるだけで大変な作業だった。何度も一夫は煮え湯を飲まされた。一度等はいそがしい忘年会の際中、総上りと言って板場全員が止めてしまい困ったことがあった。日本料理は江戸時代に完成しそれを頑なに伝承して来たのが板場社会だった。日本文化の伝承と同じで家元制度みたいに各流派があった。一夫の宿は小さい頃は一人の板前で済んだが段々多くなり多い時は四人の常時雇いといそがしい時に頼む手板が居た。手板を頼むのも親方次第で給与も日に八千円程と高かった。板前は粋で男らしくよく女にもて一夫の宿でも女中さんとの恋愛事は日常だった。一夫は子飼いの板前をいつも欲しいと思うようになった。しかし、なかなか容易な事ではなく結局家の者が腕を持たなくてはと考えた。政志を板前にと思ったが政志は不器用で向きそうもなかったし興味も無さそうだった。そんな頃伊藤さんの弟子でまだ若い坪井悟が来た。頭が良くすぐ日本料理を覚え急の客に対応する等要領も良かった。
 一夫は彼を折を見て板長にした。坪井は短気ですぐ切れる事もあったが商品開発能力があり宴会客が増え、客が客を呼び店もいそがしくなっていった。この年ビートルズが日本にやって来て名古屋でもコンサートが催され政志の同級生の山下が参加し楽しかったと興奮していた。催されたNHKのコンサートホールは栄にあり美術館も併設していた。ビートルズは政志の世代に多大な影響を音楽のみならず人生にも与え続けていった。美代子の世代をリードしていたのは戦後ずっと美空ひばりだった。毎年御園座でひと月間の舞台を行なっていた。美代子は友達と共に見に行った。
 政志は流行し始めたボーリングに初めて同級生の武山と中川区のセントラルボールへ行きプレイを楽しむようになった。一ゲーム三百円とまだ高価だったが小使いでまかなえた。ボーリング場は名古屋駅まで送迎バスが出ていてそれを利用した。宿には民音の紹介で芸能人が出入りしていた。グループサウンドの各面々もやって来た。はしだのりひことシューベルツ、ヒデとロザンナがやって来て美代子はロザンナや他の女性歌手と女子浴場に入ったと話していた。井上陽水はボサボサの長髪と古いジーパン姿でやって来て一夫も美代子も彼の事を知らなかった。加藤登紀子は妊娠中やって来た。
 政志は学校が終わると栄にある小さな栄図書館や愛知県立図書館へ寄るようになった。ごくたまに鶴舞図書館へ行った。図書館は本が沢山読めると共に他の学生と話せる社交場でもあった。政志はオーソドックスな明治の日本文学や十九世紀末のフランス文学にのめり込んだ。又漢詩が好きで特に影響を受けたのは中唐の詩人李賀とパリの憂愁を書いたボードレールだった。政志は段々多感な青春を送るようになった。
政志の姉の里美は東京女子大か奈良女子大へ進学したがったが名古屋を離れることを嫌った一夫夫婦に反対されそのままストレートで行ける南山大学へ進学することを決めた。里美はよく宿のフロントの手伝いをしたり好子が営む質屋の年末のいそがしい時は手伝いに出掛けた。里美の同級生には新聞社の社長の娘やデパートのオーナーの娘、医者の娘等裕福な家庭の娘が多くいつも自分の処程貧しい家はないと呟いていた。
 里美は高校二年生から広島出身で名古屋工業大学へ通う大学生から家庭教師として数学や化学を教えてもらっていた。教師の名前は高橋君と言った。初めて政志が会うタイプの人で多趣味で勉強以外の色んな事を教えてくれた。姉が好きなようで二人でいる時はちょっと違う空気が流れていた。流行のウエスタンが好きでメロディを口遊むのが常だった。広島でも爆心地からは離れていたようで余り原爆の話はしなかった。ジョン・ウェインが銀幕の大スターでインディアンとの戦いでは騎兵隊姿が凛々しくまぶしい程だった。巷ではウェスタンカーニバルやロカビリー全盛だったが南山は無風でオーソドックスな音楽や文化が主流と言えた。美代子は小さな手のり猿を飼いいつも伴うようになり家族旅行にも連れて行った。高橋君も伴った。美代子は誰でも家族のように扱い皆そのように家族の一員になった。人懐っこかったのである。悪戯心もあり高橋君とも大浴場に入り恥かしがるのをからかったりもした。高橋君は名工大の建築課で習い将来も有望だった。一夫夫婦は里美との結婚もいいかもと考えていたようだった。
 里美も政志も思春期に入っていたが二人とも奥手で恥ずかしがりだった。里美はいつも人気があり求愛する男も多かったが誰にもなびかず内にこもっていた。小学生時代同じく学級委員をした野口君は里美への片想いを思いつめ自殺してしまった。そんなことやらで里美は臆病になっていたのかもしれない。それともあいまい屋の過去の記憶が邪魔していたのかもしれなかった。高橋君は家庭教師をやめてからもよく実家に帰るように遊びに来た。
一夫の宿へはたまに長野県や岐阜県の山村の小学生が修学旅行に来た。修学旅行生は宿に一合ずつ米を持って行くのが決まりだった。食料難の時代の名残だった。ポリバケツを用意し米を集めた。米は翌日炊いて食事に出した。又、宿では受験生を受け入れるようになった。個室と相部屋があり個室は一泊二食七千円位、相部屋は一泊二食五千円位で受けた。まだ家庭はそんなに豊かではなく受験生は各地を泊り歩き、経費もかかるので相部屋も人気があった。各旅行業者も受験シーズンになると受験生の宿と名を付けて積極的に販売するようになった。修学旅行と受験生の宿には一人二畳位で部屋を用意した。十畳なら五、六人の定員という具合に。食事は広間か食堂を利用した。添乗員は一人一室必要で四畳半か六畳の部屋を使い、バスの乗務員も同じだった。小さな修学旅行でも三人は要るので日本旅館は広い部屋が多いのでそういう時は邪魔な存在だった。
 各旅行業者の手数料も最初八パーセントだったのが十パーセントは当然となり将来高くなることを予想させるようになっていた。旅行は旅行業者が支配するようになり固定客のいない宿は支配されるようになった。大型化を図った旅館はどうしても旅行業者頼りになり旅行業者も無理を言うようになった。車の両輪という言葉を良く旅行業者は使うようになったが実際は一方通行が多く主従関係の形になっていった。
 宿屋にとって一番大切なのは女将で次は仲居頭だ。美代子は名古屋で有名なやり手女将の一人となり従業員掌握力も持っていた。隣の旅館の女将は運転手として使う愛人が居たものの女手一つで権力を持っていた。商売敵として有名だったのは大門にある久本旅館の女将が美人女将として有名で交通公社に受けが良く送客してもらっていた。美代子にライバル意識があり送客実数を競っていた。駅前の千代田の若女将は東海銀行一の美人を大女将が引き抜いて来て女将にした位でやはり美人女将として有名だった。各旅館に女将はいてそれぞれ個性があったが名古屋の宿は温泉場程ではなくどちらかというとのんびりしていた。日本で有名なのは和倉温泉加賀屋のカリスマ女将だった。北陸という一種独特な風土の中で仲居さん則営業マンという厳しい環境の中で仲居を掌握するにはすご腕が必要だった。日本中から良い仲居を集めるのは女将の大切な仕事でその腕力により売り上げ額が決まり加賀屋は女将の力で売り上げを伸ばし後進ながら和倉一の宿になっていった。美代子には加賀屋の女将程ではないが姉御気質があり仲居(名古屋では女中)を掌握していた。女将は人情の機微が分っておらなければならない。 過去を持つ女性が仲居になるケースが多くそれを理解してやらねば連いて来ない世界なのだ。女中頭の八重子は身持ちの固い女性だったが若い頃の犯あやまちで二号になったことがあり亭主が死んでそれ以来、男性嫌悪していた。客に対して抜群のサービス良しではなかったが間違いない接客をし女中頭として皆を押さえる力もあるので頭になった。次の副女中頭は敏子でやはり二号さん上りだった。愛想が良く接客も親切なので宿では一番人気が良かった。他に十数人女中は居た。若い娘は九州出身が多く集団就職で名古屋へ来て最初の仕事が合わず紹介やら直接面接で来た者が多かった。他には芸者あがりで三味線を弾ける者やいろんな所から流れて来る者がいた。やはり九州出身の則子はどこか魅力のある女性で客にも人気があり噂も多かったが板前と運転手の藤井とを天秤に駆けた後、結局藤井を選び結婚して二人共々宿を止めてしまった。男女の恋愛事は始終あり、誰と誰がくっついたとか別れたとか日常茶飯事なので一夫や美代子は余り干渉しなかった。
 政志は杁中からバスで通っていたが帰路途中栄で下車することが多かった。栄は名古屋の中心でバス停の向う側に栄町ビルが出来、一階にスパゲティ専門店わかが出来た。早速悪友と共に食べに行った。ナポリタンを頼み食べてみた。近くの駅西商店街にあるケンコーという喫茶店で卵を下に敷いて焼いた名古屋独特なスパゲティしか知らなかったので専門店のスパゲティはあっさりしていた。タバスコの使い方を知らずケチャップと間違える友人もいたりで新しい出会いは新鮮だった。粉チーズの存在も初めて知った。栄には丸栄の隣に明治屋と丸善がありもう少し歩くと服部時計店等があった。
 栄図書館や県立図書館、美術館NHKホール、テレビ塔等があり栄で降りると便利だった。NHKホールの南側にプロテスタントの教会があり金城の生徒達が利用していた。市電が廃止され駅前のロータリーにあった青年の像も栄のセントラル道路は噴水とともに出来た。青年の像のモデルとなったのは駅内にある早川浴場の縁者ということだった。
政志は城好きな少年だった。愛知県内にある城を調べ絵に描いたりしていた。名古屋城へもよく行き石垣の美しさや複雑な造形に感心した。石垣の組み方、石にあるいろいろな印に不思議なものを覚え調べると石垣を造った各藩の印だと分った。薩摩なら丸に十の字とか各種の紋様があった。二の丸から入るとそこには旧陸軍の兵舎跡がありそのまま名古屋大学の寮として使われていた。又「王名により死を賜う」という碑があり不思議に思った。後日分ったのは幕末斬死された渡辺新左衛門等を祀る碑だということだった。幕末名古屋でもそんな事件があったんだとつくづく思い尾張が何故官軍をすんなり通したのか分って来た。名古屋城を歩いて一周するといろいろ分って来る事があった。外堀には瀬戸電が走っていてうまく利用したもんだと感心したし東側の内堀にはテニスコートとして利用されている処もあった。石牢もあり清洲から移築された隅櫓は信長を連想させ興味が湧いた。城の西側には軍の病院が壊されキャッスルホテルに建て換わっていた。北側の内堀は一番眺めが良く幾重にも織りなす石垣の美しさは比類なく堀の水も満々とし土居下と言って抜け穴があるという事だった。
 城内部には御深井おふけ丸という場所があり陶器が焼かれていたと聞いた。大凧に乗った盗賊柿木金助は何処で凧を上げ金鯱の鱗を剥がしたのだろうと連想したり名古屋城の歴 史を紐解いたりしていた。更に資料を調べて行くと金鯱は豊臣から大阪夏の陣で破って戦利品として奪った慶長大判や小判で造られた事、有事の時は降ろされて戦費として使われるよう家康が考えた事、江戸時代何度も降ろされ改鋳され藩費として利用され鱗が随分薄くなってしまった事等つくづく家康の配慮の深さに感動した事等思いをめぐらせ面白かった。もし城を枕に官軍と戦っても善戦したのではないか、日本の歴史もすっかり変ったのではと推測し余計に郷土の歴史に興味を持っていった。
 名古屋は城下町であると共に門前町でもある。熱田神宮の門前町としても栄え両方合わさって名古屋が出来た。日本武尊やまとたけるのみことゆかりの地であり頼朝も生まれている。信長が今川義元と戦う時戦勝祈願し勝って帰って信長塀を寄進した史実もある。熱田は武将を千年にも渡って輩出した地でもあり神宮内の蔵には草薙の剣他奉納された多くの刀や槍がある。勉強してゆくと熱田も実に面白く学生時代の政志には面白かった。又美代子が戦前開催され観覧した汎太平洋博の会場となった鶴舞公園にも行ってみた。ロココ風の大理石の噴水があり当時を偲ばせた。歩いてみると古墳があって桜の名所ばかりではないと知らされた。
 政志は郷土の歴史好きの少年になっていった。又図書部というサークルに入り読書にふけった。姉の里美の影響で白樺派の文学を読んだりヘルマンヘッセやロマンロラン、ヴィクトルユゴー、トルストイ等オーソドックスな本ばかりを読んだ。時には文学散歩として同級生の筧(かけひ)と共に藤村堂へも行った。中津川まで電車で行きバスに乗り換え馬籠まで行った。全く田舎の中にあり鄙びていて一軒ある峠の茶店が印象に残った。スポーツは苦手だったが同級生の鬼頭と県庁近くにあったスポーツ会館で柔道を習ったがいっこうに上達しなかった。又学校のサークル山岳スキー部に入り山へ行くことになった。入部の際入ろうと勧めたのは菅だったが菅は一度入部の際顔を出したきりで止めてしまった。政志だけが残りクラブ活動を続けた。山歩きは初めてではなかった。従兄の輝雄や小山のヒロサと共に白樺湖や槍ヶ岳へ行ったことがあった。白樺湖は幻想的で美しかった。長野駅からバスに乗り高山植物が美しい七島八島から車山を歩き白樺湖へ出た。夏なので草木が若々しく輝き高山植物が各種華麗な花を咲かせすばらしい景観に心が躍った。燕岳から槍へ縦走した時は最初の行程は景色もなく黙黙と林の中を歩いて登って行くだけでつまらなかったが一端開けると眼下にすばらしい景観が広がりなんとも言えず心が解放された気になった。ただまだ中学生だったので体力がなくいずれもバテバテで疲れきってしまった。白樺湖はバンガローに泊った。まだ宿泊設備は余りなくホテルは一軒もなかった。バンガローに寝て近くにある炊飯場で飯盒で米を炊きカレーで夕食を取った。槍では山小屋に泊った。粗末な山小屋にすしづめで男も女も枕を並べて休んだ。歩荷が八十キロ程の荷を背負いゆっくりゆっくり登っていたのが印象的だった。山岳部では主に御在所へ登った。御在所はいくつもルートがあり時には山中で死ぬこともあり油断しては駄目ということだった。山岳部では岩と岩の間を抜けるへっつりという技法やザイルの使い方を習った。山岳部には同級生の柴田がおり彼は山登りをストイックに取り組んでいた。政志は余り彼のようではなく楽しむ山登りの方が好きだった。個人的に菅と御在所を別ルートで行ったり山副と恵那山へ登ったりした。
 御在所へ行った時は水晶岳から川を伝って歩いた。川辺でテントを張ったが夜中に山鼠にじゃがいもをかじられてしまった。川の水は清々しく流れていた。恵那山は中津川からバスに乗り行った。雨の中を歩きがま蛙がやたらに居たのが印象的だった。山歩きではないが山副とは静岡県の寺で泊り勉強したのを覚えている。学校では長距離走で体を鍛えられたり校舎の避難階段を利用しザイルの勉強をしたりした。

 高校二年生になると政志は自分の脳の線がいろいろ繋がって行くのを感じた。成績も良くなっていった。クラス分けで他から来た生徒も一緒のクラスになった。英語はAとBの成績に分けられ政志は成績上位のAの方にクラス分けされた。すでに大学受験の用意だった。姉の里美は本当の所東京の大学へ行きたかったが一夫や美代子に反対されそのまま推薦入学出来る南山大学の英文課に進むことが決った。南山の生徒はのほほんと育つことが多い。穏やかな環境で伸びやかに育成されるため厳しい社会とは合わない場合が多い。先生も同様に良い人が多い。厳しかったのは英語教育に情熱を燃やす中村敬先生だった。答えられないと容赦なくピンタが飛んだ。数学の福山先生は五島列島出身で祖先からのキリスト教信者で人徳者だった。国語の久田先生はフェミニストで女とは言っていかん、おみなごと呼べなどと言う人だった。
 漢文の徳川先生はいつもだらしなくズボンの前が汚れていた。社会の家田先生は優しく歴史を教えてくれた。体操の伊藤先生も厳しくはなくそれぞれの能力に合わせ教えてくれた。図工の大嶽先生は個性を重視し自らも日展の作家だった。高校になると先生も若干変わり体操は尾ノ内先生となった。英語は黒川先生になった。社会は新任の星野先生等であった。音楽は都築先生だった。政志は何故か尾ノ内先生に嫌われ体操の時間いつも殴られた。政志を見るだけで殴りたくなるようで、毎時間終わりがけにピンタを張られた。政志が殴られてもせらせら笑うので余計腹を立てたようだ。政志の時に見せる反逆態度が気にくわないようで放校したいようで父親も学校まで呼び出された。十五歳、十六歳は社会や学校に反逆したい要求が出て来る頃であり、政志はその衝動を抑えられなかった。
 ただ幸運と言えたのは共産主義に出会わなかったことだ。社会はその頃コミュニズムが荒れまくっていたのに。日本が戦後共産主義の洗礼を受けたのはロシアのラジオ短波放送ではなくシベリア抑留組が実際帰国してからだ。彼等の一部は帰国するとすぐにデモをやり労働運動に参加したりした。美代子の姉の夫のように帰国してからすぐ鉄屑屋を始めるのは力がある方でなかなかそうはいかなかった。大方は抑留生活を引き摺って帰って来て社会に流された。同級生の菅の父親もシベリア帰りだったが彼は妻の元へ帰り職場の炭鉱へ復帰した後塩化ビニールの仕事を始めた。子供を失くしてからの再出発で姉の居た名古屋を頼った。当時流行した唄声喫茶ではカチューシャやロシア民謡がよく歌われていた。進駐軍は主にアメリカ兵でその下でもソ連の影響はいろんな面で入って来ていた。労働運動や学生運動も盛んで六十年安保で燃え上り次の時代を予感させていた。南山学園はその動きとは全く無縁で保守的と言えた。七十年安保が迫って来て中国や朝鮮の思想も日本に入り込んでいき、日本の急速な発展もいろんな矛盾を露呈し何か次の時代の恐怖を予感させていた。
 そんな頃キューバ危機が起こり、世界は核戦争一触即発状態だった。冷戦の終局は近いのかと思わせた瞬間フルシチョフがケネディに妥協し事なきを得たが本当に危うい立ち位置に世界はあったろう。ベトナム戦争も泥沼化しアジアも不安定だった。沖縄は完全に基地化しベトナム戦争の前線となっていた。B52が沖縄から飛びベトナムに爆弾を下していた。日本では公ではないが軍需産業が息を吹き返し日本自体がアメリカ軍の製造工場になって経済もうるおった。アメリカの支配が続く日本には逆に毛沢東やチェゲバラの思想が入り込み、ますます日本は曖昧模糊の国となった。世界のうねりとは関係なく政志達姉弟は愛に包まれ幸福な学校生活を送っていた。
 一夫の宿は利益が上るようになり車はクラウンとローレルを二年ごとの車検のたびに換えた。一夫は税金の問題はすべて三枝会計に頼むようにしていた。なるべく節税したかったからである。何か問題が起きるともめ事は義姉の好子に税の問題は三枝会計にと決めていた。税理士の三枝先生は頭の冴えた男で税務署にも顔が効いた。三枝電機の息子で出生も良く一夫とは飲み友達でもあった。この頃法人になれ、と一夫に勧めていた。一夫はまず有限会社にし頃合を見て株式会社にするつもりだった。銀行は中央相互銀行と大和銀行毎日集金に来る名古屋相互銀行を利用し新しく駅前に支店のある三和銀行を利用するようになっていた。まだ金を借りたことがなく預けて定期を積むだけの関係だった。

 美代子は西川流の日本舞踊を習い呑み込みが良く型をすぐ覚え、客に踊りを披露するようになり名取の免許を取り次はお茶の習い事に熱中するようになった。冬休みに政志が駅内を歩いていると偶然同級生の小笠原に会った。ジョニーウォーカーの紙袋を大事そうに持っているので聞いてみると、沖縄旅行からの帰りで今から家に帰ると言う。まだビザの要る時代で観光して来たと聞いた。沖縄はまだ海外旅行と同じで通貨もドルを使っていたようだった。政志はその冬もやはり志賀高原へスキーをしに行った。同級生五人で行った。割と旅行は自由で南山は解放的だった。
 車は急速に販売台数を伸ばし一家に一台あるようになっていた。道路も急速に整備され名岐バイパスも出来、美代子は免許を取り初乗りを、名岐バイパスで行なった。政志には恐怖の時間だった。名古屋近郊では新しい温泉が出来た。長島温泉、尾張温泉でいずれも歌謡ショーを見せ、多くの客を集めるようになった。いずれの温泉も車で行けば早く、ちょっと遊びに行くには適当だった。この年は政志の修学旅行の年で夜行の寝台列車に乗り九州へ行った。長崎ではグラバー亭や殉教した碑等を見、兄弟学校の長崎南山を訪問した。次の日熊本城を見て自由時間を楽しんだ。熊本城は清正の造った城であり西南戦争で傷ついた堀石が生々しかった。宮崎で青島へ行きザボンを食べて帰った。長崎で食べたチャンポンの味がいつまでも残っていた。
 一夫は姉の里美に宿をつがせるか政志にするか迷い始めていた。もし家庭教師の高橋と結婚することになれば里美の線は消えるが政志ではどうも頼りないしと思っていた。美代子は長男に後をやらせるのが当然と考えていた。一夫は宿屋の商売には料理の修業が一番必要だといつも反省を込め考えていた。いつも板場には苦労させられた過去の思いがあったからだ。その頃駅前にあった名古屋館が東名高速近くに蕎麦屋を開店し転業していたし信忠閣は香港に店を出したり焼売の店を出したり中華料理に転進していた。一夫も転業を考えなかったわけではない。朝早くから夜遅くまで仕事漬けの宿屋より、きりの良い飲食業が魅力に思えた。旅館への大きな波がやって来ていた。駅前の地価が高騰し宿屋では商売が合わなくなって来たのだ。地価が上がれば税も上がり、収益性が良いとは言えず売却して転業する宿や全く止めて人生を遊ぶ者も現われた。駅前と比べ駅の西側の地価は余り上らず近代化の波も来ず街はどんどん古びて行った。駅西商店街も人が通らなくなり住宅街はそのままだった。一夫の宿はそのまま営業を続け旅館数が減った事で客が増していた。駅近くにビジネスホテルが出来始めたがまだ本当のうねりとは言えず旧来からの一泊二食の宿屋が多かったし、客も一泊二食を望んでいた。まだレストランも少なくフランチャイズの店もなかった。駅西にも地下街エスカが出来その他各地にも広がって名古屋は地下街の町と言われるようになった。

 政志は高校三年生になり南山も三年生に対し大学受験のモードに入った。大学に行かない生徒は数人しか居らず全員が大学受験を希望し南山大学へ推薦入学する者は四十人程で他は受験組だった。受験組も国公立志望向きと私学希望組更に理科系か文化系が細かく分けられた。政志は美術の先生に将来専門に美術をやるように勧められ親に相談してこいと言われたりしたこともあったが東洋哲学に興味を覚え印度哲学のある京都大学への志望を決めていた。私生活放りっぱなしの宿屋を嫌いお金から逃避したかったのかもしれない。最初は竹林の七賢人の生き方が理想と思い次に変人の生き方に憧れた。特に林士平等寛政の三奇人に興味を持った。又王陽明の陽明学に興味を持ち大塩平八郎の知行合一の実行の考え方に傾斜していた。高二末の実力試験がたまたま良く先生からもこのままガンバレば京大は大丈夫かもしれないと言われその気になっていた。
 この年は中京商業が強く春の甲子園で優勝した年でもあった。帰りのバスで同じ杁中から乗り込む中商の野球部と会いよく知っていた。中商は八事近くに校舎グランドを持ち南山とはいがみ合っていた。よく南山の生徒が殴られたりたかられたりする関係で集団で の喧嘩が起こりそうであった。ひばり荘の叔父平吉の喘息が悪化し伏せるようになり甲子園の高校野球のテレビにくい入る事が多かった。叔父の死は近く夏までだろうと言われていた。テレビはカラーが普及し始め宇宙中継も始まりケネディ暗殺の映像が流れショックを世界に与えた。ソビエトとアメリカの宇宙へのロケット競争は激しさを増していた。アメリカが月へ飛ばし成功すると今度はソ連が女性宇宙飛行士テレシコワを飛ばし私はカモ メと言わせたりと世界を驚かせた。宇宙旅行もそんなに遠くないなと希望を抱かせたが地球上では血なまぐさい戦争が続いていた。
 ベトナム戦争が激しさを増していたのである。アメリカはベトナム戦で出口が見えなくなると常軌を逸するようになっていた。枯れ葉剤を散布しあらゆる植物を死滅させ森を裸にする等又枯れ葉剤に毒性があり遺伝子に大きな影響を与え次世代までも影響する事などおかまいなしに散布した。新型ヘリコプターで機上掃射しナパーム弾を使いまるで節制がなかった。勝つ為にはなんでもやるのがアメリカと世界に思い知らせた。日本人は太平洋戦争でのアメリカの無差別爆弾投下や原爆投下、火災放射を思い出し再び恐怖で一杯になったが、その裏では日本人がベトナム戦争には大きく加担していた。名古屋でも三菱重工や豊和工業は軍需工場として稼働していた。同級生の小笠原の工場では銃器のバネを作っていた。三菱自動車のパジェロは他国へ持って行きそこで銃座をつければ山岳戦に有効だったし三菱キャタピラは戦車の整備に三菱航空機はヘリコプターや戦闘機の修理に利用された。国鉄は物資輸送に特に航空燃料の輸送に活躍した。米軍の戦死者は日本へ運ばれ遺体は洗われ化粧されてから米軍へ帰され親族の元へ帰された。
 又米軍の休暇で遊びに来るのも沖縄や日本本土だった。政志はそういう現実とは無関係で温かい南山や宿屋の息子として育っていた。日本はこうしていろいろな矛盾を抱えたまま発展していった。飛行機は戦後初YS11が始めて飛んだが戦後の航空機製造はアメリカの圧力でなかなか進まなかった。航空機とは別に車産業は順調に伸びていた。豊田も日産も本田も。電化製品もどんどん売り上げを伸ばしていた。一夫の宿も順調でまもなく来る大阪万博を待っていた。万博を機に名古屋へも客がやって来ると期待させていたからである。夏になり平吉の喘息はますます悪化し、入退院を繰返すようになった。夏の甲子園で中商が春夏連覇し病床でそのテレビを見て平吉は二、三日後に息絶えた。名古屋の葬場は八事に整理されていたのでタクシーを連ねて行った。政志は自分の息子のように可愛がってくれた叔父の死が悲しくてしょうがなかった。親戚が集まりはしゃぐ弟を殴ったのを覚えている。
 愛知県旅館組合長神谷一英は非常にユニークな発想の持ち主で組合の事務所愛旅連ビルを栄の一等地を買いそこにレジャービルを建てテナント料でまかなえるようにし五階に会議室を六階に事務所と理事長室を造り千人の組合員を束ねるようにした。そればかりでなく借金体質の宿泊産業には金が必要と商工中金から融資を引き出せるように組合が斡旋し手数料が組合に入るようにし又春にホテルレストランショーを真似、組合独自で旅館近代化設備展を開催し、利益を上げるようにした等ユニークだった。自分は女子大小路にロイヤルホテルを造り愛知県旅館組合の総会はそこで行なうよう抜け目もなかった。環境十六団体の組合長も兼ね権力も持っていた。神谷会長の下の副会長は中区の支部長の大口喜三氏が付きやはり大口氏もかなりのユニークな人物だった。愛知県内では知多方面は海水浴客が客を集め、渥美地区は伊良湖にビューホテルが出来ハワイアンショーで売り外人ショ ーの魁となり客を集めていた。
 犬山では明治村が集客力があって人気があり迎帆楼が犬山城の近くでガンバッテいた。三河では蒲郡がまごおりにひがきが出来、ふきぬきと競うようになっていた。蒲郡ホテルは独自に固定客を集めていた。島では篠島で古城館が老舗を誇り、日間賀は釣客で客を集めていた。定光寺の千歳楼が急拡大を図り名古屋の客や多治見等から客が良く来た。名古屋では藤田観光が錦と金山でワシントンホテルを造り、ビジネスホテルの走りとなった。以後錦三丁目が夜の盛り場の中心となっていった。ホテルを中心に街が形成される場合が多い。宿泊客が飲食や二次会に利用しそれを目当てに店を新しく作る人が居て街は順々に出来上ってゆく。郭でもかってそうであった。郭を中心に街は形成した。ホテルには他の地から人がやって来ていろんな文化も流れて来る。そこに新しい文化の出会いがある。名古屋人とは違う異文化との出会いで洗練された新しい文化が出来てゆく。錦三には色んなクラブやスナックと共に夜食用のカレー店やうどん屋がオープンし他にステーキの店、懐石の店、しゃぶしゃぶの木曽路いろんな種類の店が出来ていった。
 温泉場でも同じだ。旅館を中心にお土産屋や飲食店が広がっていった。ところが大旅館が館内に土産物や夜食処を設置した為に浴衣がけで街を気軽に散策する人が少なくなり街が衰退してゆく現象がこの頃出始めた。旅館が売り上げの囲い込みをすることにより温泉街が衰退し街の魅力を失い、地域のイメージが悪くなり地域に集客力が無くなり旅館自体も客が来なくなるという悲劇が起こった。街は人ぐるみで話し合いを持ち、相互に利益のある方にもってゆくべきでそうした街だけが生き残る方向がこの頃出来始めた。
 一夫の宿は規模がまだ小さくこの現象にはならなかった。一夫は町内でいろんな役に付き町の有力者でもあった。そういう意味では懸命であった。名古屋は観光に余り力を入れず魅力的な信長秀吉家康等の史跡ばかりでなく他にもいろんな歴史を売る力に欠け観光地とは言い難かった。ういろ、きしめん、守口漬が名古屋の土産の代名詞で新しい息吹はまだ年月を必要とした。そんな中で両口屋と長崎堂が気をはいていた。旅館では中小企業センターが出来ると共に隣接の長谷川旅館がビルに建て直してもらい、千代田もビルに又雇用センター近くの舞鶴館もビル化した。大門にある旅館はそのままだった。
 政志は受験勉強に近くの河合塾へ通った。まだ校舎は古いビルしかなく名古屋校が駅西にあるのみだった。高校生の生徒数は百人もなくまだ予備校が一般とは言えなかった。問屋街はにぎわっていた。長者町や岐阜の繊維街は遠くから外商が来て盛んに取り引きしその度に喫茶店を利用した。コーヒーの松葉がチェーン展開し始め大型店を造った。長者町では名古屋弁の商人言葉が使われコーヒーや冷コーで商談するのが通例だった。一夫の宿に広島からハチダイヤの営業マンが泊まるようになった。駅西商店街では西河被服が仕事場の正服を扱ってハチダイヤの商品を販売し坪井仐店では洋仐を盛んに商っていた。一夫の宿の近くに万勇が日用品を全国の産地から仕入れ軍隊式教育で社員を育て大きくなっていた。駅西には他にもいろんな問屋があり側島商店は絹を商い山増耐火は炭を小川商店ではラタンを等幅が広かった。
 南山大学英文科へ進んだ里美は男女共学ではなく交際さえ許されていない環境から急に男性が教室に居るのに戸惑ったが段々慣れていった。もともと勝気な性格で何ごとにも挑戦的でいろんなクラブにも出入りしすぐ大学生活を楽しむようになった。女子部からそのまま一緒に来た友人も多く他の高校から来た学生とは違い南山学園の空気にそのまま解け込んでいった。軽音楽と落研のクラブに良く出入りし友人も作った。父の勧めで運転免許を大治自動車学校で取り車にも乗れるようになり、たまに仕事も手伝うようになった。
 政志は受験勉強に身が入らずむしろ読書にかける時が多かった。余り意義が感じられない受験勉強より生きる意味は何かを教えてくれる読書の方が意味があると哲学者を読んだ。政志はある種のニヒリズムに落ち入り抜け出せなくなっていた。キリスト教のように一神教に身を委ねるなど考えられなかったし他の宗教の多くも信じられなかった。政志は印度に鍵があるような気がし印度哲学に魅かれていった。印度哲学科のある京大を志望した。京都大学は東洋系にも強く中国の詩の翻訳も多くしていた。多くの生徒達は生活を重きに置きその為に受験校を決めるが政志はもっと根源的なものが必要だった。多くの古典を読むうち政志はもの狂ほしさが自分に合っていると思ったし、魂が言霊を欲しがっていると感じるようになっていた。政志はローマがキリスト教を国教にしそれ以後こじつけの多くなったカソリックより東洋哲学の方が本物に思えたのだった。実利的な一夫の生き方より雲を見上げぼんやりとする詩人に心魅かれた。
 政志は中原中也の詩集をポケットに入れどこにでも持って行った。中也の詩がその頃の自分に合っている気がしたからだ。汚れちまったの詩は心を抉っていた。太宰や三島は彼の世代の多くが影響を受けたようにやはり彼も同じだった。こうして三年生は本の中で生活し卒業式を向かえた。小笠原が何か変わった事をしようと政志に提案し彼等はマントを着て出席しようということになり政志は叔父の形見の古い外套を借り下駄を履いて卒業式に出席した。それが精一杯の表現だった。良くない事は政志が生徒代表挨拶の途中遮ったことだ。政志と小笠原は講堂から追い出され卒業延期の処分を受けた。すでに小笠原が早稲田大学の受験に成功していたので幸い退学の処分は免れた。二週間後親と共に高校へ行きやっと卒業証書をもらい卒業することが出来た。
 京大受験には楠崎と二人で行った。宿泊は新橋の旅館で前を舞妓が歩く受験とはかけ離れた宿だった。翌朝寝過ぎて仕方なく知らない女性の車を止め京大まで乗してもらいやっと間に合った。こんな具合で受かるはずもなく受験に失敗してしまった。ただ国語の試験に夏目漱石について書けという問題だけは解答用紙いっぱいに書いた。夏目の作品はすべて読んでいたからである。政志は早稲田と京大の二つしか受けておらず二つとも失敗し浪人することになった。予備校は東京市ヶ谷にある城北予備校を選んだ。陸軍省のあった所が陸上自衛隊の本部になっていてその隣に城北予備校はあった。東京大学入試合格者が多く先生も東大出身者ばかりだった。下宿は杉並区下井草にあった。前もって姉の里美が決めてくれていた。中央線の荻窪からバスで二十分程乗り下井草まで行きバス停の前に下宿はあった。二千坪程の敷地に農家の面影を残す建物の横に二階建ての下宿屋は建っていた。一畳千円で月六千円の家賃、風呂もトイレもなく、風呂は近くの風呂屋へ行かねばならなかった。その他に生活費として月三万円もらいそれを食事代や日用品に使った。洗濯は自分で手洗いした。
 予備校では東京出身者と地方出身者の学力の違いに驚かされコンプレックスに悩まされた。数学は東大受験の問題が出されとても連いてゆけなかった。京大は先生の眼中になかった。南山は地方の有名校でしかないと思い知らされてしまった。梅雨時になり高台にある予備校の校舎から雷が回りのビルに落ちるのが見えた。市ヶ谷の坂は急で陸上自衛隊本部には適していると思った。まさかそこで三島由紀夫が切腹しようとは思わなかった。小笠原がよく下宿を訪れ、早稲田が授業がなく暇していて麻雀をよく誘った。政志はうるさく感じたが受験勉強に連いてゆけない淋しさも手伝って麻雀に走ってしまった。麻雀は父母が警察に呼ばれるのを後で見て知っていた。別に教わらなくても役づくり位は覚えていた。そのうち井上が下宿に住むようになり同級生も時々やって来るようになっていった。
 市ヶ谷からよく散歩で浪人同士近くを歩いたことがある。飯田橋から四谷へ、違う日は赤坂見附へ一度は国会図書館の人達に紛れ、赤坂離宮へ行ったことがあった。まだ改装前で飾られた七宝や各種の装飾品が珍しく日本の伝統美が無雑作にいっぱいあり明治の遺稿を楽しんだことがあった。浪人時代は今春みすみす又過ぐという感じで過ぎ、翌春京大は受けず早稲田と学習院を受けた。早稲田は学園紛争が荒れに荒れ授業は余り行なわれていなかった。南山で教わった歴史の家田先生の勧めもありマンモスでない学習院大学の仏文科に行くことになった。
 入学式は中央にあるピラ講で行なわれた。ピラ講はピラミッドのような講堂という意味だったろう。学習院大学には旧街道跡や乃木邸、堀部安兵衛の血洗いの池等が残っている。フランス文学科は教授陣が揃っていてサンテグジュペリの山崎先生モーパッサンの鈴木先生ル・クレジオの豊崎先生、サルトルの白井先生等がいて政志は文章論の篠沢秀夫先生がユニークと思った。政志は西武新宿線で下井草から新宿へ行き山手線で大学のある目白まで通っていて途中で降りる新宿で途中下車することが多かった。新宿は魅力にあふれていた。紀伊国屋書店があり、アートシアターがある。天井桟敷がテントの芝居をやり舞踏集団もいる。フーテンが巣くっているし樽小屋がある。ジャズ喫茶やロック喫茶もあり新しい文化が溢れていた。
 深夜喫茶では詩人がものを書いていてごちゃまぜの世界は彼の育った駅裏と同じ臭いがした。次第に政志は新宿の迷宮の渦に巻き込まれていた。まるで万華鏡を見ているようで新宿自体も次々と色や模様を変えめくるめく宇宙のような星雲に追い込んだ。政志は方向性もないまま大学生活を送るようになっていた。
 一夫は隣の幼稚園が郊外の子供の多い所に移転したいので売却したいと園長から言われ迷っていた。幼稚園は敷地百五十坪あり土地代は二千万だった。その他に宿を拡張した場合別に二千万合計四千万円必要だった。今までの借金とは違い大きかった。冒険に思えた。持ち金は二千万近くあったがその上の二千万は足らなかった。親類に借りるにしても額が大き過ぎた。行きつけの大和銀行に頼みに行ったがなかなか是と言わず検討しますと言ったきりだ。流石に踏み切るには即決出来なかった。
 そんな折相場で儲けないかと勧誘され色気を出して手を出してしまった。綿花相場で最初は営業の言う通り買っていればすぐ元手の倍程になったが、ある時一日で綿花が値下りし損失を出してしまった。それを取り返そうと資金を追加したがとうとうストップ安をつけ、元手どころか一千万の損失が出て追証を要求された。そうなると一夫は目が真っ暗になり営業の言う通り追証を出し又更に追加資金を出してしまった。営業の言う通り相場を続けていると損失が増えるばかりで、一夫はとうとう腹が痛み入院してしまった。
 余りのストレスで十二指腸潰瘍になってしまったのだ。入院は十日程で済んだが相場を決済するのに大事な二千万円の大方失くしてしまっていた。どうしても隣地は欲しく美代子のへそくりや親類で二千万円は工面したがまだ二千万円足らず、再度大和銀行に頼みに行くとようやくOKが出て安堵していると借りる三日前になって支店長が謝りに来て本部決裁が降りないから駄目と言われ困っていると以前声をかけたことがあった中央相互銀行が融資に応じてくれ事なきを得た。一夫は反省し自分を振り返ってみた。普段は冷静なのに勝負事になると熱くなる自分に気付いた。相場には魔力があることも分かりもう二度と手を出すまい忘れるために仕事に熱中することにした。

 初めての大きな借金だったが大阪万博の関連の予約が順調に入って来ていた。特に団体予約が多く料金も良かった。大阪の宿泊は満室で名古屋から万博会場まで新幹線を利用すれば一時間ちょっとで行け大阪での宿泊を避ける団体には丁度良かったのである。ある程度の目安がつきほっとしていたが人が足らないのに気が付き従業員集めをしなければならなくなった。大阪の宿は従業員集めに今までの三割増しで募集し始め全国から人を集めた。 
 名古屋までそれは普及し人件費が高騰して行った。名古屋でも一割から二割は上った。板前も増やし板長に連いて三名の見習いが来た。その中に中津川出身の坪井がいた。里美は大学に行きながら宿のフロントを手伝っていた。政志は学習院へ行き、保夫は東海中学へ入学した。一夫は借金の不安はあったものの万博関連でいそがしくなり売り上げが上りひとまず安心し仕事に打ち込んだ。三月末で幼稚園は立ちのき、早速一夫は造築に入った。幼稚園の校舎を一部残し六十畳の広間に改装した。西側だけは取り壊し地下駐車場付きの二階建ての客室を八部屋造った。すべて風呂付きトイレ付きの部屋で旅行業者の要望に答えた。一番西側にあった土蔵はそのまま利用し一夫夫婦の居室とした。幼稚園を買収したことにより総敷地三百十坪部屋数三十室中広間大広間のある収容人数百二十名の名古屋では大きい旅館となった。一夫夫婦が住み初めた土蔵には古事記伝、神皇正統記、明治初年の尋常小学校の教科書等が置き忘れられており、驚いたのは銀で換算された鵜飼家の持っていた骨董品のお下見帳や造り酒屋時代の大福帳の数々だった。お下見帳には数々の貴重な書画や古陶器等が記載され銀換算で四貫目あり当時の鵜飼家の栄華が彷彿と浮かんで来た。
 元々この地は幼稚園以前は茶室が建っていて母屋と続いていたのだろう、庄内川まで自分の土地で歩いて行けたと聞くから明治の世は相当な資産を持っていたと推測出来た。二代続く株式相場の損失で鵜飼家はその資産と骨董品を失い力を失ってしまったが戦後すぐの頭首はまだ様がつき影響力を持っていた。幼稚園を買収し造築したことで一夫の宿は宿泊客宴会客共に増し、繁栄の基礎となった。襲われた不景気も旅行ブームで相殺され一夫の宿は日銭を稼ぐようになった。しかし宿泊業は間違いなくホテルの時代に変わりつつあり特に宿泊特化型のビジネスホテルが旅館に変わりつつあった。
 温泉地は違う動きをし大きな旅館が増えて行った。一夫もいずれ一泊二食の宿ではやってゆけないだろうと予感していた。この頃ビジネスホテル勉強会があり一夫も参加したことがあり確信を深めた。政志は一夫の事は考えず自分中心にものごとを考えていた。里美にも政志にも恋の季節はやって来ていた。里美は弟の政志は本に埋もれた人生を送るようにしたいと考えていたが自分自身は南山大学の軽音楽の人達と交際し始め、恋を芽生えさせていた。南山大学の軽音楽部はデパートの屋上のビアガーデンで演奏のアルバイトをし遊ぶ金を得てたまにする演奏会の元手としていた。又ダンスパーティでもパーティ券を売り金にしていたが里美はそのマネージャーみたいな事をしていた。

 政志は学習院では写真部や戯曲研究会に所属していたが戯曲研究会は革マルの巣のようなクラブで学習院大学の学生運動のアジトでもあった。彼の書いたものも革命的ではなくマルクス主義とは離れていて書き直すように言われ政志は書く物はもっと自由でなければならないと反撥しクラブとは離れていった。写真は撮らなかったものの写真部の部員達と交わり友達も多く出来た。臼井さんや関川がいた。
 フランス文学ではエミールゾラやモーパッサン等十九世紀末の文学からダダイズムシュールレアリズムの作品に変わって行きアンドレブルトンのナジャに影響された。映画ではゴダールの奇狂いピエロが自分の事のように思え印象的だった。美術はエコールドパリの画家達を見てシャガール、ミロ、カンディンスキー、クレーを愛し特にクレーのまだ手探りしているのシリーズには心を抉られた。詩はエリュアール、ランボー、ロートレアモン、無論ボードレールの悪の華には心振え愛読した。夏休みに南山の親友菅と東北を旅行した。チリ地震の爪跡が三陸の海岸に残っていた。金色堂や毛越寺を見て藤原三代の栄華に驚き東北文化の高さを知った。大学の勉強は興味がなく学内の図書館でよく本を読んだ。図書館近くの公孫樹がすばらしく狂う程すべてが黄色く思えた。日本の古典では一休宗純の狂雲集がピカソみたいに生命感があふれ驚きやはり手離せない一冊となった。大学生活は本の虫で過ごしていた。新宿西口が整備され始め公園で手造りの詩集を売ったりして買ってもらった事もあった。だが閉じこもって本ばかりを読んでいる時代ではなかった。マルセル・デュシャン等の芸術否定の時代であり、サルトルのアンガージュマンで政治やデモへの参加が問われ政志も態度を決めなければならなかった。ベトナム戦争激化でどうしても関係ないとは言えなかったのである。何処か政志は戯研の主催するデモに参加した。戯研で渋澤龍彦氏を呼んでシンポジュームを開いたことがあった。渋澤先生は山崎先生と東大文仏科の同期でその関係で嫌々みえたようだった。サド裁判の最中で性の問題がクローズアップされた時代だった。デモをする戯研とはぜんぜん美意識が合わずかみ合わないまま終わってしまった。フロイト学派が芸術世界にも勉強された時代でフロイトを吸収しなければならないと政志も何冊も書物を読んだ。フロイト左派のE・フロムの自由からの逃走はナチスドイツを理解する上で重要な作品で影響を受けた。エロスは大学生の政志には乗り越えねばならない問題でもあり興味を持った。政志に恋人が出来、性の要求に逆らえずいろいろ煩悶した時代だったからでもある。性愛は古来より文学、芸術一般の永遠のテーマで表現出来た者が本物と言える。ピカソもダリもそれが多くのテーマだった。

 とうとう大阪万博が始まり、びっくりする程の人が動いた。縄文時代の生命力をテーマとした岡本太郎の像が中央にシンボルとして建った。一大イベントである。一夫の宿にも予想通りそれ以上に近くなって予約する団体を含め沢山の客が来た。怖い程の人の流れだった。会期間六カ月の間に六千万人もの人が動いたのである。一日多い時で三十万人以上の人が押し寄せた。大阪には五万人程のパイしかなく京都、滋賀、三重県を含めても十数万人で愛知県へも客が来た。日本中から客が来たので一泊では済まずついでに二泊三泊と近くの観光を楽しんだのである。万博が日本人の意識を変えたのかもしれない。仕事漬けの日本人が旅で楽しむことを覚えたのである。一番動いたのは農家だった。  農協が動いたのである。全国の農協は組合員の農家を集めバスや鉄道を貸し切り万博へと押し寄せ、帰りに伊勢や鳥羽等伊勢地区を含め関西地区へ山のように動いたのである。以来農協は何かある毎に会員を集め全国各地へ旅立つようになった。

 関西地区ばかりでなく東海地方の至る処の観光地へも人は流れ観光地を育てた。万博は日本の宿を育て観光地も育てたのである。まだ農協観光はなく各旅行業者が農協を動かしていった。万博は更にファーストフードの味を日本人に教えその後ファーストフードは定着しチェーン店を各地にオープンさせ、日本人にも完全に定着させていった。政志もデイトで万博に行き初めてフライドチキンを食べてその味を一生忘れなくなった。万博は日本の食さえも変えて行った。この頃から各フランチャイズの飲食店が出来始め全国展開するようになったのである。万博の目玉は宇宙から持って来た月の石だった。宇宙旅行も遠くないと思わせたのもこの頃だった。一夫の宿では団体が連日やって来た為いそがしい日々が続き従業員全員が疲れ果てる状態で人手不足が深刻な状態となり、一夫は人集めに奔走するようになった。借金は順調に返済出来た。里美はやって来る外人客の通訳兼フロントを手伝っていた。一度オーストラリアの青年と万博に行き帰れなくなって大阪で泊まると言って美代子に叱られ、当日帰名させられたことがあった。里美の英語は中学高校で南山学園での会話授業で慣らされていたし大学も英米科で流暢となっていた。南山学園ではすでに外人教師で会話を中学から教えていたのである。教育学習では南山の後輩の竹下景子を教えたりしていた。
 日本の産業は急速に発展していたが光と影が出始めた。公害が各地で問題化し始めたのである。四日市では喘息公害が出てひどい時は名古屋まで悪い空気が流れて来ていた。四日市の奥座敷湯の山は名古屋から適当な観光地でロープウエイで御在所頂上まで行けスキーを楽しむ事も出来るようになり政志もホテル湯の本へ泊りスキーを楽しんだことがあった。愛知県内では茶臼山の小さなスキー場しかなく伊吹山と並び名古屋からは手頃なスキー場でもあった。正月になると元旦に熱田神宮を詣で一夫の宿では従業員を連れバスをチャーターし伊勢神宮か豊川稲荷へ正月明けの暇な日に行くのが習慣だった。名古屋人の多くがそうしていた。おちょぼ稲荷へ毎月末に行くことがあった。おちょぼ稲荷は水商売の為の稲荷で縁起かつぎに詣でる名古屋人も多くなり帰りにはなまず料理を食べるのも風習だった。日々がせわしいので一夫夫婦にも従業員にも親睦が必要だったのである。

 政志は親とは無関係で恋人との愛欲に耽りジョルジュバタイユの本に凝っていた。まるで生活感がなく遊び呆けていたのだ。当時若者に流行した映画「明日に向って撃て」や「俺達に明日はない」や「イージーライダー」のように暮らしていた。新宿では百円寿司が売れ始め学生がバイトで働いていた。政志の頭の中はまるで迷宮の世界に入っていた。なかなか逃げ出せず無為に日々をなんとなく送っていた。政志は行き詰まっていた。彼を変えたのは恋人が妊娠し。子供を堕ろす事件があった事だ。彼に生活の当てがなく親も不安に思ったのだろう恋人と引き離され、無理やり堕ろされてしまった。彼にとっては屈辱だった。政志は学習院にもどったがそのまま仏文科の勉強を続ける気力を失っていた。ただ生活力をつけることばかりを考えるようになった。
 丁度その頃新宿騒乱事件が起きた。学生運動は激しさを増し行き尽く所まで行かねばならず機動隊との対決もいつかは最終決戦が行なわれなくてはならない状況だった。同級生の早川が革マルで参加した。早川は東京理科大学の学生で政志が紹介した学習院哲学科の桜井さんと同棲するようになっていた。早川は行動的な男で革マルでも先頭でゲバ棒を振るい戦う武闘派でもあった。彼は新宿騒乱の時も真先に参加しやはり先頭で機動隊に突っ込んで行き逮捕された。政志は別のグループで参加したが後ろの方に混じっていただけで行動隊とは言えなかった。その夜早川が帰って来ないのを心配した桜井さんが政志の下宿を訪れ一緒に探してくれと頼み、政志は早稲田大学まで二人で歩いて探しに行き早川は見つからず早朝まで探し回った。 結局早川が逮捕されているのを知りお互い分かれ、下宿にもどった。あれこれ行き詰まった政志は心をクリーンにしようと旅をすることにし下宿に住むようになった同級生の梶山と長野へ一旦行くことにした。梶山の従兄は長野市からバキュームカーで下処理の契約をしたり、パチンコ屋を経営する等していた。従兄は徳山氏と言い、後にかっぱ寿司の創業者となった人物だがまだその頃は新婚で梶山と政志はその奥さんの手料理を戴いた後やはり徳山さんの持つアパートに住み込み、パチンコ屋のアルバイトをする事になった。玉運びの仕事だった。まだ自動化しておらず手打ちの時代で玉が詰まるとガラスを叩いて店員が呼びつけられ、あわてて玉を運びチューリップにサービスの玉を入れる簡単な作業だった。
 アパートは寒くせんべい布団に二人くるまって寝た。二週間程で政志はそこを止め梶山と別れ上野から北海道へ向かった。学習院大学仏文科の同級生小山健を頼ったのである。東北本線に乗り青森駅で降りその夜は青森で一泊した。雪の舞う青森は歌の津軽海峡冬景色そのものだった。次の朝青函連絡船に乗り北海道へ渡った。汽車に乗り換え札幌へ向かう。列車ではストーブが焚かれ汽車から出るススが雪を汚していた。小山家は政志温かく迎えてくれた。小山の父母は国後からの帰国者で北方領土返還を願っていた。バイトはたぬき小路にある丸美百貨店の土産物売場の店員で木彫りの熊を観光客に売る仕事だった。店の前ではアイヌ人が木彫りの熊を実演で彫っていた。
 札幌は毎日雪で毎朝の雪おろしが大変だった。寝る時は大きな丹前のような布団で寝せてもらった。暖房はコークスで大きなコークスの貯蔵庫が室内にあり政志は北海道の暖房の良さにびっくりした。小山の家は月寒公園から近く休日には公園へ行き北狐の多さに驚いた。時々配送の車で荷物を札幌駅へ持って行き時計台等を見た。一月近く働いた時、政志は一夫夫婦が探しているのを丸美の社長に知られ連絡されたと知り、丸美を止め小山宅を後にし北海道旅行へ出掛けた。三月初旬で流氷のあるサロマ湖から釧路へ行き、港でびっちりと着氷した凹凸の激しい流氷がはるか彼方まで連なっているのに驚き、人っ子一人いない波止場で日本の広さを再認識した。汽車で網走へ迎いレーダーがソ連を向いているのを見て日本の軍備を思った。
 海岸には小さな小屋があり漁師がいそがしく働いていた。網走ではコロポックルの木像を買い実家への土産とした。再び青函連絡船に乗り本土へ戻り学習院の同級生平塚のいる天童へ向かった。平塚家も政志を優しく迎えてくれ、おいしい地の酒をいただき久しぶりに酔ってしまった。平塚家には校倉造の米倉があったり、トイレも四畳半はある和室に黒塗りの便器が置かれ、しかも小便器は藍色のすばらしい絵柄の陶器で平塚家の位の高さを推測させた。平塚の母が御飯を差し出す時いちいちお盆に載せて奉仕するのを見て昔ながらの古式ゆかしい接待に感動した。平塚家から少し山の方へ歩いて行くと更に雪深い山村が表れ、雪囲いのあるかやぶきの東北風の家が点々と連なり別の空間に来たようでまるで昔話しの世界に入り込んだ気持ちになった。その村には平塚の高校の同級生がおり伺ったがゲーテやシラーの著作があり明治期の文学青年のような風情に時間がもどった気になった。
 雪深い東北の文学はこうして生まれるんだと再認識し畑焼きの幻想的な景色を見ながら平塚家へもどった。次の日山寺へ行き芭蕉の「山寺や岩にしみ入る蝉の声」の碑等を実際に見て句のそのままの奇岩に驚き芭蕉の野ざらし紀行のすばらしさを再認識し東北旅行の意味を深く思い新しい出会いに旅の深さを噛みしめた。東北旅行の終りに湯治場へ行きたく思い平塚にどこか良い処はないかと聞くと銀山温泉がひなびていて良いと聞いたのでバスで雪深い道を頬が真っ赤なバスガイドのしゃべりを小鳥のさえずりのように聞きながら行った。
 バスから見える角巻の女性達が東北地方の細雪に美しく映って見えた。銀山温泉は頂上にスキー場があり山から流れる雪解け水が川をつくり、川の対面に連なる木造の建物が湯治場だった。中の木造三階建ての藤屋旅館に政志は一泊二食三千円の部屋を頼んだ。部屋は粗末で火鉢が一つあった。普通の宿泊客は湯治の為来る客が多く自炊し何泊も泊まるので一泊八百円位で泊まる形となっていた。風呂は政志の家の男風呂と同じ位で五、六人用だった。湯は暖まり湯冷めせず石鹸も必要ない様だった。政志が風呂に入った時は誰も入っておらずのんびり体を伸ばすことが出来た。政志の家出旅行は終わり一度秋田まで出て汽車で上野まで帰り新幹線に乗り換えて名古屋へもどった。

 美代子は行方不明の息子を案じ足止めの祈願をおちょぼ稲荷にしていた。不思議とおちょぼ稲荷の足止めの願は効き、政志はその通り名古屋へ足が向いた。政志が旅に出る時姉の里美が三万円の交通費だけは用意してくれた。三万円を足代に使い残りはバイト代で生活していた。それで十分やっていけ政志は、少しは生活力が付き毎日腕立て伏せと腹筋運動を欠かさなかったので体力もついた自分を感じていた。本の虫で生活力の無さを恥じていた政志は友人達の家族に迷惑を掛けたものの、なんとか何でもやっていける自信が湧いていた。一夫は帰って来た息子に怒る気にもなれずよく帰って来たなと精一杯の嫌味を言っただけだった。
 世の中じゅうが荒れていた。とくに学生運動が盛んで授業を休講する大学も多く何処に日本が向かうか分からない状態だった。一夫はぶれず忙しい宿の将来ばかりを考えていた。その頃世代間で考える事に大きな隔たりがあった。一夫世代は仕事人間で仕事が生き甲斐で政志の世代の意識が全く分からなかった。学生運動は社会にはずれた駄目な学生達がするものと思っていた。政志達の世代は甘えの世代でもあった。親の稼ぐ金を当てにし遊びまくるか学生運動に走るかいずれにしても駄目な世代で、いずれ日本は滅びて行くと一夫の世代は政志の世代を危惧していた。
 実際、一夫の世代は戦争が終わってからは休みもなく仕事漬けで仕事が生活のすべてで仕事が本能にまで高まり金を得ようとしないことは信じられない事で否定すべき事だった。高等小学校で学生は終わり十代半ばで冷たい世間の荒波にさらされ戦争にまで狩り出された一夫にはのうのうと育ち大学まで親の金で行く等許せない事でもあった。ただ学歴のない自分達の世代のつらさを十二分に分っておりせめて息子達にはと考えたのが息子世代にはかえって重荷でもっと自由にと反撥しがちの世代だった。当然一夫の世代は学生運動等思いもつかなかったのである。一夫は息子の政志の行動は自分の考えでは考えも及ばなかった。どう政志を指導していいか一夫は煩悶していた。美代子も、おちょぼ稲荷の足止めで政志は帰って来たものの息子が理解出来なかった。
 政志は大学生活を再びしようとしていたが中退し半ば大学生活の方向性を失っていた。李賀が進士に落ち洛陽で博打にふけったように人生サイコロふってのと麻雀にこってしまった。大学と雀荘の間を通っている日々を送っていた。浅田哲夫と目白駅でよく出くわした。女性を待っていた。その女性が一度雀荘にやって来て政志はお手合わせしたことがある。わずか三巡で女性は大三元を上った。みごとな業だった。政志はお見それしましたと麻雀を切り上げた。その頃三島由紀夫が市ヶ谷で切腹した。政志は三島が時代錯誤と完全否定した。三島の書いた葉隠れの解説では人生好きなことをするのが良いと断定していたではないか切腹するのが三島の好きな事だったんだと思った。丁度経済科の牟田口と真鍋呉夫の家へ遊びに行っている時、真鍋氏にも三島の死をどう思うかと聞かれ同様に答えた。真鍋氏は三島よりで三島の死は意味のある事としたかったようだ。
 政志はこれ以上文学を続けるとよくない結果しかないと思うようになり、菅の三軒茶屋の下宿に泊まり二週間永井荷風の全集を読みふけった。荷風が何かヒントを与えてくれるかもしれないと思ったからである。荷風が何故アメリカ物語やフランス物語の頃の社会派を捨て大逆事件以後雨潚潚を書き巷のもの書きに変じたのか興味があったからである。荷風の流転は見事だった。政志は影響され自分も巷の現実や生活に生きようと考え始め、大学を止めようと決心した。
 政志は一夫に電話し宿を継ぎたいと申し出た。一夫は政志の心を読みかねたがとりあえず上京し政志に会ってみることにした。政志は勉強し始めたモーリスブランショやE・フロムの本を処分し文学から完全に離れようと決心した。彼はまず宿泊業界の事を知ろうと考えビジネスホテルの雄、法華倶楽部を試してみようと考えた。一夫も法華倶楽部の事は一度研修した事があり知っていた。政志は上野池の端にある東京店で面接を受け仮採用され次に京都駅前にある本店で性格テスト知能テストを受け合格し採用された。その頃法華倶楽部は九州地区に展開しており新しく出来た鹿児島店でもいいかと聞かれ了承し、中途採用ながら七月から働くことになった。
 汽車で鹿児島に着き一泊宿に泊ってから翌朝天文館近く山口町にある法華倶楽部鹿児島店へ行き十階にあるレストランで働くことになった。そこからは桜島が前面に広がり見ることが出来た。寮や風呂は七階にあり住み込みで働くことになった。従業員食堂も同じ階にあり便利だった。寮は蚕棚で二段ベッドが一室に三つあり六人の共同生活だった。今までの自由な生活とは違い不自由だったが人生をやり直すつもりで我慢することにした。ただ苦労したのは飛び交う薩摩弁だった。外国のようでいつも叱られているようだった。調理場で働くコックは鹿児島市内の人間ではなく地方出で言葉が余計なまっていたのだろう。
 それにも三カ月程で慣れた。鹿児島の気風は政志には合っており、鹿児島が第二の故里のように思うようになっていった。東京は砂漠のように虚ろでけっして故里とは思えなかった。鹿児島は名古屋よりも政志には合っていた。慣れてくると皆優しく接してくれた。従業員食堂のおばちゃんは特に人間味あふれひどいなまりだったが政志には優しかった。同じ寮には鹿児島大学へ通う伊集院がおり特に気が合った。剣道をやっており私塾から学費や生活費を援助してもらい塾長の言いつけは絶対と言っていた。市内には温泉が至る所にありホテルの近くにもありよく行ったが刺青の若衆が沢山いてみごとさに政志は息を飲んだ。
 レストランから見る桜島は時間と共に七色に色を変え陽が当たると美しく輝き見事で政志は休みがあると乗船券十円を払い渡った。生活に必要な為そんなに安価だった。桜島に渡ると溶岩道路を歩いて赤池港まで行き休息した。休日の時には島一周を歩きぐるっと海 岸に添って歩き一周した。溶岩は削られて売られ軽石や何かに利用されるようでクレーン車がいつも動いていた。政志は三カ月程で寮を引き揚げ、城山の麓にある下宿へと移った。下宿から城山まで十分程で行けるので散歩道となり毎朝登るようになった。城山には西郷隆盛が最後隠れた洞があり歴史を感じさせた。城山を少し下りた坂に介錯された地があり西郷軍の最後の戦いがまざまざと浮んだ。城山からは市内が一望出来、しかも錦江湾を隔てて桜島が望めた。桜島が鹿児島人の誇りであり依り所という事がよく分かった。
 街の中にはザビエル教会も見えフランシスコザビエルの布教が鹿児島から広がったことが理解出来感慨深かった。レストランではウエイターのサービスを主任の坊垣さんから教えてもらった。まだ鹿児島では珍しいフルコースのメニューがあり覚えると共に、郷土料理の薩摩揚げやきびなご豚の角煮等も覚えた。伊集院と共に鹿児島大学で講義を受けたり城山観光ホテルの釣堀でマスを釣り料理してもらって食べたりした。天文館では昼休みにジャズ喫茶に行きジャズを聞きながら本を読んだ。鹿児島はラサールがあるせいか文化的だった。名古屋よりはるかに文化があふれていた。島津家の別邸磯公園にもたまに行った。 
 磯公園は浜辺にあり薩摩ビンカラや芭蕉布の工場跡地等があり幕末の殖産興業の思いを偲ぶことが出来た。海ではパラセーリングをする若者達がいた。鶴丸城にもよく行った。人は、城で本丸がなく城壁も低く堀もないのも同じで開放的で攻め易い城で西南戦争の傷がそこかしこに残っていた。城の近くには木曽三川で切腹した藩士達の碑もあった。島津の徳川に対する考え方や逆に徳川の接し方も分かり鶴丸城は興味深かった。政志の下宿の近くに家老平田篤胤の家が残っており粗末な木造建築にも平田なりの人物像が浮かんだ。
薩摩の家は少し高床式になっていて名古屋との違いを感じた。市内の川には石造りの橋が幾つもあり明治の建築技術の高さが想像出来た。政志は鹿児島市内を歩く度にいろいろ興味が湧き歴史が偲ばれた。レストランにはよく外国人が来て政志が通訳がわりに接客した。ほとんどのスタッフは英語が話せなかった。

 政志が鹿児島に馴染み始めた頃、名古屋では里美が南山大学の同級生で軽音楽部をやっていた男と恋愛し美代子が結婚に反対したことから家出する事件を起こしていた。それを聞いた政志は急遽名古屋へ帰り岐阜へ姉を探しに行った。二人の住むマンションは住所も分からないのに何故か政志はすぐ分かった。導かれるようにそのマンションに行ったのである。姉弟には不思議に呼び合うものがあり東京でも偶然上京した里美に国電でばったり会うこともあった。政志は里美と二言三言話すと名古屋へ帰り一夫や美代子に報告した。一夫は二人を一緒にしなければ仕方ないなと思うようになっていた。里美の既成事実を受け入れたのである。

 政志は姉が手伝わなくなった宿を考え、早く帰ろうと決心した。鹿児島へ帰ると島へ一度行ってみたくなり休日の日に波止場から東シナ海を渡り奄美へ行く船に乗った。平家物語で有名な鬼界ヶ島へ一度行ってみたくなったのだ。鬼界ヶ島へは十六時間荒波を渡って行かねばならない。行き交う船は波に埋もれ、時折先端が見える程のすさまじい荒れた海だった。慣れたものでその船の中で平気で食事をする島の人達がいた。政志は船酔いでとても食事が通る所ではなく横になりこみ上げるものを圧さえる他なかった。
 鬼界ヶ島へやっと着くと珊瑚だらけの島で背の低い樹木が海岸以外の地をおおっていた。骨のようなくだけた珊瑚と羊の骨が散らばる海岸は澄んだ青い空と海とまるで青と白だけの空間にいる気にさせた。日常を忘れさせるには十分な大気を吸い、政志は太古を思わずにはいられなかった。民宿で一泊し翌日急遽出ることになった鹿児島行きの船に乗った。行きとは違い帰りの海は穏やかで陽射しも暖かく島人の蛇味線を引く音が心良く響き、政志は以前祖先がこの海を渡って来たに違いないと確信した。祖先から受け継いだかすかな記憶が蘇えって帰って来たと思わせたのだ。あるいは一夫の海軍時代の水夫だった頃の記憶だったかもしれない。一夫はこの海を何度も行き来したに違いないから。政志はこの海の荒れや凪ぎが慣れたものに思えてしょうがなかった。蒼穹も見慣れたものだったのだ。

 鹿児島へもどった政志は早く名古屋へ帰ろうと思い店長にその旨を伝えた。店長は事情を理解し承諾してくれた。鹿児島は名残りおしかったが最後に天文館にあるジャズ喫茶を訪れた。政志が好きだったコルトレーンやオーティスレディングは若くして死んでいたし悼む気もありコルトレーンのスケッチオブスペインを聞いた。桜島ともお別れだった。毎日見ていた七色に変幻する山も噴煙も見れないかと思うと寂しかった。政志は故郷を離れるような気がした。東京を離れる時はそんな気はせず鹿児島には特別な思いが残った。鹿児島の女性に桜島は貴方にはもったいないと言われた事があったが真に鹿児島人が桜島を愛し誇りに思っているか思い知らされたことがあり、かごんまの気持が良く解った。惜別の念を残し政志は電車に乗った。子供時代からの袂別でもあった。いろんな思いを乗せ電車はゆっくり名古屋へ向かった。
 無論不安はあったがやってやるという力強いものが政志を動かせていた。名古屋駅は以前のまま特に駅西は昔より少し寂れているように感じた。政志を一夫は優しく迎い入れた。フロントに東京から従姉の土屋千穂子が手伝いに来ていた。姉の里美も結婚まで岐阜から呼びもどされフロントでやはり仕事をしていた。調理場は坪井が板長となっていた。政志は何よりも一夫に連いて行こうと考え一図に一夫の真似をしようと考えた。一夫は何も教えなかったが見様見まねで覚えることにした。宿は日本旅行社の名古屋駅内案内所と国鉄と旅館組合が出した国鉄OBが働く国鉄案内所からの送客が多かった。毎日挨拶に行くことになっていた。日本旅行会の案内所には冷房がなく毎日車で二貫目の氷を大気を冷やすために持っていく仕事があった。 氷は駅西銀座通りの所商店という氷製造所で買った。政志はフロントの仕事はすぐ覚えたが毎晩の精算は計算機もない時代でソロバンを使い二時間程かけ計算した。終ると十二時近くになり夜食を取りに駅西銀座通りにある徹夜食堂へ行った。徹夜食堂は昼はやっておらず午後四時から明朝まで営業していた。体格の良い大将と競馬好きの三ちゃんという若い男の人が調理をし大将の奥さんがウエイトレスをしていた。いずれのメニューも安価で量も多く独特なサラダが美味しかった。客層は駅西のこと良くはなく土方や立ちんぼうも来たが庶民的でどんな人も受け入れていた。
 駅西銀座通りには魚半というきしめん亭があり竹内八百屋を曲った所に三河屋という丼と麺を商う店があり隣にお好み屋もあった。いずれも味が良く人気店だった。三河屋は政志の幼い頃からあり、よくカツ丼や志の田うどんを食べた。お好み屋には美人姉妹がいて特に名古屋名物のどて煮が旨く姉妹目当ての客でにぎわっていた。又コーヒー屋としては鬼頭不動産の隣の京屋があり注文はいつも京屋だった。京屋は小粋な女将が一人でやっていてどうも二号さんのようだった。京屋の隣に吉田屋魚店があり宿の鮮魚を仕入れていた。野菜関係は竹内商店、酒は酒津屋、米屋は則武米屋と皆銀座通りか近くにある商店ばかりだった。竹内商店の大将は美人妻と共に働きゴルフにこっていた。酒津屋の大将はいかにも苦労人といった風でいつも酒屋の大きくて丈夫な布地のまいかけをし重い酒六本入りの木箱やビールケースを運んでいた。吉田屋の大将は朝早くから仕入れをし魚を見る目が確かで働き者で遊びに株で儲けているようだった。一夫は近くの商店を大事にする事で宿の評判も上がると近くの商店を可愛がっていた。一夫は苦労人で又苦労人の商売人が好きだった。一夫は協調性があり美代子は感性でものを考える方でいつも食い違ったが一夫が折れることでいつもバランスを取っていた。美代子は買い物好きで名鉄デパートの外商カードを持ち里美を連れよく買い物に名鉄へ行った。すでに婚礼道具を集め始めていたのだ。
 一夫と美代子は名古屋式の派手な婚礼を考え着物は箪笥一杯にと注文し始めた。名古屋は買い揃えた着物を披露する風習があり広間一杯に飾ろうと美代子は考えていた。一夫は里美を精一杯送り出そうとお金は惜しまなかった。家具一式は美代子の親戚筋の牛田家具店で買うことにしていた。他に茶道具も陶器は加藤作助のものを漆器類は六句の祖父江商店でと決めていた。一夫は出来るだけ多く里美に持たせ送り出すことが仕事を手伝ってくれた里美に対する感謝と思っていた。美代子は自分が出来なかった分だけ余計にと考えていた。婚礼は両家の見栄の見せ場であり美代子は負けたくなかった。美代子の好きな歌舞伎の役者のように大見栄を切りたかったのだ。美代子は家紋入りの式布や天幕も用意し婚礼に備えた。
 一夫夫婦の結婚式は戦時中でもあり極々簡単なものだった。あれから三十年も経ってないのに娘には豪華な婚礼をしてやれるその満足感があった。自分の時は山口県三田尻にある海軍官舎で出席者は十人足らず、酒は水筒に入れ三三九度もやった。料理も隣の奥さんが作ってくれた有り合わせのものだった。婚礼は岐阜市の長良川添いの都ホテルで出席者百人を超える盛大なものだ。時の流れを感じた。無論日本の平和と繁栄があってのことだ。自分達夫婦も戦後休みもなくガンバッテ今日がある。仲介人に日本旅行会の所長今井氏に頼んだ。何処か手落ちがないかまだ不安だった。完璧に婚礼をしたかったのだ。大阪万博の助けもあり経済的にも十分だ。出来る限りの事として娘を送り出したい。美代子も同じ考えだった。

 政志は姉の結婚には反対ではなかった。ただ幼児の頃から相談相手でもあり何かと頼ることが多かったので淋しさが手伝いしっかりしなければ、との思いが強かった。丁度同じ頃東京から手伝いに来た従姉の千穂子と一夫の希望もあり調理長の坪井との縁談が決まりつつあった。 一夫は坪井を一族に取り入れることでとかく不安がつきまとう板場を従属したいと考えていたのだ。千穂子の婚礼も決まった。一夫も美代子も血の結びつきが結束には一番と考えていた。当時の考え方は富める者が貧しい一族の面倒を見て一族を栄えさせていくという昔ながらの考え方が一般だった。特に農家はまだ貧しく都市部との差が増し都市で成功した者は故郷の農家出身者の面倒を見るのが通常だった。坪井は付知の農家の二男坊だった。地元の高校を出ると板場世界に飛び込み腕を磨いていた。日頃から物覚えが良くセンスがある事から早く一本立ちし一夫の下で板長になった。千穂子は東京が嫌になり叔父を頼って名古屋へ来て一夫の宿で仕事をするようになり坪井を知った。一夫は東京にいる妹の面倒を見てやってという願いを受け、千穂子を坪井と一緒にさせることが万事うまくいくと考えていたのだ。東京の妹の夫は陸軍で知り合った戦友達と興した会社がうまく軌道に乗り成功したが暮らしは質素で貯財に努めていた。千穂子には弟の徹がいて二人姉弟だった。一夫のすぐ下の妹の子である姪の千穂子がやはり可愛かった。
 政志は従姉の千穂子の事は子供の頃から知っており親しみがあったが坪井の事は短気で板場気質の自分とは少し違う世界で育った人物だと思っていた。二人の結婚には賛成していた。里美と千穂子は同じ年、坪井は一才年上、千穂子の弟の徹と政志は同じ年、とにかくこの世代の人間は多かった。学校はすし詰め受験も戦争状態、結婚も同時期とすべて勝ち残りゲームの中で生きなければならない世代だった。この頃の女は二十五歳までに結婚しないと婚期に遅れると言われていた。男は二十八歳頃までにそれが常識的で大体男も女もそうなりなんとかカップルが出来ていた。

 里美の結婚の日がやって来た。一夫は岐阜市内の地図をくまなく見て嫁ぎ先の教材屋を営む小幡家が何処にあるか調べ、荷物がもどることなくちゃんと行けるように地図の上に赤で線を入れ牛田家具店に渡した。嫁を送る時に投げる餅やお菓子の詰め合わせは二百個用意した。二階の窓から投げる為である。結婚式当日は晴れていた。まず玄関に九曜星の入った天幕を張り里美は花嫁衣裳で近所回りに挨拶に行った。白無垢が青空に映え余計真っ白に見えた。一夫はとうとうやって来たこの日を万全にやろうと心を引き締めた。牛田家具のトラック二台が紅白の幕で飾られ岐阜へ出発した。お祝いの菓子や餅を二階から投げ終った一夫達夫婦と政志や保夫も自家用車で岐阜へ出発した。
 くれぐれもギア―をバックに入れないよう縁起を担いだ車は一直線に進んだ。都ホテルは長良川添いの風光明美な場所にある。金華山も眺められ岐阜城が頂上に立っている。信長ゆかりの名城である。岐阜市内には岐阜提灯を売る店等があり政志は京都の町に似ているなと思った。披露宴は二階のバンケットルームで挙行された。参加者は両家から六十人ずつを越え百数十人という盛大さだった。政志は婚約者を共なった。披露宴は順序だって行なわれるようになっていた。一夫は随分演出も進化したな、随分派手になったものだと感慨をもってじっと見詰めていた。里美の晴れ姿は涙があふれるので余り見ないようにしていた。美代子は食い入るように娘の衣裳を見詰めていた。政志は宴の途中キャンドルサービスで姉が近くに来ると涙が止まらなくなった。里美も政志の涙を見ると自身も泣き始めた。政志は姉との思い出が駆け巡って涙が出てしょうがなかった。姉からは幼児の頃から病弱だった美代子に替りいろいろ世話を受けた。小学校の時かばってもらった事、自転車で合乗りして交差点でオートバイに当てられ政志が吹き飛ばされ脳振盪で一瞬気を失い二人でとぼとぼ自転車を引き摺り帰った事。中学高校での事等いつも里美に庇われて育った事等が思い出されたのである。小幡家の父親は八の字のひげを生やした頑固そうな義父に見え一夫は一瞬不安に襲われた。一夫はなんといっても里美を包んで育てて来た。
 果して娘は耐えられるだろうか、自分が娘の決意に負け結婚を許したのは間違いではなかったかと思ったのだ。しかしどの家族でも娘を嫁がせる時は覚悟が要る。後は小幡家に任せるしかないと思い直した。里美の新婚旅行はグァムへ行った。長良川を三十分程上った新しい住宅地に新居を構えた。こうして二人の生活が始まった。政志は婚約者との婚礼を進めていた。婚約者との交際はすでに六年経っていた。六年の間にいろいろな事件があった。長過ぎた春である。
 なかなか婚約者の親の許しは当然得られなかった。政志は大学を中退し何も決め手がなかった。生活力もなく仕事も学歴もない男に誰が大事な一人娘をやれるもんか、顔を出直して来いと婚約者の両親から思われていた。婚約者の名前は加藤房子と言った。房子は市川房江の房から取って父親がつけたものである。父親は社会党の党員で市川房江を真から尊敬していたからである。彼はダンディズムの塊のような男だった。職業は税理士で仕事は事務員にやらせ自分は政治家の面倒を見たり芸術家と交わったりといそがしくしていた。
 無類の本好きでもあり作家の初版本や豆本を集めたり好きな作家の全集を買い集めたりして本棚は一杯だった。彼は散財家でもあった。国際ホテルに巣くい名古屋では珍しくホテルを社交場に使い錦のクラブへ通う紳士だった。粋な彼の性格が政志を受け入れる許容を与えていて結婚が許された。何を考えているか分からない所がある政志にかすかな希望を持ったのかもしれない。又彼が経営する経理事務所は顧問先が多く収入があり彼に散財する金銭的ゆとりを与えていた。彼はブランド思考が強くネクタイや靴はイタリアの製品背広やコートはイギリス製、カバンはフランスのオートクチュールとダンディの極みだった。
 政志が初めて彼に会ったのも国際ホテルの源氏というバーだった。それには里美も同席した。すでに彼はウイスキーのロックを何杯か飲んでいた。酒に酔わなければこういう席に出られない恥ずかしがりの性格で錦のクラブでスコッチをあおって来たのだった。房子は名鉄百貨店の特選売場に勤めていた。その職場も父親が決めたものだった。父親と違い母親は地味な人で県二から三井物産に勤めた経歴があるにもかかわらず表には出たがらず夫を立て気性は動じない風だった。房子はなんと言っても一人娘の自由気ままな部分がありお嬢様だった。房子の両親の姓の加藤は母方のものだった。父親は奈良県にある十津川村が山嵐で二千人余り死んだ時北海道に新十津川村を作った郷土の子孫で貧しく育ち、中央大学時代結核を病み五年余り日赤で療養し軍隊にも入らずに済み戦後もなかなか食べる所までは生活力がなかったが貴族院議員をしたことのある叔父の勧めで加藤家に養子に入ったのだった。加藤家は元は岩手の黒沢尻で家老をしていた家系でその子孫は気位が高かった。両親とも大正生まれにしては背が高く、父親は痩身母親はがっちりした躰をしていた。
 政志は身の程知らずの部分があり加藤家の一人娘と結婚しようとしたのである。房子の父親は自分と同じように養子にして行く行くは税理事務所の跡継ぎにすればいいと考えていた。政志はそうとは知らず三年間はとにかく一夫に連いて仕事を覚えようとしていた。とにかく今までの人生を一度精算しようと考え他事は考えず仕事に没頭しようと考えたのである。
結婚式も披露宴も国際ホテルで挙行した。披露宴は両家でバランスを取る為各八十人ずつの百六十人で行なわれた。加藤家は社会党の政治家が多く芸術家も同席した。すべて加藤家の父親の関係だ。仲介人には地元の市会議員の近藤昭夫氏に頼んだ。加藤家の父親が面倒見て育てた政治家で一夫の宿へ組合関係でよく来る客でもあった。父親に育てられた政治家は多く顔も効いた芸術関係は友人達だった。政志の方は親戚筋や商売関係が多く学習院の友人も呼んだ。政志には貯えがなくすべて親頼りだった。一夫は喜び続きだったが出費も多く大変だったが景気がいいので何とか乗り切り安堵していた。政志は精神的に借金だらけだった。今までの人生は金を稼ぐ技も知らずすべて親がかりで精神的に親に頼ったことが重荷だった。まずその借りを返すことが大切と考えた。政志と房子の結婚は何とか済み、新婚旅行は京都奈良へ行った。京都は大原にある日本旅館に泊まり奈良は鹿が遊びに訪れる奈良ホテルに泊まった。奈良ホテルは木造だったが印象に残る建物だった。夕食は興福寺近くの公園内にあるお茶屋で食べた。提供された器は赤膚焼で地元の陶器で奈良の伝統を感じた。京都奈良は何度か来たことがあったが何故か新鮮に感じられた。四月初旬で春爛漫だった。
 秋に二人の間に奈々子が生まれた。里美にも篤志が生まれた。一夫はまだ四十代後半で孫が出来喜んだ。美代子も同様に喜び出産直後の奈々子の生まれた日赤に駆け付けて行った。奈々子は丸々とした元気な子だった。岐阜で生まれた篤志は逆子で心配したが背の高い男の子だった。一夫の宿は順調だった。国鉄には松浦商店が弁当を独占していたが、だるま寿司が割って入っていた。だるま寿司は国鉄に入り込むのに二千万円使ったと聞いていた。名古屋駅内の南側に食堂街が出来政志は時々きしめん屋に食べに行った。駅西にはビジネスホテルが建ち始めた。富士ホテルやステーションホテル、スター名古屋である。広小路の東側にも何軒かのビジネスホテルが出来た。一夫が公旅連で一緒の榊原さんは日本旅館を壊し、半分マンションで半分はビジネスホテルと言うマンション業者と組んで名古屋ライオンズホテルを建てた。日本旅館が都市部ではビジネスホテルに変わる激しい波は止まらなく押し寄せるようになった。
政志は旅館組合の下部組織の青年部に入った。青年部は名古屋だけで五十名位中村支部だけで二十余名いた。青年部には覚王山にある井善や井清寿といった宿泊は名目だけで高級料亭の子息もいた。その他宿泊は形だけで料亭が本業なのは市内に多く千種の春日荘や栄の翠芳園がありいずれも県庁や市の接待に使う事が多かった。まだ県内にある旅館の若い経営者を束ねる力はなく名古屋市のみの動きだった。政志は中村区の青年部員から麻雀に誘われることが多く紫水さんや大観荘さんと共に熱田の乙部さんや千種の村瀬さんと雀卓を囲んだ。政志がゴルフを教わったのは青年部で参加してからだった。青年部活動が名古屋市内から愛知県全体に広がったのは神谷会長が桜の季節に産業貿易館でホテル旅館近代化設備展を開くようになり県内から組合員が集まるようになり、青年部がその手伝いをするようになり県単位で考えるようになってからだ。組合員は千人を数え宿泊業飲食業共に上向きで設備を近代化することは重要だった。神谷会長の尽力もあり三河地区や知多地区の旅館が力を合わせるようになり設備展にはバスで来る地区もあった。
 旅館組合が組合員から出資金を集め東京に旅館会館を造り全国総会が東京で行なわれるようになった。まだ青年部は名古屋の会員の親睦で集る場合が多く、なにかと集り会議が終ると大体雀卓を囲んだ。新年会は覚王山の井善でやるのが常で新年会が終ると場所は替えずにそのまま麻雀をやった。井善さんは門からいかにも高級料亭らしく数寄屋造りで内には長い廊下があり途中に待ち屋があり日本庭園を眺めながら一休みすることが出来る形だった。木造建築の二階の広間で宴会は行なわれ青年部は会費一万円と奉仕料金で飲みもの付きで日本料理を味わうことが出来た。オーナーの村瀬さんの腕にはスイスの高級時計、着る物も高級オーダー品といかにも料理屋の旦那という風情だった。いろんな団体から名古屋で大会を開きたいと組合に要望があった時は千名単位で来た時は中村支部が請け負い各旅館に分け振った。大門地区で千名位の収容があり一夫の旅館もそれに部屋を提供した。 各種のスポーツ大会も都市で持ち回りが多く何年に一度は必ず名古屋へ来て大切な客であった。しかし大門の旅館街は遊郭時代と同じで古く客の要望にそぐわない場合が多く段々とビジネスホテルに客を取られ宿泊業界ではやっていけない状態が明らかになった。又経営者の不幸もあり転廃業が続くようになった。
 中区錦地区ではワシントンホテルが宿泊施設ではなく飲食テナントビル展開し始め錦はいろいろな業態で彩られた。名古屋駅前に旧交通公社ビル等を壊しターミナルホテルを建設することが決まり大店舗に旅館組合は反対運動を起こし一夫も積極的に反対に参加したが結局国鉄が資本を出したターミナルホテルが出来ることになった。もう都市部でのホテル建築ラッシュの波は止められず多くの旅館は消えて行く運命を辿った。中支部長の大口さんも日本旅館を壊し名古屋プラザホテルを錦三に建てビルの一階にはクラブが出来た。
 一夫も迷い始めた。このまま日本旅館としてやって行けるかどうか不安がよぎった。今は利益が上がっているのだが将来はどうなるのだろう、そう思った。だから息子の政志も法華倶楽部へ入社させたのだ。ビジネスホテルは立地が一番だ。駅に近い方が有利に決まっている。
一夫の宿は駅から五百メートルと至近ではなく言わば中途半端な位置にある。果してビジネスホテルに転業してもやってゆけるだろうか、不安は尽きなかった。政志が帰名して結婚もした。将来を思うとホテルの波に旅館は勝てないに決まっている。駅裏にあると言うギャップを払い名古屋でも一番流行る宿にして来た自負もある。商売は地のりだけではなく情熱が一番何にも増して有効じゃないか、宴会はどうする。一夫の将来不安は深かった。美代子はいつもの営業は怠らなかった。国鉄の中に入り込み挨拶したが、国鉄も少し変わりつつあった。国鉄の抱える負債は大きく変わらざるを得ない処まで来ていたのだ。管理職の締めつけが厳しくなっていた。象徴的な事件が起きた。旅客のセンター長が新任の東大出の課長にさぼっている事を咎められ反抗した所、首を切られ名鉄観光へ行くという事件だった。国鉄は組合の活動に手を焼き、サービスの悪さは顕著でまるっきり方向性を失くしていた。東大出の一部の役員が権力を持ち下まで命令が届かない血の流れの悪い組織になっていた。
 一夫の近くでも事件が起きた。一夫の宿の隣の宿が国鉄案内所の職員にワイロを渡しそれが露呈し無期限送客停止になる事件だった。国鉄には国鉄指名の業者がおり利益を上げていたが職員との癒着が多く問題だった。ワイロの横行は常套化し国鉄OBが窓口を担当する案内所まで汚されていたのだった。事件は一夫が骨を折り神谷氏と話を付け隣の宿は許された。

 政志と房子の結婚生活は最初うまくはいかなかった。政志は房子の実家には余り行かず義父母はそれを不満に思っていたし、美代子はお嬢さん育ちで気の付かない房子が気に食わなかったからである。嫁と姑の問題で政志はおもしろくなくなりなるべく暇な時は営業で外に出るようにしていた。営業は面白く旅館で飛び込みセールスをする店は珍しく営業で客を取れたからである。政志は大型免許を取り三菱ローザの中古のマイクロバスを買い送迎するようにした。 中村区には三菱重工の岩塚支店があり挨拶に行くと菱重興産の部長が提携してくれ工場の忘年会を送客してくれた。三菱は枇杷島にもあり送客してくれた。政志は中村区の主な工場や会社をセールスし客を取るよう努力し客も付いた。又旅行業者も歩き送客を頼んで歩いた。地方の旅行業者も尋ねて歩いた。彼は一夫夫婦が参入してなかった農協観光を協定してもらった。又伸びつつあったトヨタの専用旅行業者であった碧海観光や名邦旅行にも入り込みトヨタをお客にした。彼は地方に目を付け客の多い長野や兵庫県の旅行業者へ歩き送客してもらうようにした。旅好きの政志は旅をしながら営業出来る事に喜びを感じていた。嫁や姑の煩わしさや雑事はそれで解消出来た。奈々子の次に二年後次女の明子が生まれた。

 里美にも次男の匡志が出来た。一夫は次々と生まれる孫に嬉しかった。名古屋は東へ東へと都市化していたが駅前の千代田旅館が名東区で買っておいた土地が約千倍で売れ全国の長者番付で八位になった。本当に山の中だったのが造成され住宅地となった。その地域はオーナーの名を取って千代が丘と名付けられた。ちなみに七位は長者町土屋直三で千代田の所有地の隣地だった。千代田は納屋橋にビジネスホテルを造ったり栄にも千代田ハウスを建てたり千代が丘に神戸牛の店を造ったり、事業展開を多角化させた。
 その頃から日本の土地のバブル景気が始まり土地が急上昇して行った。首相の田中角栄が日本列島改造論を発表し益々輪をかけて行った。千代田は手に入った資金にものを言わせ駅前の旅館を壊し神戸屋という洋食の店と和食の店の入ったビルを建てた。この頃から都市部特に東京の地価が上がり銀座の中心部一坪一億円になった。土地成金も数多く生まれた。江戸から続く日本人の地味な生き方や価値観が変わり始め翻弄され始める。田中首相は日中国交を始め戦前のように中国が日本と近い国になった。田中首相はアメリカ越しに日中国交をした為アメリカからロッキード事件で失脚することになる。中国旅行も解禁となり、一夫と美代子は国民服が一般の中国旅行をし現地の中国人に好奇あふれる目で見られた。
 名古屋と中国南京市が姉妹提携しセントラルパークに記念モニュメントが建てられ名古屋も中国とより近いものになった。中国の友好には地元の市会議員近藤昭夫や焼鳥のさんわが尽力した。近藤昭夫は青松葉事件の碑の再建にも力を入れて骨を折り一端二の丸にその碑は建てられた。県体育館が名古屋大学の寮跡城の南側に出来、スポーツの殿堂となり大相撲が毎年開催されるようになった。戦前日本の貿易額は対中国が一番で一時途絶えていたが再び貿易が再開したことにより再び日中貿易が盛んになっていった。パンダが上野動物園にやって来て人気を集め替りに中国の留学生や修学生が沢山やって来るようになった。日本の産業は外国の下請企業に頼るようになっていたが特に繊維業界は初め韓国から次に台湾へ移り安価な製品を大量に仕入れ物価も下がったが、日本の生産工場を衰退させるようになっていた。繊維から始まった生産の外国依存は他の産業にも波及しスーパーや専門商社が安売り合戦をし庶民もそこに走ったことから各地の商店も商店街も衰え始める。
 外食産業もファーストフードが普及し全国チェーンが出来、ラーメンや回転寿司等一つの商品で勝負するチェーン店も出来、店舗を増やし地元の食堂や寿司店は苦しくなって行った。牛丼のよしの屋もこの頃出来た。旅館業界は千人収容の旅館が各温泉場に出来、客もその旅館に行ったことから収容五十名程の小旅館は苦しくなっていった。大旅館は客集 めに色んな企画を立て旅館もショー化して行った。伊良湖ビューホテルがタヒチショーで当ったことから全国の大中旅館は外国ショーを催す事が流行した。政志は文学を完全に捨て仕事に打ち込むようにしていたが心の淋しさはぬぐえず栗田勇の著作を読んで慰めていた。
 又彼は円空等の木喰に興味を持った。円空は中村区にもあった。黄金を西に曲ったすぐに願成寺があり、そこには八百万の神しか彫らなかった円空が柿本人麿呂像を二体造っている。円空が人麻呂に憬れを持っていたのは確かで衆生の救いを探し放浪した彼の意志が伝わって来る。円空は出会う人が病で苦しむならば木っ端仏を与えたが十二万体もの像を造るよう願かけた彼の強い魂が伝わって来る。衆生の救いが彼の望みで行基の造った寺に彼は多くの仏像を残している。特に多いのは中川区にある荒子観音で生木を彫った仁王の 他に千数百体の像が残っている。荒子は前田利家が育った地でも有名である。

 美代子は西川流の踊りの名取の上級である師範まで取り今度はお茶とお花に挑戦し始めた。元々少女の頃千秋のお寺で習っていたがもう一度本格的に習い一期一会の精神を覚え客を接待しようと考えた。茶道は表千家で花道は村雲流で共に樹神先生に習った。樹神先生は七十才近い老人だが元気で若い頃は日本陶器の絵付け師をしていた。同門には日本陶器の美術サークル出身の人が多かった。政志も房子も共に習った。美代子は茶道を習い始めると道具に興味を覚え政志に運転させ瀬戸の赤津にある加藤作助の工房を尋ねた。赤津の作助の工房はひときわ立派な工房で二十数代続く加藤家の歴史をもの語る。黄瀬戸が有名で茶道界でも作助は名が通っている。政志が入口から少し坂を上り玄関を上ろうとしていると偶然同級生の田沼に会った。
田沼の父親は田沼起八郎と言い著名な陶芸家で東京芸術大学に居た時師の藤井達吉に連いて瀬戸まで来た達吉の秘蔵っ子だった。達吉は戦時中瀬戸へ疎開して来て小原和紙や瀬戸の陶芸の発掘に力を注いだ。起八郎は実力のある陶芸家だったが地味で余り実力通り世間の評価はされなかった。息子の春二は遥か遠く起八郎には及ばず当時は苦しんでいた。春二は作助の長男の伸也に師事していて、偶然工房で出会ったのだ。伸也に春二が叱責されているのをこの日見た。伸也は共に瀬戸の陶芸を上げていこうとしていたのだろうと政志は思った。
 当時瀬戸には加藤陶九郎を先頭に加藤瞬陶、加藤鈔、鈴木青々と日本で指折りの陶芸家が居たが政志は伸也が若いながら迫力を放っており次代を背負うに違いないと直観した。田沼とは再び交際し陶器を注文したりした。春二は毎年暮になると翌年の勅題の茶碗を挨拶に持って来るようになった。美代子は政志と共に西区の六句にある古道具や丸吉を尋ね器や漆器を求めた。幕末の陶芸家春岱しゅんたいの器や輪島の絵違いの八寸皿等を買った。時々丸吉を訪れ面白いものを探すのが親子の共通の楽しみになって行った。

 一夫も政志も古い日本旅館に限界を感じ始めていた。大門の旅館や駅前の松岡のような立派な材料で造ってあるわけではない造築を重ねた日本家屋に未来を覚えなかった。儲かってはいたが将来不安はあった。客のニーズは年と共に高くなって苦情が来るようになった。特に施設についてだった。家庭が立派になり自分の家より更に良い施設が要求されるようになった。政志は多分中途半端な木造ではやって行けなくなるだろうと考えていた。政志はファーストフードがこれから飲食業の主流と考え宿がビル化しなければファーストフードに走ろうと思い一夫に打ち明けると一夫は政志の決意に逡巡した後やはり将来の事を考えると建て直した方が良いと決め政志の方向を認めた。政志は東京で開催された城堅人というホテル旅館の講師に依頼し現在の場所が何に適しているか調べてもらった。マンションやファッションホテルも可能性があり調査したかったのである。城先生は新しい形の和食を主体とした料理旅館が良いと簡単な計画図面まで持って来た。一階に池の流れる大きな和食のレストランを持つユニークな宿の形が示されていた。東京に五人百姓という古民家風の和食の店が流行しているということで見に行って竃のある面白い形の和食堂を案としていた。制服も忍者風でユニークだった。
 政志は一夫と相談しその方向で建て直すことにしたが一番問題は資金の件だった。投資額二億は今までと違い莫大で一夫も相当な決心が必要とまず日頃利用している三和銀行に相談したが無しのつぶてで埒が明かず中央相互も同様だった。一夫は組合が相談する商工中金に話を持って行く事にし神谷理事長に依頼した。組合は融資相談もしていて成功報酬も取っていた。神谷会長は一夫や政志を伴い商工中金名古屋支店を訪れなんとか一億五千万融資してもらえることになった。成功報酬として組合が三十万取ることになった。融資額と同じ年一億五千万が売り上げの目安となった。当時の考え方は投資額と同額の売り上げが一般的目安で一夫の宿の今までの売り上げの約倍だった。一夫には相当重い売上げ目標だった。清水の舞台から飛び降りる勇気が要り一夫は建築にゴーサインを出した。若さは向こう見ずの処があり政志は借金の怖い世界に体を投げた。高度成長の時代は利子が高くても物価上昇が大きく土地上昇も見込め何んとかなったが、売り上げ目標を細かく宿泊と宴会それと新しく開店する和食の店の売り上げを入れ見込みの計算をし売り上げ目標とした。
 金利は一割を越え毎年一千五百万円程考慮しなければならなかった。飲食税は一泊二食一万円以上の客にかかり宴会も飲み物を入れて三千円以上の客に一割必要だった。人件費も計画に入れ政志と細則を立て計画書を作った。一泊二食一万円はバス付のお客様料金でそれ以下のお客様もいた。総消費単価が一泊二食一万円越えはやっとで半数のお客様はそれ以下だった。宴会客三千円越えはほとんどのお客様が該当し飲食税の対象となった。飲食税は県税で月末までにその月の分を払う必要があり一夫は月締めを毎月二十五日にしていた。給与も二十五日締めだった。コンピューターの無い時代で全て手作業で計算しなければならなかった。毎日給与計算や飲食税計算在庫計算で時間を要したし決算となると更に時間が必要になった。飲食税は月末と定められ一日でも遅くなると計算報酬五パーセントがもらえずどうしても間に合わせなければならなかった。
 給与も遅払は許されず日々の計算は大変だった。旅行業者の支払手数料も各々違い特殊な計算式でやらねばならずやはり時間を必要とした。自動計算機やフロントマシーンが出来るまでそして各旅行業者が旅行業者で手数料計算を済ませてくれるまで旅館の帳場でする経理事務は大変な作業だった。一夫は政志が来るまでほとんど一人でやり政志が入るとなるべく任せるようにした。ただ給料は自分の手に握り月末に手渡しする楽しみは捨てなかった。御苦労さんと給与袋を渡す時の充実感は耐え難かった。その時見せる従業員一人一人の見せる表情で従業員各々の宿に対する忠誠心や満足度が汲み取れるからだ。宿屋の主人は何もやってないと思われがちだが、やろうと思えば仕事は無限にありなるべく自分は外交とか交際に時間を割き他は従業員任せにする場合が多い。特に旅行業者との付き合いや種々雑多な行事、組合旅行も多く宿の主人は旅行を休む時としている人が多い。一夫は旅行業者に送客してもらうより手数料の要らない直接お客様が申し込んでくれるお客様、つまり顧客を多くしようと願っていた。

 一夫の頼りにする日本旅行会は日本旅行と名を改めそのころ流行した浅田美代子の赤い風船という歌の赤い風船を標語に使うようになっていた。千穂子と結婚した板長の坪井は宿が建て変り客数が増えると自分の手に余すと言い出し政志の慰留も聞かず二人とも宿を去って行った。次の板長には伸和会から梅田板長が入った。梅田は手早い男で料理の腕は良いとは言えなかったが例え数百人入ろうとあぐまず時間内にやりとげる板長だった。一夫は坪井は名古屋弁のかんこうのいい(工夫の良い)男だったが梅田は段取りが良く手早く各々一長一短があるものだとつくづく思った。坪井の裏切りには腹が立ったが去る者追わずだと諦めた。
 古い木造を壊しビルを建てるのは大変な事だった。建築期間中なるべく売り上げは下げたくないので工事現場に毎朝簡易の組み立て式の橋を作り午後四時には一端はずし翌朝五時には再び渡すという大変な作業をやった。建築は一夫の抱え大工の小森建築を使った。小森は木造の頃からの大工でビルでもやれるかと聞いた所やりますと答えたので任せることにした。政志はもっと手慣れた一流の建築屋の方がいいと言ったが一夫は譲らなかった。一夫にはお大尽気質がありお抱え大工にやらせるのが粋と思っていた。小森は材木を見る目があり材木屋へ行っては珍しい材木を買って来て自慢していた。小森は無垢の柱より丸のまま柱を使うのが日本の宿には適していると丸の材料そのまま内装に使った。建築には工程があり基礎工事から始まった。無論それまでに木造を壊すのに一月要した。一夫と美代子には思い出が多過ぎ、壊す毎に涙が頬を伝った。基礎工事には十メートルの杭を数十本打たねばならない。その前に三メートル程土を削ると昔そのままの田に運ぶ水路跡等が出て来て荘園だった頃を偲ばせた。杭打ち職人、鉄筋工、土止めのベニアを張る職人等工程毎に違う職人が来て一夫は毎日現場を覗く楽しみに喜びを覚えた。一夫は小森の手伝いまでした。以前から体を動かす事が好きでじっとしていられなくなるのだった。保夫も鉄筋を繋げる時の溶接の手伝いをしてうっかり火を直焼して傷めてしまった。政志は苦手で工事の行程を見て違いがないか点検していた。
 工事中隣の女将が来て自分の所もと言い出し小森に依頼し小森は隣の宿の為に勝手に図面より一メートル以上隣の宿から離し建て始めた。隣の宿が建て直す時を考えての事だった。政志は腹が立ったが一夫が黙っておれと命じたので我慢した。各階毎にコンクリートミキサーがセメントを入れ段々建ち上って行った。八カ月の工期も無事終り六階建てのビルは完成した。一階はフロント、調理場、小会議室、二階に宴会場三階から五階までが客室六階に政志夫婦が住んだ。六階の居室から一メートル離れてボイラー室、貯油タンク室電機設備を配した。地下室はなく地下には重油を入れる三トンの貯油タンクを造った。こうして昭和五十年三月に第一期工事ビルは完成した。丁度四月からは暇な時期だったので慣らし運転の時期と思い従業員教育、各旅行業者への挨拶回り顧客訪問等に一夫や美代子、政志夫婦は一所懸命だった。借金や利子はすぐ払って行かねばならず待ったなしで余裕等余りなかった。開業費、当初の諸経費を考えておらねばならないのが三カ月程で運用費を使い資金が底を着き始めたお盆に運悪く食中毒を出してしまった。丁度一夫夫婦は里美の新居に招かれて不在だった。政志が突然来た中村保健所の担当官二人と対応した。中村保健所に地方の医院から連絡が入ったのだ。
 政志には寝耳に水の事件で対応方法が分からなかった。担当官は個室に通すよう命じ何か含みのある言い方をした。十名までの被害者で収まればマスコミには伏せると言い宿帳を持って来させお盆中の客の住所を調べあげた。政志は世間知らずで、後で他の食中毒事件で判明したが担当官が暗にワイロを要求しているとは知るよしもなかった。担当官は冷蔵庫内を調べ毎日使った食品を一人分ずつ取り置きの温蔵庫はあるかと政志を叱り冷蔵庫内の食品を幾つか持って行った。すべての従業員の検便を要求すると共に毎日の台帳等のコピーも保健所へ持って帰った。結果は検便からも食品からも菌は出ず空気中にある浮遊する菌ではないかと言うものだった。保健所が持って行った宿泊名簿から電話した所七人の調子悪い人が出た。しかし一夫の宿は営業停止とテレビ放映された。すると、電話で食事した者だがお腹がおかしくなったから営業保証医療保証にしろ等の電話があり、一日の売り上げが異状に高く税務署に報告してもいいか、と言うと急に売り上げを一カ月と一日を勘違いしていたと言いだし、その分だけを一夫は支払い無事済んだ。保健所の探し出した患者には一夫や美代子が走り医者代や見舞金を払い済ませた。テレビの影響は大きかったが人の噂はで一月程で忘れ去られていった。
 政志は納得が行かなかった。保健所の担当官に悪意を感じたからだ。役所意識がまだ強い時代で庶民は随分下に見られ、命令口調が一般だった時代、政志は対応がまずくボロカスに非難された。坐る席が上下が分かってないとか言葉使いが目上にするものじゃないとまで言われ政志は大きく傷ついた。後日納得の出来ない政志は挨拶がてら中村保健所に行き事件の担当官に十人以下でもテレビ放映された事、三日の営業停止は厳しいじゃないかと尋ねると、担当官は調理場は使用禁止で宿泊はそうではない自粛だと言ったので法律はどうなんだと食い下がると口ごもりもう事件は終わったんだから次へ進め云々と話は終わってしまった。政志は自分の未熟を心から悔いた。食中毒事件では悪く言う者がある半面、逆に応援してくれる客がいたりで世間の裏表を政志は実感した。

 事件が終わり夏が過ぎ秋が来ると急に客が押し寄せるようになった。オープン効果が出始めたのである。名古屋にはまだ宿泊施設が十分ではなく古い施設が多かったので新しいビルの宿は有利だった。その年の決算で売り上げは予定の一億五千万を越え利益も弱冠だったが出た。翌年は売り上げが二億を越え最終純利益も前年の倍程になった。政志は広間を建て換えようと思い計画を進めた。まだ改造してない幼稚園の教室を直し広間にした部分を建て替え収容を増したかったのだ。売り上げが順調に伸びた宿だったが一階に造った和食の店かまど焼だけは苦戦していた。炭火焼きとかまど御飯が売り物の店だったが魚や海老の焼けるのが遅く客を待たせる場合が多くなかなか客が定着しなかった。かまど焼はその後違う形で全国に定着して行ったが政志の望んだようには売り上げが着いて行かなかった。
 一日五万円の売り上げは政志の考えた一日十万には遠く政志の高望みに違いなかった。政志は自分の方向性と店の将来性をこの店に賭けていた。しかし飲食店経営が初めての政志は性急で彼の思惑通りにはうまく行かなかった。スタッフも彼の思い通りには動かずなかなか売り上げは伸びなかった。逆に宴会部門は伸びていた。忘年会新年会は客が押し寄せ、春になると歓送迎会に力を入れた為客集めに成功した。ただ夏から秋の九月までは閑散期で宿泊に頼る他なかった。
 政志が二十八才の秋に造築した広間と和洋どちらでも利用出来るバンケットルーム、結婚式場が完成し一階には喫茶室、衣裳室が完成した。政志は婚礼に力を注ごうとしたのである。土蔵を壊す事にはためらいがあり迷ったが収容人員を増やす為に壊さざるを得なかった。秋になると柿がなり土蔵の姿は一幅の絵だったが仕方なかった。四階に自室を造り政志他家族が移った。この年の投資額は約一億円で売り上げ目標は年三億円だった。目標額は一年目に達成出来た。広間の稼働が良かったのである。まだ名古屋に広間が足らず三 百人から八百人の問い合わせが多かった。しかし収容はせいぜい百八十名まででそれ以上は諦めなければならなかったが大人数の客が増えたのである。婚礼もオフの四月、五月、九月、十月に入り年五十組程やることが出来た。結婚式の際の和式神前祭礼の神主には同級生の小笠原の友人伊藤に頼んだ。伊藤は父親が若くして死に中学から神主を習い覚えていた。着付けは以前より知人の川島三千代先生に頼んだ。婚礼には宣伝が必要とテレビの宣材をつくり三百万円程の契約で放映した。その他パンフレット代新聞広告等で広告費八百万円程使った。年の広告費は年三パーセントと決めていたので少しオーバー気味だった。すべてがまあまあ順調だった。婚礼のない年に一番閑散期の八月には流しソーメンで客を集めたり夏祭りと称し美空ひばりの真似が上手なかすみショーや大須演芸場の芸人ショーをしたりで客を集めた。
 この年の六月に政志の長男の造が生まれた。初めての男の子で中村の叔母さんが強くな る為には一度捨てなければならないと近くのお地蔵さんの前で捨てて拾うという儀式をした。この時の建築も一夫がお抱えの小森工務店を頼んだ。小森工務店の社長の息子が板場に入社した。この頃の支配人は前の投資の時入社した横井だった。女中頭には駅前の比較的大規模で人気のあった武蔵屋が廃業することにより紹介でやって来たトシ子がする事になった。その下に掃除婦から女中になったテル子がついた。二人とも人気がありサービス業に適していた。支配人の横井は癖のある男でまだ三十才と若く仕事には計算も早く向いていた。
 こうして一夫の宿は充実し伸びて行った。政志は営業マンも募集した。初め千歳楼の営業をやっていた滝が入り熱心でトヨタ関連に顔が効き、客を集めたが従業員同士のトラブルで止めてしまった。次に来た河合と山口が戦力になった。政志は二人の個性に合わせ営業させた。山口は大同とか工場に強く組合に入り込んだ。河合はこつこつ自分の顧客を掴むタイプで段々客は増えて行った。政志は地域を限定し、ここからここは山口、ここからそこは河合、このエリアは自分と決め絨毯営業を進めた。足で稼ぐ営業は地味だが効果があった。
 県庁や市役所も同じで階ごとに担当を決め三人で全て営業した。まだサービス業の営業は珍しく客はすぐ付いた。どの施設も待つばかりで余り営業はしてなかった。宣伝も同じで新聞の空枠指定は安価で効果が上がった。ダイレクトメールも一回三千通はやった。婚礼部門にはブライダルが強いロイヤルホテル弁天閣から岩井が来て司会がうまく人気を集めたがむらっ気が強く長くは続かなかった。次に来たのが祖父江で西武系のホテルでやはりブライダルをしていた。映画のニューフェイス出身で話し方がうまくやはりブライダルの専門家だったが競輪に溺れ婚礼のお金を集金に行っては横領し警察沙汰になり止めてしまった。更生してからは地獄の特訓の講師になった。岩井や祖父江の後は河合が継ぎブライダルの演出を考えたりしていた。宴会で一日五百人以上収容しても板長の梅田は平気でうまくこなしていた。
 梅田は結婚式場の流れ作業的な調理経験があり丁寧とは言えなかったが手際良かった。一夫の宿は売り上げが年五億円を達成し全盛と言えた。やはり木造として残った部屋は苦情が多く消防署も木造を嫌ったこと等で第三期で木造を壊し新館を建てることにした。世の中の流れは高級化だった。全国のどの旅館も高級化しそれに成功した施設だけが生き残るようになっていた。建築費が坪五十万程だったのが百万を越えるようになっていた。総投資額が二―三十億はざらになって施設によっては百億を越える場合もあった。旅行業者も客のニーズの高まりに合わせより高級化を望み連いて行けない施設は取り残され商売を足元から考え直す状況に追い込まれていった。中部では山代の百万石がお祭り広場を作り館内を毎日お祭りの場とすることで客を集めた。高級化の流れは深まり一夫は旧館を新しくすることを決意し政志に案を練らせた。
 丁度南側隣地の杉戸家が売却を申し入れ、買うことにし総投資三億円で新館一会亭を造ると共に杉戸家を買収した。政志は新しく造る部屋を囲炉裏や次の間付きにしたり部屋風呂とトイレを別に併設した。一階には美代子の希望で懐石の店一期一会を造り料理も本格化しようと考えた。陶器や漆器も買い換えた。この年十二月に政志の次男駈が生まれ政志の子供達は四人となった。一期一会には小森建設の次男を板長にした。政志や房子は三十歳になっていた。房子の両親が政志を認めるようになったのはこの頃からだった。政志は芸者からコンパニオンに移った宴会のやり方をホテルで見てこれから来るコンパニオン宴会の企画を立て新しくコンパニオンを集める会社「もぉやぁこ観光」を作り別法人とした。
 これまで政志夫婦の年収は六百万程だったが、月百三十万程にし生活を安定化させた。初め二人から始めたコンパニオンはみるみる増えてゆき登録七十名となった。ホテル部門六十五名と加え月末の給与支払は百五十名近くになりコンピューターを利用した。従業員教育が必要となりその費用を予算化し実施した。政志は仕入にも注意し冷凍物は熱田市場の大東魚類から海老等を仕入れるようにし宴会には大海老を利用した。コンパニオン宴会は政志が考えた当時流行のテニスルックを制服に採用した事から激発的になりマスコミもこぞって取り上げたのでトヨタ関連等が多く利用した。
 フリーカメラマンの浅野氏がフォーカスやフライデーに取り上げ又テレビ局の天野氏がイレブンPMやトゥナイトで放映し、ますますコンパニオン宴会が増えて行った。ただその弊害もあり学校関係からは嫌われるようになった。忘新年会の十一月から二月の四カ月と夏場の閑散期の売り上げは二倍半程違いがありその是正も問題だった。政志は三十才になって交際範囲の狭い自分を反省し旅館青年部でよく話題にのぼる青年会議所に入ることを決め、近くの学習院大学で知っていた児山に紹介者を依頼し入会することにした。宿の収客は顔の広さによる所が多くなるべくつながりで客を呼ぼうと考えたのだ。しかし青年会議所は友人は出来るが商売とは余りつながらないと知った。入会の年にシティマラソンの芽ばえである名古屋城を周回するハーフマラソンを白石委員長の下手伝った。

 駅西に高砂殿が開業しブライダルを集め一夫の宿の婚礼数は激減してしまった。婚礼専門の業者の時代になりホテルの婚礼数は減ったのである。他者との出会いを覚えていた政志は会社の進むべき道をいつも直す為に日本コンサルタントグループに依頼し会社の誤りをいつも見詰め直させていた。社則や業務規定をこの頃作った。一夫の頃の安いボーナスや給料は是正され、国民保健から社会保健に変り従業員の待遇も善可されて行った。しかし一般企業との賃金格差は大きく宿泊業界の遅れはどうしようもなかった。政志は大企業と中小企業のどうしようもない格差を縮めようともがいたがどうしようもなかった。始めから学歴も違い格差がつくことは仕方ない事でもあった。部門別に収入の差があり弱い部を直し婚礼の少なくなった衣裳室や喫茶を改造しパブにすることにし一部の駐車場へ拡張し収容八十名のパブシアターを造ることにしフランス帰りの画家で同級生の浅野モオムに室内装飾、宣伝等を依頼した。
 当初はナポレオンのキープ等で売ったが難しく試行錯誤が続いた。安定し年四千万円の売り上げが出来るようになったのは外人ショーを開始しショーを見ながら酒を楽しめるようにしてからである。カラオケは当初宴会場で用意したが一年目は利用客もなく遊んでいたが次第に宴会に必要品となった。パブシアターアバも初め八トラックで利用者が多く一人で何曲も歌うので悩まされたが全自動を導入し客も増したことから非常に楽になった。音響設備にも一千万円程投資し巨大な画面で自分が映るのが見えまだ名古屋では珍しい設備で遠くからの客も来場し宿泊客と混じって楽しんだ。
 外人タレントのノウハウは近くにあったホテルニュー淡路の営業所長に入管手続き等を教えてもらい犬山の古城館の大矢社長の紹介で台湾ショーから始めフィリピンショーへと続いた。オイルショックが急に襲いA重油が月額百万円超の支払いになり経営を圧迫すると共に各物価も異状な値上りをしバブルに繋がって行った。バブルの波はすさまじい勢いでやって来てすべての値段が上がり地価や建築費又株価も鰻昇りだった。宴会場でもウィスキーのオールドからリザーブへそしてへネシーへと変わって行った。雲竜ビルの和食の店へ働きに行っていた坪井が困窮し妻の千穂子が一夫に助け船を出して来た。一夫は千穂子が可愛いいのですぐに手を出し営業成績の悪かったかまど焼の店長に再雇用することにした。坪井は昼食から始め夜の活魚料理もうまく軌道に乗せた。

 コンパニオンもテニスばかりではなくレオタードやバニーも取り入れ全国的に有名になりコンパニオンパックが売りに売れ昭和六十年には総売り上げが六億円となりフロントと二階部分を改造し西鶴の間に仏間を設けた。翌年南側の錦龍の寮を買収し寮十五部屋を造った。この年前年の売り上げで飲食税が名古屋で一番になり一夫は県税に表彰された。次の年美代子の姉好子の依頼で駐車場として借りていた部分にビジネスインを建てた。それと同時に喫茶をかまど焼の処へ移設、かまど焼をビジネスインに移しこづちを移設した。こうして創業三十五周年に走っていったのである。 (第三章に続く)