「残像」 山の杜伊吹

 私の勤務する小学校の特別支援学級の担任が出張することになった。
 クラスの児童の数が多く、留守の間私一人では何かあった時(脱走、パニック、自傷、ケガなど)に助けを呼ぶこともできないので、補助の先生が一人入ることになった。担任を持っていない空き時間のある先生ということで、児童指導の山本先生が来てくれることになった。事前に打ち合わせをしたら、障がいを持つ児童たちに童話を読み聞かせてくれるということだった。
 私は童話がとても楽しみであった。今年赴任してきた山本先生は、体は大きいが、どこかナイーブで病み上がりではないかとうすうす感じていた。もちろん心の方である。そんな先生はたくさんいるので、山本先生が傷を隠しながら、閉ざしている何かをとくに気に留めないようにしていたし、私は無理に扉を開けるような残酷な真似をするつもりもなかった。
 その日がやってきた。山本先生は手に古い本を持って教室に入ってきた。童話の時間になり先生が読みだした。内容は、岐阜県の古い昔話で、方言がふんだんに盛り込まれ、聞き覚えのある地名も出てくる。
 児童の反応はまあまあで、この雰囲気はどこかで見たことがあるなと思いながら先生の持っている本を見た。『実践童話の会』と書かれた文字を見て、「あっ」と声を出した。地元の小学校から、思う所あって遠くこの小学校に異動してきた私が、まさか若い頃お世話になった浅野先生と、この教室で再会するとは、夢にも思わなかったのである。
 「実践童話の会」は、子どもたちに地方に残る童話を語り聞かせる活動をしていて、浅野先生はその会長を務められていた。本のページをめくると、懐かしい先生の顔と文章、集められた童話の数々が収められていた。
 20年以上前、大学を出たての私は、地方の小さな出版社に勤め、編集のいろはを学んだ。その時、編集長をしていたのが浅野先生である。元教師で退職し、すでに老人であったが、新人編集者の私に優しく指導してくれた。当時もその会の活動を精力的に頑張っておられた記憶がある。
 私の知らない若い頃の浅野先生の顔写真。おそらく、50年以上前の姿ではないか。この本の中の先生は、若く、情熱に満ち溢れている。山本先生に「浅野先生をご存じなのですか」と聞くと、「知らない」という。しかし『実践童話の会』の本を偶然学校図書館で見つけ、持参してきたということだった。
 驚くことに、浅野先生はこの学校で教員をしていて、その時に会を立ち上げたと本に書かれている。会を立ち上げるに至った情熱的な思いが文章に綴られている。私が出版社を退社した後も年賀状のやりとりは続いていたが、やがて結婚し子育てに忙しくなって、それもなくなった。
 しかし、10年ほど前に、思わぬところで再会した。子ども館に1歳になるかならないかの長男を連れて遊びに行った時、『実践童話の会』の童話の語りが開かれたのである。あまりにリアルな方言と、よく知らない昔話だったため、反応はなんともいえないものだった。ちょうどこの日のように。
 「浅野先生」と、挨拶をすると「あれ、まあ」と驚かれた。それが浅野先生と会った最後である。数年後、先生の訃報を新聞で知った。そして、ずっと忘れていた。先生は、私に書く機会を与えてくれていたのだ。とある地方紙の夕刊コラムの執筆者として私を新聞社に紹介してくれたのである。原稿は数回掲載された。しかし若かった私は、その貴重な修業の機会を徐々に「多忙」を理由に遠ざけていった。
 私は、安定した収入を求めて、学校現場に飛び込んだ。仕事は第二の天職と思うくらいやりがいがあった。しかし私は忘れていた、書くというもう一つの天職を。そして思いがけず浅野先生が現れて思い出したのだ、あの頃の夢を、情熱を。
 なぜ先生と再会することができたのか。若い頃の先生の思いが、この小学校の古めかしい校舎に残像として残されており、それが山本先生を通じて伝えられたように思える。ほどなくして、もう一度書く仕事に戻ることになった。山本先生と共有した、子どもたちとのあの時間を私は忘れない。 (完)

「回る回る 回転ずし」 眞鍋京子

 花の季節がやって来た。ここ大津市の「たんぽぽの里」でも花見の計画がなされているがここの入居者は高齢者が多く足の不自由な者が殆どで車椅子の世話にならなければならない。でも一回の花見でも利用者はその日を待ちこがれ、当日の顔の色は部屋にいる時とは違った喜びが溢れてくる。
 施設長は何とかして外へ出るチャンスが与えられるよう考えた。そして思いついたのが入所者を回転ずしへ連れていくことであった。
①外へ出る事の喜び
②食事をすることの喜び
③自分の好みの寿しを回ってくればつまみあげる
④つまみ上げるのには工夫がいる
 これだけの事が出来るかどうか施設長は頭を悩ました。でも、当たって砕けろ―という諺がある。先ずは手をつけなければならない。

 ぐるぐる回ってくる紙小皿のすしを急いで拾いあげる。自分の好きな寿しを持ち上げる、拾い上げることができるかどうか。ぐるぐると回ってくる小皿を素早く取り上げることが出来るかどうか。施設長はじめ職員たちは事前に何度か寿し店へ下見に行く。そして、お店の主人にたのんで何台かの動力機械の速度を実際に素早く緩めてもらう。店のご主人の厚意で、そのはやさを何度か加減してもらったりした。一回のおすしを頂くのに、こんなにも皆さまの〈縁の下の力持ち〉の協力があることをしみじみと実感。協力にひと役買ってくださった店の主人はあらためて施設長をはじめとしたスタッフへの感謝の気持ちをあらわした。

 そして。いよいよ当日が来た。
 幸い天気もよく施設の利用者は朝からうきうきし「花見だけの外出だったら寂しく思うが、きょうのように珍しい回転してくるお皿のおすしが食べられるとは。なんて幸せなことや。でも回ってくるお皿のものを拾い上げるだ、なんて。そんなことしたことない。チョット心配やなあ」の声のなか「付き添いの職員たちもいるから、心配しないで。上手に食べさせてあげるよ」などといった声が飛び交った。
 実際、回転ずしはまだ市内で出回っているところは少なく、特に施設の利用者となると、家族が訪問して連れ出してくれることもなく、恵まれてはいない。

 その日。事前に打ち合わせした速度でテーブルは回り始めた。自分の好みのすしをすぐつまみあげ、口に持ってゆく者、取り損なって職員が陰からつまみあげている姿も見られる。まぐろ。鯛。とろ。えび。たこ。うに。なまこを始め次から次へと回る、回る。皿の上のすしにもなれてきて自分の好みの皿のものがうまく皿に移せるようになってくる。緊張していた顔も笑顔になり微笑みながら自分の好みの魚が回ってくるのを待っている。帰りの車の中でも回る、回る、まわる回転ずしの話で持ち切りだった。

 きょうのように楽しいことはなかった。回る、回る――お皿の上の好きなお寿しを取るって、どんなにむずかしいことかしら、と思っていたが「たんぽぽの里」の職員さんが丁寧に教えて下さったので、できた。実際、あんなにいい事はなかった。また連れて行ってくださいね、と口々にお礼を言った。
 施設長は始め大胆な計画ではないのか、と案じていたが生むがやすし、と言われるように本当に決断してよかった、と思った。でも、その陰には寿し屋の店長さんが機械の運転を止めてまで本日の行事に尽くしてくださったことに心から感謝しお礼を申し上げたい気持ちでいっぱいであった。

 車は夕日を浴びて瀬田川沿いの「たんぽぽの里」へと帰り着いた。楽しい夢を見て、その夜は皆、休んだ。(完)

「駐在さん」 牧すすむ

 昔、私の実家の向い側に駐在所があった。もう五十年以上も前の話である。気付いた時にはもうそこに在ったので何んの異和感も無く暮らしていた。
 記憶によれば、その駐在所は平家造りで道路に面した左側の一角が交番。入口の上の赤い電球が夜も静かに灯っていた。それは今も変わらない田舎の駐在所の佇まいである。
 只、その頃の駐在所にはパトカーは無く、オートバイか自転車で用が足りていた。そんなのどかな時代であった。
 又、駐在所といってもそこは田舎のこととてお隣りさんに変わりは無く、我が家と同じ年頃の子供さん達もいていつも一緒に遊んだり、時には美味しいおやつやご飯を頂いたりと、警察という職業とは無縁の仲の良いお付合いだったと今も懐かしく思い出される。
 でも、駐在さんというのは一つ所に定住が出来ない。何年かすると転勤を余儀無くされ、又新しい駐在さんがやって来る。然し幸せなことにどの駐在さんも気さくな人柄で、その都度本当に温かいお付合いをさせて頂いていたことを子供心にも覚えている。只、いたずらをすれば怒られもしたが、その時は優しい〝隣りのおじさん〟の顔だった。又、おばさんも皆心底親切でこぼれるようなあの笑顔を今も忘れることは出来ない。
 少し前、夕食後にテレビを観ていた時コメンテーターの誰かの言葉が耳に残った。
「昔は何か落とし物を拾ったら必ず交番に届けたものです。十円でも五円でも持って行きました。それが大人からの教えであり当り前の日常でした。駐在さんもそれを受け取るとニコニコして自分の財布から同額の小銭を出し、〝ハイお駄賃だヨ〟とご褒美? をくれました。日本人の心がありましたよ。今は何んか世知辛いねェ。」
 私も全く同感で、同じ体験の中で育った年代を妙に嬉しく思ったものでした。勿論、今でもこんな優しい駐在さんや素直な子供達はたくさんいると信じてはいますが…。
 ここまでは敢えて「駐在さん」と言ってきましたが、ここからは「おまわりさん」に切り替えることにします。そう、今回のテーマ「まわる」に沿うためです。
 我々の年代であれば必ず口ずさんだ覚えのある曲、曽根史郎の「若いおまわりさん(井田誠一作詞 利根一郎作曲)」。警察官の制服を着てマイクに向かう彼の姿に老いも若きも心を躍らせたものでした。
♪もーしもし ベンチでささやく お二人さん 早くお帰り 夜が更ける♪ 甘く軽快な歌声はやはり警察官や駐在さんではなく、「おまわりさん」が似合っている。
 他にも藤島恒夫(たけお)の「村の駐在所(原六郎作詞 松井百利夫作曲)」♪村のなー 村の駐在所に 若いおまわりさんが来ただとよ 都育ちの とっても素敵な人だとさ♪ コミカルな歌詞が大ヒットした。
 更にこんな歌もー。あの「酒よ」で大ヒットを飛ばした吉幾三の出世作、「俺ら東京さいぐだ(吉幾三作詞 作曲)」。♪テレビも無ェ ラジオも無ェ♪で始まるコミックソングだ。そんな歌詞の中にもこんな一節がある。
♪ピアノも無ェ バーも無ェ 巡査(おまわり)毎日ぐーるぐる♪
 このように我々庶民にとって〝おまわりさん〟という響きは耳に心地良いものなのだ。日々職務を真っ当されている彼等に感謝しつつ、又、大いなる親しみを込めて〝おまわりさん〟といつまでも呼ばせて頂けることを心から願っている私である。(完)

「女子高生の焼身自殺」 伊神権太

 〈まわる〉と聞き、思い出すのが昭和四十年代の駆け出し時代、新聞社のサツ回り記者として出発した松本支局員のころに先輩から言われた次のような、お達しである。
 「がみちゃん、君はネ。なんてったって、今日から泣く子も黙る花のサツ回りだ。でも、よちよち歩きのトロッコなのだから。警察はむろんのこと保健所、職安、消防署、地検、地裁、労基署、営林署の各官庁には毎日必ず顔を見せること。どこでどんな事件が起きているか知れたものでない。そして、警察は当直明けと夜中に一日一回は必ず訪れることだ。何より、顔を覚えてもらう。取材先にかわいがられなければ始まらない。よいね、サツ回りは新聞記者の基本だから」
 愚直な私は、この教えにそって翌日から、さっそくこれを実行に移した。

 女鳥羽川に面した6畳1間の下宿を早朝、頭には白いヘルメットをかぶり、オートバイで危なっかしい運転で飛び出すと、何はともあれ長野県警松本署へ。署内の司法記者クラブで各紙をチェック、今度はマスコミ対応の署次長の傍らに陣取り、前夜からの当直長が次長に報告する内容に聴き入った。いつも他社の誰よりも早かった。
 それが終わるとデカ部屋などを一巡、平穏な一日の始まりを確認すると、こんどは地裁、地検、保健所、職安、消防署…と歩き回った。雨の日も、風の日も、雪の日も。必ずこれら全官庁をカメラバッグを肩に訪れたものだ。

 ある日、民家で火災が起き自室にいた女子高校生(3年生)が亡くなった。こたつで居眠りしていたらしく煙りに巻かれ焼死したらしいとの第一報が広報担当から記者クラブに持たらされた。私は「火災」と聞くや、オートバイで飛び出し現場を訪れたが、なんだか室内がジュッといった感じで焼け焦げており普通の火災にしては何かが、おかしい。
 「へんだ」と思った私に馴染みの消防署員が「ガミちゃん、中日さん。内緒の話だけれど、庭の隅に灯油缶が落ちてたみたいだよ。」と教えてくれ、この一言にピンときた私は女子高校生が通っていた高校や友だち宅を訪れ取材を進めていった。結果は、この女子高生が最近、地元短大への面談入学試験を受け他の友だちがパスしたのに自分だけが不合格になり、落胆。親しい友だちに「もう会えなくなる」と話していた衝撃的な事実を突き止めた。
 というわけで、翌日の本紙朝刊社会面(軟派)紙面は「傷心の女高生が焼身自殺」と大々的に報道され各社そろって後追い記事を掲載。あのときの複雑な気持ちは今も忘れられない。新聞記者の世界には、〈現場百回〉とか〈殺し3年火事8年〉といったことばがあるが、まさにその典型的な例えが、記者生活で初のスクープとなった、この少女の焼身自殺取材であった。
 あのとき他者のサツ回り記者たちは警察広報からの第一報に記者クラブ内で麻雀にうつつを抜かし「あゝ、まだ若いのに。こたつで居眠りしてて死ぬだなんて。若いのに。なんだか、かわいそうな気がするネ。でも、事件性はないのだから」と互いに他社の動きを牽制しながら麻雀に興じていたことをしっかり覚えている。
 それが。翌日の中日紙面に真っ青になり、記者クラブ全体が葬儀屋の如く沈んでしまい、各社ともしょんぼりしながら「中日さんの記事のとおり」との警察発表をしぶしぶ書いていた。〈まわる〉との言葉を聴くたびに、あの日の記憶がよみがえるのである。

 あれから、もうどれだけの月日が流れたことか。私は今、2011年の3・11東日本大震災福島原発事故の被災地を毎年、執拗に訪れている。現場を訪れれば事件災害と人間の本質が見えてくるからだ。特に大震災発生まもなく現地入りし、白い灯台だけが立ち尽くすようにしていたあのいわき市塩屋の岬に立つ塩屋崎灯台直下は毎年、訪れている。現場百回の精神で訪れることにより、見えないものがみえてくる。そう信じて、である。

 まわる。まわる。まわる。ことほどさように〈まわる〉ことは何につけ大切なのだ。(完)

「まわる」 平子純

 昨夜からの激しい雨で庭の椿の花はほとんど落ち、道に出来た沢山の水溜りに大きな雨粒が落ちる度に水の輪が出来ぐるぐると回っている。まるで自分の今の心のようだ、と健三は思った。同じ所を思いは巡るばかりで先に進めないのだ。人生には何回か、堂々巡りすることがある。彼にとっても何回目かの状態だった。まわるまわるそんな内向きのベクトルに抗しきれず人はその渦巻から脱しきれないのだ。
 海の渦に巻き込まれた船も人もどんどん水の力に沈んで行き海面に再び上がろうとするが無駄な抵抗で水中深く沈んでいく他はない。道を歩いていくと椿の花の骸から流れ出した白い花弁が水溜りでやはり円を描きながら回っている。健三が『巷に雨が降る如く我が心にも雨が降る』という詩の一節を口遊んでいると汚れ傷ついた黒猫が濡れそぼり震えながら歩いている。一瞬、健三は椿の花弁と黒猫によって奈津の躰を思い出した。真っ白な椿のような奈津の肌、汚れた心と過去、お互いの傷を嘗め合うように求めあったベッドを思った。

 健三が奈津と出会ったのは錦にあるスナックだった。取り立てて特徴のある店ではないが黒猫の飾りが店の真ん中にあり、横に白いバラの花が飾られていた。通常なら赤いバラが華やかで良いと思うのだが、ママが白が好きで店は清楚なインテリアだった。

 健三の営む工場はリーマンショック以降の不況で仕事も減り資金繰りもうまくいってはいなかった。従業員も減らしたが売り上げはますます下がり経営が行き詰まっていた。三十歳を超えた奈津は何人かの男の経験があり男関係で窮していた。二人共に、行き詰まっていたのだ。そんな時に偶然商売仲間と訪れたこのスナックで健三は奈津と出会うべくして出会った。

 男と女は呼び合うもので自然と関係が出来た。健三は奈津の虚無を感じ取り、奈津は逆に彼の心の隙間を感じ取っていた。男と女はそんな時躰を合わせることでお互いの持つ魔を埋めようとする。健三は奈津の白い肉体に沈み時に全ての憂さを忘れることが出来、奈津は健三の体が自分に入って来ることで、心の闇を埋めることが出来た。お互いの傷を嘗め合うような交合だった。そうして二人は新しい堂々巡りをするようになった。情事の深淵に落ち込んで行ったのだ。彼は奈津を抱きながら白バラが少し変色した様を想い奈津は抱かれながら健三に痩せて怯える猫を思った。行為が終わり疲れた表情を浮かべながら奈津はこう言った。

 「私達、これからどうなるのかしら」
 健三は「どうにかなるさ、世の中はいつも回っていくだろう、何があってもさ」
 移り香を通わせ奈津は「貧しくて食べれなくても人は盗んででも生きてくもんね」
 「そうさ人は死人を食ってでも生きていくさ」
 健三は、昔戦争に行った祖父を思い出し言った。彼の祖父はガダルカナル島で飢餓生活を送ったことがあったのだ。彼はそういうと再び奈津の躰に乗り両手で首を絞めようとし、一瞬戸惑い力を抜いた。
 奈津は「どうしたの、殺されてもいいわ、その代わり一緒に死んでくれる」
 薄目を開け健三を見上げるように言った。その表情がとても陰美で健三を異空間へ誘った。

 奈津も現状に疲れていた。健三は手形を落とさなければならぬ月末を逃避したかった。金が回りそうもなく、未来が開けるとは到底思えそうもなかったが、妻子や従業員や諸々のしがらみが彼を生の方向に止まらせた。そう思うと、逃げるように彼は奈津の部屋のベッドから離れた。外は変わらず大粒の雨が降っている。雨よすべてを洗い流してくれ、彼は小走りに家へと向かった。黒猫が身震いし、雨粒が零れ落ちている。
 雨粒は水溜りに大きな輪を描いていた。(完)