「悪夢の戯言よ」 山の杜伊吹

 子どもが熱でうなされ苦しい思いをするくらいなら、自分が代わりに熱にうなされた方がましだと思う。娘の顔に傷がついた時、自分の顔に移してほしいと思った。子に苦しみ、辛い場面があるならば、代わってあげたい。
 自分ならば耐えられる、でもかわいい娘の顔の傷は耐えられない。その無垢な笑顔を見るたびに、親は悲しくなる。娘の笑顔はいつもとびきり輝いている。私の目の奥の憂いは決して娘に感じさせてはならない。
 親になって初めて芽生えた感情だ。

 新型コロナでマスクやトイレットペーパーが店から消えた。心の中で、デマにおどらされ、トイレットペーパーを買いに走る人々を、そんな奴らがいるから店から商品がなくなるんだよと軽蔑した。マスクを高額転売する人たちを、人間としてモラルのない人たちだと一蹴した。だれもが手に入らず困っているマスクは、医療関係者や福祉施設で働く人に優先的に与えられるべきだと強く思った。
 あるところにはある。「マスクを買いませんか」と、めちゃくちゃ高額なマスクを売りつけようと、電話が掛かってくる。マスクを転売する業者の片棒を担ぐ人間が、身内にいることを知り、ショックを味わった。転売する会社がある。薬局という薬局に電話をかけまくる。薬局は、「必ず購入してくれる太い客」とみなして、早朝から店に並ぶ一般客ではなく、転売業者にマスクや消毒液を売る。
 だから私たちの元にはいつまでたっても回ってこない。転売業者も悪いが、売る方も売る方だ。どんなに生活が困窮してもそんな仕事はしたくない。これは私のプライドが高いのか。偽善者か。心の声がいけないって警告してる。
 でも世の中には法律ギリギリのところで、ずるがしこく儲けている人たちがいる。そういう人たちが、おいしい思いをしている。真面目に生きている方が馬鹿かもしれない。この話をその片棒を担いでいる人間の親にしたら、どう思うか。きっと悲しい気持ちになるだろう。自分の育てた子はまっとうに生きて欲しいと、親なら願っていたはず。しかし、育てたようにしか育たないのも事実だ。
 ある時期に、親は子を見放した。子は棄てられたと思い、自暴自棄になり自分を痛めつけた。親にはそうなった子を責める権利はない。そういうふうに育てちゃったんだから。でも、親代わりであった自分は、非常に悲しい気持ちになった。
 あの目に見えないウイルスは、地球上の悪い物を一掃するために必然的に生まれた。地球人の傍若無人のあまりに酷いおこないに、地球がとうとう、自浄作用を始めたのだ。
 黄砂の広がりも、大気汚染も、消えない火災も、温暖化も、地球は私たちに異常気象というわかりやすい形で何度も警告してくれていたのに。
 アメリカのスポーツに配慮して、日本の猛暑の7月に行われようとしていたおかしな東京オリンピックも、おカネを落としてくれる観光客も、もういらない。貧富、職業に関わらず行いの悪い者はいずれ死にゆく。

 一度、リセットだ。足下を見よ、小さな家庭の幸せを。生きていることの、健康の輝きを。形は不格好でもいい、微生物が生きている畑で採れた野菜を食べたい。子どもたちに、川の水面の輝きを、桜の花の散り際の儚い美しさを、ただ見せたい。
 私にも夢があった。ファッションデザイナー、漫画家、歌手。ほんのひと握りしか稼げない、ふわっとした夢。ほかの皆さんと同じ夢を見ていたのは偶然でしょうか。(完)

「夢」 牧すすむ

 タイトルに「夢」という文字を書き入れた曲の幾つかを、思い付くままに並べてみました。

 夢追い酒    渥美二郎
 夢一夜     南こうせつ
 夢の途中    来生たかお
 いつでも夢を  橋幸夫 吉永小百合
 夢の中へ    井上陽水
 夢芝居     梅沢富美男
 夢は夜ひらく  園まり
 夢の渚     エルビス・プレスリー
 真夏の夜の夢  メンデルスゾーン
 夢路より    フォスター

「あなたの夢は何んですか」と問われた時、すぐに返事が出来る人はどれ位いるのだろう。
 年代にもよる事なのだが、答えは難しい。考えてみれば自分でも良く分からない。
 昔聞いた話によれば、男の子は「総理大臣」、女の子は「お嫁さん」だったとかー。その後男の子は「社長」、女の子は「ナース」。更に変わって「パイロット」や「スチュワーデス(現在はキャビンアテンダント)」。時代と共に男女の別無くその夢はどんどん変化して来た。
 以後も男の子はスポーツ選手に憧れ、女の子は芸能界やファッションモデル等にー。又最近の調査によると、男の子の夢に「ユーチューバー」という言葉が参入したとか。我々の世代では想像すら出来ない驚きである。
 そこで改めて自身の子供の頃の夢は何んだったのかと自問してみた。幼い日々の記憶は無いが、中学生以後の夢は歌手とマンガ家だった。それ用の画材を買い集めたりストーリーを考えたり、コマの配置を工夫する等したことを覚えているが、いつの間にか机の隅が定位置となってしまっていた。
 一方で歌手への夢は日毎に昂り、歌謡教室へレッスンに通い、早朝の発声練習も欠かすことはなかった。
 同期の仲間も一人二人と大望を抱いて上京。
 中にはテレビでその活躍を見せてくれた人達もー。
 自分はといえば、一緒に上京をと誘ってくれた友もいたが母子家庭という事情等もありその道を断念。しかしやっぱり歌への夢は諦め切れず、作曲という方向に舵を切ったのである。
 幸い少年期からギターやピアノを習っていたこともあり、歌謡教室の先生に見て頂きながらせっせと曲作りを続けた。そして二十代の中頃に初めてのレコードがテイチクから発売され、小踊りして喜んだことを今でもよく覚えている。
 その後は各地の盆踊りの歌やご当地ソング。地域の歌から校歌までと求められるがままに作って来た。中でも思い出深いのは、私の住む小牧市からの依頼で作詞作曲をした「青春の街」だ。チェリッシュ(ビクター)でレコーディングされ、軽やかなテンポと美しい歌声に人気が高まり今も愛され続けている。
 又、都はるみ(コロンビア)でレコーディングしたご当地ソング「恋の犬山」もヒットし、現在はカラオケで全国配信をされ歌好きの人達の間でしっかりと息づいているようだ。
 私も仕事帰りの道すがら、時々一人カラオケでマイクを握り人目を気にせず「恋の犬山」を熱唱している。
 最新作はやはり盆踊り曲で「名古屋コーチン音頭」だ。振り付けが面白く季節に関わらず色んな所で楽しんでもらえているのが嬉しい。
 そういう意味で言えば、大きなヒット曲こそ無いがあの少年の頃の夢は今も私の心の中に力強く脈打っている。きっとこの先も変わることなく新しい旋律を生み出し続けていくのだろう。遠くに待つ夢に向かってー。

 最後にひと言、「あなたの夢は何んですか。そしてその夢は今もあなたの心の中を照らし続けているのでしょうか」、と…。 (完)

「粋な一匹文士」 伊神権太

 ゆめ。ユメ。夢。私のドリームは何か。正直言って、私はいつだって〝夢んなか〟を歩き、生きている。だれとて、そうかもしれない。いや、そうに違いないだろう。だって。みんな生きているってことは。夢を求めて歩いているのだから。
 私の場合、は。こどものころから、ずっと頭の中に自分なりの世界を描いて生きてきたが今もあのときの〝あこがれ〟のようなものは、頭の中で消えないで脈打っている。いや、むしろこの年になってなお、私のなかの夢細胞はますます大きく、増殖しつつあるのである。いったい、どんな夢なのか。
 最近なら。第一に家族みんなが目には見えない恐るべき新型コロナウイルスに感染することなく、元気で日々を過ごす。そうだ。毎日を何事もなく平々凡々と幸せに暮らしていければ、それはそれとして「ちいさな夢」の実現といってよいのではないか。とはいえ、夢はやはり、デッカイ方がいい。私なら何であれ、小学生のころから大好きだった書くこと、そう、私なりの物語やコラム、エッセイ、ドキュメント……を元気でいついつまでも書き続けることが出来、その内容が人々に喜んでいただけ、たとえ少しではあっても楽しく生きる寄すがになってもらえるなら、もう最高に満足なのである。

 ここで自分の夢の軌跡を生い立ちからたどってみよう。小学下級生のころは名人横綱栃錦(後の春日野日本相撲協会理事長)にあこがれ、大相撲があるとはラジオにかじりついていた。ラジオドラマの〈笛吹童子〉や〈紅孔雀〉などが一世を風靡していたころである。私はお相撲さんになりたくて仕方なく栃錦の真似をして下唇を前に出し、小学校の土俵で毎日のように嫌がる友だちを強引にひきづり出して相撲をしていた。負けなかった。栃錦の得意技だった上手出し投げに二枚蹴りを多用し、よく友だちを投げ捨てたものだ。ある時など「かあちゃん。あのね。ボクがいなくなったら、春日野部屋に入門するため東京に行っているから。覚えといて」と真剣な表情でおふくろに宣言したこともある。
 でも、よくよく考えると私はあまりに小さすぎた。デ、泣く泣く東京行きをあきらめた日のことがつい、きのうのようだ。そして。次にあこがれたのが歌手である。小学生のころ、私は音楽の時間になるとは女性教師に「いがみくんは、うたがとっても上手だから。みんなの前で歌ってほしい」とおだてられ、小学唱歌を何度も何度も歌った。ときには美空ひばりの〈リンゴ追分〉なども歌った。デ、相撲はダメでも歌手の道がある。ヨシッ、親に内緒で東京に行って歌手になるのだ、と決意したまでは良かったが、どうして東京に行ったらよいか分からず、そのまま親に言われるまま私学の中学に入学した。

 こんどは相撲が好きだったこともあり、入学したその日に柔道部に入ったのである。というわけで、中学校に入学してからは、それこそ雨の日も風の日も柔道着を自転車荷台に結わえ付けての登下校が続き、稽古は一日も休まなかった。中学三年で講道館柔道の初段をその中学では有史以来、初めて取得。高校一年生の時、運悪く母校を訪れた先輩にかけられた捨て身小内刈りが仇になり、右足を複雑骨折。このとき自宅療養で過ごした日々をのぞいては一日たりとも稽古を休んだことはなかったのである。
 稽古の虫だった私はおかげで不遇を克服、高二で二段、大学入学後も稽古は休むことなく技の練磨を続け、二年のときに19歳で三段を取得。オールミッションの大学対抗大会でも優秀選手賞に輝いた。そして、このころになると私の夢はなぜか、まず新聞記者になり、最終的には作家、すなわち私にしか書けない文の書き手、いわゆるこの世でただ一人の一匹文士(いっぴきぶんし)になろう、と。そう決意したのである。

 そして。波乱に富んだ新聞記者を卒業した私は今。新たな夢舞台である作家の世界に大きな一歩を踏み出している。わが人生では待ったなし、の粋な世界だといっていい。 (完)

「夢の形」 黒宮涼

 私が小説を書き始めたきっかけは、なんだったのだろうと思い返していた。
 小学生のころ。仲の良い友達が、ノートに小説を書いていた。小説といっても、罫線の入った横書きのノートに縦線を引いて、脚本のように役名と台詞だけを分けて書いたものだった。私は友達の真似をしてその脚本もどきの小説を書くようになった。
 内容は、前世である約束をした男女が現世で再会する話だったと思う。
 当時の私は少女漫画が大好きで、よく絵の練習をしていたのだが、その時から文章と絵の両方でかきたいものを表現するようになったことを覚えている。
 友達同士で創作したものを読み合って、面白いと少しだけクラスで評判になった。数人のクラスメイトの間で回し読みなどもされたことがある。そのノートは自分の手元に戻ってきているはずなのだが、何年かして部屋の中を探してみたがまったく見つからなかった。できれば読み返したかった。
 何冊にも渡ってひたすら頭の中で浮かぶ物語を絵や文章で書き続けていた。それは中学に上がり不登校になってからも続けていた。辛い日々を支えてくれたのが、創作だったのだ。母親にそれを見せて褒めてもらえたことがものすごく嬉しくて、だからこそ飽き性の私がその後も創作を続けていくことができたのだと思っている。
 高校を受験する時、「絵を描くことが好きなら」という先生からアドバイスを頂いてデザインの専門学校の高等課程を受けて入学した。その時はまだ小説家よりも、漫画家になりたいと思っていた。その後人間関係が原因で再び不登校になったが、施設に入ってからも創作意欲は消えることがなかったので、スケッチブックに落書きをしていたことを覚えている。
 施設を卒業してすぐの事だったと思う。小学校時代の友人と電話で話す機会があった。その子とは色々あったので気まずかったが、勇気を出して電話に出た。彼女は、また私の小説を読みたいと言ってくれた。その子は、最初にノートに小説を書いていた友人だった。しかし私は彼女に対し「もう書かないよ」と言った。その時はまだ漫画家になりたいと思っていたからだ。
 しかし復学してから、私は周りのクラスメイト達の絵の上手さに衝撃を受けた。それだけ努力してきたのだろうなと思った。私も絵の練習や勉強はしていたが、追いつけるところにいない、自分には難しいと感じてしまった。そして私は漫画家を諦めることにした。小説というものを本格的に学びだしたのは、その後だ。私はストーリーを創ることが好きだったので、自分の表現したいことを形にできる最良の方法が、小説だという結論に至った。
 私はその翌年、初めての長編小説を書き上げた。
 漫画家を諦めたことに対する後悔はない。私は自分にできることを精一杯やっていこうと決めたのだ。私の書いた物語で誰かの心が動かせたらとも思うが、そんな大層なことができなくても書いたことで誰かが楽しんでくれることが一番嬉しい。それが私が小説を書き続けている理由だ。
 
「小説はもう書かないの?」
 あのとき友人に電話できかれた質問が、私の心に残っている。
 今もう一度その質問をされたら、私は笑ってこう返すつもりだ。
「書いているよ」 (完)

「最後の夢」 真伏善人

  これまでどれだけの夢を追い、かなっただろうか。振り返ってみると空想的な願望がほとんどだったように思える。その中でかなった現実はどのようなものがあっただろう。
 まずは少年期であろう。これは本当に嬉しいことだった。
 世界大戦で家を失い、疎開先で住んだ家が、隙間だらけの小屋であった。そこで家族が必死で仕事に励み、家を新築したことである。それまで本当に惨めな思いをしていたので、嬉しさは格別であった。
 その次は義務教育を終え、社会に出てからのことである。
 ようやく手にしたギターで静かな曲を弾いていると、なぜか淋しい気持ちがこみ上げ、考えることなく旅に出た。故郷につながる中央線に乗り、長野県の松本で降り、乗り換える。見知らぬ土地に足を踏み入れ、気の向くままに街を外れて、郊外をただたださ迷っていた。いつか陽が西に傾いているのに気づき夢が覚めた。さあ、これはどこかに泊まらねばと踵を返し、道を戻る。運よく宿に泊まれたのは幸運だったからであろう。
 その後、曲がりなりにも家庭を築き、年月が経ったある日、ふと雑誌の風景写真が目に入った。こんな景色が本当にあるのかと、食い入るように見入った。大正池とある。雑に立ち残っている枯れた木々が、濃紺の水面から突き上がっている。ここはどこだろう。目をこらすと長野県の上高地とある。いてもたってもいられなかった。どうやって行けばと懸命に調べた。松本から電鉄に乗り換え、島々で降りバスに乗かえる。煙を吐いている山が見え、まもなく終点だった。午後の日差しが傾いている。まずは泊まるところをと、車窓から見えていた平屋建てへと戻り歩く。ここでも簡単に泊まれ、早い夕食をいただく。翌日は早起きだった。朝食もそこそこに宿を出る。短い坂を下りると湖畔には誰もいなかった。朝霧が立ち込める湖面には、あの枯れ木の群れが、恐るべき静かさで立っていた。身じろぎもせず見つめていると、次第に何かが身体を締め付けてくる。とても耐えられなかった。振り切るように背を向けた。敗者は朝一番の、がら空きのバスに逃げ込んだ。
 夢は夢、現実の怖さにたじろいだロマンチストだった。
 その後も懲りずに夢を追い続けてしまう。
 晴れた日に遠い山並みを眺めていると、無性に登りたくなった。そしてあの美しい山と一体になりたいと思った。近くの山から始めて、とうとうアルプスに挑戦した。憧れの槍ヶ岳にだ。わくわくと、ドキドキを胸にしながら何とか辛い勾配を登り切って、槍の穂先にたどりつく。この時ばかりの感激はいまでも胸に残っている。
 このような夢や冒険への憧れは、この後も続けてきたが、さすがに身心共に衰えを感じてくると、夢もただの夢になってしまっている。
 ここまで来て、かなえたい最後の夢がひとつだけある。
 それは先立った友人のもとへ旅立つことだ。
 その彼は後輩で、小柄でも逞しい体つきであった。言葉数は少なかったが、すぐに仲良くなっていた。その彼に、山間を流れる川での釣りに誘われ、目の覚める楽しさ、厳しさを経験させてもらったのである。道なき山奥に入ると、交互に竿を出しながら源流の美しさを楽しむ。時にはテントで夜を過ごすこともあったし、山裾にある彼の実家に寝泊まりもした。山奥の神秘さには、これからの生き方をも変えるという強さを感じたのである。
 やはり自然の中で、彼と共に過ごしたいのが夢なのだ。
 そんな彼が旅立ってから六年になろうとしている。一日たりとも忘れることのない、あの朴訥さは変わっていないだろう。 (完)