「思うひと」 伊神権太

 たより、とは。ふつう便りと書くが、私はひらがなで書く方を好む。情緒があるからだ。
 金田一京助さん監修の新明解国語辞典(三省堂、第五版)によれば、「何かに関する情報」「(近況を知らせる)手紙」とある。これが新村出さん編の「広辞苑」(第五版、岩波書店)となると、(1)たよること。たのみとする人や人物。特に、資力。経済力。(2)よい機会。ついで(3)ゆかり。えん。手づる(4)手段。方便(5)具合。配合。とりあわせ(6)おとずれ。音信。手紙。使者、と一歩踏み込んだ解釈だ。
 とはいえ、一般に言う「たより」となると、やはり手紙か音信のいずれかだろう。その手紙のたよりだが、私が一番、それこそ待ち遠しく頼りに思って心を浮き立たせるのが年に一度、年の初めの年賀状である。だから決まって届くはずのそれが来ないと何かあったのでは、とつい心配になってしまう。だが、これとて普通の近況のやりとりであり、真に思う人との「たより」となると、年賀状のようなわけにはいかない。

 あれから何年か、がたった。あの人は元気にしているだろうか。今はどこで、どうしているのか。たった一枚でいい、はがきでも手紙でもいい。電話でも、メールでも、ただの一行「元気でいるから」でいいので連絡がほしい。私にとっての「たより」は、こうした類のものである。そこには、小学生のころ胸をときめかせた、淡いシャボン玉のような初恋の少女がいれば、その後大人になってからの秘めごとも潜んでいる。いやいや、大抵の場合が失恋エレジーで、そんな哀愁を伴う響きが染みついている。だれにでもある、ごくごく普通の恋物語だが何の音信もなかった人からの「たより」ほど、嬉しいものはない。
 能登に居たころ、ふり返れば、あのころはまだ若くいまだに、淡い心を引きずったままの多くの出会いと別れがあった。ある日、支局の郵便ポストに岡村孝子の<夢をあきらめないで>のカセットがチョコレートと眼鏡ふきと一緒に“イガミさまへ ゆめをあきらめないでください”と書かれたメモ用紙と一緒に投げ込まれていたことがある。その日はバレンタインデーで、そうしたことが在職中に三度、四度と繰り返された。私はお礼を言いたいのだが相手が分からないので、お返しのしようもなく、何かの席などで心当たりの女性何人かに確かめても反応がなく、その人が誰なのかは想像の域を出ていない。

 そんな折も折り、当時、ミス和倉温泉で私のベストセラー本「泣かんとこ風記者ごん!」の出版記念会での司会など何かにつけ、手助けしてくれたキヨミとある日「五十年後の今月今夜、七尾港の矢田新埠頭で会おう。私は、きっとこの波止場にくるから」と本気で約束したことがある。彼女の結婚式を翌日に控え、私たちはその町のスナック「アダム&イヴ」で夜がふけるのも忘れて語り合い、私は彼女に向かい「ありがとう」と礼を言い、互いに指切りをしたのだった。あれから、もう何年、たっただろう。おそらく、彼女からのたよりは、再会するその日まではないに違いない。

 出会いと別れは、その後も繰り返し私の前にたちはだかった。
 再会したい人からの音信は大半が不通のままで、これまで「時」だけが無言のなか、過ぎてきた。キヨミは、この空の下で元気でいるのだろうか。そして大垣のAさん、大津のBさん、一宮のCさん……。みな元気でいればいい。そして、もしもこのウエブ文学同人誌「熱砂」のテーマエッセイ集が目に止まったのなら。ここで私は敢えて言う。「元気でいるから」と。これが、お世話になった方々に対する私からの心からの「たより」である。
 そしてキヨミにも。「もしも九十歳になったら、約束したその日に七尾の港に、必ず出向くから。待っていてほしい。その日がきたらカセットの礼も言いたい」ともー。

「パリからの異国便り」 碧木ニイナ

 パリから和紙の封書が届きました。趣のある白地に淡いピンクの桜の模様があります。差出人は親子ほど年齢の違うフランスの友人、セラ。
 桜の季節には少し早い三月初めのことでした。同じ柄の便箋には手書きの丸みを帯びたアーティスティックな文字がきれいに並んでいて、一字一字に注意を払いながら心を込めて書いてくれた彼女の想いが伝わってくるようです。
 実は、その封筒と便箋はバレンタインデーに私がプレゼントしたものでした。箱の中には縮緬(ちりめん)の風呂敷、私のお古の帯揚げと帯締め、浮世絵の図柄のファイル、扇子、美濃和紙で作られたウチワなど彼女が喜びそうなものを一緒に入れました。おしゃれでセンスの良い彼女のことですから、それらの贈り物を私が想像もしないユニークな使い方で、その個性を際だたせてくれることでしょう。
 旅行好きな彼女の便りには、プレゼントへのお礼と共に「次の旅先は日本と決めています。いろいろ情報をください。日本で会えるのを楽しみにしています」とも記してあって、文末には「あなたのフランスの友人、セラ」とあります。
 セラとは十七年ほど前にオーストラリアのシドニーで知り合いました。彼女はフランスの大学を一年間休学し、英語のレベルアップを図るためにシドニーに来たとのことでしたが、シャイで奥ゆかしいという言葉がぴったりする女の子でした。
 私がシドニーの旅行代理店で働いていたとき、「夏休みにゴールドコーストを旅したい」という彼女の電話の応対をしたのがきっかけでした。私も彼女も同じ時期に帰国することになり、私の住まいで何人かの友人を招いて、お別れパーティをしたことなどが懐かしく思い出されます。
 それから毎年、途切れることなくクリスマスカードがパリと岐阜を行き来するようになりました。昨年のカードは、セラと彼女のパートナーと、友人のカップルの四人がサンタクロースに扮した楽しげな写真入りのものでした。それに加えて、セラが昨年九月下旬にパートナーと旅した、北アフリカのチュニジアでのスナップ写真と手紙が同封されていました。
 彼女はとても幸せそうです。あの頃より体が引き締まって、ジムで鍛えているのだろうと想像させる体型に当時と同じロングヘア。パートナーはなかなかのイケメンでユーモラスな男性のようです。
 チュニジアは元フランス領でヨーロッパ世界とアラブ世界が交錯し、近代と古代が不思議なハーモニーでブレンドされた異国情緒溢れる国です。
「フランス通りにある石造りのフランス門を境に新市街と旧市街に分かれ、新市街では白い壁に青い窓枠のアール・ヌーヴォーやアール・デコ様式の建物など、数多くの貴重な建造物を見ることができます。旧市街は迷路のように路地が入り組んでいて、白い家に馬の蹄鉄の形をした長円形の青い扉がきれいです。空と地中海とチュニジアン・ブルー、真っ白な壁、咲き乱れる紫色のブーゲンビリアが町全体をまるで絵画のように見せています。白い建物の扉や窓枠やバルコニーに塗られた鮮やかな青、それがチュニジアン・ブルーです」(セラの手紙の抜粋)
 セラはその美しい風景をバックに、当時と少しも変わらない顔立ちにリラックスした様子で穏やかな笑みを浮かべています。私はしばらく見入っていたのですが、やがて幸福感が私の中をじんわり静かに駆けめぐりました。彼女はアフリカ系フランス人でパートナーは白人。セラの生い立ちを知る身は、彼女の末永い幸せを祈るばかりです。
 彼女に結婚のお祝いをと思ったのですが、その連絡はもらっていないし…、結局私は、バレンタインデーに「愛」を贈ることにしたのでした。
 セラの便りを受け取って数日後に、東日本大震災が勃発。直接の影響はなかったとはいえ、ザワザワ心が揺れる私に翌日、セラからパソコンにメールが入りました。それも手書きの文字です。
「…心配しています…私はいつもあなたと共にいます…」
 手書きの文字から伝わる彼女の心情やぬくもり。私はしみじみうれしく早速、無事でいると返信しました。
 セラとの日本での再会、きっと叶いますよね。

「便り」 牧 すすむ

 三日おくれの 便りをのせて
 船が行く行く 波浮港

 少々古いが、あの「都はるみ」のヒット曲「あんこ椿は恋の花」の唄い出し部分である。他にも“便り”を歌詞に取り入れたものは数多い。
 
 遠い 遠い
 思い出しても 遠い空
 必ず東京へ ついたなら
 便りおくれと 云った娘(ひと)

「春日八郎」の「別れの一本杉」の二番の一節─。

 南の丘を はるばると
 郵便馬車が やって来る
 うれしい便りを 乗せて
 ひづめのひびきも かるく

 軽快なリズムで昭和の青春を歌う、「岡本敦郎」の「憧れの郵便馬車」だ。若い人達には馴染みの無い歌ばかりでいささか恐縮ではあるけれど、このように“便り”というのは、時にはその手紙の内容よりももっと奥深い思いを我々に届けてくれていた気がする。
 そして又、“便り”という言葉には限り無く広がる夢と、心を揺さぶる力があったと思う。
 転じて時は今──。携帯電話の時代。
  小学生の子供達までが一日中小さな画面を見つめ、ピッピッとボタンを押している。確かにメールは便利だ。何処にいても簡単に相手とのコミュニケーションが計れる。その上、撮りたての写真までが瞬時に送受信できてしまう。全く驚くべき時代の変貌である。
 もちろん私もその恩恵にあずかっている一人なのだが、若い人達のように様々な機能を駆使することなどは望むべくもない。とはいえ折角の「文明の力」。なんとかメールと写真の送受信だけは会得出来た。それに仕事上、連絡の記録がメールに残るのも有り難い。
 然し考えてみれば、手の平の中にすっぽりと隠れてしまう程に小さなケータイから発信された電波が、秒速で世界の隅々にまで届いてしまうことの不思議さ──。改めて時代の進化を思わずにいられないのである。
 ただ、便利さとは裏腹に手書きの情緒は失われた。文字が示すその人の性格や心の動きはメールからは見えない。きっちりと枠にはまって次々と画面に現れて来る活字は、まるでマジックそのものだ。
 とはいえ、そんなことにも慣れた昨今、私もこの便利極まりないケータイなるものを大いに利用させてもらっている。仕事ではもちろんのこと、もう一つの目的として海外にいる子供達とのコミュニケーションの手段だ。
 子供といってもメキシコにいる息子は去年結婚したし、イギリスにいる娘は四歳の男の子チャーリーと、二ヶ月になる女の子ルーシーの母。孫の顔を見るのも容易ではない。勢い電話のお世話になるわけだが、メールの方も頻繁である。ただ、パソコンの前に座るよりもやっぱり手軽な「ケータイメール」を使うことが多い。会話のように瞬時に出来るやりとりが嬉しい。
 人は勝手なもので、こんな時は“便り”のたの字も頭に無く、ひらすら小さな画面との“睨めっこ”が続くことになる。
 そして又、私にはこのケータイを利用しているもう一つの理由(わけ)がある。それは英語のレッスン。イギリスへ嫁いでいる娘の家族は当然全部がイギリス人。当たり前に孫の言葉も英語が主となっている。
 その孫が生まれる時、将来は孫と英語で話したいとの思いから始めた六十の手習い。仕事の都合で教室へ通うことができず、流れで娘と婿のボブが先生ということに─。
 そして更に又その流れで、メキシコにいる次男の嫁の亜樹子さんとのメールも英文にしてもらい、ものはついでとばかり、次男の親友で留学生としてアルゼンチンから来日中のダリオ君にもメールは英文でと依頼した。
だが、これがなかなか難しく、読むのも書くのも一苦労といったところで上達には程遠いようである。
 こういったメールの便利さには“便り”の力は到底及ばない。残念な思いはあってもやはり時代の流れに棹は刺せないのが現実といったところだろうか。本棚に小さく納まった便箋が淋しそうに見えた。
 と、突然、私のケータイにメールの受信音。開けばメキシコから─。「HELLO OTOSAN」 平成版の“便り”である。

「朝だよりありてい」 真伏善人

 朝、目が覚めて起きあがる意思のできるまでが、ぐずぐずおよそ二十ぷんくらい。くらくらしながらベッドから離れて、新聞をそっと寝室に持ち帰り、カーテンの閉まったままで枕もとの灯りを点ける。
 仰向けで第一面の見出しをうつろに眺めていると、まぶたの重さで直にコラムへ。横長欄をジグザグと判読。で右から開き始めて目を泳がせ、気の留まる見出しをじっと見つめて、三センチばかりの吐息。以下三面記事をめくると、あとはテレビ番組欄。昨日のできごとや主義主張、それにイベント、生活情報などがなんとなく頭に入ればそれでよしか。
 朝食の合図があって、いつものメニューを、いつもの箸使いでいただく。休日は出勤するよりもずっといい。でもう一度ベッドのお世話になって、ラジオのイヤホンを耳の穴にこそっと入れる。ニュース、気象情報と道路交通情報の二度目が流れたところで、ゲタップ。
 さてと、とこの時間帯に欠かせないカフェンの摂取に出かける。カフェの重いドアを引いて左横にあるラックから適当な新聞を選び、十数席あるいびつな楕円テーブルに席を取る。アメリカンコーヒーが、ソッコーでくるのを横目にして、他社の新聞に目を通す。社による解釈、色合いの違いがこの自分にも判って、こりゃなんだろうと表現の自由さを思う。
 うしろでのおだやかな笑い声と語り口に耳を傾けると、高齢者たちの田畑や花づくりの話題。いい時間を過ごしていて羨ましいと、適温になったコーヒーをすする。
 ここまでの「朝だより」で、目覚めてからの気持ちが五割埋まる。レジをすませ、残りの気持ちを埋めてもらうべく、うす汚れた自転車によいこらせとまたがる。
 道すがら、この間遇った茶トラの猫はいずこにと、露地また露地へとハンドルを操作。目を配り、耳を澄ませど姿はおがめず、残念至極。マイナス一割。
 共同住宅に戻って、未だに炬燵のある小居間へ。まだまだこれにかぎると座椅子にもたれて、今日の折り込みチラシの情報チェックを開始。ちなみに一週間の傾向は、
 日曜 食品スーパー、求人案内、観光旅行
 月曜 ぱちんこ、生命保険
 火曜 ぱちんこ、ドラッグ、食品スーパー
 水曜 ぱちんこ、ホームセンター、大手スーパー
 木曜 ぱちんこ、ハンズ、飲食、ジュエリー
 金曜 ぱちんこ、車、不動産、飲食、ジュエリー
 土曜 ぱちんこ、家電・洋服・スポーツ用品量販、不動産、車、家具、携帯
 と、まあこのような按配。中でも土曜のチラシの多さははんぱでなく、手にすると思わず笑みがこぼれてしまうほどの超重さ。こんなやりがいのある仕分け作業には、普通でない幸せを感じてしまう。しかし気は引き締めて、色鮮やかなキャッチコピーに惑わされないようにと、査定は厳しくマジでする。どうせ相手はぺらのチラシであるから容赦なく、ウソつくな、ありえん、サギだを連発しても、いえ本当ですなどと言えるでなし、ストレスの大発散にもなり、なにか勇気がわいてくる。プラス四割。
 ここで調子にのらず、あと二割。呼吸を整え、起きてからの「朝だより」もろもろを今一度、手回しミキサーにかけて、結果、昼からは出かけるに及ばずのお告げ色が出れば引きこもり、読書とギターと雑記整理にする。これ加算ゼロ割。行くに値色ならば、さっそく行動をシミュレーション。足は電車か車か自転車か。そして着て行くものはどうするねん。履いてく物はどうするねん。折り合いつけば三面鏡の正面へ。これで嬉嬉の積算十割。 このように、休日は「朝だより」なしでは、心が満たされぬようになって久しい。

「再会」 山の杜伊吹

 名古屋のよく当たると有名な運命鑑定士のもとを家族で訪れ、旦那にも秘密にしていた事まで言い当てられて帰ってきた次の日、仕事が入った。
 K市の歴史の本を作るので、古い写真を集めて複写してほしいという。枚数は五百枚、もちろん写真が撮られた年代、場所、歴史的背景までも明らかにしなければならない。もともと古いものが好きなのと、歴史に興味があったので引き受けた。
 まずは、市内の写真館、写真愛好家をあたり、酒蔵、商店、病院、神社、寺、古くから地元に住む人を訪ねた。・・・しかしほぼ全滅。
 古い写真なんて、そうそう見つからないのである。一番多かったのは、先代が亡くなって遺品を整理した際に、写真も処分したというもの。捨てることが美徳とさえなっている現代において、それは仕方のない事なのかも知れない。
 家を建て替えるのをきっかけに、引っ越しで荷物になるから捨ててしまったとか。昔は火事が多かったらしく、燃えてしまったという話も多かった。あるにはあるが、蔵の中にしまい込んでどこにあるか分からない、探せないというケースも多々あった。持っているはずの人を見つけ出しても、耳が遠くなっていて、私が何度「古い写真」と言っても「シリンカン」としか聞こえない。
 お金持ちの家には古い時代から写真機があって、貴重な写真もあるが、名家ほど保守的なもの、世に出したくない。
 三百年以上続く老舗の酒蔵は、代々国会議員を輩出した家柄。電話対応も最悪だったが、手紙を送りなんとか取材の許可を取った。だが、取材日の朝に「やっぱり写真なかったわ」とドタキャン。こっちは生後九ヶ月の愛娘を預けるために、保育所の予約も入れてあるのだ。いま思い出しても気分が悪い。これで選挙前には清き一票を、か。
 もちろんこんな事ばかりではなくて、温かい人にもたくさん出会えた。写真愛好家の人から、地元の名士九十を超えるおじいさんを紹介され、そこから元高校の先生、そして最後に地元の歴史研究家へと辿り着くことができた。
 取材の後半に、母校の小学校を訪れることになった。校舎に入るとあの頃と同じ匂いがして懐かしい。校長室で古い写真を探していると、職員玄関の二宮金次郎像の前で、整列してクラスメイトと記念写真におさまる、幼き日の私の姿を見つけた。
 三十年以上前の自分と、こんな形で再会するとは!
 祖母に言われるまま入学式用の赤いワンピースを着て、母のなすがままに前髪を短くカットして、はじっこに立っている。
 その後に襲いかかる数々の苦悩、苦い出来事、波瀾万丈の人生も知らずに。少ししかめたまゆとカメラを弱々しく見つめる目。暗い表情がいかにも幸薄そうで、運のなさを象徴するかのようである。なにも知らない、あの頃のわたし。夢さえ抱く前。
 私の隣には、校長先生が立っている。たしかこの写真を撮ってそう遠くない時期にガンになり、任期途中で亡くなられた事を朧げながら思い出した。
 大人になって、すべてが分かる。いや、いまだに分からぬ事がある。人は死ぬとどこへ行くのだろう。魂だけ生きたままなのか、すべてが無になってしまうのか。
 最近よく思うのだ。死に向かって生きている事を。いたいけな幼子を保育所に預け、あくせくと働く現在の自分。別れの時は涙が出てしまう。お迎えに行くと、日当たりのよい窓のそばで、室内だというのにベビーカーに乗せられて、ぼんやり外を見ているのは紛れもなく私の赤ちゃんだ。
 数十年後、私が車イスに乗せられて、デイサービス施設に預けられ、日がな一日窓の外を見て過ごし、娘の迎えをひたすらじっと待つ日が来るのかも知れないなと思う。
 今年の冬は例年以上に寒く、パソコンを打つ手にしもやけができた。悩みばかりが深く、そこから抜け出そうとあがいていた。顔も見た事のない編集者にアゴで使われ、情けなくて、あわれで、みじめで、苦い味の悔し涙を毎日流した。
 それももう終わり。古い写真を集めた歴史の本がもうすぐ発刊される。ママは頑張ったよ。私の人生において、けっして忘れる事が出来ない一冊になるだろう。
 最後に取材した人から、不思議な縁で占い師を紹介された。この世の出来事はあの世からの便り。気づかない人には夢で知らせる。それでも分からないなら夢枕に立つ。そして、他人の口から言葉で伝えられる。
 私は、なにかを受け取っただろうか。