「スコール 2」 山の杜伊吹

 忙しさのお陰で、やっと忘れられたと思ったのに、神のいたずらか。サーキット場で彼と再会するとは。
 私はシャッター音とフラッシュの渦の中にいた。愛嬌を振りまくのが仕事で、どんなに気持ち悪いカメラ小僧にも、しつこいストーカーのような記者にも笑顔を見せていたその時。視界の右端にあの人の姿を認めた瞬間に、全身が沸騰したように熱くなり心臓の高鳴りが止まらない。うっすら汗も滲んでくる。
 よく似た人は世の中にいる。他人のそら似かも知れない。似た髪型、背、肩幅、顔の形…。心を落ち着かせようとするが、どうしても、ちらちら見てしまう。動揺で笑顔がこわばった。
 これまで、いつか街で彼にバッタリ会わないかと熱望していた。会ったらなんと言って罵倒してやろうと思いながら、ひたすらその時を待っていた。
 まずは、平手打ちし、その後いくつかの恨み節を大声で言ってやるのだ。渋谷のスクランブル交差点の真ん中であろうが、新橋の駅前であろうが、構わない。そんなことを想像する自分に、冷静になれよともう一人の自分がたしなめてくる。「大好きだった!」複雑にいろんな感情が入り乱れ、余計にみじめな気持ちになる。数年間この繰り返しであった。別れを告げずに突然いなくなった狡い男が、近くにいる。
 しかしいざ、2人で会うと恨み言の一つも言えなかった。かつて好きだった人を醜い顔をして汚い言葉を使ってなじり、最後の印象までを悪くしたくない、そんな防衛本能が働いたのか。静かにその時は流れた。
 画家の父親がモデルを探しているからどうか、という話であった。その名を聞いても知らないが、彼がどんな家に住んでおり、どんな両親に育てられたのか、興味があったので引き受けることにした。彼の素性は謎のままだったから。
 学校の教科書にも載ったことがあるという古い門をくぐると、手入れされた日本庭園があり、玄関まで数分歩く。広い敷地の中に建つ家は大きな古い日本家屋であった。
 目鼻立ちのはっきりした美しい母親が出迎えてくれた。ノルウェー人とのハーフと聞いていた。ただ、「今度の女はあなたですね。息子とはどういった関係でしょう?」と言葉には出さないが、どこか目の奥から冷ややかな、不信感のようなものが伝わってきた。
 ガラス窓越しに遠く海が見える。今日は穏やかな波だ。父親は純粋な日本人で「この部屋から見える海が一番好きだから」と、1階の広い東南の部屋を制作用に使っていた。
 まだ3月であったが、暖かい日で裸になっても全然寒くはなかった。羽織るよう渡されたのは、さっき見た母親の着物だろうか。かつて好きだった人の父親は、黙って絵筆を走らせていた。海を見ていると、あっという間に時は過ぎた。
 その後彼と近くの三浦半島の海に行った。海水浴をするには季節外れということもあり、砂浜にいるのは米軍の1家族のみであった。まだ3月だというのに海に入っている。私たちも、服を着たまま海に入った。じゃれあっていると、かつて2人で訪れた底抜けに明るい南の島を思い出した。
 何度か彼の実家を訪れ、母親の好奇の視線にさらされながら、父親の前で裸になり、お金を貰い、彼と会うという日が続いた。
 鎌倉の街、海岸沿いを彼のポルシェで走り抜け、金沢文庫へ。人工的に造られたモノが一切ない海を初めて見た。東西南北360度、海と、岸壁と木々のみが視界に広がっている。強い海風にまともにさらされる。
 遥か遠く、原始の時代に2人だけでいるような衝撃的な風景で今も忘れることができない。彼はとっておきの場所だと言った。
 海を眺める彼の横顔を見つめる。やっぱりヤシの木に似ている。海風にあおられて太く真っ直ぐな幹はたおやかに揺れて、倒れない強さがある。彼の長めの髪が風になびいていた。ああ私はこの横顔が好きなのだ。元に戻るかも知れないと思ってはその思いを打ち消した。波のように寄せては離れていく、そんな人なのだ。
 私の中の海は明るい太陽の光が降り注ぐ開放的な海だけど、あの人の中の海は、そう、美しいけど冷たくて悲しい灰色をしたノルウェーの海。その海に決して私を近づけない。

 最後に会ったのは、遊び半分で夜の海に潜った時であった。2人で暗い海の底に沈んで横たわっている人を見た。私たちは黙って砂浜に上がり、そのことについて一言も話せなかった。これが神からの最後の啓示に思え、一切会うのをやめた。(了)

 

「サンタモニカ」 牧すすむ

 その時私は水平線に沈む美しい夕陽を見つめていた。どこまでも穏やかに広がるサンタモニカの海は、カモメが高くそして低く遊ぶように飛び交い、大きな太陽が黄金色に全てを染めて静かに海へと溶け落ちて行く。
 少し前、私は妻と二人でこの地を訪れた。成田から十一時間のフライトも隣の席に座り合わせた中年の女性との会話が弾み、退屈が紛れたこともあり短い旅に思えた。
 若い頃に離婚して一人暮しだという彼女は、年一回ラスベガスへ遊びに行くのが楽しみだと語り、ビールを口に運びながら「気ままな人生ですよ」と屈託なく笑っていた。
 少し微睡(まどろ)んだと思う間もなく飛行機は「ロスアンゼルス国際空港」に到着した。ロビーを出ると息子が待っていてくれた。スーツケースを車に積み、一路トーランスにある彼の自宅へー。幼稚園に孫を迎えに行っていたというお嫁さんともにこやかな再会だった。
 昨年までチリに勤務していた息子は今年からロスに転勤、新しい生活が始まった。仕事柄外国暮しが長く、なかなか帰国出来ないこともあって彼らと会うのも久しぶりである。先回は二年前にチリを訪問した時。そんなこともあって、孫との再会は驚きの連続! 三才になった彼の言葉の半分は英語。当たり前のことと思っていてもやっぱり驚く。
 息子が休みを取ってロスのあちこちを案内してくれた。南国らしい空と風、そしていたる所に林立する十五メートルはあろうかと思われる椰子の木。美しい花々。又、近くには映画のメッカ「ハリウッド」があり、あの「ターミネーター」誕生の地も隣接している。私も妻も目を丸くするばかりだ。
 広大な土地に広がる風景、そこは私が過去に訪れたどの国々とも違う。そんな印象に圧倒されてしまった。高い建物は余り無く、住宅やスーパーその他の殆んどの建物が平家。つまり一階建てだ。庭も広い。スーパーに至っては横幅数百メートルはあろうかと思われる程長く、駐車場はまるで大きな公園のようだった。
 道路も片側五~六車線というのが当たり前で、更にその道路を埋め尽くす車の量に〝さすがアメリカは車社会だ〟と改めて痛感させられた。クラクションの音が頻繁になるのも日本との違いである。
 息子やお嫁さんがこんな道を毎日平気で運転しているのも驚きだった。しかも左ハンドルで日本とは逆の右側通行。「慣れというのはすごいものだねー。」と妻もしきりに感心の声を上げていた。
 私がサンタモニカの町でもう一つ日本との違いを目にしたものがある。それはお腹の大きな女性が多いこと。といっても決して太っているという話ではない。妊婦さんが多いのだ。安心して子供が産めないと言われている日本とは大違い。政治が、いや政治家が進めようとしている未来を思わずにはいられない事実だった。
「外を見て内を知る」それは正にこのことなんだな、と。この時ばかりはガラにもなく考え込んでしまった。
 買い物途中、息子が是非見せたいものがあるからと車で五分位の所にある海岸へ出向いた。日暮れが近い時間だったが車を降りて海辺に立つと、そこには美しい夕陽の世界が拡がっていた。眩しい程の黄金色が海と空を覆い尽くし、波間に遊ぶ人達や高くそびえる椰子の木々、海岸沿いに建ち並ぶ家々の屋根と群れ飛ぶカモメの羽根までもがその色に染まり、南国の一日を終えようとしていた。
「サンタモニカの夕日は世界的に有名なんだよ」。砂浜に長い影を落としながら息子がポツンと言った。その脇で妻に手を引かれた孫の小さな影が忙しなく踊り続ける。気が付けば、私の唇からかすかに漏れる〝桜田淳子〟の「サンタモニカの風」が、汐風の中に甘く優しく溶け込んで行くのを感じていた。 (完)

汐音と鬼太夫(掌編時代小説ふう)

 潮騒が聞こえている。鬼太夫は耳をすまし、まるで汐音の祈りのようだと思った。

 浜辺に打ちたてられた十字架に彼は縛られ、処刑されるのを待っている。彼はこの辺の海は知り尽くしている。どんなに入り組んだ湾も複雑な地形の島の岩だって知っている。俺はなんといっても、九鬼水軍の頭だったんだからな。今頃は飛び魚がそこら中の海を滑空しているはずだ。彼が汐音を女房にしたのは三年前の夏の終わりの日差しが強い昼下がりだった。

 そのころ彼は織田信長に従い九鬼水軍の頭として毛利や叡山の兵と戦い鉄甲船に乗り散々に打ち破り敵兵を殺しまくったものだ。
 信長公の戦術はいつも冠いていて驚かされた。誰が船に鉄の鎧を着せ鉄砲や矢を防ごうなどと考えるであろう。無敵なはずだ。哀れなのは敵の兵だった。慌てふためいて九鬼の兵の餌食になるばかりだった。
 汐音に会ったのは、そんな敵の一向衆が最後に逃げ込んだある島の岸壁に立つ城だった。鬼大夫の役目は、小舟に乗り追い詰められた一向衆の人々が仕方なく三十㍍はあろうかという崖から飛び込むのを待ち受けていて運良く生き残った者を槍で刺し留めをすることだった。海には死体があふれ血で赤く染まった。もう殺すのにも倦んだ。もう自分の海を汚したくはない。 拳も紅く染まり洗ったとてたやすく取れやしない。死臭が付いて離れない。そう思って空を見上げた時だ。崖の上に若いなよなよとした娘が髪を靡かせ立っているのが見えた。鬼太夫は多分城主の娘だろうと一瞬思った。その刹那赤い単衣の着物が翻って短冊が舞い落ちるように見えた。彼は思わず海深く飛び込んでいた。水中深く潜り海面を見上げた。そこには幾つも骸が浮かび赤く血が流れている。彼が見終えるのと半裸になった娘が落ちて来るのは、同時だった。

 黄金の夕日が海に射し込み娘の躰を美しく映し出した。神々しいものを見るように彼は沈んで来る娘を見、その腕に受け止めた。娘の黒髪が長く棚引き、まるで海草のようだと思った。
彼は気を失った娘の首を腕に絡め水中を泳ぎ小舟へたどり着くと娘を自分の着物で包み船の中へ運び入れた。それはやってはならなぬことだったが、頭の彼は仲間の者達に内緒になと口を封じそのまま自分の小屋へと向かった。
 小屋は戦の中の仮の家で粗末だったが、娘を横たえるとつくづくと全身を見た。娘は十五、六で鶴のように首が長く体もたおやかで髪が胴辺りまで流れていた。彼は禁を犯し連れてきてしまったがどうしたもんかと考えた。だが欲望の方がそれに勝った。どうしようもなく手に入れ女房にしたくなったのだ。小屋に射し込む夕焼けが娘の真珠色に輝く乳白色の肌に当たりいろんな色に輝いて見えた。小屋には潮騒の音が聞こえて来る。彼は、娘を汐音と呼ぶことにした。彼は宝ものを見つけたように娘を抱き、愛おしんだ。髪が彼の首に巻き付いて心地良かった。潮の香りもした。娘は小波のような声を上げた。

 人の口には扉が立てられない。いつしか皆の噂が広まりとうとう信長公の耳にまで伝わってしまった。二人は追われることになった。鬼太夫は志摩の海は知り尽くしている。追っ手を逃れ、日ごと島を変え逃げた。ある時は無人島へ。食べる物は彼が魚や貝や海老を、娘が野草や木の実を。それで何年か過ごすことが出来た。初めは怯えてばかりいた汐音も時折、微笑を浮かべるようになってきた。
 ある時、仲間の一人が娘さえ出せば鬼太夫の命だけは助けてもらえると言ってきたが、彼は断った。一時でも幸福を失いたくはなかったのだ。とうとう追い詰められた鬼太夫は二人で死のうと考えある時、汐音を抱え海深く潜っていった。五㍍ほどで汐音の息は止まり、彼も苦しくなり思わず手を離し浮き上がってしまった。

 彼は捕まり十字架に縛られた。槍が彼の胸に当てられた時、彼は汐音が日ごろ朝夕祈っていた南無阿弥陀仏と呟いた。(完)

「語り継がれる歌〈琵琶湖周航の歌〉」 眞鍋京子

♪われは湖(うみ)の子 さすらひの
 旅にしあれば しみじみと……
    (小口太郎作詞 吉田千秋作曲)

 夕方五時、大津市役所からは「琵琶湖周航の歌」がメロディーになって流れて来る。退庁の時刻を知らせる音楽である。
 琵琶湖は日本で一番大きい湖である。我々は湖(みずうみ)とは言わず海と言っている。一九一七(大正六)年六月二十八日。そんな湖に魅せられ、歌に引き寄せられた人々が紡いできたのである。生みの親は、旧制三高(京都大学)の学生だった小口太郎(一八九七~一九二四年)。水上部(ボート部)の琵琶湖一周の途上、今津の旅館「丁子屋」でクルーの一人が「小口がこんな歌を作った」と、歌詞を披露したとされている。
 流麗な七五調は、当時流行していた原曲「ひつじぐさ」のメロディーに乗せてみると不思議と良くなじみ一つの歌が出来上がったと言われている。作曲者は長らく不明だったが九三年、新聞報道をきっかけに吉田千秋(一八九五~一九一九年)と判明した。英国の詩を翻訳し、キリスト教の賛美歌風に曲を付けたものだった。小口と吉田は同世代で、ともに早世した。小口が二十六歳、吉田は二十四歳だった。ふたりは一つの歌を共作しながら、生涯顔を合わせることはなかった。

 歌はやがて三高水上部の寮歌として定着し学生に浸透する。七一年(昭和四十六)年、歌手の加藤登紀子さんがカバーし大ヒット、全国に知られる青春の歌となった。
 今や湖国では「第二の県歌」として会合や宴会の締めくくりとして歌われることもしばしばとなった。幾多の変遷を経て誕生した、この歌の成り立ちに迫る研究書も数多く出版されるようになった。
 そもそも一九四一(昭和十六)年四月六日、旧制第四高(現・金沢大)ボート部の艇が高島市の萩の浜沖で転覆し、学生十一人全員が死亡。「哀歌」は学生の死を悼む歌で、周航の歌を参考にして作曲されたとみられる。作詞者の奥野揶夫(一九〇二~八一年)が生まれた大津市本堅田には、地元の市民団体が建てた歌碑がある。
 事故から翌年、四高関係者らが萩の浜に植えた「四高(しこう)桜」は、接ぎ木などで百本ほど残り「四高桜を守り育てる会」は琵琶湖一周を四高桜でつなぐ夢を持っている。多くの人が訪れれば、亡くなった学生も喜ぶはず、と話す。周航の歌とともに「哀歌」を歌い継ぎながら、浜に植樹を続けていこうとする。

 前述した加藤登紀子さんは「琵琶湖周航の歌」でヒットしたあとも国民的ヒット曲の育ての親として全国に広めていった。「日本哀歌集」というアルバムで、当時の酒場で歌われていたような名曲を集めたのが最初である。そこから選んだシングルの二枚目のB面に「琵琶湖周航の歌」を入れたのである。「琵琶湖周航の歌」は加藤登紀子さんが受け継いでポピュラーにすることは出来た。その後も受け継がれなきゃ、いけない。若い世代のアーティストや子どもたちに参加してもらって、もっともっと広がりのあるものにしたい、と抱負を述べている。

 ことしは琵琶湖周航の歌誕生から百周年で、六月には高島市今津町の高島市民会館で100周年記念「周航の歌音楽祭合唱コンクール」で加藤登紀子さんも参加し、大合唱する試みも。琵琶湖汽船のビアンカ船上でも今津港を発着点としての船上イベントがあり、大津市民会館では100周年記念チャリティーライブ「湖の子音楽祭 2017」など各地で記念イベントが多彩に催された。
 なかでも京大ボート部のOB・OG会「濃青会」の有志は〈我は湖の子〉の旗をかかげたボートで六月二十四~二十七日に歌が生まれた時と同じ三泊四日の行程で周航まで実現させ、各地の歌碑の前で歌を「奉納」し、湖上スポーツ愛好者らとの交流も深めた。
 十一月二十五日には京大時計台大ホールで「琵琶湖周航の歌100周年記念音楽祭」も開かれる予定で、関係者全員が胸躍らせている。

 湖国・滋賀県は琵琶湖周航一色の1年に染められている。(完)

「浜辺の結婚式」 黒宮涼

 海を見るのが好きだ。例えば車の中だったり海の近くにある旅館から見る海も良いが、一番はやはり浜辺に立って真近で見ることだ。いつか見たテレビドラマで海に向かって叫ぶシーンがある。思わずそれの真似をしたくなるのだ。恥ずかしいから叫んだことはない。

 今まで見たことのある印象深い海と言えば、新婚旅行先のバリ島で見た海だ。ホテルが海のすぐ近くなので宿泊期間中、どこにいても海が視界に入ってきた。朝も昼も夜も、見ようと思えばいつでも見ることができた。部屋のベランダにて潮風を感じるのもまた良かった。
 高校生のときに修学旅行で行った沖縄の海も良かったが、それとはまた違った良さがあり、何よりも一番印象に残っている出来事と言えば、浜辺で結婚式を挙げている人たちがいたことだ。
「あれ、結婚式やってるよ」
「本当だ。すごいね。近くまで見に行く?」
 と夫が言ったけれど、関係者以外立ち入り禁止らしく仕切り代わりか縄が張られていた。考えてみたら当たり前かもしれない。無関係の者が入ってきたら困る。結局、少し離れたところでその結婚式を見つめた。
 白いウエディングドレスに身を包みながら歩く花嫁。近くで見られなかったので顔はわからないが、きっと凄く綺麗な人だったと思う。祝福している人々が色とりどりの花びらを、新婦とその横を並んで歩く父親に向かって、下から上へ投げ上げる。フラワーシャワーというらしい。花びらが舞う。時折、私たちと同じくその結婚式を遠くから見ている人の口笛が聞こえたりした。これが外国のノリか。と思った。

 私はその結婚式を見ながら、つい数日前に挙げた自分たちの結婚式を思いかえしていた。私たちは神社での挙式だったが、式場を選んでいた時期に結婚情報誌で目の前の浜辺と同じ光景の写真を見た。新郎新婦の背後に広がる青い海。別の世界の人々のような気がしていた。でも今はこうして同じ場所にいる。なんとも不思議な気分だった。浜辺の結婚式は着々と進み、新婦と新郎は神父さんの前に立っていた。神父さんが何かを読み上げたり書いたりしている姿が見えたが、まだ時間がかかりそうだったので私と夫は途中でその場を後にした。名残惜しい時間だった。浜辺の結婚式なんてこんな機会でもなければ見られることはないのだろうなと思った。だから本当によかったと思う。今思い出しても、バリの海は素敵で、あの浜辺の結婚式も最高に良かった。海の近くでの食事も美味しかった。
 夜には野外ステージで開かれていたショーを見ながら食事した。一週間近くいたので、他にもここでは語り切れないほど多くの体験をした。周りは外国人ばかりで怖くて、行く前は本当に気が重かった。日本語を話せる人も少しはいたけれど、全部通じるわけでもない。正直なところ新婚旅行は国内でもいいぐらいに思っていた。海外旅行が好きな人は、凄いと思う。夫がどうしてもと言うので海外へ行くことにしたけれど、私は乗り気ではなかった。案の定、留学経験のある夫に頼りきりになってしまった。私はホテルに着いて早々体調を崩した。迷惑をかけてしまって申し訳ない気持ちでいっぱいだったけれど海を見た瞬間、そんなものは吹き飛んだ。波が私の嫌な気持ちを全部さらっていった。泣きそうになると同時に、叫びだしたくなった。やはり恥ずかしいのでやめておいた。

 あの海の記憶が行って良かったと思わせてくれるから今でも海が好きなんだと思う。(完)