「酒の席」
伊神権太

 酒は人の風景そのものだ。
 人それぞれに味といろ(色)、時代背景、その時々の交友関係、思い出といったものが染み付いている。その場の雰囲気や相手、状況、ビールと日本酒、焼酎、ワイン、銘柄によっても微妙に違う。酒好きな私にとっての酒はうまい場合が大半だが、それでもまずいこともあった。へべれけになるほどに多く飲んだときは、やはりついつい気が大きくなってしまい七尾の海に飛び込んでしまう、など失敗の方が多かった。

 ここではそんな酒にまつわる話の一端を振り返ってみたい。まずビールから。
 新聞記者の駆け出し時代は、酒といえばビールばかり。 松本の独身時代。ひと仕事終えると、町中の居酒屋やスナックなどでビール一本だけを飲んで四畳ひと間の下宿に直行した。あのころは寺山修司の「時には母のない子のように」が大ヒットしており、たいがいこの歌を一曲唄って女鳥羽川沿いを下宿に向かってほろ酔い気分で歩いた。
 ビールで一番の思い出といえば、妻と駆け落ち生活を始めた志摩半島での日々だった。夜、仕事を終え例によって一本だけ飲むに当たってただ一人の相手にコップを差し出す。と、本来は飲まないはずのその女性がたとえ一口だけでもくちを付けると、その夜は燃えに燃えた。女性とは妻のことで、ふたりが一つになる「夜のサイン」は、その後もずっと健在だった。新聞休刊日にはふたりで料理屋に行き、鰹の手こね寿司や鮑で飲むビールは本当においしかった。

 時は流れて。
 能登の七尾に居たころ、毎月一回、七尾海上保安部の本部長と前市長夫人、私の三人で「セーヌ」という名のスナックで互いの情報交換を兼ねて飲んだのが、新潟の「越乃寒梅」である。ママさんも加え、みな気の合う仲間同士だけに、天下の名酒により私たちの心のなかまでがだんだんと見透かされ醸造されていくーという、そんな錯覚にすら陥るほどのおいしさであったことは言うまでもない。能登半島で出合った酒では、あの鉈のような鈍重な味のする宗玄も忘れるわけにはいかない。事あるごとに飲んだが、不思議と悪酔いはしなかった。

 その後、大垣に転任すると待っていたのが、月に一回、主に経済界の方々と酒を飲み交わす「地酒を飲む会」だった。半分仕事がらみの会ではあったが、多くの友人、知人を得る、またとない機会でもあった。芭蕉ゆかりの水門川沿いをいい気持ちで支局まで帰ったものである。
 琵琶湖の湖畔、大津。ここでは初めての単身赴任だったせいもあり、他社の気の合った仲間たちと浜大津の夜に繰り出し、何度となく楽しんだ。ある時には大津支局の町内会の付き合いで京都まで出向き、加茂川河畔で風に打たれて盃を交わし合ったのも今では良き思い出か。

 このほか、一宮の「金銀花」などー
 その土地土地での酒への思いは、どれもこれも忘れられない。最近では盛田酒造の「ねのひ」とトルコの「ラク酒」、フランスのワイン「ロゼ」沖縄の焼酎「残波」が私の頭を占めている。
 「ねのひ」は下戸の長男を何かにつけカバーしてくれる嫁と一緒にへべれけになるまで飲み明かし、二人ともそれこそ腰が抜けるほどだった苦い体験があるから。ラク酒は、トルコ政府文化観光局の招待で当地を訪れた際、滞在中、毎日飲まされ、それも水を加えると見事に白濁するさまが、まるで忍者のようだったためだ。
 そしてロゼは、長男夫妻を訪ねてフランスを訪れた際、ニースからパリに向かう途次、妻が驚くほどに飲み続けた「シロと赤の中間のワイン」だ。おそらく彼女の酒生に一つの大きな歴史を刻んだに違いない。「残波」は、ドラゴンズのキャンプ取材に訪れた際、米軍が侵攻してきた岬の名前が残波と知ったためだ。
 私はその後、焼酎は、と聞かれたら「ザンパ」と答えることにしている。

 つい最近では、広島に残る品質最高峰とされる「賀茂鶴酒造」のたる酒、奥三河の純米大吟醸「蓬莱泉」などが舌に心地よかった。賀茂鶴は名古屋で創業百年になる「大甚」で知人と味わった。蓬莱泉は関谷醸造の「春のことぶれ」で、私の実録ルポルタージュ「町の扉―一匹記者現場に生きる」を読んでくださった一宮の山下病院理事長・服部外志之さまから「ガミさん! 舞子様と権太さまで乾盃してください」と送られてきた。うれしい限りである。

 いずれにせよ、<お酒>には百態の顔がある。最後に私の住む町、江南にも地酒「勲碧」があることをここに添えさせていただく。

「ニューヨークのエキゾティックな夜」  碧木ニイナ

 娘の大学の卒業式に出席するため、五月下旬から三週間ほどニューヨークに滞在した。夫は仕事の関係で休暇が取れず、私が一人で出掛けたのだった。

(卒業式を終えて)

 娘が大変お世話になった韓国人母娘に感謝を込めて、ディナーにご招待した韓国料理店で、「韓国のママ」から『百歳酒』を勧められた。
 わが娘がそう呼ぶ「韓国のママ」の娘のユファと、わが娘は同じ大学の寮で一年間、生活を共にした。その後、ユファは自宅から通学するようになり、娘は一人住まいの老婦人宅の一室を借りて新しい生活を始めたけれど親交は続き、何度も遊びに行き泊めてもらった。
 その都度、ママはたくさんの料理を作ってくれたという。
 「どんどん勧められるから、ユファの家へ行くたびに体重が二キロ増える」という、若い娘の嬉しい困惑を私は心楽しく聞いていた。
 娘が日本へ帰る前夜は必ず宿泊し、フリーウェイを飛ばして四十分ほどの空港まで送ってもらうのが常だった。
 「ワイン飲んで、寝っ転がってテレビ見るような気楽な家だよ」とも、娘が言っていた。

 「この店は、この地域ではナンバーワンのコリアン・レストランなの」とママが言う。
 茅葺きの門をくぐると左手に水車が回り、その横一面の塀からは水が絶え間なく流れ、背の低い緑の植物が生い茂っている。
 黒い大きなテーブルを挟んで、二組の母子が向かい合って座った。そこには時間がゆっくり流れているような落ち着いた雰囲気と、どこか懐かしい、遠い日の日本を思い起こさせる風景があった。
 革表紙のどっしりしたメニューを見ながら「何を食べましょう?」とママが訊く。
 「おいしいもの、いっぱい食べたいわ」と私は答えて、ママに注文してもらうことにした。
 ママは、しばしメニューに目を落とした後、「お酒、飲みます?」と私の目ににこやかに訊いた。
 「もちろん」と、私も目にも唇にも笑みを乗せて返す。
 「どんなお酒が一番好き?」とママ。
 「ワインよ、それも赤。家ではほとんど赤ワインしか飲まないの」と私は躊躇なく答える。
 娘二人はニコニコしながら、母親同士のやりとりを聞いている。
 ユファは両親が離婚し、母親と二人暮らし。ママは不動産業に携わりながら、女手一つでユファを育てている。けれど、韓国人ファミリーの家族間の結束はとても強いようで、近くに叔父の一家と独身の叔母が暮らし、互いに助け合って生活しているようだ。
 「でもね、酸味の強い赤ワインと甘いお酒は苦手なの」
 そういう私に応えてママが言う。
 「あらっ、そうなの。私もまったく同じよ」
 黒い長袖のスーツに白いシャツブラウス、それにルイ・ヴィトンのバッグを持った彼女はエネルギッシュでいかにもプロフェッショナルな感じ。大きな声で元気よく話す。そのたびに、大振りなピアスが彼女の口元に合わせるように揺れる。
 「今夜は折角だから韓国のお酒にしましょうか」とママ。
 「大賛成よ。韓国のお酒は焼酎しか知らないの」と私。
 ママはちょっと思案した後、すぐ心を決めたようにウエイターを呼んだ。
 黒いタキシードに蝶ネクタイの若い細身のウエイターが足早にやってきてママの横に立つ。ママとウエイターはメニューを見ながら韓国語で会話をしている。
 『百歳酒』がテーブルに運ばれた。ほんのり淡いクリーム色の液体が透明なボトルに入っている。それを丸みを帯びた硝子のお猪口に注ぎ、ママの日本語の「カンパーイ」に合わせて乾杯をした。
 「このお酒には十種類のハーブが入っているのよ。二日酔いしないし、これ飲むと百歳まで長寿できると、とても人気があるの」
 ほのかな薬草の香りが鼻腔に広がる。口当たりはとってもまろやか。ママの説明にうなずきながら飲み干すと、すぐにママがお猪口を満たしてくれ、私も返杯。飲んだ瞬間にポッと体の芯に灯がともり、その揺らめきが毛細血管に染み込んでいく。
 娘二人は可愛くチョコチョコと口に運びつつ、母親たちの様子を面白そうに眺めながら、あれこれ話に余念がない。
 運ばれた料理の種類の多さに圧倒される。韓国の宮廷料理だという。二十種類にも及ぶおかずに様々なキムチやスープ類がテーブルに並べられ、日本でもお馴染みのチゲにチヂミに焼肉もいただいた。
 焼肉は頃合いを見計らって、ウエイトレスがハサミで一口大に切ってくれる。それをママに習ってサンチュに乗せ、ニンニクやマッシュルームに唐辛子、所狭しと並んだ料理を少し包んで、タレにつけて食べたのだった。
 店内から琴の音がする。その方へ目を転じると、迫り上った小さな舞台の上で、チマ・チョゴリの美しい女性が韓国の琴、カヤグムの演奏をしている。
 「爪を使わず素手で弦を弾くため、日本の琴より音が太く深いそうですよ」とのママの説明に納得する。
 百歳酒と宮廷料理とカヤグム演奏。ニューヨークの韓国の夜はエキゾティックに更けていった。

「へんつくりこもごも」
真伏善人

 もちろん蒸し暑くて不快なこともあるだろうけど、おいらのとなりに住むトリさんの機嫌が悪い。今日も目と鼻の先にある仕事場から戻ったのは日付が変わってからで、ひどい荒れようだ。聞いてみると、派遣先はおととい辛いめに遭ったばかりの所で、恐れをなしていたら案の定というより、さらに悲惨なことが待っていたという。
 この前はうす暗い地下室の塗装で、部屋は赤黒いキノコ状のものがびっしり。入るなりむわっとしたけど、なんとかこらえて作業を終えたとたん、その赤黒い頭から黄色い粘液がたらりと滲みだしてきたという。
もう気味が悪くて仕事どころじゃないと、桑原桑原で逃げ失せたのに、一日置いてまた行けというんだ。
冗談じゃねえぜと担当にいったら、派遣労働者の分際で文句をいうなと、ペンギンの足みたいな手でビンタをくらわしやがった。おれはその一発でなさけなくしゅんとしてしまって、泣く泣くあそこへ行ったのさ。
 今日はどんな場所だったと思う?まるであれだよ、あれ、ほら蟹工船ってやつさ。あんたは知んないかもしれないけど、あそこにでてくる糞壺だぜ。おどろいたことに、おととい塗装をした地下室のまた地下だったんだ。のぞいただけで思わず尻ごみしたぜ。暗いんではっきりはしなかったけど、なんか黒ずんだ大小の肉片みたいなのがあちこちに散らばっているやら、くたくたになった野菜のちぎれたやつが、ひざ下くらいの泥水にぷかりぷかりよ。とにかくいままでに嗅いだことのないひでえ悪臭。臭いってえのを通り越してなんてぇのかなあ、ああ思いだしただけでヘドがでそうだ。
 「カニコウセンノクソツボ」ってのは知んないけど聞いてみると、とんでもない所なんだ、とおいらが同情すると、トリさんは鼻をひん曲げて続けた。
 そこへ下りるには相当な覚悟というか気持ちのふんばりがいるなあと、ぐずぐずしているとうしろから早くしろと背中をど突いたやつがいた。まったく不意をくらって、ほとんどカエルが池に飛び込むような格好で着地というか着水というか、その悪臭の真っただ中に飛び込んでしまったぜ。やむなく鼻をつまんで悪臭のもとを片隅に集め、排水口を手でさぐっていると、にわかに足元の泥水がボコボコと泡立ち始めたんだ。これはなんだとあたりを見回していると、突然の轟音と同時に泥水がすごい勢いで噴きあげ、身体ごと吹っ飛ばされたんだ。それっきりさ。気が付いたらどことも知れない夜道になげだされていたよ。身体はどうしたことか、悪臭のもとたちとからみあって地面に貼りついているらしく、指の一本も動かない。このままではみっともないと、もがいているうちにまた気を失ったというわけさ。もうこりごりだね、あそこは。
 そこまでいうと、ところであんたはとても浮き浮きしているように見えるけど、本当はわしの不幸を知っていて、心のうちではよろこんでいるのとちがうんかいと、棘のあるいいかたをする。そ、そんなことはあるもんかいと口をついてでたものの、おいらはこのところ雲上にでもいるような、じつに爽快でしあわせこの上なしという気分なのだ。 なんてったって派遣先のまわりあわせにつきるね。いまのトリさんにはとても正直なことはいえないよ。今日なんかも塗装作業なんだけど、派遣先の部屋の天井、壁、床と、どれをとっても清らかで、汚れなき麗しさってのかなあ、まあ訪れるだけでしあわせを感じたね。
 そこでいったいなんの作業をせよというのよ。だからさ、おいらは弾力のある壁によりかかってクッションを楽しんでみたり、床にうつぶせになって頬ずりをしたり、ゴロゴロと寝転がってピンクの天井にニコリと笑いかけたりしていたんだ。すると、どこからともなく香水の匂いと共に、メゾソプラノのハミングが流れてくるんだよね。時おりモンシロチョウやベニシジミが舞いおりては、いずこともなく飛び去って行くのに見とれていると、作業時間は知らないうちに過ぎていったね。ソフトコーティングを終えて部屋の内を押してみたりさすったりしていると、こんどは実に綺麗な谷渡りがするんだよ。
 どうです、こんなことトリさんにいえますか?
 そうそう、おいらは〈サンズイ〉っていうんだ。トリ(酉)さんとは、ものごころがつく前から、隔てのないとなり同士で、真の一心同体なんだよ。向かって右が〈酉〉さん、左がおいらなんだ。本当の姿は、人間さまに造られた、毒にも薬にもなる美色透明のあやしい液体で、永遠の派遣労働者というところさ。
 おっと、カウンターの後ろ棚に戻されたみたい。さあトリさん、一升瓶の中で早く寝よ寝よ。  
(おわり)

「置きみやげ」 牧すすむ

 歌謡曲の詩には、昔から“酒 ”という字を取り入れたものが多い。多いというより定番と言った方が良いだろう。何しろ演歌は、「酒、女、涙、夜」の四文字を並べておけばそれなりにストーリーが出来る、とさえ言われている程である。もちろん、そんな中でも名作として歌い継がれてきた曲も数多い。
 古くは藤山一郎の「酒は涙か溜め息か」。私などもギターを習い始めた頃によく弾いた覚えがある。又、美空ひばりの「悲しい酒」。これはもともとある男性歌手が歌っていたのだが、鳴かず飛ばずでもったいないと、作曲者の古賀政男氏が美空ひばりで再レコーディング。今に残る名曲となったのである。
 しかし、当初彼女は、二番煎じだったこの曲を歌うことにかなりの抵抗を示したと聞いている。他には川中美幸の「ふたり酒」、渥美二郎の「夢追い酒」などなど。更に近年では、吉郁三の「酒よ」が独特の味でヒットし、レコード業界に大きく貢献したのは周知のところである。音楽を生業(なりわい)にしている私にとってこれらの曲に巡り会い、演奏の機会を得ていることは大きな喜びであり、心から感謝している。
 ところで、呑む立場としての酒はどちらかと言えばビールがいい。かと言って、別に日本酒が嫌いというわけではないので、四季を問わずコップ一杯の冷や酒は有り難く頂いている。そんなこんなで我が家の冷蔵庫には、いつも必ず数本のビールが収まっている。ただ、以前は手頃なことから缶ビールが多かったけれど、何となく缶自体の味が気になりはじめ、最近は専らビンの方に心が移っている。よく冷えて水滴の残る茶色のビンから注がれるビールには、ただそれだけで何んとも言えない風情を感じてしまう。   
 とはいえ、こんな私も若い頃は全く酒が呑めない不調法な人間だった。それがいつの間にー。ということになるのだが、実は結婚がきっかけ。仕事一途の昔人間だった義父は、酒が唯一(ゆいいつ)の楽しみ。しかも俗に言う“酒豪 ”である。仕事を終えるとまず一杯。程よく燗のついた酒をうまそうに口に運ぶと、三合、五合が瞬くうちに空(から)になっていった。
  婿としてその付き合いを余儀なくされた私は、必死の思いで盃を受け、二杯、三杯と無理矢理喉の奥へ流し込んだのであった。当然の成り行きながら、時間が経つにつれ息遣いが荒くなり、小さな心臓は破裂しそうに高鳴った。やがて義父の顔がぐるぐると回り出し、遂にはダウン。そのまま“昇天 ”の憂き目となるのが常であった。
 そう言えば、私の実父も全くの下戸(げこ)だったらしい。なにしろ盃一杯で二日酔いならぬ三日酔いをしたという筋金入りである。因(ちな)みに母の兄も同様だったようだ。ところが母は真逆の“酒豪 ”。一升呑んでも顔色ひとつ変わらない。ただ、「これには理由(わけ)があるんだよ」と、いつだったか手酌で呑みながら話してくれた。
 父の急死で家業の全てを受け継いだ母は悲しむ暇もなく働いた。仕事上の付き合いも多く、酒の席も外して通れない道であった。年若い未亡人というだけで男連中の格好の標的となり、下心の有無に関わらず強引に盃を空けさせられることもしばしば。僅かなスキも見せるわけにはいかなかった。
 そんな中で、母は酒を殺すための強い精神力を身に付けたという。いくら呑んでも身だしなみと姿勢は決して崩さない。それが身を守る術(すべ)であった。「気がついたらいつの間にかこんなになっていたよ」と、笑っていた。
 そんな母も九十歳をとうに過ぎ、さすがに現役は引退したけれど、相変わらず毎日のビールは欠かさない。そのおかげか腰も曲がらず、特に病むこともなく、今でも好きな踊りの稽古に精を出している。彼女にとっての酒は正に百薬の長であり、命の水なのである。
 私も若い頃は死ぬような思いで口にしたこの毒水も、今では甘い良薬に変わり日々の喉越しを楽しんでいる。ただ、そんな私に妻は時々「あー、騙された」といやみを言う。「酒を呑まない人と思って結婚したのに」というのがその理由。でも、これが義父の残した置きみやげと思えば有り難ささえ感じる。
「酒なくて なんの己(おのれ)が 浮き世かな」
 粋な古川柳も今夜は“肴(さかな) ”の一品(ひとしな)として味わいたいと、そう思う。
 前述の通り、実父は全くの下戸(げこ)だったのだが、彼の四人の息子はそれなりに付き合い程度はたしなむ。「盆、正月、お祭り」などに顔を合わせると結構な量になることもー。こんな息子達を父はきっと頼もしげな表情で見てくれていることだろう。冷たいビールに喉を鳴らしながら、そんなことをふと思ったりしている今日この頃の私である 

「夫がかわいそう!?」 山の杜伊吹

 毎日、晩酌を欠かさない、という人は非常に多い。
 アルコールなしの夕飯など、絶対にありえない。夕飯のおかずは、あくまでも酒の肴で、食卓の主役にはなりえず、主役は酒である。ご飯はちょっとだけ、もしくはいらないという。あとで白飯も食うといいながら、ビールでお腹がいっぱいになって、やっぱりいらない、となる。
 私の父は、夕方仕事から帰宅すると、まずビールかお酒、の人であった。母は夕飯の支度に忙しい中、夏場は冷えたコップを、冬は熱燗を準備した。そのうち父は「スルメでも焼いてくれ」という。母は片方のコンロでおかずを作り、もう片方のコンロで焦がさないよう気をつかいながら、いそいそとスルメを焼く。ときには落花生であったり、柿の種といった菓子であったり。酒とつまみでお腹がいっぱいになった頃、本当の夕食が始まる。母が精一杯心を込めて作ったおかずの味は、父にわかっただろうか。父は一度も、おいしいともありがとうとも言わなかった。 
 父方の祖父は奈良県の出で、その実家はわりと裕福な家であったという。
 その昔、酒やつまみを出して客にふるまうといった、いまでいう居酒屋のようなこともしていたらしい。
 屋号は“しょっちゅ屋”といったそうで、焼酎を出すところから、焼酎屋、しょっちゅ屋となった。
 いわずもがな、子孫の我々も酒豪揃いで、親戚一同が集まったりすると、大宴会となった。小学生でも特別な日は晩酌を許された。でも私は、酔った父が嫌いであった。顔を真っ赤にし、ぐでんぐでんになった父は、すわった目で私に、からむのである。もちろんここまでなるには、相当な量の酒を飲まなければならない。声が大きくなり、そのようすは動物霊にでも取り憑かれたよう。一緒に飲んでいたふだんクールな人も、人相が変わって、別人のようになってしまう。酒の酔い方は、年をとってからどんどんひどくなった。そして夜中、地を這うようないびきで、何度も起こされることになる。  
 学生の頃は、よく酒を飲む機会があった。酒が飲める、飲めないで威張りたがるのは、女生徒でもまったくなくはないが、やはり男子生徒の方が多かったと思う。二十歳そこそことはいえ、まだ学生、子ども気分が抜けきれない。飲めない人に無理に飲ませて楽しんでしまうのだ。人が真っ赤になったり、いつもとは違う姿を見せるのを、楽しむ。
 先輩が無理矢理すすめ「俺の酒が飲めないのか」とか。断れない弱い人に注いで、周りも飲め飲めと囃し立てて追いつめて、いじめるとか。飲ませる方もアルコールで気が大きくなっているから、どんなことだってできる。だって日本は酒席の無礼講が許される国。ゲロしても「吐くまで飲んだ」と後日、自慢さえできるのだ。
 急性アルコール中毒で尊いいのちが失われた。しかし酒の席では毎夜同じことが繰り広げられ、自分が死んでしまうとはだれも夢にも思わない。毎晩救急車を呼ぶハメになっているのに、だ。  
 ふだんまじめな人が、アルコールを口にすると人が変わる。いい歳した偉いおじさんが、酒の勢いで女性部下のおっぱいを揉んで「ゴメン、ゴメン」ですます。ニコニコしていた同僚が、酒の力で場が凍りつくような悪態をつき、喧嘩がはじまる。言った方は覚えていなくても、言われた方は忘れない。大人は自分の限界を知らなきゃいけない。酒の上での失態だからと、甘やかしていいのか。これって飲酒運転がなくならないのと、関係あるんじゃないか。
 夫は、毎晩飲まなくてもいい人だ。だから基本的に、食卓に酒は並ばない。たまの夏の暑い日に「ビールが飲みたい」というときがあるのだが、一缶がやっと。みるみる顔が紅色になり、子どもの相手もできなくなり、そのうち歯を磨くのもお風呂に入るのも面倒になり、もう眠るといいだす。  
 子どもをお風呂に入れてよー、こっちは後片付けがあるんだからぁ。飲むと決まってひと悶着。翌日の朝は、何度起こしても起きられない。そして夜は、またビールを欲しがる。アルコール中毒への入り口だ・・・危険。  
 冷蔵庫の中に冷えたわずかな缶ビール、私はその存在を消している。