小説「名もなき花」

 吐き出す息は白かった。
 スタジオを出た俺は静まり返った通りを駅に向って歩いていた。その日は平日にも関わらず夜からボーカル録りがあった。俺の率いるバンドは先週から新しいデモ ― 三週間後に知り合いのバンドと行うツーマンショウで発売する三曲入りのものだが ― の制作にかかっていた。
 この日は仕事の都合で俺一人だけだった。俺は頭の中で今しがた録音した歌のことをあれこれ考えていた。いつものことながらあまりいい感じではなかった。バンドを始めて五年になるというのに俺は未だにレコーディングが苦手だった。これまでに八回もしているというのに。
 どうしたらショウの感じが出るんだろう?
 いっそハンドマイクで踊りながらやったらどうだろう?
 ショウでそうしてるみたいにアンプから飛び降りてみるとか?
 レコーディングなんだし一小節ずつバラバラに区切って歌うとか?
 リバーブをかけてごまかすとか?
 いや、でもショウでできないことをするのはロックに反するだろう・・・・
 空気は冷たく厚い雪雲が空を覆っていた。両脇に立ち並ぶビルの明かりはことごとく消えていて、人と車の往来はほぼ皆無だった。その地域はオフィスやら事務所やらが多いわりに飲食店がないため、午後八時を過ぎるとゴーストタウンのようになるのだった。
 あれこれ考えているうちに信号で立ち止まった。腕時計に目をやった俺は近道をするために横にある狭い路地に入っていった。不幸にもスタジオから駅までには、朝からの単純肉体労働を終えてからでは歩きたくないくらいの距離があった。
 二分ほど歩くと猫の額ほどの小さな公園にさしかかった。そこは背の低いビルとビルの間にポツンとあって記憶する限りベンチ以外に遊具はなかった。一つだけある外灯は死んでいて園内はほとんど真っ暗だった。公園というより空き地に近かった。
「いい気味よ。全く」
 通りすぎようとすると女の声が聞こえた。俺は立ち止まると声のした方に目をやった。その声は大量のステロイドを注射された雄牛のように興奮していた。
「ムカつくんだよな。こういうヤツは」
「何の役にもたたねぇくせに、でけえ面して歩きやがって」
 今度は男の声が聞こえた。俺は暗闇の中に目をこらした。すると三つの人影が見えた。興奮のせいか俺のことに気づいていなかった。この日は仕事を終えてすぐにかけつけたせいでサイフの鎖は外していた。その仕事は給料も安ければ下らないくせに、身なりにはうるさかった。
 酔っ払い? よってたかって上司の悪口? でもこんなところで?
 そんなことを考えていると突然、真中の人影が動いた。それと同時に小麦粉袋を蹴り飛ばすような鈍い音と小さなうめき声が辺りに響いた。少し間を置いて唾を吐く音と女の声が聞こえた。
「社会のゴミ!」
 その一言で状況がわかった。俺は頭皮と背中に汗がにじむのを感じた。それは酔っ払いがクダを巻いているのでも、宇宙の謎について話しあっているのでもなかった。そんないいものではなかった。
「おい、このクソッタレ!」
 俺はそう叫ぶと園内に飛び込んだ。それと同時に三人がこっちを振り返った。俺は体中のアドレナリンが一気に湧き上がるのを感じた。いくらかの怒りとともに。
「テメーら何してんだ!」
 三人は一瞬顔を見合わせた。男の一人が「やべえ!」と叫ぶと三人は一斉に出口に向って走り始めた。暗くて顔はわからなかったが身なりだけはわかった。全員ビジネススーツ姿だった。
 連中の靴音がけたたましく路地に響いた。その音は、このまま走り続ければ明日の朝にはオクラホマに着けるのではないかという速度で遠ざかっていった。俺は追わずに黙ってそれを聞いていた。大の男二人を相手にするほどバカではなかったし現実を知っていた。
 やがて足音が完璧に聞こえなくなった。俺は三人が立っていた場所に歩いていくと地面に視線を落とした。そこには予想通り人が横たわっていた。文字通り横向きで。
 俺は溜息をつくとジーンズの前ポケットからライターを取り出してその場にしゃがみ込んだ。母親を泣かしてしまった時のように胸が痛んだ。できれば見たくなかったが居合わせてしまった以上しょうがなかった。何がどうなっているのかは容易に想像がついた。
 ライターを点火するとボンヤリとした灯りが辺りを照らした。倒れていたのは予想通り年配の浮浪者だった。かなりひどくやられたらしく顔が血で濡れていた。流血箇所は額、鼻、頭だったが一番ひどいのはやはり鼻だった。年は六十くらいで白髪頭を短く刈り込んでいた。
「だいじょうぶかい? おとっつあん」
 俺は男をつっついた。男は六秒ほどしてうなり声を上げた。風に乗って小便の乾いたような匂いが鼻をついた。長いこと風呂に入っていない人間特有のあの匂いが。
男はひどく難儀そうな声を上げると体を仰向けにした。「ああ・・・・クソ・・・・」
「起きれるかい?」
「だいじょうぶだ・・・・・」
 男は肘を使ってゆっくりと体を起した。俺は少し離れたところに男の全財産がつまっていると思われる大きなカバンが落ちていることに気づいた。さかさまの状態で地面に落ちていたが幸いにも中身は無事のようだった。これといって何かが入っているとは思えなかったが。
 指先が熱くなってきたのでライターを消した。俺は次第に目が慣れてくるのを感じた。百円ライターはオイルライターとちがって長時間点火するには向かないのだ。
「ありがとうな兄ちゃん・・・・助けてくれて・・・・」
「だいじょうぶかい?」
「たいしたことはない。いつものことだ。つい先日もやられたばかりだ・・・・この間は男ばかり四人だった・・・・」
 俺は軽いショックを受けていた。この辺りの会社に勤める人間がストレス発散の一環として時おり路上生活者を狙うという話は聞いたことがあった。時おり中、高校生や大学生も来ると。でもそれを目の当たりにするとは夢にも思ってみなかった。
「いい加減に慣れたがな・・・・」男は続けた。「こういうことは仕事と同じでだんだん慣れてくるんだ。もっともこっちの方は金がつかんがな」
 男は地面にあぐらをかくと小さく笑った。その笑い声は喘息患者のようだった。それが殴られたからか本当に肺が悪いのかはわからなかったが。
「なあ兄ちゃん」男は着ていた防寒ジャケットの裾で顔を拭いた。「わるいけどタバコはあるか」
「ああ」
 俺はブルゾンのポケットに手を突っ込むとエコーと取り出して手にしていたライターといっしょに男に渡した。男は中から一本抜き取って火をつけると軽くせき込んだ。
「本当にだいじょうぶか?」
「大事ない」
「えっ?」
「大事ないと言ったんだ。だいじょうぶということだ」
「すごい言い回しだな」
「こう見えても元、サラリーマンだからな」
「そうなのかい?」
「ああ。建設資材の営業をしておった。でも、五年前に会社が倒産してこの様だ。五十も半ばを過ぎると再就職はできんからな。ガードマンやら清掃員やら色々やったがダメだった。営業はつぶしがきかんからな。で、今はこのありさまだ」
「奥さんは?」
「いたが別れた。今は俺の退職金を持って田舎で悠々と暮らしておる」男は言った。「そうは見えんだろうが俺にも人並みの生活をしていた時期があったんだ。接待でハワイに行ったことだってあるし、自分より二十も若い女子大生を土産にあてがわれたこともある。もっとも何もしなかったがな。俺にも同じ年くらいの娘がいたんだ・・・・絵美子っていうんだ。キレイで頭のいい子なんだが、背が低いのがたまに傷でな」
「結婚してるのかい? 娘さんは」
「離婚した時にはまだ独身だったがどうかな。絵美子には配管工の恋人がいたがどうなったのかはわからん」
 本当のようだった。男には浮浪者にありがちな願望を会話に織り交ぜる癖はなさそうだった。前にも何度か浮浪者と知り合ったことがあったが、それらの連中は願望と現実がごちゃ混ぜになっていた。最初は奥さんと娘一人と一軒家に住んでいたと言っていたのに、五秒後には奥さんと娘三人とで山の手のマンションで暮らしていたと言い始めたりと。
「おまえさんくらいの年の兄ちゃんや、嬢ちゃんを見ると絵美子を思い出すんだ」男は言った。「一応、大学にも行かせたんだ。教育は一生ものだからな。指輪やらネックレスやらは剥ぐことができても、そういうものは剥げないからな」
「そうか」
 俺はさっきの連中が言っていたことを思った。そして心の中でつぶやいた。そうじゃなくてただ少し要領と運が悪かっただけだと。別に悪いことじゃないし、それを咎める権利なんて誰にもないと。あんただって勤めてる会社の社長が二回不渡りを出せばそうなりうる。それにこういう風にしか生きていけない人間だって中にはいるのだと。風呂に入る必要があるのは認めるが・・・・
 男は体をさすった。暗がりの中で汚れた洋服がこすれる音がした。男は平静を装っていたがさすがにこたえているようだった。この年なら当然のことだが。二十五の俺だって大の男四人に拳を投げつけられれば無事ではいられない。
「本当にだいじょうぶかい?」俺は言った。「救急車を呼んでやろうか?」
「だいじょうぶだ。体を曲げて頭をかばっておったからな」
「そうは見えないけど」俺は言った。「頭から血が出てるぞ」
「たいしたことはない。ちょっと切れただけだ。しかしあんたは何者なんだ?」
「何だろう?」俺は言った。「河原者かな」
「河原者?」
「昔風に言えば売れない楽団の座長。普段はダンボール工場で日銭稼ぎをしてる」
「よくわからんが好事家であることに間違いはないようだな。俺みたいなのを気づかってくれるとは。でも、行政よりもずっと優しい」
「そうか?」
「気づかってくれる人などまずおらん。俺達は蟻んこみたいなもんだからな。蝿のたかる糞と呼ぶヤツらもいるが」
「みんなそうだよ」
「あんたはおもしろいことを言うな。所詮誰もが馬の骨という歌は聞いたことがあるが」
 夜気の冷たさが肌を刺した。俺はジーンズの後ろポケットから携帯を取り出すと時間を確認した。終電の時間が迫っていた。午後十一時三十二分だった。
「そんなところに座ってて寒くないかい?」俺は言った。「今夜は冷えるぜ」
「少しな。でも雨がないだけましだ。雨の日は眠れん。一晩中歩き回るハメになる。冬場は特にな」
「腹が減ってるからじゃないか?」俺は言った。「腹が減ってると余計に寒さが身に染みる」
「そうだな。まだ今夜は晩飯を食ってないからな。もう少ししたら廃棄の弁当が出るんだが、それを探しに行く最中だったんだ」男はそう言うと一瞬黙った。「まあ、言うなれば夕飯に出かけようとして車に轢かれたようなもんだ」
 浮浪者にしては陽気な人だなと俺は思った。いかにも元営業職といった感じがした。男にはまだありし日の気品のようなものが残っていたが、それが余計に胸をしめつけた。
「あんた事故に遭ったことはあるか?」男が言った。
「今のところはないね」俺は返した。「交通事故には。他の部分では事故続きだけど」
「いい言い回しだな。それは人生が思い通りに行かないってことだろ?」
「そう」
「みんなそうだ。思い通りに行くヤツなんておらん。努力ではどうしようもできこともたくさんある」
「だろうな」
「そう思っておけば気分もいくらかは楽になるだろう。ほれ、昔聞いたことがないか? 『人の一生とは重荷を背負って歩くようなものである。不自由が当然と思っていれば不足はない』とかなんとか。これは誰の言葉だったかな?」
「家康だろ?」
「そうだ。家康だ。あんた学があるな」
「たまたまだよ」俺は手にしていた携帯を再び見やった。「悪いんだけどそろそろ行かなきゃいけないんだ。もうすぐ終電の時間なんだ」
「そうか」
 男は残念そうに言った。男には、ほかっておいたら来週のこの曜日まで話し続けかねない勢いがあった。人に飢えているのが痛いくらいに感じられた。一人で生きていける人間なんていやしない。
 俺はサイフを取り出すと中から千円札を一枚取り出した。スタジオ代を払った後なのでいくらも金はなかったが、そうせずにはおれなかった。ひょっとすると自分の未来の姿を見ているような気持ちにでもなっていたのかもしれない。同情というよりも同胞意識を俺は感じていた。
「たいした額じゃないけど」俺は札を差し出した。「弁当くらいは買えるから」
「いいのか?」男は言った。「俺にこんなことをしても何の得もないぞ」
「いいよ」
「悪いな。助けてもらったうえにこんなことまでしてもらって」男は俺が差し出した札を受取ると手にしていたタバコとライターを俺に差し出した。「そうそうこれを返さなきゃな」
「よかったら全部吸ってくれよ」俺は言った。「安タバコで申し訳ないけど」
「いいのか?」
「ああ」
「ありがとう。ではありがたく吸わせてもらうことにしよう」男は言った。「色々あったが今日はいい日だ」
「それはよかった」俺は言った。「じゃあ、そろそろ行くよ」
「おう、達者でな」
「おとっつあんもな」
「あんたの楽団が売れることを祈っておくぞ」男は言った。「俺は毎日夕方にそこの社に行って娘のしあわせを祈るようにしてるんだ」
「ありがとう」
 俺は立ちあがると駅に向って歩き始めた。公園の出口にさしかかると背後で男が「気をつけてな」と言ったので俺は軽く手を振って「おとっつあんもな」と返した。公園の角まできて後ろを振り返ると男はまだ手を振っていた。
 俺は片目のつぶれたせむしの老婆を目にした時のような、赤子のエイズ患者を目にした時のような、やるせない気持ちで暗い路地を進んで行った。歩が進むにつれて寒々しい孤独感が募った。以前ひねくれた友人が言っていた人間ほどおぞましい生き物はいないという言葉が理にかなっているように思えた。不条理だった。
 さっきのヤツらに出会ったらどうしよと考えたがそれはなかった。俺はほとんど誰ともすれちがうことなく無事駅につき切符を買った。構内では安い蛍光灯の灯りが疲れきった床を冷たく照らしていた。
 電車の中はガラガラだった。俺は車輪がガタゴト鳴るのを聞きながら座席に置き忘れてあった夕刊を読んでいた。そこにはもう慣れてしまったが、ひどいことに変わりのない事件がたくさん載っていた。子が親を殺す、親が子を殺す、失業した派遣社員が橋の下で餓死する、ネットカフェが家を失くした失業者で溢れかえっている、高校生がコカイン所持で捕まる、鳶職のヌケサクが誕生祝の一環として隣家に火を放つ、中学の教師が頭の弱い女生徒をホテルに連れ込んで仲間の教師数人と三時間に渡って暴行をはたらき、それをビデオにとって売っていた、お年寄りを騙すビジネスが大繁盛している・・・・
 思いやりや優しさとはまるで無縁だった。小学生が朝食の卵が柔らかかったことに腹を立てて、チェインソーで両親を惨殺するというニュースを見る日もそう遠くないように思えた。皆何かに怯え、苛立ち、疲れ、狂っているようだった。それでいて自分勝手だった。
 俺は新聞を横にうっちゃった。そしてさっきのことを思い出しながら本能かもな、と心の中でつぶやいた。多くの動物がそうであるように人間もまた生存のために弱者を探す。糧としではなく、玩具として。悪い意味でとても人間らしい・・・・
 そんなことを思ったり、外の景色を眺めたり、明後日のコーラス録りのことを考えたりしているうちに駅についた。俺は電車を降りて改札を出ると車を停めている場所に向かって歩き始めた。その日俺は駅から少し離れた安いコインパーキングに車を停めていた。駅の側のパーキングはたいしたこともないくせにどれも高かった。
 夜気は相変わらず冷たかった。しばらくして何か温かいものが飲みたくなった俺は目についたコンビニエンスストアに立ち寄ることにした。金がないにも関わらず空腹がピークに達していたので余計に寒さが身に染みた。空腹を糖分でごまかしたかった。腹がへらなければ、ちゃちな労働から解放されるのにと俺は思った。
 店に入ると一人の老人と若い女性店員がレジで話しているのが目に入った。店内は暖かく下らない音楽が流れていた。今流行の女性歌手が、愛がどうのこうのと全身全霊を装って歌っていた。あるかもしれないし無いかもしれないものについて。
 二人は一瞬会話をやめた。店員は俺に気づくと「いらっしゃいませ」と言って再び会話にもどった。男はまるでそこが立ち飲み屋か何かのようにチビチビとカップ入りの日本酒をあおっていた。俺は二秒ほど二人を見やるといつものくせで ― スーパーなどに行くとまず店内を回って特売品をチェックすることにしているため、いつしかそれが身についてしまった ― 軽く店内を一周した。
「それでな・・・・向こうは土下座をしろって言いやがったんだ。ミスは全ておまえらの責任だからって。うちとの契約を続けたかったらそうしろって。俺はそいつをジッと見据えたよ。偉そうにするなよ、このトヨタのクズがって思いながらな」
「すごいですね。それで竹本さんはどうしたんですか?」
「俺かい? 俺はもちろんしなかったさ。俺にだってプライドがあるからな。男はそれを失くしたら終わりだろ。まあ、でもそのお陰でクビになっちまったけどな。でも後悔はないさ。あんなヤツに土下座をするくらいならそうなった方がずっとマシさ」
「竹本さんらしいですね」
 その女性店員はいかにも学生といった感じのおぼこい子だった。ショートカットのよく似合う、やや丸い顔をしていて話し方とその瞳からは優しさが感じられた。まるで生まれたてのアヒルのように純粋に思えた。一方の老人は六十代から七十代くらいでお世辞にも身なりはよくなかった。ベースボールキャップをかぶり、ホームセンターで売っているような安手の防寒着を着て雨でもないのに黒い長靴をはいていた。疲れたような寂しいような顔をしていたが少なくとも今は楽しそうだった。男はありし日のことを意気揚々と語り、女の子はそれをうっとうしがらずに聞いていた。
 他に客はいなかった。俺は冷えた体が温まるのを待つために、入ってすぐの雑誌コーナーに偶然あった暴走族雑誌を読むことにした。興味があったというよりもこんな雑誌がまだこの世に存在していることが驚きだった。そこに写っているヤツらはどれも神秘的ないでたちをしていて、一人の男は着ている特攻服の背中にデカデカと『愛国烈士』と刺繍していたが、俺には国が何なのかがよくわからなかった。少なくとも愛するには値しなかった。
 俺がその雑誌を読んでいる間も二人はレジで話していた。正確に言えば男が一方的に話し、女の子が時おり質問をしたりあいづちを打ったりという感じだった。女の子は生まれつきそうなのか聞き上手で、言葉使いからは敬意が感じられた。店員のあるべき姿を絵に描いたようだった。
「今日はもうだめですよ」しばらくして女の子の声が聞こえた。
「いいじゃないか。俺にはこれくらいしか楽しみがないんだから」今度は男の声が聞こえた。
「一日一本ってお医者さんから言われてるでしょ?」
「だが飲みたいんだ」
「だめです。売ることはできません」
 俺はレジを見やった。棚のせいでよく見えなかったが酒のことを話しているようだった。男がさらに酒を買おうとして止められたのだろう。
「俺の金で買うのに・・・・」男は不服そうに言った。「昔はもっと飲んでいたんだ。しかしあんたは商売が下手だな・・・・」
「いいですよ。飲んでも。私にサービスをお断りすることはできませんから」女の子は言った。「でも、もしそうしたら二度と私は竹本さんとは話しませんからね。この間も約束したでしょ」
「わかったよ・・・・」
「わかってもらえてうれしいです」
「寒いと飲みたくなるんだ。温かいものが」
「温かいものならお酒以外にもありますよ。お茶とかおしることか」
 男は舌打ちをしたがうれしそうだった。心配してもらえることがうれしいようだった。
「じゃあ、温かいお茶でも買って帰るかな」男は言った。「そろそろ朋美ちゃんも上がる時間だし。もうすぐあの男も来るし。俺は、あいつが苦手なんだ。朋美ちゃんの後に来るヤツが。愛想がなくてつんけんした感じで」
 俺は雑誌を棚に戻すと食べ物を売っているコーナーに歩いて行った。今日日の店員は大抵そうだと思いながら。人件費削減でアルバイトばかり雇うから一行にプロが育たないのだ。人は財産という言葉を今の経営者連中はわかっていない。もっとも長い目で物事を見れるような賢い人間なんてほとんどいないのだが。
 売れ残っていたのり弁当とその横にあったミルクと砂糖入りの缶コーヒーを持ってレジに行った。男は俺の姿を見ると邪魔をしてはいけないと思ったのか「じゃあ、また明日な」と言って店を出て行った。女の子は男に「おやすみなさい」と言うと俺に頭を下げた。
「ありがとうございます」
 俺は軽く頭を下げ返すとレジに品物を置いた。女の子は丁寧に一点ずつ値段を読み上げながらそれを会計した。
「お弁当は温めますか?」
「お願いします。ああ、そうだ。ついでにエコーももらおうかな。それにこのライターと」
「はい。ありがとうございます」
 女の子は弁当を電子レンジに入れると再びレジを打ち始めた。女の子が合計金額を言い、俺は代金を払った。財布の中の残金は千円と小銭が少々だった。今月も厳しくなりそうだった。
「今夜は冷えますね」女の子が言った。
「そうですね」俺はブルゾンのポケットに手を突っ込みながら返した。
「お仕事の帰りですか?」
「まあ、そんなものです」俺は一瞬言いよどんだ。この手の場所で話しかけられるとは思っていなかったので少々面食らったのだ。「おねえさんは学生さん?」
「大学生です」
「何年生?」
「一年です」
「こんな遅い時間までいいのかい?」
「普段は十二時までなんですけど、今夜だけは特別なんです。引継ぎの男の子がわけあって遅れるっていうんで。でも、学費とかアパート代とかでお金がいるからいいんですけどね。今夜は課題もないし」
「この辺の人じゃないんだ?」
「北海道です。今は近くのアパートで一人暮らしなんです」
 おぼこい子だなと俺は思った。世慣れた女ならこんな個人情報を自分から流すようなことはしない。俺がストーカーや変態じゃないとなぜ言える? むろんちがうのだが。
「さっきのおじいさんはよく来るのかい?」
「ええ。私がいる時はほぼ毎日来てくれるんです。竹本さんって言ってこのそばの市営住宅に住んでるんです。奥さんは半年前になくなってしまったから今は一人なんです」
 俺は先週読んだ夕刊のことを思い出した。そういえば独居老人の孤独死があったのはこのそばの市営住宅だった。その老人は死後三週間経って発見されたということだった。多分その市営住宅のことだろう。
「うれしそうだったね。あの人は」俺は言った。「ここに来るのが生きがいみたいだった」
「本当はあんな風に話してちゃいけないんですけどね」女の子は言った。「バレると店長に怒られるんです。これは仕事で遊びじゃないって」
「客がいないんだから別にいいんじゃないのかい?」
「いや、そういう時は掃除をしたり商品を補充したりしろって。時間を無駄にするなって」
「経営者らしい意見だね。でも、客と話すのだって仕事のうちだと思うよ。言ってみれば顧客のアフターケアみたいなもんだ」
「ええ」
「コンビニっていうのは地域密着型であるべきだと思うけど」
「そうあるべきだとは思うんですけどね。私も。でも、ここの経営者はそうは考えてないんです」
「企業なんていうのは利益以外のことはどうでもいいもんだからね」
「ええ、でも何て言うか・・・・私はそれが嫌なんですよね。むろんたいしたことはできないけど、話し相手くらいにはなれるから。行く所も話す相手もいなくて仕方なくここに来るお客さんも中にはいるんです。竹本さんみたいに部屋にいるのがいやで夜になるとこの辺りを歩いてそれをまぎらわす人もいるから」
「部屋に一人でいたくない時っていうのは確かにあるよ」
「私もあります」彼女は言った。「特にこんな夜は」
「みんな同じだね」
「ええ、だからもし、そういう人がいたらなるべく話し相手になりたいって思うんです。話すことで気がまぎれるならいいかなって、うまくは言えないけど・・・・」
「わかるよ」
 俺はうなずいた。あんな事件の後のせいか彼女の優しさが妙に胸に染みた。彼女が本気で言っているのはその口調と目つきからわかった。見た目通りの優しい子なのだ。
「お客さんは思いませんか?」彼女が言った。「みんな他人に対して冷たすぎるって」
「思うよ。みんなもっと他人に対して優しくするべきだって」
「見た目に反して優しいんですね」彼女は一呼吸置いて小さく笑った。「背中にドクロの刺繍が入った服を着てるのに」
「派手な刺繍ものが好きなんだよ」
「見た目で人を判断するなですね」
「あと、ライフスタイルでね」
「この間、学校でこういうことについて話したんです」彼女は言った。「そうしたら周りの子から、そんなことを言ってるとひどい目に遭うよって言われたんです。あくどい宗教に騙されるよって。もっと自分を大切にしろって」
「最近の子は現実的だね」
「そうじゃないと生きていけないからでしょうね。競争社会だから」
「だろうね。人のことをいちいち気に止めてたら生きていけないから」
「いやな時代ですね」
「まったくね」
「みんな疲れきってる気がする」
「わけがわからなくなってるのさ。地球があまりに早く回りすぎるから」
「言いたいことはわかります」
 電子レンジが止まった。彼女は中から弁当を取り出してビニール袋に入れると笑顔を浮かべた。その笑顔は俺を心優しい気持ちにさせた。普段目にする給料制の作られた笑みではなかった。
「お待たせしました」
「ありがとう」
 俺はブルゾンのポケットから手を出してそれを受取った。その時、ドアが開いて四十代前半と思しき小太りの男が不愉快そうな面持ちで入ってきた。その男は無言で彼女を見やるとレジの横を通って奥へと入っていった。その目つきはまるで「また油を売ってるんじゃないだろうな?」と言わんばかりだった。さっきの男が苦手だといっていたヤツであり、この店の経営者なのだろう。
「ありがとうございました」
 彼女はそう言うと笑みを浮かべた。少し男の視線が気になるようだったが、それでも彼女の笑顔はステキだった。ホッとする笑顔だった。
「ありがとう」
 俺は笑みを返すと買物袋をぶら下げてドアに向った。そして再度、彼女に頭を下げると店を出て通りを歩いて行った。外は寒く、空腹はピークに達したままだったが、さっきよりも気分はよかった。ごく当たり前の優しさに触れられたことが妙にうれしかった。いい意味で人間らしい人間に出会えたことが。
 俺は掃き溜めの隅でりんと咲く一輪の花を見つけた時のような気持ちで暗い通りを進んで行った。『この世界に愛を』を口ずさみながら。
  

小説「万華鏡」

 肌寒い秋のことだった。その晩、俺は相棒のクラッカーが働く中古盤屋でダラダラと時を過ごしていた。その日は一週間ぶりの休日だったが、古本屋と中古盤屋を見て回る以外にこれといってすることがなかった。一言で言えば無為な一日だった。
 荒々しいダッチビートの流れる細長い店内には他に数名の客がいた。俺はドアを開けてすぐのところにあるレジの前に立ちながらヤツとたわいもない話に興じていた。店を囲うように設けられた棚には相変わらず様々なCDやビデオが並び、レコードの棚の上の壁にはこの店の店長が外国で買い付けてきた、他店ではまずお目にかかることのできないレアなレコードが飾られていた。六〇年代のガレージバンドのオリジナル盤、伝説的な南米のハードコアバンドがツアーの資金を稼ぐ為に作った限定の七インチ、サン・レコードのオリジナル盤、それにGSやニューウェーブなどだ。ヤツの働く黒猫レコードはその筋の連中の間では広く知られた存在だった。
「しかし寂しい休日だな」ヤツが中古CD用の値札を作りながら言った。「たまの休みだっていうのに古本屋めぐりかよ」
「まあな」俺は返した。「釣りに行くには少し寒いし、いい映画もやってないからな。テレビもラジオまるっきりペケだし」
 ヤツは作り終えた値札をCDにはさんだ。「新しい恋人でも作ったらどうだ?」
「出会いがないよ」
「そりゃあ古本屋にはないさ」ヤツは言った。「それに中古盤屋にもな。いっそのこと陶芸教室にでも通ってみるっていうのはどうだい?淑女が見つかるかもしれんぞ」
「本気で言ってないよな?」
「言ってないさ」ヤツは笑った。「でも、おまえの働く靴屋にも女はいるんだろ?」
「一応な」
「だったら話は早いじゃねえか。あの背の高いねぇちゃんなんてどうだ? 野村育枝ちゃんは? 案外気があうんじゃねぇか?」
「どうかな」
「わりとかわいいし。性格もよさそうじゃないか。ジョークのセンスもあるし」
「まあな」
「少々わがままそうだけど」
 俺はレジの横の新入荷の棚に目をやった。そこには一年ほど前まで、自分がやっていたロックンロールバンド ― 俺がウッドベースで俺の死別した恋人の尚美がボーカルだった。ギターは相棒のクラッカーでヤツの彼女がドラムを叩いていた ― のCDがジャケットの見える状態で置かれていた。俺はジャケットの中でガイコツマイクを片手にほほ笑む尚美を見ながら、おまえがいたらなといつものように思った。おまえが生きていてくれたら一番いいのにと。優れた唄の才能と不幸な運命を神から授かった赤毛の天使・・・・
「珍しいだろ」ヤツは俺が見ているものに気づいたのかアゴで棚を指した。「この間入ってきたんだ。売ったのは東京の人間だよ。一番多く卸したのは東京だったからな」
「初めて見たよ」俺は言った。「中古で出てくるのは」
「出てくるのは二回目だ。一回目の時は店頭に出してすぐに売れた。けっこう聞かれるんだぜ。今さらながらもう百枚余分に作っておいてもよかったかなって思うよ」
 値札には発売時の七倍の三五〇〇円という値段が捺印されていた。そのCDは発売後数ヶ月で完売したせいか一部のマニアの間で稀少盤として取引されていた。完全な自主制作盤でプレス数は五〇〇枚だった。
「この値段で買うヤツがいるのか?」
「すぐに売れるさ」ヤツは得意気に言った。「むしろこの値段なら安いくらいだ。ネットオークションではもっといく。知っての通り内容は最高だからな」
「ああ」
「そういえば・・・・」ヤツが言った。「去年のこれくらいの時期だったよな。この作品を録ってたのは」
「ああ」
「早いよな」
「ああ」
 何枚かのレコードを抱えた作業着姿の男がやってきた。俺が左にずれるとその男は手にしていたレコードをレジに置いた。サイコビリーとハードコアが好みのようだった。ヤツはレジを打ち終えて金額を言った。そして男が一万円札を出すとそれを受取りながら「また奥さんに怒られますよ」と笑顔で言った。買ったレコードを見る限りその男は相当な通のようだった。
 俺は自分のCDが置かれていた棚に歩いていってその棚から目をつけておいたCDを二枚抜き取った。犬神サーカス団の『暗黒残酷劇場』とマジックの『あの夏が聞こえてくる』だった。俺は作業着姿の男がドアに向かうのを待ってそれをレジに置いた。
「珍しい組み合わせだな」ヤツが笑いながら言った。「腹イタを起すぜ」
「どっちもいいバンドだ」
「マジックは持ってなかったか? 前に車でかけてただろ?」
「ああ。でもCDはない。カセットだけだ。大学の頃に、前のボーカルに貸したら二度と戻ってこなくなった。巨乳の女は信じないほうがいい」
「あのGカップの女か」ヤツは言った。「ビデオでしか見たことがないけど、歌は気のふれたサルより下手くそだったな。でも、おまえがショウの最中にキレて、あの女のマイクスタンドを蹴り倒して、ギターを弾きながら歌ってる絵づらはおもしろかったよ」
「ああ、あれな」俺は言った。「なあ、ところでもっとこのバンドのCDはないのか?」
「ないな。この間、偶然一枚だけ入ってきたんだ。見ての通りうちはあんまり化粧系には強くないんでね。隣町にその手のものを専門に扱ってる店があるから、どうしても欲しいんならそっちに行きなよ」
「でも、一五〇〇円では買えないだろ?」
「ムリだろうな。そのCDだってつける店ならもっとつけてる。ブックオフとかで探せばそれくらいだろうけど、いつ出てくるかはわかったもんじゃない」
「よく化粧系のCDを店頭に並べる気になったな」
「俺も好きだからな。犬神は唯一俺が好きなビジュアル系だ。おまえが買わなきゃ俺が買うつもりだった。あともう何日か並べて売れなかったら。ああ、あとそこにあるグルグル映画館ってバンドもいいぜ」
「相変わらず多趣味だな」
「バンドマンはそうじゃなきゃな。いいものはどんどん取り入れていかないと」
「だったらヒップホップと今はやりの本末転倒なR&Bも聞いたらどうだ」
「それはごめんだな。俺にとってのR&Bはローリングストーンズとゼムだ。あとプリティ・シングスとな。それに最近のヒップホップは眠たい」
 俺はジーンズの後ろポケットに入れていたクリームソーダの白いヒョウ柄のサイフを取り出すとその中から千円札を三枚剥ぎ取って金属製の皿の上に置いた。ヤツは品物を袋に入れるとレジを打った。
「で、これからどうするんだ?」ヤツは釣銭を数えながら言った。
「おとなしく帰るよ」俺は言った。「おまえは今日は残業だろ?」
「ご名答」ヤツは釣銭を皿に置いた。「今日はクソ残業だよ。三角形の帽子をかぶって笛を吹きたくなるほどうれしいぜ」
 俺は釣銭をつかむとそれをサイフにしまった。「そういえば店長は休みか?」
「長崎だ」
「原爆でも落としに行ったのか?」
「ああ、エノラゲイに乗ってな。ついでに言えば護衛機はなしだ。高高度を飛ぶから迎撃される心配がないとでも思ったんだろうぜ」
「で、本当は?」
「弟の結婚式だよ。明後日まで帰ってこねぇんだ。そうそう。ちなみに店長の弟はモッズなんだぜ」
「ふーん。ところで長崎に原爆落としたのってエノラゲイだったか?」
「ハードゲイじゃなかったか?」
「それはないな」
 俺はヤツの後ろにかけられたレコード盤の形をした時計に目をやりながら食事のことを思った。起きてからコーヒー意外口にしていなかったせいでひどく腹が空いていた。時刻は午後八時だった。
 俺は店内を見渡すとレジの上の袋を掴んだ。まだ数名の客が棚を見ていた。まるで今夜マスをかくためのポルノ雑誌を選ぶ中学生のような目つきで。一人の男は手に四枚ものLPを抱えていた。給料が出たばかりのせいかこの日はよく売れていた。
 俺が「じゃあ行くよ」と言おうとすると店の電話が鳴った。ヤツは「おお、電話だ」と洩らすと傍らにあったコードレスタイプの受話器に手を伸ばした。
「はい、ありがとうございます。黒猫レコードです。ああ、はいちょっと待ってくださいね」ヤツはそう言うと店の奥に設けられた七インチのコーナーに歩いて行ってパタパタとレコードをめくり始めた。「ああ、ありますよ。セカンド以外は全部揃ってます。ええ、うちにあるのはドイツ盤です。値段はファースト以外全部一二六〇円ですね。ファーストは二八〇〇円です。状態はどれもミントですね。ああ、はい通販ですね? だいじょうぶですよ」ヤツは七インチを六枚ほど抜き取るとレジに戻ってきた。「じゃあ、お名前と住所を教えてください。ああ、やっぱり毛利さんですか。いつもありがとうございます。じゃあ、送っときますので到着までしばくお待ち下さい。はい、またお願いします」
 ヤツは電話を切った。レジの上に置かれた七インチは日本の大御所ガレージバンドのものだった。セカンドがなかったのは数日前にここを訪れたベースのデニーが買っていったからだった。俺は彼に「日本にこのバンドのシングルを全部持っているのはこのバンドのメンバーを除いて俺と他に数名だ」と散々自慢されていた。
「かわいそうにな」俺は言った。「デニーが買ってったヤツだろ?」
「もう少し早ければ全部揃ったのにな」ヤツは返した。「一枚だけ足りないっていうのはけっこうストレスになる」
「だろうな」
「多分この客は今頃、他の店に電話してる。まず見つからないだろうけど。あれは自主で作ったヤツだし、そのほとんどが海外に流れてるんだ。まあ、値段はたいしたことがないけど物が少ないんだ」
出し抜けに背後でドアが開いた。振り向くと俺と同じ年くらいの痩せた女が入ってきた。ヤツはその女に軽く右手を振った。
「おお、久しぶりだな。マッツ。今日は・・・・」
「クラッカー君・・・・」その女はあいさつもそこそこに暗い声で言った。「悪いんだけど家まで送ってくれない・・・・」
 香水の匂いが鼻をついた。俺は二人の関係を想像した。ヤツの知り合いとは大抵顔見知りだったがその女を見たことはなかった。ヤツはなぜだかうんざりしたような、憐れむような暗い表情を浮かべていた。ヤツの彼女の知り合いか何かだろうかと俺は思った。
「いいけど・・・・」ヤツは言った。「何時になるかわかったもんじゃないぜ」
「早く帰らなきゃいけないの・・・・・仕事の都合で電車を逃しちゃって。かといってタクシーに乗るお金はないし・・・・クラッカー君しか頼れる人がいないの・・・・」
「おいおい、俺は仕事中だぜ。九時まで店を閉めるわけにはいかないんだ」
「九時が門限なの・・・・」彼女はおびえた感じで言った。「どうしても帰らなきゃいけないの・・・・」
「優子から聞いてるよ」
 俺は女の顔が底なしの地獄に落ちていくように変化していくのを見ていた。女は背が高くて目鼻立ちの整ったなかなかの美人だったが、どこかおかしい感じがした。よく見ると痩せているというよりもやつれているといった感じだった。肩までの栗色の髪には一、二本だが白いものが混じっている。俺は彼女の育った家庭環境をだいたいだが察することができた。複雑な家庭環境で育った人間にありがちな雰囲気が彼女にはあった。精神的に少しまいっている人間特有の人から避けられることや、誘いを断られることをひどく恐れる目をしている。落ち着きなくキョロキョロと動く鋭くて悲しげな目・・・・
「なあ、香村」ヤツは少し考えてから口を開いた。「悪いけど、こいつを家まで送ってくれねぇか?」
「俺が?」
「車だったらそんなに遠くないんだ。でも、電車があんまりない地域だし、歩ける距離じゃないんだよ」
「どこだ?」
「一回だけ出たパウンターズクラブって店を覚えてるだろ。あのそばだ」
「遠くはないな。俺の部屋とは全く反対だけど」
「悪いんだけど行ってくれないか?」
 俺は彼女をチラッと見やった。彼女は祈るような目で俺を見ていた。
「断るわけにはいかないんだろ?」
「正直な」ヤツはそう言うと背後の時計を見た。「本当はコーヒーでも飲みながらゆっくりと事情を話したいんだけど、あいにくそんな時間はないんでな。もう八時十五分だし」
「いいよ」俺は言った。「おまえには何かと世話になってることだし」
「悪いな。相棒」ヤツはそう言うと彼女に言った。「よかったな。こいつが送ってくれるってよ」
 彼女の体から緊張の糸が解けたように思えた。彼女は俺に深々と頭を下げた。
「ありがとう・・・・えっと・・・・」
「香村だよ」ヤツが言った。「俺の相棒だ。見ての通り変なことはしないから感心していい」
「よろしくお願いします・・・・香村君・・・・」
 俺も頭を下げ返した。内心面倒くさいなと思いながら。

  *

 店の階段を下りて通りに出た。俺と彼女はそばのコインパーキングへと歩いて行った。ヤツの働く店は小さな雑居ビルや、飲食店が軒をつらねるごちゃごちゃとした道の細い地域にあって路上駐車の取締りが厳しかった。俺がそんなところに車を停めたのはつまりそういうことだった。
 二分ほど歩いてコインパーキングについた。俺は駐車代を精算機に入れると彼女といっしょに車に乗り込んだ。俺の車は中古の黒いマーチだった。
「道案内を頼むよ」俺はエンジンをかけながら言った。「あまり道には詳しくないんだ」
「うん。ここは左で」
「了解」
 俺は通りに出ると彼女の言った方向に向かって走り始めた。運よく道は空いていた。しばらく走ると彼女が言った。
「タバコ吸ってもいい?」
「どうぞ。俺も吸うから」
「よかった」
 彼女は窓を少し開けるとハンドバッグの中からタバコケースを取り出した。かすかに冬の香りをはらんだ冷たい秋の夜風が車内に吹き込んでくる。
「香村君も一本どう?」
「ありがとう。もらうよ」
 俺は彼女からタバコと使い捨てライターを受け取ると火をつけて窓を開けた。俺が普段吸っているエコーではなくセブンスターだった。昔は好きだったが安タバコになれてしまった今となっては少しもの足りなかった。セブンスターを吸う女の子を見るのは久しぶりだった。
俺がライターを返すと彼女が言った。「バンドの子だよね?」
「うん」俺は言った。「あいつのメンバーだよ」
「それっぽいもんね。ボーカルだっけ?」
「そう。それにサイドギターとね」
「テープを聞いたことがあるよ。あの『移動祝祭日』ってやつ」
「うれしいな」
「かっこよかったよ。私は三曲目が好き、あの夏っぽい曲が」
「よかったらショウにも遊びに来てよ」俺は言った。「チケット代以上のものは必ず見せるから」
「一度、行きたいんだけどね。優子ちゃんにもたまに誘われるし・・・・」
 彼女はさかんに車内の時計を見ていた。俺と一緒にいることに対する気詰まりなどは感じていないようだったが落ち着かなかった。よほど厳格なご両親と暮らしているのだろうと俺は思った。ひょっとすると彼女の両親は何かのタワケタ宗教に入っているのかもしれない。
「年はクラッカー君と同じ?」彼女が言った。
「そう。二十七」
「じゃあ、私の二コ下だ」
「そうなんだ」俺は言った。「ところで名前は?」
「私は松井政子」
「優子ちゃんとはどんな友達なの?」
「昔、バイトしてた喫茶店によく優子ちゃんが来てたの。あの子、黒いカブトムシに乗ってるからそれで話しかけたの。いつも店の前に頭から車を停める姿がかっこよくて。カブトムシは私の好きな車だから」
 俺は笑った。敬語を使う気にはならなかったが、彼女がそれを気にする様子はなかった。年齢のことは社交辞令の一環として言ったのだろう。彼女なりの。
彼女が「次の信号を右」と言ったのでウィンカーを出して隣の車線に入った。俺は信号が赤になるのを待って右折した。
「香村君は寂しそう」
「松井さんもね」
「なんていうか女に興味がなさそう」
「よくわかるね」
 彼女の言う通りだった。俺は尚美が病気でこの世を去って以来、女に興味がわかなくなっていた。どの女も彼女と比べればたいしたことがなかった。
「やっぱりそうなんだ」
「かといってホモではないけどね」
 彼女はクスリと笑った。「好かれそうには見えるけどね」
「そうでもないよ。どっちかっていうとアイツの方が好かれる。クラッカーの方が」
「恋人は?」
「いない。松井さんは?」
「いるよ」彼女は言った。「一緒に住んでるの」
 俺は彼女を見やった。彼女は俺と目が合うと視線をダッシュボードに落とした。まるでやましいことがあるかのように。俺はなんとなくだがさっきヤツが言っていた事情とやらがわかった気がした。
「てっきり親が厳しいのかと思ってたよ」俺は言った。
「親も厳しかったけどね」彼女は言った。「特に義理の母は。でも、彼のほうが厳しいの。っていうか心配性なんだよね。帰りが遅いと怒るの」
「そんなことは社会人ならよくあることじゃないか」
「私はあんまりないの。派遣社員だから大抵時間通りで終わるから。今日は例外だけど」
「じゃあ、さっきショウに来れないって言ったのは彼の命令?」
「そういう場所にはいっちゃいけないって言われてるの」
「でも、優子ちゃんは女だよ」
「男も女も関係ないのよ。私は彼以外の人とは出歩いちゃいけないことになってるから。彼も私以外の人とは出歩いちゃいけないことになってるし」
「で、気に入らないことがあると暴力を振るうわけだ? その彼は」
 彼女は驚いた様子で俺を見つめた。「何でわかるの?」
「松井さんの態度を見てればわかるよ。口で怒られるだけには思えない」
「頭がいいんだね。香村君は」
「誰でもわかるよ」俺は言った。「ところで、この道をまっすぐでいいの?」
「うん。左折するところになったら言うから」
 俺は時計に目をやった。八時四十分だった。間に合うだろうか?
「よくあるの?」俺は聞いた。
「何のこと?」
「暴力をふるわれること」
 彼女は何も言わなかった。しかし、それが全てを物語っていた。俺は彼女が着ていた長袖のシャツの下が気にかかった。タバコを押し付けられた跡などがなければいいのだが。
「あまりいい関係とは思えないな」俺は言った。「少なくとも松井さんのためにはなってない気がする」
「そんなことないよ。私も武もお互いを必要としてるから」
「そうは思えないけど」
「私がいなくなったら武は自殺しちゃうかもしれない」彼女は続けた。「武は複雑な家庭で育ったから信用できる人がいないの。でも武には私が必要なのよ」
「だけど君のことを好きってことにはならないよ。もし好きなら暴力なんて振るわない。はずみでそうなることはあるかもしれないけど、慢性的にそうするのは異常だ。それに君のことがそんなに気になるっていうんなら、どうして自分で迎えに来ないんだ?」
「武は働いてるから・・・・」
「松井さんだって働いてるじゃないか」
彼女は一瞬口をつぐんだ。しかし、すぐにまた話し始めた。
「武にだっていいところはたくさんあるんだよ・・・・」
「例えば?」
「優しいとか・・・・」
「そうは思えないけど」
「臆病なんだよ」彼女は言った。「本当の武は優しいの。でも、そうしないとやってられないから暴力を振るうの。自分で自分が抑えられないんだよ。愛情の示し方がわからないから・・・・」
「全てを含めてその人だよ」俺は言った。「俺には君の彼が自分の我を押し付けてるようにしか思えない。それにどんな凶悪犯にだっていい面はあるよ。全てが悪い人間なんてこの世にいない」
「好きだからこそ手を上げれるんだよ」
「確かにね。でも君の話を聞く限り、君の彼は自分の思い通りにならないからそうしてるように思える」
「似てるね・・・・」
「うん?」
「優子ちゃんもクラッカー君も同じことを言ってた」
「だろうね。大きなお世話かもしれないけど・・・・」
「ねぇ、この話はもうやめない?」彼女は俺をさえぎって言った。「別にいいの。どうせわかってもらえるとは思ってないから。私は武のことが好きなの。例え何をされても、人からどう言われても・・・・」
 俺はそれ以上何も言わなかった。言い方こそ穏やかだったが彼女の声には最終警告のような響きがあった。それ以上そのことに触れるとケンカになりかねなかった。車内には反発感が漂っていた。それに考えてみればそれは彼女の問題で、第三者の俺が口を出すべきようなことではなかった。本人がそう思っているならそれでいいわけだし、思うところは人それぞれなのだから。しあわせの形だって様々なのだし・・・・
 俺と彼女はしばらく黙った。彼女は俺と視線が合うのを避けるかのように窓の外を見つめ、俺は無言でハンドルを握り続けた。俺は自分が人の上げ足をとろうと躍起になっている性格の悪い面接官になっていたような気がして気分が悪かった。おめでたすぎて自分の愚かさに気づくことのできない博学者ぶった大馬鹿者になり下がったような気がして。消耗しきったエンジンのうなる音がやけに大きく聞こえた。
「ねぇ」出し抜けに彼女が言った。「香村君は車の中で音楽を聴かないの?」
 俺は知らない人を乗せる時はあえて何も音楽をかけないタチだった。俺が好きな音楽をその人が気に入るとは限らない。音楽は嗜好品と同じでそれぞれ好みがある。
「よかったら音楽をかけてくれない?」彼女は言った。「何か楽しい曲を」
「いいよ」俺は言った。「っていってもシャングリラスしかないんだけど」
「シャングリラス?」
「六〇年代のガールグループだよ」
「明るい曲?」
「そういうのもあるし、暗い曲もある」
「それでいいよ」
 俺はデッキにささっていたカセットを押し込むと音楽が流れ始めるのを待ってボリュームを上げた。流れ始めたのはこのグループの名曲『リメンバー』だった。
 俺と彼女は無言でそれを聞きながら暗い夜道を進んで行った。音楽のおかげで少しだけ車内の反発感が薄れたが、途切れた会話はそのままだった。

  *

 それから十分ほどして左折するように言われた。彼女と男が暮らす部屋は通りを入って少し行ったところにあった。小汚い二階建てのアパートで、俺の部屋と同様に裏手が砂利敷きの駐車場になっていた。古い民家や傾いた木造の商店が立ち並ぶ地域だった。
 俺はどのみちユーターンをしなければいけなかったので駐車場に車を入れた。すると、白いジャージの上下を着た金髪の男が右端の部屋のドアの前でタバコをふかしているのが目に入った。俺は空いていた駐車場に車を尻から突っ込んだ。
「ありがとう」彼女は言った。「クラッカー君によろしく言っといてね」
 俺は男がジッとこっちを見ていることを気にしながらうなずいた。彼女は今にも泣き出しそうな顔をしていた。駐車場はアパートの窓から漏れる灯りや、ところどころついたドアの横の灯りのおかげで比較的明るかった。
「あれが彼?」俺は言った。
「そう」彼女は言った。「機嫌が悪いみたい。家の外で待ってる時はそうなの」
「だいじょうぶか?」
「だいじょうぶ。ありがとうね」
 彼女は動揺しながらそう言うとドアを開けて車の外に出た。男は数秒ほどこっちを見ていたが、それが彼女だと確認できると喚いた。
「どこに行ってたんだ!」
 窓は閉めてあったがそれははっきりと聞こえた。気のふれた男を思わせる凶暴な叫び声だった。カーステレオから流れていたシャングリラスの『メイビー』が一瞬かき消された。
 男はゴリラのような足取りで彼女に歩み寄った。そしていきなりみぞおちに拳を叩き込むと、彼女を地面につき倒して蹴りを入れた。彼女は腹を押えた状態で苦しそうに地面に転がった。男はさらにつま先を彼女に叩き込んだ。
「俺がどれだけ心配したのかわかってんのかこのやろう!」
 俺はエンジンを切った。そしてライトを消すとドアを開けて外に出た。「そこまでにしときなよ」
男は俺をにらみつけた。「誰だテメーは!」
「いくらなんでもやりすぎだ」
「何だと?」
「理由くらい聞きなよ」俺は言った。「その子は別に駅前のデパートをウロウロしてたわけじゃないぜ」
「テメーに関係ねぇだろ!」
「そうは、いかないだろ」俺は言った。「こんなものを目の当たりにしたらほっておけない」
「何だ? 正義の味方でも気取るつもりか?」
 俺は無言で男を見つめた。男は身長一七〇センチ、体重五一キロの俺よりもはるかにいい体格をしていた。見たところ身長は一七五センチくらいで体重は六五キロくらいだった。肩幅が広く狂暴そうな顔立ちをしていて、できることなら一生友達に持ちたくないタイプだった。
「何、黙ってんだよ?」男が言った。「怖くて声が出ないのか? このキノコカット」
「ビートルズカットだ」俺は万が一に備えて男の攻撃部位をさぐりながら言った。俺は前髪を短くして横と後ろが長かったのでそう見えなくもなかった。
 男の言う通り俺は少し怖かった。自分よりも強そうな相手と向き合っているのだから当然のことだった。しかし、同時にこの男と殴りあいたいという気が少なからずあった。男には自分の嫌いな部分を思わせる何かがあった。
「おい、ヌケサク、テメーは、政子の何だ?」
 俺はドアを閉めた。「あんたの心配してるような間柄ではないよ」
 彼女が体を起した。彼女は俺の方に顔を向けると苦しさをこらえながらなるべく普通に聞こえるように言った。「いいの、香村君。だいじょうぶだから。もう帰って」
「そうはいかないだろ」俺は言った。「少なくとも今は」
「政子がいいって言ってんだろ!」男が叫んだ。「人の女に気安く話しかけるんじゃねぇぞ!」
「声を押えろ」俺は言った。「近所迷惑だ」
「迷惑なのはテメーだろうが! いちいち人の家庭に口出ししやがって。それに周りなんて関係ねぇだろ! 俺は家賃を払ってんだ!」
「それなら他の住人だってそうだろ。おまえに騒ぐ権利はないし、彼女を殴る権利もない」
「うるせー! とっとと出てけ。じゃねーと警察呼ぶぞ!」
「勝手にしろ。困るのはおまえの方だ」
「何だと!」
 男が向かってきた。俺はとっさに右足を前に蹴りだした。その一撃は見事に男のみぞおちに命中して男を後ろに吹っ飛ばした。確かな手応えがあった。
 俺は男の突進の強さに一瞬バランスを崩した。しかし、すぐに体制を立て直すと地面に尻餅をつく男のそばに歩み寄って顔面に蹴りを入れた。固いブーツの底は男の顔を見事に捉え大きく後ろにのけぞらせた。
「クソッ・・・・この野郎・・・・」
 俺は地面に倒れこんだ男を注意深く見つめながら次の攻撃箇所を探った。まともにやったら体力で負けるので早々に仕留める必要があった。男は両手で顔を押さえた状態で芋虫のように地面を転がっていた。右へ左へと。
 やがて俺はもう一度みぞおちを狙おうと右足を上にあげた。その時彼女が叫んだ。
「もうやめて! お願いだから!」
 その声は銃声のように辺りに響いた。俺は足を下ろすと彼女の方を振りかえった。薄暗い中でも彼女がすごい形相で俺をにらみつけているのがわかった。まるで目の前で自分の肉親を殺そうとする凶悪犯を見るかのような目で。純度百パーセントの憎しみがこもった目だった。
 彼女が立ち上がった。彼女は男の横に行くとしゃがみ込んで男の介抱を始めた。彼女に抱かれた男はすすり泣きを始めた。自分が他人に振るう暴力に対しては鈍感なくせに、自分が他人に振るわれる暴力に対しては敏感なようだった。鼻血を垂らした男はバカそのものに見えた。
「クソ!」男は彼女に介抱されながら言った。「よくもやりやがったな!」
 男は立ち上がろうとした。それを彼女が必死で抑えた。着ていたブラウスの袖がまくれあがって腕があらわになった。そこには予想したとおりのものがいくつもあった。
「クソッ! 俺は負けてないからな! 油断しただけだからな! 勝ったなんて思うんじゃねぇぞこのキノコ野郎!」
「勝ち負けなんてどうでもいいよ」俺は言った。
「次は殺すからな! 次は絶対に殺すからな! 政子に指一本でも触れたら絶対に殺すからな! チクショウ! チクショウ!」
「殴られる痛みがわかったか? これがいつもおまえがその子にしてることだ」
 俺はそう言葉を返そうとしたがやめた。彼女の視線が気がかりだった。涙のにじんだその目は明らかにこう言っていた。『帰って香村君。あんたなんか大嫌いだから。大切な彼をこれ以上傷つけないで。もう帰って! お願いだから! 今すぐ消えて!』
 俺はしばらく二人を見つめると車に向かって歩き始めた。そして車に乗り込むとエンジンをかけてその場を走り去った。彼女の疫病神を見るような視線を背中に浴びながら逃げるようにして。好意で何かをして、余計なことをするなと怒鳴られた後のように暗くて恥ずかしい気持ちだった。自分がひどくみじめで劣っているように思えてならなかった。
 クソッたれ・・・・
 俺はハンドルを握りながら何度も悪態をついた。どう考えても狂っているとしか思えなかった。あのゴリラのような男とそれをかばう彼女に苛立ちを覚え、自分にも似たような感覚を覚えた。あのクソゴリラのどこがいいいのか? 一体あの女はどこに脳ミソをつけているのか? なんで俺は黙って行かなかったのか? おせっかいなクソ野郎め・・・・しかしそれだけではなかった。同時に俺はあの男が少しねたましくもあった。ありのままの自分を愛してくれる女がいることがうらやましかった。この世に全てをさらけ出せる相手と出会えた人間などそうはいない。しあわせなクソ野郎め・・・・
 その夜は、部屋に帰ると熱いシャワーを浴びて缶ビールを二本ほど飲んですぐに寝た。ヤツに電話をしてあったことを話そうかとも考えたが、人と話したい気分ではなかった。そうするには心が痛かったし疲れすぎていた。様々な感情の糸がグチャグチャと複雑に絡まっていた。『優しさのおしつけ』という言葉と『おせっかい』という言葉が眠りに落ちる瞬間までグルグルと頭の中を回った。

 *

 俺は数日ほどそのことをひきずっていたが、間もなくして彼女のことを忘れた。どういうわけだかその後、ヤツが彼女のことを話すことはなかった。俺は一応ヤツにことのなりゆきを話したがヤツは特に何も言わなかった。ただ一言「巻き込んじまって悪かったな」といってコーヒーをご馳走してくれただけだった。彼女とどこかでばったり会うということもなかったし男が復讐に訪れることもなかった。いずれにしても一連の事件は時間が解決してくれた。
 しかし、それから四ヶ月ほどが過ぎた晩に俺は意外な形で彼女と再会することになった。それは仕事帰りに立ち寄ったごくたまに行く小さな食堂でだった。その時俺は安い定食を義務的に腹に詰め込みながら週刊誌を読んでいた。十時を少し過ぎた頃だった。
カウンター席だけの狭い店内では油で汚れた十四インチのテレビがニュース番組を放送していた。俺は週刊誌の後ろの方に載っていた主婦の節約術という退屈だが目を通さずにいられない記事を呼んでいた。するとカウンターの中で暇そうにたばこをふかしていた店のおばさんが言った。
「この近くだね」
 俺は雑誌から目を上げた。すると俺の住む町の名前が画面左上に小さく出ているのが目に入った。カメラは貧相な顔のレポーターとビニールシートが貼られた小汚いアパートの前にたむろする警官達の姿を写していた。どことなく見覚えのあるアパートだった。俺はしばらく考えてからそこが以前行った場所であることに気づいた。それはあの松井さんとかいう女の部屋だった。俺はかすかにだが好奇心が湧き上がるのを覚えた。
 しかし、俺がそのことに気づいた時にはすでに次のニュースに移っていた。俺はなんとかレポーターが言っていたことを思い出そうとしたが無理だった。いくらがんばっても何も思い出せなかった。俺は一度に一つのことしかできないタイプの人間だった。一つのことすら満足にできないことも多々あるのだが。以前働いていた工場の上司はことあるごとに俺を不具者と呼んだが多分そうなのだろう。それを言ったらそいつだって仕事しかできない不具者なのだが。
 俺は少し迷った末に店のおばさんを見やった。安さと量以外に取り柄のないその店に客は俺ともう二名だけだった。そのおばさんは中国雑技団のメイク係に頼んでそうしてもらったかのようなケバケバしいメイクをしていた。
「何があったんですか?」俺は話しかけた。
「何のことだい?」
「さっきのニュースのことですよ」俺は言った。「この近くだって言ってたでしょ」
「よくある事件だよ」おばさんは面倒くさそうに言った。「まったくキチガイだらけだね、この辺りは。なんでこの町にはろくでなししか住んでないんだろう。そこにある精神科の連中は何をしてるんだか」
「どんな事件だったんですか?」
 おばさんは短くなったハイライトを吸い込むと鼻から煙を出しながら言った。「頭のイカれた男が痴情のもつれで女に灯油をぶっかけて火をつけたんだよ」
 どこがよくある事件なんだ? と俺は思った。このおばさんは紛争地域にでもお住まいなのか?
「で、どうなったんですか?」
「火をつけられた女が病院に運ばれたんだって。重体らしいよ」
「でしょうね」
「男のほうは軽症なんだって」
「室内で?」
「外でだよ。女を部屋の外に叩き出してそうしたんだってさ」
 俺は不思議と何も思わなかった。かわいそうとも痛ましいとも思わなかった。少し考えてみればいつか起きるであろう事件だった。さすがに自分の身の回りでこういうことが起こるとは思わなかったが。
「ところで原因は何だったんですか?」
「痴情のもつれって言っただろ」
「具体的には?」
「さてね」おばさんは手にしていたタバコを流しに捨てた。「そこまではテレビで言ってなかったから。もし、どうしても知りたいって言うんなら病院に行って本人に聞きな。どうせ第一病院に運ばれたんだろうから。もっとも、もう死んでるかもしれないがね」
 俺はタバコに火をつけた。俺がこのおばさんを好きになれない理由は一言多いところだった。だからいつ来ても客が少ないのだろう。
「バカだよその女は」おばさんは吐き捨てるように言った。「ろくでもない男と一緒に暮らすなんて脳ミソがない証拠だよ。男を見る目がないのはバカってことさ」
「恋は盲目って言いますからね」
「バカバカしい。そんなものはキ印どものタワゴトだよ」
「そうですかね」
「あんたも女には気をつけなよ。そんなたわけたことを言ってると灯油を頭からぶっかけらて燃やされるよ。もしそうなったら頭から袋をかぶって一生クズ拾いだよ。残飯をあさってみんなから蹴られて、あげくの果てには野垂れ死にだよ。行政は何もしてくれないからね」
「心の片隅に止めておきます」
 俺は残っていたお茶を飲み干すと席を立って代金を払った。そして店を出て駐車場に停めていた車に乗り込むとエンジンをかけて部屋へと走り始めた。刺すように寒い夜で、満月が全ての物と者を平等に照らしていた。時間帯のせいか交通量は少なく通りはひっそりとしていた。
 彼女自身のことは特に何も思わなかった。しかし彼女が言っていた「何をされても好き」という言葉だけは別だった。なぜだかその言葉はとち狂ったメリーゴーランドのようにくるくると頭をめぐった。
 俺はハンドルを握りながら今でもそうだろうかと考えた。とてもそうは思えなかったが、そうであって欲しかった。この世に何があっても変わらない愛があって欲しかった。誰もが欲する未来永劫に続く愛が。

小説「チャールズ・ブコウスキーを知った日」

 重たい気分で電車を降りると機関銃のような雨が降りだした。
 改札を出た私は、しばらく降りしきる雨を見つめてからヤケクソな気分で家へと歩きだした。あいにく傘は持っていなかったし、ビニール傘を買うお金もなかった。外はまだ五時前だというのに鉛色の雨雲のせいで真っ暗だった。
 私はゆっくりとした足取りで生暖かい夕立の中を歩いた。満足に目も開けられないほどの雨に一分もしないうちにずぶぬれになった。水を含んだ夏物のセーラー服が肌にピッタリとくっついて気持ち悪かったが、気分はよかった。悪意があるかのような土砂降りが心地よかった。なんだか自分が安っぽい映画のヒロインになれたような気がしたが、事実私はこの日、ありがちなドラマのヒロインだった。
 私は三十分ほど前に一年間つきあった彼にふられていた。原因は同じ高校に通う中学時代の友達が偶然彼の二股を発見したことだった。彼女によると昨日、彼が、他の女と駅前のショッピングセンターにいたということだった。仲むつまじく手をつなぎながら。「ウソだ」と私は祈るような気持ちで言った。「本当だって」と彼女は返した。「なんなら証拠を見せるよ。携帯のムービーで撮ったから」。彼女はその映像を見せてくれた。確かにそこには親しげに女の子と手を繋いでいる彼の姿があった。まるで一億二千万円の宝くじが連続で十二回当たったような笑みを浮かべている彼の姿が。私は顔面が蒼白になった。横にいたのは私のよく知っている華子という小学校からの同級生だった。私に彼を紹介してくれたのも彼女だったし、口癖のように応援していると言っていた。
 当然、私は真相をさぐるべく学校のそばのコンビニの裏に彼を呼び出した。彼は私と同じ中学で今は私の学校から少し離れた場所にある工業高校に通っていた。メールで今日放課後に会いたいと言うと用があるからと言ったが、どうしても会う必要があるからと私は押し切った。彼は十分だけと言ってしぶしぶそれを認めた。私は悲しいような腹立たしいような悔しいような気分でコンビニに向かった。気のふれたように輝く九月の太陽の下を自らの墓場に向かうような気分でテクテクと。
 何も知らない彼はいつも通りの感じで少し遅れて現れた。一足先に到着していた私は彼を見るなり食ってかかった。彼は一瞬ハッとしたがすぐにそれを認めた。そしてただ一言「別れよう」と言って去っていった。理由も何も言わずに。まるでおまえなど惜しくもないと言わんばかりに。私はあまりの彼のそっけなさに呆然とするしかなかった。浴びせる気満々だった悪口雑言はどこかに消えてしまった。ただ自尊心がズタズタになっただけだった。彼は私と同様に本当にどこにでもいそうな十七歳で、これといったものがあるわけでもなかった。だが、ショックであることに変わりはなかった。私は彼が好きだった。女の子が私の中学時代の友達ということがそれに追い討ちをかけた。つまり私は友達と彼の両方に裏切られたのだ。しかも仲のよかった友達に・・・・。

 目の前が光った。一秒遅れて牛が螺旋階段を転げ落ちたような凄まじい音が辺りに響いた。その音に恐怖を感じた私はそばにあったタバコ屋の軒先に飛び込んだ。そこは辺りに立ち並ぶきれいなビルや、おしゃれな店とそぐわない昔ながらのタバコ屋だった。雨足がいっそう強まった。
 私は両手で髪を後ろにかきあげると雨に煙る通りを眺めた。そして背負っていたバックパックに彼からもらったキーホルダーがついていたことを思いだすと、それをひきちぎってゴボゴボと溢れる排水溝に投げ入れた。そのクマのキーホルダーは彼とお揃いのものだった。私は彼も今頃このキーホルダーを外しているのだろうかと考えた。彼はこのキーホルダーをつけて他の女の子、しかも私の友達だった女の子とハンバーガー屋にいったり、エッチをしていたりしたのだろうか。そう考えると腹が立った。ひょっとしたら今だってそうしているのかもしれない。
 また空が光った。さっきよりも大きな雷の音が辺りに響いた。私は一瞬目をつむった。私は小さい頃から雷が怖かった。でもこの日は一人ぼっちになった寂しさからか一層、恐怖感がつのった。彼がそばにいてくれたらいいのにと私は思った。なんで人は裏切るんだろう? 何で私よりもデブでブサイクな子と? 私には魅力がないんだろうか・・・・。
 そんなことを考えていると突然、自販機の陰から男が現れた。その男は私の横に来て腕についた水滴をはらうと唇をひん曲げながら誰に言うでもなく「たまんねぇよな」と洩らした。私と同様にずぶ濡れで、大きく肩で息をしていた。
 私は数秒ほどまじまじと男を見つめてから目をそらした。この人は何なんだろうと思わずにはいられなかった。男はまだ二十代半ばくらいだったが、そのいでたちは普通ではなかった。派手な刺繍の入った黒いシャツからのぞく腕は刺青だらけで、今どき紫色のラバーソールを履いていた。身長は一七五センチくらいで痩せていたが、ガッチリとした強そうな体格をしていて、髪型はあろうことかリーゼントだった。いずれにしてもまともではなかった。
「ちょっとごめんな」男はそう言うとたまらないといった感じの表情を浮かべた。「悪いけど俺も少し雨宿りさせてくれよ。この雨じゃ流されちまいそうだ」
 私は小さくうなずいた。なんとなく軽薄な感じのするしゃべり方だった。でも、見かけに反してあまり危険な感じはしなかった。切れ長だがどこか人なつっこいその目のせいかもしれない。私は男がわりとハンサムなことに気づいた。
 男は「あーあ」と洩らすと手に持っていたビニール袋を床に置いて、さっき私がしたように髪を両手で後ろになでつけた。それと同時に甘いバニラのような匂いが辺りにただよった。その匂いが香水なのか整髪料なのかはわからなかったが嫌な匂いではなかった。どちらかと言うと落ち着く匂いだった。私は眠くなるような悲しくなるような感覚を覚えた。
「タバコ吸ってもいいかな?」と男が言った。
「どうぞ」と私は返した。
「わりぃな」
 男は胸のポケットからタバコを取り出すとマッチをすって火をつけた。そしてマッチを振って火を消すとそれを排水溝に投げ捨てた。私は雨で冷えた空気の中を男の吐き出した煙が漂っていくのを見つめた。雨が止む気配はなかった。
「ついてねぇよ」と男は言った。「初めて来た町でこれだもん」
 私は男を見やった。また空が光って雷の音が辺りを揺るがした。
「この町に来るのは初めてなんだ」と男は続けた。「明日は名古屋で、明後日は大阪さ。割といい町だよな、ここは」
 私はどう返していいのかわからなかったので黙っていた。でも、気さくに話しかけてくれることがうれしかった。誰かに優しくされたい気持ちだった。明日は名古屋で明後日は大阪という言葉が、この人はクスリの売人か何かではないのかと一瞬思わせたがどうでもよかった。
「高校生かい?」と男は聞いた。
「うん」と私は返した。
 男は笑った。「そうだよな。セーラー服着た会社員がいるはずないよな。金で買える女ならわかんねぇけどな」
「私はちがうよ」
「いいことだよ。自分は大切にしねぇとな」
 男は口の端にタバコをくわえて私の横の自販機に歩いていくと、ジーンズの前ポケットから小銭を取り出した。
「何がいい?」
「えっ?」
「コーヒーかコーラーかジュースか?」
「コーヒーを」
 私はよくわからないまま言った。コーヒーと言ったのはそれ以外に言葉が浮かばなかったからだった。
 男は硬貨を自販機に入れると立て続けに二回ボタンを押した。そして取り出し口から缶を二つ取り出して元いた場所にもどるとその中の一つを私に差し出した。
「ミルクと砂糖が足りなくても文句はなしだぜ」
「いいの?」
「ショバ代だよ」
「ありがとう」
 私はそれを受け取るとプルトップを空けて一口飲んだ。普段ならくどいくらいの甘さだったがちょうどよかった。疲れた心と体には。
「なあ」と男はプルトップを空けながら言った。「なんかあったのかい?」
「えっ?」
「誰かの葬式みたいな顔をしてるぜ」
「ちょっとね」
「お気に入りの靴が濡れちまったからってわけではなさそうだな」
 男はおどけた感じでそう言うと私の靴を指差した。確かに私のお気に入りのピンクのコンバースは雨で濡れていた。それは彼がかわいいとよく誉めてくれたもので、選んでくれたのも彼だった。今から二ヶ月前に二人で買いに行ったのだ。学校の帰りに待ち合わせて。
「ちょっとちがう」と私は言った。「お気に入りだけど」
「かわいいもんな。その色」
「彼が選んでくれたの」
「そうかい」男はそう言うと人なつっこい笑みを浮かべた。「よく似合ってるよ」
 その一言が胸に刺さった。それはよく彼が言ってくれた言葉だった。私は急に涙が溢れてくるのを感じた。ねたみ、悔恨、愛おしさ、不条理さといっしょにさっきのことが脳裏によみがえってくる。私は涙を隠そうと右手で目の下を拭った。でも、同時に隠す必要などないような気もした。なぜだかこの男の前では・・・・
 男は驚いた様子で私を見つめた。「どうしたんだ。急に」
「実は、今日ふられたの。三十分くらい前に」
 男は一瞬私を見つめた。そして複雑な笑みを浮かべると言った。「大変な一日だったんだな」
 私は思わずうなずいた。本当にそうだった。少なくとも私にとっては。なぜだか解放されたような感覚を覚えた私はせきをきったように今日あったことを話し始めた。会話に好きという言葉と浴びせたくて浴びせられなかった悪態を交えて。目から涙があふれるにつれて雨足が強くなったような気がした。男は時おりあいづちを打ちながら自販機にもたれかかってそれを聞いた。
 一方的に話し終えた私はノドの乾きを覚えてコーヒーを飲んだ。そして目の下の涙を軽く拭うと言った。「何で男は浮気をするんだろう?」
 男は新しいタバコに火をつけた。「そういう生き物だからかな」
「男って最低だね」
「男から見れば女もそうさ」男はそう言うとニッコリと笑った。「でもなければ生きていけないんだ。やっかいだよな」
「うん」
 たいしたことのない言葉だった。でもその言葉は私の胸に深く染みた。男の低い声には不思議な説得力とどこか私を安心させるものがあった。男には私の知る大人達にないものがあった。それは自信にも似た包容力だった。男の立ち居振る舞いには自分が無敵だと思っているような節があったが、それがイカしていた。
「ありがとうね」と私は言った。「少し楽になったような気がする」
「そいつはよかった」
「でも、何で話したんだろう?」と私は言った。「会ったばかりの人に」
「俺が魅力的だからってことじゃダメかい?」
「いいよ。そうしとく。じゃあ、私が魅力的だから私の話を聞いたってことにしておいて」
「そうしとくよ」
 男は左手を上げて腕時計を見た。三日月のような形をした不思議な時計だった。「そろそろ行かなきゃな」と男は言った。「腹を空かせた猫達が俺の帰りを待ってるんだ」
「猫?」
 男は地面を指した。白いビニール袋越しに弁当の包みがいくつか見えた。「夕飯を買いに行ったんだ。そうしたら弁当屋の前に古本屋やら古着屋やらをみつけちまってな。つい道草を食っちまった」
「猫が弁当を食べるの?」
「ああ。器用に箸を使ってな。ギターも弾くし、ドラムも叩くんだ」
「サーカスの人?」
 男は笑った。「そいつはいいな。そう言われたのは初めてだ」男はそう言うと足元の袋の中から一冊の本を取り出して私に差し出した。「そうだ。君にこいつをあげるよ」
「ありがとう」
 私はそれを受け取った。それは赤いローマ字で『PULP』と書かれた文庫本だった。表紙にはアメリカンコミックに出てきそうな女の人が胸元をはだけている絵と、帽子をかぶった男が銃を片手にイスに座っている絵が描かれている。
「人生を笑い飛ばすための教科書さ」と男は言った。「元気がない時に読むと元気が出るんだ」
「私は本を読まないんだけど」
「そうかい。じゃあ、いつか気が向いたら読みなよ。きっと気に入るから」
 私は本の裏を見てみた。この近くの古本屋の棚から見つけてきたのか元の定価の上に百円のラベルが貼られていた。右上に書かれたあらすじを見たところダメ探偵の物語りのようだった。
「ねぇ」と私は言った。「お兄さんの名前は?」
「君の名前は?」
「私は絵美子」
「へー、俺の彼女の妹と同じ名前だ。ところでペンはあるか?」
「えっ、あるけど」
「ちょっと貸してくれないか」
「えっ、うん」
 私は背負っていたバックパックを下ろすと、筆箱を取り出してその中から青いボールペンを取り出した。何がしたいのかわからなかった。
「はい」
 私はペンを差し出した。男はペンを掴むと「それも」と言って本を指した。私が言われた通りにすると男は本の一番最後のページに手馴れた感じで何やら書き始めた。男は書き終えるとペンの尻を押して芯をしまって本と一緒にそれを差し出した。
「はい」
 私はそれを受け取ると男が開いたページをめくった。ローマ字で何やら書かれていたが読めなかった。キープ・オン・ロックンロールという言葉以外は。
「会えてよかったよ」と男は笑顔で言った。
 私はうなずいた。「私も。ねぇ、ところでなんて読むの? これは名前?」
「名前だよ。クラッカー・サンダーボルトっていうんだ」
「変な名前」
「ありがとよ。本名はむろんちがうけどな。それはステージネームだ」
「ステージネーム? バンドマン?」
「ようやく気づいてくれたか」
「ごめん。バンドマンってもっとカジュアルなカッコウしてるもんだと思ってたから。ジーンズにTシャツとか、短パンに大きめのTシャツとか」
「そういうヤツもいるけど、俺みたいなヤツもいるんだ。最近じゃ少なくなったけどな」
「だったら、もったいぶらずに最初からそう言えばいいのに」
「ああ。でも、今日は彼女のバンドのマネージャー兼、運転手だからな。今夜そこのクラブでやるんだ」
 私は一瞬、見に行くと言いかけて口をつぐんだ。お財布の中には五百円しかなかったし、彼女のバンドという言葉が気がかりだった。きっと私なんかよりずっとキレイな人なんだろう。
「さて、じゃあ、俺は行くよ」
「うん。いろいろとありがとう」
「何もしてないけどな。それと気休めにもならんかもしれんけど」と男は言った。「あんたを振った男はたいしたもんじゃねぇよ」
 私は何も言わなかった。複雑な心境だった。そう思いたい反面、そう思えなかった。
「また会おうぜ」
「うん」
 男は足元の弁当をつかむと弱まり始めた雨の中に飛び出した。そしてバシャバシャと水を跳ね上げながら歩道を進むと、二本目の角を回った。私は男の姿が見えなくなってからもしばらくその方角を見つめていた。なんだか狐につままれたような不思議な気持ちだった。

 翌日私は三十八度近い熱を出して学校を休んだ。昨日、ヒロインを気取ったのが悪かった。私は風邪を引きやすいタチだった。
 午前中は寝ていたのでよかった。しかし、午後になって目を覚ますと気分が重たかった。昨日のことが頭から離れなかった。私はなんとか眠りにもどろうと目を覚ましてからも、しばらくの間ベッドの中にいた。友達に裏切られ、彼に捨てられ、おまけに二日前に自転車を盗まれてしまった自分が我ながらかわいそうで布団の外に出る気になれなかった。私は何も考えないですむ夢の中にいたかった。
 しかし十八時間も眠った後ではムリだった。しばらくして尿意をもよおした私は思いっきり布団を蹴飛ばすとベッドから出た。そして寝すぎか、熱のせいかでフラフラしながらトイレに行って用を足すと台所に行ってテーブルに座った。テーブルの上には母が作っておいてくれたツナサンドが夕飯用の千円札と一緒に置いてあった。
 私はおいしいともまずいとも思わずに暗い台所でそれを食べた。熱があるのにツナサンドというのも変なものだが、忙しい彼女なら仕方がなかった。私の両親は共働きで母はいつも忙しかった。父に関してはこの一週間ほとんど顔を見ていない。多分出張か会社に泊り込みかのどちらかなんだろう。幼い頃からのことだし別にいいのだが。
 食べ終えた私は冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出して、背の高いコップに注いだ。そして一口飲むとベランダに出て外の景色を眺めた。空は抜けるように青く、眼下には細々とした家々や大小様々なビルが並んでいる。かすかなセミの鳴き声と、行きかう車の音が聞こえ、遠くに見える高速道路はスモッグでかすんでいる。日差しは暑く風はあまりなかった。私の家は十階建てのマンションの最上階だった。
 私は手すりに頬杖をつきながらまた考えた。何で啓太は私じゃなくて華子を選んだんだろうと。私のどこがダメだったんだろうと。私は彼にとって重荷だったんだろうかと。一人っ子ということは関係があるのだろうかと。ガリガリだから色気がないのだろうかと。いくら考えても答えはわからなかった。わかったことはいかに自分が彼に依存していたかということと、いくらなんでもあんな態度はないということだけだった。
 考えているうちに気分が暗くなってきた。部屋の中に戻ると手にしていたコップの中身を空にして自分の部屋に戻った。そして見るでもなくテレビをつけるとまたベッドに横たわって目をつむった。放送されていたのは別れてくっついてを繰り返す芸能人のことで、今度もまた年上の資産家と別れたようだった。その女優だがなんだかはフラッシュを浴びながら記者の質問に涙ながらに答えていた。
 進歩のない人・・・・
 どれだけ同じことを繰り返せば気が済むんだろう?
 でも何で?
 そんなことを考えていると突然、昨日出会った男が言っていた「でもないと生きていけない」という言葉が脳裏に浮かんだ。私はベッドから起き上がると床に転がっていたバックパックから昨日もらった本を取り出した。男が「人生を笑い飛ばす教科書だよ」と言っていたことが気にかかった。少なくとも一読の価値はあるように思えた。
 私は立ったままでパラパラとめくった。それからベッドに寝転んで本格的に読み始めた。字が少ないので活字が嫌いな私でも読みやすそうだった。
 私はすぐに物語に引き込まれた。今までに読んだことのない感じの小説だった。事件を解決していくというよりも勝手に事件が解決されていくような感じがおもしろかったが、それ以上に、普通じゃないユーモアの感覚と端々に見える筆者の思想が私を魅了した。主人公が貧乏でうだつのあがらないダメ探偵という部分にも共感できた。上手いとか下手といったことはわからなかったが、この作品にはまちがいなく力が溢れていた。簡単な言葉でぶっきらぼうに綴られた文章には不思議な高揚感があった。昨日の男が言っていた通りこれは人生の本だった。いかに不幸を笑い飛ばすか、いかに考えるか、いかに逆らうか。強烈な言葉の暴力だった。なんたる興奮! なんたる思想! なんていかした男なんだ、この主人公は!
 私はものの数時間で読み終えた。そして本をベッドに投げ出すと大急ぎで身支度を始めた。本屋に行ってこの作家の他の作品を探すために。気分がひどく高揚していたせいで熱があることはすっかり忘れていた。それどころじゃなかった。この作者の精神を一つでも多く体に叩き込みたかった。読めば読むだけタフになれるような気がした。
 身支度を終えた私は台所のテーブルにあった千円札をつかんでマンションの階段を下りた。階段を使ったのは主人公のニック・ビレーンがよくそうしていたからだった。階段を下りた私は意気揚々と夕焼けに染まる通りを歩いた。ニック・ビレーンそのものといった足取りで。町も人もいつもとちがって見えた。人が知らない物を知っているような、人に見えないものが見えるような気分だった。昨日のことはもう気にならなかった。ペインはまだ少し残っていたが華子と彼がどうしてようと、たいしたことには思えなかった。勝手にやればいい。私にはあんな男よりも大切なものがある。きっとどこかに。そう、『天国と地獄は自分で作るものさ』

 私はそれからの三週間を他に見つけたブコウスキーの作品を読んで過ごした。私はあの後『くそったれ少年時代!』と『ポストオフィス』という長編を読み、今は『オールドパンク哄笑する』という短編集を読んでいた。そのどれもが最高だったのは言うまでもない。全て叩きつけて書いていたし、叫んでいた。私は作品を読めば読むほど自分が変わっていくような感覚を覚えたが、それは周りのみんなも認めていた。学校の友達もバイト先のハンバーガー屋の人も私のことを最近では手強いヤツと思い始めていた。確かに私には人とちがう何かが備わり始めていた。何人かのクラスの男子がそんな私に好意をよせているという話も聞いたがそれはどうでもよかった。クラスの子達もバイト先の大学生も全くの子供に思えた。クラスの女子は私が、男を寝取られたと噂をしていたがそれもどうでもよかった。噂話し以外にすることのない退屈な連中はそこら中にいる。
 かといって男に興味がなくなったわけではない。私は時おり、あのリーゼントの男のことを思い、後悔した。せめて電話番号くらいは聞いておくべきだったと。あの後、男が向かった方角にあったクラブのスケージュール表を見てみたが、どのバンドのことを言っているのかはわからなかった。その日はかなり大きなイベントがあったらしく、出演者のほとんどは県外からだった。しかし、私には一つのことがわかっていた。それはあの男のクールな立ち居振る舞いや、言葉の重みには少なからずブコウスキーが影響を及ぼしているということだった。私は彼のようになりたかった。万国共通のいい女に。痛みも悲しみも笑い飛ばせるような女に。
 そんなある晩、いつものように部屋で本を読んでいると勉強机の上の携帯電話が鳴った。私は読んでいた本を閉じるとベッドから起き上がって机に歩いて行った。液晶に目をやると非通知だった。
 電話は執拗に鳴り続けた。私はジッと液晶を眺めたが出ずにそのままベッドに引き返して再び読書に戻った。読んでいたのは学校の帰りに古本屋で買ったジョン・ファンテの『塵に訊け!』だった。あのブコウスキーが私の神様と呼んだ作家だけあって素晴らしかった。ブコウスキーの敬愛に満ちた序文もよかった。私は今夜中にこれを読破する予定だった。
 私はすぐに本の世界にもどった。それと同時にまた電話が鳴った。私は舌打ちをしてベッドから起き上がると再び机に歩いていって液晶を見た。また非通知だった。私はしつこいセールスだなと思いながらまたベッドに戻った。
 電話は二十秒ほど鳴って切れた。するとまたすぐに電話が鳴った。ここにきてこれはセールスじゃなくて変質者だと私は思った。いくらなんでも異常だった。私は怖くなって立ち上がると机に行って携帯電話の電源を切った。一瞬、この間のリーゼントの男かとも思ったが、そんなはずはなかった。電話番号すら交換していないんだし。それにもし、なんらかの理由で私の電話番号を音が知ったとしても、こんなことをするはずがなかった。まさか私の自転車を盗んだ犯人? いや、あれに電話番号は書かれていない。住所だけだ。だったらなおさら危険なのとちがうか?
 そんなことを考えていると今度は家の電話が鳴った。私は驚いて部屋のドアを見つめた。電話の音が狂ったように廊下にこだましている。まるで逃がしはしないとでも言わないばかりに。私はジッとドアを見続けた。やがて父と母の寝室のドアが開く音が聞こえた。二秒ほどして受話器を取る音と寝起きの母の声が聞こえる。「出ちゃダメ」という言葉が舌の先まででかかっていたが母がどんな反応を示すのかが気になってもいた。「しばらくお待ち下さい」という言葉と母が私の部屋に向かってくる足音が聞こえる。
「絵美子!」ドアの外で母の声が聞こえた。「電話よ!」
 私はドアを開けた。寝ているところを起された母は非常に不機嫌そうだった。白髪交じりの茶色い髪はボサボサで黒地に赤いバラがついたパジャマを着ている。このかっこうではそう思えなかったが母は私とちがって整った顔をしていた。目が大きく鼻が高い。
「誰?」と私は聞いた。
「学校の友達でしょ。田村君って言ってたわ」
「田村? 私にそんな友達はいないんだけど。村田ならいるけど」
「だったらその子よ」
「本当に?」
「知らないわよ。そんなの」母はそう言うと腹立たしそうに私にコードレスタイプの受話器を押し付けた。「その子に言っておきなさい。こんな時間に電話してくるなって。私もお父さんも朝早いんだから。もう十二時半よ」
 私が受話器を受け取ると母は「まったく」と洩らしながら寝室に向かった。私は少し考えてから保留ボタンを押した。一瞬、切ろうかと考えたが、そんなことをしてもすぐにかけてくるだけだと思ったので止めておいた。電話線を切るか電話局を爆破すれば話は別だが。
「もしもし」と私は恐る恐る言った。
「もしもし、絵美子?」
 私は仰天した。彼の声だった。なぜだか哀れっぽい声を出していたがまちがいなかった。
 彼は続けた。「おい、なんで出ないんだよ」
「あんたこそなんで非通知なのよ。おまけになんで偽名なんて使うわけ?」
「えっ? だってそうしたほうが出てくれるかなって」
「あんた時計は見ないわけ?」
「どうしても絵美子の声が聞きたかったんだ」と彼は言った。「なんか変わったな。おまえ」
「人は変わる生き物だから」
 私は彼が華子とうまくいってないことを悟った。それで私に電話してきたんだ。
「元気か?」
「まあね」
「新しい男はできたか?」
 私はあくびをした。やっぱりそういう方向に話を持ってくるか。たいした根性の持ち主だ。こんなことをするにはかなりの恥知らずである必要がある。向こうはドキドキしているようだったが、私はきわめて普通だった。
「できてないのか?」
「できてない」
「離れてわかることってあるよな。例えば・・・・」
「ディズニーランドの魅力とか?」
「おい、俺は本気だぞ」
 私は何も言わなかった。頭の中で言うべき言葉を探した。来るべき時が来た時のために。彼の困惑が手にとるようにわかった。きっと彼は私が喜ぶと思っていたのだろう。予期せぬ彼からの電話に狂喜すると。でも物事はそうそううまくいかない。アーメン。
「俺はバカだったよな」と彼はつぶやいた。「絵美子みたいないい女を捨てて華子みたいな女とつきあって。自分でも何でそんなことをしたのかわからないんだ」
 私はおなかの辺りにできたアセモをかいた。確かに彼の言う通り離れてみてわかることがたくさんある。今の私には彼が映画の見すぎのように思えた。今は彼の色々な部分がよく見える。面白みも深みもまるでない。自分はこんな男に抱かれて喜んでいたのか。バタートストほどの価値もないこの男に。
「人はみんなまちがいを犯すよな」
「犯さない人はいないんじゃない」
「よく最近、絵美子のことを考えるんだ」
「飽きたんじゃない」と私は言った。「身長一五五センチ、体重六十八キロのデブを抱くのに」
 彼は私の言葉を無視して言った。「いっしょにいた時は楽しかったよな」
「そういう時もあったよね」
「二人で靴を選びに行った時のことは覚えてるか? おまえが一時間も迷ってようやく買った時のこと。途中でそばのマックに行って二人で話したよな。ピンクにするか赤にするかって」
「そうだったね」
「華子はダメだ。あの女には何もない。いっしょにいてもときめかない」
「そう」
「一度壊れたものは戻ると思うか」
「思わない」
「俺は思うんだ。人の心は物じゃないんだから」
 沈黙が訪れた。その言葉はひどく空しく響いた。私には彼が混乱しているように思えた。ちょうど深い泥沼に落ちたように、引いていいのか押していいのかわからない状況に陥っているようだった。
「一度しか言わないからよく聞けよ」としばらくして彼が切り出した。私は彼が真剣な表情を浮かべている姿を想像した。大便をガマンしているかのような表情を浮かべていることを。
「もどろうぜ。やっぱり俺はおまえじゃないとダメだ。俺はおまえが好きだ。絵美子」
私は笑った。「はっ、母ちゃんとファックしなよ」
「何?」
「ファックしやがれ!」
 私は電話を切ると受話器をベッドに放り投げた。そしてしばらくの間、ジッと鏡を見つめてからニヤリと笑った。自分の言いたかったことが言えてうれしかった。それは『PULP』の中で私が特に気に入っていたセリフだった。言うべき時、言うべき相手、全てが完璧だった。私はこの三週間で明らかに変わっていた。きっといい女に。
 やがて私は勉強机に歩いて行くと引き出しからトリスの小瓶を取り出して一口飲んだ。そして少し考えてからイスに座ると机の上にあったノートに文章を書き始めた。

 重たい気分で改札を出ると機関銃のような雨が降りだした。
 改札を出た私はしばらく降りしきる雨を見つめてからヤケクソな気分で家へと歩きだした。あいにく傘は持っていなかったがビニール傘を買うお金もなかった。外はまだ五時前だというのに鉛色の雨雲のせいで真っ暗だった・・・・。

小説「残酷な贈り物」

 絵美子は十九歳になる地味でややぽっちゃりとした女の子だった。彼女は田舎の出身で今は町中の大学に通いながら週に三日ほど洋食屋でウェイトレスのアルバイトをしていた。そこは『マーブル・シープ』という六人がけのカウンター席と、四人がけのテーブル席が七つほどの小さな店だった。
 絵美子は店のそばにアパートを借りて一人暮らしをしていたが、これといった趣味や、友人を持ち合わせていないために孤独な毎日を送っていた。彼女は昔から友達を作るのが苦手で、割ときれいであるにも関わらずに今まで恋人がいたことはなかった。一九歳というすてきな年頃であるにも関わらずに毎日が学校と家、家とバイト先の洋食屋の往復で、恋人など夢のまた夢だった。バイトをしていたのは生活費やお小遣いのためではなく時間をつぶすためだった。つまり家にいてもやることがなかったのである。彼女は裕福な家の出身で実家から十分な仕送りをもらっていたので金銭的には不自由がなかった。
 そんな絵美子にも一つ気になっていることがあった。それは二ヶ月前から毎週金曜日の晩になると訪れるある男性客のことだった。その男は三十代前半くらいの背の高い美男子で少し長めの黒い髪を真中でわけていつも細身のスーツをかっちりと着ていた。賢そうだがどこかほの暗い感じの痩せた男だったが、そのほの暗さがかえって男を魅力的にしていた。絵美子は少女時代に二歳ちがいの兄の部屋にあった少年マンガを読んで育ったせいか影のある知的な感じのする男が好みだったのである。男は絵美子の理想を絵に描いたようであった。
 その男は毎週金曜日の午後九時を過ぎたくらいにカッチリとしたスーツ姿でやってきた。注文するものはデミグラスソースのたっぷりかかったハンバーグセットを二人前と決まっていた。一人なのに。別に大食漢というわけではない。むしろその男は小食で、出された料理を全て平らげたことは絵美子の知る限り一度もなかった。男はどういう理由からかハンバーグを二つ頼んでその一つをただ目の前に置いておくのである。
 男はいつも無理やりクギを食わされているかのような暗い面持ちでそれを食べた。そして食べ終わると勘定の際に「ごちそうさま」と力ない笑みを浮かべて出て行くのだった。思わず憐れみをかけたくなるような寂しげな笑みをうかべて。絵美子はその男のそんな笑顔が好きだった。彼女はその男の会計を担当する度にこう思うのだった。きっとこの男の人は、病気や事故で奥さんか恋人を失くしたんだわ。それで毎週、その人の命日になるとここにきてハンバーグを二つ頼むんだわ。きっとここはその人との思い出の場所なんだわ。初デートで来たとか。結婚記念日を祝うために来たとか。私がここで働き始めたのは八ヶ月前だけど、その前はきっとその人と二人で来てたんだわ。ひょっとしたら子供はいるのかしら? 私みたいな女は好みかしら? でも年がちがいすぎるかしら?
 彼女が死別した恋人なり奥さんなりのためにそうしていると思うのにはわけがあった。それは一度、他にもう一人だけいるアルバイトの女が彼に「どうして食べないのに二人前も頼むのですか?」と尋ねたという話を耳に挟んだからだった。その女が店の奥さんに話していたことによると男はチラッと女を見て溜息交じりに「聞かないで下さい」と言ったということだった。悲しげな笑みをたたえて。こう言うとその女もその男に好意を持っていたように聞こえるがそれはちがう。女が男にそう尋ねたのは誰しもが持つであろう純粋な疑問を気まぐれにぶつけてみたに過ぎなかった。その女は二十八歳の醜い女方のレズビアンで男に興味はなかったのである。
 一方、店の経営者であり料理人である中年夫婦はこの世にごまんといるであろう奇人の一人くらいにしか思っていなかった。せっかく作った料理をまるまる残されても勘定さえちゃんと払ってくれればどうでもよかった。ありがちな友情から連帯保証人になったばかりに背負い込んだ多額の借金のために他人のことをかまうには疲れすぎていたのである。この店の従業員の仲があまりよくなく、必要最低限のことしか話さないのは容易に想像がつくだろう。『マーブル・シープ』は割と繁盛しているにも関わらず、店の空気はあまりよくなく従業員はいつも胃痙攣を起しているような笑みを浮かべていた。しかし、これは何もこの洋食屋だけではあるまい。生計を立てるための場所というのは少なからずそういうものなのである。
 むろん絵美子もこの店の雰囲気と仕事が好きではなかった。前にここで働いていたフリーターや、学生と同様に辞めようと思うことも多々あった。しかし、日に日に大きくなっていく恋心がそれを隠した。彼女はどんどん金曜の晩を心待ちにするようになり、昼夜を問わずにその客のことを考えるようになった。孤独な生活がなおさらそうさせたのである。彼女は男と自分が肩をよりそいながら歩く姿を想像して天に昇り、やはり自分には無理だと思って地獄に落ち、日に何度も破滅と再生を繰り返していた。心愉しい『地獄の季節』だった。
 当然彼女は男を見る度にもう一人の女のように男に話しかけようとした。しかし、実際にはただ注文を聞いて、それをテーブルに運んで、レジを打つだけだった。兄と父以外の男に自分から話しかけるというのは絵美子にとって、素手でライオンと戦うようなものだったのである。だが、ある金曜の晩、絵美子はとうとう勘定の際に男に話しかけた。持てる勇気を振り絞って。彼女は話そうとして、話せないでいる自分に対してガマンができなくなっていた。膨らみすぎた妄想がはけ口を求めていたのかもしれない。
「あの・・・・」
 絵美子がうわずった声でそう言うと男は驚いた様子で彼女を見つめた。目があった絵美子は感じたことのないような衝撃が背筋に走るのを感じて何を話していいのかがわからなくなった。頭に血が上るような、頭の中が真っ白になるような感じだった。
「何か?」と男は言った。
「あの・・・・」彼女は時間稼ぎのために再び同じ言葉を繰り返した。言うべきことを探すために。「どうしていつも二人分も頼まれるんですか・・・・」
 彼女は言ってからハッとした。そんなことはこの男の勝手じゃないかと思った。何で、ここら辺にお住まいなのですか? といったことを聞かなかったのか?
 男は一瞬、うつむいた。しかし、絵美子がしまったと思う間もなく顔を上げるとニッコリとほほ笑んだ。イタズラのばれた腕白少年を思わせる、うれしいようなバツが悪いような笑みだった。
「実は・・・・」と男は言った。「あなたが、そう聞いてくれるのを待っていたんです」
 絵美子は一瞬、自分の耳を疑った。驚きのあまり何も返すことができなかった。
「前に偶然ここに来た時に、あなたを見て一目惚れしたんです」と男は続けた。「それであなたの気を引こうとしていたんです」
 絵美子は呆然としていた。うれしかったが実感がわからなかった。まるで一夜にしてロスチャイルド家をしのぐ富豪になってしまったような気分だった。なったのではなくて。
 男は店内を見渡した。奥の厨房から汚れたエプロンをつけた店長がいぶかしげにこっちを見ているのがわかった。そこで何をしてやがるんだ! 俺はおまえが客とおしゃべりをするために時給七五〇円もの高い金を払ってるわけじゃないんだぞ! と言わんばかりに。この店では従業員と客が親しく話すことを禁じていた。それは以前ここで働いていた香村慎一というバンドマンの男が客の女性に手を出して問題になったことがあったからだった。寝取られた男が店に押しかけてきて、客がいるにも関わらずにのべつまくなしの暴言を吐いたのである。ありがちな話だが。
「よかったら」と男は言った。「店が終ってからゆっくりお話しませんか?」
「はい・・・・」と絵美子は夢の中にいるような気持ちで言った。「でも、終るのは、十一時過ぎですよ。後片付けがありますから・・・・・」
「待ってます。終ったらそこの酒屋の前に来てください」
男は右手の親指で小さく外の通りを指さした。絵美子の店の斜め前には十台分の駐車場を兼ね備えた大きな酒屋があった。彼女の住む地域は町なかからいくらか離れた比較的落ち着いた場所だった。
「わかりました・・・・」
「では、お待ちしております」
 男はほほ笑むと店を出て行った。絵美子はしばらくジッとドアを見つめてから再び仕事に戻った。夢の中で起こっていたようなことが徐々に現実だとわかってくるにつれて彼女はドキドキしてきた。男が自分の注意を引くためにずっとハンバーグを二人分注文していたというのがとてもドラマティックに思えた。彼女は時計の針が早く進むことを祈りながらいつもよりも夢中に後片付けをした。この日、バイトは彼女一人だったが、その働きは二人分をはるかに上回っていた。下らない仕事が楽しく思えた。彼女がこんな気持ちを味わうのは初めてだった。
 運よく店はいつもよりも少しだけ早く終った。彼女はさっさと着替えを終えると、通りを渡って約束の場所に行った。その店はもう何時間も前に閉店していたが駐車場には一台だけ車が停まっていた。車種はわからなかったが白くて高そうな車だった。
絵美子があの車かしら? と思う間もなく中から男が降りてきた。男は絵美子に手を振りながら言った。
「おつかれさまでした」
 絵美子は頭を下げると男の元に歩いていった。薄暗がりの中で見る男は店の中で見る時よりもずっとハンサムに思えた。夜の闇と、青白い外灯の光が男のほの暗い魅力をいっそう輝かせていた。彼女は男がいい匂いのする香水をつけているのに気づいて自分の匂いが気になった。厨房の中のように油臭くなければいいんだけど・・・・こんなことならスカートでもはいてくればよかった。ジーンズに安物のブラウスじゃなくて・・・・・せめてコンバースじゃなくて一足だけ持っているパンプスにしておけば・・・・
「食事はまだですか?」と男は優しい口調で言った。
「はい」と絵美子は言った。店にはまかないがあったが彼女は食べたことがなかった。有料だった上に値引きもなかったからだ。
「では、食事に行きましょう」
 男はそう言うと車の反対側に歩いて行ってドアを開けた。絵美子はなんと素敵な人なんだろうと思いながら助手席に乗り込んだ。まるで名だたる女優かお姫さんにでもなったかのような気分だった。「でも、さっき食事をされたのでは?」という言葉は浮かばなかった。男性に優しくされることに慣れていなかったのでのぼせあがってしまったのだ。
 男はそっとドアを閉めると運転席に乗り込んでエンジンをかけた。そして手慣れた感じで人通りの絶えた通りに出るとハンドルとダッシュボードの間を指して言った。
「耳障りじゃありませんか?」
「いえ」
 カーステレオからは小さな音でビートルズが流れていた。どのアルバムか、なんという曲かはわからなかったがビートルズだった。
「ビートルズはお好きですか?」
「はい」
 ビートルズをまともに聞いたことはなかったが、彼女はそう言った。本当は犬神サーカス団が好きとは言えなかった。彼女は二歳年上の根暗な兄の影響でそういった音楽が好きだった。彼女は今日も出がけにそのバンドの『自殺の唄』という曲を聴いていた。鏡の前でそのバンドの女性ボーカリストの真似をしながら。憧れていたのである。
「よかった」男はそう言うと笑顔で彼女を見やった。「ところでお名前をうかがってもよろしいですか?」
「大西絵美子です」
「いい名前ですね。どんな字ですか?」
「絵に美しいに子供の子です」
「ますますステキだ」と男は言った。「あなたによく似合ってます」
 絵美子はうつむいた。うれしかったが恥ずかしかった。世慣れた女性なら冗談の一つも言えただろうが、彼女にはどうすることもできなかった。彼女は一瞬、男に下心があるのではないかと思ったが、自分にそれだけの魅了かあるのかを疑問に思い、すぐにその考えを捨てた。
「僕は村上隆一郎と言います」
「ステキな名前ですね・・・・・」
「ありがとう」と男は言った。「ところで、おいくつですか?」
絵美子は一瞬ためらってから言った。「十九です」
「若いですね、僕より五つも若い」
「えっ、じゃあまだ二十代半ばなんですか?」
「そうです。二十四です。よく三十代と思われえますけどね」
 絵美子は驚いた。しかし、同時に親近感を覚えた。五つほどの年の差ならたいしたことがないように思えたのだ。言われてみれば男の肌や髪の質感は二十代になったばかりの兄と大差がなかった。
「ところで食べれないものは何かありますか?」と男は言った。
「いえ」と彼女は返した。
「パスタは好きですか?」
「はい」
「よかった。じゃあ、あそこに行きましょう。たまに食べに行くところがあるんです」
 男が向かった先は『バンビーノ』という小さいが雰囲気のいいイタリアンレストランだった。そこは眺めのいい小高い丘の上にあって深夜まで営業していた。外壁はイギリスのコテージを思わせるレンガ造りだが、内装は日本の古民家を思わせる白い漆喰とチョコレート色の板でできていて、天井からは古めかしいガラス製の傘をかぶった裸電球がいくつもたれていた。値段は張るがその価値は十二分にあるという、その辺りでは知る人ぞ知る隠れた名店だった。
 男は手馴れた感じで店の前の駐車場に車を停めた。絵美子は「着きましたよ」と言う男に続いて車から降りた。砂利がひかれた駐車場には高そうな車ばかりが停まっていた。車に興味のない絵美子にもそれはわかった。
ドアを開けると蝶ネクタイをしたハンサムなボーイが寄ってきた。ボーイの「二名様ですか」という見ればわかるような問いに男が「はい」と返すと二人は窓際の席に通された。そこは町を一望することができるこの店で一番の人気席だった。注文はすぐに決まった。絵美子は男のススメでカルボナーラのスパゲティーを頼み、男は小腹が空いたからと、生ハムのピザを頼んだ。飲み物は二人ともアイスティーだった。絵美子がすぐにその店を気に入ったことは言うまでもない。こういう場所に初めて来た彼女はいっきに大人の女性になったような錯覚を起していた。
「いつもはワインを頼むんですけどね」と男は言った。「ここのワインはおいしいんです。ところで絵美子さんはお酒が好きですか?」
「いえ」と絵美子は言った。「まだ、未成年ですから」
 男は人なつっこい笑みを浮かべた。「そうでしたね。あやうく忘れるところでした」
 絵美子はほほ笑んだ。二十分ほどのドライブとおしゃべりが彼女の緊張をほぐしていた。男の話し方にはユーモアと優しさが溢れていた。
「飲めばいいのに」と彼女は言った。
「いや」と男は言った。「あなたを横に乗せているのにそんなことはできません。あなたを無事に部屋に届けなければいけませんから。それに万が一事故に遭ったら僕だけでなくあなたにも火の粉が飛びます」
 優しい人だなと彼女は思った。でもこれこそが大人の男なのかもしれない。
 絵美子はこの気づかいに対してさらに男に好意を覚えた。学校の派手な女生徒達が講義室の隅や食堂の隅で話す男の子達とは大違いだった。彼女達の口にする男の子達は話しを立ち聞きする限り、サナダムシ程度の知能しかなさそうだった。飲み会でへべれけに酔って全裸で救急車に乗ったり、ささいなことでバイト先の店長を殴ってみたりと本当にただのガキだった。
「学生ですよね?」と男は訊ねた。
「はい」と絵美子は返した。
「どうですか? 学校は楽しいですか?」
「あまり」と絵美子は返した。「友達がいないんです」
「僕もそうでした。僕も絵美子さんくらいの頃は友達が少なかった」
「えっ?」
「人と話せるようになったのは、大学を出て就職してからなんです」と男は言った。「自動車部品の営業をしてるから、イヤでも人と話さなければいけないんです。最初は苦手だったけど、今としてはよかったのかもしれません」
 絵美子はさらなる親近感を覚えた。自分が好意をよせている人間が同じ境遇であったとことがうれしかった。
「絵美子さんはお休みの日は何をしてるんですか?」
「テレビを見たり、音楽を聴いたり」と彼女は答えた。「あの、村上さんは?」
「部屋の掃除や洗濯です。あまり趣味がないんで」
「ビートルズをかけながらですか?」
「いや、ビートルズを聴くのは車の中だけなんです。運転するにはちょうどいいから」男はそう言うと相手の出方をうかがうかのように少し間を置いてから続けた。「家では主にビジュアルバンドを聴いてるんです。エックス世代なんで」
「どんなものをですか?」
「そうですね・・・・犬神サーカス団とか・・・・」
「ええっ!」
 絵美子は思わず叫んだ。彼女にとってそれは奇跡だった。身の回りにその手の音楽が好きな人がいたことがなかったのである。兄以外は。なんたる偶然だろう! これでこの人が私の運命の人でなければ世の中はおかしい! と彼女は思った。店内にいた数組の客が気でもふれたのかといった感じで一瞬彼女を見やった。
「どうかしましたか?」
「実は私も好きなんです」と彼女は興奮気味に言った。「アルバムもシングルもDVDもビデオも全部持ってます。『御霊前』も。ついでに言えば犬神モデルのゾーさんギターも持ってます。弾けないけど」
 男は一瞬驚いた表情を浮かべた。しかし、すぐに元の笑顔に戻ると言った。「奇遇ですね。僕も全作品持ってます。唯一無二の本当にいいバンドですよね。ところでライブは見たことがありますか?」
「それはありません。行きたいとは思ってるんですけど・・・・・」
「よかったら、一緒に行きますか。ライブは最高ですよ。知っているとは思いますが再来週来るんですよ」
「行きます! 絶対に!」
「よかった」と男は言った。「今回は絵美子さんのようなきれいな人といけるし、いつもよりも楽しくなりそうです。いっしょに最前列でヘッドバンギングをしましょう」
「ぜひ!」
 そこにさっきのボーイが料理を持って現れた。ボーイはまるで哲学者のような口ぶりで料理の説明をするとお辞儀をして去って行った。
 二人は楽しいおしゃべりをしながら料理を食べた。料理は言うまでもなく最高で、そのことが二人の会話をさらに盛り上げた。話の内容は多岐におよんだが、だいたいは二人の好きなバンドについてや、男の仕事のことについてだった。仕事の話しというのは、おそらくこの世で最も退屈な話の一つだが、絵美子は決して退屈をしなかった。男のユーモアと、男への好奇心がそうさせたのである。本能的に男のことを少しでも知ろうという好奇心が。知れば知るほど男はステキな人に思えた。男には年上にありがちな『俺が人生を教えてやる!』といった感じの押し付けがましい部分や、自分のことを神格化して話すような部分がなかった。楽しい夜だった。
 二人は何杯も飲み物をお代わりしながら閉店の二時少し前までおしゃべりを続けた。絵美子も男もよく笑い、席を立つころにはアゴが痛いほどだった。絵美子は普段の生活であまり笑うことがなかったのである。むろんここは男のおごりだった。
 男は紳士的な態度で会計を済ますと絵美子に手を差し出した。絵美子は一瞬、ためらったが男に手を差し出した。男は彼女の手を握ると笑みを浮かべて車へと歩き始めた。絵美子初めて握る兄以外の男の手の感触にどぎまぎした。まるで男の体から微量の電流が流れているかのように感じられた。恋の痺れだった。彼女は男の手の冷たさを感じながら、手の冷たい人は心が優しいという話を思い出し、多分それは本当なのだろうと思った。しかし、なんと実りの多い一日だろう! つい数時間前まで客と店員だったとは思えなかった。
車に着くと男はまた助手席のドアを開けた。そして絵美子が乗り込むのを待って静かにドアを閉めると車を回って運転席に乗り込んだ。男はエンジンをかけると言った。
「今日は本当に楽しかったです」
「私も楽しかったです」
「後で、電話番号を教えてもらってもいいですか?」
「はい」
 車は無数の星がまたたく夜空の下を走り始めた。五月の暖かい夜だった。
「ところで、おうちは?」
「バイト先のそばです」
 彼女はそう言うとあくびを噛み殺した。なんだか眠たかった。人使いの荒いバイト、緊張と安堵、それに初めてのことを多く繰りかえしたせいか疲れが出たのだろう。昨夜は深夜に放送されていた映画を見ていたのであまり寝ていなかったし、今朝は今朝で学校に行くために早く起きていた。 
 男は絵美子のそんな様子に気づいたのか言った。「寝てもいいですよ。あの辺りについたら起しますから」
「いえ、だいじょうぶです・・・・」
「いつもは何時くらいに寝てるんですか?」
「十二時くらいです」
「遅くまですいません」
「いえ・・・・」
 だんだんと男の声がぼやけてきた。男との時間を寝て過ごすなどとんでもないことだった。しかし絵美子は襲いかかる睡魔に耐え切れずに間もなくして寝てしまった。口を開けて。
「着きましたよ」
 男は彼女の肩を揺すった。目を覚ました絵美子は男の顔の向こうの白い壁と蛍光灯の灯りをボンヤリと見つめた。そこはビルかオフィスの一室のようだった。彼女は寝ぼけた頭で自分の行動を反芻した。車の中にいるはずだったような気がしたがあれは夢だったのだろうか? でも男の声がするし、男は目の前にいる。
 彼女は目をこすろうとしてハッとした。どういうわけだか身動きができなかった。彼女は手を後ろにした状態でパイプイスにグルグル巻きにされていたのである。彼女は眠気が一気に消え去るのと同時にパニックにも似た恐怖につかれて叫んだ。本能的に殺されると思ったのである。
絵美子は立ち上がろうとして横に転がった。足首をロープで縛られていたのでうまく立つことができなかった。彼女は悲鳴を上げながらなんとか縄を逃れようと身をよじられたが、それは何の役にも立たなかった。逆に動けば動くほどその縄は締まっていくように感じられた。
「ムダですよ」男は絵美子の下にしゃがみこむと落ち着いた感じで言った。「その縄は刃物でもなかなか切れないんです。それにこの部屋は防音だからいくら騒いでも誰にも聞こえません」
 絵美子は顔を上げて男を見やった。恐怖のあまり息がつまった。彼女は動転するあまり自分の目に涙がにじんでいることにすら気づけなかった。
 男は笑みを浮かべるとポケットから折りたたみ式のナイフを取り出し刃を開いた。十センチほどの刃が蛍光灯の灯りに反射してギラリと光った。ひどく冷酷なその輝きに絵美子は思わず失禁しそうになった。肋骨の下で破裂しそうなほどに心臓が暴れまわった。
「思ったよりも効いてよかった」と男は言った。「睡眠薬があまりなかったから、しばってる最中に起きたらどうしようかと思って内心ヒヤヒヤしてたんです。ああいうのは分量が難しいんでね。ご存知でしたか?」
 絵美子は何も言えなかった。ノドが乾きすぎていたせいで声を出すことができなかった。悲鳴を上げようにもノドがつまるほどだった。
「冥土の土産に僕の正体を教えてあげましょうか」と男は言った。「僕は連続強姦魔であると同時に、連続殺人犯なんです」
 男は絵美子が好きだった笑顔を浮かべていた。しかし、今の彼女にとってこの男の笑顔は悪魔の微笑以外の何物でもなかった。絵美子はなんらかの理由でこの男がいきなり木端微塵に吹っ飛んでくれるなり、自然発火して灰になってくれることを神に祈った。悪い夢かもしれないと彼女は恐怖のあまり思った。
「例の事件は知ってるでしょう」と男は続けた。「各地で顔も知らない男についていった女の子がずたずたに切り裂かれて発見されるって事件を。あれは僕の仕業なんです。マスコミはあまりの残虐性に報道を控えてますが、実は先日殺された十八歳の女の子の肝臓はフライにするために切り取っておいたんです。思ったよりもまずかったので猫にあげましたがね」男はそう言うとジッと彼女を見つめた。「さて、あなたはどう料理すべきだろう? やはりいつものようにペンチで肉をちぎっていきましょうか? そして臓器の一部をあなたのご両親に贈り物として郵送・・・・・」
「助けてください!」彼女は男をさえぎって言った。「何でもしますから!」
「それはできません。そんなことをするほど僕はバカじゃない」
「なんで私なんですか! なんで他の人じゃないんですか!」
 彼女は叫んだ。それはほとんど悲鳴だった。男はうれしそうに涙で頬を濡らす彼女を見つめた。彼女はまだ自分が泣いていることに気づいていなかった。
「簡単なことですよ」と男は言った。「バカみたいにノコノコとついてきたからですよ。どこの馬の骨ともわからないような男に。きっとあなたはこういう事件が自分の身には起こりえないと思っていたのでしょう。もっともそれは誰しもが思っていることでしょうがね。でも、本当のところはわからない。物事はただ起こるんです」
 絵美子はすすり泣きを始めた。今さらながら自分のバカさ加減が悔しかった。確かに彼女は男の身なりから、この男のことをすっかり信用していた。人を見かけで判断するなという言葉が恐怖とともに脳裏をかけめぐった。人が何を考えているかなんてわかったものじゃない。疑うべきだったのだ。 
「通り魔のようなことは好みじゃないんです」と男は言った。「あれには手法を考えるという楽しみがないし、芸術的な要素がない。そう思いませんか?」
 絵美子は返事をしなかった。ただすすり泣くのみだった。
「僕はいつもしばらく様子を見てからやるんです」と男は続けた。「狩りと同じでどうやって獲物をおびき出すかも楽しみの一つなんです。でも・・もし、今日、あなたが話しかけてこなければ目をつけていた他の子にするつもりでした」男はそう言うと彼女の頭を数回撫でた。「残念でしたね。せいぜい神を呪いなさい」
 男は立ち上がると背後にあったデスクの上に置かれた洋酒の瓶を掴んだ。そしてそれをグッとあおるとタバコに火をつけて、デスクの端に腰を下ろした。絵美子はもう何も考えることができなかった。ただ後悔と絶望の海に浸かるだけだった。ひょっとしたら助けてくれるかもしれないという甘い考えは浮かばなかった。
 男はタバコを吸い終えると再び絵美子の元にもどってきた。そして床に転がった彼女を起すと、今度は部屋の隅に置かれたテレビとビデオが一緒になった機械の電源を入れてガチャガチャといじり始めた。絵美子はテレビの雑音の中に彼女の嫌いなお笑い芸人の声が混じっていることに気づいてさらに泣いた。もし助かるのなら猿人のようなこの芸人に抱かれてもいいとすら思った。普段は耳障りとしか言えないその芸人の声がひどくなつかしく感じられた。「ウソやろー!」というトンマな声が聞こえた。
 しばらくして男が絵美子の元にもどってきた。男は彼女の後ろに立つと右手で彼女のアゴを掴んで画面に向けさせた。画面は相変わらず砂嵐の状態だった。絵美子は男が何をしたいのかわからなかったがそれを聞く勇気はなかった。相変わらずの冷たい手だった。
 やがて画面が変わった。砂嵐が一瞬、青くなって、その後に見覚えのある風景と、見覚えのある人物が映し出された。それは彼女の実家の居間のソファに座る父と母だった。
 彼女は思わず息を飲んだ。背後にいた男はクックッと笑うと手にしていたリモコンでテレビの音声をあげた。まさかこの男は父と母まで殺したのではないかと絵美子は思った。なんたる『残酷暗黒劇場』だ!
 しかし、そうではなかった。父も母もただ苦虫を噛み潰したような表情を浮かべてソファに座っているだけだった。その端には飼い猫のペペロンチーノがいる。太りすぎであまり動かないオスのトラ猫だった。母が猫を抱き上げると腕組みをしていた父が口を開いた。
「絵美子・・小さい頃に、教えなかったか? 知らない人についていってはいけないと」
「最近変な事件が多いでしょ」と母は心配そうに言った。「それで、知り合いの探偵さんに頼んで調べてもらったの。絵美ちゃんはだいじょうぶかって」
「でも・・もし、おまえがこのビデオを見てるとしたら、おまえは知らない男について行ったということだな・・むろんそうなことにはならない方がいいんだが」
「なんだか悲しいわね」と母は言った。「もし、そうなら。お母さんは絵美ちゃんを、郵便ポスト並みの脳ミソしかないようなバカには思いたくない・・」
「えええっー!」
 彼女は叫んだ。背後にいた男は絵美子から離れて再びデスクの端に腰を下ろすとナイフの刃をしまった。
「そういうことなんですよ」と男は言った。「今回の件は全てあなたのお父様からの依頼なんです。もし、知らないような男にノコノコとついてくるようなことがあれば、二度とそういうことをしないように恐怖を植えつけろということだったんです。ああ、そうだ。申し送れましたが僕の本名は村林影虎です。あなたのお父様の知り合いに安田隆文という警官がいるでしょう。その人の親戚なんです」
 絵美子は男に顔を向けた。父と母はまだしゃべっていたが頭には入ってこなかった。
「ここ二ヶ月ほどあなたの身辺も調査させてもらいました」。
 男はそう言うと再びデスクの上にあった酒のボトルに手を伸ばした。
「あくびが出るほど退屈な調査でしたよ。家、学校、バイト、それ以外に何もなかった。正直あなたの場合はもう少し外に出るべきかもしれないと思いました」
「私は助かるんですか・・」
「当然です。このビデオが終わったら、あなたを下宿先までお送りします。そこまでが僕の仕事なんで」
「じゃあ、年齢とかは?」
「全部ウソですよ。本当の年は二十九です」
 絵美子はしばらく男を見つめた。安堵感とともに怒りが込みあげてきた。
「こんなことのために・・」と彼女は言った。「こんなことのために毎回ハンバーグを二人前も頼んだんですか!」
「あれは気がひけました。本当はもったいなくてタッパにつめて持って帰りたいくらいでしたよ。食べ物を粗末にするのは気がすすまないんです。いくら仕事とはいえ」
「この縄をほどいてください!」
 彼女はきつい口調で言った。
「非常に不愉快です!」
「ああ、そうでしたね」
「まったく! なんなのよ! あの人達は!」
「怒ってはいけません。親御さんはあなたのためを思ってやったのですから。ところで、きつくなかったですか?」
「とってもきつかったです」
「すいませんね。こういうことはあまりしたことがないので加減がわからなくて。普段は浮気調査やら、いなくなった猫を探したりしてるんです。あとは子供がいじめられてるかどうかを調べたり。ところで、二度とよく知らない男についていかないと約束してくれますか? 『はい』と言うまで縄をほどくなと依頼主様から言われてますので」
「ええ・・」と絵美子は言った。「二度と行きません・・」
「わかりました。では縄をほどきましょう」
男はデスクから飛び降りると縄を外しにかかった。「なんで外れないなんだ?」とか「どうなってるんだこれは?」と洩らしながら。男は見かけによらず不器用だった。
「あの・・」と彼女は言った。「さっきの話は本当に全部ウソなんですか?」
「犬神サーカス団が好きってことは本当です」
「じゃあ、いっしょにライブに行くっていうのは?」
「ああ、よかったら一緒に行きますか。多分まだチケットもあるでしょうし」
「お願いします・・」
                         (完)

小説「人殺し」

 今から二十年以上も前の夏休みのことだった。
 その頃、十歳だった俺は比較的田舎に住んでいて地元の悪ガキとよくつるんでいた。そこは山に囲まれた小さな町で、これといった産業や娯楽施設のある場所ではなかった。むろん十五キロほど離れた駅前には大きなスーパーや本屋がちゃんとあったが、自転車しか移動手段を持たないその頃の俺達には関係のない代物だった。
 その頃の俺達の遊びというのは川や山に行って遊ぶというもので、あまりテレビゲームなどはしなかった。むろんそういうものはすでに世に出ていたが俺達の間ではそういうものは女や子供のすることとみなされていた。ごくたまにちがうヤツが加わることもあったが、だいたいつるむのは、同じ年の亮と俊介と憲一と俺で、一つ年上の良郎がリーダーだった。俺達は良識派ぶったヤツらが悪ガキと呼ぶ類の集団だった。むろん万引きはしなかったし、捨てられていた犬の飼い主を探したりもしたが、だいたいのところはそうだった。
蒸し暑いある日の午後、俺達はいつものように近所の川でおもちゃにするザリガニを捕まえていた。その日は捕まえたザリガニを交通量の多い道路にばら撒いて車がそれを踏み潰すのを見て楽しむという遊びをする予定だった。考案者はリーダーの良郎で、その夏はザリガニを使っての遊びが俺達の間で流行っていた。俺がとりわけ好きだったのはザリガニの胴体に爆竹を差し込んで火をつけるという遊びだった。
「後、十匹捕まえたら行こうぜ」と踝の上まで水に遣った状態で良郎が言った。「こういうことは景気よくやらなきゃな」
「了解」と憲一が答えた。「派手に行こうよ」
 俺は背中を曲げた状態でそばにあったバケツにザリガニを投げた。捕り始めてまだ三十分もしないというのにバケツの中にはすでに二十匹近いザリガニがうごめいていた。俺はその様子を見ながらこいつらはどこから湧いてくるのだろうと考えた。この一週間で少なくとも二百匹はとっているというのに一向になくなる気配はなかった。石をどかして手を入れればまだまだ捕れた。上流にある養豚場と採石場の垂れ流す汚水で汚れた浅くて流れのゆるいその川はつきることのないおもちゃ箱のようなものだった。
「ところで誰かあれを持ってるか?」亮が聞いた。「一本欲しい」
 良郎は半ズボンのポケットを叩いてみせた。「もちろんだ。ガムも持ってきたぜ」
 それからすぐに十匹が捕まった。俺達は川から上がると堤防の上に停めていた自転車に乗って近所の林に向かった。そして辺りに人がいないことを確かめると五、六匹を残してバケツの中のザリガニを全て道路にばら撒いて木陰に隠れた。そこはトラックやダンプのよく通る道に面していてザリガニが踏み潰されるのをよく見ることができた。
 良郎はポケットからタバコを一本取り出すと火をつけた。俺達はそれを回しのみしながら卵が落ちて割れるような音とともに次々とザリガニが車に踏み潰されていくのを眺めた。生い茂った木々の隙間から差し込む光が俺達に降り注いでいて、蝉しぐれがうるさかった。
亮はバケツの中から一匹を取り出すと左手から走ってくる車のタイヤの下にそれを投げ込んだ。タイヤは見事にそれを踏みつぶして、辺りに黄色い汁を飛ばした。まるでプチトマトがはぜたかのようだった。
「ナイスピッチング!」俊介が言った。
「亮は少年野球をやってたからな」俺は言った。「俺はうまくできたためしがないよ」
 今度は良郎がバケツに手を伸ばした。彼は向かってくる車にそれを投げたがうまくはいかなかった。それは地面をすべっていってそばにあった溝に落ちて水しぶきをあげた。毎年この時期になるとこの溝は田んぼに水を送る農業用水路になるのだ。運のいいザリガニは踏み潰されることなくそこにたどりつけるがその数は少なかった。
「クソッ!」良郎は言った。「ミスだ!」
良郎は再びバケツに手を突っ込むともう一匹掴んだ。そして車が来るのを待ってもう一度投げたが今度もダメだった。ザリガニは電柱にぶつかってつぶれた。その道路は干からびて粉々になったザリガニの死骸だらけで、あちこちに色の変わったハサミや足が落ちていた。このところ雨が降っていなかったせいで風向きが変わると死んだザリガニの匂いが鼻をついた。
「なあ」良郎が出し抜けに言った。「今夜肝試しに行かないか?」
 みんなが良郎を見やった。
俺は腕に止まっていたやぶ蚊を右手で叩きつぶした。「どこに?」
「『よっちゃんの家さ』」良郎は言った。
「冗談だろ?」亮が言った。「あそこはやばいよ!」
「だから行くのさ。六年のヤツらでもビビッて行かねぇんだ。行けば俺達はヒーローだぜ」
 返事をするものはいなかった。そこは何十年も前に一家心中があったとされる廃屋で、興味本位で行ったヤツが発狂死したとか、そこに行った暴走族がその帰りに事故にあって植物人間になったといった変な噂の多い場所だった。俺は以前、そのそばの沼に父親と釣りに出かけた際に遠くからそこを見たことがあったが、確かに薄気味悪い場所だった。例えヒーローになれるとしても行きたくなかった。
「今夜、七時にミゾグチ(駄菓子屋の名前)に集合だ」良郎は新しいタバコに火をつけながら言った。「親には俺の家で勉強をするとでも言えばいい」
「やめようよ」と俊介が言った。「ヤバイよあそこは!」
良郎は俊介の左頬に拳を叩きこんだ。パチーンともペチーンともとれない鈍い音に俺達はビクッとした。俊介は体を曲げると頬を押えた。良郎はさらに俊介の腰を蹴っ飛ばした。良郎は六年生の男の子達にも恐れられるほどケンカが強かった。おそらく校内で一番だった。
「俺の言うことが聞けねぇのか?」と良郎がすごんだ。「おい!」
誰も何も言わなかった。俺達はただ認めるしかなかった。良郎がそう言ったら従うしかなかった。さもなければギタギタにされた上に、みんなから無視されるかだった。
俺達は一応、良郎の仲間ということになっていたが実際には良郎の奴隷のようなものだった。

その夜、夕食をとった俺は母に良郎の家で勉強をすると言って家を出た。そして手にしていた勉強道具を母の車の下に隠すと駄菓子屋の前でみんなと合流して自転車で『よっちゃんの家』へと向かった。亮と憲一が懐中電灯を、そして良郎は万が一に備えて金属バットを持ってきていたが、俺と俊介は手ぶらだった。良郎によると勉強道具はこのそばの小さな川にかかる橋の下に隠してきたとのことだった。
俺達は良郎に続いて『よっちゃんの家』へと続く急な山道を登って行った。その廃屋は俺達が住む団地からかなり離れた山の中にあった。そこは民家どころか外灯すら満足にないような場所で、ちゃんとした地名があるのかすら謎だった。曲がりくねった道の両脇に生い茂る木々の隙間をぬって差し込む月明かりがなんとも不気味だった。
俺はペダルをこぎながら家にいられたらよかったのにと何度も思った。母が切ってくれるスイカやテレビアニメが無性に恋しかった。一秒でも早く帰りたかった。態度にこそ出さなかったが、良郎以外のみんながそう思っているのは明らかだった。しょせん俺や亮は良郎に合わせていただけだった。一人ぼっちになりたくないがゆえに、そして良郎に刃向かう勇気がないがゆえに。
狂気の沙汰のような坂を上り続けるにつれて会話はなくなっていった。俺達はまだ熱の残る夜気の中で必死にペダルをこいだ。いくら苦しくても自転車を降りて押すのは禁止だった。それはみんなから手強いヤツらと思われている俺達のルールの一つだった。でも俺達の中にビビッていないものは良郎以外にいなかった。それはちょっとした物音に体をびくつかせる様子や、さかんにこの世に幽霊などいないということを唱える口ぶりからはっきりとわかった。進めば進むほど消えていく文明の匂いと、横を追い越して行く車やすれちがう車がほとんどないことが俺達をよけいに不安にさせた。俺は自分が行ってはいけない場所に行こうとしている気がしてならなかったがそれはおそらく亮や憲一も同じだった。ひょっとしたら良郎自信もそう思っていたのかもしれないが、態度には出さなかった。大将として。
やがて俺達は道を右にそれて舗装されてない一本の道に入って自転車を停めた。その道は目的の廃屋へと続く幅一メートルほどの私道だった。辺りは耳鳴りがしそうなほどに静かで目の前の道には背の高い草がうっそうと生い茂っていた。まるで何人も近づくなとでも言わんばかりに。聞こえるのはムシの鳴き声だけで、どんよりとした嫌な雰囲気が辺りに漂っていた。
「照らせ」と良郎が言った。
 亮と憲一が懐中電灯で道の先を照らした。二十メートルほどの先の暗闇の中に荒廃した民家が部分的に浮かびあがった。大きな二階建ての家だった。窓は全て割れ、壁ははがれ落ち、右にかしいだ屋根のかわらもその大部分がなくなっている。家の横に生えた太くて大きな木の枝が一階の屋根に触れていた。それはまるで白骨化した悪魔の指が下からその屋根を持ち上げようとしているようだった。なぜこんな樹海のような場所に家を建てたのだろうという疑問が、その容姿の薄気味悪さに拍車をかけていた。
「たいしたことがねえな」良郎が言った。「俺はかあちゃんの実家のそばでもっと怖い場所に行ったことがある」
「本当に?」俺は言った。
「なんだ。俺をウソツキ呼ばわりしてるのか?」
「いや」
 俺は良郎も恐れていることを悟った。恐怖心を紛らわすためにそうしているように思えた。普段の彼なら喜々としてその時のことを語るはすだった。俺は直感的にマズイと思った。気が立っている。
「この中で怖いヤツはいるか?」と良郎は言った。「もしいたら手をあげろ」
 俺達はお互いの顔を見合わせた。誰も手を上げなかった。素直に上げていいものかどうかがわからなかった。
「そうか」良郎は言った。「じゃあ、亮、おまえが、あの中に行って様子を見て来い」
「えっ?」
 暗くて表情はよくわからなかった。しかしその声は明らかに動揺していた。
「行けよ。怖くないんだろ?」
 亮は行かなかった。ただ黙っているだけだった。
 良郎が笑った。「正直に言えよ。怖いなら」
「怖い」
「そうか」
 良郎は一歩前に出ると亮の頬を張った。そして続けざまに俺達の頬も張った。掌が頬を打つ鋭い音が一瞬、辺りに響いた。俺は頬を押えると良郎をにらみつけた。あまりの屈辱と怒りに目が潤むのがわかった。辺りが真っ暗なことがうれしかった。
「ウソツキどもが!」と良郎は言った。「俺はウソツキが大嫌いだ!」
「自分はどうなんだ?」俺は思わず言い返した。「自分だってビビッてるじゃないか」
 良郎が俺に顔を向けた。しまった! と思う間もなく俺は地面にヒザをついた。良郎が持っていたバットの先で俺のみぞおちをついたのだ。俺は息をすることができずに草の上を転がった。
「口には気をつけろよ。恭平。あんまりふざけたことをぬかしてると殺すぞ」
 良郎はそう言うと背中に蹴りを入れた。俺はあまりの痛みに腹を押えていいのか、背中を押えていいのかわからなくなった。その痛みときたら一瞬背骨が折れたのではないかと思うほどだった。だからといって誰も俺を助けてはくれなかった。もし、無断でそんなことをしたら良郎に「誰が助けていいと言った?」と言われるからだ。
「起せ」しばらくして良郎が言った。
 俊介と憲一が俺を起した。全員が怒りを感じているのがありありとわかった。俺は心の中でつぶやいた。この刑務所帰りの息子がと。彼の父親はもう何年も前に蒸発していたが、その前は人を刺したかなんだかで刑務所に入っていたという噂だった。
「行くぞ。コシヌケども」
良郎が歩き始め、俺達がそれに続いた。まだ苦しかった俺は体を曲げて歩かざるをえなかった。俺はなぜだか以前、父から聞いた死の行進という言葉を思い出した。
草を踏みつける音がやけに大きく響いた。良郎の後ろを歩いていた俊介は彼の背中に中指を立てると俺を見やった。俺は暗くて表情がはっきりしないにも関わらずにほほ笑んで見せた。その行為は俺達の気持ちをよく表していた。良郎の横で道を照らしている亮も憲一もそう思っているにちがいない。
俺達は戸の外れた玄関から家の中に入っていった。懐中電灯の照らし出す家の中は外見と同じくらいにひどいありさまだった。壁ははがれ、そのまま置き去りにされた古臭い家具は雨漏りによってめくれあがったり、腐ったりしていた。床の畳は歩くたびに泥の中に足を踏み入れたような音をたて、廊下はところどころ完璧に抜け落ちている部分もあった。天井には砲弾が貫通したような大きな穴が空いていてそこからわずかな月明かりが差し込んでいた。妙にヒンヤリとしてかび臭かった。二階からは鳥の鳴き声が聞こえた。
「すげーな」と良郎が足元の床を軋ませながら言った。「まだ建ってるのが不思議なくらいだ」
 俺達は迷路のように家の中を進んでいった。どれが何の部屋かはわからなかったが台所と便所はわかった。大きなかまどのある台所だったがガスなどがあったようには思えなかった。正確にいつごろ建てられたものかはわからなかったが、床に落ちていた虫食いだらけのはがきや、床に投げ捨てられた鉄製の扇風機やラジオを見る限り戦争の前に立てられたようだった。壁には以前にここを訪れた暴走族の残していった赤や青の落書きが残っていたが、それが俺達を安心させた。しかし、良郎に対する怒りは一向にひかなかった。むしろそれは落ち着けば落ち着くほど大きくなっていくようだった。俺は良郎の背中を見ながら心の中で思いつく限りの悪態をついた。心よりの憎悪こめて。
 俺達は一階を一通り見終えると、玄関の右手にあった急な階段を上った。階段は歩くたびにひどく軋んだが幸いにも抜けるようなことはなかった。だが、先頭を歩いていた良郎は階段を上りきると突然立ち止まって壁を金属バットで叩いた。亮と憲一が同時にそこを照らすと赤いスプレーで文字と矢印が書かれているのが目に入った。

 危剣! ここから先は立ち入りきん止!

 矢印は右手に伸びる廊下を指していた。そうでなければ天井だった。俺は危険の字が間違っていることに気づいたがあえて何も言わなかった。その字にはなぜか鬼気迫るものがあるように思えた。俺達はしばらく壁を見つめた。またみんなに薄れかけていた恐怖心がもどってくるのがわかった。
「怖いか?」と良郎は憲一に聞いた。
「怖い」
 憲一は一瞬ためらってから言った。もし、怖くないと言ったらまたおまえが先に行けと言われると思ったのだ。しかしそれを聞いた良郎は憲一の方を振り向くと得意の平手打ちを見舞った。むろん手加減はなしだった。
「ビビッた罰だ」と良郎は言った。「このクソッタレが」
 憲一は無言で頬を押えた。一瞬上下に揺れた懐中電灯に照らされた彼の表情にはさっき俺が感じたものと同じものがあった。俺は自分と周りの連中の恐怖心がまた怒りに変わっていくのを感じたが、良郎は鈍感さからか、それとも俺達が絶対に手を出さないと知ってか、何事もなかったかのような態度で笑っていた。
「ウソにきまってんじゃねぇか。こんなもん」と彼は言った。「ビビッてんなよ」
 良郎は鼻で笑うとその方向に向かって歩き始めた。俺達は少し離れてその後ろを続いた。
俺は一瞬、良郎を階段で突き落とすべきだったのかもしれないと思った。彼にとって俺達を殴るのは今やハナクソをほじくるのとたいしてかわらないことのように思えた。それは何も今に始まったことではないが、最近では日に日にひどくなっていた。特に今日は。
 先頭の良郎が突き当たりの部屋に入った。それと同時に一斉に何かが跳ね上がる音が聞こえた。一瞬空を照らした懐中電灯の灯りの中を何かがものすごい勢いでこっちに向かってくるのがわかった。それは気がふれたかのように翼を打ち鳴らす無数の鳥だった。 
「うおおお!」
 これにはさすがの良郎も叫んだ。良郎は手をバタつかせて後ろにのけぞると尻餅をついた。亮は思わず手にしていた懐中電灯を投げ出すと頭を押さえ、俺と俊介と憲一は反射的にその場にしゃがみ込んだ。俺はだしぬけに以前に見たヒッチコックの映画を思った。鳥が人間を襲うという内容のものを。
 何秒かして鳥の怒りが収まった。辺りにまたさきほどの静寂が訪れた。鳥のノドを鳴らす音とかすかに羽を動かす音が聞こえる。俺達はほぼ同時に顔を上げた。
良郎は床に手をついて立ち上がると憲一の手から懐中電灯を奪って辺りを照らした。俺は壁に書かれていた危険の意味をすぐに理解した。その八畳ほどの部屋は右を見ても左を見ても鳥だらけで、床は白いフンとハネで覆いつくされて漆喰で塗られたかのようになっていた。まるで巨大な鳥の巣だった。
俺達は立ち上がった。亮は思わず投げ出した懐中電灯を拾うと辺りを照らした。二つの懐中電灯に照らされた室内はその不気味さを増した。俺はゾッとしながらポケットからハンカチを取り出すと鼻に押し当てて一歩後ろに下がった。粒子と化した鳥の糞に思わずせき込みそうになった。おまけに何かが腐ったようなひどい匂いがした。
「スゲー」と俊介が言った。「一体何匹いるんだ」
「三十匹はいるぜ」と憲一が言った。「こんなとこ見たことねぇ」
 俺にはもっといるように思えた。正確な数など知る由もないが。一つだけ確かなのは現在のこの家の家主が彼らということだけだった。
「出ようぜ」と亮は言った。「なんかくさいし」
「ああ。そうだな。このチクショウどもにお礼をしたらな」
良郎はそう言うと突然そばにあったフンまみれの小さな文机を掴んだ。そして何事かを叫ぶとそれを部屋の隅に置かれたタンスの方に投げ捨てた。俺は一瞬彼の気が狂ったのではないかと思った。何のためにそんなことをするのかがわからなかった。
その机はフンと雨漏りで腐食したタンスを粉々にした。その音に驚いた鳥達がまた一斉に羽を広げる。部屋の中の空気がかき回されて羽と乾いたフンが舞うのがわかった。俺と俊介は再び身の危険を感じてしゃがんだ。何十匹もの鳥が羽を一斉に羽ばたかせる音ときたら、殺されるんじゃないかと思うほどだった。
何秒かしてまた静寂が訪れた。俺は良郎の奇行に腹を立てながら立ち上がった。みんなも同じことを考えているようだった。
「おっ?」
良郎は何を思ったのか亮の手から懐中電灯を奪い取るとタンスの残骸の元に歩いて行って金属バットの先でその残骸を引っ掻き回した。やがて彼はしゃがみ込むと何やら細長いものを掴んだ。それは遠めに見ると二つに折り曲げられた巨大なムカデのように見えた。
「おい!」と良郎が興奮気味に言った。「すごいぜ! 金だ!」
 俺達は無言だった。言っている意味がわからなかった。それを察した良郎は嬉々とした表情で俺達の元に戻ってくるとそれを俺達に突き出した。それは確かにお金だった。というよりも大昔にそうだったものだった。時代劇でよく目にする寛永通宝とかいう真中に四角い穴の空いたものだった。それはかなり大量にあってヒモで通されていた。
「おい! おまえらも来い!」と良郎は言った。「まだあるかもしれん。探せ! 町の中のコインショップに売れるぜ!」
 俺達は良郎についてガレキを漁った。するともう一本束になった古銭が見つかった。今度はあまり数がなかったがもう少し厚みがあって細長いものだった。さっきのものと同じように真中に四角い穴が空いていた。他にも細々とした古銭が見つかった。良郎はさかんにそれを喜んでいたが、俺達の中に興味のあるものはいなかった。それよりも俺はなぜ、前にここを訪れた人間が発見できなかったかのほうが不思議だった。タンスの中身はほとんど部屋の中にぶちまけられていたし、引き出しは部屋のあちこちでフンにまみれているというのに。今ならタンスのどこかに隠し扉が設けられていたのだろうと考えられるのだが、その頃の俺がそんな言葉を知るはずもなかった。

 その後俺達は隣の部屋を漁って階段を下りた。そして一階を少し漁ると廃屋を後にして来た道を引き返した。その後は特に何も見つからなかった。台所の土間の隅で干からびた猫の死体を見つけたが。二階の他の部屋についてはわからない。というのは左手の廊下に大きな穴が空いていたせいでそれ以上進むことができなかったのだ。しかし、最初の部屋とその隣の部屋を見る限り、もし行けたとしても行きたくなかった。隣の部屋も最初の部屋と同じで鳥の巣になっているとしか思えなかった。
 帰りは行きとちがって楽だった。良郎は上機嫌で自転車をこぎ、俺達は事故に遭わないことを祈りながら自転車をこいだ。以前に聞いた廃屋からの帰り道に事故に遭ったという暴走族の話が頭にひっかかっていたのだ。良郎は見つけた古銭を戦利品として持ち帰ることにしたが、一人のポケットには入りきらなかったため、俺と憲一にも分散して持たせた。俺はよくわからない硬貨を何枚か預かったが、できれば置いておきたかった。興味がなかったのもそうだが、例えそれがなんであれ人の家から無断で物を持ち帰るのはどうかと思えた。墓に供えられたおもちゃをポケットに入れているような感覚がしたのだ。良郎の理不尽な態度はあいかわらず胸にひっかかったままだった。
 無事、山を降りた俺達は駄菓子屋の前にもどった。良郎は俺と憲一に預けていた古銭を出させると自分のポケットに入れていた束になった銅銭と合わせてそれを一枚一枚自販機の灯りの下で確認していった。こうして見るとかなりの量と種類だった。むろん小判などはなかったが、縦一センチ、横半センチほどの黒ずんだ不思議なお金もあった。
「まさかこんなものがあるとはな」と良郎はほこらしげに言った。「行ってよかっただろ?」
「うん」
「楽しかっただろ?」
「うん」
「おまえたちはもっと男にならなきゃダメだ」
「うん」
「俺に感謝するんだな」
「うん」
 俺達はただうなずいていた。でも、それはあくまで殴られないために言っているだけで、本当はそんなふうには考えてなかった。家にいたほうがどれだけ有意義な時間を過ごせたかと思わずにいられなかった。結局、俺達が得るものは良郎の暴力だけなのだから。良郎が手に入れた古銭を独り占めするのは明らかだった。別に興味もないしいいのだが。でも、さっきあずかった裏に龍がついた銅貨だけは少し欲しい気がした。

 それから二日後の夕方、俺達は良郎の家の居間でテレビゲームをしていた。といっても実際にしていたのは彼だけで俺達はただ画面を見ているだけだったのだが。彼は俺達にすすめようともしなかった。
そのテレビゲームの本体は亮のものだった。一応それは借りているということになっていたが、実際には良郎のものとなっていた。彼の親が出れば奪回は可能だろうが、今のところそれはなかった。運悪く、彼の親はテレビゲームを快く思っていなかったのだ。それに、子供間で起こったことを親に言うのは俺達の間では弱虫のすることとみなされていたので言おうにも言えなかった。例えどれだけ殴られても、いじめられても、ゲーム機を取られてもだ。
 やっていたのは昨日、駅前で良郎が買ったロールプレイングゲームだった。良郎は廃屋に行った翌日に町のコインショップに例の古銭を持って行っていくらかのお金に替えていた。彼によるとその金額はゲームソフトを買ってもまだ少しお金が余るほどとのことだった。八千円と言ったり九千円と言ったりしたので正確な値段はわからなかったが、それくらいのようだった。
彼はゲームをしながらそのおっさんが、自分の持っていった古銭にいかに驚いていたかということや、自分が勇敢だからこそこうして大金を手に入れられたということを得意気に話した。自分だけ冷たいスプライトを飲み、袋入りのポテトチップスを食べながら。
俺達はそれをいらいらしながら聞いた。ノドを乾かせ、夕飯前のおなかをならしながら。そして彼の暴君ぶりに対して一言も文句を言えない自分達に苛立ちを感じながら。顔では笑っていたが、彼に対する不満は限界に達しつつあった。

翌日から俺は五日間ほど母の実家に出かけた。その間に俺達の間で二つの事件が起こった。
まず、良郎が敵対していたグループのリーダーと戦った。そいつは良郎よりも一学年上の鈴木孝明という生徒だった。スポーツと勉強がよくできる女の子に人気のあるヤツでケンカもそこそこに強かったが、塾の前で待ち伏せしていた良郎には全く歯が立たずに、ギタギタにされた。原因は数日前に良郎と鈴木孝明のことを知っている男の子が、良郎に告げ口したとのことだった。鈴木孝明が野蛮なサル呼ばわりしていると。マトを射ていたせいか良郎はキレたが、いずれにせよそれは起こることだった。いつか鈴木孝明をぶっ飛ばすというのが良郎の口癖だった。
もう一つは、俺以外の仲間が良郎にボコボコにされたことだった。原因は例の廃屋だった。古銭を現代のお金に替えることに味をしめた良郎が他にも何かあるはずだから今度はシャベルや袋などを持って出かけようと切り出したところ亮と憲一が反対したのだ。どうせ、何が見つかっても、俺達には何も見返りがないし、あんなところには二度と行きたくないからと。それは普段からのうっぷんが爆発したとしか言いようのない事件だった。しかしこの事件は、いつもとほぼ同じ形で結末を迎え、おまけに三人は反逆罪のかどで、二時間ほどそばの駄菓子屋の前で正座をさせられた。俊介がそこに加わったのは連帯責任だった。良郎は彼もいっしょになって悪口を言っているにちがいないとふんだのだ。三人は熱い太陽の下で、買物に来る客の狂人を見るような視線に耐えながら正座したとのことだった。
俺がこの話を聞いたのは母の実家から帰ってきた日の夕方のことで、場所は俊介の家だった。俺は家につくなり、今すぐ来てくれと俊介に電話で呼び出されたのだ。
俊介の家に着くと良郎以外のみんながいた。亮と憲一はベッドに座り、俊介は勉強机のイスに、背を前にして座っていた。俺は適当に床に座った。良郎が父親に代わって家計を支える母親といっしょに駅前のスーパーに出かけているという話はさっきの電話で聞いていた。
「おまえはラッキーだった」と憲一が口を開いた。「いなくてよかったよ」
 俊介は軽傷でほとんどいつもとかわらなかったが、憲一と亮は顔にいくつもの青たんを作り、あちこちをすりむいていた。俺が「どうしたんだ?」と聞くとみんなは怒りに声を震わせながら先に述べた二つの事件を教えてくれた。みんなで話し合って親には、すれちがった中学生だか高校生に因縁をつけられてやられたとウソをついたという部分をつけくわえて。罵詈雑言の嵐のような説明だった。まるで呪いの言葉の品評会だった。死ね、馬鹿、キチガイ、人殺しの子供、頭を叩き割る、ぶっ殺す! ぶっ殺す! ぶっ殺す!・・・・・
「もう限界だ!」亮が目をぎらつかせながら言った。「あのクソをやろうぜ。これ以上エスカレートしたら大変なことになる。あいつはそのうち俺達にもっとひどいことを言い出すに決まってるぜ!」
「どうやって?」俺は聞き返した。「鈴木孝明ですら負けちまったんだろ? 他に誰がやれるっていうんだよ? 良郎をやれるって噂があったヤツはあいつくらいだぜ」
「一人では無理だ」と憲一が言った。「でもみんなでやればできる。鈴木孝明とその手下を引き込んでもいい。そうすれば必ず勝てる」
 俺には鈴木孝明がその話に飛びつくとは思えなかった。彼はできのいいヤツにありがちな一度負けた人間には二度と勝てないと思いこむふしがあった。それにもし、そうやって良郎をやっつけても彼が復讐に出てくるのはまちがいがなかった。
「なあ」と亮が言った。「いい案を思いついたんだけど」
 その時、俊介の母が麦茶のボトルとコップを持って部屋に入ってきた。彼女は「何をそんなに熱くなってるの?」と言うと勉強机の上にあったみんなのグラスに麦茶を注いだ。俺達は苦笑いを浮かべてお茶を濁した。俊介の母親は美人で優しかった。彼の家は俺達の中では一番裕福で当時としては珍しいクーラーが全ての部屋に設置されていた。この日はあいにく窓を開けているだけだったが。彼の父は腕のいい弁護士だった。
 俊介の母が部屋を出ると少し間を置いて亮が話し始めた。「さっきの話なんだけど」
「言えよ」と憲一。
「あいつを井戸に閉じ込めるっていうのはどうだ?」
「あん?」俊介が言った。「井戸?」
「どこにあるんだ?」俺は聞いた。「それになんで井戸なんだ?」
「あいつはあの廃屋に行きたがってる。でも、一人で行くのは怖い。だから俺達を付き添いをかねた人夫としてそこに連れて行きたがってる」
「井戸なんてあったか?」俺は聞いた。
「あったぜ」亮は言った。「大きな木の下にあっただろ?」
「そういえばあったな」と俊介。「草に埋もれてたけど」
 憲一があいづちを打った。俺は思い返してみたが記憶になかった。脳裏に浮かぶのは金属バットの柄でみぞおちをつかれた時に感じた苦しさと怒り、それに干からびた猫の死体を見つけた時に感じた心底うんざりしたような感じとその光景だけだった
 その様子を見ていた俊介が言った。「おまえは何を見てたんだ?」
「腹が立ってたから周りを見る余裕がなかったんだ」俺は返した。
「そうだな」憲一が言った。「あの晩はふんだりけったりだったな。全員」
「最悪だ」俊介が言った。「クソッタレ」
 みんなが口々に悪態をついた。俺は打倒良郎を合言葉にみんなが一つになっていくのを感じた。心に同じ傷があるもの同士。良郎に対する反感は臨界点に達していた。
「で、なんで井戸なんだよ?」憲一が聞いた。
「ばあちゃんに聞いたことがあるんだ」と亮は返した。「昔、ばあちゃんの住む地域にとんでもない悪ガキがいたんだ。それで・・・・・」
「そいつは良郎より悪いのか?」と俊介が口をはさんだ。
「ファミコンを返さないのか?」と憲一。「それとも人の家に爆竹を投げ込むのか?」
「ケバイババアといっしょに市営住宅に住んでるのか?」と再び俊介。
「で・・・・ある時見かねたその家の親が近所の寺の和尚に相談した」亮はみんなを無視して続けた。「その話を聞いた和尚はそのガキを寺に呼んで井戸に叩き込んだ。そのガキは溺れながら悪態をついたそうだ。泣き喚きながら。でもその和尚は助けなかった。本当に反省するまでは。そのガキはかなり長い間そうされた。でも最終的に助けられた。そして和尚と親に二度と悪さをしないと誓った。それ以来、そのガキはみちがえるようにいい子になった」
 俺はテレビアニメの日本昔話を思い出した。信憑性があるような、ないような話だった。でも、俊介と憲一はどういう理由からかそれを名案と讃えた。意気投合した三人はすぐに喜々とした表情で良郎が井戸に落ちたら言うであろう言葉と、もしそうなったら何を誓わせるかについて盛り上がり始めた。亮が言った『ショック療法』という言葉が効いたのかもしれない。そんな言葉を聞くのは初めてだった。
「でも、どうする」と憲一が言った。「どうすればいいんだ?」
「まずは」と亮が言った。「良郎を『よっちゃんの家』に連れて行くんだ。今アイツは古銭にとりつかれてるから、誘えば絶対に来るし、多分、自分からも行くって言ってくる。で、あいつをなんとかして井戸に近づけさせる」
「そこで突き落とすんだな?」俊介が言った。
 亮はうなずいた。「こっちは四人だ。いくら良郎でもいきなりならどうしようもできない。何かの合図で一斉にやるんだ。入れって言っても無理だろうし、力ずくでやるには、被害が大きくなる可能性がある」
「でも、助ける時はどうするの?」俺は言った。
「井戸の横にロープがあっただろ」俊介が言った。「それを使えばいい」
「あったかそんなもん?」
「おまえは一体どこに目をつけてるんだ?」俊介は呆れた感じで言った。「すぐ隣の部屋を通ったじゃないか。見えたはずだぜ」
「そうだったな」と俺は言った。本当は全く記憶になかった。「ところでもし失敗したらどうするんだ? 殺されるぜ」
「臆病だな」と亮が言った。「絶対に成功するさ。それにこれは正面から行くよりはずっと成功率が高いし、良郎が改心する可能性だって高い。ばあちゃんが言ってた。水と暗い場所を恐れない人間はいないって。どんな悪ガキでもこれをすれば絶対に直るって」
 それは理にかなっているように思えた。そういえば俺は幼稚園の頃に悪さをして、その頃、住んでいた家にあった土蔵の中に閉じ込められたことがあったが、あれは本当に怖かった。母にそうされたのは一度だけだったが、二度と悪さはしまいと誓ったことを覚えている。その中は昼なのに真っ暗で気も狂わんばかりだった。
「いつやるんだ?」と憲一が言った。
「明日だ」亮は言った。「明日は、ちょうど午後から良郎と遊ぶことになってただろ?」
「そうだ」俊介が言った。「明日は川原で宝探しをするとになってる」
「明日までの天下だな」憲一は意地の悪い笑みを浮かべて憎々しげに言った。「クソ、良郎め」
 俺達はひとしきり良郎を罵ると明日の計画を練り始めた。正直、俺は半信半疑だったが水をさすようなことは言わなかった。少なくとも正面からかかっていくよりは利口に思えたし、良郎に何か仕返しをしてやりたいというのはみんなと同じだった。それに今までさんざん虐げられてきたことに対する復讐をするチャンスであることにまちがいはなかった。

 翌日は朝からうだるような暑さになった。その日の午後、俺達はいつも遊んでいる川原を少し下った場所にある茂みの中でポルノ雑誌を探していた。俺達の言う宝探しとは茂みをかきわけてそれを探し出すことだった。どういうわけだか、その河原にはよくその手の雑誌が落ちていた。
 その日の収穫は三冊だったがあまり面白いものはなかった。それは俺達が雑魚系と呼ぶ類のものだった。俺達はタバコを吸いながらそれをみんなで読み終えると川原に停めてあった自転車にまたがって駄菓子屋に向かった。三冊のポルノ雑誌は目についた家の郵便ポストにつっこんで処分した。それは良郎が気に入っているいたずらの一つだった。人の家にロケット花火を打ち込んだり、蛇の死体を投げ込んだりするのと同様に。
 駄菓子屋につくとソーダを買って店の裏手に行った。良郎は俊介からせしめた百円でお気に入りのピンボールゲームを始め、俺達はゲーム機の横に立ってその様子を見守った。掘っ立て小屋のようなその店の裏には時代遅れなゲーム機がいくつか置かれていた。店の裏手は日陰になっているせいでいくらか涼しかった。それらのゲームは晴れた日にのみできることで、雨の日には店のどこかに片づけられていた。
「クソ!」良郎がゲーム機を拳で打ちつけながら言った。「壊れてんじゃねぇのか。このクソゲームは!」
 俊介が横目で良郎をにらんだ。その目はこう言わんばかりだった。 ― なんで怒るんだ? あんたは俺の金でゲームをしたんだから痛くもかゆくもないだろ。勝っても負けても ― 良郎はまだいくらか古銭を売ったお金の残りを持っていたが、それにはいっさい手をつけずに、あいかわらず俊介にたかっていた。良郎の小遣いの額は俺達の中で一番少なかった。
 やがて良郎がゲームオーバーとなった。それと同時に俺達は亮に目配せをした。話を切り出すのは物知りな彼の役目だった。いいタイミングだ。
「ねぇ」と亮が切り出した。「これから『よっちゃんの家』に行かない?」
 良郎はソーダを飲み干すと大きなゲップをした。「どうしたんだよ。急に?」
「いや、急に行きたくなってさ」亮は言った。「実は少し気になることがあるんだ」
「何だ?」
「かまどの中を見てない」
「あん?」
「昔、ばあちゃんに聞いたことがあるんだ。昔の人はよくかまどの下に貴重品を隠したって」
 良郎の目が輝いた。「何だって?」
俺はとっさに話を合わせた。「俺も聞いたことがあるよ。その話は」
「本当か?」
 俺はうなずいた。「俺のおばあちゃんもそう言ってた」
「おい、何であの時言わなかったんだ?」良郎は興奮気味に言った。
「忘れてたんだ」亮は言った。「家に帰ってから思い出したんだ」
「おい、憲一、家からシャベルを持って来い! それになんか袋もだ! ついでに懐中電灯も持って来い!」
「スコップならあったよ」俊介が言った。「草むらの中で見た覚えがある。それにこの時間なら懐中電灯はいらないよ」
 それはがウソか本当かはわからなかった。でも、俺には憲一に無駄な動きをさせたくないからそう言ったように思えた。俊介と憲一は特に仲がよかった。
「確かにこの時間ならだいじょうぶだね」憲一は太陽の位置を見ながら言った。「まだ三時前だから」
「おい、行くぜ! おまえら!」良郎は叫ぶようにしてそう言うと自転車に向かった。「早く行かないと日が暮れちまう!」
 俺達は彼に続いて自転車に向かった。俺達は一瞬おたがいを見やるとニヤリと笑った。良郎が泣きながら許しを請う姿が脳裏に浮かんだ。自らの処刑の場に嬉々とした表情で向かう彼の姿がおめでたかった。
良郎は自転車に飛乗るとものすごい勢いで走り始めた。俺達は狂ったように輝く太陽の下を笑顔で彼に続いた。

俺達は先日同様にきつい坂道を登っていた。両脇に生い茂る木々のせいで昼間なのに辺りは薄暗く、対向車やすれちがう車もほとんどなかった。夜に来た時よりは怖くなかったが、それでも薄気味悪いことに変わりはなかった。良郎は額から汗を垂らしながら何度も俺達に言った。
「もし、なんか見つけたら、すぐに俺に言えよ。あそこにあるものは俺のものだからな。俺の目を盗んでポケットに入ようなんて考えるなよ。帰りに調べるからな」
 やがて俺達は道路を右にそれて廃屋へと続く私道に入った。そして、先日自転車を停めた場所に自転車を停めると、背の高い草をかきわけて廃屋へと進んだ。俺達の足音に驚いたバッタや蛇が時おり音を立てて道を空けた。もし半ズボンをはいていたらスネが傷だらけになったことだろうが、運よく俺達は全員が長ズボンだった。俺達の間で半ズボンをはくのはダサいものとされていた。
俺達は家の前で立ち止まった。明るい中で見る廃屋の荒廃ぶりはすごかった。暗がりではわからなかったがその建物はピサの斜塔と同じくらいに建っていることが不思議だった。壁も窓も屋根もボロボロで右斜め前に傾いていた。確かに木の下には大きな井戸があって、その少し後ろでは錆だらけになった古い車が草に囲まれて朽ち果てていた。
「シャベルは?」良郎はいても立ってもいられないといった感じで俊介に聞いた。「シャベルはどこだよ?」
「こっちで見たよ」
 俊介はそう言うと井戸の方に歩いて行った。良郎が彼の後ろを歩き、俺達がその後に続いた。俺は間もなくだなと思いながらドキドキした。シャベルの話やかまどの話が出たのは予想外だったがうまくいっている。俺達は彼をどうやって井戸に近づけるかと、どうやってたたき落とすかしか話していなかった。
亮と憲一と俺は井戸に行くと中を覗き込んだ。真っ暗で何も見えなかったがかなり深そうだった。その井戸の幅は一メートルくらいで人を落とすには十分だった。傍らにはだいぶ風化しているが丈夫そうなロープもあった。そばにあった小石を投げると水のはねる音がした。深さのある音だった。
「いくぜ」と亮が小声で言った。
「おう」と憲一が言った。
「良郎くーん」亮は後ろをふりむくと両手で口の周りを覆って言った。「なんかあるよ」
十メートルほど先の草むらの中にいた良郎がこっちを振り向いた。井戸の中でわずかに亮の声が響いたような感じがした。
「何だって?」良郎が声を張り上げた。「何があるって?」
「わからないけど何かあるみたい」と俺は言った。
 良郎がこっちに向かって歩き始めた。興奮しているのか早足だった。俊介も向かってくる。俺と憲一は彼が井戸の前に来るとそこをどいた。彼が井戸に近づけるように。俺達は通知表を開く瞬間のようにドキドキしていた。うまくいくだろうか。
「どこだ?」と良郎が言った。
「そこ」と亮が井戸の中を指差した。
 良郎は井戸に身を乗り出すと中を覗き込んだ。俺と俊介と憲一は良郎の背後に回りこんだ。全員真剣な面持ちをしていた。
「おいどこだよ? 亮?」
「ほら、もっと奥だよ。見えるでしょ?」
「あん?」
 良郎はさらに身を乗り出した。それと同時に亮が叫んだ。
「今だ!」
 良郎は亮の突然の叫び声に顔を上げようとした。俺達は一斉に良郎の背中を押した。掌の下が彼の背骨に激しくぶつかる感触がして、一瞬鈍い音が聞こえた。
「ああっ!」
良郎は短くそう洩らすとバランスを崩して前に倒れこんだ。彼は一瞬手をバタつかせて井戸の端を掴もうとしたがそのまま頭から暗闇の中に消えていった。その動きの一つ一つがスローモーションのように見えた。それまでやかましいほどに聞こえていたセミの鳴き声が一瞬止まったように感じられた。
 井戸の中を重たい音がこだました。それはまるで骨格のある百キロの小麦粉袋を十メートルの高さから思い切りコンクリートの床に叩きつけたような音だった。水しぶきのあがる音はほとんど聞こえなかった。両足で浅い水溜りの上に飛び込んだ時に耳にするようなバシャンという音がいくらか聞こえただけだった。
俺達はしばらくの間無言で井戸を見つめていた。何がどうなっているのかよくわからなかった。それにどうしていいのかも。俺達はてっきり深い川に飛び込んだ時に聞くようなもっと大きな水しぶきがあがるものと思っていた。しかし、実際に俺達が聞いたのはもっと鈍い音だった。コンクリートの上に頭から落ちたような・・・・
状況がわかるにつれて恐怖にかられ始めた。それはものすごい勢いで膨張した。俺は井戸に身を乗り出して中を覗き込んだ。暗くてわからなかったが人のいる気配はまるで感じられなかった。俺は気の狂ったサルのように叫んだ。
「良郎君! 良郎君! 返事をしてよ! 良郎君!」
 いくら呼んでも返事はなかった。ただ自分の声が暗闇の中を空しくこだまするだけだった。俺の声はほとんど悲鳴だった。
横にいた亮が井戸の中をのぞきこんだ。それと同時にみんなも井戸の中を覗き込んだ。みんなも気のふれたように叫んだ。
「良郎君!」
「返事をしてよ!」
「やめようよこういうことは。ねぇ! ねぇ! 今度欲しがってたスイス製のナイフをあげるから!」
 みんなの言うことはバラバラだったが、その根底にあるものは一緒だった。それは良郎を殺してしまったかもしれないという恐怖だった。むろん返事はなかった。
「ちくしょう!」亮が叫んだ。「なんてこった! 水がなかったなんて!」
「どうすりゃいいんだ!」俊介が叫んだ。
「おまえが悪いんだぞ!」と憲一が亮に向かって叫んだ。「このクソッタレ!」
「うるせー!」亮が反論した。「水がないなんて知らなかったんだ! 普通井戸には水があるもんだろ! だったらなんで止めないんだ!」
「普通調べてからやるだろうが! このバカタレ!」
「なんて言い草だ! まるで良郎じゃないか!」
「それよりどうするんだ!」俺は叫んだ。「返事がないぜ! やばい!」
「そんなことはわかってんだよ、このマヌケ!」
 俺達は半狂乱だった。みんな目に涙を浮かべていた。怖くてしかたがなかった。
「逃げるか!」亮が叫んだ。「逃げようぜ!」
「バカか!」と俊介が叫んだ。「そんなことをしてもダメだ!」
「じゃあ、どうするんだ! 警察に行ってみんなで仲良く良郎を殺しましたって言うのか!」
「とにかく助けを呼ぶんだ!」俺は叫んだ。「この下に民家があった。とにかくそこに戻るんだ! クソッタレ!」
「みんな落ち着け!」俊介が叫んだ。「恭平の言うとおりだ! ここを出て助けを呼ぶんだ!」
「そんなことしたら捕まるじゃねぇか!」亮が叫び返した。
「正直に話せばな。だから事故にするんだ!」
「何?」と憲一が叫んだ
「いいか。ここに居合わせたのは俺達だけだ。他に証言するやつはいない! みんなで口を揃えるんだ!」
「どうやって!」と俺は叫んだ。
「俺達は前にここに肝試しに来て気に入った。それで、今日も来た。で、家に入る前にそこの草むらで遊んでたら突然、「あっ!」って声が聞こえて良郎が井戸に落ちた。ありがちな話だ! それに逃げるよりはいい! 逃げれば罪が重くなる。それにもし逃げてもすぐに俺達が良郎といたってバレる。ミゾグチのババアに見られてる」
 反論するものはいなかった。確かにそれが最良の策に思えた。
「俺と恭平が山を降りる」と俊介が言った。「亮と憲一はここにいろ」
 二人はうなずいた。

 俺と俊介は急いで山を降りると近所の民家に行った。そして運よくそこに居合わせたおばさんに事情を話した。息を切らし、汗を垂らしながら。そのおばさんは救急車を呼ぶと車で俺達を廃屋まで送ってくれた。おばさんは俺達の様子を見て冗談ではないということをすぐに悟ったようだった。正直自分達の話していることが日本語になっているのかどうかはわからなかった。俺達は気が動転していた。
 廃屋に戻るとおばさんに連れられて井戸に行った。おばさんは身を乗り出して中を覗き込んだが何もできなかった。ただ責めるように「なんでこんなことになったの!」と言ってあたふたするだけだった。亮と憲一はあの後、何度か良郎を呼んだが返事はなかったようだった。あいかわらず井戸の中は真っ暗で誰もいないかのように静かだった。
 消防団員が訪れ、救急車がやってきた。そして、その後に警察官がやってきた。良郎は腰に縄を巻いた消防団員によって救出されるとすぐに救急車で病院に運ばれた。彼はまだ息をしていたが全身血まれで手足の曲がり方もおかしかった。シャツの下から何かが飛び出し白目をむいていた。それはまちがいなく皮膚をやぶった骨だった。俺は思わず気を失いそうになったが、それはみんなも同じだった。おばさんはそれを見て泣き叫んでいた。
 警察官は俺達に事情を聞いた。俊介がほとんどを話し俺達がそれにうなずくといった感じだった。俺はくるくると回るパトカーのライトや大人達を見て自分達のウソがばれたような気がしていたが、向こうはそう思っていないようだった。単純に恐怖のあまりしゃちこばっていると思ったようだった。小学生が彼を井戸に叩き落とす計画を事前に立てていたなどとは夢にも思わなかったのだ。それどころかよく救急車を呼ぶことを思いついたと誉めたくらいだった。
 やがて警察から通報を受けた学校の教師がやってきて俺達はとりあえず頬を張られた。かけつけた鼻毛の出た教師は唇を震わせながら叫んだ。
「オマエ達は何をしでかしたんだ! 東小のメンモクを潰したんだぞ!」
その後は忙しかった。病院に行ったり、学校に行ったり、警察署に行ったり、俺達をひきとりに来た親に頬を張られたりと・・・・・

良郎は翌日の朝に死んだ。そのことは新聞に載ったしテレビのニュースでもわずかだが放送された。後でわかったことではその井戸の底はすり鉢のようになっていて、良郎は運悪く頭から水の干上がった部分に落ちてしまったということだった。全身を複雑骨折した良郎は二度と意識を取り戻さないままに死んだ。真実を何も語らないままに。
警察はその後で俺達がどんな子供達かを知ったがそれを事件として考えるようなことはしなかった。単純によくある事故の一つと片づけただけだった。先にも述べたように小学生が事前に人を井戸に突き落とす計画を立てていたなどとは考えなかったのだ。その後、俺達は何度か警察の取調べを受けたが打ち合わせ通り俊介が言ったことしか言わなかったし、どう答えていいかわからない部分は記憶にないといったが別に問題にもならなかった。小学生の証言など役に立たないと思ってのことか、事故として片づけたほうが楽だったのかは知るところではない。ひょっとしたら俊介の父親が弁護士だったというのも関係していたのかもしれないが今となっては知る由もない。
良郎の葬式はそれから二日後に行われたが俺達は誰もいかなかった。それは良郎の母親の意向によるものだった。俺達の親は良郎の母に謝りに行ったようだが謝罪を受け入れられることはなかった。同じ学年のヤツらは友達でもないのにかけつけて泣いたそうだがよくは知らない。良郎は学校中で恐れられていたが同時に嫌われものでもあった。涙を流したヤツらの何人が本当に良郎の死を悲しんでいたのかわからない。一番泣くべき関係にあった俺達ですら涙を流さなかったのだから。
むろん俺達は自分のしたことを後悔した。しかし、同時に良郎が死んでくれたことがうれしくもあった。俺達は良郎が死んだことよりも、良郎が意識を取り戻して真実を語ることの方が怖かった。真実が明るみに出てかぶるべき罪をかぶることの方が。
当然のことながら俺達は親から外出禁止とされた。俺達は夏休みの残りを家で過ごすこととなった。俺達はみなウソがばれる恐怖におびえ、血塗れの良郎の悪夢に震えた。眠れば必ず会いに来てくれる由朗の悪夢に。朝晩と廃屋の方を向いて許しを請うのが俺の日課になったがそれは何の意味もなかった。何をしても恐怖感と罪悪感を拭い去ることはできなかった。生前と同様に良郎が俺達を静かにしておいてくれることはなかった。

新学期が始まると俺達は周りの生徒から白い目で見られるようになった。そのため俺達は周りの生徒とのいざこざが耐えなくなり、鈴木孝明やその他のヤツ(主に良郎にいじめられていたヤツら)と揉める日が続いた。ほとんどを打ち負かしたのは言うまでもない。連中は良郎に比べたら本当にたいしたことがなかった。俺達は良郎の七光で生きているように思われがちだったが、実際にはそうではなかった。亮も憲一も俊介も俺もそこそこに強かった。ただ良郎には怖くて逆らえなかったというだけで。
そのいざこざは二ヶ月ほどして治まった。そしてそれが治まると俺達はごく自然に疎遠となっていった。その後も何度か俊介とは遊んだが、亮と憲一とは全く遊ばなくなった。十一月の肌寒い夜に一度だけ俊介の家に集まってあの事件のことは生涯誰にも話さないと誓いあっただけだった。なぜ遊ばなくなったのか理由はわからない。ひょっとしたら、みな心のどこかでこのメンバーではいないほうがいいとでも思っていたのかもしれない。このメンバーでいると災いを招くとでも。良郎の母は事故から間もなくしてどこかに引っ越していった。行方を知っているものはいなかったが、たまに良郎が行くと言っていた四国の実家に帰ったという説が有力だった。良郎がどこに埋葬されたのかは知る由もないし、亮の貸したゲーム機や俺の貸したマンガ本十五冊がどうなったのかもわからない。いずれにせよ彼女は誰にも何も言わずに消えた。良郎がいなくなったのをいいことに他の男と再婚したという話も聞いたがはっきりとはしない。
俺はその翌年の三月に父親の仕事の都合で遠くの町に引っ越した。俺の家は父親が地方記者だったせいで幼いころから転勤が多かった。町を去る前日にかつての仲間と会って住所を交換したが、手紙を書くことは一度もなかった。それは向こうも同じだった。俺がそうであったように向こうもこの事件に関する全てのことを忘れたかったのかもしれない。二年間を過ごした町だったが別に感慨はなかった。ただ遠くに行けることがうれしかった。一からやりなおせることが。
それ以降の生活はごくごくまともだった。普通に学校に行って宿題をしてと、みんながしていたことをした。人の家に花火を投げ込んだりもしなかったし、二度と集団に属することもしなかった。残りの小学校生活もさることながら、中、高、大とほとんどを一人で過ごし友達と呼べるやつをほとんど作らなかった。それは就職して結婚した今でも続いている。子供ながらに集団に属することの醜さを知ったのだろう。群れることほど恐ろしいことはないと。それゆえに俺は特に誰とも話さないですむような仕事についている。ただボタン押すだけのような仕事に。ごくたまに酒に誘われたりもするが俺がそれを受けることはない。この事件の真相を唯一知っている妻はそれを喜んでいる。
年月が事件を風化させるように人の記憶も風化させる。しかし俺はあの後も良郎の夢を見続けている。そしてまだ時おり血塗れの良郎に井戸に引き込まれる夢で夜中に飛び起きる。罪悪感はあの頃に比べれば薄れたが夢だけはそうはいかない。あの日、見た血塗れの良郎の姿は今でもはっきりと脳裏に焼きついている。それは夏の暑い日などには特に鮮明に思い出すことができる。あの時かすかにかいだ血の匂いとともに・・・・
もうすぐ三十二回目の夏が来る。今、俺は団地の中の公園のベンチに座って五歳になる娘を抱いている。そして遊び疲れて気持ちよさそうに眠るこの子がこの小さな手を罪で汚すことなく成長することを祈っている。俺と同じ過ちを犯さないことを。ムシの一匹も殺せない優しい妻に似た女性に成長することを。
でも、そうなるかはわからない。前にも言ったように良郎は執念深くやられたことは必ずやり返す。この間、この子は岐阜県の山奥にある妻の実家に行った際、庭にある古井戸を見て不思議なことを言った。
「ねぇ、お父さん。良郎君が絶対に許さないって言ってるよ」
(了)