小説「コンビニ」

 その頃あたしは二十五歳で町外れの部屋で友達と一緒に暮らしていた。その頃のあたしは売れないガレージバンドでベースを弾いていて、活動費と部屋代を稼ぐために、町中のかばん屋と近所のコンビニでアルバイトをしていた。
 かばん屋での仕事はほぼ毎日で、たいていは開店から閉店までだったが、コンビニでの仕事は週に二日程度で、その勤務時間は夜の七時から深夜零時までだった。どちらの仕事もそれほど時給がいいというわけではなかったが、工場やら倉庫やらで働くよりはマシだったし、気がねなく好きな時に休みがとれるという点ではなかなかよかった。
 十二月半ばの水曜の夜、あたしはバイト先のコンビニでボンヤリとレジの上のクリスマスツリーを見つめていた。その店は住宅地の外れの畑や田んぼの多い地域にポツンとあったので、夕方以降はたいてい暇だったが、その夜は午後から降り始めた大雪 ― 十五センチほどだったが、あたしの暮らす地域でそれだけの量の雪が降るのは珍しかった ― のせいで輪をかけて暇だった。時刻は午後九時を少し回ったくらいだったが、客足はもう一時間近く絶えていた。
 その夜のあたしは帰って寝ることばかりを考えていた。普段、暇な時は歌詞を書いたり、なにかしらすることを探してそれをするのだが、その夜は前日のショウで疲れていたせいで、自ら進んで何かをするような気にはなれなかった。退屈な有線が流れる店内にいるのはあたしだけ ― その辺りはこれといって何かが起きるような地域ではなかったのでよく一人で店番をすることがあった ― だったので、あたしの怠惰をとがめるものはいなかったが、同時に話し相手もいなかった。
 客が来ないままダラダラと時間が過ぎていった。ボーっとしているのにも飽きてレジの横のパソコンが置かれた小部屋で、ギターの朋子と携帯メールのやりとりをしていると、自動ドアの開く音が聞こえた。あたしは手にしていた携帯電話をジーンズの後ろポケットにしまうと、ようやく後三十分で交代の時間だなと思いながらレジに向かった。
 レジに出たあたしは「いらっしゃいませ」と言いかけたが、口をつぐんだ。あたしは自分が見ているものが信じられずに、その場に立ちつくした。その客は黒いジャンパーに色のはげたジーンズをはいた小柄な男だったが、口元をマスクで覆い、夜なのにサングラスをしていて、黒い野球帽で頭を隠していた。男がここに来た目的が髭剃りや手ぬぐいを買うためでないことは一目瞭然だったが、この店でそんなことが起こるとは思えなかった。
 男はあたしに目をとめるとレジの前にやってきた。そしてジャンパーの内側から使い古された感じの万能包丁を取り出すとレジ越しにそれをあたしに向けた。男はサングラス越しにあたしを見つめると震える声で言った。
「金を出せ・・・・」
 店内の時間が一瞬止まったように感じられた。あたしは恐怖よりも、そうであってほしくないことが現実になった時にありがちな、気だるい嫌気のようなものを強く感じながら、黙って男を見つめていた。パチンコでは負けてばかりなのに! 時給はたったの七五〇円で交通日も出ないのに! おまけにバンドは予想していたものの十分の一も売れてないというのに! という言葉が、くそったれ! という思いとともにふつふつと脳裏に浮かんだ。男に対してよりもろくなことの起きない自分の運命に対して腹が立った。 
 あたしがそんなことを思っていると男がアゴでレジを指した。あたしは立ち尽くしたままの状態でその様子を見つめながら、肌の感じや髪の感じからすると五十代半ばから六十代の前半くらいだろうか? とふと考えた。むろん少しはドキドキしていたが恐怖と呼ぶほどのものは感じなかった。男は身長一七〇センチのあたしより一五センチは背が低く、おまけにひどく痩せていたので、危険な感じはあまりしなかった。小学校一年の夏から中学二年の終わりまでずっとやっていた合気道の経験と、二十をゆうに超える実戦での経験とがあたしに余計にそう思わせた。
「おい、ねーちゃん!」男は一向に動こうとしないあたしに業を煮やしたのか、さっきよりも荒々しい口調で言った。
「聞こえてんのか!」
「聞こえてるよ」
 あたしは冷静に返した。あたしは包丁を握る男の手が高射砲の洗礼を間近であびる一式陸攻の機体よりも激しく揺れているのを見つめながら、まるであたしが男を威嚇していて、男が身を守るために包丁を構えていようだなと思った。男は必死にあたしを威圧しようとしていたが、その気の弱さと人のよさそうな感じは隠せていなかった。口調こそ荒かったが、男の態度にはどこか遠慮がちなところがあった。
「だったら、バカみたいに突っ立てねえで、早く開けろ!」
「帰ったほうがいいよ」あたしはバカみたいに突っ立ったままで言った。「開けてもお金なんかないから」
「何?」
「今日は雪のせいで客がほとんど来てないし、レジももう閉めちゃったから、あっても子供のお小遣い程度の額だよ」
 男はサングラス越しにじっとあたしを見つめた。あたしの正直な対応に狼狽したようだった。まさかこんな反応を示されるとは思いもしなかったのだろう。あたしがそんなことを言ったのは、警察の事情聴取を受けるのが面倒くさかったのと、目の前の男に対して憎しみや怒りを感じなかったからだった。
「それをしまって出て行きなよ」あたしは言った。「今出ていくなら警察に通報しないから」
「うるさい! いいから開けろ!」
「開けても何もないよ」
「ケガをしたくなかったら言う通りにしろ!」
 男はそう叫ぶと、いつのまにかヘソのあたりまで下がってしまった包丁を構えなおした。あたしは男を見つめながら、いじめられっ子が無理をして汚い言葉を使っている様子とハムスターが必死にライオンを威嚇している様子を連想した。光の加減で一瞬サングラスの下の目が見えたが、その目は恐怖で潤んでいた。あたしはその様子に哀れみを覚えた。
「くそっ! おまえは俺が何もしないと思ってるんだろ! 何もできないと思ってナメてんだろ!」男が叫んだ。「だとしたら大きなまちがいだぞ! 俺は今までに三人やってんだぞ! 言うとおりにしろ!」
 あたしは相変わらず黙って男を見つめていた。実際のところはそう思っていたが ― 正確に言えば何もできないと思っていたのだが ― 口には出さなかった。男は依然として包丁を構えていたがその手の揺れはさっきより激しくなっていた。あたしが冷静に見つめれば見つめるだけ、その揺れは激しくなるようだった。
「もう一度だけ言うぞ!」男が言った。「金を出せ!」
「出ていきなよ。今ならまだ間に合うから」
「いいから出せ!」
「あたしの気が変わらないうちにそうしなよ」
「いいから早く開けろ!」
「こんなはした金のために人生を棒にふることはないでしょ」
「うるさい!」
「逃げるなら今だよ。客が来たら・・・・」
「お願いだから出してくれ! 頼むから!」

 男の金切り声が店内に響いた。あたしはレジの上のクリスマスツリーに視線を落とすと、どうしたものかな・・・・と考え始めた。男があたしをさえぎって叫んだ「お願いだから」という強盗らしからぬ言葉があたしにいっそうの哀れみを覚えさせていた。その言葉は追い詰められた男の苦悩と境遇を的確に言い表しているように思えたし、生きたまま身を焼かれる人間が上げる悲鳴のような響きを帯びているように思えた。
 あたしは今にも失禁しそうな様子で包丁を握る男に視線を戻した。男が好んでこんなことをしているようには到底思えなかったし、こういうことをする人間とも思えなかった。くだらない仕事よろしく、生き延びるためにしかたなくしているように思えてならなかった。「お願いだから」という言葉が耳の中で銃声のようにこだましていた。
 しばらくして男が再び口を開きかけた。あたしは反射的にそれを手で制すと一瞬考えてから、はいていたジーンズの後ろポケットに手を伸ばして、もう何年も使っているクリームソーダのお財布を取り出した。そしてその中から昨日のショウの売り上げと生活費の計四万円をつかみ出すと男にそれを見せた。
「それを下ろして」あたしは言った。「お金が欲しいならそれを下ろして」
 男は驚いた様子であたしを見つめたが、状況を察したのかすぐに包丁を下ろした。あたしは歩いていくと手にしていたお金をレジの上に置いた。四万円のうちの二万七千円は他のメンバーと分けるべきものだったが気にはしなかった。
 レジの中の金を渡さなかったのは、もしそうしたら警察沙汰になるからで店のためではなかった。この店が燃えようが、三十キロ爆弾を落とされて灰燼に帰そうがそんなことはどうでもいいことだった。しかし、あたしはこの男を犯罪者にはしたくはなかった。あたしは哀れみと同時に同朋意識のようなものを男に対して感じていた。
「何か食べることに使って」あたしは言った。「おなかがふくれればきっと考えも変わるから」
 男は一瞬サングラス越しにあたしを見つめた。そして、それをつかむと出口に向かってものすごい速度で走り始めた。雪に濡れた安物の靴の底が床を噛むヒステリックな音が荒々しく店内に響いた。
 自動ドアがのろのろと面倒くさそうに開いた。店を飛び出た男は一瞬歩を緩めてウィンドウ越しにあたしを見やると右手のほうへと走り去って行った。まもなくして店の裏手から原付バイクのけたたましいエンジン音が聞こえた。まるで何かが爆発したような音だった。
 あたしはボーっとしながらエンジン音が住宅地の方へ遠ざかっていくのを聞いていた。レジの隅の置き時計に目をやるとほんの数分しか経っていなかったが、ずいぶんと長いことあの男と一緒にいたような気がしてならなかった。自分が部屋のそばの通い慣れたコンビニにいることが信じがたく、まるでどこか異国の地にでもいたような気がした。アフガニスタンかサンパウロの辺りに。
 しばらくして自分がお財布を手にしていることと、店内に最近巷ではやっている変なヒップホップグループの曲が流れていることに気づいた。あたしはお財布を後ろのポケットにもどそうとして、今度は、手が震えていることと、自分がひどく疲れていることに気づいた。これといって何かをしたわけでもないのに、一五〇〇メートルを全力疾走した後よりもはるかにひどい疲労感が体のあちこちにあり、粘り気をおびた油っぽい汗が脇の下と頭皮を冷たく濡らしていた。体の底にあった恐怖と疲労が一気に噴出してきたかのようだった。
 あたしは「もし男が包丁をあたしの胸につきたてていたら今頃自分はどうなっていただろう? 」と考え、今さらながら、ゾッとした。何度か深呼吸をすると手の震えは少しマシになったが完全には消えなかった。頭の中に血で真っ赤に染まった床の光景と、肺に穴があくと、どれくらい苦しいのだろうという疑問が浮んだ。ツアー先の神戸で知り合った肺に穴が開くという病気をわずらったことのあるホームレスの男のことが思い出された。
 そんなことをとめどなく考えていると店長の車が駐車場に入ってくるのが目に入った。あたしはまだ少し震えている手を隠すために手を後ろに組んだ。店長はあたしの父と同じくらいの年回りで ― あたしの父はこの頃、五十代の半ばだった ―、どことなく恵比寿様を思わせる顔つきと体格をしていたので、あたしや他のバイトから、えーちゃんと呼ばれていたが、実際のところは守銭奴のゲス野郎だった。恵比寿様のえの字もないクソ野郎で昔、店にいた中国人留学生のバイト代をちょろまかしていた。
  店長が店に入ってきた。あたしが頭を下げると店長は虫けらを見るかのような目であたしを見やった。店長には自分より立場の弱い人間をそういう目で見るクセがあった。
「変わったことはなかったか?」
「いいえ」
「売り上げは?」
「かんばしくありません」
「床をモップで拭け。それが終わったらあがれ。こんな日に残業代なんて払いたくないからな」
「はい」
「おい、雪村、おまえ、どうかしたのか?」
「別にどうもしてませんよ」
「具合が悪そうだぞ」
「多分、寒さと、コーヒーの飲みすぎだと思います」
「こんなにエアコンが効いてるのに寒いなんてどっか悪いんじゃないのか?」
「たぶん頭です」
「ははは・・・・」店長はいかにも作りものといった感じの笑い声を上げた。「コーヒーは控えたほうがいい。胃が荒れるぞ」
「気をつけます」
「それとエコーなんてけちくさいタバコもやめろ。あれは少なくとも女の吸うタバコじゃない。うちの店であれを買うのはおまえと他に数名だ。そもそも女がタバコを吸うな。俺はタバコを吸う女が嫌いだ」
「エコーも慣れるといいものですよ」
「ふん。女は女らしくあるべきだ。最近の女はどれもダメだ」
「何かあったんですか?」
「香村がやめやがった」
「じゃあ今夜は店長一人ですね」
「あの能無しのくそったれが」
 あたしは奥に行ってモップを持ってくると手が震えるのを押さえながら床を拭き始めた。あたしは男が残していった足跡を拭きながらひどく寒々しい気持ちであれこれ男のことを考えた。何か温かい物を食べただろうか? 家に温かい布団はあるのだろうか? どこかに家族はいないのだろうか? と。
 しばらくして顔をあげたあたしは、窓の外の寒そうな様子を見つめながら、みながしあわせであればいいのに・・・・と、いつになく思った。それが不可能だということは百も承知だったが、そう思わずにはいられなかった。

 それから一年ほどが過ぎた。十二月初旬の金曜日の夜、あたしは、傘をさしながら雪の中をバイト先のコンビニへと歩いていた。あたしは相変わらずかばん屋とコンビニで働いていた。
 午後の遅い時間から舞い始めた雪が辺りをうっすらと覆っていた。あたしは切りつけるような寒さを全身に感じながら目と鼻の先に迫ったツアーのことをあれこれ考えていた。あたしとメンバーは翌週の火曜日から最後のツアーに出ることになっていた。
 バンドの解散が決まったのは三ヶ月ほど前だった。理由は結成以来のメンバーであるドラムの由美子が家庭の事情で地元の福岡に帰らざるをえなくなったからだった。あたしはギターの朋子とドラムの由美子以外のメンバーと今のバンドをやる気はなかったし、それは朋子も一緒だったので解散することにしたのだった。もし、他のメンバーと一緒にやることでさらにバンドがよくなるとしても、それがバンドマンとしてあるまじき行為であるにしてもあたしは嫌だった。そう割り切るにはあまりに苦楽を共にし過ぎていた。
 解散に対する悲しさは今のところなかった。解散が決まってからもあたしたちは同じくらいのペースで次から次へとショウをしていたので感傷的な気持ちにひたる余裕はなかった。いかに最後を飾るかの方が大切だったし、初めていくオーストラリアでのショウに対する興奮の方が勝っていた。ツアーは東京、名古屋、大阪、京都、神戸、金沢、岐阜、富山とオーストラリアのメルボルンを回るというもので、あたしたちの最終公演は十二月三十一日の大晦日にメルボルンのパウンターズクラブという店で行われることになっていた。
 メルボルンでのショウが実現したのは大学時代に仲のよかったオーストラリア人のパンクスの女の子が誘ってくれたからだった。その子は帰国後バンドを組んでいて、あたしがメールで解散する旨と、最後にオーストラリアでショウをしたかったという旨を伝えると、だったらおいでよと言ってショウをブッキングしてくれたのだった。むろん自費での渡豪だがオーストラリアでショウをするのはあたしたちの長年の夢だったので気にはしなかった。クリスマスシーズンとあって少々航空運賃は高かったが。
 店に入るとレジに大学生のアルバイトの男の子がいるのが目に入った。客は誰もおらずいつものように退屈な有線が流れていた。あたしは紋切り型の挨拶をすると店の奥に行って制服に着替え始めた。
 着替えを終えて店に出た。あたしがレジに入るとその子が言った。
「雪村さん?」
「何?」
「あの、これ」
 男の子はレジの奥の小部屋に行くと薄茶色の給料袋のような形をした封筒を持ってきてあたしに手渡した。その封筒には『雪村さんへ』と黒いボールペンで書かれていた。豆粒のような小さな字だった。
「誰から?」
「さあ。佐野さんから渡してくれって言われたんで僕も詳しくは知らないんですよ」
「ふーん」
 ひょっとして、ラブレター? とあたしは思った。あたしは平静を装っていたが、今までの人生でそういうものをもらったことがなかったので ― 正確に言えば高校の頃に一度あったのだが、それをくれたのは肉の塊のような醜い女の子だった ― 少々ドキドキしていた。なぜあたしの名前を知っているのだろうという疑問が生まれたがそれはすぐに、胸元についている『あなたの笑顔のために』というたわけた綺麗事の書かれた名札のせいだという結論に達した。
「ねえ、雪村さん」
「何?」
「ここだけの話ですけど、佐野さんのことをどう思います?」
「どうって?」
「あの人のこと好きですか?」
「好きだよ」
 その男の子は長身の痩せ型で整った目鼻立ちをしていたが、自分のミスを人のせいにするヤツによくある卑怯そうな目をしていた。あたしは佐野という四十がらみのおばさんが嫌いだったが、男の子の口調にさぐりを入れているような節が感じられたので、あえてそのことは言わなかった。
「むかつきませんか?」
「いや」
「この間、理不尽なことで怒られてたのに? モップの置き方が悪いって」
「あれは、あたしに非があるから」
「丹羽さんはむかつくって言ってましたよ」
「ふーん、でもあたしはちがうから」
 会話はそれで終わった。男の子は少々がっかりした感じで「お疲れ様でした」と言うと、タイムカードを切るためにバックヤードに行った。あたしはその男の子の背中を見つめながら「アホンダラ」と心の中でつぶやいた。
 男の子が店を出るのを待って封をやぶった。中から二つに折りたたまれた紙片を取り出したあたしは、何だこれは? と思った。それは新聞に入っているスーパーの折込み広告で便箋などではなかった。アメリカ産の牛肉と洗剤がお買い得のようだったが、期日は過ぎていた。
 あたしは少々がっかりしながらそれを開いた。それが何かはわからなかったが、少なくともラブレターではなさそうだった。この間、店の前で注意したうるさいバイクに乗ったたわけ坊主どもが脅迫状でも送ってきたのかなと一瞬、思った。
 ありがとうな。ねーちゃん。
 ねーちゃんのおかげで俺は助かったよ。俺はあの後、あの金でたらふく飯を食って、中古のスーツを買って面接に行ったんだ。それで、まあ、くだらない仕事だけど、とにかく仕事にありついたんだ。あんたは俺の命の恩人だよ。やさしくしてくれて本当にありがとうな。これはあの夜借
りた金だ。この恩は一生忘れないよ。あんたはいい女だ。
 広告の裏には小さな汚い字でこう書かれていた。封筒の中をさぐると一万円札が六枚出てきた。あの夜のことを思い出したあたしは思わず両目を見開くと、「あの時のおっさんからか!」と心の中で叫んだ。あの夜のことがトチ狂ったメリーゴーランドのようにグルグルと頭の中を回った。溶けてバターになりかねないほどの凄まじい勢いで。
 狐につままれたような気持ちで手紙を見つめているうちに笑いがこみ上げてきた。なんだかはめられたような気がして楽しかった。あたしは思わず微笑むと、あの夜の男についてあれこれ考え始めた。あの後どんな仕事についたのだろうか? 今頃何をしてるのだろうか? あの夜あたしが渡したお金は四万円だったから、残りの二万円は利子だろうか? と。ツアーでお金がいる時期だったので、そのお金はうれしかったが、それ以上にあの男がしあわせにやっていることと、こうして手紙を書いてきてくれたことがうれしかった。あたしは思わず「ざまあみろ」とつぶやいたが、それが何に対してなのかは自分でもよくわからなかった。
 それから間もなくして客が入ってきた。あたしはこぼれる笑みをかみ殺しながら店員としての決まり文句を言うと、手紙をジーンズの後ろポケットに入れてレジの前に立った。あたしは窓の外に視線を流すとあの夜と同じことを祈った。みながしあわせでありますように、と。
        (完)