小説「二月九日」

 窓の外では雪が舞っていた。
 防虫剤臭い喪服を着込んだ俺は電車の座席に腰をかけて、昨夜からの雪に覆われた町並みが通り過ぎていくのを見つめていた。平日のためか車内はガラガラで眠くなるような静けさが漂っていた。
 俺が向っていたのは家だった。その日は町外れの寺で十年前に住んでいた家賃二万円のボロアパートの住人の葬式があった。そいつは大竹信二といって三八歳の俺より八歳年上でプロの作家を目指していた。情熱的な一重の目が印象的なやせた男で、「賞をとったら」と言うのが口癖だった。
 小説の腕とそれにかける情熱は相当なものだったが、結局は認められなかった。彼はやせ細った体で財という財を持たずに日雇い労働者として死んだ。財産と呼べるものは使い古されたパソコンと野暮ったい眼鏡と膨大な量の原稿だけだった。書く時間をけずりたくなかった彼は必要最低限しか働かず、近所の八百屋でもらうクズ野菜と肉のきれっぱしでなんとか食いつないでいた。
 俺は悪意があるかのように窓に吹き付ける雪を見ながら最後に焼鳥屋で大竹に会った時のことを思った。あの時あいつは数ヶ月ぶりに口にするビールに酔いながら笑顔でこう言った。
「僕はきっと一人ぼっちで死ぬよ。で、何日か経ってから大家さんが発見してくれると思う」
 奇しくもそれはその通りとなった。大竹は心不全で死んだ後数日ほどして大家に発見された。俺にそれを知らせたのも大家だった。
 式は十一時からだった。そこには大竹の身内以外にその当時、同じアパートに住んでいた何人かの住人が来ていた。そいつらはそれぞれ夢を持っていたが、全員それを諦めて今はまっとうな人間になっていた。写真家志願の殿村という女は、結婚して主婦になっていたし、役者志願だった北村は警備員として忙しく普通に暮らしていた。北村が「今の僕は北村誠一(役者を目指していた頃のヤツの芸名)の燃えカスさ」と言っていたがまさにそうだった。何年ぶりかで会ったみんなにその頃の輝きはなかった。
 むろん俺も例外ではなかった。俺はその頃アマチュアで多少名の知られたロックンロールバンドでベースとボーカルを担当していたが、解散を機にアパートを出て今勤めている自動車部品工場に就職していた。自費で二枚のアルバムを出し一部で高い評価を受けたが今の俺にその頃の輝きはなかった。今ではそのバンド名と一緒にすっかり色あせてしまっていた。
 窓の外を見つめているうちに眠気が襲ってきた。このところ残業や休日出勤が続いていた。ほこりくさい暖房の暖かさと規則的な揺れが眠気に拍車をかけていた。俺はうとうとしながら明日のことと、十年前のことを交互に思った。大竹が書き上げたばかりの原稿の束を持って部屋に来た時のことがまぶたの裏に浮かんだ。
「毛利君! 悪いんだけどこれを読んでくれないかな? 今度、応募するんだ」
「またですか?」
「頼むよ。感想を聞きたいんだ」
「何ページですか?」
「今回は八百ページ」
「この間も応募してませんでしたか?」
「また別のなんだ」
「あれから一月と経ってませんよ」
「同時に書いてたんだよ。今回のは自信作なんだ」
「また高橋的なものですか?」
「もちろん」
「もっと一般受けするものを書いたほうがいいんじゃないんですか? 二十歳の女がクソジジィのイチモツをしゃぶるようなものとか」
「そうだね。でも、僕はこれでいくんだ。それより早く読んでよ」
「いいですよ。大竹さんの書くものは好きだから」
「じゃあ、僕は読み終わるまで毛利君のベースでも弾いてるよ。弾けないけど」
 悲しいわけでもないのに憂鬱だった。正直なところ大竹の死は大昔の戦争で命を落とした兵士のそれのようにぼんやりとしたものだった。悲しむには疎遠になりすぎていたし、三七になった俺にとって死はすでに当たり前のものとなっていた。でも、この日はあることが胸にひっかかっていた。それは両親や会社の同僚が死んだ時に感じるようなものではなく、自らの意思で自らの人生を生きた大竹に対する敗北感と、夢を諦めてしまった自分に対する悔恨だった。
 俺は先ほど見た口をぽかんと開けた大竹の死に顔を思い出した。そして、もし自分があの後、バンドを続けていたらどうだっただろうと考えた。それは時おり思っていたことだがこの日はいつもよりも強かった。やめてしまったことに対する後悔の念が胸の中でざわめいていた。
 バンドの解散は俺以外のメンバーが年齢的なことを理由に全員脱退したからで、音楽に対する欲求がなくなったからではなかった。事実、俺は新しくメンバーを探して続けようと何人かの知人に話を通していた。作詞作曲はすべてリーダーの俺が手がけていたので既存の曲は全て使うことができた。このメンバーじゃなければいけないとは考えていなかった。しかし親や周りの人間の言うとおり年齢的なことを考えると断念せざるをえなかった。その時俺はすでに二八でちゃんとした仕事につける最後の機会を迎えていた。すでに世間一般で言われるいい職種につけないことはわかっていたが、生涯を日雇いや、雑踏警備員で終えるのは怖かった。世の中は学校に行って、家畜同然に働いて死ぬ以外の道を歩もうとした人間を異端者と見なし蔑むようにできている。
 結局、大竹のように人生を投げ出すことができなかった俺は安易な道に走った。結果的に家庭と安定した収入 ― 平均をやや下回るが ― を手に入れたが、それはたいしたものではなかった。仕事と家庭の往復は退屈以外の何者でもなかった。全身がゆっくりと壊死していくような、自分がどんどん消えていくような感じだった。自分が目標としていた場所からどんどん遠ざかっていくような。
 いずれにしても今の俺は自分がしてしまったことに対する義務で生きているにすぎなかった。心がときめくようなことはまるでなかったし、気になることも今ではさほどなかった。娘はかわいく妻がいるのはありがたいがやはり何かが足りなかった。それはちょうど匂いのない花のようだった。
 趣味でまたバンドでもやろうかと考えたが、一度本気でやってしまっているだけにそれは無理だった。コーヒーを飲みながらドーナツを食べるような気持ちで音楽に接するなどとんでもないことだったし、そもそも一緒にやれるようなやつはいなかった。少し楽器をかじった程度の俺と同じ年回りの人間と昔はやったクソアイドルの曲をコピーするなどまっぴらだったし、今時の生ぬるいガキどもと一緒にやることもできなかった。連中のがんばるというのは、無理しない程度にがんばるということで、俺から見ればなめているとしか言いようがなかった。好きなことにすら全く本気になれず、やる前からどこかで諦めていた。まあいいんじゃない、それでいいんじゃない、こんなもんでしょ、などと。
 あれこれ考えているうち気分が滅入ってきた。いつしか気分は陰鬱から憂鬱へと変わっていた。俺はまぶたを閉じると心地よい電車の揺れに身を任せながら、娘と妻のことを思い、何もないことこそがしあわせなのだと自分に言い聞かせた。頭の隅にこびりついた「今の僕は燃えカスさ」という北村の言葉を打ち消すために、今日の延長でしかない明日を朗らかに生きるために。俺は安易な道を進んだからこそ出会えた娘の夢子を思い、事実今の生活だって悪くないだろと心の中でつぶやいた。これが失敗に失敗を重ねて転落していくだけの勇気も根性も持ち合わせなかったおまえの選んだ道だろうと。人は何かを犠牲にして生きていかなければいけないのだと。
 うとうとしているうちに駅に着いた。電車を降りた俺は改札を出て黒いこうもり傘をさすと妻子の待つアパートへと歩いて行った。雪は相変わらず降り続いていて、空気は切りつけるように冷たかった。ある意味では絶好の葬式日和だった。
 十五センチほどの雪に覆われた通りを歩いていると、よく家族で行く喫茶店が目に入った。俺は新聞を読んで行こうとその店に立ち寄ることにした。ひどい寒さだったので少し体を温めていきたかった。腹も少し空いていたし喉も渇いていた。
 ドアを開けると温かい空気とこうばしいコーヒーの香りが押寄せてきた。俺はカウンターの中にいるマスターに軽く会釈をすると、いつものように入り口脇の大きな棚から新聞をとって窓際の席に座った。いくつかのテーブルの上にカップや皿がのっていたが他に客はいなかった。 
 隣のテーブルを片付けていた馴染みのアルバイトの女の子にコーヒーとパイを注文するとタバコに火をつけて窓の外を見やった。通りの向こうでは七歳から九歳くらいの子供たち数名が雪だるまを作っていた。俺は反射的に明日の出勤のことを考えた。
 しばらくしてバイトの女の子が水とおしぼりを持ってきた。そこは小さいが落ち着いた店だった。住宅地の中にあるにしては隠れた名店といってもよく、軽い食事などもできた。しゃれた老夫婦が経営していて、妻は休みの日にここで朝昼兼用の食事をとるのが好きだった。
「お葬式の帰りですか?」バイトの女の子が言った。彼女は白いブラウスに黒いズボンをはいて、腰の辺りに黒いエプロンをしていた。それがこの店の制服だった。
「ああ」俺は答えた。「よくわかるね」
 彼女は笑った。「たいした洞察力でしょ。しかし、毛利さんのスーツ姿は初めて見ました」
「普段は私服か作業着かのどちらかだからね」
「かっこいいですよ」
「こういう時に言われてもな」
「こういう時じゃないと毛利さんはスーツを着ないでしょ」
 彼女は髪を金色に染めて耳にいくつもピアスをしていた。年はまだ二十代前半で、今時のパンクバンドでベースを弾いていた。高校を辞めてからずっとここで働いているので、仕事は慣れたものだった。ごくありふれた女性である妻は歯に衣着せぬ感じで話すこの子のことを好きでなかったが、俺は好きだった。美人やきれいといった顔立ちではなかったがその目には生気があり、それが彼女をステキに見せていた。彼女とは時おり話す仲だった。
 白いシャツに黒い蝶ネクタイをしたマスターは時間を気にしながらカウンターの中でゴソゴソとしていた。店自体は暇そうだったが何かとやることがあるようだった。カウンターの隅にかけられた年代物の柱時計に目をやると四時に近かった。
「琴美ちゃん」少ししてマスターが言った。「ちょっと出てくるから頼むね」
「ああ、はい」
「オーブンにパイが入ってるから気をつけてね」
「焼きあがってから行けばいいのに」
「物事にはタイミングってものがあるんだよ。一時間くらいで戻るから。ああ、後、あの辺のこともよろしくね。だいたい終わってるけどまだ明日の準備が少し残ってるから」
「はーい」
 マスターは上着を羽織ると外に出て行った。それと入れ替わりに彼女はカウンターの中に入って行った。俺は窓越しに雪の中を歩いていくマスターの背中を見ながらまたパチンコ屋に行くのかなと思った。彼はパチンコや競馬が大好きだった。
「もう少し待っててくださいね」カウンターの中で女の子が言った。「あとちょっとで焼けますから」
「いいよ。急がないから」
「マスターはまたパチンコに行ったんですよ」
「だと思ったよ」
「勝てると思いますか?」
「ムリだろうな」
「私もそう思います。正直勝ったって話はほとんど聞いたことがないんです。トントンって言ってるけど多分負けてますよ」
「でも、今日くらいは勝つかもね」
「何でですか?」
「この地方にしては珍しい大雪だから」
「ありえますね」
「ところで奥さんは?」
「お休みですよ。水曜日はだいたいお休みなんです。三人で回してるから一人かけるとけっこう大変なんですよね。特にランチタイムは」
「琴美ちゃんはいつ休んでるの?」
「私は毎日ここにいますよ。県外でライブがある日以外はね。県内のライブは午前中働いてそれから出かけるんです」
「働きものだな」
「フリーターは割りの悪い自営業みたいなものですからね」彼女はそう言って笑うと仕事を始めた。「国が最低賃金を千五百円にしてくれたらもう少し楽になるのに」
 俺は少しの間、彼女の仕事ぶりを眺めると再び窓の外に視線を流して子供たちが雪だるまを作る様子を見つめた。テーブルの上には持ってきた新聞が置かれていたが読む気は失せていた。読んだところで意味がないように思えた。
 子供たちは元気だった。寒さをものともせずにキャッキャと騒いでいた。進行状況は七割といったところで、リーダーは赤いニット帽をかぶった肥満児のようだった。
 見つめているうちに殿村が実家に戻る前日の夜に、アパートの住人の何人かで雪だるまを作ったことを思い出した。そういえばあの日も今日のような大雪だったなと俺は思った。近所の小汚い酒場で行ったお別れ会の帰りのことで、言い出したのは佐伯という年上のゴロツキだった。
 俺はさっき会った殿村のことを思った。そして時間は残酷だなと改めて思った。三八歳になった彼女にあの頃のうつくしさはなかった。ごくありふれた母親の顔になっていて目尻や口元には生活によるシワが浮き出ていた。それを言えば俺もそうなのだが。
 彼女は八年近くカメラ屋でバイトをしながらプロのカメラマンを目指すという生活を続けたが、青森で旅館を経営していた父が倒れたのを機に実家に戻った。みんなにひと段落ついたら必ず戻ってくると言ったが結局戻ってくることはなかった。彼女が去った翌年に北村が去り、さらにその翌年に俺が去った。最後まで勇猛果敢にあのアパートに住み続けたのは大竹だけだった。住み続けられたのは。
「どうかしたんですか?」
 振り向くと横に彼女がいた。彼女は俺と目が合うと無言で灰皿を指した。タバコはいつしか燃え尽きて灰だけになっていた。目の前にはいつの間にかコーヒーとパイが置かれ、湯気を立てていた。
「当然のことかもしれないけど」彼女は言った。「顔が暗いですよ」
俺はフィルターをつまみあげると灰皿に押し付けた。「そうかい?」
「疲れてるからってわけはないみたいですね」
「疲れてもいるけどね。ここのところ残業と早出が多かったから。それに休日出勤も。零細企業には就職しないほうがいいよ。労働基準法なんてあったもんじゃないから」
「でもボーナスはあるんでしょ?」
「少しはね」
「よかったら話を聞いてあげますよ」
「別にいいよ」
「想像はつきますけどね」彼女は言った。「亡くなった人は女の人でしょ?」
「いや」
「学生時代の友達でしょ?」
「昔、住んでたアパートの住人だよ」
「昔の恋人じゃないんですか?」
「残念ながらちがうな」
 彼女は数秒ほど俺を見つめた。そして真剣な顔で言った。「一つわかったことがあります」
「何?」
「私は探偵に向いていない」
「それを言ったらアーソーは首相に向いてないよ」
「なら私はウェイトレスに向いてない」
「じゃあ俺は工員に向いてない」
 彼女はおもしろいヤツだというような表情で俺を見つめた。俺は心の中でさらにこうつけくわえた。それに父親にも、普通の暮らしにもな、と。
「その人とはそんなに親しかったんですか?」
「バンドをやってた時にはよく飲んだよ」俺は言った。「そいつは俺より八歳年上で隣の部屋に住んでた」
「部屋が隣で仲良くなるってすごいですね」
「玄関とトイレと流しが共同だったから、自然とそうなるんだ。嫌でも顔を合わせるから」
「まだ、地球上にそんなところがあるんですか?」
「探せばあるよ。ダンボールハウスに毛が生えた程度の代物だけどね。部屋は六畳で家賃は二万円、共同トイレは和式で廊下にはいつも下水のきつい匂い。おまけにトイレがしょっちゅう詰まるんだ」
「何かとんでもない人ばかりがいそうですね」
「悪く言えばね。でも、よく言えばユニークなヤツが多かった。作家志願、役者志願、カメラマン志願。それに琴美ちゃんの言うようなゴロツキも何人かいた。死んだ大竹は作家を目指してたんだ」
「すごいところですね。あの有名なマンガ家達が無名時代に住んでたっていうアパートみたい。そこはそういうことをしてないと入れないっていう規則でもあったんですか?」
「金がないから自然と集まっちまったんだ。蛾が明かりに群がるみたいに」
「楽しそうですね」
「そうだな」俺はうなずいた。「週に一度はパーティーがあった。飲み屋に行く金なんてなかったから、みんなで安酒と食べ物を持ち寄って飲むんだ。冬はコタツのあるヤツの部屋に集まって、夏はクーラーのあるヤツの部屋に集まってって。話す内容はいつも同じだったけど楽しかったな」
「それは悪魔でさえ恐れをなすような猥談ですか」
「それもあったな。でも大抵は夢の話しだよ。俺が死んだら文学が死ぬとか、俺が死んだら芝居が死ぬとか。クランプスの次にかっこいいのは俺のバンドだとか」
「ゴキブリがいそうですね」
「たくさんいたよ」
「毛利さんの部屋ではなかったんですか?」
「俺の部屋ですることはなかったな。ベース以外何もなかったから。テレビも冷蔵庫も持ってなかったし、掃除機も持ってなかったんだ。テーブルもなかった」
「困りませんでしたか?」
「いや、まかないつきの喫茶店でバイトしてたから。それに休みの日にもそこに行って飯を食わせてもらってたから、料理はほとんどしなかったんだ。家にいることがあんまりなかったからテレビも必要がなかったしね」
「どうやって掃除してたんですか?」
「ほうきだよ」
「ノミがいそうですね」
「月に一度はバルサンをたいてたよ。畳だったからね」
「そういえば前に言ってましたよね。昼間は工場で働いて週に何日かは夜、喫茶店でウェイターをしてたって」
「ああ。工場は給料がよかったけど、それだけじゃ十分じゃなかったからな。琴美ちゃんもわかると思うけど、全国規模で活動してると金がいくらあっても足りないんだよ。おまけに俺達はどこにも所属していなかったから」
「わかります」彼女は言った。「私もバイトを掛け持ちしてるけどお金が全くないから。そうそう、今度、神戸、大阪、名古屋、岐阜を回るんです」
「へー」
「名古屋はTOYSって店でやるんですけど、やったことってありますか?」
「あるよ。なかなかいい店だった。やりやすいし、店の雰囲気もよかったし。って言っても十年前のことだけど」
「ベーアンがなんだったか覚えてます?」
「トレースだったかな。いや、グヤトーンだったか? 俺は自分のアンプを使ってたから覚えてないな」
「やっぱり私も自分のアンプが欲しいな」
「それは持っておいた方がいいよ。ベースは本体よりもアンプだから」
 彼女はカウンターに向かった。そして湯気の立つコーヒーカップを持ってくると俺の向かいに座り、エプロンの前ポケットからタバコを取り出した。
「ちょっと休憩しますね」
「ああ」
 俺がコーヒーに手を伸ばすと彼女がタバコに火をつけた。彼女は女の子にしては珍しくハイライトを吸っていた。
「毛利さんもよくやったでしょ? こういうこと」
「やったよ。ゴミを捨ててくるとか言って一服した」
「やることはみんな同じですね」
「そういうことに関していえば学生時代の方が真面目だったよ。手を抜くってことを知らなかったから」
「タバコはどうしてました?」
「タバコ?」
「毛利さんはヘビィスモーカーだから困ったんじゃないですか?」
「いや、コンビニで働いてた友達が盗んできたのを安く買ってたから」
「やっぱり」彼女は笑いながら言った。「私もたまにコンビニで働いてる友達から買うけど」
「琴美ちゃんもか」
「ええ。背に腹はかえらえないんで。ちなみに、たまにはいてるレッドウィングのエンジニアブーツは靴屋でバイトしてた女の子が盗んできたのを一万円で売ってもらいました。その子は棚卸の時にそれがバレてクビにされたんですけどね」
「いつの時代もやることはいっしょか」
「毛利さんも?」
「洋服とかではないな。古着屋で働いた友達にわざとレジを打ち間違えてもらうことはよくあったけど」
「へー、じゃあ、休みの日にはいてるビンテージ物のジーパンもそうですか?」
「あれは、もらいものだよ。ロカビリーをやめて地元に帰った知り合いがくれたんだ。俺の分もがんばってくれよって」
 話しているうちにあの頃がよみがえってくるのを感じた。頭の中にいつかの夏のツアーのことや、バイト時代の思い出が浮かんだ。それはまるでソーダ水の気泡のようにふつふつとわきあがってきた。こうしてバンドのことを話すのは久しぶりだった。妻はその手のことに興味がなかったし、職場で仕事以外のことを話すことはなかった。その頃のバンド仲間やメンバーとも長いこと連絡をとっていないし、ベースやレコードはすでに手放してしまっていた。
「青春ですね」彼女は笑顔で言った。「少し歪んでるけど」
「そういうには年をとりすぎてたけどね」俺は言った。「俺がバンドをやってたのは大学を出てから二八の終わりまでだから」
「じゃあ、少し遅れてやってきた『心愉しき地獄の季節』って感じですか?」
「いい言葉だね」俺は心の中で彼女が言った言葉を反芻しながら言った。
「この間作った『春の夜の狂騒曲』っていう曲の一節なんです」彼女は得意げに言った。「少し暗い歌なんだけど、青春は楽しいことばかりじゃないから」
「琴美ちゃんは詩人だな」
「でもそうでしょ」
「そうだね」
 俺はあの頃絶えず心の中にあった不安や孤独をなつかしく思った。休みの朝などに布団の中で「これから俺はどうなるんだろう」と考えたことや、夏の午後に飛行機を見て「俺の人生はどこにいくのだろう」と考えたことを。今ではそんなことを考えることはまずない。あの頃は絶えず誰かがそばにいたのになぜだか孤独だった。そして社会的責任や、守らなくてはいけない家族がある今よりもずっと生きることに必死だった。今では明日のことなどどうでもいい。
 彼女の吐き出した紫煙がゆっくりと店の中を流れた。店内にはいつものように、聞こえるか聞こえないくらいの音量で古いジャズが流れていた。この店で流れる音楽は戦前のジャズときまっていた。
「ところで」彼女が言った。「その人はいくつだったんですか? 大竹さんは」
「四六かな。俺より八歳上だから」
「まだ若いですね」
「ああ」
「よく会ってたんですか?」
「いや、アパートを出てからは二回だけだよ。最後に会ったのは今の会社に入って二年くらいした時だった」
「もっと頻繁に会っていそうなものですけど」
「そういうものなんだよ。関係っていうのは環境が変わると長くは続かないんだ。生活が変わると自然と話も合わなくなるからね」
「言われてみればそうですね」
 俺は本当の理由を言わなかった。俺が大竹と疎遠になったのはねたみからだった。最後に会った時、俺は喜々として夢を追い続けている彼に対して嫌なものを感じ、自分をひどく惨めに思った。夢に対する強い思いを含んだ彼の一語一語が責め立てているように聞こえたのだ。大竹は色々なことについて話せたが、俺には仕事のことしか話すことができなくなっていた。
「病気か何かだったんですか?」彼女は言った。「大竹さんは」
「いや」
「じゃあ、事故ですか?」
「ある意味ではそうかな」俺は言った。「心不全だから」
「その年で?」
「不思議じゃないよ。食うや食わずの不摂生な生活を二十年以上してたんだから。必要最低限しか働かないヤツだったんだ。パンの耳や近所の八百屋からもらうクズ野菜で腹をごまかしてたよ」
「じゃあ、他の時はずっと書いてたんですか?」
 俺はうなずいた。「絶えず書くことだけを考えて生きてたヤツだったからね。恋人も奥さんもいなかった。一週間ぶっつづけで書き続けたこともあったよ」
「普通の人間には真似できない芸当ですね」
「そうだね。本気で突っ走るには根性と勇気がいるからね」
「かっこいいな。大竹さんは」
「ああ」
 俺は自嘲的な気持ちでうなずいた。確かにあいつはかっこよかった。少なくとも俺よりは。世間から見ればただの愚か者かもしれないが、普通の人間には真似できない生き方をあいつは通した。たいした男だった。
「私も大竹さんみたいになりたいな」彼女はカップに手を伸ばすと一口すすった。「私はまだ二十三だけど、たまに不安になるんです。そろそろやめなきゃいけないのかなって。現に回りの子もやめていってるし、親にもいい加減に落ち着けって言われるし」
「好きなことがあるならとことんやるといいよ」俺は言った。「どうせ人生は一度なんだし、どの道後悔するんだから」
 三秒間の沈黙が訪れた。彼女はジッと俺を見つめた。俺の口にした何気ない言葉は不思議な響きを帯びて店内を威圧した。まるで銃声のような響きを帯びて。
 彼女はカップをテーブルに置くといつになく真剣な面持ちで言った。「心に留めておきますね。先輩の忠告として」
「責任は持てないけどね」
「ええ」
 彼女はうなずくと視線を窓の外に流した。俺は新しいタバコに手を伸ばすと火をつけて深々と煙を吸い込んだ。やって後悔するか、それともやらずに後悔するかという陳腐な言葉が、どうせいつかは死ぬのだからという言葉とともに脳裏に浮かんだ。俺は再び自分をあざ笑った。昔友達のサイコビリーバンドが歌っていた「籠の中の溝鼠は死ぬまで螺旋を描く」という歌詞を思い出し、あれは俺のようなヤツのことを言っていたのかなと思いながら。彼女は黙って窓の外を見つめていたが、何を思っているのかは、わかるようでわからなかった。
 間もなくしてたまに見かける老人の集団が入ってきた。彼女は舌打ちまじりにタバコをもみ消すと「いらっしゃいませ」と言ってカウンターに向かった。その集団は爺さんが二人に婆さんが三人という構成で年はみな七十代半ばといったところだった。
 爺さんの一人が歩きながら人数分のコーヒーを注文した。集団は奥のテーブルに座ると狂ったように話し始めた。静かだった店内に疲れきった賑やかさがただよった。ほこりにまみれた死臭のような嫌な賑やかさが。
 俺は、すっかり冷えてまずくなったパイとコーヒーを義務的に胃に落とすと、彼女の手が空くのを待って席を立った。そして勘定を払って彼女に軽く礼を言うと、読まなかった新聞を棚に戻して店を出て行った。
また今日もダラダラと夜が近づいていた。