小説「名もなき花」

 吐き出す息は白かった。
 スタジオを出た俺は静まり返った通りを駅に向って歩いていた。その日は平日にも関わらず夜からボーカル録りがあった。俺の率いるバンドは先週から新しいデモ ― 三週間後に知り合いのバンドと行うツーマンショウで発売する三曲入りのものだが ― の制作にかかっていた。
 この日は仕事の都合で俺一人だけだった。俺は頭の中で今しがた録音した歌のことをあれこれ考えていた。いつものことながらあまりいい感じではなかった。バンドを始めて五年になるというのに俺は未だにレコーディングが苦手だった。これまでに八回もしているというのに。
 どうしたらショウの感じが出るんだろう?
 いっそハンドマイクで踊りながらやったらどうだろう?
 ショウでそうしてるみたいにアンプから飛び降りてみるとか?
 レコーディングなんだし一小節ずつバラバラに区切って歌うとか?
 リバーブをかけてごまかすとか?
 いや、でもショウでできないことをするのはロックに反するだろう・・・・
 空気は冷たく厚い雪雲が空を覆っていた。両脇に立ち並ぶビルの明かりはことごとく消えていて、人と車の往来はほぼ皆無だった。その地域はオフィスやら事務所やらが多いわりに飲食店がないため、午後八時を過ぎるとゴーストタウンのようになるのだった。
 あれこれ考えているうちに信号で立ち止まった。腕時計に目をやった俺は近道をするために横にある狭い路地に入っていった。不幸にもスタジオから駅までには、朝からの単純肉体労働を終えてからでは歩きたくないくらいの距離があった。
 二分ほど歩くと猫の額ほどの小さな公園にさしかかった。そこは背の低いビルとビルの間にポツンとあって記憶する限りベンチ以外に遊具はなかった。一つだけある外灯は死んでいて園内はほとんど真っ暗だった。公園というより空き地に近かった。
「いい気味よ。全く」
 通りすぎようとすると女の声が聞こえた。俺は立ち止まると声のした方に目をやった。その声は大量のステロイドを注射された雄牛のように興奮していた。
「ムカつくんだよな。こういうヤツは」
「何の役にもたたねぇくせに、でけえ面して歩きやがって」
 今度は男の声が聞こえた。俺は暗闇の中に目をこらした。すると三つの人影が見えた。興奮のせいか俺のことに気づいていなかった。この日は仕事を終えてすぐにかけつけたせいでサイフの鎖は外していた。その仕事は給料も安ければ下らないくせに、身なりにはうるさかった。
 酔っ払い? よってたかって上司の悪口? でもこんなところで?
 そんなことを考えていると突然、真中の人影が動いた。それと同時に小麦粉袋を蹴り飛ばすような鈍い音と小さなうめき声が辺りに響いた。少し間を置いて唾を吐く音と女の声が聞こえた。
「社会のゴミ!」
 その一言で状況がわかった。俺は頭皮と背中に汗がにじむのを感じた。それは酔っ払いがクダを巻いているのでも、宇宙の謎について話しあっているのでもなかった。そんないいものではなかった。
「おい、このクソッタレ!」
 俺はそう叫ぶと園内に飛び込んだ。それと同時に三人がこっちを振り返った。俺は体中のアドレナリンが一気に湧き上がるのを感じた。いくらかの怒りとともに。
「テメーら何してんだ!」
 三人は一瞬顔を見合わせた。男の一人が「やべえ!」と叫ぶと三人は一斉に出口に向って走り始めた。暗くて顔はわからなかったが身なりだけはわかった。全員ビジネススーツ姿だった。
 連中の靴音がけたたましく路地に響いた。その音は、このまま走り続ければ明日の朝にはオクラホマに着けるのではないかという速度で遠ざかっていった。俺は追わずに黙ってそれを聞いていた。大の男二人を相手にするほどバカではなかったし現実を知っていた。
 やがて足音が完璧に聞こえなくなった。俺は三人が立っていた場所に歩いていくと地面に視線を落とした。そこには予想通り人が横たわっていた。文字通り横向きで。
 俺は溜息をつくとジーンズの前ポケットからライターを取り出してその場にしゃがみ込んだ。母親を泣かしてしまった時のように胸が痛んだ。できれば見たくなかったが居合わせてしまった以上しょうがなかった。何がどうなっているのかは容易に想像がついた。
 ライターを点火するとボンヤリとした灯りが辺りを照らした。倒れていたのは予想通り年配の浮浪者だった。かなりひどくやられたらしく顔が血で濡れていた。流血箇所は額、鼻、頭だったが一番ひどいのはやはり鼻だった。年は六十くらいで白髪頭を短く刈り込んでいた。
「だいじょうぶかい? おとっつあん」
 俺は男をつっついた。男は六秒ほどしてうなり声を上げた。風に乗って小便の乾いたような匂いが鼻をついた。長いこと風呂に入っていない人間特有のあの匂いが。
男はひどく難儀そうな声を上げると体を仰向けにした。「ああ・・・・クソ・・・・」
「起きれるかい?」
「だいじょうぶだ・・・・・」
 男は肘を使ってゆっくりと体を起した。俺は少し離れたところに男の全財産がつまっていると思われる大きなカバンが落ちていることに気づいた。さかさまの状態で地面に落ちていたが幸いにも中身は無事のようだった。これといって何かが入っているとは思えなかったが。
 指先が熱くなってきたのでライターを消した。俺は次第に目が慣れてくるのを感じた。百円ライターはオイルライターとちがって長時間点火するには向かないのだ。
「ありがとうな兄ちゃん・・・・助けてくれて・・・・」
「だいじょうぶかい?」
「たいしたことはない。いつものことだ。つい先日もやられたばかりだ・・・・この間は男ばかり四人だった・・・・」
 俺は軽いショックを受けていた。この辺りの会社に勤める人間がストレス発散の一環として時おり路上生活者を狙うという話は聞いたことがあった。時おり中、高校生や大学生も来ると。でもそれを目の当たりにするとは夢にも思ってみなかった。
「いい加減に慣れたがな・・・・」男は続けた。「こういうことは仕事と同じでだんだん慣れてくるんだ。もっともこっちの方は金がつかんがな」
 男は地面にあぐらをかくと小さく笑った。その笑い声は喘息患者のようだった。それが殴られたからか本当に肺が悪いのかはわからなかったが。
「なあ兄ちゃん」男は着ていた防寒ジャケットの裾で顔を拭いた。「わるいけどタバコはあるか」
「ああ」
 俺はブルゾンのポケットに手を突っ込むとエコーと取り出して手にしていたライターといっしょに男に渡した。男は中から一本抜き取って火をつけると軽くせき込んだ。
「本当にだいじょうぶか?」
「大事ない」
「えっ?」
「大事ないと言ったんだ。だいじょうぶということだ」
「すごい言い回しだな」
「こう見えても元、サラリーマンだからな」
「そうなのかい?」
「ああ。建設資材の営業をしておった。でも、五年前に会社が倒産してこの様だ。五十も半ばを過ぎると再就職はできんからな。ガードマンやら清掃員やら色々やったがダメだった。営業はつぶしがきかんからな。で、今はこのありさまだ」
「奥さんは?」
「いたが別れた。今は俺の退職金を持って田舎で悠々と暮らしておる」男は言った。「そうは見えんだろうが俺にも人並みの生活をしていた時期があったんだ。接待でハワイに行ったことだってあるし、自分より二十も若い女子大生を土産にあてがわれたこともある。もっとも何もしなかったがな。俺にも同じ年くらいの娘がいたんだ・・・・絵美子っていうんだ。キレイで頭のいい子なんだが、背が低いのがたまに傷でな」
「結婚してるのかい? 娘さんは」
「離婚した時にはまだ独身だったがどうかな。絵美子には配管工の恋人がいたがどうなったのかはわからん」
 本当のようだった。男には浮浪者にありがちな願望を会話に織り交ぜる癖はなさそうだった。前にも何度か浮浪者と知り合ったことがあったが、それらの連中は願望と現実がごちゃ混ぜになっていた。最初は奥さんと娘一人と一軒家に住んでいたと言っていたのに、五秒後には奥さんと娘三人とで山の手のマンションで暮らしていたと言い始めたりと。
「おまえさんくらいの年の兄ちゃんや、嬢ちゃんを見ると絵美子を思い出すんだ」男は言った。「一応、大学にも行かせたんだ。教育は一生ものだからな。指輪やらネックレスやらは剥ぐことができても、そういうものは剥げないからな」
「そうか」
 俺はさっきの連中が言っていたことを思った。そして心の中でつぶやいた。そうじゃなくてただ少し要領と運が悪かっただけだと。別に悪いことじゃないし、それを咎める権利なんて誰にもないと。あんただって勤めてる会社の社長が二回不渡りを出せばそうなりうる。それにこういう風にしか生きていけない人間だって中にはいるのだと。風呂に入る必要があるのは認めるが・・・・
 男は体をさすった。暗がりの中で汚れた洋服がこすれる音がした。男は平静を装っていたがさすがにこたえているようだった。この年なら当然のことだが。二十五の俺だって大の男四人に拳を投げつけられれば無事ではいられない。
「本当にだいじょうぶかい?」俺は言った。「救急車を呼んでやろうか?」
「だいじょうぶだ。体を曲げて頭をかばっておったからな」
「そうは見えないけど」俺は言った。「頭から血が出てるぞ」
「たいしたことはない。ちょっと切れただけだ。しかしあんたは何者なんだ?」
「何だろう?」俺は言った。「河原者かな」
「河原者?」
「昔風に言えば売れない楽団の座長。普段はダンボール工場で日銭稼ぎをしてる」
「よくわからんが好事家であることに間違いはないようだな。俺みたいなのを気づかってくれるとは。でも、行政よりもずっと優しい」
「そうか?」
「気づかってくれる人などまずおらん。俺達は蟻んこみたいなもんだからな。蝿のたかる糞と呼ぶヤツらもいるが」
「みんなそうだよ」
「あんたはおもしろいことを言うな。所詮誰もが馬の骨という歌は聞いたことがあるが」
 夜気の冷たさが肌を刺した。俺はジーンズの後ろポケットから携帯を取り出すと時間を確認した。終電の時間が迫っていた。午後十一時三十二分だった。
「そんなところに座ってて寒くないかい?」俺は言った。「今夜は冷えるぜ」
「少しな。でも雨がないだけましだ。雨の日は眠れん。一晩中歩き回るハメになる。冬場は特にな」
「腹が減ってるからじゃないか?」俺は言った。「腹が減ってると余計に寒さが身に染みる」
「そうだな。まだ今夜は晩飯を食ってないからな。もう少ししたら廃棄の弁当が出るんだが、それを探しに行く最中だったんだ」男はそう言うと一瞬黙った。「まあ、言うなれば夕飯に出かけようとして車に轢かれたようなもんだ」
 浮浪者にしては陽気な人だなと俺は思った。いかにも元営業職といった感じがした。男にはまだありし日の気品のようなものが残っていたが、それが余計に胸をしめつけた。
「あんた事故に遭ったことはあるか?」男が言った。
「今のところはないね」俺は返した。「交通事故には。他の部分では事故続きだけど」
「いい言い回しだな。それは人生が思い通りに行かないってことだろ?」
「そう」
「みんなそうだ。思い通りに行くヤツなんておらん。努力ではどうしようもできこともたくさんある」
「だろうな」
「そう思っておけば気分もいくらかは楽になるだろう。ほれ、昔聞いたことがないか? 『人の一生とは重荷を背負って歩くようなものである。不自由が当然と思っていれば不足はない』とかなんとか。これは誰の言葉だったかな?」
「家康だろ?」
「そうだ。家康だ。あんた学があるな」
「たまたまだよ」俺は手にしていた携帯を再び見やった。「悪いんだけどそろそろ行かなきゃいけないんだ。もうすぐ終電の時間なんだ」
「そうか」
 男は残念そうに言った。男には、ほかっておいたら来週のこの曜日まで話し続けかねない勢いがあった。人に飢えているのが痛いくらいに感じられた。一人で生きていける人間なんていやしない。
 俺はサイフを取り出すと中から千円札を一枚取り出した。スタジオ代を払った後なのでいくらも金はなかったが、そうせずにはおれなかった。ひょっとすると自分の未来の姿を見ているような気持ちにでもなっていたのかもしれない。同情というよりも同胞意識を俺は感じていた。
「たいした額じゃないけど」俺は札を差し出した。「弁当くらいは買えるから」
「いいのか?」男は言った。「俺にこんなことをしても何の得もないぞ」
「いいよ」
「悪いな。助けてもらったうえにこんなことまでしてもらって」男は俺が差し出した札を受取ると手にしていたタバコとライターを俺に差し出した。「そうそうこれを返さなきゃな」
「よかったら全部吸ってくれよ」俺は言った。「安タバコで申し訳ないけど」
「いいのか?」
「ああ」
「ありがとう。ではありがたく吸わせてもらうことにしよう」男は言った。「色々あったが今日はいい日だ」
「それはよかった」俺は言った。「じゃあ、そろそろ行くよ」
「おう、達者でな」
「おとっつあんもな」
「あんたの楽団が売れることを祈っておくぞ」男は言った。「俺は毎日夕方にそこの社に行って娘のしあわせを祈るようにしてるんだ」
「ありがとう」
 俺は立ちあがると駅に向って歩き始めた。公園の出口にさしかかると背後で男が「気をつけてな」と言ったので俺は軽く手を振って「おとっつあんもな」と返した。公園の角まできて後ろを振り返ると男はまだ手を振っていた。
 俺は片目のつぶれたせむしの老婆を目にした時のような、赤子のエイズ患者を目にした時のような、やるせない気持ちで暗い路地を進んで行った。歩が進むにつれて寒々しい孤独感が募った。以前ひねくれた友人が言っていた人間ほどおぞましい生き物はいないという言葉が理にかなっているように思えた。不条理だった。
 さっきのヤツらに出会ったらどうしよと考えたがそれはなかった。俺はほとんど誰ともすれちがうことなく無事駅につき切符を買った。構内では安い蛍光灯の灯りが疲れきった床を冷たく照らしていた。
 電車の中はガラガラだった。俺は車輪がガタゴト鳴るのを聞きながら座席に置き忘れてあった夕刊を読んでいた。そこにはもう慣れてしまったが、ひどいことに変わりのない事件がたくさん載っていた。子が親を殺す、親が子を殺す、失業した派遣社員が橋の下で餓死する、ネットカフェが家を失くした失業者で溢れかえっている、高校生がコカイン所持で捕まる、鳶職のヌケサクが誕生祝の一環として隣家に火を放つ、中学の教師が頭の弱い女生徒をホテルに連れ込んで仲間の教師数人と三時間に渡って暴行をはたらき、それをビデオにとって売っていた、お年寄りを騙すビジネスが大繁盛している・・・・
 思いやりや優しさとはまるで無縁だった。小学生が朝食の卵が柔らかかったことに腹を立てて、チェインソーで両親を惨殺するというニュースを見る日もそう遠くないように思えた。皆何かに怯え、苛立ち、疲れ、狂っているようだった。それでいて自分勝手だった。
 俺は新聞を横にうっちゃった。そしてさっきのことを思い出しながら本能かもな、と心の中でつぶやいた。多くの動物がそうであるように人間もまた生存のために弱者を探す。糧としではなく、玩具として。悪い意味でとても人間らしい・・・・
 そんなことを思ったり、外の景色を眺めたり、明後日のコーラス録りのことを考えたりしているうちに駅についた。俺は電車を降りて改札を出ると車を停めている場所に向かって歩き始めた。その日俺は駅から少し離れた安いコインパーキングに車を停めていた。駅の側のパーキングはたいしたこともないくせにどれも高かった。
 夜気は相変わらず冷たかった。しばらくして何か温かいものが飲みたくなった俺は目についたコンビニエンスストアに立ち寄ることにした。金がないにも関わらず空腹がピークに達していたので余計に寒さが身に染みた。空腹を糖分でごまかしたかった。腹がへらなければ、ちゃちな労働から解放されるのにと俺は思った。
 店に入ると一人の老人と若い女性店員がレジで話しているのが目に入った。店内は暖かく下らない音楽が流れていた。今流行の女性歌手が、愛がどうのこうのと全身全霊を装って歌っていた。あるかもしれないし無いかもしれないものについて。
 二人は一瞬会話をやめた。店員は俺に気づくと「いらっしゃいませ」と言って再び会話にもどった。男はまるでそこが立ち飲み屋か何かのようにチビチビとカップ入りの日本酒をあおっていた。俺は二秒ほど二人を見やるといつものくせで ― スーパーなどに行くとまず店内を回って特売品をチェックすることにしているため、いつしかそれが身についてしまった ― 軽く店内を一周した。
「それでな・・・・向こうは土下座をしろって言いやがったんだ。ミスは全ておまえらの責任だからって。うちとの契約を続けたかったらそうしろって。俺はそいつをジッと見据えたよ。偉そうにするなよ、このトヨタのクズがって思いながらな」
「すごいですね。それで竹本さんはどうしたんですか?」
「俺かい? 俺はもちろんしなかったさ。俺にだってプライドがあるからな。男はそれを失くしたら終わりだろ。まあ、でもそのお陰でクビになっちまったけどな。でも後悔はないさ。あんなヤツに土下座をするくらいならそうなった方がずっとマシさ」
「竹本さんらしいですね」
 その女性店員はいかにも学生といった感じのおぼこい子だった。ショートカットのよく似合う、やや丸い顔をしていて話し方とその瞳からは優しさが感じられた。まるで生まれたてのアヒルのように純粋に思えた。一方の老人は六十代から七十代くらいでお世辞にも身なりはよくなかった。ベースボールキャップをかぶり、ホームセンターで売っているような安手の防寒着を着て雨でもないのに黒い長靴をはいていた。疲れたような寂しいような顔をしていたが少なくとも今は楽しそうだった。男はありし日のことを意気揚々と語り、女の子はそれをうっとうしがらずに聞いていた。
 他に客はいなかった。俺は冷えた体が温まるのを待つために、入ってすぐの雑誌コーナーに偶然あった暴走族雑誌を読むことにした。興味があったというよりもこんな雑誌がまだこの世に存在していることが驚きだった。そこに写っているヤツらはどれも神秘的ないでたちをしていて、一人の男は着ている特攻服の背中にデカデカと『愛国烈士』と刺繍していたが、俺には国が何なのかがよくわからなかった。少なくとも愛するには値しなかった。
 俺がその雑誌を読んでいる間も二人はレジで話していた。正確に言えば男が一方的に話し、女の子が時おり質問をしたりあいづちを打ったりという感じだった。女の子は生まれつきそうなのか聞き上手で、言葉使いからは敬意が感じられた。店員のあるべき姿を絵に描いたようだった。
「今日はもうだめですよ」しばらくして女の子の声が聞こえた。
「いいじゃないか。俺にはこれくらいしか楽しみがないんだから」今度は男の声が聞こえた。
「一日一本ってお医者さんから言われてるでしょ?」
「だが飲みたいんだ」
「だめです。売ることはできません」
 俺はレジを見やった。棚のせいでよく見えなかったが酒のことを話しているようだった。男がさらに酒を買おうとして止められたのだろう。
「俺の金で買うのに・・・・」男は不服そうに言った。「昔はもっと飲んでいたんだ。しかしあんたは商売が下手だな・・・・」
「いいですよ。飲んでも。私にサービスをお断りすることはできませんから」女の子は言った。「でも、もしそうしたら二度と私は竹本さんとは話しませんからね。この間も約束したでしょ」
「わかったよ・・・・」
「わかってもらえてうれしいです」
「寒いと飲みたくなるんだ。温かいものが」
「温かいものならお酒以外にもありますよ。お茶とかおしることか」
 男は舌打ちをしたがうれしそうだった。心配してもらえることがうれしいようだった。
「じゃあ、温かいお茶でも買って帰るかな」男は言った。「そろそろ朋美ちゃんも上がる時間だし。もうすぐあの男も来るし。俺は、あいつが苦手なんだ。朋美ちゃんの後に来るヤツが。愛想がなくてつんけんした感じで」
 俺は雑誌を棚に戻すと食べ物を売っているコーナーに歩いて行った。今日日の店員は大抵そうだと思いながら。人件費削減でアルバイトばかり雇うから一行にプロが育たないのだ。人は財産という言葉を今の経営者連中はわかっていない。もっとも長い目で物事を見れるような賢い人間なんてほとんどいないのだが。
 売れ残っていたのり弁当とその横にあったミルクと砂糖入りの缶コーヒーを持ってレジに行った。男は俺の姿を見ると邪魔をしてはいけないと思ったのか「じゃあ、また明日な」と言って店を出て行った。女の子は男に「おやすみなさい」と言うと俺に頭を下げた。
「ありがとうございます」
 俺は軽く頭を下げ返すとレジに品物を置いた。女の子は丁寧に一点ずつ値段を読み上げながらそれを会計した。
「お弁当は温めますか?」
「お願いします。ああ、そうだ。ついでにエコーももらおうかな。それにこのライターと」
「はい。ありがとうございます」
 女の子は弁当を電子レンジに入れると再びレジを打ち始めた。女の子が合計金額を言い、俺は代金を払った。財布の中の残金は千円と小銭が少々だった。今月も厳しくなりそうだった。
「今夜は冷えますね」女の子が言った。
「そうですね」俺はブルゾンのポケットに手を突っ込みながら返した。
「お仕事の帰りですか?」
「まあ、そんなものです」俺は一瞬言いよどんだ。この手の場所で話しかけられるとは思っていなかったので少々面食らったのだ。「おねえさんは学生さん?」
「大学生です」
「何年生?」
「一年です」
「こんな遅い時間までいいのかい?」
「普段は十二時までなんですけど、今夜だけは特別なんです。引継ぎの男の子がわけあって遅れるっていうんで。でも、学費とかアパート代とかでお金がいるからいいんですけどね。今夜は課題もないし」
「この辺の人じゃないんだ?」
「北海道です。今は近くのアパートで一人暮らしなんです」
 おぼこい子だなと俺は思った。世慣れた女ならこんな個人情報を自分から流すようなことはしない。俺がストーカーや変態じゃないとなぜ言える? むろんちがうのだが。
「さっきのおじいさんはよく来るのかい?」
「ええ。私がいる時はほぼ毎日来てくれるんです。竹本さんって言ってこのそばの市営住宅に住んでるんです。奥さんは半年前になくなってしまったから今は一人なんです」
 俺は先週読んだ夕刊のことを思い出した。そういえば独居老人の孤独死があったのはこのそばの市営住宅だった。その老人は死後三週間経って発見されたということだった。多分その市営住宅のことだろう。
「うれしそうだったね。あの人は」俺は言った。「ここに来るのが生きがいみたいだった」
「本当はあんな風に話してちゃいけないんですけどね」女の子は言った。「バレると店長に怒られるんです。これは仕事で遊びじゃないって」
「客がいないんだから別にいいんじゃないのかい?」
「いや、そういう時は掃除をしたり商品を補充したりしろって。時間を無駄にするなって」
「経営者らしい意見だね。でも、客と話すのだって仕事のうちだと思うよ。言ってみれば顧客のアフターケアみたいなもんだ」
「ええ」
「コンビニっていうのは地域密着型であるべきだと思うけど」
「そうあるべきだとは思うんですけどね。私も。でも、ここの経営者はそうは考えてないんです」
「企業なんていうのは利益以外のことはどうでもいいもんだからね」
「ええ、でも何て言うか・・・・私はそれが嫌なんですよね。むろんたいしたことはできないけど、話し相手くらいにはなれるから。行く所も話す相手もいなくて仕方なくここに来るお客さんも中にはいるんです。竹本さんみたいに部屋にいるのがいやで夜になるとこの辺りを歩いてそれをまぎらわす人もいるから」
「部屋に一人でいたくない時っていうのは確かにあるよ」
「私もあります」彼女は言った。「特にこんな夜は」
「みんな同じだね」
「ええ、だからもし、そういう人がいたらなるべく話し相手になりたいって思うんです。話すことで気がまぎれるならいいかなって、うまくは言えないけど・・・・」
「わかるよ」
 俺はうなずいた。あんな事件の後のせいか彼女の優しさが妙に胸に染みた。彼女が本気で言っているのはその口調と目つきからわかった。見た目通りの優しい子なのだ。
「お客さんは思いませんか?」彼女が言った。「みんな他人に対して冷たすぎるって」
「思うよ。みんなもっと他人に対して優しくするべきだって」
「見た目に反して優しいんですね」彼女は一呼吸置いて小さく笑った。「背中にドクロの刺繍が入った服を着てるのに」
「派手な刺繍ものが好きなんだよ」
「見た目で人を判断するなですね」
「あと、ライフスタイルでね」
「この間、学校でこういうことについて話したんです」彼女は言った。「そうしたら周りの子から、そんなことを言ってるとひどい目に遭うよって言われたんです。あくどい宗教に騙されるよって。もっと自分を大切にしろって」
「最近の子は現実的だね」
「そうじゃないと生きていけないからでしょうね。競争社会だから」
「だろうね。人のことをいちいち気に止めてたら生きていけないから」
「いやな時代ですね」
「まったくね」
「みんな疲れきってる気がする」
「わけがわからなくなってるのさ。地球があまりに早く回りすぎるから」
「言いたいことはわかります」
 電子レンジが止まった。彼女は中から弁当を取り出してビニール袋に入れると笑顔を浮かべた。その笑顔は俺を心優しい気持ちにさせた。普段目にする給料制の作られた笑みではなかった。
「お待たせしました」
「ありがとう」
 俺はブルゾンのポケットから手を出してそれを受取った。その時、ドアが開いて四十代前半と思しき小太りの男が不愉快そうな面持ちで入ってきた。その男は無言で彼女を見やるとレジの横を通って奥へと入っていった。その目つきはまるで「また油を売ってるんじゃないだろうな?」と言わんばかりだった。さっきの男が苦手だといっていたヤツであり、この店の経営者なのだろう。
「ありがとうございました」
 彼女はそう言うと笑みを浮かべた。少し男の視線が気になるようだったが、それでも彼女の笑顔はステキだった。ホッとする笑顔だった。
「ありがとう」
 俺は笑みを返すと買物袋をぶら下げてドアに向った。そして再度、彼女に頭を下げると店を出て通りを歩いて行った。外は寒く、空腹はピークに達したままだったが、さっきよりも気分はよかった。ごく当たり前の優しさに触れられたことが妙にうれしかった。いい意味で人間らしい人間に出会えたことが。
 俺は掃き溜めの隅でりんと咲く一輪の花を見つけた時のような気持ちで暗い通りを進んで行った。『この世界に愛を』を口ずさみながら。