小説「万華鏡」
肌寒い秋のことだった。その晩、俺は相棒のクラッカーが働く中古盤屋でダラダラと時を過ごしていた。その日は一週間ぶりの休日だったが、古本屋と中古盤屋を見て回る以外にこれといってすることがなかった。一言で言えば無為な一日だった。
荒々しいダッチビートの流れる細長い店内には他に数名の客がいた。俺はドアを開けてすぐのところにあるレジの前に立ちながらヤツとたわいもない話に興じていた。店を囲うように設けられた棚には相変わらず様々なCDやビデオが並び、レコードの棚の上の壁にはこの店の店長が外国で買い付けてきた、他店ではまずお目にかかることのできないレアなレコードが飾られていた。六〇年代のガレージバンドのオリジナル盤、伝説的な南米のハードコアバンドがツアーの資金を稼ぐ為に作った限定の七インチ、サン・レコードのオリジナル盤、それにGSやニューウェーブなどだ。ヤツの働く黒猫レコードはその筋の連中の間では広く知られた存在だった。
「しかし寂しい休日だな」ヤツが中古CD用の値札を作りながら言った。「たまの休みだっていうのに古本屋めぐりかよ」
「まあな」俺は返した。「釣りに行くには少し寒いし、いい映画もやってないからな。テレビもラジオまるっきりペケだし」
ヤツは作り終えた値札をCDにはさんだ。「新しい恋人でも作ったらどうだ?」
「出会いがないよ」
「そりゃあ古本屋にはないさ」ヤツは言った。「それに中古盤屋にもな。いっそのこと陶芸教室にでも通ってみるっていうのはどうだい?淑女が見つかるかもしれんぞ」
「本気で言ってないよな?」
「言ってないさ」ヤツは笑った。「でも、おまえの働く靴屋にも女はいるんだろ?」
「一応な」
「だったら話は早いじゃねえか。あの背の高いねぇちゃんなんてどうだ? 野村育枝ちゃんは? 案外気があうんじゃねぇか?」
「どうかな」
「わりとかわいいし。性格もよさそうじゃないか。ジョークのセンスもあるし」
「まあな」
「少々わがままそうだけど」
俺はレジの横の新入荷の棚に目をやった。そこには一年ほど前まで、自分がやっていたロックンロールバンド ― 俺がウッドベースで俺の死別した恋人の尚美がボーカルだった。ギターは相棒のクラッカーでヤツの彼女がドラムを叩いていた ― のCDがジャケットの見える状態で置かれていた。俺はジャケットの中でガイコツマイクを片手にほほ笑む尚美を見ながら、おまえがいたらなといつものように思った。おまえが生きていてくれたら一番いいのにと。優れた唄の才能と不幸な運命を神から授かった赤毛の天使・・・・
「珍しいだろ」ヤツは俺が見ているものに気づいたのかアゴで棚を指した。「この間入ってきたんだ。売ったのは東京の人間だよ。一番多く卸したのは東京だったからな」
「初めて見たよ」俺は言った。「中古で出てくるのは」
「出てくるのは二回目だ。一回目の時は店頭に出してすぐに売れた。けっこう聞かれるんだぜ。今さらながらもう百枚余分に作っておいてもよかったかなって思うよ」
値札には発売時の七倍の三五〇〇円という値段が捺印されていた。そのCDは発売後数ヶ月で完売したせいか一部のマニアの間で稀少盤として取引されていた。完全な自主制作盤でプレス数は五〇〇枚だった。
「この値段で買うヤツがいるのか?」
「すぐに売れるさ」ヤツは得意気に言った。「むしろこの値段なら安いくらいだ。ネットオークションではもっといく。知っての通り内容は最高だからな」
「ああ」
「そういえば・・・・」ヤツが言った。「去年のこれくらいの時期だったよな。この作品を録ってたのは」
「ああ」
「早いよな」
「ああ」
何枚かのレコードを抱えた作業着姿の男がやってきた。俺が左にずれるとその男は手にしていたレコードをレジに置いた。サイコビリーとハードコアが好みのようだった。ヤツはレジを打ち終えて金額を言った。そして男が一万円札を出すとそれを受取りながら「また奥さんに怒られますよ」と笑顔で言った。買ったレコードを見る限りその男は相当な通のようだった。
俺は自分のCDが置かれていた棚に歩いていってその棚から目をつけておいたCDを二枚抜き取った。犬神サーカス団の『暗黒残酷劇場』とマジックの『あの夏が聞こえてくる』だった。俺は作業着姿の男がドアに向かうのを待ってそれをレジに置いた。
「珍しい組み合わせだな」ヤツが笑いながら言った。「腹イタを起すぜ」
「どっちもいいバンドだ」
「マジックは持ってなかったか? 前に車でかけてただろ?」
「ああ。でもCDはない。カセットだけだ。大学の頃に、前のボーカルに貸したら二度と戻ってこなくなった。巨乳の女は信じないほうがいい」
「あのGカップの女か」ヤツは言った。「ビデオでしか見たことがないけど、歌は気のふれたサルより下手くそだったな。でも、おまえがショウの最中にキレて、あの女のマイクスタンドを蹴り倒して、ギターを弾きながら歌ってる絵づらはおもしろかったよ」
「ああ、あれな」俺は言った。「なあ、ところでもっとこのバンドのCDはないのか?」
「ないな。この間、偶然一枚だけ入ってきたんだ。見ての通りうちはあんまり化粧系には強くないんでね。隣町にその手のものを専門に扱ってる店があるから、どうしても欲しいんならそっちに行きなよ」
「でも、一五〇〇円では買えないだろ?」
「ムリだろうな。そのCDだってつける店ならもっとつけてる。ブックオフとかで探せばそれくらいだろうけど、いつ出てくるかはわかったもんじゃない」
「よく化粧系のCDを店頭に並べる気になったな」
「俺も好きだからな。犬神は唯一俺が好きなビジュアル系だ。おまえが買わなきゃ俺が買うつもりだった。あともう何日か並べて売れなかったら。ああ、あとそこにあるグルグル映画館ってバンドもいいぜ」
「相変わらず多趣味だな」
「バンドマンはそうじゃなきゃな。いいものはどんどん取り入れていかないと」
「だったらヒップホップと今はやりの本末転倒なR&Bも聞いたらどうだ」
「それはごめんだな。俺にとってのR&Bはローリングストーンズとゼムだ。あとプリティ・シングスとな。それに最近のヒップホップは眠たい」
俺はジーンズの後ろポケットに入れていたクリームソーダの白いヒョウ柄のサイフを取り出すとその中から千円札を三枚剥ぎ取って金属製の皿の上に置いた。ヤツは品物を袋に入れるとレジを打った。
「で、これからどうするんだ?」ヤツは釣銭を数えながら言った。
「おとなしく帰るよ」俺は言った。「おまえは今日は残業だろ?」
「ご名答」ヤツは釣銭を皿に置いた。「今日はクソ残業だよ。三角形の帽子をかぶって笛を吹きたくなるほどうれしいぜ」
俺は釣銭をつかむとそれをサイフにしまった。「そういえば店長は休みか?」
「長崎だ」
「原爆でも落としに行ったのか?」
「ああ、エノラゲイに乗ってな。ついでに言えば護衛機はなしだ。高高度を飛ぶから迎撃される心配がないとでも思ったんだろうぜ」
「で、本当は?」
「弟の結婚式だよ。明後日まで帰ってこねぇんだ。そうそう。ちなみに店長の弟はモッズなんだぜ」
「ふーん。ところで長崎に原爆落としたのってエノラゲイだったか?」
「ハードゲイじゃなかったか?」
「それはないな」
俺はヤツの後ろにかけられたレコード盤の形をした時計に目をやりながら食事のことを思った。起きてからコーヒー意外口にしていなかったせいでひどく腹が空いていた。時刻は午後八時だった。
俺は店内を見渡すとレジの上の袋を掴んだ。まだ数名の客が棚を見ていた。まるで今夜マスをかくためのポルノ雑誌を選ぶ中学生のような目つきで。一人の男は手に四枚ものLPを抱えていた。給料が出たばかりのせいかこの日はよく売れていた。
俺が「じゃあ行くよ」と言おうとすると店の電話が鳴った。ヤツは「おお、電話だ」と洩らすと傍らにあったコードレスタイプの受話器に手を伸ばした。
「はい、ありがとうございます。黒猫レコードです。ああ、はいちょっと待ってくださいね」ヤツはそう言うと店の奥に設けられた七インチのコーナーに歩いて行ってパタパタとレコードをめくり始めた。「ああ、ありますよ。セカンド以外は全部揃ってます。ええ、うちにあるのはドイツ盤です。値段はファースト以外全部一二六〇円ですね。ファーストは二八〇〇円です。状態はどれもミントですね。ああ、はい通販ですね? だいじょうぶですよ」ヤツは七インチを六枚ほど抜き取るとレジに戻ってきた。「じゃあ、お名前と住所を教えてください。ああ、やっぱり毛利さんですか。いつもありがとうございます。じゃあ、送っときますので到着までしばくお待ち下さい。はい、またお願いします」
ヤツは電話を切った。レジの上に置かれた七インチは日本の大御所ガレージバンドのものだった。セカンドがなかったのは数日前にここを訪れたベースのデニーが買っていったからだった。俺は彼に「日本にこのバンドのシングルを全部持っているのはこのバンドのメンバーを除いて俺と他に数名だ」と散々自慢されていた。
「かわいそうにな」俺は言った。「デニーが買ってったヤツだろ?」
「もう少し早ければ全部揃ったのにな」ヤツは返した。「一枚だけ足りないっていうのはけっこうストレスになる」
「だろうな」
「多分この客は今頃、他の店に電話してる。まず見つからないだろうけど。あれは自主で作ったヤツだし、そのほとんどが海外に流れてるんだ。まあ、値段はたいしたことがないけど物が少ないんだ」
出し抜けに背後でドアが開いた。振り向くと俺と同じ年くらいの痩せた女が入ってきた。ヤツはその女に軽く右手を振った。
「おお、久しぶりだな。マッツ。今日は・・・・」
「クラッカー君・・・・」その女はあいさつもそこそこに暗い声で言った。「悪いんだけど家まで送ってくれない・・・・」
香水の匂いが鼻をついた。俺は二人の関係を想像した。ヤツの知り合いとは大抵顔見知りだったがその女を見たことはなかった。ヤツはなぜだかうんざりしたような、憐れむような暗い表情を浮かべていた。ヤツの彼女の知り合いか何かだろうかと俺は思った。
「いいけど・・・・」ヤツは言った。「何時になるかわかったもんじゃないぜ」
「早く帰らなきゃいけないの・・・・・仕事の都合で電車を逃しちゃって。かといってタクシーに乗るお金はないし・・・・クラッカー君しか頼れる人がいないの・・・・」
「おいおい、俺は仕事中だぜ。九時まで店を閉めるわけにはいかないんだ」
「九時が門限なの・・・・」彼女はおびえた感じで言った。「どうしても帰らなきゃいけないの・・・・」
「優子から聞いてるよ」
俺は女の顔が底なしの地獄に落ちていくように変化していくのを見ていた。女は背が高くて目鼻立ちの整ったなかなかの美人だったが、どこかおかしい感じがした。よく見ると痩せているというよりもやつれているといった感じだった。肩までの栗色の髪には一、二本だが白いものが混じっている。俺は彼女の育った家庭環境をだいたいだが察することができた。複雑な家庭環境で育った人間にありがちな雰囲気が彼女にはあった。精神的に少しまいっている人間特有の人から避けられることや、誘いを断られることをひどく恐れる目をしている。落ち着きなくキョロキョロと動く鋭くて悲しげな目・・・・
「なあ、香村」ヤツは少し考えてから口を開いた。「悪いけど、こいつを家まで送ってくれねぇか?」
「俺が?」
「車だったらそんなに遠くないんだ。でも、電車があんまりない地域だし、歩ける距離じゃないんだよ」
「どこだ?」
「一回だけ出たパウンターズクラブって店を覚えてるだろ。あのそばだ」
「遠くはないな。俺の部屋とは全く反対だけど」
「悪いんだけど行ってくれないか?」
俺は彼女をチラッと見やった。彼女は祈るような目で俺を見ていた。
「断るわけにはいかないんだろ?」
「正直な」ヤツはそう言うと背後の時計を見た。「本当はコーヒーでも飲みながらゆっくりと事情を話したいんだけど、あいにくそんな時間はないんでな。もう八時十五分だし」
「いいよ」俺は言った。「おまえには何かと世話になってることだし」
「悪いな。相棒」ヤツはそう言うと彼女に言った。「よかったな。こいつが送ってくれるってよ」
彼女の体から緊張の糸が解けたように思えた。彼女は俺に深々と頭を下げた。
「ありがとう・・・・えっと・・・・」
「香村だよ」ヤツが言った。「俺の相棒だ。見ての通り変なことはしないから感心していい」
「よろしくお願いします・・・・香村君・・・・」
俺も頭を下げ返した。内心面倒くさいなと思いながら。
*
店の階段を下りて通りに出た。俺と彼女はそばのコインパーキングへと歩いて行った。ヤツの働く店は小さな雑居ビルや、飲食店が軒をつらねるごちゃごちゃとした道の細い地域にあって路上駐車の取締りが厳しかった。俺がそんなところに車を停めたのはつまりそういうことだった。
二分ほど歩いてコインパーキングについた。俺は駐車代を精算機に入れると彼女といっしょに車に乗り込んだ。俺の車は中古の黒いマーチだった。
「道案内を頼むよ」俺はエンジンをかけながら言った。「あまり道には詳しくないんだ」
「うん。ここは左で」
「了解」
俺は通りに出ると彼女の言った方向に向かって走り始めた。運よく道は空いていた。しばらく走ると彼女が言った。
「タバコ吸ってもいい?」
「どうぞ。俺も吸うから」
「よかった」
彼女は窓を少し開けるとハンドバッグの中からタバコケースを取り出した。かすかに冬の香りをはらんだ冷たい秋の夜風が車内に吹き込んでくる。
「香村君も一本どう?」
「ありがとう。もらうよ」
俺は彼女からタバコと使い捨てライターを受け取ると火をつけて窓を開けた。俺が普段吸っているエコーではなくセブンスターだった。昔は好きだったが安タバコになれてしまった今となっては少しもの足りなかった。セブンスターを吸う女の子を見るのは久しぶりだった。
俺がライターを返すと彼女が言った。「バンドの子だよね?」
「うん」俺は言った。「あいつのメンバーだよ」
「それっぽいもんね。ボーカルだっけ?」
「そう。それにサイドギターとね」
「テープを聞いたことがあるよ。あの『移動祝祭日』ってやつ」
「うれしいな」
「かっこよかったよ。私は三曲目が好き、あの夏っぽい曲が」
「よかったらショウにも遊びに来てよ」俺は言った。「チケット代以上のものは必ず見せるから」
「一度、行きたいんだけどね。優子ちゃんにもたまに誘われるし・・・・」
彼女はさかんに車内の時計を見ていた。俺と一緒にいることに対する気詰まりなどは感じていないようだったが落ち着かなかった。よほど厳格なご両親と暮らしているのだろうと俺は思った。ひょっとすると彼女の両親は何かのタワケタ宗教に入っているのかもしれない。
「年はクラッカー君と同じ?」彼女が言った。
「そう。二十七」
「じゃあ、私の二コ下だ」
「そうなんだ」俺は言った。「ところで名前は?」
「私は松井政子」
「優子ちゃんとはどんな友達なの?」
「昔、バイトしてた喫茶店によく優子ちゃんが来てたの。あの子、黒いカブトムシに乗ってるからそれで話しかけたの。いつも店の前に頭から車を停める姿がかっこよくて。カブトムシは私の好きな車だから」
俺は笑った。敬語を使う気にはならなかったが、彼女がそれを気にする様子はなかった。年齢のことは社交辞令の一環として言ったのだろう。彼女なりの。
彼女が「次の信号を右」と言ったのでウィンカーを出して隣の車線に入った。俺は信号が赤になるのを待って右折した。
「香村君は寂しそう」
「松井さんもね」
「なんていうか女に興味がなさそう」
「よくわかるね」
彼女の言う通りだった。俺は尚美が病気でこの世を去って以来、女に興味がわかなくなっていた。どの女も彼女と比べればたいしたことがなかった。
「やっぱりそうなんだ」
「かといってホモではないけどね」
彼女はクスリと笑った。「好かれそうには見えるけどね」
「そうでもないよ。どっちかっていうとアイツの方が好かれる。クラッカーの方が」
「恋人は?」
「いない。松井さんは?」
「いるよ」彼女は言った。「一緒に住んでるの」
俺は彼女を見やった。彼女は俺と目が合うと視線をダッシュボードに落とした。まるでやましいことがあるかのように。俺はなんとなくだがさっきヤツが言っていた事情とやらがわかった気がした。
「てっきり親が厳しいのかと思ってたよ」俺は言った。
「親も厳しかったけどね」彼女は言った。「特に義理の母は。でも、彼のほうが厳しいの。っていうか心配性なんだよね。帰りが遅いと怒るの」
「そんなことは社会人ならよくあることじゃないか」
「私はあんまりないの。派遣社員だから大抵時間通りで終わるから。今日は例外だけど」
「じゃあ、さっきショウに来れないって言ったのは彼の命令?」
「そういう場所にはいっちゃいけないって言われてるの」
「でも、優子ちゃんは女だよ」
「男も女も関係ないのよ。私は彼以外の人とは出歩いちゃいけないことになってるから。彼も私以外の人とは出歩いちゃいけないことになってるし」
「で、気に入らないことがあると暴力を振るうわけだ? その彼は」
彼女は驚いた様子で俺を見つめた。「何でわかるの?」
「松井さんの態度を見てればわかるよ。口で怒られるだけには思えない」
「頭がいいんだね。香村君は」
「誰でもわかるよ」俺は言った。「ところで、この道をまっすぐでいいの?」
「うん。左折するところになったら言うから」
俺は時計に目をやった。八時四十分だった。間に合うだろうか?
「よくあるの?」俺は聞いた。
「何のこと?」
「暴力をふるわれること」
彼女は何も言わなかった。しかし、それが全てを物語っていた。俺は彼女が着ていた長袖のシャツの下が気にかかった。タバコを押し付けられた跡などがなければいいのだが。
「あまりいい関係とは思えないな」俺は言った。「少なくとも松井さんのためにはなってない気がする」
「そんなことないよ。私も武もお互いを必要としてるから」
「そうは思えないけど」
「私がいなくなったら武は自殺しちゃうかもしれない」彼女は続けた。「武は複雑な家庭で育ったから信用できる人がいないの。でも武には私が必要なのよ」
「だけど君のことを好きってことにはならないよ。もし好きなら暴力なんて振るわない。はずみでそうなることはあるかもしれないけど、慢性的にそうするのは異常だ。それに君のことがそんなに気になるっていうんなら、どうして自分で迎えに来ないんだ?」
「武は働いてるから・・・・」
「松井さんだって働いてるじゃないか」
彼女は一瞬口をつぐんだ。しかし、すぐにまた話し始めた。
「武にだっていいところはたくさんあるんだよ・・・・」
「例えば?」
「優しいとか・・・・」
「そうは思えないけど」
「臆病なんだよ」彼女は言った。「本当の武は優しいの。でも、そうしないとやってられないから暴力を振るうの。自分で自分が抑えられないんだよ。愛情の示し方がわからないから・・・・」
「全てを含めてその人だよ」俺は言った。「俺には君の彼が自分の我を押し付けてるようにしか思えない。それにどんな凶悪犯にだっていい面はあるよ。全てが悪い人間なんてこの世にいない」
「好きだからこそ手を上げれるんだよ」
「確かにね。でも君の話を聞く限り、君の彼は自分の思い通りにならないからそうしてるように思える」
「似てるね・・・・」
「うん?」
「優子ちゃんもクラッカー君も同じことを言ってた」
「だろうね。大きなお世話かもしれないけど・・・・」
「ねぇ、この話はもうやめない?」彼女は俺をさえぎって言った。「別にいいの。どうせわかってもらえるとは思ってないから。私は武のことが好きなの。例え何をされても、人からどう言われても・・・・」
俺はそれ以上何も言わなかった。言い方こそ穏やかだったが彼女の声には最終警告のような響きがあった。それ以上そのことに触れるとケンカになりかねなかった。車内には反発感が漂っていた。それに考えてみればそれは彼女の問題で、第三者の俺が口を出すべきようなことではなかった。本人がそう思っているならそれでいいわけだし、思うところは人それぞれなのだから。しあわせの形だって様々なのだし・・・・
俺と彼女はしばらく黙った。彼女は俺と視線が合うのを避けるかのように窓の外を見つめ、俺は無言でハンドルを握り続けた。俺は自分が人の上げ足をとろうと躍起になっている性格の悪い面接官になっていたような気がして気分が悪かった。おめでたすぎて自分の愚かさに気づくことのできない博学者ぶった大馬鹿者になり下がったような気がして。消耗しきったエンジンのうなる音がやけに大きく聞こえた。
「ねぇ」出し抜けに彼女が言った。「香村君は車の中で音楽を聴かないの?」
俺は知らない人を乗せる時はあえて何も音楽をかけないタチだった。俺が好きな音楽をその人が気に入るとは限らない。音楽は嗜好品と同じでそれぞれ好みがある。
「よかったら音楽をかけてくれない?」彼女は言った。「何か楽しい曲を」
「いいよ」俺は言った。「っていってもシャングリラスしかないんだけど」
「シャングリラス?」
「六〇年代のガールグループだよ」
「明るい曲?」
「そういうのもあるし、暗い曲もある」
「それでいいよ」
俺はデッキにささっていたカセットを押し込むと音楽が流れ始めるのを待ってボリュームを上げた。流れ始めたのはこのグループの名曲『リメンバー』だった。
俺と彼女は無言でそれを聞きながら暗い夜道を進んで行った。音楽のおかげで少しだけ車内の反発感が薄れたが、途切れた会話はそのままだった。
*
それから十分ほどして左折するように言われた。彼女と男が暮らす部屋は通りを入って少し行ったところにあった。小汚い二階建てのアパートで、俺の部屋と同様に裏手が砂利敷きの駐車場になっていた。古い民家や傾いた木造の商店が立ち並ぶ地域だった。
俺はどのみちユーターンをしなければいけなかったので駐車場に車を入れた。すると、白いジャージの上下を着た金髪の男が右端の部屋のドアの前でタバコをふかしているのが目に入った。俺は空いていた駐車場に車を尻から突っ込んだ。
「ありがとう」彼女は言った。「クラッカー君によろしく言っといてね」
俺は男がジッとこっちを見ていることを気にしながらうなずいた。彼女は今にも泣き出しそうな顔をしていた。駐車場はアパートの窓から漏れる灯りや、ところどころついたドアの横の灯りのおかげで比較的明るかった。
「あれが彼?」俺は言った。
「そう」彼女は言った。「機嫌が悪いみたい。家の外で待ってる時はそうなの」
「だいじょうぶか?」
「だいじょうぶ。ありがとうね」
彼女は動揺しながらそう言うとドアを開けて車の外に出た。男は数秒ほどこっちを見ていたが、それが彼女だと確認できると喚いた。
「どこに行ってたんだ!」
窓は閉めてあったがそれははっきりと聞こえた。気のふれた男を思わせる凶暴な叫び声だった。カーステレオから流れていたシャングリラスの『メイビー』が一瞬かき消された。
男はゴリラのような足取りで彼女に歩み寄った。そしていきなりみぞおちに拳を叩き込むと、彼女を地面につき倒して蹴りを入れた。彼女は腹を押えた状態で苦しそうに地面に転がった。男はさらにつま先を彼女に叩き込んだ。
「俺がどれだけ心配したのかわかってんのかこのやろう!」
俺はエンジンを切った。そしてライトを消すとドアを開けて外に出た。「そこまでにしときなよ」
男は俺をにらみつけた。「誰だテメーは!」
「いくらなんでもやりすぎだ」
「何だと?」
「理由くらい聞きなよ」俺は言った。「その子は別に駅前のデパートをウロウロしてたわけじゃないぜ」
「テメーに関係ねぇだろ!」
「そうは、いかないだろ」俺は言った。「こんなものを目の当たりにしたらほっておけない」
「何だ? 正義の味方でも気取るつもりか?」
俺は無言で男を見つめた。男は身長一七〇センチ、体重五一キロの俺よりもはるかにいい体格をしていた。見たところ身長は一七五センチくらいで体重は六五キロくらいだった。肩幅が広く狂暴そうな顔立ちをしていて、できることなら一生友達に持ちたくないタイプだった。
「何、黙ってんだよ?」男が言った。「怖くて声が出ないのか? このキノコカット」
「ビートルズカットだ」俺は万が一に備えて男の攻撃部位をさぐりながら言った。俺は前髪を短くして横と後ろが長かったのでそう見えなくもなかった。
男の言う通り俺は少し怖かった。自分よりも強そうな相手と向き合っているのだから当然のことだった。しかし、同時にこの男と殴りあいたいという気が少なからずあった。男には自分の嫌いな部分を思わせる何かがあった。
「おい、ヌケサク、テメーは、政子の何だ?」
俺はドアを閉めた。「あんたの心配してるような間柄ではないよ」
彼女が体を起した。彼女は俺の方に顔を向けると苦しさをこらえながらなるべく普通に聞こえるように言った。「いいの、香村君。だいじょうぶだから。もう帰って」
「そうはいかないだろ」俺は言った。「少なくとも今は」
「政子がいいって言ってんだろ!」男が叫んだ。「人の女に気安く話しかけるんじゃねぇぞ!」
「声を押えろ」俺は言った。「近所迷惑だ」
「迷惑なのはテメーだろうが! いちいち人の家庭に口出ししやがって。それに周りなんて関係ねぇだろ! 俺は家賃を払ってんだ!」
「それなら他の住人だってそうだろ。おまえに騒ぐ権利はないし、彼女を殴る権利もない」
「うるせー! とっとと出てけ。じゃねーと警察呼ぶぞ!」
「勝手にしろ。困るのはおまえの方だ」
「何だと!」
男が向かってきた。俺はとっさに右足を前に蹴りだした。その一撃は見事に男のみぞおちに命中して男を後ろに吹っ飛ばした。確かな手応えがあった。
俺は男の突進の強さに一瞬バランスを崩した。しかし、すぐに体制を立て直すと地面に尻餅をつく男のそばに歩み寄って顔面に蹴りを入れた。固いブーツの底は男の顔を見事に捉え大きく後ろにのけぞらせた。
「クソッ・・・・この野郎・・・・」
俺は地面に倒れこんだ男を注意深く見つめながら次の攻撃箇所を探った。まともにやったら体力で負けるので早々に仕留める必要があった。男は両手で顔を押さえた状態で芋虫のように地面を転がっていた。右へ左へと。
やがて俺はもう一度みぞおちを狙おうと右足を上にあげた。その時彼女が叫んだ。
「もうやめて! お願いだから!」
その声は銃声のように辺りに響いた。俺は足を下ろすと彼女の方を振りかえった。薄暗い中でも彼女がすごい形相で俺をにらみつけているのがわかった。まるで目の前で自分の肉親を殺そうとする凶悪犯を見るかのような目で。純度百パーセントの憎しみがこもった目だった。
彼女が立ち上がった。彼女は男の横に行くとしゃがみ込んで男の介抱を始めた。彼女に抱かれた男はすすり泣きを始めた。自分が他人に振るう暴力に対しては鈍感なくせに、自分が他人に振るわれる暴力に対しては敏感なようだった。鼻血を垂らした男はバカそのものに見えた。
「クソ!」男は彼女に介抱されながら言った。「よくもやりやがったな!」
男は立ち上がろうとした。それを彼女が必死で抑えた。着ていたブラウスの袖がまくれあがって腕があらわになった。そこには予想したとおりのものがいくつもあった。
「クソッ! 俺は負けてないからな! 油断しただけだからな! 勝ったなんて思うんじゃねぇぞこのキノコ野郎!」
「勝ち負けなんてどうでもいいよ」俺は言った。
「次は殺すからな! 次は絶対に殺すからな! 政子に指一本でも触れたら絶対に殺すからな! チクショウ! チクショウ!」
「殴られる痛みがわかったか? これがいつもおまえがその子にしてることだ」
俺はそう言葉を返そうとしたがやめた。彼女の視線が気がかりだった。涙のにじんだその目は明らかにこう言っていた。『帰って香村君。あんたなんか大嫌いだから。大切な彼をこれ以上傷つけないで。もう帰って! お願いだから! 今すぐ消えて!』
俺はしばらく二人を見つめると車に向かって歩き始めた。そして車に乗り込むとエンジンをかけてその場を走り去った。彼女の疫病神を見るような視線を背中に浴びながら逃げるようにして。好意で何かをして、余計なことをするなと怒鳴られた後のように暗くて恥ずかしい気持ちだった。自分がひどくみじめで劣っているように思えてならなかった。
クソッたれ・・・・
俺はハンドルを握りながら何度も悪態をついた。どう考えても狂っているとしか思えなかった。あのゴリラのような男とそれをかばう彼女に苛立ちを覚え、自分にも似たような感覚を覚えた。あのクソゴリラのどこがいいいのか? 一体あの女はどこに脳ミソをつけているのか? なんで俺は黙って行かなかったのか? おせっかいなクソ野郎め・・・・しかしそれだけではなかった。同時に俺はあの男が少しねたましくもあった。ありのままの自分を愛してくれる女がいることがうらやましかった。この世に全てをさらけ出せる相手と出会えた人間などそうはいない。しあわせなクソ野郎め・・・・
その夜は、部屋に帰ると熱いシャワーを浴びて缶ビールを二本ほど飲んですぐに寝た。ヤツに電話をしてあったことを話そうかとも考えたが、人と話したい気分ではなかった。そうするには心が痛かったし疲れすぎていた。様々な感情の糸がグチャグチャと複雑に絡まっていた。『優しさのおしつけ』という言葉と『おせっかい』という言葉が眠りに落ちる瞬間までグルグルと頭の中を回った。
*
俺は数日ほどそのことをひきずっていたが、間もなくして彼女のことを忘れた。どういうわけだかその後、ヤツが彼女のことを話すことはなかった。俺は一応ヤツにことのなりゆきを話したがヤツは特に何も言わなかった。ただ一言「巻き込んじまって悪かったな」といってコーヒーをご馳走してくれただけだった。彼女とどこかでばったり会うということもなかったし男が復讐に訪れることもなかった。いずれにしても一連の事件は時間が解決してくれた。
しかし、それから四ヶ月ほどが過ぎた晩に俺は意外な形で彼女と再会することになった。それは仕事帰りに立ち寄ったごくたまに行く小さな食堂でだった。その時俺は安い定食を義務的に腹に詰め込みながら週刊誌を読んでいた。十時を少し過ぎた頃だった。
カウンター席だけの狭い店内では油で汚れた十四インチのテレビがニュース番組を放送していた。俺は週刊誌の後ろの方に載っていた主婦の節約術という退屈だが目を通さずにいられない記事を呼んでいた。するとカウンターの中で暇そうにたばこをふかしていた店のおばさんが言った。
「この近くだね」
俺は雑誌から目を上げた。すると俺の住む町の名前が画面左上に小さく出ているのが目に入った。カメラは貧相な顔のレポーターとビニールシートが貼られた小汚いアパートの前にたむろする警官達の姿を写していた。どことなく見覚えのあるアパートだった。俺はしばらく考えてからそこが以前行った場所であることに気づいた。それはあの松井さんとかいう女の部屋だった。俺はかすかにだが好奇心が湧き上がるのを覚えた。
しかし、俺がそのことに気づいた時にはすでに次のニュースに移っていた。俺はなんとかレポーターが言っていたことを思い出そうとしたが無理だった。いくらがんばっても何も思い出せなかった。俺は一度に一つのことしかできないタイプの人間だった。一つのことすら満足にできないことも多々あるのだが。以前働いていた工場の上司はことあるごとに俺を不具者と呼んだが多分そうなのだろう。それを言ったらそいつだって仕事しかできない不具者なのだが。
俺は少し迷った末に店のおばさんを見やった。安さと量以外に取り柄のないその店に客は俺ともう二名だけだった。そのおばさんは中国雑技団のメイク係に頼んでそうしてもらったかのようなケバケバしいメイクをしていた。
「何があったんですか?」俺は話しかけた。
「何のことだい?」
「さっきのニュースのことですよ」俺は言った。「この近くだって言ってたでしょ」
「よくある事件だよ」おばさんは面倒くさそうに言った。「まったくキチガイだらけだね、この辺りは。なんでこの町にはろくでなししか住んでないんだろう。そこにある精神科の連中は何をしてるんだか」
「どんな事件だったんですか?」
おばさんは短くなったハイライトを吸い込むと鼻から煙を出しながら言った。「頭のイカれた男が痴情のもつれで女に灯油をぶっかけて火をつけたんだよ」
どこがよくある事件なんだ? と俺は思った。このおばさんは紛争地域にでもお住まいなのか?
「で、どうなったんですか?」
「火をつけられた女が病院に運ばれたんだって。重体らしいよ」
「でしょうね」
「男のほうは軽症なんだって」
「室内で?」
「外でだよ。女を部屋の外に叩き出してそうしたんだってさ」
俺は不思議と何も思わなかった。かわいそうとも痛ましいとも思わなかった。少し考えてみればいつか起きるであろう事件だった。さすがに自分の身の回りでこういうことが起こるとは思わなかったが。
「ところで原因は何だったんですか?」
「痴情のもつれって言っただろ」
「具体的には?」
「さてね」おばさんは手にしていたタバコを流しに捨てた。「そこまではテレビで言ってなかったから。もし、どうしても知りたいって言うんなら病院に行って本人に聞きな。どうせ第一病院に運ばれたんだろうから。もっとも、もう死んでるかもしれないがね」
俺はタバコに火をつけた。俺がこのおばさんを好きになれない理由は一言多いところだった。だからいつ来ても客が少ないのだろう。
「バカだよその女は」おばさんは吐き捨てるように言った。「ろくでもない男と一緒に暮らすなんて脳ミソがない証拠だよ。男を見る目がないのはバカってことさ」
「恋は盲目って言いますからね」
「バカバカしい。そんなものはキ印どものタワゴトだよ」
「そうですかね」
「あんたも女には気をつけなよ。そんなたわけたことを言ってると灯油を頭からぶっかけらて燃やされるよ。もしそうなったら頭から袋をかぶって一生クズ拾いだよ。残飯をあさってみんなから蹴られて、あげくの果てには野垂れ死にだよ。行政は何もしてくれないからね」
「心の片隅に止めておきます」
俺は残っていたお茶を飲み干すと席を立って代金を払った。そして店を出て駐車場に停めていた車に乗り込むとエンジンをかけて部屋へと走り始めた。刺すように寒い夜で、満月が全ての物と者を平等に照らしていた。時間帯のせいか交通量は少なく通りはひっそりとしていた。
彼女自身のことは特に何も思わなかった。しかし彼女が言っていた「何をされても好き」という言葉だけは別だった。なぜだかその言葉はとち狂ったメリーゴーランドのようにくるくると頭をめぐった。
俺はハンドルを握りながら今でもそうだろうかと考えた。とてもそうは思えなかったが、そうであって欲しかった。この世に何があっても変わらない愛があって欲しかった。誰もが欲する未来永劫に続く愛が。