小説「人殺し」
今から二十年以上も前の夏休みのことだった。
その頃、十歳だった俺は比較的田舎に住んでいて地元の悪ガキとよくつるんでいた。そこは山に囲まれた小さな町で、これといった産業や娯楽施設のある場所ではなかった。むろん十五キロほど離れた駅前には大きなスーパーや本屋がちゃんとあったが、自転車しか移動手段を持たないその頃の俺達には関係のない代物だった。
その頃の俺達の遊びというのは川や山に行って遊ぶというもので、あまりテレビゲームなどはしなかった。むろんそういうものはすでに世に出ていたが俺達の間ではそういうものは女や子供のすることとみなされていた。ごくたまにちがうヤツが加わることもあったが、だいたいつるむのは、同じ年の亮と俊介と憲一と俺で、一つ年上の良郎がリーダーだった。俺達は良識派ぶったヤツらが悪ガキと呼ぶ類の集団だった。むろん万引きはしなかったし、捨てられていた犬の飼い主を探したりもしたが、だいたいのところはそうだった。
蒸し暑いある日の午後、俺達はいつものように近所の川でおもちゃにするザリガニを捕まえていた。その日は捕まえたザリガニを交通量の多い道路にばら撒いて車がそれを踏み潰すのを見て楽しむという遊びをする予定だった。考案者はリーダーの良郎で、その夏はザリガニを使っての遊びが俺達の間で流行っていた。俺がとりわけ好きだったのはザリガニの胴体に爆竹を差し込んで火をつけるという遊びだった。
「後、十匹捕まえたら行こうぜ」と踝の上まで水に遣った状態で良郎が言った。「こういうことは景気よくやらなきゃな」
「了解」と憲一が答えた。「派手に行こうよ」
俺は背中を曲げた状態でそばにあったバケツにザリガニを投げた。捕り始めてまだ三十分もしないというのにバケツの中にはすでに二十匹近いザリガニがうごめいていた。俺はその様子を見ながらこいつらはどこから湧いてくるのだろうと考えた。この一週間で少なくとも二百匹はとっているというのに一向になくなる気配はなかった。石をどかして手を入れればまだまだ捕れた。上流にある養豚場と採石場の垂れ流す汚水で汚れた浅くて流れのゆるいその川はつきることのないおもちゃ箱のようなものだった。
「ところで誰かあれを持ってるか?」亮が聞いた。「一本欲しい」
良郎は半ズボンのポケットを叩いてみせた。「もちろんだ。ガムも持ってきたぜ」
それからすぐに十匹が捕まった。俺達は川から上がると堤防の上に停めていた自転車に乗って近所の林に向かった。そして辺りに人がいないことを確かめると五、六匹を残してバケツの中のザリガニを全て道路にばら撒いて木陰に隠れた。そこはトラックやダンプのよく通る道に面していてザリガニが踏み潰されるのをよく見ることができた。
良郎はポケットからタバコを一本取り出すと火をつけた。俺達はそれを回しのみしながら卵が落ちて割れるような音とともに次々とザリガニが車に踏み潰されていくのを眺めた。生い茂った木々の隙間から差し込む光が俺達に降り注いでいて、蝉しぐれがうるさかった。
亮はバケツの中から一匹を取り出すと左手から走ってくる車のタイヤの下にそれを投げ込んだ。タイヤは見事にそれを踏みつぶして、辺りに黄色い汁を飛ばした。まるでプチトマトがはぜたかのようだった。
「ナイスピッチング!」俊介が言った。
「亮は少年野球をやってたからな」俺は言った。「俺はうまくできたためしがないよ」
今度は良郎がバケツに手を伸ばした。彼は向かってくる車にそれを投げたがうまくはいかなかった。それは地面をすべっていってそばにあった溝に落ちて水しぶきをあげた。毎年この時期になるとこの溝は田んぼに水を送る農業用水路になるのだ。運のいいザリガニは踏み潰されることなくそこにたどりつけるがその数は少なかった。
「クソッ!」良郎は言った。「ミスだ!」
良郎は再びバケツに手を突っ込むともう一匹掴んだ。そして車が来るのを待ってもう一度投げたが今度もダメだった。ザリガニは電柱にぶつかってつぶれた。その道路は干からびて粉々になったザリガニの死骸だらけで、あちこちに色の変わったハサミや足が落ちていた。このところ雨が降っていなかったせいで風向きが変わると死んだザリガニの匂いが鼻をついた。
「なあ」良郎が出し抜けに言った。「今夜肝試しに行かないか?」
みんなが良郎を見やった。
俺は腕に止まっていたやぶ蚊を右手で叩きつぶした。「どこに?」
「『よっちゃんの家さ』」良郎は言った。
「冗談だろ?」亮が言った。「あそこはやばいよ!」
「だから行くのさ。六年のヤツらでもビビッて行かねぇんだ。行けば俺達はヒーローだぜ」
返事をするものはいなかった。そこは何十年も前に一家心中があったとされる廃屋で、興味本位で行ったヤツが発狂死したとか、そこに行った暴走族がその帰りに事故にあって植物人間になったといった変な噂の多い場所だった。俺は以前、そのそばの沼に父親と釣りに出かけた際に遠くからそこを見たことがあったが、確かに薄気味悪い場所だった。例えヒーローになれるとしても行きたくなかった。
「今夜、七時にミゾグチ(駄菓子屋の名前)に集合だ」良郎は新しいタバコに火をつけながら言った。「親には俺の家で勉強をするとでも言えばいい」
「やめようよ」と俊介が言った。「ヤバイよあそこは!」
良郎は俊介の左頬に拳を叩きこんだ。パチーンともペチーンともとれない鈍い音に俺達はビクッとした。俊介は体を曲げると頬を押えた。良郎はさらに俊介の腰を蹴っ飛ばした。良郎は六年生の男の子達にも恐れられるほどケンカが強かった。おそらく校内で一番だった。
「俺の言うことが聞けねぇのか?」と良郎がすごんだ。「おい!」
誰も何も言わなかった。俺達はただ認めるしかなかった。良郎がそう言ったら従うしかなかった。さもなければギタギタにされた上に、みんなから無視されるかだった。
俺達は一応、良郎の仲間ということになっていたが実際には良郎の奴隷のようなものだった。
その夜、夕食をとった俺は母に良郎の家で勉強をすると言って家を出た。そして手にしていた勉強道具を母の車の下に隠すと駄菓子屋の前でみんなと合流して自転車で『よっちゃんの家』へと向かった。亮と憲一が懐中電灯を、そして良郎は万が一に備えて金属バットを持ってきていたが、俺と俊介は手ぶらだった。良郎によると勉強道具はこのそばの小さな川にかかる橋の下に隠してきたとのことだった。
俺達は良郎に続いて『よっちゃんの家』へと続く急な山道を登って行った。その廃屋は俺達が住む団地からかなり離れた山の中にあった。そこは民家どころか外灯すら満足にないような場所で、ちゃんとした地名があるのかすら謎だった。曲がりくねった道の両脇に生い茂る木々の隙間をぬって差し込む月明かりがなんとも不気味だった。
俺はペダルをこぎながら家にいられたらよかったのにと何度も思った。母が切ってくれるスイカやテレビアニメが無性に恋しかった。一秒でも早く帰りたかった。態度にこそ出さなかったが、良郎以外のみんながそう思っているのは明らかだった。しょせん俺や亮は良郎に合わせていただけだった。一人ぼっちになりたくないがゆえに、そして良郎に刃向かう勇気がないがゆえに。
狂気の沙汰のような坂を上り続けるにつれて会話はなくなっていった。俺達はまだ熱の残る夜気の中で必死にペダルをこいだ。いくら苦しくても自転車を降りて押すのは禁止だった。それはみんなから手強いヤツらと思われている俺達のルールの一つだった。でも俺達の中にビビッていないものは良郎以外にいなかった。それはちょっとした物音に体をびくつかせる様子や、さかんにこの世に幽霊などいないということを唱える口ぶりからはっきりとわかった。進めば進むほど消えていく文明の匂いと、横を追い越して行く車やすれちがう車がほとんどないことが俺達をよけいに不安にさせた。俺は自分が行ってはいけない場所に行こうとしている気がしてならなかったがそれはおそらく亮や憲一も同じだった。ひょっとしたら良郎自信もそう思っていたのかもしれないが、態度には出さなかった。大将として。
やがて俺達は道を右にそれて舗装されてない一本の道に入って自転車を停めた。その道は目的の廃屋へと続く幅一メートルほどの私道だった。辺りは耳鳴りがしそうなほどに静かで目の前の道には背の高い草がうっそうと生い茂っていた。まるで何人も近づくなとでも言わんばかりに。聞こえるのはムシの鳴き声だけで、どんよりとした嫌な雰囲気が辺りに漂っていた。
「照らせ」と良郎が言った。
亮と憲一が懐中電灯で道の先を照らした。二十メートルほどの先の暗闇の中に荒廃した民家が部分的に浮かびあがった。大きな二階建ての家だった。窓は全て割れ、壁ははがれ落ち、右にかしいだ屋根のかわらもその大部分がなくなっている。家の横に生えた太くて大きな木の枝が一階の屋根に触れていた。それはまるで白骨化した悪魔の指が下からその屋根を持ち上げようとしているようだった。なぜこんな樹海のような場所に家を建てたのだろうという疑問が、その容姿の薄気味悪さに拍車をかけていた。
「たいしたことがねえな」良郎が言った。「俺はかあちゃんの実家のそばでもっと怖い場所に行ったことがある」
「本当に?」俺は言った。
「なんだ。俺をウソツキ呼ばわりしてるのか?」
「いや」
俺は良郎も恐れていることを悟った。恐怖心を紛らわすためにそうしているように思えた。普段の彼なら喜々としてその時のことを語るはすだった。俺は直感的にマズイと思った。気が立っている。
「この中で怖いヤツはいるか?」と良郎は言った。「もしいたら手をあげろ」
俺達はお互いの顔を見合わせた。誰も手を上げなかった。素直に上げていいものかどうかがわからなかった。
「そうか」良郎は言った。「じゃあ、亮、おまえが、あの中に行って様子を見て来い」
「えっ?」
暗くて表情はよくわからなかった。しかしその声は明らかに動揺していた。
「行けよ。怖くないんだろ?」
亮は行かなかった。ただ黙っているだけだった。
良郎が笑った。「正直に言えよ。怖いなら」
「怖い」
「そうか」
良郎は一歩前に出ると亮の頬を張った。そして続けざまに俺達の頬も張った。掌が頬を打つ鋭い音が一瞬、辺りに響いた。俺は頬を押えると良郎をにらみつけた。あまりの屈辱と怒りに目が潤むのがわかった。辺りが真っ暗なことがうれしかった。
「ウソツキどもが!」と良郎は言った。「俺はウソツキが大嫌いだ!」
「自分はどうなんだ?」俺は思わず言い返した。「自分だってビビッてるじゃないか」
良郎が俺に顔を向けた。しまった! と思う間もなく俺は地面にヒザをついた。良郎が持っていたバットの先で俺のみぞおちをついたのだ。俺は息をすることができずに草の上を転がった。
「口には気をつけろよ。恭平。あんまりふざけたことをぬかしてると殺すぞ」
良郎はそう言うと背中に蹴りを入れた。俺はあまりの痛みに腹を押えていいのか、背中を押えていいのかわからなくなった。その痛みときたら一瞬背骨が折れたのではないかと思うほどだった。だからといって誰も俺を助けてはくれなかった。もし、無断でそんなことをしたら良郎に「誰が助けていいと言った?」と言われるからだ。
「起せ」しばらくして良郎が言った。
俊介と憲一が俺を起した。全員が怒りを感じているのがありありとわかった。俺は心の中でつぶやいた。この刑務所帰りの息子がと。彼の父親はもう何年も前に蒸発していたが、その前は人を刺したかなんだかで刑務所に入っていたという噂だった。
「行くぞ。コシヌケども」
良郎が歩き始め、俺達がそれに続いた。まだ苦しかった俺は体を曲げて歩かざるをえなかった。俺はなぜだか以前、父から聞いた死の行進という言葉を思い出した。
草を踏みつける音がやけに大きく響いた。良郎の後ろを歩いていた俊介は彼の背中に中指を立てると俺を見やった。俺は暗くて表情がはっきりしないにも関わらずにほほ笑んで見せた。その行為は俺達の気持ちをよく表していた。良郎の横で道を照らしている亮も憲一もそう思っているにちがいない。
俺達は戸の外れた玄関から家の中に入っていった。懐中電灯の照らし出す家の中は外見と同じくらいにひどいありさまだった。壁ははがれ、そのまま置き去りにされた古臭い家具は雨漏りによってめくれあがったり、腐ったりしていた。床の畳は歩くたびに泥の中に足を踏み入れたような音をたて、廊下はところどころ完璧に抜け落ちている部分もあった。天井には砲弾が貫通したような大きな穴が空いていてそこからわずかな月明かりが差し込んでいた。妙にヒンヤリとしてかび臭かった。二階からは鳥の鳴き声が聞こえた。
「すげーな」と良郎が足元の床を軋ませながら言った。「まだ建ってるのが不思議なくらいだ」
俺達は迷路のように家の中を進んでいった。どれが何の部屋かはわからなかったが台所と便所はわかった。大きなかまどのある台所だったがガスなどがあったようには思えなかった。正確にいつごろ建てられたものかはわからなかったが、床に落ちていた虫食いだらけのはがきや、床に投げ捨てられた鉄製の扇風機やラジオを見る限り戦争の前に立てられたようだった。壁には以前にここを訪れた暴走族の残していった赤や青の落書きが残っていたが、それが俺達を安心させた。しかし、良郎に対する怒りは一向にひかなかった。むしろそれは落ち着けば落ち着くほど大きくなっていくようだった。俺は良郎の背中を見ながら心の中で思いつく限りの悪態をついた。心よりの憎悪こめて。
俺達は一階を一通り見終えると、玄関の右手にあった急な階段を上った。階段は歩くたびにひどく軋んだが幸いにも抜けるようなことはなかった。だが、先頭を歩いていた良郎は階段を上りきると突然立ち止まって壁を金属バットで叩いた。亮と憲一が同時にそこを照らすと赤いスプレーで文字と矢印が書かれているのが目に入った。
危剣! ここから先は立ち入りきん止!
矢印は右手に伸びる廊下を指していた。そうでなければ天井だった。俺は危険の字が間違っていることに気づいたがあえて何も言わなかった。その字にはなぜか鬼気迫るものがあるように思えた。俺達はしばらく壁を見つめた。またみんなに薄れかけていた恐怖心がもどってくるのがわかった。
「怖いか?」と良郎は憲一に聞いた。
「怖い」
憲一は一瞬ためらってから言った。もし、怖くないと言ったらまたおまえが先に行けと言われると思ったのだ。しかしそれを聞いた良郎は憲一の方を振り向くと得意の平手打ちを見舞った。むろん手加減はなしだった。
「ビビッた罰だ」と良郎は言った。「このクソッタレが」
憲一は無言で頬を押えた。一瞬上下に揺れた懐中電灯に照らされた彼の表情にはさっき俺が感じたものと同じものがあった。俺は自分と周りの連中の恐怖心がまた怒りに変わっていくのを感じたが、良郎は鈍感さからか、それとも俺達が絶対に手を出さないと知ってか、何事もなかったかのような態度で笑っていた。
「ウソにきまってんじゃねぇか。こんなもん」と彼は言った。「ビビッてんなよ」
良郎は鼻で笑うとその方向に向かって歩き始めた。俺達は少し離れてその後ろを続いた。
俺は一瞬、良郎を階段で突き落とすべきだったのかもしれないと思った。彼にとって俺達を殴るのは今やハナクソをほじくるのとたいしてかわらないことのように思えた。それは何も今に始まったことではないが、最近では日に日にひどくなっていた。特に今日は。
先頭の良郎が突き当たりの部屋に入った。それと同時に一斉に何かが跳ね上がる音が聞こえた。一瞬空を照らした懐中電灯の灯りの中を何かがものすごい勢いでこっちに向かってくるのがわかった。それは気がふれたかのように翼を打ち鳴らす無数の鳥だった。
「うおおお!」
これにはさすがの良郎も叫んだ。良郎は手をバタつかせて後ろにのけぞると尻餅をついた。亮は思わず手にしていた懐中電灯を投げ出すと頭を押さえ、俺と俊介と憲一は反射的にその場にしゃがみ込んだ。俺はだしぬけに以前に見たヒッチコックの映画を思った。鳥が人間を襲うという内容のものを。
何秒かして鳥の怒りが収まった。辺りにまたさきほどの静寂が訪れた。鳥のノドを鳴らす音とかすかに羽を動かす音が聞こえる。俺達はほぼ同時に顔を上げた。
良郎は床に手をついて立ち上がると憲一の手から懐中電灯を奪って辺りを照らした。俺は壁に書かれていた危険の意味をすぐに理解した。その八畳ほどの部屋は右を見ても左を見ても鳥だらけで、床は白いフンとハネで覆いつくされて漆喰で塗られたかのようになっていた。まるで巨大な鳥の巣だった。
俺達は立ち上がった。亮は思わず投げ出した懐中電灯を拾うと辺りを照らした。二つの懐中電灯に照らされた室内はその不気味さを増した。俺はゾッとしながらポケットからハンカチを取り出すと鼻に押し当てて一歩後ろに下がった。粒子と化した鳥の糞に思わずせき込みそうになった。おまけに何かが腐ったようなひどい匂いがした。
「スゲー」と俊介が言った。「一体何匹いるんだ」
「三十匹はいるぜ」と憲一が言った。「こんなとこ見たことねぇ」
俺にはもっといるように思えた。正確な数など知る由もないが。一つだけ確かなのは現在のこの家の家主が彼らということだけだった。
「出ようぜ」と亮は言った。「なんかくさいし」
「ああ。そうだな。このチクショウどもにお礼をしたらな」
良郎はそう言うと突然そばにあったフンまみれの小さな文机を掴んだ。そして何事かを叫ぶとそれを部屋の隅に置かれたタンスの方に投げ捨てた。俺は一瞬彼の気が狂ったのではないかと思った。何のためにそんなことをするのかがわからなかった。
その机はフンと雨漏りで腐食したタンスを粉々にした。その音に驚いた鳥達がまた一斉に羽を広げる。部屋の中の空気がかき回されて羽と乾いたフンが舞うのがわかった。俺と俊介は再び身の危険を感じてしゃがんだ。何十匹もの鳥が羽を一斉に羽ばたかせる音ときたら、殺されるんじゃないかと思うほどだった。
何秒かしてまた静寂が訪れた。俺は良郎の奇行に腹を立てながら立ち上がった。みんなも同じことを考えているようだった。
「おっ?」
良郎は何を思ったのか亮の手から懐中電灯を奪い取るとタンスの残骸の元に歩いて行って金属バットの先でその残骸を引っ掻き回した。やがて彼はしゃがみ込むと何やら細長いものを掴んだ。それは遠めに見ると二つに折り曲げられた巨大なムカデのように見えた。
「おい!」と良郎が興奮気味に言った。「すごいぜ! 金だ!」
俺達は無言だった。言っている意味がわからなかった。それを察した良郎は嬉々とした表情で俺達の元に戻ってくるとそれを俺達に突き出した。それは確かにお金だった。というよりも大昔にそうだったものだった。時代劇でよく目にする寛永通宝とかいう真中に四角い穴の空いたものだった。それはかなり大量にあってヒモで通されていた。
「おい! おまえらも来い!」と良郎は言った。「まだあるかもしれん。探せ! 町の中のコインショップに売れるぜ!」
俺達は良郎についてガレキを漁った。するともう一本束になった古銭が見つかった。今度はあまり数がなかったがもう少し厚みがあって細長いものだった。さっきのものと同じように真中に四角い穴が空いていた。他にも細々とした古銭が見つかった。良郎はさかんにそれを喜んでいたが、俺達の中に興味のあるものはいなかった。それよりも俺はなぜ、前にここを訪れた人間が発見できなかったかのほうが不思議だった。タンスの中身はほとんど部屋の中にぶちまけられていたし、引き出しは部屋のあちこちでフンにまみれているというのに。今ならタンスのどこかに隠し扉が設けられていたのだろうと考えられるのだが、その頃の俺がそんな言葉を知るはずもなかった。
その後俺達は隣の部屋を漁って階段を下りた。そして一階を少し漁ると廃屋を後にして来た道を引き返した。その後は特に何も見つからなかった。台所の土間の隅で干からびた猫の死体を見つけたが。二階の他の部屋についてはわからない。というのは左手の廊下に大きな穴が空いていたせいでそれ以上進むことができなかったのだ。しかし、最初の部屋とその隣の部屋を見る限り、もし行けたとしても行きたくなかった。隣の部屋も最初の部屋と同じで鳥の巣になっているとしか思えなかった。
帰りは行きとちがって楽だった。良郎は上機嫌で自転車をこぎ、俺達は事故に遭わないことを祈りながら自転車をこいだ。以前に聞いた廃屋からの帰り道に事故に遭ったという暴走族の話が頭にひっかかっていたのだ。良郎は見つけた古銭を戦利品として持ち帰ることにしたが、一人のポケットには入りきらなかったため、俺と憲一にも分散して持たせた。俺はよくわからない硬貨を何枚か預かったが、できれば置いておきたかった。興味がなかったのもそうだが、例えそれがなんであれ人の家から無断で物を持ち帰るのはどうかと思えた。墓に供えられたおもちゃをポケットに入れているような感覚がしたのだ。良郎の理不尽な態度はあいかわらず胸にひっかかったままだった。
無事、山を降りた俺達は駄菓子屋の前にもどった。良郎は俺と憲一に預けていた古銭を出させると自分のポケットに入れていた束になった銅銭と合わせてそれを一枚一枚自販機の灯りの下で確認していった。こうして見るとかなりの量と種類だった。むろん小判などはなかったが、縦一センチ、横半センチほどの黒ずんだ不思議なお金もあった。
「まさかこんなものがあるとはな」と良郎はほこらしげに言った。「行ってよかっただろ?」
「うん」
「楽しかっただろ?」
「うん」
「おまえたちはもっと男にならなきゃダメだ」
「うん」
「俺に感謝するんだな」
「うん」
俺達はただうなずいていた。でも、それはあくまで殴られないために言っているだけで、本当はそんなふうには考えてなかった。家にいたほうがどれだけ有意義な時間を過ごせたかと思わずにいられなかった。結局、俺達が得るものは良郎の暴力だけなのだから。良郎が手に入れた古銭を独り占めするのは明らかだった。別に興味もないしいいのだが。でも、さっきあずかった裏に龍がついた銅貨だけは少し欲しい気がした。
それから二日後の夕方、俺達は良郎の家の居間でテレビゲームをしていた。といっても実際にしていたのは彼だけで俺達はただ画面を見ているだけだったのだが。彼は俺達にすすめようともしなかった。
そのテレビゲームの本体は亮のものだった。一応それは借りているということになっていたが、実際には良郎のものとなっていた。彼の親が出れば奪回は可能だろうが、今のところそれはなかった。運悪く、彼の親はテレビゲームを快く思っていなかったのだ。それに、子供間で起こったことを親に言うのは俺達の間では弱虫のすることとみなされていたので言おうにも言えなかった。例えどれだけ殴られても、いじめられても、ゲーム機を取られてもだ。
やっていたのは昨日、駅前で良郎が買ったロールプレイングゲームだった。良郎は廃屋に行った翌日に町のコインショップに例の古銭を持って行っていくらかのお金に替えていた。彼によるとその金額はゲームソフトを買ってもまだ少しお金が余るほどとのことだった。八千円と言ったり九千円と言ったりしたので正確な値段はわからなかったが、それくらいのようだった。
彼はゲームをしながらそのおっさんが、自分の持っていった古銭にいかに驚いていたかということや、自分が勇敢だからこそこうして大金を手に入れられたということを得意気に話した。自分だけ冷たいスプライトを飲み、袋入りのポテトチップスを食べながら。
俺達はそれをいらいらしながら聞いた。ノドを乾かせ、夕飯前のおなかをならしながら。そして彼の暴君ぶりに対して一言も文句を言えない自分達に苛立ちを感じながら。顔では笑っていたが、彼に対する不満は限界に達しつつあった。
翌日から俺は五日間ほど母の実家に出かけた。その間に俺達の間で二つの事件が起こった。
まず、良郎が敵対していたグループのリーダーと戦った。そいつは良郎よりも一学年上の鈴木孝明という生徒だった。スポーツと勉強がよくできる女の子に人気のあるヤツでケンカもそこそこに強かったが、塾の前で待ち伏せしていた良郎には全く歯が立たずに、ギタギタにされた。原因は数日前に良郎と鈴木孝明のことを知っている男の子が、良郎に告げ口したとのことだった。鈴木孝明が野蛮なサル呼ばわりしていると。マトを射ていたせいか良郎はキレたが、いずれにせよそれは起こることだった。いつか鈴木孝明をぶっ飛ばすというのが良郎の口癖だった。
もう一つは、俺以外の仲間が良郎にボコボコにされたことだった。原因は例の廃屋だった。古銭を現代のお金に替えることに味をしめた良郎が他にも何かあるはずだから今度はシャベルや袋などを持って出かけようと切り出したところ亮と憲一が反対したのだ。どうせ、何が見つかっても、俺達には何も見返りがないし、あんなところには二度と行きたくないからと。それは普段からのうっぷんが爆発したとしか言いようのない事件だった。しかしこの事件は、いつもとほぼ同じ形で結末を迎え、おまけに三人は反逆罪のかどで、二時間ほどそばの駄菓子屋の前で正座をさせられた。俊介がそこに加わったのは連帯責任だった。良郎は彼もいっしょになって悪口を言っているにちがいないとふんだのだ。三人は熱い太陽の下で、買物に来る客の狂人を見るような視線に耐えながら正座したとのことだった。
俺がこの話を聞いたのは母の実家から帰ってきた日の夕方のことで、場所は俊介の家だった。俺は家につくなり、今すぐ来てくれと俊介に電話で呼び出されたのだ。
俊介の家に着くと良郎以外のみんながいた。亮と憲一はベッドに座り、俊介は勉強机のイスに、背を前にして座っていた。俺は適当に床に座った。良郎が父親に代わって家計を支える母親といっしょに駅前のスーパーに出かけているという話はさっきの電話で聞いていた。
「おまえはラッキーだった」と憲一が口を開いた。「いなくてよかったよ」
俊介は軽傷でほとんどいつもとかわらなかったが、憲一と亮は顔にいくつもの青たんを作り、あちこちをすりむいていた。俺が「どうしたんだ?」と聞くとみんなは怒りに声を震わせながら先に述べた二つの事件を教えてくれた。みんなで話し合って親には、すれちがった中学生だか高校生に因縁をつけられてやられたとウソをついたという部分をつけくわえて。罵詈雑言の嵐のような説明だった。まるで呪いの言葉の品評会だった。死ね、馬鹿、キチガイ、人殺しの子供、頭を叩き割る、ぶっ殺す! ぶっ殺す! ぶっ殺す!・・・・・
「もう限界だ!」亮が目をぎらつかせながら言った。「あのクソをやろうぜ。これ以上エスカレートしたら大変なことになる。あいつはそのうち俺達にもっとひどいことを言い出すに決まってるぜ!」
「どうやって?」俺は聞き返した。「鈴木孝明ですら負けちまったんだろ? 他に誰がやれるっていうんだよ? 良郎をやれるって噂があったヤツはあいつくらいだぜ」
「一人では無理だ」と憲一が言った。「でもみんなでやればできる。鈴木孝明とその手下を引き込んでもいい。そうすれば必ず勝てる」
俺には鈴木孝明がその話に飛びつくとは思えなかった。彼はできのいいヤツにありがちな一度負けた人間には二度と勝てないと思いこむふしがあった。それにもし、そうやって良郎をやっつけても彼が復讐に出てくるのはまちがいがなかった。
「なあ」と亮が言った。「いい案を思いついたんだけど」
その時、俊介の母が麦茶のボトルとコップを持って部屋に入ってきた。彼女は「何をそんなに熱くなってるの?」と言うと勉強机の上にあったみんなのグラスに麦茶を注いだ。俺達は苦笑いを浮かべてお茶を濁した。俊介の母親は美人で優しかった。彼の家は俺達の中では一番裕福で当時としては珍しいクーラーが全ての部屋に設置されていた。この日はあいにく窓を開けているだけだったが。彼の父は腕のいい弁護士だった。
俊介の母が部屋を出ると少し間を置いて亮が話し始めた。「さっきの話なんだけど」
「言えよ」と憲一。
「あいつを井戸に閉じ込めるっていうのはどうだ?」
「あん?」俊介が言った。「井戸?」
「どこにあるんだ?」俺は聞いた。「それになんで井戸なんだ?」
「あいつはあの廃屋に行きたがってる。でも、一人で行くのは怖い。だから俺達を付き添いをかねた人夫としてそこに連れて行きたがってる」
「井戸なんてあったか?」俺は聞いた。
「あったぜ」亮は言った。「大きな木の下にあっただろ?」
「そういえばあったな」と俊介。「草に埋もれてたけど」
憲一があいづちを打った。俺は思い返してみたが記憶になかった。脳裏に浮かぶのは金属バットの柄でみぞおちをつかれた時に感じた苦しさと怒り、それに干からびた猫の死体を見つけた時に感じた心底うんざりしたような感じとその光景だけだった
その様子を見ていた俊介が言った。「おまえは何を見てたんだ?」
「腹が立ってたから周りを見る余裕がなかったんだ」俺は返した。
「そうだな」憲一が言った。「あの晩はふんだりけったりだったな。全員」
「最悪だ」俊介が言った。「クソッタレ」
みんなが口々に悪態をついた。俺は打倒良郎を合言葉にみんなが一つになっていくのを感じた。心に同じ傷があるもの同士。良郎に対する反感は臨界点に達していた。
「で、なんで井戸なんだよ?」憲一が聞いた。
「ばあちゃんに聞いたことがあるんだ」と亮は返した。「昔、ばあちゃんの住む地域にとんでもない悪ガキがいたんだ。それで・・・・・」
「そいつは良郎より悪いのか?」と俊介が口をはさんだ。
「ファミコンを返さないのか?」と憲一。「それとも人の家に爆竹を投げ込むのか?」
「ケバイババアといっしょに市営住宅に住んでるのか?」と再び俊介。
「で・・・・ある時見かねたその家の親が近所の寺の和尚に相談した」亮はみんなを無視して続けた。「その話を聞いた和尚はそのガキを寺に呼んで井戸に叩き込んだ。そのガキは溺れながら悪態をついたそうだ。泣き喚きながら。でもその和尚は助けなかった。本当に反省するまでは。そのガキはかなり長い間そうされた。でも最終的に助けられた。そして和尚と親に二度と悪さをしないと誓った。それ以来、そのガキはみちがえるようにいい子になった」
俺はテレビアニメの日本昔話を思い出した。信憑性があるような、ないような話だった。でも、俊介と憲一はどういう理由からかそれを名案と讃えた。意気投合した三人はすぐに喜々とした表情で良郎が井戸に落ちたら言うであろう言葉と、もしそうなったら何を誓わせるかについて盛り上がり始めた。亮が言った『ショック療法』という言葉が効いたのかもしれない。そんな言葉を聞くのは初めてだった。
「でも、どうする」と憲一が言った。「どうすればいいんだ?」
「まずは」と亮が言った。「良郎を『よっちゃんの家』に連れて行くんだ。今アイツは古銭にとりつかれてるから、誘えば絶対に来るし、多分、自分からも行くって言ってくる。で、あいつをなんとかして井戸に近づけさせる」
「そこで突き落とすんだな?」俊介が言った。
亮はうなずいた。「こっちは四人だ。いくら良郎でもいきなりならどうしようもできない。何かの合図で一斉にやるんだ。入れって言っても無理だろうし、力ずくでやるには、被害が大きくなる可能性がある」
「でも、助ける時はどうするの?」俺は言った。
「井戸の横にロープがあっただろ」俊介が言った。「それを使えばいい」
「あったかそんなもん?」
「おまえは一体どこに目をつけてるんだ?」俊介は呆れた感じで言った。「すぐ隣の部屋を通ったじゃないか。見えたはずだぜ」
「そうだったな」と俺は言った。本当は全く記憶になかった。「ところでもし失敗したらどうするんだ? 殺されるぜ」
「臆病だな」と亮が言った。「絶対に成功するさ。それにこれは正面から行くよりはずっと成功率が高いし、良郎が改心する可能性だって高い。ばあちゃんが言ってた。水と暗い場所を恐れない人間はいないって。どんな悪ガキでもこれをすれば絶対に直るって」
それは理にかなっているように思えた。そういえば俺は幼稚園の頃に悪さをして、その頃、住んでいた家にあった土蔵の中に閉じ込められたことがあったが、あれは本当に怖かった。母にそうされたのは一度だけだったが、二度と悪さはしまいと誓ったことを覚えている。その中は昼なのに真っ暗で気も狂わんばかりだった。
「いつやるんだ?」と憲一が言った。
「明日だ」亮は言った。「明日は、ちょうど午後から良郎と遊ぶことになってただろ?」
「そうだ」俊介が言った。「明日は川原で宝探しをするとになってる」
「明日までの天下だな」憲一は意地の悪い笑みを浮かべて憎々しげに言った。「クソ、良郎め」
俺達はひとしきり良郎を罵ると明日の計画を練り始めた。正直、俺は半信半疑だったが水をさすようなことは言わなかった。少なくとも正面からかかっていくよりは利口に思えたし、良郎に何か仕返しをしてやりたいというのはみんなと同じだった。それに今までさんざん虐げられてきたことに対する復讐をするチャンスであることにまちがいはなかった。
翌日は朝からうだるような暑さになった。その日の午後、俺達はいつも遊んでいる川原を少し下った場所にある茂みの中でポルノ雑誌を探していた。俺達の言う宝探しとは茂みをかきわけてそれを探し出すことだった。どういうわけだか、その河原にはよくその手の雑誌が落ちていた。
その日の収穫は三冊だったがあまり面白いものはなかった。それは俺達が雑魚系と呼ぶ類のものだった。俺達はタバコを吸いながらそれをみんなで読み終えると川原に停めてあった自転車にまたがって駄菓子屋に向かった。三冊のポルノ雑誌は目についた家の郵便ポストにつっこんで処分した。それは良郎が気に入っているいたずらの一つだった。人の家にロケット花火を打ち込んだり、蛇の死体を投げ込んだりするのと同様に。
駄菓子屋につくとソーダを買って店の裏手に行った。良郎は俊介からせしめた百円でお気に入りのピンボールゲームを始め、俺達はゲーム機の横に立ってその様子を見守った。掘っ立て小屋のようなその店の裏には時代遅れなゲーム機がいくつか置かれていた。店の裏手は日陰になっているせいでいくらか涼しかった。それらのゲームは晴れた日にのみできることで、雨の日には店のどこかに片づけられていた。
「クソ!」良郎がゲーム機を拳で打ちつけながら言った。「壊れてんじゃねぇのか。このクソゲームは!」
俊介が横目で良郎をにらんだ。その目はこう言わんばかりだった。 ― なんで怒るんだ? あんたは俺の金でゲームをしたんだから痛くもかゆくもないだろ。勝っても負けても ― 良郎はまだいくらか古銭を売ったお金の残りを持っていたが、それにはいっさい手をつけずに、あいかわらず俊介にたかっていた。良郎の小遣いの額は俺達の中で一番少なかった。
やがて良郎がゲームオーバーとなった。それと同時に俺達は亮に目配せをした。話を切り出すのは物知りな彼の役目だった。いいタイミングだ。
「ねぇ」と亮が切り出した。「これから『よっちゃんの家』に行かない?」
良郎はソーダを飲み干すと大きなゲップをした。「どうしたんだよ。急に?」
「いや、急に行きたくなってさ」亮は言った。「実は少し気になることがあるんだ」
「何だ?」
「かまどの中を見てない」
「あん?」
「昔、ばあちゃんに聞いたことがあるんだ。昔の人はよくかまどの下に貴重品を隠したって」
良郎の目が輝いた。「何だって?」
俺はとっさに話を合わせた。「俺も聞いたことがあるよ。その話は」
「本当か?」
俺はうなずいた。「俺のおばあちゃんもそう言ってた」
「おい、何であの時言わなかったんだ?」良郎は興奮気味に言った。
「忘れてたんだ」亮は言った。「家に帰ってから思い出したんだ」
「おい、憲一、家からシャベルを持って来い! それになんか袋もだ! ついでに懐中電灯も持って来い!」
「スコップならあったよ」俊介が言った。「草むらの中で見た覚えがある。それにこの時間なら懐中電灯はいらないよ」
それはがウソか本当かはわからなかった。でも、俺には憲一に無駄な動きをさせたくないからそう言ったように思えた。俊介と憲一は特に仲がよかった。
「確かにこの時間ならだいじょうぶだね」憲一は太陽の位置を見ながら言った。「まだ三時前だから」
「おい、行くぜ! おまえら!」良郎は叫ぶようにしてそう言うと自転車に向かった。「早く行かないと日が暮れちまう!」
俺達は彼に続いて自転車に向かった。俺達は一瞬おたがいを見やるとニヤリと笑った。良郎が泣きながら許しを請う姿が脳裏に浮かんだ。自らの処刑の場に嬉々とした表情で向かう彼の姿がおめでたかった。
良郎は自転車に飛乗るとものすごい勢いで走り始めた。俺達は狂ったように輝く太陽の下を笑顔で彼に続いた。
俺達は先日同様にきつい坂道を登っていた。両脇に生い茂る木々のせいで昼間なのに辺りは薄暗く、対向車やすれちがう車もほとんどなかった。夜に来た時よりは怖くなかったが、それでも薄気味悪いことに変わりはなかった。良郎は額から汗を垂らしながら何度も俺達に言った。
「もし、なんか見つけたら、すぐに俺に言えよ。あそこにあるものは俺のものだからな。俺の目を盗んでポケットに入ようなんて考えるなよ。帰りに調べるからな」
やがて俺達は道路を右にそれて廃屋へと続く私道に入った。そして、先日自転車を停めた場所に自転車を停めると、背の高い草をかきわけて廃屋へと進んだ。俺達の足音に驚いたバッタや蛇が時おり音を立てて道を空けた。もし半ズボンをはいていたらスネが傷だらけになったことだろうが、運よく俺達は全員が長ズボンだった。俺達の間で半ズボンをはくのはダサいものとされていた。
俺達は家の前で立ち止まった。明るい中で見る廃屋の荒廃ぶりはすごかった。暗がりではわからなかったがその建物はピサの斜塔と同じくらいに建っていることが不思議だった。壁も窓も屋根もボロボロで右斜め前に傾いていた。確かに木の下には大きな井戸があって、その少し後ろでは錆だらけになった古い車が草に囲まれて朽ち果てていた。
「シャベルは?」良郎はいても立ってもいられないといった感じで俊介に聞いた。「シャベルはどこだよ?」
「こっちで見たよ」
俊介はそう言うと井戸の方に歩いて行った。良郎が彼の後ろを歩き、俺達がその後に続いた。俺は間もなくだなと思いながらドキドキした。シャベルの話やかまどの話が出たのは予想外だったがうまくいっている。俺達は彼をどうやって井戸に近づけるかと、どうやってたたき落とすかしか話していなかった。
亮と憲一と俺は井戸に行くと中を覗き込んだ。真っ暗で何も見えなかったがかなり深そうだった。その井戸の幅は一メートルくらいで人を落とすには十分だった。傍らにはだいぶ風化しているが丈夫そうなロープもあった。そばにあった小石を投げると水のはねる音がした。深さのある音だった。
「いくぜ」と亮が小声で言った。
「おう」と憲一が言った。
「良郎くーん」亮は後ろをふりむくと両手で口の周りを覆って言った。「なんかあるよ」
十メートルほど先の草むらの中にいた良郎がこっちを振り向いた。井戸の中でわずかに亮の声が響いたような感じがした。
「何だって?」良郎が声を張り上げた。「何があるって?」
「わからないけど何かあるみたい」と俺は言った。
良郎がこっちに向かって歩き始めた。興奮しているのか早足だった。俊介も向かってくる。俺と憲一は彼が井戸の前に来るとそこをどいた。彼が井戸に近づけるように。俺達は通知表を開く瞬間のようにドキドキしていた。うまくいくだろうか。
「どこだ?」と良郎が言った。
「そこ」と亮が井戸の中を指差した。
良郎は井戸に身を乗り出すと中を覗き込んだ。俺と俊介と憲一は良郎の背後に回りこんだ。全員真剣な面持ちをしていた。
「おいどこだよ? 亮?」
「ほら、もっと奥だよ。見えるでしょ?」
「あん?」
良郎はさらに身を乗り出した。それと同時に亮が叫んだ。
「今だ!」
良郎は亮の突然の叫び声に顔を上げようとした。俺達は一斉に良郎の背中を押した。掌の下が彼の背骨に激しくぶつかる感触がして、一瞬鈍い音が聞こえた。
「ああっ!」
良郎は短くそう洩らすとバランスを崩して前に倒れこんだ。彼は一瞬手をバタつかせて井戸の端を掴もうとしたがそのまま頭から暗闇の中に消えていった。その動きの一つ一つがスローモーションのように見えた。それまでやかましいほどに聞こえていたセミの鳴き声が一瞬止まったように感じられた。
井戸の中を重たい音がこだました。それはまるで骨格のある百キロの小麦粉袋を十メートルの高さから思い切りコンクリートの床に叩きつけたような音だった。水しぶきのあがる音はほとんど聞こえなかった。両足で浅い水溜りの上に飛び込んだ時に耳にするようなバシャンという音がいくらか聞こえただけだった。
俺達はしばらくの間無言で井戸を見つめていた。何がどうなっているのかよくわからなかった。それにどうしていいのかも。俺達はてっきり深い川に飛び込んだ時に聞くようなもっと大きな水しぶきがあがるものと思っていた。しかし、実際に俺達が聞いたのはもっと鈍い音だった。コンクリートの上に頭から落ちたような・・・・
状況がわかるにつれて恐怖にかられ始めた。それはものすごい勢いで膨張した。俺は井戸に身を乗り出して中を覗き込んだ。暗くてわからなかったが人のいる気配はまるで感じられなかった。俺は気の狂ったサルのように叫んだ。
「良郎君! 良郎君! 返事をしてよ! 良郎君!」
いくら呼んでも返事はなかった。ただ自分の声が暗闇の中を空しくこだまするだけだった。俺の声はほとんど悲鳴だった。
横にいた亮が井戸の中をのぞきこんだ。それと同時にみんなも井戸の中を覗き込んだ。みんなも気のふれたように叫んだ。
「良郎君!」
「返事をしてよ!」
「やめようよこういうことは。ねぇ! ねぇ! 今度欲しがってたスイス製のナイフをあげるから!」
みんなの言うことはバラバラだったが、その根底にあるものは一緒だった。それは良郎を殺してしまったかもしれないという恐怖だった。むろん返事はなかった。
「ちくしょう!」亮が叫んだ。「なんてこった! 水がなかったなんて!」
「どうすりゃいいんだ!」俊介が叫んだ。
「おまえが悪いんだぞ!」と憲一が亮に向かって叫んだ。「このクソッタレ!」
「うるせー!」亮が反論した。「水がないなんて知らなかったんだ! 普通井戸には水があるもんだろ! だったらなんで止めないんだ!」
「普通調べてからやるだろうが! このバカタレ!」
「なんて言い草だ! まるで良郎じゃないか!」
「それよりどうするんだ!」俺は叫んだ。「返事がないぜ! やばい!」
「そんなことはわかってんだよ、このマヌケ!」
俺達は半狂乱だった。みんな目に涙を浮かべていた。怖くてしかたがなかった。
「逃げるか!」亮が叫んだ。「逃げようぜ!」
「バカか!」と俊介が叫んだ。「そんなことをしてもダメだ!」
「じゃあ、どうするんだ! 警察に行ってみんなで仲良く良郎を殺しましたって言うのか!」
「とにかく助けを呼ぶんだ!」俺は叫んだ。「この下に民家があった。とにかくそこに戻るんだ! クソッタレ!」
「みんな落ち着け!」俊介が叫んだ。「恭平の言うとおりだ! ここを出て助けを呼ぶんだ!」
「そんなことしたら捕まるじゃねぇか!」亮が叫び返した。
「正直に話せばな。だから事故にするんだ!」
「何?」と憲一が叫んだ
「いいか。ここに居合わせたのは俺達だけだ。他に証言するやつはいない! みんなで口を揃えるんだ!」
「どうやって!」と俺は叫んだ。
「俺達は前にここに肝試しに来て気に入った。それで、今日も来た。で、家に入る前にそこの草むらで遊んでたら突然、「あっ!」って声が聞こえて良郎が井戸に落ちた。ありがちな話だ! それに逃げるよりはいい! 逃げれば罪が重くなる。それにもし逃げてもすぐに俺達が良郎といたってバレる。ミゾグチのババアに見られてる」
反論するものはいなかった。確かにそれが最良の策に思えた。
「俺と恭平が山を降りる」と俊介が言った。「亮と憲一はここにいろ」
二人はうなずいた。
俺と俊介は急いで山を降りると近所の民家に行った。そして運よくそこに居合わせたおばさんに事情を話した。息を切らし、汗を垂らしながら。そのおばさんは救急車を呼ぶと車で俺達を廃屋まで送ってくれた。おばさんは俺達の様子を見て冗談ではないということをすぐに悟ったようだった。正直自分達の話していることが日本語になっているのかどうかはわからなかった。俺達は気が動転していた。
廃屋に戻るとおばさんに連れられて井戸に行った。おばさんは身を乗り出して中を覗き込んだが何もできなかった。ただ責めるように「なんでこんなことになったの!」と言ってあたふたするだけだった。亮と憲一はあの後、何度か良郎を呼んだが返事はなかったようだった。あいかわらず井戸の中は真っ暗で誰もいないかのように静かだった。
消防団員が訪れ、救急車がやってきた。そして、その後に警察官がやってきた。良郎は腰に縄を巻いた消防団員によって救出されるとすぐに救急車で病院に運ばれた。彼はまだ息をしていたが全身血まれで手足の曲がり方もおかしかった。シャツの下から何かが飛び出し白目をむいていた。それはまちがいなく皮膚をやぶった骨だった。俺は思わず気を失いそうになったが、それはみんなも同じだった。おばさんはそれを見て泣き叫んでいた。
警察官は俺達に事情を聞いた。俊介がほとんどを話し俺達がそれにうなずくといった感じだった。俺はくるくると回るパトカーのライトや大人達を見て自分達のウソがばれたような気がしていたが、向こうはそう思っていないようだった。単純に恐怖のあまりしゃちこばっていると思ったようだった。小学生が彼を井戸に叩き落とす計画を事前に立てていたなどとは夢にも思わなかったのだ。それどころかよく救急車を呼ぶことを思いついたと誉めたくらいだった。
やがて警察から通報を受けた学校の教師がやってきて俺達はとりあえず頬を張られた。かけつけた鼻毛の出た教師は唇を震わせながら叫んだ。
「オマエ達は何をしでかしたんだ! 東小のメンモクを潰したんだぞ!」
その後は忙しかった。病院に行ったり、学校に行ったり、警察署に行ったり、俺達をひきとりに来た親に頬を張られたりと・・・・・
良郎は翌日の朝に死んだ。そのことは新聞に載ったしテレビのニュースでもわずかだが放送された。後でわかったことではその井戸の底はすり鉢のようになっていて、良郎は運悪く頭から水の干上がった部分に落ちてしまったということだった。全身を複雑骨折した良郎は二度と意識を取り戻さないままに死んだ。真実を何も語らないままに。
警察はその後で俺達がどんな子供達かを知ったがそれを事件として考えるようなことはしなかった。単純によくある事故の一つと片づけただけだった。先にも述べたように小学生が事前に人を井戸に突き落とす計画を立てていたなどとは考えなかったのだ。その後、俺達は何度か警察の取調べを受けたが打ち合わせ通り俊介が言ったことしか言わなかったし、どう答えていいかわからない部分は記憶にないといったが別に問題にもならなかった。小学生の証言など役に立たないと思ってのことか、事故として片づけたほうが楽だったのかは知るところではない。ひょっとしたら俊介の父親が弁護士だったというのも関係していたのかもしれないが今となっては知る由もない。
良郎の葬式はそれから二日後に行われたが俺達は誰もいかなかった。それは良郎の母親の意向によるものだった。俺達の親は良郎の母に謝りに行ったようだが謝罪を受け入れられることはなかった。同じ学年のヤツらは友達でもないのにかけつけて泣いたそうだがよくは知らない。良郎は学校中で恐れられていたが同時に嫌われものでもあった。涙を流したヤツらの何人が本当に良郎の死を悲しんでいたのかわからない。一番泣くべき関係にあった俺達ですら涙を流さなかったのだから。
むろん俺達は自分のしたことを後悔した。しかし、同時に良郎が死んでくれたことがうれしくもあった。俺達は良郎が死んだことよりも、良郎が意識を取り戻して真実を語ることの方が怖かった。真実が明るみに出てかぶるべき罪をかぶることの方が。
当然のことながら俺達は親から外出禁止とされた。俺達は夏休みの残りを家で過ごすこととなった。俺達はみなウソがばれる恐怖におびえ、血塗れの良郎の悪夢に震えた。眠れば必ず会いに来てくれる由朗の悪夢に。朝晩と廃屋の方を向いて許しを請うのが俺の日課になったがそれは何の意味もなかった。何をしても恐怖感と罪悪感を拭い去ることはできなかった。生前と同様に良郎が俺達を静かにしておいてくれることはなかった。
新学期が始まると俺達は周りの生徒から白い目で見られるようになった。そのため俺達は周りの生徒とのいざこざが耐えなくなり、鈴木孝明やその他のヤツ(主に良郎にいじめられていたヤツら)と揉める日が続いた。ほとんどを打ち負かしたのは言うまでもない。連中は良郎に比べたら本当にたいしたことがなかった。俺達は良郎の七光で生きているように思われがちだったが、実際にはそうではなかった。亮も憲一も俊介も俺もそこそこに強かった。ただ良郎には怖くて逆らえなかったというだけで。
そのいざこざは二ヶ月ほどして治まった。そしてそれが治まると俺達はごく自然に疎遠となっていった。その後も何度か俊介とは遊んだが、亮と憲一とは全く遊ばなくなった。十一月の肌寒い夜に一度だけ俊介の家に集まってあの事件のことは生涯誰にも話さないと誓いあっただけだった。なぜ遊ばなくなったのか理由はわからない。ひょっとしたら、みな心のどこかでこのメンバーではいないほうがいいとでも思っていたのかもしれない。このメンバーでいると災いを招くとでも。良郎の母は事故から間もなくしてどこかに引っ越していった。行方を知っているものはいなかったが、たまに良郎が行くと言っていた四国の実家に帰ったという説が有力だった。良郎がどこに埋葬されたのかは知る由もないし、亮の貸したゲーム機や俺の貸したマンガ本十五冊がどうなったのかもわからない。いずれにせよ彼女は誰にも何も言わずに消えた。良郎がいなくなったのをいいことに他の男と再婚したという話も聞いたがはっきりとはしない。
俺はその翌年の三月に父親の仕事の都合で遠くの町に引っ越した。俺の家は父親が地方記者だったせいで幼いころから転勤が多かった。町を去る前日にかつての仲間と会って住所を交換したが、手紙を書くことは一度もなかった。それは向こうも同じだった。俺がそうであったように向こうもこの事件に関する全てのことを忘れたかったのかもしれない。二年間を過ごした町だったが別に感慨はなかった。ただ遠くに行けることがうれしかった。一からやりなおせることが。
それ以降の生活はごくごくまともだった。普通に学校に行って宿題をしてと、みんながしていたことをした。人の家に花火を投げ込んだりもしなかったし、二度と集団に属することもしなかった。残りの小学校生活もさることながら、中、高、大とほとんどを一人で過ごし友達と呼べるやつをほとんど作らなかった。それは就職して結婚した今でも続いている。子供ながらに集団に属することの醜さを知ったのだろう。群れることほど恐ろしいことはないと。それゆえに俺は特に誰とも話さないですむような仕事についている。ただボタン押すだけのような仕事に。ごくたまに酒に誘われたりもするが俺がそれを受けることはない。この事件の真相を唯一知っている妻はそれを喜んでいる。
年月が事件を風化させるように人の記憶も風化させる。しかし俺はあの後も良郎の夢を見続けている。そしてまだ時おり血塗れの良郎に井戸に引き込まれる夢で夜中に飛び起きる。罪悪感はあの頃に比べれば薄れたが夢だけはそうはいかない。あの日、見た血塗れの良郎の姿は今でもはっきりと脳裏に焼きついている。それは夏の暑い日などには特に鮮明に思い出すことができる。あの時かすかにかいだ血の匂いとともに・・・・
もうすぐ三十二回目の夏が来る。今、俺は団地の中の公園のベンチに座って五歳になる娘を抱いている。そして遊び疲れて気持ちよさそうに眠るこの子がこの小さな手を罪で汚すことなく成長することを祈っている。俺と同じ過ちを犯さないことを。ムシの一匹も殺せない優しい妻に似た女性に成長することを。
でも、そうなるかはわからない。前にも言ったように良郎は執念深くやられたことは必ずやり返す。この間、この子は岐阜県の山奥にある妻の実家に行った際、庭にある古井戸を見て不思議なことを言った。
「ねぇ、お父さん。良郎君が絶対に許さないって言ってるよ」
(了)