小説「ある名曲の誕生」

 一時間七百円の安スタジオの中には重苦しい空気が立ちこめていた。そこはいかにも安物といった感じのあまり聞かないメーカーのアンプと、シンバルの割れたドラムセットが置かれた六畳ほどのスタジオだった。
 メンバーは床に座って誰かが死んだような表情を浮かべていた。俺は夕べ作ったばかりの新曲を他のメンバーに披露したところだった。メンバーは新しく俺が作った曲を俺以上に気に入っていない様子だった。
 俺はギターのつまみを絞ると手にしていたピックをネックと弦の間にさしこみマイクを通してメンバーに聞いた。「あんまりよくないか?」
「いや」ギターのクラッカーが言った。「あんまりじゃなくて、クソよくねえんだよ」
「おはなしにならねえよ」ドラムのダリアが言った。「おまえがここまでヒデーものを俺たちに聴かせたことが信じられねえ」
「おまえもヤキが回ったな」ベースのデニーが言った。「おまえはこれをいいと思ったのか?」
「少しだけな。サビの部分がディスチャージっぽいかなって」
「一ついいか香村」
「何だ?」
「ディスチャージのデの字もないぜ。連中がその創造性の十分の九を失ってもこんな曲をつくらねえよ。だいたい何なんだこの曲は? いったいおまえは何がしたかったんだ?」
「ロックンロールとハードコア・パンクの融合かな?」
「犬のクソと猫のクソの融合って感じだぜ。今までのおまえの曲には、どれだけ激しくてもちゃんとしたリズムがあった。でも今回はそれがない。これは、なんていうか豚がわめいてるだけのような曲だ」
 メンバーはいつも以上に冷たかった。それはレコーディングの期限が来週に迫っていたからだった。俺のバンドは再来月の頭に友人のバンドとスプリットのデモCD‐R ─ 一バンド三曲ずつで、それらは全て未発表のオリジナル曲というのが条件だった ― を出すことになっていたのだが、今のところ二曲しかできていなかった。他のメンバーは腕こそよかったが曲を作れるタチではなかったので、バンド内の楽曲は全て俺が手がけることになっていた。つまりバンドの命運は俺にかかっていた。
「今夜はここまでだな」クラッカーが腕時計を見ながら言った。「曲ができてない以上やることもない。仕事に戻らないといけないし」
 メンバーは床から立ち上がるとうんざりした様子で持参した楽器を掴んだ。この日メンバーは俺のこの曲を、メンバーが駄作と決めたこの曲を聴くためだけにここに来たのだった。楽器は万が一その曲がいい曲であった時のために持参したのだが、この夜は使われることがなかった。ずっとケースに収まったままだった。
「あさってまでには作ってこいよ」デニーが言った。「さもないと間にあわなくなる」
「すでに十分遅れてるわけだけどな」ダリアが言った。
「わかってる」俺は言った。
「がんばってくれよ、相棒」クラッカーが言った。「あいつらは俺たちとちがって人気があるから、今回のデモは、よりたくさんの人に聞いてもらえる。いい曲ができれば客も増えるだろうし、もしそうなればショウもやりやすくなる」
「ああ」
「期待してるぜ」
 俺は何もいわず楽器を片付け始めた。いつになく愛用のカジノが重たく感じられた。むろん作ってやろうとは思っていたが、返事をすることができなかった。

 スタジオの前でメンバーと別れた。俺は近くのスーパーでトリスを一本買うと力いっぱい自転車をこいで部屋に向かった。普段は町中のスタジオで練習をしているのだが、この日は俺の部屋のそばのスタジオを使っていた。
 部屋にもどり玄関をあがった。俺はギターケースからギターを取り出すと、何かいいアイデアが浮かぶことを祈りながら、ベッドに座ってギターを弾き始めた。腹が減っていたが飯を食う気にはならなかった。飯より曲が先だった。
 一時間が過ぎ、二時間が過ぎていった。しかしアイデアは微塵も浮ばなかった。俺はただ気のふれたチンパンジーのようにやたらめったら、ギターをかき鳴らしていたにすぎなかった。方向感覚を失ったニワトリがわけもわからず走り回っているようなものだった。
 時間とともにイライラが募ってきた。二時間半を過ぎた頃から俺は舌打ちをしたり、自分の手の甲に血が出るまで爪を立てたりし始めた。自分の役立たずな頭と心臓をショットガンでぶっ飛ばしたかった。

 クソっ! なんで、できないんだ? なんで前の二曲はすんなりできたのに今回に限ってダメなんだ? そもそもなんでオリジナル曲じゃなきゃダメなんだ! カバーでもいいじゃないか! でもその規則を決めたのは俺じゃないか! そうだ、俺が酔ってそんなことを言ったから悪いんだ。クソっ、魚民なんて地獄に堕ちろ! あの夜、打ち上げになんか出なけりゃよかったんだ。なんだって俺は三曲くらいすぐに作れるなんて思ったんだ! 自分が凡庸なろくでなしだってことはいたる所で教えられてきただろう! 工場やら喫茶店の厨房やらガソリンスタンドやらで!

 あせりと悪態のつきすぎでだんだん吐き気がしてきた。俺はギターを鳴らすのをやめるとため息をつき、足元に転がっていたビニール袋の中からトリスを取り出して飲み始めた。俺はギターをベッドに置くと頭の中で好きな曲やかっこいいと思っているフレーズを次々と鳴らしながら、ボケた老いぼれよろしく、うろうろと部屋の中を歩き回った。
 しかし、それらはただ無意味に頭の中を回っただけで何の助けにもならなかった。クランプスもソニックスもこの夜は、まったくの役立たずでしかなかった。頭の中で流れた『サーフィンバード』のマンブリングが、サンドペーパーのように俺の神経をこすった。
 俺はなぜトラッシュメンはあんな名曲を作れたのだろうと考えた。彼らにできて俺にできないというのはおかしな話だった。俺も連中も物を食ってクソをひりだす同じ人間だというのに。しかし俺と連中の間には、いかんともしがたい差があるのだった。
 考えれば考えるほど自分の無能さに腹が立った。俺はさらに瓶からぐいぐいあおり、その瓶が空になると流しの下から買い置きのワインを見つけてきてさらに飲んだ。しかしだからといってアイデアが浮ぶことはなかった。俺はただ無意味に酔っただけだった。
 だんだん足元がおぼつかなくなってきた。俺は床にうつぶせに寝転がるとアルコールの回った頭で曲のことを考えた。さまざまなリズムがメリー・ゴーラウンドのようにくるくると頭の中を回ったがしだいにそれは溶けて消えていった。

 気がつくと床で寝ていた。俺はバイト先の工場に病欠の電話を入れると、台所に行って顔に水をぶっかけた。まだ七時二十分だったので、急げば間に合う時間だったが曲のことが気がかりだったので仕事は休むことにした。どうせ辞めるかクビにされるかの仕事だったので気にはしなかった。
 流しの横のふちが黒くなった鏡に目をやるとひげ面の自分が映っていた。ホームレスのように髪はくちゃくちゃで口の中に牛乳が腐ったような味があった。俺はいじめ抜かれ、腹を空かせた皮膚病持ちの雑種のような目をしている鏡の中の自分に悪態をついた。殺したくなるほどの口臭が余計に俺をいらだたせた。
 固い床で寝たため体のあちこちが痛んだ。疲れがとれておらず、むしろ寝る前よりはるかに疲れが増したようだった。大量の安酒のせいで体中がむくんでいて、鈍い頭痛がした。気分は最悪の四歩手前というところで、今すぐ世界が滅んで欲しかった。
 酔いをさますために蛇口の下に顔を突っ込んで大量の水を飲んだ。腕で口をぬぐって隣の部屋に行くとベッドの上に転がっていたギターを掴み、立った状態で弾き始めた。それは自分が名曲を、少なくともメンバーと自分が名曲だと思っているものを生み出すのは立って弾いてる時に多いことを思い出したからだった。
 鈍い頭痛に耐えながら小一時間ほど弾いたが、何かが生まれることはなかった。正確に言えば一曲できたのだが、それはいかにも苦し紛れに作ったという代物で、とても人様に聞かせられるものではなかった。もしそれを出せばようやく付き始めた何人かの客からゴミ扱いされかねなかったし、そもそも他のメンバーがそれを認めるとも思えなかった。夕べメンバーに披露したあの曲よりも数倍ひどかった。
 俺はため息をつくと台所に行き、冷蔵庫を開けた。中はほぼ空っぽだったが、缶入りのコーラが一本あったので詮を開けてそれを飲んだ。俺はそれを持ってテーブルに座るとタバコに火をつけて狭い台所の壁を見つめた。床でゴキブリが足を宙に突き出した状態で死んでいるのが目に入ったがそのままにしておいた。
 しばらく曲のことを考えたが何も浮ばなかった。俺は何か気晴らしをしたら、いいアイデアが浮ぶかもしれないと思い再び隣の部屋に行き、ギターをベッドに放りだした。そしてしばらく考えた末に押入れを開け、その中からポルノビデオを引っ張り出した。マスをかくために。
 俺は立て続けに二回ほどマスをかいたが、それは何の助けにもならなかった。ただ無意味に疲れただけだった。

 夕方になっても曲はできなかった。俺は気分を晴らすために外に出ることにした。考えてみれば朝から俺はずっと薄暗い部屋の中で過ごしていた。
 部屋を出て繁華街の方へと歩いて行った。大型レコード店が目に入ったので中に歩いていった。俺は視聴コーナーに行き、そこにあるCDをジャンルやアーティストを問わずに片っ端から聞いた。しかし、そこによいと思えるものや、使えると思えるものは何もなかった。そこでの時間はまったくの無駄で、何でこんなものが売れるのだろうと俺は何度も思った。夕べ俺がメンバーに披露した曲よりもさらにひどいと思えるものもいくつかあった。
 心の中で悪態をつきながら通りに出た。俺は夕べからほとんど何も口にしていないことを思い出して、近くの中華料理屋に入り、ホルモンの炒め物とラーメンと白飯の定食を注文した。その店は狭くて汚かったが、何を食べてもまあまあおいしく、おまけに安くて量が多かったので俺は気に入っていた。
 時間帯のわりに店は空いていた。ホルモンの味はいつもどおりだったが、その夜はそれほどおいしくは感じられなかった。自分が身分不相応な贅沢をしているように思えてならなかった。ホルモンほどの価値もない人間がホルモンを食べているような、処女マリアを無理やり犯しているようなそんな気がした。曲ができないことと、刻々と時間が迫っていることが焦燥感と劣等感を与えていた。
 食事を終えて店を出た。俺は耳を澄ませ、目を皿のようにして通りを歩いた。何かを見つけようと、何かインスピレーションを得ようと。しかし何もアイデアは浮ばなかった。空腹は収まっていたがそれは特に意味をなしていなかったし、通りにある物も、そこを行きかう者もみな一様に無意味だった。高そうなスーツを着た自分と同じ年くらいの男が歩いているのを見て卑屈な気持ちになっただけだった。
 本屋に入って本を立ち読みしたが、それも助けにはならなかった。以前、知り合いのインテリぶった女がいいといっていた作家の作品をぱらぱらとめくったが、得るものは特になかった。ポルノまがいの雑誌を何冊か見たがただ裸の女が写っているだけで、まったく面白みがなかった。ブコウスキーはいつものようにすばらしかったが、こんな日には辛辣すぎた。生きる価値のある人間など一人もいないことはわかっていたし、自分がその最たるものであることもよくわかっていた。
 曲のことを考えながらあてどもなく通りを歩いて行った。気がつくと繁華街の外れに来ていた。俺は暗くなってきたしそろそろもどるかと思い、狭い路地に入った。そこは飲み屋や風俗店の多い場所で、よく小学生や中学生が、世間一般で言われるところの立派な人間たちに春を売っていた。
 俺は、はき古した雪駄をペタペタ鳴らしながらニンニクやら、焼き鳥やらの匂いが立ち込める狭い路地を進んで行った。すると出し抜けに後ろから肩を掴まれた。叩かれたのではなくぎゅっと掴まれたのだった。
 びっくりして振り返るとそこにだぼだぼの服を着た図体のでかい坊主頭の男が三人いた。俺は悪意のこもった肩の掴み方に身の危険を感じながらそいつらを見つめた。知り合いや、友人に好んでこんなナリをするやつは一人もいなかった。三人とも似たような体格と服装をしていたうえに、似たような髪形をしていたので、全部同じに見えた。
「よお」そいつは言った。「久しぶりだな」
「あんた誰?」俺は言った。
「とぼけんなよ。このマヌケ野郎。テメーはアルツハイマーか?」
 あっ! 俺は先日相棒のクラッカーと一緒にこの近くの飲み屋の外で、この手のやつらをぶちのめしたことを思い出した。こいつらはあの夜クラッカーに殴られたヤツとその仲間だと俺は思った。こいつらのようなナリをした二人組が、飲み屋を出た身障者に「酒なんてなまいきだ」と言ってからんでいたので、二人で止めた ― 正義や良心からではなく、単純にパチンコで負けていらいらしていたので暴れる口実を探していただけなのだが ― のだった。
 逃げなきゃ! と思った瞬間に他の二人が動いた。二人はご丁寧にも俺の逃げ場をふさいだ。前と後ろと右をそいつらに塞がれ、左を壁に塞がれたので、俺の逃げ場は上しかなくなった。俺はなぜだか先日テレビで見た一式戦闘機『隼』のことを思い浮かべた。
 俺はなんとか無血でここから逃げ出せないものかと頭をめぐらせた。そして苦し紛れに言った。
「人違いじゃないか?」
「それはないな」右側にいたヤツが言った。「おまえはまちがいなくあの時のクソ野郎だよ」
「どの時の?」
「とぼけんなよ。二週間前の水曜にそこの飲み屋の外でもめただろ。あの時は不意をつかれたが、今日はそうはいかねえぜ」
「何のことだ?」
「ふざけんなよ、テメー」
「ふざけてなんかないさ。本当に記憶にないからそう言ってるんだ」
「へっ、そうかよ。でも俺の記憶にはあるんだ。おまえはまちがいなくあの時のクソ野郎だ」
「何でわかるんだ?」俺は言った。「他人の空似かもしれないじゃないか? そいつは名刺でも渡して自己PRでもしたのか?」
「おまえ自分のことを面白いと思ってるだろ?」
「そこいらの四流コメディアンよりかはな」
「だったらそれはまちがいだ。テメーはまったく面白くねえよ。むかつくだけだ」
「たまに言われるよ」
「生まれた時に死んでおくべきだったんだよ」
「それもたまに言われるな」
「いいか、雪駄をはいて、ビートルズみたいな髪型をしたやつはそうそういねえんだよ。それにその肩の刺青だ。へっ、テメーの相棒もヒデー刺青を入れてたけど、テメーもあいつに似てセンスが悪いな。そりゃ、なんだ? つばめのつもりか? それともにわとりかなんかか? いったいどこで入れたんだ? それを入れたのは●●学校に通うキヨシちゃんか?」
 他の二人が手を叩いて笑った。まるで最後の日本兵が殺される瞬間を見守るアメリカ兵のような笑い方だった。俺は警察が来ないかと思いあたりを見回したがそんな気配は微塵もなかった。長袖を着てこなかったことと、ブーツをはいてこなかったことが悔やまれたが、着ていたところで意味がないような気もした。
「どうやらこの辺りには俺に似たやつがもう一人いるみたいだな」俺は言った。「そういえば前もそんなことを・・・・」
 次の瞬間、みぞおちの辺りに膝蹴りが入った。呼吸が止まり、さっき食べたものがこみ上げてきた。ゲロは吐かなかったが俺はたまらず地面に膝をつき「ぐっ・・・」と洩らした。とっさに体をひねったので急所からは外れたが、それはたいした意味をなさなかった。
 腹を押さえると今度は背中に蹴りが入った。勢いよく前に倒れると、今度は横から蹴りが入った。連中が何かを叫ぶ声が聞こえたので俺はとっさに両手で頭をかばい、体を丸めた。自分の状況はよくわからなかったが自然に体が動いた。
 ケースイスのスニーカーやティンバーのブーツの底が俺の背中と腹に降り注いだ。連中は大嫌いなサッカー選手どもが一つのボールを奪い合うかのように俺を蹴りまくった。まるで何十隻もの戦艦から一斉に艦砲射撃を食らっているかのようだった。俺は思わずでかい屁をぶっぱなした。
 尾?骨に蹴りが入ると体中が麻痺したようになり目の前を火花が散った。冗談じゃないほど痛く、永遠にこうしているしかないように思えた。しかし、スニーカーやブーツの底が規則的にアスファルトに触れる音を聞いているうちに頭の中で大きな爆発が起こった。そのリズムは俺が血眼になって探していた新曲のアイデアを俺に与えた。
 俺は思わず「ああ!」と叫んだ。硬いクソが出るときのように一度出るとするすると出てきた。奇しくもそのリズムは昔、好きだったが、今ではすっかり忘れていたロカビリーナンバーを思い出させた。アイデアはあっという間に形になり、そしてすぐに曲になった。
 前作二曲に匹敵するほどのいいメロディーラインだった。暴力的な要素を加えればご機嫌なレッキングナンバーになることは間違いがなかった。俺はそのメロディーを忘れないようにと、腹に蹴りが入って息が詰まっても口ずさみ続けた。「絞首刑」というタイトルとそれにまつわる歌詞も同時に浮んだ。
 しばらくして連中が動きをぴたりと止めた。少し間を置いて俺の背後で声が聞こえた。
「おい、こいつキチガイじゃねえのか? さっきからなんか歌ってるぜ」
「何て言ってんだ?」
 自分が思っているよりはるかに大きな声で歌っていたようだった。それは恐怖と痛みと歓喜によるものだった。俺はまだリズムを口ずさんでいた。
「なんかやばくねえか?」もう一人が言った。「変なとこを蹴ったんじゃねえのか?」
「頭を踏んづけたのが悪かったか?」
「頭から血が出てるな」
 俺は顔と頭を覆っていた手をどけた。俺はなぜだかへらへら笑っていた。おもしろくてたまらなかった。
 連中はホルマリン漬けの奇形児を見つめるかのような目で俺を見つめていた。連中の目には自分たちが殺人者になってしまうのではないかという類の恐怖が色濃く浮んでいた。一人と目が合ったので俺は言った。
「うれしいぜ・・・・」
 そいつの顔が恐怖で歪んだ。そいつはなにやら叫ぶと急に走り始めた。少し遅れて他の二人もそれに続いた。連中の遠ざかっていく足音はあっという間に聞こえなくなった。
 通りに静寂が訪れた。俺はしばらくして仰向けになると手の甲で顔についた血をぬぐった。体中が痛んだが気分がよかった。俺は相変わらずそのメロディーを口ずさんでいた。何度聞いてもかっこいい・・・・
 立ち上がろうとしたが立ち上がれなかった。俺は再び体をひねってジーンズの後ろポケットから携帯を取り出すと血まみれの指でボタンをいじって思いついたメロディーをそこに吹き込んだ。幸いにも携帯は壊れていなかった。
 作業を終えるとジーンズの前ポケットからくちゃくちゃになったエコーをとりだして、火をつけた。俺は空を見つめながら最高の気分でそれをふかした。運はまだ俺を完全には見放なしていないようだった。

        (完)  

小説「コンビニ」

 その頃あたしは二十五歳で町外れの部屋で友達と一緒に暮らしていた。その頃のあたしは売れないガレージバンドでベースを弾いていて、活動費と部屋代を稼ぐために、町中のかばん屋と近所のコンビニでアルバイトをしていた。
 かばん屋での仕事はほぼ毎日で、たいていは開店から閉店までだったが、コンビニでの仕事は週に二日程度で、その勤務時間は夜の七時から深夜零時までだった。どちらの仕事もそれほど時給がいいというわけではなかったが、工場やら倉庫やらで働くよりはマシだったし、気がねなく好きな時に休みがとれるという点ではなかなかよかった。
 十二月半ばの水曜の夜、あたしはバイト先のコンビニでボンヤリとレジの上のクリスマスツリーを見つめていた。その店は住宅地の外れの畑や田んぼの多い地域にポツンとあったので、夕方以降はたいてい暇だったが、その夜は午後から降り始めた大雪 ― 十五センチほどだったが、あたしの暮らす地域でそれだけの量の雪が降るのは珍しかった ― のせいで輪をかけて暇だった。時刻は午後九時を少し回ったくらいだったが、客足はもう一時間近く絶えていた。
 その夜のあたしは帰って寝ることばかりを考えていた。普段、暇な時は歌詞を書いたり、なにかしらすることを探してそれをするのだが、その夜は前日のショウで疲れていたせいで、自ら進んで何かをするような気にはなれなかった。退屈な有線が流れる店内にいるのはあたしだけ ― その辺りはこれといって何かが起きるような地域ではなかったのでよく一人で店番をすることがあった ― だったので、あたしの怠惰をとがめるものはいなかったが、同時に話し相手もいなかった。
 客が来ないままダラダラと時間が過ぎていった。ボーっとしているのにも飽きてレジの横のパソコンが置かれた小部屋で、ギターの朋子と携帯メールのやりとりをしていると、自動ドアの開く音が聞こえた。あたしは手にしていた携帯電話をジーンズの後ろポケットにしまうと、ようやく後三十分で交代の時間だなと思いながらレジに向かった。
 レジに出たあたしは「いらっしゃいませ」と言いかけたが、口をつぐんだ。あたしは自分が見ているものが信じられずに、その場に立ちつくした。その客は黒いジャンパーに色のはげたジーンズをはいた小柄な男だったが、口元をマスクで覆い、夜なのにサングラスをしていて、黒い野球帽で頭を隠していた。男がここに来た目的が髭剃りや手ぬぐいを買うためでないことは一目瞭然だったが、この店でそんなことが起こるとは思えなかった。
 男はあたしに目をとめるとレジの前にやってきた。そしてジャンパーの内側から使い古された感じの万能包丁を取り出すとレジ越しにそれをあたしに向けた。男はサングラス越しにあたしを見つめると震える声で言った。
「金を出せ・・・・」
 店内の時間が一瞬止まったように感じられた。あたしは恐怖よりも、そうであってほしくないことが現実になった時にありがちな、気だるい嫌気のようなものを強く感じながら、黙って男を見つめていた。パチンコでは負けてばかりなのに! 時給はたったの七五〇円で交通日も出ないのに! おまけにバンドは予想していたものの十分の一も売れてないというのに! という言葉が、くそったれ! という思いとともにふつふつと脳裏に浮かんだ。男に対してよりもろくなことの起きない自分の運命に対して腹が立った。 
 あたしがそんなことを思っていると男がアゴでレジを指した。あたしは立ち尽くしたままの状態でその様子を見つめながら、肌の感じや髪の感じからすると五十代半ばから六十代の前半くらいだろうか? とふと考えた。むろん少しはドキドキしていたが恐怖と呼ぶほどのものは感じなかった。男は身長一七〇センチのあたしより一五センチは背が低く、おまけにひどく痩せていたので、危険な感じはあまりしなかった。小学校一年の夏から中学二年の終わりまでずっとやっていた合気道の経験と、二十をゆうに超える実戦での経験とがあたしに余計にそう思わせた。
「おい、ねーちゃん!」男は一向に動こうとしないあたしに業を煮やしたのか、さっきよりも荒々しい口調で言った。
「聞こえてんのか!」
「聞こえてるよ」
 あたしは冷静に返した。あたしは包丁を握る男の手が高射砲の洗礼を間近であびる一式陸攻の機体よりも激しく揺れているのを見つめながら、まるであたしが男を威嚇していて、男が身を守るために包丁を構えていようだなと思った。男は必死にあたしを威圧しようとしていたが、その気の弱さと人のよさそうな感じは隠せていなかった。口調こそ荒かったが、男の態度にはどこか遠慮がちなところがあった。
「だったら、バカみたいに突っ立てねえで、早く開けろ!」
「帰ったほうがいいよ」あたしはバカみたいに突っ立ったままで言った。「開けてもお金なんかないから」
「何?」
「今日は雪のせいで客がほとんど来てないし、レジももう閉めちゃったから、あっても子供のお小遣い程度の額だよ」
 男はサングラス越しにじっとあたしを見つめた。あたしの正直な対応に狼狽したようだった。まさかこんな反応を示されるとは思いもしなかったのだろう。あたしがそんなことを言ったのは、警察の事情聴取を受けるのが面倒くさかったのと、目の前の男に対して憎しみや怒りを感じなかったからだった。
「それをしまって出て行きなよ」あたしは言った。「今出ていくなら警察に通報しないから」
「うるさい! いいから開けろ!」
「開けても何もないよ」
「ケガをしたくなかったら言う通りにしろ!」
 男はそう叫ぶと、いつのまにかヘソのあたりまで下がってしまった包丁を構えなおした。あたしは男を見つめながら、いじめられっ子が無理をして汚い言葉を使っている様子とハムスターが必死にライオンを威嚇している様子を連想した。光の加減で一瞬サングラスの下の目が見えたが、その目は恐怖で潤んでいた。あたしはその様子に哀れみを覚えた。
「くそっ! おまえは俺が何もしないと思ってるんだろ! 何もできないと思ってナメてんだろ!」男が叫んだ。「だとしたら大きなまちがいだぞ! 俺は今までに三人やってんだぞ! 言うとおりにしろ!」
 あたしは相変わらず黙って男を見つめていた。実際のところはそう思っていたが ― 正確に言えば何もできないと思っていたのだが ― 口には出さなかった。男は依然として包丁を構えていたがその手の揺れはさっきより激しくなっていた。あたしが冷静に見つめれば見つめるだけ、その揺れは激しくなるようだった。
「もう一度だけ言うぞ!」男が言った。「金を出せ!」
「出ていきなよ。今ならまだ間に合うから」
「いいから出せ!」
「あたしの気が変わらないうちにそうしなよ」
「いいから早く開けろ!」
「こんなはした金のために人生を棒にふることはないでしょ」
「うるさい!」
「逃げるなら今だよ。客が来たら・・・・」
「お願いだから出してくれ! 頼むから!」

 男の金切り声が店内に響いた。あたしはレジの上のクリスマスツリーに視線を落とすと、どうしたものかな・・・・と考え始めた。男があたしをさえぎって叫んだ「お願いだから」という強盗らしからぬ言葉があたしにいっそうの哀れみを覚えさせていた。その言葉は追い詰められた男の苦悩と境遇を的確に言い表しているように思えたし、生きたまま身を焼かれる人間が上げる悲鳴のような響きを帯びているように思えた。
 あたしは今にも失禁しそうな様子で包丁を握る男に視線を戻した。男が好んでこんなことをしているようには到底思えなかったし、こういうことをする人間とも思えなかった。くだらない仕事よろしく、生き延びるためにしかたなくしているように思えてならなかった。「お願いだから」という言葉が耳の中で銃声のようにこだましていた。
 しばらくして男が再び口を開きかけた。あたしは反射的にそれを手で制すと一瞬考えてから、はいていたジーンズの後ろポケットに手を伸ばして、もう何年も使っているクリームソーダのお財布を取り出した。そしてその中から昨日のショウの売り上げと生活費の計四万円をつかみ出すと男にそれを見せた。
「それを下ろして」あたしは言った。「お金が欲しいならそれを下ろして」
 男は驚いた様子であたしを見つめたが、状況を察したのかすぐに包丁を下ろした。あたしは歩いていくと手にしていたお金をレジの上に置いた。四万円のうちの二万七千円は他のメンバーと分けるべきものだったが気にはしなかった。
 レジの中の金を渡さなかったのは、もしそうしたら警察沙汰になるからで店のためではなかった。この店が燃えようが、三十キロ爆弾を落とされて灰燼に帰そうがそんなことはどうでもいいことだった。しかし、あたしはこの男を犯罪者にはしたくはなかった。あたしは哀れみと同時に同朋意識のようなものを男に対して感じていた。
「何か食べることに使って」あたしは言った。「おなかがふくれればきっと考えも変わるから」
 男は一瞬サングラス越しにあたしを見つめた。そして、それをつかむと出口に向かってものすごい速度で走り始めた。雪に濡れた安物の靴の底が床を噛むヒステリックな音が荒々しく店内に響いた。
 自動ドアがのろのろと面倒くさそうに開いた。店を飛び出た男は一瞬歩を緩めてウィンドウ越しにあたしを見やると右手のほうへと走り去って行った。まもなくして店の裏手から原付バイクのけたたましいエンジン音が聞こえた。まるで何かが爆発したような音だった。
 あたしはボーっとしながらエンジン音が住宅地の方へ遠ざかっていくのを聞いていた。レジの隅の置き時計に目をやるとほんの数分しか経っていなかったが、ずいぶんと長いことあの男と一緒にいたような気がしてならなかった。自分が部屋のそばの通い慣れたコンビニにいることが信じがたく、まるでどこか異国の地にでもいたような気がした。アフガニスタンかサンパウロの辺りに。
 しばらくして自分がお財布を手にしていることと、店内に最近巷ではやっている変なヒップホップグループの曲が流れていることに気づいた。あたしはお財布を後ろのポケットにもどそうとして、今度は、手が震えていることと、自分がひどく疲れていることに気づいた。これといって何かをしたわけでもないのに、一五〇〇メートルを全力疾走した後よりもはるかにひどい疲労感が体のあちこちにあり、粘り気をおびた油っぽい汗が脇の下と頭皮を冷たく濡らしていた。体の底にあった恐怖と疲労が一気に噴出してきたかのようだった。
 あたしは「もし男が包丁をあたしの胸につきたてていたら今頃自分はどうなっていただろう? 」と考え、今さらながら、ゾッとした。何度か深呼吸をすると手の震えは少しマシになったが完全には消えなかった。頭の中に血で真っ赤に染まった床の光景と、肺に穴があくと、どれくらい苦しいのだろうという疑問が浮んだ。ツアー先の神戸で知り合った肺に穴が開くという病気をわずらったことのあるホームレスの男のことが思い出された。
 そんなことをとめどなく考えていると店長の車が駐車場に入ってくるのが目に入った。あたしはまだ少し震えている手を隠すために手を後ろに組んだ。店長はあたしの父と同じくらいの年回りで ― あたしの父はこの頃、五十代の半ばだった ―、どことなく恵比寿様を思わせる顔つきと体格をしていたので、あたしや他のバイトから、えーちゃんと呼ばれていたが、実際のところは守銭奴のゲス野郎だった。恵比寿様のえの字もないクソ野郎で昔、店にいた中国人留学生のバイト代をちょろまかしていた。
  店長が店に入ってきた。あたしが頭を下げると店長は虫けらを見るかのような目であたしを見やった。店長には自分より立場の弱い人間をそういう目で見るクセがあった。
「変わったことはなかったか?」
「いいえ」
「売り上げは?」
「かんばしくありません」
「床をモップで拭け。それが終わったらあがれ。こんな日に残業代なんて払いたくないからな」
「はい」
「おい、雪村、おまえ、どうかしたのか?」
「別にどうもしてませんよ」
「具合が悪そうだぞ」
「多分、寒さと、コーヒーの飲みすぎだと思います」
「こんなにエアコンが効いてるのに寒いなんてどっか悪いんじゃないのか?」
「たぶん頭です」
「ははは・・・・」店長はいかにも作りものといった感じの笑い声を上げた。「コーヒーは控えたほうがいい。胃が荒れるぞ」
「気をつけます」
「それとエコーなんてけちくさいタバコもやめろ。あれは少なくとも女の吸うタバコじゃない。うちの店であれを買うのはおまえと他に数名だ。そもそも女がタバコを吸うな。俺はタバコを吸う女が嫌いだ」
「エコーも慣れるといいものですよ」
「ふん。女は女らしくあるべきだ。最近の女はどれもダメだ」
「何かあったんですか?」
「香村がやめやがった」
「じゃあ今夜は店長一人ですね」
「あの能無しのくそったれが」
 あたしは奥に行ってモップを持ってくると手が震えるのを押さえながら床を拭き始めた。あたしは男が残していった足跡を拭きながらひどく寒々しい気持ちであれこれ男のことを考えた。何か温かい物を食べただろうか? 家に温かい布団はあるのだろうか? どこかに家族はいないのだろうか? と。
 しばらくして顔をあげたあたしは、窓の外の寒そうな様子を見つめながら、みながしあわせであればいいのに・・・・と、いつになく思った。それが不可能だということは百も承知だったが、そう思わずにはいられなかった。

 それから一年ほどが過ぎた。十二月初旬の金曜日の夜、あたしは、傘をさしながら雪の中をバイト先のコンビニへと歩いていた。あたしは相変わらずかばん屋とコンビニで働いていた。
 午後の遅い時間から舞い始めた雪が辺りをうっすらと覆っていた。あたしは切りつけるような寒さを全身に感じながら目と鼻の先に迫ったツアーのことをあれこれ考えていた。あたしとメンバーは翌週の火曜日から最後のツアーに出ることになっていた。
 バンドの解散が決まったのは三ヶ月ほど前だった。理由は結成以来のメンバーであるドラムの由美子が家庭の事情で地元の福岡に帰らざるをえなくなったからだった。あたしはギターの朋子とドラムの由美子以外のメンバーと今のバンドをやる気はなかったし、それは朋子も一緒だったので解散することにしたのだった。もし、他のメンバーと一緒にやることでさらにバンドがよくなるとしても、それがバンドマンとしてあるまじき行為であるにしてもあたしは嫌だった。そう割り切るにはあまりに苦楽を共にし過ぎていた。
 解散に対する悲しさは今のところなかった。解散が決まってからもあたしたちは同じくらいのペースで次から次へとショウをしていたので感傷的な気持ちにひたる余裕はなかった。いかに最後を飾るかの方が大切だったし、初めていくオーストラリアでのショウに対する興奮の方が勝っていた。ツアーは東京、名古屋、大阪、京都、神戸、金沢、岐阜、富山とオーストラリアのメルボルンを回るというもので、あたしたちの最終公演は十二月三十一日の大晦日にメルボルンのパウンターズクラブという店で行われることになっていた。
 メルボルンでのショウが実現したのは大学時代に仲のよかったオーストラリア人のパンクスの女の子が誘ってくれたからだった。その子は帰国後バンドを組んでいて、あたしがメールで解散する旨と、最後にオーストラリアでショウをしたかったという旨を伝えると、だったらおいでよと言ってショウをブッキングしてくれたのだった。むろん自費での渡豪だがオーストラリアでショウをするのはあたしたちの長年の夢だったので気にはしなかった。クリスマスシーズンとあって少々航空運賃は高かったが。
 店に入るとレジに大学生のアルバイトの男の子がいるのが目に入った。客は誰もおらずいつものように退屈な有線が流れていた。あたしは紋切り型の挨拶をすると店の奥に行って制服に着替え始めた。
 着替えを終えて店に出た。あたしがレジに入るとその子が言った。
「雪村さん?」
「何?」
「あの、これ」
 男の子はレジの奥の小部屋に行くと薄茶色の給料袋のような形をした封筒を持ってきてあたしに手渡した。その封筒には『雪村さんへ』と黒いボールペンで書かれていた。豆粒のような小さな字だった。
「誰から?」
「さあ。佐野さんから渡してくれって言われたんで僕も詳しくは知らないんですよ」
「ふーん」
 ひょっとして、ラブレター? とあたしは思った。あたしは平静を装っていたが、今までの人生でそういうものをもらったことがなかったので ― 正確に言えば高校の頃に一度あったのだが、それをくれたのは肉の塊のような醜い女の子だった ― 少々ドキドキしていた。なぜあたしの名前を知っているのだろうという疑問が生まれたがそれはすぐに、胸元についている『あなたの笑顔のために』というたわけた綺麗事の書かれた名札のせいだという結論に達した。
「ねえ、雪村さん」
「何?」
「ここだけの話ですけど、佐野さんのことをどう思います?」
「どうって?」
「あの人のこと好きですか?」
「好きだよ」
 その男の子は長身の痩せ型で整った目鼻立ちをしていたが、自分のミスを人のせいにするヤツによくある卑怯そうな目をしていた。あたしは佐野という四十がらみのおばさんが嫌いだったが、男の子の口調にさぐりを入れているような節が感じられたので、あえてそのことは言わなかった。
「むかつきませんか?」
「いや」
「この間、理不尽なことで怒られてたのに? モップの置き方が悪いって」
「あれは、あたしに非があるから」
「丹羽さんはむかつくって言ってましたよ」
「ふーん、でもあたしはちがうから」
 会話はそれで終わった。男の子は少々がっかりした感じで「お疲れ様でした」と言うと、タイムカードを切るためにバックヤードに行った。あたしはその男の子の背中を見つめながら「アホンダラ」と心の中でつぶやいた。
 男の子が店を出るのを待って封をやぶった。中から二つに折りたたまれた紙片を取り出したあたしは、何だこれは? と思った。それは新聞に入っているスーパーの折込み広告で便箋などではなかった。アメリカ産の牛肉と洗剤がお買い得のようだったが、期日は過ぎていた。
 あたしは少々がっかりしながらそれを開いた。それが何かはわからなかったが、少なくともラブレターではなさそうだった。この間、店の前で注意したうるさいバイクに乗ったたわけ坊主どもが脅迫状でも送ってきたのかなと一瞬、思った。
 ありがとうな。ねーちゃん。
 ねーちゃんのおかげで俺は助かったよ。俺はあの後、あの金でたらふく飯を食って、中古のスーツを買って面接に行ったんだ。それで、まあ、くだらない仕事だけど、とにかく仕事にありついたんだ。あんたは俺の命の恩人だよ。やさしくしてくれて本当にありがとうな。これはあの夜借
りた金だ。この恩は一生忘れないよ。あんたはいい女だ。
 広告の裏には小さな汚い字でこう書かれていた。封筒の中をさぐると一万円札が六枚出てきた。あの夜のことを思い出したあたしは思わず両目を見開くと、「あの時のおっさんからか!」と心の中で叫んだ。あの夜のことがトチ狂ったメリーゴーランドのようにグルグルと頭の中を回った。溶けてバターになりかねないほどの凄まじい勢いで。
 狐につままれたような気持ちで手紙を見つめているうちに笑いがこみ上げてきた。なんだかはめられたような気がして楽しかった。あたしは思わず微笑むと、あの夜の男についてあれこれ考え始めた。あの後どんな仕事についたのだろうか? 今頃何をしてるのだろうか? あの夜あたしが渡したお金は四万円だったから、残りの二万円は利子だろうか? と。ツアーでお金がいる時期だったので、そのお金はうれしかったが、それ以上にあの男がしあわせにやっていることと、こうして手紙を書いてきてくれたことがうれしかった。あたしは思わず「ざまあみろ」とつぶやいたが、それが何に対してなのかは自分でもよくわからなかった。
 それから間もなくして客が入ってきた。あたしはこぼれる笑みをかみ殺しながら店員としての決まり文句を言うと、手紙をジーンズの後ろポケットに入れてレジの前に立った。あたしは窓の外に視線を流すとあの夜と同じことを祈った。みながしあわせでありますように、と。
        (完)

小説「月に行った猫」前編

 〈1〉

 半年前に十四番目となる職を失った恭平は月三万五千円のボロアパートで一人寂しく暮らしていた。彼は三十四歳になる醜い男で中学校しか卒業していなかった。一応高校には進学したものの二年で中退し、それ以降は警備員や季節労働者として地方を渡り歩いていた。彼はこれといった産業のない貧しい地方の出身で、今は自動車関連の工場が多く存在する地方都市に住んでいた。前職 ― 自動車部品工場の契約社員だったが ― を失った理由は人件費削減のためのリストラだった。
 恭平は世間一般でいうところの落伍者でありニートだった。彼が部屋を出るのは週に一度、近所のスーパーに特売品になった食料を買いに行く時だけで、以前は日課のように通っていた職業安定所にも今では全く行かなくなっていた。彼は失業してから星の数ほどもの履歴書を出し、ありとあらゆる会社に面接に出かけていたが仕事を見つけることはできなかった。高い電車賃を払い、精魂を込めて履歴書を書いた末に彼が手にしたものは決まり文句が書かれたできあいの不採用通知だけだった。
 できることなら死ぬまでやりたくない介護職にも手を伸ばしたが結果は同じだった。五軒ほどそういう場所を回ったが全てダメだった。中には手取りで十四万円程度の給料しか出さないにも関わらず「こういう仕事は能力の高い人しかできない」と言い出す経営者までいたほどだった。その経営者に「まあ、ボランティアとしてなら雇ってもいいが」と言われた彼は「誰が無料でジジィやババアの下痢便にまみれるか!」と言ってそれを断ったのだった。いずれにせよそれらのことは彼を心底疲れさせた。そして彼から就労の意思を奪い、その代わりに『手持ちの金が尽きたらどこかで首を吊るなりなんなりして楽になろう』という自殺願望を植えつけた。
 わずかな蓄えと三カ月前に支給の途絶えた失業保険を頼りに暮らす彼の生活は悲惨だった。その生活はまるで即御仏になるための苦行のようなものだった。食事らしい食事は二日に一度で、それ以外の日は砂糖と小麦粉を水に溶いて焼いたもので飢えをしのいでいた。そのため身長一七五センチの彼の体重はモデルの女性並に落ち、頬や目もすっかり落ち窪み、慢性的な下痢に苛まれていた。しかし彼に救いの手を差し伸べてくれるような人間はいなかった。彼は人付き合いが苦手だったうえに親、兄弟とはほぼ絶縁状態にあった。家を出たのはいつも自分をバカにし、蔑んできた家族から離れたかったからだった。家族は彼のことを一家の恥さらしと思っていたが、彼は家族のことを血がつながっているだけのあかの他人としか思っていなかった。いずれにせよ彼は一人ぼっちだった。
 そんな恭平の唯一の慰めは酒だった。少なくともベロベロに酔っている間は何も考えずにすんだし、飲めば飲んだだけグッスリと眠ることができた。そんなわけで彼は一日のほとんどを酔って過ごしていた。彼は明け方に寝て夕方、遅い時は夜に起きるという生活を繰り返していたが、それは人が仕事に行ったり学校に行ったりするのを見なくてすむようにするためだった。別にそれらの人間が何をするというわけではないが、彼にはそれらの人間を見ることが苦痛だった。見ると自分の耐え難い部分がいっしょに見えてしまうのだ。いずれにしても今の彼はただ心臓が動いているからという理由で生きているに過ぎなかった。

 冷たい雨のそぼ降る十一月のある日の夕方、恭平はくたびれたビニール傘をさしながら古びた八百屋や魚屋が軒をつらねる商店街の中を歩いていた。彼はいきつけのスーパーで最後の一万円を焼酎や食品に使ったところだった。全財産は今や四千円少々となっていた。
 恭平は朝からの雨にも関わらず賑わう通りを見つめながら予定していた投身自殺 ― 彼が数ある自殺方法の中からそれを選んだのはそれこそが自分にふさわしい死に方だと思ったからだった ― を近日中に行うことを考えていた。所持金のことや部屋代のことなどを考えると遅くとも二週間以内に死ななくてはいけなかった。生きるために何かをしようなどとは思わなかった。生きながらえて何になる?と思っていたのだ。それは自ら好んで悪夢を長引かせるようなものだった。
 アスファルトに叩きつけられた自分の体が砲弾のように飛び散る様子を想像していると前方から学校帰りと思しき派手な女子高生の二人組がやってくるのが目に入った。その二人はどちらも金髪で十代特有の世の中をナメ、腐った感じの表情を浮かべながら大声で話していた。まるで耳が遠いかのような声量で目にするもの全てをあざ笑っていた。
「何あれ?」一人がすれちがいざまに恭平を見ながら言った。「あれで人間のつもり?」
「なんであんなのが道を歩けるの?」もう一人が返した。「それにあのダサいTシャツは何? ゴミ捨て場から生まれてきたんじゃないの?」
「恥知らずだからだよ。私だったら自殺するか、親を殺すな。あんな顔に生まれたら」
「絶対童貞だよ、あいつ」
「気色わる! 今のうちに殺しとくべきだよ。ああいうヤツが性犯罪を起すんだよ」
「あんなヤツにヤラレるくらいなら喜んで人間魚雷に乗るよ」
 彼女達は気のふれたような大声で笑った。恭平は一瞬後ろを振り返ったが、そのまま歩き続けた。一メートルも歩かないうちにまた弾けたような笑い声が通りに響いた。
 恭平は一瞬悲しい気持ちになったがすぐに気分を取り直した。人からバカにされるのはいつものことだったし、今の自分の姿を考えれば笑われて当然だった。髭で口のまわりは真黒だったし、髪は浮浪者のように伸びきっていたし、着ているものもみすぼらしかった。シャワーはささやかな楽しみだったので毎日浴びていたがとてもそうは思えなかった。彼は自分をこんな容姿に産んだ両親のことを思い出し悪態をついたが、社会に対してはどうも思わなかった。
 間もなくして肉屋の前にさしかかった。恭平は周りの店と比べて少しだけキレイなその店の前で足を止めるとジッとガラスケースを見つめた。そこにはオーストラリア産の大きなステーキ用牛肉が二枚千円で売られていた。
 恭平は少し考えた末に、どうせ死ぬなら最後に贅沢をしようとその肉を買った。そして店主と思しきブタのような鼻をした白衣姿の男から包みを受け取ると、再び部屋に向かって歩き始めた。人生最後の贅沢が二枚で千円の外国産の牛肉と考えると少し空しかったが、その気持ちよりも久しぶりに人間らしい食事にありつけることへの喜びの方が大きかった。牛肉は彼の大好物だった。
 どうせなら豪華にいこうと思った恭平は、そばの八百屋で付け合せ用のジャガイモとにんじんを買った。ステーキソースはなかったが、まだいくらか残っている塩と胡椒で間に合わせることにした。運よく芽の生えたニンニクもあったし、今のところは料理をするためのガスもちゃんとつながっていた。彼は先ほどの女子高生のことを思い出すと心の中で、今夜はとるに足らない忌まわしきクソ人生に乾杯だ! とつぶやいた。
 商店街を抜けた恭平はアパートのある住宅地に入った。彼はなぜだか以前に派遣社員として働いていた弁当工場で知り合ったクラッカー・サンダーボルトというバンドマンの男のことを思い出した。何度か休憩時間に話した程度だったが、彼はその男のことを気に入っていた。その男はいかにもバンドマンといった感じで誰に対しても平等にケンカっぱやかったがあけっぴろげでいいヤツだった。人を欺いたり影口を叩いたりしないタイプの人間だった。しかし、その男は意地の悪い社長の奥さんに「えらそうに洋モクなんて吸って」と嫌味を言われたことに腹を立てて乱闘騒ぎを起し、三週間もしないうちにその会社を辞めてしまったのだった。
 今よりも少しマシだがひどいことに変りのない日々のことが脳裏をよぎった。恭平はしばらくその男のことを考えた。― そういえばあの男にはレコード屋の仕事があって楽器を買うためか何かで週に二日しか来ていなかったな。あの男は今頃どうしているのだろう? そういえばあの男が働いているレコード屋は俺の部屋のそばだった。黒猫レコードとかなんとか言ったけどまだあるのだろうか? 一体どんなレコード屋なんだろう? ―
 そんなことを考えているうちにアパートのそばにやってきた。ふと視線を流した恭平は左手にあるゴミ捨て場に尻尾の切れた汚らしいトラ猫がいることに気づいた。その猫はゴミ捨て場に落ちていた雨に濡れた肉片をモサモサと食べている最中でひどく痩せていた。後姿を見る限りかなりの年寄りのようだった。彼は幼い頃から猫が好きだったので猫の年齢を見分けることができた。いつか飼いたいと思ってよく図鑑などを見ていたのだ。
 恭平は雨に濡れたその猫の姿をジッと見つめた。すると視線に気づいた猫が食事をやめて後ろを振り返った。彼と猫は数秒ほど見つめあった。その猫は不思議と逃げようとはしなかった。彼はその猫の左目が膿か何かでふさがってしまっていることに気づき、中学生の頃に見たモデルガンで撃たれた猫の目がちょうどこんな感じだったことを思い出した。
 しばらくして猫が立ち上がった。その猫はひとなつっこい声で鳴くと恭平の足元にやってきて彼に頭をすりよせた。それが病気のせいか、空腹のせいかはわからなかったが、足取りはおぼつかなかった。その猫はヨロヨロしながらも懸命に頭をすりつけて恭平のジーンズの裾を雨で濡らした。
 恭平はしゃがみ込むと優しくその猫の頭を撫でた。猫はうれしそうに目を細めるとノドを鳴らした。まるで喘息をわずらっているかのようにゴロゴロと。もしこいつが人間だったら俺みたいなヤツなんだろうと彼は思った。みじめで、汚らしくて、傷まみれで、そして友達らしい友達もいない姿は自分に似ているように思えた。
「ひとりぼっちか?」
 猫は相変わらず目を細めてうっとりとしていた。雨で毛が体にはりついているせいでネズミの子のように見えた。恭平は頼られているような気がしてうれしかった。
「おまえ、おなかが空いてるんだろ?」
 恭平はそう言うと手にしていた買物袋の中をまさぐって特売品のハムを取り出そうとした。しかし、彼はその手を止めると猫を抱きあげてジッとその猫の目を覗き込んだ。
「なあ」恭平は言った。「よかったら俺と一緒に夕飯にしないか? たいしたもんじゃないけどステーキ肉があるんだ。一枚やるよ。俺もひとりぼっちなんだ」
 猫が鳴いた。まるで恭平の言っていることがわかるかのような鳴き方だった。
「そうか」
 恭平ははにかむと猫を抱いた。そして立ち上がるといつになく優しい気持ちで部屋に向って歩き始めた。

 〈2〉

 恭平は他の住人の目を気にしながら部屋に戻った。彼の住むアパートは老朽化しているにも関わらず、ペットを飼うことが禁止されていた。そのアパートの大家は超がつくほどの守銭奴で部屋が汚れることを何よりも嫌っていた。むろん家賃はビタ一文まけてくれなかった。
 部屋に戻った恭平が真っ先にしたことは料理ではなく、猫を風呂に入れることだった。彼は猫を抱いて歩いているうちに体中が痒くなるのを覚えていた。彼はその猫を人間用のシャンプーと石鹸で丁寧に洗いながら毛玉の下に作られたノミやダニの帝国が一つずつ滅んでいく姿を想像して楽しんだ。
 猫は風呂をいやがらなかった。それどころか風呂が好きなようにさえ思えた。恭平はバケツにはった湯の中で気持ち良さそうに目を細める猫を見ながら、ひょっとするとこの猫は以前、どこかの家で飼われていたのかもしれないと考えた。野良猫にしては人なつっこいし、風呂を嫌がらないのも不思議だった。首輪こそしていないが。彼は三回ほど立て続けに猫を洗うと脱衣所で猫の体を拭いた。毛玉はとれなかったが、目を覆っていた膿と毛の黒ずみは取れた。見ちがえるとまではいかなかったが、それなりには見えるようになった。彼は拭いている最中にその猫がオスだということに気づきモモと名づけたが、そのことに深い意味はなかった。
 風呂から出た恭平は隣の部屋に行くと床に雑巾とみまちがうほど磨耗したバスタオルを引いてその上に猫を寝かせた。猫は慣れない風呂で疲れたのかあまり部屋の中を散策するようなことをせず、辺りを数回見渡すとおとなしくその上に横になった。と、言っても散策するような場所などなかったのだが。彼の部屋はよくあるバス・トイレ付の六畳一間だったが家具らしい家具はなかった。あるのは一組の布団と何冊かの文庫本だけだった。テレビやビデオといった金になりそうなものはすでに売り払って、暇をつぶすための一冊百円の文庫本や賞味期限がさしせまった特売の食品にかえていた。彼は別に読書が好きというわけではなかったが、百円で一日楽しめるという点では本が好きだった。それに中学しか出ていない自分が賢くなったような気になれるという点でも。彼は学歴に対するコンプレックスをひきずっていた。
 恭平は猫の頭を数回撫でると料理を始めた。肉を焼き、ジャガイモとにんじんを焼き、買ってきたハムなどもいっしょに焼き、再就職が決まったら飲もうと思ってとっておいたワインのボトルも空けた。二週間分近くの食費を一日で使っていたが、自殺を決意している彼にとってはもうどうでもいいことだった。彼にとって人生はただ苦しいだけの悪夢にすぎず、死はそこからの出口のようなものだった。
 食事ができると寝室の床に座って猫といっしょにそれを食べた。恭平は生まれてこのかたテーブルを持ったことがなく食事はいつも床でしていた。彼は引越しが楽なように極力家具や洋服を持たないことにしていたのである。唯一の例外は猫を洗うのに使ったプラスチック製のバケツだけだったが、それはどこかのスーパーのくじ引きで当たったものだった。
 猫は予想に反して小食だったが恭平と同様にうれしそうだった。おそらくその猫がこういう食事をするのは初めてか、何年ぶりかなのだろう。その猫はせわしなく四分の一ほどの肉と三分の二ほどのハムを食べ終えると満足した様子で彼の傍らに横たわった。彼は久しぶりの食事らしい食事を瞬く間に片づけるとワインを飲み、安タバコをふかしながら猫の腹を撫でた。手を切りそうなほどにあばら骨が浮いたその体を。彼は久しぶりに味わう満腹感と、安さだけが売りのゴミのような焼酎以外の酒と、誰かがそばにいてくれることの喜びに幸せを感じていた。
「なあモモ・・・・」恭平は傍らで安心しきった様子で寝息を立てる猫を見つめた。「おまえと俺は偶然会ったのかな? それとも俺とおまえは情けない者同士会う運命だったのかな?」彼はさらに続けた。「なあ、俺はもうすぐ死ぬんだけど、っていうか自殺するんだけど、よかったらもう少しここにいないか?」
 当然のことながら返事はなかった。猫は相変わらず横たわったままだった。久しぶりの風呂と、慣れない食事で疲れたのかダルそうだった。病気と年のせいかもしれないが。
 恭平は再びタバコに火をつけると風呂に向かった。そして残りが少なくなった石鹸とシャンプーで軽く湯を浴びると穴だらけになったパジャマに着替えて猫を抱いて布団に入った。まだ早い時間だったが眠りたい気分だった。何か生き物の温もりに包まれて眠りたかったのである。人の体温が恋しくなるような雨降りの夜だった。
 布団に入った恭平は幸福を感じながらその猫について考えた。彼の想像通り生き物の暖かさを感じながら眠るのは気持ちが落ち着いた。彼はまどろみながら猫に話しかけた。まるで恋人にそうするかのように、時おり猫の頭に自分の口を押し付けたりしながら。猫は黙って彼の身の上話しを聞いていた。彼が知る限り猫は気まぐれな動物で、布団に入れてもすぐにイヤになって出て行くものだったが、その猫はちがった。まるでどこにも行くなといわんばかりにぴったりと彼に寄りそっていた。汗ばんだ肉球を彼の胸に押し付け時おりノドを鳴らしながら。
 その夜、恭平は久しぶりによく眠った。慢性的に見ていた怖い夢にさいなまれることもなく、夜中に寝汗まみれで飛び起きることもなく。恭平と年老いた猫は翌日の昼までこんこんと眠った。

 〈3〉

 猫が部屋に来て三日が過ぎた。その間、恭平はトイレと風呂に行く以外の時間の全てを猫と一緒に過ごした。むろん寝るのも同じだった。猫はこれといって何かをするわけではなかったが、十分に彼の孤独を癒した。彼は左目から膿を垂らす、はたから見れば醜いその猫がそばにいてくれることがうれしかった。彼にとってその猫は三十四年目にしてようやくできた何があっても変わらずそばにいてくれる友達のようなものだった。そのため彼は自殺する日を先延ばしにしていた。死ぬことはいつでもできることだし明日すればいい。だからもう一日だけ猫と暮らしてみようと。
 恭平は人目を避けるためにその猫を夜遅くに散歩に連れて行った。猫は相変わらず具合が悪そうであまり動こうとはしなかったが、排泄のことを考えるとそうしざるをえなかった。猫用のトイレやそれ用の砂を買うだけのお金がなかったのだ。気軽に食べられるようにと翌日にキャットフードを購入したがあまり食べなかった。ミルクや干した小魚も与えてみたが結果は一緒で水もあまり飲まなかった。
 そうこうしているうちに四日が過ぎた。その晩、恭平が白飯に塩と胡椒と化学調味料をまぶしただけの粗末な焼き飯を作っていると隣の部屋で寝ていた猫が水を飲みにやってきた。猫用の水と餌はふちの欠けた茶碗に入れた状態で台所の隅に置かれていた。
「お目覚めか?」恭平は言った。「今日もだけど何もしなかったな? 俺達はなまけものだよな? 働くよりはずっといいけど。安物で申し訳ないけどたくさん食いなよ。俺ももうすぐ食事だから。今夜は中華なんだ。って言ってもちゃんとしたものじゃないけど」
 猫はチラリと恭平を見やるとヨロヨロと台所の隅へと歩いて行った。彼は猫の目を見ながらまた拭いてやらなきゃなと思った。その猫の左目は膿のせいでかなり腫れていたが、彼には目の下を押してやることか、拭いてやることしかできなかった。病院に連れて行くだけの金がなかったのである。人間用の目薬をさしてやったが効果は見られなかった。
 猫は水の入った器の前に座ると顔をそれに近づけた。そして数回ほど舌を動かすと突然激しくせき込み始めた。水を気管支に詰まらせたのだ。
 驚いた恭平は手にしていた木製のしゃもじを流しの中に投げ捨てると猫の元に向かった。それと同時に猫が倒れてドスンという鈍い音が台所に響いた。その様子は彼の目にひどくゆっくりと写った。倒れた猫は毒ガスを吸い込んだかのように後ろ足をピンと伸ばした状態で小さく体を痙攣させていた。
「モモ!」
 恭平は猫を抱き起こすと必死に背中を叩いた。猫の股間から暖かい小便が垂れて彼のズボンを塗らした。失禁したのだ。
「モモ! モモ! しっかりしろ! モモ!」
 恭平は叫びながら必死に猫の背中を叩いた。まるでナイフの刃を首筋に突きつけられたような冷たい感触が背筋に走った。突然死刑を宣告されたような気分だった。彼は泣き出しそうになりながら必死に背中を叩き続けた。人間技とは思えないほどの早口でありとあらゆる悪態をつきながら。彼はもし、モモが助かるならもう一度生きてやるからと心の中で神に言った。数日前に読んだ小説のお蔭で自殺が神の教えに反するということを知っていたのだ。
 その思いが通じたのか猫は意識を取り戻した。猫はノドの奥で下水管が詰まったような音を鳴らすと二秒ほど間を置いて体を動かした。それに気づいた彼は思わず叫んだ。
「モモ!」
 猫は息を吸い込むと再び体を動かして床に下ろしてくれと合図した。恭平は目に安堵と恐怖の入り混じった涙を浮かべながらゆっくりと猫を床に下ろした。抱かれているのが辛かったのだ。
「だいじょうぶか?」
 猫は息を吸い込むとジッと恭平を見つめた。彼は思わず四つんばいになると猫を抱き寄せて頬を額にくっつけた。愛おしくてたまらなかった。
「苦しかったんだな」恭平は言った。「ごめんな何もしてやれなくて・・・・」
 恭平は自分のズボンが猫の小便で塗れていることも忘れて猫を病院に連れて行くことを考えた。つまりどうやって金を工面するかということを。彼はまず日雇いのバイトのことを考えた。しかしそれは無理だった。アコギな日雇い仕事ならすぐに見つかるし、明日からでも働けるだろうが、仕事に行っている間に猫が倒れないかと考えるとそれをすることはできなかった。次に身の回りのものを売って金を作ることを考えたが、それも無理だった。そもそも彼の周りに売れるようなものはもう何もなかった。古本屋で買った一冊百円の文庫本なら何冊かあるがそんなものを売っても百円にもならない。内臓や目玉を売るという手もあるのだろうが買ってくれる場所がわからなかった。だとすると他に手は金を借りるくらいだが彼に金を貸すような人間はいなかった。親や兄弟に頼んでみても電話を切られるのがおちだろう。サラ金という手もあるが、あれはあれで審査やらなんやらが厳しい・・・・・
 恭平はしばらく考えた末に立ち上がった。そして猫を抱き抱えると隣の部屋の押入れの中から折りたたんであった小さな黒いボストンバッグと靴の空き箱を取り出し、一つの案とともに部屋を出た。勝算はなかったし、かなり恥知らずなことだがそれ以外に方法はなかった。

 〈4〉

 恭平が向かった先は部屋から三十分ほど歩いた場所にある小さな繁華街だった。彼は通行人の何人かに場所を聞いてなんとか目的地を突き止めることができた。その場所を教えてくれたのは髪を赤く染めた美しい女性だった。その女性はブサイクで猫の小便をあびたズボンをはいた浮浪者のような風体の彼に対して嫌な顔一つせずに地図を書いてくれた。しかし、地図の端にキレイな筆記体でその日の日付と彼女のサインが書かれているのは意味がわからなかった。その女性は鈴木尚美という名前のようだった。
 恭平は猫をボストンバッグに入れて ― 靴の空き箱を底にしまって形がくずれないようにしていた。猫を一人で留守番させておくのがどうしても心配だったのだ ― 通りを歩いて行った。そこは怪しげな飲食店や洋服屋などがごちゃごちゃと並ぶ通りで平日だというに人が多かった。通行人の多くはこのそばの会社で働くサラリーマンやOLなどだったが、ゴロツキくさい連中も少なからずいた。高そうなビジネススーツを着込んだ女ににらみつけられた彼は、その女が休暇を利用して出かけたハワイやグアムで自爆テロに巻き込まれて死ぬことを祈った。
 目的のレコード屋はひどく老朽化した三階建ての雑居ビルの二階にあった。恭平はドキドキしながら階段を上って行った。壁には安手の紙に印刷されたバンドのチラシやポスターが大量に貼られていた。彼はその中の一枚にさっきの赤い髪の女性が写っていることに気づいた。ザッ・レインドロップスというバンドのメンバーのようだった。傍らにはリーゼントヘアーの男が二人と黒いチャイナドレスを着込んだ女性がもう一人写っていた。
 階段を上りきると深呼吸をして左手にあったドアを開けた。それと同時に聞いたことがないが懐かしい感じのオールディーズと古い紙の匂いが押寄せてきた。彼はCDやレコードやカセットテープが収められた無数の棚に囲まれた細長い店内を見渡したが、他に客の姿はなかった。
 レジはドアの正面にあった。そこにいたのは赤い長袖のシャツを着込んだリーゼントヘアの痩せた男だった。その男はレジのカウンターの隅に水滴の浮いた缶ビールを置いたまま書きものをしている最中だった。恭平は空気の中に香水だか整髪料だかの甘い匂いがまじっていることに気づいた。バニラのような匂いだった。
 店員の男は顔を上げると恭平を見やった。そして「いらっしゃいませ」と言うと再び書き物を始めた。しかし、二秒もしないうちにまた顔をあげるとジッと恭平の顔を見つめた。まるで南北戦争が何年に起きたのかを思い出そうとするかのような面持ちで。一体ここはどんな店なんだろうと恭平は思った。店員が営業時間中に堂々と酒を飲んでいることが信じられなかった。
「あれ?」しばらくして男が言った。「お兄さん、ひょっとしてクソまずい弁当を作る工場で働いてませんでした?」
「はい」
 恭平はその店員があの男だったことに驚きを覚えた。彼が知るクラッカー・サンダーボルトとはまるで別人だった。仕事中はほとんどの時間マスクと帽子をしていたのであまり顔がはっきりとしていなかったのだ。さっきのチラシの男に似ているのは髪型のせいだろうか?
「まだあの弁当工場で働いてんですか?」男は笑みを浮かべると缶ビールをあおった。「あのうるさいクソババアのいる弁当工場で」
「いや、もうやめましたよ」
 男は人なつっこい感じの笑みを浮かべた。「いい選択ですよ。あんなところは働くに値しないから。あんなババアは使い回しの油の中に落ちて唐揚げにでもなればいいんですよ」
 恭平は笑みを浮かべた。久しぶりに人と話すせいでドキドキしていた。彼はもう何ヵ月も人と話していなかった。たまに行くスーパーのレジにいる店員とありふれたやりとりをする以外には。
「場所はすぐにわかりましたか?」男は言った。
「いえ、たまたま通りすがった赤い髪の女の人に聞いたら教えてくれました。地図まで書いてくれて」
「赤い髪? あれ? その女って女にしては背が高くて目が大きくなかったですか? 刺繍の入ったジップ式の黒いパーカーを着てて」
「はい。百七十くらいありました。で、地図の端にサインが入ってました」
 男は笑った。「そりゃあ、まちがいなく尚美だ」
「知り合いですか?」
「ええ、知り合いっていうかバンドのメンバーなんですよ。ついさっきまでここにいました。俺がギターで尚美がボーカルで、相棒の香村がウッドベースで、前に話した優子がドラムなんですよ。ああ、そうだ。よかったら週末に『ヘルキャット・バー』って店でショウをするんで見に来てください。お代はタダなんで。レインドロップスってバンドなんですよ」
「そういえばそこの階段にチラシが貼ってありましたよね」
「目立ちたがり屋なもんでしてね」
 男はそう言うと声をあげて笑った。恭平は相変わらずだなと思った。男の内面的なものはあまり変わっていないようだった。少し巻き舌調な話し方も、血の気が多そうなことも、それに何も考えていなさそうなところも。
「それで」男は言った。「今夜は何か探し物ですか?」
「ええ、ちょっと」
「秋は夜が長いですからね。っていうかもうほとんど冬ですけど」
「そうですね」
「ウチはご覧の通りの店です」男は手にした黒いペンの尻で店内を指した。壁には信じられないような値段のついた古いレコード盤がいくつも飾られていた。「気に入ってもらえるものがあるといいんですけど。ただ、品揃えには自信がありますんで。特に古い音楽にはね」
「どうも」
「よかったら試聴もできるんで言ってください」
「ありがとうございます」
 恭平はうつむいた。どうやって話を切り出そうとかと考えているうちに恥ずかしくなってきたのだ。数回しか合ったことのない男、しかも、よかったら来てくれと言われて一度も行ってなかった店にいきなり顔を出して金を貸してくれなど恥知らずもいいところじゃないか。しかも猫のために。でもそれ以外に方法はない・・・・
 突然、店内に猫の鳴き声が響いた。それと同時におとなしくしていた猫がモゾモゾと動いた。恭平は思わず小声で「おとなしくしろ」と言ったが、すぐにしまったと思った。それは遠まわしにカバンの中に猫を入れていると言っているようなものだった。寝ていた猫が再び目を覚ましたのだ。
 恭平は恐る恐るレジに目をやった。男は通りでアブラハム・リンカーンに出くわしたかのような面持ちで恭平のボストンバッグを見つめていた。しばらくしてまたカバンの中で猫が動いた。恭平はどうしていいのかわからずたじろいだ。レジの後ろに貼られていた白い紙には黒のマジックでデカデカとこう書かれていた。

店内でのご飲食はお断りさせていただきます。
尚、他のお客様のご迷惑になりますのでしつけのできていないお子様と犬畜生を連れての入店もご遠慮願います。皆が子供好きで動物好きとは限りません。
余談ですが当店は捕鯨に賛成しています。
           黒猫レコード

「カバンの中に何かいませんか?」男は言った。「なんかカバンの中でモゾモゾしてますけど」
「あの・・・・」
「まさかダッチワイフじゃないですよね?」
「ちがいますよ」恭平はムキになって言った。遠まわしに自分が童貞であることをバカにされているように感じたのだ。「そもそもなんでダッチワイフが泣くんですか?」
「いや、そういうものもあるのかなって。ヘロインがスーパーで売られてもおかしくない世の中だから・・・・」男は狐につままれたような表情で言った。「でも、なんで猫をバッグに入れてるんですか?」
「実は・・・・」
 恭平はバスケットがなかったからだと言いかけた。しかし男は気味の悪そうな表情を浮かべると彼をさえぎって言った。男は猫を店内に持ち込んだことに対してよりも、なぜ猫をボストンバッグに入れているのかに気をとられているようだった。
「あんたひょっとして獣姦趣味?」
「はっ?」
「動物に突っ込むのが趣味?」
「ちがいます」恭平は言った。「ただのペットですよ」
「毎日そうやって歩いてるんですか?」
「いえ。こういうことをするのは今日が初めてです」
「何のために?」
「わけがあるんです」
「神のお告げがあったとか?」
「そんなわけないでしょ」恭平は言った。「そんなに猫が珍しいんですか?」
「いや。猫は珍しくないですよ。でも、ボストンバッグに猫を入れて持ち歩いてるヤツは珍しい」
「バスケットがなかったからそうしてるんです」
 再び猫が鳴いた。恭平は男を見やった。男はボストンバッグを指すと言った。
「出してやったらどうですか」
「でも・・・・」
「いいですよ。おとなしそうだし。前にでかいだけで役に立たないバカ犬を連れてきた客がいたんで少し神経質になってるんです。その犬は床にだらだらヨダレを垂らしたあげくに小便をもらしゃがってね。まあ飼い主のクソッタレに掃除させましたけど」
 恭平はバッグを床に置いた。そして中をまさぐると猫を取り出した。それを見た男は驚きのあまり口をダッチワイフのような形にした。わかっていたこととはいえショックのようだった。猫は小一時間ぶりに見た光に目を細めながらおとなしく恭平に抱かれていた。
「トラ猫ですか」男は言った。「しかも腹が白くない方の。見たところかなりの年のようですが」
「多分そうだと思います。事実あまり動こうとしないんです。でもそこがまたかわいくて」
「その猫は病気なんですか? 片方の目がひどく腫れてるし黒い膿が出てるけど」
 恭平はしばらく黙った。しかし大きく息を吸い込むと決心して言った。切り出すにはいい機会だった。
「実はここに来た理由はこいつのことなんです」
「というと?」
 恭平は男に事情を話し始めた。彼は半年以上失業していて金がないことや、この猫の具合が悪いせいで仕事に行けないことや、頼れる人間が他にいないことなどを事細かに話した。恥も見栄も捨てて。男は恭平と猫の顔を交互に見ながら黙ってその話を聞いていたが疑っている感じではなかった。むしろ彼に同情しているようだった。
「事情はわかりました」男は恭平が話し終えると言った。「つまり、ここに来たのは金を借りるためってことですね?」
「はい」恭平は言いづらそうに言った。「頼れる人が他にいないんです」
「で、いくら貸して欲しいんです?」
「猫の病院代を」
「具体的な額は?」
 恭平はふと思った。そういえば猫の治療費というのはいくら位するものなのだろう。人間より高いという話は聞いたことがあるがどれくらい高いのだろう?
「俺に出せるのは二万円ですよ」男は言った。「俺も金持ちじゃないんでね」
 恭平は思わず両目を見開いた。「えっ、じゃあ・・・・」
「いいですよ。貸しますよ。俺も猫は好きなほうなんで」男は言った。「期限はいつでもいいので生活に余裕ができたら返してください・・・・なんてことは言いませんけどね」
「いつまでにお返しすれば?」
「そうですね・・・・遅くとも二週間以内に。さっきも言ったみたいに必要な金なんで」
「絶対返します!」
 恭平は返すメドがないにも関わらず反射的に言った。しかし、それはデタラメではなかった。具体的にどうとは言えないがなんとしてでも返す気だった。彼は自分に反す気があるということを伝えるにはどうしたらいいのかを考えた。
「あの・・・・」恭平は言った。「紙とペンを貸してもらえませんか?」
 男はレジの下から日時が過ぎてしまったバンドのチラシを取り出すと手にしていたペンをそえて恭平に押し出した。男は彼が何をしたいのかよくわかっていない様子だった。
 恭平は自宅と実家の住所と電話番号を紙に書いて渡した。それは万が一彼がその金を返済できなかった時のためを思ってのことだった。彼はさらに免許証を見せて自分の書いた住所がウソでないことを証明したが、別にそれは男が強要したわけではなかった。
 男はその紙を受取ると立ち上がってジーンズの後ろポケットから白いヒョウ柄の長財布を取り出した。そしてその中から一万円札を二枚取り出すとそれをカウンターの上に置いた。恭平はそれを受取ると猫を抱いたままで深々と頭を下げた。彼の目には涙がうっすらとにじんでいた。
「本当にありがとうございます・・・・」恭平は言った。「二週間以内に必ずお返ししますので・・・・」
「それで足りればいいんですけどね」男は言った。「なんであれ、医療費っていうのは高いから。そのくせ介護職員の給料はクソ安いのに」
「はっ?」
 男は水滴が浮いた缶ビールを一口あおった。「恋人が介護職員なんですよ。自己犠牲の精神の上に成り立ってる下らない仕事だ。いくら働いても一向に報われない」男はそう言うとはにかんだ。「夜勤やらなんやらで大変だからそんな仕事はやめてもっと普通の仕事に就けって言ってるんだけど聞きやしない。私を必要にしてる人がいるからって。タイムカードすら満足にないくせに」
「優しい恋人なんですね」
「バカなだけですよ。もしマトモな脳ミソがあるなら団結してストライキを起すとか考えるけどああいう連中はそういうことをしない。ただ低賃金と重労働に甘んじてる。闘うってことを知らないんだ。まあ、もしそんなことをしようものなら即刻クビにされるんでしょうけどね。あの手の場所っていうのは独裁主義国家みたいなもんだから。出勤が全て○と×で管理されてるっておかしな場所なのに」
「はあ・・・・」
「やり手がない理由がよくわかりますよ。少しでも脳ミソのある人間ならあんなアコギなクソ仕事につこうとは思わないから。やりがいだの何だのって言ってるけど実際のところは国家をあげての詐欺だ。いらねぇ道路を作るくらいならもっとあいつらに金を回しゃがれってんだ」
 恭平は黙っていた。男がなぜそんなことを言うのかがわからなかったし、どういう反応を示すべきかもわからなかった。彼はそんな仕事にすらつけなかったことを思ったが口には出さなかった。でも、なぜここまで自分の彼女の仕事をくさするのだろう?
 男は再びレジの下に手を伸ばすと今度はトリスウィスキーのポケットサイズ瓶を取り出した。そしてキャップをひねると一口あおってそれを恭平に渡した。恭平はそれを受取ると同じようにあおった。安物のウィスキーが空腹に染みた。二人はスピーカーから流れる荒々しい『監獄ロック』のカバーを聴きながらウィスキーを回し飲みした。
「猫が助かるといいですね」と男は言った。「かわいい猫だ」
 猫は相変わらず恭平の腕の中でおとなしくしていた。彼の二の腕にアゴを預けて。疲れているのかだるいのかはわからなかったが、鳴いたりはしなかったし、床に下ろしてくれとも要求しなかった。
「あの・・・・」恭平は言った。「本当にありがとうございました」
「困った時はお互い様ですよ」男は返した。「タバコがない時と金がない時は特にね」
「必ず返しますんで」恭平は言った。「利子をつけて」
「結構ですとは言いませんよ」男はウィスキーをすすった。「まあ、ついてなくてもいいけど、ついてるに越したことはないですから。俺も貧乏人なんで」
「あの・・・・」
「はい」
「一つ聞いていいですか?」
「どうぞ」
「なんで僕に金を貸してくれたんですか? 職場で数回会っただけなのに」
「信用できそうだったから」男は言った。「それにたまたま今日はサイフの中に金があったからかな。俺も猫は好きだし」男はそう言うと腕時計に目をやった。「あの、すいませんけど、そろそろ店を閉めなきゃいけないんで」
 恭平は男の後ろにあった柱時計に目をやった。すでに閉店時間を十分ほど過ぎていた。
「すいませんね」男は言った。「今日はこの後、バンドの練習に行かなきゃいけないんで。ちょっと急ぐんです」
「いえ・・・・」
「また時間があったら遊びに来て下さい。平日だったらこれくらいの時間は大抵暇なんで」
「ありがとうございます」
「今度はスコッチを用意しときますよ」
 恭平は深々と頭を下げると店を出た。そして階段で再び猫をバッグに入れるといくらか人通りの減った通りを歩き始めた。彼は男に信用できそうと言われたことと、生まれて数回しか触れたことのない人の優しさに温かい気持ちになっていた。彼は冬の匂いをはらんだ夜風を浴びながら、猫のためにもあの男に金を返すためにも頑張らなければと思った。
 しばらくして恭平はなぜあの男があれほど自分の恋人の仕事のことをくさしていたのかにかに気づいてほほ笑んだ。そして立ち止まって後ろを振り返ると店がある方向に向かって心の中で再度礼を言った。

 〈5〉

 白髪頭を短く刈り込んだ初老の医師は診察台の上の猫を見つめていた。猫は緊張のせいか台の上にボタボタとヨダレを垂らしていた。その日、朝一番で動物病院をおとずれた恭平は右の脇に空のボストンバッグを抱えながら両手で猫を押えていた。
「どうやらケンカか何かで眼球を傷つけられたみたいですね」と医師は言った。「それが化膿したようです」
「治りますか?」
「ここまで悪化すると無理ですね。眼球摘出手術という手もありますが」
「よくなるんですか? その手術をすると」
「少なくとも毒が体や脳に回ることはなくなります」
「値段はどれくらいかかりますか?」
「当然それなりの費用はかかります。でもおススメはできませんね。この猫はもうかなりの年です。ノラにしては珍しく十二年以上は生きています。もっとも以前はどこかで飼われていたようですが。去勢手術もされているし」
「つまり体が手術に耐え切れないってことですか?」
「はい」医師は言った。「それにもし成功してもこの年では長くは生きられないでしょう。この痩せ方は典型的な老衰です。話を聞く限りものを飲み込む力もかなり落ちている」
「じゃあ、どうするんですか?」
「とりあえず注射を二本と点滴を打っておきます」
「はあ・・・・」
 恭平は複雑な気持ちだった。莫大な手術代を請求されないことがうれしい反面、医者がサジを投げていることがショックだった。この医者にしてみれば膿で目のふさがった汚い猫に過ぎないかもしれないが彼にとっては肉親のようなものだった。
「あと、目の洗浄液とクスリを出しておきますので必ず飲ませてください。それと目薬も出しておくので朝と晩、二回さしてください」
「はい」
「それと今週の金曜にまた来てください」
「明後日にですか?」
「もう一度点滴を打ちますので」
 医師はそう言うと傍らにいた若い金髪の女性助手に点滴と注射器を持ってくるように言った。その助手は感情のこもらない声で返事をすると面倒くさそうに部屋の外へと消えていった。多分仕事のわりに時給が安いのだろうと恭平は思った。
「あの・・・」恭平は少し考えてから言った。「正直なところどれくらいこいつは生きられるんですか?」
「わかりません。私は獣医であって神ではありませんから。ただ一つだけ言えることは長くないということです」
 恭平は自分の手の下で震える猫を見つめた。猫はいくらか落ち着いたものの相変わらずよだれを垂らしていた。まだ出会って数日しかたっていないというのにこの猫がいなくなることを考えると悲しかった。そうしたらまた一人ぼっちだ・・・・
「安易に生き物を飼うべきではありません」と医師は言った。「生き物は安らぎと悲しみを同時に運んで来る」
「はあ」
「以前、十五年間つれそった愛犬を失くした女性がいましたが、その女性がどうなったかわかりますか? まあ、私から見れば千匹に一匹の割合でしか生まれない真のバカ犬を絵に描いたようなものだったのですがね」
 恭平は医師に顔を向けた。だいたいの察しはついたがあえて何も言わなかった。どうせ神経症になって入院したとか、インドに旅に出たまま行方不明になったとか言うのだろうと彼は思った。
「その女性は・・・・」医師は続けた。「旦那を刺して今は精神病院にいます」
「刺した?」恭平は聞き返した。「なんで旦那を?」
「その旦那はタバコを吸う方だった。それでその女性はその犬が死んだのはタバコのせいだと言って旦那を刺したんです」
「死んだんですか?」
「いや、一命はとりとめました。でも怖い事件です」
「何が言いたいんですか?」
「心の準備をしておくべきだと言っているんです。見たところかなりこの猫に入れ込んでいるようなんで」医師はそう言うと背後にあるドアに目をやった。そして舌打ちをすると吐き捨てるように言った。「遅いな。一体どこまで探しに行ってるんだ。もう三分はこうしてるぞ。まさかまた仕事中にいなくなったんじゃないだろうな・・・・」
 まただって? 恭平は思った。そんなに人が頻繁にいなくなるのかこの病院は? 
 医師は再び舌打ちをすると席を立った。そして「少し待っていてください」と言うと腹立たしそうに部屋を出ていった。恭平は猫を押えていた腕から力を抜くと「どこもひどいのだな」と思わずつぶやいた。それを聞いた猫は恭平を見やるとそうだと言わんばかりにニャーと鳴いた。彼は「モモは賢いな」と言うと頭を撫でながらほほ笑んだ。
 しばらくして医師が注射器と点滴の袋の乗ったジェリービーンズのような形をした金属製の皿を持ってもどってきた。医師は感情のない声で「お待たせしました」と言うと極度の痔をわずらっているかのような面持ちで準備を始めた。
 恭平はその様子をジッと見つめた。

 〈6〉

 部屋に戻った恭平は猫をバッグから出すと近所のコンビニエンスストアに行き無料の求人誌と履歴書を手に入れた。そして再び部屋に戻ると求人誌のページをめくりながら目ぼしいもの ― むろん正社員ではなく日払いで給料がもらえる単純労働だったが ― にちびた赤鉛筆で丸を打ち始めた。半年ぶりに働くことを考えると胸が張り裂けそうなほどにドキドキしたが猫の病院代や、あの男に借りた金のことなどを考えるとそうするしか方法はなかった。生き続ける以上、部屋代や光熱費だって必要となる。
 やがて恭平は雑誌の中から選んだ最も日給の高い人材派遣会社にプリペイド式の携帯電話から電話をした。そして明日から働きたいという旨を伝え、その日の夕方に面接にこぎつけると精魂を込めて履歴書を書き始めた。写真は一年以上前のものだったがそれを使うほかなかった。今さら撮り直すような余裕はないし、髪を切る金などあるはずもなかった。むろん自分で切るという手もあったがそれはあまりにも危険すぎたのでやめておいた。
 恭平が履歴書を書いている間、猫は恭平の布団の上で毛づくろいをしていた。点滴と注射のおかげか猫はいくらか元気になったように思えた。部屋の中を歩く足取りと、表情には病院に行く前にはなかった生気のようなものがあった。男から借りた二万円の大半はすでに治療費に消えていたが彼は別に何も思わなかった。少なくともその価値は十分にあったのだから。残金は再び一万円足らずになっていたがそれは正しい金の使い方だった。
 履歴書を書き終えた恭平は猫を見ながら日中はこいつをどうしようかと考えた。俺が出かけているうちにまた水をノドに詰まらせて死なないだろうかと。しかし、いくら考えても部屋に置いて出かける以外に方法はなかった。仕事に猫を連れて行けるはずがないのだから。結局、彼は少しかわいそうだが嚥下障害を引き起こす原因となりうる餌と水を全て片づけて仕事に出かけることにした。運よく職場の倉庫は部屋から歩いて十五分ほどの距離だった。なんなら昼休みに帰ってきてもいい。もっともそれは受かればの話しだが。
 恭平は洗面所に行くと少しでも印象をいいものにするために入念に髭を剃り始めた。そしてそれを終えると押入れの中から何年も前に買った安物のスーツを取りだして夕方に備えた。形も色もまるでなっていなかったがとりあえずそれはスーツだった。恭平はスーツを押入れの木枠にかけるとそれを見つめながら幸運を祈った。

 〈7〉

 祈りが通じたのか面接はうまくいった。
 翌日、恭平は棚が並んだだだっ広い倉庫の中を汗まみれになりながら歩き回っていた。彼の仕事は自分と同じくらいの年の男から渡された納品書を片手にジュースやお菓子といった品物を台車に載せたダンボール箱の中に詰めていくという発送係りのようなものだった。彼は以前にもこういう仕事をしたことがあったので手馴れたものだった。免許こそ持っていないが前の会社で無理やり乗らされていたのでフォークリフトにも乗ることができた。
 仕事はきつくて単調だった。しかし、恭平は仕事にありつけたことがうれしかったのでまじめに働いた。人が嫌がるような重量物を運ぶことを命じられても笑顔でそれをこなした。むろん日払いの派遣社員というピサの斜塔並みに不安定な立場を考えるとそうしなければいけないということもあったのだが。慣れない早起きと半年ぶりの重労働で三時間を過ぎる頃にはかなり疲れていたが、男との約束と猫のことがそれを支えた。
 契約は朝の五時から昼の三時までだった。仕事を終えた恭平は派遣会社の人間からその日の日当 ― 単純労働の派遣社員にしてはなかなかの八千円だった。彼は前日の面接で本来会社にもどってもらうはずの給与を現地でもらうよう交渉していた ― をもらうと近所のスーパーマーケットに寄って一番高い猫缶と自分用の食べ物を買い、大急ぎで部屋にもどった。予想に反して昼休みが三十分しかなかったので昼に帰ることができなかったのだ。彼は道中ずっと猫のことを考え続けた。
 部屋のドアを開けると布団の上で寝ていた猫が起き上がるのが目に入った。その姿にホッとした恭平は磨り減ったボロ靴を脱ぐと猫の元にかけよった。台所の床にしかれた新聞紙にはフンと尿が落ちていたが彼は何も言わなかった。かなり臭かったがちゃんと教えた場所にしていたことはえらかった。
「ごめんな一人にして。いい子でお留守番してたか?」
 恭平は四つんばいになると顔を猫に近づけた。猫はうれしそうに目を細めるとノドを鳴らし始めた。出掛けに目を洗浄液で洗い、目薬を点眼したというのに猫の左目はドス黒い膿でふさがっていた。
「今、目をキレイにして食事にしてやるからな。ノドが乾いたし腹も空いただろ」
 恭平は猫を抱き上げるとしばらくあやした。そして言ったとおりのことをすると窓を開けて買ってきた缶詰を空けた。尿のしみ込んだ新聞紙はビニール袋に入れてゴミ箱に捨てた。
 恭平と猫は床に座っていっしょに食事をとった。彼が買ってきたものはプラスチックの容器に入った弁当だった。それは安さ以外に何の魅力もないような代物だったが、満足に昼食をとっていなかったのでおいしく感じられた。彼の昼食は出掛けに作っていった二枚の食パンに年代物のジャムを塗ったものだけだった。
 猫は珍しくよく食べた。皿にもった缶詰を全て平らげるともっとないのかといわんばかりに鳴いてみせた。それを見た恭平は自分の弁当に入っていたシャケの切り身を猫にやった。猫に食欲があることがうれしかった。
 食事を終えた恭平は猫と一緒に布団に寝転がった。頭側の窓から差し込む秋の柔らかな夕日が猫の毛をキラキラと輝かせていた。彼はそれを見ながら言いようのない幸福感を覚えた。猫が自分の帰りを待っていてくれることと、一緒に食事をする相手がいることがうれしかった。それに退屈なハンパ仕事に変わりはないが生活の術があることも。
 恭平は猫を撫でながら目をつむった。それと同時に一日の疲れがドッと押寄せてきた。半年振りの仕事で手足の筋肉がパンパンに張っていたがそれは心地のよい痛みだった。彼は猫が安心しきった様子でノドを鳴らす音を聞きながら心地のいい眠りに落ちていった。起きたらモモと散歩に行こうと考えながら。

 〈8〉

「そいつはよかったですね」と店員の男はポケットサイズの瓶からスコッチをあおりながら言った。「仕事が見つかって」
「ええ。でも所詮日雇の派遣ですけどね」と恭平は返した。「一日行っても八千円にしかならないけど。でもお蔭で猫を病院に連れて行ってやれるし、なんとか家賃も払えるし」
「顔が前に会った時よりもずっと輝いてますよ」男は言った。「なんていうか自信に溢れてる」
 恭平は黒猫レコードにいた。その日、彼は借りていた金を一割ほどの利子を上乗せして返すために買ったばかりのバスケットに猫を入れて店に来ていた。期限は今日までだった。
「やっぱりこの二千円は持って帰ってください」男はレジの上に置かれた紙幣の入った袋を見ながら言った。「物入りだろうに」
「いや、是非、受取ってください」恭平は返した。「ほんのお礼です」
「気持ちはうれしいけど素直に受取れないな」
「キレイな金ですよ」
「キレイとか汚いって問題じゃないんですよ。例え、それが働いて得た金でも、銀行強盗で得た金でも金は金だから」男はそう言うと再びスコッチをあおった。そしてしばらく考えてから言った。「じゃあ、この二千円は俺の金ですよね?」
「そうですよ」
「じゃあ、この金はその猫にあげますんで、猫のために使ってください。首輪を買うとかして」
「でも・・・・」
「首輪を買ってやってください。それじゃあ野良猫とまちがえられて保健所に連れていかれちまいそうだ」
 店内には相変わらずの古臭いロックンロールが流れていた。時間は午後七時でその日は珍しく他に一人客がいたが、その客は男が勤務中に酒を飲んでいる姿を見ても別に何も思っていない様子だった。多分、この店の客は男のこういう姿になれっこなのだろうと恭平は思った。男は派手な刺繍が入った黒いジップ式のブルゾンにリーゼントヘアといういでたちでいつものように甘いバニラの匂いを辺りにただよわせていた。
「わかりました」恭平は言った。「ではそうさせてもらいます」
「理解してもらえてうれしいですよ」
 男は笑みを浮かべるとスコッチの瓶を恭平に差し出した。恭平はそれをあおると言った。
 きつい酒とオールディーズのお陰で口が滑らかになっていた。
「見かけによらず優しいんですね。村林さんは」
「時と場合によってですけどね」
「この間、彼女の仕事をくさしてたでしょ」
「ああ。してましたね」
「その理由は、頑張ってる人間が報われて欲しいっていうことでしょ?」
 男は笑った。「いつの時代もそうだけど、正直者がバカを見る時代なんでね。神様はいつも居眠りしてやがるから」
「面白い表現ですね」
「そりゃどうも」男は言った。「でも何で急にそんなことを聞くんですか?」
「いや、あの晩、ふと思ったんで。そうじゃないかって」
 客がやってきた。前髪をビートルズのように切りそろえたその客は手にしていた何枚かのLPレコードとCDをカウンターに置くと「最近どうですか?」とか「次はいつですか?」といったちょっとした身の上話をして店を出て行った。その客もバンドマンのようだった。恭平はその客が一度の買物に一万六千円も使ったことに驚きを覚えていた。彼にとってレコードとはレンタルしてテープにダビングするもので買うものではなかった。
 男は表紙がボロボロになったノートに何やら書き込むと恭平の足元に目をやった。そこには猫の入ったバスケットが置いてあった。猫はその中でおとなしく寝ていた。
「かわいい猫ですよね」
「ええ。週に二回病院に連れていかないといけないっていうのが玉に傷ですがね。でも最近は食欲も出てきたし、前よりも少し元気になりました」
「バスケットに入れられて鳴かない猫は珍しい」
「ボストンバッグの時は少し鳴きましたけどね」
「寝る時はどうしてるんですか?」
「もちろん一緒に寝てますよ。朝まで」
「同じ布団で?」
「そうですけど」
「まるで犬みたいだ」
「そうですか?」
「ひょっとしたら昔、犬と一緒に暮らしてたのかもしれませんね」
「どうでしょう? 考えたことがないな」
「まあ、何にしてもそいつは森本さんのことが好きなんでしょうね」
「似た者同士ですからね。僕たちは」
 恭平はそう言うと照れながら笑った。それを見て男も笑った。男は手にしたペンを器用に指で回すと彼を指して言った。
「まあ、そいつのためにもがんばってくださいよ」

 〈9〉

 それから一月ほどがすぎて本格的な冬がやってきた。ある晩、恭平は缶ビールを飲みながら窓の脇に立って、雪がアパートの前の通りや周辺の民家の屋根を白く染め上げていくのを見つめていた。夕方から降り始めた雪は午後九時を過ぎても一向に止む気配はなく、明日の朝まで降り続きそうだった。もし、ここがシベリアなら普通なのだろうが彼の暮らす町で十二月の半ばに雪が降るということは珍しいことだった。彼は雪を見ながら少しだけ故郷のことを想おうとしたが、想うべきことは何もなかった。故郷での生活よりも猫と暮らしている今の生活の方がずっと楽しいのだから。
 恭平は相変わらず不安定な立場の日雇い仕事をしながら猫と暮らしていたが、その生活は充実していた。毎朝四時に起きて仕事に行き、部屋に帰って猫と戯れて眠るという日々だったがそれがしあわせだった。むろん給料は食いつないでいくのが精一杯といったところだったが、これまでの人生のほとんどを質素に生きてきた彼にとっては不自由に感じるほどのものではなかった。食べ物と寝ることのできる小部屋と猫がいてくれればそれで十分だった。彼には高いだけで意味のない洋服も、話題になっているだけで退屈な映画も必要がなかった。一人の男として一度は女と寝てみたいとは思っていたが。
 しばらくして布団の上にいた猫が起き上がった。猫はアーチのように背中を伸ばすと台所に行って水を飲み始めた。あれ以来猫が水を気管支に詰まらせて倒れるようなことはなかったが、恭平は猫が水を飲む時はいつもヒヤヒヤしていた。出かける時に水と餌を片づけていることは言うまでもない。
 恭平が万が一に備えて身をしゃちこばらせていると猫が部屋に戻ってきた。猫は元いた布団に戻ると再び横たわり寝息を立て始めた。まるで大仕事を終えた後のように。家具のほとんどない部屋の中は恐ろしいほど静かで寒々としていた。
 恭平はしばらく猫を見つめていた。彼はこのところ猫が寝てばかりいることが気がかりだった。むろんそれは季節的なものや気候によるものではなく、本当に具合が悪いからだった。食欲もあまりなく好物のハムを与えても以前ほど食べなかったし、散歩の時もあまり歩きたがらなくなっていた。死の影はゆっくりとだが確実に猫に忍び寄りつつあった。最近猫の体重は以前にも増して落ちていたがそれは明らかに老衰だった。
 恭平は再び窓の外を見つめながら明日のことを考えたが、すぐにそれをやめて深々と溜息をついた。正確に言えばできなかったのだ。いつかこいつと別れなければならなくなるのかと考えると泣きたくなった。自分がそう願うよりもずっと近い未来に。彼は命あるものは全て生まれながらにして呪われているのではないかと考えた。それはどれだけ両親を愛してもいつかは両親と別れなければいけないというようなものだった。もっとも彼が両親を愛したことはないのだが。
 ふと視線を流すといつしか半身を起した猫が彼の方を見ていた。その目はまるで「どうしたんだ?」と言わんばかりだった。そういえばこいつのほうが俺よりも年上なんだよなと恭平は思った。人間の年にしたらこいつはもう九十を超えている・・・・
 恭平は心の中で猫が一日でも多く自分と時間を過ごしてくれることを祈りながら布団の上で丸くなっている猫にほほ笑んだ。そして歩いて行って猫の横に腰を下ろすと猫を抱き上げてギュッと彼を抱きしめた。まるでどこにも行くなといわんばかりに。猫は彼の奇行に不思議そうな表情を浮かべていたがやがてうっとりと目を細めるとノドを鳴らし始めた。

 〈10〉

「うーん。やっぱり高校くらいは出ておいた方がいいんじゃないですか?」
 男は客が数名いるというのに相変わらず缶ビールを飲んでいた。カウンターの上ではデコレーションがほどこされた小さなクリスマスツリーがネオン管のようないやらしい光を放っていた。恭平は猫を病院に連れて行った帰りにまた黒猫レコードに寄っていた。彼はあの日以来二週間に一度の割合で店に顔を出していて、今は自分の最終学歴について話したところだった。彼は男が予想に反して大学を出ていることに対して驚きを覚えていた。
「今ならそう思うんだけど」恭平は言った。「あの頃はそういうことがわからなくてね」
「わかりますよ。身の回りにそういうヤツが多いから」男は言った。「俺のバンドのベースも勢いで高校を辞めちまった。周りのヤツらとソリが合わなくて」
「ああ、香村君だっけ?」
「いや、あいつじゃくてデニーってヤツです。俺はレインドロップス以外にバンドをもう一つやってるんです」
「忙しそうだね」
「今はもう一つの方を休みにしてるからそうでもないですけど」
「でも、ショウは毎週末やってるんでしょ?」
「ええ。わけあって。一本でも多くやりたいんですよ」
 恭平と男はだいぶ打ち解けていた。そのため年上の恭平は男に対して敬語を使うことをやめていた。最終学歴の話が出たのはこれまでに経験してきた仕事について話していたからだった。猫は足元に置かれたバスケットの中でおとなしくしていた。
「で、そのベースの子はどんな仕事に就いてるの?」
「清掃員ですよ」男は言った。「ついでに言うとドラムも同じ仕事をしてます。休みが取りやすい会社なんで」
「清掃業は休みが取りやすいの?」
「少なくともあいつの職場はそうみたいです。でも、あいつはえらいですよ。あの後で定時制高校に入って二十三の時に高校を卒業したから」
「なんでまた?」
「多分女ですよ。本人はインディージョーンズを見て考古学者になりたくなったとか、わけのわからないことを言ってるけど」
「女?」
「あいつの彼女は一応高校を出てるから。それで彼女にコンプレックスを感じてそうしたと俺はにらんでます。あいつはある意味世の中をよく知ってるから」
「というと?」
「彼女が自分より高学歴だと、いずれ彼女が自分をバカにしだすってことを知ってたんですよ。その逆はそうじゃないけど」
 恭平は同じ小学校に通っていた同級生の男の子の家庭を思った。その家庭は父親が中学しか出ていなくて母親が高校を出ていたが、確かに夫婦の仲は悪かった。男の言っていることは理にかなっているように思えた。
「森本さんも行けばいいのに」
「この年から?」
「人間は一生学習ですよ。年は関係ないと思います」
「でも時間も金もないし」
「やる気があるなら通信っていう手もありますよ。あれなら毎日学校に行かなくてもいい」
 恭平は男を見つめた。冗談では言っていなかった。彼はふとそれも悪くないなと考えた。そうすることで絶えず自分について回っていたコンプレックスが消えるように思えたのだ。それに就ける職種だってひょっとすると広がるかもしれない。ブサイクで貧乏な自分に恋人ができるとは思えないが・・・・
 間もなくして数名の集団が店に入ってきた。恭平は邪魔をしてはいけないと思い店を後にした。その夜はそれ以上その手の話しをすることはなかった。しかし、部屋に戻った彼は猫を抱きながらずっとそのことを考え続けた。三十四になれば中卒も高卒も関係がないように思えたが、それは少なくとも意味のあることだった。今さら高校を出てもたいした仕事には就けないだろうが、そうすることで自分の中から学歴に対するコンプレックスがなくなると思うとやる価値は十分にあるように思えた。まがりなりにも新しい道が開くかもしれないと。
「なあ」彼は猫に言った。「どう思う?」
 猫は恭平を見ていた。恭平は一人続けた。
「この年から高校なんてバカみたいだけど、悪くないかもって思うんだ」
 猫は恭平を見つめるだけだった。このところ体力の衰えが目立っていたが、この夜は比較的元気そうで食欲もあった。
「正直。コンプレックスがあるんだ」恭平は言った。「猫には学歴ってものがないけど、俺達人間にはそういう下らないものがあるんだ。俺は一応高校に行ったんだけど辞めちまった。クラスの人間も嫌いだったし、学校自体バカらしく思えたから。まあ、でも学校なんていうのは通っても何の役にも立たない場所なんだけどな。でも、そのせいで俺は働くところも限定されたし、いつも劣等感を感じるハメになった。例えそいつがバカでどうしようもないヤツでも、高校を出てるって聞くとそれだけで自分よりも優れた人間みたいに思っちまうんだ。仮にそいつがヨダレを垂らしながらケツを丸出しにしてるようなオタンコナスでも。そうだな・・・・わかりやすく言うとおまえが自分に長いシッポがあったらって思うようなものかな? まあ、そいつがあったところでいい仕事に就けるとは限らないけど、っていうかこの年じゃしたいと思える仕事には就けないだろうけど・・・・でも、少なくとも劣等感は払拭できるし、有意義なことに思えるんだ。農業高校卒業のワキガ野郎から『おい、中卒、ちょっとこっちに来い!』なんて呼ばれることもなくなるし。モモはどう思う?」
 猫はしばらくの間恭平を見つめた。そしてその通りだと言わんばかりに鳴いた。それを聞いた恭平は思わずほほ笑みを浮かべた。絶妙なタイミングだった。
 恭平は猫に頬をすり寄せた。猫はノドを鳴らしながらうっとりと目を細めた。それはまるで恭平が前向きに人生のことを考えていることを喜んでいるかのようだった。人生の大先輩として。
 その夜布団に入った恭平は真剣に高校卒業資格習得のことを考えた。そして眠りにつくまでにはそれを実行に移すことに決めた。明日、仕事が終ったらインターネットができる喫茶店に立ち寄って調べてみようと。安定した収入が入るようになったらそれに申し込むことにしようと。
 その夜、恭平はアパートの部屋で猫に卒業証書を自慢している夢を見た

小説「月に行った猫」後編

  〈11〉

 職場での恭平の評価は高かった。彼はどれだけ熱があっても仕事を休まず、他の日雇い社員の誰よりもまともに仕事に取り組んでいたので、派遣先の従業員からは重宝がられていた。そしてこのところでは他の派遣社員にはまずやらせないような仕事を任せられるまでになっていた。派遣先の恭平と似たような境遇 ― その男も中学しか出ていなかった ― の上司から気に入られていたのである。その男は仕事に厳しくことあるごとに「学歴なんて意味がない」と大卒の連中に言い回っていたが、恭平には優しかった。他の従業員の話によるとその男が部下を気にかけるのは極めてまれなことのようだった。それが恭平の仕事に対する態度からなのか、それとも同じ境遇ゆえに親近感が湧いたからなのかはわからないが、いずれにしても彼は職場でいい立場にあった。
 クリスマスの夜、いつものように仕事を終えた彼はその上司に一緒に来るよう言われた。彼はそつなく仕事をこなしていたので呼ばれた意味がよく分からなかった。
 二人が向かったのは昼食をとったり休憩をとったりするための食堂だった。恭平がイスに腰をかけると上司はタバコに火をつけた。恭平は自分が解雇されるのではないかと思って少々ドキドキした。彼は今までに何度も何の前触れもなく解雇され続けてきた。
「森本君」上司は言った。「君は将来のことをどう考えてるんだ?」
「はい?」
「君は今いくつだ?」
「三十四ですが」
「いい年だな」
 上司は働者特有の荒くれた手で短く刈り込んだ白髪頭をなでると立ち上がって部屋の隅の自販機へと歩いて行った。そこには四流メーカーの飲み物ばかりを売る自販機が二台ほどあった。値段は通りで目にする自販機よりもいくらか安かった。
「何か飲むか?」
「いや、結構です」
「コーヒーはどうだ?」
「ああ、じゃあ、いただきます」
 上司は缶コーヒーを二本買うと席にもどった。そしてそのうちの一本を恭平に差し出すと詮を空けて一口あおった。その上司はどういうわけだか右手の人差し指がなかった。恭平はいつものように「若い頃はどういう仕事についていたのだろう?」と思った。見た目どおり ― その上司は背こそ低いが強面でがっちりとした体格をしていた ― チンピラか何かだろうか?
「これから結婚を考えたり親の面倒を見たりしなきゃいけない年だな」
「はあ」
「時給で働くのは幸せか?」
「いえ」
「派遣はバカらしいからな」上司は言った。「いくら頑張ってもおまえさんの手元にはあまり入らない」
「二割はとられてますからね」
「正確に言えばもっとだけどな。知ってるだろうけどおまえさんの勤めてる会社は相当な食わせものだ」
 恭平は黙っていた。今にも上司が「明日から来なくていい」と言い出しそうな気がしてドキドキしていた。でも、その手のことをこの上司が言ってくるのはおかしな話だった。その手のことは毎日、朝と夕にここに来る派遣会社の社員が言ってくるべきことだった。ジャガイモに手足が生えたような体型をしたいけ好かないあの男が。
「森本君」
「はい」
「今の仕事を辞める気はないか?」
「クビですか?」
「ちがう。そんなアコギな会社は辞めて直接うちで働かないかと言ってるんだ。つまりうちの社員にならないか、とな」
「ええっ!」
 恭平は思わず叫んだ。上司の言ったことが信じられなかった。上司は恭平の驚きようを見て笑みを浮かべた。
「前から俺は君に目をつけていたんだ」上司は言った。「君はよく働いてくれる。そこで俺は先日、君を正社員にしたいと人事にとりあったんだ。その結果そうしてもいいという返事が来た。今朝のことだが」
 恭平は呆然としながら上司を見つめていた。上司はタバコを灰皿に押し付けると缶コーヒーをすすった。恭平は世界中から音が消えたような感覚を覚えていた。
「他のヤツには内緒だぞ」上司は言った。「正直こういうことはしちゃいけないんだ。まあ、それを言ったらオタクの会社がしてることもしてはならないことなんだがな。で、どうだ? 受けてくれるか?」
「受けます!」恭平は言った。「是非お願いします。是非、御社の社員になります!」
「おいおい、条件は聞かなくていいのか?」
「だいじょうぶです。なんでもやりますんで!」
「それはうなずけるな。君ほどクソ真面目なヤツはそうそういない。正直俺は何で君が今までずっと会社をクビにされ続けてきたのかがわからない」上司はそう言うと新しいタバコに火をつけた。「まあ、でも一応言っておこう。うちの会社はそれほど待遇のいい会社じゃない。知っての通り重労働だが基本給は十六万円と高くない。ボーナスは年に二回で三カ月分だ。むろん残業もあるし、休日も完全週休二日ではない。一応昇給もあるがそれほど期待はできない。あと一応夏季休暇と冬季休暇もあるけど他の企業と比べたら短い」
「十分に好待遇ですよ!」
 恭平はうれしさのあまり再び叫んだ。その条件は彼が今までついてきた仕事の中ではかなりいいものだった。少なくとも賞与とボーナスがあるという点においては。彼は今までボーナスというものをもらったことがなかった。しかし一番うれしかったのは正社員になれるということだった。何のとりえもなければ何の資格もない三十四歳の自分が・・・・彼は頭の中で猫と自分が休暇とボーナスを利用してどこかの温泉にいる姿を想像してさらに興奮した。このところ彼は猫とどこかに行きたいとさかんに考えていた。
「ところでそれはいつからですか?」恭平は言った。「春からですか?」
「一月二十日からだ」上司は返した。「少し急だがだいじょうぶか? 人手が足りないものでな」
「もちろんです!」
「そうか。じゃあ書類は後日渡すよ」
「はい」
 上司は缶コーヒーを飲み干すと立ち上がった。そして「引き止めて悪かったな」と言うとドアの方へと歩いて行った。恭平は空き缶を入り口脇のゴミ箱に捨てた上司がポケットに手を突っ込んで出て行く姿を喜びに震えながら見つめた。

  〈12〉

 職場を出た恭平は夢見心地で通りを歩いていった。さっき上司に言われたことが信じられなかった。もう自殺する以外に方法がないと思っていた自分が安定した職につき、おまけに少しの贅沢なら許される立場の人間になれるなど夢のような話だった。彼の心の中はまさにバラ色だった。
 歩いているうちに商店街にさしかかった。恭平は今日がクリスマスだということを思い出して馴染みのスーパーに立ち寄り、店内中央に設けられたクリスマス用の食材を売るコーナーでケーキとシャンパン、それに幼い頃から一度食べてみたいと思っていたチキンを丸々一羽焼いたものを買った。値段は少し張ったが、それは自分への再就職祝いを兼ねた猫へのクリスマスプレゼントということにしておいた。チキンは猫の好物だった。
 店を出た恭平は早足で部屋に向った。部屋についた彼はドアを開けるといつもより大きな声で「ただいま」と言い、数日前に特価で買ったバンズの ― 前に履いていた安物の運動靴は踵が剥がれてしまったため捨てた。接着剤ではもう直らなかったのだ ― 運動靴を脱いで玄関を上がった。彼は敷きっぱなしになっていた布団の上で寝ている猫の元にかけよると、四つんばいになった。
「モモ! 今帰ったぞ!」
 猫は首をひねって恭平を見やった。食べ物の匂いがするのか鼻をクンクンさせている。このところ猫は耳が遠くなったのか恭平が近寄っても気づかないことが多かった。
「今日はお祝いだ」恭平は言った。「俺の再就職祝いとクリスマスの祝いを兼ねておまえの好きなチキンを買ってきたんだ。この間買ってきたみたいな特売品じゃないぞ。丸々一羽だぞ。見たことがあるか? なあ俺は来月から正式雇用されることになったんだ。すごいだろ」
 猫は起き上がると傍らに置かれていた袋に頭を突っ込んだ。恭平は一瞬「こら!」と言いかけたがかわいかったのでそれをやめ、床に転がっていた使い捨てカメラでその様子を写した。このところ彼は週に一回の割合で写真を現像に出していた。撮るのはほとんどが部屋でだったが、散歩に行った時に撮ることもあった。
「腹が減ってるんだな」恭平は言った。「じゃあ、まずは食事にするか。お話は後にして」
 猫が鳴いた。まるで「そいつは名案だな」といわんばかりに。
「待ってろよ。今すぐに準備してやるからな」
 恭平は袋を掴んで台所に行くとチキンを切り分け、慎重にシャンパンを開けた。そしてイチゴの乗ったショートケーキを皿に盛ると隣の部屋に行き、近所のリサイクルショップで安く手に入れた小さな古いラジオをつけた。彼は偶然流れていたジョン・レノンの「クリスマスソング」を聴きながら不慣れな感じで指を鳴らした。いい気分だった。
 翌日は週に一度の休みだった。そんなわけで恭平は猫と一緒にゆっくりと食事をした。欠けたマグカップでシャンパンを飲み、タバコを吸い、ケーキを食べ、甘い音楽に耳を傾けた。チキンは味付けも焼き具合も完璧でとてもおいしく、シャンパンも申し分がなかった。猫も喜んでいた。
「ボーナスが入ったら」恭平は言った。「いっしょにどこかに行こうか。温泉とか。おまえは風呂が好きだし最近じゃ、ペットの持ち込みを許可している宿もあるらしいんだ」
 そうこうしているうちに十時半になった。恭平は猫を抱き上げると台所へ行き散歩に出かける準備を始めた。彼が猫を散歩に連れていくのはその時間と仕事に出かける前の早朝と決まっていた。それはその時間ならまず人目につくことがないから安心して近所を歩けるからであり、猫が便意をもよおす時間と重なっていたからだった。
 首輪にリードをつけてドアを開けると雪が舞っていた。雪国育ちの恭平はそれを見て積もりそうだなと思った。それは彼が幼い頃から目にしているキメ細かな雪だった。すでに路面はうっすらと雪に覆われていた。
 恭平はいつものように猫を抱いたまま二百メートルほど歩いてそこで猫を地面に下ろした。猫はすぐに用を足したが雪が珍しいのか帰りたいとは言わなかった。彼と同様に久しぶりに見る雪に興奮している様子だった。彼は珍しく故郷のことを思った。今頃俺の実家は雪に閉ざされている頃だが、あのクソオヤジと、クソババァは元気だろうかと。再就職が決まったおかげで、心に両親のことを思う余裕が少しだけ出ていた。
 恭平と猫は長い間雪の中を歩いた。寒かったがそうしていたかった。降りしきる雪が外灯と民家の窓から漏れる灯りに反射してキラキラと輝く様子が美しかった。入り組んだドブ臭い路地を雪の晩特有の静寂が包んでいた。
 恭平は何年ぶりかで鼻歌を歌った。それはさっきラジオで聞いたジョン・レノンのクリスマスソングだった。別に何かがあるわけではなかったがしあわせだった。思わず何かを口ずさんでしまうほどにしあわせだった。
 猫は鼻歌を口ずさむ恭平を見ながら冷たい視線を投げかけていた。それを見て彼は思わず苦笑いを浮かべた。彼はいつも音楽の成績が一だったうえに、これ以上はないというくらいに音痴だった。フランクシナトラが吐血して倒れそうなほどに。
 恭平は「また来年もいっしょにチキンを食べて夜の散歩をしような」と優しくつぶやいた。そして猫を抱きあげると部屋にもどって再びささやかなクリスマスパーティーを始めた。彼がクリスマスを愉しいと感じたのはその年が初めてだった。

  〈13〉

 年が明けて新しい一年がやってきた。恭平は二日間だけとった正月休み ― その会社には正月休みがなかった。そのため彼は一月の四日と五日を休日として派遣会社に申請した。元旦に出ても日給は変わらなかった。 ― を猫と一緒に過ごした。バスケットに猫を入れて近所の小さな神社にお参りに行き、のんびりと酒を飲みながら、谷崎潤一郎の『痴人の愛』を読んで過ごした。例え日雇い労働者でも人並みに休みは欲しかったのだ。彼が初詣に行くのは何十年ぶりのことだった。
 恭平にしては珍しく洋服屋に行って二枚で三千円の無地の黒いパーカーと、中古で九八〇円のリーバイスのジーンズを買ったりもした。はたから見ればおしゃれでもなんでもなく、ひいき目に見ても普通としかいいようがなかったが洋服をほとんど買ったことのない彼にしては大きな進歩だった。それは一重に黒猫レコードのあの店員の影響だった。彼はあの男が黒いパーカーに色あせたジーンズを履いているのを見てひそかに憧れていたのだった。それがどちらもマニア垂涎のビンテージ物ということも知らずに。男がいつも着ているクリームソーダというブランドの洋服は自分には派手すぎたのでやめておいた。好きなのだが。
 むろん猫にもちょっとしたものを買ってやった。恭平は極度の親バカよろしくペットショップで猫用の服を買った。それは大正時代の書生を思わせるはかまと着物と学生帽がセットになったもので彼の洋服と同じくらいの値段だった。しかし猫がそれを着るのを嫌がったので結局彼は特売の生ハムとスモークサーモンを新年の贈り物とした。猫がそっちの方を喜んだことは言うまでもない。彼はそれを見て人間より猫のほうがしあわせなのかもしれないと思い、ある意味猫は人間よりもよほど優れた精神を持っているという結論に達した。着る物や見栄えに固執して絶えず自分の境遇に不満を持っている人間が不幸に思えたのだ。
 恭平が普段行くことのない初詣に行ったのには理由があった。それはやはり猫のことだった。彼は猫が少しでも長く自分と一緒にいてくれることを祈り、半年後に出るボーナスの時期に一緒にどこかに行けることを祈った。猫の体調は決していいとはいえず相変わらず寝てばかりいた。
 しかし、その願いは叶わなかった。猫の体調は一月の七日を過ぎた頃から急激に悪くなった。散歩に連れて行ってもただ用を足すだけでほとんど動かなくなり、以前にも増してキャットフードを食べなくなった。呼吸が苦しいのか話しかけても鳴かなくなったし、足取りは以前にも増して危なくなった。以前はよく恭平が料理をしていると台所の流しに飛乗ったりしてきたがそんなことはもうなかった。水を飲んでノドに詰まらせることも増えた。
 前にいた職場の事務の女の子が「猫は死ぬ数週間前になると急激に体が衰える」と同僚に話していたことを思い出した恭平は、思いつく限りのことをした。病院に行って注射や点滴を打ってもらい、精がつきそうなものを食事として与えた。うなぎ、肉、刺身、チーズといったものをふんだんに。しかし、それらはほとんど意味がなかった。猫は好物であるにも関わらず食べようとしなかった。かかりつけの医師によるとついに寿命が来たということだったがそれは疑う余地がなかった。今日、明日というわけではないが春まで持たないとうことは明らかだった。
 恭平は仕事の量を減らして多くの時間を猫と一緒に過ごすようになった。日雇いという立場は不安定だが、好きに休みが取れるという点においては有利だった。彼は最低限必要な金を稼ぎ出すと、家庭の事情で仕事に来れなくなったと派遣会社に伝えた。すでに今月の十九日付けで辞めると言ってあったのでそれは楽だった。むろん本当の理由は伏せてだが。彼は働き始めて以来、少しずつだか貯金し続けていたので運よく経済的に余裕があった。むろんたいした額ではなかったが。

  〈14〉

 新しい仕事が始まる二十日までの九日間を猫と恭平はほとんどの時間、部屋で過ごした。一度だけ会社に制服 ― 日雇い社員は私服だったが、正式雇用者には制服があった ― を合わせに行ったことと、二回ほどスーパーに行った以外に彼はどこにも行かなかった。別に何かをしてやれるわけではないがそばにいたかった。残り少ない時間を一秒でも猫といっしょに過ごしたかったのだ。天気のいい温かい日には近所の公園に出かけたりもしたが、ほとんどは部屋だった。年老いた体にバスケットの窮屈さは疲れるようだった。それにバスケットを見ると病院を連想するのか落ち着かなくなるのもかわいそうだった。猫も人間も医者と病院は嫌いなのだ。
 その九日間は単調だった。朝六時に起きて ― 体が早起きすることに慣れてしまったせいで朝寝坊ができなくなっていた ― 本を読んで自慰をするくらいで、後は猫と一緒に昼寝をするくらいだった。しかしその生活は楽しくなかった。どちらかというと憂鬱だった。何をしていても落ち着かず絶えず心の中に黒くて厚い雲が立ち込めているような感じだった。これからまた一人になると思うとつらかった。猫の体が弱っていくのを見ているうちにだんだんと心の準備ができてきてはいたものの、どうあがいても慣れることができなかった。命あるものはいつか死ぬという言葉を自分に言い聞かすなどムリだった。見ず知らずの老人や、遠くの国で勝手に戦争に巻き込まれて死んでいく人間ならそう割り切れるのだろうが家族同然となった自分の愛猫には当てはまらなかった。
 恭平は日々衰えていく猫を見ながら溜息をつくしかなかった。彼にできることはただ祈ることだけだった。他にできることは酒を飲んで現実を忘れることだが、そうする気にはなれなかった。そうしたらまた振り出しに戻るような気がしたのだ。何事にもやる気を抱けずただ自殺のことを考えてばかりいた忌まわしき数ヵ月前の自分に。それは精神的な地獄だった。ひどい匂いを放つ下痢便のようなヘドロが沈殿した底なし沼に無理やり放り込まれたようなものだった。
 いずれにしても恭平が働き始めて以来欲しいと思ってきた休暇は、彼が想像していたほど楽しくはなかった。それはちょうど体の中に、いつはぜるかわからない爆弾を埋め込まれてタイのプーケットに連れて行かれるようなものだった。彼は「いったい神様はどんなつもりなんだろう?」とよく思った。この世に平等などないということはすでに痛いほど知っていたがそう思わざるをえなかった。

  〈15〉

 そうこうしているうちに長くて憂鬱な九日間が終わり初出勤の日がやってきた。その朝彼は契約上の都合でいつもよりも少し遅く出かけた。当分の間、早出はなかった。
 仕事の内容は日雇いの頃とあまり変わらなかったが、事務的な仕事が増える分パソコンを触ったりする機会もあった。その日の午後、恭平は上司にパソコンの使い方を少し習ったが予想していたよりも楽だったので安心した。彼は生まれてこのかた満足にパソコンに触れたことがなかった。
 その日はほぼ時間通りに仕事が終った。恭平は職場の人間に新人らしく挨拶をすると部屋に飛んで帰った。昼休みにも十五分ほど帰っていたが猫のことが気がかりだった。相変わらず具合は悪かった。
 部屋に着いた彼は勢いよくドアを開けた。そして次の瞬間半ば呆れた口調で言った。
「何をやってんだ、おまえは?」
 玄関の前では猫が床に三つ指をついて彼の帰りを待っていた。まるで数百年前の女中が「おかえりなさいませ」と言わんばかりに。猫は短く歪曲した尻尾をけなげにグリグリと振っていた。恭平は昨夜から猫に言っていたことを思い出した。― 今日から俺は正式雇用の身なんだ ―
「おまえは頭がいいな」
 恭平はそう言うと猫を抱いた。かなり疲れていたがその疲れはどこかに吹き飛んでいた。正式雇用はやはり日雇いとちがって精神的にきつかった。慣れないパソコンを触ったせいか目や肩も痛かった。思っていたよりも簡単だったが、疲れることには変わりなかった。
「お出迎えしてくれてありがとうな。モモ」
 靴を脱いで部屋に上がった恭平はさっそく猫の食事を用意した。その日の猫の食事はいつもと代わり映えのしない猫用の缶詰だった。再就職の初日だし本当は何か豪華なものを用意したかったのだがスーパーに寄らずに帰ってきたので冷蔵庫の中はからっぽだった。食事を缶詰に切り替えたのはキャットフードよりも柔らかく食べやすいからだった。彼は少し前に猫の歯がだいぶなくなっていることを発見していた。人間も猫も年を重ねると歯が弱くなるというのは同じようだった。
 猫は丸一日何も食べていなかったにも関わらずあまり食べなかった。三分の一ほどを食べ終えると恭平が用意した水を少しだけ飲んで隣の部屋に行って布団の上に横たわった。相変わらずダルそうだった。
「モモ・・・・」恭平は言った。「もう少し食べなきゃダメじゃないか。食べないと自慢のトラ模様が薄くなるぞ。ただの茶色い猫になるぞ」
 猫は薄目を空けて恭平を見ていた。彼は床に置いていた餌用の皿に手を伸ばすと箸でそれを突き崩し、そこにかつおぶしを混ぜた。味を変えれば食べるかもしれないと思ったのだ。
 隣の部屋に行き猫の鼻先に皿を置くと作業着の後ろポケットに入れていた携帯電話が鳴った。彼は大家からなんじゃないかと思い身をこわばらせた。ついに誰かが猫のことを告げ口したのだと。彼に電話をしてくる人間は大家くらいだった。
 彼はポケットから電話を取り出した。しかしそれは大家ではなかった。レコード屋の男からだった。彼は前回黒猫レコードを訪れた際に携帯番号を交換していた。
「もしもし」
「あー、森本さん?」
「村林君?」
「あけましておめでとうございます」
「あー、どうも」
 恭平は男の声にあまり張りがないことに気づいた。口調はいつも通りだったが落ち込んでいる感じだった。受話器の向こうからは威勢のいい音楽が聞こえていた。
「最近来ないけど元気ですか?」
「僕はそこそこかな」恭平は床に腰を下ろした。「それより村林君は?」
「元気ですよ」
「そうは聞こえないけど」
「ああ。まあ色々とあって」
「彼女とケンカでもしたの?」
「そういうのだったらいいんですけどね」男は溜息混じりに言った。「尚美が死んだんですよ」
「尚美? サイン入りで地図を描いてくれた赤毛の子?」
「そう。その子ですよ」
「まだ若かったのに」
「そうですね・・・・」
 男は恭平に尚美という女の子が病気だったことを話した。男の話によると彼とその友人はもう一度唄いたいという尚美の夢を叶えるべく一緒にバンドをやっていたということだった。その子は元バンドマンだった。
 恭平は何と返していいのかわからなかったので黙っていた。彼は初めて黒猫レコードを訪れた夜に出会ったあの赤毛の女性のことを思った。人ごとながら悲しかった。思えば彼女は自分に優しくしてくれた最初の女性だった。男の声に含まれた悲しみが彼の涙腺を刺激した。自分も近いうちにこの男と似た悲しみを味わうことになるのだなと彼は思った。
「ところで猫はどうですか?」男は話題を変えるかのように言った。「モモは」
「相変わらず具合はよくないかな」
「そうですか・・・・」
「食欲がないんだ。それに最近は以前にもまして寝てばかりいる」
「医者には?」
「行ってるよ。でも、役には立ってない。医者は気休めに目の洗浄と注射をしてくれるだけだよ」
 今度は男が黙った。恭平は自分の声が妙な緊迫感を帯びていることに気づいた。話を聞いてもらえることがうれしかったのだ。彼には話せる人がいなかった。
「そういえば」恭平は言った。「仕事が見つかったんだ」
「おめででとうございます」男は返した。「で、どんな仕事なんですか?」
「仕事自体はこの前と同じだよ。でも日雇いから正式雇用になったんだ」
「やりましたね」
「人手不足だったみたいで」
 恭平は照れながら言った。なんだか無理やり言わせたみたいで恥ずかしかった。人に再就職を祝ってもらうのが初めてということもあったのだが。
「で、給料はいいんですか?」
「それはあまりよくないよ。でもボーナスはあるんだ」
「へー、何ヵ月分ですか?」
「三カ月分だけど」
「いいですね。うちは二ヵ月分ですよ。まあ、でもこんな仕事だから文句も言えないけど。遊んでるようなもんだから」
「勤務中に酒を飲めるんならそれでもいいように思うけど」
「いや、酒代がかかるから飲めない方がいいですよ」
「ボーナスが入ったら猫をどこかに連れて行ってやろうと思ってるんです。例えば温泉とか」
「名案ですね」
「でも、それまで猫が生きていてくれるかどうか。正直、後一月持つかも怪しいし」
 男はしばらく黙った。恭平は言うべきではなかったかなと今さらながら思った。
「森本さんは土日休みなんですか?」
「いや、日曜だけです」
「だったら日曜を利用して行けばいいんじゃないですか?」
「でも、ボーナスはまだ先だし」
「車は?」
「ないですよ。免許はあるけど」
「よかったら貸しましょうか?」

  〈16〉

 それから数日後、恭平は猫をバスケットに入れて黒猫レコードの前に立っていた。日曜日の朝八時とあって通りは静かだったが、辺りには吐瀉物や酒の瓶といった土曜の夜の名残が色濃く残っていた。黒猫レコードの前の通りが一番賑わうのは土曜の夜から日曜の朝にかけてだった。
 恭平はタバコに火をつけると空を見つめた。風は少し冷たかったが頭上には澄み渡った冬の青空が広がっていて気持ちがよかった。絶好のドライブ日よりを絵に描いたような空模様だった。この日、彼は男から車を借りてその車で猫とドライブに出かけることになっていた。
 待ち合わせの時間を十分ほど過ぎた頃に、二台の車がやってきた。一台は黒いカブトムシで、もう一台はトヨタの白いステーションワゴンだった。妙に角ばった古い形のクラウンのステーションワゴンだった。
 それらの車は恭平の前に停まった。朝日に輝くガラス越しに男の顔が見えた。男は恭平に手を振るとヨレヨレになったタバコをくわえながら車から降りてきた。エンジンはかけっぱなしでルームミラーには大きな鉄十字がぶら下がっていた。
「遅れてすいません」男は言った。「飲みに行ったらいつの間にか朝になっていて、まいりましたよ。よお、モモ元気か? 久しぶりだな」
 男は彼が今まで見た中で一番汚い顔をしていた。うっすらと髭が伸びいつもならきれいに決まっているリーゼントヘアは乱れている。まるで博打ですったみたいな風体だった。
 間もなくして後ろに停まったカブトムシからデニムのスカートに黒のロングブーツをはきジップアップ式の黒パーカーを着込んだ女の子が降りてきた。その女の子は背が低く、ぽっちゃりとしていたが美人と言ってもよかった。肩までの黒髪はきれいに手入れされていて、一重の目からは優しさと知性が感じられた。この子が優子かと恭平は思った。中嶋優子。
 その女の子は恭平と目が合うと笑みを浮かべながら会釈をした。恭平はなぜだかフローレンスナイチンゲールが頭を振りながらドラムを叩く姿を想像した。朝の空気に混じって爽やかな香水の香りがした。赤毛の女性と同様にステキな感じのする人だった。
「で、どこに行くか決まったんですか?」男は訊ねた。
「いや」恭平は返した。「でも山の方に行こうと思ってます。海はまだ寒いでしょうから」
「賢い選択ですよ。風邪を引きたいって言うんならそれもありでしょうがね」
 恭平は男の後ろに停まっている車を見つめた。久しく運転していないし本当に運転できるだろうかと今さらながら思った。恭平は夢が現実になりかけたことから何も考えずに車を借りる約束をしてしまっていた。この男もどうかしているが、自分もどうかしているのは明らかだった。きっと量だけが売りの安酒を飲みすぎたのだろう。
「ぶつけてもいいですよ」男は恭平の視線に気づいたのか言った。「すでにボコボコで廃車寸前だから。ああ、でも、もし人を轢いたらちゃんとオマワリに届けてくださいね。こいつが頼んでもないのにタイヤの下に潜り込んで来やがったって」
 女の子が車を回って恭平と男の立っている方に歩いてきた。女の子はしゃがみ込むと恭平が手にしていたバスケットの中を覗き込んだ。陽の光をあびた彼女の髪は黒曜石のように輝いていた。
「かわいい猫ですね」
「どうも」
「ずいぶんとおとなしい猫なんですね。さっきから全然鳴かない」
「もうおじいちゃんですから。人間の年にすると九十くらいなんです」
「かわいいな。モモじいちゃんは」
 恭平は自分がそう言われているような感覚を覚えた。女性に慣れていない彼はドキドキしていた。鼻毛が出ていないだろうか? ちゃんと歯は磨けているだろうか? と彼は思った。女の子は何やら猫に話しかけていた。彼はその姿を見て、この女の子が動物と人間を同じ仲間と考えていることに気づいた。なぜ、毒気の塊のようなこの男と天使のように朗らかな感じのこの女の子が恋仲なのだろうと彼は考えたが、すぐにこの男の根底に優しさがあるからだという結論に行き着いた。悪いのは口と素行だけだ。
 男は大きなあくびをすると三日月型の腕時計に目をやった。
「もうすぐ九時だ。森本さんはそろそろ行った方がいい。あんまり遅くなると道が混む。日曜日は世界中の労働者が仮釈放される日だから」
「ああ、そうだね」
「ところでどこに何がついてるかとかはわかりますか?」
 恭平はかぶりを振った。それを見た女の子は男に言った。
「普通わからないわよ」
「そりゃそうだわな」
 男はそう言って笑うと助手席側のドアを開けた。そしてシートに浅く腰を下ろすとどこにハザードがついているかや、どのようにエアコンを使うかといったことをざっと説明した。窓は今時にしては珍しい手動式だったがマニュアル車ではなかった。
 恭平はそれを聞き終えると運転席に乗り込み、助手席にバスケットを置いた。灰皿は吸殻で山盛りで、床にはビールの空き缶やワインのボトルが落ちていた。恭平は男があの世にいないことを不思議に思った。この男が生きていられるのはルームミラーにぶらさがっている十字架の御加護だろうか?
「じゃあ、気をつけて」男はドアを開けると顔を突っ込んだ。
「はい」
「何かあったら携帯に電話してください。多分走っている最中に壊れるようなことはないから。たまにエンストするけど」
「はい」
「じゃあ、よい旅を」
 男はドアを閉めた。それと同時に胸が高鳴るのを恭平は感じた。これから一人旅に出るのかと思うと少しドキドキしたのだ。傍らにいた猫が「まあ、落ち着いて」と言わんばかりに鳴いた。
 ブレーキを踏みながらシフトをPからDに入れると車が少し前に動いた。恭平は笑顔で手を振る男と女の子に手を振り返すと慎重に走り始めた。カーステレオから流れる不思議な女性グループの音楽とともに。そのグループは『アフロガール・ゴー・ア・ゴー』と歌っていた。

  〈17〉

 運転にはすぐに慣れた。その車は見た目よりも大きさを感じさせずどちらかと言うと運転しやすかった。少なくとも昔、仕事でイヤイヤ乗らされたマニュアル車のハイエースよりはずっと楽だったし楽しかった。彼は途中でカセットテープをオールディーズに変えていた。それはその時の彼の心境にピッタリと合っていた。
 恭平は寒いにも関わらず窓から腕を出して比較的ゆったりとした国道を東に走った。目的はなかったがその方角に行けばどこかに行き着くような感じがした。会社にあった地図を見る限り山はその方角だった。どこか山沿いの公園に行って日の光を浴びながら猫と昼寝をしたいと思っていたのだ。
 猫は慣れない車に最初こそ鳴いていたが、今ではすっかりおとなしくしていた。恭平は信号で停まる度にバスケットを抱えて猫に外の様子を見せた。道は運よく空いていた。
「見てみなよモモ。あのねぇちゃんすごく短いスカートをはいてるぜ。あのねぇちゃんはきっと性病持ちの娼婦だ」
 恭平は自分がいっぱしの男になったような感覚を覚えていた。自分が年代物のイカした車を操っているということが楽しかった。ダッシュボードに貼られたクリームソーダのステッカー ― そのステッカーはトランクにも貼ってあった ― とルームミラーからぶら下がる大きな鉄十字と車内に染み付いた整髪料の香りが不良っぽかった。彼は自分が向かうところ敵なしと言わんばかりの態度を身につけたあの男になったような感覚を覚えた。
 四十分も走ると視界からビルが消えその代わりに大きな民家や田んぼが見えてきた。恭平はのどかな風景に気をよくしながらさらに一時間ほど走った。すると今度は左手に海沿いの町にありがちな潮風にさらされて色あせた屋根が固まっている集落が見えてきた。目をこらすとはるか彼方に海原が見えた。ちょうど大きな坂を上りきったところだった。
 あれ?
 恭平は自分がどこかで道をまちがえたことに気づいた。その国道はどこかで枝分かれしていてまっすぐ進むと海沿いの町に出るのだった。猫に気をとられているうちに曲がるところをまちがえたのだ。
「クソッ、なんてこったい」
 恭平は思わず舌打ちをした。しかし彼はそれをよしとしてそのまま走り続けた。そしてしばらく走ると国道をそれて海に続いていそうな道に入った。もともと計画があったわけではなかったのでそれも悪くなかった。文字通りの気ままな旅だった。
 しばらく走ると海岸沿いに出た。防波堤沿いにそのまま走ると左手に大きな倉庫のような建物が見えてきた。そこには魚の名前の書かれた鮮やかなのぼりがいくつも立てられていた。観光客相手の魚市場か何かのようだった。
 恭平はハンドルを切って建物の前の大きな駐車場に車を止めた。そして猫に「少し待っててくれよ」と言うと建物の中に向かって歩き始めた。何か食べるものを仕入れたかったしトイレにも行きたかった。そろそろ昼食の時間だった。猫の餌は持ってきていたが自分の物はコンビニエンスストアーかスーパーで手にいれるつもりだったので何も持ってきていなかった。この手の場所には焼いた魚介類などが安価で売られているはずだと彼は思った。
 恭平は建物の外にあったトイレで用を足すと中に入って行った。その中は団体旅行できたと思しき老人たちでにぎわっていた。みな魚の干物やタコの干物を狂ったように買い求めていた。
 恭平はいけすのたくさん設けられた生臭い建物の中を歩き回り、マグロの切り身や牡蠣を焼いたものなどを手に入れると車に戻った。そして猫に「お待たせ」と言うとレジにいた前歯の欠けたパンチパーマのおばさんに聞いた公園に向かって走り始めた。彼は甘エビを買った際にどこかこのあたりにいい公園はないかと聞いていた。そのおばさんによるともう少し先に行った所に小さいが雰囲気のいい公園があるということだった。
 防波堤沿いにまっすぐ進むと左手に『海の見える公園』という薄汚れた小さな看板が見えてきた。恭平はハンドルを左に切って三台ほどあった駐車場の真中に車を停めた。そこはとても小さな公園で潮風にさらされて錆びたブランコとどこかの遺跡から発掘されたかのような簡易トイレしかなかったが確かに雰囲気はよかった。この辺りの地理にあかるくなければ素通りしてしまうような公園だったが、名前の通り海を見ることができた。
 恭平はドアを開けて外に出ると助手席に回った。そして猫の入ったバスケットを掴むとその中から猫を出して首にリードをした。何時間ぶりかに外に出た猫は自分がどこにいるのかわからず辺りを見渡していた。潮の香りに鼻をクンクンさせている。
「まずはトイレだな」恭平は言った。「それから食事にしようか。もらしたら大変だからな」
 恭平は猫を抱えると公園の奥にあったコンクリート製の階段を下って海岸に行き、猫を砂浜に下ろした。猫は砂の感触が気に入らないらしくさかんに足を振っていたが、海には興味があるようだった。近づこうとはしなかったが。おそらく猫は犬とちがって泳げない動物なのだろう。飼い主だか恋人だかに会うために海を泳いで渡ったという犬の話は聞いたことがあるが、猫がそうしたという話は聞いたことがない。
 恭平と猫は十分ほど砂浜を歩いた。その間、彼は持参していた使い捨てカメラで七枚ほど猫の写真をとった。風がやや強く冷たかったが気持ちはよかった。やわらかな日差しと荒涼とした感じが美しかった。それにおバカなカップルやうるさい子供がいないこともよかった。海岸は貸切り状態で聞こえるのは打ち寄せる波の音と車が公園の前を通り過ぎていく音だけだった。まるで時間が止まっているかのようだった。
 恭平は砂浜に打ち上げられた干からびた海草の塊や流木に小便をかける猫を見ながらしあわせな気分だった。猫はいつもよりも少しだけ元気があるように思えたし、遠出を楽しんでいるようにも思えた。おそらく初めて見るであろう海を。恭平は男が車を貸してくれたことと道をまちがえたことを神に感謝した。
 猫が用を足し終えると車に戻った。恭平はトランクを空けるとそこに腰をかけて食事の準備を始めた。できることなら海を見ながら外で食べたかったが、そうするには少し風が強すぎたし寒かった。彼は散歩中ずっとパーカーのポケットに手を突っ込んでいたがその指先は凍ったバナナのようなありさまになっていた。
 紙袋から餌用の皿と水を入れる茶碗を取り出した。彼は茶碗に持参してきていた水 ―普通の水道水を一度沸騰させたもの ― を注いだ。猫はノドが乾いていたのか忙しそうにそれを飲んだ。恭平はいつものように猫が水をノドにつまらせないことを祈りながらそれを見つめた。
 猫が無事に水を飲み終えると食事を皿に盛った。持参した缶詰ではなくさっき買った刺身や牡蠣を焼いたものだった。せっかく海に来たのだからこういうものの方がいいと思ったのだ。缶詰はどこででも食べられるし、いざとなったら部屋に持って帰ればいいのだから。猫は珍しくおいしそうにそれを食べた。食欲もあるようだった。恭平は試しに刺身を一口食べてみたがそれは本当においしかった。こよなく愛する近所のスーパーの魚売り場がペテン師に思えるほどだった。
「どうだ? うまいか? もっと食っていいぞ。俺の分もやるよ。ほら」
 彼は自分用の刺身のほとんどを猫にあげた。そのため食事は牡蠣を焼いたものだけとなった。しかし、それは猫に食欲があることに比べればたいしたことではなかった。それは生きようとしている証拠だった。
 食事を終えると車の中でボンヤリとした。恭平は運転席を倒して横になりながら空を見つめ、猫は助手席で丸くなった。外は寒かったが車の中は温かくて気持ちがよかった。澄み渡った青空と定期的に聞こえる波の音がなんとものどかで眠気を誘った。悩みや苦悩とは無縁な世界だった。
 猫はすぐにイビキをかき始めた。恭平は猫を見つめているうちにまどろみ始めた。これで眠るなという方が無理だった。例えコーヒーを二十杯飲んでもそれは無理だった。何かを考えるようなことはしなかった。
 目が覚めると外はだいぶ暗くなっていた。恭平は再び車を出て猫を砂浜で散歩させるとバスケットに入れた。散歩をさせたのは途中で道に迷っても大丈夫なようにだった。彼はどうやってここに辿り着いたのかをすでに忘れていた。来ようとして来たのではなく、結果的に辿り着いたので仕方のないことだが。むろん地図などという気の利いたものはなかった。
 恭平は記憶を頼りに日の落ちた通りを進んだ。二回ほど曲がる場所をまちがえたものの三十分後には無事に朝通った大きな国道にもどることができた。道は相変わらず空いていたので思ったよりも早く着けそうだった。約束通り男が仕事を終えて帰るまでに車を返せそうだった。恭平は町に戻ったらガソリンを満タンにしてどこかでお礼にスコッチを一瓶買おうと思った。特産物にしようかとも考えたが、あの男がタコの干物や干したイカでできたとっくりをもらって喜ぶとは思えなかった。
 帰りの車内は騒々しかった。猫は行きとちがってさかんに鳴いた。それはまるでもう少しここにいたいといわんばかりだった。猫はこれから帰るということを知っているようだった。楽しかった一日がもうすぐ終るということを。猫は車での旅をことのほか気に入ったようだった。
 恭平は助手席のバスケットを撫でながら名残惜しそうに鳴く猫に向かってまた来ような、とつぶやいた。もう少し温かくなったら必ず来ようと。そしてその時は必ず市場で目にした伊勢えびの刺身を食べようと。猫はそれを理解したのか鳴きやんだ。そして間もなくして寝息を立て始めた。ステレオが消してあったお陰でそれはよく聞こえた。車内は静かで聞こえるのはエンジン音と猫のいびきだけだった。
 恭平はひょっとしたらもう二度と来れないかもしれないと一瞬考えたがすぐにそれを打ち消した。その考えはこんな素敵な休日にはふさわしくなかった。はたから見ればたいしたことのない寂しい一日かもしれないが、彼にとっては何ものにもかえがたい完璧な一日だった。彼は時おり助手席のバスケットを見つめながら明日からまた頑張らなければなと思った。またこうして猫と小さな旅行に来るためにも。

  〈18〉

 あの小旅行から二カ月が過ぎた。恭平は相変わらず倉庫で働きながら猫と暮らしていた。仕事にもようやく慣れ、今ではパソコンも使うことができるようになっていた。時おりちょっとしたミスなどはしたものの相変わらず職場での評価もよかった。
 上司は「もう一人の高卒をとらずに君をとって正解だった」とよく言ったがそれはまちがいではなかった。恭平は事実よく働いた。猫を病院に連れていく必要がない時はちゃんと残業もしたし、早出をすることもよくあった。仕事は楽ではなかったが恭平はそれがうれしかった。
 生活に大きな変化はなかった。しかし女の子と話せるようになったことは大きな変化だった。恭平は職場にいるアルバイトの地味な女の子と時おり話すようになっていた。その子は大の猫好きで猫を二匹飼っていた。話すことは「猫の調子はどう?」とか「餌を変えたら食いつきがよくなった」という他愛もないものだったが、今まで緊張して女性と満足に話すことのできなかった恭平にとっては大きな進歩だった。その子はマンガ家を目指していたが恭平にはあまり興味がなかった。彼はその女の子の見た目から多分やおいものを描いているのだろうとふんでいた。義理で作品を見せてくれと言ったが、一向に見せてくれないところを見るとそのようだった。
 猫の調子は変わらずといった感じだった。病状は悪化することもなく一進一退といったところだった。寝てばかりいることとあまり食欲がないところはいつも同じだったが体調には波があった。比較的元気かと思えば翌日はひどくダルそうだったりもした。ちょうど人間の老人のように・・・・いずれにしても死の影は確実に迫っていた。それは散歩に行った時や猫が彼の問いに返事をした時などに感じることができた。鳴き声に以前ほどの張りはなかったし、目にも毛並みにもそれは表れていた。
 だからといって落ち込むようなことはもうなかった。恭平の中ではある種の覚悟ができつつあった。猫が近いうちに死ぬというのは悲しいことだがいつしかその現実を受け止められるようになっていたのだ。彼は猫と時間を過ごしているうちに何かを学んでいた。そして自分が何をすべきかもわかっていた。それは猫が与えてくれたチャンスを生かすことと残り少ない猫との時間を楽しく過ごすことだった。猫との出会いはある種の運命だと彼は考えていた。今の自分があるのはまちがいなく猫のお陰であると。もし猫と出会っていなければ彼はまちがいなくこの世にいなかった。猫が狂っていた人生を修正してくれたのだ。
 恭平は毎晩、仕事を終えるとスーパーに立ち寄って生ハムやチーズや鶏肉のささみといった高価な食材を買った。むろんそれは彼の夕食としてではなく猫の食事としてだった。どうせ長くないなら好きなものをたくさん食べさせてあげたかったのだ。それは彼にできる最大の恩返しだった。医師からは人間の老人よろしく食生活に気をつけるように言われていたがもうそれを聞く気にはならなかった。例え聞いても結末は変わらないのだから。おかげで食費が高くついたがそれはそれでよかった。猫が喜んでくれるなら惜しくもなかった。金はまた稼げるが、猫の命には限りがあるのだから。彼はその後も二度ほど海に行き ― 一度はレコード屋の店員から借りた車で行き、二度目はレンタカーで行った ― 伊勢えびや鯛の刺身を猫と一緒に食べた。残された時間を満喫すべく。

  〈19〉

 それからさらに一月が過ぎたある晩、いつものように一時間半の残業を終えた恭平はスーパーに立ち寄って猫の好物とシャンパンを一本買った。その日の食事はいつもよりも豪勢で、クリスマスの日に食べたのと同じ鶏の丸焼きだった。
 スーパーを出た恭平は雪道を早足でアパートへと向かった。その日は朝から夕方まで雪が降っていたが今は止んでキレイな月が出ていた。とても美しい夜で、外灯と月明かりに輝く通りはひどく静かだった。息を吸い込むたびに鼻腔をくすぐる冷たい雪の香りがとてもすがすがしく何もかもが輝いているようだった。その日は彼にとって特別な日だった。
 恭平は人通りのない通りを歩きながら思った。明日から俺は本当の意味での正社員なのだなと。これで俺は本当にボーナスをもらえる人間になるのだなと。この日の午後、彼は上司に呼び出され明日から正式雇用になるという旨を君には期待しているという言葉とともに伝えられていた。それはわかっていたことだがうれしかった。彼は晴れて安定を手に入れたのだ。むろん大金持ちや世にいう中流の暮らしとはちがうが安定にちがいはない。
 間もなくして部屋に着いた。恭平は鍵を開けるとドアノブに手をかけながら、百円ショップに立ち寄って紙の帽子とクラッカーも買ってこればよかったかなと思った。その方がパーティーっぽくなるのにと。彼は猫が水玉模様の帽子をかぶっている姿を想像してほほ笑んだ。かわいらしいことこのうえなかった。
「ただいまー!」恭平はドアを開けると言った。「今帰ったぞ」
 いつものことながら返事はなかった。恭平はまた寝ているのだなと思いながら雪で濡れた靴を脱いで玄関を上がった。アパートの中はレストランの大型冷蔵庫並みに寒かったが、昼休みに帰った際に電気をつけておいたので明るかった。彼は暗い中で留守番をさせるのがかわいそうだからといつもそうしていた。おかげで電気代がひどいことになっていたことは言うまでもない。
 台所にあがると布団の上に猫が横たわっているのが見えた。恭平はビニール袋を提げたままで隣の部屋に歩いて行った。ぬかるみを歩いたせいで靴下が濡れていたが気にはしなかった。彼は氷のように冷えた床と足の平が触れるのを避けるためにバレリーナよろしく爪先立ちで歩いていった。
「今帰ったぞ」恭平は上機嫌で言った。「今夜はお祝いだ。モモの好きなチキンだぞ。クリスマスに食べたやつだぞ」
 返事はなかった。猫は壁に顔を向けたままで寝ていた。恭平は買い物袋を床に置くと汚れた作業着を脱ごうとジッパーに手を伸ばした。と、その瞬間猫の口から赤い舌がだらりと出ていることに気づいた。厭な予感が胸をよぎった。まるで暗雲の塊のようなものが。
「おい!」
 恭平は気のちがった女のように叫んだ。彼は全身から血の気が引いていくのを感じながら床にひざまずいて猫の上に覆いかぶさった。あまりに激しく床にヒザをついたので五キロの鉄アレイを床に落としたような鈍い音が部屋中に響いた。死という文字がデカデカと脳裏に浮かんだ。一人ぼっちという文字とともに。
「じょうだんじゃないぞ! チクショウ! ウソだろ! ウソだろ!」
 その声は悲鳴であり祈りだった。恭平はほとんど半狂乱で猫の腹を触った。なぜ腹を触ったのかは自分でもわからなかった。彼の声は動揺のあまりところどころ裏返っていた。体中が異常な発熱で熱く、ねっとりとした汗が毛穴から噴き出すのがわかった。
「モモ! 今帰ったぞ! モモ! モモ!」
 彼の指先にゾッとするような冷たさが広がった。猫の体は部屋の気温と同じくらいに冷たかった。彼は反射的に猫を抱きあげると必死に揺すった。まるでそうすれば生き返るとばかりに激しく揺すった。しかし体はすでに硬直していて石膏で固められたかのようになっていた。カタカナのヒの字のような形に。うっすらと空けられた目が蛍光灯のわざとらしい光に寒々しく反射していたがそれはもう生のあるものの輝きではなかった。
「モモ・・・・」
 彼はそう洩らすとぺたりとその場に座り込んだ。全身から力が抜けていくような感じで立つことができなかった。頭の中が真白で目まいがしそうだった。まるで極度の貧血に見舞われたかのように真っ暗な視界の中で紅い光が点滅を繰り返した。
 なんてことだ・・・・
 なんてことだ・・・・・
 なんてことだ!
 彼はそれを言葉にして発しようとしたができなかった。さっきまで普通に話せていたというのにいつしか喉は二千日の干ばつにあったかのように干からびてしまっていた。体中の水分が背中を流れる脂汗とも冷や汗ともとれないものと共に流れ出てしまったようだった。自分の体を支えていた脊椎と一緒に。
 恭平は猫を抱いたままでしばらくその場に座り込んでいた。冷えきった部屋の中、時間だけがただ過ぎていった。まるで脳ミソを丸ごとスプーンでえぐり取られたような気分でどうすることもできなかった。彼は白痴よろしく口を開けていたが自分ではそれに気づいていなかった。感じるのは極度の静寂による吐き気と重油のような倦怠感だけだった。実際には部屋の外を行き来する車の音や隣の部屋から漏れるテレビの音が聞こえていたが彼の耳には入っていなかった。そんなものはヘロイン患者のまくし立てるタワゴトといっしょでただ勝手に鳴っているだけだった。彼にとって世界にいるのは自分だけで、そこはまさに『からっぽの世界』だった。
「何でいきなり死ぬんだよ・・・・こんな日に・・・・よりによってこんな日に・・・・」
 しばらくして恭平はつぶやいた。その声は、はたから聞けばただのうなり声だったが確かに彼はそうつぶやいた。その時ふとある考えが浮かんだ。彼は背筋に電流が流れたかのような感覚を覚えて思わず両目を見開いた。こいつは、俺が正社員になる日を待っていたんだと彼は直感的に思った。だからこそ苦しくてもそれを表に出さなかったのだと。モモは、もし俺が具合が悪いと判断したら仕事を休むことを知っていた。そしてそうすれば正式雇用の話は切られることになる・・・・
 根拠はなかったが、恭平にはそう思えた。それはいかにもモモがしそうなことだった。よくできた猫を絵に描いたようなモモが。偶然とは思えなかった。
 だがそれは決していい考えではなかった。恭平はそのせいで胸の奥を暖かく締め付けられるのを感じた。内臓を吐き出してしまうほどにきつく。その優しさは殺傷力の高い凶器となってすぐに彼を襲ってきた。熱湯と冷水の入り混じった濁流に飲み込まれたような気分だった。彼はそれにドップリと浸かった。
 恭平はたまらず頬を猫に押し付けた。二秒もしないうちに涙が溢れてきた。身震いするほど冷たく冷えた猫の体が余計に彼を悲しませた。自分の愛する猫が誰もいないこの部屋で一人息絶えたのかと思うとかわいそうでしかたがなかった。老衰で痩せ細った体の軽さがさらに拍車をかけた。彼は固く猫を抱きしめると泣き始めた。
 涙が滝のように溢れてきた。嗚咽はどんどん大きくなっていった。止めようにも止めることができなかった。恭平はこの数ヵ月の間にできた掛け替えもない思い出と、胸に残る猫の愛くるしい姿に徹底的に打ち負かされた。できていたはずの心の準備はそれほど役には立たなかった。ボール紙でできた盾で弾丸から身を守るようなものだった。
 恭平はひたすら泣き続けた。彼は涙がもう出なくなるまでそうしていた。正確にどれくらいそうしていたのかはわからないが少なくとも三十分以上はそうしていた。また一人ぼっちだと思うと憂鬱だったが気分は徐々にマシなものへとなっていった。思いっきり泣いたせいで気分がよくなったのだ。彼は目の辺りを汚れた手で拭うと深々と溜息をついた。
 恭平は、はいていた作業ズボンのポケットをまさぐってヨレヨレになった安タバコを取り出すと火をつけ、壁にもたれた。そしてそばにあったビールの空き缶をたぐりよせて灰を落とすと明日からのことを考えた。今までは猫の健康のことを考えて外に出て吸っていたがもう気にする必要はなかった。いくら吸っても猫が健康を害すことなどないのだから。そう思うとまた目に涙がにじみそうになった。気分は重かったが数ヵ月前のように自殺のことなどは考えなかった。逆に今まで通りに楽しく生きてやろうとすら思った。またあの頃にもどることはモモが授けてくれた新しい生に唾を吐きかけるようなものだった。モモだってそれを望まないのだから。それに考えてみれば彼はまるっきりの一人ぼっちではなかったし、やるべきこともあった。レコード屋の店員という友人もいるし、つい先日、定時制高校の申し込みをしたばかりだった。全てはモモが変えてくれたのだ。神に代わって・・・・
 恭平は再び腕の中の猫を見つめた。彼は右手で猫の額を優しく撫でた。猫は生前そうされるのが好きで、彼にそうされるといつも喉を鳴らした。彼はふと、いつかの晩に猫がトイレ以外の場所で小便をしていたことを思い出してほほ笑んだ。「コラ!」と言って猫を掴むと猫はかまってもらえるのだと思って目を細め喉を鳴らし始めたのだ。怒ることなどできるはずがなかった。
「いろいろありがとうな」恭平は猫の耳元に口をよせると優しく言った。「何十年後かにまた合おうな」
 恭平は猫を布団に寝かせると涙を拭いた。布団には息絶えた際に出たと思われる小便の染みができていたがそんなことはどうでもよかった。かなり臭いがそれも思い出だった。それよりも猫を弔うための道具を何点か買いに行かなければなと彼は思っていた。線香や香炉などを買わなければと。猫の亡骸を入れるためのダンボール箱も必要だった。今夜は一緒に眠って明日の晩、この近くの寺に連れて行こう。明日は残業もないはずだし。
 ふと昔、祖母が死んだ時のことを思い出して台所に行った。そしてふちの欠けた茶碗に水を入れて持ってくると指をそこに浸して猫の口にそれをつけた。彼はまたしばらく猫を見つめた。周りには彼が買い与えた猫用のおもちゃがバカみたいに散乱していた。それらは愛猫の死とともに色を失ってしまったように思えた。
「すぐにもどるから、いい子でお留守番しててくれよ」
 恭平は立ち上がると玄関に行って濡れた靴をはいた。本当なら涙が完全に乾いてから行きたかったがそうも言っていられなかった。スーパーの閉店時間が迫っていた。目覚まし時計に目をやるともうだいぶいい時間だった。
 足の平に冷たさを感じながら部屋を出た。通りに出るとキレイな満月が路面を覆う雪を銀色に輝かせていた。ふと顔を上げると空は汚れを知らぬ少女の瞳のようにどこまでも澄み渡っていた。雲はなく無数の星が瞬いていた。恭平にとってはなつかしい雪の匂いと静寂が辺りを包み込んでいた。美しい夜だった。
 恭平は立ち止まるとじっと月を見つめた。彼はふと幼い頃に祖母から聞いた命あるものは死ぬと全て月に行くという話を思い出した。馬鹿げた話しだがそうであって欲しかった。猫が空から自分の姿を見ていて欲しかった。いつものように面倒くさそうに体を半分起した状態で。彼はしばらくの間、月にいる猫が自分を心配そうに見ている姿を想像した。彼の大好きなその姿勢でときおり大きなあくびをしている姿を。
 恭平は再び涙を拭くとできるだけニッコリと笑った。そして心の中で俺のことは心配しなくてもいいからなとつぶやくと優しく降りそそぐ月明かりの元を再び歩き始めた。

                      完       

小説「二月九日」

 窓の外では雪が舞っていた。
 防虫剤臭い喪服を着込んだ俺は電車の座席に腰をかけて、昨夜からの雪に覆われた町並みが通り過ぎていくのを見つめていた。平日のためか車内はガラガラで眠くなるような静けさが漂っていた。
 俺が向っていたのは家だった。その日は町外れの寺で十年前に住んでいた家賃二万円のボロアパートの住人の葬式があった。そいつは大竹信二といって三八歳の俺より八歳年上でプロの作家を目指していた。情熱的な一重の目が印象的なやせた男で、「賞をとったら」と言うのが口癖だった。
 小説の腕とそれにかける情熱は相当なものだったが、結局は認められなかった。彼はやせ細った体で財という財を持たずに日雇い労働者として死んだ。財産と呼べるものは使い古されたパソコンと野暮ったい眼鏡と膨大な量の原稿だけだった。書く時間をけずりたくなかった彼は必要最低限しか働かず、近所の八百屋でもらうクズ野菜と肉のきれっぱしでなんとか食いつないでいた。
 俺は悪意があるかのように窓に吹き付ける雪を見ながら最後に焼鳥屋で大竹に会った時のことを思った。あの時あいつは数ヶ月ぶりに口にするビールに酔いながら笑顔でこう言った。
「僕はきっと一人ぼっちで死ぬよ。で、何日か経ってから大家さんが発見してくれると思う」
 奇しくもそれはその通りとなった。大竹は心不全で死んだ後数日ほどして大家に発見された。俺にそれを知らせたのも大家だった。
 式は十一時からだった。そこには大竹の身内以外にその当時、同じアパートに住んでいた何人かの住人が来ていた。そいつらはそれぞれ夢を持っていたが、全員それを諦めて今はまっとうな人間になっていた。写真家志願の殿村という女は、結婚して主婦になっていたし、役者志願だった北村は警備員として忙しく普通に暮らしていた。北村が「今の僕は北村誠一(役者を目指していた頃のヤツの芸名)の燃えカスさ」と言っていたがまさにそうだった。何年ぶりかで会ったみんなにその頃の輝きはなかった。
 むろん俺も例外ではなかった。俺はその頃アマチュアで多少名の知られたロックンロールバンドでベースとボーカルを担当していたが、解散を機にアパートを出て今勤めている自動車部品工場に就職していた。自費で二枚のアルバムを出し一部で高い評価を受けたが今の俺にその頃の輝きはなかった。今ではそのバンド名と一緒にすっかり色あせてしまっていた。
 窓の外を見つめているうちに眠気が襲ってきた。このところ残業や休日出勤が続いていた。ほこりくさい暖房の暖かさと規則的な揺れが眠気に拍車をかけていた。俺はうとうとしながら明日のことと、十年前のことを交互に思った。大竹が書き上げたばかりの原稿の束を持って部屋に来た時のことがまぶたの裏に浮かんだ。
「毛利君! 悪いんだけどこれを読んでくれないかな? 今度、応募するんだ」
「またですか?」
「頼むよ。感想を聞きたいんだ」
「何ページですか?」
「今回は八百ページ」
「この間も応募してませんでしたか?」
「また別のなんだ」
「あれから一月と経ってませんよ」
「同時に書いてたんだよ。今回のは自信作なんだ」
「また高橋的なものですか?」
「もちろん」
「もっと一般受けするものを書いたほうがいいんじゃないんですか? 二十歳の女がクソジジィのイチモツをしゃぶるようなものとか」
「そうだね。でも、僕はこれでいくんだ。それより早く読んでよ」
「いいですよ。大竹さんの書くものは好きだから」
「じゃあ、僕は読み終わるまで毛利君のベースでも弾いてるよ。弾けないけど」
 悲しいわけでもないのに憂鬱だった。正直なところ大竹の死は大昔の戦争で命を落とした兵士のそれのようにぼんやりとしたものだった。悲しむには疎遠になりすぎていたし、三七になった俺にとって死はすでに当たり前のものとなっていた。でも、この日はあることが胸にひっかかっていた。それは両親や会社の同僚が死んだ時に感じるようなものではなく、自らの意思で自らの人生を生きた大竹に対する敗北感と、夢を諦めてしまった自分に対する悔恨だった。
 俺は先ほど見た口をぽかんと開けた大竹の死に顔を思い出した。そして、もし自分があの後、バンドを続けていたらどうだっただろうと考えた。それは時おり思っていたことだがこの日はいつもよりも強かった。やめてしまったことに対する後悔の念が胸の中でざわめいていた。
 バンドの解散は俺以外のメンバーが年齢的なことを理由に全員脱退したからで、音楽に対する欲求がなくなったからではなかった。事実、俺は新しくメンバーを探して続けようと何人かの知人に話を通していた。作詞作曲はすべてリーダーの俺が手がけていたので既存の曲は全て使うことができた。このメンバーじゃなければいけないとは考えていなかった。しかし親や周りの人間の言うとおり年齢的なことを考えると断念せざるをえなかった。その時俺はすでに二八でちゃんとした仕事につける最後の機会を迎えていた。すでに世間一般で言われるいい職種につけないことはわかっていたが、生涯を日雇いや、雑踏警備員で終えるのは怖かった。世の中は学校に行って、家畜同然に働いて死ぬ以外の道を歩もうとした人間を異端者と見なし蔑むようにできている。
 結局、大竹のように人生を投げ出すことができなかった俺は安易な道に走った。結果的に家庭と安定した収入 ― 平均をやや下回るが ― を手に入れたが、それはたいしたものではなかった。仕事と家庭の往復は退屈以外の何者でもなかった。全身がゆっくりと壊死していくような、自分がどんどん消えていくような感じだった。自分が目標としていた場所からどんどん遠ざかっていくような。
 いずれにしても今の俺は自分がしてしまったことに対する義務で生きているにすぎなかった。心がときめくようなことはまるでなかったし、気になることも今ではさほどなかった。娘はかわいく妻がいるのはありがたいがやはり何かが足りなかった。それはちょうど匂いのない花のようだった。
 趣味でまたバンドでもやろうかと考えたが、一度本気でやってしまっているだけにそれは無理だった。コーヒーを飲みながらドーナツを食べるような気持ちで音楽に接するなどとんでもないことだったし、そもそも一緒にやれるようなやつはいなかった。少し楽器をかじった程度の俺と同じ年回りの人間と昔はやったクソアイドルの曲をコピーするなどまっぴらだったし、今時の生ぬるいガキどもと一緒にやることもできなかった。連中のがんばるというのは、無理しない程度にがんばるということで、俺から見ればなめているとしか言いようがなかった。好きなことにすら全く本気になれず、やる前からどこかで諦めていた。まあいいんじゃない、それでいいんじゃない、こんなもんでしょ、などと。
 あれこれ考えているうち気分が滅入ってきた。いつしか気分は陰鬱から憂鬱へと変わっていた。俺はまぶたを閉じると心地よい電車の揺れに身を任せながら、娘と妻のことを思い、何もないことこそがしあわせなのだと自分に言い聞かせた。頭の隅にこびりついた「今の僕は燃えカスさ」という北村の言葉を打ち消すために、今日の延長でしかない明日を朗らかに生きるために。俺は安易な道を進んだからこそ出会えた娘の夢子を思い、事実今の生活だって悪くないだろと心の中でつぶやいた。これが失敗に失敗を重ねて転落していくだけの勇気も根性も持ち合わせなかったおまえの選んだ道だろうと。人は何かを犠牲にして生きていかなければいけないのだと。
 うとうとしているうちに駅に着いた。電車を降りた俺は改札を出て黒いこうもり傘をさすと妻子の待つアパートへと歩いて行った。雪は相変わらず降り続いていて、空気は切りつけるように冷たかった。ある意味では絶好の葬式日和だった。
 十五センチほどの雪に覆われた通りを歩いていると、よく家族で行く喫茶店が目に入った。俺は新聞を読んで行こうとその店に立ち寄ることにした。ひどい寒さだったので少し体を温めていきたかった。腹も少し空いていたし喉も渇いていた。
 ドアを開けると温かい空気とこうばしいコーヒーの香りが押寄せてきた。俺はカウンターの中にいるマスターに軽く会釈をすると、いつものように入り口脇の大きな棚から新聞をとって窓際の席に座った。いくつかのテーブルの上にカップや皿がのっていたが他に客はいなかった。 
 隣のテーブルを片付けていた馴染みのアルバイトの女の子にコーヒーとパイを注文するとタバコに火をつけて窓の外を見やった。通りの向こうでは七歳から九歳くらいの子供たち数名が雪だるまを作っていた。俺は反射的に明日の出勤のことを考えた。
 しばらくしてバイトの女の子が水とおしぼりを持ってきた。そこは小さいが落ち着いた店だった。住宅地の中にあるにしては隠れた名店といってもよく、軽い食事などもできた。しゃれた老夫婦が経営していて、妻は休みの日にここで朝昼兼用の食事をとるのが好きだった。
「お葬式の帰りですか?」バイトの女の子が言った。彼女は白いブラウスに黒いズボンをはいて、腰の辺りに黒いエプロンをしていた。それがこの店の制服だった。
「ああ」俺は答えた。「よくわかるね」
 彼女は笑った。「たいした洞察力でしょ。しかし、毛利さんのスーツ姿は初めて見ました」
「普段は私服か作業着かのどちらかだからね」
「かっこいいですよ」
「こういう時に言われてもな」
「こういう時じゃないと毛利さんはスーツを着ないでしょ」
 彼女は髪を金色に染めて耳にいくつもピアスをしていた。年はまだ二十代前半で、今時のパンクバンドでベースを弾いていた。高校を辞めてからずっとここで働いているので、仕事は慣れたものだった。ごくありふれた女性である妻は歯に衣着せぬ感じで話すこの子のことを好きでなかったが、俺は好きだった。美人やきれいといった顔立ちではなかったがその目には生気があり、それが彼女をステキに見せていた。彼女とは時おり話す仲だった。
 白いシャツに黒い蝶ネクタイをしたマスターは時間を気にしながらカウンターの中でゴソゴソとしていた。店自体は暇そうだったが何かとやることがあるようだった。カウンターの隅にかけられた年代物の柱時計に目をやると四時に近かった。
「琴美ちゃん」少ししてマスターが言った。「ちょっと出てくるから頼むね」
「ああ、はい」
「オーブンにパイが入ってるから気をつけてね」
「焼きあがってから行けばいいのに」
「物事にはタイミングってものがあるんだよ。一時間くらいで戻るから。ああ、後、あの辺のこともよろしくね。だいたい終わってるけどまだ明日の準備が少し残ってるから」
「はーい」
 マスターは上着を羽織ると外に出て行った。それと入れ替わりに彼女はカウンターの中に入って行った。俺は窓越しに雪の中を歩いていくマスターの背中を見ながらまたパチンコ屋に行くのかなと思った。彼はパチンコや競馬が大好きだった。
「もう少し待っててくださいね」カウンターの中で女の子が言った。「あとちょっとで焼けますから」
「いいよ。急がないから」
「マスターはまたパチンコに行ったんですよ」
「だと思ったよ」
「勝てると思いますか?」
「ムリだろうな」
「私もそう思います。正直勝ったって話はほとんど聞いたことがないんです。トントンって言ってるけど多分負けてますよ」
「でも、今日くらいは勝つかもね」
「何でですか?」
「この地方にしては珍しい大雪だから」
「ありえますね」
「ところで奥さんは?」
「お休みですよ。水曜日はだいたいお休みなんです。三人で回してるから一人かけるとけっこう大変なんですよね。特にランチタイムは」
「琴美ちゃんはいつ休んでるの?」
「私は毎日ここにいますよ。県外でライブがある日以外はね。県内のライブは午前中働いてそれから出かけるんです」
「働きものだな」
「フリーターは割りの悪い自営業みたいなものですからね」彼女はそう言って笑うと仕事を始めた。「国が最低賃金を千五百円にしてくれたらもう少し楽になるのに」
 俺は少しの間、彼女の仕事ぶりを眺めると再び窓の外に視線を流して子供たちが雪だるまを作る様子を見つめた。テーブルの上には持ってきた新聞が置かれていたが読む気は失せていた。読んだところで意味がないように思えた。
 子供たちは元気だった。寒さをものともせずにキャッキャと騒いでいた。進行状況は七割といったところで、リーダーは赤いニット帽をかぶった肥満児のようだった。
 見つめているうちに殿村が実家に戻る前日の夜に、アパートの住人の何人かで雪だるまを作ったことを思い出した。そういえばあの日も今日のような大雪だったなと俺は思った。近所の小汚い酒場で行ったお別れ会の帰りのことで、言い出したのは佐伯という年上のゴロツキだった。
 俺はさっき会った殿村のことを思った。そして時間は残酷だなと改めて思った。三八歳になった彼女にあの頃のうつくしさはなかった。ごくありふれた母親の顔になっていて目尻や口元には生活によるシワが浮き出ていた。それを言えば俺もそうなのだが。
 彼女は八年近くカメラ屋でバイトをしながらプロのカメラマンを目指すという生活を続けたが、青森で旅館を経営していた父が倒れたのを機に実家に戻った。みんなにひと段落ついたら必ず戻ってくると言ったが結局戻ってくることはなかった。彼女が去った翌年に北村が去り、さらにその翌年に俺が去った。最後まで勇猛果敢にあのアパートに住み続けたのは大竹だけだった。住み続けられたのは。
「どうかしたんですか?」
 振り向くと横に彼女がいた。彼女は俺と目が合うと無言で灰皿を指した。タバコはいつしか燃え尽きて灰だけになっていた。目の前にはいつの間にかコーヒーとパイが置かれ、湯気を立てていた。
「当然のことかもしれないけど」彼女は言った。「顔が暗いですよ」
俺はフィルターをつまみあげると灰皿に押し付けた。「そうかい?」
「疲れてるからってわけはないみたいですね」
「疲れてもいるけどね。ここのところ残業と早出が多かったから。それに休日出勤も。零細企業には就職しないほうがいいよ。労働基準法なんてあったもんじゃないから」
「でもボーナスはあるんでしょ?」
「少しはね」
「よかったら話を聞いてあげますよ」
「別にいいよ」
「想像はつきますけどね」彼女は言った。「亡くなった人は女の人でしょ?」
「いや」
「学生時代の友達でしょ?」
「昔、住んでたアパートの住人だよ」
「昔の恋人じゃないんですか?」
「残念ながらちがうな」
 彼女は数秒ほど俺を見つめた。そして真剣な顔で言った。「一つわかったことがあります」
「何?」
「私は探偵に向いていない」
「それを言ったらアーソーは首相に向いてないよ」
「なら私はウェイトレスに向いてない」
「じゃあ俺は工員に向いてない」
 彼女はおもしろいヤツだというような表情で俺を見つめた。俺は心の中でさらにこうつけくわえた。それに父親にも、普通の暮らしにもな、と。
「その人とはそんなに親しかったんですか?」
「バンドをやってた時にはよく飲んだよ」俺は言った。「そいつは俺より八歳年上で隣の部屋に住んでた」
「部屋が隣で仲良くなるってすごいですね」
「玄関とトイレと流しが共同だったから、自然とそうなるんだ。嫌でも顔を合わせるから」
「まだ、地球上にそんなところがあるんですか?」
「探せばあるよ。ダンボールハウスに毛が生えた程度の代物だけどね。部屋は六畳で家賃は二万円、共同トイレは和式で廊下にはいつも下水のきつい匂い。おまけにトイレがしょっちゅう詰まるんだ」
「何かとんでもない人ばかりがいそうですね」
「悪く言えばね。でも、よく言えばユニークなヤツが多かった。作家志願、役者志願、カメラマン志願。それに琴美ちゃんの言うようなゴロツキも何人かいた。死んだ大竹は作家を目指してたんだ」
「すごいところですね。あの有名なマンガ家達が無名時代に住んでたっていうアパートみたい。そこはそういうことをしてないと入れないっていう規則でもあったんですか?」
「金がないから自然と集まっちまったんだ。蛾が明かりに群がるみたいに」
「楽しそうですね」
「そうだな」俺はうなずいた。「週に一度はパーティーがあった。飲み屋に行く金なんてなかったから、みんなで安酒と食べ物を持ち寄って飲むんだ。冬はコタツのあるヤツの部屋に集まって、夏はクーラーのあるヤツの部屋に集まってって。話す内容はいつも同じだったけど楽しかったな」
「それは悪魔でさえ恐れをなすような猥談ですか」
「それもあったな。でも大抵は夢の話しだよ。俺が死んだら文学が死ぬとか、俺が死んだら芝居が死ぬとか。クランプスの次にかっこいいのは俺のバンドだとか」
「ゴキブリがいそうですね」
「たくさんいたよ」
「毛利さんの部屋ではなかったんですか?」
「俺の部屋ですることはなかったな。ベース以外何もなかったから。テレビも冷蔵庫も持ってなかったし、掃除機も持ってなかったんだ。テーブルもなかった」
「困りませんでしたか?」
「いや、まかないつきの喫茶店でバイトしてたから。それに休みの日にもそこに行って飯を食わせてもらってたから、料理はほとんどしなかったんだ。家にいることがあんまりなかったからテレビも必要がなかったしね」
「どうやって掃除してたんですか?」
「ほうきだよ」
「ノミがいそうですね」
「月に一度はバルサンをたいてたよ。畳だったからね」
「そういえば前に言ってましたよね。昼間は工場で働いて週に何日かは夜、喫茶店でウェイターをしてたって」
「ああ。工場は給料がよかったけど、それだけじゃ十分じゃなかったからな。琴美ちゃんもわかると思うけど、全国規模で活動してると金がいくらあっても足りないんだよ。おまけに俺達はどこにも所属していなかったから」
「わかります」彼女は言った。「私もバイトを掛け持ちしてるけどお金が全くないから。そうそう、今度、神戸、大阪、名古屋、岐阜を回るんです」
「へー」
「名古屋はTOYSって店でやるんですけど、やったことってありますか?」
「あるよ。なかなかいい店だった。やりやすいし、店の雰囲気もよかったし。って言っても十年前のことだけど」
「ベーアンがなんだったか覚えてます?」
「トレースだったかな。いや、グヤトーンだったか? 俺は自分のアンプを使ってたから覚えてないな」
「やっぱり私も自分のアンプが欲しいな」
「それは持っておいた方がいいよ。ベースは本体よりもアンプだから」
 彼女はカウンターに向かった。そして湯気の立つコーヒーカップを持ってくると俺の向かいに座り、エプロンの前ポケットからタバコを取り出した。
「ちょっと休憩しますね」
「ああ」
 俺がコーヒーに手を伸ばすと彼女がタバコに火をつけた。彼女は女の子にしては珍しくハイライトを吸っていた。
「毛利さんもよくやったでしょ? こういうこと」
「やったよ。ゴミを捨ててくるとか言って一服した」
「やることはみんな同じですね」
「そういうことに関していえば学生時代の方が真面目だったよ。手を抜くってことを知らなかったから」
「タバコはどうしてました?」
「タバコ?」
「毛利さんはヘビィスモーカーだから困ったんじゃないですか?」
「いや、コンビニで働いてた友達が盗んできたのを安く買ってたから」
「やっぱり」彼女は笑いながら言った。「私もたまにコンビニで働いてる友達から買うけど」
「琴美ちゃんもか」
「ええ。背に腹はかえらえないんで。ちなみに、たまにはいてるレッドウィングのエンジニアブーツは靴屋でバイトしてた女の子が盗んできたのを一万円で売ってもらいました。その子は棚卸の時にそれがバレてクビにされたんですけどね」
「いつの時代もやることはいっしょか」
「毛利さんも?」
「洋服とかではないな。古着屋で働いた友達にわざとレジを打ち間違えてもらうことはよくあったけど」
「へー、じゃあ、休みの日にはいてるビンテージ物のジーパンもそうですか?」
「あれは、もらいものだよ。ロカビリーをやめて地元に帰った知り合いがくれたんだ。俺の分もがんばってくれよって」
 話しているうちにあの頃がよみがえってくるのを感じた。頭の中にいつかの夏のツアーのことや、バイト時代の思い出が浮かんだ。それはまるでソーダ水の気泡のようにふつふつとわきあがってきた。こうしてバンドのことを話すのは久しぶりだった。妻はその手のことに興味がなかったし、職場で仕事以外のことを話すことはなかった。その頃のバンド仲間やメンバーとも長いこと連絡をとっていないし、ベースやレコードはすでに手放してしまっていた。
「青春ですね」彼女は笑顔で言った。「少し歪んでるけど」
「そういうには年をとりすぎてたけどね」俺は言った。「俺がバンドをやってたのは大学を出てから二八の終わりまでだから」
「じゃあ、少し遅れてやってきた『心愉しき地獄の季節』って感じですか?」
「いい言葉だね」俺は心の中で彼女が言った言葉を反芻しながら言った。
「この間作った『春の夜の狂騒曲』っていう曲の一節なんです」彼女は得意げに言った。「少し暗い歌なんだけど、青春は楽しいことばかりじゃないから」
「琴美ちゃんは詩人だな」
「でもそうでしょ」
「そうだね」
 俺はあの頃絶えず心の中にあった不安や孤独をなつかしく思った。休みの朝などに布団の中で「これから俺はどうなるんだろう」と考えたことや、夏の午後に飛行機を見て「俺の人生はどこにいくのだろう」と考えたことを。今ではそんなことを考えることはまずない。あの頃は絶えず誰かがそばにいたのになぜだか孤独だった。そして社会的責任や、守らなくてはいけない家族がある今よりもずっと生きることに必死だった。今では明日のことなどどうでもいい。
 彼女の吐き出した紫煙がゆっくりと店の中を流れた。店内にはいつものように、聞こえるか聞こえないくらいの音量で古いジャズが流れていた。この店で流れる音楽は戦前のジャズときまっていた。
「ところで」彼女が言った。「その人はいくつだったんですか? 大竹さんは」
「四六かな。俺より八歳上だから」
「まだ若いですね」
「ああ」
「よく会ってたんですか?」
「いや、アパートを出てからは二回だけだよ。最後に会ったのは今の会社に入って二年くらいした時だった」
「もっと頻繁に会っていそうなものですけど」
「そういうものなんだよ。関係っていうのは環境が変わると長くは続かないんだ。生活が変わると自然と話も合わなくなるからね」
「言われてみればそうですね」
 俺は本当の理由を言わなかった。俺が大竹と疎遠になったのはねたみからだった。最後に会った時、俺は喜々として夢を追い続けている彼に対して嫌なものを感じ、自分をひどく惨めに思った。夢に対する強い思いを含んだ彼の一語一語が責め立てているように聞こえたのだ。大竹は色々なことについて話せたが、俺には仕事のことしか話すことができなくなっていた。
「病気か何かだったんですか?」彼女は言った。「大竹さんは」
「いや」
「じゃあ、事故ですか?」
「ある意味ではそうかな」俺は言った。「心不全だから」
「その年で?」
「不思議じゃないよ。食うや食わずの不摂生な生活を二十年以上してたんだから。必要最低限しか働かないヤツだったんだ。パンの耳や近所の八百屋からもらうクズ野菜で腹をごまかしてたよ」
「じゃあ、他の時はずっと書いてたんですか?」
 俺はうなずいた。「絶えず書くことだけを考えて生きてたヤツだったからね。恋人も奥さんもいなかった。一週間ぶっつづけで書き続けたこともあったよ」
「普通の人間には真似できない芸当ですね」
「そうだね。本気で突っ走るには根性と勇気がいるからね」
「かっこいいな。大竹さんは」
「ああ」
 俺は自嘲的な気持ちでうなずいた。確かにあいつはかっこよかった。少なくとも俺よりは。世間から見ればただの愚か者かもしれないが、普通の人間には真似できない生き方をあいつは通した。たいした男だった。
「私も大竹さんみたいになりたいな」彼女はカップに手を伸ばすと一口すすった。「私はまだ二十三だけど、たまに不安になるんです。そろそろやめなきゃいけないのかなって。現に回りの子もやめていってるし、親にもいい加減に落ち着けって言われるし」
「好きなことがあるならとことんやるといいよ」俺は言った。「どうせ人生は一度なんだし、どの道後悔するんだから」
 三秒間の沈黙が訪れた。彼女はジッと俺を見つめた。俺の口にした何気ない言葉は不思議な響きを帯びて店内を威圧した。まるで銃声のような響きを帯びて。
 彼女はカップをテーブルに置くといつになく真剣な面持ちで言った。「心に留めておきますね。先輩の忠告として」
「責任は持てないけどね」
「ええ」
 彼女はうなずくと視線を窓の外に流した。俺は新しいタバコに手を伸ばすと火をつけて深々と煙を吸い込んだ。やって後悔するか、それともやらずに後悔するかという陳腐な言葉が、どうせいつかは死ぬのだからという言葉とともに脳裏に浮かんだ。俺は再び自分をあざ笑った。昔友達のサイコビリーバンドが歌っていた「籠の中の溝鼠は死ぬまで螺旋を描く」という歌詞を思い出し、あれは俺のようなヤツのことを言っていたのかなと思いながら。彼女は黙って窓の外を見つめていたが、何を思っているのかは、わかるようでわからなかった。
 間もなくしてたまに見かける老人の集団が入ってきた。彼女は舌打ちまじりにタバコをもみ消すと「いらっしゃいませ」と言ってカウンターに向かった。その集団は爺さんが二人に婆さんが三人という構成で年はみな七十代半ばといったところだった。
 爺さんの一人が歩きながら人数分のコーヒーを注文した。集団は奥のテーブルに座ると狂ったように話し始めた。静かだった店内に疲れきった賑やかさがただよった。ほこりにまみれた死臭のような嫌な賑やかさが。
 俺は、すっかり冷えてまずくなったパイとコーヒーを義務的に胃に落とすと、彼女の手が空くのを待って席を立った。そして勘定を払って彼女に軽く礼を言うと、読まなかった新聞を棚に戻して店を出て行った。
また今日もダラダラと夜が近づいていた。