旅日記「はるかな海より~ピースボートのボランティア(1)」
娘が約三ヵ月間の「世界一周船の旅」から帰国して、三月末で一年になります。
(シンガポールに停泊中の「モナ・リザ号」)
先だって、当時のボランティア通訳を含めたスタッフの、少し早めの「帰国一周年パーティー」が開かれ、楽しい時間を過ごしたようです。
娘がニューヨークの大学を卒業したのは二〇〇八年五月。そして、東京で就職したのは二〇〇九年四月。長い休みの締めくくりを、ピースボートのボランティア通訳として南半球を一周したのでした。
一月に出発した当初は、彼女の旅と同時進行で日記を公開できるのでは、と思っていたのですが、残念ながら叶いませんでした。思うように日記が届かなかったのです。
通訳たちはCC(コミュニケーション・コーディネーター)と呼ばれるのだそうですが、その名の通り通訳業務だけではなく、役目が多岐にわたっていました。また、「水先案内人」の専門家が各寄港地から乗船し、講演会やセミナーが開かれるのですが、CCも専門的な知識の習得など、勉強しなければならないことが多々あったようです。
さらに、乗船客へのサービスの一環として、舞台でのパフォーマンスのための台本作りや、女優!? に変身したりと、日記を書く時間もないほど忙しい日もあり、船酔いも二日酔いも・・・、だったようです。インターネットに接続できない地域もありました。
そういう日々のなか、少しずつ日記が届くようになったのですが、今度は母である私の事情で公開が大幅に遅れてしまいました。
また、帰国後二日目に入社式に臨んだ娘のそれからの新たな日々に、旅のことを詳しく聞く機会も持てず、あれやこれやで今になってしまったのです。ともあれ、二十三歳だった娘の船旅を、数々の写真とともに楽しんでいただければ、この上ない喜びです。
以下、ほぼ原文のままです。
*は母が記しました。
(航路図)
二〇〇九年
一月十五日
「地球で遊ぶ。地球に学ぶ」
いよいよピースボートの始まりだ。
通訳スタッフは朝八時四十五分に、横浜港大桟橋集合。
ターミナルを出て、私の視界はこれから乗船する「モナ・リザ号」でいっぱいに。煙突にモナ・リザの絵が描いてある美しい客船だ。
お昼の十二時出航のため、私たち通訳は乗客の荷物運びを手伝うことになった。通訳(英語とスペイン語)は女性十人、男性一人。乗客は約七百名と聞いている。
スウェーデン製のこの船、様々な国のクルーメンバーが乗っている。ロシア、ウクライナ、フィリピン、バリなど国際色豊かだ。モナ・リザ号の設備はなかなか豪華で、お酒は三カ所で飲めるし、朝、昼は二カ所のレストランで食べることが出来る。
乗客もリピーターの方が大変多く、旅慣れた感じだ。今回の最高齢は、九十歳のおじいちゃん。一番若い子は中学生。バレエダンサーや学校の先生など、背景は様々だ。
全員が乗船し、出航許可が下りて出航式が始まった。皆にシャンパンが振る舞われ、船から紙テープを投げ、「行ってきマース」と見送りの人たちに言い、手を振る。
船が少しずつ動き始めた。時速三十キロで南半球を一周する船旅が、これから始まるのだと思うと本当にワクワクする。
しかし、鹿児島あたりを通過した所で船がかなり揺れ始めた。日本付近は波が非常に荒いらしい。船酔いの薬はフロントでいくらでももらえるので、皆早めに飲んでいた。
少し船酔いになりつつも同室のCCガール三人は、四人部屋で荷をほどき、レストランでは日本食を食べ大満足。ディナーはレストランで、前菜、メイン、デザートと、フルコースで楽しめる。
慣れない船内生活、夜十時には皆寝てしまった。
十六日
今日は避難訓練で一日が始まった。各部屋のベッドの下にオレンジ色の派手なライフジャケットが置いてある。ここで初めてデッキに出て、三百六十度海に囲まれていることに気づく。
地球って本当に丸いんだなー。
明後日には台湾に到着だが、日本に近い今はまだまだ寒い。
私の通訳としての初仕事、担当はベトナム人のLeLy Hayslipさん。彼女は、非常に強いベトナムなまりの英語を話すため、今から彼女の講座での通訳が憂鬱に・・・。
LeLy Hayslipさんは、「天と地」の著者であり、「グローバル・ヴィレッジ・ファウンデーション」の創設者。戦争に翻弄される彼女の半生を綴った自伝「天と地」は、オリバーストーン監督によって映画化され、世界中で大ヒットした。
船上では、ベトナム戦争や彼女の歩んできた人生とともに、現在のベトナムで子どもの教育を支援するNGO「グローバル・ヴィレッジ・ファウンデーション」の活動について語ってくれる。
十七日
「世界一周の船旅」と謳っているものの、約三ヵ月間のクルーズの中で実際に陸にいるのは二十日間前後。思いのほか船内生活が長いのだ。
三百六十度海に囲まれ、陸を見ない生活も贅沢と思われるかもしれないが、慣れてしまうと少しつまらなくなってしまうだろう。「水先案内人」と呼ばれる専門家の方たちの講座がとても楽しみだ。
ピースボートでは、各寄港地から「水先案内人」をゲストスピーカーにお招きして、様々な体験やいま最も旬な話題についての講座などを開いてもらう。
Hayslipさんもその一人で、横浜からベトナムのダナンまで乗船していただくことになった。とてもエネルギッシュな人だ。
今夜はフォーマルパーティーが開催された。皆ドレスアップをしてシャンパンを飲み、交流を深めていた。乗客の中には初めての海外という方たちもいるが、旅行好きな人も大勢いる。
インドネシア、中国、ベトナムのアオザイなど民族衣装をまとった人、トルクメニスタンの帽子をかぶったおじいちゃんなど見ているだけで面白い。
パーティー中も船は台湾に向かってどんどん進んでいる。今日のディナーテーブルの上には、二十四時を過ぎたら時計の針を一時間もどすようにと記載されたカードが置いてあった。
(紫色のストールが娘の美佳です)
時差が発生するたびにカードが置かれ、時計を合わせる。日付変更線をまたぐまで、ちょっとずつ時間が遅れていく。そして帰路、日本に向かって日付変更線を通過した瞬間、それまで蓄えてきた? 二十四時間をすべて無くしてしまうそうだ。
それから、船酔いにもレベルがあり、重度だと気持ち悪くなって吐いてしまうが、軽度だと眠くなってしまう。どうりで、毎回座るたびに強烈な眠気に襲われているわけだ。
十八日
台湾到着! 起きるとすでに陸が見えている。Keelung(基隆)は台湾の中でも重要な港で、台北から車で二十分くらい離れた所に位置する。
CCたちは、今日は一日中フリー。 CCとはCommunication Coordinatorの略で、なぜか私たちを通訳と呼びたくないらしい。
私たちの仕事は通訳業務だけではなく、その国の文化や風習など、すべてをひっくるめてのコミュニケーションを取らなければならない。だから、CCとの名称がついているのだろう。
基隆はもちろん台北より小さく、街並みも古い。屋台がすごく多く、CCガール十人と屋台をハシゴして楽しかった。
その後、バスに乗って和平島公園という所に行くことにした。でも、どのバスに乗ったらいいのか分からず迷っていたら、優しい同年代の女の子が、「同じ方向に行くから一緒に行こう」と言ってくれて、皆でぞろぞろ後をついて行った。
海岸岸の和平島公園は、浸食によって出来た不思議な形の岩がいっぱい立っている。二年前に大学の友人、マリアと訪れたトルコの世界遺産、カッパドキアのミニチュアという感じだった。
同行してくれた女の子は、オーディオ関係のフィリップスで働くラヴァーンさん、二十五歳。私たちを公園まで案内し、また帰りのバスまで送ってくれた。
バスを待っているとき彼女が、基隆でとれた海藻で作られたキャンディーを皆の分くれた。彼女の心遣いに皆感動。ちょっとしたことでもこんなに嬉しいと思うとは・・・。 これぞ、本当の現地交流だ!と楽しんだ一日だった。
アン(アメリカの高校の同級生・台湾人)はどうしているかな? 台北の家に遊びに行き、アンとお母さん、おばあちゃんと私の四人でバリ島を旅行したことを思い出した。
アンは、アメリカの大学時代にパリに一年留学していたんだよね。私はアンを訪ねてフランスにも行ったんだ。彼女はアメリカで望むような職に就けず、台湾に帰った。あんなに仲良しだったのに疎遠になってしまった。また連絡とらなくちゃ。
母の携帯にメール。「台湾到着! 気温は二十三度。仕事は昼までで、残りは自由時間。知り合いのお嬢さんってKさん?」
*私の友人の、その友人のお嬢さんが「モナ・リザ号」で旅をするとの話を聞き、娘に伝えたのでした。人と人って限りなく繋がっているのですね。
十九日
ベトナムに向けクルージング。
二十日
台湾での楽しいひとときもどこへやら。今日のHayslipさんの通訳では、彼女の英語が聞き取りづらく、あたふたとしてしまった。胃が痛くなった。
これまでは彼女の半生について、そしてベトナム戦争についてのかなり重い内容だった。しかし、明日はベトナム到着ということで、今日の講演は主にベトナムの文化と言語について。ベトナム語は、はっきり言って難しい。すでに「こんにちは」さえも忘れてしまった・・・。
Hayslipさんとは今日の講演をもって終了だ。あっという間に終わったが、緊張のしっぱなしだった。いやはや、通訳とは常に本番なので気が抜けない仕事だなーっと実感した。しかし、聞きに来ていた人たちに「良かったよ」と言われ、疲れも一気に吹き飛んだ。
(赤いアオザイがLeLy Hayslipさん)
船では毎晩「波平」という居酒屋がオープンしている。ここでは寿司、ラーメン、おにぎり、塩辛など様々な日本食があって、お酒も飲める。元気な時は、たいていここで皆と飲み食いして波に、お酒に酔っている。
*台湾からの絵ハガキ(娘が乗船した「モナ・リザ号」の写真)
「ママ・パパ
おはよう! 台湾に着いたよ。今は午前九時半。今日は幸運にも十一時から十二時まで仕事があるだけで、後は何もしなくていいんだー。船にはだいぶ慣れたけど、初日は波が荒く、酔い止めをたくさん飲んだよ。
昨日は最初の通訳業務があって、ちょっと緊張しました。私は、日本語→英語訳の方が英語→日本語訳より得意だと気づいたし、LeLy Hayslipさんからたくさんの事を学んだよ。 基隆にて 美佳」
*絵ハガキが他にケニアと南アフリカ、アルゼンチンから届きましたが、すべて英文のため私が訳しました。彼女が気に入ってくれる訳だといいのですけれど・・・。
二十一日
ベトナムのダナンに到着。CCは全員、「ベトナムの若者と大交流」というコースに送り込まれた。
ダナンの青年団、言わばベトナム版ボーイスカウト、ガールスカウトの子たちが日本人と交流するために様々な計画を立て、一日を共に過ごし交流を深めるという楽しい日である。
下船すると早速十五歳から二十三歳の男女がお出迎え。日本人乗客と青年団のメンバーが一人ずつペアになった。
バスで「青年会館」に移動する途中、車内では青年団の皆がベトナム国歌を歌いまくっていたが、私にはホーチミンしか聞き取れなかった・・・。
社会主義国家に住むベトナム人にとって、この様な交流は大変貴重で皆すごく楽しみにしているという。団員全員は参加できないので、オーディションを開催してメンバーを選抜し、二週間前からいろいろな出し物を考えたのだとか。気合いの入れようが違う。
青年会館では一緒に踊り、遊び、ゲームをし、お昼も食べて、あまり言葉は通じていないが楽しく過ごせた。そして午後は自由行動。バスに乗る前に作った即席ペアで、ダナンの市内観光をすることになった。
私たちCC四人にはトン君が一緒に来てくれた。彼は日本語も英語も出来ない。青年団の人たちに配られていた「日本語単語リスト」を片手に基礎的な単語を並べて、なんとか意思の疎通を図ろうとしていた。
私たちが紙を通して、ここに行きたい、あそこに行きたと言うと、ちゃんとタクシーに乗せて連れて行ってくれた。
まずは手始めに、マーケットに行きたいと伝えたら、ダナン一高級なデパートに連れて行かれた。中に入るには、リュックや大きな鞄は預けないといけない。
食料品売り場では写真撮影禁止のため、手持ちのデジカメをビニール袋に入れることに。「写真を撮ると警察に連行される」と、トン君が言った。
物価は日本と比べると多少安いが、ワインなどは千円ほどするし、さほど安い感じは受けなかった。屋台で、ミークワンというピーナッツとレモングラスがたくさん入った麺を食べた。おいしかった。
ダナン市内をかれこれ二時間歩き、疲れ果てた私たちはカフェに行きたいと伝えた。するとトン君は、ダナン一イケイケのクラブ兼カフェに連れて行ってくれた。そこではメニューと一緒にタバコが数本運ばれてくる。前菜の代わりだろうか・・・。皆当然のごとくタバコを吸っている。
トンくんの単語帳に、「彼女はいますか?」という質問があったので、聞いてみると照れながら「いない」と一言。
皆で「またベトナムに来たいね」って話をして、トン君に「ぜひ日本に来てね!」と言うと、ちょっと複雑な顔で「行けない」との返事が返ってきた。
政治的な理由か、経済的な理由なのか分からなかったけど、彼らにとって海外旅行はあまり現実的な話ではないのかもしれない。だからその分、今日私たちが彼らを訪問したのが、本当にうれしいことなのだと気づかされた。
トン君との時間もあっという間に過ぎ、出港の時間になってしまった。トン君が私の似顔絵を描いたカードを手渡してくれた。いつの間に描いたのだろう。絵の下には、「私たちは兄妹、またダナンに来てね」と書いてあった。
「今日一日、本当にありがとう」と言って、私たちCC四人は船に乗り込み、出港式までデッキでダナンの風景を眺めていた。
(こんなふうに盛大に見送ってくれたのですね)
汽笛が鳴って、音楽が鳴り始めると同時に船が動き出した。私たちはトン君にずっと手を振り続け、彼は最後の最後まで、私たちが見えなくなるまで一人で手を振り続けてくれた。
たった一日の交流だったけど、私たちとトン君との間には何の隔たりもなく、一人の人間として向き合い触れ合って、お互いに楽しめたことが本当にうれしかった。
すごく真っすぐで、何事にも一生懸命だった青年団のメンバーたち。笑顔がとっても輝いていた。
二十二日
次の寄港地、シンガポールに向けクルージング。
二十三日
明日はシンガポール到着。船がマラッカ海峡を通過するのだが、なんとここは海賊多発地域。
安全上の理由で夜はデッキが封鎖され、照明が落とされるとの説明を受けた。か、海賊!? とちょっと興奮した一日だった。
今日は、研修生というステータスでツアーに参加することに。ここは日本語ガイドが付くので、基本的に添乗員のお手伝いをする感じだ。
シンガポールは近代的な都市で、高層ビルがいくつも建っている。日系企業の名前もたくさん見た。ゴミを捨てると罰金があるだけあって、さすがに街がとても綺麗だった。
トロピカルで、温暖な気候ゆえにヤシの木がたくさん生えていた。アジアのいろいろな人種が混在している。なかでも一番多いのが中国系。旧正月を控え、チャイナタウンは新年のお祝いムードでいっぱいだ。
通訳として乗船している私たちには、ツアー時も通訳業務が発生するが、一緒に組むツアー・リーダー(添乗員)との相性によって、一日がかなり左右されることが分かった。
他のCCが一緒だった添乗員は、「両替ダメ、写真を撮っちゃダメ、けれど積極的にお客の写真を撮らなきゃダメッ」などと理解不能な事ばかり言ったそうで、そのCCはかなり不機嫌になっていた。あ~ぁ、そういう人に当たらないことを祈っておく・・・。
二十五日
シンガポールからケニアまでの一週間の航海に、新しい水先案内人が乗船してきた。私の担当はNGO活動家であり、フリーライターでもある早川千晶さん。とってもエネルギッシュでパワフル。これからの講座がとても楽しみだ。
早川さんは世界放浪の旅の後、ケニアに定住。現在は執筆活動のかたわら、ナイロビ最大級のスラム・キベラで、孤児・ストリートチルドレン・貧困児童のための寺子屋「マゴソスクール」の運営、スラム住民の生活向上プロジェクト、図書館作り、マサイ民族のコミュニティと共に行うエコツアーなどを手がけている。
二十六日
今日は屋上のレストランで、フルーツパーティが開かれた。赤道にどんどん近づいているため、外は暑い! 暑い。
マンゴー、パイナップル、スターフルーツ、ドラゴンフルーツにマンゴスチン。様々な果物でトロピカル気分を皆さん満喫中。
二十七日
そろそろ「マラリア汚染地域」に到着ということで、マラリアの予防薬が配られた。
飲んでも飲まなくても本人の自由だが、かかったときが面倒なので私は飲むことにした。食後に飲んだけど、胃がものすごく気持ち悪くなった。それだけ強烈な薬なのかなー。
今日の早川さんの講座は「キベラ・スラム」について。
(早川さんの講座で奮闘中!?のCCガールズ)
ナイロビにある、東アフリカ最大のキベラ・スラムには約八十万人もの人が住んでいる。この講座では、スラムに住む人々の日常を紹介していた。
ゴミからあらゆる物を作る職人さんもいれば、売れないアーティストも。子供たちは、どんな過酷な状況に身を置いていても、学校に行けるという喜びで目が輝いている。
スラムに住む人たちの笑顔には、裏表がない。まっすぐに、毎日を精一杯生きている人たちばかりだ。
早川さんが運営する駆け込み寺「マゴソスクール」では、虐待を受けたり、ストリートチルドレンだった子供たちが、身を寄せ合って一緒に生きている。両親はいないのが当たり前。いても、捨てられてスラムに一人でやって来た子供もいる。
スラムという言葉を聞くと、無秩序の混沌とした所を想像しがちだが、そこには独自のルールやシステムが存在する。スラムはスラムで、一つの社会が出来上がっているのだ。
「スラムはアフリカ社会が抱える問題の縮図だ」と、早川さんが言っていた。政治的に、経済的に、様々な国々に翻弄されたしわ寄せがアフリカの市民に降りかかっている。
アフリカの問題と向き合って、初めてアフリカが近い存在に感じられた。私たちも間接的に、彼らの社会問題に関わっているのだと、気づかされた日だった。
二十八日
今日の早川さんの講座は「マサイ族」について。
日本ではなぜか、マサイ族は有名だ。誰もがその名前をきっと聞いたことがあるはず。彼らは狩猟採集民族でも、遊牧民でもない。家畜を飼って暮らす牧畜民なのだ。食料は牛肉と牛乳のみ。野菜は一切食べないので、栄養は極端に偏っている。
彼らの間には、個人の所有という概念が全くない。すべてのものは、すべての人のためにある。一夫多妻制で、子供には特定の両親がいるわけではなく、皆の子供なのだ。
(ケニア・モンバサのマサイ族の男性と)
(マサイ村の青年と)
二十九日
ケニア入港時には、ソマリア近くで海賊が出るので、その対策のためロケットランチャーを積んだケニア海軍の船が周りに来て守ってくれるらしい。
赤道通過時刻は一月三十一日の深夜を予定していたけれど、ソマリア沖海賊対策のため、少し早めにずらしたんだとか。
午後三時にモルディブを通過。海の色が、絵の具の青色をそのまま水に入れたくらい真っ青だった。ほんと海面は生きた宝石みたい!
三十日
今日はアジアン・ファッションショーが開催された。ベトナムでアオザイを買ったので、せっかくだから私も出ることにした。
八十歳のおばあちゃんがサリーを着ていたり、着物姿の人もいたり。船内が一気に華やかに!
(アオザイ姿のCCガールズ)
三十一日
今朝十時に赤道通過! 明日は旧正月ということもあり、赤道通過記念パーティーとお正月を合わせたイベントが開催された。紅白歌合戦もあった。
(洋上英会話教室の先生方。赤いドレスの先生は、手話をしています)
今クルーズ最高齢の九十歳と八十八歳のご夫婦は、なんと結婚六十五周年の記念日を赤道で迎えたらしい。なんて素敵な・・・。
ちなみに五十周年記念日はネパールの山で迎えたとか。私も結婚したら彼らみたいに、いつまでも元気に仲良く暮らしたいな。
旅日記「はるかな海より~ピースボートのボランティア(2)」
二月一日
本日は船の上でのお正月。
美しい器に盛られた美しい彩りのおせち料理をいただく。とってもおいしくて幸せ!
洋上餅つき大会があって、きな粉にあんこにお酒も出てきた。船にはいろいろな物が積んであるんだな~っと感心。
なんと書き初めに百人一首大会も催された。私とルームメート二人は浴衣と着物を着て参戦。赤道直下の浴衣は、暑かった。
午後はプールでバレーボールをして、ジャグジーに入って日陰で昼寝。上は空が一面に広がっていて、周りは見渡す限り真っ青な海!
雲を見ていると、ゆっくり徐々に形を変えながら動いているのがよくわかる。月の位置も少しずつ動いて行き、地球は回っていると改めて実感。本当に幸せなひとときだった。
二日
日に焼け過ぎて、肌が真っ赤に・・・。ヒリヒリ痛い。さすが赤道直下、太陽は日本と比べモノにならないくらい強かった。
ぼぉーっと海を眺めていると、たまに鳥が一羽だけ突如現れる。船の周りをぐるぐる回ったり、風に乗ったりして遊んでいるようだ。インド洋の真ん中で、いったいどこから来てどこに行くのだろう。
三日
のはらヒロコさんによるゴスペルクワイアー。
のはらさんは、日本のゴスペルシンガーの第一人者で、亀淵友香さんを中心に1993年に結成されたゴスペルを主とするクワイアー『VOJA』に所属。語学を学ぼうと入った大学(ポルトガル語科)でブラジル音楽に触れ、歌うことに目覚めた。ゴスペルに興味を持ったのは、映画『天使のラブソング2』の影響とのこと。VOJAでの活動の他、女性三人組『HHMD』というコーラスユニットでのライヴ活動も行っている。船内でゴスペルチームを立ち上げ、コーラスの指導をしてくれた。
二回目のマラリア予防薬を飲んだ。胃が気持ち悪い。明日はケニア到着だ。
船から見える港は意外と普通。私は明日からオーバーランドツアー(船を一時離れて、各地を巡る寄港地プログラム)について行くので、今日は自由。
一日暇なので、何をしようかと考えていたら、「モンバサ個人ツアー」を三時間四十ドルでやってくれる現地の女性ガイドを発見。少々お高いが安全を考えるとしかたがないかな。
彼女の車に乗って市内へ。まずポルトガル人が建てたFort Jesus (要塞)へ行き、その後旧市街へ。モンバサは、アフリカの都市の中でも特にイスラム教徒が多い。黒い服に身を包んだ人たちを大勢見かけた。
ガイドの話だと、近年のケニアの状況は悪化の一途らしい。二〇〇五年の大統領選挙の後、怒り狂った民衆があらゆる物を燃やし尽くしてしまった。今はお金を持っている人の間でも、食料不足は深刻だという。
道端にはたくさんの物乞いをする人たちがいた。一人は足を切断したのか、切り離したくるぶしから下あたりの足が体の横に置いてあった。
モンバサの市場で「カンガ」と「キコイ」という、アフリカの人たちが身に付ける布を買った。
母の携帯にメール。「ケニア到着。日記たまりにたまってるけど、最近ネット接続がなくて。明日から九日間のサファリツアーに参加するぜ。モンバサ→タンザニア、ナイロビ→南アフリカへ飛行機で一気に行くよ」
*モンバサからの絵ハガキ(遠くまで続くトタン屋根のスラム街の写真)
「パパ・ママ
JAMBO! (スワヒリ語でこんにちは)私は今、ケニアのモンバサ郵便局で、このハガキを書いています。太陽はものすごく強くて暑い(三十二度)。でも、本当にアフリカにいるんだって思うだけで興奮するよ。
モンバサにはイスラム教徒がたくさんいます。それから、大統領選挙後の暴動で人々が食糧難に陥り、とても困っています。今日は、ガイドと一緒に市内観光に出かけたよ。市場でカンガとキコイっていう布を買ったんだ。すごくカラフルでビビッド。きれい~
じゃ、元気でね! こっちはすごく楽しいよ。
Asante Sana(アサンテサーナ) スワヒリ語で「どうもありがとう」という意味。
この絵ハガキの売り上げの一部は、アフリカの子供たちを支援している団体に寄付されるよ。
五日
オーバーランドツアーに出かける。
ケニアのモンバサ空港から、タンザニアのキリマンジャロ国際空港へ。
そして、サファリカーでマニャラ湖、ンゴロンゴロ自然保護区からセレンゲティ国立公園を巡り、再び国境を越えてケニアの首都ナイロビに行くというコース。
(モンバサ空港)
(キリマンジャロ国際空港)
広大なアフリカの大地でのサファリツアー、九日間で北海道から沖縄まで縦断するくらいの距離を移動する。参加者は三十名ほど。サファリカー何台かに分乗した。
ロッジで日本人ガイドと同じ部屋に泊まる。
六日
マニャラ湖に向け車は走る。
マニャラ湖は、大地溝帯(グレート・リフト・ヴァレイ)の谷底にある湖のうちの一つで、タンザニアでは一番小さい国立公園。
大地溝帯は、紅海からエチオピアを縦断して、ケニア、タンザニア、モザンビークなどをつらぬき、インド洋へ抜ける巨大渓谷で、プレート境界の一つである。正断層で地面が割れ、落差百メートルを超える急な崖が随所にある。幅三十五~六十キロメートル、長さは七千キロメートルにも及ぶ。
宇宙飛行士が初めて月面着陸に成功したとき、月からたった一つだけ確認できた地球上の創造物が、アフリカの大地溝帯だったそうだ。
この地球の割れ目では、今も活発な地殻運動が続いているので、数千年後には新たな湖が出現するという。この地溝にあまたの野生生物が生息している。
七日
車をどんどん走らせてマニャラ湖の脇までやってくると、道は大地溝帯を登り始め、雄大な景色が広がり出す。
大地溝帯の下にマニャラ湖が広がっていて、バオバブの木などもたくさんある。素晴らしい眺め! お天気は良好。湖に向かって下って行く。バブーンやサルの群れに出会う。
ゲートをくぐってしばらく森の中を走ると、やがて草原に出て視界が広がった。ゾウやキリンやシマウマが見える。イボイノシシ、インパラもいる。
沼にはカバもいた。湖岸に何万羽ものフラミンゴやペリカンが。すごい風景だ。ここは大地溝帯からの湧き水が豊富で森林が発達している。サバンナも湿原もあり、動物の生活環境は多様性に富んでいる。鳥類もたくさんいて、バードウオッチングにも最適な自然の宝庫である
湖の水面は標高九百六十メートル、断層崖の頂上は千五百メートルを越える。
樹齢二千年のバオバブと一緒に写真に収まった。
(幹の直径十メートルもありそうなバオバブの木)
八、九日
ンゴロンゴロ自然保護区にて。
自然保護区というのは、国立公園の一部を独立させ、人間と野生生物の共存を図っている地域で、噴火口(ンゴロンゴロ・クレーター)とその周囲の広大なサバンナ、及び山岳地帯からなっている
一九七九年にユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録された。ンゴロンゴロとはマサイ語で「巨大な穴」という意味。この巨大な穴は二百~三百万年前に大噴火を起こした火山の、火口部分の陥没によってできた。直径約二十キロメートル、深さ五百メートルほどの大きなくぼ地と、周囲約六十キロメートルを取り囲む外輪山がほぼ完全な形で残っている。
クレーター内は外輪山に囲まれることによって、乾季の影響を受けないため、年間を通して水と緑に恵まれている。ほとんどの動物は、ここで一生を過ごす。
ここではビッグ・ファイブ(BIG5)と呼ばれるライオン、ゾウ、ヒョウ、バッファロー、サイの他にチータやヌーやシマウマ、ジャッカルなど、また湖ではフラミンゴにカバ、ダチョウに水鳥など、多くの動物を次から次へと見ることができた。
まったく自然ってすごいなっー、と思う。ちなみに、ビッグ・ファイブはその昔、狩猟をするときに危険を伴う動物として、そう呼ばれるようになった。
十、十一日
大地溝帯の崖の上に建てられたロッジの朝は神秘的で幻想的だ。真紅のバラのような色をした朝の光が辺り一帯を染めていく。下方のクレーターには、たくさんの動物の姿が見える。ここの朝焼けはオレンジ系の赤ではない。特別の色なのだ。神々しい光景だった。
(ロッジにて)
ンゴロンゴロ・クレーターの外縁を下り、大草原の一本道をひらすら走ってセレンゲティ国立公園に到着。未舗装の道路を砂塵を巻き上げながら車は走る。一部の道路は舗装されていて、ドライバーはそこでは百キロを超えるスピードを出していた。タンザニアの道路整備は、日本のODAによる「k社」が手がけたという。
セレンゲティは自然保護を目的とした国立公園で、一九八一年に世界遺産(自然遺産)に登録された。キリマンジャロの裾野に広がるサバンナ地帯にあり、東アフリカを代表する国立公園。広大なサバンナを中心に低木林や岩山があり、様々な動物が三百万頭生息している。
セレンゲティとはマサイ語で「大地がどこまでも続く場所」という意味で、その面積は四国より広い。三百六十度空と雲。そして一面の緑の草原。この雄大なサバンナの風景には、皆すごく感動していた。
見渡す限りの大草原の中に数え切れないほどのヌーやシマウマの群れがいる。ヌーが横切る度にドライバーは車を止めた。ヌーとシマウマは同じイネ科の草を食べる。でも、シマウマは草の先端を、ヌーは根元を食べるために仲良く共存できるらしい。
(サバンナの花)
果てしなく広がる草原では、つねに新鮮な草や水を探し求めるたくさんの移動草食動物が見られる。移動の時期になると毎年ケニアのマサイ・マラ動物保護区へ向かうヌーは、その数百万頭ともいわれる。
(ヌーの群れ)
ここで見たライオンのたてがみも被毛も、すごく美しかった。また、群れていることが多い動物の中で、チータとヒョウだけは単独行動をするんだとか。
獲物を仕留め、注意深く周囲を見渡しながら、それを食べ尽くし、口の周りを赤く染めた満足そうなチータの一部始終を目撃した。
他にキリン、ハイエナ、イボイノシシ、インパラ、バブーンなどもいた。ゾウは、スリランカとタイで見たことがあるけれど、アフリカゾウが一番大きく、すごい迫力だった。
野生動物の気高さを感じるような、しなやかで美しい姿に触れ、私はもう動物園へは行けない、そう思った。弱肉強食の世界だから、優れた体、被毛、毛並み、生殖能力を持ち合わせた動物のみが生き残る。
人類発祥の地として知られるオルドバイ渓谷も訪れた。ここは人類の祖先の化石が多数発見された場所。渓谷を見下ろせる丘に博物館があり、類人猿の化石や石器などが多数展示されている。三百六十万年前の類人猿の足跡のレプリカもあった。
(オルドバイ渓谷)
(人類の祖先の足跡です)
辺り一帯では今も世界中の大学が共同で発掘作業を続けており、私が卒業したニューヨーク州立大学の教授も参加している。
父へのおみやげに類人猿がプリントされたTシャツを買った。
大地溝帯で地球の裂け目を見、あまりにも大きな地形、あまりにも開けた風景に言葉にできない感動を覚えた。大地が鼓動している! 地球は生きている!!
(運転手さんと)
(キリマンジャロ)
十二日
ケニアの首都ナイロビへ。
途中、マサイ村に立ち寄った。住民が歌と踊りで私たちを歓迎してくれた。彼らの家は牛の糞を乾燥させたもので作られている。火を起こす作業を実演して見せてくれた。
(マサイ村のおみやげ屋さん)
ナイロビはマサイ語で「冷たい水」を意味する。人口は二百万人。観光バスの中から、政治、経済、文化の中心である市内を見学した。女性のスタイルはモダンでとてもファッショナブル。
面白かったのは、派手な装飾をほどこしたタクシーがたくさんいること。タクシーの人気度は、デコレーションの派手さ加減によって決まるという。
(ナイロビ市内)
早川さんの講座で学んだ「キベラ・スラム」の横をバスがゆっくり通り過ぎた。
十三日
ナイロビから飛行機で南アフリカへ。
「モナ・リザ号」と合流。久しぶりにCCたちに会えた。すごくうれしい!
(世界遺産のテーブル・マウンテン)
(南アフリカのアシカ)
(南アフリカのペンギン)
十四日
午後一時、 ケープタウン出港。
*ケープタウンからの絵ハガキ(喜望峰とペンギン、サル、美しい花や小鳥の写真)
「パパ・ママ
私は今、アフリカ大陸の最南端にいます。喜望峰から海を見渡しているけど、インド洋と大西洋がぶつかりあう壮大な風景が広がっています。風が強いので、樹木が風の向きに斜めに立っているのを見たよ。
アフリカの人たちは、親切でやさしい心の温かい人ばかり。アフリカは遠い国だと思っていたけど、今は全然そんな感じはしないよ。
昔、パパがアフリカの人たちは本当に美しいと言っていた。今の私にはパパが何故そう言ったか、とても分かる気がします。 美佳」
(喜望峰にて)
*娘の父親は、かつてアメリカの青年海外協力隊員として、エチオピアに住んでいました。また、大学の勉強や研究、仕事などで世界のいろいろな国を訪れたり、住んだことがあります。
娘が小さい頃から、世界地図や地球儀はいつも目に触れる場所にあり、スライドや写真などを通して、父親から遠い外国のことを聞いて育ちました。
十五日
ナミビアのウォルビスベイに向けクルージング。
船を出るとすぐ目の前に砂漠が広がっている。砂漠が海に接しているのだ。高さ百五十メートルほどの大砂丘に登り、砂で遊んだ。鳥取砂丘とはスケールがちがう。
さらさらの砂山の頂上に達するのはなかなか大変。一歩進んで二歩下がって。砂漠はまるで砂の海のよう。不思議な植物が生えている。
(ウェルウイッチアという植物。かなり大きそうですね)
ナミビアは人口二百万人の小さな国で、そのほとんどは砂漠だが、ウランやダイヤモンドなどの鉱物資源が豊富で、アフリカでは豊かな国である。
(スワコップムンド・タウン)
十七日
ブラジルに向けクルージング。
十八、十九日
クルージングが続く。
二十日
母の携帯にメール。「Aちゃん、三月に二週間カナダに行くんだって。大学の同級生が癌で亡くなったって・・・。だから働き出す前にカナダに行って、友達に会ってくるんだって。
人生、何があるか分からないね。船旅、楽しんでおくよ。ブラジルとアルゼンチンは自由行動なので、リオのカーニバル最終日だから、みんなで行こう! って計画立てるよ。たのしみ~!」
二十一、二十二、二十三日
クルージング。
二十四日
午前八時、ブラジルのリオデジャネイロ入港。
リオデジャネイロは、小学校のとき住んでいたオーストラリア・シドニーのシドニー湾と、イタリア・ナポリのサンタルチア湾と並ぶ世界三大美港の一つで、とっても美しい都市だ。
コルコバードの丘に出かけ、高さ三十メートル、左右二十八メートルもある巨大なキリスト像に会ってきた。観光客がいっぱいだったけど、標高七百十メートルの丘からは市街が一望でき、素晴らしい景観だった。
キリスト像は、一九三一年にブラジル独立百周年を記念して建てられた。
入港が一日遅れたため、リオのカーニバルに間に合わなかった。残念!
二十五日
ウルグアイに向けクルージング。
二十六日
母の携帯にメール。「電話してくれたのに、切れてごめんねー。ちょうどママが電話してくれたとき、船が陸から離れてどんどん進んで行ったから、圏外になっちゃったよ。
明日はウルグアイ、そのあとは二日連続でアルゼンチンを満喫してくるよ。タンゴとショッピング! せっかくだから、マンションの食器とかアンティーク買ってこようかなーって思って。
アルゼンチンはアンティークの宝庫だから。じゃ、またねー。最近船が激しく揺れて、船酔いで死にそうだよ・・・」
二十七日
午後三時、ウルグアイのモンテビデオ入港。二十四時出港。
モンテビデオはウルグアイの首都で、人口三百二十万人の約半数がここに住んでいる。
西側は植民地時代に作られた旧市街で、古い建物が歴史を感じさせてくれた。東側を新市街と呼び、港を中心とする経済の要になっている。こぢんまりした美しい都市。
二十八日
アルゼンチンに向けクルージング。
旅日記「はるかな海より~ピースボートのボランティア(3)」
三月一日
午前二時、アルゼンチンのブエノスアイレス入港。
一時間しか睡眠とっていないけど、張り切って今日も一日をスタート!
朝はカラフルで可愛いボカ地区に行き、アルゼンチン人のアーティストたちが開く露店で絵やアートを購入。色づかいがとてもポップで、見ているだけでうれしくなる。
タンゴダンサーたちが広場で踊り、こんなにカジュアルにタンゴを見られるアルゼンチンは最高! っと思いつつ、ボカ地区を後にする。
そして、やって来たのはアンティークのマーケット、サンテルモ。暑いし、ものすごい多くの観光客で、二十分くらいでげっそり・・・。
ここにはコロニアルな建物が建っていて、その中にたくさんのアンティークストアが入っている。ブエノスアイレスの昔にタイムスリップしたかのよう。
お昼にアルゼンチンワイン片手に、アサード(羊の焼き肉)とエンパナーダという、アルゼンチンの代表的な食べ物のミートパイを食べた。肉ばっかり。あっさりとして美味しいのだが、肉にはそろそろ飽きてきた。
(エンパナーダ)
そして、ショッピングの王道、フロリダ通りで最後の買い物をする。ここはブエノスアイレス一、お店が並んでいる所。なんと、クリスチャン・ディオールが激安で売っているではないか! アルゼンチンにディオールの工場があるらしく、商品が流れてくるのだとか。ネクタイが千円とか四千円とか。半ば本物? と疑いつつも買ってしまった。
くたくたに疲れて、船が停泊している港までタクシーで戻ろうと、CC三人で乗り場に向かった。だが、その港は運転手にあまり知られた場所ではないらしく、バスターミナルに連れて行かれた。
はっきりと「ここじゃない!」って言ったんだけど、やはり英語は通じず・・・。結局、六台のタクシー運転手に聞いてやっと港にたどり着いたら、メーターが作動しておらず、たった五分くらいの道のりなのに通常の三倍ほどのお金を請求された。
旅慣れた友達と私は、そんなの「ありえない!」と腹を立て、通常の金額ぐらいを渡して、さっさとタクシーを後にした。あー、疲れた。タクシーに乗る時は、メーターがきちんと動いているか確認しないと痛い目に会う。
母の携帯にメール。「ブエノスアイレスで本場のアルゼンチンタンゴを二回も見たよ! きれいな所だね。ここなら住めるわ。タンゴのCDも買ったし、明日タンゴシューズも買おうと思ってる。アンティークか何か、欲しい物ある?」
二日
高橋歩さんの二回目の講座。夜八時半からだから遅くなった。自由人っていうけれど、商才のある人は何をしても成功するものなんだな。やっぱり前向きに生きていかなきゃ。
「船旅が終わって日本に帰るからとネガティブになるのではなく、パワーをそのまま次のステップに持っていかなきゃ」と話していた。
はい、私もこれからが楽しみだ! 前を向いて生活します。
高橋さんは二十歳のとき、仲間とアメリカンバーを開店し、二年間で四店舗に広げる。自伝の「毎日が冒険」がベストセラーに。二十六歳で結婚し、妻と二人で世界一周の旅に出て、約二年間で世界十数カ国を放浪し帰国。
その後、沖縄へ移住し、自給自足のネイチャービレッジを主宰。〇八年十一月より家族四人で無期限の世界一周に出掛けている、という人だ。
三日
今日は、これから向かう南極についての講座を聞きに行った。アメリカ人の極地探検家、スーザン・エイディさんが水先案内人として乗船し、これから私たちに南極について様々な事を教えてくれる。彼女は南極コンサルタントとして自分の会社を持っている。
今回はスーザンさんのほかに、氷河スペシャリストのアイスパイロットという、ロシア人のパーベルキャプテンも乗船している。
(娘の好物です)
このピースボート、今回で六十四回目のクルーズだが、南極に行くのはこれが二回目だとか。南極に行くには申請が大変で、アイスパイロットや南極スペシャリストが必ず乗船しないと許可が下りないらしい。今回行ける私たちは、本当に本当にラッキー!
それにしてもスーザンさんの講座、生物用語や化学用語があまりにも多く、彼女の担当になったCCたちは大変だなーっと思ったけど、見事に訳していた。やはり、講座前のミーティングでの用語確認や、内容を把握するための事前学習がモノを言うのだな。
母の携帯にメール。「今、アルゼンチンの沿岸航路を下ってる。これから南極に向かって進むよ」
四日
なにを思ったか、チリの「パタゴニア地域」についての講座を聞いている最中、急に髪の毛を切りたくなったので船のサロンでバッサリ切ってもらった。人生初のショートヘア。「どこで切ったの?」と聞かれれば、「南極近く」と答えるつもり。
そして今晩は、日本人とメキシコ人のハーフで、通訳として乗っている実君がDJをやるというので、バーに繰り出す。
実君がベトナムで買った、蛇とサソリが漬けてある酒を飲んで一気に酔ってしまった。
*ウン? 講座の最中に髪を切った!? 終わってからにしてほしかったわ。〈母のつぶやき〉
五日
人生最悪の船酔いと二日酔いを一度に体験し、ものすごく辛い一日だった。気持ち悪い上に、船の縦揺れが激しく、寝たくても眠れない・・・。
縦揺れは飛行機が降下している時に味わう、フワッとした感じ。船の中だとそれが永遠に続くよう。死ぬー。
(フエゴ島)
ここはとても小さな町で、繁華街は徒歩圏内。ウシュアイアのある「フエゴ島」は歴史的にも非常に面白く、なんと進化論で有名なダーウィンも訪れた所。ビーグル水道をはじめとし、マゼラン海峡など大航海時代に発見された航路が今に至っている。
ビーグル水道は、ダーウィンが一八三一年から一八三六年にかけて行った「ビーグル号」による地球一周航海のときの経路で、この水道の名前はビーグル号に由来している。
今日はツアーのKコース、「ビーグル水道と博物館観光」に通訳として行くことになった。船を出ると目の前にアンデス山脈が連なっている。山頂付近は雪に覆われており、今までの寄港地とはがらりと違った表情を見せてくれた。アンデス山脈はスケールがすごく大きい!
訪問先は「世界の果て博物館」と「プレディシオ」(元監獄)と「船舶博物館」。
博物館では、先住民のことやウシュアイアの歴史を知ることができた。ウシュアイアで初めて建てられた監獄に行ってみたが、共同シャワールームはアウシュビッツのキャンプを彷彿とさせる不気味さが・・・。
それから、カタマラン(双胴船)に乗って「アシカ島」、「海鳥の島」、「灯台の島」をクルーズした。アシカ島には夥しいアシカの群れが。ものすごく臭い。海鳥の島にはたくさんの海鵜が生息する。とにかく大自然を満喫した一日だった。
(後ろにペンギンの群れが・・・)
近年、ウシュアイアは南極ツアーの拠点として重要さが増しているという。
*ウシュアイアからの絵ハガキ (フエゴ島の写真に「世界の果て」とのスペイン語の文字がある)
「DEAR パパ・ママ
Ola! Comoestas? (元気? )私は今、ウシュアイアに来ています。世界最南端の都市の景色はとってもきれいだよ!
大西洋と太平洋が果てしなく広がり、眼前に雪に覆われた雄大なアンデス山脈を見ることができ、アシカやアザラシやペンギン、その他の野生動物がたくさんいるよ。町は小さくかわいい感じ。
今日までのラテンアメリカでの私の体験は素晴らしいことばかり。アルゼンチンに留学すればよかった。なぜなら、私はその国の雰囲気がとても気に入ったし、タンゴが大好きだから。
これから南極に向けて出発するけど、南極やそこに生息する動物についての勉強が始まります。でもね、ホーン岬と南極大陸との間のドレーク海峡を渡るのは恐怖だよ。世界で最も荒れる海域の一つで『魔の南緯六十度』って呼ばれているんだ。どうか、命がありますように! ともかく、もうちょっとで私の新しい生活が始まります。早く会いたいよ。 Love 美佳」
七日
南極に向けクルージング。今日は一日だらだらDay。特にすることもない。ドレーク海峡を通過し、南極収束線を通過する。脅されていたほど揺れはしなかったけど、確かに横揺れが激しかった。
南極収束線とは南緯五十度から六十度付近の海に引かれた線のこと。この線は蛇行しながら南極大陸をぐるっと一周していて、ここのところで北の暖かい亜熱帯表層水と低温の南極表層水が接し、収束線を境に海水の表面水温が急に下がる。
水温が変わるので塩分濃度も急激に変化し、収束線の北と南では生物層が大きく変わる。この線は山脈に匹敵するほどの生物障壁なのだ。
アホウドリが船を追いかける。
*母は「南極収束線」という言葉を知りませんでした。環境用語だそうです。
八日
南極一日目。気温二度、曇り。キングジョージ島やディセプション島の横をゆっくり通過する。
アドミラルティ―湾付近が風速四十メートルの強風のため、ブランスフィールド海峡で四十五分間待機。風速四十メートルを越えると人間は吹き飛ばされることがあるという。
ブランスフィールド海峡と南シェットランド諸島とに向かう途中でザトウクジラを発見。
アドミラルティ―湾では、水先案内人である極地探検家スーザンさんの、ひいおじいさんの名前のついたラング氷河周辺を遊覧。
初めてみる氷河は、青かった! 南極は真っ白な世界だと思っていたけど、意外にカラフル。様々な色の氷河がある。特に氷河の割れ目(クレバスと呼ばれている部分)は深い青色だ。
アザラシの群れがピョコピョコ泳いで行き、でっかいアホウドリが風に乗って飛んでいる。なんと南極のアホウドリは体長三・五メートルにもなるらしい。南極の強い風あってこそ、生息できる鳥。すごくおおっ~きい!
(南極の虹)
(南極の月)
九日
南極二日目。マイナス二度、曇り時々晴れ。クローカー海峡にて氷山とザトウクジラを発見。
ゲルラッシュ海峡を南西に進み、パラダイス湾へ。
ジェンツーペンギンの群れが、ピョンピョン泳いで行く。ザトウクジラが餌を食べるために海面に顔を突き出したところ、はたまたシャチの大群に出くわす。
自然の雄大さを目の当たりにした。それにしても、風が冷たい。長い間デッキに出ていると、凍傷にでもなったかのように足が冷たく痛い。
左舷側にレメア島、右舷側にブライド島。遠く近くにたくさんの氷山、壮大な景色を見る。
テンダーボートがオンザロック用の氷を取りに行く。そして、船の中では氷山の氷を使ったウイスキーのオンザロックが振る舞われた。感動―!
*娘の帽子とマフラーは、母が編んだものですが、南極へ一緒に行くとは思ってもいませんでした。
十日
南極三日目。マイナス三度、曇り時々晴れ。南極半島、そして氷河を見ながらの朝食三回目。あっという間に食事が冷える。つい先日まで半袖だったのに、いつの間にやらダウンジャケットの完全防備。
本日はゲルラッシュ海峡を南西に進んだ先の、アンバーズ島やメルキョール島の氷河を満喫。
昼食中、急に吹雪が! 南極の吹雪をデッキで楽しみ、皆おおはしゃぎ。船に雪がどんどん積もっていく。雪はとてもきれいで、一つ一つ違った結晶の形を私たちに見せてくれる。
そして、フランダース湾に到着し、南極遊覧クルーズの最南端に来たことになる。相変わらずたくさんのジェンツーペンギンが船の横を泳いで行く。
自然の、動物の支配する世界。そこへ人間が「おじゃまします」と、入って行く感じがした。すごい数のペンギンの群れが飛び跳ねる。氷山が流れて行く。アシカ、アザラシ、シャチ、クジラ、アホウドリ・・・、が悠々と生きている。
スーザン・エイディさんは極地探検家であり、博物学者。北極地域や南極地域の広範囲な知識と経験を持ち、この三十年間、自然保護区および野生動物や魚類に情熱を捧げてきた。
彼女は特に海への強い情熱を持ち、カリブ海、南太平洋、中央アメリカ、アマゾンでの航海でガイドを務めてきた人。
十一日
南極が終わり、今日は一日船内にこもっていた。
朝八時半から麻雀の練習に出かけた。乗客の麻雀愛好家のおじさんたちが丁寧に教えてくれるのだが、名称の復習とかだけで結局、一回も打つことができなかった・・・。つまらない。
キャビンのテレビで放映されている映画をみるか、本を読むか、寝るかの一日だった。
十二日
南極からチリのプンタアレナスに向かう途中、ビーグル水道とマゼラン海峡を通過した。ビーグル水道では見事な氷河をいくつか見ることができ、氷河が溶けて滝になっている光景は圧巻だった。
十三日
プンタアレナスに到着。
今日は「パタゴニアの牧場訪問」というツアーに通訳として行くことになった。予想以上に寒い。太陽が出ると暑いと言われたが、一応ダウンジャケットを着てきた。けれど、強風のため超寒い。
私たちの船が停泊する予定の場所が、前の貨物船の出港が遅れたため、入港も一時間遅れに。ツアー開始時間ももちろん遅れることになった。
そして朝十時、観光バスにて港を出発。フェリー乗り場へは約一時間二十分の道のりだ。ガイドさんはチリ人。スペイン語なまりの激しい人で、彼の英語に慣れるのに時間がかかった。
まずは、「パタゴニア地域」の説明から。アンデス山脈を境に、西側は湿度も高く、年間の降水量も多い。しかし、東側はとても乾燥した強風地帯だ。ここに住んでいる人たちは傘というものを持たないらしい。
なんと地上の水分の蒸発が、雨が降り注ぐ量より多いため、そして強風のため、雨に濡れてもすぐ乾いてしまうからだという。
(牧場で仲良しになった犬)
(アルパカもいました)
(大きなラムステーキ! テーブルもいいですね~)
十四日
イースター島に向けクルージング。
母の携帯にメール。「ママ、住民票の転出届けを市役所でしてください。昨日はチリのパタゴニア地域の牧場で一日過ごしたよ。ラム食べまくりにワイン飲みまくり。楽しかった。日記ちゃんと送ります」
*娘はピースボートに出発する前に住居を決め、契約を済ませておりました。東京の新しい住所に変更を、という依頼をしてきたのです。
はるかな南の海で、間もなく始まる新しい生活に思いを馳せているのでした。
十五日
母の携帯にメール。「チリと南アフリカで『地ワイン』買っておいたよ。美味しいかわからないけど。それから東京に来るとき、家に置いてあるスーツとコンタクト持ってきてね」
十七、十八、十九日
太平洋をクルージング。
二十日
午前七時、イースター島 沖錨泊
母の携帯にメール。「モアイ像はすごかった!」写真添付。
イースター島はチリ領の太平洋上に位置する火山島で「モアイ像」で有名。大きさは小豆島くらい。周りに島らしい島が存在しない絶海の孤島という感じだけれど、島の暮らしは意外に近代的だ。
島全体には、約千体ものモアイ像があり、最大のものは高さ七、八メートル、重さ八十トンもある。帽子をかぶったモアイもいた。
その建造目的は謎だが、祭祀目的で建てられたという節が有力だった。しかし、近年の調査ではモアイの台座から人骨が発見されたので、墓碑であったという節が有力になりつつある。
母に二度目の携帯メール。「今日、午後六時にイースター島を出て次の寄港地タヒチに向かうよ。それから、ダンスシューズやバレエのレオタードやシューズも持ってきてね」
午後六時、イースター島 沖発
二十一日
イースター島からタヒチへの水先案内人は、鎌田實さんと池田香代子さん。
長野県諏訪中央病院名誉委員長で作家でもある鎌田先生は、諏訪中央病院で地域医療に携わり、一貫して「住民とともに作る医療」を提案し実践。
一九九一年に日本チェルノブイリ連帯基金を設立し、被爆した子供たちへの救護活動を開始。十五年間に八十回の医師団を派遣し、約六億円の医薬品を汚染地帯の病院に届け、二〇〇四年からは、白血病などが増加しているイラクへの医療支援も開始。
福祉や介護、健康に生きるコツなど生活に密着したお話を聞かせていただき、とても意義深い時間だった。先生と個人的にお話もできたし、ツーショットの写真もある。先生の本を自分用に買った。
先生が、あのお顔でにこやかに、「いいかげんがいいよ」と言ってくださったのが、強く印象に残っている。それは、いろいろな意味の込められた深い言葉だと思うけど、「それでいいよ、そのままでいいよ」と、私を大きな心の中に包んでくださった感じがした。
先生の本の一部を書く。
「日本では『がんばって』最後の汗の一滴まで絞らないと認められない。そんな社会だから幸福感を感じにくい。
今を楽しんで生きるとか、いい人間関係があるとか、もっと大切なことは、『いいかげん』の中に隠れていたのだ」
二十二日
池田香代子さんは、作家、翻訳家、世界平和アピール七人委員会のメンバーである。
地球上の差別や格差、多様性についてわかりやすく伝え、ベストセラーになった「世界がもし百人の村だったら」の再話を手がける。その印税で「100人村基金」を設立し、基金を必要としている世界中の人たちに支援活動を行っている。
また、パキスタンのアフガン難民キャンプの中の女子小学校を資金援助する「アルイルム女学院を見守る会」や、日本国内での難民申請者の支援にも関わっている。
本の通りのわかりやすい語り口で環境、平和、人権についてお話いただいた。
母へのおみやげに「世界がもし100人の村だったら」の完結編を買い求めた。池田さんのサインはもちろん、母の名前も記入してくださり、日付とハートマークも! それも美しい毛筆で。きっと母が喜ぶだろうな。
二十三日
百六十万部のミリオンセラーの一部を書いてみる。
『世界には68億の人がいますが、それを100人に縮めると
51人は、都市に
49人は、農村や砂漠や草原に
すんでいます
都市の面積は
世界の陸地の3%です
都市に住む51人のうち
40人は貧しい国の人で
11人は豊かな国の人です
100人のうち
26人は電気が使えません
18人は
きれいで安全な水が飲めません
1年の暮らしにかけるお金が
100万円以上のもっとも豊かな人は
16人です
1万円以下のもっともまずしい人は、20年前
20人でしたが、いまは
15人に減りました
でも、3万円以下の人は
72人います』
すごく分かりやすい。私たちが目をそらせてはいけない、現在の世界の真実が凝縮されている。
二十四、二十五、二十六日
タヒチめざしてクルージング。
二十七日
午前九時、タヒチ入港。
ゴーギャンの愛した南海の楽園タヒチ。透き通った海に白い砂浜にコテージ。青い空に緑濃い南国の植物。美しい風景が広がっている。
現地の人との交流。農園でタロイモを植え、パパイアを収穫する。鎌田先生も池田さんも参加され、高校も訪れた。生徒が作ってくれた料理をいただき、タヒチアンダンスをみせてもらう。楽しいひとときだった。
水先案内人、ガブリエル・テティアラヒさんの話を聞く。
ガブリエルさんは、フランスの支配下にあるタヒチで、先住民族マヒオのアイデンティティ復権とフランス領ポリネシアからの独立を目指して活動するNGO「ヒティタウ」の創設者であり代表。
フランスによる核実験を止めた抗議活動では国際的なリーダーであり、現在はフランスに依存しないマヒオの経済的自立を求めて、若いリーダーを育成し、伝統手法による有機栽培のバニラやタロイモ作りを積極的に実践している。
いろいろな不公平があるらしい。例えば、フランス人がタヒチに移住した場合、選挙権が与えられるが、その逆にタヒチの人がフランスに移住したときは与えられないという。
入社式に出席するために明日、空路ハワイ経由で日本への帰途に就く。その準備もあって、ピースボート最後の夜は落ち着かない。
南半球の星空は本当にきれいだった。空いっぱいに散りばめられた星が、水平線のその向こうに消えていく。流れ星がいくつも流れていった。まるで夢の世界にいるよう。
これで娘の旅日記は終わりです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
彼女は短期間に灼熱の太陽と、凍てつく寒さの両方を経験したのですね。そして、旅の疲れを癒すまもなく、社会人としての一歩を踏み出したのですが、元気に過ごしていることを喜んでおります。
今回、日記を公開するに際し、この旅行についてちょっと聞いてみました。携帯電話での会話です。
・夢のような気がする。本当に行ったんだ!
・学生から社会人への切り替えをこういう形でできたことが、とても良かった。心おきなく実社会に入っていけた。
・同じ価値観を持つ、理解しあえる一生の友人に巡り会えた。
・旅癖がついてしまった。
というようなことを言っていました。
娘が恐れることなく未知の世界に入っていき、世界の現実に触れ、目を見開き、耳を傾け、心を寄せて全身で感じた幾多の体験は、彼女の人生に光を放つ思い出として、永遠に刻まれることでしょう。世界を観る目が、それまでとは違うものになったに違いありません。
ルームメートのお二人は、娘より少し先輩のお姉さん方で、いろいろ教えてもらったり助けてもらったり。妹のように可愛がっていただきました。また、乗客のご夫婦の部屋へお招きいただいての、楽しいお茶の時間もありました。
それから、舞台のパフォーマンスでは「品行方正で成績優秀な女生徒」という、おいしい役を演じたのだそうです。
旅癖について母の本音を言うならば、「ちょっと困る」が正直なところ。でも、そういう血が娘の中に流れているようですから・・・。
昨年は、七月に私とマレーシアのペナン島を旅しました。帰りの夜間飛行の機内で、娘は毛布を頭からすっぽりかぶって両手で視野を遮り、窓に額を押し当てるようにして夜空に目を凝らしていました。数ヵ月前のパノラミックな「船からの星空」をたぐり寄せていたのですね。私も真似てみました。
年末には、中国の他の地域に住んでいる友人と上海で待ち合わせ、そこで一週間ほど「プチセレブ生活」をしたのだそうです。お正月は家に滞在しましたけれど・・・。
仕事でも海外へ出かける機会がありますので、よく考えて自分らしい人生を歩んでほしい、と願っています。
四月末に岐阜県可児市在住の方から娘宛に封書が届きました。許可を得て開けてみると、ピースボートに乗船された方からのもので写真が同封されており、「東京の住所がわかりませんので岐阜へ送ります」とのことでした。
南米のウシュアイアやイースター島で撮ってくださったもので、娘と並んでおられるその男性は七十歳くらいにお見受けしました。
このごろはデジタルカメラばかりで、写真を見る機会もすっかり減ってしまいましたが、その写真を通して娘の仕事ぶりや楽しそうな様子を知ることができ、とても嬉しく思いました。
世界中で多くの人に出会い、お世話になり、それらの人々と楽しさや喜びを分かちあったであろう、この旅。彼女の人生航路に荒波がたったとき、船酔いはするかもしれないけれど、それを乗り越える真の強さを身に付けることができたのではないでしょうか。そう思って母は安心しています。
父は、また機会があれば積極的に出かけてReal worldを見て欲しい、などと言っています。
ようやくエピローグまで辿り着きました。遅ればせながら、お約束が果たせましたことを嬉しく思っております。
(完)
エッセイ「はるかな海より~ピースボートのボランティア(序章)」
一月二十六日に岐阜FM放送の人気番組「ナレッジレビュー~ほんとのであい」に、ウエブ文学同人誌「熱砂」編集長として出演させていただきました。
そのなかで今後の熱砂について話題が及んだとき、私は「娘の美佳がピースボートのボランティア通訳として南半球を回っています。旅日記が送られて来るはずなので、親子のコラボレーションができたらいいなと思います」と、思いのままをお話ししました。
美佳は一月十五日に横浜を出航。それなのに、アップ出来ないまま今日に至ってしまいました。心優しい「熱砂」同人のみなさまからは、緩やかに何度もハッパをかけられているのですが…。
ボランティア通訳はCCと呼ばれているのだそうです。それはCommunication Coordinatorの略だとか。
CCガール達は日々とても忙しいようです。各寄港地から「水先案内人」の作家やジャーナリスト、人権活動家、極地探検家、博物学者、環境活動家、ミュージシャンやゴスペルシンガーなど、多彩な顔ぶれの方々が乗船し、講演会やセミナーが開かれます。情報と創作、人としての道、科学、環境保全、音楽、宗教…と世界じゅうが抱えるドラマがまるごと世界の人達と一緒に船によって移動していく、といった趣です。
娘は、そのつど通訳をしたり、陸に上がればツアーガイドに変身したり。パーティやコンサート等もよく開催されるようですが、楽しみながらそれぞれに対処できている様子が伝わり、うれしい限りです。彼女も多くを学ばせていただいてます。
美佳から最初の日記が届いたのは、出航後十日ほど経ってからでした。第二弾はまたその三週間後で、一月末が最終という状況。その間、台湾とケニアから絵はがきが届き、携帯に私信も含めた短い便りが何通か届いています。それらをどう処理すべきか考えたり、また娘に聞かないとわからない部分もあるし…、と逡巡しているうちに日々が慌ただしく過ぎて行きました。
残りの日記については、インターネットに接続不可能な地域もあるようで、本人も思うに任せない? と、好意的に解釈して待つことにします。
アフリカや南アメリカからの携帯メールが、まるで国内にいるのと同じように届くのにはびっくり。こちらからの返信も、あっという間に送信されるのです。世界が本当に身近になりました。
ここで美佳からのピースボート便りをほんの一部だけ紹介させていただきます。
「私の通訳としての初仕事、担当はベトナム人のLeLy Hayslipさん。非常に強いベトナム訛りの英語を話すため、今から講座での通訳が憂鬱に…。」
レ・リ・ヘイスリップさんは、『天と地』の著者。戦争に翻弄される彼女の半生を綴った自伝は、その後オリバー・ストーン監督の手によって映画化され、世界中で大ヒットしました。
「ケニア到着。明日から九日間のサファリツアーに参加するぜ。ケニア、タンザニアと南アフリカ。飛行機で一気に行くよ」
「ブエノスアイレスでアルゼンチンタンゴのショーを二回もみたよ! 綺麗なところだね~、ここなら住めるわ。……」
「今アルゼンチンの沿岸航路を下ってる。これから南極に向かって進むよ」
はるかな海より届く美佳の便り。
プロローグでの始まりがエピローグまで到達できることを願っております。けれども、もし便りが届かなくなったとしても、難破しないで元気でいてくれたらそれでいい、母はそう思っています。
小説「日本語ダイレクト」
シドニーに来て半年になるのに、マーティン・プレイスをゆっくり散策したことはなかった。
シドニーのオフィス街の中心、ジョージ・ストリートとマックォーリー・ストリートの間、約五百メートルに設けられたこのプロムナードには、いつも人があふれている。
私は、シティにある語学学校で英語を学びながら、夜は小さな和食の店で働いていた。毎日、学校と職場を往復するためにここを通るのだが、ジョージ・ストリート側の入り口に定期的に現れるバグパイプ奏者や、くつろぐ人たちを目の端に留めるのみだった。
クラスメートの千鶴が、マーティン・プレイスにある旅行代理店で働いてみないかと言う。シドニーに暮らして二年の千鶴は、フリーターをしながら、お金がたまるたびに小旅行に出掛け、その合間に英語の勉強をしていた。
千鶴は中学の英語教師だったが、組織に合わない人間だとしみじみわかり、二年後にその組織に別れを告げたという。「自由な発言を許さない日本の民主主義は未熟だ。日本社会での自分は全身に薄い膜を張られたように息苦しく、皮膚呼吸をするのさえ困難だった」と、深いところから息を吐き出すように言った。組織の一員としてより、個を重んじる傾向にある千鶴は、日本社会では生きにくい人間なのだろうと私は想像した。
彼女は南半球の広大な大地で、思いっきり息を吸いながら、自分らしく生きているようにみえた。私は学校を休んで千鶴と一緒にマーティン・プレイスに出掛けた。翌日、面接を受ける予定の旅行代理店は、ビクトリア様式のどっしりした建物の二階にあった。
「ピット・ストリートから入った方がわかりやすいわ。覚えておいてね」
千鶴はそう言い、『Fトラベル』の所在地を確認後、私をお気に入りのカフェに連れて行った。
クロワッサンとキャロットジュースを千鶴が、私はカプチーノとチーズケーキをオーダーした。クロワッサンもチーズケーキも日本の倍の大きさで、味にもこくがある。
隣に坐った老夫婦は、バケットのサンドイッチのハーフサイズを一つ注文し、それを半分に切ってもらい、穏やかに会話をしながら慈しむように食べていた。北欧の美しい公園のベンチがこの人たちには似つかわしい、私は唐突にそんなことを思った。
オーストラリアの人口の七割以上がイギリス系だという。だから、きっと紳士、淑女の国に違いないとの私の予測は残念ながら外れていた。この国では、大学教育を受けた人は美しいイギリス英語を話し、そうではない人は訛りの強いオーストラリアン・イングリッシュを話すという。アクセントや発音が独特のオーストラリア英語に私は馴染めずにいた。
言語でその人の学歴がわかってしまうなんて理不尽ではないか。確かに言葉遣いには、その人の知性や教養が表れる。けれど、高学歴の人が等しく教養が高いわけではない。このことは私も実感するところだけれど、日常生活のなかで、素性をさらしながら生活しなければならない一部のオーストラリア人に、私は密かに同情していた。
車の運転にも譲り合いの精神は含まれていないようだった。この発見は少なからず私を失望させた。十年落ちのダットサンが私の愛車だった。坂道の多さに辟易した私は、わずかな所持金をこの車を買うことにあてた。そして、駅の近くに路上駐車をし、電車でシティに通うようになった。これは、シドニーに住んで三ヵ月半ほど経ったとき、現地の人から学んだ知恵だった。道路の幅は広くゆったり車が止められた。
私はシドニー北郊外の外れに住んでいた。経済的に豊かな層は、シティに近い海の見える高台に住んでいるという。私の周りは、ワンランク下の生活を余儀なくされた人たちばかりらしい。それに、私が学校と職場とフラットを往復するだけの単調な生活をしていたこともあり、紳士、淑女にはなかなかお目にかかれなかった。けれど、サンドイッチを仲むつまじく頬張っている年輪を重ねた夫婦の上品なたたずまいは、私のオーストラリア観を変えるに値するものだった。
「素敵なご夫婦ね。絵になる感じ」
「私のホームステイ先の人たちに似てるわ。風貌も年代も」
キャロットジュースをストローでかき混ぜながら千鶴が言った。
「千鶴さんはラッキーね。どうやってみつけたの、そこを?」
「両親の知り合いの、知り合いよ。すごく居心地がよくってね。ますます日本が遠のいてしまう」
千鶴は目で笑った。
「うらやましい! 私のフラットはオーストラリアの女の子とシェアなのよ。英語の勉強になるからその点はいいんだけれど、週末には必ずボーイフレンドがやってくるの。二人ともM大学の学生らしいけど、もーって感じ」
ここには日本語を解する人はいないようだ。トーンを落とす必要もない。
「わかる、わかる、その気持ち。夜が恐い、でしょ?」
「こちらは仕事でくたくたになって帰ってくるのよ。なのに、あちらはすでにベッドでボディトークの最中、なんてことざらなんだから。まったく遠慮がないのね。まるでこの地球上に存在するのは二人だけって感じ。私の部屋とはバスルームで隔てられてるだけでしょ。音も声も全部聞こえてくるの」
私は胸のなかの複雑な思いとは別の淡々とした声で言った。
千鶴は私の声の調子を完全に無視してダイナミックに笑った。その拍子にクロワッサンが口から飛び出してしまい、それをペーパーナプキンに包みながら彼女が言う。
「私だったらマドンナを目一杯ボリューム上げて聴くか、シャワーをガンガン浴びるか、友達と電話でしゃべりまくるか、のどれかだな」
「耳栓よ。耳栓しっかり奥に詰め込んで、ふて寝するの。ともかく私は部屋を変わりたい。いいところあったら紹介してよね」
こちらでは家賃を浮かせるために何人かで共同生活をするのは当然のことけれど、同居人の質によってこの国のイメージが上がったり下がったりするのもまた当然である。私がこれまでに関わったのは、きめの荒さの目立つ人たちばかりだった。
その分、余計な気遣いのいらない利点はあった。それに、もし私がきめ細やかな人間だったとしても、それをうまく伝える術がない。言葉の壁は大きいし、私のそうした主観はオーストラリア社会では無用の長物かもしれない。そんなことを思いながら窓の外に目を向けた。
お昼時のマーティン・プレイスは、大変な賑わいである。ベンチに腰掛け、テイクアウトのランチを広げる人、新聞や雑誌を読む人、花や果物を買う人、など思い思いに時を過ごしている。ホームレスが無心にゴミ箱をあさる姿は、ここの風物詩の一つのようだ。
「旅行代理店で働くなんて考えてもいなかったし、経験もないけどできるかしら。期間はどれくらいなの?」
「一ヵ月くらいよ。日本人の社員が一人いるんだけど、おじいちゃんが病気だから東京の実家に帰りたいんだって。代わりがみつからなければ乃里子さん困るのよ」
「千鶴さんの方がふさわしいんじゃない。語学力からいっても」
「ほんとうは私が働きたいの。あそこは日給が高いの。税金を差し引いて七十ドルくれるのよ。でもね、私は今、ノースシドニーで日本語教えてるの。タイミングが悪いわ」
入り口のドアが開いて空気が揺れた。入ってきたのは千鶴のビジネスイングリッシュの先生と司書だった。二人は私たちに「ハーイ」と声をかけ、奥の席に腰をおろした。
「あの二人、いい関係らしいわ。結婚するとかしないとか、生徒の間の最大の関心事みたいよ」
「何でも詳しいのね、千鶴さんは。で、旅行代理店の話はどこから来たの?」
「前にあそこで働いたことがあるの。といっても二週間なんだけど。その時は乃里子さん、イタリアへ旅行に行ったんだって。そんな訳で私に連絡があったのよ」
乃里子さんはその会社に勤務してもう四年になるという。私は自分の英語にあまり自信がなかった。日本人が一人もいない職場で何ができるのか不安だった。そういう私の気持ちを察するように千鶴が言った。
「働いているのは全員女性よ。いい人ばかりだから大丈夫。みんな忙しいから、せいぜい邪魔をしないように。後はレオっていうイタリア人の事務の子に何でも聞けばいいわ。乃里子さんが出発前に仕事の説明はしてくれるし、心配するほど難しい仕事はないわよ」
私は未知の世界に足を踏み入れることにした。失敗を恐れるよりも事後処理をいかにするか、そちらにより多くのエネルギーを費やしてみようと思った。そうでなければ、わざわざオーストラリアに来た意味がない。自己を改革しなければ、と不安を打ち消すように自分に言い聞かせた。
私は短大を卒業後、幼稚園の保育士をしていた。仕事は面白かったが園長と反りが合わなかった。園長は五十代の半ばだったが、幼児教育に一生を捧げるつもりなのだろう、独身を通していた。彼女は独特のポリシーを持ち、時代に迎合することは決してなかった。子どもにとって、もっとも大切なものは何かを見極めていた。
親に対してのパフォーマンスを心がけたり、早期の知育教育をうたい文句にするような幼稚園が多いなか、園長の方針は、あくまでも子どもの内面や視点を大切にしながら社会的なルールを身につけ、友達と仲良く遊び、丈夫な体を作り、創造性を高めることなどに重点が置かれていた。すぐには結果が出ない子育ての遠い将来を見据えての保育がなされていた。その点では私は園長を尊敬していた。
二十人のクラスが三つの小規模幼稚園だった。職員は園長と保育士が三人、それに通園バスの運転手と給食兼雑役係の「おばちゃん先生」の計六人。県下で園費が一番高額とのことで、当然ながら子どもたちはゆとりのある家庭の子が多かったし、親も熱心だった。その親との間で毎日お便り帳が交換された。
最初のページには、こう記入するのが習わしだった。
──ご入園おめでとうございます。この連絡帳では、幼稚園での○○ちゃんの様子をお伝えしていきたいと思います。お母様もお忙しいとは思いますが、ご家庭での様子を書いていただいて、これを手立てに一層○○ちゃんを伸ばしていきたいと思います。よろしくお願いいたします──
私は○○ちゃんの部分に間違えて他の子の名前を記入する、というヘマをよくやった。赤のボールペンで書くことになっていたため、修正液の跡がしっかり残ってしまう。こんな初歩的なミスをして、と園長にこっぴどく叱られた。
二十人の子どもたちを事細かに見、その様子を敬語を使って表現するのだった。
例えば、
お部屋に入ってこられました。
お花に水をあげてくださいました。
うれしそうに見ておられました。
走り回っておられました。
登園されますと……
という具合に。
この他に、すべての園児に三年間の成長記録を作り、それを卒園式に渡すのである。毎日、欠かさず子どもの発した言葉や行動を書き留めておく。子どもの描いた絵や折り紙、折々に撮った写真や家から届いた年賀状や手紙の類、それに園に提出された病院の診断書なども貼りつけた。まるで成長記録の代行業を請け負っているかのようだった。
ここにも時々園長の検閲が入った。そして、目のつけどころがよくないとか、子どもの心の動きを重視すべきだとかチクチク文句を言われた。私は次第に自信をなくし、大先輩に教えを請うのだという気持ちを失っていった。
園長は自分自身にも周りの人間に対しても厳しい人だった。私は他の職員のように園長色に染まれなかった。次第に疎外感や閉塞感が私を支配するようになった。
園児が三年で卒園するのと同じように、私も三年間勤めた幼稚園に別れを告げた。子どもたちはかわいかったけれど、疎ましさを感じることがままあった。おもちゃを奪い合って喧嘩をする子、自分の思うようにならないとすぐ涙をこぼす子、ちょっと目を離したすきに危険なことをする子、よくおもらしをする子などいろいろだった。
譲り合いの精神を発揮してみんなとなかよく出来る子や、私が忙しそうにしていると「先生、お手伝いしてあげる」と、せっせと後片付けを手伝ってくれる子もいた。
子どもが様々だったように、親もまたそうだった。子どもの言葉に過敏に反応し、事情を詳しく知らないままに、お便り帳に感情的な言葉を並べる親もいた。小さな子どもから、その子の家庭の様子が透けて見えた。
千鶴に言われたとおり、Fトラベルへはピット・ストリート側から入った。オフィスに入ると五十歳前半とおぼしき女性が応対に出た。唇に精一杯の親しみを浮かべている。陽気な感じが伝わり私は緊張を緩めた。
「すみません、乃里子さん、いらっしゃいますか?」
私は英語のエキスパートのように言ってみた。
「Oh, you are Japanese!」
乃里子さんから私の来訪を聞いていたのだろう。彼女はそう言って衝立の向こうへ声をかけた。私はこの人が社長のフィオレラだと予想したが、それは当たっていた。このオフィスで唯一の日本人社員の乃里子さんが衝立の前に現れた。「こんにちは、はじめまして」と、ありきたりなあいさつを交わす。
外観に反しオフィスは近代的だった。改装がなされたのだろう。このモダンな部屋に障子の衝立が少しの違和感もなく収まっている。それを話題にすると、「明かりが遮られないからみんな気に入っているの」と、乃里子さんが表情を変えずに言った。
乃里子さんはシドニーに来て六年になるという。初めは千鶴や私と同じように「ワーキングホリデー」でこの国に入った。これは、働きながら英語の勉強ができる十八歳から三十歳までの人を対象に発給されるビザで、期間は最長一年。更新するためには三ヵ月のファーム作業が義務づけられている。
彼女はビザが切れる直前に日本に帰り、今度は学生ビザを取得し、オーストラリアへ再入国したのだった。Fトラベルとは、仕事を探してワーキングホリデー事務所に出掛けたとき、掲示板を目にしたのがきっかけで縁ができ、短期のアルバイトを何度かするうち社長に認められてフルタイムで働くようになり、今ではワーキング・ビザを持っているという。
専門的な教育を受けていなくても実力をつければ、こうして異国の地で外国人と対等に仕事ができるのだ。乃里子さんが偉大に思えた。けれど、日本を離れて六年たった彼女に同時代を生きる日本人としての面影はない。瞬時に世界の情報が駆けめぐる今日だが、乃里子さんは今の日本からは置き去りにされている。
日本のスピードにも流行にも無縁の土地で、彼女は独特の世界をつくりあげているようだった。かといってオーストラリア人にもなりきっていない、宙ぶらりん状態を彼女のなかに見た。オーストラリアが気に入っているというけれど、そこに帰属意識を見いだすのは可能なのか。初対面の人に立ち入った質問のできないもどかしさを感じたが、私の一番知りたいのはそのことだった。
乃里子さんと日本との物理的、精神的な距離はとても大きいように思えた。私もそういう状況で暮らしてみたい。ある部分で責任逃れのできる気楽さがあるのでは? 性分に合っているかも? と、彼女の毛羽だったニットの紺色のカーディガンに目を遣りながら、不謹慎にも私はそう思っていた。彼女はそういう私に違和感を抱いたのか、変な日本人とでもいうような一瞥を向け、仕事の概要を説明し始めた。
Fトラベルは旅行代理店業務に加え、ベルギーの首都、ブリュッセルに本社を置く保険会社の代理店もしていた。
私の仕事は
その保険会社の東京支店との連絡業務。
「大日本クレジット」のハローデスクの窓口業務。
シンガポールにある「東亜火災海上保険」のオセアニア地域の日本語受付センターとの連絡業務。
などであり、海外旅行傷害保険加入者がオーストラリアで盗難や事故にあったり、病気になった場合などに日本語でのアドバイスやサービスを提供するというものだった。
さらに、
クイーンズランド州にある、日本人経営の語学学校、S学園の日本人留学生の医療費請求業務。
私は不安を覚えた。これらの仕事は私の能力や受容範囲をはるかに越えている。乃里子さんはそんな私の思惑にはかまわず、前任者から引き継いだという古びた大学ノートを手にして、私にパソコンやテレックスの使い方を説明した。彼女の心は、すっかり病気のおじいちゃんに飛んでいるようだった。
ハローデスクには日本人旅行者から様々な問い合わせや要求があるらしい。乃里子さんは日本人医師のリストを見せ、「このドクターとこちらのドクターの評判がいいわ」と指し示した。
そして、最も依頼件数の多いという帰りのフライトの予約確認、リコンファームの仕方を説明した。予約がしてあっても七二時間前までに再確認をしないと予約が取り消されることがあり、注意がいると言った。私は彼女に言われたとおりのことを、まるで生真面目な学生のようにノートに書き込んだ。
一通りの説明が脳にどの程度残っているのか心配だったが、日本語のマニュアルがあることに私は安堵した。ともかく、いまさら後退りできない。当たって砕けろ、こんな仰々しい言葉が私の胸をよぎった。乃里子さんは、「よろしくお願いします」と言っただけで、取り立てて心配そうな様子はみせなかった。こんな重要な仕事をよく素人に任せられる、随分大胆なのだ。私は恐れと感慨の入り混じった複雑さで自分に与えられた立場を受け入れた。
乃里子さんは、七人の社員の一人ひとりに私を紹介した。どの人もパソコンから私に目を移し、親しげにあいさつをした。美しい英語を話す人ばかりだった。ただ、ミリアムはフランス人とのことで、それらしいアクセントがあったし、イタリア人のフィオレラのそれはカンツォーネ風の歌うような英語だった。
最後に紹介されたのは、私が一番お世話になるであろう、レオだった。彼女の英語にイタリアの影はなかった。フィオレラもレオも愛嬌があり親しみを感じた。私はこの職場に好感を持った。センスのいい細身の女性たちが第一線で働いている。レオだけは体型が違うけれど、みんな輝いていて素敵だった。
私が三年間働いた職場は封建的だった。それに比べ、ここには抑圧のかけらもない。私はまばゆい思いで彼女たちを見つめた。それと同時に私は乃里子さんの中途半端な状態を、彼女のファッションセンスも含め改めて思ったことだった。仕事は引けを取らずにしているのだろうけれど、どこかその輪郭を溶け流してしまうものを感じたのだ。
「ここで仕事をするに際し、特に注意すること、ありますか?」
私は用心深く聞いた。
「何もないわ。言いたいことははっきり言うってことくらいかしら」
彼女はそう言って初めて口元に笑みを浮かべた。日本、あるいは日本人を拒絶するような硬質なものを彼女は内包していた。
朝九時に出社する。コーヒーの香りがオフィス全体を包んでいる。社員の姿はまだ半分しかない。レオは私にカップを用意し、コーヒーをすすめてくれた。私は礼を言って、コーヒーを満たしたカップを乃里子さんの机の上に置いた。こうして私の旅行代理店勤務の初日が始まった。
社員全員の姿が揃ったのは十時頃である。フィオレラは更に一時間遅れの出社だった。レオは電話の応対や、郵便局に出掛けたり、カップ類を洗ったりと日本のOLと同じような仕事ぶりだった。
第一日目はこれといった重要な仕事はなかった。手持ち無沙汰な私に気を遣ったのかフィオレらがそばに来て言った。
「ここには日本語の分かる人は誰もいないの。あなたしか日本語での対処はできないのよ。あなたは大切な人なの。いい、このことを忘れないでね」
私は「ありがとうございます」と答え、精一杯の笑みを返した。
結局その日は前月分の売り上げの計算と、小切手を送るために何枚かの封筒に住所と宛名を印刷したのみだった。空いた時間には英語の勉強をすることも許された。翌日から私は英語の教材を持って出社した。
昼休みは好きなときに一時間とっていいとのことだった。私は十二時から一時までをそれに当てた。レオにそう伝え留守番電話をセットし外へ出た。駅に通じる地下街に東京ロールという持ち帰り専門の寿司屋がある。私は海苔巻きといなり寿司のセットとお吸い物を買いマーティン・プレイスに戻った。
両側にぎっしり立ち並ぶ高層ビルから、勤め人のほとんどがこの場所に集まったのではないかと思えるほど多くの人が行き交っている。私もそのなかの一人のようにベンチに空席をみつけ、端に腰掛けた。
隣の赤いネクタイのビジネスマンは、新聞を読みながらミートパイをぱくついているが、私にはまったく無関心の様子。私はなんだかうれしくなって空を見上げた。光を増した十一月下旬のシドニーの空が青く高く無限に広がっている。一陣の風がわたり木の葉がさざめいた。私はやさしい風に包まれた。雑踏のなかでも心が落ち着いた。思いがけない発見だった。
私はオーストラリアの人口の数パーセントを占める東洋人の一人。それ以外の何者でもない。その辺の路傍の石の一つにすぎないのだ。なんと心地良いのだろう。久しぶりの海苔巻きといなり寿司。日本にいる間は特に好んで食べた記憶のない物がすごくおいしい。日頃の私は貧乏学生そのもので、毎朝代わり映えのしないサンドイッチを作り、バッグに忍ばせていたのだった。
二日目からはコンスタントにいくつかの仕事があった。まずは東京からの依頼でオペラハウスでのミュージカルの空席の有無と料金を調べることだった。早速、電話で問い合わせ結果を東京へ連絡する。ミセス見藤名で二人分を予約した。予約係もネイティブスピーカーでないのを察してか、ゆっくり丁寧に対応してくれた。大役を一つ終えた後の充足感に私は包まれ、その後の仕事も難なくこなせるような嬉しい予感がした。
日本語ダイレクトへの直通電話がフラッシュするたびに緊張を秘めて電話に出る。掛けてきた方は異国の地での日本語対応にホッとするようだ。
かわいらしい女性の声がディナークルーズの予約をしてほしいと告げた。向こうが指定し、電話番号まで示したKクルーズで二人分の予約を済ませる。声に甘さが漂っており、ハネムーンに訪れたカップルだろうと想像する。
フィオレラがそばに来て「今の電話は何だったの?」と聞いた。ディナークルーズの予約をした旨を報告すると、そこの電話番号を教えてほしいと言う。彼女は私の前で予約が正しくできているのか確認の電話を入れた。私はドキドキしたけれど、それより不快感が大きかった。
電話を終えた彼女は、「Thank you very much」と唇と目尻に笑みを乗せて言った。顧客に失礼があってはならないし、私の仕事ぶりを試してみたのだろう。この一件以来、社長はそうした口出しをしなくなった。
社員たちは相変わらずコンピューターとにらめっこしながら電話の応対に追われている。とても忙しそうだ。美しいレディたちには不釣り合いなケンカ腰の口調が多いのに私は驚いてしまう。目の遣り場、耳の遣り場に困ってしまうのだ。
曖昧模糊が得意な日本語圏の人間である私にとって、英語は直截的にすぎるのだ。嵐が去るのを待って私は目を伏せる。だが、お互いに言うべきことを言った後は何事もなかったように時間が流れていく。こうして瞬時にストレスを噴出させていれば、うつうつと不健全なものを引きずる必要はない。西洋の合理主義の一つがここにも燦然と輝いている。
和食の店の従業員は日本人ばかりだったし、語学学校も外とは隔離された世界だった。温室育ちの人間がいきなり荒野に放り出されたような衝撃だった。しかし、これが現実なのだ。乃里子さんのアドバイスも言いたいことをはっきり言う、の一点ではなかったか。早くこの雰囲気になれよう。異なった空気の層に分け入って、彼女たちの会話を皮膚で呼吸し咀嚼してみよう。私は悲壮感を燃料に離陸するセスナ機の気分になっていた。
他のラインに掛かった電話をレオが「Japanese」と言い私に取り次いだ。日本の大手旅行代理店の女性ツアーガイドからで、メルボルンを旅行中の男性客が岩場から足を踏み外し、骨折して入院したという。気の毒だけれどドジだな、きっと他のツアー客にも迷惑が掛かっているのだろうとため息をつく。
その直後に東亜火災海上シンガポールからこの件について連絡があった。英文の書類を一つひとつ読み取り、その返事をシンガポールへ送る。日本語マニュアルを見つつ緊張とともに書類を仕上げた。それをカレンに確認してもらい、言われたように担当者欄に私の名前を記入し先方へ送ったのだった。かなりの時間とエネルギーを要した。
医療費の支払いなど細かい打ち合わせがあるとのことで、今度は「担当者」である私あてに電話が入った。「日本語受付センター」の管轄だから日本語での会話が可能だと思ったけれど、受話器を通して聞こえてきたのは英語だった。私の語学力ではとても込み入った話はできそうにない。
私はこの会社のチーフというべき存在のカレンに電話を代わってもらえないか恐る恐る聞いた。カレンは多分、三十代前半で独身の覇気あふれる女性である。ハスキーな声でフィオレラとやりあう姿は迫力に満ちている。骨太で余分な脂肪を極力そげ落としたような体をしている。それに、とてもおしゃれな人だった。
カレンは、「あなたの仕事でしょ!」と大きな目をまっすぐ私に向けて言った。私は絶望的になりながら「My English is still poor, I cant deal with them」と真実がこぼれ落ちるように言った。彼女はガハハと笑いながら電話に出た。そして、ありがたいことにこの件については、最後まで責任を持ってくれたのだった。
その翌日、また大きな仕事が舞い込んだ。こちらは五十代の男性で、ハミルトン島に滞在中だが高熱のため医師を紹介してほしいという。ホテルのフロント係から連絡が入った。折り返し電話を入れる。本人に容態を詳しく聞くつもりだったが、電話にも出られない状況らしい。同室の女性の声は若かった。私と同じくらいの年齢に思われた。受話器を伝わる声におどおどした響きがあった。私は秘密の匂いをかぎとった。
私が持っている日本語版のガイドブックによるハミルトン島の紹介はこんなふうになっている。
『夢に見た南海の楽園が目の前にある。熱帯特有の木々と簡素な港が気分を盛り上げてくれる。海はどうして青いのだろう? という素朴な疑問が頭に浮かんでしまう。ともかく息をのむ素晴らしい世界が目の前に広がるのだ。
世界最大規模の珊瑚礁のリゾート、グレート・バリア・リーフは長さが日本列島とほぼ同じで約二千km、そこに大小六百あまりの島々が浮かんでいる。そのうちの一つで大型ジェット機が離着陸できる唯一のリゾートアイランドがハミルトン島である。
島全体が一つの大きなホテルのように機能している。フロントは一カ所にまとめられているが、チェックインをすませこの島の住人になった人はそれぞれが選んだ好みのわが家へ向かう。ポリネシア風のコテージもあればキッチン設備を整えたコンドミニアムも高層建築のホテルもある。一時の住人たちはとびっきりの笑顔で豊かなマリンライフをエンジョイする』
このカップルはたとえ短期間でも一切の現実から逃避するために、南海の楽園を訪れたのではなかったかと私は勝手な想像をする。なのに、こんな夢のような風景のなかで、志半ばでアクシデントに見舞われてしまった。二人のストーリーはこの後どんな展開を見せるのだろう。
私はもの悲しいような思いで──なぜこんな気持ちになるのか分からないのだが──医師を手配し、ホテルの部屋まで往診に行ってくれることを伝えた。そして、「また何かありましたら日本語ダイレクトへお電話ください」と言って受話器を置いた。
私もハミルトン島へぜひ行ってみたいと思っていた。国内旅行なら安く行けるはずだ。Fトラベルでもらう給料をそれに充てよう、そんな思いが急に頭をかすめた。一日七十ドルで月曜から金曜の勤務が四週間、私は一千四百ドルの大金を手にするのだ。それまではモノクロだったハミルトン島が鮮やかな色彩を伴って私の目の前に迫った。
一仕事を終えコーヒーをすする。私に背を向けて坐っているキャシーの机の上には、クリスタルの花瓶に黄色のガーベラが全方位に向けて挿してある。私は今、初めてそのことに気づいたのだった。
今日はフィオレラの姿はない。そのせいか雰囲気がリラックスしている。レオは観葉植物に水を与えた後、「郵便局に行くけど何かいるものない?」と全員に声を掛けるように言った。レオの身長は低めのドラム缶体型、なのにギャザーを寄せたり、フリルのついたかわいいドレスが好みのようだ。より体が膨らんで見えるのを彼女は自覚しているのだろうか、などと思いつつ私の視線は瞬時レオの豊かな胸にとまる。彼女のおしゃれのポイントは胸を大きく開けることらしい。左右から押しつけられ、真ん中で重なり合ったバストがチャームポイントと本人は認識しているようだった。
みんながカプチーノを頼んだので私も加えてもらった。それと同時に日本語ダイレクトがフラッシュした。急いで受話器を取る。
「あのー、クレジットカードをなくしてしまったんですけどー」
若い女性の落ち着きを失った声が聞こえた。私はベテランOLのように受話器を左肩と顎に挟んで耳に当て、右手で日本語マニュアルのページを繰りながら質問事項を確認した。名前と生年月日、日本の住所とオーストラリアでの滞在先、カード番号、紛失場所と日時、その時の状況を尋ねることになっている。
彼女は私の質問に順番に答えたが、紛失した時間は分からないしカード番号も控えていないと声が消え入りそうだった。
「カジノにいて、バッグを床に置いたと思うんだけど……酔っ払ってて……よく覚えていないの。カジノには夜明けまでいたわ。それは二日前のことなんだけど。今日、免税店でお買い物しようとしてカードがないのに気づいたの。友だちにも聞いたんだけど、誰も知らないって言うの」
私は必要事項をメモし、バッグは盗まれていないか聞いた。もしそうならば警察に届けるのがベターだと思ったからだった。
「バッグも財布もあるんだけど、カードだけないの」
変な話だと思いながら、「カードの無効届けの手続きをしますからご安心ください」と言って電話を切った。所定の手続きを東京へ送る。数分後に無効届け受理の連絡が東京から入った。
社員たちは決まった時間に昼休みをとらないし、五時になっても帰宅しない。それは忙しさに加え、時差のある国との連絡に起因しているようだった。時間がくればサッと帰ってしまうのは私一人だった。私には束の間ここで働くだけという気楽さがあった。自分の職務だけきちんと果たせばよいと割り切り、先に帰宅することに後ろめたさを感じなかった。私はこの国が以前より好きになった。
翌朝、会社に着くと同時に日本語ダイレクトがフラッシュした。
「昨日お電話した者です。あのー、カード出てきました。ギャンブルで熱くなっちゃったのか、お酒を飲み過ぎたのか、別のところに入れておいて、すっかり忘れちゃってたんですー」
声がスキップしている。日本人は平和で幸福でいい。非日常での出来事とはいえ、妬みと冷笑と日本人を第三者的に見る自分に驚くこの感覚を、私は今後どう処理していくのだろう。そんなことを考えながら私は無効届け解除の連絡をした。再び十分もしないうちに東京から返信があった。一度無効にしたカードの復元はできない。帰国後、再申請してほしいと記されており、そう保持者に伝えた。
この書類申請の書き出しは、こちらからも東京からも、「いつもお世話になります」とか、「ごくろうさまです」で、そう書くたびに私は日本を強く意識した。
Fトラベルでの勤務を終えた後、私に残された滞在期間は五ヵ月。後の日々をどう過ごすべきか、そんなことを考え始めていた。語学学校へはいつでも戻れるけれど、和食の店はやめてしまった。職探しをしなければならない。乃里子さんや千鶴のように、ひっきりなしにワーキングホリデー事務所に顔を出せば、今回のようないい仕事にありつけるのだろうか。
十月中旬にデパートにクリスマスコーナーがオープンした。それから一ヵ月後、街はクリスマスデコレーションで染め上げられ、あちこちに巨大なツリーがお目見えした。マーティン・プレイスでは中央郵便局の前に設置された。強烈な真夏の太陽とクリスマスツリー。否が応でも南半球にいるのを実感させられる。
この国の人にとってのクリスマスは、キリスト教徒の大切な宗教的儀式であるとともに、一年で最も大きなお祭りという側面を持ち合わせている。
土曜日の午後、私は十年もののダットサンを運転して郊外のショッピングセンターへ出掛けた。このあたり一帯にはデパートやスーパーマーケット、ブティックに宝石店、レストランにベーカリーなど、あらゆる種類の店が軒を並べている。
シドニーはハーバーブリッジを境に南北に別れているが、ここは北側の代表的なショッピングスポットになっている。近くにスケールの大きな駐車場がいくつかあり、全店共通になっていて三時間まで無料。駐車券にスタンプを押してもらう必要もないし、デパートとスーパーマーケットは連絡通路でつながっている。こういう大らかさを私は気に入っている。華美な包装や丁寧なあいさつはなくても、顧客サービスが行き届いている。
一階から三階までが吹き抜けになったショッピングセンターの、天井に届きそうなツリーに私は目を見張った。「冬のクリスマス」とまったく同じ装飾が施されている。雪の情景があるのだ。《サンタクロースと一緒に写真を撮りましょう》コーナーも人気のようだ。何組かの親子連れが列を作っている。真夏のサンタの出で立ちは冬の正統サンタとまったく同じだけれど、サンタさんの隣では扇風機がせわしく回っている。
南の国のサンタはサーフィンに乗ってやってくると聞いたことがあるけれど、ここのサンタさんは金色のソリに乗り、満面の笑みで子どもたちと一緒に写真に収まっていた。ムードは盛り上がり、プレゼントを買い求める人たちでごった返している。一回り小さなちょっと趣の違うツリーの前で私は思わず立ち止まった。なんと、オーナメントは色鮮やかな熱帯魚や貝殻だったのだ。意外性に富んだクリスマスツリー。心楽しくなった私はウエッジウッドのカップとソーサーを自分のために買い求めていた。ウインドウショッピングを満喫し私はフラットに戻ることにした。
シドニーは日本と同じように「車は左」だから運転はしやすい。けれど、一方通行と右折禁止のオンパレードには参ってしまう。私はパシフィックハイウェイという幹線道路沿いのフラットに住んでいた。とはいっても建物は道路からかなり引っ込んでいたし、付近には芝生を敷き詰めた、遊具やバーベキュー設備の整った広大な公園や林があり、騒音公害とは無縁だった。
そのショッピングセンターから家に戻るためには右折しなければならないのだけれど、右折できる場所は私のフラットから一km 南だった。私は右手にフラットを見ながら南下し、大回りをして駐車場にダットサンを入れたのだった。シドニーでは交通事故がきっと少ないだろう。まだ一度もその現場に遭遇していない。
日ごとに光の粒子がエネルギッシュになるようだ。大木に藤の花を付けたようなジャカランダが緑に映えて美しい。民家の屋根に届きそうなブーゲンビリアも光の強さに呼応するように咲き誇っている。線路沿いには大きなゴムの木が、まるで松の老木のように威厳を漂わせて大地に根を張っている。
私は毎日、電車でハーバーブリッジを渡った。世界三大美港の一つに挙げられるポート・ジャクソン湾と、帆船をイメージして造られたというオペラハウスと、紺青の海に浮かぶヨットの白い帆など、絵はがきの中の風景と潮の香りを満喫しながら暮らした。電車は途中まで地下を走っているのだが、地上に出た途端このパノラミックな景観が目の前に広がるのだった。
今日はS学園の生徒たちの医療費にかかわる請求書作りに忙殺された。まず、S学園から送付された請求書を医師の診察料と薬代に分ける。そして、ここに保管されているポリシーナンバーが合致するかを確認する。意外に多くの病人がいるのに驚いた。仕事量が多くとても一日では終わりそうにない。一息ついたところへ日本語ダイレクトがフラッシュした。
「あのー、おみやげを買いすぎて荷物が増えちゃったので日本に送りたいんですけど、送料とどのくらい日数がかかるのか知りたいんですけど……」
これじゃまるで、よろず相談所ではないか、何という電話をと苦々しく思ったのは一瞬だった。他に尋ねる術がないのだろう。この会社の評判を落としてはならない。せっかくのシドニー旅行の印象を悪くしてもらってはいけない。それに私自身が意地悪な日本人と思われては困る、などと日本人的感覚を全面に押し出して私はこう答えていた。
「送料については私もよく分かりませんので、郵便局に行って調べてきます。明日の朝もう一度お電話ください」
私はこの人の優しい声や感じの良い話し方に、断る気力を失っていたのかもしれない。料金表を手に入れるために中央郵便局に出掛けた。シドニーの気候は一日のうちに四季があると例えられる。マーティン・プレイスを行き交う人々の服装も様々だ。夏の真っ只中の今日の気温は二二度。二日前は三三度の猛暑だった。あまりの暑さに現地の人が大騒ぎしても、日本のように蒸し暑くないから日本人の私にはしのぎやすい。
Fトラベルの社員の服装もまちまちである。私は薄手のウールのスーツにシャツブラウスの装いだが、フィオレラは白い半袖のパンタロンスーツに胸が大きく開いたリブ編みのニットを着ている。私は「寒くないですか」と愚かな質問をしてしまった。女性に年齢を尋ねるのと同じ類の問いだったのを彼女の顔から察した。「もちろん、寒くなんかないわよ」とフィオレラが言い終わらないうちに、私は前言をもみ消すように「とてもステキ」と付け加えた。
「どうもありがとう。これはアルマーニよ」
彼女は心底うれしそうに、カンツォーネ風イングリッシュに優越感を乗せ、歌うように答えて社長室に消えた。
少し間があって、フィオレラがミリアムを呼ぶ声がした。最初は穏やかだった会話が途中からカウンターパンチを浴びせ合う様相を呈した。いつの場合もフィオレラが一歩引いているのが感じられるのだけれど。社長室のドアは開いたままになっている。やがてフィオレラからカレンも呼び出され、三人の話し合いが始まった。話の内容は私にはよく理解できない。社長室から出てきた二人の社員を追うように社長も出てきて、ミリアムに「明日からしばらく休暇を取りなさい」と言ったのを私は聞いた。
ミリアムはフィオレラより五歳くらい若いと思われるが声は老けている。ボブカットにチェーンの付いたメガネをかけた理知的な人で、いつも顎を上げ気味に歩くのが特徴だった。フィオレラに答えるミリアムの声は低く、頭のてっぺんに一気に重力が加わり、その作用で顎の位置も下がり気味、今日の彼女はそんなふうである。しかし、その口調には挑むような響きがあった。
カレンがキャシーに何かを伝えた。キャシーはショートカットの日本風に言えば楚々とした美人というタイプで、ノースリーブのシースルーのブラウスに共布のスカーフを結んでいる。私とは体感温度が違うらしい。キャシーは裏の部屋から書類の束を持ってきて、その中からある特定の顧客の伝票を探し出してほしい、と名前と金額を明示したメモを私に渡した。
私はS学園の請求書のこともあり、気が遠くなるような思いでどっさり積まれた種類の山を見つめ、溜め息混じりに一枚ずつ用心深く繰っていった。一時間も単純作業を続けたが、結局メモに相当する人物の名前も金額も見つからなかった。キャシーにそう伝えた。キャシーは私に礼を言い、それをカレンに伝えた。事情のよく分からない私だけれど、横領らしきことが発覚したのを雰囲気から読み取った。
他の社員たちは我関せずという感じで仕事に打ち込んでいる。五時になった。私は留守番電話をセットし、みんなにあいさつをしてオフィスを出た。社長は社長室のドアを閉じ、中に籠もったままらしい。
九時丁度に日本語ダイレクトがフラッシュした。昨日の郵便料金を問い合わせた女性だった。この人もハネムーンのカップルの一人だろうか、幸せそうな声が受話器から流れた。おおよその荷物の量を尋ね、表を見ながら料金と日数を教える。
「あのー、段ボール箱はどうしたらいいですか? あっ、それからガムテープもついでに教えていただけますか?」
箱については、どこかのお店でもらってもいいし、それが無理なら郵便局で相談するように。ガムテープはマーティン・プレイスの近くの二ドルショップで買うようアドバイスをして電話を切った。掛けて来た方は私を一ヵ月だけの臨時社員とは思ってもいないことだろう。何だかおかしくなると同時に、Fトラベルに勤めたことにより、シドニーについての知識があれこれ増えていくのを感じた。
リコンファームの依頼は思ったより少なく、一ヵ月の間に十件程度でいずれもカンタス航空の利用客だった。カンタス航空は電話がいつも混んでいて、私が取り扱ったなかで一番忍耐を要する仕事だった。リコンファームを依頼してきた女性の一人は言葉遣いが横柄で不快だった。こういう人には「近頃の若者は……」という言葉を、皮肉を込めて送りたい。私は自分の年齢を忘れてそう思ったことだった。
外国で日本語ダイレクトを通して、わずかに接触のあったそれらの人々から私は日本人の生の姿を知った。Fトラベルに勤務したからこそできた貴重な体験だった。これからも私は日本との間に一歩距離を置き、日本を、日本人を外側から見つめる、そんな視点を内在させながら生きていくのだろう。そんな確信が生まれた。
日本語ダイレクトにかかった電話はすべて女性からだったけれど、その向こうにはいつも男性の存在があった。おしなべて女が電話をするのはなぜだろう。その間、男は台所仕事を済ませる母親を待つ子どものように、通話が終わるのを待っているのだろうか。
日本女性は雄々しい? 男性が女々しい? 私は老成した若者?
そう自問しながらS学園の請求書作りに取りかかる。夕方までに何とか終えることができた。明朝、レオが郵便局へ持って行き、ベルギーに送ってくれるという。フィオレラが私にねぎらいの言葉をかけた。
Fトラベル最後の日が来た。この職場に愛着を感じた。私は乃里子さんが帰ったとき戸惑うことのないよう、私がこなした仕事の詳細を日付順に書いておいた。
その日、日本語ダイレクトにかかった電話は全部で二件。一件はクレジットカードの紛失。ゴールドコーストからで、ホテルのセーフティボックスに入れておいて盗難にあったという。オーストラリアは安全と満更言い切れない、そんな思いを抱かせる出来事だった。
他の一件はシドニータワーの中にあるレストランRの予約だった。早口の電話の応対にも慣れてきたし、そこにあるのはパターン化された言葉のやりとりがほとんどだ、ということも分かってきた。これから快調に走行が続けられる、日本語ダイレクトが何回フラッシュしようと恐れず電話に出られる、そんな感触を得た矢先にエンジンキーを抜くことになった。
私はカレンからお給料をもらった。カレンは「ありがとう。短い間だったけど一緒に仕事ができてよかったわ」と、いつもの切れ味の良い口調で言った。私は心残りを背中に貼りつけたままFトラベルを後にした。フィオレラは不在だった。急用でご主人とイギリスへ出向いたという。Fトラベルで正式に結婚しているのは彼女一人だけのようだ。ミリアムはまだ休暇の最中だった。
他の社員たちはいつもの「バーイ」の後に「ありがとう」を加え、明日また私が出勤するようなさりげなさで私を送り出した。別れにつきものの湿っぽい感傷はまったくなかった。レオの「またここに遊びに来てね」という声が自動ドアの内側から聞こえた。
私はマーティン・プレイスの巨大クリスマスツリーを見上げながら通り過ぎ、一人でパブに入った。シドニーに来て初めての体験だった。ビールを注文した。バーテンダーが慎重に泡を調整しながら冷えたグラスについでくれた。
シドニーのパブは十七時頃から大変な賑わいを見せる。それは仕事帰りにイッパイやって家路につく、そんなイギリスの習慣が受け継がれているからだという。スーツ姿のビジネスマンやキャリアウーマンの姿が目立ち始めた。しかし重厚な黒光りのする、一枚板のカウンターの隅に腰掛けた私を誰も気に留める様子はない。私はなお、シドニーが好きになりそうだった。
私は二杯目を注文した。苦みの強いビールが特別おいしく感じられた。アフターファイブのリラックスした空気を背景に親密な会話が行き交っている。一歩踏み込んでしまえばすぐ仲間になれそうだが、私はまだ陽気なオージーにはなれない。二杯目を飲み終え私はパブを出た。
千鶴に電話をして無事勤めを終えたことを報告し、「ハミルトン島へ遊びに行かない?」と誘ってみた。千鶴が今一番行きたい所はニュージーランドで、二番目は中国だという。その二つの国にどういうつながりがあるのか知らないけれど、ハミルトン島には興味を示さない。私はクリスマスホリデーを南海の楽園で、たった一人で過ごしてみようと思った。
月曜日になったらFトラベルへ行き旅行計画書を作ってもらおう。人気の高いリゾートだから予約で一杯かもしれないけれど、乃里子さんに頼んでみよう。私一人くらい何とかなるに違いない。
シドニーから空路二時間二十分の夢の島でスキューバダイビングに興じ、ジェットヘリで珊瑚の海を上から堪能する自分の姿が、映画のヒロインのように瞼のスクリーンに颯爽と登場した。その青い海の水平線の彼方には、日本を出る直前に別れた恋人のサーフボードを持った姿があった。