「かけっこ」 黒宮 涼
私は走ることが嫌いだ。
それは子どもの頃から変わらずに、今もそう。
最初に嫌いだと自覚したのはうんと昔の、はっきりと記憶に残っている幼稚園時代。
その頃の記憶はほとんど忘れてしまっているが、あの日のことだけはよっぽど嫌だったのか、今でも鮮明に思いだせる。
園の周辺、決められたコースを走るというものだった。先生たちがコースの道に立っていて、自分たちを応援してくれている。
「頑張れー。あと少しよー」
多分、そんなようなことを言っていたと思う。
結果はビリ……ではなく、ビリから二番目だった。
最後から二番目にゴールした子。でも、グループごとに別れていたせいか、そのグループの列では私が一番後ろだった。
つまり、グループ内ではビリだったということ。
その時の衝撃と言ったらなかった。思えばその頃から、私には自信がなかったのだと思う。
私は出来ない子なのだ。走れない子なのだと思っていた。
努力してもどうにもならないことがあるのだと。
それは小学校に上がってからも変わらなかった。
いや、むしろそれは悪化した。私はとうとう本物のビリになってしまったのだ。
運動会、マラソン大会、持久走。
いつも私はビリだった。たまにビリを免れることはあっても、ちっとも嬉しくなかった。
私の周りには、出来る子が多かった。私はいつもそのことに負い目を感じていたのだと思う。
何をしてもいつも最後から数えた方が早かった。
とっぴな才能が一つでもあればよかったと思った。それが早い段階で見つかっていればと、今は思う。
小学校五年生の時だったと思う。
体力測定の日がその年もやってきた。五十メートル走のタイムを計る時がやってきた。
出席番号順で二人ずつタイムを計るのだが、私は毎年誰にも勝てない。
そして運悪く、その年のクラスメイトには足の速い女の子がいた。しかも出席番号は私の一つ前だったものだから、もうそのときは絶対に無理だ。勝てない。凄い差を付けられる。と、走る前から落胆し、諦めていた。
だけれど、それを分かっていて先生は言った。
「本気で、自信を持って走りなさい」と。
私は不安だった。どんなに頑張っても出来ないことがあるのだと先生に言いたかったがそんなことは言えるはずがない。
だけれど、私は頑張ってみようと思った。
どんな結果でもいい、とにかく全力を出そう。私はそう思い直した。
結果はやはり勝てなかったけれど、意外にもタイムはいつもよりよかった。
気持ちも関係してくるのかと、私はその時初めて気がついた。
絶対に出来ないと思っていたら、本当に出来ないのかもしれない。けれど、もしかしたら出来るかもと思っていたら、本当に出来るのかもしれない。
よくも悪くも、記憶に残っている中でタイムがよかったのはその年だけだ。
「走るということ」 加藤 行
「ララムリ」という言葉をご存知でしょうか。最近、アメリカで「Born to run」というメキシコの少数民族を取材した本が話題となり、それに応じてNHKがドキュメンタリー番組として、この「ララムリ」を紹介していました。
「ララムリ」は、メキシコの標高二千メートルの山岳地帯に住む人口六万人の少数民族だそうです。彼らは、主にトウモロコシや赤インゲン豆のしか食べない。電気、ガス、水道がない生活形態は文明社会とかけ離れています。それに特異な点は、子供から年寄りまで『走る』ことが基本的な生活パターンとなっていることです。彼らはとにかく起伏の激しい山岳地を長時間、走り続けるのです。そして地元のマラソン大会はもとより、世界各地のマラソン大会にも招待され、好成績を上げています。彼らの鍛えられた持久力は厳しい自然環境に適応してきた結果の『走る民族』といえるのでしょう。
広辞苑によれば、『走る』の定義は「勢いよくとび出したり、素早く動きつづけたりすること」。要約すれば、早く運動することです。
『走る』と言う行為を、生物学的に考えると非常に面白い推察が可能になります。文明社会に生きる我々人間と異なり、弱肉強食の自然界でたくましく生きる動物世界では、食うものも食われるものも同様に、走るスピードが、生き抜く上で重要な鍵となります。食うものは獲物を捕獲するために、そして食われるものは生き延びるために、より早い速度で走る事が要求されるのです。ここで、自然界での動物たちの走行スピードを比較してみましょう。次にあげるのは百メートルの走行タイムです。3.2秒(チータ)、5.0秒(サラブレッド)、6.2秒(ライオン)、7.1秒(キリン)、7.5秒(ネコ)、9.0秒(ラクダ)、そして9.2秒(人間)です。捕獲する側の猛獣が微妙にスピードが上回っているバランスは自然界の緻密さを改めて感じさせます。
人類の誕生は現在から数百万年前といわれています。そしてその後、人類が文明社会を構築したのが、今からわずか五千年前とされているのです。この文明社会の発展以降、人々は馬や自転車、バイクに自動車と、次第に「走る」から「歩く」、そして「運転する」と移り変わって行きました。人類の歴史は『走る』スピードへの飽くなき探求心の賜物として『走る乗り物』が発明されました。しかし社会進化の便利さと引き換えに人間は徐々に『自力で走る』ことから遠ざかって来たのが現代人です。しかし、ある意味では競争社会に適応するための生存本能の知恵ともいえるのではないでしょうか。
幼子が「キャーキャー」と、走る姿は本当に嬉しそうで『走る』は、元気の源で現代人は何か大事な忘れものをしたような気になります。
アメリカの著名な文学作家であるアーネスト・ヘミングウェイの名作のひとつに「老人と海」があることを憶えておられるでしょうか。この作品では、年老いた孤独な老人が、ひとり小船に乗って、大海原へと立ち向かって行く勇敢な姿が描かれています。この物語は、或る意味でヘミングウェイ自身の自伝的な側面も持ち合わせているのでしょうが、そのたくましい活躍ぶりには思わず胸を打たれてしまいます。
人は誰でも年齢を重ねていくと、次第に『走る』速度は衰えていきます。しかし、『肉体的に走る』ことは減速しても、『精神的に走る』こと、つまり長年蓄積されて来たものは努力で増え続けます。時には、粘り強く、こつこつと何かに打ち込む、それは『精神的に走り続ける』ということでしょう。
寝坊した若ウサギに、ゆっくり走る老カメが勝つという話もあるのですから?…
最近の、村上春樹の作品である「走ることについて語るときに僕の語ること」で、以下のような感銘を受けた言葉があるのでそれをつけ加えて最後にしたいと思います。
「走ることに、他人との勝ち負けはあまり問題ではない」
「僕は走りながら、ただ走っている」
「ぼんやりと生きるより、しっかり目的をもって生き生きと生きる生き方が好ましい。走ることは確実にそれを助けてくれる」
「走る」 平子 純
私には四人子供がいるが、今春東京本社へ末っ子の次男が転勤になった。それまでは北海道の浦河町という太平洋側の小さな町で働いていた。海側はコンブ漁で有名である。次男は日本競馬会の獣医として二十人ほどのスタツフとともに東京ドーム二十個分はあろう敷地のなかに出来た馬の飼育に必要な施設で働いていた。大きな馬場は競馬場と同じ、しかも屋根付き。小ぶりな方でも八百メートルあった。その外は馬の放牧場、そこを蝦夷鹿が何匹も走り回っている。蝦夷鹿は大きくて逞しい、白と茶の毛に飾られたお尻を見せながら走るというより跳躍する様は一時時空が止まったようで不思議な世界だ、馬は鹿など知らんというふうに、勝手に草を食べている姿が滑稽だ。
夕方、襟裳岬へ行った。白夜なのか襟裳岬へ着くまで海の上が明るかった、それ程に日本の北へ来ているのだ。襟裳では売店があり他は風のモニュメントと見晴らし台があるだけだった。ただ、波に洗われた岩が海の遠くまで続いていた。私はそこで、よろよろ走っている北狐をみた。何故か哀愁があり視線から消えるまで追っていた。
翌日、帯広まで車で五時間かけ向った。市内を少し見て坂栄競馬に向かった。日本で唯一農耕馬にそりをつけさせて走る競技である。一トン近い馬が一トン近いそりを付けて走るのだが直線はまだしも、坂になるとなかなか走るどころではない。鞭でさんざん叩かれようやく登り切るのだが、最後までなんともならない馬もいる。観客はといえば、観客席と馬場との広い空間にテーブルを置き、ジンギスカン鍋をつつきながらがんばれの声援を送る。道産子ならではの遊びだ。
競馬の世界も息子の言う所、大不況のようだ。売上も最大時の半分近くにまで落ちているという。どんな世界も厳しいようだ。
さて、話は変わるが浦河町を含め、日高地方は馬の育成をしている牧場が多い。どこの牧場も二歳までには食物で大きくしたり、騎乗して育てなくてはならない。
気がつくのは至る所にシンザンの看板があることだ。シンザンが活躍して半世紀近く、いかに名馬だったことが分かる。シンザンは私の同級生のお父上が橋本厩舎で飼っていた、つまり持ち主だった。大きな馬体、黒々した馬で、走るだけで威圧感があった。天皇賞を七歳で勝ち引退し種馬になったが、それから三十年近く生きた。馬での最長生存記録も誇っている。シンザンが死んだ時、橋本家では葬儀がおこなわれた。
シンザンの後にも、素晴らしい馬はいろいろ出たが、どの馬も走る時の姿は美しい。だから人を魅了させ、時に競馬にのめり込んでしまう。
ファンファーレが鳴り、馬体がゲートにそろい旗が振られる。場内の興奮はいがや上にも高まり、最高の雰囲気となる。それからは騎手と馬との兼ね合いだ。人馬一体となり縦髪を靡かせ駆けるのは、とても美しい。
勝負のつくゲートに駆け込むのは、ある種の性的興奮を伴う。勝っても負けてもエクタクシーを感じるのだ。
最終日、札幌空港に着く前に、ノーザンパークに寄った。馬をテーマの総合レジャーランドである。高校生の障害レースもやっていた。
馬の引く小型バスもあり、みんなで乗った。昼食はジンギスカン風バイキングだった。無論、乗馬もOKである。ミニゴルフもあり子供も遊べるようになっている。
丁度中央付近に、ピラミッド型の大きめのケースがあり、中にアメリカンダービイを勝ったフサイチペガサスの金の像が飾ってあった。人材派遣で名をなしたメイテックの関口さんの輝いた日々だったろう。