「ただヒタスラに」 伊神権太

 ペンを手に生きてきた。新聞社に寄せられた無限の情報。幻の記事の数々が、どれだけ多くの人々の心を傷つけてきたことか。記者とは走れば走るほど罪つくりな存在なのだ。
 三重県志摩半島で地方記者生活をしていたころ、こんなことがあった。私が飛び回っているときに限って一人の若者がブロマイドを手に阿児町鵜方(現志摩市)の志摩通信部を二回、三回と訪れた。応対したのは、乳飲み子を抱えた幼な妻で取材先から帰るや「とても熱心なのだから、ねえ~書いてあげて」と何度も頼まれた。ウン分かったーと返事こそしたものの、当時は英虞湾に悪性赤潮が発生し真珠母貝のアコヤガイが大量死したため、毎日舟に乗っての海上取材に明け暮れており、とても若者を取材するほどの時間の余裕には欠けていた。今やらねばならない取材の方に「走る」ことの方が先決だったのだ。
 時が過ぎーテレビの歌謡番組で画面に大写しとなった歌手・鳥羽一郎の姿に妻は「あっ、この人だわ。通信部へ何度も来てくれたのに。あなたったら、そのうち書くからと言ったきりで、ボツにしてしまったのだから。何度も通信部に足を運んでくれたのに。一行として書かなかったこの方こそ、鳥羽さんよ」ときた。私は画面の男に見ほれながら「あぁ~、この男なら書かれようが書かれまいが、大成する」と妙に納得したものだ。むろん、妻と鳥羽さんには今もテレビを見るつど手を合わせ謝ってはいる。でも、あの時私が取材しようがしまいが、彼は自ら演歌歌手の道を切り開いた。何もかもペンが走ればよいものでもなかろう。新聞記事を超えた孤高の道にこそダイヤが転がっているかもしれないのだ。
 「走る」と言えるのかどうか。志摩時代には、交通事故の死者の顔写真(ガンクビ)集めで安乗に出向いた際、仏壇の遺影からガンクビを複写しようとしたところを見つかり、漁師たちにとっちめられ、あとで上司と菓子箱を手にお詫びに行った苦い体験もある。小牧では暴力団によるシャブ(覚せい剤)の密売事件をスクープした際、「数千万円に及ぶ荒らかせぎだ、とはとんでもない。一ケタ多い。コロシテヤル」と通信局に脅迫電話が入り妻が「殺せるものなら、やってみな」と逆にすごんで見せ、おかげで通信局にはマルボウ(暴力団の隠語)担当のデカ数人が防弾チョッキを着込み短銃を手に待機したほどだ。あの時は執拗なほどの私の夜討ち朝駆けにゲロをはいたデカ(刑事)が自分たちの手柄をオーバーに話したのが原因で荒ら利益などうそっぱっちの方が真実でその通りだった。
 「走ってしまった」話は、ほかにもたくさんある。石川県能登半島で七尾支局長をしていたころ、今は亡き俳優森繁久弥さんが長男・泉さん(故人)とクルーザーで北回り日本一周途上に七尾港に停泊したときのことだ。一升瓶を持って船内を訪ねた私は「あなたを大嫌いだ」と言って森繁さんの横にドッカと座りこんだ。「なんだと、この若造が」と手を震わせる森繁さんに、七尾湾上での海の詩(うた)詩作をお願いしたとき、支局員に「気が散るからカメラを向けるな」と排除したことに対する私の抗議だと知るや、やがて森繁さんの心も打ち解け、泉さんの弾くギターの音にあわせ知床旅情などを朝まで一緒に歌い、酒を酌み交わしたことがある。今から思えばアレは一体何だったろうと思いつつああした暴走も私自身の人生列車にとっては、前進の歯車になった気がしてならない。
 「走る」「走らない」。走らない方が何ごとも安全かつ無難に終わる。ただ自らを高め、何かを成就するとなると「走らなければ」ことは始まらない。人間、心臓が動いている限り「生」が与えられている限りは走り続けなければ…。だから、ただヒタスラに書き続けこの先も一人の文学者として世の中の証言者であり続け、いまなら出来ればペンを通じて東日本大震災と福島原発事故に苦しむ被災地の皆さんのお役にたてれば、と願っている。

「メモリー」 碧木ニイナ

 深夜の国道をスカイラインGTで制限速度を大幅に超えて走行し、スピード違反で検挙された。あれは車の数も女性ドライバーも、今よりずっと少ない時代の冬のこと。
 暗くて寒くて、怖くて…、キーンとした夜気の冷たさが身にしみた。星の瞬く夜だったことを鮮明に覚えている。
 反則切符を手渡しながら、私の父親と同年齢くらいの警察官は言った。
 「若い女の子がこんな時間に…、こんなにスピードを出して…、ご両親がどんなに心配しているか考えなさい」
 威厳に満ちた口調だった。私はうなだれた。
 警察官は憐れむような、蔑むような視線を私に向けたけれど、彼の発した言葉には、娘をおもう親の心情がにじんでいるように感じられた。座席に座りドアを閉め、エンジンを吹かす私に「気をつけて帰りなさい」と、彼の声が追いかけてきた。その声は私の耳をかすめて胃の底深く沈んだ。
 帰り道、私は何をおもって帰ったのだろう。何キロの速度で走ったのか、何時に家に着いたのか、親は私を叱ったのか。まったく記憶にないのである。私の大脳皮質は所々で無秩序に開店休業を繰り返す。
 ボーイフレンドとの軋轢に疲弊した私は、鬱屈した気持ちをスピードに乗せて、エキゾーストパイプから黒い煙を排出するように撒き散らしていた。深夜の国道を暴走する娘を、親はどういうおもいで見つめていたのか。あの夜の警察官の言葉は私の心から消えないままでいるけれど、その後の人生を、両親に心配をかけずに生きてきたのかと問われたなら、「交通事故とは無縁です」とだけお答えしよう。
 私のボーイフレンドはA級ライセンスを持つレーシングドライバーだった。私は彼とサーキットに出かけ、ピットでレースを観戦した。ピットとはカーレースの時の修理、点検場。競技車両のタイヤを交換したり、燃料を給油したりする所である。
 耳をつんざくすさまじい騒音。タイヤの焦げるような匂い。空気に混じって否が応でも吸ってしまう重たいオイルの匂い。喧騒。頭がクラクラした。
 彼が日頃使う車は、車体の軽量化を図るためにカーボンファイバーで作られた特殊なものだった。車高を落とし、サスペンションやステアリングにチューニングを加えた改造車で、一般道路を堂々と走っていた。
 当時は法が整備されていなかったのか、そんな車の公道での走行が許されていたのである。彼はその車を時々私に運転させ、エンジンブレーキのかけ方やコーナリングなど基本的なドライビィングテクニックを教えた。
 おもちゃのような小さなハンドルは緩みがなく、わずかなハンドル操作を忠実すぎるほど車体に伝えた。小気味よく動く車両はスリルに満ち、時に冷や汗をかいたりした。車高を低くした固いサスペンションからは、道路のわずかな凹凸がじかに肉体に伝わった。
 カーブではアクセルペダルを離さないで踏み込む。運転中はアクセルとブレーキの両方に右足を置いたまま走る、状況に応じ瞬時に加速、減速ができるように、と。赤信号から青に変わる時のタイミングの計り方というのも教わった。現在の世相や道路事情からすれば意味をなさないものばかりだけれど。
 やがて訪れた彼との別れ。死にたいほどもがき苦しんだはずなのに、その最後の情景は私の記憶に一切残っていない。一体どういうことなのだろう。
 ドイツの実験心理学者、エビングハウスによると「人間の脳は忘れるようにできている」そうだ。脳は新しい記憶は海馬に、古い記憶は大脳皮質にファイルするという。海馬は集めた情報を短期情報としてどんどんため込み、大事なモノとそうでないモノに仕分ける重要な作業をしている。そして、大事なモノだけを取り出して大脳皮質に送信し、そこで短期が長期メモリーに変換されるというのだ。
 海馬が大切なモノと考えるのは「間違うと死ぬ」とか、「ケガをする」「病気になる」「生きていけない」という類のものらしい。彼との別れの瞬間は、そのいずれにも当てはまらないということ。海馬の仕分けの巧みさよ!

「走る」 牧 すすむ

 「カンパーイ!」 広いホールに明るく力強い声が響き渡った。次の瞬間、一斉に沸き起こる拍手の嵐─。
 十一月のある日曜日、名古屋駅近くのホテルで私のための祝賀会が開かれた。正面の舞台上に高く吊るされた看板には黒く太い文字で、「倉知弦洲 上席大師範昇格記念祝賀会」と書かれている。
 大正琴講師を職業としている私が所属するのは「琴伝流」という流派。そして倉知弦洲は雅号である。
 その琴伝流宗家から此の度、流派の最高位である「上席大師範」を授与された。然も第一位認定という大きなおまけ付きであった。会員数三十万とも言われる流派の頂点に立ったわけで、大変な名誉であると共にその重責がズシリと両肩にのし掛かって来る。
 それはともかくとして、今日はめでたい祝賀会だ。二百名もの出席者で埋まった会場は時間と共に堅い空気も解れ、銘々のテーブルに運ばれて来る料理や飲み物に舌鼓を打ちながら、互いの会話を楽しんでいた。
 きれいな着物姿が目立つこともあり、場内はより華やかな雰囲気に包まれて、いやが上にも気分は高揚した。
 それにしても、普段教室で見慣れている彼女たちが今日はまるで別人のように美しく、そして淑やかに見えるのが摩訶不思議であった。(失礼。因みに私も着物でした)
 予想を超す出席者の数もさることながら、私を大いに感激させてくれたのは多忙の中駆けつけてくれた二人の友人と息子達だった。
 友人は共に中日新聞記者で、私の地元である小牧の通信局に在籍中は大変お世話になった。特に今日のカンパイの音頭を取ってくれた彼とは三十年来の親友で、私の音楽人生を力強く支え続けてくれている大の恩人でもある。
 そしてもうひとつのサプライズは、次男夫婦のこと─。海外勤務の最中(さなか)、昨年南米のチリで結婚し、最近又中米のコロンビアに転勤が決まった。準備のための一時帰国で十日間ほど東京の本社に戻って来ていた。
 そんな偶然が重なり、一日だけ休みを取って夫婦で顔を出してくれたのだ。
 大正琴という父親の仕事を余り知ることもなく育った彼に、この祝賀会を見せられたのは幸せであったし、それにも増して我が家のことをまだ何も知らない嫁に、倉知家を知ってもらう絶好の場になったことも嬉しい限りだった。
 ただ、イギリスに嫁いでいる娘はこの春に二人目を出産したばかりとあって今回の来日を断念、参加できなかったことをとても悔しがっていた。その彼女から会場へメッセージ付きの盛花が届いていて、思わず胸が熱くなってしまった。
 宴も最高潮に達し、あちらこちらでカメラのフラッシュが光り始めている。メインテーブルにいる私の所へも大勢の生徒達が代わる代わるカメラを持って訪れ、瞬く間に大撮影会となった。
 数え切れない程のフラッシュを浴びながら私は様々のことを想い返していた。この仕事に飛び込んだあの頃、大正琴を職業とすることの不安に押し潰されそうになりながら、走り回った日々。教室という社会の中で毎日多くの人達と向き合い、若さゆえの失敗は数知れず─。それでも気が付けば何時も誰かが支えてくれていた。感謝ばかりの人生である。  
 「どんな事もひとりで出来たと思うな」。子供の頃から折々に母が言っていた言葉だ。その母にももうすぐ九十六回目の誕生日がやってくる。
 伯父の弾く大正琴を真似て遊んだ昔─。その大正琴を生業(なりわい)として生きることになった私の人生。そして今は長男が後を継いでくれている。最近は舞台で二人弾きをすることも多くなり、世に言う「親子の断絶」は我が家には無い。
 毎日百キロ二百キロとハンドルを握っての教室巡り。無我夢中で走り続けて来た三十年の大正琴人生。もし許されるなら、もう少しこの道を走り続けさせてほしいとそう心から願っている私である。

「母の小走り」 真伏善人

 たしか中学生になる前のことだ。家業であるせんべい屋の商品配達を手伝えと当たり前のように言われた。
 母にはそれ以前に何度か配達に連れられて行ったことがあって、思えばその仕事をやらすための準備だったに違いない。母は一斗缶を多い時には四個を背にして、肩をゆすりながら歩幅を変えることなくゆっくりと歩いた。規則正しく、決して走ったり急な動作はとらず、人とすれ違うにしても距離のあるうちから徐々に右へ寄って行くのが常であった。
 手伝いの配達はほとんどが担ぎ屋という、鉄道を利用する仲買への荷物で、当然時計を気にすることになる。不思議なものでいつの間にか母のような歩き方が身について、ほぼ思った通りに配達をすることができた。
 それも一年を過ぎると担ぎ屋もそう甘くはなくなって、もう少し早くこいとか、割れたせんべいが何枚かあったとか、商品に苦情をつけられるとなんとも答えようがなく、やがて配達に嫌気がさしてくることになる。憂さ晴らしに帰る道を外れて町の本屋で漫画本を立ち読みするのだが、当然大人の週刊誌も気になってそっとページをめくったりもした。
 そんな日々を続けながら学校に通うせいか、勉強などには身が入るはずもなく、おのずと悪い遊び仲間たちと遊ぶようになり悪事や悪戯を重ねることになってしまう。
 はたして卒業したら高校へ進めるのかと考えてみるが、成績はまだしも家の商売では経済的に行けそうもない。案の定、父から進学断念を言い渡される。経済的に苦しいということはわかっていたし、それに加え家が手狭になった。たとえ無理をして高校に行かせても、この思春期の素行が先の三年でどう変わっていくのか、親としては不安のほうが大きかったのだろう。
 春まだ浅い午後三時の汽車で、生まれ育った地を離れることになった。見送りの義姉と駅への道を歩いていると、なぜかもう家へは帰れないような気がした。いや、帰るものかという思いがはたらいたのかもしれない。
 すぐあとで行くからと言っていた母がいつまで経ってもこない。普段から急くことを嫌う母はいつも時間に余裕を持って動いているのに一体どうしたのだ。それが構内に到着列車の案内が響き渡ると、計ったかのように小柄な母が小走りでくる。駅舎に着くころには、待合室から改札口へ集団就職と、それを見送る人波がぞろぞろと流れていた。小走りだったとはいえ、母の丸い顔は険しかった。肩で息をしながら何やら諭すように話しかけてくるが、周りの泣き声の騒々しさで言っていることが分からない。返す言葉がなく、ただうなずくと分かってくれたと思ったのか、母はこっくりとうなずき返した。
 列車がホームを離れ、車内が嗚咽で充満しても涙などはみじんも湧かなかった。母の厳しい顔で、少年心にもこの先からは何があっても一人で生きていかなければならないという覚悟が涙腺を遮断してしまったのだろう。
 それにしても母が発車間際にしかこれなかったのはどうしてだったのだろうか。長年歩いた道はどれほどの歩幅と速さで歩けば、何分で駅へ着くことぐらいは足が覚えているはずなのだ。何か急なことができてしまったのだろうか。それとも父に行かなくてもいいと言われ、戸惑っていたのか。あるいは行くとは言ったものの、はなから行くつもりはなかったのが、心の中のにわかな風に動いたのか。や、ひょっとすると、愚図で泣き虫の息子と待合室で時間を持つのが辛くてとどまっていたのかも。あの急くことの嫌う母を小走りにさせたのは、たぶんそのうちのどれかだと思うのだが…。
 もう母は空のはるか彼方へ行っている。いつか小走りで追いついて、あの小走りの訳を問うてみたい。

「カメがピョンピョン」 山の杜伊吹

 先日、家族でラーメン屋に入った。めったにできない外食、一番嬉しいのはほかでもない、私である。
 ラーメン、ギョーザ、チャーハン、カラアゲ、注文した品が次々と運ばれてくる。
 嬉々として口にほおばる子どもたち。のびていない麺を食べるのは久しぶりだ。温かいお汁を口にするのも・・・。
 主人の帰りが遅いので、毎日朝昼晩ごはん戦争。生後一歳半の下の娘がとにかくよく食べる。熱くても、固くても、珍しくても、なんでも口に入れて、飲み込んでしまう。ごはんの時間になると、ちゃんと席に座って待ち、運ばれてきたものをむしゃむしゃぱくぱく、ぐちゃぐちゃとやり、待つ事ができない。
 私が席に着く頃には、お茶がこぼれている確率95パーセント。見切り発車で食べさせるが、口に入れるのが遅いと泣くので、次から次へと食べさせていると、一番最初に完食となる。私がまだ一口しか食べていないのに。
 上の兄が、これまた食べるのが遅いので、次に狙うのは私のごはんや兄のおかずだ。とられてしまうので、当然足りなくなり、私がおかわりをすると、それも食べる。ゆっくりたくさん食べる兄がようやくおかわりをすると、それも奪う。兄が怒る、妹が泣く、眠たい、甘えたい、早くお風呂に入れなくちゃ・・・。
 私はいつも食べたのか食べてないのかわからない状況で、泣き叫ぶ妹を足にまとわりつかせたまま、洗い物をし、風呂に入れて寝かしつける。その他にも兄の宿題の見届け、明日の用意など絶対にしておかなければならないことがある。
 久しぶりの休日、悲劇が起こった。主人に子どもたちを任せ、こちらはまったく頭の中オフの状態でラーメンをすすっていると、一瞬の出来事。
 下の娘が椅子に立ってるなあ、よろけているなあ、と横目で見たつぎの瞬間、あっというまに落ちた!   
 ゴンッ、と鈍い音。店内に響き渡る強烈な鳴き声、隣にいた主人が慌てて抱き上げ「大きなたんこぶが出来ている。医者に行った方がいいな」
 他人の作った温かい食事をいただく時間は、幕を閉じた。車で救急医療センターへ向かう。
 祈るような気持ちで診察を受けると、幸いにも大事には至らず、大きなたんこぶだけで事なきを得たのだが・・・。いまでもあの瞬間、頭が真っ白になった恐ろしい気持ちをありありと思い出す。子どもがけがをしないよう風邪をひかないよう、細部まで気をつかって24時間365日生きているつもりでも、こんな事が起こってしまう。言い訳はできない、私達親の責任である。
 運命というものが、あらかじめ定まっているのならば、人の生き場所、死に場所というものもあるはずである。
 結婚以来、九年以上もの長い間、人様の家を借りて暮らしてきた。いずれは主人の実家を立て直すか、隣に家を建てるはずであった。それが諸事情あってできなくなった。
 私達夫婦はいったいどこへ行けばいいのか、運命を教えてくれる人はだれもいない。家もない、一緒にいる意味もないのだとすれば、別々の道を選択することだってできる。
 どうするのか話し合って、家を建てようと決めた。まずは土地探しであるが、これがすんなりといかず、大変であった。長男の転校の不安を考えれば、同じ校区内に限られてくる。地元の不動産屋さんに何度も何度も足を運んだが、なかなかコレという物件がない。広すぎる、高すぎる、山の上過ぎる・・・ワケあり。
 ご近所の人から、いきつけのそば屋さん、美容院、新聞店、バスの運転手さんにまで聞き込みをしたが、なかなか良い情報を得られない。それにいまは不動産価格が底値なので、なかなか売る人がいない。空き地はいっぱいあるのに・・・だんだんにくらしくなってきた。
 駐車場になっているのに、全然車が停まっていないAの土地。人づてに聞いてもらったのだが、売る気はなし。同じく駐車場のBの土地。所有者のおばあさん経由で東京の息子さんに聞いてもらったが、いまは売る時期じゃない、というお返事。ふとん店の隣のCの土地。「息子は静岡に家を建てて帰ってこないし、娘も嫁いだ。でも売りません」がっくり。
 空き地狙いから、空き家狙いに目標を変更しよう。雨戸がずっとしまっている家、雑草がぼうぼうと伸び放題の家は意外と多い。でも人が住んでいないのだから、所有者となかなか連絡がつかない。たまに誰かが来て、家を掃除していく空き家があると聞き、ポストに手紙を入れる。「土地を探しておりますが・・・」と書き、返信用のハガキも添えたが、返事は一通も来なかった。
 いま住んでいる借家を売ってもらえないか、と考えた。しかし、残念ながら値段が折り合わず、夢ははかなく消えた。
 先住者が良い場所をすでに取得しているので、この町で売りに出されているのは売れ残りの土地ばかり。何度も妥協しようかと考えた。しかし、値段だってそれなりにする。それにそこが私達の生きていく場所なのだろうか、と頭の中で想像してみる。子どもの成長を喜び、感動している家族の様子がイメージできないのだ。
 すきま風が吹く寒い冬が過ぎ、雨漏りがする梅雨が来て、害虫におののき西日の強い夏を乗り越えた頃、吉報が舞い込んだ。少し足をのばして訪れた隣市の不動産屋さんから、手頃な物件情報が舞い込んだのである。
 表に出る事が少ない優良物件であり、ありがとうとお礼を言う私に、「だって、奥さん必死だから」と、不動産屋の担当者に言われた。こちらの熱意が伝わった。
 以後、土地の取得、建築会社決め、銀行と融資の相談、地鎮祭、棟上祭と突っ走り、現在、そのささやかな私達家族の夢の第一歩は、完成に近づきつつある。そこが私達の死に場所なのかどうかはまだ分からない。でもどうやら生きる場所ではあるようだ。
 娘がどこからか私のネックレスを持ってきて床に広げて遊んでいる。それをたしなめる余裕はない。他にしなければならないことが山のようにあるのだ。