「エネルギー注入」  山の杜伊吹

 〈エネルギー注入〉と聞いて、それが何を意味するのかピン、と来る人は世の中にどのくらいいるのだろう。

 雑誌等で、たまに目にする〈エネルギー注入  3000円〉の文字。大概それは、ヒーリングスペースといった類の看板の横にあり、オーラの色教えますとか、親子関係改善、不登校の方ご相談くださいと いった文字と一緒に並んでいたりする。そういったものにハマっている人もいて、聞けば一回につき一万円も払っている。
 ご主人は大企業に勤め、庭付き一戸建てに住み、季節の花を育てたり、余裕のある暮らしをしている。私からすると物心満たされた何不自由ないセレブ奥様に見えるのだが、月に一度ご主人が汗水垂らして働いたお金を、そこにつぎ込む。
 なぜこんな事を書いたかというと、最近私に「エネルギー注入をしてあげる」という人が現れたのである。なんでもその友人は、弱っている私を見かねて、善意で〈エネルギー注入〉をしてくれる。しかも無償でやってくれるんだそうだ。そのメールを読んで、純粋に嬉しかった。〈エネルギー注入〉に期待しているのではない。それをしてもらったらもしかしたら力がみなぎって事態は好転、運気もアップ、なんて1パーセントも信じてはいない。私はただ、その友人の気持ちが嬉しかったのだ。かくして私は〈エネルギー注入〉なるものを受ける事にした。

 娘のあてがわれた教室は、無機質な保育所の建物の北東に位置しており、太陽の光が1日中入らないため非常に寒く、しかも朝から窓は全開であった。年少になるまであと1年、私はその1年が待てない母親であった。母親のお腹からこの世に生まれてからの約3年は、社会という荒波に出るまでの準備期間。そこで、母のぬくもりの中、愛情をたっぷりもらった子どもは自立もスムーズだという。逆にこの時期に甘えられなかったり、甘え足りなかったりした子どもは、母子分離が上手くいかない。
 保育所第1日目、教室に行くと子ども達もおらず、先生もいない。ここで一気に不信感を持った。出勤前の慌ただしい中、先生を探す。後から聞くと、早く来た子どもは、所属のクラスではなく別の部屋でまとめて預かるのだそうだ。しかしそんなことはなにも聞かされていなかった。
 その後のやる事の多さは想像を超えていた。トイレのオムツバケツ(名前を書いて分かるようにしておくと言われたのに名前もなかった。しかも別の子と共同使用)に、名前を書いたビニール袋をセットし、手洗い場にループタオルをかける。ブックに貼るシールを親子で選んで、日付の場所にシールを貼り、所定の場所に入れる。ビニールを入れた給食袋を指定の場所に置き、コップナフキンを指定の場所にセット、食後の口拭きタオルを洗面器に入れる。名前を書いたオムツ、ゴミ袋と着替え2組をロッカーにセット、靴下を脱がせてカバンに入れ、ロッカーにしまう。月曜日はお昼寝布団をカバーから出し、たたんで積み 重ねておくという作業が加わる。
 さあ、ウチのパパよ、あなたはコレを毎朝忘れずにできますか!
 初日は遅刻。それはもういい。なによりあのトイレ前の氷のように冷たい廊下でタオルも敷いてもらえず小さな背中をひんやり直につけ、お尻を拭いてもらっている他所のお子様の姿を見て、ああウチの娘も大が出たらああやって冷たい廊下に直に寝かせられてお尻を拭いてもらうのだ、と思ったらハンドル握りながら泣けて泣けて。職場へ行くと不登校のお子様がお母さんーと叫びながら暴れかみつき、泣きじゃくっている。母親の愛が不足しているのだ。ママが必要なのだ!
 まだ幼い我が子をあんな過酷な場所に預けてしまった罪悪感。加えて職場での力不足による失敗、自信消失。次第に他人の何気ない態度にも傷付いてしまう自分がいた。娘は1日で風邪をひいて帰ってきた。

 〈エネルギー注入〉は横になり、カラダの各ポイントに宇宙からのエネルギーを施術者の手を介して、私に注入してくれるというものであった。効果の程は分からない。
 娘はすぐ環境に順応して、毎日たくましく保育所に通っている。親の私も朝の儀式にも慣れて来て、保育所の良い面も見えてくるようになった。宇宙からのエネルギーというものも、もしかしたらあるかも知れないが、人の心や、母親の愛は、きっと人を癒すすごいパワーを秘めているんじゃないかと思う。 (完) 

「チャー姉さんの死」  平子純

 姉が命を絶って二十年余りになる。四十五歳という若い死だった。
 私とは三つ違った。とにかく面倒見がよく、幼い頃から、病弱な母に代わり私の面倒をよくみてくれた。私が少年期になるまで心の拠り所は姉だった。

 姉が心を病んでいることは母から聞いた。義兄の浮気が原因の一つ、事業拡張による責任の大きさ、長男の大学受験、いろんなものがのしかかっていたのだろうことは推察できた。しかし、子供の頃からとにかく気丈だった姉が死を選ぶなんてとても考えられなかった。

 姉のことは日頃チャ―と呼んでいた。中村区則武辺りは子供に『坊』を付けるのが習わしで、チャ―坊と私が付けた。幼児期、里美と言えなかったから、チャ―坊と呼び、それが詰まってチャ―となった。
 チャーと私の幼児期はあまり豊かなものとは言えなかった。四十坪から父母が始めた旅館は一向に客が来ず、輪タク屋が送り込んでくるアベックに頼るような始末だった。そのうち何人か娼婦も住み込むようになった。それ位からだろうか、客が来るようになったのは。関東方面の博徒が長期で滞在するようになり、不思議と逆の世界の警察官が昼サボって麻雀をやりに来ていた。無論部屋代等払う気はない。おまけにおにぎりやコーヒーのサービスを要求する。今では信じられないだろうが、駅裏の宿(どや)なんてものはそんなものだった。
 進駐軍が昼からジープで乗り付ける、電タクでレコードをかけ、チークダンスに興じた後女の子をそれぞれ部屋に連れ込む。夜になると進駐軍の病院に勤めるキヌ叔母さんがやって来て、それぞれの娘のお尻にペニシリンを打つ。病院の在庫管理もいい加減なものだったのだろう。キヌ叔母さんは進駐軍のお菓子をいっぱい持って来てくれた。中でもアイスクリームは見たこともない物であり、段ボールに入ったピンクのは舌が蕩けそうに旨かった。

 こんな環境でもあり、チャーと私は身を寄せ合うように生きていた。掃溜めに居ながら、それが社会と思い・・・。高年市内の名門私立中学校に入った時のギャップは忘れられない。姉の入った女子中学は私と同じカソリック系の超名門で、よりギャップは大きかっただろう。

 父母の経営する宿は、旅行ブームの到来と共に切り替え、だんだんと大きくなっていき、今に至っているが、最終的には四十坪が四百坪余りの市内でも有数の団体旅館となった。
 私が小学生の頃には賄いの叔母さんもおり、朝の遅い母に代わり朝食を作ってくれた。元お妾さんでありながら品があった。三回妾になったが、三回とも死別したのだそうだ。
 横山の叔母ちゃんと私達は呼んでいたが、ある時、直腸癌に罹り死んでしまった。それでも死までの数ヵ月は実家に世話になったようだ。横山の叔母ちゃんが私の父に死ぬ瞬間はすぐ終わる? 苦しくない? と何度も訊いていたのが忘れられない。父がすぐだよ。楽に天国へ行けるよと言っていたのが印象に残っている。

 私は幼児期から小学校二―三年頃までやんちゃでしょうがなかった。気が向かないと何もしない。そんな時手を持てあました先生が姉を引っ張り出し、私をなだめ、言うことをきかせた。姉が言うことには私も従わざるを得なかった。
 私は先生たちの姉弟を見る目がどこか違うのに段々気が付くようになってきた。小学校三年生の時だったか、ある女の先生が私に「貴君の家は嫌な商売をやっているから可哀想」と言ってしまった。最初私には意味が分らなかった。しかし、意味が分るようになり、傷ついた。姉は女だからもっと苦しんだろう。三歳上だから、大体のことは分っていたに違いない。姉は強かったから、そんなことには憶しもしなかったように見えた。

 後年姉は大学でサークルが同じだった義兄と結婚した。同じ時期、私も姉の後輩の妻と結婚し、それぞれに子供が出来た。

 姉が死を選んだ翌年、長男の東大受験があり、合格は確実視されていた。次男は高校一年だった。その大事な時に姉は余程苦しかったのだろう。最初安全カミソリで手首を切り風呂に付けた。死にきれないと分ると首を絞めた。姉のすごい所は一回で決めてしまう所だ。なかなか人間は一回こっきりで死ぬことは出来ない。多分父親の影響があったのだろう。父は海軍で特攻兵を教えていた。その武士道のようなものに我々姉弟は少なからず影響を受けていたのだろう。父が戦争で死にきれなった情念は、いろんな形で伝わったのだ。

 姉が死ぬ一週間程前から、岐阜から名古屋まですごいテレパシーを送ってきて、何故か朝になると私の枕が涙でぐっしょり濡れていた。
 一週間目の朝五時に、私は何か物の怪に取り憑かれたようにフロントへ起きていった。その時だ。電話が鳴ったのは。姉が病院へ運ばれ、生死はまだ分らないとのこと。私は九歳下の弟に電話をかけ、すぐに岐阜へ向った。岐阜病院の前で丁度棺の乗った車を見た。私は直感した。姉はもうこの世の人ではないんだ。
 姉の家へ着くと、もう姉は運ばれていて、布団の中に寝かされていた。私が頭に触ると、まだ温かかった。姉の目に涙がいっぱいたまっていた。懺悔の気持ちでいっぱいだったのだろう。私は姉に、一遍行ったらもう帰って来れえせんのだぜ、何故短気起した。 そう呼び掛けた。

 葬儀も終り、焼場へ行ったが、私は姉の骨を見ることが出来なかった。まるで自分の骨を見るようだったから。葉桜の下でただうづくまっていた。姉が死んで、二年間私は立ち上ることが出来ず、夜ビールを飲むと涙が溢れた。どうして黙って行ったんや。長男は東大に現役合格したというのに、半年間が待てれんかったのか。
 私の長い人生の中で、あれほど長いこと泣いたことはない。  (完)
 
       

「泣くとは」  加藤 行

 人間がこの世に誕生する時が、正しく泣く。僕は、赤ん坊の泣き叫ぶ大声に、この世に生まれてくる以前の世界は、そんなに恐ろしい所だったのだろうか、それとも、生まれてくるのが、そんなに恐ろしいのかと、勝手に想像したりする。しかし科学的解釈によると、オギャーオギャーと大声で「産声を上げる」のは自分の肺を膨らませて呼吸と心臓の機能を母体内のシステムから、自分自身で酸素交換を行う出産後のシステムへと切り替えるように遺伝的にセットされているという。
 産まれてからも言語を持たない赤ん坊は、意思伝達表現として泣いて訴える。しかし子供になっても、やはりよく泣くものである。僕の、大泣きした想い出は、今も痛みとなって残っている。小学生の頃、「仮面ライダーショー」のサイン会に行きたくてお金をせびり、怒った父親に頭を叩かれて大泣きしたのである。小学五、六年生の頃で「お前は幼稚だ」と言って怒られた。
 成人になって以後、どうも泣くことが無くなってきた。明確な理由は分からないが、年齢を重ねると、経験も多くなり物事に対しての感動も褪めて、感受性も鈍くなるのだろうか。僕の場合、人の不幸で泣くことよりも、自分の不甲斐なさで人を泣かせることのほうが多かったような気がする。障害者であるが故の僕は、皆にとって、終始、心配、迷惑極まりない存在ではないかとつくづく思われるのであります。平身低頭です。
 現実問題として、誰でも、心のなかであろうとも、自分のために涙を流すことは時として、あると思う。自分の不幸を嘆くことは、決して不自然ではなく、人間として当たり前の行為であると思われる。しかし,いつか涙は枯れるのだから,涙で悲しみを流し去ったら、明日に向かって生きるために、魂を鼓舞して、何度でも立ち上がらねばならないのだろう。その姿にこそ、人は大きな感銘を受けるのではないか。
 僕の場合、歌や、ドラマのような物語に、よく感動して泣くことがある。特に映画では思いがけない結末に涙することがある。物語では、O・ヘンリーの短編で何度も何度も泣かされた記憶がある。「最後の一葉」、「緑の扉」、「よみがえった改心」や「賢者の贈りもの」等々である。物語の場合、そこには著者の優しい意図が窺えるのだが、僕だけだろうか、現実世界での悲しみの衝撃は、あまりにも唐突にやって来て、不安定な違和感を覚える。一寸先は闇、当然といえば当然のことだ。しかし僕の世界が大きく揺らぎ不安感に染まる。
 世のなかには悲しい出来事が毎日のように起こっている。しかし、それらをまったくの他人事として感じた場合、泣くことはまずない。自分の人生に関わる時は別として、テレビや新聞で報道されても、親身に感じたり、同情するとしても、泣いたりはしない。僕の勝手な推論ではあるが、「泣く」という行為は、生物学的に、強度のストレスとなる身近な不幸に対して、自己保全のために取る本能的な対抗手段「自分への癒し」ではないだろうか。
 われわれ人間は、崇高な愛情に対して「ともに泣く」精神性を持っているように思う。それは、犠牲愛、託す愛、献身愛も人類愛に根ざした感動を呼ぶものである。そして、強いものには誇りにも似た感情を抱き、弱いものには、その姿に涙するのである。そこには、したたかに生きる人間のたくましい生命力すら感じさせるのである。泣くことにより、再び人間は、新たに生きるきっかけを掴んでいるのだろう。
 四月の末に、僕の母が八十八歳で亡くなった。往診の先生は「大往生」だと言われた。自宅の老衰末期の床で、医療機器に頼らず自力で自然死をがんばった母の姿を、僕は食い入るように見守っていた。意外なくらいに、あっけない最期であった。手を尽くしたが、大きな自然の力には決して逆らえないと、心底、悔しい思いをした。でも泣けなかった。脳梗塞で右半身麻痺、失語症で十年の自宅療養生活だった。最期はあまりにも自然に下降していく母の姿を見守っていた。老衰でくたびれた身体は、食べ物が欲しく無くなり、次いで、コカコーラだけで四十日間の生命を継ないだ。その間も意識はしっかりとして動いていたし、ベッドに寝たきりになったのはコーラも飲まなくなった二日だけだった。今は、存在が無くなり、会えなくなった寂しさ、暗くなった家の中は、どうしょうもない喪失感を埋めれない状態である。
 悲しみに流す涙は、人のこころから溢れ出す宝石のようなものだろう。とても美しいのである。そして泣いたあとには、新たな希望を抱いて生き抜いていく、偉大な人間の背中を、僕は見つめているのである。  (了)
                     

「鳴く」   牧すすむ

 それは突然のことだった。愛犬の「キャーン」という甲高い叫びにも似た鳴き声で目を覚ました私。深夜のことである。
 部屋の明かりをつけて見ると、何かに脅えたようにブルブルと震えながら全身を堅く縮めうずくまっている姿が目に入った。私は「べべ」、と声を掛けてから優しく彼女の頭を撫でてやった。因みに愛犬はヨークシャテリアの雌で10才。嫁に行った娘がかわいがっていた。べべというのはスペイン語で赤ちゃんという意味らしい。
 べべは猫位の大きさで扱い易く抜け毛もない。家内と二人暮らしの生活の中では孫(?)のような存在だけに、私達は人一倍の愛情を彼女に注いでいる。
 よくしたもので、本人も自分は人間だと思っているらしく居間での居場所も主張して譲らない。又、眠る時は私の布団の上、そして寒い夜は猫のように遠慮も無く肩口から潜り込んで来る。ただ、10才という年のせいか最近の彼女はイビキが凄い! 眠ったかと思うとすぐに始まる。それはまるで人間の大人並みで閉口する。
 こんな小さな体からよくこれ程の大きなイビキがかけるものだと、いつも家内と笑いながらも呆れている。が、犬の10才はリッパな「オバサン」だとか(笑)

 それはともかく前出の鳴き声―。何が起きたのか分からないまま頭を撫でてやるのだが、彼女の震えは一向に収まる気配が無い。朝になって少しは落ち着いたようだったが時々思い出したみたいに「キャン」と鳴いてはうずくまり、上目使いで私達を見る。
 ソファ-の上から下りる時にでもどこかを痛めたのかと心配した家内が病院に連れて行ったけれど、見立ての結果は異常無し。「もしもまだ痛がるようでしたらレントゲンを撮りましょう」とのことだった。
 その後の様子も、家の中を歩き回る彼女の姿からは何ら悪い所は見えなかったが、何かのはずみに突然「キャンキャン」と鳴き声を上げる。お客さんが来た時などは大変で「まるで私がいじめているみたい。人聞きが悪いワ」と家内はわざわざだっこして玄関へ出て行く始末―。

 それにしても……と、あれこれ思いを巡らせていた時、ふと頭をよぎったことがある。それは少し前の出来事だった。我が家へ不法侵入した猫に「ワンワン」と吠えかかり、逆に〝ねこパンチ〟を浴びて追い回され怖い思いをした。
 もしかしてその時の悪夢にうなされては「キャン」と鳴いて飛び起きるのかも-。ただ、我が家への不法侵入者は猫だけではない。ずっと前から「アライグマ」が物置きを占拠している。「アライグマ」というのはテレビマンガで人気のあの「ラスカル」。とってもかわいい動物なのだが、大人になると気性が荒くなりペットには不向き。その上鋭いカギ爪は危険で一度じゃれて私の足に手を掛けた時、ズボンの上からでも引っ掻き傷が付いた。
 箱入り娘のベベのこと、たぶん又、そんな意地悪な彼等に追いかけられでもしたのだろう。見れば我が家の小さな〝孫〟は今日も居間でのんびりとうたた寝の最中。でも、いつ「キャン」と鳴いて飛び起きるか分からない。

 そんなわけで暫くは彼女の〝寝ボケ〟(?)にお付き合いをさせられる私達夫婦の、悩み多き今日この頃である。  (完)

「ボクがんばるから 泣かんとき」 伊神権太

 泣く。泣く。泣く。私の場合、これまでに記憶に残るほど泣いたことは一体、どれほどあるのか。ということで、覚えているとなると意外や、数えるほどしかない。
 まだ小学校に上がる前、幼稚園から帰る途中にお漏らしをしてしまい、どうしてよいものかが分からず、その場に立ち尽くしたまま路上で泣き続けていた記憶がある。頭に残るのは泣いている場面だけで、それからどうなったかものか、が分からない。
 次は父の転勤で静岡県の掛川市に住んで居たころ。小学校二、三年だった。私は〝ギン坊〟という名の上級生をガキ大将としたグループに所属、〝ギン坊〟からは、ことのほか目をかけられていた。そんなある日だった。
 私は、いきなり五、六人のこどもたちに囲まれ股間を交互に蹴られ、激痛が走り立てないでいるところを兄に助けられた。あの時はギン坊に可愛がられていた私に対する嫉妬からきた復讐劇で、泣きながら少し調子に乗り過ぎていた自身を恥じてもいた。
 そして。私の青春時代を一変させた事件が高校一年生の五月十三日に起きた。小柄ながらも中学生で講道館柔道初段を取り、尾西尾北地方では向かうところ敵なしだった私を、その不幸は突然、襲った。中高一貫の私学で中学入学と同時に入部して以降、一日たりとも稽古を休まなかった私。その私に高校を卒業してまもなく社会人となっていた先輩が乱取り稽古を始めてまもなく、私に全身を浴びせ捨て身小内刈りをかけてきたのだ。
 カキーン、という竹を真っぷたつに割った時のような大音響とともに右足全体に、それまで味わったことのない強烈な痛みが走ったのは、その瞬間だった。すぐに接骨医が駆け付けてくれたが、複雑骨折の診断で私は当然動けないまま自宅に運ばれた。あの時の涙は「この先、ボクはどうなってしまうのか」といった悔しさが先で、涙よりもむしろあぶら汗のようなものが、ふいてもふいても全身から泉の如く噴き出てきた。
 その年、すなわち「高校一年生」になったばかりで、夢も希望もいっぱいあった私はほぼ一年自宅療養を強いられる結果になった。あの時、足さえ折っていなかったなら。その後の進路が大きく変わっていたような気がしてならない。なぜか、療養中も学校の成績だけはよく無事進級できた。高校二年生に辛うじてなった私は、それでも両親が猛反対するなか、またまた柔道を始め進学校でありながら、ただひとり我を張り文武両道をめざした。
 「涙」で次に記憶にあるのは、岐阜県庁汚職事件で当時の知事が収賄容疑で送検された日だった。私は小説家宇野千代さんとともに当時、樹齢千五百年にも及ぶ根尾の老樹・淡墨桜の保存に情熱を燃やした知事がこともあろうに、宇野さんの小説「薄墨の桜」の舞台にもなった東京の料亭で現ナマ三百万円を受け取ったその事実を嘆き、原稿を書く手が何度も震え涙が原稿用紙の上にポタポタと落ちた日のことを忘れるわけにはいかない
 それから。何年たっただろう。あれは七尾で家族そろって住んでいたころに溯る。二歳前の末っ子の胸に突然、ピンポン玉大の嚢胞性リンパ管腫が出来、金沢医科大学で切除してもらった時のことだ。末っ子は私と妻を見つめ片言の、それも能登方言でこう言ってくれたのだった。
「おとうたん、おかあたん。ボクがんばるから。なかんとき、なかんとき」と。
 私と妻の両の目から涙がどっとあふれ出、涙がとめどもなく流れた。あの日のことを私たちは永遠に忘れはしないだろう。その末っ子も早や二十七歳。立派な社会人として活躍してくれている。
 泣く。涙。人はなぜ泣き、あれほどまでに夥しい涙が出るのだろう。涙こそ、人生を生きてゆくうえでの羅針盤のような気がしてならない。涙は不思議で正直者だ。  (完)