「僕から」 伊神権太
この雨の降りは一体、何なのだ?
あの日。僕は瞬間的にこの雨の降りのなかで何もかもを忘れて身を任せていたくなった。座禅を組み、両手で十文字を結んで、できたら素裸のままでこのまま雨に打たれていたい。いや、雨という雨たちに討たれていたい。これまでの悪行を洗い流してしまいたい。
と、そう思っていた。
実際、その日はわが家から近くのバス停まで歩く、ほんの五、六分の間に猛烈な豪雨にたたられ、手提げカバンどころか、ワイシャツやズボン、下着まで、いっさいがっさいがビショ濡れになってしまっていた。雨のなかを歩きながら、僕はつい先日までは観測史上初めての猛暑と言っていたのに、いよいよ自然界の逆襲が始まったのか、と本気で考えたりした。もしかしたら、この雨は人間たちへの皮肉な「おくりもの」なのかも知れない。
ことほどさように、この世の中ひと口に「おくりもの」と言ったところで、いろんな場面に、さまざまな形のそれ、が発生するのである。その日、僕はその雨たちを自分だけの世界で“自然寿仏(しぜんじゅぶつ)”と名づけた。そして僕は、この自然寿仏には、ほかに吹くかぜや、太陽、空に輝く星、月たちも加えたらいい、とも思った。天は太陽の陽射しや、あとは、雨、そして“かぜ”といった現象を僕たちに天恵として送り込んでいてくれるのである。時には、真っ白な雪までをも与えてくれる。半面で、地震とか風水害など招きたくないものまでを与えてくれる。
地震はさておき、真夏に雪国から都会の町のこどもたちに雪だるまが送られてくる、なぞといった粋な計らいだって立派なおくりものだと思う。雪を通して山国の人々と都会の人たちとの間に意思が通じ合い、交流の輪が芽生える。というわけで、人間社会での「おくりもの」は、それこそ千差万別である。誕生日祝いのケーキ、母の日のカーネーション、敬老の日の肩たたき、演劇会への招待券、発表会での花束、秋に思いがけなく送られてきたマツタケ、新任地に届けられていた鉢植えの白いカトレア…と思いつくだけでも、世界は限りなく広がるのである。
「ラブレター」だって、相手にとっては迷惑でセクハラとなる不幸な場合はいざ知らず、心から喜んでくれたなら、それこそ立派な意思表示のついた「おくりもの」だといえよう。ほかにも、別れの時に交わす「元気でいてね」「おからだ大切に」といったホンのひと言とて、人間たちには欠くことのできない声のプレゼントだといってよい。
そして。「おくりもの」といえば、大半が当人にとっては幸せ度のバロメーターともなる有り難いものばかりを思いがちな中で、冒頭でも触れた通り、この世には悲しくて辛いそれもある。事実、僕も青春時代に忘れられない、苦難の「おくりもの」を一方的に与えられたことがある。
それは高校一年の五月十三日。ところは、高校の柔道場。事件は、ある日突然のように僕を襲った。柔道の練習をしていた僕は、たまたま稽古に訪れていたある先輩の体重を乗せながらの“捨て身小打ち”を仕掛けられ、左足を複雑骨折。痛さを通りこした顔面に脂汗がにじんだことをよく覚えている。僕はそのまま、年内は高校に行くことができず悔しく辛い日々が続いた。幸い翌年からは親の反対を押し切って再び柔道の練習に明け暮れたが、いまから思うと、あの苦渋の日々が結果的には僕への二つとない「おくりもの」だったような、そんな気がしてならない。
あの日の負の「おくりもの」があればこそ、僕はその後、柔道と学業に励みあこがれの新聞記者にもなることができた。おかげで、世のため人のため、ドラゴンズファンの皆さんのためにもペンを奮うことが今だに、こうして続いているのである。
僕にとっての「おくりもの」。その心は、と聞かれたら人生の応援歌と答えるだろう。
「日々の暮らしのなかで」 碧木ニイナ
ある合唱団のコンサートでフランスの作曲家、フォーレのレクイエムが演奏されました。私は、前夜十一時頃に友人のMさんから、「母が今、亡くなりました」との連絡を受けたばかりでした。
毎年出かける演奏会ですが、今年は特別な思いで聴かせていただいたのです。弦楽合奏の小編成オーケストラにオルガンの混声合唱。重々しい弦楽に誘われるように静かに歌い始められたレクイエムは、あくまでも穏やかで静謐な雰囲気に満ちていました。
レクイエムは死者の安息を神に願うミサで用いられる聖歌ですが、宗教的な意味とは別に、単に「葬送曲」「死者を悼む」という意味で使われる言葉でもあります。
Mさんは仏教徒ですが、お母様の人生の幾ばくかを知っている私は、崇高に奏でられる曲を聴きながら、ご冥福をお祈りしました。音楽が永遠の彼方に去りゆくとき、私の心も浄福の境地に誘われているのでした。
それからしばらくして私は、知的障害やダウン症の若者が集う「劇団・ドキドキわくわく」の公演に出かけました。友人Tさんの長男のU君が団員で、Tさんからご案内をいただいたのです。
出し物は『ドキドキ・バレンタイン』。チョコレートを渡して告白する女の子と、受け取る男の子との様子を描いた青春ドラマです。私もドキドキワクワクしました。最後のダンスの場面は、出演者全員が解放感に満ちて、エネルギッシュで一番輝いていました。
団員は二十歳前後の若者を中心に三十六人が所属。指導、音響、舞台照明、セットの製作等、すべてがプロの手によるものです。「劇が人間関係を学ぶトレーニングの場。コミュニケーション能力や社会性を育てることが目的」と、事務局長は言っておられました。
TさんにはU君の下に東京の大学生で就職活動まっただ中のお嬢さんと、高校生の息子さんがいるのですが、「障害のあるなしを問わず、自分に合ったちょうどのところで生き生きと生きていく、必要であれば誰かの助けを借りながら。子供たちを見ていて、そういうことも大切な気がします」とおっしゃいます。
終演後にU君とお話をしましたが、きれいな瞳を真っすぐ私に向けて、にこやかに丁寧に対応してくれました。Tさんの「ピュアな人ですから」との言葉が余韻となって、私の心に残響しています。ピュアな人がピュアなままに生きられる社会でありますように。もし、手助けを求められるようなことがあったなら、臆せず手を差しのべられる自分でありますように…。
その十日ほど後に再びTさんのご紹介で、ウガンダのエイズ孤児によるゴスペルコンサート『watoto 希望のコンサート』を鑑賞する機会に恵まれました。watotoとはスワヒリ語で「子供たち」という意味です。
ステージ上には六歳から十五歳の子供たち二十人に青年が四人。神への感謝や、大きな力に守られて生きる、歌い踊る喜びが全身にみなぎった躍動感あふれるステージでした。歌の合間には、彼等の将来への夢が語られました。医師に、看護士に、教師に、警察官に、弁護士に…なりたい、と。
小さいときに深い悲しみを味わった子供たち。不幸を乗り越えた者だけが知り得る命の尊さ、重さが胸に響きます。心の奥底から込み上げるものがあるのです。彼等へのメッセージ欄に私は、〈夢が叶いますように! 〉と、迷わず書きました。
そして先日は、アメリカのヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで、日本人で初めて優勝した全盲のピアニスト、辻井伸行さんの演奏を聴いてきました。その音色のなんと美しいこと。音の一つ一つが光り輝いて、まるできらめく真珠が舞っているかのようでした。
自由自在に動くしなやかな指、繊細な感性、人の心を激しく揺する表現力。ヴァン・クライバーン氏は彼を「奇跡のピアニスト」と表現し、アメリカの聴衆は「あなたの才能は神様からの贈り物よ」と讃えたといいます。
また、この春には伸行さんのお母様の講演会が岐阜市で催されました。倍率六倍の狭き門でしたが、私は拝聴することができたのです。会場は熱心に耳を傾け、メモをとる人たちの静かな感動で包まれていました。
日々のささやかな暮らしのなかで私に与えられるたくさんの贈り物。感謝という言葉をかみしめています。
「ピンポイント」 真伏善人
プレゼントとは特別な人に贈り物をすることですが、大切なのは受け手の気持を汲みとることにあります。贈り手と受け手、この両者はプレゼントによって関係を円滑にするだけでなく、二人と関わりある人たちとも円満になれる効果を発生させなければ意味をなしません。
そこで、この行為を気持の重要なやりとりでもあるということで捉えてみますと、例えば野球の試合における投手と捕手の間もそのような関係にあるのでしょう。
テレビ画面で試合を見る限り、圧倒的に贈り手(投手)と受け手(捕手)が多いことからもそれと知れます。受け手の表情は被った鉄仮面の奥に隠れてあらわになりませんが、贈り手の表情、動作は受け手のサインによって、変化が微妙であったり大仰になったりします。
九回の裏、得点は三対二でビジターのリード。しかしワンアウト満塁の大ピンチ。バッターはホームチームのマッチョ四番。
受け手ー外側の高めに早い球が欲しい
贈り手ーエッそんなんでいいの?
受け手ーその辺が妥当やと思うよ
贈り手ーおやすい御用やで
受け手ーしかし、奴(打者)のことやからなぁ
贈り手ー何を迷ってんの
受け手ーん、いやこっちのこと
贈り手ーホントは低めの球が欲しいんやないの
受け手ーわかるか?
贈り手ーはっきりせえや
受け手ー暴投があるからなあ
贈り手ー信用できへんのか
受け手ー前の試合のこと忘れたんか
贈り手ーあれはサイン違いやないか
受け手ーちゃんとサイン通りにくれるか?
贈り手ー当たり前やないか
受け手ーよし内側低めに落下する球をくれや
贈り手ーくれじゃないやろ、頂戴のサインだせや
受け手ーはいはい頂戴、たのむで
贈り手ー最初からそこに欲しいって言えや、ボケッ
さあワンアウト満塁、一打逆転サヨナラのチャンス。しかし内野ゴロゲッツーで試合終了もあります。ようやくサインにうなずきピッチャーセットポジションから第一球を投げました。インサイド低め、おっとスライダーかフォークか、ワンバウンドを空振り、ああキャッチャー大きく後逸、バックネットまでボールが転々としています。何とキャッチャーが転倒だ。ピッチャー呆然、俊足ランナー二人ゆうゆう生還サヨナラ、サヨナラです。
《プレゼント関係の間にはこんなことも起こりうる》
関係サヨナラのとんでもないリスクが潜んでいるということをよく考え、受け手はあやふやなサインを贈り手に出すことを慎まなければ、決してよい関係を保ち続けることはできないと思わなければなりません。
サインのピンポイントに贈るということは難しい事です。今日に至るまでの相手の居住周り、職場環境、とりまき、趣味、嗜好などの変化を細かく洗い出します。それらを手がかりにして厳選二品目。最後は神様決定ガラガラポン。それがピンポイントのプレゼントです。
で、当たったとすればこのゲームの九回裏は四番打者、初球ボテボテの三塁ゴロ、ホームゲッツーで円満に試合終了皆万歳となったはずであるのだけれど…。
「ウナギの涙」 山の杜伊吹
郡上八幡に悪い人はいない、と聞いた事がある。
私も郡上の人を知れば知る程、郡上人に比べたら、私の住む地域の住人など、極悪人ではないかと思う。
赤ちゃんが産まれて、上の息子の参観の時に困り、ベビーシッターさんに来ていただいた事があった。その人が、聞けば郡上からこちらに嫁いだとっても良い人だったので、安心して赤ちゃんを預けることができた。
その際に、ゆりかごがあるといいのになあという話になった。その人は、自分の子どもたちが使ったものが郡上の実家にあると言っていた。
後日、実家に帰ったついでにゆりかごを持ってきたので、いまから届けると連絡が入った。私と赤ちゃんのために、はるばる取りに行ってくれたのではないだろうか。そして、思い出のつまったかわいい服などと一緒に、わざわざ家までゆりかごを届けてくれたのである。
もう一人、幼稚園のママ友で、郡上から来た人がいる。
幼稚園での付き合いも長くなり「郡上に帰省した時のお土産です」と、トウモロコシをいただいてからだろうか。その後、郡上名物の朴葉寿司、こけっころーる、カブトムシのイラストのTシャツ、保温靴下、ナシ、リンゴ、ミカン、油揚げ、家族旅行のお土産・・・数えきれない程のお土産をもらった。
予期せぬ幸福が空から降ってきた時の、我が家の驚きと喜びといったら!! そのどれもこれもがおいしく、珍しく、嬉しく、我が家は「うまいうまい」とパクつくばかりだ。
だがその後ふっと頭をよぎることがある。お返しは、どうしたら良いのだろうか。なにかしらお返しはするのであるが、とてもいただく量と質には、追いつかないのである。
もらってありがとう。けれどすみません。そう謝り続けるほかない。
この夏の暑さはもの凄くて、太陽との闘いであった。
クーラーをつけないと、汗だく。目の焦点が合わない。めまい寸前。水分補給が追いつかない。食欲が落ちる。そんな時、世の皆さんは、どうするだろうか。
きっと、焼き肉を食べるはずだ。スタミナをつけるために、ガッツリ食べる。血がしたたるような肉を食べて、疲労を回復させるのだ。次の日は、身体が多少楽だと聞く。
だけど私は子どもの頃から肉が食べられないのである。よく勘違いされるのであるが、べつに健康オタクでも宗教上の理由でもない。
では、弱っているとき、なにを身体が欲するか。
それはズバリ、ウナギである。
ウナギを食べるとさすが滋養強壮、目がギラギラして元気になってくるのがわかる。これほどウナギが食べたいと思う夏はなかった。ウナギは赤ちゃんに栄養と水分と体力を奪われている私に必要であった。毎日ウナギを食べに行きたかった。私に残された唯一の道は、ウナギしかなかった。それなのに・・・。
ウナギ屋に行けない。買い物にいたっても。夕方も夜も暑すぎて、外出自体が無理であった。日中、汗だくで赤ん坊におっぱいをやり、おむつを替え、せーので玄関を出る。西日がまともにあたる玄関は一歩出ると、ま、眩しい!! 温度差で頭がじんじん。ふらつきながら赤ん坊の顔に直射日光が当たらないよう太陽を遮り、やっとの思いでクルマの扉を開けると、中は灼熱の地獄。
西に駐車場がある事を恨みながら、触るとやけどするくらい熱せられたチャイルドシートに嫌がる赤ちゃんを装着し、やっとの思いで運転席へ、日差しが痛い。暑さのせいか、赤ちゃんは泣き続ける。銀行、病院、最低限の用事を済ませ、命からがら逃げ帰る。
スーパーに寄る余裕はなかった。帰宅後ぐったりした赤ん坊の顔を見ると、あせものような湿疹ができている。八月は冷蔵庫が壊れ、扇風機が壊れ、クーラーも故障し、最悪の事態となった。もうなにもかもが限界だった。
そんな所へ、友人から「今から行く」とメール。彼女は車で四十分程の所にある、老舗のウナギ屋に嫁いだ。女将をしながら幼児二人を育てる多忙な身だ。その彼女が育児と猛暑に悪戦苦闘する私の身を案じて、ご主人に頼んでウナギを焼いてもらい、なんと、できたてほやほやのうな丼を届けてくれたのである!!
家に老舗のうな丼が届く。これ以上の幸せはあろうか。私は弱っていた。もうアカン・・・と。そこに彼女の優しさと、ウナギの味が心に沁みて、ナミダが出たのである。
こんなにも嬉しいモノをいただいて、なにをお返しできるのだろうか。過去の私の周りの人たちにいただいた親切の数々を思う。その人たちになにを返したら良いかわからず途方に暮れる。郡上の人に、ウナギに、どうするのが人の道なのか。だれか、私はどうしたら良いのか、教えてほしい。
「興奮剤」 香村夢二
平日の午後三時とあって車内は空いていた。俺は窓の外の景色が流れていくのを見つめながら、どんよりとした気持ちで電車に揺られていた。何もかもがたまらなく苛立たしかった。
それは、わずかな蓄えが切れて自分で自分のクソを食う羽目になるのが時間の問題であるにも関わらず、どうすることもできずにいることに起因していた。俺は二ヶ月ほど前に製粉工場での仕事を業績の悪化を理由に解雇されて以来、倉庫番や、コンビニの店員といったくだらないハンパ仕事にすらありつけずにいた。十代のガキどもには山ほどバイトがあるというのに、三十代を目前に控えた俺にはそんなものすら満足になかった。
おまけに長年慰めとしてきたバンドも、数ヶ月前から活動を休止していた。それはライブの度に数万円単位の赤字が生じることと、誰からも評価されないことに起因していた。一応、来てくれる客は数名いたが、それらは皆、バンド関係の連中で、それも好きで来ているというより、付き合いで来ているというのが本当の理由だった。むろんバンドは楽しかったし、自分のバンドには世界中のどのガレージバンドとも渡り合えるという絶対の自信があったが、それ以上に疲れていた。いずれにせよ俺の生活は全くうまくいっておらず、俺は奈落の底の二歩手前くらいの場所にいた。
一秒でも早く死が訪れるのを願いながら、視線を流すと向かいに座っている若い大学生風の女の子と目が合った。その女の子はいかにも前途洋々といった感じで何やら本を読んでいたが、俺の身なりがおもしろいのか、さっきからちらちらと俺の方を見ていた。その日の俺は、はき古しの雪駄に、着古した黒いティーシャツといういでたちで、髭もあたっておらず、いつも以上に見栄えがしなかった。
しばらくして車内に紋切り型のアナウンスが響いた。その女の子は席を立つと笑顔を浮かべながら俺の前にやってきた。
「あの、『黒い太陽』のボーカルさんですよね?」
「はい・・・・」
俺は一瞬返事をためらった。控えめに言ってもかなり驚いた。
「そうです・・・・」
「あの、サインしてもらえませんか?」
「えっ?」
「ダメですか?」
「いや、いいですよ。俺なんかでよければ」
女の子は手にしていた本を開くとペンを俺に差し出した。俺は周りの人間の好奇の視線を四方八方から感じながらよくわからないまま本にサインした。自分の身に起きていることが信じがたかった。こういうことを言われるのは初めてだった。
サインを終えて本とペンを返すと女の子はうれしそうに礼を言った。俺はその様子を見つめながら久しぶりにまともな人間として認めてもらえたような気持ちを覚えた。いつどこで俺のことを知ったのかはわからなかったが、うれしいことに変わりはなかった。すごくうれしいことに。
間もなくして中途半端な大きさの駅に着いた。その子は「次のライブを楽しみにしてます」と言うと電車を降りて改札へと歩いて行った。俺は体中に新しい力がみなぎっていくのを感じながらその様子を見つめた。この数ヶ月間ずっと失っていた自信と気力がもどってくるのを感じながら。さっきまでの気持ちはいつの間にか、どこかに消えていた。
女の子の姿はすぐに見えなくなった。俺は間もなくして鳴り始めたベルを聞きながら心の中で、今しがた受け取ったすてきな贈り物の礼を言った。
「極上の興奮剤を大量に血管にぶち込んでくれてありがとうな」と。
俺はさっきまでとはちがう、輝きのある眼で向かいの窓ガラスに写る自分を見つめると「あの子のためにもしゃんとしろよ!」と自分に言い聞かせた。