「夜明けは、旅立ち」 伊神権太

 夜明け。よあけ。ヨアケ…。よ・あ・け、と言ったら人間たちは何を思い出すのか。
 私の場合はオーソドックスに物事の始まり、たとえば年の始まり、といったような風景を思い出す。一番分かりやすいのは、かつて取材したことがある真珠の海・英虞湾や小牧山山頂での初日の出を拝む会である。眠い目をこすりながらその年初めての取材に出かけ、初日の出を拝んで一年の幸せをお祈りしたものである。
 外輪船に乗って英虞湾沖から見る「初日の出」は、それは見事なものだった。朝の冷気も手伝い、気持ちもキリリと引き締まったものである。志摩半島といえば、海女さんで知られる大王崎で、大晦日から新年にかけて行われた、波切の火祭りも忘れられない。ここでは村の入り口に立つジャンボ門松が地元漁師の持つ日本刀で「エイッ、ヤアーッ」という声もろともに一刀の元にバッサリと切られ、一年が始まるのである。
 夜明けが物事の始まりとすれば、赤ちゃんが誕生する出産の営み、そしてこれから大人としての人生が始まる成人式、さらには入学式、入社式、結婚、退社、還暦だって、『死』以外の旅立ちはすべて、その人にとってのある種の「夜明け」といってよい。出産にしろ、入学、入社にしろ、そこに至る過程も無視は出来ない。だから、夜明けの前の「夜明け前」も大切な時ではないのか。「夜明け前」があればこそ、夜があけ、そして花も開こうというものだ。
 では、私自身の「夜明け」は、これまで何度あっただろうか。いつも、そのつど前進と挫折を繰り返してきた。そんな気がするのだ。終戦の翌年に中国東北部の満州(奉天、現在の瀋陽)で生まれ、生後十三日目には朝鮮半島のコロ島から引揚船に乗せられ日本に向かった。大げさに言えば、私にとっての最初の夜明けは、遠く満州に遡るのである。次が内地に来てから。貧乏でもわが子の教育だけには熱心だった両親の意のまま、江南市内の私立中学に入学させられたが、この入学劇も私の人生にとっては、ある意味の夜明けだったといえる。
 以降は大学への入学、新聞社への入社、駆け出しの松本支局のあと、転任地・志摩通信部で始まった妻との逃亡記者生活。岐阜、名古屋、小牧、七尾、大垣、大津、一宮と続き、編集局デスク長を最後にピリオドを打ったあまたの記者生活…。転任のつど「夜明け」があり、華やかな記者生活の半面で、多くの挫折や時には絶望にさえ襲われた。挫折は誰にもあるが、それが逆に人生のバネになったことも確かだ。それは仕事だったり、大切な家族のことだったり、果ては今だからこそ言える、許せぬ恋の道だったりもした。そして、こうした挫折の数々が、そのつど私にとっては、夜明けの前兆、すなわち新しい「人生の扉」となったことも事実だ。
 話は変わる。
 昨年暮れ、私は可愛い妻と稲沢市祖父江の銀杏公園を訪れた。なんと、そこには金色の世界が広がっていたではないか。私は眩しすぎて思わず「あっ」と感嘆の声を漏らしたのである。ふと思い出したのが♪金色の ちいさき鳥の 形して 銀杏散るなり 夕陽の丘に、というある高名な歌人の短歌であった。
 はらほろと天から舞い落ちてくる黄落(おうらく)のひとひらひとひらに見とれていると、近くで「あった。あったわよ。すごい。スゴーイ」と歓喜の声が、かぜとともに飛んできた。めったに感情表現を出さない彼女の方に目を向けると、その視線の先に緑が芽ぶいていた。私と妻はそのまま、ずっと銀杏吹雪に打たれ立ったままでいたが、まもなくして妻が口を開いた。
♪日輪に 黄落の風 生まれ出づ

 私は金色のじゅうたんのように敷き詰められた枯葉のなかの奇跡とも言える緑の“芽生え”に自らの人生を重ね合わせ、定年後のいま、私にも「新しい夜明け」が始まろうとしているではないか、と。ふと、そんなことを思ったのである。

 そう言えば、私たちのウエブ文学同人誌「熱砂」の仲間にも、ことし成人式を迎えた女性や、まもなく第二子を出産する前途洋々たる女性がいる。彼女たちにとっては、まさに「夜明け前」から「夜明け」の到来だけに、一人の女性として、家庭人としても、これからますます光り輝いてくれることを願わずにはいられない。
 かつて「夜明けのうた」とか「夜明けの停車場」という歌があり、私も若いころ、よくうたったものだ。歌う時は決まって悲しい時や、新たな旅に出るときだったと記憶している。人生への賛歌を込めてー。

「日没の彼方へ」 碧木ニイナ

 タンスの中を整理した。しばらく着ていないけれど処分するのは忍びない、そんな衣類のあれこれを思い切って捨てた。
 とても気持ちがすっきりした。この頃の私は、部屋や収納のあちこちを見回して、あれを捨てようこれを捨てようと、そんなことをよく思う。タンスの引き出しを開けた折にも、そこに収まっている何かをヒョイとつまみ出して捨てる。
 そのたびに肩や背中のあたりから、ふわぁ~と何かが大空に舞い上がり、体が軽くなるような解放感がある。それはもしかしたら、星がまだ見えるほの暗い天空から、日の出を迎える夜明けへの、時の移り変わりのようなものかもしれない。
 そして、この頃よく思うことのもう一つは、身軽になってこっそり静かにこの世から消え去りたいということ。そんな現世との決別に憧れる。立派な葬式も墓も必要ない。遺骨は海に散骨してほしい。娘にはそう伝えてあるけれど、明文化しなければというのが最近の私の関心事でもある。
 この世との別れは、夜明けの対極にある日没かもしれない。が、日没に向け心を整えるのもいいだろう。夜明けには、新たな物事の始まりという意味もあるし、日は昇り、日はまた沈むのだから。
 先日、「熱砂」の読者の一人である私の良き理解者に、今回のテーマ『夜明け』について、「なかなか書けなくて苦しんでいるの。何を書こうかしら」と言ってみた。でも、簡単にアイディアをいただけるはずもなく、私はまた言葉をつないだ。
「娘のMが好きだった絵本を何冊か引っ張り出してきて、何か書けないかとページを繰ってみたの」と、私はつい遠い過去を見る目になる。
 その人は、私の目に浮かんだ娘と私の過去をサッとやり過ごして、「あなたのエッセイは、いつもMちゃんとのこと一辺倒。今度はそこを離れて違うものを書いてみたら」と言う。
 確かに、私のこれまでのテーマエッセイの主題はほとんどが娘だから、読者にとっては食傷気味なのだろう。けれど、私の人生における最大の夜明けは、娘がこの世に誕生したこと。彼女と巡り会えたのは、奇跡以外の何ものでもない。というわけで、また娘が登場する。どうかお許しを。
 わが家には二十四歳の一人娘がいる。心身の両面にかなりの苦痛を伴う不妊治療を続けた後に、スパッと諦めて子供のいない人生を歩もうと決心し、病院通いをやめて一年がすぎた頃、私は妊娠した。すっかり諦めていたので、体調の変化を妊娠と結びつけるのに時間がかかった。
 当時は三十歳をすぎると高齢出産という区分がなされていた。高齢の初産だった私は、手術の必要なハイリスク分娩の妊婦として、先生をはじめ周りの人たちを心配させたけれど安産だった。神様や周りの人々への感謝に私は包まれた。
 母親業は思いがけないほどに楽しく、自分に合っていた。それは、母になってはじめて分かったこと。娘がそうした沢山の気づきの機会を私に与え、人生を何倍も豊かにしてくれた。
 丁度、娘が生まれた年に戸籍法が改正され、裁判所に氏の変更を申し立て、許可を得れば外国姓を名乗れるようになった。あの頃の日本社会は、いろいろな意味で今よりずっと閉鎖的だった。この法の改正が、日本の国際化をリードした一面もあるに違いない。
 国際結婚で生まれた娘が、それを喜びに、誇りに感じて生きてほしいと願い、小さい時から一人の人間として、彼女の意志を尊重しつつ暮らしてきた。父親がアメリカ人なので当然のこととはいえ、娘にも外国に出かける機会がままあった。
 小学校三年生はシドニー、高校、大学はアメリカで過ごした。大学時代には上海の大学への留学経験があり、都合四ヵ国で教育を受けたことになる。好奇心が強く、いろいろなことに興味がいっぱいの娘は、どんな環境にもすぐに馴染み、その時々を精一杯楽しんできた。
 昨年の一月からは、ピースボートのボランティア通訳として南半球を一周。今年の年賀状は、南極の氷山をバックにした写真やイースター島のモアイ像、アフリカのサファリでのライオンの勇姿、鮮やかな色彩の布を纏ったマサイ族のハンサムな青年に挟まれてご満悦の写真など、三カ月の旅が凝縮された未知を体験する喜びがみなぎったったものだった。
 ピースボートから帰国して二日後に、彼女は東京で社会人としての一歩を踏み出したが、自分の性質に合致したフィールドで生き生きとした日々を送っている。彼女の周りには人種や国籍にかかわりなく、何ヵ国かの言語を操り、日常会話は英語という人が多い。
 真の自立を始めた娘の姿や現状が、親として一応の責任は果たせたという安堵とともに、私にこの世との別れを考えさせるような、心の変化をもたらしたのだろうか。
 日没の彼方の夜明けに向かって、ゆっくり歩を進めよう。新たな夜明けの到来を信じて。

「夜明け パート1・2」 牧すすむ

パート1 

─夜明け─ 一見多様な意味を持つこの言葉も、深夜に書き物をする機会の多い私にとっては極めて身近に感じる言葉でもある。
 少し根を詰めれば時の経つのも忘れ、眠気覚ましのコーヒーと、足下で眠る愛犬のかわいいイビキとに励まされながら、セッセとペンを走らせていく。
 あくび混じりに何度目かの大きな伸びをする私の耳にバイクの音。牛乳配達のおばさんだ。「ご苦労様」と心の中でつぶやきながら、傍らの時計を見る。短針はもうすでに遙か右下方を示し、秒針は更に忙しげに“チッチッチッ”とリズミカルな音を立て、円いコースを巡っている。
 椅子から離れ、窓越しに仰ぐ薄明かりの空には、消え残った幾つかの星たちの白い瞬きが疲れた私の目にほんのりと眩しい。
 そんな身近にある“お友達”のような“夜明け”に、最近、正に感激の対面をしたのである。
 それは去年の秋のこと、あるコンサートに出演するために出掛けた日、本番を明日に控えてあいにくの雨。屋根は有るものの会場は屋外である。メンバーの顔の色も冴えない。このまま雨が降り続けば結果は最悪の事態を招くことになるだろう。私達は祈る思いを胸にホテルでの一夜を過ごした。
 まどろむ程の時間に感じられた夜が明け、飛び起き様に窓の外を見る私の目の前に白い景色が広がっている。とりあえず雨の気配はなさそうだ。「やったー!」と思わず叫んでガッツポーズの拳を握った。
 湖畔に建つホテルの朝は、雲のように揺らめく濃いもやに優しく包まれ、刻一刻、時の流れと共にその姿を変えていた。もやは薄れ、反対に遠くの山々のシルエットが増していく。正にその時、二つの山の狭間から太陽が昇り始めたのである。
“御来光”のような強い光を放ちながらぐんぐんと昇ってくるその光にもやは掻き消され、いつしか鏡のような湖面は金色に輝いていた。なんと幻想的な光景なのだろう。私は冷たい窓のガラスに顔を押しつけ、時の経つのも忘れて見入っていた。素晴らしい! 実に素晴らしい“夜明け”である。
 ちなみに、“晴れ男”を自負する私のメンツもしっかり保たれ、同時にその日のコンサートも大成功であったことはいうまでもない。                                                          

パート2

「もしもし、調味料と海苔を送ってほしいんだけど─。ああ、仕事なら上手くやってるよ。大丈夫、心配ないよ」
 次男からの電話である。しかし、いささか遠い。彼が居るのは南米のチリ。日本の真裏にあたる国だ。会社の転勤なのだが、入社時の目的であったことから、彼にとっては夢が叶った大満足の仕事なのである。
 実は六年前、大学在学中にチリへ行き、その後アルゼンチンに留学した経験が有る彼は、南米への転勤が大きな夢となった。スペイン語と英語が堪能なので仕事の心配はしないのだが、とにかく遠い国。電話の声だけが安心の頼みである。チリを拠点に南米各国が範囲らしく、先日もブラジルへ出向いたとか。食事の安全や身の回りの安全等、やはり心配は尽きない。ただ、アルゼンチンには留学当時お世話になった家が有り、今回もまた親しくして頂いているというので、大変ありがたく思っている。
 と、ここまではままある話なのだが、偶然というのはこんなことかも─。
 それは息子がお世話になった(今も)アルゼンチンのその家の子が、時を同じくして日本へ留学してきたのである。同い年の二人は当然旧知の仲であり、親しい友人である。
「奈良教育大学」で学ぶ彼は、日本語も上手く明るい。何よりも性格の良い好青年であり、時々我が家へも遊びにきてくれるので、まるで本当の息子のように思えてしまう。
 世界はこんなに広いのにお互い息子同士を交換しているような偶然の不思議さと、こんな巡り合せの幸せに、ただただ感謝するのみである。ちなみに彼の将来の夢は政治家だと言う。
「大統領になりたいね」と、屈託なく笑う顔が何よりも良い。ともあれ我が家の二人の息子(?)は今、大きな大きな人生の“夜明け”を迎えようとしているのである。

「夢の夜明け」 真伏善人

 集団就職で、新潟の田舎から名古屋に向かう列車に乗せられたのは午後の三時過ぎで、到着予定は翌朝の七時過ぎだった。指を折って数えると乗換えを含め十六時間にもなる。いま考えると気の遠くなるような話だ。
 真夜中の寒さに震えながら松本でディーゼル列車に乗り換え、再びまぶたを閉じる。規則正しい車輪の走行音にいつしかうとうととして、気がつくと車窓から見える空が白んでいる。見知らぬ土地で夜が明けたのだった。
 やがて列車は名古屋駅にかけこみ、ゆるやかにブレーキをかける。わき目もふらずコンコースを足早に通りぬけると、巨大なコンクリートの建物群に圧倒される。通勤時間帯のかかりか、行き交う人々が、表情も言葉もなく急がしげに動いていた。車の多さと騒音。信号というものが際限もなくあり、広く交差する道路。
 路面電車を待つ間、これから「名古屋で生きる」という、故郷での漠然たる思いがこの現実を覆っていたのか、見通しのきかない空気が充満していて、辺り一面がやけに澱んでいる夜明けだった。
 現実世界に否応なく取り込まれ、労働力として認められるまでには、どれほどの時を要しただろうか。二十四時間操業の工場では、夜の勤務が避けて通れない。三週間のサイクルで回ってくるこの一週間の勤務は、まさに眠気との闘い。当たりまえのことに夜食をとるのだけれど、その後がいけない。昼をまともに眠らず、遊び呆けていた日は水で顔を洗おうが、頬をつねろうがものの数分で瞼が重くなり、こらえきれずにしゃがんで眠ってしまったり、いねむり歩行で鉄柱に額を打ち付けたりすることが幾度あったことか。
 けれども、あれほどの眠気も勤務が終わり、工場の出口の扉を押すと、瞼のシャッターは全開になる。ひんやりとした空気とまぶしさに、ああ夜が明けたのだと心地よくなりはするが、それもつかの間。朝食をとり、朝日を浴びて寮の部屋に戻ると、疲れがどっと押し寄せ倒れこんで眠りに落ちてしまう。夜明けイコール夜になるのである。
 こんなわけで二十四時間を交代で勤務していると、朝って「いつのこっちゃ」、ってことになる。
 そんな環境の中で高校に通い、勉学にも精をだすことになる。だが充実していたというより、過酷な毎日で挫折するのは目に見えていた。苦より楽。とがめるものは誰もいず、あっさり退学。おきまりのコースで遊び呆けるのである。夜な夜な飲み歩きの朝帰り。通勤バスで帰るきまりの悪さに、吊革を握ってのひとり赤面。マージャンとなれば当然のように徹マンで、これも眠るのは朝になる。こんな陰気生活の繰り返しで、夜明けなどは眠りの序曲を聴くようなもので、心をときめかせたり奮い立ったりの真逆にあった。
 よく山に登って、ご来光の感動といわれる。山のとりこになった一時期があって小屋に泊まると、まだ暗いうちから身支度を整えて、小屋を出て行く人がぞろぞろいた。それらは皆、日の出を拝みに行くのだと知り、驚いたことがある。それほどのものなのかと、思うだけで足が向かない。元来の天の邪鬼なのか、かたよった生活習慣が未だにしみついたままなのか、あるいは単に低血圧で、朝笑いができない体質であるからなのか、とにかく朝日よりは夕日がずっと魅力的であった。
 誰にも会わずに登りつめた、たった一人だけの山頂で雲海に沈もうとする大きなオレンジ色の太陽を、座り込んでじっと見つめていたことがある。その雄大さが、じわじわと沈み暮れていく切なさに、心を震わされたことが忘れられない。
 夜明けの感動を人並みに得るには、体質改善と洗脳以外にあるまい。まずは、むっつり精神を根本から改めなければということになる。生まれ変われることができれば話は早いのかもしれないが、それはいくら神様におねだりしても却下だろう。
 ならば、と考えついたのがこれだ。まず、スペースシャトルかソユーズでもいい、一度乗せてもらって宇宙ステーションとドッキングする前に、moonまで足を伸ばしてもらう。畳二枚の窓付きコンテナに入れてもらって、moonの裏側にそっと置いて行ってくれればOK。あとは四輪駆動のペダルを漕いで自由に動き回る。とりあえず、幾時かはずっと孤独の淋しさを楽しみ、それに満ち足りて、あふれそうになったら、よし、夜明けを見に行こうとなる。ギーコギーコと地球の見える所まで出向いて、「ご来光」ならぬ「ご来球」だ。それこそ震えるほどの感動だろう。夜明けの地球だ。ましてや日本列島でも拝むことができれば涙がわくのかもしれない。
 堪能したらUターン。またペダルを漕ぎ、裏側で孤独の淋しさにひたって…と思うのだがどうであろう。

「夜明けはくるか」 山の杜伊吹

 名前・・・私を何年も悩ましているもの。一人になって、ふと思うのが自分の名前の事である。きっかけは、家にやってきた印鑑売りであった。つい話を聞いてしまったのがいけなかった。  
 要するに「あなたの名前は非常に悪い」というのである。そして、こうでしょう、ああでしょう、こういう時があるでしょう、と語る事すべてが、ことごとく当たっているように思われたのであった。うまくいかない人生、過去の数々の不幸な出来事、なんで自分だけこうなるの? と他人を羨む日々を送っていた私は、本当にそうかも知れないと思ってしまった。「すべてはこの名前が悪いのだ」と。でも、印鑑は買わなかった。欲しかったけれど、貧乏すぎて購入できなかったのである。   
 その話をある人物に話すと「親につけてもらった名前をそんな風に言うなんて、けしからん奴だ。騙されて印鑑なんか買わなくて良かった」ときっぱり言い切った。そして「名前なんかで人生は変わらない」と断言した。   
 その言葉に力をもらって帰宅し、パソコンを開くと、先程会ったその人物からメールが届いていた。~あれから気になって、念のためあなたの名前を調べてみました。とても悪いようです。大変悪いので、改名をおすすめします~と、あった。  
 以来、三人くらいの人にこの事を話したが、皆私の名前は悪いので変えた方がいいという答えで、諸悪の根源は名前にあり! という考えは確信に近いものになった。  
 結婚した主人も人生いろいろな人で、趣味が姓名判断だ。自己流の無免許なので、信憑性にははなはだ疑わしいものがあるが、なんとなく当たっている気がする。  
 その主人によれば、私の名前は自身の三十過ぎに若くして亡くなった母親と、全く同じ字画をしているという。そして「俺の方が早く死ぬだろう。君は後家さんになる」という。彼の父親は、母親の死ぬ七年前に亡くなっている。  
 つまり、結婚して名字が変わっても、私の名前は悪いままのどうしようもない名前なのである。しかも、どんな漢字に変えても悪いときている。改名するなら、これまでとまったく違う名前にしないといけないのである。そこが、すぐに改名に踏み切れない理由だ。   
 先日、十五年来の友人と久しぶりに会った時、名前の話になった。改名したいとその時初めて話したつもりであったが、出会った十五年前にも、すでに名前が気に入らないと言っていたよ、という。   
 私はそんなに昔から、名前のことが頭を支配していたのか、と驚いた。印鑑屋が来るはるか以前である。飲み屋のママのような名前、父親が酔ってつけたけたような名前、「本当は違う名前にしたかったのよ」と、いつも母親が言っていた。  
 その友人自身改名しているのだが、社会生活上変えているだけかと思ったら、戸籍から変更していた。使用している字が悪かったのもあるが、いつも男に間違えられてしまうのが決め手になった。家に届いた男向けのダイレクトメールなどの資料を揃えて裁判所に行って、認められたのだという。改名後すぐに結婚がまとまり、いま幸せな生活をしている。   
 私は宗教にこそはまらなかったが、無類の占い好きになっていた。相談する占い師から「名前のことばかり気にしてる所が、そもそも問題なのよ」と言われる始末だ。確かにそうかも知れない。運の良い人は名前なんか気にしない。占いもしない。でもそんな人は決まって、もともと名前が良くて、良い時に結婚をして、良い時期に、良い方角に家を建てるのだ。  
 と、考えているとやはり親を恨む事になる。その行き着いた答えそのものが、不幸である。  
 昨年、母と慕い、人生の指針として唯一頼りにしていた占い師が、私の事に腹を立てて、ついに絶縁状を叩き付けられてしまった。そこまで悪い事をしたつもりはなかったのだが、過去のいろいろな不義理をもなじられたのである。この出来事はいまも私の中に暗い影を落としている。満足な愛も、生きる術も知らずに、手探りで孤独と絶望をなんとか乗り越えて漂ってきた頼りない私の魂は、いまや改名を相談する人もなくしてしまった。夜明けはまだ来ない。