「笛の音」 伊神権太

 笛を吹いている。
 
 演奏というには、ほど遠い。それでも、よほどのことがない限り毎朝、出勤前に吹く。
 なぜ笛なのか、とよく聞かれる。
 私は、こう答える。
「笛の音は、文学に通じる。そう信じているからです」
 あの空気を一つひとつ切り裂いていくような不思議な神秘的な調べが「文」という金山を探し求める文学にお似合いだからだ。
 私が求める文学とは、風の流れや小川のせせらぎ、夕焼け、雪、雨、雲、海や山、川など目の前に広がる自然を少しでも現実に似たものとして表現し、後世に残すことである。
 ただ単に表現するだけでなく、この世に広がる風景を描き切る。表現するに当たって筆先は、そのつど暗闇に入り、そこから何かをまさぐるようにして一字一字を掘り当てていく。その作業というか、いや工程が音を一つひとつ紡ぎ出していく笛の世界に似ている。
 なんだか文学談議とでも言えそうな迷路に入り込んでしまったが、少しずつ上達するに従って笛の音、すなわち「迷路」からの脱却のような気がしてならない。

 ここで笛そのものに話しを戻そう。
 ひと口に笛と言っても、フルート、尺八、オカリナ、クラリネットといろいろある。私のやっているのは、いわゆる横笛、しの笛である。京の五条の大橋で弁慶を相手にヒラリヒラリと身を交わした、あの牛若丸が手にしていた逸品で、テレビでよく見た哀愁を帯びた調べには昔からよく聴き入ったものだ。
 それが、なぜ今になって。みなさまから、そう追及されるに決まっている。

 実は、前々から横笛に憧れていた私に十年ほど前あるきっかけが訪れた。岐阜市内の料亭で芸奴さんをまじえての懇親会があり、知人の女性を伴って、お招きされた。その場で芸奴さんが横笛をふいてくださり、得もいわれぬ音に完全にはまってしまったのである。
 それから何年かが過ぎ名古屋に笛のお師匠さんがいると知った私は彼女の門をたたき、以降、月に二回のお稽古を始めるようになってはや三年。昨年の発表会では「笛吹童子」を、ことしは「男はつらいよ」を発表し自分なりに納得の域にまで辿り着きつつある。

 私は、出勤前の貴重な時間をあてて毎朝、「さくら」「よさこい節」「かごめ」「風の盆恋歌」「越後獅子」「笛吹童子」「男はつらいよ」「赤とんぼ」をふく。
 どうにか音が出るまでに三ヵ月かかった。
それからも妻の舞に言わせれば、切れ切れのメロディーに、じれったい月日が続いた。最近になり音らしくなったがまだまだ、だ。

 ちなみに譜面の傍らには、師匠から教えられた文言が、そのつどこう記されている。
 ─一日に五分間でよいから毎日続ける。自転車に乗るのと同じ、吹いてるうち何かきっかけがつかめたら、それから音は出るはずです。一行ひと息、文章の句読点まではひと息で。そうすれば、風情が出てくる。一本調子はいけない。息だけをそのままに指だけをかえる。漢数字は低音、算用数字は高音。云々。
 そして最後にこうあった。
「笛が歌わなきゃ、音を出すだけではいけない。笛が楽しくなければ音楽じゃない」と。師匠はこうも諭してくれた。
「あのねえ。人間、成功したらしたで、みんな運がいいねっ、て言う。『これほどの努力を人は“運”という』の」

 努力なしでは笛は吹けない。

「ガムランをコーラスで」 碧木ニイナ

 ある国際交流団体の招きで当地を訪れた、インドネシア大学の学生たちと共演するために、合唱によるガムラン演奏という面白い体験をしました。
 「ガムラン」とは、インドネシアのバリやジャワ島の伝統芸能に使われる楽器の総称で、それらの楽器によって演奏される音楽も意味します。ビブラフォンや鉄琴、ゴングやチャイムなどには、その音色の美しさから、青銅が一番多く用いられる金属だといいます。それらに、さまざまな大きさの太鼓を加えた音楽を、声で表現しようというのです。
 手渡された楽譜はカナダ人作曲家による手書きのもので、最初のページには次のような英文の注解がありました。
 『…ガムランで使われる音階は、一オクターブを五分割した五音音階。バリやジャワの人たちはこの五音音階を、ドはdong、レはdeng、ファはdung、ソをdang、シをding で表現します。dは打楽器を、ng は体鳴楽器を連想させます。スタッカートで木製楽器の乾いた音を、ng は鼻音を効かせて残響を表現し、dとngの間の母音で音色を変えましょう。ガムラン演奏には素早い、弾むような勢いが求められます。それがコンサート成功へのカギでしょう…』
 二十~六十代の三十名程の団員が、ソプラノ上下、メゾソプラノ、アルト上下と、五つのパートに分かれての練習が始まりました。
 「ガムラン」は、どのパートも全音符で静かにスタート。ですが、すぐに十六分音符までの長短の音符が入り乱れ、速度標語も強弱記号もにぎにぎしく登場、なのに休符がほとんどないのです。そのスピードと相俟って、他のパートを聴くと自分のパートに支障をきたす状況が出現し、なかなか調和が図れません。ともあれ、楽譜に忠実なゴーイング マイ ウェイがベストということになりました。
 団員たちは楽譜にかじりつきつつも指揮者を見やりながら、dong、deng、dung、dang、dingも紛らわしく悩ましく、息つぐ間もなく打楽器を鳴らし続け、青銅の音色に尾を引くような美しい残響を乗せようと心を砕きます。ミスに気づいたメンバーの照れ隠しの小さな笑いが、あちこちで起こりますが、すぐに空気が張りつめます。
 指揮者からは「テンポが速くなっても響きをなくさないように」とか、「何種類かの楽器が競い合うかのように」、「ここで一気に高まって、スッと静めて次の小節に入りましょう」とか、「ここでは遠ざかる音のイメージを膨らませて」などと、ガムラン演奏についての大切なエッセンスを含んだ注意事項がどんどん飛んできます。
 やがて数回の練習後、バラバラで統制のとれていなかった音楽が、作曲家と指揮者の想いを汲み上げるように美しくまとまってきました。私はメンバーたちの音楽性の高さ、豊かさに感心することしきりでした。
 コンサート当日は客席も満員。インドネシアの学生たちは、男女ともにビビッドな原色と金色の大柄プリントのきらびやかな衣装を身につけて、健康的で弾けるような若さの何とまぶしいことでしょう。南の島で育った彼等の歌はおおらかで、歌う喜びや生命への賛歌に満ちあふれていました。私は、自然への畏怖のようなものまで感じ取ることができたのです。
 私たちの装いは、彼等とは対照的な黒いベルベットのノースリーブのロングドレス。そこにスワロフスキーのイヤリングを加えたら、少し華やかさが増したようです。お互いの演奏を舞台の袖で鑑賞したのですが、客席からの大きな拍手の中にブラボーの声が混じっていました。合唱する喜びが五感を満たし、全身に広がりました。
 彼等は私たちのガムラン演奏を褒め称えてくれ、私たちも精一杯の褒め言葉のお返しをしたのです。ほっこりした空気があたりを包み込みました。真っ白な歯と真摯に未来を見つめるように澄んで輝く瞳、人懐こい笑顔が印象的な彼等との一期一会の縁を思います。こうして、音楽を通した草の根の国際交流は、無事終了しました。

「レコード」 牧すすむ

 ファンとはこんなにも有り難いものか、と思わせる出来事があった。それは去年のこと、東北に住む一人の若い男性から電話があり、レコードを捜しているという。
 聞けば彼は演歌が大好きで、中でもあの大川栄策にぞっこんだとか。演歌離れと言われる年代にしてはいささか珍しい。が、まぁ、それはそれとして、話の続きはこうだ。
 筋金入りのファンを自認する彼のこと、当然、大川栄策のレコードは全曲持っているものと信じていた。ところが、ひょんなことから自分の全く知らないもう一枚が存在する事実を耳にしてびっくり仰天、慌ててあちこちのレコード店を尋ね回ったが、ついに見つけることは出来なかった。
 だが、幸いにもその曲は地名入り、つまり、ご当地ソングだったのだ。運が良ければそこで手に入るかもしれない。そう思った彼は早速地図を開いて捜査を開始したのである。
 ところが、調べが進むにつれてまたまたびっくり! 日本には同じ地名のなんと多いことか。この計画はあえなく断念。
 しかし、諦めきれない彼は次の一手を敢行した。直訴である。製造元のビクターレコードに直接電話を掛け、問い合わせたというのだ。果たしてその答えは──。
 「確かにそのレコードは出ていますが、かなり古いものですので捜し出すのは難しいですね」。頼みの綱もここで切れたか、と肩を落としかけた彼の耳に思いがけない言葉が──。
 「作曲者の名前は分かっていますから、直にお聞きになってはいかがですか。ひょっとして譲って頂けるかもしれませんよ」
 正に「九死に一生」、「地獄で仏」。彼はすぐさま教えられた名前から電話番号を調べ、逸る気持ちでのラブコール。それがつまり私への電話だったというわけである。     
 「エェ、その曲なら確かに私が作りました。でも随分昔のことですよ」。実際にかれこれ二十五年以上も前になるため、本人の私ですら忘れかけていた程だ。
 いろいろ話が進む中、「実はもう一曲、大川栄策の歌唱で私のレコードがあるんですが……」と水を向けると、「あぁ、それなら知っています。歌えますよ」と答えるなり、彼は電話をマイク代わりに得意満面な声で歌い始めた。これには私の方がいたく恐縮してしまったのである。
 そんな彼の熱意に打たれ、「捜しておきましょう」と約束した私は、部屋のあちこちを引っ掻き回し、やっと古い段ボール箱の中に数枚あるのを見つけ出した。そして、その旨を彼に告げると、まるで小躍りせんばかりの喜びよう。早速送ってあげたのは言うまでもない。
 程なくして彼からの電話。「お礼をしたいのですが、いくらお支払いしたらいいのでしょうか」というもの。
 「いいえ、差し上げますよ」と、私はその申し入れを丁寧に断り電話を切った。そして数日後、東北発の宅配便で立派なりんごの箱詰めが我が家に届けられ、添えられたメッセージには読み切れないほどに感謝の言葉が溢れていた。ファンとはここまで出来るもの。私は改めて彼等の存在の大きさを実感した。
 また同時に、そんな素晴らしい多くのファンに愛される芸能人達を心底羨ましいと、そう思ったものである。
 ただ、そんな歌手達の手助けとなる歌作りに、ほんのちょっぴりではあるけれど、係わっていられる自分の音楽人生も「これでけっこう幸せなんだな」と、赤く色づいた・・・りんごに皮ごとかぶりつきながら、しみじみと思い入るその日の私であった。

「黒く塗れ!」 光村伸一郎

 音楽雑誌と通販カタログはよく似ている。どちらも読者に金を使わせようとするだけで中身がない。当然のことだ。あいつらの仕事はいい音楽を紹介することでもなければ、才能のあるバンドを世に紹介することでもない。連中の仕事は雑誌を売ることと、新しく出たレコードを売ることだ。そんなことは皆、先刻ご承知のことだろうが。いずれにせよ、あんなものを信じているとひどい目に合う。
 俺はロックンロールが好きだ。だからこそバンドを組んでいる。生活の一部どころか体の一部といっても過言ではない。いつも原子爆弾のような強力なレコードを探しているし、ゴキゲンなバンドを探している。しかし、俺はそれらの情報を得るために音楽雑誌は全く読まない。そんなことをするくらいなら本物のレコード屋に行って勘でレコードを選ぶし、クラブに行く。いい音楽は自分の足で探すものだと思っているし、音楽、ことにロックンロールは生の演奏で楽しむものだと思っているからだ。
 いうまでもなく酒を飲みながらバンドの演奏を聴くのは楽しい。どれだけ高価なステレオのボリュームを上げてもこれには遠くおよばない。レコードではわからないことがわかるし、そのバンドの姿勢や、熱気が伝わってつい、固いブーツで床を踏み鳴らしたくなる時もある。本当に優れたバンドは全く曲を知らない人間の足を動かすことができる。例えどれだけ重たいブーツを履いていたとしても。現に俺は名前すら知らなかった京都のNYLONにさんざんツイストをきめさせられた。そして、さんざんに爆音でレイプされたあげくに頭の中で渦巻いていた倦怠感を取り除かれた。
 むろん、クラブで見るバンドの全てがいいなんてことはない。最近では珍しくなったが、中にはひどいバンドもたくさんいる。一五〇〇円も払ってこんな場所に来たことを後悔することも多々ある。しかし、ごくまれに掃き溜めで金塊を見つけるような出会いになることもある。商才がないために埋もれてしまっているホンモノに出会うことも。音楽雑誌はこういうバンドについては全く相手にしない。そのバンドの名が金にならない限りは。俺はその手のバンドをそらで一ダースは言える。ワーグナー以上に凶暴で、ジョン以上に優しい音楽を奏でる連中を。
 こう言うと「でも所詮、アマチュアのバンドだろ?」とか「日本人がロック?」と思われる方もいるかもしれない。しかし、この考えはまちがいだ。そもそも新しいものはいつもアマチュアから生まれるものだし、「外国のバンドの方が日本のバンドよりも優れている」という考えは過去の遺物でしかない。今では外国のバンドと同等か、それ以上の日本人バンドなんてさほど珍しいことじゃない。退屈なアイドルどもは別にしてだが、バンド、ことに俺の好きなジャンルに関しては声を大にしてそう言える。それはクラブに足を運べばわかるし、現に海外のフリークス達の間でもよくささやかれている。ホンモノ思考のロックンロール・フリークス達の間では。この間、来日した某大御所サイコビリーバンドは前座の日本人バンドに完璧に食われてしまっていた。
 音楽なんて所詮は趣向品のようなものにすぎないのかもしれない。好きなものを好きに聴けばいい。しかし、もし今、あなたがいい音楽を探しているというのなら週末、クラブに足を運んでみてはいかがだろう。自分の足にぴったりと合った新しい靴を一足探す感じで。むろん音楽に世界を変える力なんてありはしないし、それで戦争が終るなんてことは絶対にない。本や絵画といっしょで別になければなくてもいい。しかし、それは酒やクスリと同じで俺やあなたの人生を変えるくらいの力はある。人生なんて所詮その程度のものなのだから。たかが音楽。されど音楽だ。