「スマホ」  牧すすむ

 夜、居間でテレビを見ていると、妻のケイタイが鳴った。「ン? もしかして」。と開いた画面に「やっぱり…」―。
「あのね、あのね」と元気に話しかけてくる顔がテレビ電話に大きく浮かぶ。イギリスの四才になる孫娘のルーシーからだ。ママのケイタイを勝手に(?)使ってかけてくるようで、カメラの位置がちょっとズレているのが愛嬌。
「これ買ったの、かわいいでしょ」と熊のぬいぐるみをカメラにかざして見せてくれる。
「アラ、かわいいわネ―。名前はなんていうの?」。妻がニコニコしながらそれに応えると、そこから長い長い会話が始まる。これがいつものパターンなのだ。(笑)
「ルーシー。今日は学校で何をしたの? おばあちゃんに教えて」。イギリスでは四才から小学校へ上がるので、彼女はピカピカの一年生。ただ、暫くは午前中のみらしい。
「今日はバレーを覚えてきたとかで、スマホの画面狭しと踊りを披露してくれる。「ワーッ、上手だね―!! すごいすごい!!」と二人で褒めると、得意満面の表情で両手を広げてのキメポーズ。
 これで終わり。と思いきや、今度はおままごと。おもちゃのキッチン用品を並べて料理づくり。「おばあちゃんは何を食べたいの? おじいちゃんは?」。「そうねぇ―、おばあちゃんは玉子焼きかな。おじいちゃんはハンバーグだって」。そういうと「ウン、わかった」。と手際よく(?)調理を始める。
 暫くそれらしい仕草をした後、小さなお皿にそれぞれのおもちゃの玉子焼きとハンバーグを乗せてカメラに近づけ、「ハイ、どうぞ」と差し出す。こちらもカメラに手を近づけ受け取ったふりで「ありがとう、いただきま―す。あぁ、おいしい。ルーシーは上手だね―」と持ち上げる。
 嬉しそうに画面の向こうでピョンピョン飛び跳ねて喜ぶ孫の姿についつい目尻が下がってしまう。ただ困るのは、なかなかバイバイしてくれないこと。娘は? といえば、これ幸いと孫を私達にぶつけて家事をしているらしく、殆ど姿を見せない。然もイギリスと日本の時差はかなり大きい。
「おばあちゃん達はもう寝るからね。バイバイしようか?」と水を向けると、「ダメ、ルーシー眠たくない」。こんな会話が何回かあって、やっと子守りから解放される。「あ―、疲れた」。便利な世の中ではあるが、スマホ一つで遠隔操作の子守りをさせられるじいちゃんばあちゃんは大変である。
 因みに八才になるお兄ちゃんのチャーリーは今サッカーに夢中。元気な男の子だ。でも、最近はなかなかスマホの画面に登場してくれない。友達が増えるにつれ日本語での会話が面倒になったらしいと、娘の弁―。
 これが我が家の日常なのだが良いこともある。遠く離れていて会うこともままならない幼い孫達との画面での触れ合いのおかげで写真や声のみの電話では分からない日々の成長をリアルタイムで知ることが出来る。また、家庭の中の様子もー。そして何より嬉しいのは、久しぶりに会う孫に人見知りの気まずさを受けなくても済むということだ。
 次男夫婦は、仕事で更に遠い南米のチリに長年在住している。一才半になる孫とも一年前に会ったきり。十二時間という時差があるためテレビ電話はなかなか出来ないが、それでもケイタイで撮ったビデオメールや写真を頻繁に送ってくれるので有り難い。また、妻もマメに返信しているようだ。
 ただ、長男夫婦だけは近くに居てくれるため家族でよく食事をするし、孫達を連れて買い物にも出掛ける。私と妻は、日々多くのかわいい孫達に囲まれた幸せな生活を満喫している。そして今夜もスマホの画面に向かって楽しげに話しかけている妻を見ながら、こんなにも素晴らしい時代の進化に心からの感謝を思うのである。  (了)

「 困ったナ 」   山の杜伊吹

 自分と関わり合った人には、決して自死の道は選ば
 ないで欲しいと願う。  
 残された者の悲しみは、深い。  
 涙の海に溺れる。  
 けれど、自分は考える、死んだ方が楽になれるので
 はないか、と。  
 先立たれるのは嫌だけど、先に逝きたい。  
 なんとも身勝手な思いだ。  

 鏡に映る自分の顔。  
 シワが3本、6本、と倍々に増えていき、その溝は
 年々深くなっている。  
 まぶたは垂れ下がり、まつげはまぶたの脂肪に埋も
 れている。  
 目の下には、老け顔を強調するクマが、ずっと消え
 ない。  
 髪の毛もそうだ。  
 白髪を1本発見して衝撃を受けたのはついこの前。  
 それが3本に増え、6本になった。  
 次に三面鏡で見るときは、何本に増えているのだろ
 うか。  
 とても直視出来ない。  
 声はしわがれてきて、カラオケで高音が出なくなっ
 た。  
 他人に年齢を聞かれなくなり楽にはなったが、想像
 力を巡らせる相手の様子に申し訳なさを感じる。  
 これが現実だ。
 
 今年は2つの試験に落ちた。  
 それに加えて、別に確定していた就職の道がドタキ
 ャンを喰らい、ブラック企業で使い捨て同然の仕事
 をしている。  
 精神的にも肉体的にも限界に近いが、唇を噛み締め
 て耐えている。  

 実家のコメは不作で、ウチには一粒も回って来な
 い。  
 祖母は少し惚けてきた。  
 古着屋で見つけた200円の服を着ている。  
 クリスマスプレゼントは、買っていない。  
 クリスマスケーキは買えるかな。  
 幸せそうな人を見ると、死合わせそうな人はいじけ
 虫になる。  
 それがますます自分を人生の表舞台の隅っこに追い
 やり、一歩も外出したくなくなる。   
 着ているものが違うよ。  
 1万円のアスタリフトを使えばもう少しましになる
 のかもしれないな。  
 メンテナンスには銭がかかる。
 
 願わくば引きこもって、誰にも会わず過ごしたい。  
 この老いぼれていくいじけた自分を、誰にも見せた
 くない。  
 不幸せは自分の心にあるというけれど……これが不
 惑?
 
 人生はいつも幸せを探す旅の途中さ。  
 好きなお菓子を食べているとき。  
 子どもが100点取ったとき。  
 子どもが逆上がり出来たとき。  
 子どもが料理を美味しいと言ってくれるとき。  
 子どもが、お母さん顔にぽつぽつがあってもきれい
 だよと世辞を言ってくれるとき。  
 懇談で、子どものことを先生から褒められたとき。   
 ディズニーランドとシーに行ったとき。  
 家の床暖房が暖かいと思うとき。
 
 幸せを感じられるときは、きっとたまに少しあ
 る。 (了)   

 

「家族という幸せ」  黒宮涼

 父の六十歳の誕生日を皆でお祝いすることになった。最初はどこかへ泊まりの旅行に行こうという話だったが、行き先が決まらないうちにどこも予約でいっぱいになってしまっていた。色々あったが日帰りで、海の近くにカニを食べに行くことになった。この日帰り旅行には、両親はもちろんのこと、祖母と姉二人の家族。そして私たち夫婦が参加した。

「こんな風に祝ってもらえることはそうない。幸せなことだと思う」
 父の言葉に、確かにそうだと思う。私もこんな日が来ることを想像していなかった。カニを食べながら思う。やっぱり家族っていいなぁ。
 私にとって幸せってなんだろう、とずっと考えていた。結婚する少し前までは自分は幸せになってはいけないと思っていた。けれどそれは違うと姉が教えてくれた。夫が教えてくれた。私は幸せになることを許されたのだとその時は思ったが、それは違う。私自身が幸せになることを恐れてそれを許さなかったのだ。幸せになったら不幸になったときの反動で心が壊れてしまいそうだと思っていたからだ。

「ねぇねぇ。もう一回。もう一回」
 スマートフォンで動画を見せると、姪っ子二人が映像と音楽に合わせて踊り始める。走り回る。
「こら。危ないでしょう」
 母親に怒られながらも走り回る。その姿が面白くて、私は思わず笑ってしまう。いつもこんな調子じゃあ、姉ちゃんも大変だ、と会うたびに思っている気がする。こんなふうに自分がはしゃぎまわっていたことを、姪たちは大人になった時に覚えているのかなと、ふと考える。私たちも昔は親戚と集まって旅行したりしていた。それと同じことを今している。あの頃も楽しかったが、今も楽しい。姪たちの成長を見るたびに顔が綻んでしまう。

 これが一つの幸せなら、もう一つはこの日に家族が全員集まれたことだ。両親が共働きだったためか、子供の頃から寂しさをいつも感じていた私にとって家族と一緒にいることが何よりも幸せなことだった。そんなことにこの旅行から帰るまで気づかなかった。幸せについて考え始めるまでただ何となくな毎日が幸せなのかもしれないと思っていた。それは多分間違ってはいないが、もっとはっきりとした答えが家族だとわかった。

「家族には何でも話せるでしょ。僕はその家族になりたいんだよ」
 まだ交際していた頃、いつだったか、夫が言っていた。この言葉が私の中にずっと残っている。自分の思っていることが伝えられなくて、何も言えなくなって泣き出した私に投げかけてくれた言葉。どうしてあんなに嬉しかったのか。その時は、理由がわからなかった。けれど、きっと家族というものが私の中で一番大きな存在だったからなのだろう。夫は今その一員になっている。  (了)

「いろいろなしあわせ」  眞鍋京子

 この度、「熱砂」の同人から、今回のテーマは「しあわせ」にすると連絡があった。
 平生なにげなく、あの人は幸せだなあとかあの人は苦労しているから不幸だと言ってしまう。また昭和年代に一世を風靡したと言われていた水前寺清子さんの「しあわせは歩いて来ない だから歩いて行くんだよ一日一歩………」
 幸せを求めて歩け歩け、で歩いたものだ。

 津島洋一は京都市の有名高校をトップレベルで卒業後、京都大学の医学部も皆から羨ましがられる良い成績で卒業した。
 専門は循環器であった。最初は先輩の医師の助手になって、一歩一歩会得して行かねばならなかった。簡単だと思われる手術でも麻酔が覚めて患者の笑顔が見えるとほっとする。助手であってもこんなに責任を感じるものかとつくづく思う。最初の患者の執刀は、何時までも忘れられない。
 津島は年を重ねる毎に腕を磨き上げていった。大阪や名古屋での講演会にも呼ばれ名声を博した。忙しい中でも津島の執刀の順番を待つ患者で列をなした。
「この人の命はこの人にしか与えられない。自分の腕で、この人たちの願いを叶えてあげなれば」これが医師に課せられた命題であった。
 津島が医者を選んだのも高度の医学と向き合うプロセスの道のりのみである。幾十人、幾百人の生命を救う事である。自分の命は第二に考えて行くのが自分の命題であると、常々考えていた。

「先生の手術のおかげで、主人は一命を取り戻すことが出来、会社も定年を迎える事が出来ました。一家揃って裕福な年金生活を送らせて貰っております。あの時主人が死出の道を歩み出したら三人の幼い子供を路頭に迷わせていたかもしれません。このように考えますと先生の偉大なお力にお礼の言葉もございません」
 数々のお礼の言葉を受けていた。

 或る朝、いつもの様に洋一は玄関で靴を履こうとしたら、急に唸り声をあげ倒れてしまった。あわてて家族の者が救急車を呼んだ。脳内出血であった。
「津島先生、どうされましたか」
 その時津島はすでに言葉もしどろもどろでよだれをたらしていた。
 主治医が
「津島先生はお気がよろしゅうございますからつい患者さんのお言葉に耳を傾けなさるのですね。僕たち若い者がもう少し先生のご様子を感知していればこんな所まで進まずにすんだのでしょうけどね。医者の不用心とよく言われますが諦めることですね」
 洋一は少しずつ話せる様になったがそれでも医師には戻ることは望めなかった。
 仲間の医師達は
「あのように医学に尽くされた事を思うと、今の先生がお気の毒で仕方がない。早く快復されるのを祈るばかり」とささやきあった。

 しかし洋一は医師仲間のあたたかい言葉かけにそむくように言った。
「僕はこれでしあわせな人生を送れたと思います。他人から見れば、結婚もせず、夜遊びもせず、そんな人生楽しいのかと思っておられるのでしょうが、僕の人生はこれで精一杯だったのです」

 人生いろいろな生き方があるものだ。 (了)

「大切ないま。今は幸せかい」  伊神権太

 〈しあわせ〉って何。し・あ・わ・せ。そして、そのむこうに見えるものは。なんだろう。貧困。差別。病。戦争。テロ…。原発を含む悲惨な事故と大災害。民族間に立ちふさがる人種差別と宗教の壁。これらの難題をくぐり抜けてのし・あ・わ・せ。これを得るには容易なことではない。私たちはその合間を縫うかの如く。まさに紙一重、一触即発のダモクレスの剣にも似たなかで幸せを甘受している。ペットを含めた家族、友だち、書き続けるということ。だから、今を大切に抱きしめていきたい。と。そう願う。
 私は好きな横笛をふきながら。書き続ける。そして社交ダンスを踊り、ときには仲間とカラオケにも興じて。またある時には、お酒をのみながら。ふと思い出したようにそんなことに頭を巡らす。この星(地球)の全乗組員(全人類)にあなたは今、しあわせですか? 幸せの向こうに見えるもの、それは何ですか、と問いたいのである。

 つい先日11月24日付中日新聞朝刊の〈中日春秋〉によれば、寺山修司さんがたまたまトイレの落書で知ったルナアルのことば〈幸福とは幸福をさがすことである〉をあげていたが、全く同感だ。手に入れたいものを手に入れるまでの過程だ、とも言える。では、手に入れてからでは幸せでない、というのか。そうでもない。手に入れたものを大切にし続けることも立派な幸せかと思う。
 その典型例が夫婦一緒の暮らしであり、家族の穏やかな日々だ。次に友人、知人、私の場合だったら、文学や横笛、社交ダンスなど仲間たちとのお付き合い。幸福度でいうなら、家族のそれほど密度は濃くはなくっても、日ごろの互いに思いやっての何げない交流だって、しあわせ感を倍加させてくれる。最近では歳を重ねるにつれ、しあわせ=家族の平穏(平安)、平凡な日々をことあるごとに実感する。

 私の場合、このところ数年前までなら思いもしなかった夫婦そろっての野菜づくりで互いに文句を言いながらも結構楽しく、ふと幸せを感じる。ナスや白菜、キャベツなどを、たとえ少しでも収穫したときには心の中でバンザイと叫ぶ。むろん、若いころの、妻との逃避行にも似た志摩での〈駆け落ち記者生活〉で共に手を携え夢中で暮らした時や、わが子が生まれ入学したり大学入試や資格試験に受かったりしたときの、あの喜びは映画のシーンのように一コマひとコマ忘れられない。ましてや長男の結婚式のときなど、恥ずかしながらとめどなく流れ出る涙に、このままナミダの大海に溺れてしまうのでは、と本気で思ったりした(まだ2人残っている。今度はどうなるのだろう)。
 ほかに両親の金婚式のお祝いを兄弟で力を合わせ能登半島の和倉温泉で行った時など兄と妹夫妻一家も加わって、まるで夢のようなひとときが過ぎていったことをヨオーク覚えている。脳内出血や静脈瘤乖離などで幾度となく倒れた妻が、そのつど病を克服。何時間にも及んだ脳の大手術に耐え、奇跡的に生還してくれた時など、知人の励ましも含めて「これ以上の幸せはない」と思い、これまでを生きてきた。

 最後に三年前、私はピースボートによる地球一周の船旅を経験した。妻やわが子と別れての生活が実に102日間の長きに及んだが、あの時ほど心細く思うと同時に、家族のありがたさを身にしみて感じたことはない。今だから告白する。乗船中、私は常時、すぐにでもわが家に帰りたい衝動にかられていた。幸い、船内では大切な宝のような船友もでき、これはこれで別の幸せを味わったりもした。
 寄港地の先々では、あなたにとっての平和、すなわち幸せとは何ですか、と問いかけてみたが決まって「お母さんに毎日話を聞いてもらえ、友だちとおしゃべりが出来ること」「家族といられること」といった声が返ってきた。なかには「ピース・イズ・ラブ」とこたえてくれた少年も。愛こそ平和で、平和のなかにこそ幸せがある。世界の誰もが、そのように思っているのである。(了)