「あの人は、今」   平子 純

 私は、生まれながらに持つ遺伝子なのだろう。精神的うつからアルコール依存症になり一年程何も出来ない状況になってしまった。
 いい訳はともかく、私が興味を持ったのは連合赤軍あさま山荘事件であさま山荘まで行った加藤三兄弟のことだ。もちろん長兄は、山荘に行くまでにリンチで殺されていたが、山荘に立てこもった五人のうちの二人が未成年の愛知県半田出身で東海学園とゆかりだったのだから、当時の東海学園は大変な騒ぎだったろう。連合赤軍を牛耳っていた永田は刑死し、森は刑務所で自殺した。地獄を見続けながら生きるより、その方が良かっただろう。
 あさま山荘事件は、学生運動に絶望感を与え、それ以後四十年組織だった学生運動は起きていない。学生運動に代わって出現したのがオウムであろう。オウムは科学的知識を生かしサリンを生み出した。ロシアにも入り込んで運用ヘリコプターを買ったり、機関銃の製法を教えてもらったりした。そういう点でははるかに古典的な連合赤軍の手法とはまるで違う。アルフになった今、いくら力をつけようと以前のような動きは出来ないだろうが、恐ろしい組織であった。
 連合赤軍に話をもどそう。実は私の遠縁にもその前身の京浜安保共闘にいたのがいる。青森の弘前医大に行っていて、どういうつながりか関東で活動するようになった。彼の祖先は尾張の御殿医で、やはり東海学園の出身だったと思う。武装闘争をやろうと東京の銃砲店を襲う計画だったが、公安にマークされていたのだろう。彼は見張り役のうちに捕まってしまった。裁判で七年の刑を打たれ、足を洗い最初から勉強し直し、名古屋大学の医学部に入り直し医師となり、結婚もして今に至っている。
 あさま山荘の加藤兄弟はと言うと、次男の加藤倫教君は、実際に銃を持ち撃ち合ったらしい。十七の刑の後、出所し、今はボランティア活動に努力している。三男は、六年程で出所し、やはりボランティアで活動しているのだろう。
 浅間山荘事件を考えてみれば、本当に幼稚な面が見てとれる。まず山岳アジトを点々と移動しなければならなかったこと、いつもヘリコプターで捜索され、それが幹部達のストレスを増し、リンチに走ってしまったこと、風呂にも入らず駅へ行き、臭気で捕まってしまったこと。等々。
 いずれ違った形で革命を考える組織が出来るだろう。連合赤軍やオウムを乗り越え、もっと違った形、多分多国籍なテロ組織だろう。加藤兄弟を書くつもりが、横道へそれてしまった。
 あの人たちは今はどこでと゜うしておいでだろうか。  (完)

「それぞれの今」 牧 すすむ

 今日も帰宅は深夜になった。
 仕事柄帰りが遅くなることの多い私。家の中はもう全てが寝静まっている。ただキッチンだけは灯りをつけておいてくれるので、部屋に入ると一気に体中の緊張が解れていくのが分かる。
 ガラス戸一枚で隣合せの応接間の電気をつけ、ついでにテレビのスイッチを入れる。見たい番組があるわけでもないが、物音一つしない無の空間からの逃避なのだろう。現代人の切ない性である。
 上着を脱ぐと私の足は再びキッチンへ―。冷蔵庫から缶ビールを取り出し、又応接間へ戻る。ソファ―に深く腰を沈めながらゆっくりと缶のフタを開けにかかる。

 〝シュワッ〟と心地のいい音がして、白い小さな泡の流れが勢いよく指先を濡らす。冷え過ぎ程の冷たさを喉の奥に感じながらテレビの画面に目をやると、聞き覚えのある歌声と共に懐かしい顔がそこにあった。
 思わず身を乗り出し一緒に口づさんでいる私。古い映像は瞬時に青春の昔へと運んでくれた。
 ビールを飲み干しふと気が付くと、いつの間に来たのか愛犬のベベ(ヨークシャテリア)が足元に寝そべって〝テレビの音で眠りを邪魔された〟と言わんばかりの不機嫌な顔で私を見上げていた。頭を撫でてやると気持ちが落ち着いたのか、暫くして小さな寝息を立て眠ってしまった。私は再びテレビの世界へと心を移したのである。

 そういえば最近はナツメロブームなのか。こんな番組が多いように思う。しかもゴールデンタイムでの二時間スペシャルだ。
 今も変わらず若々しく声の衰えも感じさせない人もいれば、聞くに堪えない程に変わり果てた往年のスター達も少なくない。
 人の老いは仕方のないことなのだが、やはりスターやアイドルはいつまでも我々の夢であり続けてほしいと思う。ゲストとしてトークで出演するのはいいとしても、歌は昔の映像が好ましい。そんなことを思うのはたぶん私だけではないだろう。

 歌番組だけでなくタレントの世界もまた同じである。タイトルもそのもの〝ズバリ〟で、「あの人は今‼」。レポーターがマイクを向けるその先には、昔一世を風靡した人達の姿がある。〝さすが‼〟と思わせる大物もいれば、〝エッ〟と驚く程に身を落としたタレント達も数多い。
 しかし皆一様に返す笑顔が明るくてホッとするのである。
 画面はグループサウンズに変っていた。メンバーの誰かが弾くギターの音が燃えるような若さで心の中に沁みこんで来る。ビールの酔いも手伝ってか、私は気持ちを抑えきれずにギターを手にしていた。久しぶりの感触である。
 友達とバンドを組み、ギター三昧の日々を送ったあの頃。青春の思い出は懐しく甘く、そして少しだけ切ない―。
 大正琴の指導と演奏が生業になってからはなかなかギターを持つ時間も取れず、相棒にはケースの中で寂しい思いをさせてしまっている。ぎこちない指の運びでも、弦を弾けばそれなりにメロディーを唄ってくれる優しい相棒なのだ。「ごめんな」と心で呟く。
 あれから随分と長い月日が経ち、メンバーの消息さえも途切れ途切れとなって久しい。私の青春と共にあった彼等―。

 あの人は今、いや、あの人達は今どこでどうしているのだろう。年を重ねたせいか、ふと思いを巡らせるこの頃である。  (了)

「ささくれ指」  山の杜伊吹

 
 指にささくれができている。できている、ではなく自分でつくったといった方が良い。右手の人差し指と中指の、爪と皮膚の間がめくれ、その皮の一筋をつまんで引っぱると、どんどん深くえぐれ、やがて出血し小さな傷になる。洗髪するとき上下の手の動きに合わせて、傷とめくれかけた皮膚も動くので、痛んで不愉快だ。
「親不幸な事をするから、ささくれができるのよ」
 幼少の頃、そのささくれを見て母が言った。夕方5時。ユミは仕事に行く為に、いつもより念入りに化粧をする。ささくれのある指で口紅を塗り、子どもの為にふりかけごはんで作ったおにぎりをテーブルの上に残し、火の元を確認して家を出た。子どもたちはテレビに夢中だ。
「だからなんなのよ」
 クルマのエンジンをかけた時に独りつぶやく。携帯が鳴った。小学校からだと分かり、出るのをやめて走り出す。先日も授業参観で、息子が一人しゃべり続け、そわそわし、教室を飛び出しどこかへ走って行ってしまった。自然や虫が好きで、学校が窮屈なのだ。昔ならどこにでもいた野生児。どうして、病院にまで連れて行く必要があるというのだ。
 前を走る赤いクルマに見覚えがあった。独身時代、サウナで知り合ったA子。昼は建築会社で正社員として働き、夜は居酒屋でバイト。本命は遠距離恋愛の彼氏だったが、バイト先では年下の仲間二人と関係を持っていた。ある日高速道路を逆走してクルマが大破、借金を抱え込みバイト先の店長に大金を借りた。
 誰かの子を身籠り、一番優しかった年下の一人と結婚し、男の子二人の母になってた。目に浮かぶのは大きな乳房。ユミに気づかず右折して行く。
 歓楽街への道は、会社帰りの家路を急ぐクルマの進む方向とは逆である。視野の端にN子の家があった。ボロボロのトタン屋根の小さな一階建ての家は、建て替えられずそのまま。中学の同級生で、背が170以上あり、顔が大きく頭も悪く、垢抜けしなかったN子。ユミは心の底で馬鹿にしていた。
 そんなN子が中学卒業後20年ぶりの同窓会に来たと思ったら、すっかり明るくなっていた。高校卒業後スナックで働いていたのは知っていたが、目を二重に整形して、大会社勤めのサラリーマンをつかまえ、「三食昼寝付き」の生活を送っているという。
 交差点の赤信号で停まると、貴金属買い取り店の看板が目に入った。中に男性店員が一人で座っているのが見える。独身時代の指輪やアクセサリーはもうとっくに売った。売るモノがなくなった今、逆に奪ってやるのはどうか。買い取り用にそこそこの現金が用意されているはずだ。店の前にクルマを横付けし、中に押し入る。店員は男とはいえカウンター越しに一人。モデルガンでも突きつけて「金を全部出せ!」とすごんだら、たとえこちらが女だろうが、金を出すのではないか。その後店員は慌てて警察に通報するはずだ。逃げおおせるか。
 ユミはノドが乾いていることに我慢がならなくなった。コンビニがいくつもあるが缶ジュース一本も買えない。我慢してしばらく走ると、先日大事故があった中央分離帯に差し掛かった。若者二人が無謀運転でバイク事故を起こし、亡くなった場所。その仲間だろう、10人くらいが現場に集まり花、酒、飲み物などを供えていた。帰りに奪って飲んでやろう。どうせ死人はあのジュースを飲む事はできないのだ。
 子どもだけを残して夜、家を出る。いまからネオンが似合う女になるのだ。ジェットコースターのように堕ちてくそのスリルと享楽を楽しむがいい。真っ暗闇の底に、口を下劣に開けたサタンが待っている。痛いと分かっているのにめくってしまう指のささくれ、その神経と直結した傷の鋭い痛みが、ユミを正気に唯一戻す。小さなささくれは深くえぐれ、治る前に自ら新しい傷をこの手でつくって生きていく。 (了)

「佳奈」の夢  眞鍋京子

 美しい山並みの比良連峰の雪も解け始め、町は春の様子に変わって来た。
 町の百貨店には何段もの赤い毛氈に雛壇が飾られている。お内裏様を始め、三人官女、五人囃子が並べられている。どのお雛様の顔を見てもつるりとして白い顔をしていて見事である。
 最近の住宅は、一軒家といっても大きなお雛様を飾る余裕のある間取りは少ない。
 佳奈は、たまに母に連れられて百貨店に出かけるとウィンドに吸い付けられるように窓ガラスに頬をすり寄せて見入っていた。「お母さん、あんな立派な雛人形は何時になったら私の家に入ってくるの?」「佳奈ちゃんには幼稚園にあがった時にお内裏様とお雛様を上げたでしょう。これから、学年が上がる度にお雛様の壇も増えて行くでしょう。」佳奈は学年が上がる毎に雛壇が増えていくのが楽しみで仕方なかった。五人囃子を見ていると笛を持ち出して踊り出しそうであった。
 佳奈は中学生からバレーボール部に入部した。夕方遅くまで練習し、夜は床に入ったらすぐ寝入ってしまうたちであった。それがある夜とても不思議な夢を見、今でも鮮明に頭に画き出されてくる。その夢は佳奈のおばあさんの夢であった。おばあさんは「トメ」といって佳奈をとても可愛がってくれた。
 夢の幕が開くと、そこは大広間、中央に赤い毛氈を敷き、金屏風をバックにお内裏様、左右には雪洞(ぼんぼり)がほのかな明かりを照らしている。「佳奈、久しぶりやなあ。中学生になって大きゅうなったなあ。もっとこっちへ寄っといで」トメの姿が消えたと思ったら雛壇にはそれぞれの衣装をつけた笛、太鼓を持った五人囃子が現れる。遠くから静かに雛祭の童謡のバックミュージックが聞こえてくる。
 トメさんは、その時代の有名な米問屋のおかみさんだった。お金が貯まるにつれて、あちこちの雛人形を集め出した。問屋に行っては、蔵の奥から顔形のいい人形を探し出した。人形だけでは飽き足らずに、江戸時代から家宝として使われていた雛人形の箪笥、長持、中でも楯鏡は周り全体が黒塗りで光線の加減で地の黒色がぴかぴか光って見えるのが何とも美しかった。この鏡は値がつけられない程高価なものだと町でも評判だった。トメさんの居る日しか見せてもらえなかった。
 トメさんの針仕事は、年を重ねる毎に針の運びが遅くなってきたが「私からお針の手を抜いたらもうおしまいや。仏様から授かった指は大事に扱わないと罰あたりですものね」トメさんは薬指や人指し指をこまめにもんだ。
 夢はほんとうに不思議なものだ。どの脳細胞から現れてくるのだろうか。佳奈の夢は不意に現れた。もう一度おばあさんに会いたい。佳奈が夢を見て涙を流している。母親が「どうしたの、どうしたの」と慰める光景はいじらしい。佳奈のように再び見られない夢もある。脳神経はどうなっているのだろうか。何れ全貌が解明される日が来るだろう。この日が早くやって来るのを待ちたい。でも、何もかも早くやって来たらおしまいだろうか。
 夢は夢で少しは残しておいた方が、楽しみや、潤いがあることも知っていた方が深みのある人生が送れるのではないかと、夜の夢を見つつ考えあぐむのである。  (了) 

「会いたい人々」  伊神権太

 あの人、と聞けばやはり「会いたい人」を連想してしまう。その会いたい人となると、わが人生街道ではたくさんいる。その中でも、皮肉なものでやはり既にこの世の人ではない〝あのひと〟に会いたい。亡き人を〝あのひと〟の対象としていいものかどうか。少しためらいはするが、忘れられない故人の〝あのひと〟から話を進めてゆきたい。
 会いたい人の最右翼はやはり、生涯やんちゃばかりを言い反発し通しだった私の父が思い出される。父は生前、私のことを真剣な顔で見つめ「たかのぶ、おまえほど頭のいい子はいない。良すぎるから考えなくてもいいことまで先回りして考えてしまう。おまえは、そこが欠点だ」とよく言ったものだ。私は、あのときの言葉を忘れることが出来ず、良きにつけ悪しきにつけ、その言葉をかみしめるように、これまで生きてきた。
 次に会いたいのは、温和そのもので小学生の頃の私をことのほか、かわいがってくれた母の父、すなわち〝おじいちゃん〟である。その祖父が私に会うたびに私に投げかけた言葉は「この子は、本当にやさしい」だった。そう言えば、私は祖父が顔を見せるとは、肩たたきをしたり、ナンダカンダと兄妹のなかでも一番まとわりついていたことだけは確かだ。自転車荷台に乗せられ町中のお菓子屋さんまで行き、一緒にボタモチなどをよく食べさせられたものだ。
 そして小、中、高、大学時代、社会に入ってからも私の魂を揺さぶってくれた多くの〝あのひと〟たちが目の前に浮かび上がってくる。こちらも、今は亡き人たちの印象の方がインパクトが強い。なかでも新聞記者時代に取材がきっかけでよくして頂いた方々となると忘れよ、と言われても忘れるわけにいかない。
 上高地の大将と呼ばれ北アルプス木村小屋を基地に遭難者の救出に生涯、情熱を注いだ北ア遭難救助隊長だったヒゲの木村殖(しげる)さん、真珠王御木本幸吉の懐刀でもあり三重県志摩半島の和具漁協組合長で密漁の摘発に厳しい目を光らせていた松田音吉さん、岐阜県根尾村に立つ樹齢千五百年の淡墨桜の再生に命をかけた小説家宇野千代さん、サンズイ(汚職事件)の摘発に力を注いだ良き日々のデカたち、社会福祉の道ひと筋の人生を歩み先年亡くなった小牧の勝野義久さん、和倉温泉隆盛の礎を築いた大井昭平元和倉温泉観光協会長、能登七尾に腰を据え北陸中日新聞の女傑販売店主として知られた笹谷輝子さん等など。
 今となっては声さえ聴けない〝あのひと〟たちには、お世話になり通しだった。いまごろは、どこにおいでか。深い哀悼を捧げたい。そして。今現在会いたい、会いたくてしかたない「あの人」となると、やはり限られてくる。Aさん、Bさん、Cさん、Dさん…。男も女も、仕事であれ、私生活であれ、飲み仲間、趣味の同人であれ、いっときは、それこそ、いつも離れがたかった大切な人たちばかりだが、転任や結婚、移転、母親の介護など、ふとしたことがきっかけで互いに離れ離れになった。私はそうした方々のおかげで「今の自分」があるのだ、とつくづく思っている。
 なかでも能登半島在任中に随分とお世話になった当時のミス和倉温泉の場合。彼女が嫁ぐ日の前夜、私たちはその町のスナック「アダム&イヴ」で待ち合わせ、五十年後の〝今月今夜〟に、もし互いに生きていたなら、この七尾港の矢田新波止場で会おう、とまで約束した、あの日のことは永遠に忘れられない。あの時、私が四十三、四だったので九十歳を過ぎるまでは元気で生きていなければ、と思っている。
 わが人生。こうした辛い別れの繰り返しで、そのつど、あの人は私の元から去っていった。あの人たちがいて僕がいた―と痛切に感じる、きょうこのごろではある。  (了)