連載小説「あの箱庭へ捧ぐ」第五章

第五話 過ぎ去りし刻

   1

 それは、小さなまるいほう石みたいにキラキラしていた。
 おとうさんとおかあさん。それからおにいちゃん。
 キラキラしたおもい出が、琴乃のたからものだった。
 おとうさんはまい日、おしごとへいく。ちょっとさみしいけれど、琴乃たちのためにまい日がんばっているんだよ。とおかあさんがいっていた。だから琴乃はまい日おとうさんをおうえんすることにした。
 おかあさんはまい日お花に水をやったりおせんたくをしたり、おそうじをしたり。琴乃たちのためにごはんを作ってくれる。琴乃はおかあさんもはたらきものだとおもうから、おかあさんのこともおうえんするね。っていったら、とてもうれしそうにわらってた。
 おにいちゃんはまい日、学校へいっておべんきょうをしている。かえってくると琴乃にたくさんおはなしをきかせてくれるの。琴乃も早く学校へいきたい。琴乃が学校へいけるのは、らい年のはるなんだって。そんなにまてないよ。
 琴乃はようちえんで自分の名まえをいっぱいれんしゅうしたの。かん字もすこしだけべんきょうしたんだよ。だから早くいきたいな。たのしみ。
 おかあさんがキッチンでお夕はんを作ってる。
 おにいちゃんは、テーブルでうんうんいいながら、しゅくだいをしている。
 琴乃は、それをニコニコしながらみている。
 おとうさんがかえってきた。
 おにいちゃんと琴乃は、おとうさんをおでむかえするの。
 それから、みんなでお夕はんをたべて、あったかいおふろにはいるの。
 それからそれから。みんなでいっしょに寝るんだよ。
 おとうさんとおかあさん。それからおにいちゃん。
 おやすみなさい。またあしたもたからものの一日になるといいな。

    *
 
 うみほたる学園に来てからというもの。小池燐音は不思議な夢をみることが多くなった。それは決して悪夢というわけではないのだが、目を覚ますたびに、何故だか哀しい気持ちになる。その夢を燐音は嫌だと思ったことは一度もなかったが、焦燥感に駆られることだけが、気がかりだった。
 幸せな家族の夢であるはずなのに、どうしてこんなにも泣きたくなるのだろう。どうしてこんなにも助けたいと願うのだろうと、燐音は胸が苦しくなる思いをしていた。
 しかし、自分にはどうすることもできないのだと理解している。このことを他の誰かに相談することもできないでいる。
 気がかりなことが、もうひとつある。
 川崎竜太郎の事だ。
 燐音は彼に会ったあの日。二つの点で驚いた。一つは、彼が家に来ること。これは、燐音の両親も知らなかったらしく、心をよむ能力を使っていても知りえる情報ではなかった。そして二つ目は、燐音が川崎のことを知っていたこと。
 六年前の話だ。燐音は当時小学三年生だった。友人と呼べるクラスメイトが一人しかいなく、その子と別々の学級になってしまった春の終わり。燐音は川崎と出会った。
 燐音はクラスに馴染めない生徒だった。ある日、授業に変更があったらしく、教室の場所がわからくなってしまい困ったことがあった。普段は遅刻もしない真面目な生徒だったのに、誰かに聞く勇気もなかった燐音は、生まれて初めて授業をさぼった。
 酷く情けない気持ちになりながら、同時に初めての体験に緊張していた。本来ならば授業の時間だが、燐音は学校内を彷徨うように廊下を歩いていた。
 こんなときに誰かに会ってしまったらと思うと、心臓が痛くなる。どんな言い訳をしたらいいかもわからない。頭の中が真っ白だった。どこへ行こうかと迷ったが、足は自然と大好きな音楽室に向かっていた。
 誰もいないことを祈りながら、扉の空いていた教室に恐るおそる足を踏み入れた。音のしない音楽室。そこには、誰もいなかった。
 燐音は少し安心して、教室の中を意味もなく歩いた。教室の隅にあるピアノは、蓋が閉まっていた。それを開けて鍵盤を触ることは出来なかったが、椅子に座って空中で指を動かして、ピアノを弾く真似をした。
 それから音楽準備室の扉も開いていたので、中を覗いてみる。楽器がたくさん置いてあった。それらを鳴らすことはしなかったが、あまりみる機会のないバイオリンなど、オーケストラで使うような楽器が置いてあり気分が高揚した。
 だから、部屋の奥である人物をみつけたときは心臓が一気に跳ね上がって、口から飛び出してしまいそうになった。
「ひっ」という息を吸う音が口から漏れたので、慌てて右手で唇を押さえた。音楽準備室の奥の棚に寄りかかるようにして、その子は体育座りをしていた。相手もすぐに燐音の姿に気づいて、一瞬だけ目を見開いてから慌てたように顔を膝に埋めた。彼は逃げることもせず、ただ子犬のように怯えていた。
 それが、川崎竜太郎と小池燐音の初めての出会いだった。
 燐音はこの場から立ち去ろうとも思ったが、自分もどこへ行けばよいのかわからなかった。しばらく動けずに、口を押えたまま放心していた。
 そんな状況で、「あの」と、先に声を発したのは意外にも目の前の少年だった。
「ごめんなさい。ここに居させてください」
 その声はとても小さく、けれど明瞭に聴こえた。もちろん燐音には、断る理由などなかった。だから「はい」と少年と同じく小さな声で答えた。
 どうしようかと思ったが、燐音はその場に彼と同じ姿勢で座った。そしてすぐに後悔した。彼と向かい合わせに座ってしまったことに。
 頭の中は白紙だった。何もわからなかった。ただ一つわかることがあるとすれば、目の前の彼も、燐音と同じ状況だということ。
 それから授業が終了するチャイムが鳴るまでの間。燐音とその見知らぬ少年は、何も会話をすることなく、二人とも無言で膝を抱えて座っているという不思議な時間を過ごした。
 その日の燐音はずっと緊張していて、チャイムが鳴って教室へ戻った後もそれは解けなかった。燐音のほうが先に準備室を出たのだが、去り際に彼が顔を上げて「ありがとう」と言った姿が目に焼き付いていて離れなかった。
 それからずっとだ。名前も知らない彼を、音楽準備室の奥で怯えていた彼を、燐音はずっと忘れなかった。覚えていた。あの日の記憶を、忘れられるはずがなかったのだ。

   *

 次に会ったのは、全校生徒が参加するイベントで、偶然にも同じ班になったときだった。話しかける勇気はなかったが、燐音はそこで彼について色々なことを知った。
 名前が川崎竜太郎だということ。燐音と同じ学年で、違うクラスだということ。普段からあまり話すほうではないこと。
 イベントは一年間を通して数回に渡って行われた。クイズや謎とき。班で協力することが多かったため、言葉を交わすことはたまにあった。慣れるまでは大変だったが、楽しかったことを覚えている。
 一年はあっという間に過ぎ、班で集まることもなくなってしまったので、小学四年生の頃には川崎との接点はなくなってしまったが、たまに姿をみかけることはあった。しかしいつしかそれもなくなり、転校してしまったのだろうかと思っていた。
 そして、六年ぶりに燐音は川崎と思わぬ形で再会したのだ。
 川崎は、燐音の事をみても驚く様子がなかった。それですぐに彼が自分の事を覚えていないことに気づいた。
 燐音にとってあの一年間の記憶はとても大切なものだったのに、川崎にとってはそうではなかったということがわかってしまった。それがただひたすらに、哀しかった。

   2

 米田恵理子からの呼び出しに、川崎竜太郎は頭をかしげながら応じた。幻覚売買事件から一日後の事だった。
 プレハブ小屋には、米田と竜太郎と本間宗太。それから、この場所に初めて来たであろう寺沢椎也がいた。寺沢は部屋の中を品定めでもするかのようにじろじろとみていた。
「ここはいい場所ですね。秘密の話をするのにもってこいだ」
 寺沢はそう言いながら、満足したかのようにソファに座った。竜太郎と宗太が一つのソファに座り、その対面のソファに米田と寺沢が座っていた。
「それで、今日は何の話ですか。昨日の件は、終わりましたよね」
 竜太郎は真面目な表情で、米田と寺沢に向かって問う。
「話があるのは、俺じゃなくて。米田先生ですよ」
 寺沢はそう言って、にこりと笑う。
「ええ。この場にいる全員は知っている問題で、彼にはそれを解決するために協力してもらおうと思って来てもらったの」
「問題って。何の」
 尋ねると、米田は真っすぐに竜太郎のほうをみた。
「あなたの、失くした記憶の問題よ」
 米田の言葉に、竜太郎は目を丸くした。彼女の口からその話を聞くのは、もうここ何年もなかったせいか、驚いた。そして気になるのは、この場にいる全員と言ったこと。
「寺沢さんに、話したんですね」
 確認すると、米田は黙って頷いた。
 どうしてそんな勝手なことを。と、怒る間もなく寺沢が口を開いた。
「俺の能力が、他人に幻覚をみせることが出来るのは知っていますよね。そしてその幻覚は、能力の対象者が、みたことのある人物や物しか出てこない」
 竜太郎は目を丸くする。しかし、予想できたことだ。
「つまり、僕の記憶を元に幻覚がつくられていたわけですか」
 冷静に言うと、寺沢が頷いた。
「そういうことです。なので、それを伝えに来ました。米田先生から君の事情を聞いたので。君が何の幻覚をみたのかは知らないですが、君がそう思うならそうです」
 寺沢の言葉に続けるようにして、米田が言う。
「竜太郎。あなたは一体どんな幻覚をみて、どこまで思い出しているの。私はあなたの記憶を戻すきっかけをつくりたいの」
 竜太郎は返答に困ったが、彼女の気持ちを無下にすることも出来なかった。
 米田は五年前。竜太郎に手を差し伸べてくれた人間の一人だ。それからずっと竜太郎のことを見守ってくれた人だからこそ、恩を感じている。彼女の気持ちは嬉しい。けれどそれを、記憶の事を口にすることが、竜太郎には難しいことだった。

   *

 プレハブ小屋の空気は、張り詰めていた。
 竜太郎は、落ち着くために一度深呼吸をする。隣に座っている宗太をみると、不機嫌そうにその綺麗な顔を歪めていた。
「ちょっと、勝手なんじゃないですか」
 長考していると、唐突に宗太が言った。黙ってみていることが出来なかったらしい。
「勝手?」
 気に障ったのか、米田が眉をひそめる。
「だってそうじゃないですか。竜太郎が記憶をとり戻したいって思っているとは限りませんよ」
 宗太の言葉に、竜太郎は自分の頭の中を見透かされた気がした。確かに彼の言うとおりだった。自分の記憶については、戻っても戻らなくても、どちらでもいいと思っていたからだ。
「むしろ、とり戻したくないと思っている可能性もある。って、俺も米田先生に助言しましたけれどね」
 宗太と寺沢の言い分に、米田は急に不安になったのか顔をしかめながら竜太郎のほうをみる。竜太郎は黙ったまま、彼女のことをみつめた。
「そうなの。竜太郎」
 米田が尋ねてくる。
「一言でこの感情を表してしまえば怖い、です。僕がみた幻覚は、とても幸せそうな家族の記憶でしたが、どこか他人事のようにも感じています。それは幻覚だからでしょうか。寺沢さん。改ざんされた記憶だから?」
 竜太郎は米田から目を逸らし、寺沢のほうをみる。疑問はたくさんあった。だがそのどれもが雲のようにつかみどころがなかった。これは本当に自分の記憶なのか定かではなかったのだ。
「あくまでも、記憶を元につくられている幻覚。夢。その人の願望が脳裏に映像として現れている。という説明をすれば、理解できますか。だから君の言う改ざんされた記憶というのも、あながち間違っていないんです。それが幸せな記憶であればあるほど、現実は幸せではないかもしれない」
 残酷な話だと思った。だがそれと同時に寺沢の説明に納得してしまっていた。
 竜太郎は、米田から聞いた話を思い出してみる。幻覚をみた生徒たちのおかしな行動。ぼーっとしたり、突然叫びだしたり。自分が一番欲しかったものや、幸せだった頃の記憶をみて、現実に戻って絶望する。それはそんな行動をとりたくもなってしまうのも当たり前なのかもしれないと思う。
「なるほど。だから我に返った時、みんなおかしな行動を取っていたんですね。副作用みたいな感じで。もう味わえないはずの幸せな記憶だったから」
「まあ。だから人によって副作用が出る出ないがあるんでしょう。元々記憶のなかった君が、出なかったように」
 思い返してみれば、竜太郎は幻覚をみたはずなのに、ちっともおかしくなどならなかった。竜太郎には元々覚えている記憶がなかったから当たり前の話だったのかもしれない。
「米田さん。僕は、記憶を思い出さなくてはいけないんですか」
 竜太郎は米田に尋ねる。真っすぐに彼女の目をみながら。
「少なくとも私は、そう思っているわ。あなたがこの学園に来てから。この五年間ずっと」
 米田は何かを決意したかのような眼差しで、竜太郎の事をみていた。
「あなたは何かを知っていて、そう思っているんですよね」
 竜太郎は米田にそう尋ねた。
 ずっと疑問だった。米田がここまで竜太郎の記憶にこだわる理由。きっとそこには、何かがあるのだろう。
「それは――」
「良いんです。わかっていますから。あなたにも守秘義務があること。僕に言えない、僕の記憶の事。だから、僕が自ら思い出すまで何もできない。そうですよね」
 米田が何かを言おうとしたのはわかっていたが、竜太郎はそれを遮った。
 この五年間。ずっと傍で見守ってくれていた彼女。米田が辛い立場だということは、十分理解しているつもりだ。その点で言うと、理事長のほうがもっと辛いとは思う。
 すべては、竜太郎が記憶を失ってしまったせい。その理由さえ、竜太郎は知らない。
「そうね。正直に話すわ。さっきも言ったとおり、私はあなたの記憶が戻るきっかけをつくりたかった。だから寺沢くんの能力は都合がよかったのよね。あなたたちに依頼すれば、寺沢くんの能力と接点がつくれる。生徒たちにこれ以上広まらないようにっていうのも本心だったけれど、本当の目的はこっちだったの」
 記憶の件を聞いてから、そうじゃないかとは思っていた。疑問が一つ解消された。竜太郎は米田に向かって尋ねる。
「寺沢さんの存在を、最初から知っていましたか」
「知っていたけれど、確証はなかった。能力者のリストをみて寺沢くんの能力のことは知っていた。けれど、幻覚を売っているのが、彼だという決定的な証拠はなかったの。だからあなたたちに依頼した。犯人をみつけてほしいと」
「随分、回りくどいですね」
 米田の回答に、竜太郎の腹は立たなかった。ただ他にやり方はなかったのかと思った。
「そうするしかなかったのよ。竜太郎。あなたのみた幻覚に出てきた家族は、どんな人達だった?」
 米田の質問に、嘘を吐く必要はない。竜太郎は出来るだけ詳細に答える。
「大人の男性と女性。それから小さな女の子がいました。僕はその人達が誰だか、すぐにわかりました。僕の両親と妹です。僕たちは一緒に海にいました。とても楽しそうでした」
 語り終えると、米田は優しい表情で、竜太郎に質問を投げかけてきた。
「もし家族に会えるとしたら。どうする?」
「それが可能ならば彼らに会って、忘れてしまったことを謝りたいです」
「その答えが聞けただけで十分よ」
 そう言って米田がソファから立ち上がる。竜太郎は思わずその動きを目で追う。
「あなたの妹に、会わせてあげる」
 その場にいた誰もが、予想できない一言だったと思う。

   3

 小池燐音は普段からあまり一人で行動することがない。何かをするときは決まって斉藤寧々と一緒であった。ただその日はなんだか胸騒ぎがして、昼御飯の後、用事があると告げ寧々と別れて、ひとりプレハブ小屋へ向かった。
 小屋の中には来客用の立派なソファが置いてある。けれどその人物は、窓際の床の上で膝を二つに折って座っていた。
 何かがあったのは、尋ねなくてもわかった。心が悲鳴を上げていたから。燐音は、能力で彼の心がわかってしまう。
 燐音が部屋に入ると、川崎竜太郎が驚いた表情でこちらをみた。
 川崎の目の前まで行くと、「座っていい?」と彼に尋ねる。彼は無言で頷いた。燐音は川崎から数歩離れた場所に、彼と同じように両手で膝を抱えて座る。スカートではなかったので、裾を抑える必要はなかった。
 いつかと同じように、燐音と川崎は対面で座っていた。けれどそのことを覚えているのは、自分だけなのだろうなと燐音は思う。なんだか緊張して、燐音は川崎の顔から視線をはずす。
「そこに座るんだ」
 川崎が戸惑ったように言う。
「うん」と燐音は頷いた。じっと自分の膝小僧をみつめた。
 川崎がこの状況に既視感を覚えてくれていたらと、願わずにはいられなかった。
「小池。ここの生活にはもう慣れた?」
 川崎が、唐突に質問を投げかけてきた。
「うん。二か月近く経つし」
 燐音は頷きながら言った。
「そうか。僕はここに来て五年経つんだ。時々ここの外の世界がどんなふうなのか、気になって、後から来た人に色々聞きたくなるんだ」
「え?」
 それはまるで、ここの世界しか知らないみたいな言い方だった。燐音は思わず川崎の顔をみる。彼から、嘘は感じられなかった。
「僕には、学園に来る前の記憶がないんだ」
 燐音の疑問に答えるように、川崎が衝撃の事実を告白する。
「さっき五年前からここにいるって言っていたけれど、それ以前の記憶ってこと? そんな」
 そんなの、あんまりだ。そんな言葉を呑み込んだ。口には出せずに、俯く。泣いてしまいそうになって、燐音は膝に顔をうずめる。自分が今どんな顔をしているのか、川崎にみられたくなかった。彼がどんな顔をしているのかも、みたくなかった。
 声が震えてしまっていなかったか、心配になった。彼に悟られてはいけないと思った。負担をかけてしまうから。
「別にそれが辛いとか、苦しいとか思ったことはないけれど。だからこそ誰かの過去を大事にしたいって思ったんだ。過去視の能力は、そういう気持ちから生まれたものだから。でも僕は今、自分の過去を知ることが怖いって思っている」
 川崎の吐露に、燐音は今にも壊れそうな桟橋の真ん中に立っている気分になった。少しでも足を踏み出せば、川崎も一緒に落ちてしまいそうだ。
「こんな話してごめん。記憶がなくてごめん」
 川崎は優しい口調で燐音にそう告げると、それ以上は何も言わなかった。気づいているのかいないのか。本当は何度も自分の事を覚えていないか聞きたいと思っていた。でもそれは出来なかった。する勇気が持てなかった。六年前の思い出を、覚えていないとはっきりと言われてしまったら、自分の中で積み上げていた大切なものが崩れてしまいそうだったから。
「謝る、必要はないと思う」
 燐音の口から、震えた声が出た。隠すことが出来なかった。
「それでも。君には謝らなくてはいけない気がしたから」
 哀しいとか淋しいとか色々な感情がぐちゃぐちゃになって、燐音の瞳から溢れていった。涙が重力に逆らえずに、ジーンズの上に一粒一粒落ちていく。
「教えてくれて、ありがとう」
 燐音は精一杯の勇気を出して、顔を隠したまま一言だけ小さな声で呟いた。
 これ以上は何も望んではいけないような気がした。燐音の過去の記憶を、川崎の能力で視ることは可能だろうけれど、それを提案するのは気が引けた。自分の過去を知ることが怖いと嘆く川崎には、何も言えなかったのだ。

   *

 それから川崎は、燐音に昨日視た幻覚の話をしてくれた。記憶の一部がそれに反映されていることも教えてくれた。それによると川崎には妹がいるらしい。彼女の名前は、川崎琴乃。彼女が六歳の時から、学園の中心部にある本部の地下室で眠っていることを、川崎は今日、米田恵理子から聞かされたという。
「詳しくは教えてくれなかったけれど、川崎琴乃に会わせてくれると米田先生は約束してくれた。けれど気持ちの整理がつかなくて、僕は時間が欲しいと答えた。それからずっとここにいる。ひとりで考えたかったんだ」
 燐音は川崎の話を聞いている間に、涙を拭いて頭を上げていた。彼の視線は少しだけ下を向いていて、目があうことはなかった。
 もしかしたら自分は、ここへ来てはいけなかったのかもしれないと燐音は思った。立ち上がろうとしたけれど川崎が続けて、「けれどダメだね。ひとりでいると悪い方向にしか考えられない。君が来てくれてよかった」と言ってくれたのでやめた。
 燐音が学園に来てからこうして川崎と二人きりになることはほとんどなかった。意図的に避けていたのもあるが、川崎が一人でいるところもあまりみることがない。大抵は、米田先生や本間宗太と一緒にいることが多かったためだ。
 けれど今だけは、他の人に来ないでほしいと願う。「来てくれてよかった」と言ってくれるこの人との時間を大切にしたいと、燐音は思ってしまったから。
 
   4

 一週間はあっという間に過ぎていった。
 竜太郎は米田にまだ返事をしていない。彼女の方も忙しいのか、顔をあわせても何も言ってこなかった。
 ところがその日。竜太郎に一通の手紙が届いた。差出人は、米田恵理子。手紙を渡してくれたのは、足立清二だった。何故彼がと疑問に思ったが、答えは手紙の中にあった。
 部屋で本間宗太と一緒に読んでほしいと白い封筒の表に書いてあったので、竜太郎はその日の夜に寮の自室で宗太と二人で封を開けた。綴じてあったシールは、ピンク色の宝石の形をしていた。
 簡単に言えば手紙の内容は、川崎琴乃についての詳細だった。
 琴乃の能力は、空想でひとつの世界を創ることが出来る。その世界は彼女の願望で創られた永遠の世界で、それを維持するため理事長が別の能力者を使って琴乃の時間を止めたこと。
 米田が琴乃の待遇を良く思っていないため、竜太郎の記憶が少しでも戻る兆候がみられたら、彼女は理事長に逆らうと決めていたらしい。そのひとつが、竜太郎と寺沢を会わせることだった。
 寺沢の能力は対象者の記憶を元に幻覚を作るため、それがきっかけになり竜太郎の記憶の一部を戻したかった。荒療治だったかもしれないと反省の文字も書かれていた。
 計画がある。と手紙の中の米田がいう。
 そのための協力者として足立。そして事情を知っている宗太の二人の名前があがっていた。
 手紙の最後は、『次の日曜日。午前十時に学園本部に集合してほしい』という文章でしめられていた。
「竜太郎。考えていた答えは出たか」
 隣で一緒に手紙を読んでいた宗太に、そう問われる。
 竜太郎は答えた。 
「米田先生の言うとおりその子が辛いめにあっているのだとしたら、僕は助けたいって思うんだ。それは僕が兄って立場にいるからではなく、生徒たちを助ける洸生会のメンバーだからだ。理由はそれでもいいだろう」
 宗太が頷く。
「ああ。いいと思う」
 答えなど最初から考えるまでもなかったのだと竜太郎は思う。色々な事実を突きつけられて混乱していただけなのだ。洸生会として動けばいい。悩む必要などなかった。
「けれど一つだけ我儘を言うならば。もうひとりだけ協力者を増やしたい」
 竜太郎には考えていることがあった。宗太には伝えても良いと思うことだ。
「俺は別に構わないが、誰だ」
 宗太に向かってその名を告げる。
「小池燐音」
 意外だったのか、宗太が目を丸くしていた。
「彼女が必要なんだ」
 竜太郎は真剣な表情で言った。
「理由を聞いても良いか」
 宗太の質問に、嘘を吐く必要はない。だから竜太郎は正直に答える。
「彼女に僕の記憶の話をしたんだ。だからまったくの無関係というわけではない」
 宗太は竜太郎の言葉を予想していたかのように、表情を変えなかった。
「それで何で必要と言い切るんだ。確かに彼女の能力は便利だ。けれど、わかっているのか。理事長の意向に逆らうんだ。ただで済むとは思えない。それに彼女を巻き込むことになるんだぞ」
 核心をつくように、宗太が言った。それが彼の優しさなのだと、竜太郎は知っている。
「それでも」と竜太郎は言う。
「よく考えての事なのか」
「それに彼女は、きっと断らない」
 宗太の言葉に、竜太郎は頷きながら断言した。

   5

 協力してほしいことがあるんだ。と川崎竜太郎が言った。
 理由は聞かなくてもわかっていた。川崎琴乃を助けるために手を貸してほしいと彼は思っている。小池燐音は自分にできることがあるならば喜んで協力すると、迷わずに答えた。
 一緒にいた本間宗太には、理事長に逆らうことになることを理解しているのかと問われたが、燐音はわかっていると返答した。
 それでも。琴乃を閉じ込めているという事実が、燐音にはどうしても間違っていると感じる。だから協力させてほしいと伝えると、本間は納得した様子だった。
 そうして日曜日。川崎と本間と合流した燐音は、学園本部へと向かっていた。そこで米田恵理子と合流する予定らしい。
 本部は学園の中心部にある建物で、生徒たちは滅多に出入りすることはない。緊張した面持ちで三人は正面玄関の前に立っていた。
 しばらくすると自動ドアが開き、奥から米田が姿をあらわして言った。
「来たわね」
 川崎は「お待たせしました」と軽く頭を下げながら言った。
「安心して。警備員はいるけれど、私が何とか出来るから。琴乃ちゃんを助けてあげて」
 声を押さえながらそう言って、米田は微笑む。燐音はその姿に違和感を覚えたが、彼女は何か別の事を考えているとかそういったことは心をよんでもわからなかった。ただ伝わってきたのは不安と哀しみだけだった。
 本部の玄関口には警備員が一人立っていて、米田は彼に何やら告げていた。「特別指導」という単語が耳に入ってきて、燐音は少しだけ胸をざわつかせた。米田の嘘を、警備員は信じるのだろうか。緊張感が漂っているような気がした。
 不安に思い、川崎をみると、彼も表情を強張らせていた。
 警備員との話が終わると、米田はそのまま歩き始める。
「こっちよ。ついてきて」
 言われるままに、三人は米田の後ろをついて歩いた。
 エレベーターに乗り、地下へ向かう。
「竜太郎くんと琴乃ちゃんは五年前、この学園へ来たの」
 米田がエレベーターの番号を押しながら、過去の事を話し始めた。
「そのとき私もまだここに来て間もなかった。慣れない仕事に四苦八苦していたわ。そのときに二人に出会った。竜太郎くんが十二歳。琴乃ちゃんが六歳のころだった」
 エレベーターは静かな音を立てて下がっていく。
 燐音と川崎と本間は、米田の話を真剣な表情で聞いていた。
「その時竜太郎くんは既に記憶を失っていて、琴乃ちゃんより先にこの学園へ来たの」
 しばらくすると、エレベーターは高い音を鳴らして地下一階で停まった。
 米田は一度そこで話を切ると、再び歩く。彼女が向かった先に大きな扉があった。そこには玄関に立っていた人とは別の警備員が、二人立っていた。米田は二人に挨拶をして、「許可はとってあるわ」と告げた。米田の再びの嘘に、警備員たちは不審に思うこともなく米田に一礼をして、それから扉の鍵をカードキーで開けた。

   *

 中に入ると、そこは大きな部屋だった。くまのぬいぐるみや積み木。子ども用のおもちゃが部屋の端のショーケースの中に入れられていた。中央にはベッドがある。そこに女の子が寝そべっていて、それを見守るように椅子に座っている男の人がいた。男はこちらに気づくそぶりもみせなかった。おそらく能力で琴乃の時間を止めている人物こそが、その男だったのだろう。
「琴乃ちゃんの時間は六歳のまま、こうして止められているの」
 米田が説明する。
 五年間。彼女はここでこうして眠ったまま、どんな夢をみているのだろうか。
 燐音はそれを想像して気持ち悪さを感じていた。それとほぼ同時だったと思う。
 川崎が突然走りだし、琴乃をみつめたままの男に掴みかかった。止める間もなかった。米田さえ予想もしていなかった出来事だったらしい。
「竜太郎くんっ」と米田が慌てたように叫んだ。
 川崎は一瞬我に返ったのか、自分の行動に当惑した表情をみせ、男を突き飛ばした。彼は、椅子ごと床に倒れた。
「うっ」
 うめき声をあげる男は、やっとこちらに気づいたのか起き上がりながら驚いた顔をした。
「君たちは、一体……」
 その場にいた全員が、川崎の行動に動揺していた。
「目が覚めましたか」
 川崎が剣呑な目つきで男をみおろしていた。
 燐音はとっさに、能力を使って川崎の心をよんでしまった。彼の心の揺らぎが、いつもより大きく、混乱しているように思えたからだ。
 そうして燐音は川崎が、記憶を取り戻したことを知った。彼は琴乃をみた瞬間に自らの記憶をすべて思い出した。そして男に対して記憶が戻ったことによる感情の混乱をぶつけてしまったのだ。
 それは当然の事だったように思う。仕方のないことだったと。理由を知れば、誰も彼の事を責められないと燐音は思う。
「交代の時間……。でもなさそうだな。米田さん。事情を説明してくれないか」
 男は倒れた椅子をそのままに、立ち上がるでもなくそのままその場にあぐらをかいて座った。面倒だったのか、それとも立ち上がる気力さえないほどに能力を使って疲弊していたのか。男は米田のほうを真っすぐにみた。
「すみません。黒川さん。こんな起こし方をするつもりではなかったのですが」
 米田が額に眉を寄せながら言う。
 燐音は口元を両手で押さえながら隣をみると、本間が嫌なものでもみるように、苦い顔をして川崎に視線を向けていた。
 川崎が黒川という男から目を離し、ベッドであおむけになって眠っている琴乃の近くへ寄って彼女に声をかけた。
「琴乃。起きろ。お兄ちゃんだぞ。迎えに来たんだ。一緒にここから出よう」
 それはまるで、本物の兄のような振舞いだった。
 川崎の手が琴乃の肩に触れようとしたときだった。
 黒川が立ち上がり、川崎の腕を掴んだ。
「あなたがこの子のお兄さんだというなら、やめてあげてください」
「え?」
 黒川の言葉に、川崎が顔をしかめた。
「この子は、幸せな夢を見続けています。ここでこうしていることが、この子の幸せなんです」
 それが当たり前かのように、黒川は言う。
「何を、言っているのですか」
 川崎の声が震えていた。
 黒川の言葉の意味は、燐音にも理解できなかった。
「みてください。この子が大事に抱えているもの。六歳の子どもが、なにも理解していなかったとでもお思いですか。この子は、この宝箱の中に幸せな世界を創造したんです」
 黒川の声は優しく部屋に響いた。
 みんなの視線が、琴乃のほうへと向けられていた。彼女はその小さな両腕で大事そうに、小箱を抱えていた。それが琴乃の小さな幸せの世界のようだった。
「黒川さん。琴乃ちゃんをこのままにしていて良いと本気で思っているんですか」
 米田が黒川に向かって尋ねる。
 黒川は一瞬迷うような表情をみせたが、琴乃をみつめる目は、自分は間違っていないとでも言いたげだった。
「少しだけ時間が進んでしまいました。彼女の体に負担がかかってしまいます。私が力を行使しないと、彼女は弱っていく一方なのです。彼女はこうしている間にも自らの意思で能力を使い続けています」
 黒川の説明に、米田が首を横に振りながら言う。
「なら、なおさらこのままにしておくのは」
「本当にそう思いますか。米田さん。あなたは知っていますよね」
 黒川が米田のほうをみずに、そう言った。彼の能力はみつめている間だけ、対象の時間を止める能力なのかもしれない。と燐音は思った。
 米田は黒川に返す言葉がないのか、そのまま黙り込んでしまっていた。
「それでも、琴乃を解放してほしいです。彼女のためにも。こんなことは間違っています」
 川崎が顔をしかめながら言った。
「もしも罪悪感からそう言っているのなら。あなたはこの子に会うべきじゃない。その理由は、あなたが一番よくわかっているはずです」
 川崎が肩を落とした。琴乃を助けに来たはずなのに、何もできないと、このまま助けられないのかもしれないと思っている様子だった。
「わかっている」
 川崎は悔しそうに唇を噛んだ。彼は何を思い出したのか。燐音にはそこまで知ることはできなかった。
 黒川がゆっくりと川崎の手を離した。
「理解していただけましたか」
 黒川は息を吐いた。
 燐音は、自分が今できることは何なのかを考えていた。何のためについてきて、ここまで来たのかを考えていた。協力するとは言ったものの、具体的に何をすればいいのかわかっていなかった。だから今のこの状況を鑑みて、頭を回転させた。
 そして気づいた。燐音には、燐音にしかできないことがあった。
 そこに思い当たった時、燐音は勇気を出さなくてはならなかった。
「待ってください」
 燐音にしては大きな声だった。僅かに声が裏返ってしまったので恥ずかしかった。
「小池?」
 本間が首をかしげて、こちらをみていた。
「川崎くんが、私をここに連れてきた理由がやっとわかりました」
 燐音は真っすぐに川崎をみつめて言った。
「琴乃ちゃんの心を、知りたかったんですよね」
 川崎の方も、琴乃ではなく燐音のほうをじっとみつめていた。
 そうだ。と肯定するかのような沈黙の後、川崎が口を開いた。
「琴乃と会話ができれば。小さな声でも聴きとることができれば、斉藤でもよかったんだ。けれど小池の能力があれば今の状態でも琴乃の気持ちを知ることができる。だから君が必要だったんだ。どうしても」
 燐音は、自分が必要とされた理由がはっきりとわかって安堵した。
「小池。琴乃はなんと言っているんだ」
「それは――」
 燐音が川崎に答えようとした時だった。
「やめて」
 突然、米田が拒むように言った。
 黒川以外全員の視線が、彼女に向けられた。
「やめて、それ以上は言わないで。知らないで。知らなくてもいいことよ。小池さん。あなたも言いたくないでしょう。ねぇ。そうでしょう」
 米田の声が震えていた。
「米田さん」
 黒川が琴乃から視線を外さずに彼女の名を呼んだ。その顔はとても苦しそうだった。
 彼は何かを知っているのかもしれなかった。 
「知らないほうが幸せなこともあるのよ」
 諭すかのように米田は言うが、燐音は首を横に振った。それは否定だった。燐音は米田の言葉を否定した。
 米田は矛盾していた。彼女は川崎の記憶を取り戻そうと奔走していたはずなのに、いざこの時が来たのにも関わらず、それを邪魔しようとしている。
 ――なぜ?
 隠そうとしている真実があるのだろうか。川崎の記憶を戻し、琴乃を助けたい気持ちと、琴乃の心を知ることは別物なのだろうか。黒川の言葉も気になる。だとしてもただ一つ分かることは、それは間違っていること。
「違います。米田さん。貴女のそれは、ただの過保護です。五年もここにいて。川崎くんが、何も成長していないなんて。まさかそんなこと、思っていませんよね」
 米田が守ろうとしているものが何なのかは知らないが。知らないほうが幸せだとは限らない。昔のことは知らないが、川崎が五年間ここで頑張ってきた意味がきっとあるはずだ。
 米田の瞳は揺らいでいた。肩が震えている。
「思っていないわ。あなたならわかるでしょう。けれど、知ってしまったらきっとショックを受けるわ。傷ついてしまうわ」
 米田の姿は、母親を想起させた。いや、きっとそうなのだろう。五年という間に、川崎と親子のような関係を築いていたのかもしれない。思えば彼の名前を呼ぶとき、ひと際優しい声色だった。 
「米田さん。貴女が思っているよりずっと。川崎くんは強いんですよ」
 そう言って、燐音は微かに笑った。
 この数か月間。燐音が知る限り。川崎竜太郎は思ったよりずっと頼りになるし強い。燐音はそう思っていた。
 だから協力してほしいと言われたとき、驚いたと同時に、それだけ自分が信頼されていることに嬉しさを感じた。それが彼に手を貸そうと思った理由だった。
 燐音は琴乃のそばに立った。彼女の心の声に集中する。本当はずっと聴こえていた彼女の心の声に、耳を傾けた。
 それから話し始めた。琴乃が心の内に秘めていたその想いを。自分はこのために来たのだと思う。
 
(続)

連載小説「あの箱庭へ捧ぐ」第四章

第四章 幻を覚える

   1

 米田恵理子の担当する教室は、真面目な生徒が多い。これは恵理子の自慢だった。それが一瞬にして崩れ去ってしまう日が来るとは、恵理子を含め同僚の先生たちも思っていなかっただろう。
 八月の後半に差し掛かったころだった。うみほたる学園には夏休みという概念はない。生徒たちは卒業まで実家へ帰省してはならない規則がある。一般的に言う夏休み中も、補習授業があったり、敷地内にある農園の作業の手伝いなど、イベントも多いため学園での生活は続く。そのため教師たちは、シフト制の休暇を取ることになっている。
 恵理子も普段の休暇では、学園の敷地内にあるアパートでのんびりと本でも読んで過ごすか、学園外へ遊びに行くついでに実家へと帰省する。
 今年の夏休みも普段と変わらず、帰省して久しぶりに親と会うつもりでいた。しかし、予定を変えなければいけない事件が起こってしまったのだ。

   *

 その日、恵理子は洸生会という生徒のために創られた組織の拠点を訪れていた。洸生会を知っている者はこの学園内でもごくわずかで、恵理子はその中のひとりだった。しかし依頼というものは一度もしたことがなく、今回が初めてだった。
「おかしな行動をする生徒がいる?」
 向かい側のソファに座っている少年が、首をかしげながら恵理子の言葉を反復した。
 部屋には恵理子と洸生会の代表である川崎竜太郎の二人だけがいた。他にもメンバーはいるはずだが、今日は不在らしい。
 恵理子は竜太郎がこの学園に来たばかりの頃から知っているし洸生会が創設されたときにも立ち会っていたので、この場にいることはとても気楽だったが、真面目な話をしているからか緊張感があった。
「ええ。具体的には、補習中にぼーっとしているかと思えば、急に立ち上がって奇声を発したりね。注意してもまったく聞かないの。仕方がないから保健室に行くように言ったけれど、結局行かなかったみたいで。その後は図書室で寝ているのを発見したの。まるで電池が切れたようだったわ」
「米田先生でも、てこずる生徒がいるんですね」
「これは深刻な問題なの。他の先生にも協力してもらって、別の学年クラスでも変わったことがないか調べたわ。そうしたら、私のクラスの他にもおかしくなった生徒が数人いることがわかったわ」
「一人二人ではないということですか。幸い、僕のクラスにはそんなことをする生徒は居ませんが。もっと調査するべきでしょうね。話は聞いてみたのですか」
「もちろん。それでわかった事なのだけれど。どうも、幻覚を視ていたらしいの」
「幻覚?」
 恵理子の言葉に、竜太郎が眉をひそめた。
「みんな、幻覚を買ったって言っていたのよ」
「買ったって。誰かが、売っているってことですか」
 竜太郎が目を丸くしている。
 当然、売る人がいれば買う人もいる。需要がなければ売られることはない。売るだけでその先に進まなかったのだとしたら、簡単な話だったのだが。
 恵理子は短く息を吐く。
「私も、そう思うわ。どこで、誰から買ったのと問いただしたけれど、誰も口を割らないのよね。全校生徒の名簿を調べてみたけれど、幻覚を作れそうな能力者の候補は数人いるわ。そこで、仕方なくあなたたちに依頼することにしたのよ。丁度いい人材がいるじゃない」
 恵理子はそう言って竜太郎に目配せする。
 今この場にはいないが、他人の心をよむ能力を持った少女が、洸生会に所属している。恵理子はそれを知っている。彼らなら解決できる事件だと思って。だから依頼しに来たのだ。
「ええ。こちらの手の内を知らなければ、可能でしょう。ただ、売人が名乗っていなければ、心をよんでも客は売り手の名前を知ることはできない。変装をして姿をごまかしている場合もありますし、直接会うのは至難の業でしょう」
 竜太郎の説明に、恵理子は困った顔をした。彼の推理は的を射ているだろう。恵理子もその可能性を考えていなかったわけではない。
「なら、どうすればいいと思う。自身の持つ能力が原因で、平凡な人におかしいと思われる行動をしているのなら、こんなに心配しなくてすむのだけれど。能力者が、能力を悪用して他人を巻き込んでいるとしたら、問題よ。何としても止めさせなければいけないわ」
 恵理子は、顔をしかめながら言った。
 能力者がらみの問題は、学園内部で解決するしか方法がない。だから恵理子は洸生会に頼らざるを得なかった。
 この学園には教師や警備員はいるが、警察の代わりになる大きな組織がない。場合によっては外の警察に頼ることになるだろうが、そもそもこれは犯罪に値するのだろうか。
 仮に犯罪だとしても、立件は難しいだろう。売人が能力で幻覚を作り出しているのならば、物的証拠を出すことが不可能に近いからだ。
 時期尚早かもしれないが、今のうちに対処する事が正しいと恵理子は考えている。この学園には身体は大人だけれど、思考が成熟していない者たちもたくさんいると恵理子は思っている。だからこそ、広がる前に止めたいのだ。
「米田先生の気持ちは、わかりました。こちらでも出来る限りの事はしてみます。犯人が特定できれば良いのですが」
 竜太郎の返答に、恵理子は満足して頷いた。
「ええ。お願いね。あなたたちにこんなことを頼むのは心苦しいけれど、私たちも自由に動けるわけではないから。犯人が特定出来たら連絡を頂戴。その後の事はこちらに任せて」
 恵理子は竜太郎にそう告げると、小屋を後にすることにした。
 もう一つの目的も、達成できると良いなと願いながら。

   2

「それで、あたしたちは何をすればいいわけ」
 斉藤寧々が竜太郎の目の前で、首をかしげて言った。
 洸生会のアジトであるプレハブ小屋には現在、竜太郎と斉藤。そして小池燐音の三人がいた。竜太郎の座っているソファの前にはテーブルが置いてあり、その向う側のソファに、斉藤と小池が横並びに座っている。
 依頼内容について、竜太郎の口から説明していたところだ。
「斉藤は、能力を使って怪しい会話をしている奴をみつけてほしい。そして小池にはそいつが嘘をついていないか、能力で確認してほしいんだ」
 作戦を説明しながら、竜太郎は二人をみる。
 小池は何も言わずに頷いたが、斉藤は額にしわを寄せた。
「なるほど。でも、そいつが声を発していなかったらみつけられないよ」
 斉藤の言葉に、竜太郎は頷く。
「それでも構わない。直接会って取引しているのかどうかが、わかるはずだ」
「そいつがこそこそやっているのなら、どちらにしろこの学園内だとリスクが高すぎる。色んな能力者がいるんだ。みつかる確率が高すぎる。そんなことも考えられない犯人なのか。そいつは一体何のために、そんなことをしているんだ」
 斉藤の疑問はもっともだった。ただの馬鹿であるのか、それとも他に目的があるのか竜太郎にもわからない。
「それを、確かめなければならない」
 竜太郎は眉をひそめた。
 正直なところ情報が少ない現状で、犯人を特定するのは至難の業だ。濁った水の中に手を入れて、すばしっこい魚を捕まえようとしているのと同じことだろう。
「わかったよ。じゃあしばらくの間、静かにしていてくれる。集中するから」
 斉藤は竜太郎の返事を聞く前に、両目を閉じて両耳を両手で覆うように触った。その行動から察するに、彼女は早速能力を使って犯人の捜索をしてくれているようだ。
 竜太郎は半端に開けた口を黙って閉じるほかなかった。斉藤の邪魔をしたくない。斉藤の隣に座っている小池は、大分前から唇のひとつも動かしていなかった。
 しばらくの間は三人の間に沈黙が流れるかとも思ったが、斉藤が何やらぶつぶつとひとり呟いていた。
「これは違う。これも。んー。どこだ」
 険しい顔をして、斉藤は頭を悩ませている様子だった。
 しかし彼女は、能力を上手いことコントロールしているようだ。竜太郎は思わず感心してしまっていた。
 斉藤の首元には、普段の余計な音を遮断する為のヘッドフォンがかかっている。これは彼女がここへ来る前から愛用されているものだ。当時は能力をコントロールしきれていなかった斉藤が、苦肉の策で着けていたものだ。ヘッドフォンからは極小音で音楽を流しているらしい。ヘッドフォンの機能、ノイズキャンセリングで音を最小限に押さえないと、大勢の人の声が聴こえるために頭がおかしくなりそうだと斉藤は言っていた。
 だが近頃は、ヘッドフォンをつける機会が減ったらしい。今はこの学園の数いる能力者の中では、彼女の能力をコントロールする力は高いと言えるのではないだろうか。
 竜太郎は、斉藤の力を信じて待つことにした。小池も不安そうな顔をひとつもせずに、両手で両耳を覆いながら目を閉じている斉藤をみつめていた。
 そして数分が経ち、斉藤は「あっ」という声と共に、両目をぱっと開けた。
「聴こえた」
 斉藤がはっきりとそう言って、竜太郎のほうに視線を向けてきた。
「どんな会話だった」
 竜太郎が尋ねると、斉藤は両耳から両手を離した。
「おそらく本人じゃない。ただの噂話。でも、かなり有力な情報。午後六時。雑貨屋の裏路地。フードを被った男。そいつが幻覚を売ってくれるらしい」
 斉藤はそう言うと、座っていたソファの背もたれに身体を預ける。力を抜いたようにそのまま項垂れて、息をゆっくりと吐いた。
「お疲れ様。それだけの情報があれば充分だ」
 竜太郎は斉藤に向かって、労いの言葉をかける。
 後は、直接本人に会って小池の能力を使い、真偽を確かめるだけだ。
 竜太郎は疲労している斉藤のために、空っぽになっていた湯呑に、新しい緑茶を急須から注ぐ。斉藤は小さな声で「ありがとう」と言ったが、今はそれを呑む力もないらしく、ただソファに埋もれるように座っていた。
「こんなことに力を使ったのは初めてだ。あたしでもこんなふうに役に立てることがあったんだな」
 斉藤がそう言いながら、右手でこめかみを触っていた。それはまるで恥ずかしさに顔を隠すような仕草だった。
 竜太郎はそんな彼女の様子をみて、思わず口角を上げた。
「そのための洸生会だからな。生徒たちの手助けをする。それは何も自分たち以外の生徒たちってわけじゃない。自分たちだってその対象になる」
「それは、お前も含まれるのか」
 斉藤の問いに、竜太郎は頷く。
「もちろん」
「そっか」
 斉藤は納得するようにそう言って、自分の首にかけたままだったヘッドフォンを耳につけた。これ以上会話を続ける気はない様子だった。
 竜太郎は小池のほうに目を向ける。彼女は困ったような顔をして、竜太郎と目を合わせた。
「もちろん、君も助ける対象だよ」と声をかけようか迷ったが、やめておいた。言われなくてもわかっているだろうから。
 竜太郎は窓の外を確認する。午後六時まではまだ時間がある。色々準備をして、それから向かおうと思う。

   3

 自分の事を嗅ぎまわっている人がいる。寺沢椎也は本能的にそれを感じていた。別に誰から聞いたわけでもない。ただの勘だった。
 心当たりがなかったわけでもないが、それでも自分は間違っていないという考えであったから、逃げも隠れもしないつもりだった。
 椎也は幻覚を作り出せる能力を持っていた。それも相手のみたい幻覚を、何でも。
 売人を始めたのは、この能力を生かすためである。別に金が欲しいわけではない。この学園で金を持っていたとして、使い道はそんなにないからだ。ならばなぜこんなことをしているのかといえば、人のため。この言葉に尽きる。
 この学園には可哀想な人が多すぎる。自分の能力がそんな人達をたった一時でも救うことが出来る。椎也はそう考えていたのだ。
 学園に来て数週間。椎也もここでの生活に慣れ、食堂での事務仕事も慣れてきた。行動を起こすなら今だと思った。 
 今日は少しだけ残業して午後五時半に退勤し、一旦近くのアパートに帰宅する。私服に着替えて雑貨屋へと向かった。
 鼻歌交じりに道を歩いていると、犬の散歩をしている学生とすれ違う。
「こんばんは」と軽く挨拶を交わし合った。
 学生は犬に引っ張られるようにして寮のほうへ歩いていった。おそらくあの犬は寮で飼っている柴犬だ。みたことがある。
 そんなことを思いながら目的地に到着すると、椎也は最近のいつも通りに雑貨屋の裏路地に立つ。別に誰かと待ち合わせているわけではないので、ここからはひたすら人を待つことにする。

   *

「午後六時。雑貨屋の裏路地。フードを被った男。そいつが幻覚を売ってくれるらしい」
 噂を流し始めたのは二週間ほど前だった。最初こそ人は来なかったが、最近は一人二人来るようになった。この調子で広まれば、この学園中の人間が救えるかもしれない。そう考えると自然に笑顔になった。
 腕時計を確認すると時刻は丁度午後六時を回ったところで、椎也は着ている黒いパーカーのフードを頭にかぶせる。
 今日はどんな客が来るだろうか。どんな顔をしてくれるだろうか。
「あなたですか。幻覚を売ってくれるという人は」
 眼鏡をかけた少年と、隣に少女が一人。いや、二人が立っていた。全員学生服を着たままだ。この時間帯は、生徒たちはとっくに寮に帰って私服に着替えているはずだ。先ほどすれ違った学生も私服を着ていた。だから珍しいなと思った。
「そうです。どなたでもみたい幻覚。いや、夢をみることが出来ます」
 自分で言葉にしてうさんくさいなとも思うが、嘘はひとつも言っていない。
「夢、か。物は言いようだな」
 背の高いほうの少女が言う。
「買うのはどなたですか。もしや全員ですか」
 椎也の問いに、三人は顔を見合わせた。
 それから眼鏡の男が剣呑な目つきで、こう言った。
「いいえ。あなたを止めに来ました」
「止める?」
 椎也は彼の言葉に、顔をしかめた。
 今まで数人の客を相手にしてきたが、そんなことを言った人は初めてだった。一人もいなかった。椎也はまるで自分が悪いことをしているという物言いの彼に、不快感を覚えていた。
「そうです。幻覚を売っている売人を捕まえて止めさせるようにと、とある人に頼まれまして」
「頼まれた? 誰に。なんで止めなきゃいけないんですか」
 尋ねると、少年は首を横に振った。
「それは言えません。プライバシーを守るためなので。それと、悪いことだからです」
 少年は、はっきりとそう言った。
 悪いこととは、心外だ。と椎也は思った。だから食い下がることにする。
「ふーん。言えないのに、俺のすることを否定するんですね。でも俺がしていることって、別にこの学園の規則に反しているわけじゃないですよね。能力を利用することが悪いことでしたら、俺もしません。でもそうではないですよね。俺は何も悪いことはしていないです」
 椎也がそう言うと、背の高いほうの少女が額に眉をひそめて言い返してきた。
「あんたな。そういうの屁理屈って言うんだ。大体、能力の悪用は禁止されている」
 椎也は頭を回転させて次の言葉を探す。目の前の人達の言いなりになることはしたくなかった。彼らは何か勘違いしている。
「これだけははっきり言えます。俺は悪用はしていません。ただ利用しているだけです。それもむしろ、悪というよりは善意でやっていることですので」
「善意?」
 少女の疑問に、椎也は堂々と答える。
「そう。善意です。これはみんなの幸せのためにしているんです」
「幸せ? あたしはあんたが何を言っているのかがわからない。人に幻覚をみせて結果的に悪影響が出ている。まさか知らないとか言わないよね」
「何の話ですか」
「とぼけるな」
 随分と口の悪い少女だと思った。そしてその子に隠れるように後方に立っている小柄な少女は、先ほどから一言もしゃべっていない。少々気味が悪いと思った。
「あなたから幻覚を買った人間が、授業中に異常な行動をするんです。これでも悪用していないと言い張るんですね」
 ため息をつくように、眼鏡の少年が言った。
「そうなんですか。知らなかったな」
 椎也は顔色一つ変えずに、そう言った。
 それをきいた少年が、何故だか無口な少女の方に視線を向けた。
「嘘です」
 ぽつりと、小さな声で少女は言った。まるで一円玉がカーペットに落ちたときみたいに、本当に微かな声だった。
 確かに。能力を使用されたことによって、副作用による異常行動の可能性は十分あり得る話だ。椎也はそれを知っていたのだから、嘘をついたともいえる。
 見透かされたような気がしたので、もしかしたら今のはそういう能力だったのかもしれないと考えがよぎる。
「随分と素敵な能力をお持ちですね」
 椎也が言いながら視線を向けると、無口な少女は肩を震わせた様子だった。どうやら本当に能力らしい。
 口の悪い少女が、椎也の視線を遮るように一歩前へと進み出た。
「この子がどんな能力を持っていたって、あんたには関係ない」
 睨むような目つきで、少女は言った。
「まあ、確かにそうですね。でもそれなら、俺がどんなふうに能力を使おうが、君たちには関係のないことですよね」
 椎也が言うと、少女は首を横に振る。
「それとこれとは別問題だ。とにかく、こっちはあんたの嘘をすべて見破れる。無駄だってことだよ」
「厄介ですね。では正直に言います。副作用の可能性は考えていなかったわけじゃないです。けれど、実際に使用してみないとわからないことってあるでしょう」
 言いながら椎也は肩をすくめた。
 嘘は通用しないとなると、これ以上ごまかすのは無駄のようだった。
 口の悪い少女はため息をついた。
「それなら、わかった時点でやめたほうが懸命だったよ。こうして問題になっているんだから」
「何か代償があるとしても、それが誰かの救いになるなら、何の問題もないと思いますけど」
「さっきから何を言っているんだ。善意とか幸せとか救いとか。あんたの考え方はどこかおかしい。売人をやめないって言うんなら、こっちとしては理事長に突き出すしかないんだけど。それでもいいの」
 少女の言葉に、椎也は眉をひそめた。
 彼女たちがどうして、自分の邪魔をしようとするのかがわからない。人のために何かをしてやろうと思っただけなのに。悪意なんか微塵もない。どうしてそれをわかってくれないのかがわからない。椎也は本気でそう思っていた。
「あなたに悪意がなくても。他の人がそれを悪意だと思ったなら。それは悪意なのかもしれないです」
 不意に、無口な少女が口を開いた。
 椎也は目を見開いて問う。
「どうして」
「人って、そんなに強くないです。あなたもそれは理解しているはずです。あなたは善意だって言うけれど、本当にそうですか。あなたは人を救いたいと思っていますけれど、本当にそうですか。本当はあなたが――」
「黙れっ」
 少女の見透かすような物言いに、椎也は思わず声を荒げて叫んだ。
 少女は再び肩を震わせ、怯えるように胸の前で両手を合わせた。
 傍にいた眼鏡の少年が、少女の肩に手を置く。大丈夫だと言いたそうな瞳で、少年は少女をみつめていた。
 だが椎也は少女にそれ以上の言葉を言ってほしくなかった。認めたくはなかった。
「何ですか。俺の心の中でも覗いているみたいな、その能力。俺よりよっぽど悪用しているじゃないですか。そう思いませんか。他の人がそれを悪意だと思ったなら悪意なのかもしれないって今、あなた自分で言いましたよね。俺はこれ、悪意だと思うんですけど」
「違います」
 弱々しい声で、少女は否定する。
「違うんですか。なら俺も違いますね」
 椎也は、言葉でなら彼女に勝てると思った。彼女はその自信のなさが、敗因だ。
 そんな椎也をみてか眼鏡の少年が、ゆっくりと息を吐いて言った。
「このままじゃ、らちが明かないな」
 少年は、椎也に歩み寄ってきた。
 少女たちより一歩前に出て、椎也と対峙していた。
「寺沢椎也。あなたの過去をみせてもらいます」
 少年はそう言うと、突然に椎也の右腕を掴んできた。
 とっさに抵抗しようと掴まれた方の腕とは逆の手で、彼の手を掴んだ。

   4

 あの窓からみえる風景だけが、世界のすべてだった。
 欲しいと言ったものは大抵手に入った。流行りのおもちゃや優しい両親、何を言っても怒らない友人。だからそれが寺沢椎也にとって世界のすべてとなった。
 椎也は先天的な肺の疾患を有していた。一生抱えていかなければいけなかった。だから椎也の世界にあるもの以外はすべて諦めるしかなかった。
 朝起きるのが怖かった。今日もちゃんと生きているだろうかと心配した。大きく体を動かすことも、走ることも出来ない自分が腹立たしかった。
 しかし、それももう数週間前のこと。
 椎也は今、本当に欲しいものを手に入れている。
 朝起きるのが、怖くなくなった。今日もちゃんと生きているだろうかと心配する必要もなくなった。大きく体を動かしても、走っても、何故だか身体は元気だった。
 身体の異変が、突然使えるようになった能力と同じようにきたことも、ちゃんと理解している。だからこれを失うとき、椎也の身体も元に戻ることも知っている。
 それは何もかも唐突に起こったことで、きっかけなど無いに等しい。ただ前日に、夢をみた。それだけだ。他には何もない。
 どんな夢だったか。椎也が元気に外を走ったり、いたずらをして両親に本気で怒られたり、友人と本音で言い合いしている夢だった気がする。
 椎也にとってまさにそれは夢であり、ありもしない幻覚であった。
 夢から覚めると、不思議と身体が軽かった。
「治療はもう必要ない」と初老の主治医に伝えると、当然驚かれ身体中を検査された。
 能力が最初に発動されたのは、その時だった。椎也は無意識に能力を使ってしまったらしい。ほんの数分間。主治医は幻覚を視ていた。若くして亡くなった息子に会っていたと彼は言った。
 彼は当惑していたが、すぐにあらゆる可能性を考え、最終的にそういう能力だと結論付けた。
 主治医と同様に。いや、それ以上に椎也自身も戸惑っていた。身体の事も能力の事も驚愕し、そして感嘆していた。
「これは君の精神的な問題でもあるんだよ」
 と主治医は言った。椎也は首を傾げた。
「私の知り合いに、そういったものに詳しい方がいてね。治療は一旦中止にせざるを得ないし、せっかくだからその方に会ってみるのはどうだろうか」
 主治医の提案に、椎也は二つ返事で了承した。
 うみほたる学園の話をきけば聞くほど、興味がわいた。能力者ばかりを集めた学園。色々なものを諦めてきた自分には、勿体ないほどの場所だ。
 主治医の紹介で、理事長に会うことができた。理事長は椎也の能力を聞くなり入学を勧めてきた。学園に興味があると伝えると、理事長は喜んだ。
 そうして椎也は二十歳という年齢になって、学園という場所に足を踏み入れることになった。
 幼少期からまともに学校というものに通うことができなかった椎也にとって、うみほたる学園は思っていた以上に面白い場所だった。
 理事長と相談して、学園とはいえ年齢的にも生徒ではなく働いてみないかと言われたときは、自分にできるだろうかと思ったが、心配するほどではなかった。食堂で一緒に働く仲間はみんな気のいい人たちで、そして同時に自分と同じ能力者で、そして可哀想な人たちであった。
 例えば職場いじめを受けていた人。両親からDVを受けていた人。大切な人と死別した人。そういう人たちを、椎也は憐れんだ。そして自分の能力を使えばその人たちの心を救うことが出来るのではないかと考えたのである。
 例え一時の幻覚という名の夢であっても。自分に都合の良い夢であっても。彼らは救われるはずだ。
 そうして椎也自身も、救われたかった。誰かの役に立ちたかった。
 ただの自己満足かもしれない。ただの偽善かもしれない。
 それでも、何かしたかった。何かしてやりたかった。
 この醜い感情を誰が許してくれるだろうか。

   5

 幻覚を視た。
 両親と妹。四人で海に行くというものだった。ほんの一瞬だったけれど、とても幸せそうな光景だった。
「竜太郎」
 斉藤の声が聴こえて、竜太郎は現実に引き戻された。
「大丈夫か」
 心配そうな顔をして、斉藤が竜太郎の目の前に立っていた。どうやら彼女が寺沢椎也との間に入って、彼から引きはがしてくれたらしい。
「あ、ああ」
 竜太郎は頭を抱える。
「何か前と様子が違うって、燐音が言うから心配した」
 斉藤に言われて、竜太郎は小池のほうをみた。彼女も不安そうな表情でこちらをみていた。
「ありがとう。二人とも」
 竜太郎は礼を言った。
 寺沢に何をされたのか、考えるまでもなかった。
「幸せな夢を、視ることはできましたか」
 寺沢が竜太郎に向かって、笑顔でそう問いかけてきた。
 彼がこの幻覚を、夢と称すのが何となくわかった。それは確かに夢であった。ほんの一時の、泡沫の夢。目を覚ませば一瞬で消えてしまいそうなその夢は、とても大切な竜太郎の記憶であるはずのもの。ただの願望かもしれないもの。
「ええ。一瞬だけでしたが。そしてあなたのことも概ね理解できました」
 竜太郎はそう答えると、寺沢のほうを真っすぐにみた。
「よかった。俺の事を理解できたんですね」
 寺沢が満足そうな表情を浮かべ、竜太郎の事をみていた。
 米田恵理子から受けた依頼内容は、犯人の特定だ。たった今、寺沢が竜太郎に能力を使ったことで、彼は言い逃れのできない状態になった。身体を張ったこと、怒られるだろうか。そう思ったが、止まらなかった。
「あなたは、可哀想な人です」
 竜太郎の言葉に、寺沢の眉根がぴくりと動く。これが、彼が一番言われたくない言葉であることは、彼の記憶を視る限り明白だった。
「何を言っているのか、わかりませんね」
 とぼけるように、寺沢は言った。
「あなたは色々なものを諦めてしまった。それが可哀想だって言っているんです」
「君にそんなことを言われる筋合いは、ないと思いますけれど」
 寺沢の言葉に、竜太郎は頷く。
「ええ。そうかもしれません。ですが、あなたにだって他に出来ることが沢山あると思うんです。こんな能力の使い方をせずとも、あなた自身が幸せになることだってできるはずなんです」
 寺沢が嘲笑する。
「俺が、幸せになる? 俺は十分幸せですよ。十分すぎるぐらい。日常的に感じていた息苦しさもないし、能力だって使える。今ならなんだってできます。俺は幸せです」
 自信満々に言う寺沢に向かって、竜太郎は首を振る。
「いいえ。そう思い込んでいるだけです。本当は、いつそれが終わるのか怯えているんですよね。そんな状態で、本当に幸せだと言えるのですか」
「それは――」
 寺沢が言い淀み、迷いをみせた。
 竜太郎はたたみかけるように話を続ける。
「自分は幸せだと思い込んで、自分より不幸せだと思う人達に、能力を使って一時の幸せをみせてあげよう。御立派な考えですけれど。それって人を下にみているだけですよね。そうやって自分と比べて、自分はその人達よりマシだと思い込んで、優越感に浸っているだけですよね」
「それの何が悪いと言うのですか。俺は可哀想なんかじゃない。俺より可哀想な奴はいっぱいいる。だから俺はそいつらに恩を売ろうとしているだけです」
 寺沢の言い分は、無理に自分を肯定しようとしているように思えた。それは悲痛な叫びだったのかもしれない。
 今、寺沢が言ったことは本心だろう。ならば竜太郎がかけるべき言葉はこうだ。
「そうやって売った後。あなたに残るものは、一体何でしょうか。してあげた事に対する報酬は、お金ですよね。でもそれってあなたを本当に幸せにするものですか。あなたの本当に欲しいものは違いますよね。誰かの役に立ちたくて。自分の存在意義を確かめたかっただけですよね」
 竜太郎はとても冷静に言った。
 過去の記憶を視るときに、竜太郎は相手の感情も何となくだけれど感じ取ってしまう。小池ほどの精度はないし、あくまでも過去の感情だ。現在の時間のものではない。それでも、竜太郎は過去も現在も彼の感情は同じものだと思った。
 彼は病気のせいで色々なものを諦めてきたのだと思う。彼が何を願って能力を手に入れたのかが竜太郎には何となくわかる。彼は。寺沢は、夢をみたかったのだ。それは、眠るときにみる夢ではなく、叶えたかった夢だ。諦めてしまった夢だ。
 寺沢が、自分を落ち着かせるかのように深く長く息を吐いた。
「そこまでいうのなら、どうすればいいのか教えてください。俺は、どうするべきだったのか」
「少なくとも、周りを巻き込むべきではなかったと思います。あとは、弱い自分も可哀想な自分も、受け入れることが大事だと思います」
「そうか――」
「簡単にはいかないかもしれませんが。あなたは頭の良い人です。きっと前に進めますよ」
 酷なことかもしれないが。と竜太郎は思いながら、彼にその言葉を贈る。
 けれど寺沢はそれで納得してくれたのか、幻覚を売ることを止めると約束してくれた。
 
    6

 このうみほたる学園に来てから、もう何度目かの朝焼けをみた。窓からみえていた月は、いつの間にか沈んでいた。かわりに現れた太陽に、椎也は目が眩んだ。
 欲しかったすべての物を手に入れて、その後に残るものは何だろうと、ずっと考えていた。一晩中。自分の『本当』について考えていた。
 力を失いたくないと、どれだけ願っても無駄だとわかっている。けれどそれだけは、諦めたくない夢だった。いつかは、絶対にその時が来る。
 今日も朝が来た。仕事に行かなければならない。石のように重い身体を動かして、出かける準備をした。仕事に行きたくないわけではないが、昨日の疲れがとれていないような気がした。

   *

 玄関を出て、ゆっくりと職場へ向かう。食堂へ着くと、誰かが待っていた。
 ショートカットの良く似合う、黒色のスーツを着た女性だった。
「寺沢椎也くん」
 名前を呼ばれても特に驚かなかった。彼女の風貌をみるに、普通の人間ではなさそうだったからだ。
「誰ですか」と椎也は質問した。
「米田恵理子。ただの教員よ。洸生会から、昨夜の報告を受けたわ。あなたは幻覚の販売をもうやらないと約束してくれたようね」
彼女。米田の返答に、椎也は一瞬で状況を理解した。
「ああ。あなただったんですね。彼らに依頼したのは」
 椎也は言うと、昨夜のことを思い出した。
 知らない学生が三人ほど、椎也に会いに来たのだ。彼らは言った。幻覚を売っている売人を捕まえて止めさせるようにと、とある人に頼まれたと。それがおそらく、今椎也の目の前にいる女性だ。
「ええ。そうよ」
 米田が頷いた。
「ならもう解決済みです。俺はもう能力を使いません」
 彼らの前で誓ったことだ。この言葉に嘘はない。
 竜太郎と呼ばれていた少年。彼の能力は非常に厄介だった。どういう能力か具体的にはわからないが、椎也のことを理解したような口ぶり。あの無口な少女と並んで、人の事を見透かせるような能力だと推測できる。
 彼らの前で、嘘は吐けない。これはもう、素直に諦めるしかないと思った。だから彼らの言うとおりにするしかなかったのだ。
「そうなのだけれど。ひとつ気になることがあってね」
 米田がゆっくりと、息を吐きながら言った。
 気になること。と椎也は心の中で反復する。
「何ですか」
「あなたが、川崎竜太郎に能力を使ったと聞いたわ。何の幻覚を竜太郎にみせたの」
「さぁ。能力を使っている間。俺には、他人の幻覚を視ることが出来ません。というか、わざわざ俺に話を聞きに来ずとも、先生なら学園内にいる能力者の資料やらなんやらで、それぐらいわかるんじゃないですか」
 米田の質問に、椎也は肩をすくめながら言う。
「それじゃあ意味がないと思って」
 米田はそう言いながら、眉をひそめていた。
「何の意味ですか」
 そう問いかけると、米田の瞳が揺らいだように感じられた。
「それは答えられないけれど、もう一つ質問があるの」
「何でしょう」
「その幻覚は、その人がみたことのある物で構成されているのかしら」
 嘘を吐く必要もないので、その質問には素直に答える。
「俺の能力は、他人の願望を幻覚としてみせているだけです。でもその元となる人物などはその人の記憶のはずです。聞いたことありませんか。寝ている間にみる夢は、みたことのある人物しか出てこない。俺の能力は、幻覚でもあるし夢でもある」
 米田は納得したのか、「そう。わかったわ。ありがとう」と、それだけ言って去ろうとしたので、椎也は「ちょっと待ってください」と呼び止める。
「ずるいじゃないですか。俺に色々と質問しておいて、それだけですか。俺、昨日から損しかしていないじゃないですか」
「損? 自業自得じゃないかしら」
 米田はそう言って、首を傾げた。
「うわ。この人、最悪だ。昨日の少年よりたち悪そう」
 椎也は米田に聞こえるか聞こえないかの声量で、呟くように言った。
「竜太郎よりは悪くないわよ」
 米田はそう言って、嘆息をもらした。
「先生が生徒の事を、悪く言っちゃダメなんじゃないですか」
 指摘すると、米田が困った顔をする。
「う。そうだけど。子どものころから知っているから、つい」
 意外な返答に、椎也は少しだけ目を丸くした。
「長い付き合いなんですね」
 米田は頷いた。
「ええ。と言っても五年ぐらいだけれど。彼が十二歳のころにこの学園に来た時、同時期に私も赴任したの。子どもの成長って早いわね。あっという間に身長を越されたわ」
 米田の言葉に、椎也は昨日の竜太郎の姿を思い出す。
「確かに、身長は俺とさほど変わりませんでしたね。なるほど、それで目をかけていると」
 納得したように、椎也は言った。
 米田にとって竜太郎は、特別な想いのある生徒らしかった。もしかしたら、息子のような存在なのかもしれない。
「もういいかしら。あなたとの話は終わったの」
 呆れた様子で、米田が言った。
「まだダメです。こっちは、俺のやりたかったことを潰されているんですよ」
 椎也は引きとめるるもりで言う。
「納得したわけじゃないのかしら」
「あれ以上は面倒くさかったから」
 米田の疑問に、椎也は本音をもらした。
「そう。なら、あなたが納得するまで依頼者の私が相手をしないといけないわね」
 米田に真っすぐな瞳を向けられて、椎也は戸惑った。
 とことん話に付き合うわよという態度を取られると、椎也も困ってしまう。忘れるところだったが、椎也は出勤前なのだ。残念だが、お茶を飲むような時間はなかった。
「まあ、俺これから仕事なので、今日のところは勘弁してあげますよ。それじゃあ」
 椎也はそう言うと、さっさと米田に背を向ける。
「待って」と、今度は椎也が呼び止められる番だった。
「何ですか」
 これ以上は遅刻するなと思いながら、椎也は仕方なく振り向いた。
「最後に一つだけいいかしら」
 米田が、真剣な表情で言った。

(第五章へ続)

連載小説「あの箱庭へ捧ぐ」第三章

第三章 未知が来る

   1

 本間宗太が斉藤寧々に初めて会ったのは、一年前のこと。黒板の前に立たされ先生に挨拶を促されて不機嫌そうな寧々の顔を、宗太は覚えている。その顔がとても好きだと思ったと本人に言ったら、顔を真っ赤にして彼女は怒っていた。
 うみほたる学園の男子寮と女子寮は向かいあって建っていて、その間を遮るものは丁寧に手入れされた花壇と煉瓦道ぐらいのものだ。
 宗太と寧々の部屋は互いに二階にあり、互いの窓は部屋が見える位置にあった。カーテンを開けるのは朝とみんなが寝静まった夜の二十三時頃。意図せずその時間になるとどちらが先にカーテンを開けるか競争のようになっていた。
 スマートフォンは学園内に持ち込み禁止なので、二人とも持っていない。いや、もともと持っていたのに、学園へ入学すると同時に没収されたというほうが正しい。学園の外との連絡を取れなくする意図があるのだろう。希望すれば手紙ぐらいは出せるらしいが、書いてもいっこうにこない手紙の返事を待つよりは、最初から書かないほうがいいと宗太は思った。それに宗太には手紙を出したいと思う相手がいなかった。
 夜なので窓も開けられない。だから宗太と寧々は会話をしないけれど、手を振って挨拶する。
「おやすみなさい」と口を動かす。 
 いつの間にかそれが日課になってしまっていた。
 毎晩、宗太はどうしてそんなことをするのかを考えた。もしかしたら自分も彼女もお互いのことが好きでそういう行動をとってしまうのではないかと思っていた。だがその考えはすぐに捨て去らなければならなかった。なぜならば自分に誰かを好きになる資格はないと宗太は思っていたからだ。
 毎晩好きだと思いながら、毎晩その考えを捨てる。もう幾度それを繰り返しただろうか。
 あるときは朝方までそんなことを考えていて、眠れない日もあった。それでも捨てるしかなかった。
 それが自分と彼女のためだと思っているからだ。

   *

 宗太には特別な力があった。相手の未来が視えるというものだ。相手の手に触れるだけでそれがわかってしまう。そのために、色々な物事を諦めなければならない。宗太にとってはそれが最善だと結論が自分の中で出ている。
 宗太の力の事を知っている者は学園内にたった二人だけだ。ひとりは学園の理事長と呼ばれる人で、もうひとりは宗太の友人である川崎竜太郎だ。
 宗太を学園に入学させた理事長が知っているのは当然のことだが、どうして竜太郎が宗太の能力について知っているのかというと、宗太が自ら彼に話したことがあったからだ。それは彼が、宗太と真逆の能力。相手の過去を視る能力を持っていたからなのか、それとも彼の人柄がなせる業だったのかはわからない。だが、宗太と竜太郎はそれがきっかけになって仲の良い友人になったことは確かだった。
 竜太郎と宗太が互いの能力を知った後、二人とも理事長に呼び出された。理事長は咳払いをしてから宗太たちに向かってこう尋ねてきた。
「二人とも、時間についてどう思う」
 その問いに宗太と竜太郎は困惑したが、それも最初だけだった。まずは竜太郎が答えた。
「とても大事なものだと思います」
「その理由は?」
 理事長が軽く首を傾げながら言った。
「過去は変えられませんが、知ろうと思えば誰でも知ることは出来ます。それによって相手を理解することができます。それを知って現在でどんな行動をとるのか。それがとても大事なことだと思います」
「そうか。それはとても大切なことだな。では、君の持っているその能力を大事にすると良い」
「はい」と竜太郎が頷くのをみてから、理事長は宗太のほうへ視線を向けた。宗太はごくりと唾を呑んだ。
「次は君が答える番だ。宗太」
 促されて、宗太は伏し目がちに言った。
「俺は、竜太郎とは逆です」
 それは宗太の本心からの言葉だった。
「ほう。何故そう思う」
「未来も変えられないからです。未来は普通の人間なら知ることはできません。俺はそれをずっと知りたかった。だから願望が能力というひとつの形になったのだと思います。でもそれを手に入れたところで、どうしようもないことに気づきました。俺が視た未来は確定で訪れます。だから大事にしたところで、悪い未来は悪いまま来てしまいます。それが俺の時間は大事にしても無意味だと思う理由です」
 宗太ははっきりと口にした意見を、自分で哀しいと思った。
 どうしてと幾度も思った。そして答えは一向にでなかった。
「宗太は、自分の能力を大切なものだと思っていないということだな」
 理事長の言葉に、宗太は頷く。
「はい。俺はもう、この力がなくなってほしいと思っています」
「果たして本当にそうだろうか。もしそうならば、能力はとっくになくなっていると思うのだが。君はまだ能力が消えていないのだろう」
 確信をつかれて、宗太はしりごみした。
「それは――」
 宗太は、反論ができなかった。理事長はすべてを見透かしたように、微笑んでみせた。しわの寄った顔は、彼が古希を超える年齢だという事実を改めて感じさせる。
「よく考えて、悩むことだ。結論が簡単に出る問題ではないだろうがね」
 宗太はその言葉に対して、返事をしなかった。
 もう充分だ。と思った。もう自分は嫌というほど悩んで、苦しんでいると思う。そんな気持ちを察してか、理事長がもう一度口を開いた。
「私は、能力者になったことがないので君たちの気持ちはわからない。だが理解しようと努力してきた。そのうえで言わせてもらおう。答えはない。しかし、答えを作ることはできる」
「答えを作る?」
 意外な言葉に、宗太は首を傾げた。隣に座っていた竜太郎も同様だ。
 理事長は頷き、言った。
「君たちの能力は、今まで誰も――いや、もしかしたら探したらいるのかもしれないが。前例がない。ただ君たちはここに存在する。答えを探している。探すことができる。ならば答えを作ることも可能ではないのか。と私は思う」
「それは、自分たちの好きなように答えを出しても良いということですか」
「そういう解釈もできる。という話だ。能力者を研究している連中は怒るだろうが、そんなことは君たちには関係ない。君たちは君たちの答えを作れば良い」
 宗太と竜太郎は互いの顔を見合わせて、それから理事長の顔に視線を戻した。
「わかりました」と二人はほぼ同時に返事をした。
 途方もない話だと宗太は思った。テストの答案ならば最初から答えがある。しかし、これには最初から答えがない。宗太と竜太郎はその答えのない事柄を、討論しなければならなかった。けれどそれが面白いと感じていることも事実だった。
 だから宗太はあの日。寧々の方から想いを伝えられた日。思わず口にしてしまったのだ。
「試しに付き合ってみる?」
 両思いだとわかって有頂天になっていたわけではない。宗太はいたって冷静だった。冷静に、じゃあ試してみようと思ったのだ。そうして宗太は初めて寧々の手を握った。宗太は触れた相手の未来を、その先の人生を少しだけ視れてしまう。
 宗太は答えを出すために、寧々のことを利用しようと考えたのだ。
 寧々の未来で視えたものは三つ。高い塀。恐らく学園の周りを囲っている塀だ。それから、見知らぬ女の子。そして、誰かの血。
 宗太は恐ろしいものを視てしまった気がして、すぐに手を離した。
 宗太は視えた未来に対して、これは寧々にとってどんな意味があるのだろう。と考える。それと宗太にとってもどんな意味のあることなのだろう。
 考えて、考えて……しばらくして考えるのをやめた。そんなことはどうでもいいと思った。事実としていずれ訪れる未来には変わりがない。未来は変えられないのだから。
 ただ宗太は思っていた。誰にも血を流してはほしくないと。

   2

 交際を開始しても、宗太と寧々はいつもと変わらない日々を過ごしていた。恋人らしく放課後は一緒に帰ったりせず、手はあの日に繋いだきり触れてもいない。それ以上の行為も勿論していない。いつもと同じように休憩時間に他愛のないおしゃべりをして、二十三時の「おやすみなさい」をする。
 しばらくそんな日々が続いた。交際していることは誰にも言わなかった。二人だけの秘密だった。示し合わせたわけではないのだが、寧々の方も仲の良い友人にさえ、教えていない様子だった。
 そんな状況を打破してくる人物がいるとは、その時は想像もしていなかった。
「そういえばこの学園、交際禁止だってこと知ってる?」
 川崎竜太郎は机で書類と睨み合いながら、自然な会話の流れでそう尋ねてきた。
 一つ前の会話と言えば「もうすぐ夏祭りだ。楽しみだな」である。
 竜太郎と共に所属する洸生会のアジトで、一緒に書類の整理をしていたときだった。
 作業をしていた宗太は、手を止めて目を丸くした。
「え。何? そのどこぞのアイドルグループみたいなルール」
 バインダーを持ったまま尋ねる。子役だった時代を振り返ってみても、そんなルールを律儀に守っているアイドルなんてきいたことがない。芸能人の熱愛の噂は、スタジオの廊下を歩いているだけでも、耳に入ってくる。噂好きのスタッフがひとりでもいると大変だ。
 竜太郎が、宗太を一瞥してから書類に視線を戻しながら言葉を紡ぐ。
「知り合いからきいた話なんだが、以前交際していると噂がたった人がいて。その噂をききつけた先生が二人を呼び出したらしい。それで別れさせられたって」
「それって中等部の生徒?」と宗太は首をかしげる。そんな話をきいたのは初めてだった。
「いや。高等部だったと思う」
 顎に右手を当てながら、竜太郎が視線だけ次の書類に目を通しながら口だけ動かした。
 宗太は言葉を探していた。黙ったままでいると竜太郎がこちらに視線を向けてきた。眼鏡の向うにある彼の目と、宗太の目が合った。
「面倒なことになる前に、斉藤とは友人関係に戻ったほうがいいんじゃないか」
 すべてを見透かしているような竜太郎の発言に、宗太はうろたえた。
「何で、そのことを知っているんだ」
「みていればわかる」
 そう言いながら、竜太郎は持っていた書類を机の上に置いた。
「俺が斉藤とも友人であることを忘れるな。彼女を大切だと思うなら、彼女を傷つける前に元の関係に戻るべきだ」
 竜太郎なりに言葉を選んだのだろう。気を使われていることに少しだけ気分が悪くなる。
「つまり別れろってことだろう」
「そうともいう」
「いいよ」と宗太は迷いもなく言った。予想外の返答だったのか、竜太郎が目を丸くした。
「目的はもう終わっているし」
「何の?」
 竜太郎が首を傾げた。
「俺の能力の発動条件、知っているよね」
 宗太が尋ねると、竜太郎は頷いた。
「ああ。相手に触れないといけないんだろう。僕の能力も同じ条件だから知っている」
「そのためには相手と、スキンシップが出来るぐらいに仲良くならなくてはいけないだろう」
 宗太の言葉に、竜太郎が怪訝な顔をした。
「まさか。そのためだけに斉藤と交際しているのか」
「そのまさかだよ。俺はこの力の答えを出すために、寧々の告白を受け入れた。彼女を利用しているんだよ」
 宗太は、口角を上げて笑ってみせた。
 宗太が最初にこの能力に気づいたとき。母親の手に触れたことで、母が泣き崩れている光景を視てしまった。自分が母から離れてどこか遠い場所へと行かなければならなくなったことを、そのときに知った。宗太は母以外の家族や仲の良い友人の未来を視ることが怖くて、距離を置くようになった。
 宗太は幼いころから芸能界という荒波にのまれながら、とてつもない将来への不安を感じていた。そんな自分の未来が知りたくて望んで手に入れたはずの能力を、宗太はいらないとさえ思った。だからこそ宗太はこの学園に自ら来て入学させてもらった。誰もが望んで入学したわけではないこの学園に。
「どうかしている」
 呆れたように、竜太郎が言った。
「自分でもそう思う。でも、好きじゃなかったら付き合っていなかったよ」
 信じてもらえないかもしれないけれど。とは言わなかった。それは無意味な言葉のように思えた。
 どうして彼女だったのかと問うまでもなかったのか、竜太郎はそれ以上は何も言わなかった。触ることが重要ならば自分でもいいじゃないかとは、彼は決して言わなかった。わかっていたのだ。同じ条件で発動する能力を持っている竜太郎は、自分と宗太が触れた場合に、能力が相殺される可能性があることを。それがなければ宗太も迷わず竜太郎に触れ、彼の未来を視ていただろう。
 宗太と竜太郎は同じなようで同じでない。対照的な存在だった。だから共に洸生会に所属させられたと言っても過言ではない。
「彼女の未来について、僕はきいてもいいのか」
 竜太郎が、唐突にそんなことを尋ねてきた。
「いいけれど、あんまり良いものじゃなかったよ」
 宗太はそう答えると、視たままを竜太郎に伝えた。彼になら話しても構わないかと思った。それだけ信頼していた。
 話が終わると、竜太郎が顔をしかめた。
「それは、まさか斉藤の血じゃないよな」
 そうやって言葉にされると、改めて宗太は考えてしまう。あれが誰の血で、どんな意味があるのか。
「そんなまさかは、あってほしくないけれど」
「だが斉藤の未来を視て、斉藤の血ではないのだとしたら、一体誰の血だ? そんな恐ろしい場面を視て、お前はどう思ったんだ」
 竜太郎の真剣な表情に、宗太は困った顔を返す。
「例え誰の血であったとしても、俺にはどうすることもできない。未来の出来事だとしても、俺にとってはすでにあった過去と同じだよ」
「だったら、それを知った今。お前はどんな行動をとりたいんだ。未来を変えたいのか、変えたくないのか。どっちなんだ」
「そういう問題じゃない」
 竜太郎の言葉を、宗太は首を振って否定する。
「そういう問題だろう」と竜太郎はさらにそれを強く否定した。
 宗太は目を見開く。
「お前は何度も、変わらないって諦めたかもしれないが、今は僕がいるだろう。過去を知って、理解して。現在の状況を良くすることは出来ると僕は信じている。お前の未来視が、お前にとっては過去なら、現在を変えることは出来るはずだと僕は信じる」
 竜太郎みたいな考え方が、自分にも出来ればよかったのに。と宗太は思わずにはいられなかった。
 そしてそういう風に言ってくれる友人を持って、心の底から感謝した。
 理事長が答えを新しく作れと言った意味が、わかった気がした。一人では作れなかった答えを、二人でなら作れるような気がした。
「ありがとう」
 宗太は呟くように、礼を言った。

   3

 それから宗太と竜太郎は、二人でとある計画を立てた。
 現状を変えるにはまず、現在進行形で続いている宗太と寧々の関係性を解消することだった。現在で変えることが出来るものがそれしかなかったのだ。
「まず初めに言っておく。斉藤とお前のどちらかが、この学園を去ること。この方法は避けたい。何故なら卒業するか、退学になるかのどちらかだからだ。僕の言いたいことはわかるな」
 竜太郎は、真剣な顔をしていた。冷静に考えて、卒業も退学も実現するのは大変な事だ。まず前者は宗太たちの意思ではどうにもならない。それを決めるのは教師たちや理事長だろう。
 この学園は、一定の年齢で卒業という概念がない。卒業の条件はただ一つ。能力者ではなくなることだ。そしてそれを審査して通ったら卒業できるという規則だ。
 そして後者は、問題を起こすなどして誘導することは可能だが、これも最終的な判断は理事長になる。
「わかっているよ。卒業はともかく、退学なんてしたらあいつを哀しませることになる」
 宗太が視た斉藤寧々の未来は、おそらくもう少し先の出来事ではないかというのが、竜太郎と話して出た結論だ。では、ほんの数分後の未来を視ることはできないのか。と竜太郎は言った。宗太は今まで力をコントロールするという考えがなかったと答えた。
 竜太郎はこう提案してきた。
「僕と宗太の能力は、時間跳躍ができない。ただ視ることができるだけだ。だから斉藤の直近の未来を視て、どうしたら彼女を傷つけず穏便に別れることができるか考えよう。僕が彼女の過去を視て色々とフォローをする。お前は嫌かもしれないが」
 宗太の未来を視る力は、その未来に到達する過程において、行動を変えたところで変わることはない。それは、宗太が試した結果でわかっていることだ。しかし竜太郎の過去を視る能力は、すでに起こっている出来事を視て、良い方向にも悪い方向にも変えていける能力だ。だからその二つを上手く利用すれば酷いことにはならないのではないかと、竜太郎は考えているらしい。
 まったく彼らしい、と宗太は思った。
 相手の過去を視ることができるということは、相手の弱みを握ることと同義だ。それを使って相手を脅すことだってできるはずだ。だが竜太郎はそんなことはしないと宗太は思う。彼を信頼していなければ、宗太は竜太郎の提案にのらなかった。
 竜太郎はいいやつだ。そのことを知っているから、宗太は彼を信じることが出来る。
「いいよ。そうしよう。頼りにしている」
 単純な想いならば、簡単に別れようと告げれば済む話だった。けれどそれは宗太にはできない。できないぐらいに、彼女。寧々と過ごした時間は大切なものだった。
 彼女と過ごす毎日は、キラキラした宝石みたいに輝いている。とても大事な思い出だった。
「だが問題なのは、どうやって斉藤の手に触れるかだ。僕では、お前のように彼女の手に気軽に触れることはできない」
 竜太郎が眉をひそめながら言った。
「手相をみると言って、触れてみたら」
「冗談を言うな。それでいいならば、お前が斉藤と交際することにした理由がわからなくなる。それに斉藤は占いなど信じないだろう。僕も手相占いなどはできない」
「じゃあ、俺みたいに斉藤と付き合う?」
 宗太が軽口をたたくと、「宗太」と呆れたように目を細めながら、竜太郎が宗太の名前を呼んだ。いい加減にしろとでも言いたげだったので、宗太は肩をすくめて謝った。
「ごめん。これも冗談」
 ひどく悪い冗談だったと、宗太も思った。
 自分が一番傷つく。だがそれも悪くないと思った。これからやろうとしていることに比べたら、小さな傷だったからだ。
「まぁ手に拘らなければ、いくらでも方法はあるんだがな。後ろから肩を叩くとか」
「無難だなぁ」
「残念そうに言うな」
 いかに自然に身体に触れるかの議論をして、そうして最終的にはやはり後ろから話しかけて肩を触ることにした。
 最悪の事態を防ぐために、宗太は寧々と別れる選択をとった。
 寧々の過去を視て、彼女がどういう人生を歩んできたのか。それを知って自分たちがどういう行動をとるのか考える。とても最低な計画だった。けれどやらなければならなかった。
「ごめんね。君のためなんだ」
 本人の目の前で、その言葉を口にする勇気はない。

   4

「斉藤」
 という竜太郎の呼びかけから、この計画は始まる。
 竜太郎が寧々の肩に触れていた。名前を呼ぶとほぼ同時に、右手を彼女の肩に置いたのだ。
「何?」
 何も知らない斉藤寧々がそれに気づき、振り向いた。彼女の視線は竜太郎と、そのすぐ後ろに立っている宗太に向けられた。
 寧々は着けていたヘッドフォンを耳から外し、驚いたように目を丸くしていた。
 宗太は、彼女の気を一瞬でも逸らそうと彼女に話しかける。
「ちょっといい?」
 彼女の気を一瞬でもこちらに向けさせるためだ。竜太郎は能力を使っている間、目を閉じている。動くこともできないので、こうするしかなかった。
「どうしたの二人とも」
 寧々が肩にかけたヘッドフォンを片手に持ったまま、首をかしげている。
 授業の合間の休憩時間だった。廊下に出ていた寧々がどこかへ行こうとしているところを呼び止めた。
「次の授業で使うプリントを配らなきゃいけないんだけど、手伝ってほしいと思って」
 宗太はそう言いながら、両手に抱えるように持っていた紙の束を半分ほど右手に取って渡そうとした。
「別にいいけれど、君たち二人で充分じゃない?」
 寧々の素朴な疑問に、宗太は首を振る。
「まだあるんだ。先生がまだ準備できていないって。忙しそうだった」
 嘘は言っていないが、残りは先生が持ってくるつもりだったところを、宗太たちが親切なフリをして「取りに戻ります」と言って利用したのだ。
 罪悪感がないわけではなかったが、これも寧々のためだと気持ちを誤魔化す。
「そうなんだ。それで、川崎はいつまであたしの肩に手を置いているわけ?」
 指摘されて、心臓がはねる。
「ああ。すまない」
 竜太郎が慌てたように、寧々の肩から手を放す。それから、宗太のほうを向いてアイコンタクトをしてきた。もう充分なようだ。
 寧々は宗太たちをみて訝しんでいたが、教室の中に戻るとプリントを配ることを何も言わずに手伝ってくれた。手際よく枚数を数えて、机に置いていく。
 宗太と竜太郎は寧々を教室に残して、職員室に残りのプリントを取りに行くことにした。道すがら、宗太は竜太郎から過去視の結果を聞く。
「斉藤がこの学園に来た理由がわかった。あいつには妹がいるらしい」
「そうなのか」
 初めて知る事実だった。
「斉藤はここに来る前、素行の良い生徒ではなかったらしい。まぁ、今も良いとは言い難いが。不良だったらしい。それで悪い噂を流されて、それが妹の耳に入った。妹はとても繊細な少女で、深く傷ついていた。あの斉藤の妹だとレッテルを張られ、いじめを受けていたらしい。妹が自殺未遂をした原因が自分だとわかった斉藤は、能力を欲した。妹のどんな小さな声でも聴くことが出来るようにと、願ったんだ」
「それであいつ、耳がいいのか」
「そうだな。僕が視ることが出来たのはそこまでだ。斉藤は能力を手に入れた後も色々あって、この学園に連れてこられたんだろうな。妹の記憶が強かったから、妹に関連する過去を視ることが出来たのだろう」
 竜太郎の言葉に、宗太は納得していた。
 ただ問題はここからだった。その過去を踏まえて、斉藤と別れる計画を立てるのは、沸騰したお湯の中に手を入れるぐらいに勇気のいることだった。火傷をするとわかっているのに、それをしないといけないのは、とても酷なことだ。
「少なくとも避けなきゃいけないことは、悪い噂を流すことだな」
 竜太郎がそう言って、廊下を歩く足を止めた。職員室まで、あと数歩というところだった。少しだけ前を歩いていた竜太郎が、宗太のほうを向いた。
「宗太」
「なんだ」
 名前を呼ばれて返事をすると、僅かな間を開けて、真剣な表情で竜太郎がこう言った。
「お前、斉藤に嫌われる覚悟はあるか」
 宗太は迷わずこう答えた。
「もとよりそのつもりだ」
 たとえどんな結果になっても、最悪の未来のためには悪魔にだってなる覚悟だった。

   5

 授業が終わって、夕食までの空き時間。夕陽が落ちていく速度で、宗太の気分も落ちていった。
 宗太と竜太郎は、男子寮の同じ部屋に住んでいた。二人の狭い部屋には、勉強机と椅子が二脚ずつあり、二段ベッドもあった。
 その部屋に今は宗太と竜太郎ではなく、宗太と寧々がいた。
 男子寮には、女人禁制という規則がある。よほどの例外がない限り許可なく女性職員と女子生徒は、男子寮には立ち入り禁止なのだ。
 しかし宗太たちは今、その規則を破っていた。
 これは竜太郎が立てた計画の最終段階だった。そしてその計画を立てた張本人は、現在この部屋にはいない。何処かで時間を潰していることだろう。
 寮の裏口から誰もいないことを確認して、寧々を招き入れた。部屋に入るまでの廊下を歩くときは緊張した。
「この漫画、この間面白いって言っていたやつ」
 宗太は何食わぬ顔をして、右手に持った漫画を寧々に渡す。
「ありがとう。でも本当にあたしここに居ていいの。ばれたらまずいんじゃない」
 寧々は自分がここにいることがばれることを恐れて、小さな声でそう言った。
「大丈夫。誰か来たらすぐわかるだろう」
 宗太はそう言って、寧々の左耳を指で示して彼女の耳の良さを指摘する。
「そうだけど」
 寧々がすこし困った顔をした。
「自室までは貸出出来るんだけど、漫画は外に持ち出し禁止だからさ」
「どうせルールを破るなら、そっちを破ればよかったのに」
 寧々がそう言って軽く笑う。
「でも、たまにはこういうハラハラドキドキするのもいいかと思って」
「スリル満点だね」
 声が部屋の外に漏れないように、宗太たちは出来るだけ小さな声で笑いあった。
 こうしている間にも、時間はゆっくりと流れていった。宗太たちの目線より上にある壁掛け時計の針の音が、嫌に大きく聴こえる。
「寧々」
 宗太は落ち着いた声で、彼女の名前を呼ぶ。
「ん?」
 寧々が首をかしげる。その手には、先ほど渡した漫画があった。
「付き合ってくれて、ありがとう」
 それはとても深い意味のある言葉だ。色々な意味を含めたありがとうだった。そんなこと、寧々は知ってか知らずか「こちらこそ」と返事をくれた。宗太は微かに笑みを浮かべた。
 それから数十分。寧々が漫画を読んでいる間。宗太は別の漫画を読んでいた。大学生の主人公が、同じ学部の女性と恋に落ちる青春漫画だった。宗太が体験することはないであろうキャンパスライフが繰り広げられていて、羨ましいと思った。
 芸能界にいる限り、普通の学生生活など送れない。そして今も、決して普通の学園生活を送っているとは言い難い。だから、これは宗太にとって、夢物語であった。
 もっと普通に竜太郎や、寧々と出会っていたらともう幾度も考えた。
 一方、寧々が読んでいるのが、少年漫画。料理を作ってバトルするギャグ漫画だった。時折、隣から聴こえる寧々の笑い声が、なんだか心地よかった。ずっとこの時間が続けば良いとさえ思っていた。
 漫画を読み終わると、宗太と寧々は他愛のない話をした。授業の話だったり、休日の過ごし方だったり、男子寮と女子寮の違いの話が、特に面白かった。
 そして午後六時半は、あっという間に来てしまった。
「そろそろ、帰るか」
 宗太は唐突に、寧々にそう尋ねた。
「え。もうこんな時間」
 時計をみて、寧々が驚いたような声を上げる。
 竜太郎との約束の時間だった。彼が帰ってくる時間は、事前に打合せしていた。宗太は重い腰を上げて、座っていた椅子から立ち上がる。寧々のほうをみると、彼女も慌てて立ち上がった。
「誰もいないといいけれど」
 宗太は緊張した面持ちで、部屋の扉の前に行く。
「ちょっと待って」
 寧々が能力を使って、部屋の周辺の音を聴いている様子だった。目を閉じて、集中している。
「足音が近い」
 寧々が呟いた。

   *

 そこからは、もうあまり思い出したくはない記憶だ。
 扉が開くと、そこにいたのは竜太郎と先生だった。宗太と寧々は逃げることが出来なかった。いや。逃げることなど、宗太は最初から考えていなかった。
 これは寧々にとっては酷い裏切りの話だ。宗太の信用は地に落ちた。宗太は、言い訳もせずに先生に寧々を部屋に入れた事実を、正直に話した。そして寧々にも、竜太郎に先生をこの部屋に連れてくるように指示していたことを伝えた。
 勿論この全てが、宗太と竜太郎の計画であることは伝えなかった。
 その日以来、寧々は宗太の事を嫌うようになった。会えば必ずと言っていいほど睨まれるし、きつい言葉が飛んでくる。それに呼応するように、宗太も彼女に対する態度を変えた。
 二十三時の「おやすみ」はなくなったのに、宗太はついカーテンの前に立ってしまう。窓の向こうで、一向に開かないカーテンに淋しさを感じながら、でもこれで良いのだと自分に言い聞かせた。
 宗太と寧々はきちんとした話をせずに別れた。裏切って嫌われるという考えられる中でもっとも最悪な手段で、破局した。
 これで本当によかったのかと、今でも疑問は残る。変な噂が流れないように、細心の注意をはらって行動したつもりだった。彼女との関係を切ってまで、彼女を守りたいと願った。その結果がいつ出るのか、宗太にはわからなかった。
 そう、例の少女に出会うまでは。
(第四章へ続) 

連載小説「あの箱庭へ捧ぐ」第二章

第二章 透し視る

   1

 学校のテストの時間は、いつも憂鬱だった。頭が良いほうではなかったため、悪い点数を取ったら母親に怒られた。丸川玲奈はそれが嫌で仕方がない。事前にテストの内容がわかったらどんなに楽かと、玲奈は思う。かと言ってテスト用紙を盗んだり、テスト中にカンニングする勇気も度胸もなかった。
「はぁ」
 玲奈は、ため息を吐く。
 テストの時間にひとりきりで教室にいて、ひとりきりでテストを受けているこの状況に、すっかり慣れてしまっている自分に嫌気がさしていた。
 黒板。教壇。玲奈の座っている椅子。テスト用紙と鉛筆と消しゴムの置かれた机。この教室には、それだけしかなかった。殺風景なこの部屋は、玲奈のために特別に用意されたものであった。そうしないといけない理由が、玲奈にはあった。
「えーと。これわかんないから適当でいいや」
 そんなふうに呟きながら、玲奈はマークシートの一部を鉛筆で塗りつぶす。こうして独り言を呟いていても、部屋に誰もいないため怒られることはない。どうして先生すら立ち会わないのかは、玲奈が一番よくわかっていた。
 この教室は、監視されている。監視カメラがあるわけではないが、玲奈にはそれがわかる。何故なら玲奈と同じ能力を持った人間が、このうみほたる学園には存在しているからだ。
 一年前。玲奈は母に連れられて、この学園を訪れた。理由は透視能力の発症だった。いつからとは、具体的にはわからない。しかし、いつの間にか玲奈は物体を透視する能力を手に入れてしまっていたのだ。
 そのことに気づいた日。玲奈は恐怖と同時に喜びを感じていた。この能力があればどんなことだってできる。そう思ったからだ。
 この能力に抵抗がないわけではない。他人のカバンの中身や財布の中身を、視ようと思えば視れてしまう。視る必要のないもの。視てはいけないものまで、視えてしまうのだ。それを視てしまえば、無意識に自分が犯罪者になってしまうのも避けられないだろう。そんなことは嫌だった。まっとうに生きることを両親は願っていたし、もちろん玲奈自身もそうでありたいと思っている。
 けれど、どうしても。ひとつだけやってはいけないことが、頭の中を過ってしまう。もう怖いテストの日だって恐れる必要はなくなったのだと。この能力を使えば、カンニングをしても絶対にばれることはないのだと。そう確信したとき、玲奈は思わず笑みをこぼしていた。自分の愚かな考えに自嘲した。
 結局、実行することはなかったのだけれど。

   *

 マークシートを全て塗りつぶし終わったころだった。突然、教室の扉を叩く音がした。まだ終わりの時間でもないはずなのにと、玲奈は首を傾げた。
「失礼します」と職員室にでも入るようなかしこまった態度で、その少年は扉を開けた。玲奈は首を傾げたまま、「はい」と返事をした。鉛筆を机に置くと、玲奈は両手を膝の上に乗せた。
 眼鏡をかけた少年は教室に入ってくるなり、「テスト中に失礼します。記入は終わったと思いますが」と衝撃的なことを口にした。
「どうして」
 わかるんですかと問いかけて、玲奈は気づく。この少年の顔に見覚えがあることに。そう、玲奈は彼に会ったことがある。確か、玲奈と同じような能力で、テスト中に玲奈の監視を任されている人物。川崎竜太郎である。
「忘れてしまいましたか。僕の能力は、どんなに遠くでも見通せる能力です」
「すみません。テストが終わって気が抜けているんです。頭が回っていないと言いますか」
 玲奈はそう言いながら、右手で頭部に触れる。
「そうですよね。こんなときにすみません。でも、今の時間でないとタイミングがなかったものですから」
「今の時間?」
「はい。あなたがマークシートをすべて埋め終わった今の時間。テストの時間がまだ終わっていないこの、少しもてあます時間です」
「それは本来、見直しする時間だと思うのですが」
 テストの時によく先生が、記入し終わってもテストは時間いっぱい見直しをしましょうと言うものだ。確かに彼の言うとおり、見直しなど数分で終わるので時間をもてあますかもしれないが。
「それは失礼しました。どうぞ、見直してください」
「その間、あなたはどうしているつもりですか」
「外に出て、もう一人の子と一緒に待っていますよ」
「もうひとり?」
 尋ねると、彼は頷いた。
「はい。いるんです。教室の外に」
 玲奈の透視能力には、欠点がある。近くの対象物しか透視できないことだ。対象物に触れると精度は上がるが、逆に言えばそのぐらいの距離にいないと使えないということだ。
 だから教室の外の廊下を、玲奈は透視することが出来ない。
「では」と彼は言ってさっさと教室を出て行く。玲奈はなんなのだろうと首をかしげながら、マークシートをもう一度確認する。先ほどの彼が気になって、玲奈は集中することが出来なかった。しかたなく、滑るように視点を動かして、見直しをする。終わるのに、二分もかからなかった。

   2

 テスト用紙を再び机に置いたころだった。先ほどと同じように、川崎竜太郎は教室に入ってきた。しかしさっきと違ったのは、小柄な少女を連れているところだった。先ほど言っていたもうひとりが、彼女だと理解するのは一瞬だった。
「失礼します」と川崎が言うのに続いて、その女の子も小さなか細い声で、同じように言った。まるで親の真似をするひな鳥みたいだなと思った。
「丸川さん。紹介します。彼女は、小池燐音さんです」
 川崎が促して、小池は頭を下げた。そしてまたか細い声で、「初めまして。よろしくお願いします」と挨拶をした。
「彼女は僕の、助手ということになりますかね」
「助手? 川崎くんは、探偵か何かやっているの」
 助手と聞いて真っ先に浮かんだのがそれだった。冗談を言ったつもりはなかったが、「そうだったら良いんですけれど」と言って川崎が笑った。
 川崎も笑うことがあるのだなと、玲奈は漠然と思う。なんとなく、笑わない人だと思っていた。
「それで、川崎くんと小池さんがこの時間にここに来た理由は?」 
 玲奈は単刀直入に聞いた。気になって仕方がなかった。
「僕らがこの時間にこの教室を訪れた理由は、ただ都合がよかったからです。この時間であれば、他の誰にも邪魔をされずにあなたと話ができる。と」
 教室には玲奈と川崎と小池の三人だけだった。
「小池。あれを」
 川崎が、小池に目配せする。
 小池はそれまでずっと、何か袋のようなものを右手に持っていた。気にならなかったわけではない。玲奈自身に関係のあるものだとは思っていなかったのだ。
 白と黒のストライプ柄をしたビニール製の手提げ袋。学園内にある雑貨屋さんで貰えるものだ。雑貨屋「ライフ」可愛い文房具や小物が売っている。学園では、毎月現金で三千円の支給があるため、そのお金で好きなものが買えるのだ。しかし、種類が豊富なわけではないのでえり好みはできない。店員は年齢が二十代以上の人たちばかりで、ほとんどが能力者だった。
 袋は何か入っているのか、僅かに膨らんでいた。小池は川崎に促されて、少し慌てたように袋を開いてその中に左手を入れる。そうして彼女が取り出したのは、どこか見覚えのある小物入れだった。それは、小池の小さな手の平におさまるほどの大きさで、外装は紺色に塗られてるスチール製の箱だ。ところどころ錆びている。
「なに。それ」
 玲奈は顔をしかめながら尋ねた。
「実はあなたに、頼みたいことがあります」
 川崎は箱を小池から受け取ると、そう言った。
「頼みたいこと? その箱に関することなの」
 玲奈の中で、また疑問が生まれる。ひたすら首を傾げるしかなかった。
「ええ。一言で伝えます。この開かずの箱を、あなたに透視してほしいのです」
 真面目な顔をして、川崎が言った。
 玲奈には彼が何を言っているのか、まったくわからなかった。どうしてその必要があるのか理解できなかった。川崎の能力で玲奈と同じことが出来るはずなのに、どうして彼は自分で視ないのだろう。何か理由があるのだろうか。
「それは、川崎くんには出来ない事なの」
 玲奈は素直に疑問をぶつけてみる。
「はい。あなたではないと意味がないのです」
 そう言って川崎は頷いた。
「どういうこと。私に関係がある箱ってこと? 身に覚えがないんだけれど」
「そうですね。あなたが知らないのも当然です。これは、あなたの家族から受け取ったものですから。そして本来ならば、あなたに渡さずにあなたの卒業まで厳重に保管されるはずでした」
 川崎の言葉に、玲奈は思わず目を見開く。
 家族から。という事実に信じられない気持ちになったが、それよりも本来ならば知らされずに保管されるはずだったものを、どうして玲奈にみせたのか。彼の考えがよめない。
「この箱には、おそらくあなたに関連したものが入っていると思います。だから僕が視るわけにはいかないのです」
 怖いという感情が、玲奈の胸の奥で嵐のように吹き荒れる。右手で、左手を掴む。体が震えているような気がしてならなかった。幸いにも、そんなことはなかったのだが。
「もしそうだとしても。私には、それを視ることはできないわ」
 しばらくの間の後、玲奈は言った。
「どうして」と川崎が尋ねてくる。
「私にとって良いものが入っているとは、思えないからよ」
 玲奈の言葉に、川崎は何も返しては来なかった。困っているのかもしれないし、真面目な顔のまま、何かを考えているのかもしれなかった。玲奈には川崎が何を考えているのかわからない。けれどそれは玲奈の本音だったものだから、訂正する気はなかった。
 しばらく沈黙が流れた。それを破ったのは、意外にもずっと黙っていた小池だった。
「あの。そうとは限らないのでは、ないかと」
 言葉の最後は自信がなさそうに消えていった。彼女は玲奈と目を合わせようとしない。それを不快だとは思わないが、もっと自信を持てばいいのにと、憤りを感じた。
「どうしてそう思うの」
 強い言葉にならないように気を付けたつもりだったが、果たしてそれが彼女に伝わったかどうかはわからなかった。今にも泣き出しそうにみえるその瞳は、水面に反射する日差しのようで、今の玲奈には眩しかった。
 玲奈は、小池の返答を待っていた。小池の隣に座っている川崎も、彼女の言葉を待っている様子だった。彼女のことをみつめている。
「あなたは先ほど、身に覚えがないと言いましたが、本当はそうではない。と思います。あなたはただ怖がっているだけ、なのだと思います」
 何かに慌てたように、小池は言った。
「それは……」
 玲奈は何も言い返せなかった。確かに彼女の言うとおり、箱にまったく見覚えがないわけではない。しかしどこでみたのか、思い出せないのだ。
「思い出してください。それはきっと大切な記憶です」
 小池は勇気を振り絞るように、そう言いながら箱を玲奈の机の上にそっと置いた。繊細なものを扱うかのような手つきだった。
 それをじっとみつめていた彼。小池の隣に座っている川崎が、何かに頷いた。
「丸川さん。実は僕、もうひとつ能力を持っているのですが。今、きっとあなたの役に立つと思います」
「え?」
 唐突な川崎の言葉に、玲奈は本日何回目かわからないが、首を傾げた。
「僕は、他人の過去を視ることが出来ます。信じられないかもしれませんが」
 川崎はそう言って眉をハの字にした。
 玲奈は首を横に振る。
「信じられないものは、ここじゃ普通でしょう。だから、気にしないで。でも、その能力は本当に今、役に立ちそうね」
 ふぅっと玲奈は息を吐く。自分の過去を覗かれることに、気持ち悪さを感じないわけではない。しかしそれしかこの胸の中にあるもやをはらせないのなら、川崎の能力に頼るしかないと、玲奈は思った。
 川崎は微かに頬を緩めた。
「箱の記憶だけ、視てもいいですか」
「お願いしてもいい?」
「はい」
 川崎は頷いた。それからゆっくりとパイプ椅子から立ち上がり、座ったままの玲奈の前に、右手を差し出した。
「どちらの手でも構いません。触れないと視られないのです」
「わかったわ」
 玲奈は握手をするように、右手を差し出した。
 川崎がその手に触れると、両目を閉じた。彼の手は、温かかった。

   3

 玲奈の祖父が亡くなったのは、中学一年生の頃だった。
 玲奈にとっての祖父は、温厚で優しい人物であったが、それは玲奈の母にとってはそうではなかったらしい。玲奈の祖父は、母の父親でもあった。母にとっての祖父はとても厳格な人で、そんな祖父が一度だけ、母に贈り物をしたことがあるという。
 それが、紺色の小物入れの中身だった。
「私が社会人になるときにね。これを贈ってくれたのよ」
 母は嬉しそうに言った。
「でも私、鍵を失くしてしまったのよね」
 そしてそう言うと、すぐに表情を曇らせた。
 紺色の箱には鍵穴があり、鍵がないと開かないようだった。
「何が入っていたのかも、もう思い出せないわ」
 哀しそうな母の表情に、玲奈も哀しい気持ちになった。
 その話を母から聞いたのは、まだ祖父が亡くなる前だ。その頃の母は、まだ玲奈にとって優しい母親であった。
「どうして、そんなに大切な箱なのに、鍵を失くしたの」
 と玲奈が尋ねると、母は困ったようにこう言った。
「仕事の忙しさにかまけて、箱の存在を忘れていたの。それで、鍵もいつのまにかどこかへいってしまった。恥ずかしい話ね」
 どうして今になってその箱をみつけてしまったのか、母はわからないと言った。せめて中身のことを思い出せればと言う。
「探そうとはしなかったの」
 そう尋ねると、母は言った。
「探したわよ。部屋中をくまなく。でも結局、みつからなかった」
「おじいちゃんは、このことを知っているの」
「言っていないけれど、多分気づいていると思う。あんまり口をきいてくれないから」
 母はそう言うと、淋しそうに笑った。
 祖父が亡くなる直前、何があったのか玲奈は知らない。もしかしたら箱の事で喧嘩したのかもしれないと思っている。何故なら祖父の亡くなった日。玲奈が学校から帰ると母は不機嫌で、そのあとすぐに病院から電話がかかってきたのを覚えているから。

   *

「結局。箱の中身が何か、わからずじまいだったな」
 小池と共に廊下を歩きながら、竜太郎は言った。
 堀田理事長から洸生会に依頼があったのは、つい先日の事だった。丸川玲奈の母親から箱を預かった。この箱を玲奈に渡してほしいと言伝されたという。原則、卒業するまでは外部からの荷物は衣類品以外渡せない。それが学園の規則なのだから理事長も本来ならば卒業まで箱を保管、又は返却するつもりだった。しかし、洸生会の依頼にしてしまえば話は別らしい。理事長のずるさが垣間みえた。
 母親の真意はわからない。娘に渡せばこの箱の中身を彼女が知ることが出来る。それをわかっているはずだ。ただ丸川と母親の関係性を理事長から聞いていたので、簡単には箱の中身をみないだろうと竜太郎は思った。だから丸川本人に直接提案してみたのだ。箱の中身を透視してほしいと。
「うん。もう視るしかなさそう」
 小池が頷きながら言う。
「視てくれると思うか」
 竜太郎が尋ねると、小池は長い髪を揺らしながら頷いた。
「きっと、視るよ」
 小池の言葉に力強さを感じて、竜太郎は足を止めた。小池もどうしたのとでも言いたげに足を止めた。
「何で、そう言い切れるんだ」
「だって、丸川さん。お母さんの事が大好きだから」
 小池の言葉に、竜太郎は目を丸くした。
 理事長から聞いていたのは、丸川玲奈は透視能力のせいで、カンニングの疑いをかけられた。それを知った母親との関係が悪化したという事情だ。
 だからお互い嫌っている。と竜太郎が勝手に思っていたのかもしれない。
 小池は人の心をよむことが出来る能力を持っている。丸川は母親の事を嫌ってはいない。彼女が言うなら、そうなのだろう。と竜太郎は思い直し納得した。
「そうか」
 竜太郎はそう言って、また歩き出した。小池もそれに続くように、竜太郎の後ろをついてくる。
 やれるだけのことはやった。自分たちが彼女の役に立てたのか。それを知るのはもう少し後の事だろう。
 あとは丸川玲奈。彼女次第だった。

   4

 きっかけは何気ない一言だった。
「カバンの中、もうちょっと探したら。底のほうにあるよ」と、玲奈は定期券を失くしたと騒いでいたクラスメイトに対して、そう助言をしたのだ。もちろん能力を使わない限り、そんなことはわかるはずがない。でも玲奈はわかってしまったのだ。透視能力があったから。
 ただの親切心で、能力を使ったつもりだった。玲奈にもまだそんな良心が残っていたことを褒めてほしいぐらいだった。
 定期券は本当にカバンの底のほうに隠れていて、クラスメイトの彼女はそれをみつけると、すごく喜んでいた。お礼を言われたが、同時に不信感を抱かせてしまった様子で、「どうしてわかったの」と、彼女は驚いたように目を丸くしながら言った。
 玲奈は焦りを感じたが、それを必死に顔に出さないようにした。
「えっと。そうじゃないかなって。ほら、定期券て薄っぺらいでしょ。パスケースに入れていたとしても鞄の中で横になっていたら、他の物に隠れていてみつからない時ってあるじゃない」
 玲奈の言い訳に納得してくれている様子だったが彼女は終始、首を横に傾げていた。
 玲奈がしたことは普通じゃない。ありえないことに対して、疑問を持つことは真っ当だ。「ねぇ、丸川さんもしかして透視能力でも使ったの」
 彼女は冗談交じりに、笑いながら尋ねてきた。
「え?」
 玲奈は動揺が隠せなかった。
「だってさ。そうでもないとあり得ないじゃん。何だっけ。最近はやりの能力病でも発症したの」
 彼女の質問に、玲奈は必死に声の震えを抑えた。
「そ、そんなわけないじゃない。あれって社会不適合者とかがなるやつでしょ。私は普通に学校に通っているし、不登校になったわけじゃない。だからあり得ないよ」
 世間的には、社会不適合者が能力を発症する確率が高いと言われている。そのため病気と言われたりしている。そのことは、ニュースでも取り上げられているため誰でも知っている情報だった。
「それもそっか」
 そう彼女は笑って返していたが、次の日からなんだか嫌な噂が流れるようになった。このクラスに、能力者がいるという噂だ。
「まじかよ」
「ほんとだって」
 教室にいると、嫌でも会話が耳に入ってくる。
「透視能力とか、一度は夢見たやつじゃん」
「お前、あんな噂本当に信じてるのか」
「全部透けて視えるのかな。体とか骨まで視えたらもうレントゲンいらないだろ」
 クラスメイトの男子が、けらけらと笑っていた。
 視ようと思えば視えるけれど。と玲奈は口には出さずに思った。
 噂が落ち着くまでは何を言われても仕方のないことだなと諦めながら、明日から始まる憂鬱なテストのことを考えていた。
 また悪い点数を取ったら、母親に怒られる。そのことだけが頭の中を駆け巡る。もういっそのこと、透視能力を使って他の人の回答を盗み視ようか。でも変な噂が流れているこの状況で能力を使ったら、自分が能力者だと確定してしまう。
 悪い考えが、頭の中で浮かんで消えてを繰り返した。それはテストの直前まで続いた。

   *

 玲奈はテスト期間中、最後までカンニングをしなかった。
 勇気がなかった。たったそれだけの理由だ。母に怒られるのは嫌だが、落胆させるのはもっと嫌だと思ったからだ。だから真面目にやることにした。後悔するかもしれない。なんて思うが、行動してもっと嫌なことになるぐらいならやらないほうが良いと思った。それにせっかく勉強したのに、その努力を水に流すことになる。
 テストがすべて無事に終わり、帰り支度をしていた時だった。
「あーあ。透視能力でもあったらテストも楽なのにな」
 誰かが言った。テストの事で頭がいっぱいで、誰もがその噂を忘れていたと思うのに、蒸し返す者がいた。
「他の人の答え視られるじゃん。ねぇ、丸川さん」
 名指しされて、心臓が跳ね上がった。
 何も悪いことはしていないはずなのに、冷や汗を掻いている。
「え?」
 大波が玲奈のほうへと押し寄せてきているような気がした。おそるおそる声の主の方をみると、以前玲奈が透視能力を使ってなくしものを探してあげたクラスメイトの女の子だった。
 教室にいた担任の先生が、彼女の発言に反応する。
「どういうことだ。それは」
「実は……」
 そうしてクラスメイトの彼女。もう名前も思い出したくない彼女が、あることないことを説明しはじめた。
 パスケースの件は真実だが、その後のカンニングの話はすべて作り話だ。偽物だった。それをさも事実かのように彼女が話すものだから、その場にいた者たちはそうかもしれないと思ってしまったのだ。
「透視能力が、あるのか」
 と先生に問われ、玲奈は否定しなかった。良くも悪くも正直者だったのだ。嘘をつけなかった。それがよくなかった。
「でも、カンニングはしていません」
 誰も玲奈の言葉を信じてくれなかったのだ。
 本当です。信じてください。そう言っても先生は疑うのをやめなかった。玲奈のテスト用紙をすべて確認して、間違っている問題があるにも関わらず、ばれないようにわざと間違った答えを書いたのだろうと結論を出した。透視能力があるからという理由だけで、玲奈のすべてを否定した。玲奈の能力の事をよく理解もせずに、カンニングしたと決めつけた。
 そこにあるのは悪意だった。
 学校に呼び出された母はカンニングの件を聞くと、最初は「そんなことをするはずがない」と味方してくれていたが、透視能力の話を聞くと、顔を青ざめた。
「それは本当なの」と玲奈に事実を確認してきたので、玲奈は透視能力のことだけを肯定し、カンニングのことは否定した。
 母は酷く落胆したような表情をしてこう言った。
「もういいわ」
 それは呆れから発せられた言葉だったと思う。
 母さえも、玲奈の言葉を信じてはくれないのだとそのときに理解した。玲奈はもう何を言っても無駄だと思った。だからそれ以上何も言わなくなった。 
 結果を言えば、透視能力を使った証拠がないということで、自宅謹慎ということになった。その間、玲奈は母と一度も会話をしなかった。父は仕事ばかりでいつも家にいない。
 ここからは理事長から聞いた話だ。
 母から、うみほたる学園という能力者たちを集めている学園に電話があったらしい。娘が透視能力を発症したと相談を受けたという。どうしたら良いのかわからないのでそちらで引き取ってほしいと。理事長はすぐに丸川家へと向かったそうだ。
 そうして玲奈は、うみほたる学園へ入学することになった。
 これが一年前の話である。

 5

 小さな紺色の小物入れの箱が、玲奈の自室の勉強机の上に置いてある。玲奈はそれをじっとみつめて、集中していた。
 女子寮なので同室の女の子がいたが、その子は外出中だ。どこへ行ったのかは知らないが、しばらく戻っては来ないだろう。
 玲奈が箱とにらめっこをして何分経ったのかはわからない。ただ椅子に座ったままずっと透視するかどうか悩んでいたのだ。
 この箱を渡された意味を、ずっと考えている。
 川崎の過去を視る能力でこの箱の記憶を聞いて、玲奈は箱について思い出した。母の大事なものを、どうして母が私に渡そうとしたのか。理由がわからない。わからないから怖い。
 小池が指摘したとおり、玲奈はただ怖がっているだけなのだ。
「あの子。エスパーみたいな能力でも、持っているのかな」
 呟くように玲奈は言って、困ったように眉をハの字にしてひとりで笑う。
 玲奈は深く呼吸し心を落ち着かせる。それから箱の上部にゆっくりと右手の人差し指で触れた。
 能力を使うと、箱の中身が透けて視えてくる。
「これは、万年筆と、紙?」
 その紙は、カードのように小さなものだった。そこにはこう書かれている。

『就職おめでとう。君の未来が、とても明るいものでありますように』

 名前は書いていなかったが、達筆なその文字をみて玲奈はすぐにそれを書いたのが祖父であると気づいた。
 玲奈は箱からゆっくりと手を離す。やはり玲奈がみて良いものではないと思った。これは母に贈られたものだ。祖父から母への愛の詰まったものだ。
 そう思いながら、玲奈は椅子から立ち上がった。
 母にこの箱を、返さなければならない。

   *

 丸川玲奈が竜太郎の所へやってきたのは、箱を渡した翌日の事だった。クラスを教えていたので、彼女は授業の合間の休憩時間に竜太郎の教室にやってきた。
 竜太郎は丸川が教室の前で立ち止まるころには、彼女の前に居た。竜太郎の持つもう一つの能力。どんなに遠くのものでも視えてしまう眼で、丸川が教室に向かってきていることを知っていた。
「びっくりした。今、呼ぼうとしていたのに」
 当然、丸川は驚いた顔で竜太郎の事をみた。
「呼ばなくても、視えるので。用があって来たのでしょう」
「そうだったわね。あなた、視えるんだった」
 丸川がそう言って頭を掻く。
 竜太郎は丸川に、廊下の端まで歩くように伝えた。二階の廊下の行き止まりには、すりガラスの窓があった。その前まで来ると、竜太郎と丸川は立ち止まる。
 本当はこの場に小池燐音も呼んで、玲奈の心をよんでほしかったが、そう都合よく彼女は居ない。斉藤寧々と一緒にどこかへ行ってしまったからだ。
「これ」
 丸川が雑貨屋の袋を竜太郎に向かって差し出す。中身は視なくてもわかっていた。丸川の母親から受け取った箱だ。どうやら彼女は、それを竜太郎に渡すために教室に来たらしい。箱の入った袋を胸に押し付けるように渡してくるので、竜太郎は仕方なく受け取る。
「視たの。中身。何が入っていたと思う?」
 丸川の問いに、竜太郎は答える。
「社会人になったときのお祝いです。それを長期で放置していたのですから、お菓子類ではないでしょうし。小さな箱に入っているので、何となくですが予想はできます。おそらくペンか何かかと」
「ほとんど正解かな。万年筆だったよ」
 丸川はそう言って微笑んだ。
 少し嬉しかったが、竜太郎は顔に出さなかった。他の事を考えていたからだ。
 洸生会への依頼は、丸川玲奈に箱を渡すことだ。透視を頼んだが、本来の目的は達成している。箱を返されても困るのだ。
「あのさ、川崎君。一つだけお願いしてもいい?」
 真剣な表情の丸川に、竜太郎は思わず「何ですか」と返す。
「あなたと小池さんが、誰に何を頼まれていたのか知らないけれど、私はこの箱を受け取れない。中身を知った今だから、なおさら思う。この箱を、持ち主に返してほしいの」
「それは」
 竜太郎は額に眉を寄せた。
 箱を母親に返すということがどういうことなのか。丸川は理解しているのだろうかと、竜太郎は思っていた。小池はどう転んでも良いと思うと言っていた。それが丸川の選択だと。だが竜太郎の考えは違った。
 丸川の母親は、鍵をなくして開かなくなった箱を娘に渡したかった。彼女に箱の中身を視てほしかったのだ。そこに何か意図があるはずだ。
 中身は万年筆だと丸川は言った。果たしてそれは本当の事だろうか。
「丸川さん。あなたのお母さんがこの箱をあなたに渡したかった理由を、理解していますか」
 竜太郎はいつになく真剣な眼差しで、丸川をみつめた。
 肩までの黒い髪の毛が、不安そうに揺れていた。
「みて見ぬふりをしていませんか」
 丸川が目を見開く。
「わかっている」と言った彼女が一歩後ずさるのを、竜太郎は見逃さなかった。
「お母さんは、ただこの箱の中身が知りたかったんでしょう。だから私にこれを渡すように頼んだ。違う? だから返すのよ。あなたに頼みたいのは、箱の返却と、中身が万年筆だったって母に伝えてほしいの。それとメッセージカードに書かれていた言葉」
 そこまで言って、丸川が口を右手で押さえる。彼女にとってそれは、余計なことまでいってしまったということだろう。
「メッセージカード」
 竜太郎は気になった単語を繰り返す。とても重要なことのような気がした。
「何と書かれていたんですか」
 竜太郎の質問に、丸川は観念したように口から手を離した。
「就職おめでとう。君の未来が、とても明るいものでありますように。って。でもこれは、祖父が母に向けたメッセージで、私にはなにも関係がない」
 答えながら丸川が首を振る。
 丸川の母親が本当に伝えたかったことが、竜太郎にはなんとなく理解できる気がした。
 竜太郎は柔らかく笑う。
「本当にそうでしょうか。そのメッセージは、あなたの母親が伝えたかった言葉と同じなのではないですか。誰かに何かを贈るという行動は、良くも悪くも相手の事を想ってすることでしょう。あなたの記憶を視たところ、この箱はお祝いのために贈られたものです。あなたの母親は、あなたのことを想ってこの箱をあなたに渡してほしいと言ったと思います。ですから――」
「だとしてもよ」
 竜太郎の言葉を遮るように、丸川が声を荒げた。
「そうだとしても、私は。私たちの未来は、決して明るいものにはならない。あなただってそうでしょう。能力が使えるようになって、病気だって言われて。いつ治るかわからないって言われて。私、知っているのよ。この学園から卒業して外の世界に戻った人はほとんどいないって。つまりそれは、一生治らないかもしれないってことでしょう」
 彼女は過去に囚われたままなのかもしれない。と竜太郎は思った。確かに能力を発症する病気は、いつ治るかわからない。けれど、絶対に治せないわけではない。そのためにつくられたのが洸生会なのだ。
「それは違います」
「何が違うっていうのよ」
「一生治らないってことはないです。卒業生だってゼロではありません。ちゃんと前例はあります。明るい未来だってあります」
 竜太郎の言葉に、丸川が目を見開いた。その瞳は水面のように揺れている。
 嘘はひとつも含まれていなかった。事実、過去に何人かは卒業している。ただ彼女が知らないだけである。原因は卒業式を大々的に行わないからだろう。卒業のタイミング。つまりは能力者が能力を失うタイミングが決まっているわけではない。学園という体裁をとってはいるが、個人が重視されているため、内輪のお別れ会はあっても行事としての卒業式は行われないのである。入学式も同じだ。なので、いつの間にか入学してきていつの間にか卒業しているなんてことが、ざらにあるのだ。
 竜太郎は丸川に、悲観してほしくはないと思った。自分たちの未来を、勝手に否定してほしくなかったのだ。
「ほん、とうに?」
 かすれた声が、丸川の口から零れた。
 竜太郎は黙って頷く。それから丸川に袋を返した。
「だからそれは、受け取ってください。僕たちはあなたの母親に、あなたの手にその箱が渡ったことを伝えなければなりません」
 丸川が震えた手で、箱の入った袋を受け取る。彼女は自分の顔を隠すように袋を持ち、身体を震わせていた。泣いているところを、竜太郎にみられたくないようだった。
 丸川は嬉しくて泣いているのだと、竜太郎は勝手に思った。そうでないといけなかった。そうでないと、誰も救えないのだ。

 6

 空は気持ちのいいほど晴れていて、玲奈は前を歩く米田先生の後を歩きながら、これから会う人たちの事を考えている。
 両親が面会に来た。米田先生にそう告げられた時、玲奈は自分の耳を疑った。この一年間、一度も面会に来なかった両親が来てくれたことに信じられない気持ちになった。
 何か心境の変化があったことだけは、確かなのだろう。この右手に持った袋の中に入った箱のおかげだろうか。
 会っていない時間を埋められるとは思えないけれど、それでも今は落ち着いて話ができるような気がしていた。
 明るい未来が本当にあるのなら、それは家族と一緒のほうがいい。そうに決まっている。
 学園本部の高い建物の中に、来客用の個室がある。玲奈はその部屋に通された。そこで待っていたのは、セミロングの髪型をした母親と、恰幅の良い父親だった。二人はどこか緊張した面持ちでソファに座っていた。
「それでは、二時間ほどしたらもう一度来ます。それまでは家族の時間をゆっくりとお過ごしください」
 米田先生が言った。軽く頭を下げる。
 玲奈は頷いたが、たった二時間しか両親と話をする時間がないのか。とも思った。
 残念な気もするが、一時間も話が持たない気もしていたので、妥当な時間なのかもしれなかった。
「ひ、久しぶりだな」
 たどたどしい口調で、父が言った。
「うん。久しぶり。元気だった?」
 玲奈は少し意外に思っていた。この場に母だけではなく、父まで来た事に。
「元気だ。それより悪かったな。長いこと面会に来てやれないで。淋しかったんじゃないか」
「私の事なんか忘れちゃったんじゃないかって思っていたよ。でも大丈夫。友人もいるし、ここでの生活に慣れちゃったから」
 そこまで言って、これはただの強がりだと素直に言えばよかったと後悔した。
「そうか」
 父はそう言ってから、口を閉じてしまった。
 玲奈は父と母の向かい側のソファに座った。二つのソファの間には、木製のローテーブルがある。玲奈は自分を落ち着かせるように呼吸すると、持っていた袋から小物入れを取り出して、テーブルの上に置いた。
 今日、何故二人がここに来たのか、玲奈は理由を考えていた。川崎の言った通り、この袋の中の小物入れが関係しているのなら、玲奈はそれを確かめなければならなかった。
 父と母の視線が、テーブルの上に置かれた小物入れへと集まっている。
「今日ここに来た理由。この小物入れと関係しているの」
 玲奈は勇気を出して、父と母にそう尋ねた。
 母は静かに口を開いた。
「その箱は、自室を整理していた時に偶然みつけたのよ。とても懐かしい気持ちになってね。その後、箱の鍵を一生懸命に探したの。時間はかかってしまったけれど、やっとの思いで探し出して、中身を確認したわ。それで、これをあなたにもみせたいと思って、理事長さんに託したの。あなたがそれを持っているということは、中身を視たのよね」
 母の問いに、玲奈は素直に頷いた。
「うん」というと、母は安堵した表情をみせた。
「でも鍵があるのなら、どうして能力を使わせたの」
 素朴な疑問に、母は首を横に振った。
「それは理事長さんの提案にのらせて頂いただけよ。あなたのことだから、普通には受け取ってくれないだろうって。私も同じように思ったから承諾したの」
 理事長も母も、玲奈の性格をよく知っているようだった。だから回りくどいやり方で、玲奈に箱の中身をみせた。それを理解して、玲奈は少しだけ顔を綻ばせた。
「それからお父さんとお母さん。ちゃんと話し合って、お互いに反省したの。あなたのことを考えてあげられてなかったことに気づいたの。不思議ね。その箱に。いいえ、お父さんに気づかされたみたいだった」
 そう言う久しぶりに見る母の顔は、少しやつれていた。
 母の言葉に、玲奈は祖父の顔を思い出してみる。晩年の祖父は優しく、朗らかな表情で、玲奈の名前を呼んでくれていた覚えがある。
「あの時は、信じてあげられなくてごめんね」
 それはとても温かな言葉だった。
「それから、改めてこの言葉を送るわ。あなたの未来が、とても明るいものでありますように」
 玲奈の心の中で固まっていた氷が、母の一言で溶けていくような気がした。

(第三章へ続)

連載小説「あの箱庭へ捧ぐ」第一章

第一章 影を踏む

 1

 足立清二は到着時間の連絡を受けてから数十分は、事務室で待機していた。室内にある壁掛け時計をみずに、ここ数年愛用している腕時計をみつめる。そろそろ出迎えの準備をしなければならない。窓の外を見ると先日の梅雨入りが影響してか、空は気分がしずむほど曇っていた。
 ウミホタルは海の生き物だ。甲殻類で刺激を受けると威嚇するために発光するらしい。そんな生き物から名前をとったうみほたる学園は全寮生で、日本全国から集められた生徒や教師、その他の関係者を含めて約八百人ほどの能力者たちが生活している。
 都会から遥かに離れた山の中腹にあるため、自然に囲まれた広い敷地内に、大きな校舎や食堂が建てられていた。小さな雑貨店や洋服店もあるが、品揃えが良いとは言えない。男子寮と女子寮には中等部や高等部の生徒たちが住んでおり、先生や施設の職員たちは、アパートで暮らしている。年齢の制限はないが、十代から四十代ぐらいまでの能力者たちが学園に在学している。しかし、日本中のすべての能力者が集められているわけではない。全寮生のために敷居は高いのだろう。学費のこともある。学園内で働く者たちは、ある程度は免除されているがそれでも簡単に入れる学園ではないことは確かだった。
 近年、ニュースでも取り上げられることが多くなった、不思議な能力を持つ人間。それは子どもから大人、男女関係なく発症する病気のようなものだとキャスターが言っていた。
 能力病と呼ばれている。その力のせいで家に引きこもる子どもや大人が多くなった。子どもは学校に行かなくなり、大人は仕事をしなくなる。そんなふうに言われている。
 その能力は多岐にわたる。魔法のように何もないところから火や水を生みだしたりする者もいれば、五感が異常に発達していたり、共感覚を持ち合わせている者もいるという。原理はわからない。けれど、わからないこそ恐れられて一か所に集められているのかもしれない。
 どんどん増え続けている能力者を囲っておける場所は限られている。この学園以外にも、そういう学校や施設が増えているという。能力者の研究をしている場所もある。その中でも規則が厳しいと言われているこの学園は、一度入ったら卒業できるまで一時的な外出はおろか外との連絡も一切禁じられている。

   *

「足立先生。ちょっとよろしいですか」
 声をかけられたので事務室の扉から顔を出すと、そこにいたのは本間宗太という少年だった。顔は奇妙なほどに整っていて、美形と言っていいほどだった。街を歩くと必ず目を引くだろうその少年は、元子役の芸能人という経歴を持つ。彼は子役の頃に一世を風靡したらしい。言われてみれば確かにどこかで見たことのある顔をしている。そして学業に専念するという理由で、十二歳で芸能界を引退していた。現在は十七歳。これだけ顔が良いならば復帰してもよさそうなものだが。そんな彼がどうしてこの学園に在学しているのかと言えば、能力者になってしまったから。という理由の他ないだろう。
「どうした」
 あまり時間はないが、足立は対応する。時間がかかることならば他の先生に託すが、そうでないならばやってしまおうと考えた。
「斎藤寧々さんが門の近くにいるのを見たんですけど、放っておいていいんですか」
 本間の言葉に足立は目を丸くして、それからすぐに頭を抱えて大きく息を吐いた。「またか」と呆れたように呟く。
 斎藤は問題児だ。予想できなかったわけではない。しかし、ここしばらくは大人しくしていたので油断していたことも事実だ。
「ありがとう。すぐに向かう」
「気を付けたほうがいいですよ」
「ああ」
 本間の忠告を聞いてから、足立は急いで警備員に連絡する。電話で話した限り、監視カメラには斎藤の姿は映っていないとのことだった。本間の話を信じるならば、監視カメラの死角を突いて移動しているのだろう。しかし、そんな器用なことを斎藤ができるとは思えない。できるとすれば協力者がいる場合だ。斎藤の脱走騒ぎはこれで三回目だ。一回目は学園に入学したての頃、家に帰れないと知るや否や暴れて、教師たちを振りきって脱走しようとした。二回目は、斎藤が規則を破って謹慎処分を受けたのに、脱走しようとした。
 これまでの斎藤には、計画性というものがまるでなかった。
 協力者を得たうえで、斎藤が脱走計画を実行しようとしているならば、これは非常に厄介だ。斎藤が今までと同じで勢いだけで脱走しようとしていたなら、まだ楽だっただろう。
 学園の門が開閉するには二つの理由がある時だけだ。一つは、教師が用事や休暇で外に出るとき。もう一つは新入生を迎える時だ。それ以外はよほどの理由がないと開かない。そして今日は、新入生がやってくる日だった。
 このことは基本的に生徒には通知されない。だが、斎藤の持っている能力の事を考えれば、彼女がその情報を知っていてもおかしくはなかった。 
 斎藤は、聴覚が常人離れしている。どんなに小さな音でも、遠くの音でも聴くことができるらしい。
 今日門が開くことを知っているのなら、斎藤が脱走する絶好の機会だと考えていてもおかしくはない。協力者の力を借りれば、監視カメラを避けながら門まで移動することも容易いだろう。
 そこまで考察して、このままでは、新入生と斎藤が入れ違いになってしまう事実に気づいた。足立は急いで門へ向かった。事務所から門の間はそれほど距離はない。門前に着くと、連絡を受けた車の到着時刻と斎藤のことを警備員と話し合う。時間まで待機し、理事長たちの乗った車の到着と、斎藤を待ち伏せすることにした。
「厳重警戒だ」と足立は警備員の二人に言った。

 2

 車が二台、坂を登ってくる。監視カメラの映像を見ている警備員のひとりから、連絡が入る。足立はイヤホンから聞こえてくる声に返事をした。
 足立は何気ない顔をして、身長が百八十センチある自分よりも高い壁に挟まれた重い鉄格子を両手で押す。地面に埋め込まれたレールと格子が甲高い音をたてながらゆっくりと動いていく。
 通常、門には誰かが脱走しないように監視カメラと警報機がとりつけられている。しかし今回のように職員が出入りする際は、一時的に警報が鳴らないように設定している。
 足立が片側の門を終点まで動かすと、もう片側の門を押していた警備員も開け終わったらしく、「ふう」という声が聞こえた。
 左右の門が開き終わると、二台の車が徐行しながらうみほたる学園の敷地内に入ってくる。足立は車が二台とも門を通り終わったことを確認すると、辺りを警戒しながら、再び門に手をかける。
 そのときだった。
「おい。そいつを捕まえろ」
 足立よりも先に斎藤の姿を目で捕えていた警備員の叫び声が聞こえた。みると、確かにこちらへと走ってくる人物がいる。青い帽子を被った、少年とも少女とも見分けのつかない風貌をした人物。それは紛れもない、脱走犯。斎藤寧々の姿だった。
 斎藤が門の外へ出ようと走っている。近くで停車した二台の車からは、もう誰かが降りようとしている。そして斎藤と、車から降りてきた足立とは面識のない女の子。おそらく話に聞いていた新入生がすれ違う。斎藤がその子に気を取られていたその一瞬。足立はその隙を狙って自分の影を伸ばした。

   *

 空は曇っているが、まだ雲の隙間からは太陽が見える。丁度いい天気だった。
 うみほたる学園は能力者しか入れない。足立もその例にもれず。影を操ることが出来る能力者だった。
 足立は自分の影を使い、斎藤の影を捕える。足立の影と斎藤の影が繋がり、ひとつになる。次に足立は右の足を真横に動かした。斎藤の右足の影が、斎藤の意思とは関係なく横方向へと動く。影が動くとどうなるか。影を作っている物体もまったく同じ方向に動くことになる。本来ならありえないことだ。しかし足立の能力は、そういう能力であった。
 走っている斎藤の右足が影と同じく真横に動いた。斎藤はその場で体のバランスを崩して転んだ。
 斎藤のうめき声が一メートルほど先から聞こえる。
 足立は一歩も動かなかった。手を動かすことも、顔を動かすこともなかった。こうすることで、斎藤は起き上がれないし、例え起き上がれたとしても、動くことが出来ない。足立の影と斎藤の影が繋がっている限りは。
「取り押さえろ」
 警備員がそう言って、もうひとり別の警備員と一緒に斎藤の両腕を片方ずつ掴んだ。斎藤は身動きが取れなくなった。
「離せ。あたしに触るな」
 斎藤が無駄だとわかっているだろうに、叫んでいる。大人の男性二人に羽交い絞めにされていては、力で敵うはずもない。
 足立はそれを確認すると、門から離れて斎藤の傍まで行く。歩きながら、足立は二週間前のことを少し思い出していた。斎藤が二回目に脱走しようとした時の事。斎藤はあのとき、果敢にも足立に殴りかかってきた。まあ言うまでもなく軽くいなしたが。
「斎藤。残念だったな」
 足立は口角を上げてそう言った。
 斎藤は足立の事を睨んでくる。
「こんな所、大嫌いだ」
 斎藤はそう叫ぶと、観念したかのように抵抗するのをやめた。
 一段落して足立は能力を解除すると、今度は車のほうに視線を向けた。みると乗車していたであろう面子は全員車を降りていた。堀田理事長。二台の車の運転手が二人。米田恵理子先生。川崎竜太郎。そして新入生の小池燐音という少女。みんな、困惑した表情でこちらを見ている。
 足立は面倒だなと思いながら、理事長たちの近くまで歩いた。
「足立くん。これは一体?」
 そんな足立を見てか、理事長が首をかしげながら尋ねてきた。
「お騒がせしてすみません。彼女の処分はこちらにお任せください」
 理事長の目の前まで来ると、足立は言った。
「ああ。頼むよ」
 返ってきたのはその一言だけだ。理事長は、それ以上何も言わず、川崎に何やら話しかけている。そしてそのまま川崎と共に一足先に本部へと向かうようだ。
 足立へのそれは信頼からなのだとわかっていたが、その返答はとても淡白だと感じた。
 一方、米田は「お願いします」と足立に向かって一礼した。足立も頭を下げると、「はい」と返す。米田は足立の後輩にあたる。彼女は今回、新入生と同性だからという理由で理事長に同行を頼まれたという経緯がある。
「そちらも、よろしくお願いします」
 足立はそう言ってから、米田の後ろで怯えているだろう少女をみた。少し長めの前髪から覗く瞳は、何を考えているのかまるでわからない。小池は不安そうな顔こそしていたが、怯えている様子はなかった。そのことに安堵して、足立は彼女に話しかける。
「こんにちは。初めまして、足立清二と申します。よろしく、小池燐音さん」
 小池は僅かに頭を下げてから、「よろしく、お願いします」と小さな声で言った。
「そんなに緊張しなくていいよ。怖いお兄さんじゃないから。隣のお姉さんも、ちょっと顔が怖いかもしれないけれど、優しい――」
 最後まで言い終わらないうちに、米田が咳払いして「足立先生っ」と声を裏返した。本人が気にしていることを言ってしまったらしい。
「ほんの冗談ですよ。怖いと思ったことはないです」
 足立は弁解のつもりで言う。
「言われ慣れているので、大丈夫ですよ。気にしていません」
 米田が、嘆息しながら言った。
 わざわざ言うということは、相当気にしているなと足立は思う。実のところ、米田の顔を怖いと思ったことは一度もない。むしろ美人の類に入るだろう。何でこんなところで働いているのか疑問に思うぐらいだ。しかし彼女にも彼女の事情がある。根掘り葉掘り聞くつもりはない。
「それでは、こちらの件が片付いたら改めてそちらへ顔を出しますね」
 足立は米田たちに別れを告げると、自分の目先の仕事へと戻る。米田と小池も理事長たちの後を追って本部へと向かうようだ。
 警備員二人に捕らえられたままの斎藤は、落ち込んだ表情で項垂れていた。足立はそれをみると、頭を掻いた。
 まずは保健室に行って、斎藤の怪我の手当てをしなければならない。

 3
 
 斉藤への罰則は、反省文だけでは足りないのではないか。彼女の脱走未遂は今回で三回目だ。根本的な原因を解決するためにも、行動の制限をかけたほうが良いのかもしれない。足立はそう考えて、斉藤にとある罰を追加することにした。
「新入生の面倒をみる?」
 罰について伝えると、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして、斎藤が足立の言葉を繰り返した。
「今回だけ特別だ。反省文と合わせて二つの罰をお前に科す」
 足立は、斉藤に向かってそう言った。
「それはいいですけれど。新入生に関しては、罰にならないんじゃないですか。あの子、あたしと同室だって聞きましたよ」
 斉藤は首を傾げて言った。
 これは足立も先ほど知ったことだが、どうやら今は斎藤が一人で使っている女子寮の部屋に、新入生の小池が新しく入る予定だったらしい。通常は、新入生の入寮が生徒に知られないようにするため、当日まで告知しないことになっているが、斉藤は同じ部屋に入るということで、事前に知らされていたみたいだ。
 足立は女子寮について詳しくはない。どの生徒たちが同じ部屋なのか、資料を確認しない限りは知らない情報だ。しかし今回は米田が、斉藤の部屋に小池が入ることをわざわざ足立に教えてくれたのだ。
「何か運命的なものを感じたから」だそうだ。
 正直よくわからない理由だと思ったが、都合は良かった。斉藤のためになることだと思ったからだ。
 それから脱走騒ぎの協力者だが、斉藤は頑なに口を割らなかった。協力者などいないの一点張りだ。このままうやむやになりそうだった。
 あれから一日経ち、斉藤と小池の様子をみているが、どうやら上手くやっているようだった。二人で食堂へ昼食を食べに来ている。
 足立は二人より先に昼食を食べ終わり、食器を片付けると外へ出た。近くのこげ茶色のベンチに座り、二人が食堂から出てくるのを待つ。傍から見たら怪しい行動ではあるが、これも仕事のうちだった。新入生というものはとても危ういものだ。来たばかりでここの生活に慣れていない。だから先生をやっている限り、注意してみていなければならない。そして問題が起こればすぐに対処するべきだ。
 勿論その職務があるのは足立だけではない。米田もそうだ。特に彼女は、小池の担当だと聞いた。できるだけ近くにいるだろう。

   *

 数分後。斉藤と小池が、食堂から出てきた。何かしゃべっているが様子がおかしかった。小池が口元を押さえている。彼女は膝から崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。
 斉藤が慌てて、食堂にいる人に声をかけている。中にいた米田が、急いでかけつけていた。何か袋のようなものを持っている。
 足立は近くまで行くと、すぐに事態を把握した。
「まだ気持ち悪い?」
 米田が、小池の背中をさすっていた。おそらく嘔吐したのだろう。先ほど食べたものと思われるものが、袋の中にみえた。強いストレスを感じて胃腸に負担がかかっていたのだろう。小池は学園へ来てから今まで、無理をしていたのかもしれない。生活環境が変わったばかりですぐに慣れろというのは酷な話だ。
 足立は落ち着くまで待ってから、声をかけた。
「大丈夫か。そこのベンチに座ったらどうだ」
 米田が頷いて、小池を先ほど足立が座っていたベンチへと誘導した。斉藤も一緒だった。
「足立先生。少しの間、お願いします」
 米田がそう言って、使用した袋を持って食堂へ戻る。水を持ってくるそうだ。
 足立はベンチに座っている小池と斉藤の前に立っていた。そういえば飴を何個か持っていたな。と思い出したので、ズボンの右ポケットに手を入れた。
「小池。いい物をあげよう」
 そう言って、足立はポケットの中に忍ばせてあった個包装の飴の中から、イチゴ味と袋に書いてあるものを取り出した。
「あ、ありがとうございます」
 小池が微かに嬉しそうな顔をして、足立に向かってお礼を言った。
「吐いたから、胃液で口の中が不味いだろう」
「は、はい」
 小池は足立の言葉に、苦笑いしながら頷いた。
 それから小池は飴の袋を開けて、赤い飴玉を口に一つ含んだ。飴玉は少し小池の口には大きいのか、頬の膨らみがはっきりとみて取れた。時折、飴玉と小池の歯が擦れるような音がした。
 それをみていた斉藤が、自分も欲しくなったのか、「足立先生。それもう一個ないんですか」と尋ねてきた。
 仕方ないなと思い、足立は再びズボンの右ポケットの中を探る。飴の袋を何個か取り出した。中にはまだ中身がある、膨らんだ状態の飴の袋があった。ちなみに紫色のブドウ味と書いてある。
「あるけど、これ俺の分」
 そう言って、足立は少し意地悪をする。ほんの冗談のつもりだった。場を和ませたかったのだ。
「え? じゃあいいです」
 斉藤が怒ったような口調で言った。真に受けられたらしい。
 足立は笑った。
「冗談だよ。ブドウ味でよければあげるよ」
「ありがとうございます」
 斉藤が笑顔で元気よくお礼を言った。
 それから、斉藤は足立からブドウ味の飴を受け取った。
「俺は、禁煙中なんだよ。だから飴を舐めていたんだ。最近また値上がりしただろう。外に行っても高いから。また新しい飴を買わないとな」
 そう言いながら、足立は息を吐いた。ヘビースモーカーとまではいかないが、喫煙者だった。かと言って電子タバコは苦手だったため、飴でごまかしていたのだ。
「ここって結構、給料が高いって聞きましたけれど」
 どこで誰が言っていたのか。斉藤の発言に足立は驚いた。
「一体誰から聞いたんだ」
「あたしは耳がいいので。風の噂で聴いたんですよ」
 斉藤の返答に、足立は彼女の能力について思い出していた。斉藤は耳が異常に良いのだ。
 これには足立も苦い顔をするしかなかった。この学園にいる限り、どこで誰が何を聴いているのかわかったものではない。
「給料はな。使いこんでいるから」
 そう言って、足立は笑ってごまかすしかなかった。小池を一瞥する。
 足立も小池の能力の事は、知っている。だから何かを思うことすら今はためらわれた。
 米田が戻ってくる姿が目に入る。足立はそれを確認すると、今度はしっかりと小池のほうをみる。
「小池。あんまり無理するなよ。具合が悪いならすぐに近くの先生に言えよ」
「は、はい」
 小池は飴に妨害されながらも返事をして、足立の言葉に頷いた。
「よし。じゃあ、またな」
 米田と入れ替わるようにして、足立は事務所の方へ向かって歩きだす。
 斉藤が足立に向かって手を振った。隣で小池が軽く頭を下げていた。
「足立先生。ありがとうございました」
 すれ違いざまに米田が言ったので、足立は無言で手を振る。
 自分が汗をかいていることに気づいたのは、事務所の入口の前だった。
 タイミング良く、足立のスマートフォンが振動する。ズボンの左ポケットからそれを取り出して画面をみてみると、メールが届いていた。差出人は、「いのう研究所」
 足立は肝を冷やし、内容を確認せずに画面を閉じた。そのままポケットにしまう。
 別にやましいことがあるわけではない。そう思いながら、足立はどんな顔をしていいのかわからない。だから無理に表情を作らずに、仕事に戻ることにした。

 4

 女子寮の裏手に山道がみえる。そのすぐ傍に、プレハブで建築された小屋が建っている。元々は登山の際に利用されていたらしいが、最近は滅多に利用する者がいない。数年前の土砂災害の影響で登山が禁止されているせいだ。
 空いているならと、今は洸生会が借りて利用している。洸生会というのは、うみほたる学園の生徒たちを卒業へと導くために創られた、生徒主体の組織だ。洸生会の存在自体が学園内で公にされているわけではないので、隠れ家とも言えるかもしれない。
 小屋の中には、小さな棚と湯沸かしポットがある。ソファとテーブルも置かれ、客間としても使えるようになっていた。
 そんな場所に、川崎竜太郎はひとりでいた。授業が終わると、いつもここに来て理事長から受け取った在校生の資料を読み漁る。最近はそれが日課になっていた。
 自分で淹れた緑茶を呑みながらソファに座って、しばらく資料を見ていると誰かが入口の扉を開けた。入口の外で靴を脱ぐと、近くに置いてあった灰色のスリッパを履いた。
「よ。やっているか」
 少年が陽気にやってきて言う。
「そんな、お店じゃないんだから」
 竜太郎は、困った顔をして彼をみた。本間宗太。竜太郎と同じ学年で、同じクラスの友人であり、洸生会のメンバーのひとりでもあった。彼はとても整った顔立ちで、クラスの女子たちからも一目置かれる存在だ。何せ、元子役だ。一部の生徒たちからは敬遠されている。しかし持ち前の明るさからなのか、友人は多い。
「あの子は?」
 部屋の中を見まわしながら、宗太が竜太郎の向かい側のソファに座った。
 名前を言わなかったが、宗太が誰のことを尋ねたのか竜太郎にはわかった。小池燐音。先日、学園に入学したばかりの、洸生会の新メンバーだ。
「僕の靴しかなかっただろう。今日はまだ来ていないよ」
 竜太郎はそう答えた。
「そうか」と宗太は呟くように言うと、ソファに仰向けで寝ころんだ。自分の家のようにくつろいでいる。竜太郎はソファから立ち上がると、宗太の分の緑茶を淹れる。
「出席は自由だ。ただ依頼があったときには協力してほしいとは伝えてあるよ。彼女は君の事が苦手そうだったけれど」
 急須にお湯を淹れながら、竜太郎は言った。
 うみほたる学園に入学したての小池を、竜太郎は洸生会に誘った。小池は嫌そうに顔を歪めていたが、理事長も関わっていることを告げると拒否権がないと悟ったのか、参加してくれた。小池を洸生会へ向かえ入れた日。竜太郎以外のメンバーとの顔合わせをした。とはいえ小池が入る前の洸生会のメンバーは竜太郎と宗太の二人だけ。小池は宗太と会うなり怯えた様子だった。
 色々な出来事が一気に彼女を襲ったので、竜太郎は少しだけ彼女を心配している。
「そうだろうな」
 宗太はそう言いながらあくびをすると、起き上がる。
 テーブルに置かれた資料の一つを手に取って、顔をしかめた。無言のまま、それをみつめていたので竜太郎は気になって、淹れた緑茶をテーブルに置くと宗太の見ているものを覗いた。
「それ。斉藤のものか」
 竜太郎が言うと、宗太は手に持っていた紙の束を元の位置に戻した。
「ああ。斉藤だな」
 宗太はそれだけ言うと憂いた表情で、窓の外に視線を送る。そこには、山に生い茂っている木々の葉っぱがみえていた。
 斉藤寧々。小池が入学してきたあの日に、脱走しようとした生徒だ。彼女は竜太郎の友人で、宗太にとっては特別な人であった。宗太と斉藤はかつて良い仲だった。しかし色々あって今は仲がこじれてしまっている。
 そんな彼女のことが書いてあったので、宗太も思わず凝視してしまったのだろう。
 二人が元の関係に戻ることは難しいと竜太郎は思っている。単純な問題ではないのだ。むしろ、そうさせた原因は竜太郎にある。
「なぁ……」
 竜太郎が宗太に言葉をかけようとした時だった。
 誰かが扉を叩く音がして、竜太郎と宗太はほとんど同時に部屋の出入り口のほうへ視線を向けた。扉を開けたのは、先ほど話題に上がった少女。小池燐音だった。
「あの」
 か細い声が聞こえる。扉を大きく開けたわけではなく、部屋の中まで入ろうとしない。
「まさか来てくれるとは思わなかった。遠慮せずに入ってくれ。何もないけれど」
 竜太郎はそう言って、小池の分の緑茶を淹れようと湯呑を棚から出そうとした。
 そのとき、彼女は言った。
「違うんです。その、斉藤さんの事でご相談が」
 彼女の口から斉藤の名前が出る。竜太郎は思わず手を止めた。
「斉藤がどうかしたの」
 ソファに座ったままの宗太が、真面目な顔をして小池に尋ねた。
「戻ってこなくて」
 ぽつりと、不安そうに小池が言った。
「戻ってこない?」
 竜太郎と宗太は首を傾げた。
「授業が終わって、一緒に寮に帰ろうとしていたのですが。足立先生に呼ばれてるって言って、それ以降戻ってこなくて」
「それって、単純に足立先生の話か何かが長引いているんじゃないの」
 宗太の指摘に、小池は首を横に振った。
「しばらくして足立先生と会って。そうしたら、知らないって言われて。でも、それは嘘で」
 小池はどこか混乱している様子だった。
 竜太郎は顔をしかめた。
「小池さん。落ち着いて」
 言いながら竜太郎は、嫌な予感を覚えていた。
「ねぇ、何で足立先生の言葉が嘘だってわかるの。ひょっとして足立先生の心、よんだの」
 宗太の表情は、どこか小池を疑っているかのようだった。
 小池は怖いのか、竜太郎とも宗太とも目を合わせずに頷いた。
「罪悪感で、いっぱいでした。だから嘘をついているのがわかったんです」
 何があったのかはわからないが、何かが現在進行形で起こっていることは理解した。
 竜太郎は棚の上に置いてある固定電話の受話器を取って、幾つかボタンを押して内線に繋ぐ。理事長と連絡が取れると足立先生の事を伝えた。理事長から帰ってきた言葉は「早急に対処する」だった。
 竜太郎は電話を終えると小池と宗太にそのことを伝えた。
「だから僕たちは、一度冷静になろう」
 いつの間にか立ち上がっていた宗太のほうを見て、竜太郎は言った。今は抑えるように宗太に目配せする。
「竜太郎。お前なら、斉藤の居場所がわかるんじゃないのか」
 宗太が睨むような目つきで、竜太郎の事をみていた。斉藤の事となると冷静でいられないのは変わっていないらしい。
 竜太郎は息を吐く。
「やってみるけれど、あてにはしないでほしいな」
 困ったようにそう言うと、竜太郎はその場で瞼をゆっくりと閉じて、能力を使った。
 どれだけ遠くの場所にいても彼女の姿を捕らえることが出来る。竜太郎の能力はそういう能力だった。

 5

「いのう研究所」から連絡があった。職員を向かわせたので、午後八時に被験者を連れて例の場所へ来いという。
 足立は自分の計画に自信はなかった。けれど上手くやれば自分を呪縛し続けている煩わしいあれとおさらばできる。そう思うとやらざるを得なかった。
 今日は午後から休暇だ。明後日までの連休だった。
 午後五時半。斉藤寧々を呼び出す。斉藤をかどわかすことに抵抗がなかったわけではないが、口は上手く回ってくれた。彼女は学園を出たがっていたから誘惑するのは容易いことだった。斉藤には、学園の外へ出してやる。少しだけ協力してくれたらあとは自由だ。と言いくるめた。
 斉藤は足立の住むアパートで、待機してもらうことにした。
 午後六時。足立は何食わぬ顔で食堂へ。向かう途中、斉藤を探しているのか、小池燐音が話しかけてきた。斉藤のことを問われたので、「知らない」と嘘を吐いた。小池に心をよまれても平気なよう、極力何も考えずに答えた。とても罪悪感を覚えた。
 午後六時半。自分の食事を終わらせ、斉藤のために弁当を買ってアパートに帰ろうとした。電話が鳴る。理事長からの呼び出しに、嫌な予感がする。
 とりあえず怪しまれないように一度アパートへ戻り、斉藤に弁当を渡して理事長のいる学園本部のある建物へと向かう。
 午後七時。足立は理事長室にいた。部屋には理事長と、米田がいる。なにやら不穏な空気が流れている。
「足立くん。君は自分が何をやっているのか理解しているのかね」
 理事長の威圧的な態度に、足立は委縮してしまいそうだった。
「何の話ですか」
 と足立は何食わぬ顔で、冷静に尋ねた。
「とぼけるのもいい加減にしたまえ。君がしたこと、こちらはもう把握している」
「とぼけてなどいませんよ。本当にわからないのです」
「君がいのう研究所と繋がっているのは、知っている。本来ならばあの手の研究所から生徒たちを守ることが、君の仕事なのではないのかね」
 理事長が怒りをあらわにした。目の前にある机を、力任せに手のひらで叩く。
 その通りだ。何も言い返す言葉はない。
 足立は無言で、理事長から目を逸らした。
 もうごまかしも言い訳も利かない。理事長にはすべてを知られている。それを理解して、足立は息を吐いた。
「裏切り者の私の処分はどうしますか。理事長。私はもう覚悟しています」
「解雇処分だろうな。だが、その前に君がこんなことをした理由を知りたい」
 理事長の問いに、足立は素直に答える。
「理由ですか。お金ですよ。ギャンブルに使い込んでお金で困っていたところに、優しい研究員さんが助け船を出してくれたのです」
「金に困っているなら、能力者を連れてこい。買い取ってやるとでも言われたか」
「ええ。そうです」
 まるで見てきたとでも言う理事長に、足立は頷いた。
「自分を差し出しても良かったのですが、年齢が低ければその分高く買い取ってくれると言われたので仕方なく。この学園を出たがっていた生徒を一人、連れていこうと目論んでいました。そのほうが拉致して連れていくよりずっと楽でしたから」
「まったく、馬鹿な真似を」
 理事長が頭を抱えていた。
「足立先生、どうして。斉藤さんは、あなたにとって物だったのですか。あの子は何度も脱走しようとして、そのたびにあなたに捕まっていたけれど。あなたのことを嫌っているようにはみえませんでした。むしろ信頼しているようにみえました。だからあなたの話を信じているのですよね。それを裏切ったのですか」
 米田が、声を震わせていた。足立は彼女をも、失望させてしまったのかもしれない。
「ええ。斉藤はとても扱いやすかったですよ」
 足立は笑いながら言った。それは事実であったから。けれど少しも悪いと思っていないわけではない。迷いはあった。純粋に足立の事を信じる斉藤が、その曇りのない瞳が。希望に満ちた眼が。足立に罪悪感を覚えさせる。
 米田が、いつの間にか足立の目の前に立っていた。足立より頭一つ分低いところから、彼女が睨みつけてくる。なるほど彼女の顔が怖いと言われていた理由が少しだけ理解できる。凄味があった。足立のことを許さないとでも言いたげだった。許してほしいとも思わなかったが。

   *

 誰かが扉を叩く音がした。米田が訝し気な顔をして扉のほうへ行く。足立はその場から動けなかった。
「あなたたち」
 米田の動揺する声が聞こえてきたが、足立は振り向くことが出来なかった。
 剣呑な目つきで、じっと理事長が足立のことをみていたからだ。足立は目が逸らせなかった。
「ごめんなさい、今取り込んでいるの。少し待っていてくれる?」
 米田の申し訳なさそうな声が聞こえる。
「いえ。今、中に入らせてください。足立先生と話がしたいんです」
 物怖じしない、聞き覚えのある少年の声が聞こえた。
「竜太郎」
 米田が彼の名前を呼ぶ。そう、その声は川崎竜太郎だった。
「お願いします。足立先生の話が聞きたいっていう人がいるんです」
「でも……」
 米田先生はこの状況に困惑しているようだった。川崎の性格も良く知っている彼女には、この状況を上手く判断することが出来ないのだろう。だがそれだけではない様子だった。他にも誰かいるのだろうか。足立は振り向くことが怖かった。
「入りなさい」
 低くどっしりとした声で、理事長が言った。
 足立は顔を強張らせた。
「理事長。ですが」
「聞こえなかったのか。入りなさいと言ったんだ」
「は、はい」
 流石に理事長には逆らえなかったのか、米田が扉をさらに開けた音がする。
「どうぞ。入ってください」
「ありがとうございます」
 川崎が丁寧にそう言うと、足立のすぐ隣まで歩いてきた。足立はそれを見ると、後退するように三歩ほど足を動かした。
 部屋に入ってきたのは川崎だけではなかった。そこには、小池と本間。そして今一番姿をみたくなかった斉藤まで居た。足立は彼女にあわせる顔がないと思っていた。だから姿を確認しても誰とも目を合わせなかった。
 理事長も斉藤の姿を確認すると、安堵したのか多少は表情を和らげた。
「思ったより早かったが、よくやってくれた。竜太郎」
 どうしてか、理事長が川崎の事を褒める。
「勝手な行動をしたのに、怒らないのですか」
 川崎は、不安そうな声で言った。
「君たちがそうすると思っていたのでな。足立君に彼女の居場所を聞くのも手だが、君たちが動いても構わないと思っていた。だから早急に対処する。としか君に言わなかっただろう」
「手のひらの上にいるようで、癪ですが。まぁ、理事長の予想通りですよ。僕が能力を使って斉藤の居場所を突きとめました。何も知らない斉藤は、僕たちの声を聴いてあっさりと扉を開けてくれましたよ」
 それは、足立にとって不都合な会話だった。
「あたし、信じません」
 部屋に入ってからずっと沈黙していた斉藤が、口を開いた。
「ここに来るまでに、能力を使って色々と聴いていました。足立先生が、あたしを売ろうとしていたこと。あたしを物としてみていたこと。でもそれは、嘘ですよね。足立先生は、あたしをこの学園から出してくれるって。願いを叶えてくれるって言っていましたもんね」
 真っすぐに、斉藤が足立の事をみてくる。足立はその瞳から逃げるように目を逸らした。
「売り物としてみていたことは、本当だ。君を学園から出してやるって言ったことも本当だ。けれど、君の願いを叶えることはできない。君を君の実家に連れていくつもりなんか、なかったよ」
「嘘ですよ」
 震えた声で、斉藤が否定する。
「嘘じゃない。何を期待しているんだ。私は君を利用しようとした。だたそれだけの話だよ。自分の借金を消そうとして、自分の代わりにお前を研究所に差し出そうとした。本来の役目を放棄した。自分の保身のことしか考えていなかった。最低な人間だよ」
「足立先生。お願いだから本心を言ってください。あたしはそんな話が聴きたいわけじゃないんです」
「私の本心が聴きたいんだったら、小池に頼めばいいだろう」
 その足立の一言で、斉藤の視線が小池に向けられることになった。斉藤も知っているのだ。小池が他人の心をよめることを。そして斉藤だけではない。その場にいた全員の視線が小池に集まっていた。
「燐音。あたし」
 斉藤がしかめ面で小池の方を見ていた。申し訳ない気持ちが半分、知りたい気持ちが半分というところだろうか。
「気にしない」
 呟くようにそう言うと、小池が足立に近づく。小池の能力は、他人の心をよめる。彼女の能力発動の条件を、足立は知らなかったが、それほど制限はないように思えた。なぜならば食堂での一件は、彼女の能力が起こしたことのようだったからだ。
「足立先生。ごめんなさい」
 どうして小池が謝るのか。謝るのは足立の方であるのに。そう思いながら、足立は右手を胸にあてた。
 自分はいつからこんなに臆病になったのだろうか。ああそうだ。きっとあの時だ。
 あの日に、すべてが始まったのだ。

 6

 子どもの頃。足立は影踏み鬼という遊びが大好きだった。鬼になって友だちの影を踏んで捕まえるのが、楽しくて仕方がなかった。そのため、捕まる側になった場合はわざと捕まったりすることもあった。
 自分から友だちを遊びに誘うときは、必ずと言っていいほど影踏み鬼だった。それほど好きだった。得意な気分になれた。
 大人になるにつれ、その楽しかった子ども時代を懐かしむことが少なくなってきた。就職すると、仕事ばかりに傾倒するようになった。それでも一応、恋人はいたが優先順は低かった。だからだろうか。あの日、彼女に振られてしまったのだ。
「いつも仕事ばかりで。私たちって本当に付き合っていたの」
 そんなことを言われてしまった足立は、酷くショックを受けた。確かに仕事が忙しいという理由で何度もデートの誘いを断ったり、会っても手の一つも繋いだりしなかったが。そんな風に思われていたなどと知らなかった。足立は今まで文句の一つも言わなかった彼女に対し、とても楽な付き合い方のできる女性だと思っていたのだ。だから足立は彼女と別れたくなかった。彼女以外の女性と付き合える自信がなかったのだ。
「どうせ、都合のいい女としか思っていなかったんでしょう」
 足立は、彼女の言葉を否定することが出来なかった。しかし、それでも彼女と離れたくはなかった。彼女がいたおかげで仕事を頑張れていたことだけは、確かだったからだ。
 その日の夕方。意気消沈し、公園で呆けていた足立は、強く子どもの頃に戻りたいと願った。何のしがらみもないあの頃へと戻れたならば、こんな辛い想いなどすることはなかったのにと。
 その結果、足立は能力が使えるようになった。気づいたときには、小鳥が空を羽ばたけなくなっていた。小鳥の足は地面にまるで吸盤のように吸いついて離れない。翼を広げ、飛ぼうともがくその姿は滑稽にみえた。今の自分のようだと思った。
 小鳥の影が足立の影と重なっているために、動けないのだと気づくのに時間がかかった。陽が落ちて辺りが暗くなり影が出来無くなるまで、足立は小鳥の不思議な行動を観察し続けた。
 足立はしばらく能力の事を、自分はおかしな幻覚でもみたのだろうと思っていた。だから病院に行くことはなかった。人と影が重ならないよう意識していれば日常生活に支障は出なかったし、何よりも彼女との別れを忘れて仕事に没頭したかった。そうして一週間が経った頃。友人から酒を呑みにいかないかという誘いがきた。彼は足立と特に親しい友人だった。仕事の日だったが、終わってから呑みに行く予定にした。彼になら足立の身に起きたことを話してもいいかもしれないと思ったのだ。
 当日、足立は仕事が終わると約束の時間に、友人と居酒屋へ向かった。店に着き呑み始めると、足立は早速、恋人との話を友人にした。友人は笑わずに慰めてくれた。そしてもう一つの出来事だが、やはり彼にも話すことはなかった。話せば、彼の事も失ってしまうのではないかと思ったのだ。
「でもまあ。能力病じゃないが、人の心をよめたら楽だよなぁ」
 唐突に彼がそんなことを言うので、足立は首を傾げた。
「能力病?」
 聞き覚えのない言葉だった。
「何だ。お前、知らないのか。ある日突然、超能力が使えるようになる病気だよ。最近増えてきているんだと」
「へぇ。そんなものがあるのか」
 超能力と聞いて心臓が跳ね上がったが、何とか平静を装う。まさか。自分のあの影の力は、その能力病というものではないのだろうか。そう思ったら疑惑は膨らんでいく。
「お前、どれだけ仕事しかみていないんだよ。もう少し時事ネタとか知っていないと時代に取り残されるぞ」
「それは」
 足立に、反論など出来るはずもなかった。すべて彼の言うとおりだった。

   *

 その後、足立は能力病というものをインターネットで調べた。全国に約八百人程いるらしい。中には能力者を集めた学園があるらしく、能力病は病気ではなく、才能だとうたっていた。胡散臭いなと思いつつも、足立はその学園に興味を持った。うみほたる学園。足立はそこへ行けば仲間がたくさんいると思った。痛みを分かち合える仲間が。
 学園へ電話をして事情を話したら、明日にでも来てくださいと言われて、足立は仕事を休むことにした。ためらうことはなかった。三十二歳にもなって学園に興味を持つなど、仕事の同僚に笑われるだろうかとも思ったが、気にしないことにした。
 足立の住む県と学園のある県は距離がある。今まで一度も訪れたことのない土地だった。足立は車に乗り、四時間かけて学園へ向かった。到着すると大きな門が開いて、理事長に出迎えられた。そこから話はとんとん拍子に進んだ。
 足立は当初、入学する話になるのかと思っていたのだが、理事長からの提案で、今の仕事から転職するという形で、学園の教師となるよう勧められた。足立は教員免許も持っていたし、体裁も良いだろうということだった。断る理由はなかった。迷わずうみほたる学園の教師になった。
 足立の能力の事を知らない周囲は反対したが、どうでもよかった。とにかく自分の居場所が欲しかった。
 教師で能力を持っている人間は特に珍しいことではないらしく、先生にも生徒にもすぐに受け入れられた。敷地内にあるアパートで独り暮らしをするのも、すぐに慣れた。この学園には足立と同じような悩みを抱えている人間がたくさんいる。それだけで安心できた。信じられないくらい、充実した日々を送っていた。
 学園に務めるようになって、二年が経った頃だった。突然、元恋人と共通の友人からメールが来た。今どうしているのかとか、当たり障りのないメールの終わりに、衝撃的なことが書かれていた。
 足立の元恋人が、別の人と結婚したそうだ。
 目の前が真っ暗になった気がした。それと同時に、自分がまだ彼女に未練があったことに驚いた。自暴自棄になって、学園の外に出る用事があるときは、必ずと言っていいほどギャンブルに行くようになった。しかし、すぐにお金はつきた。窮地に陥った足立はある話を思い出した。
 この学園には。というより能力者たちには、研究者という敵が存在する。特にいのう研究所という場所には、決して近づいてはならない。彼らから能力者たちを守ることが、うみほたる学園の教師の仕事のひとつだ。何故なら彼らは、能力者の研究に余念がないからだ。特にいのう研究所は、時に非道な実験も行うという噂だ。
 追い詰められていた足立は散々迷ったが、彼らに会うことにした。最初は身売りでもしようと考えていた。しかし、いのう研究所の研究者が、年齢的に若い層を求めていることを知り、ならばと生徒をひとり差し出そうと思った。そうして今の状態から抜け出そうとした。後悔するとわかっていて、大事なものを自ら壊した。もう後戻りできない場所まで来てしまっている。足立は理事長にこの件がばれた時、もう潮時なのだと思った。この二年間、毎日が楽しかった。以前の仕事をしていた時よりもずっと心が晴れやかで、天職ではないかとさえ思っていた。
 これは罰だ。私利私欲のために行動した報いだ。
 斉藤の代わりに、足立はいのう研究所に自分を差し出すつもりでいる。

 7

 小池は、膝から崩れ落ちそうだった。隣にいた斉藤がとっさに彼女の肩を支えなければ、そのまま地面に膝を着けていただろう。
「足立先生」
 小池の声は震えていた。彼女は涙を流していた。両手で顔を覆い、とめどなく流れる涙を拭っていた。
 小池と向かい合ってから数分が経った頃の事だった。その間、誰も何も言わずに足立と小池の事を見守っていた。
 小池の呼びかけに、足立は首を横に振った。
「最初から、そうすればよかったんだ。そうすれば、誰も傷つかずに済んだ」
 足立は自分の心をよんだであろう小池に向かって、そう言った。
 後悔と申し訳なさが混ざり合って、どうにかなりそうだった。
「どう、して」
 小池が、足立に対して何か納得のいかないことを聞きたがっていた。
「これは私の問題だからだ。自業自得というやつだよ」
 足立はそう言って自嘲した。
 斉藤が小池の肩を支えながら、じっと彼女のことをみつめていた。その表情はどうしたら良いのかわからないという感じだった。
「燐音。足立先生は、何を考えているんだ」
 斉藤が、顔をしかめながら小池にそう尋ねた。しかし小池はずっと涙を流すばかりで、言葉をしゃべることはなかった。まだその場に足立本人がいるせいなのか。それとも泣きじゃくっていて上手く言葉が発せられなかったせいなのかはわからなかった。
 足立はその場から離れようと扉のほうを向く。いのう研究所の職員と約束した時間が、迫っていた。
「待ってください」
 足立は川崎に呼び止められた。
「足立先生。もしかして研究所へ行くおつもりですか」
 その場にいた誰もが、はっと息を呑んだ気がした。
「どうしてそう思う」
 足立は振り向きもせずに答えた。
「足立先生が斉藤を研究所に連れていこうとしていたことは、能力を使った斉藤からきいています。今日、斉藤が足立先生のアパートにいたのは、おそらく引き渡しの約束の時間まで待機させるためでしょう。けれど、その計画は失敗した。研究所の職員とはまだ連絡を取っていない。なら先生はこのまま職員に会いに行くはずだ。自分という能力者を差し出しに。そう考えるのが妥当だと思いますけれど。違いますか」
 川崎の指摘に、足立はしばらくの沈黙の後ゆっくりと息を吐いた。
「理事長が君に目をかけている理由が、なんとなくわかるよ。そう、君の言うとおりだ。私はこれから、研究所の職員に会いに行くつもりだ」
 足立は、諦めに満ちた表情で言った。
「どうしてですか。そんなこと、する必要はないはずです。わかっていますよね。会いに行けばどうなるのか」
 川崎の問いに、足立は頷いた。非人道的な実験をするという噂が流れているくらいだ。ただで済むとは思っていない。しかしもう、他に手がないのだ。
「ああ。だがもうこれしか方法はない」
 手足を引きちぎられようが何をされようが、重荷を一生背負うよりもずっと良い気がする。それに足立が今ここで逃げたなら、その後のこの学園にいのう研究所が害を成さない保証はない。だから足立は覚悟したのだ。この学園を守るために。これもまたエゴかもしれないが。
「許しません。そんなこと、させません」
 先ほどまで黙っていた米田が、足立の前に立ちふさがった。扉の前で米田は両腕を肩の位置まで持ち上げて、両の手のひらを広げていた。
 足立は一瞬だけ目を丸くしてから、彼女に向かってこう言った。
「米田先生。そこを通していただけませんか」
 しかし足立の要求に、米田は首を横に振った。
「できません」
 米田は、はっきりとした声でそう言った。意見を曲げる気はない。とでも言いたげな態度だった。
 足立は困ってしまった。眉をひそめる。気づいたら、みんなが足立の前に立っていた。
「あたしも反対です」と斉藤が言った。
「俺もです」と本間宗太も賛同する。
 小池は泣きながら、うんと頷いた。
「足立先生。あなたは自分の事も他人の事も、もっと大事にしてあげてください。本当に大事なものを見失わないでください。こんなにも、あなたの事を大切に想ってくれている人たちがいるのですから。僕たちと一緒に、解決方法を探しましょう。一番良い方法がきっとあるはずです」
 川崎の言葉が、足立の心に響いていた。大事なもの。足立にとって大事なものとは何なのだろう。足立はあんなに酷いことをしたはずなのに、今自分の目の前にいるこの人たちは、足立の事をこんなにも想ってくれている。それがとても嬉しくて、哀しかった。
 自分の欲しかったものは、本当は何だったのだろうか。
 足立の口から、息がもれたような声が出る。当惑したように額に眉をよせ、足立は立っていた。何も言い返す言葉がなかった。
「観念したらどうだ。足立くん」
 そう言った理事長に、視線が集まる。
「ここは私が動いて研究所の奴に、にらみを利かせてもいいのだが。君の返答次第だな」
 理事長の頼もしい言葉に、足立はしばらく沈黙していた。
 これでもまだ足りないと思ったのか、理事長は続けた。
「もちろん解雇はしない。借金も私がなんとかしよう。その代わりと言っては何だが、君に一つ仕事を任せたい。洸生会のことは知っているね。顧問を務めてほしいんだ」
「え。洸生会の」
 理事長の唐突な提案に、足立は驚いたように目を見開いた。
 理事長は頷く。
「ああ。私も忙しくてね。監督役が欲しかったところだ」
「ですが、私は」
 足立は返答に困っていた。顔色を窺うように、視線を川崎のほうへ向ける。彼が洸生会の生徒代表と知っていたからだ。
「足立先生。僕からもお願いします。先生のお力が必要なんです」
 川崎がそう言って、丁寧に頭を下げた。
 同じく洸生会のメンバーである本間も、何も言わずに頭を下げた。小池も泣きながら、足立先生に向かって頭を下げていた。二人とも、洸生会のメンバーの一人として、足立の加入に反対する気はないようだった。
「洸生会って?」
 斉藤が首をかしげていた。この場で彼女だけが、洸生会について詳しく知らないためだ。
「この学園の生徒たちを、卒業へ導く手助けをするための組織だよ。発足者は理事長だけれど、僕が洸生会の代表なんだ。今のメンバーは、僕と宗太と小池だけだ」
 川崎が顔を上げると、斉藤に向かって説明した。
 斉藤は驚いた表情をしたが、すぐに理解したように足立に視線を送ってくる。
「足立先生が顧問になるのでしたら、あたしもメンバーに入れてほしいのですが」 
 意外なことに、斉藤がそう申し出てきた。
「何を言っているんだ。斉藤」
 足立は動揺して、声を荒げた。
「ダメですか。理事長の許可がいるんですか。なら、理事長。加入の許可をください」
 斉藤がそう言って、理事長のほうをみた。
「いや。だから、私は引き受けるとは一言も」
 焦るようにそう言うも、斉藤は一歩も引かなかった。
「でも、迷っているんですよね。だったら、足立先生が引き受けない可能性はゼロじゃないです」
 核心をつくように言われ、足立は何も言い返すことができなかった。
「もう一押し必要なら、あたしがそのきっかけになります」
 斉藤はさらにそう言うと、右手を強く胸に当てた。
 何を言おうとも、彼女には叶わないのかもしれないと、足立は思った。
 理事長は顔に微笑を浮かべると、言った。
「いいだろう。斉藤寧々。君が洸生会のメンバーに加入することを許可しよう。他の者もいいね」
「斉藤なら、良いですよ。小池とも仲良くなったみたいですし」
 川崎がそう言うと、斉藤と小池が嬉しそうに顔を見合わせた。小池はいつの間にか泣き止んでいた。
 本間は肩をすくめていたが、何も言わないということは、反対する気もなさそうだった。
「それで足立君。君はどうするんだ」
 理事長に尋ねられると、、足立は深く息を吐いた。
 こういう状況にでもならなければ、足立は了承しないこと。理事長はすべて読んでいたに違いない。足立はこの場にいるみんなに背中を押された。みんなの優しさに答えなければならない気になっていた。
「まったく、強引ですね。私が顧問にならなかったら、きっとみんな哀しむんでしょう。わかりました。顧問の件、引き受けます。その代わり、後始末は理事長に任せます。本当に、ありがとうございます。ご慈悲をくださったこと、恩に着ます」
 そう言うと、足立は理事長に向かって深々と頭を下げた。

   *

「あの、足立先生。自分のことを許してあげて下さい。きっと先生に見合う良い人がまた現れます。もしかしたら、もう近くにいるのかもしれませんし。その時に、きっと幸せを手に入れることができます。そう、信じてください」
 話がまとまって竜太郎と宗太と斉藤と小池が理事長室を後にすることになったとき、小池が足立に向かって最後にそう言った。それはきっと足立の心をよんだ小池だけが知りえる情報から、小池がどうしても伝えたかった言葉だったのだろう。足立はそれを聞くと、優しく笑って「ありがとう」と言った。
 竜太郎は何となく、足立の後ろに立っていた米田を見る。深い意味はない。ただその時の米田の安堵した顔がとても美しく思えた。おそらく足立本人を覗いて、この場で一番ほっとしているのは彼女だろうと思えるほどに。
 ただの気のせいではないことを祈って、竜太郎は理事長室の扉を開ける。外に出ると街灯が竜太郎たちを照らす。灯りの中に立ったまま、竜太郎は自分の影を見つめた。まるでもう一人の自分みたいだなと思った。

(第二章へ続)