「ある忘れられた老人」 平子純

 今年は暖かく
 コンビニに行く途中の土手にあるタンポポ
 がいくつも微笑みかけてくれる
 渡り鳥がこんな俺にも春を告げに来たのか
 と思いながら
 ストアーでいつものおにぎり二つと即席ラ
 ーメン
 菓子パンと惣菜を買う
 生活保護を受けている彼には
 それで十分だ
 築五十年の公団の部屋に階段で帰る
 やっていた缶集めの仕事も
 数年前にやめてしまった
 昭和製のテレビを見るではなく付ける
 ただ相撲だけが彼の興味をそそり
 炎鵬の取り組みが唯一の楽しみだ
 彼を世話してくれた女も
 三年前にあの世へ旅立ち
 今は独居老人となってしまった
 当然妻や子とは離縁してしまっている
 相撲が終ると彼はコンビニで買った
 食料をかじった
 調理は湯を沸かすだけ
 夜のニュースで凶悪事件をやっていた
 彼は三十数年前の
 彼の事件の載った新聞や雑誌を再び読む
 どちらも黄ばみ破れそうになっているが目
 を通す
 彼の唯一の社会性のあるものだから
 買ってきた缶ビール一本と酒をくっとあお
 る
 酔いが少し回ってくると
 彼はホームレス友達だった大学出の学者と
 呼ばれた男の
 残した詩を再読する
 学者はホームレス狩りに殺された
 上着のポケットには詩片と何百万かの預金
 通帳
 金を残したまま死んだ
 詩片には妻を亡くした老人とあった
 
 妻を亡くした老人が
 屍を焼いた骨と灰を
 二人の寝床に散りばめ
 泣きながら抱く時 若い頃の妻の
 小さな胸の膨らみや腰のくびれや
 豊かなお尻が浮かんで来て
 虚しく手を伸ばして
 抱きしめる時
 老人は失ったものの大きさに
 再び泣き崩れ
 寝床の上を泳ぐかのように
 煩悶するばかりだ

 この詩片を読んだ時
 くもりガラスに映る淡雪が
 彼のまだ行ったことのない世界へ
 やって来いと誘いかけた
 その世界の向うには
 過去に出会った人々や
 情をかけてくれた女友達
 彼の楽しかった日々が浮かんで来て
 追憶へと運んで行ってくれた
 そして何処かへ行ってしまった
 子供の影像と共に消え眠りについた(完)

「寝たきりブルース」 平子純

それは桜の咲く前日の未明だった
くだんの歩行器で歩いていた時
突然転んだのだ
腰椎を疲労骨折してしまったのだ
その時から私は赤子にもどってしまったのだ
食べる排泄する
赤子にもどってしまって二週間
今度は小便が止まり
救急車で病院へ運ばれ
すぐCTとレントゲンをとり
一週間後前立腺の手術となった
父も七十才になった時発生
何故か予感めいたものがあった
手術は尿道からカメラとレーザーを入れる
まずは成功、麻酔が効きすぎ嘔吐
術後の夜 眠られず
天井ばかりを見る
こうして日本では何百万人
世界では数億人の人々が
眠られぬ夜を過ごすのだろうか
幾日も同じ体勢のまま過ごす
病院の窓からは毎朝
赤光が摩天楼から上り
変ってゆく街の景色を照らす
新しい文明が正しいかどうか
破壊者か創造者かは分からない
懐古の情も昔見た桜並木も過去の思い出しかない
寝たきりで介護してもらい幾日か過ぎる
寝たきりの俺は同じく食べる事と排泄のみだ
時には優しい看護婦の笑顔
時には冷たい仕打ち
垂れ流しの俺にはどうするすべもない
時には便秘 かき出しと浣腸で救われ
悶え苦しみながら排泄する
小水はチョロチョロ出っぱなし
以前のペースにもどるには時が必要らしい
もう人の尊厳とか自由とかそれ以前だ
過去の華やかな日々の思い出も
商いでの苦しみの数々も過去でしかない
一週間後ようやくリハビリが始まった
ベッドから立ち上ることすら出来ぬのだ
そこから出発だ
車イスに乗ってみる
なんとか出来たその喜びその束の間
転院
長くは一つの病院におらしてもらえぬシステムだ
手術が済めば他の病院と決まっている
家の近く昔から知り合いの病院へ
一週間に二度の風呂は
全自動体洗い機
まるで洗濯機だ
初めて車イスで風呂に行けた時の新鮮さ
そこでもよだれかけしたら笑われ
垂れ流しで下着もびたびた
羞恥心の欠片も存在しない
こうして赤子にもどった俺には
若い頃の色も欲も金銭欲すら
入って来る余地もなく
自動洗濯機のシャワーと共に
段々浄化されてゆく
残るのはどうやって少しでも
動けるようになるかに集中する
なかには親切なリハビリの先生
少しずつ立てるようになり
歩行器で歩けるようにしてくれた
焦らずゆっくりが
リハビリのモットーだ
どんな障害者でも少しずつ
やってゆけるようになるものだ
二ヶ月の入院
それは色々教えてくれた
その後コルセットも取れ
段々日常の生活にもどりつつある
令和一年六月八日

俳句8句 風狂子

すき焼で北朝鮮喰う風味良し
猪よ山畑荒らすな食通で
消費税どれだけ世の人惑わすや
蒼天に呆けた我独り有り
秋祭り子供の声にときめきて
猫の目に太古の海と月光り
氷雨降る怯えて泣くな病める猫
千秋楽黄金の左送られる

俳句8句 風狂子

癌治す免疫療法ノーベル賞

次男渡仏凱旋門賞とハネムーン

夕焼けで鈴鹿の山が茜色

栗きんとん山は綾錦心空

貴の乱相撲馬鹿突っ張るもネコダマシ

蜩や木立をさいて妻の声

馬育て次男再婚道産娘と

私不具妻松葉杖老老人介護

達磨の匕首と新鮮な目

 人は時に歩行能力を突然失うことがある。事故による場合、先天的に歩行出来ない者もいる。私の場合は脳梗塞の為に歩けなくなった。三年前に私は大腿骨骨折で入院、手術後リハビリで二カ月ほどで歩けるようになったものの、三カ月後に脳梗塞の為に再入院、今度は五カ月加療したものの歩けるまでには至らなかった。
 脳の病気、特に血管の詰まる病はどの機能が奪われるか分からない。私の場合は言語と食、そして歩行困難となった。今でもリハビリを続け少しずつ色々出来るようになってはいるが、決して元にはもどらない。幸い私の記憶能力と思考能力は失われなかった。病後半年かけて初めて自伝を書いて幼少期からの思い出をたどったりした事が良かったのか。古いことはむしろ私の方がよく覚えていると自負している。
 私のような体になっても楽しみを何処かで見つけたいものである。私は書くことと描くことに今楽しみを見出している。ただ余り発表の場がない。病気以前の過去をすべて捨て去って来たのだからいたし方ない。新たな出会いを見つけなくてはならず旧友の牧野君に頼んだところ、寄稿を認めてくれた。私のような病になる人はこれから多くなるだろう。私はそういう人の為に少しでも役立って欲しいと考え、これから書いていこうと思う。そこで題を考えたところ、何故か達磨の匕首という名が浮かんだ。
 達磨とはダルマさん、目を見開いた何でも見通せる第四の目とも言うべきものを持った修行し尽くした禅の高僧、勿論浅学で修行の足りない私如きがおこがましくも名乗れる訳ではないが、こうして病をしてみるとかえって今までよりよく見ることが出来、又新鮮なのである。だからそういう意味で達磨をつけた。
 匕首は私はいつも天から匕首を突きつけられているのでお呼びがかかったら天へ行かなくてはならず、もう一つ感じたままに世に匕首を突き付けてやろうという批判精神からである。元来私は文学はNONを言い続ける行為だと思っているから死ぬまで批判精神を持ち続け社会に対して人に対して自分に対しても匕首を心に忍ばせて行きたいと思っている。

 六月二十五日の今日、サッカーのロシア大会で日本がセネガルと引き分けた。意味のある引き分けを独り興奮し見た後、妻と共に朝毎日行くことになっている生涯学習センターにある「まつぼっくり」という喫茶へ出掛けた。妻は徒歩、私は川崎の電動車イスである。川崎の電動車イスは体の動きにフィットしてなかなかの優れ物である。川崎とかホンダは企業として障害者向きに取り組んでいて良い。トヨタは経済力があるのだからもっと介護ロボットとか製品に力を入れて欲しい。
 聞くところによると、北欧の方がいろいろ進んでいるらしい。人に対して優しいのである。いろんな意味で日本は貧しいのだろう。従来日本は個は大事にされなかった。現在もそうでサッカー熱の間は本田、大迫、乾がもてはやされ、ブームが去ると冷やかになる。一時の大リーグの大谷みたいなものだ。怪我して休むともう話題に上らない。サッカー熱の間に忘れられているものが一杯あるのだ。
 例えばモリカケ問題、北朝鮮問題、その他あまたある。モリカケ問題は首相関連に依るものだから早く世間に真実を語り解決して欲しい。北朝鮮問題は日朝併合から逆上らなくてはならず日本の罪科を洗う時期なのだからアメリカべったりじゃなく日本として真摯に向き合って欲しい。

 今は梅雨明けが近い。昨日は雨に濡れる槿(むくげ)が真白い花を咲かせ始め次から次へと咲いて来る気配を漂わせていた。一昨日行った田舎の寺には夜になると螢が飛び交うことだろう。
 次の日私は生涯学習センターが休みなので、少し遠出して第一日赤の喫茶へ行く事にした。電動車イスで往復一時間半の行程である。勿論妻の付き添いである。喫茶室の座席や家に入る時などちょっとした介助が必要だからである。日赤の二階にある喫茶でアイスオーレを飲み帰りは昔よく行った中村遊郭の風情を偲びに行った。
 私の世代は売春禁止法施行以後なので遊郭で遊んではいないが、もと妓楼が宿屋に転業してからの宿屋仲間でどの店の経営者達も知っている。ほとんどの店は廃業したかマンション業に再転業したので余り残ってないが一番大店で構えも立派だった稲本が壊すというので見に行ったのである。稲本はかっては上客が多く名古屋の経済界もよく利用し各客間は世界中の様式を取り入れ、この部屋はパリ風、こっちはペルシャ風といった具合に手が込んだ造りだった。職人も北陸からは塗り師を、また大工は何処々の誰それといった名工を泊まらせ造らせたと聞いている。私の幼少の頃、各部屋を写した絵葉書さえあった程である。
 私は壊される前に、ただずまいだけでも見たかったのである。北陸風の赤壁紅柄も懐かしかった。時代は変化してゆく。止まる事を知らない。ただ愛惜が残るまでである。ほっと生きている頃の女将だった母が浮かんだ。私の育った宿の外の朝顔の生垣は母が丹精込めたものだった。

 朝顔や 母の生垣 偲ばるる(二〇一八年六月 記)