【マボロシ日記】カゴメという店~その2

 かごめ。
 その店は、ある田舎町にあった。
 家族で行くたまの外食は、「かごめ」という店に決まっていた。いわゆる食堂で、夫婦2人で切り盛りしていた。
 ジャンルというものはなく、和も中も洋もあり、ある人に言わせればその店は「中華そば」であり、他の人に言わせれば「うどん」であり、「焼きそば」であり「カツ丼」であった。
 世代によって推しは違うものの、外食といえば店は「かごめ」と決まっていて、祖父も祖母も父も母も妹も、喜んで付いて行ったという。
 これは、夫の幼い頃の思い出だ。私が何かを作るたびに「昔、実家のそばにかごめという店があってね。そこの中華そばが旨かった。食べさせたかったなあ」と、幾度となくかごめ、かごめと連呼するので覚えてしまい、その店に興味を持った。いつかそこへ行って、中華そばを食べてみたいと思うようになった。
 20人くらい入れたという。決してきれいでもおしゃれでもない店。駐車場はなく、クルマは店に横付け。人は誰でもおふくろの味を持つが、外食に関しても、おふくろの店的な、ここだよね、という思い出深い店を持っているのではないだろうか。
 店は、20年くらい前まであったそうだが、今ではもう閉じている。私には、永久にその店ののれんをくぐる機会は訪れず、その味はマボロシとなってしまった。

 私にも家族でよく行った店があった。のれんをくぐる。食べたかったいつものコーンラーメンを食べる。あたたかい、幸せな家族の時間が流れる。
 コーンは、すぐに食べないと器の底に落ちてしまう。そうと分かっていても、麵の誘惑に勝てず、最初に少しコーンを口に入れたら、次は麺に興味が移ってしまい、最終的にコーンを探しながらスープと一緒に何回も口に運ぶ羽目になる。お腹がラーメンスープでいっぱいになる。あの頃は、スープからコーンを救い出す便利な穴付きレンゲはなかった。
 父の運転するクルマに乗って、家に帰る。道中みんな上機嫌だ。満たされたぼんやりとした頭で、さっき食べたコーンや汁や麺の味を思い浮かべる。そこには、諍いも不安も不満もなかった。
 今思えば、母が一番ご機嫌だった気がする。夕食を作らなくて良いという安堵、おいしいものを食べられた満足感。口うるさい姑抜きで外食した、その理由はさまざまだろう。
 その店は出前もしてくれて、年寄りのいた我が家ではよく利用した。汁がこぼれないように、中華そばの器はラップしてゴムで止めてあった。それを外すのは私の役目で、慎重にやってもピシッと水蒸気が周囲にかかる。店で食べるより少々伸びた麺だったが、それでも贅沢した気持ちになった。
 その店も、もうない。

 私は、主人がそんなに絶賛し、思い出深い店「かごめ」に行ってみたかった。その味を知りたかった。でも「今食べてもおいしくないかもな」と、夫は言う。
 味覚は変化していく。妊娠した時それを感じた。体に自分ではない異物を宿し、明らかに主人の影響と思われる味覚の変化があった。嫌いなジャンクフード、炭酸飲料、フルーツが無性に食べたくなるなど。出産したら、元に戻ると思っていたが、なんと味覚も体型も戻らなかった。
「今、かごめの中華そばを食べたら味が濃すぎると思う。きっとそうだ」
 味に思い出が重なって、よりおいしかったように記憶が刻まれる。実際の味以上に、いつ誰と食べたかが重要なのかも知れない。
 店がないのは寂しい。そこに一緒に集っていた家族という関係も、もはやないという事実を突きつける。いたいけな子どもという存在だった自分もいない。
 一つ屋根の下に寝起きしたある者は嫁に行き、ある者は他界し、ある者は遠方に住んでいる。二度と、あの頃家族だった人たちと思い出の店に行き、中華そばを、コーンラーメンをすすることは、もうないのだ。(了)

【マボロシ日記】カゴメという店 ~その1

 かごめ。
 か~ごめ~、か~ご~め、の童謡。カゴメ、籠目、ケチャップソース、トマトの赤。
 そういえば、錦3丁目にあったカゴメのレストランはまだあるかしら、たしかこの辺りにあったような。
 久しぶりに錦3を歩いていた私は、宣言解除後の人出を楽しんでいた。レストランカゴメだったか、正式な店名は覚えていないが、20年以上前にこの近辺で働いていた私は、ランチでカゴメ自慢のトマトケチャップソースがかかったオムライスをよく食べていた。昼時は満席で、いつもカウンターで食べていたなあ。
 それにしても景色は様変わりしている。観覧車なんてなかったし、ドンキもなかった時代だ。秋の季節限定の栗おこわが信じられないくらい美味だった、ういろうの雀おどり。時は無情にも流れ、店はカラオケ店になっている。保存された栗ではなく、生栗から炊いたやわらかい栗が、弾力があり白く光る上品な甘みのもち米の間に入っている。ちょっとだけ振り掛けられたごま塩。「うまい」。心の中でつぶやきながら口に運ぶ。秋以外の季節は、少しお高めだったけどおにぎり定食をよく食べていた。もう一度食べたいと思っても、その店は見付けられず、栗おこわはマボロシとなってしまった。

 頑固親父がいたカレーうどんの店。三角土地に数坪の狭い店舗の中に、弟子一人と大将が切り盛りしていた。愛想はないが、ともかく「うまい」。清潔な店で、大将の装束はいつもとても白くて黄色い汁などは付いていなかった。今思えばカレーの味も良かったが、うどんの味、コシこそが絶妙だったと思う。大満足のカレーうどんで、昼食をとるサラリーマンで店は満員だった。その場所はすし店になっていた。
 昔ながらの喫茶店「上高地」、生まれて初めてカレーそばがカレーうどん以上にうまいことを知った「更科」(そのまま食べてもうまい蕎麦を贅沢にカレーにぶち込んだもの、チーズをトッピングして、最後に白ご飯を入れて完食)、ここは細麺の白い蕎麦もあり美味だった。蕎麦粉クレープの店、パンランチの店、みんな無くなってしまったよ。名古屋とはいえ、都会の一等地で商売を成り立たせていた人たちは、皆いっぱしの腕を持っていた。一体どこへ行ったのだろう。きっと食の世界にいるはずだ。移転してお店をやっているなら教えて欲しい。

 今日の目的は、鰻である。若かりしあの頃も滅多に食べられなかった鰻だったが、お腹の空いた昼時に「似ば昇」からもくもくと立ち上がっていた、鰻を焼く香ばしい香りは、抗い難いものであった。何人もの鰻嫌いを連れて行き、鰻大好きに変えた。主人もその一人である。「なんであんなにうまいものを教えた、罪つくりだ」と、今でも言われる。ここの鰻は日本で一番おいしいと思っているので、この店は私にとって聖地だ。
 だが、わが家から遠い。しかも高い(いや、都会の鰻屋ということを考えると安いのだが)、日曜日が休み、という3つのハードルを越えて行かなければならない。時間や財布などの諸条件が整わないと行くことができない店だ。最後に行ったのが、もうかれこれ10年以上前だったと記憶している。

 その時が来た。
 ようやく整ったのだ。
 今を逃すとまた10年行けないかも知れない。ネットで調べると店はまだあり、ほっと胸を撫で下ろす。店に着く。飛び込んできた文字が「緊急事態宣言下につき休業します」
 なんと神は残酷か。10年以上待ったというのに。今日こそやっと食べられると思って、はるばるやって来たのに。無論、私の住む街にも、隣町にも鰻屋はある。どこもそれなりにうまいが、食べながらうなるような、涙が滲むような、感動を呼ぶまではいかない。
 これが一カ月前の話で、ようやく宣言が明け、私は真っ昼間に錦の街を歩いているのだ。
 店の前に立つ。お客が出てきた、よし、やってる。だが。
「すみません、昼の営業は2時半までです」。時計は2時半になっていた。がくっと倒れそうになったが、夜の営業は4時からという言葉を聞き、気持ちを奮い立たせる。

 近くをぶらつき、4時過ぎに念願の入店。この中途半端な時間に、すでに先客がちらほら座っている。店は、あの頃と変わらない。少し薄暗い店内から中庭の池、鯉、灯籠を眺める。そうだ、池が見えるあの席で、今年18になった息子が3歳の時に家族3人で来て、鰻を食べたんだった。財布の中身が寂しいのを清水の舞台から飛び降りる覚悟で店に入った。

 今、そのまったく同じ席に、若い夫婦とそれこそ3歳くらいの男の子が3人で鰻を食べている。一瞬、若かった私と主人と息子の姿がダブって見える。不思議な時空の流れ。幼かった息子。あの時、相席をお願いされて、上品な老婦人と一緒のテーブルになった。お金のなかった私たち家族は、鰻を2つ注文して、それを分け合って3人で食べていた。
 老婦人は、「多過ぎて全部食べられないので、半分食べて下さらない?」
 と言ったのだ。
「ええっ、いいんですか」
 偏食が酷かった息子が、初の鰻を意外にもりもり食べて、おかわりをせがむので困っていた私たちは、大喜びで老婦人の鰻を分けてもらったのだ。「ありがとうございます。ありがとうございます」何度もお礼を言って。袖振り合うも多生の縁、とはいえ偶然その時に居合わせた見ず知らずの赤の他人である。帰りの車中で「あの人は神様だったんじゃないか」と話した。あんなにおいしいものを分けてもらえるなんて、涙が出そうだった。その人は、今頃どうしているだろうか。一人で来ていたから、相当のファンに違いない。今でも訪れていると良いのだが。

 鰻が運ばれてきた。夢にまで見た鰻よ。他のどこの鰻でもない、ここの鰻が食べたかった。手を合わせる。
 器も同じ、口に入れると香ばしい鰻の滋味を白米がそっと支え、タレは主張せず、鰻を包んでいる。鰻、米、タレの黄金の三角関係。何も足さなくても、何も引かなくても良い、完璧な味。苦味ばしった茶が最後の鰻の旨味を引き立てる3杯目のお茶漬け。この至福の時よ、終わってほしくない、終わらないで。
 お茶漬けから、また最初の鰻めしに戻り、薬味を付けて口の中でゆっくり噛んで舌で味わい、お茶漬けにする。
 ああ、生きていて良かった。この店がまだあってよかった。味が変わっていなくて良かった。来れたことに、ここにつながるすべての現象に、物語に、感謝の気持ちが自然と湧いてきた。
 健康だから。来る時間があるから。店が営業しているから。店主が鰻を焼いてくれるから。愛想のよい店員がサポートしているから。いつもの鰻を仕入れられるから。運んでくれるから。完売していなかったから。
 支払いができるから。味わう舌があるから。主人と子どもたちが元気だから。クルマが動くから。大災害が起きていないから。だからこの瞬間を迎えることができた。
 どれか一つでも欠けていたら、今日の幸せはなかった。これが感動でなくてなんだろう。涙で滲んで鰻の器がぼやける。
(その2に続く)

【マボロシ日記】音の記憶

 複雑で、もやもやした気持ちが、ここ半年わが胸を支配している。18の息子が、いよいよ大学受験を迎える。
 近年大学受験はさまざまな改革が行われ、少子化もあって複雑化しており、コロナの状況で入試自体がどうなるか未知数の部分もあり、昨年も多くが一般入試に出願せず、年内に合格が決まる推薦入試を選択した。私立大学の半数以上が推薦で入学するというデータもある。
 息子は指定校推薦の校内選考に受かり、とある大学を受験するのである。
 私立大学は、最初に指定校推薦と公募総合型選抜(以前のAO入試、つまり自分で独自に出願する推薦入試)があり、その後に年明けの共通テストの成績を使う一般入試、共通テストと大学別の入試を組み合わせる入試、前期日程でダメなら後期日程、奨学金を貰うために推薦で受かっていながらわざわざ受験料を払って再度チャレンジする入試などもある。
 同じ大学でも、お金を振り込めば複数の学部、学科に同時にチャレンジできるなど、その基準、方法なども大学ごとに違っていて、パンフレットを熟読しても理解できないくらいだ。
 模試の結果を見ると、一年生の時からオープンキャンパスに出掛けていた大学には、学力が到底及ばないらしいと分かった。諦めて、次に狙いを定めた大学も無理らしいと分かった。その次の第三希望の大学(親としてはそこには行ってほしかったのだが)は、指定校推薦の校内選考の選定基準が高すぎて、諦めざるを得なくなった。
 だったら、その大学の公募型推薦にチャレンジし、それがダメなら一般入試を受けてほしいと願っていた。
 しかし、本人がまったく進学先の候補に挙がっていなかった、想定外の大学の指定校推薦を希望すると言い出した。
 指定校推薦は、大学と高校の信頼関係で成り立っており、校内選考で通れば、よほどのことがないと落ちないという。精神的にも、年内に進路が決まれば楽である。楽しいお正月になることうけあいだ。
 しかし、楽だからという理由で簡単に目標にしていた大学を諦めて、自分が行けそうな大学を選んでいいのか。ダメでも勇敢に挑戦して、散ったならどこかの大学の2次募集に引っ掛かるんじゃないのか、少子化時代なのだからこちらが選ばなければ、どこかへは行けるのではないかと思う。
 経済的に、浪人も下宿も無理なので、通える場所にあるというのが、譲れない条件だ。大学受験料は、一校3万円と仮定しても、10校受けると30万円である。指定校推薦なら、受験料は一校分で済み、入学金も一校分。それが一般入試なら、第一希望の合否判明が日程的に後だと、すべり止めで合格した大学の入学金を振り込まねば権利がなくなるので、無駄な出費になるおそれがある。入学金は何十万という大金である。
 指定校推薦は、親としては助かるのだ。高校3年間の評定がモノをいい、それは3年間頑張った証しであり、誇っていい。現に、大部分の生徒は指定校推薦を希望しても、もらえないという現実がある。けっして恥ずべきものではないのだが、そんなに簡単に大学を決めてしまってよいのか、釈然としない気持ちになっているのだ。

 息子は毎日ピアノを弾いてきた。4歳の時からほとんどずっと、欠かさず練習をしてきた。なんでも人の後ろにいたが、ピアノの才能が少しだけ人よりあった。コンクールに出たこともある。
 しかし、現実的に将来音楽でご飯を食べて行くことは難しい。音楽の仕事は限られているのだ。この点は、絵画、バレエなどの芸術とも同じだろう。
 さらに、音楽を極めようとすると、とてつもなく大きなお金がかかる。新幹線に乗って、東京の専門の先生に習いに行く費用などはとても一般家庭には捻出できない。レッスンに加えて、自宅での練習時間。勉強時間を削って、練習をしなければならない。それでも高校受験の際は音楽科も考えて、受験用のレッスンもしていた。
 音楽というものは、正解がなく、追究しても完璧な演奏は人それぞれの価値観となる。音楽科の受験では、プラスを伸ばすというより、マイナスを減らしていく。基本に忠実に作曲家の譜面通りに弾き、決まった表現力を加えることが許される。しかし、それは彼にとってとても窮屈で、楽譜通り、先生好みに曲を仕上げなければならず、音楽を楽しむレッスンではなかった。
 さらに入学後の音楽漬けの授業や、勉強との両立を考えて、最終的に普通科に進学した。
 しかし、この特技は大学受験でも役に立つのではないかと、高校でもレッスンは続けていた。この度の進路決定で、音楽と決別することになる。音楽とは関係のない分野に進学することを選んだのだ。ピアノのような芸術、芸事は、コツコツと日頃の練習が必要なので、ピアノから離れたらじきに弾けなくなるだろう。
 夕方、学校から帰宅後すぐにピアノを練習していた。その音色は、いつも私を癒やしてくれた。弾ける曲が増えて、親ばかだが感心した。時には鳥肌が立つほど感動させてくれた。
 生でこんなにいい音色を間近に聴けて、母さんは幸せよ。夕飯を作りながら、そんなことを思った。日常のいろんなことで傷ついた心を癒やし、乗り越えさせてくれた。私もピアノを習っていたけれど、ここまで上手に弾けなかった。世の中に、ベートーヴェンとかショパンを弾けるまで到達できる人はたくさんいて、まったく珍しくはない。
 しかし、多くの人はそこに至るまでに辞めてしまうという現実がある。ああいった神がかった曲を弾ける権利を与えられるのは、壁を乗り越えられた、やはり音楽の神様に選ばれた人間なのだ。
 私の大好きだったショパンの「ノクターン」は、まだ弾いてくれていない。これからも、ピアノの音をもっと聴いていたかった。でも、お別れの時が迫っている。いいようもない、悲しみ、寂しさが込み上げてくる。喜ぶべき大学合格に私の脳裏に歓喜の鐘の音は鳴らない。聞こえてくるのは、悲しみのゴォーンゴォーンという音だ。
 私は息子のピアノの第一の大ファンだった。純粋で、不器用で、迫力あるあの音色が好きだった。
 大学に合格することで、いよいよ、さようならがやってくる。(了)

【マボロシ日記】いつまでも私の校長先生

拝啓

 山々が錦色に輝き、うれしい実りの季節となりました。
 校長先生と、約40年ぶりの再会を果たしてから、一年が経ちました。
 自粛続きの日々、先生はどうしておられるのでしょう。齢90を超えているとは思えない程若々しい先生ですが、書き物をして過ごしていらっしゃるのかしら、外出せずずっと家にいらっしゃるなら、足腰が弱ってしまわれないかしら、買い物に不自由はないかしらと、おせっかいながら、気になっておりました。お変わりありませんか。私は、変わりなく、記者の仕事をしながら、つい先日まである会社の事務員のパートをしていました。
 職場の近くには、小学校がありました。4月、お昼ご飯を買いに外へ出ると、ピカピカのランドセルを背負った小学校1年生が、先生たちに連れられて早目の下校です。先生たちは旗を高く掲げてまるでカルガモのお母さんのように、小さな子どもたちを引き連れ、にこにこ歩いてきます。道の向こうには、心配そうに保護者が待っています。1年生たちは守られて大切に引き継がれ、帰って行きます。
 5月、ちょっとずつ下校が遅くなって、給食が始まったのでしょうか「今日の給食おいしかった」なんて会話も聞こえてくるようになりました。その瞬間に、校長先生は今どうしているかしらと思い出していました。手紙を書きたいなと、小学校の横を通るたびに思っていました。今、やっと落ち着いて手紙を書くことができます。
 最後にいただいたハガキには、とてもうれしい言葉が書かれていました。私の努力を「尊い」と言って下さり、結果を「残念」「悲しい」とまで書いて下さいました。先生からそんな言葉を頂けて、救いになりました。

 つくづく思うのですが、校長先生は特別な存在です。小学生の時、話したことはなくても、私の目は、意識せず姿を見ていました。先生は、広い心で、大きな視野で、私たち児童を、学校全体を包み込んでくれていました。その優しさが、この手紙を書かせています。
 狭い校庭、給食室の匂い、木々、裏山、桜、児童階段横の二ノ宮金次郎像。懐かしい風景ではあるけれども、学校はすべての人にとって楽しい場所ではなく、私も母校を苦みのある味とともに思い出します。
 以前にも書きましたが、寂しい家庭環境があり、学校で誰かに手を差し伸べて欲しいという甘ったるい期待があったのでしょうが、期待するような温かい言葉は掛けてもらえませんでした。
 大人しくて、特別手の掛かる子どもでもなかったけれど、何を考えているか分からない、先生方から理解されない、あまりかわいくない子だったんじゃないかと思います。子どもでしたから、深い思いなどありませんでしたが、心の中はかなしみでいっぱいでした。友達や先生に言いたいことも言えず、勉強も運動も何もできない自己肯定感の低い、今振り返っても暗くて不憫な子どもでした。そんな中でも、校長先生は私も他の優等生の子も平等に見てくれていたのが分かりました。

 小学校を卒業して約15年後、名鉄の特急電車の中で先生の姿をお見掛けして、思わず声を掛けてしまったことは今でも鮮明に記憶に残っています。先生は、席が空いていなかったのでしょう、立っておられました。突然声を掛けた私にも動揺することなく、大学教授の名刺を下さいました。先生は若々しくて、小学校の校長先生の面影そのままでした。20代の私も仕事を探していたか、していたと思います。
 次にお見掛けしたのは、あんなに学校が嫌いだった私が小学校の仕事をしていた時の先生の講演でした。
 その次にお会いしたのは、小学校で不登校児童のお世話をしていた時に、巡回に来られた時でした。コースには入っていなかったのを、私が管理職にお願いして寄り道していただいたのでした。その子は私と苦手なドリルをしていたか、箱庭で遊んでいたと思います。
 次は、中学校に来られた時です。先生に一目会いたくて居場所を探して、トイレから出てこられた先生に話し掛けてしまいました。

 縁あった子どもたちは、昔の私のように、どこか理解されず、無償の愛に飢えた寂しさを持っていました。それがとてもよく分かったので、子どもたちはあの頃の自分だというような気持ちで、支援の必要な子に接していました。してほしかったこと、必要だったことは、大人になった今だからこそ、よく分かります。
 大人が少し目を配り手助けするだけで、その子の立ち直りのきっかけになります。子どもたちは、昔の自分自身だったのかも知れません。
 ある時は一緒に遊び、聞き、伝え、見守り、本を読み、勉強を教えました。よく褒めました。本物の母ではないけれど、お母さんのように、その子の心を埋めるよう努力しました。真剣に伝え、思いやりました。そうすると子どもたちは応えてくれました。少しずつ安定していき、向上して、ゆっくりと学校に適応していきました。
 学校の先生たちは、子どもの可能性を見ないで、できない、と決めつけてしまうきらいがあります。もっと言えば、子どもを所詮子どもだからと、馬鹿にするようなところもあります。どんな子であろうと、諦めちゃいけないし、きっと正しい道に戻る可能性がある。でも、多くの先生は、どうせ、と諦めちゃっているんです。少々問題があっても、勉強さえできればいいと考えている先生も多いです。勉強も大切だけど、その前に毎日楽しく過ごすことの方が一番大事。学校に縛られない私の自由さが、担当する子どもたちの波長に合っていたのではないかと思います。
 楽しく仕事をしていました。それなりの評価も頂き、正規の仕事としてやっていきたいと考えるようになりました。
 教育委員会へ一緒に相談に行った同じ境遇の先生は、その後通信教育で資格を取得し、現在は市内の中学校で働いています。
 教育実習で、息子の中学に来ていることを知った時は、複雑な気持ちになりました。体育祭のビデオ、卒業アルバムを開いても姿を見ます。同志であり、ライバルでもあった方が思いを実現され、いきいきと頑張っている姿を見て喜ばなければならないのに、挫折という苦い思いが広がるのです。

 友人が今年3月で学校現場を去りました。彼女は教育学部を出たけれど、先生にはならなかった。でも私の話に影響を受けたのか子どもたちの支援をしたいと学校で働くようになり、やがて講師になりました。
 人間的にも素晴らしい彼女こそ学校に残ってほしいと懇願しましたが「大学時代に学校現場は自分に合わないと悟った。やってみたけれどやはり違うのよ」と話し、きっぱり免許も更新しなかったと言うのです。
 私が、大学で教職課程を取らなかったのは、当時「先生にならない」と思っていたから。小学校、中学校と自分を救いとってくれる先生に出会えなかったという思いがあったからです。教育現場に希望を持つことができなかったのです。でも今振り返ると、手を差し伸べてくれた先生が2人いた。希望の言葉を掛けて下さった先生が、私にも確かにいたことを思います。
 人生の半分が過ぎた今、過去を反芻しながらこれからの自分の役割、生まれてきた使命を模索する日々です。
 再会の機会に恵まれて、読み返すことのできる手紙やハガキで、身に余る励ましのお言葉をいただくことができて、うれしかったです。ありがとうございました。
 心を開いて、なんとかなる、どうにかなる、の精神で、次のステージを探して頑張って行きます。

敬具
いつまでも私の校長先生へ

令和3年 吉日
伊 吹

【マボロシ日記】プリンセステンコーとレディー・ガガ

「引田天功見たよなー、ヘリの映像を見ると思い出すなあ」
 テレビを見ていた主人が言った。画面にはヘリコプターが映っている。
「えっ引田天功⁉ 2代目⁉ プリンセステンコ―のこと⁉」
 引田天功という時点で古い。
「そうそう、プリンセステンコー、俺好きなんだ。一緒に見たよね、会場にヘリが置いてあって、迫力あったよな」
 そんなん見た記憶がない。
「えっそれ本当に私行ってる? どこで見た?」
「なんや忘れとるんか。あれは長良川国際会議場だったかな」
「いつよ、いつの話⁉ 子どもたちは?」
「えっ本当に覚えてない? 〇くん(息子の名)も一緒だったかなー、どうだったかな」
「まったく見た記憶がないわ。長良川国際会議場で吉本新喜劇なら見たよ。〇くんが中学生で、部活の大会の後ユニフォームのまま行ったよね。汗かいてたから、舞台の間も風邪ひかないか心配だった。チケットはピアノの先生からもらったんだよ」
「そうそう吉本‼ テンコーはたしか吉本興業所属で、新喜劇の前座だったんじゃないかな」
「えー、世界のテンコーが吉本⁉ しかも新喜劇の前座なんておかしくない? 新喜劇の方が前座じゃないの」
 そもそも息子と一緒に見たかどうかも定かではないようすで、主人はわざわざ2階に上がり、勉強中の息子に聞きに行った。
「見たよなープリンセステンコー、ヘリで脱出したやないか、青色のヘリで」
「そんなん知らん」と息子の声がする。
 おぼろげに、舞台上にヘリがありその横にテンコーがいる映像が脳裏に浮かぶが、それを生で見たかと問われれば、自信がない。
「本当に私と行った⁉ 別の人じゃないの?」
「違う人と行ったのかな、そんなに否定されると怪しく思えてきた」
 スマホで検索し出す。すると、2007年長良川国際会議場プリンセステンコーのチケット入荷しました、と書かれたサイトを見つけた。やっぱりプリンセステンコーは、岐阜に来ている。
 2007年といえば、息子は4歳、記憶がなくても仕方あるまい。問題は、私に覚えがないことだ。あの頃は育児が大変で、心身ともに完全に打ちのめされており、息子の幼い頃の記憶があまりないのも確かだが・・・。
 吉本新喜劇とのコラボとなると、2007年ではなく数年前の出来事だ。吉本は娘も観ているはずだが、テンコーは知らないという。
「見た時の前後の物語を思い出して。どこかで何かを食べたとか」
「うーん・・・」
 つまり、こっちの記憶も、あっちの記憶も怪しいのである。

 カーステレオから、レディー・ガガの「Shallow (A Star Is Born)」が流れている。
「この映画、観たよね」と、主人に言うと、「見たっけ」という返事。
「レディー・ガガの映画、夜は割引になるナイトシアターに行って観たじゃん。子どもたちもママたち行っておいでって送り出してくれたよね」
「映画館で観たかな、レンタルじゃないの」
「レンタルでも観た。一度観た映画を借りるのはもったいないからやめてって言ったのにあなたが借りてきたのよ。映画館と合わせて2回観てる」
「そう言われればそんな気もするな。クイーンの映画は映画館で観たっけ」
「あれも映画館とレンタルで2回も観てるよ。記憶がないなら、わざわざチケット買って映画館に行って観る意味、もうなくない?」
 私たち夫婦は、明らかに記憶力が減退していることを思い知った。
 先日まで勤めていた会社で「伊吹さんよく忘れてるよね」と、言われたことを思い出す。一度に、難しい指示を早口で10も言われると、最初の2つ3つを忘れていることがあった。もしくは、最初の2つ3つしか覚えていない。
 言い訳になって恥ずかしいが、複雑に入り組んだとても難しい仕事であったことを、申し添えるのをお許しいただきたい。
「すっかり忘れていました」ということもあったし、後になって思い出して「しまった。やってない‼」と青ざめたり。やらなればならなかったはずが、どんなことだったかすら思い出せず、時間を掛けて反芻して徐々に思い出し、ほっと胸をなで下ろすこともあった。
 ミスをすることを恐れ、元来の真面目な性格も災いして、石橋を叩いて渡るあまり、1つ前、2つ前に戻って確認して進む、ということもよくあった。確認するのは、やったかどうかの記憶が定かではないからだ。不安になるから確認せずにいられないのだ。
 それを「1つの仕事に時間が掛かる」と指摘された。その通り、やってあることを本当にやってあるのか、前に戻って確認するなんて無駄な作業である。すでにやってあるのだから、次に進めばいいのである。
 若い頃、誰にも文句を言わせない、言わせるものか、と些細な部分まで目を配り、完璧に仕事をこなすことを信条とし「仕事なんてミスするもの」と言った友人を軽蔑していた。
 それが、今じゃあこのありさまだ。
 初めてのバイトは、高校にばれると退学になるリスクを気にせずに飛び込んだ喫茶店のウェイトレスだった。
 その店では、オーダーを紙に書くことを許されず、その理由は今でもわからないが、注文は全部頭で覚えさせられた。短期記憶ってやつか。
 早朝野球終わりの、揃いのユニフォームを着た10人以上の団体客のオーダーを、ハンバーグ定食やら、オムライスやら、ステーキやら、食後のコーヒーはホットかアイスか、オレンジジュースか、レスカか、聞く。
 厨房に行って忘れたら、お客に聞き直しに行った。今思えばよくやっていたなと思う。甘ちゃんで、それほどやる気もなく、周りが見えていなかったであろう私が、よくもまあクビにならなかったなと思う。
 若くて可愛かったから? 許されていたのかも知れない。
 悲しいかな、時が流れ、おばさんになった私は許してもらえなくなった。
 だが、たとえおばさんだろうと生きる道はあるはずだ。ちょっとのことでカッカせず、広い心でこの世を包み込み、様々な人生経験を活かして、たくましく、明るく前を向いて進むのみなのだ。(了)