「時を愉しむ」 碧木ニイナ

 動物の活動サイクルは、気候・体温・日照時間によって決まる体内時計と、食べ物にありつけるタイミングに応じたサイクルによってコントロールされているそうです。もちろん人間も同様で、食事を摂るタイミングを工夫し、体を「食に飢えた状態」にすることで、睡眠サイクルがうまくリセットできるのだとか。
 そのコツは起床前の十六時間、何も食べないこと。時差の大きい場所へ旅行する時などは、旅先での朝食の時間から逆算して、十二~十六時間は何も食べないようにすれば体内時計がリセットされ、新しい睡眠サイクルにスムーズに入れるというのです。
 ハーバード大学の研究者による「私たちの体のリズムは二つの時計でコントロールされている」という記事を興味深く読みました。
 私は時差ボケがかなり強烈なタイプ。例えば、アメリカの東部時間と日本時間の時差は約十二時間。丁度、昼夜が逆転するわけですが、その状況に慣れるまでにかなりの日数を要するのです。ですが、その説からすると、機内食をパスすれば、すんなり現地時刻に体を合わせることが可能なよう、いつか試してみようと思います。
 ところで我が娘は、高校と大学の七年間をアメリカ東部で過ごし、毎年三回は日本に戻っていたのですが、時差ボケなんてどこ吹く風といった風情でいつも元気でした。向こうに帰る時も、体をすぐアジャストできるから大丈夫とギリギリまで家にいる状況で、きちんと出席できるかしらと心配をしたものでした。
 そういう娘は、機内食をほとんど食べなかったようです。
「どうして食べないの?」
「食事の時間に寝ちゃってたし…、あまりおいしくないし…」
「もったいないわね。それも航空運賃に含まれているのに」
 こんな会話を何度交わしたことでしょう。娘が時差ボケと無縁だったのは、空腹に耐えたからなのですね。謎が少し解けました。
 娘は四月に東京で就職しましたので、時差を気にしつつ国際電話をする必要もなくなりました。親として一区切りついた思いですが、私にとっての子育ては珠玉の時間、娘に「時を愉しむ」ことを教えてもらいました。

 振り返ってみれば、オーストラリアから帰国し、引っ越しに伴って転校した小学校で高学年の時にいじめに遭い、登校拒否もしました。親子共に大きなトゲが心に刺さったような、そこから血が吹き出すような日々もありました。子育てがずっと順調だったからの珠玉の時間ではないのです。
 娘が我慢の限界に達したように、うつむいて涙をこぼしながら言葉を絞り出すようにして、いじめを伝えたあの日の情景を私は今もはっきり覚えています。私の中ではセピアに変色した出来事ですが、それゆえに一層リアリティーが増すような不思議な感覚があるのを、今回これを書きながら知りました。
「こんな良い子のどこがいけないの?」
 そう言ってギュッと娘を抱きしめた私は、それからの日々を、ひたすら娘の心に寄り添いながら生きてきたように思います。
 先日、長い間封印していた当時のことを、娘にそっと聞いてみました。
「あの学校のことは、何も覚えていない」
 娘は即座にそう言葉を返した後、「あのことがあったから私は強くなれたのかもしれない」と、明るく言いました。
 そうなのです。時は人の世の悲しみも苦しみも、喜びも楽しさもすべてを包み込んで、誰の上にも平等に流れて行くのです。
 その流れの通過点である今年七月に、娘からマレーシアのペナン島への旅行に誘われ、『海と世界遺産の街』を楽しんできました。ウェブサイトで見つけた格安の旅とのことでしたが、旅費も娘が払ってくれたのです。
 娘は出発前夜の十時頃、仕事を終えて岐阜に戻りましたが、久しぶりに会う父親とはゆっくり話す間もなく、私たちは翌朝七時に家を出てシンガポール経由でペナンに入りました。
 飛行機の搭乗手続きやホテルのチェックイン、食事のオーダーなど必要なことはすべて娘がしてくれましたし、車優先社会の道路を横断する時には、注意深く左右を見て私をかばうように手を引いてくれるのです。「ママは半世紀以上を生きてきたもんね」などと言いながら。確かな時の刻みを異国の地で改めて感じました。
 十八世紀後半にイギリスに植民地として割譲されたペナン島は、東西貿易の中継地である自由港として発展しました。そのため、西洋、中国、イスラム、ヒンドゥー文化が融合する独特の雰囲気を持つ町並みが形成され、歴史的価値のある建造物が多いことにより、世界遺産に登録されたのです。
 ペナン名物のトライショウと呼ばれる人力車で市内見物に出かけたり、ガイドをお願いして車で世界遺産を巡りました。また、リゾート地のスパのアロマ香る部屋で、娘と二人でオイルマッサージを受け、海の風に抱かれながらホテルの庭でデッキチェアに寝そべったりと、至福の五日間を過ごしました。
「ここはゆったり時間が流れていくよね」という娘の言葉に、この旅の意味が凝縮されているようです。