「山の杜さんの遅刻について」
山の杜伊吹

 ン十年人生を生きてきて、心底、病気だと思っていることが二つある。 
 その一つは、部屋を〈片付け〉られないことである。気がつくと、すぐに部屋が散らかっているのだ。例えば突然の来客があったとしよう。日常的に掃除を怠っている状態なので、部屋は汚れ、モノであふれかえっていて、スムーズに「ハイ、どうぞ」と、家の中に招き入れる事ができない。何度、玄関先で帰っていただいたことかしれない。
 玄関も、下駄箱に入らない長靴や傘や子どもの自転車、洗車スポンジにちりとり、ホコリをかぶった花瓶や虫除けスプレーや虫かごやらで占拠されており、そこから散らかり放題の家の中が丸見え。おまけにトイレの横なので、なにやら残り香が漂う気がして、気が気ではないという最悪の状態である。自らが家の外に出て、玄関扉をバタンと閉め、お客と話をすることも多い。
 あらかじめ客が訪ねてくることが分かっている場合。最低でも前日には掃除をすますべきところだが、体が動かない。「やらなきゃならない。始めなきゃいけない」と思う自分がいるのに出来ない。当日になってさえ、すぐに取りかかれない。来客の1時間前くらいになって、やっとスイッチが入る。情けない話だが、いつもギリギリになって、追いつめられないとできないのである。
 バタバタと、血相を変えて掃除をする時、考えている事はいつもこうだ。「ダメ人間だ、人間失格だ。病気だ。馬鹿者だ。常日頃からキレイにしておけば、こんな切羽詰まった思いをせずに済んだのに!! いつもこうだ、私はなにも学んでいない!!」ピンポンが掃除機の音で聞こえない時もある。時間通りならいいが、人によっては五分、十分早く来る客もいる。そういう時は当然間に合わない。
 そして、私自身約束の時間によく遅れる。イタリアの電車が1時間待っても来ないとはよく聞く話だが、私もその部類だ。根深い〈遅刻が二つ目の病気で〉ある。時間ぴったりに着くことができたら、上出来。ちょっと早めに着こうという気はさらさらない。だから遅れるのだろう。これは子どもの頃からそうで、遅刻のチャンピオンだった。高校の時は私の遅刻の為に、朝のホームルームをつぶして話し合いがもたれ、一時間目は「山の杜さんの遅刻について」意見をのべる会になった。
 朝起きられない(昼寝も)という病気もあり、眠りが深い。会社勤めがつらくて、仕事上、絶対に遅れる事が許されない日は、母親にモーニングコールを頼んでいた。そう、母親のしつけ、いや親子関係という後天的な原因か。それとも脳の中の時間をつかさどる神経が麻痺しているのか。幼少の頃から神経が張りつめ、眠りに逃避していた。これと関係あるかもしれない。家中の時計を15分も進めてある。でも肝心の私の中の時計が壊れているので、気がつけば、もう現地に到着していなければならない時間になっていてリビングで愕然とする。早く出発できたらできたで、寄り道をして遅れる。大人になっても、猛省と自己嫌悪の日々。
 少し前から、小学校で有償ボランティアをしている。授業をじっと聞けない子、外に出て行ってしまう子、感情がコントロールできない子、その他さまざまな問題を抱えている子どもたちがいまクラスに一名以上はいて、授業が成り立たなくなっているケースが多い。都会に多いらしいが、大人社会のストレスが子どもに現れているように思える。家庭環境を考えたとき、学校でしか発散する場がなかったり、幼児の頃できなかったこと(甘え、反抗)のやり直しであったり。なぜ、キレてしまうのか、彼らをここまで追いつめてしまったことへのやりきれなさを感じる。授業はちゃんと聞けないものの、ある分野で特別な才能がある子もいる。
 そういう子を見ていると、べつに退屈な授業に出なくても、心ゆくまで山で遊んだり、好きな事をしていてもいいんじゃないかと思う。校庭や林で遊ぶことが、きっといま、必要なのだ。机の上の理論より、実際に見たり感じたりする自然の中での実践の方が、生きていく上でも役に立つ。好きなときにフラフラと教室を出て行き、気が向いたら教室へ帰る。君はきっと将来ノーベル賞だ。
 とはいいつつも、集団生活のルールも教えなくては社会に適応できない。私の時代は、授業の始まりと終わりに必ずチャイムが鳴った。いまは鳴ったり鳴らなかったりするので驚いた。外にいると一体いま何時なのか、何時間目の授業が始まっているか、不明である。「時間を守れない子が多い」と学校関係者からよく聞くが、このあたりにも原因があるのではないか。これもゆとり教育ってやつ?  
 衝動的であったり、多動的であったりする場合、ADHD(注意欠陥多動性障害)とみなされることが多い。ADHDの特徴として、時間が守れない、片付けが苦手ということもあることを知った。どこかで聞いたことのあるケースじゃないか。