「ささくれ指」  山の杜伊吹

 
 指にささくれができている。できている、ではなく自分でつくったといった方が良い。右手の人差し指と中指の、爪と皮膚の間がめくれ、その皮の一筋をつまんで引っぱると、どんどん深くえぐれ、やがて出血し小さな傷になる。洗髪するとき上下の手の動きに合わせて、傷とめくれかけた皮膚も動くので、痛んで不愉快だ。
「親不幸な事をするから、ささくれができるのよ」
 幼少の頃、そのささくれを見て母が言った。夕方5時。ユミは仕事に行く為に、いつもより念入りに化粧をする。ささくれのある指で口紅を塗り、子どもの為にふりかけごはんで作ったおにぎりをテーブルの上に残し、火の元を確認して家を出た。子どもたちはテレビに夢中だ。
「だからなんなのよ」
 クルマのエンジンをかけた時に独りつぶやく。携帯が鳴った。小学校からだと分かり、出るのをやめて走り出す。先日も授業参観で、息子が一人しゃべり続け、そわそわし、教室を飛び出しどこかへ走って行ってしまった。自然や虫が好きで、学校が窮屈なのだ。昔ならどこにでもいた野生児。どうして、病院にまで連れて行く必要があるというのだ。
 前を走る赤いクルマに見覚えがあった。独身時代、サウナで知り合ったA子。昼は建築会社で正社員として働き、夜は居酒屋でバイト。本命は遠距離恋愛の彼氏だったが、バイト先では年下の仲間二人と関係を持っていた。ある日高速道路を逆走してクルマが大破、借金を抱え込みバイト先の店長に大金を借りた。
 誰かの子を身籠り、一番優しかった年下の一人と結婚し、男の子二人の母になってた。目に浮かぶのは大きな乳房。ユミに気づかず右折して行く。
 歓楽街への道は、会社帰りの家路を急ぐクルマの進む方向とは逆である。視野の端にN子の家があった。ボロボロのトタン屋根の小さな一階建ての家は、建て替えられずそのまま。中学の同級生で、背が170以上あり、顔が大きく頭も悪く、垢抜けしなかったN子。ユミは心の底で馬鹿にしていた。
 そんなN子が中学卒業後20年ぶりの同窓会に来たと思ったら、すっかり明るくなっていた。高校卒業後スナックで働いていたのは知っていたが、目を二重に整形して、大会社勤めのサラリーマンをつかまえ、「三食昼寝付き」の生活を送っているという。
 交差点の赤信号で停まると、貴金属買い取り店の看板が目に入った。中に男性店員が一人で座っているのが見える。独身時代の指輪やアクセサリーはもうとっくに売った。売るモノがなくなった今、逆に奪ってやるのはどうか。買い取り用にそこそこの現金が用意されているはずだ。店の前にクルマを横付けし、中に押し入る。店員は男とはいえカウンター越しに一人。モデルガンでも突きつけて「金を全部出せ!」とすごんだら、たとえこちらが女だろうが、金を出すのではないか。その後店員は慌てて警察に通報するはずだ。逃げおおせるか。
 ユミはノドが乾いていることに我慢がならなくなった。コンビニがいくつもあるが缶ジュース一本も買えない。我慢してしばらく走ると、先日大事故があった中央分離帯に差し掛かった。若者二人が無謀運転でバイク事故を起こし、亡くなった場所。その仲間だろう、10人くらいが現場に集まり花、酒、飲み物などを供えていた。帰りに奪って飲んでやろう。どうせ死人はあのジュースを飲む事はできないのだ。
 子どもだけを残して夜、家を出る。いまからネオンが似合う女になるのだ。ジェットコースターのように堕ちてくそのスリルと享楽を楽しむがいい。真っ暗闇の底に、口を下劣に開けたサタンが待っている。痛いと分かっているのにめくってしまう指のささくれ、その神経と直結した傷の鋭い痛みが、ユミを正気に唯一戻す。小さなささくれは深くえぐれ、治る前に自ら新しい傷をこの手でつくって生きていく。 (了)