涙「雨」 真伏善人

 ある日、新聞のテレビ番組に目を通していると、普段はジャンプするはずのNHK教育番組を、目の端がかすった。凝らして見ると、欄には「ギター教室」とある。視線は釘づけになり、頭の中はまばゆいミラーボールがゆっくりと回転を始めた。
 ずっと昔のことだ。「禁じられた遊び」という映画の主題曲に魅了され、なにがなんでも自分の指で弾きたくなったことがある。どこからか、とにかく古いギターを手に入れ、独身寮の非常階段で練習を始めた。手探りで、〈らしい〉メロディにはなったが、人差し指一本での演奏? はどうみても胡散臭い。途方にくれていると、いつか教則本があることを知り、楽器店で見つけることができた。〈これで一流のギター弾きになれる〉、と信じて疑わなかったが、中身は面白くもなんともない練習ばかり。#が付くにいたって、これは面倒なことになったと、いくらも進まないうちに早々、卒業ときめてしまった。
 「禁じられた遊び」の楽譜を手に入れてから、どれほどの日にちが経ったかしれない。#ひとつだけの十六小節がどうにか弾けるようになると、もう我を忘れて来る日も来る日も、十六小節を弾いては悦に入っていた。そのうち、これだけでは格好がつかないと思い直し、さあ、あとの十六小節となり身構えた。#が四つもついている。頭はもちろん左の指もパニックに陥り、まさにお手上げ状態となった。さすがに情熱だけではどうにもならないことがあるのだと、妙に悟ってしまったのである。
 それからというもの、難しいところがでてくると妙に悟ることになって、完璧にできた曲はひとつもないというありさま。ついにはいろんな事情も重なり、ギターはケースの中で死んだように深い眠りへと落ちていったのである。
 それが今、突然なにかしらの力によって、また引き合わされようとしていることに、拒む理由はなかった。
 タンスの上で床ずれもせずにいる、金具の錆びた黒いケースの中で、ギターはどうしているだろうか。椅子を踏み台にして注意深く抱えおろし、そろりとふたを開けると、北の窓からの薄い光でこげ茶色の表板がきらりとした。4弦が切れていたことに、さしてがっかりはしなかった。それより、捨て置いたうしろめたさが背中にぺたりとはりついた。
 ふたたびギターを抱える日々がきた。なにはともあれ「禁じられた遊び」、と弦に指をかけたのだが、脳の指令をまともに指がやれない。こんなばかなと、遮二無二繰り返すがまったく曲にならない。ショックは大きかった。これはギターの報復であろうかと神妙になり、指を慣らすことから始めることにした。
 テレビ番組はすでに何週目かに入っていて、「涙」という曲を放映していた。涙のわけを、やさしくたしかめるお母さんを連想させ、情感あふれるメロディに、これはすぐに弾かなければと、練習をしていた「禁じられた遊び」を放りだした。
 まずは楽譜だと、街へでかけたのは青空の広がる日だった。地下鉄に乗り継ぎ、地上にでると真っ直ぐ楽器店へと急ぐ。
 教則本から名曲集、ピースになったものまで、あまりの多さに迷ってしまう。「涙」が載っているのは勿論だが他の曲も当然目に入る。時の経つのも忘れ、大胆にも「アルハンブラの思い出」も載っている一冊の名曲集を買い求めた。
 ドアを押して歩道に出てから、はっとした。雨が降っているのである。まさかと思いつつ、いったいあの天気はなんだったのかと、空をにらみあげる。いくら小雨でも、どの方向の駅まで歩いたって濡れ鼠になりそうだ。雨宿りをしていたら道路の向こう側のコンビニに気がついた。これは幸運と、信号が青になるのを見計り、小走りに向かう。大きなビニール傘を手にし、大粒になった雨も、これで安心と駅へと歩きだす。と、ほんの数十メートルも進んだろうか、今度は日が射してくるではないか。思わずビルの谷間から見上げると、黒い雲のぼやっとした塊が、いくつも泳ぐように流れて行く。
 この意地の悪い、つかの間の雨はもしかしたら、「涙」が呼び寄せたのかもしれない。どうせ最後まで弾けないのだから、この雨で流したらどうなの? と忠告でもするように。   
 名曲集の入った袋が急に重くなる。
 流れ去る雲が振り向いて笑ったような気がした。
 どだい能力や気力なんかは半端なのだし、適当な自己満足ですませてもいいのだけれど、このしゃくにさわる「涙」雨だけは見返してやろうと思う。

(以上)