「奇跡の日々」    伊神権太

 巡り会い、という言葉がある。人生の大半、その人の浮き沈みは、この四文字によって決まる。そんな気がする。妻との出会いだってそうだ。一つ歯車が違っていたら、今ごろは、他の女性とまったく別のわが子たちと暮らしていただろう。まさに、人生は紙一重。一瞬の運命に流される。人々は紙一重、奇跡の流れの中で生きているのである。
 私自身も半世紀以上に及ぶわが人生劇場のなかで、巡りあった人々は数え知れない。学生時代に恋い焦がれた仏文科女子大生から志摩の海女さん、横笛のお師匠さんまで。ホンの一瞬の時間差の中でなぜか知り合い、以降、友人関係を築いてきたが、そんな中でも互いに忘れられない人となると限られる。ここではこれまでに出会った、多くの方々の中から特に印象深い人物、それもごくごく一部の女性に絞って記憶の糸をたぐってみたい。
 まず新聞記者としての初任地。松本支局時代に出会ったのがミハルと多美子さん。ミハルとは市内のモルモン教の教会で知り合った。松本はモルモン教の聖地・米国ソルトレーク市と姉妹都市だったこともあり英会話の練習にと教会を訪れ、知り合った。不思議なことにミハルが妹と生年月日が同じだったことから親近感を覚え、夜の市内を取材用オートバイの後部座席に乗せ、しばしばぶっ飛ばしたものだ。
 そして多美子との付き合いは当時、松本を拠点に同人雑誌活動が繰り広げられていた文芸同人誌「屋上」の仲間として、だった。彼女はお酒が強く同い年でもあり、よく女鳥羽川河畔や安曇野の飲み屋で待ち合わせ、ふたりだけで盃を交わした仲である。
 次の任地、三重県志摩半島。ここでは真珠王・御木本幸吉さんの血を引く女子大生に、岐阜では踊りの名取と警察署の電話交換手、小牧を含む社会部時代は桃花台に住む女性から錦のママ、能登時代はミス和倉温泉、着物着付師、八尾の女性、大垣では出版社に勤める大学の後輩…と、いずれも取材を通しての運命的ともいえる出会いばかりだった。
 とはいえ、これら付き合いは皆、時の流れと共に消え、どの方とも、爽やかな一時的な関係に終わった。失礼したことも多々ある。皆さん、この先、もし再会することにでもなれば互いに心から懐かしく思う間柄であることだけは間違いない。仕事柄、絶えず動き通しで一つ所に留まっていることなぞ、あり得なかったせいもあってか、幸いドロドロした関係にはならなかった。
 そんななか、今もって強烈な印象となって私の脳裏に残っているのが岐阜時代に取材でたまたま知り合い、あのころ根尾の淡墨桜の保存に情熱を注がれていた作家の宇野千代さん、そして能登半島で新聞販売業一筋に生きた女傑販売店主笹谷輝子さんのご両人である。二人ともこの世にはいない。でも、ふたりにお会い出来たことで私は千代さんから樹齢千五百年の老樹・淡墨桜をいたわる【心】を、テルさんからも♪能登はやさしや土までも、の言葉どおり読者を大切にする【優しさ】といったようなものを教えられたのである。
 長い人生航路のなかでは、このほかにも、女流書家、日本画家、華道家元、中国琵琶の奏者、作家、エッセイスト、ソムリエスト、劇団員、料亭や居酒屋の女将、ドラファン仲間…と、それこそ各界の方々と、わいわいガヤガヤと楽しい人生を過ごし多くを教えられてきた。共通するのは互いの立場を尊重する姿勢、信頼感だったような気がしてならない。
 人間。考えてみれば毎日初めての方とすれ違って歩いている、未知の人との出会いの繰り返しだ。そこには当然ながら恋も、愛も、幸せも、悲しみだってある。人生は楽しい半面、無慈悲で冷たい。最近少しだけ齢を重ねたせいか、それでも、そんな巡り会いに期待している。今日は、いや明日はどんな方と会えるのか。これすべて奇跡の巡り合わせ、〈見えない神の手〉の仕業と思う。さて、次はどんな人が目の前に現れるのか。楽しみだ。