「泳ぐ」 平子純

 比呂三の出稼ぎに行った島から本土までの距離は海峡を隔てて二百メートルほどで目で見ても本当に近い。しかしその僅かな距離が大変なのである。潮の流れが早くなかなか泳ぐには容易ではない。舟を使えば慣れた船頭ならなんのことはないが、渦巻く場所もあり海の様子を知らない者にとってはなかなかの難所であり昔から船の事故も多く恐れられた海に違いはない。比呂三はそれでも渡りたかった。彼のように半ば奴隷のように売られて来た出稼ぎ人にとって舟を使う等出来ず、誰も見ていない夜に密かに島を脱け出す以外にない。

 前日彼は仕事上で仲間から苛められ怒鳴られた。それが夜遅くまで心に響き眠られなかった。そんな時思うのは、いつも里に居る茜のことだった。彼女は子供の頃から体が弱く苛めっ子達の苛めの対象となっていた比呂三を庇い彼等からの暴力を防いでくれた。
 事件が起きたのは、この日の昼下がりだった。比呂三はこの日の収穫の仕事が一段落着き、休んでいる時だった。彼の休息を見咎めた島の長老の一人が罵倒するのに耐えられなくなり、彼がその男を拳大の石で殴り頭に大怪我をさせてしまったのだ。しまったと思う間もなく、一目散に彼は森の方へと逃げ去って行き更に状況は悪くなった。すぐに噂は伝わり、島中の男達が集まって来た。事件が起きると、島人の結束は強く他者に対する排他的意識が強く、すぐに山狩りして捕まえ私刑をしようと騒ぎ立てた。
 怪我は致命傷ではなかったが尾ひれが付いて死にそうだとか、もう働けなくなった等と誇張され比呂三は大悪人、凶悪犯ということになってしまった。日頃は平安な島の一大事であり、島人が結束し他者を罰するという言わば娯楽の一つでもある。比呂三はとにかく逃げた。捕まれば何をされるか分らない恐怖感とひょっとすると島中の人の前で処刑されてしまうかもしれぬと思った。
 彼は村八分とか島八分という孤絶する怖さを子供の頃から知っていた。そうなった者達の行く末はいつも残酷な死が待っていたのだ。あまり広くない島で逃げおおすには狭過ぎると直感した。昨日一人住まいの老女が死に、空き家となった粗末な家に一旦隠れたが、いずれ探索の手は回って来るだろうと思った。
 三日経ち、やはり彼の隠れ家にも追っ手が迫って来ていた。その家まで数百メートル離れた場所から島人達の大声が聞こえて来たのだ。「何処に隠れていやがる。必ず捕まえて簀巻にし海の魚どもの餌にしてやるからな」
 彼は怯えながら、こう考えた。もう泳いで逃げるしかないな、たとえ溺れ死んでもその方がましだ。そうだ茜の下へ帰ろう。彼女だけだった。彼に優しさを与えてくれたのは、そう思うとじっとしていられなくなり、彼は隠れ家を出て海の方へ向っていた。

 夜も深まり辺りは静まりかえり森の木々も眠りに入っているようだった。森を抜け海の方まではほんの二百メートルほどである。彼はもの音を立てないように歩き、見咎める人もいないだろうと忍び足で海岸の砂地までたどり着いた。
 彼はそっと足を海につけてみた。瞬間氷のような冷たさが伝わって来た。ひょっとしたら泳ぐのは無理かも知れぬと思った。しかし一分程の間に彼は決意を固めた。ままよ、死んだところで何てことはない、一人の何てことはない人間がこの世から消えるだけの事だ。虫けらのように消えてゆくのが所詮、自分の人生だ。
 彼はそう思うと冷たい暗闇の海の中へ身を投じた。冷たいが体が自然に動いていた。子供の頃よく泳いだ経験が体は覚えていたのだ。彼の村も海岸近くにあった。彼はこの時間が潮どまりの時間である事も知っていた。干潮と満潮の境目に起こる一時間ほど、この時間帯に泳ぎ着こうと必死で手足を動かした。段々体が冷えて来た。記憶の向こうに幼い頃の茜と遊ぶ姿が浮かんでは消えた。
 それも見えなくなりかすんでゆく意識の中でそれでも彼は必死に手足を動かしていた。(完)

18年9月3日

「泳ぐ命」 黒宮涼

 比呂三の出稼ぎに行った島から本土までの距離は海峡を隔てて二百メートルほどで目で見ても本当に近い。しかしその僅かな距離が大変なのである。潮の流れが早くなかなか泳ぐには容易ではない。舟を使えば慣れた船頭ならなんのことはないが、渦巻く場所もあり海の様子を知らない者にとってはなかなかの難所であり昔から船の事故も多く恐れられた海に違いはない。比呂三はそれでも渡りたかった。彼のように半ば奴隷のように売られて来た出稼ぎ人にとって舟を使う等出来ず、誰も見ていない夜に密かに島を脱け出す以外にない。

 前日彼は仕事上で仲間から苛められ怒鳴られた。それが夜遅くまで心に響き眠られなかった。そんな時思うのは、いつも里に居る茜のことだった。彼女は子供の頃から体が弱く苛めっ子達の苛めの対象となっていた比呂三を庇い彼等からの暴力を防いでくれた。
 事件が起きたのは、この日の昼下がりだった。比呂三はこの日の収穫の仕事が一段落着き、休んでいる時だった。彼の休息を見咎めた島の長老の一人が罵倒するのに耐えられなくなり、彼がその男を拳大の石で殴り頭に大怪我をさせてしまったのだ。しまったと思う間もなく、一目散に彼は森の方へと逃げ去って行き更に状況は悪くなった。すぐに噂は伝わり、島中の男達が集まって来た。事件が起きると、島人の結束は強く他者に対する排他的意識が強く、すぐに山狩りして捕まえ私刑をしようと騒ぎ立てた。
 怪我は致命傷ではなかったが尾ひれが付いて死にそうだとか、もう働けなくなった等と誇張され比呂三は大悪人、凶悪犯ということになってしまった。日頃は平安な島の一大事であり、島人が結束し他者を罰するという言わば娯楽の一つでもある。比呂三はとにかく逃げた。捕まれば何をされるか分らない恐怖感とひょっとすると島中の人の前で処刑されてしまうかもしれぬと思った。
 彼は村八分とか島八分という孤絶する怖さを子供の頃から知っていた。そうなった者達の行く末はいつも残酷な死が待っていたのだ。あまり広くない島で逃げおおすには狭過ぎると直感した。昨日一人住まいの老女が死に、空き家となった粗末な家に一旦隠れたが、いずれ探索の手は回って来るだろうと思った。
 三日経ち、やはり彼の隠れ家にも追っ手が迫って来ていた。その家まで数百メートル離れた場所から島人達の大声が聞こえて来たのだ。「何処に隠れていやがる。必ず捕まえて簀巻にし海の魚どもの餌にしてやるからな」
 彼は怯えながら、こう考えた。もう泳いで逃げるしかないな、たとえ溺れ死んでもその方がましだ。そうだ茜の下へ帰ろう。彼女だけだった。彼に優しさを与えてくれたのは、そう思うとじっとしていられなくなり、彼は隠れ家を出て海の方へ向っていた。

 夜も深まり辺りは静まりかえり森の木々も眠りに入っているようだった。森を抜け海の方まではほんの二百メートルほどである。彼はもの音を立てないように歩き、見咎める人もいないだろうと忍び足で海岸の砂地までたどり着いた。
 彼はそっと足を海につけてみた。瞬間氷のような冷たさが伝わって来た。ひょっとしたら泳ぐのは無理かも知れぬと思った。しかし一分程の間に彼は決意を固めた。ままよ、死んだところで何てことはない、一人の何てことはない人間がこの世から消えるだけの事だ。虫けらのように消えてゆくのが所詮、自分の人生だ。
 彼はそう思うと冷たい暗闇の海の中へ身を投じた。冷たいが体が自然に動いていた。子供の頃よく泳いだ経験が体は覚えていたのだ。彼の村も海岸近くにあった。彼はこの時間が潮どまりの時間である事も知っていた。干潮と満潮の境目に起こる一時間ほど、この時間帯に泳ぎ着こうと必死で手足を動かした。段々体が冷えて来た。記憶の向こうに幼い頃の茜と遊ぶ姿が浮かんでは消えた。
 それも見えなくなりかすんでゆく意識の中でそれでも彼は必死に手足を動かしていた。(完)

18/8/23