「雪万華」伊神権太

 雪といえば、思い出すのは忠臣蔵。赤穂浪士による討ち入りだ。井伊大老が暗殺された桜田門外の変、大雪が残る中での未明の2・26事件と歴史上のドラマが頭に浮かぶ。次いで昭和38年の豪雪で知られる愛大生の薬師岳遭難、最近では私自身、取材にかかわった能登半島の珠洲沖地震といったところか。
 私が一番ちっちゃっかったころの忘れられない話といえば、四つのころのわが人生では生まれて初めての最大事件に尽きる。それは昭和二十五年一月七日の雪深い日に遡る。私はその日、腰までスッポリ積もった雪の壁をかき分けかき分け、木曽川河畔の町の一本道を兄についてはやる気持ちを抑えながら何度も転びながら、そのつど起き上がっては走るように追っかけた。転ぶたびに兄が困った顔をして私が立ち上がる姿を待ってくれていたことをヨオ~ク覚えている。
「あかちゃんが生まれる。あかちゃんが。おかあちゃんが苦しんでる。このままだと死んじゃうかもしれない。誰か早く!」。この一心で幼かった私と兄は、走りに走り続けたのである。

 あの日から67、8年がたつ。私と兄は、あのとき200㍍ほどあった、おかあちゃんの実家である本家(ほんや)をめがけ私たちの家である新家(しんや)から【急】を知らせに息をもつかせずに、ちいさな足で走ったのである。ただ、今となっては目の前の道の両側を白い巨大な雪の壁が覆いかぶさっていたことしか覚えておらず、その後どのようにして本家のおじいちゃんたちが駆けつけ、母が無事、妹を産んだのか、となると何ひとつ覚えてはいない。

 雪、と言えば駆け出しの新聞記者だった当時に遭遇したスキーツアー中だった同志社大生が行方不明になった立山連峰地獄谷での大量遭難事件で雪深い室堂まで松本支局のジープで同僚と駆けつけたことがある。松本といえば女鳥羽川河畔の山男や信大生、音楽好きな人たちが集まる喫茶「まるも」を思い出す。が、何といっても厳しかったのは、年末年始の冬山登山中、北ア上高地・木村小屋で他社のサツ回り記者と一緒に遭難事件に備え極寒のなかで何日も冬ごもりをしたことか。
 小屋には当時、上高地の大将で知られた白髭の木村殖さんらがいたが、いったん遭難事故の報が告げられるや、各社とも電話を取り合ってふもとの松本支局に原稿を吹き込んだり、下山する登山者に写真を支局まで運んでもらったものである。週刊誌に〈遭難を待つ上高地の記者たち〉と書き立てられた思い出も今となっては懐かしい。かといって、好天の日にはピッケルを手にアイゼンを履いて女性登山者らと上高地と西穂独標間を往復、帰りは尻スキーを楽しむなどした。

 時代は下って。能登半島の七尾支局在任時には雪が降る夜、居酒屋で「さあ、これから一杯」という矢先にグラ、グラッ、グラリと店内が大揺れし、車で深夜の雪道を震源地の半島突端、珠洲まで駆けつけ現地通信部を臨時基地に各地の記者やカメラマンを召集。1週間ほど能登半島沖地震の取材の陣頭指揮に当たり、同僚らと液状化現象を徹底取材したことも、忘れられない。七尾では、輪島沖に浮かぶへぐら島で海女をしていた女性が営む居酒屋〈へぐら〉に同僚とよく通いもした。夜更けて。人ひとり通らぬ一本杉通りを両脇民家の軒先に垂れ下がった恐ろしいほど長いつららを目に、ただ1人雪道を帰る、あのときの寂寥感というか。幽玄な世界に足を踏み入れていく、そんな味わいも貴重な体験だった。

 最後に私にとって永遠とも言えるのが、その年に南国志摩に珍しく舞った雪の精たちだ。志摩半島は松本に次ぐ任地でその地、三重県志摩郡阿児町鵜方(現志摩市阿児町)の通信部で働いていたころ、2並びの日に長男が県立志摩病院で産声をあげたのである。そして、北陸路が豪雪に襲われたことし。長年の私に対する見えない手による罪と罰なのか。私の右肺の三分の一が、ものの見事に切除された。雪を語れば、その人の人生と過去が顔を出す。(完)

【番外編】平昌五輪が9日、冬季としては過去最多となる92カ国・地域、2900人余の選手が参加して開幕。韓国と北朝鮮が、五輪では2006年のトリノ冬季大会以来となる合同入場行進をしました。北も南もなく世界の人々が手を携えあって仲良く暮らす世の中になると良いですね。
 映像は9日夜の開会式のひとコマ(NHK総合の平昌オリンピック「開会式」から)
 https://photos.app.goo.gl/mQexFmhVJs7LKbIm1

18年2月9日

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テーマエッセイ 第二十六回 -雪-

「雪万華」伊神権太

 雪といえば、思い出すのは忠臣蔵。赤穂浪士による討ち入りだ。井伊大老が暗殺された桜田門外の変、大雪が残る中での未明の2・26事件と歴史上のドラマが頭に浮かぶ。次いで昭和38年の豪雪で知られる愛大生の薬師岳遭難、最近では私自身、取材にかかわった能登半島の珠洲沖地震といったところか。
 私が一番ちっちゃっかったころの忘れられない話といえば、四つのころのわが人生では生まれて初めての最大事件に尽きる。それは昭和二十五年一月七日の雪深い日に遡る。私はその日、腰までスッポリ積もった雪の壁をかき分けかき分け、木曽川河畔の町の一本道を兄についてはやる気持ちを抑えながら何度も転びながら、そのつど起き上がっては走るように追っかけた。転ぶたびに兄が困った顔をして私が立ち上がる姿を待ってくれていたことをヨオ~ク覚えている。
「あかちゃんが生まれる。あかちゃんが。おかあちゃんが苦しんでる。このままだと死んじゃうかもしれない。誰か早く!」。この一心で幼かった私と兄は、走りに走り続けたのである。

 あの日から67、8年がたつ。私と兄は、あのとき200㍍ほどあった、おかあちゃんの実家である本家(ほんや)をめがけ私たちの家である新家(しんや)から【急】を知らせに息をもつかせずに、ちいさな足で走ったのである。ただ、今となっては目の前の道の両側を白い巨大な雪の壁が覆いかぶさっていたことしか覚えておらず、その後どのようにして本家のおじいちゃんたちが駆けつけ、母が無事、妹を産んだのか、となると何ひとつ覚えてはいない。

 雪、と言えば駆け出しの新聞記者だった当時に遭遇したスキーツアー中だった同志社大生が行方不明になった立山連峰地獄谷での大量遭難事件で雪深い室堂まで松本支局のジープで同僚と駆けつけたことがある。松本といえば女鳥羽川河畔の山男や信大生、音楽好きな人たちが集まる喫茶「まるも」を思い出す。が、何といっても厳しかったのは、年末年始の冬山登山中、北ア上高地・木村小屋で他社のサツ回り記者と一緒に遭難事件に備え極寒のなかで何日も冬ごもりをしたことか。
 小屋には当時、上高地の大将で知られた白髭の木村殖さんらがいたが、いったん遭難事故の報が告げられるや、各社とも電話を取り合ってふもとの松本支局に原稿を吹き込んだり、下山する登山者に写真を支局まで運んでもらったものである。週刊誌に〈遭難を待つ上高地の記者たち〉と書き立てられた思い出も今となっては懐かしい。かといって、好天の日にはピッケルを手にアイゼンを履いて女性登山者らと上高地と西穂独標間を往復、帰りは尻スキーを楽しむなどした。

 時代は下って。能登半島の七尾支局在任時には雪が降る夜、居酒屋で「さあ、これから一杯」という矢先にグラ、グラッ、グラリと店内が大揺れし、車で深夜の雪道を震源地の半島突端、珠洲まで駆けつけ現地通信部を臨時基地に各地の記者やカメラマンを召集。1週間ほど能登半島沖地震の取材の陣頭指揮に当たり、同僚らと液状化現象を徹底取材したことも、忘れられない。七尾では、輪島沖に浮かぶへぐら島で海女をしていた女性が営む居酒屋〈へぐら〉に同僚とよく通いもした。夜更けて。人ひとり通らぬ一本杉通りを両脇民家の軒先に垂れ下がった恐ろしいほど長いつららを目に、ただ1人雪道を帰る、あのときの寂寥感というか。幽玄な世界に足を踏み入れていく、そんな味わいも貴重な体験だった。

 最後に私にとって永遠とも言えるのが、その年に南国志摩に珍しく舞った雪の精たちだ。志摩半島は松本に次ぐ任地でその地、三重県志摩郡阿児町鵜方(現志摩市阿児町)の通信部で働いていたころ、2並びの日に長男が県立志摩病院で産声をあげたのである。そして、北陸路が豪雪に襲われたことし。長年の私に対する見えない手による罪と罰なのか。私の右肺の三分の一が、ものの見事に切除された。雪を語れば、その人の人生と過去が顔を出す。(完)

【番外編】平昌五輪が9日、冬季としては過去最多となる92カ国・地域、2900人余の選手が参加して開幕。韓国と北朝鮮が、五輪では2006年のトリノ冬季大会以来となる合同入場行進をしました。北も南もなく世界の人々が手を携えあって仲良く暮らす世の中になると良いですね。
 映像は9日夜の開会式のひとコマ(NHK総合の平昌オリンピック「開会式」から)
 https://photos.app.goo.gl/mQexFmhVJs7LKbIm1

18/2/9