「舟木一夫と青春時代」 伊神権太

♪こんこんこんこん 君はいまなぜ泣いてるの 
♪こんこんこんこん 君はいまなぜ悲しいの…舟木一夫〈心こめて愛する人へ〉から
 私の青春時代。それは、嬉しいこと悲しいことが怒涛となって押し寄せた高校生から二十代にかけてか。

 高1のとき柔道の稽古のさなかに右足を骨折して2年後。昭和38年6月(1963年)。愛知県一宮市出身の青春歌謡歌手舟木一夫さんのデビューシングル「高校三年生」(丘灯至夫作詞、遠藤実作曲)が、爆発的ヒットとなった。夏から秋にかけて、だと記憶している。「高校三年生」の大ブレイクもあってか、私が通う愛知県江南市の滝高キャンパス=当時、私は滝実業高校普通科3年。滝実は進学校の先兵で翌年から名前が滝高になった=で映画「高校三年生」のロケがあり、舟木さんはじめ姿美千子さんや高田美和さん、倉石功さんら若手俳優が集結。自転車置き場などで毎日のようにロケが繰り返されていた。
 あのころ柔道部に在籍していた私は稽古の合間に黒帯姿で柔道場近く自転車置場で行われていたロケ班の模様を見ていたことが思い出される。主役の舟木さんが何度も自転車で転ぶ姿、その一部始終を見ていた。たまたま、そのころは一年下の演劇部のAさん(商業科)に片思いをしており、映画ロケの見学もさるものの彼女が見物に来ていないかどうか、私にとってはそのことの方が気になった。
 でも彼女とは、ただのひと言もかわすことなく私は学び舎を巣立ち大学に進学。そして柔道部の後輩からの情報で、Aさんがその後名鉄百貨店に入社、名駅店のエレベーターガールとして新たな人生を歩んでいることを知った。数年後。私は新聞社への入社が決まり、ある日思い切って名鉄百貨店に会いに行くと、会うには会えたが彼女は既に結婚していたことが分かった。

 三十年後。私は、新聞社の一宮支局長として在任時に苦難時代の舟木さんを支え続けてきた当時の一宮市議会議長三浦さん(故人)から、歌い手になるため舟木さんが単身上京したいきさつなどを伺い、まだ若かったのに歌にかける情熱には鬼気迫るものがあったことを知った。感激した私は妻を伴い、新橋演舞場まで訪れ〈おやじの背中〉を観劇した。
 そして。それから二年後。私が文化芸能局の部長だったころ、中日パレスで舟木一夫公演のなかじめパーティーがあった際、親しく話し合う機会に恵まれた。せっかくなので「滝高でのロケ風景を見ていたこと」や「舟木さんが郷土に、と贈られた真清田神社の梵鐘はいまも多くの市民に喜ばれ、現役として活躍している」「記者としてあちこち回ってきたが、どこでも舟木ファンは多く、追っかけ女性は年々増えている」などといったことを話した。
 あのとき彼が私の目を見つめて「いや、本当にファンというものはありがたいものです。感謝してますよ」とポツリと漏らした言葉は今なお忘れられないのである。

 そして。私自身、26歳のとき、三重県志摩半島の阿児町鵜方であのころ幼な妻だった舞との駆け落ち記者時代を過ごしたが、いまから思えば私は当時、舞を片腕に〈心こめて愛する人へ〉はじめ、〈夕笛〉〈絶唱〉〈仲間たち〉〈学園広場〉など数々の青春歌謡を歌ってきかせたのである。
 事実、自分でいうのもおかしいが、小学生のころは「あなたほど歌のうまい子はいないね」とよく音楽の先生や母に褒められ上級生のころには本気で「母ちゃん。俺が居なくなったら。東京だから。歌手になって帰ってくるから」と冗談とも本気ともつかないことを話したものである。だから、私にとっての舟木一夫の存在は、今もまぶしくて仕方がない。
 年こそ重ねたが許されるなら私は私のペンをこの先も握りしめ時にはステージで舟木一夫さん気取りで人々に勇気と希望を与え続ける歌をうたってみたい、と思っている。そのひとつが〈ラブバード・カトマンズ〉だ。人生、山あり谷あり。わが青春は、まだこれからだと願う。(完) 

17年12月18日

「青春奔走」  黒宮涼

♪こんこんこんこん 君はいまなぜ泣いてるの 
♪こんこんこんこん 君はいまなぜ悲しいの…舟木一夫〈心こめて愛する人へ〉から
 私の青春時代。それは、嬉しいこと悲しいことが怒涛となって押し寄せた高校生から二十代にかけてか。

 高1のとき柔道の稽古のさなかに右足を骨折して2年後。昭和38年6月(1963年)。愛知県一宮市出身の青春歌謡歌手舟木一夫さんのデビューシングル「高校三年生」(丘灯至夫作詞、遠藤実作曲)が、爆発的ヒットとなった。夏から秋にかけて、だと記憶している。「高校三年生」の大ブレイクもあってか、私が通う愛知県江南市の滝高キャンパス=当時、私は滝実業高校普通科3年。滝実は進学校の先兵で翌年から名前が滝高になった=で映画「高校三年生」のロケがあり、舟木さんはじめ姿美千子さんや高田美和さん、倉石功さんら若手俳優が集結。自転車置き場などで毎日のようにロケが繰り返されていた。
 あのころ柔道部に在籍していた私は稽古の合間に黒帯姿で柔道場近く自転車置場で行われていたロケ班の模様を見ていたことが思い出される。主役の舟木さんが何度も自転車で転ぶ姿、その一部始終を見ていた。たまたま、そのころは一年下の演劇部のAさん(商業科)に片思いをしており、映画ロケの見学もさるものの彼女が見物に来ていないかどうか、私にとってはそのことの方が気になった。
 でも彼女とは、ただのひと言もかわすことなく私は学び舎を巣立ち大学に進学。そして柔道部の後輩からの情報で、Aさんがその後名鉄百貨店に入社、名駅店のエレベーターガールとして新たな人生を歩んでいることを知った。数年後。私は新聞社への入社が決まり、ある日思い切って名鉄百貨店に会いに行くと、会うには会えたが彼女は既に結婚していたことが分かった。

 三十年後。私は、新聞社の一宮支局長として在任時に苦難時代の舟木さんを支え続けてきた当時の一宮市議会議長三浦さん(故人)から、歌い手になるため舟木さんが単身上京したいきさつなどを伺い、まだ若かったのに歌にかける情熱には鬼気迫るものがあったことを知った。感激した私は妻を伴い、新橋演舞場まで訪れ〈おやじの背中〉を観劇した。
 そして。それから二年後。私が文化芸能局の部長だったころ、中日パレスで舟木一夫公演のなかじめパーティーがあった際、親しく話し合う機会に恵まれた。せっかくなので「滝高でのロケ風景を見ていたこと」や「舟木さんが郷土に、と贈られた真清田神社の梵鐘はいまも多くの市民に喜ばれ、現役として活躍している」「記者としてあちこち回ってきたが、どこでも舟木ファンは多く、追っかけ女性は年々増えている」などといったことを話した。
 あのとき彼が私の目を見つめて「いや、本当にファンというものはありがたいものです。感謝してますよ」とポツリと漏らした言葉は今なお忘れられないのである。

 そして。私自身、26歳のとき、三重県志摩半島の阿児町鵜方であのころ幼な妻だった舞との駆け落ち記者時代を過ごしたが、いまから思えば私は当時、舞を片腕に〈心こめて愛する人へ〉はじめ、〈夕笛〉〈絶唱〉〈仲間たち〉〈学園広場〉など数々の青春歌謡を歌ってきかせたのである。
 事実、自分でいうのもおかしいが、小学生のころは「あなたほど歌のうまい子はいないね」とよく音楽の先生や母に褒められ上級生のころには本気で「母ちゃん。俺が居なくなったら。東京だから。歌手になって帰ってくるから」と冗談とも本気ともつかないことを話したものである。だから、私にとっての舟木一夫の存在は、今もまぶしくて仕方がない。
 年こそ重ねたが許されるなら私は私のペンをこの先も握りしめ時にはステージで舟木一夫さん気取りで人々に勇気と希望を与え続ける歌をうたってみたい、と思っている。そのひとつが〈ラブバード・カトマンズ〉だ。人生、山あり谷あり。わが青春は、まだこれからだと願う。(完) 

17/12/11