「恐ろしい嵐の思い出」 眞鍋京子

 一九三四年(昭和九年)九月二十一日に高知県室戸岬に上陸した室戸台風は、近畿一円で約三千人の死者行方不明者を出し、滋賀県下でも草津市などで多くの被害が出た。県内では瀬田川鉄橋で強風のため急行列車が転覆するなどして四十七人の死者が出たという。草津市北山田町の山田小学校では教諭と児童十七人が亡くなった。
 小学2年生だった、ある少女の場合。その日は登校にもひと苦労するほどの雨と風だった。傘は役に立たず、雨合羽を頭からスッポリかぶって学校へ急いだ覚えがある。確か一時間目は国語の授業だったが、始まってまもなく吹きすさぶ風に耐えきれず、ガラスが割れた。それをきっかけに建物が船のように横に揺れ始めた。三〇度か四〇度は傾いたのではなかろうか。
 担任は緊急の職員会議で呼び出されており教室には児童たちだけが残されていた。少女は、不安で、不安で仕方がなかった。教室の隅で震えていると先生が戻り「外に出ろ」と叫んだ。混乱のさなか、少女と同じクラスだった堀井和夫さんはあわてて外へ出ようとしたが、飛び散ったガラス片か何かで右目の上を3糎(㌢)ほど切った。が、それに気付いたのは、数日たってから。それほど必死で命がけの脱出避難だったという。
 校舎は倒壊し顔なじみだった田中儀三郎教諭と児童ら十七人がその下敷きになり亡くなり、帰らぬ人となった。「先生が児童を守ろう、と覆いかぶさった時には木が直撃していたと聞いてます」と、その少女。何本も木が折り重なるありさまは当時助かった子どもたちの脳裏に深く刻み込まれ、台風が来るごとに頭に想起させられてきた。
 この嵐の恐ろしさを忘れることは生涯、出来ないだろう。何かの形で伝え、残していくことが命拾いをした当時の私たち児童の果たさなければならない大切なことだと考えました、と述懐するのは堀井さん。そのご、ことあるごとに悲惨だった室戸台風の体験談を語り続けてきた堀井さんは、そうして当時のありのままを伝えていくことこそが、生き証人としての〈生の伝達〉だと信じてやまない。

 九月二十一日の命日。当時生き残った児童はもとより台風に関心を持っている人たちが学校の講堂に集まった。そして。堀井和夫さんは過去の体験が少しでもはっきりと伝えられるように、と言葉を探しながら、語った。体験を聞いた六年の松下一美さんは「自然の力の大きさや怖さや、自然を敬う気持ちを忘れずにいたい」と誓った。
 室戸台風の辛かった体験を後世に伝え続けたい。そんな思いでどこまでも語り続ける堀井さん。かつての少年はそのつど満足感を肌で感じて帰ってくるのだったが、堀井さんをはじめその時の体験者は今では皆、九十歳を越えようとする高齢者ばかりで堀井さん自身も年を重ねる毎に体力が衰え、記憶は鮮明でも言葉が続かない。そんなことが増えてきたという。
 学校によると、被災当時の児童はほかにも数人いるが、いずれも高齢のため、学校に出向いて話すことは難しくなった。今後は自宅と学校を結ぶ遠隔授業などを検討していきたいとの話ではあるが、具体策が出てくるまでにはやはり日時がかかるという。
 堀井さんはこれまで「何年も体験者として在校児童らに当時のことを話してきたが高齢なこともあり、今回で最後にしたい」と考えている、と話した。そして一方で「慰霊式典は続けていってほしい。それが死者に対する何よりの供養になる」と訴えて講演を結んだ。
 皆さんの記憶が忘れられたり、うすれたりすることが怖い。自然災害は何時くるかわからない。自然災害の勉強をして万一にそなえなければならない。室戸台風に襲われたとき。私、眞鍋京子は小学二年生で大津の小学校に通学していた。祖母に迎えにきてもらった、あの日のことは鮮明に記憶しており背中に負われ随分の時間をかけ、自宅に帰った。途中、三井寺さんの境内では何本もの杉や松の木が見るも無残な姿で倒れており、そうした木々を避けながらやっとの思いで家にたどり着いた記憶は、この先も忘れることはないに違いない。
 それは私だけではなく、室戸台風を経験したすべての人に共通するような気がしてなりません。自然は怖い。あなどってはいけませんね。(完)

16年10月31日

「嵐の日」黒宮涼

 一九三四年(昭和九年)九月二十一日に高知県室戸岬に上陸した室戸台風は、近畿一円で約三千人の死者行方不明者を出し、滋賀県下でも草津市などで多くの被害が出た。県内では瀬田川鉄橋で強風のため急行列車が転覆するなどして四十七人の死者が出たという。草津市北山田町の山田小学校では教諭と児童十七人が亡くなった。
 小学2年生だった、ある少女の場合。その日は登校にもひと苦労するほどの雨と風だった。傘は役に立たず、雨合羽を頭からスッポリかぶって学校へ急いだ覚えがある。確か一時間目は国語の授業だったが、始まってまもなく吹きすさぶ風に耐えきれず、ガラスが割れた。それをきっかけに建物が船のように横に揺れ始めた。三〇度か四〇度は傾いたのではなかろうか。
 担任は緊急の職員会議で呼び出されており教室には児童たちだけが残されていた。少女は、不安で、不安で仕方がなかった。教室の隅で震えていると先生が戻り「外に出ろ」と叫んだ。混乱のさなか、少女と同じクラスだった堀井和夫さんはあわてて外へ出ようとしたが、飛び散ったガラス片か何かで右目の上を3糎(㌢)ほど切った。が、それに気付いたのは、数日たってから。それほど必死で命がけの脱出避難だったという。
 校舎は倒壊し顔なじみだった田中儀三郎教諭と児童ら十七人がその下敷きになり亡くなり、帰らぬ人となった。「先生が児童を守ろう、と覆いかぶさった時には木が直撃していたと聞いてます」と、その少女。何本も木が折り重なるありさまは当時助かった子どもたちの脳裏に深く刻み込まれ、台風が来るごとに頭に想起させられてきた。
 この嵐の恐ろしさを忘れることは生涯、出来ないだろう。何かの形で伝え、残していくことが命拾いをした当時の私たち児童の果たさなければならない大切なことだと考えました、と述懐するのは堀井さん。そのご、ことあるごとに悲惨だった室戸台風の体験談を語り続けてきた堀井さんは、そうして当時のありのままを伝えていくことこそが、生き証人としての〈生の伝達〉だと信じてやまない。

 九月二十一日の命日。当時生き残った児童はもとより台風に関心を持っている人たちが学校の講堂に集まった。そして。堀井和夫さんは過去の体験が少しでもはっきりと伝えられるように、と言葉を探しながら、語った。体験を聞いた六年の松下一美さんは「自然の力の大きさや怖さや、自然を敬う気持ちを忘れずにいたい」と誓った。
 室戸台風の辛かった体験を後世に伝え続けたい。そんな思いでどこまでも語り続ける堀井さん。かつての少年はそのつど満足感を肌で感じて帰ってくるのだったが、堀井さんをはじめその時の体験者は今では皆、九十歳を越えようとする高齢者ばかりで堀井さん自身も年を重ねる毎に体力が衰え、記憶は鮮明でも言葉が続かない。そんなことが増えてきたという。
 学校によると、被災当時の児童はほかにも数人いるが、いずれも高齢のため、学校に出向いて話すことは難しくなった。今後は自宅と学校を結ぶ遠隔授業などを検討していきたいとの話ではあるが、具体策が出てくるまでにはやはり日時がかかるという。
 堀井さんはこれまで「何年も体験者として在校児童らに当時のことを話してきたが高齢なこともあり、今回で最後にしたい」と考えている、と話した。そして一方で「慰霊式典は続けていってほしい。それが死者に対する何よりの供養になる」と訴えて講演を結んだ。
 皆さんの記憶が忘れられたり、うすれたりすることが怖い。自然災害は何時くるかわからない。自然災害の勉強をして万一にそなえなければならない。室戸台風に襲われたとき。私、眞鍋京子は小学二年生で大津の小学校に通学していた。祖母に迎えにきてもらった、あの日のことは鮮明に記憶しており背中に負われ随分の時間をかけ、自宅に帰った。途中、三井寺さんの境内では何本もの杉や松の木が見るも無残な姿で倒れており、そうした木々を避けながらやっとの思いで家にたどり着いた記憶は、この先も忘れることはないに違いない。
 それは私だけではなく、室戸台風を経験したすべての人に共通するような気がしてなりません。自然は怖い。あなどってはいけませんね。(完)

16/10/24