回想録「翻弄 第一章名古屋駅裏編」

 兵舎のトタン屋根を貫いてグラマンが機銃掃射の大きな穴を一直線にブツブツと、描いていく。一夫は、どうにでもなれーと捨て鉢に一列に並んだ海軍官舎のベッドの上で不貞寝していた。今日、特攻隊編入の命令が届いたばかりだ。ソ連が参戦し北海道が危ないから向こうから来る敵艦を迎え撃つというのだ。海軍に入ってから特に特攻兵を霞ヶ浦、土浦航空隊で教えるようになってから、いつの日にかは自らも同じ死への道がやってくるかもしれない。怖くはなかった。

「俺は軍人だ。とうとうやって来た」そう覚悟を決めた。しかし何故か腹が立った。教育部隊として山口県の三田尻で働いていた時、移動が決った。まだ結婚して僅か一年である。妻は三田尻の官舎に置いたままでいる。すぐ帰れるだろうと上官は言ったはずだ。それがいきなりの特攻隊編入である。戦争が始まり香港湾攻略に参加した時、オーストラリア兵が湾に沢山浮かんでいるのを、流石日本海軍、無敵なんだと誇らしく思い、いつかはアメリカの一州を統治することになるんだと、皆で話し合ったものだ。風向きが変ったのはミッドウェーで日本海軍が敗けたようだと噂が立ってからだ。まさかと思ったが、何か軍の動きがおかしかった。敗け知らずの零戦が空中戦で負けることが多くなった。
 アメリカは次々と新鋭機を出して来るのに比べ日本は開戦当時の零戦に頼ったままだ。攻めに行っても必ず敵が待ち受けている。暗号が解読されているのではないか、そんな噂が囁かれるようになった。通信兵の一夫には、それが何を意味するか、手に取るように分った。自らの敵は、逆に自らにある。来る所が分れば、先回りして、そこで待てばよい。秘密を自らばらすようなものである。事実、海戦でもいつも敵の動きが早くなった。山本提督が敵機に落とされてすべてが顕著になっていった。長官も待ち受けされていたような気がした。負け将棋のように段々、戦力を奪われてゆく。
 特攻が始まり、他に手はないのかと皆が疑問を感じるようになってから空襲が始まり、次々日本の都市が爆撃されるようになった。飛行場や軍事工場も爆撃を受けた。霞ヶ浦に居る時、防空壕が直撃され、多くの少年兵が死んだ。なんとも悲惨な姿だった。手や足が飛び散り、内臓までも四散していた。いかにも日本の崩れゆく様を象徴していると思った。怒りが込み上げて来た。敵に対する憎しみと、祖国に対する不信、両方が相まって、その夜は飯も通らなかった。
 妻の美代子は、夫が単身赴任すると、名古屋の姉好子の所へ一旦身を寄せた。二十年五月半の事だった。名古屋も空襲が多くなり、姉は故郷である一宮の千秋町へ疎開していった、そこへ、爆撃された。焼夷弾が雨霰と落ちる夜、怖くなり、自分も千秋へ向かった。丁度、名古屋城が燃えた日だった。みごとな炎だった。姉の家も焼夷弾を防ぐ方がなく、燃えきった。美代子にはどうしようもなかった。辺り一面火が付いた。どうやって逃げたのか記憶にない程だ。 庄内川を渡る頃、北東の方を見ると鮮やかに城が燃えているのがその方向に見えた。やっとのことで千秋へとたどり着く事が出来た。たった一日の出来事が、煙と炎の間に霞のようにかすんだ夢の出来事だった。城の横に連隊本部があり、狙われたのだろう。姉の家が燃えたのも名古屋駅から五百㍍程の位置にあり、やはり駅が狙われたのだろう。
 千秋に居た姉は家が燃えた事を知ると、逆上し美代子に兵隊の嫁が守れんかったのかとあたんしてきた。美代子にはなすすべがないことも分かっていたが、姉は夫が満州へ兵隊に取られ留守を預かる身として責任を感じていたようだ。姉の好子とは八才違うが、今までいろいろ美代子は世話になった。初めての結婚は歯科医師に見そめられ十八才で嫁いだが、その夫も病弱でわずか二年も経たぬ間に教連の軍事訓練で粟粒結核に倒れ一年程で世を去った。
 二人の子を残して。若過ぎる美代子にはどうする術もなかった。その時も姉の好子が骨を折り、妹の為に尽くした。一夫とは、死んだ夫の弟ということもあり、再婚してはどうかと話があり、軍人ということで又死ぬかもしれぬと反対もあったが、二人の子持ちになかなか相手もなく、止むなく美代子は決断した。新婚ということもあり、子供達は両方とも各々、夫の里と美代子の里へ里子に出された。婚礼はごく粗末に三田尻の官舎の中で十人足らずで行なわれた。戦時中でもあり、水筒の酒で三々九度の盃を交わした。料理も同僚の教官の妻が用意した簡単なものであった。
 一夫はその頃海外勤務を終り、新兵の頃成績が良く恩賜の銀時計を賜わっているので階級章にも八重桜がついており、帰るとすぐ教育部隊に回された。
 一夫は海軍軍人としては恵まれていた。戦況が傾き負け戦が続くまでは、特に香港湾時代、指揮部付きとしてイギリス商館の豪奢な邸宅を占居し優雅な生活を送っている頃には、地元の娘とデイトしたこともあったし、彼女と初恋を味わったこと等、日本海軍の兵士は当時、地元には人気があったし、モテもした。戦争は勝っている間はチヤホヤされるが、一端下り坂になると、すべてが悪い方向に行く。人心も離れてゆく。裏表がはっきりしている。一夫は勝ち戦さの時は、海外に居て、戦況が変わる昭和十八年に帰国し教育部隊に配属された。国内では食糧不足になっている中、軍隊で飢える事はなかった。生徒の親から付け届けがあったし、むしろ裕福と云えた。缶ミルクやビール等も容易に手に入ったし、嗜好品も不自由はなかった。ただ転属してからは顔がきかず、余り今まで通りとはいかなかった。妻が空襲に合った事や名古屋が焼けた事もすぐ知らされた。美代子が無事で千秋へ疎開したことを知り安堵の胸をなで下した。
 そんな頃同じく航空隊もよく空襲を受けた。日本中、何処も逃げ場所がない状況だった。槍衾という言葉の通りアメリカは日本を徹底的に打ちのめした。物量にもの言わせるアメリカ流のやり方で、とうとう原爆という大量破壊兵器まで開発し、日本を追い込んだ。ソ連も参戦し満州からカラフトまで数日間で占領した。もう次は北海道である。航空兵力もほとんどないのに日本は守らねばならない。もう特攻しかなかった。そんな時一夫は、特攻隊編入を命ぜられ千歳へと向った。幸いに日本が降服を決断した日が八月十四日であり、玉音放送で十五日に国民に知らされることとなり、千歳へ向かう列車の中で一夫は終戦を知った。一端航空隊へ着任し残務整理にあたった。武装解除と書類の焼却である。
 片方で進駐して来た陽気なアメリカ兵がプールで水浴びする様を見ながらの仕事である。一月ほど仕事をした後、海軍を放り出された。失業である。退職金も何ももらえず放り出されるのである。日本が倒産したことは、一時に兵役に付いていた六百万人以上の失業者を生み出した。皆、どうやってでも食って行かねばならない。乞食になったのだからすべてが無から始めることとなった。一夫は一端故郷の父母の下へと帰り美代子を呼び寄せた。農家のスタートである。子供の頃から慣れ親しんでいるので、米作りは別に問題はなかった。ただし美代子には慣れた仕事ではなかった。前夫の残した二人の子供は戦時中、疫痢にかかり死んでしまっていた。二人とも朝元気だったのに夜熱を出し一晩で逝ってしまうという慌ただしさだった。
 終戦の翌年に長女が生まれ、三年後に長男が生まれた。その間、美代子は農家の嫁に居たたまれず生まれた赤子を連れ名古屋へ逃げ出した。その頃は姉の家も粗末ながら再建しており、そこへ身を寄せた。一夫は仕方なく故郷を捨て父母を置いて美代子を追った。収入の道がないので、義姉と相談、古着商の行商をすることになった。当時、収入の道を断たれた多くの家庭が、着物や金めのものを売ることで何んとか一日の米代にしていた。新製品はまだ出まわっておらず、古物が主流で流通していた。二人は近郊の農家に行商して歩き何んとか銭やら米、野菜を手に入れることが出来た。しかし二年程で新しい品物が流通するようになり、古物の値段が付かなくなった。
 次に何をやるか、二人には思い浮かばなかった。ただ古着仲間達がよく噂している、行商の時、地方から来る行商達が旅館を利用する名古屋駅前の香取旅館のことをよく耳にした。毎日ほぼ満員でよく儲かっていると噂していた。夫婦は旅館をやろうと思い立ちすぐ義姉に相談した。義姉の好子は、それじゃあと言って駅裏の四十坪の土地を売ってくれた。一夫はそこに小さな旅館を建てることにした。材木は、郷土からトラックで運んで来た。トラックは役場のを無料で拝借した。役所も大雑把な世の中である。大工は、昔気質の小森に頼んだ。こうして昭和二十五年の春、完成させることが出来た。二番目に出来た息子の政志は赤子だったが、現場近くでむしろを敷き遊ばせておいた。四畳半の部屋であったが、八部屋の小さな宿屋が出来た。二階が五室の客室で一階に帳場と自宅、三部屋の客室を設けた。二階の東側の窓から焼跡が広がっていた。昭和三十年代に入ると再建された城が見えた。回りは焼跡だらけで風呂の跡とみられる洋風のタイルが残っていた。所どころに焼夷弾が落ちており、爆撃のすさまじさを思わせた。焼夷弾は缶詰状のものと筒状の二種類あった。半年遅れで隣に宿屋が出来、商売を競うようになった。隣の女将は娼婦あがりで、運転手をしていた愛人と住むようになった。一夫の宿には時々、部屋を借りに来ていた。いろんな男と情を交わす為である。一夫には、逆境の中で暮して来たのであろうと推測出来た。
 初め、商いはとても順調とは言えなかった。二人は素人で客にろくに挨拶も出来なかったから。行商の客の中には、一時の快楽を楽しむカップルもいた。その頃、名古屋駅裏には国鉄の用地に朝鮮半島の人達や戦争で放り出された各種の人々が巣くうようになり巨大なマーケットとバラックの住居で生活するようになった。闇市ではなんでも商いされていた。生活必需品、衣服、食糧、宝石類等々、簡易宿舎も乱立し、休憩三百円宿泊千円、娼婦はちょっと間千円、泊り三千円で売られていた。女達は二㍍おきに立ち夏はシュミーズだけの姿で立ちんぼうしていた。まさしく女の樹木、不思議な樹海だった。美代子の姉の好子は、夫がシベリアへ抑留され、マーケットで引き揚げ者用の甘酒の屋台を開いた。兄の平吉は魚屋で仕事したことがあり鰻を扱い羽振りが良かった。本来平吉は趣味人で芸者遊びも好きだったが、中村遊郭にも足しげく通うようになった。駅裏にまたたく間に出来た部落には二、三万人の町が出来た。今で言うスラム街である。岐阜や三重県からは、物資を求め一日何千人もの買い出しがやって来た。 彼等は一日の安宿を探した。一夫の宿にはそういった客が来たのである。駅裏の活気はこうして生まれた。混沌で無秩序なうごめき、何んでもありだが、何かが一つの方向に流れているという途方もない生活の息吹、敗戦が生み出した闇、とてつもないエネルギーを持った暗黒星雲のと同種の爆発のような巨大な力の放出、莫大な魅力を持った駅裏、とても清潔とは言い難い街、千人に近い娼婦達の発する吐息、嗚咽、そんな中にも新しい社会の流行がやって来る。パチンコ屋の開店、薬の安売り屋の出発、薬の一括仕入れと大量販売、地方から沢山買いに来る人の群れ、豚の臓物を売るとんちゃん屋が数軒出来、どぶろくも売り始めた。屋台では串に刺したもつ煮が流行り、安酒と共に客が口にし、へべれけになった。酔うとたいがいは軍歌を歌い出し、皆、相の手を打った。喧嘩も多く、何かと些細な事で腹を立て、衝突や殴打が絶え間なかった。たまには人情沙汰もあり、博徒のピストル乱射もあった。こんな中にも力が強い者が現れ、力関係が出来るようになった。ある者は親分となり子分を持った。朝鮮半島から来た人達にも上下が出来た。勿論、半島の人達は儒教に従い男女、年齢によって上下関係が厳しかった。

 一夫夫婦の宿は、予想より流行らなかった。二人とも素人である。一夫は軍人上り、武家の商法、美代子は奥様育ち、商売の機微を知るのに数年要した。隣の宿が女の子達、つまり娼婦を置くようになり、流行った。夫婦は真似をすることとなった。女の子は割と容易に集った。それだけ食えない娘達が多くいたのだ。夫婦は三食を約束した。おかしな家庭が始った。一夫は、軍隊で覚えた生活がなにかと役に立った。当時は風呂もマキで沸していた。マキ割りと釜炊きも重要な仕事だった。炊事や洗濯もお手のもの、夫婦でよく働いた。掃除もお茶のダシガラを使い、廊下はピカピカだった。各室にハタキでホコリを落し、フトンはより陽に当て出来るだけ快適にした。基本が大切と、小まめに働いた。当時は、知多方面から行商に来る魚屋がおり、わたり蟹の色彩が良く大きなのを運んで来た。いろんな魚もおり、氷で冷やす冷蔵庫を買い、そこで鮮度を保った。わたり蟹の蒸したものは身が沢山あり、極上だった。
 軍傷者の行商は腕が一本なかった。それでも重い荷物を持ち名鉄電車でやって来た。美代子は口がこえていて、食べる物には目がなかった。夫婦は魚屋の贔屓となった。食卓は全員が一緒だった。夫婦が上座に座り、あとは各々だった。赤だしは名古屋の濃い赤だし、味も辛く濃厚だった。御飯は純米、真白で新米は、それだけで食べることが出来た。子供も食卓を同じくした。にぎやかな方が食が良くはずんだ。娘は、シィさん、青森出で十三歳の時売られ、郭を点々とし、一夫の処へやって来た。のぶ子は、陽気な娘、米兵好きで、ジャズに凝っていた。 疱瘡跡のあるセツ子は瀬戸の出身でどうも韓国籍のようだ。帰郷すると、猫の肉の佃煮を持って来ることがあった。他にそろさんレイ子、マリ子等がいた。それぞれ馴染みの客が居て、のぶ子には米兵の客がいた。彼はジープで乗り着け、しばらく電蓄から流れるジャズでチークダンスを楽しんだ後、のぶ子と戯れた。いつもチョコレートやガムやいろんな菓子を持って来てくれた。米軍は物資が豊富で、美代子の姪で米軍の病院に勤めるキヌ叔母さんも、何でも持って来てくれた。夜やって来ると病院から盗んで来たペニシリンを娘の性病よけにお尻に注射を打っていた。まだ珍しいダンボールに入ったアイスクリームさえくれた。いちご味のを政志は一番好きだった。幻灯機も借りて来てアメリカの映画を見せてもらった。一夫は氷とミルクでアイスクリームを作ったが、アメリカから来る本物のような風には出来なかった。
 政志は、のぶ子に広小路へ連れて行ってもらった。広小路は栄えており、広小路をブラブラするのが流行り広ブラと言われた。広小路には米軍の指令部があり、のぶ子の愛人の黒人兵が仕事をしていたので挨拶に行ったのだ。戦前は銀行だったが、進駐軍が接収し使っていた。広小路には竹カゴを背負いクズ拾い用の竹のハサミで拾い上げる。煙草の吸い殻を集めるシケモク拾いの人が何人かいた。くわえ煙草をする人が多く、平気で吸い殻を捨てる人が多く、シケモク拾いは集めて煙草を巻き直してつくり売る商売だった。のぶ子と兵士は政志を観光ホテルへ連れて行ってくれた。
 観光ホテルは米軍兵が多く利用しておりレストランでジュースとビーフシチューを御馳走してもらった。初めての洋食に政志は驚いた。米兵のジミーは伍長で優しかった。帰りは二人をジープで家まで送ってくれた。その後も広小路へは何度か父母に着いて行った。タクシーで一夫は乗り着け、中華料理を食べに行った。タクシーから降りる時は必ず高額のチップを渡した。チップがその頃は常識だった。広小路は名古屋の中でもオシャレな町で広ブラが流行した。東京の銀座を真似して銀ブラならず広ブラなのである。広小路には映画館が出来キャバレーも何軒か出来た。ダンス場も出来社交ダンスが流行した。一夫と美代子も夜な夜な練習によく出掛けた。タップも一般になり、日常までタップシューズを履く者まで居た。アメリカの文化が街に溢れた。映画館は客が溢れ、通路まで一杯だった。キャバレーは一時の陶酔を求める男で鈴なり、とにかく陽気な日本人は、戦争など忘れたように新しい文化に走った。自由も溢れていた。とかく何かと縛られていた戦時中、時を失った反動は大きく、娯楽に皆夢中だった。勤勉な国民性は唯仕事から良く働き良く遊ぶ、そんな風に変った。

 政志は父母に名古屋城に連れて行ってもらった。焼跡は広っぱになっており、何もなかった。鹿だけがお堀におり、印象的だった。名古屋の都市計画が始った。広漠とした焼の原に十字に百メートル道路を造り火災の広がりを防ぐというのだ。道路は何処も広く取り次の世代のものだ。名古屋的関所はなくなり、碁盤の目のように計画された。整然とした町づくりは逆に人間味を奪ったかもしれない。空襲がなかったらあんなに容易に町づくりは出来なかっただろう。昭和三十年代になると、顕著に町づくりが加速した。出来た百メートル通の上に一端進駐軍のキャンプが出来、カマボコハウスが並んだ。至る所にあった墓地も平和公園に集められ広大な墓地が完成した。

 一夫と美代子は旧い名古屋が好きだった。よく円頓寺や大須へ足を運んだ。円頓寺は終戦前のにぎわいを残しており、円頓寺の七夕祭りに政志は着いて行った。叔母の家の隣は芸者置屋でいつも三味線の音がしていた。色町は他にあった。中村遊郭も盛んで名古屋駅から商店街が中村大門まで続いた。名古屋の盛り場はこうして再び勢をもどしていった。ほとんどビルは残っていなかった。広小路にあった銀行、証券会社の燃え残りのビルだけが残っていた。納屋橋には屋台村が出来、にぎやかになった。簡易の屋台は、すぐ用意出き店を焼失した多くの飲食店が参加することが出来た。一夫の家の辺りには支那ソバの屋台が毎夜やって来てラッパを鳴らし夜鳴きソバと云われ、哀愁をこめた音を響かせた。一夫の宿の人達も客と共に愛好した。再び名古屋は活気を帯びた街になっていった。
 政志が五才位になる頃には、三十坪程買い足し離れの四室を増やした。一夫夫婦は商売にも慣れて来た。客は輪タクと呼ばれる自転車に簡単な客席をつけた人力車でやって来た。輪タクは当時車の余りない日本にとっては便利な乗り物だった。タクシーの多くは三ナンバーの外車の古が多く三マンと呼ばれていた。故障も多くエンジントラブルは常日頃だった。
 子供達は、ガキ大将を中心に集るようになった。地域でも年長の子供がガキ大将となり遊んだ。遊びは、缶けり、竹馬、缶で馬をつくった簡易の道具、二つの缶を綱で繋ぎ首から吊ったものや、隠れんぼ、カゴの中の鳥、かあごめかごめ、かごの中の鳥はいついついある、あの子が欲しい交換しましょ、そう言いながら二組に分かれ、一人づつ取り合う簡単な遊び等をやった。神社の楠の木の巨木に登り巣のような家を作り遊ぶのも流行した。
コマ回しを男の子はやった。喧嘩ゴマと言ってコマを回し勢いのある方が勝ち駒を取り合う遊びは面白かった。正月にはタコ上げや百人一首の坊主めくり、ハゴ板をやった。その頃には玩具も流通するようになっていた。仲間はそれぞれ呼ぶ時に愛称で呼び合った。政志ならマー坊、照夫ならテー坊、そんな具合に、地域にはベビーブームで沢山子供が群れていた。
 何かと集り集団となった。いい事も悪い事もすぐ流行した。広場には子供が集まり自転車で紙芝居のおじさんも毎日来たし、時には鈴虫やキリギリスを売りに来る人もいた。昆虫は共食いが多くオリの中で食い合っていた。正月には商売屋には三河漫才がやって来て簡単な獅子舞をやって小遣いをもらった。簡単な鼓で調子を取り三番叟などを歌った。ふし回しが独特で各店を祝って歩いた。一日で相当回るようだった。美代子は何かと縁起を担いだ。夜蜘蛛も殺しちゃ駄目だとか、坊主が来るとその日はまるきし客がないだとか、客商売の浮き沈みばかり気にしていた。煙草の火は他人の煙草に着けちゃ駄目と言って縁起を担いだ。
一夫が故郷へ帰るのもしばしばだった。故郷はタクシーか、国鉄バスを利用した。故郷の家には池があり鯉が泳いでいたが、水かまきりや源五郎と言った水中生物が居た。お爺さんはいつも兎をつぶして五目飯を作るのが風習で残った肉の内臓やらを鯉が池でついばんでいた。横に水車小屋があり水が回るかろやかな音を響かせていた。
 その祖父母が、中風で倒れ、名古屋へ来ることになった。もうすぐ政志が小学校へ入学する頃だった。幼稚園は、お寺の隣にあった。お寺の裏に墓があり、代々の坊主が眠っていた。
まだその頃は田舎の風情が残っており、虫も沢山居た。玉虫の居る木があったり、夏には、にいにい蝉の次に油蝉、たまには熊蝉もいた。くすさんと呼ばれる巨大な蛾が飛んで来たり紙切虫の各種、神社には揚羽蝶の各種特に青筋揚羽がよく飛んでいた。政志は虫取りに出掛けた。父の故郷はもっと条件が良かった。蛍は六月イルミネーションで稲穂を飾ったし六月から七月に移ると源氏蛍から平家蛍へと変わり、余計鮮やかに田んぼを照らした。夏はひぐらしがカラカラと鳴き秋はとんぼが飛んだ。赤蜻蛉は、種類が多く、稲穂に紋の入った羽根を止まらせた。真紅のも居たり、豊富だった。塩辛とんぼや鬼やんま、銀やんまは池に卵を産みつけた。 特に鬼やんまは、優美で直線を描き飛んだ。折り返す所も決めており航路が決っているようだった。一夫の故郷と美代子の故郷では昆虫の種類がまるで違った。美代子の郷里の千秋では甲虫が沢山居た。蚊帳の中まで飛んで来た。くわがたは余りなく、甲虫が大量に繁殖した。寺の竹林を揺すると、ばたばたと落ちて来た。勝栗のお尚さんが土産として持って来るのは甲虫だった。ただ一度、電車の中で逃げ出したのは大変だったようだ。お尚はお盆にやって来た。
ただ伊勢湾台風で土壌が浚われたのか生態系がそれ以後変わってしまった。早朝起き出すと、従兄のヒロサと蝉を見に行った。さなぎから生まれ変わる脱皮は美しかった。美代子の里では、愛称にさを付けた。広夫ならヒロサ、幸夫ならユキサと言った具合に、小さな小川に入り雷魚漁りも楽しみの一つだった。
 一夫は中風になった父母の為に土地を買い足し隠居屋を建てた。小さかったが窓が沢山あるいい家だった。そこへ政志と姉が同居することになった。お爺さんは、ハンサムで田舎の光源氏と仇名された。お婆さんは、色白で明治生まれとしては巨漢だった。朝から二人ともきざみ煙草が欠かせなかった。二人とも養子で十六才の時結婚し、十四人の子をもうけた。半分は五才までに死んでしまった。美代子の最初の夫が長男で一夫は次男だった。長女は既に三菱系の男に嫁いでおり孫は幾つか自分の子より年長だった。三菱系に勤める小出八十一は、苦労して英語を学び香湾で出世した苦労人だった。当時は三菱石油に勤めていた。
 祖父母が名古屋へやって来ると三文菓子屋をやると言って玄関の脇を改装し小さな駄菓子屋を始めた。万引が多く、年寄は動作が緩慢なのをいいことに子供はすばやく万引し防げなかった。とても収入にはなり得なかった。宿屋の方は順調だったが、もう一年で売春禁止法が発行することになり、一夫は決断し娘達に一年部屋を貸すことにした。娘達に勝手に商売しろということである。菓子屋は一夫と美代子がやることになった。パンも置くことになり敷島パンを置きたかったが、駄目で二流のパン屋に頼むことにした。お好み焼や焼ソバも始め大きな鉄板を買った。夏はかき氷をした。味にこる一夫は熱心に研究し、辺で一番おいしい店にした。氷も何種類も考えた。砂糖は高価なので、サッカリンという糖分を使い、イチゴや、ミカン等のシロップを作った。氷あずきや、その上に練乳をかけたもの等、旨さは格別だった。駄菓子は西区の新道へ仕入れに行った。ごつい運搬用の自転車に乗せてもらい政志はよく同行した。いろんな問屋があった。籤付きのものオモチャのおまけ付きのもの、夜店用の香具師が扱うもの等、何でも売っていた。万引は少なくなり店も良く客が来るようになった。

 シベリア抑留も終り叔母の好子の下へ夫の和夫が帰って来た。シベリアで知ったのか朝鮮で戦争が始まる事を知り、帰国するとすぐ様鉄くず屋を始めた。金属を集め解かし棒状にして売るのである。回りから労務者を集めちょっとしたバタ屋部落をつくった。市の持つ空地を利用し、またたく間に作った。トタン屋根と簡単な柱、畳はなくゴザを引き入口は、布一枚、葵車に住む住人も居た。スラムと言えばスラム、バタ屋と言えばバタ屋、それでも和夫にとってはシベリアよりましな生活が存在した。本当に戦争が、半島で起こった。バタ屋部落が出来てすぐの事である。和夫の故郷の奈良の桜井から親類を集め手伝わした。昇ニイ(昇兄ちゃん)やら旭兄ちゃん等である。和夫と好子には子がなく、養子として男の子をもらって来た。照夫ことテエ坊は悪戯な子供だった。好子が溺愛した為そう育ったのだろう。
 好子には兄が一人女姉妹が六人いて、二番目に遅い子だった。それぞれ姉達は嫁いでおり、兄だけは、愛人を囲いどちらかと言えば田舎芸術家というか、遊び人(良く言えば遊民)だった。自らは俳号無銭を名乗り俳句集に投稿等していた。政志が知る頃は好子が金を出し近くで麻雀屋を開いていた。ひばり荘という名の店で現実にひばりを飼い良い鳴き声がするよう大事に育てていた。竹ひごを買い込み器用に鳥小屋を手造りした。幾つも鳥カゴが外にかけられて良い鳴き声を披露していた。兄妹の中では、威張っており怒ると三角に目を光らせるので三角さんと呼ばれていた。政志の小遣い稼ぎは、ひばりの餌に公園の生け垣に巣くう地蜘蛛を捕って来ることだ。地面に入った袋状の巣は破れ易く抜き取るのが難しかった。袋の中には一匹愛嬌のある小さな赤茶色の蜘蛛が居た。ひばりにやると旨そうについばんだ。駄賃にはいつも五拾円もらった。当時としては大金だった。叔父の平吉は他にもいろんな所へ政志を連れて行った。庄内川に釣ざおを持って自転車で政志を後に乗せて行った。舟釣と岸釣があり、鰻を沢山釣った。魚籠も鰻を捕る竹で作った。鰻の魚籠も手造りだった。早朝その魚籠を川の中に置いて、夕方捕りに行くのである。その時は船頭の居る小舟を利用した。庄内川には渡し舟もあり、風情のある時代だった。さおで釣るのも良く釣れた。叔父は良く鰻の習性を知っており、幾匹も捕れた。鰻をつかむのが政志の仕事である。ぬるぬるの身は、すぐ政志の手をすり抜けた。その姿を見るのが平吉は楽しそうだった。ある時はひばりを捕まえに畑へ行った。綱で捕まえるのである。平吉はよくひばりの巣がある場所を知っており、うまく雲雀を捕まえた。捕まえると手造りの籠に入れ、鳴かした。根気の要る作業だった。日頃短気の平吉は、そんな時は全く違った。又ある時は蝗を捕りに行った。袋を作り入口に竹で筒を付けて逃げられない形にした。蝗はいくらでも捕れた。捕って帰ると佃煮にして食べた。その時は政志の姉の里美も一緒だった。
 姉はチャーとかチャー坊と呼ばれていた。政志が幼い頃、里美と呼べず、チャーとだけ呼んだのでその愛称になった。里美は目が大きく可愛いらしく祖父母が大事にしていた。里美はラジオから聞こえる浪曲や、なにわ節を聞き覚え真似して祖父母に聞かせるので特に可愛がられた。それに比べ政志は無口で余り愛されていなかった。政志と里美は隠居家の方に同居していた。造りつけの二段ベッドの上に里美が、下に政志が寝、和室に祖父母が寝起きし、窓際に広い勉強の為の台が造りつけであり南側で明るかった。二階は一間だけだが十畳あり、やはり明るかった。家の外に十坪程の庭があり祖父の牛太郎がいろんな木を植えた。桜の木を植えたのが一番嬉しかった。農家は一反三百坪の敷地が標準なので町とは違ったが、町では坪庭が一般なので、牛太郎はそれで満足した。テレビはまだ普及しておらずラジオが普通の伝達手段だった。歌謡曲も流れたがやはり浪花節や広沢虎造の浪曲の方が多かった。

 美代子は映画好き芝居好きで、よく観劇を楽しんだ。御園座へ政志もよくお供をした。歌舞伎も政志には興味が湧いた。特に八百お七がはしごを登っていく姿や勧進帳の弁慶と富樫の場面は印象に残った。八百お七は人形浄瑠璃で黒子が後で役者を操る真似をする所、勧進帳では弁慶が義経を杖で幾つも打ち叩く所等いつまでも目に残った。舞台の横の部屋から流れる曲や拍子木の音が面白かった。御園座も古いままで焼失前だった。
 こうして政志は多くの人に可愛がられ育っていった。一年の幼稚園を終り小学校へ入ることになった。今は三校合併しほのか小学校になったが以前は則武小学校と言い八十年以上続く名門校だった。校舎は木造で二階建て空襲にも会わず昔の通だった。街の形も戦争前と変わらず、古めかしかった。各区ごとに分団をつくり、一斉登校した。子供が多く、各部屋ごとに六十名で八―九クラスあった。一年で五百人のマンモス校だった。戦後のベビーブームの只中で、政志の年を含め二十三年生れが一番多いのだ。遠足もバスを連ね行かねばならない。とにかく冬は寒かった。足袋を二重に履き鼻水をたらたら流し一張羅の服をテカテカにして通った。ストーブが一つ、コークスを炊き、その当番もクラスで任命された。ストーブの前に皆群がった。毎昼の給食当番も任命され、給食室まで取りに行かねばならなかった。それでも昼食は楽しかった。見たこともない物が出される事が多かったから。脱脂粉乳のミルクは進駐軍から寄附され、毎昼出た。脂の抜かれた乳は独特の味がした。それと食パン。たまに異物が混入し、衛生的とは言い難かった。蠅が入っていることもあった。先生に訴えても、一語「そうか」と言ったきりだった。パンにレイズンが入る時も、進駐軍からのプレゼントと言われた。 肉は決って鯨肉でとても固かった。その頃は鯨が漁の主流でノルウェーと一―二を競っていた。鯨は捨てる所が何処もなく、皮やヒゲも利用された。鯨を打つキャッチャーボートの射手が男の最高の仕事ともてはやされた。何十トンもある、巨体を解体するのも今では外国人に残忍と指摘されるようだが華やかな仕事と言われた。かつてはアメリカも船団を率い日本近海まで鯨を捕りに来て、その鯨油を使い産業革命をしたのに、まるっきり変心して日本を悪く言う。鯨油から石炭へそして石油へ、資源は変った。政志の子供時代はそんな時代の激変にあった。
 北の方では、にしん漁が盛んだったが、漁獲漁が急になくなり、獲れる魚も変って言った。
 世界は核時代に入り、フランスや印度、英国等が核実験に走るようになった。ソ連は短波放送で共産主義の宣伝に終始した。又戦争が始まるような不安が誰それとなくあった。日本はアメリカにおんぶにだっこの状態だった。
 そんな時、起こるべくして朝鮮戦争が起きた。政志は覚えている。ある夜のぶ子の愛人の黒人兵のヤンキー、ジミーが「明日、又戦争に参加する命令が来た」と、泣きながら一夫や美代子に話しているのを。
 朝鮮戦争は始め中国軍が百万人規模で参加し同じ共産国の北朝鮮を助けた事から韓国軍は京城を占領され、国土の八十パーセント以上奪われてしまった。そこでアメリカのマッカーサー司令長官が陣頭で指揮を取り仁清上陸作戦に自ら出向いた。激戦だったが劣勝を挽回した韓国軍は中国軍を破り押しもどした。一端、南北境界線を決め休戦した。一夫の同期の海軍軍人も呼び出され、参加した。公式には知られてないが仁清辺の海図を知る元日本海軍兵は参加したようだ。日本は再軍備をアメリカに要求されたが、時の吉田茂総理が断りかわりに警察予備隊を結成した。極東は危うい状態だった。いつ戦争の火が起こってもいい状況だった。

 シベリアから帰って鉄屑屋を始めた和夫は急にいそがしくなった。鉄や銅が高騰し和夫の商売はいそがしくなった。子供達は大きな磁石を持ちぶら下げて歩いた。道にも何処にでも鉄の粉は落ちていて、磁石にくっついた。一日集めると和夫の店が十円か二十円で買ってくれた。分銅器で図られ一モンメ幾らで商いされた。そのうち大人まで乗り出し鉄泥棒まで出始めた。電信棒に二人で一本づつ登り両方から電線を切断してしまうことまで横行するようになった。電線はドラム缶で焼きバレないように上から古タイヤで隠した。銅が解けてそれを棒にし売るのである。いろんなものが持ち込まれた。戦前の警察官が持っていたサーベルも多く持って来られた。政志も焼跡に磁石を持っていったが、ある時缶詰状のものを探し出し鉄屑屋に持って行った。中にまだ火薬が残っていた。ノボ兄はそれを見つけると、「こりゃいかんわ、焼夷弾だがや、まだ火薬も入っとるわ、まぁええわ、これやるわ」と言って、小遣の五十円を政志に渡した。五十円は大金だった。当時の小遣は一日十円が相場だったから。その十円に目の色を変える、それが日本の状況だった。何年か前まで欲しがりません勝つまではとスローガンを口にしていた国民が皆、あさましい姿に化した。隣国の戦争はこれ幸いと金儲けに走った。

 小学校に通うようになった政志は、内気な子だったが、怒るとガンとして動かない頑固な一面を持った子供だった。講堂は平屋で余り大きくなく二千人の生徒を収容するには十分な広さとは言い難かった。何かの折、政志はむくれ講堂に行くのを嫌がった事があった。問題を起こすとすぐ姉の里美が説得に呼び出された。
政志は姉の言うことは必ず聞き、言う事を聞いたから。里美は体の弱い美代子にかわって政志の面倒をよく見ていた。勉強用具の点検や朝食の世話も良くした。
 小学校一―二年生の時、余り生徒が急に増えるものだから、二部制が取られた。時間差登校である。朝登校せず午後から登校し授業を受けた。教室が不足していたのである。戦後のベビーブームはすさまじく巨大な市場を生んだ。その年代が時代を牽引して行くことになる。又その事は競争社会の幕開けでもあった。生まれた時から何事も比べられ、ふるい落とされる。ブームを巻き起こす年代でもあった。揺り籠から墓場まで、いつもその世代が時代を造り出してゆく。
 小学校からパン食が出され、米に代った。アメリカの政策だったのかもしれない。パンに肉、そしてコカコーラ、コーヒー、いずれも巨大なアメリカという生産国があった。食べるものから欧米化が始った。昼食にマカロニ、カレーが出され、もの珍しく皆食べた。カレーは特に子供に人気だった。家庭の食事のメニューに加わり通常化した。小麦も肉もアメリカから買わねばならないように組み入れられた。白いシチューのメニューもあった。プレゼントし、それに馴染ませ、浸透させてゆく。それは、キリスト教の布教と同じ方法だった。アメリカという戦勝国は何でも出来、巧妙にやってのけた。
 薬も同じだった。アメリカの製薬会社は多くの薬を開発し日本に与え、その効果を知らしめた。日本は結核の多い国だった。戦後すぐは死亡のトップはいつも結核だった。小学校からツベルクリンを注射の回し使いで打たれた。肝油を多くの児童が学校で出された。
 戦後しらみが多く発生し日本人を悩ませた。ある時、政志の学校も全員、運動場に呼び出され皆で立っている所にセスナが飛んで出て、DDTを散布した。頭から浴びた、そんな事が平気で行なわれた。
 政志の小学校時代は、そうして始まった。
新しい物が始まった。テレビである。政志が一年の時、家庭に入って来た。初めは税務署が目をつけるかもしれないと、用心して隠れ隠れして、隠居場でこっそり見た。初めはNHKだけの、それも日に二―三時間しか放映してないという一元放送だった。内容は私の秘密、ジェスチャー、相撲にプロレス、ボクシングと内容は少なかった。私の秘密は高橋圭三アナが担当し、人気があった。政志は日露戦争の旅巡港閉鎖作戦に参加した。杉野兵曹長が出演し広瀬中佐を忍んで涙したのを覚えている。プロレスは相撲界からプロレスにかわり大活躍した力道山に人気は集中した。次から次へと対決するアメリカのプロレスラーが空手チョップで形勢逆転するのを、敗戦国日本人はこ気味良く見た。ボクシングは海老原が紙ソリパンチと言われ人気があった。こうしてテレビは庶民に浸透していった。各家庭で買えないので風呂屋とか、飲食店とか客寄せに必要で持つ所に皆集った。家庭で持っている家は近所の人が集った。近所づき合いの多い時代でもあった。街頭テレビも各処にあって人を集めた。こうしてテレビは各家庭に入り込み段々映画館より人気になっていった。国民的人気の出る番組も出て来た。「君の名は」等は視聴率を集め、井戸端会議の話題を独占した。テレビの次は冷蔵庫、又その次は洗濯機と次から次へと電器製品が各家庭に入り込んで行った。美代子も洗濯は盥に洗濯板だった。女性には厳しい作業が、洗濯機と後に出た乾燥機は便利で非常に重宝した。洗濯は宿屋にとっては重労働だったのである。
 掃除、洗濯は、宿屋の大切な仕事だった。たとえどんなにオンボロでも清潔さが保たれていればいい。暖房設備がない時代、冬は各部屋に火鉢を入れた。帳場には火鉢、酒の燗がうまく出来た。寝る時は湯たんぽかアンカをフトンに入れた。アンカは便利だった。湯たんぽのように火傷をすることなく、炭一つでいつまでも暖かかった。七輪で起こす火も大切だった。その上で色々料理することが出来た。あられは美代子の里から送られた餅を小さく平らにしたもので、それを特殊な焼く道具を使うと膨らんで食べることが出来た。他に焼き餅や時には一夫の村から送ってくる鶫を焼いて食べた。鶫は渡り鳥で禁漁だが村辺の人はカスミ網で捕まえた鳥を平気で食べた。山村の風習として冬に蛋白源として蜂の幼虫や蝗等を食べる。へぼは蜂の幼虫で蛹も入っており食べると香ばしかった。地蜂を飼う習慣もあり、女王蜂を捕まえ、巣を創らせるのだが、肉の一片を糸につけ女王蜂が取って飛ぶのを追っ駆けるのも山中歩かねばならず大きな作業だった。
 土地土地でいろんな習慣があり、とんでもないと思うものをその地の人は口にする。名古屋では十月の秋祭の時、決って箱寿司を作ったが、その時は決って小さな魚もろこを使いもろこ寿司を作った。あれも蛋白が不足しがちな冬に向っての食物だったろう。箱寿司は家々の個性が入り色々な絵が出来た。名古屋文化の一つと言えるだろう。

 一夫の宿に間借りした娘達も一年の約束を過ぎそれぞれの道を歩かねばならなかった。ジミーの愛人ののぶ子は朝鮮戦争が済んだらアメリカで結婚すると決めていた。せっちゃんは馴染みの客、サラリーマンの吉田さんの所へ嫁に行くと言った。洋子は恋破れガス中毒で自殺した。美代子は駆け付け、死に化粧を施してやった。肌が中毒でピンク色に染まっていた。小股の切れ上った美人の道子は馴染みの江川さんに青酸カリを飲まされ死ぬ手前で助かった。江川さんはタクシーの中でサイダーと共に青酸カリを飲み死んだ。無理心中を図る前に一夫の宿に火をつけた。政志が、煙を見て火事だ火事だとはしゃぐのを姉の里美に叱られた。火は一室焦がしただけのボヤで終った。シィさんは、脳性梅毒が悪化し、精神病院に美代子に連れてゆかれ入院した。青森から売られ売られした物語を東北弁で話すシィさんの幼さや父母をけっして恨まない言動に美代子は涙が止まらなかった。
 こうして皆別れて行った。一夫は元の宿にもどり再開した。もとの客はもどらず、逆に風態の悪い客達の巣となった。東京から中日―巨人戦の度に名古屋球場にダフ屋をやりに来る浅草のヤクザの一団やら日用品を苦学生と偽り売るスーチャンという男、流れ者で背中に刺青の入った梅鉢さん、四国からは新聞発行元だと称する総会屋の元締め根元さん、稲葉地一家の親分は愛人とヒロポンを楽しみに来ていた。チンピラの菅原は美しい恋人と愛を確かめる為にやって来た。おかしな人達の溜り場となった。逆に中村署の刑事が麻雀でサボル為にやって来たり、国鉄のポッポ屋が徹夜勤務のアケに酒を飲むために来たりと、一風変わった宿になった。
 その頃美代子は体調が悪くなり児島という針医者に看てもらうことが多かった。夜は梅鉢さんとこいこいに興ずるようになった。一晩中、一文幾らで遊ぶのである。政志は眠くなるまで後で見ることが多かった。青丹に赤丹、猪鹿蝶に牡丹の短冊、桐札の存在、博打の展開は後で見ているだけで面白かった。美代子は玄人相手ながら負けることが少なかった。ただ時の流れに身を任せ、暇を持て余していたのだろう。一夫は妻を放っておいた。どうしようもなかったのだ。余りの世の中の変遷に戸惑っていた。疑問を感じなかったのではない。軍隊生活の規律が奪われた瞬間から、混沌に身を委ねる他なかった。世間の大概の日本人もそうであった。皆忍び寄る退廃から逃げようがなかった。一夫は、時に酒に溺れた。いつも憂さをはらすには酒が一番良かった。刑事が来た。毎晩来て酒二合につまみをねだった。県警の一課、殺人犯を扱う敏腕刑事だった。彼は、ただ酒を飲む事で一日の憂さを晴らしているのだ。
 混沌はいつまでも続かない。混沌を続けるには相当な体力がいるからだ。人間は耐えきらなくなり、バランスを求めるようになる。
 宿泊業も変わりつつあった。皆が余暇を求めるようになり、旅は心の一番の癒しと観光旅行を求めるようになって来た。経済も動くようになり、営業が増し出張という仕事も多くなって来た。東京から名古屋に来るには汽車でも八時間を要し、どうしても一日の宿が必要になった。名古屋駅近くの宿が求められるようになり、一夫の宿も電話が掛かるようになって来た。宿屋の形態も時代と共に変化する。
 ダフ屋の一団とインチキ学生のスーチャンが喧嘩した。ダフ屋の一条と村瀬はいつもツルんでいたチンピラだった。伴淳の所へ挨拶と称し、駄賃をもらって来るのも一緒、ヒロポンにふけるのも一緒、そんな奴等だった。ある時、些細な事で殴り合いとなり、喧嘩に強いスーチャンが空手二段の腕をふるい、一条と村瀬を殴り飛ばした。その場はそれで一端収まったが、殴られた二人が浅草の親分と兄弟の盃を交わしている大須の親分の所へ駆け込み、仁義を通そうと考えたのか、大須の親分が若衆を復讐に送り込んで来た。若衆はスーチャンを近くの神社へ話しがあるからと連れて行き、二人がスーチャンの腕を抱え、もう一人が後から短刀で刺した。スーチャンは血だらけになりながら逃げ込んで来て宿の床下に隠れた。刺した方の三人は追って来て宿屋中探し回ったがスーチャンは声も上げず、隠れていた。パトカーが来るのと、三人が消えるのと同時だった。刺した若衆はその夜のうちに自首して出た。スーチャンを救ったのは一夫だった。近くの外科へ行き手術をし、なんとかスーチャンは命をとり留めた。
 そんな事件があって一夫は、嫌になりもっとまともな宿にしようと考えるようになった。

 昭和三十三年は一家にとって多難な年になった。この地方にとっても。政志は小学三年生を向かえた。八月に築港からポンポン船に乗り、篠島へ海水浴に行った。一夫の繊維古物商時代の友人岸田一家を共だって二家族での旅行である。名古屋港の事を当時は築港と呼んでいた。一時間余りのゆっくりとした船遊びだった。船の生簀では珍しい魚が泳いでいた。鮫の子供やエイの子供、見た事もない鮮やかな色の魚達である。潮風がたまらなく快適で日差しの照り返しが船の鉄板に反射し夏本番を感じさせた。大東館という宿に一家族ずつ部屋を予約して泊った。大時計が玄関に飾られた宿だった。途中に寄った日間賀はオンボロの猟師の家が立ち並び漁師の島を思わせた。篠島は海岸線に添ってしらす干しが行なわれ、独特の臭気を漂わせていた。しらす干しの前に海水浴場はあった。
 岸田家の一人娘京子と姉の里美、政志の三人で泳いだ。泳ぐより波間にただよう南の海を思わせる熱帯魚や紫うにの存在の方に興味が湧いた。ひとでや宿かり、舟虫の大群も居て日頃にはない風情を政志は覚えていた。
 岸田は一夫と同じく駅裏の闇市にある繊維の組合で古着を扱っていた。陸軍の下士官時代は山下兵団に居て、シンガポールへ攻めて行った時は最前線で活躍したと豪語していた。山下将軍はマレーの寅と怖れられ、米軍に勝って降服を促す時にYESかNOかとフォードの会社で迫った将軍である。敗戦の後、シンガポールで開かれた軍事裁判で絞首刑が決まり、ある丘の一本木に吊るされてしまった。
 岸田は要領の良い男で組合の株を買い占め知らぬうちに理事長に納まってしまった。今は勝手に得た地位を良い事に、繊維会館という貸ビルを建てオーナーに納まっていた。戦後すぐは少し目鼻がきく奴の方に権力が集中した時代である。岸田はゴルフに麻雀・囲碁に生活を傾けた。女房が体が弱いせいもあった。愛人に雀荘をビル内に開かせ自分もそこで遊んだ。一夫とはヘタな囲碁仲間だった。美代子も加わり舌戦ばかりやっていた。一夫は守る囲碁、美代子は攻め続ける囲碁、岸田はうかがう囲碁と性格のはっきり現われる対極だった。岸田は男の子のない自分を悲しみ、換わりに政志を可愛がった。プロレスごっこの相手をして遊んだりした。

 夏が過ぎ九月になり、もうすぐ十月という時にそれはやって来た。伊勢湾台風である。風がものすごいうなりを立てて吹いた。今までとは全然違う台風である。一夫の家族は全員集められ宿で一番安全と思われる新館の離れの一室にろうそくの中、肩を傍めあった。家が壊れそうな音がし、かわらが飛んだ。トタン屋根やベニヤ板や色んなものが飛ぶ音が聞こえた。家が壊れると皆が震え上っている時、一夫は意を決して家を守る事を考え、機敏に行動した。雨戸を閉め木材でつっかい棒し家を安定させた。今にも天井から屋根が飛ばされそうで、しっかり柱を持っていた。壁が落ちる反響がすさまじく全てが破壊されてゆく様だった。
 明け方になり、ようやく風も弱くなりヒューヒューという音に変り、静かになってゆくと、皆部屋から抜け出した。近くの公園の木はすべて倒れたり折れたりし、道は川になっている。近所の人も顔を出すようになり、安全を確かめあった。
 宿は壁が相当落ち、瓦も半分程めくれた状態だった。大工の棟梁が駆けつけてくれていた。
 それから二週間程、電気のない生活が続いた。宿には港区や南区からの避難客が泊まりに来ていた。両区は相当やられたらしい。新聞に被害状況が紙面を踊っていた。死人が大分出たらしい。中村区はまだましな様だった。それでも駅周辺や中村区全域に道が水につかり、動けない様子だった。子供は元気だった。川になった道を楽しむように手製の簡単な船を造ったり、トラックの荷台に捕まったりして、避難ゴッコをして遊んだ。
 小学校へも南区から避難の生徒が一時疎開して来た。いかにも農家の子という風情だった。一夫一家の不幸な出来事は台風だけでは済まなかった。

 宿には、いろんな住人がいた。住人といっても人ではなく、青大将の夫婦と家守、むかで、何種類の蟻達、体長十センチ程もあるゴキブリも捕る大型の蜘蛛、井戸にはヒルが居たし夏にはガマ蛙が姿を見せ、秋になると蟋蟀が忍び鳴いた。青大将は昼アベックで逢瀬を楽しみに来る若いカップルの布団の中で寝て居て驚かしたり、時には天井からブラ下ったり一夫を吃驚させたり愛嬌たっぷりだった。ヒルは時々風呂水に居て血を吸って悪さをした。
 天井に蜉蝣が卵を生み付けると、誰かが死ぬと美代子が嫌っていた。この秋の九月末、隠居家の天井に卵を生み付けた。美代子の悪い予感は的中してしまった。
 祖父の牛太郎は中背の整った顔をし田舎の光源氏、プレイボーイと噂され五十半ばに十八歳の女子事務員に手を出し子を生ませる等の醜聞の絶えないお爺さんだった。その娘が結婚しすぐ一年足らずの内に息子を生み日が合わぬと離縁され悲期の最後を遂げてから親類に子は貰われその子をみる度に罪の意識を覚えたのか、その事については口にしなかった。祖母のはくは、十六歳で養子縁組で一緒になったが、次々と子が生れ十四人の子を持った。一夫は次男で長男は美代子と結婚したものの結核で倒れわずか四年足らずで死んでしまった。他の子も五歳まで生きる子は少なく半分は死に戦後まで生き残ったのは七人しかいない。仕方がないことを方言でかんかないと言うが、はくの口ぐせは、いつもかんかないだった。きせるで煙草を吸うのが癖でいつもきせるが手離せなかった。祖父母は二人とも中気で倒れたが、余りひどくなかったのか名古屋へ来る頃は元気になっていた。祖父は来名してから毎晩二合の晩酌を欠かせなかった。礼儀正しいせいか無口の政志とは受けのよい姉の里美とは違い反りが合わなかった。祖母は寒い日、着物の裾を捲くると火鉢にひょいと乗り股火鉢をした。政志も一度真似をして畳を炭で焦がし美代子に叱られた。祖母のはくは、政志をわしの真似をしたのだろうと庇ってくれた。
 牛太郎が倒れたのは来名後五年経た頃だった。伊勢湾台風直後で一夫夫婦が大変な時だ。
 台風が過ぎた二―三日後突然口から悪いものを吐いた。少量だったが、血の固まったものだったろう。それから以後起きれなくなり寝たきりとなった。孝行な一夫は、よく面倒を見た。往診に来た医師の見立ては、胃がんだろうとのこと、命もよくもって三月位だろうとのことだった。
 だがそんなに持たなかった。柱の振子時計がやたらと大きくコチコチと秒針を鳴らしていた。相当痛いのを我慢していたのだろう。牛太郎の体力は残っていなかった。そのまま深い眠りについた。九月末のことだ。
 白い装束に着替えさせられた。頭にも白い三角の頭布が巻かれ、旅立つ準備が整えられた。一夫も喪主として白い袴を履き、やはり真白い着物に着替えた。通夜には元々親類は多かったが他にも政志が会ったこともない豊橋や藤岡からも親類の人達が来た。夜には八百彦から弁当が百五十程届けられた。大きな葬儀となった。坊主も里の寺から曹洞宗の八人が来た。総八と呼ばれる一等格式の高いものだ。チャランポランの大きな鳴物に続き般若心経が読まれ個人の経歴を伝えるお経となった。政志はこの大きな行事に戸惑いながら目新しいものに驚いていた。
 翌日、当時はまだ有った黄金(こがね)の焼場へタクシーを連ねた。焼き上り、骨拾いの儀式となった。大きな箸で二人で小さな喉骨や他の骨を拾った。政志も手伝った。骨は一杯あるのにほんの一部しか骨壺には入れられず残りはうず高く積まれた他の骨と一緒に捨てられた。何故か寂しい思いがした。
 家に帰り庭を見ると、祖父が植え大事に育てていた桜の木が何故か枯れていた。祖父と共に逝きたかったようだ。
 十月に入り半ばに政志の弟の保夫が生まれた。まるで祖父の生まれ変りのようだった。悲しみの後に嬉しさがやって来る。家族皆が喜びに湧いた。一夫は分銅のついた量りで赤ちゃんを乗せ体重を量るのが楽しそうだった。何モンメになったぞと美代子と共に嬉しがった。
 政志も学校から早く帰って弟を見たくなった。死の後にやって来た誕生は光を家族に与えた。病弱だった美代子も血の流れが変化したのか、元気になった。
 ただ政志は死について考え込むようになっていった。一日何時間も空虚に思い悩んでいた。鬱になった息子を心配したのか一夫が担任の先生に相談したことがあった。先生は職員室に政志を呼び出し、こう告げた。「人の一生は、与えられた鰻重をどう食べるかだ。それを考えろ」と。祖父が死んで半年が過ぎた。祖母の元気がなくなって行った。祖母は明治中期の生まれながら大柄で太ってもいたが、急にやせ出し、心配した一夫夫婦は祖母を連れ京都奈良へ家族旅行に行くことにした。まだ寒い三月末春休みになってからの事だ。
 初めに奈良公園へ行った。鹿と戯れ、鹿せんべいをやったり大仏さんを見たり、興福寺の五重塔を見たりし、祖母は興奮したようだ。みやげ品では真鍮製の赤い大仏や五重塔、鹿を売っていた。政志はガラス製の鹿を買った。
 奈良公園の近くの小さな宿に泊り翌日京都へ向った。「おこしやす。可愛いいぼんぼん」京ことばは政志には珍らしかった。一日目は南座へ行き流行のかしまし娘の三人を見た。面白く祖母も喜んだ。翌日早朝宿を出発し嵐山へ向った。嵐山近くの梅の木の下近くで祖母は嬉しさの余りか脱糞をしてしまった。公衆トイレへ行き、美代子が近くの衣料品店まで走り桃色の腰巻きを買って来てあわてて祖母から汚れた下着と交換させた。旅を楽しむどころではなくなった。猿山もそうそうにし、あわてて帰名した。祖母はそれからまもなくして亡くなった。
 祖父母の死、二人の死は政志に無常を嫌おうなく覚えさせた。何の為に、いつも考えるようになって行った。もう一つ政志の心を傷つける事件があった。不用意に女の先生が、彼にマー君の家は、可哀相ね、あんな仕事してるからねと、言った言葉だ。政志は分からなかった。どういうことだろう、どうして可哀相なんだろう。給食費もちゃんと払っているのにといろいろ考えた。家に帰り姉の里美にたずねた。「チャー坊、なんでうちは可哀相なの」姉は少し時間を置いて「うちは、女の人置いとるでしょ、それでいかんのだわ」と、苦しそうに言った。政志は、それでも判然としなかった。分かったのは数日してからだ。せつ子に聞いてからだ。せつ子は、「私達悪いことでお金もらっとるでしょ、それで先生そう言ったんだわ」政志は漠然と分かって来た。うちは特殊な事でお金を得とる所なんだ、よく聞く娼婦ってなんだろう、いろいろ考え分って来た。クラスでは食費や他の経費を払えない子が十人近くいた。彼等はいつも寂しい思いをしていた。子供は意外と敏感なのだ。差別ということを段々考える子供になっていった。他の親達の視線が気になり出した。彼等は他とは違う目で政志を見ている。そう感じるようになった。
 一夫や美代子にも子供に対し負い目はあった。たまに遊びに来る警官達も「売春禁止法が開かれるので、気を付けなかんよ、市川房枝という女代議士さん、いらん事してくれたわ、わし等も大変だわ、娘達が居なくなると、きっと犯罪もふえるで」と、注意してくれた。
 こうして多難な小学校三年生は過ぎて行き、いろんな意味で政志は成長していった。朝は美代子が起きられず、まかないの佐藤のおばちゃんが朝食も作ってくれた。佐藤さんは元芸者さんで、三回結婚歴があり、三回とも夫が死ぬという回り合わせを持った人だった。昔日本髪を結ったせいか頭のてっぺんに大きなハゲがあった。昔の老人の女性は、そんな女の人が多かった。
 政志は毎朝、美代子の背の後で見て覚えた花札のこいこいを佐藤のおばちゃんと一文一円でして目を覚まし朝食を食べるのが日課だった。佐藤さんも嫌がらずつき合ってくれた。花札は芸者時代に覚えたようだ。小学校四年になり新築の分校本陣小学校へ四年生と五年生が行くことになった。一夫の宿からは一キロ余り離れていた。学校の回りは池か田んぼばかりだった。学校の回りをお茶の木がぐるりと植えられていた。四階建てのコンクリートの建物で真新しく入口前には朱呂の木が植えられた小庭があり運動場も広く新鮮だった。
やっと学校不足が解消されゆとりが出来た。政志は美代子の勧めで石川啄木の歌集「一握の砂」や「悲しき玩具」を読むことになった。いつもカバンの中に入れておき、愛読書となった。啄木の歌は何故か子供の心にもすうっと入って来た。情景や心情が素直に感じられるのだ。
 「東海の小島の磯の白砂」の歌や「たらちねの母を背負いて」の歌は愛称歌となった。クラスの担任は歌集を見つけて「こんなの分かるの」と不思議そうな顔をした。紋白蝶や黄色い蝶が菜の花やキャベツ畑を舞う暖かい学校の近くだった。六月に入ると、近くの田んぼが蛙の卵でいっぱいになった。すぐに卵がかえり、おたまじゃくしになった。おたまじゃくしが大きくなり、足や手がはえ段々成長してゆく。そんな長閑な学校だった。

 美代子の姉妹達は何かと集まるのが常だった。姉四人は地名と様で呼ばれ、下の二人が呼びすてだった。一番上の姉は、円頓寺の姉様、二番目は大須の平子花子だから花様、三番目は中村の岩田さわのさあ様、四番目は小山の平子富だからトミ様、五番目は好子、そして六番目が美代子だった。話す時はひどい名古屋弁だった。
 円頓寺の姉様は少しため口、夫は駅前の市場の鰻屋で番台を持っていた。夫の駒瀬又三郎は魚屋の親爺らしく粋でやんちゃだった。二番目の大須の姉が一番美しい名古屋弁の上町言葉を話した。戦前は手焼きせんべい店を開いていたが今は江戸時代からある長屋で土産の卸屋を営業していた。さあ様の夫は、豊田織機に勤め特殊な腕を生かし高級取りだった。四番目だけが農家だった。それぞれが地域の名古屋弁を話した。少しづつ違う名古屋弁でそれぞれ特色のある方言だった。地域地域、場所と職業によって方言はそれぞれ違うように発展したのだろう。姉妹も年によって、各々少しづつ考え方が違っていた。明治生れと大正生れでは違うし、昭和になればもっと違う。人はそれぞれ世相に影響され育つのだ。
 正月には皆好子の家へ集った。政志には好都合だった。お年玉がいっぺんにもらえるから。一人づつ個性豊かな姉妹、一番上の姉様は意地悪で人情家、夫に仕え、しかも牛耳っていた。夫が今夜は遊郭へ遊びに行くと言うと、絹の着物に派手な長襦袢、装飾品の数々を添え喜んで送り出すという明治生れの女の気骨を持っていた。二番目の花は名古屋弁のなもえもを多用し最も丁寧な方言を使い姉妹を宥める役、三番目のさわは新聞は朝日という一徹な生き方をする反面、痩せた人はカマキリの八割などと言う独特な表現の名古屋弁を駆使するユーモアを持った女性、四番目の富はもう女の子供はもう止めるということで名付けられ一人だけ農家に嫁ぎ一所懸命土に生きる女性、夫はふんどし一つで足踏みしたくわんを漬けていた。五番目の女の子はもうよかろうと名付けられた好子が姉妹のリーダーシップを握りいつも親戚全体の相談役、六番目の美代子は生れてすぐ父親が死に母親と共に姉妹の間を預けられ育ち何かと子供扱いされていた。実際長女と美代子では親と子の年の差があり、事実おいの方が年長だった。実家はかつての士族で尾張平氏の流れだった。信長は平氏を名乗ったので平のままだったが、家康の時代になって源氏を名乗ったことから平の下に子をつけて平子にした。徳川に遠慮したようだ。だから姉妹全員、気位が高かった。

 昭和三十年代に入ると、経済も動くようになったのだろう。名古屋のシンボルとして百メートル道路、進駐軍が朝鮮戦争に行きキャンプが空いた処にテレビ塔が出来た。東京タワーより早く出来た塔だった。展望台のある所まで階段を上るのが流行した。名古屋城も同時期に鉄筋で作られた。金鯱が雌雄各々トラックに乗せられ、市中をパレードしたのを政志は広小路へ見に行った。昭和三十年代広小路は華やかで秋祭りには、市電を飾りつけ花電車を走らせたり戦争特需でキャバレー業界も景気が良くホステスがパレードに加わる等して戦後に一時期ぱっと咲いた花の時期だった。
 一夫の宿も客が来るようになって来た。東京からの出張族が客の半分を占めるようになって来た。名古屋駅からの紹介があり、一夫はよく自転車で駅まで客を向かいに行った。駅裏はまだまだ汚なかった。以前にも増して駅前と駅裏の差が出るようになって来ていた。駅内部も戦争当時と変わらず汚れていた。靴みがきが何箇所かあったし、電話もあったが旧式のぐるぐる回して交換台につなぐものしかなかった。食堂はキッチン日本食堂が開き洋食が食べられる唯一の店だった。
 一夫は思いきって隠居屋を壊し商売を拡張しようと考えるようになった。土地も好子の持っていた隣接の九十坪を売ってもらい旧館とくっつけるように改装した。部屋も二十位に増していた。
 段々宿はいそがしくなったが、里美や政志は放っておかれるようになった。政志は五年生の時初めて大須のスケートリンクに行った。平屋の体育館のような建物だった。中に貸靴屋もあり、軽食コーナーもあった。毎日曜美代子に千円小遣いをもらい、稲葉地の姉様の孫の駒瀬正憲、通称マー坊と滑りに行った。スキーの名選手トニーザイラーの映画「白銀は招くよ!」の音楽に乗り何回も只回った。政志はクラスでも一―二番目の背の小さい方なので女の人の股の間を抜けて行くのが爽快だった。帰りには近くの食堂でカレーを食べるのが常だった。大須のリンクの近く大須観音の脇には、納屋橋のたもとにあった蛇の焼いた物やら猿の頭蓋骨や諸々の不思議なものを売る店があった。不可思議というだけで世界は大きく拡がった。大須と円頓寺という二つの商店街は違う動きをした。円頓寺は寂れ、大須は発展したのである。大須は信長ゆかりの町である。ゆかりの寺が幾つもある。円頓寺は清洲越えからの家康の町である。五条橋からの堀川の眺めはとても良い。蔵跡や屋根神様も風情良く残っている。信長の復讐なのか大須が発展し円頓寺が傾いていったのは。ただ息吹はある、円頓寺にも。名古屋駅の発展による影響が近付きつつあるのだ。デザインの良い店が近くに出来始めた。今芽生えの時なのだろう。それぞれの町に好みの店がある。
 円頓寺なら創業以来味の変わらない洋食の勝利亭、和食の麒麟亭、和菓子の美濃忠、大須なら鰻の奴、昔のきしめんを出してくれる演芸場隣の麺類処、大須に近い矢場町にあるとんかつの矢場とんである。
 筆者は五条橋から見える堀川の流れを見ながら勝手にこう思った。水上交通や馬を使えば以外と近いのではないか。信長時代、庄内川のすぐ下の大正橋の近くの手習いをしていた寺まで清洲から馬で走れば早いのではないか、大須までも三十~四十分で行けるのではないか、名古屋城築城の際、清正は篠島近くの無人島から石を船で運んだと言う、築城の為堀川は造られた。船で行けば数時間で着くことが出来たはず、飛騨から材木は木曽川を筏で流し運んだと聞いている。今でも堀川添いには材木問屋が沢山ある。伊勢湾台風の時貯木場の材木が流れ、それで被害は大きくなったが、昭和末まで材木の上で曲乗りの競技が行なわれたはずだ。考えてゆくと、昔は水上路海路がすべてつながっていたのではないか、物資は案外早く流通したのではないか、堀川を遡上するぼらの群のように流れたのではないか、こう思った。
 一夫の里も、岩村藩の西の端にあり一夫が育った祖父母の家は江戸時代は岩村の出城跡だった。霧が城で知られる岩村城は石垣が有名で日本一高い処に建てられた山城である。信長の姉が女城主として居たが武田と内通したことで信長が攻め滅ぼしている。その時の戦いに参戦したであろう一夫の祖先は槍一本携えて逃げ帰ったという伝えがあった。高台には狼煙台跡が残っていて湯が池に湧き出していたことから湯洞と言われた。一夫の祖父母佐久衛門夫婦は湯洞の隠居と呼ばれ、石高は百数十石毎年秋になると蔵に米が運ばれたと聞く。蚕を飼い養蚕農家でもあった。随分女工さんや手伝いの男衆がいたと伝えられる。四百坪の敷地いっぱいに建物は建っており、いろんなものが荷車で運ばれるようになっていた。牛太郎が養子で来たものの才覚がなく子が多く、又死んだことから治療費にかかり、家が傾いていったと伝えられる。現に母のはくが誰それん家は羨ましい。息子は二人とも戦死したので軍事恩給が沢山もらえるらしい。うちは結核ばかりで苦しくてかんかないと嘆いていた程だ。一夫は祖父母に育てられた。大きな屋敷の中で、使用人達と共に育った。先々代の角次郎はやり手で宮大工をし家を富ました。角次郎の頃、養蚕も始めた。
 村の中に中仙道の裏道中馬街道が走っており姫街道とも云われ大名の息女や公家の娘が嫁ぐ時に通ったようだ。湯洞にも立ち寄り茶を楽しんだと伝えられている。又、明治の女官長下田歌子は一夫の縁続きの久保田せつと女学校が一緒で良く馬で岩村から遊びに来たという。歌子は乃木将軍と意見が合わず対立したと聞く。又、卒業式に編み上げの皮靴と袴姿を流行させたことでも有名である。岩村は国学が盛んで多くの儒学者を排出し、郡上一揆を収めたことで有名だった、
 一夫のまだ幼い頃は、こうして村の大隠居の下で育てられた。一夫の親類、弟妹達もそれぞれ個性があった。父牛太郎の弟山内の叔父は藤岡村に居て志野焼の発見と再生に成功した荒川豊蔵と共に丁稚に出た後、第一次大戦の頃騎馬兵として出兵し、戦勝すると近衛騎兵となった。すごい尊皇論を唱える人でもあった。又その弟の安藤浅市は大工でよく政志を可愛がってくれた。その妻がグラマンの機上掃射を受け赤子と共に殺されると、子供の順子と圭治の生き方が変ってしまった。二人とも一夫が引き取り面倒をみるようになった。
 一夫の長姉の小出タカは三菱系の三菱石油を興した小出八十一の下へ嫁ぎ、その家が、村はずれの川の向こうにあったから川向こうと呼ばれていた。築三百年以上の古民家だった。一夫は宿を増築する度に八十一から資金を借りていた。几帳面に利子をつけて毎月返済した。二番目の姉は長江和市という駄知にある陶器を焼く時に欠かせないゴロを焼く家に嫁いでいた。ゴロは陶器が割れないように包んで焼くものだった。駄知というその町は陶器の窯元ばかりだった。カマグレと陶器職人を呼ぶが、宵越しの金は持たない気風があり、食べる事には贅沢だったし、美術品、特に日本画とか陶芸には惜しまず金を使っていた。行くと決って出前の寿司を御馳走してくれた。山間にあるのに非常においしい寿司で政志は鉄火巻が好きだった。甘く多分トロが巻かれていたのだろう。山から水を引き池を造り色鮮やかな鯉が泳いでいた。又、目白やうぐいす等の渡り鳥を捕っては飼って楽しんでいた。政志は従兄姉達と少し山へ入った清流で夏は泳いだ。幼魚が群れ遊び時々あぶが血を吸う小川で石で流れを塞き止め深みを作っては飛び込んだ。三番目からは、一夫にとって妹になる。三番目は同じ姓で遠縁にあたる。一二三は東京の商社を仲間で起こし、働いていた。戦時中は中国へ従軍していた。住まいは赤羽根の団地にあった。子供は二人いて政志とは同じ年の従弟の徹と里美と同じ年の千穂子がいた。お盆になると毎年帰郷して名古屋へも立ち寄った。徹は頭が良く二人で碁の五つ並べをして楽しんだ。始めは政志が優勢だったが、すぐ徹の方に手を読まれ、負けるようになった。次の妹は絹江で今の恵那、当時は大井と呼んだが、恵那郷の近くに一山尾張徳川家の御殿医の家系だった加藤家の別荘があり、そこを南方戦線でマラリアを災った加藤家の二男冬二が養生の為にもらい嫁に絹江を軍隊仲間に紹介され、結婚し一緒にすむようになった。絹江は産婆の資格を持ち市民病院の看護婦だった。別荘は山の一番高い所にあり、陽当たりが良かった。別荘には皮の座布団や冬二が明治大学に行っていた頃集めた書籍等見慣れない物が沢山あった。肝臓を病んだ冬二は時折、病院に入院するようになっていた。別荘の風呂は五右衛門風呂だった。下駄を履いて体を沈めるのだが、慣れぬ政志は同い年の従弟睦に習いながら、一緒に入って遊んだ。睦の下に妹の恵子が三歳違いでいた。睦とは、別荘の前を流れる浅い川を足で渡って恵那郷まで三十分程歩いて行って遊んだ。恵那郷には観光船があり、よく変った岩がある景観を見ながら遊覧した。
 次は男の兄弟で小さい頃に養子として福岡家へもらわれていった。少しやんちゃに育ち若い頃不良だった。博打好き女好きで十八才の時とうとう勘当され、一夫の宿に居候していた。それでも悪い癖は直らず女にちょっかいを出したりヒロポンに溺れたりしていた。美代子が怒ると、一夫に助け船を出し「兄さん兄さん」と甘い声を出した。一夫はそんな弟が不憫でやはり甘やかした。四郎が少し改心したのは義父が京都の南禅寺山門で割腹自殺してからだった。四郎が地元の博打で相当の借金をつくってしまったからだ。最後の妹は鈴子で近くから養子をもらった。婿養子の耕太郎は農業だけでは飽き足らず小原和紙の新人作家山内一生に襖を作らせ売り歩いていた。
 一夫にも美代子にも親類が多く何かと相談に来たりで二人はよく世話をした。政志や里美もよく親類の家に遊びに行ったりした。まだ日本全体が貧しい時代、少し成功した者が身寄りの面倒を見るのは当り前だった。
 小学校五―六年生の頃、保夫を生んだ美代子は体力回復に政志を連れ毎月二十一日に覚王山の弘法さんに月参りをするようになった。赤子の保夫は背負って行った。名古屋駅前から市電に乗りコトコト覚王山まで乗って行った。今池から登り傾斜が強く随分な坂道を電車は上っていた。
 覚王山の山の中には四十八ヶ所巡りが造られ、いろんな地蔵や小さいお堂に各印所があり割といい運動になった。夏になると蝉しぐれの中を歩いた。油蝉が滅茶苦茶多く政志は素手で捕まえて遊んだ。中には卵を生む蝉もいた。覚王山の縁日には店が並び色んな物が売られていた。市電の電停から十メートル程歩くと覚王山の入口があり商店街が並んでいた。その商店街の入口に木造三階建ての特徴ある唐風の望楼があった。覚王山の帰りには必ず電停前に新築された三階建てのビルにある食堂でオムライスを食べた。
 六年生になると、本陣小学校から則武小学校へもどされた。その時生徒は二校に分けられクラスも七クラスに減り、クラスの人数も少なくなった。
別れは寂しかったが今までも転校生は多く、すぐなじんだ。クラスは進学組とすんなり黄金中学へ行く者とに分けられた。私学を希望する者は授業後に補習が行なわれるようになった。生徒の中でも進路の違う者の間でいろいろ問題が起きるようになった。私学を目差す者は裕福な家庭が多く、放ったらかしの多い生徒の方は貧しい家庭の者が多かった。いじめが横行するようになった。政志も少しいじめに合い、校舎裏へ連れて行かれ殴られたことがあった。
 政志は姉が通う南山学園を目差すこととなった。南山は中学高校六年間教育、カソリックの学校で一夫や美代子も安心出来たのだろう。成績さえ良ければ大学まで行く事が出来た。受験の日は緊張した。特に面接は初めての事なので心が高く鳴った。家の宗教は、余暇はいかに過ごしているのか等聞かれた。政志は余暇の言葉さえ知らず、どぎまぎしてしまった。無事面接も通過し結果を待つ事となった。結果は試験会場の南山学園で発表された。
 南山学園は昭和区の杁中という今までの中村区とは違い山の手の環境がすばらしくいい場所にあった。

 名古屋駅の駅長室や旅客、鉄道警察等から紹介された客が来るようになった一夫夫婦は思いきって好子から譲ってもらった隣地に造築することにした。一階に広間三十畳と二階に客室四部屋を造った。同時に玄関にロビーと大きめの男風呂を造った。日本に旅行ブームの魁のような風が吹き始めていた。一夫夫婦もよく観光地の宿に泊り勉強するようになった。今までは素人で何も分からず客層が悪くいろんな雑事に追われた反省もあった。板前を雇い料理も充実させ始めた。そうすると広間が生きるようになり、国鉄の職員が仕事明けの朝や三交代なので朝、昼、晩の三回団体で来るようになった。国鉄の職員達は酒好きが多く良く酒を飲み歌を歌った。まだ軍歌全盛の頃で他には民謡が多く皆口を合わせ合唱した。汽車の乗務員は寒いので酒飲み乗車は常だった。
 美代子はよく駅に挨拶に出掛け営業するようになった。本来営業は好きだった。行商で鍛えられた営業力が有り、すぐ客は友達になった。駅長とも旅客所長とも近付きになり、そうすると輪が広がり、口づてに名が知られるようになっていった。客も増えた。
 一夫は親子でよく定光寺の応夢亭や蒲郡のふきぬきに泊りに出掛けた。定光寺は中央線の汽車で行った。トンネルを幾つも抜け定光寺に着くとすばらしい山々に囲まれ大きな岩の間を流れる川のある景観地だった。駅から川の上に作られた橋の間に工夫を泊める宿千歳楼があった。宿からせせらぎの間を一時間程抜けると、定光寺があった。尾張徳川家の歴代の藩主を弔う墓があった。入口には左甚五郎の眠り猫の彫り物があり、東照宮を意識したものだと分った。
 夏には、川で泳いだ。定光寺の山には、七ふし虫という枝に不思議な化けた虫がいて、興味が湧いた。
 三河の蒲郡ふきぬき湯泉は一時期日本一の規模の宿だった。水車風呂が有名で男女混浴の風呂で着換え室だけが男女別々で中へ入ると一緒になった。大きな岩を組み合わせており、岩を登って周遊することが出来た。木造の大きな造りの宿で幾つも部屋があり、中の壁や天井に絵が雑然と飾られていた。そこで料理を頼むと部屋まで運んでくれた。海は宿全面にありプライベートビーチになっており泳ぎに出たが決して水は綺麗ではなかった。
 五十年以上経った今、偉容を誇ったふきぬきはもうない。定光寺の浮沈と共に大きくなり凋んでいった千歳楼も残骸を無残に晒している。だが応夢亭は昔のまま営業している。筆者は世の中の無常を思うと共に何故応夢亭は生き残ったのか考える。愛岐国道が出来てから定光寺や古虎渓は繁栄し一時期沢山施設が出来た。いずれももはやない。千歳楼は地元の陶芸家と組み文化的に非常に貢献したし陶九郎や鈴木青々等著名な陶芸作家の器を使い人気があった。愛知の宿の中で一番特色があったはずだ。ところが愛岐道路が有料ではなくなりダンプカー道路になると眺めが良く春の桜、秋の紅葉の風情が失われ急速に衰退してしまった。そんな中応夢亭は生き残っている。ただただ拡張せず昔ながらに商っていたから生き残ったのだろう。五十年前から山に一棟ずつ小屋を作り料理を部屋出しするという方式が良かったのではないか、料理も良くサービスも良かった。それを守り続けていたんだろうと勝手に筆者は考える。五十年以上前、一夫は利用する度心付けを女中と板前に渡した。調理長が必ず挨拶に来た。ずっと馴染みの客を大切に来たのだろうと推察された。
 美代子は各地の宿屋へ行き勉強するとすぐに良い処は取り入れた。朝の寝起きには決って砂糖づけの小梅を出した。到着の際にはお菓子ととびきり良いお茶を出した。到着の時の印象はすごく頭に残る。愛知は茶処でもある。一番良い煎茶を名古屋の銘菓と共に出した。
宴会の為にと三味線や西川流の踊りを習った。宴会場で披露するようになった。客が岡崎の方なら岡崎五万石を山梨の方なら風林火山と言うように。すると客は喜び噂を流してくれた。岡崎は岡崎師範が有り当時の名古屋の教職の半分を占めていたし市や県の教育委員会にも力があった。学校が宴会で来るようになり口コミで客は広がった。当時の国鉄は国労、道労等組合組織が強くその方面の客も来るようになった。
国鉄は上意下達の会社でもあった。官僚社会で上部を占める東大出が権力を振るっていた。東大出のエリートは三十歳前後で課長になった。その課長が接待費の使い道を左右させた。一夫も裏金作りの偽の接待費の領収書を作らされた。すべて東大出の課長の為の裏金づくりだった。後々国鉄が民営化されJRになってから体質は随分変わりそんな事はなくなったが、そういう裏金づくりはよく行なわれ、国鉄の赤字体質につながった。
 美代子は器にも気を使うようになった。
輪島の御膳を大小五十組づつ揃えたり、漆は高山まで行って、春慶塗で揃えたり今里有田の器で器を用意したりした。又、着物道楽でもあり大島のや、絞の羽織、名古屋帯等を愛用した。着付けは五分でこなし帯は何十種も自分で考案した。まだブラジャーは一般的ではなくさらしで乳房をぐるぐるに締めるのが常だった。誰もが女性はそうしていた。胸が大きいのを恥とした時代である。すっきり着こなすのがスマートだった。芸者もよく来るようになった。駅近くの旅館へは中京連のお姉さん達が来た。鯱ほこ立ちをする喜久さんは有名だったが、名妓連に属し中京連ではなかった。民謡名古屋名物や名古屋音頭シノノメ節等郷土の音曲をよく三味線の音と共に聞いた。美代子も三味線で覚え、客に披露した。ハシ袋に名古屋名物を印刷してもらい、名古屋弁と共に客に覚えてもらおうとした。時々やって来る杉戸市長の十八番でもあった。おてもやんを編曲したメロディーは覚えやすかった。
 しだいに宿は客がつくようになり、客層は良くなっていった。旅行業者の力も強くなり交通公社や近畿日本ツーリスト、日本旅行会等も客を送ってくるようになり、協定話となった。
 まだ名古屋にホテルは少なく名古屋観光ホテルとあと二軒位しかなかった。
 政志は六年生になり、駅前に名鉄百貨店が四階建てでオープンしたので同級生と遊びに行った。商品は余りなくパンフレットが珍しくもらいに行ったついでに、四階にある食堂へ寄った。食堂ではラーメンかカレーを注文した。その頃にしては、それでも十分な冒険と言えた。
 中京幼稚園の前を通る十八軒通りが舗装されることになり、工事が始った。今の二十二号線である。まだアスファルトの道は少なくつばめが滑走する間を工事車輌はやって来た。
 一夫は旅行業者との協定を考え始め、早速取り組んだ。協定してもらう為には色んな関門をクリアーしなくてはならない。保健所の届け、採点表がいる、又消防署に図面、消防点検の有無、避難訓練の実施の有無等、又警察署には必ず宿帳が必要だった。所轄官庁との繋がりが大切と思い知らされ、準備した。
 さて各旅行業者との折衝も関門が幾つも有った。まず地域の旅館組合に加盟する必要があった。中村区なら中村区の旅館組合へ、そしてその上に愛知県の旅館組合更に上に全国の旅館組合そんな図式だった。中村旅館組合のメンバーは多く、駅前の旅館二十軒程、元遊郭をやっていて旅館に転身した大門の施設、その他に点在する旅館と数十軒あった。元遊郭の旅館街だけで収容千人程、中村だけで総数二千名程の収容があった。団体旅行が増え始め旅行業者もパイが必要となり始め中村旅館組合は重要だった。旅行業者はなるべく沢山の旅館を傘下にするべく協定旅館連盟には力を入れていた。一夫はまず中村旅館組合へ加盟し、次に日本交通公社を狙った。日本交通公社は駅前の小さなビルに有り何度も足を運び加入することが出来た。次に日本旅行会に頼んだ。日本旅行会は駅ビルに間借りしていて知り合いも多く、出張所が名古屋駅の東側の最良の場所にあった。通行する人が多く、旅行を頼む人が多かったのである。日本旅行会もコネですんなり加盟出来た。加入する時は必ず審査が要った。名古屋以外の地域の有力旅館の主人と旅行業者の審査する人と常に一緒だった。近畿日本ツーリストも加入出来た。
 旅行業者にはいろんな規定があり、いずれもクリアーしなければならなかった。たとえば客室には窓側に必ず応接セットが必要だとかトイレが男女別にあるか、風呂も男女別にあるか、風呂付の部屋が幾つあるか、他にテレビの有無、洗面の有無、押し入の数、床の間の有無と花は活けてあるか等、細かい規則がいっぱい有った。一夫はその為に部屋を改装して備えた。大型の木造旅館が度々火災に合うことが多く死者も出て、その度に消防法が厳しく見直され、消防の設備点検も審査された。
 木造の建て物は特に厳しくチェックされ、その度に緊張せざるを得なかった。
 こうして旅行業者とのつながりも深まってゆき観光旅館として体裁を整えて行った。施設が充実してゆく喜びは一夫にも美代子にもあった。各地から団体も来るようになった。一泊二食付きが原則で夕食は部屋出しが多かった。心付けも常識で必ず女中さんの手元には月十万円近く手に入った。女中さんはその中から何割かは板場に渡さなければならずそうしないと板場からいじめに会った。板場は威厳を持ちピリピリしていて、ひどい時は包丁の柄が飛んで来た。板場社会の徒弟制度は厳しかった。反面、仕事が終わると男女が一緒に風呂に入り仕事の憂さを晴らした。恥ずかしさは感じず、農家でも男女混浴は当たり前だったし鷹揚な時代だった。板前は朴歯の一本足の下駄を履き調理用の白衣を伊達に着る粋な職種であった。だから女に良くもて、女中さんとも良く関係が出来た。
広間が出来、部屋も増すと従業員の数も増えていった。常時三十人程を雇うようになっていた。下足番や風呂番等他には居ない職種もあった。雑役が多く必要な仕事であり、流れ着くいろんな過去を持つ人のたまり場でもあった。
 風呂番の稲川さんは相当いい処のおぼっちゃんだったが身を崩し妻と離婚し行く処がなく住み込みで働くようになった。住込みは家もなく身寄りもない人にとっては恰好の逃げ場である。三食めしには困らないし給与までもらえる。考えて見れば別天地である。風呂番という風呂の湯かげんを見て客にうかがいを立てる仕事だった。きついのは灯油を貯灯タンクに入れる時位だ。二十リッター入りの油を幾つか自分の体より高くまで上げいれなければならない。その時は高齢化し体力の衰えた身にはつらかった。逆に女性の体を平気で見れる陰美な快楽もあった。稲川さんは肺を患っていることを隠し倒れ死ぬまでやりぬいた。
 靴番の亀さんも芸者遊びで身を崩し行く処もなく流れて来た老人だった。稲川さんより品が良くかつては大店の亭主だったようだ。彼は仕事にはプロ意識のようなのがあった。靴番はお客さんの靴を預かり間違いなくその客に出すようにするのだが、彼は客がどんな靴を履いて来たか百足あっても客と靴を覚え間違いなく出すことが出来た。預った靴は必ず磨いてピカピカにして出すのもサービスだった。それも必ず行なった。客は汚れた靴が綺麗になってもどって来るので感動した。顧客の顔を必ず覚えなくてはならない有名ホテルのドアーマンと同じことが宿屋の下足番のプロ意識だった。
 亀さんは或る朝出勤しないのを起こしにいった女中が死んでいるのを発見したという突然死だった。一夫夫婦は、そんな薄倖な従業員の死もちゃんと葬儀を出し見送った。政志の世話になったまかないのおばちゃんは直腸ガンに患かり実家の海部郡へ帰って行った。一夫は見舞に行った。風呂に入ると痛みが和らぐと云う。死ぬ前日、やはり見舞に行くと、「死ぬ時は時間がかかるの、苦しいの」と聞いた。一夫は「すぐ済むよ、あっという間だよ、そんなに苦しまないでも逝けるよ」と、答えた。おばさんは甥に看とられ旅立っていった。
 こうして政志の小学校時代は終わり、南山中学に入学した。私立の南山中学は、中村の下町の小学校とはまるで違った。第一生徒の話す言葉が違った。名古屋弁丸出しの中村とは違い上町というか政志にはよそよそしく感じられた。ただし三カ月で悪貨が良貨を駆逐するように皆名古屋弁の方に汚染されていった。姉の里美がすでに南山中学女子部に二年違いで通っていたので当然のように通い出した。ただ女子部と男子部とはまるで違っていた。女子部は昭和区の隼人池の前の抜群に良い環境の中にビルとして燦然と輝いているのに男子部は木造校舎のまま、教室が足らないのかプレハブ教室がある位でその差は歴然としていた。無論能力差もあり常時女子が上であった。入学の際も難しさは女子部の方が上だった。男子は東海という絶対的なライバルがおり、能力差もあった。
 男子部と女子部の間の小高い丘の上に教会があり、その下にピオ館があった。南山学園はイエズス会が経営するカソリックの神学校である。イエズス会は十字軍に参加したことのあったフランシスコ・ザビエルも宣教師をしていた。非常に厳しい教義の下教育が指導される学園だった。女子部の制服は修道女が着ているものを模していた。男子は普通の中学生が着るツメエリの黒い制服である。ただ革靴を履くことになった。カバンは自由で政志は肩から下げるズックの物を選んだ。帽子は着用の義務があり他にも生徒手帳が渡され、細かい校則がふんだんに有った。各記念日には教会でミサが行なわれ生徒は必ず集合しミサ台の前に着座した。その時だけ男子女子も一緒になった。教会に入る時は皆水で頭を清めた。聖歌が聖歌隊によって歌われパイプオルガンの演奏の下ミサが行なわれた。新しい文化との出会いであった。ステンドグラスから入る光で教会の中は、種々の光が屈折し神々しい雰囲気があった。
 教会の下のピオ館には外国人の宣教師やシスターが出入りし日本人しか見たことのなかった政志にはとても奇異なものだった。段々日が経つにつれ日常的な光景になり、慣れ親しんで行く。それは長年異教徒にキリスト教を浸透させる教育を研究して来たイエズス会の方針だったのだろう。毎週宗教の時間は必ずあった。少しづつキリスト教は心に入って行きいつしか身についてゆく、そんな校風南山学園だった。
 生徒は今までの閉鎖された地域と違い広い範囲から集っているので多様だった。名古屋全区ばかりでなく中央線で東濃から来る生徒や関西線で来る三重県の生徒がいた。親の職業もまちまちで多くは中小企業の経営者の息子大企業の部課長の子弟、特に目立つのは差別を受けていた地域の子供だった。親がその地域での差別を嫌ったのだろう南山学園という広い視野を持った教育を願い送り込んだ。特に多かったのはパチンコ屋の息子だった。彼等は日本人以外の国籍、韓国人、朝鮮人、台湾人等が含まれていた。皆そんな事には拘らず交遊するようになった。学校ごとに生徒の親の職業のカラーは違った。東海色は医師の子弟が多いが南山色には余りいなかった。女子部の方が両親の出身は男子部より良かった。エリート校だった。こうして知らぬ間に政志の心にも南山学園の気風が入り込んで行った。
 又も一夫夫婦は造改築を始めた。隣接に六部屋と女中部屋、里美と政志の部屋等を造ったのである。渡り廊下でつないだ女子風呂も森を模した美術タイルをはった目新しい感覚で創った。
 政志と里美は仕事を優先し段々遠くに追いやられる自分達に不満を抱くようになっていた。守られた隠居屋という空間から女中部屋の真向かいという仕事と密着した空間に入り込んでしまった。いつも親と同時に商売という厳しい戦いに対して行かねばならない。常在戦場は子供には余りに過度な対外意識を強いた。
 南山では厳しい授業が始まった。特に英語の中村敬先生の授業は熱血ですさまじかった。質問に答えられないと容赦なくピンタが飛んだ。まだ戦後の気配を残した頃、先生が生徒を殴る事は日常だった。特に南山では、教育には鞭が必要と考えられていた。古文の久田先生は出勤簿の柄でよく叩いた。英会話のラホージ先生はチェコ人で質問に答えられない生徒は罰として広場を何周か黙々と歩かせた。理科の小林先生は殴らなかったがチクチクと生徒を追い込んだ。
 秋になると、学園の木々が色付き紅葉した葉が舞った。生徒は枯葉を拾い集め掃除した。

 旅行業者の協定に成功した一夫夫婦は益々商売熱心になっていった。影のある日影の商売から明るいまっとうな宿屋にもどった喜びは大きかった。しかも子供達は私立の南山学園へ入学した。次男の保夫はまだ幼いが、すべてが軌道に乗り動き始めた。そう確信した。
 一夫は大治自動車学校で習い運転免許を取得し中古のニッサンブルーバードを買った。家族、宿中皆で喜んだ。誰しも車など一生持てるとは思わなかった。その頃から車社会が始まりモーターリゼーションが叫ばれるようになった。道路もどんどん舗装され伸びて行った。事故で死人がよく出るようになった。宿には駅内の日本旅行会から当日客が送客されるようになった。駅内の日本旅行会の所長今井さんは、桑名の人でフィリピンで裸同然で捕虜になった後、昔いた国鉄のコネを生かし日本旅行会に入社し駅内の所長にまで出世した苦労人だった。日本旅行会は国鉄OBの社員が多かった。一夫とは軍隊時代の話でウマがあい、一夫を可愛がった。一夫も日本旅行会を大事に思い毎晩のように接待した。宿は毎日満員になるようになった。予約で部屋が空いていても当日客でほぼ満員になった。当日申し込みは唯一旅行業者として駅内にカウンターを持つ日本旅行会が多かったのだ。ブルーバードが役に立つようになった。駅への出迎いにといそがしく走り回った。職員の為には一夫はあらゆるサービスをした。それだけ送客してもらっているのだ。駅裏の宿は未だに駅前の宿に比べ不利だった。特に松岡旅館、舞鶴館、五月支店等は脅威だった。ビジネスホテルはまだ名古屋にはなく一泊二食付きの日本旅館が一般的だった。東京でやっとビジネスホテルの走りとして上野に法華倶楽部が出来た。都市旅館の衰退とビジネスホテルの興亡が始まろうとしていた。

 政志に友人が出来始めた。一宮奥町から通ういつも殴られ役の山副やバネ屋の息子小笠原等とは仲が良かった。地元の山田香や鬼頭も小学校からの友人だったし隣の牧野小学校から来た坂達とも往復のバスが同じで何かと仲が良かった。則武小学校と牧野小学校では違いがあった。則武小学校の方は古くからこの地に住みつき何代も暮らした人達がおりしきたりを重んじていた。牧野小学校の方は戦争被害者達が多く集まり朝鮮人韓国人が三割を占め闇市に生活する人達の子弟が多く存在した。おのずと考え方も違った。菅洋一郎は南山中学へ入学し政志と同じクラスで友達になった。親は満州からの引き揚げ者で父はシベリア抑留組だった。洋一郎の前に子が六人いたが皆帰国の途中死んでしまっていた。戦後生まれた洋一郎は両親の溺愛のもと育った。駅裏のど真中に小さな工場を借り塩化ビニールを作っていた。南山からの行き帰り一緒になるので自然と近付いた。一宮から通う山副とは家をよく行き来し互いの家に外泊することがあった。山副の家は繊維工場を営み九州から集団就職で来る娘達を雇っていた。いわゆるガチャマンの山副の家は中庭のあるロの字型の大きな家で廊下の行き詰まりに便所があった。手水鉢で手を洗い掛けられた日本タオルで手を拭くという古式ゆかしいものだった。
 喫茶店好きの市民はコーヒー通でもあり近くの店でブルーマウンテンを味わった。クリームを表面に浮かべ飲み味と香を楽しんだ。奥町を流れる川へ遊びに行ったりもした。他に瀬戸から来る生徒は加藤姓が多く陶器を扱う家から、一宮の生徒は繊維を扱う家の子弟そんな地域性があった。小笠原の家は雁道にありバネを造っていた。家は工場とは離れた所に有り裕福だった。一夫の宿の一室を使い山副ととんちゃんパーティを開いた。駅裏のマーケットの中には韓国人がその頃はまだ捨てていた豚の臓物を使いとんちゃんとして売るようになっていた。そんな店が数軒出来た。一夫は時々政志を連れて行き密造のまっこり酒を飲みとんちゃんに舌鼓を打った。一等好きだったのは慶北館という店だった。店の女主人は洗濯するのと同じ手つきで豚の内臓をらっかせいや辛子や七種の薬味を入れもむように味付けをした。たまらなく美味しく一人前八十円だった。それを千円買い大きな袋につめて持って来て七輪の上で焼いた。辺り一面香ばしい臭いがたちこめ、余計おいしく味わうことが出来た。
 娼婦が林のように立つ小道から入った処にある店だった。菅の家のすぐ近くでもあった。
 小笠原家は伊勢湾台風の時、水が入り作っていた石鹸が海水で駄目になりバネ屋に転業していた。父親は若い頃本田会の四天王と呼ばれた渡世人崩れでいつも七部袖の上着をはおっていた。小笠原自体は頭がチリチリで黒人とのハーフみたいで可愛らしい顔をしていた。こうしていろんな友達と知り合い今までの狭い地域性とは違う交流を覚えていった。

 一夫が属する中村旅館組合の主流は大門にある遊郭の店が売春禁止以後料理旅館に転業したものが多く十数軒あり収容人員が多く一大勢力だった。四海波、稲本、松岡は大店でつる屋、久本等は中堅だった。業者は始まった旅行ブーム、団体や組合、各種スポーツ競技の配宿に大きなパイを持つ大門街は便利だった。
 阿部定子を刑期後雇い可愛がった四海波のオーナーは慶応ボーイで地域のボス的存在だった。ノウちゃんと呼ばれ背が高くいつも運転手付きのアメ車に乗っていた。遊郭の転業先にはもう一つあり風俗の流れを組むトルコ風呂(今のソープランド)に転業する店が多く特殊浴場と公式には呼ばれ、組合長に四海波のノウちゃんが選ばれなっていた。中村警察署との話し合いが多く四海波の主人は最適だった。トルコ風呂には蒸し風呂があり健康を売るはずだったがそれが表向きで裏では昔と変わらず春を売っていた。かつての遊郭の造りは客室が四畳半の客を持て成す部屋とその奥に二つの床を敷く寝室の二部屋に別れていた。どの店も改造する意志はなく段々宿泊客の求める形態の部屋とはギャップが出来るようになっていた。
 新しく始めた一夫の宿は旅行業者の求めるように改装され駅に近く大門の旅館に勝るようになっていた。ビジネス客はあまり大門にある宿まで強いて行かなかった。駅から近いと言っても場所が不案内で送迎の必要性があった。一夫は二台新車を買い運転手も雇った。トヨタのクラウンとニッサンのローレルである。クラウンは送迎にローレルは私用に使うことが多かった。運転手の藤井は豆に車を洗い磨きいつもクラウンはぴかぴかだった。
 昭和三十年代の終り、その頃にはどの店も車を持つようになっていた。各家庭も持つようになり道路も整備された。庶民に人気のあったのは大村昆が宣伝するミゼットだった。大衆化の波はすごい勢で浸透し商品もより安価になって行った。国鉄名古屋駅も美化され空襲の跡も消えて行き、中に国鉄案内所が出来、宿に客を紹介するようになった。一夫の宿も国鉄の知人のコネを生かし旅館の内では一番に送客してもらった。日本旅行会と国鉄案内所という二本柱を持ったことで一夫の宿はますます潤うようになった。お客様の送迎は大切だった。他の旅館は今まで通り地図で存在位置を知らせる方法のみだったが、タクシー代が要らず迎えに来てくれる。しかも高級車で、それは重要なことだった。
 日本旅行会での評判は駅前の五月支店が良かった。地理上やはり有利だった。名古屋市内もビルラッシュが始まり栄に中日ビルが名古屋駅前に大名古屋ビルヂングが建ち広小路にはガーデンビルが建った。

 政志の通う南山学園ではミサの度に説教があり、よく旧約聖書の一部が聞かされた。政志が印象に残っているのは三人の息子が才能をどう生かすかという話だった。タレントというユダヤの通貨でそれは現わされた。十タレントもらった長男は無くさないようにそれを土に埋め五タレントもらった次男はそれを元手に商いでもうけ出し三タレントもらった三男はすぐに使ってしまう、そんな話だった。タレントはその後芸能人という意味で日本では使われるようになった。その他毎朝の祈りの時間が有り、毎週宗教の時間が有った。南山中学では英会話が外人教師によって教育され生きた英語が重要とされた。英会話はその後実生活で役に立つようになった。
 中学一年の冬、初めて政志は学校からスキー訓練に新潟の赤倉へ行った。非常に楽しい思い出が残っている。夏は水泳教室も知多の海で開かれ遠泳が行なわれた。政志はカナヅチで遠泳には向かなかった。南山学園は一学年二百人程で小さくホットな学校だった。生徒は皆兄弟のように育ち、一生そのつながりの中で生きるようになる。

 一夫夫婦は商売熱心だった。良く旅もし、他の旅館を見て歩き勉強した。旅行会社から海外旅行が勧められるようになり旅行好きの美代子がいつも率先して同行した。その頃人気だったのは台湾、香港、マカオだった。台湾では売春ツアーが多くペイト温泉が人気で娘が平気で裸で接客した。美代子は助兵衛な男客の中に入り逆に知り合いの男達をからかう程だった。その頃のアジア諸国はまだ貧しく、貧しい国の常で女性が商品になり外貨を集めた。かつての日本がジャパユキとしてアジア各地に飛んだように。日本の各温泉地も枕芸者が居て旅行客を楽しませていた。特に北陸はその頃女性で売っていた。
 美代子の姉の好子は、すでに離婚していた。シベリアから帰って来た夫は商に猛けすぐに儲け出したが、シベリアで失った青春を取り返そうと或る女性に惚れ家を出て女の住む四日市へ逃げてしまったのだ。鉄屑屋の跡は弟の昇が継いでやっていた。残った好子は質屋を始め、質屋組合で知りあった坂野を妻帯者にもかかわらず奪い引き入れていた。好子は多情な女性だった。質屋はよく儲かり姉子気質もあるのか親類一同の面倒を良く見る相談役となった。ぜん息を悪化させた兄平吉が食べれなくなると、麻雀屋を金を出し開かせ何とか食べれるようにした。西元の間に養子でもらった輝夫がいたが坂野の事もあり一時期姉の岩田さわの下へ預けた。さわの長男は名古屋大学へ通う学生であったので家庭教師として最適だった。
 好子は武勇伝の多い女だった。質屋へ通う客の中には犯罪者もいて、刑事と内通して盗品と分かると店を出た後に逮捕される方法でいくつも感謝状をもらっていた。一夫夫婦の良き相談相手で困り事があると、一夫は何んでも相談に行った。土地も義姉の力で広げる事が多かった。平吉の麻雀屋ひばり荘の前に豆腐屋が建っていたが、移転するというのでそれも買い古家を壊し更地にして一夫に駐車場として貸してくれた。駐車場は一夫に非常に助かった。車でやって来る客も増え駐車場は必要不可欠となって来たからである。昇に嫁が必要になり同じ親戚筋から美津子を見合わせ結婚させた。その縁結びも好子が骨折った。
 政志は学校帰りに発売となったコカ・コーラを飲んだ。発売当初コーラは強く何故か喧嘩がしたくなり駅内で通りがかりの同じ位の男の子を殴ったことがある。普段はおとなしい方で暴力など振るったことなどないのに。まだサイダーかラムネ、たまにジュースしか飲んだことがなかった。コーラは怖い飲み物だな、直感的に思った。興奮剤として飲み多分麻薬性があり常習となるんだろうと予感した。事実それ以後コーラはよく飲まれ、飲むと常習者となった。
 中村区には世に知られた会社が三つあった。ラムネ製造の森川飲料、カレーのオリエンタル、ハム製造の鎌倉ハム、いずれも政志の宿から近くにあった。オリエンタルカレーはよくバルコニーのあるバスでウエスタンを歌う女性シンガーを乗せ宣伝に走っていた。政志の宿の近くの公園にもよくやって来て歌いながらカレーの宣伝をしていた。チンドン屋よりも力強くアピール力があった。
 交通公社は駅前の国鉄バス乗り場横の小さなビルの中にあり、たまに一夫の宿にも送客があった。旅行ブームと共に大きくなり旅行業者の中の中核となった。異彩を放ったのは駅前のバス停前で叩き売りみたいに旅行を売る谷川屋旅行会だった。政志は帰りのバスでいつも見て奇異に感じたものである。その頃温泉場や各地の観光地では客の呼び込みをしていたが、その流れを組んだようだ。宿の名の入った旗を持ち、今夜の宿はお決まりですかと呼びかけキャッチセールスするのは何処でも行なわれていた。その客を捕まえる能力が宿の売り上げに直結していた。
 谷川屋旅行会は各温泉ごと観光地ごとに紙を刷り市場感覚で商売していた。地域地域の集客は激しい競争となり始めていた。名古屋からは下呂方面伊豆箱根方面等が人気だった。まだ航空運賃が高く海外旅行はメイン商品ではなかった。ただ各旅行業者は海外旅行の幕開けを予感しルートづくりに懸命となった。まずは旅館のオーナーが狙われ海外旅行客とならされた。
 美代子は海外旅行が好きだった。特に香港マカオは装飾品や時計が安く買い物が楽しかった。旅館の女将は大変な仕事で始終神経を尖らせていなければならない。家庭もあり守って行かねばならない。朝は朝食の準備、お客様のお送り、昼は掃除の点検と昼食客、夜はお出迎えと夕食、お客様のお出掛けと会計、深夜の見回りと激務の連続だ。他に家庭の事もある。海外旅行の時だけが羽根を伸ばせる自由な時間だった。
 一夫も香港や台湾には着いて行った。いずれも海軍時代の青春を過ごした場所だった。戦いのなくなったかつての場所は観光地として蘇り栄えようとしていた。
 台湾はかっての日本の統治ではなく将介石の治める中華民国となっていた。一夫は基隆の港に駐留して台北や他の地は初めてで、日本統治の頃と違い異国として味わうことが出来た。香港もオーストラリア兵の死骸が浮かぶ湾ではなくネオンが美しく湾に彩を浮かべるものであり、美代子に連いて回る買物も楽しく感じられた。
 戦争もなく日本は復興した。そう感じられる日々が続いた。戦争時代が遠く思われ日本の繁栄、日々変わってゆく生活が恐ろしい程だった。テレビはCBCや東海テレビ等民放が参入し日々歌番組やドラマ等見せてくれる。放映時間も長くなった。電化製品も次々と新しい商品が生まれ火鉢が電機ストーブかガスストーブに、洗風機もガタガタうなり声を上げるものから静かなものへ、最近では冷房機を入れなければならなくなった。整備を導入するには金が要る。便利になるごとに沢山の金が必要になって来る。一夫は各室に冷房機を入れなければならなくなった。 
 会計は正規の料金の他に奉仕料として十五パーセントの割増をもらっていた。五千円の宿泊料なら五千七百五十円、一万円を超える場合飲食税として県に十パーセント収めなくてはならなかった。一万円の宿泊料なら一万千五百円と飲食税千百五拾円足してもらっていた。奉仕料で大半の給与がまかなえた。北陸の旅館などは全チップ制で女中さんには給与を払わない地域もあった。北陸の仲居さんは営業マンでもあり客集めから客に二次会の世話、芸者の世話、枕代つまり売春のマージン稼ぎやストリップ小屋への紹介料等が仲居さんの収入となった。北陸の旅館は腕の良い仲居をいかに集めるかが勝負だった。一夫の宿の女中さんも一度北陸のある旅館に全員引き抜かれたことがあった。そんな戦いも旅館にはあったのである。
 一夫の宿の裏側は森になっていて、地元の有力者鵜飼家の茶室と蔵が残っていた。空襲でおお方燃えてしまったが、茶室の横の手洗いの石や渡ってゆく飛び石、蔵は燃え残っていた。鵜飼家はかって造り酒屋を営み、儲け出し庄内川まで自分以外の土地は歩かなくてもよいという程の財力を持っていた。名古屋駅西側の入口を開けるのに尽力した程の有力地主だった。二代続けて株で大損、没落し戦前の勢はなくなったが、まだ地元の有力者の権力だけは持っていた。息子がその茶室跡に幼稚園を造り始めた。雑木が生い茂っていた土地に土木業者が入り整地が始まった。何故か蛇が沢山巣くっていた。池に使われていた奇石や手洗いの石は近くの実家の方へ運ばれて行った。蔵はそのまま残った。鉄骨で校舎は造られ小さな幼稚園は完成した。政志の弟の保夫が通うようになった。保夫は家が隣なので気が向かないとすぐに帰って来る幼い児だった。
 幼稚園から西一歩道を隔てた所に飯田女学院跡があった。空襲はそこまでで駅の西側にあった家はすべて焼失していた。飯田女学院からもう少し西側は以前の通り田舎の風情そのままだった。当時は地域の事を高針地区と呼んでいた。小出、寺島、杉戸、鵜飼が独占したこの地域は江戸時代、もっと下か上ぼれば則武荘、高針荘と呼ばれた平安の荘園時代と変わらずゆったりと時は流れたのだろう。昭和十二年中村区が名古屋市に合併するまで旧弊とした気風のまま人は育ったようだ。昭和十二年は面白い年であった。笹島から東洋一と云われる名古屋駅が現在の場所に移転したのである。すごい工事であった。基礎にはシベリア松を何千本も使い土地を固めた。この駅が出来たことにより中村はいや名古屋全体が発展してゆくことになった。

 この年中村が名古屋市に合併することになり記念に赤鳥居のモニュメントが出来中村公園や太閤神社が設備された。都市計画が発表され田んぼばかりの中村が変貌することになった。遊里ヶ池が埋め立てられ日赤が出来た。楠橋の東の方にはスーパー銭湯の走りのような施設が出来演劇も見せた。文化住宅と称する建て売り住宅が随分建ち人口を増やした。住民は秀吉や清正がシンボルと格付け二人にまつわる地名を名付けた。太閤通り清正通り等である。中村区の骨格が出来、点と線を結び街が広がっていった。
 旅館街は笹島駅近くのものはそのまま残り新しい駅ビルの近く何軒か建つことになった。旧の旅館街には夏目漱石が書いた三四郎の作品に出て来る角屋、その他信忠閣、舞鶴館、五月本店、支店、神谷等があった。名古屋駅前には長谷川旅館、遊郭で儲け出し駅前に出店した松岡、香取旅館、煉瓦屋等があった。
 大名古屋ビルヂングが出来ると香取はその中に入り木造旅館の時程客が来なくなった。松岡駅前店が一角を占め駅前に凛と建って一軒勝ちするようになった。松岡は旅行業者に頼らず顧客だけを対象にし場所が良いせいかそれで十分やってゆけた。一夫は松岡駅前店をうらやましく思った。
 大門の旅館の経営者は昔ながらの旦那衆気質が抜けず趣味に生き商売に熱心とは言えなかった。稲本は茶室があり稲本流という独自の茶道を行なっていた。隣の大観荘にも茶室があり茶道の他に日本画、謡曲等多趣味で松岡西店は木材集めに四海波は水泳にとそれぞれ違っていた。一夫は無趣味で仕事を好んだ。 
 栄に丸栄とオリエンタル中村百貨店が出来、松坂屋も改装し百貨店業界が花開いた。名古屋駅前と栄地区に分断された名古屋の商圏はそれ以来激しく競争することになった。広小路地区は段々しぼんで行った。
 大門地区ではユニーが小さなコンクリートの店を造りスーパー業界の魁となった。政志は学校の帰り寄り道して眺めに行った。駅西銀座通りはファッションの店まどかが流行し大須商店街には米兵が出来た。こうして名古屋の町にシンボル的に店が出来、人が往来するようになった。
 名古屋の町にはそれぞれ特長があった。繊維なら長者町菓子玩具は西区新道、道具漆器は西区の六区古本は上前津その他武家屋敷が連なった黒門町鉄砲鍛冶のあった鉄砲町等々地名でそこがどんな処かすぐ分った。金山には金山体育館があり夏の相撲興業が行なわれた。夏の楽しみの一つであり、小学校からも見物に行く行事が行なわれた。政志の通う則武小学校には土俵があり相撲が盛んだった。冷房設備のない体育館では決った時間に酸素吸入が行なわれ少しは暑さよけというより酸欠対策だった。小学校の冬は寒く皆鼻水を垂らし足袋を二重に履く等して防寒したが押しくらまんじゅうという体を押し当てる遊びが暖かく一番防寒になった。
 商売熱心になった一夫夫婦は一方住ま居には全く無関心で玄関を改造した八畳位の所に二人と保夫が住み里美や政志は女中部屋の前の天井裏の小部屋に追いやられた。その状況を見た好子の姉達が余りに可哀想と言った程である。政志は屋根に上り眼下の風景を見るのが楽しみとなった。宿では三度自殺する人が続いた。二人は男性の一人客で老人だった。一人は服毒でもう一人は首を欄間に掛け首を吊っていた。足が届くのに足を自分で上げ死ねるもんだと皆不思議に思った。二人とも遺書があった。病気を苦にし絶望の末の自殺だった。両方とも遺族が各故郷から来て検死の後運ばれていった。一人は若い女性の服毒だった。両手両足を浴衣のヒモで縛り乱れないようにし枕銭を置いた見事なものだった。余り見事な死に方だったので刑事が不審死を訝った位だ。枕銭と宿に対するお詫びとお金を役所に渡し葬式を上げてくれという遺言が供えられていた。他にも自殺未遂は何度かあった。胃洗浄をしながら救急車で運ばれてゆく姿は醜かった。自殺は宿屋にとって宿命だったが迷惑な事だった。流石に始末したその夜だけは部屋を空け脱臭した。美代子は客にいかに喜んでもらえるか感動を与えることが出来るか、それに自分も喜びを感じると思った。宿屋は客の命さえ預っている。金も命もと思うようになり一期一会を更に考えた。
 美代子は茶を習い始め客の接し方の礼法をますます磨いて行った。器の勉強もし始めた。美代子は実に多趣味だった。娘の里美には和琴を習わせた。宿では盗難もよくあった。貴重品は宿側が預り無くなると責任を負う約束なのだが面倒臭さがりうっかりそのまま部屋に置いてゆく客が多く部屋を空けた隙に狙われた。内部での犯行かも知れず現金は確証がないのでどうしようもなかった。盗る方もそれを知っていて現金ばかりをねらった。
 お尋ね者が泊まる事もありそういう時は警察に連絡し決して宿で逮捕はさせず帰って何処かへ寄った所を捕まえてもらった。お礼参りを恐れたからである。宿は何かと警察に頼む事が多いし警察も犯罪探査に宿の協力は欠かせない。客同志の喧嘩、各種のトラブル、宿はたまに予想外の事件が起きる事がある。近くの貸駐車場にお客様の車を入れていた処そっくり盗まれたことがあった。影も形も無くなった車の所有者のお客は当然宿側の責任を問うたが宿には責任がないことが分かりお客様に迷惑を掛けたことがあった。サービスが悪い設備が悪い等々、宿はクレームをつければ何処にでもクレームを付けることが出来る商売で、一夫夫婦はいつも対処しなければならなかった。食中毒はいつ起こるか分からない。神経が安まることが無かった。
 畢竟二人は仕事漬になり子供達は放任されることになった。麻雀が流行り出した。国鉄や旅行業者は特別ルールがありイーソを鳥と呼び一枚ごとにドラとなりチーピンがあると鉄砲と呼ばれ鳥が撃たれて死ぬという変わったルールでやっていた。三交替なので暇が出来ると集まり雀卓を囲んだ。負けた人がカァーとなり徹夜麻雀になることもあり宿がその場を貸すことになる。客は勝手なもので夜は夜食を持ってこい酒を持ってこい等要求する。女中さんが仕事終りには経営者の美代子が世話をすることになり当然寝不足になり朝は起きられない。不規則な生活が続き体調が悪くなって行く。体に鞭を打ち仕事を続ける。そんな悪循環の連日だった。  変わった客も来るようになった。民音と契約した宿には芸能人が多くやって来た。歌手や有名俳優である。芸能人の生活も朝は遅く夜も遅い仕事で昼まで寝て仕事の舞台に出て、夜遅く帰って来てそれから以後遊ぶ、それにも合わせた。田宮二郎が来た時は女中頭まで余りの美男子にのぼせてしまって食事の世話も出来ない。美代子が代って世話をした。
 政志の中学時代は、成績は鳴かず飛ばず体育と音楽も出来ない駄目な部類の生徒だった。劣等感を覚えたものの中流で行こうなどと安易に生きていた。冬のスキーだけは楽しく同級生達と連れ立って志賀高原へ行った。長野駅で夜行列車は休息を取り、その間に信州ソバを食べに行った。志賀高原パークホテルは木造で食堂からすぐにスキー場のリフトまで行けた。
ガラス窓に幾つも氷の結晶が出き雪の印を浮き上がらし美しかった。雪はさらさらして光に当たるとキラキラ光りスターダストになった。旅館の人達は優しく皆親切だった。高天原の山頂までリフトに乗り直滑降で急斜面を下ったりボーゲンやクリスチャニアを勉強したりし楽しんだ。
 この間テレビでは六十年安保の映像が流れたり山口二矢が社会党委員長浅沼稲次郎を刺殺する場面を写し出し、政志は少なからず社会に対し目を向くようになった。
 日本の成長は加速度を増していた。名古屋では数年前に地下鉄東山線が開通し駅前に巨大な地下街が出来、今度は新幹線が出来東京名古屋間を三時間で走ると言う。駅裏の整理が始まった。元々国鉄用地や名古屋市の土地に戦後のどさくさに不法に建てたバラック街である。それでも土地交渉は難儀な仕事である。話は進みどんどん駅裏は変貌して行った。駅西に新幹線の駅口を造らねばならず工事は急ピッチで進んで行った。懐かしい店がどんどん壊され空地となって行き駅工事が始った。樹林のように客待ちで立ちんぼうしていた女達も消えてゆき駅裏は確実に変わろうとしていた。でん助賭博やガマの油売りの軽快なしゃべりも駅の前に立たず寂しい街となり始めた。市場街はそのままビルを建て残り繊維組合の岸田さんは亀島に名毎ビルを造り組合員ごと移って行った。一夫の宿には夜行列車の汽笛が聞こえなくなりいつしか建築の槌音に変わった。
 駅西口が出来たのは政志が南山中学へ通うようになってからだ。汚れた溝内の柱も装飾され戦後は感じられなくなった。唯一中央コンコースの大時計がそのまま時を刻んでいた。
駅西は椿神社東まで整備されたが銀座商店街から西はそのままだった。椿神社の神主の一色さんは下野一色にあった源氏の流れで極東軍事裁判で処刑された松井岩根大将と血類だった。松井大将は南京虐殺の汚名で死ぬ事になったが攻略の時は提灯行列で名古屋中大変な騒ぎで喜んだという。碑は終戦直後池に沈められ隠されたが、日本が講和条約を結んでから椿神社へもどされたと言う。一色さんの母上は一弦琴の名古屋市の無形文化財で行事がある度に演奏を聞く事が出来た。
 椿神社の南側にあった真弓牧場は牛がいなくなり真弓商店と駐車場になった。丸一のり店は丸一ストアーのビルを造りそこで食料品全般を販売している。カナリヤを駅裏で売っていた井上鳥獣店は駅西銀座通へ移り、何軒かの商店も銀座通へ移転した。
政志は新幹線で豊橋までの一区間同級生の鬼頭と試乗したが余りに早過ぎて何の感慨も残らなかった。一夫の宿は客が一変した。東京からの出張が減り半分程になった。一夫は増えている観光客を伸ばそうと考えるようになった。同時に朝食休憩昼休憩、団体宿泊、修学旅行等も狙い販路を増やそうと考えた。 (第二章に続く)

著者  平子 純
発行者 もぉやぁこ観光㈱
発行日 二〇一六年六月吉日

16年7月9日

ショート・ショート「日本人があまり知らない二つの戦い」

 兵舎のトタン屋根を貫いてグラマンが機銃掃射の大きな穴を一直線にブツブツと、描いていく。一夫は、どうにでもなれーと捨て鉢に一列に並んだ海軍官舎のベッドの上で不貞寝していた。今日、特攻隊編入の命令が届いたばかりだ。ソ連が参戦し北海道が危ないから向こうから来る敵艦を迎え撃つというのだ。海軍に入ってから特に特攻兵を霞ヶ浦、土浦航空隊で教えるようになってから、いつの日にかは自らも同じ死への道がやってくるかもしれない。怖くはなかった。

「俺は軍人だ。とうとうやって来た」そう覚悟を決めた。しかし何故か腹が立った。教育部隊として山口県の三田尻で働いていた時、移動が決った。まだ結婚して僅か一年である。妻は三田尻の官舎に置いたままでいる。すぐ帰れるだろうと上官は言ったはずだ。それがいきなりの特攻隊編入である。戦争が始まり香港湾攻略に参加した時、オーストラリア兵が湾に沢山浮かんでいるのを、流石日本海軍、無敵なんだと誇らしく思い、いつかはアメリカの一州を統治することになるんだと、皆で話し合ったものだ。風向きが変ったのはミッドウェーで日本海軍が敗けたようだと噂が立ってからだ。まさかと思ったが、何か軍の動きがおかしかった。敗け知らずの零戦が空中戦で負けることが多くなった。
 アメリカは次々と新鋭機を出して来るのに比べ日本は開戦当時の零戦に頼ったままだ。攻めに行っても必ず敵が待ち受けている。暗号が解読されているのではないか、そんな噂が囁かれるようになった。通信兵の一夫には、それが何を意味するか、手に取るように分った。自らの敵は、逆に自らにある。来る所が分れば、先回りして、そこで待てばよい。秘密を自らばらすようなものである。事実、海戦でもいつも敵の動きが早くなった。山本提督が敵機に落とされてすべてが顕著になっていった。長官も待ち受けされていたような気がした。負け将棋のように段々、戦力を奪われてゆく。
 特攻が始まり、他に手はないのかと皆が疑問を感じるようになってから空襲が始まり、次々日本の都市が爆撃されるようになった。飛行場や軍事工場も爆撃を受けた。霞ヶ浦に居る時、防空壕が直撃され、多くの少年兵が死んだ。なんとも悲惨な姿だった。手や足が飛び散り、内臓までも四散していた。いかにも日本の崩れゆく様を象徴していると思った。怒りが込み上げて来た。敵に対する憎しみと、祖国に対する不信、両方が相まって、その夜は飯も通らなかった。
 妻の美代子は、夫が単身赴任すると、名古屋の姉好子の所へ一旦身を寄せた。二十年五月半の事だった。名古屋も空襲が多くなり、姉は故郷である一宮の千秋町へ疎開していった、そこへ、爆撃された。焼夷弾が雨霰と落ちる夜、怖くなり、自分も千秋へ向かった。丁度、名古屋城が燃えた日だった。みごとな炎だった。姉の家も焼夷弾を防ぐ方がなく、燃えきった。美代子にはどうしようもなかった。辺り一面火が付いた。どうやって逃げたのか記憶にない程だ。 庄内川を渡る頃、北東の方を見ると鮮やかに城が燃えているのがその方向に見えた。やっとのことで千秋へとたどり着く事が出来た。たった一日の出来事が、煙と炎の間に霞のようにかすんだ夢の出来事だった。城の横に連隊本部があり、狙われたのだろう。姉の家が燃えたのも名古屋駅から五百㍍程の位置にあり、やはり駅が狙われたのだろう。
 千秋に居た姉は家が燃えた事を知ると、逆上し美代子に兵隊の嫁が守れんかったのかとあたんしてきた。美代子にはなすすべがないことも分かっていたが、姉は夫が満州へ兵隊に取られ留守を預かる身として責任を感じていたようだ。姉の好子とは八才違うが、今までいろいろ美代子は世話になった。初めての結婚は歯科医師に見そめられ十八才で嫁いだが、その夫も病弱でわずか二年も経たぬ間に教連の軍事訓練で粟粒結核に倒れ一年程で世を去った。
 二人の子を残して。若過ぎる美代子にはどうする術もなかった。その時も姉の好子が骨を折り、妹の為に尽くした。一夫とは、死んだ夫の弟ということもあり、再婚してはどうかと話があり、軍人ということで又死ぬかもしれぬと反対もあったが、二人の子持ちになかなか相手もなく、止むなく美代子は決断した。新婚ということもあり、子供達は両方とも各々、夫の里と美代子の里へ里子に出された。婚礼はごく粗末に三田尻の官舎の中で十人足らずで行なわれた。戦時中でもあり、水筒の酒で三々九度の盃を交わした。料理も同僚の教官の妻が用意した簡単なものであった。
 一夫はその頃海外勤務を終り、新兵の頃成績が良く恩賜の銀時計を賜わっているので階級章にも八重桜がついており、帰るとすぐ教育部隊に回された。
 一夫は海軍軍人としては恵まれていた。戦況が傾き負け戦が続くまでは、特に香港湾時代、指揮部付きとしてイギリス商館の豪奢な邸宅を占居し優雅な生活を送っている頃には、地元の娘とデイトしたこともあったし、彼女と初恋を味わったこと等、日本海軍の兵士は当時、地元には人気があったし、モテもした。戦争は勝っている間はチヤホヤされるが、一端下り坂になると、すべてが悪い方向に行く。人心も離れてゆく。裏表がはっきりしている。一夫は勝ち戦さの時は、海外に居て、戦況が変わる昭和十八年に帰国し教育部隊に配属された。国内では食糧不足になっている中、軍隊で飢える事はなかった。生徒の親から付け届けがあったし、むしろ裕福と云えた。缶ミルクやビール等も容易に手に入ったし、嗜好品も不自由はなかった。ただ転属してからは顔がきかず、余り今まで通りとはいかなかった。妻が空襲に合った事や名古屋が焼けた事もすぐ知らされた。美代子が無事で千秋へ疎開したことを知り安堵の胸をなで下した。
 そんな頃同じく航空隊もよく空襲を受けた。日本中、何処も逃げ場所がない状況だった。槍衾という言葉の通りアメリカは日本を徹底的に打ちのめした。物量にもの言わせるアメリカ流のやり方で、とうとう原爆という大量破壊兵器まで開発し、日本を追い込んだ。ソ連も参戦し満州からカラフトまで数日間で占領した。もう次は北海道である。航空兵力もほとんどないのに日本は守らねばならない。もう特攻しかなかった。そんな時一夫は、特攻隊編入を命ぜられ千歳へと向った。幸いに日本が降服を決断した日が八月十四日であり、玉音放送で十五日に国民に知らされることとなり、千歳へ向かう列車の中で一夫は終戦を知った。一端航空隊へ着任し残務整理にあたった。武装解除と書類の焼却である。
 片方で進駐して来た陽気なアメリカ兵がプールで水浴びする様を見ながらの仕事である。一月ほど仕事をした後、海軍を放り出された。失業である。退職金も何ももらえず放り出されるのである。日本が倒産したことは、一時に兵役に付いていた六百万人以上の失業者を生み出した。皆、どうやってでも食って行かねばならない。乞食になったのだからすべてが無から始めることとなった。一夫は一端故郷の父母の下へと帰り美代子を呼び寄せた。農家のスタートである。子供の頃から慣れ親しんでいるので、米作りは別に問題はなかった。ただし美代子には慣れた仕事ではなかった。前夫の残した二人の子供は戦時中、疫痢にかかり死んでしまっていた。二人とも朝元気だったのに夜熱を出し一晩で逝ってしまうという慌ただしさだった。
 終戦の翌年に長女が生まれ、三年後に長男が生まれた。その間、美代子は農家の嫁に居たたまれず生まれた赤子を連れ名古屋へ逃げ出した。その頃は姉の家も粗末ながら再建しており、そこへ身を寄せた。一夫は仕方なく故郷を捨て父母を置いて美代子を追った。収入の道がないので、義姉と相談、古着商の行商をすることになった。当時、収入の道を断たれた多くの家庭が、着物や金めのものを売ることで何んとか一日の米代にしていた。新製品はまだ出まわっておらず、古物が主流で流通していた。二人は近郊の農家に行商して歩き何んとか銭やら米、野菜を手に入れることが出来た。しかし二年程で新しい品物が流通するようになり、古物の値段が付かなくなった。
 次に何をやるか、二人には思い浮かばなかった。ただ古着仲間達がよく噂している、行商の時、地方から来る行商達が旅館を利用する名古屋駅前の香取旅館のことをよく耳にした。毎日ほぼ満員でよく儲かっていると噂していた。夫婦は旅館をやろうと思い立ちすぐ義姉に相談した。義姉の好子は、それじゃあと言って駅裏の四十坪の土地を売ってくれた。一夫はそこに小さな旅館を建てることにした。材木は、郷土からトラックで運んで来た。トラックは役場のを無料で拝借した。役所も大雑把な世の中である。大工は、昔気質の小森に頼んだ。こうして昭和二十五年の春、完成させることが出来た。二番目に出来た息子の政志は赤子だったが、現場近くでむしろを敷き遊ばせておいた。四畳半の部屋であったが、八部屋の小さな宿屋が出来た。二階が五室の客室で一階に帳場と自宅、三部屋の客室を設けた。二階の東側の窓から焼跡が広がっていた。昭和三十年代に入ると再建された城が見えた。回りは焼跡だらけで風呂の跡とみられる洋風のタイルが残っていた。所どころに焼夷弾が落ちており、爆撃のすさまじさを思わせた。焼夷弾は缶詰状のものと筒状の二種類あった。半年遅れで隣に宿屋が出来、商売を競うようになった。隣の女将は娼婦あがりで、運転手をしていた愛人と住むようになった。一夫の宿には時々、部屋を借りに来ていた。いろんな男と情を交わす為である。一夫には、逆境の中で暮して来たのであろうと推測出来た。
 初め、商いはとても順調とは言えなかった。二人は素人で客にろくに挨拶も出来なかったから。行商の客の中には、一時の快楽を楽しむカップルもいた。その頃、名古屋駅裏には国鉄の用地に朝鮮半島の人達や戦争で放り出された各種の人々が巣くうようになり巨大なマーケットとバラックの住居で生活するようになった。闇市ではなんでも商いされていた。生活必需品、衣服、食糧、宝石類等々、簡易宿舎も乱立し、休憩三百円宿泊千円、娼婦はちょっと間千円、泊り三千円で売られていた。女達は二㍍おきに立ち夏はシュミーズだけの姿で立ちんぼうしていた。まさしく女の樹木、不思議な樹海だった。美代子の姉の好子は、夫がシベリアへ抑留され、マーケットで引き揚げ者用の甘酒の屋台を開いた。兄の平吉は魚屋で仕事したことがあり鰻を扱い羽振りが良かった。本来平吉は趣味人で芸者遊びも好きだったが、中村遊郭にも足しげく通うようになった。駅裏にまたたく間に出来た部落には二、三万人の町が出来た。今で言うスラム街である。岐阜や三重県からは、物資を求め一日何千人もの買い出しがやって来た。 彼等は一日の安宿を探した。一夫の宿にはそういった客が来たのである。駅裏の活気はこうして生まれた。混沌で無秩序なうごめき、何んでもありだが、何かが一つの方向に流れているという途方もない生活の息吹、敗戦が生み出した闇、とてつもないエネルギーを持った暗黒星雲のと同種の爆発のような巨大な力の放出、莫大な魅力を持った駅裏、とても清潔とは言い難い街、千人に近い娼婦達の発する吐息、嗚咽、そんな中にも新しい社会の流行がやって来る。パチンコ屋の開店、薬の安売り屋の出発、薬の一括仕入れと大量販売、地方から沢山買いに来る人の群れ、豚の臓物を売るとんちゃん屋が数軒出来、どぶろくも売り始めた。屋台では串に刺したもつ煮が流行り、安酒と共に客が口にし、へべれけになった。酔うとたいがいは軍歌を歌い出し、皆、相の手を打った。喧嘩も多く、何かと些細な事で腹を立て、衝突や殴打が絶え間なかった。たまには人情沙汰もあり、博徒のピストル乱射もあった。こんな中にも力が強い者が現れ、力関係が出来るようになった。ある者は親分となり子分を持った。朝鮮半島から来た人達にも上下が出来た。勿論、半島の人達は儒教に従い男女、年齢によって上下関係が厳しかった。

 一夫夫婦の宿は、予想より流行らなかった。二人とも素人である。一夫は軍人上り、武家の商法、美代子は奥様育ち、商売の機微を知るのに数年要した。隣の宿が女の子達、つまり娼婦を置くようになり、流行った。夫婦は真似をすることとなった。女の子は割と容易に集った。それだけ食えない娘達が多くいたのだ。夫婦は三食を約束した。おかしな家庭が始った。一夫は、軍隊で覚えた生活がなにかと役に立った。当時は風呂もマキで沸していた。マキ割りと釜炊きも重要な仕事だった。炊事や洗濯もお手のもの、夫婦でよく働いた。掃除もお茶のダシガラを使い、廊下はピカピカだった。各室にハタキでホコリを落し、フトンはより陽に当て出来るだけ快適にした。基本が大切と、小まめに働いた。当時は、知多方面から行商に来る魚屋がおり、わたり蟹の色彩が良く大きなのを運んで来た。いろんな魚もおり、氷で冷やす冷蔵庫を買い、そこで鮮度を保った。わたり蟹の蒸したものは身が沢山あり、極上だった。
 軍傷者の行商は腕が一本なかった。それでも重い荷物を持ち名鉄電車でやって来た。美代子は口がこえていて、食べる物には目がなかった。夫婦は魚屋の贔屓となった。食卓は全員が一緒だった。夫婦が上座に座り、あとは各々だった。赤だしは名古屋の濃い赤だし、味も辛く濃厚だった。御飯は純米、真白で新米は、それだけで食べることが出来た。子供も食卓を同じくした。にぎやかな方が食が良くはずんだ。娘は、シィさん、青森出で十三歳の時売られ、郭を点々とし、一夫の処へやって来た。のぶ子は、陽気な娘、米兵好きで、ジャズに凝っていた。 疱瘡跡のあるセツ子は瀬戸の出身でどうも韓国籍のようだ。帰郷すると、猫の肉の佃煮を持って来ることがあった。他にそろさんレイ子、マリ子等がいた。それぞれ馴染みの客が居て、のぶ子には米兵の客がいた。彼はジープで乗り着け、しばらく電蓄から流れるジャズでチークダンスを楽しんだ後、のぶ子と戯れた。いつもチョコレートやガムやいろんな菓子を持って来てくれた。米軍は物資が豊富で、美代子の姪で米軍の病院に勤めるキヌ叔母さんも、何でも持って来てくれた。夜やって来ると病院から盗んで来たペニシリンを娘の性病よけにお尻に注射を打っていた。まだ珍しいダンボールに入ったアイスクリームさえくれた。いちご味のを政志は一番好きだった。幻灯機も借りて来てアメリカの映画を見せてもらった。一夫は氷とミルクでアイスクリームを作ったが、アメリカから来る本物のような風には出来なかった。
 政志は、のぶ子に広小路へ連れて行ってもらった。広小路は栄えており、広小路をブラブラするのが流行り広ブラと言われた。広小路には米軍の指令部があり、のぶ子の愛人の黒人兵が仕事をしていたので挨拶に行ったのだ。戦前は銀行だったが、進駐軍が接収し使っていた。広小路には竹カゴを背負いクズ拾い用の竹のハサミで拾い上げる。煙草の吸い殻を集めるシケモク拾いの人が何人かいた。くわえ煙草をする人が多く、平気で吸い殻を捨てる人が多く、シケモク拾いは集めて煙草を巻き直してつくり売る商売だった。のぶ子と兵士は政志を観光ホテルへ連れて行ってくれた。
 観光ホテルは米軍兵が多く利用しておりレストランでジュースとビーフシチューを御馳走してもらった。初めての洋食に政志は驚いた。米兵のジミーは伍長で優しかった。帰りは二人をジープで家まで送ってくれた。その後も広小路へは何度か父母に着いて行った。タクシーで一夫は乗り着け、中華料理を食べに行った。タクシーから降りる時は必ず高額のチップを渡した。チップがその頃は常識だった。広小路は名古屋の中でもオシャレな町で広ブラが流行した。東京の銀座を真似して銀ブラならず広ブラなのである。広小路には映画館が出来キャバレーも何軒か出来た。ダンス場も出来社交ダンスが流行した。一夫と美代子も夜な夜な練習によく出掛けた。タップも一般になり、日常までタップシューズを履く者まで居た。アメリカの文化が街に溢れた。映画館は客が溢れ、通路まで一杯だった。キャバレーは一時の陶酔を求める男で鈴なり、とにかく陽気な日本人は、戦争など忘れたように新しい文化に走った。自由も溢れていた。とかく何かと縛られていた戦時中、時を失った反動は大きく、娯楽に皆夢中だった。勤勉な国民性は唯仕事から良く働き良く遊ぶ、そんな風に変った。

 政志は父母に名古屋城に連れて行ってもらった。焼跡は広っぱになっており、何もなかった。鹿だけがお堀におり、印象的だった。名古屋の都市計画が始った。広漠とした焼の原に十字に百メートル道路を造り火災の広がりを防ぐというのだ。道路は何処も広く取り次の世代のものだ。名古屋的関所はなくなり、碁盤の目のように計画された。整然とした町づくりは逆に人間味を奪ったかもしれない。空襲がなかったらあんなに容易に町づくりは出来なかっただろう。昭和三十年代になると、顕著に町づくりが加速した。出来た百メートル通の上に一端進駐軍のキャンプが出来、カマボコハウスが並んだ。至る所にあった墓地も平和公園に集められ広大な墓地が完成した。

 一夫と美代子は旧い名古屋が好きだった。よく円頓寺や大須へ足を運んだ。円頓寺は終戦前のにぎわいを残しており、円頓寺の七夕祭りに政志は着いて行った。叔母の家の隣は芸者置屋でいつも三味線の音がしていた。色町は他にあった。中村遊郭も盛んで名古屋駅から商店街が中村大門まで続いた。名古屋の盛り場はこうして再び勢をもどしていった。ほとんどビルは残っていなかった。広小路にあった銀行、証券会社の燃え残りのビルだけが残っていた。納屋橋には屋台村が出来、にぎやかになった。簡易の屋台は、すぐ用意出き店を焼失した多くの飲食店が参加することが出来た。一夫の家の辺りには支那ソバの屋台が毎夜やって来てラッパを鳴らし夜鳴きソバと云われ、哀愁をこめた音を響かせた。一夫の宿の人達も客と共に愛好した。再び名古屋は活気を帯びた街になっていった。
 政志が五才位になる頃には、三十坪程買い足し離れの四室を増やした。一夫夫婦は商売にも慣れて来た。客は輪タクと呼ばれる自転車に簡単な客席をつけた人力車でやって来た。輪タクは当時車の余りない日本にとっては便利な乗り物だった。タクシーの多くは三ナンバーの外車の古が多く三マンと呼ばれていた。故障も多くエンジントラブルは常日頃だった。
 子供達は、ガキ大将を中心に集るようになった。地域でも年長の子供がガキ大将となり遊んだ。遊びは、缶けり、竹馬、缶で馬をつくった簡易の道具、二つの缶を綱で繋ぎ首から吊ったものや、隠れんぼ、カゴの中の鳥、かあごめかごめ、かごの中の鳥はいついついある、あの子が欲しい交換しましょ、そう言いながら二組に分かれ、一人づつ取り合う簡単な遊び等をやった。神社の楠の木の巨木に登り巣のような家を作り遊ぶのも流行した。
コマ回しを男の子はやった。喧嘩ゴマと言ってコマを回し勢いのある方が勝ち駒を取り合う遊びは面白かった。正月にはタコ上げや百人一首の坊主めくり、ハゴ板をやった。その頃には玩具も流通するようになっていた。仲間はそれぞれ呼ぶ時に愛称で呼び合った。政志ならマー坊、照夫ならテー坊、そんな具合に、地域にはベビーブームで沢山子供が群れていた。
 何かと集り集団となった。いい事も悪い事もすぐ流行した。広場には子供が集まり自転車で紙芝居のおじさんも毎日来たし、時には鈴虫やキリギリスを売りに来る人もいた。昆虫は共食いが多くオリの中で食い合っていた。正月には商売屋には三河漫才がやって来て簡単な獅子舞をやって小遣いをもらった。簡単な鼓で調子を取り三番叟などを歌った。ふし回しが独特で各店を祝って歩いた。一日で相当回るようだった。美代子は何かと縁起を担いだ。夜蜘蛛も殺しちゃ駄目だとか、坊主が来るとその日はまるきし客がないだとか、客商売の浮き沈みばかり気にしていた。煙草の火は他人の煙草に着けちゃ駄目と言って縁起を担いだ。
一夫が故郷へ帰るのもしばしばだった。故郷はタクシーか、国鉄バスを利用した。故郷の家には池があり鯉が泳いでいたが、水かまきりや源五郎と言った水中生物が居た。お爺さんはいつも兎をつぶして五目飯を作るのが風習で残った肉の内臓やらを鯉が池でついばんでいた。横に水車小屋があり水が回るかろやかな音を響かせていた。
 その祖父母が、中風で倒れ、名古屋へ来ることになった。もうすぐ政志が小学校へ入学する頃だった。幼稚園は、お寺の隣にあった。お寺の裏に墓があり、代々の坊主が眠っていた。
まだその頃は田舎の風情が残っており、虫も沢山居た。玉虫の居る木があったり、夏には、にいにい蝉の次に油蝉、たまには熊蝉もいた。くすさんと呼ばれる巨大な蛾が飛んで来たり紙切虫の各種、神社には揚羽蝶の各種特に青筋揚羽がよく飛んでいた。政志は虫取りに出掛けた。父の故郷はもっと条件が良かった。蛍は六月イルミネーションで稲穂を飾ったし六月から七月に移ると源氏蛍から平家蛍へと変わり、余計鮮やかに田んぼを照らした。夏はひぐらしがカラカラと鳴き秋はとんぼが飛んだ。赤蜻蛉は、種類が多く、稲穂に紋の入った羽根を止まらせた。真紅のも居たり、豊富だった。塩辛とんぼや鬼やんま、銀やんまは池に卵を産みつけた。 特に鬼やんまは、優美で直線を描き飛んだ。折り返す所も決めており航路が決っているようだった。一夫の故郷と美代子の故郷では昆虫の種類がまるで違った。美代子の郷里の千秋では甲虫が沢山居た。蚊帳の中まで飛んで来た。くわがたは余りなく、甲虫が大量に繁殖した。寺の竹林を揺すると、ばたばたと落ちて来た。勝栗のお尚さんが土産として持って来るのは甲虫だった。ただ一度、電車の中で逃げ出したのは大変だったようだ。お尚はお盆にやって来た。
ただ伊勢湾台風で土壌が浚われたのか生態系がそれ以後変わってしまった。早朝起き出すと、従兄のヒロサと蝉を見に行った。さなぎから生まれ変わる脱皮は美しかった。美代子の里では、愛称にさを付けた。広夫ならヒロサ、幸夫ならユキサと言った具合に、小さな小川に入り雷魚漁りも楽しみの一つだった。
 一夫は中風になった父母の為に土地を買い足し隠居屋を建てた。小さかったが窓が沢山あるいい家だった。そこへ政志と姉が同居することになった。お爺さんは、ハンサムで田舎の光源氏と仇名された。お婆さんは、色白で明治生まれとしては巨漢だった。朝から二人ともきざみ煙草が欠かせなかった。二人とも養子で十六才の時結婚し、十四人の子をもうけた。半分は五才までに死んでしまった。美代子の最初の夫が長男で一夫は次男だった。長女は既に三菱系の男に嫁いでおり孫は幾つか自分の子より年長だった。三菱系に勤める小出八十一は、苦労して英語を学び香湾で出世した苦労人だった。当時は三菱石油に勤めていた。
 祖父母が名古屋へやって来ると三文菓子屋をやると言って玄関の脇を改装し小さな駄菓子屋を始めた。万引が多く、年寄は動作が緩慢なのをいいことに子供はすばやく万引し防げなかった。とても収入にはなり得なかった。宿屋の方は順調だったが、もう一年で売春禁止法が発行することになり、一夫は決断し娘達に一年部屋を貸すことにした。娘達に勝手に商売しろということである。菓子屋は一夫と美代子がやることになった。パンも置くことになり敷島パンを置きたかったが、駄目で二流のパン屋に頼むことにした。お好み焼や焼ソバも始め大きな鉄板を買った。夏はかき氷をした。味にこる一夫は熱心に研究し、辺で一番おいしい店にした。氷も何種類も考えた。砂糖は高価なので、サッカリンという糖分を使い、イチゴや、ミカン等のシロップを作った。氷あずきや、その上に練乳をかけたもの等、旨さは格別だった。駄菓子は西区の新道へ仕入れに行った。ごつい運搬用の自転車に乗せてもらい政志はよく同行した。いろんな問屋があった。籤付きのものオモチャのおまけ付きのもの、夜店用の香具師が扱うもの等、何でも売っていた。万引は少なくなり店も良く客が来るようになった。

 シベリア抑留も終り叔母の好子の下へ夫の和夫が帰って来た。シベリアで知ったのか朝鮮で戦争が始まる事を知り、帰国するとすぐ様鉄くず屋を始めた。金属を集め解かし棒状にして売るのである。回りから労務者を集めちょっとしたバタ屋部落をつくった。市の持つ空地を利用し、またたく間に作った。トタン屋根と簡単な柱、畳はなくゴザを引き入口は、布一枚、葵車に住む住人も居た。スラムと言えばスラム、バタ屋と言えばバタ屋、それでも和夫にとってはシベリアよりましな生活が存在した。本当に戦争が、半島で起こった。バタ屋部落が出来てすぐの事である。和夫の故郷の奈良の桜井から親類を集め手伝わした。昇ニイ(昇兄ちゃん)やら旭兄ちゃん等である。和夫と好子には子がなく、養子として男の子をもらって来た。照夫ことテエ坊は悪戯な子供だった。好子が溺愛した為そう育ったのだろう。
 好子には兄が一人女姉妹が六人いて、二番目に遅い子だった。それぞれ姉達は嫁いでおり、兄だけは、愛人を囲いどちらかと言えば田舎芸術家というか、遊び人(良く言えば遊民)だった。自らは俳号無銭を名乗り俳句集に投稿等していた。政志が知る頃は好子が金を出し近くで麻雀屋を開いていた。ひばり荘という名の店で現実にひばりを飼い良い鳴き声がするよう大事に育てていた。竹ひごを買い込み器用に鳥小屋を手造りした。幾つも鳥カゴが外にかけられて良い鳴き声を披露していた。兄妹の中では、威張っており怒ると三角に目を光らせるので三角さんと呼ばれていた。政志の小遣い稼ぎは、ひばりの餌に公園の生け垣に巣くう地蜘蛛を捕って来ることだ。地面に入った袋状の巣は破れ易く抜き取るのが難しかった。袋の中には一匹愛嬌のある小さな赤茶色の蜘蛛が居た。ひばりにやると旨そうについばんだ。駄賃にはいつも五拾円もらった。当時としては大金だった。叔父の平吉は他にもいろんな所へ政志を連れて行った。庄内川に釣ざおを持って自転車で政志を後に乗せて行った。舟釣と岸釣があり、鰻を沢山釣った。魚籠も鰻を捕る竹で作った。鰻の魚籠も手造りだった。早朝その魚籠を川の中に置いて、夕方捕りに行くのである。その時は船頭の居る小舟を利用した。庄内川には渡し舟もあり、風情のある時代だった。さおで釣るのも良く釣れた。叔父は良く鰻の習性を知っており、幾匹も捕れた。鰻をつかむのが政志の仕事である。ぬるぬるの身は、すぐ政志の手をすり抜けた。その姿を見るのが平吉は楽しそうだった。ある時はひばりを捕まえに畑へ行った。綱で捕まえるのである。平吉はよくひばりの巣がある場所を知っており、うまく雲雀を捕まえた。捕まえると手造りの籠に入れ、鳴かした。根気の要る作業だった。日頃短気の平吉は、そんな時は全く違った。又ある時は蝗を捕りに行った。袋を作り入口に竹で筒を付けて逃げられない形にした。蝗はいくらでも捕れた。捕って帰ると佃煮にして食べた。その時は政志の姉の里美も一緒だった。
 姉はチャーとかチャー坊と呼ばれていた。政志が幼い頃、里美と呼べず、チャーとだけ呼んだのでその愛称になった。里美は目が大きく可愛いらしく祖父母が大事にしていた。里美はラジオから聞こえる浪曲や、なにわ節を聞き覚え真似して祖父母に聞かせるので特に可愛がられた。それに比べ政志は無口で余り愛されていなかった。政志と里美は隠居家の方に同居していた。造りつけの二段ベッドの上に里美が、下に政志が寝、和室に祖父母が寝起きし、窓際に広い勉強の為の台が造りつけであり南側で明るかった。二階は一間だけだが十畳あり、やはり明るかった。家の外に十坪程の庭があり祖父の牛太郎がいろんな木を植えた。桜の木を植えたのが一番嬉しかった。農家は一反三百坪の敷地が標準なので町とは違ったが、町では坪庭が一般なので、牛太郎はそれで満足した。テレビはまだ普及しておらずラジオが普通の伝達手段だった。歌謡曲も流れたがやはり浪花節や広沢虎造の浪曲の方が多かった。

 美代子は映画好き芝居好きで、よく観劇を楽しんだ。御園座へ政志もよくお供をした。歌舞伎も政志には興味が湧いた。特に八百お七がはしごを登っていく姿や勧進帳の弁慶と富樫の場面は印象に残った。八百お七は人形浄瑠璃で黒子が後で役者を操る真似をする所、勧進帳では弁慶が義経を杖で幾つも打ち叩く所等いつまでも目に残った。舞台の横の部屋から流れる曲や拍子木の音が面白かった。御園座も古いままで焼失前だった。
 こうして政志は多くの人に可愛がられ育っていった。一年の幼稚園を終り小学校へ入ることになった。今は三校合併しほのか小学校になったが以前は則武小学校と言い八十年以上続く名門校だった。校舎は木造で二階建て空襲にも会わず昔の通だった。街の形も戦争前と変わらず、古めかしかった。各区ごとに分団をつくり、一斉登校した。子供が多く、各部屋ごとに六十名で八―九クラスあった。一年で五百人のマンモス校だった。戦後のベビーブームの只中で、政志の年を含め二十三年生れが一番多いのだ。遠足もバスを連ね行かねばならない。とにかく冬は寒かった。足袋を二重に履き鼻水をたらたら流し一張羅の服をテカテカにして通った。ストーブが一つ、コークスを炊き、その当番もクラスで任命された。ストーブの前に皆群がった。毎昼の給食当番も任命され、給食室まで取りに行かねばならなかった。それでも昼食は楽しかった。見たこともない物が出される事が多かったから。脱脂粉乳のミルクは進駐軍から寄附され、毎昼出た。脂の抜かれた乳は独特の味がした。それと食パン。たまに異物が混入し、衛生的とは言い難かった。蠅が入っていることもあった。先生に訴えても、一語「そうか」と言ったきりだった。パンにレイズンが入る時も、進駐軍からのプレゼントと言われた。 肉は決って鯨肉でとても固かった。その頃は鯨が漁の主流でノルウェーと一―二を競っていた。鯨は捨てる所が何処もなく、皮やヒゲも利用された。鯨を打つキャッチャーボートの射手が男の最高の仕事ともてはやされた。何十トンもある、巨体を解体するのも今では外国人に残忍と指摘されるようだが華やかな仕事と言われた。かつてはアメリカも船団を率い日本近海まで鯨を捕りに来て、その鯨油を使い産業革命をしたのに、まるっきり変心して日本を悪く言う。鯨油から石炭へそして石油へ、資源は変った。政志の子供時代はそんな時代の激変にあった。
 北の方では、にしん漁が盛んだったが、漁獲漁が急になくなり、獲れる魚も変って言った。
 世界は核時代に入り、フランスや印度、英国等が核実験に走るようになった。ソ連は短波放送で共産主義の宣伝に終始した。又戦争が始まるような不安が誰それとなくあった。日本はアメリカにおんぶにだっこの状態だった。
 そんな時、起こるべくして朝鮮戦争が起きた。政志は覚えている。ある夜のぶ子の愛人の黒人兵のヤンキー、ジミーが「明日、又戦争に参加する命令が来た」と、泣きながら一夫や美代子に話しているのを。
 朝鮮戦争は始め中国軍が百万人規模で参加し同じ共産国の北朝鮮を助けた事から韓国軍は京城を占領され、国土の八十パーセント以上奪われてしまった。そこでアメリカのマッカーサー司令長官が陣頭で指揮を取り仁清上陸作戦に自ら出向いた。激戦だったが劣勝を挽回した韓国軍は中国軍を破り押しもどした。一端、南北境界線を決め休戦した。一夫の同期の海軍軍人も呼び出され、参加した。公式には知られてないが仁清辺の海図を知る元日本海軍兵は参加したようだ。日本は再軍備をアメリカに要求されたが、時の吉田茂総理が断りかわりに警察予備隊を結成した。極東は危うい状態だった。いつ戦争の火が起こってもいい状況だった。

 シベリアから帰って鉄屑屋を始めた和夫は急にいそがしくなった。鉄や銅が高騰し和夫の商売はいそがしくなった。子供達は大きな磁石を持ちぶら下げて歩いた。道にも何処にでも鉄の粉は落ちていて、磁石にくっついた。一日集めると和夫の店が十円か二十円で買ってくれた。分銅器で図られ一モンメ幾らで商いされた。そのうち大人まで乗り出し鉄泥棒まで出始めた。電信棒に二人で一本づつ登り両方から電線を切断してしまうことまで横行するようになった。電線はドラム缶で焼きバレないように上から古タイヤで隠した。銅が解けてそれを棒にし売るのである。いろんなものが持ち込まれた。戦前の警察官が持っていたサーベルも多く持って来られた。政志も焼跡に磁石を持っていったが、ある時缶詰状のものを探し出し鉄屑屋に持って行った。中にまだ火薬が残っていた。ノボ兄はそれを見つけると、「こりゃいかんわ、焼夷弾だがや、まだ火薬も入っとるわ、まぁええわ、これやるわ」と言って、小遣の五十円を政志に渡した。五十円は大金だった。当時の小遣は一日十円が相場だったから。その十円に目の色を変える、それが日本の状況だった。何年か前まで欲しがりません勝つまではとスローガンを口にしていた国民が皆、あさましい姿に化した。隣国の戦争はこれ幸いと金儲けに走った。

 小学校に通うようになった政志は、内気な子だったが、怒るとガンとして動かない頑固な一面を持った子供だった。講堂は平屋で余り大きくなく二千人の生徒を収容するには十分な広さとは言い難かった。何かの折、政志はむくれ講堂に行くのを嫌がった事があった。問題を起こすとすぐ姉の里美が説得に呼び出された。
政志は姉の言うことは必ず聞き、言う事を聞いたから。里美は体の弱い美代子にかわって政志の面倒をよく見ていた。勉強用具の点検や朝食の世話も良くした。
 小学校一―二年生の時、余り生徒が急に増えるものだから、二部制が取られた。時間差登校である。朝登校せず午後から登校し授業を受けた。教室が不足していたのである。戦後のベビーブームはすさまじく巨大な市場を生んだ。その年代が時代を牽引して行くことになる。又その事は競争社会の幕開けでもあった。生まれた時から何事も比べられ、ふるい落とされる。ブームを巻き起こす年代でもあった。揺り籠から墓場まで、いつもその世代が時代を造り出してゆく。
 小学校からパン食が出され、米に代った。アメリカの政策だったのかもしれない。パンに肉、そしてコカコーラ、コーヒー、いずれも巨大なアメリカという生産国があった。食べるものから欧米化が始った。昼食にマカロニ、カレーが出され、もの珍しく皆食べた。カレーは特に子供に人気だった。家庭の食事のメニューに加わり通常化した。小麦も肉もアメリカから買わねばならないように組み入れられた。白いシチューのメニューもあった。プレゼントし、それに馴染ませ、浸透させてゆく。それは、キリスト教の布教と同じ方法だった。アメリカという戦勝国は何でも出来、巧妙にやってのけた。
 薬も同じだった。アメリカの製薬会社は多くの薬を開発し日本に与え、その効果を知らしめた。日本は結核の多い国だった。戦後すぐは死亡のトップはいつも結核だった。小学校からツベルクリンを注射の回し使いで打たれた。肝油を多くの児童が学校で出された。
 戦後しらみが多く発生し日本人を悩ませた。ある時、政志の学校も全員、運動場に呼び出され皆で立っている所にセスナが飛んで出て、DDTを散布した。頭から浴びた、そんな事が平気で行なわれた。
 政志の小学校時代は、そうして始まった。
新しい物が始まった。テレビである。政志が一年の時、家庭に入って来た。初めは税務署が目をつけるかもしれないと、用心して隠れ隠れして、隠居場でこっそり見た。初めはNHKだけの、それも日に二―三時間しか放映してないという一元放送だった。内容は私の秘密、ジェスチャー、相撲にプロレス、ボクシングと内容は少なかった。私の秘密は高橋圭三アナが担当し、人気があった。政志は日露戦争の旅巡港閉鎖作戦に参加した。杉野兵曹長が出演し広瀬中佐を忍んで涙したのを覚えている。プロレスは相撲界からプロレスにかわり大活躍した力道山に人気は集中した。次から次へと対決するアメリカのプロレスラーが空手チョップで形勢逆転するのを、敗戦国日本人はこ気味良く見た。ボクシングは海老原が紙ソリパンチと言われ人気があった。こうしてテレビは庶民に浸透していった。各家庭で買えないので風呂屋とか、飲食店とか客寄せに必要で持つ所に皆集った。家庭で持っている家は近所の人が集った。近所づき合いの多い時代でもあった。街頭テレビも各処にあって人を集めた。こうしてテレビは各家庭に入り込み段々映画館より人気になっていった。国民的人気の出る番組も出て来た。「君の名は」等は視聴率を集め、井戸端会議の話題を独占した。テレビの次は冷蔵庫、又その次は洗濯機と次から次へと電器製品が各家庭に入り込んで行った。美代子も洗濯は盥に洗濯板だった。女性には厳しい作業が、洗濯機と後に出た乾燥機は便利で非常に重宝した。洗濯は宿屋にとっては重労働だったのである。
 掃除、洗濯は、宿屋の大切な仕事だった。たとえどんなにオンボロでも清潔さが保たれていればいい。暖房設備がない時代、冬は各部屋に火鉢を入れた。帳場には火鉢、酒の燗がうまく出来た。寝る時は湯たんぽかアンカをフトンに入れた。アンカは便利だった。湯たんぽのように火傷をすることなく、炭一つでいつまでも暖かかった。七輪で起こす火も大切だった。その上で色々料理することが出来た。あられは美代子の里から送られた餅を小さく平らにしたもので、それを特殊な焼く道具を使うと膨らんで食べることが出来た。他に焼き餅や時には一夫の村から送ってくる鶫を焼いて食べた。鶫は渡り鳥で禁漁だが村辺の人はカスミ網で捕まえた鳥を平気で食べた。山村の風習として冬に蛋白源として蜂の幼虫や蝗等を食べる。へぼは蜂の幼虫で蛹も入っており食べると香ばしかった。地蜂を飼う習慣もあり、女王蜂を捕まえ、巣を創らせるのだが、肉の一片を糸につけ女王蜂が取って飛ぶのを追っ駆けるのも山中歩かねばならず大きな作業だった。
 土地土地でいろんな習慣があり、とんでもないと思うものをその地の人は口にする。名古屋では十月の秋祭の時、決って箱寿司を作ったが、その時は決って小さな魚もろこを使いもろこ寿司を作った。あれも蛋白が不足しがちな冬に向っての食物だったろう。箱寿司は家々の個性が入り色々な絵が出来た。名古屋文化の一つと言えるだろう。

 一夫の宿に間借りした娘達も一年の約束を過ぎそれぞれの道を歩かねばならなかった。ジミーの愛人ののぶ子は朝鮮戦争が済んだらアメリカで結婚すると決めていた。せっちゃんは馴染みの客、サラリーマンの吉田さんの所へ嫁に行くと言った。洋子は恋破れガス中毒で自殺した。美代子は駆け付け、死に化粧を施してやった。肌が中毒でピンク色に染まっていた。小股の切れ上った美人の道子は馴染みの江川さんに青酸カリを飲まされ死ぬ手前で助かった。江川さんはタクシーの中でサイダーと共に青酸カリを飲み死んだ。無理心中を図る前に一夫の宿に火をつけた。政志が、煙を見て火事だ火事だとはしゃぐのを姉の里美に叱られた。火は一室焦がしただけのボヤで終った。シィさんは、脳性梅毒が悪化し、精神病院に美代子に連れてゆかれ入院した。青森から売られ売られした物語を東北弁で話すシィさんの幼さや父母をけっして恨まない言動に美代子は涙が止まらなかった。
 こうして皆別れて行った。一夫は元の宿にもどり再開した。もとの客はもどらず、逆に風態の悪い客達の巣となった。東京から中日―巨人戦の度に名古屋球場にダフ屋をやりに来る浅草のヤクザの一団やら日用品を苦学生と偽り売るスーチャンという男、流れ者で背中に刺青の入った梅鉢さん、四国からは新聞発行元だと称する総会屋の元締め根元さん、稲葉地一家の親分は愛人とヒロポンを楽しみに来ていた。チンピラの菅原は美しい恋人と愛を確かめる為にやって来た。おかしな人達の溜り場となった。逆に中村署の刑事が麻雀でサボル為にやって来たり、国鉄のポッポ屋が徹夜勤務のアケに酒を飲むために来たりと、一風変わった宿になった。
 その頃美代子は体調が悪くなり児島という針医者に看てもらうことが多かった。夜は梅鉢さんとこいこいに興ずるようになった。一晩中、一文幾らで遊ぶのである。政志は眠くなるまで後で見ることが多かった。青丹に赤丹、猪鹿蝶に牡丹の短冊、桐札の存在、博打の展開は後で見ているだけで面白かった。美代子は玄人相手ながら負けることが少なかった。ただ時の流れに身を任せ、暇を持て余していたのだろう。一夫は妻を放っておいた。どうしようもなかったのだ。余りの世の中の変遷に戸惑っていた。疑問を感じなかったのではない。軍隊生活の規律が奪われた瞬間から、混沌に身を委ねる他なかった。世間の大概の日本人もそうであった。皆忍び寄る退廃から逃げようがなかった。一夫は、時に酒に溺れた。いつも憂さをはらすには酒が一番良かった。刑事が来た。毎晩来て酒二合につまみをねだった。県警の一課、殺人犯を扱う敏腕刑事だった。彼は、ただ酒を飲む事で一日の憂さを晴らしているのだ。
 混沌はいつまでも続かない。混沌を続けるには相当な体力がいるからだ。人間は耐えきらなくなり、バランスを求めるようになる。
 宿泊業も変わりつつあった。皆が余暇を求めるようになり、旅は心の一番の癒しと観光旅行を求めるようになって来た。経済も動くようになり、営業が増し出張という仕事も多くなって来た。東京から名古屋に来るには汽車でも八時間を要し、どうしても一日の宿が必要になった。名古屋駅近くの宿が求められるようになり、一夫の宿も電話が掛かるようになって来た。宿屋の形態も時代と共に変化する。
 ダフ屋の一団とインチキ学生のスーチャンが喧嘩した。ダフ屋の一条と村瀬はいつもツルんでいたチンピラだった。伴淳の所へ挨拶と称し、駄賃をもらって来るのも一緒、ヒロポンにふけるのも一緒、そんな奴等だった。ある時、些細な事で殴り合いとなり、喧嘩に強いスーチャンが空手二段の腕をふるい、一条と村瀬を殴り飛ばした。その場はそれで一端収まったが、殴られた二人が浅草の親分と兄弟の盃を交わしている大須の親分の所へ駆け込み、仁義を通そうと考えたのか、大須の親分が若衆を復讐に送り込んで来た。若衆はスーチャンを近くの神社へ話しがあるからと連れて行き、二人がスーチャンの腕を抱え、もう一人が後から短刀で刺した。スーチャンは血だらけになりながら逃げ込んで来て宿の床下に隠れた。刺した方の三人は追って来て宿屋中探し回ったがスーチャンは声も上げず、隠れていた。パトカーが来るのと、三人が消えるのと同時だった。刺した若衆はその夜のうちに自首して出た。スーチャンを救ったのは一夫だった。近くの外科へ行き手術をし、なんとかスーチャンは命をとり留めた。
 そんな事件があって一夫は、嫌になりもっとまともな宿にしようと考えるようになった。

 昭和三十三年は一家にとって多難な年になった。この地方にとっても。政志は小学三年生を向かえた。八月に築港からポンポン船に乗り、篠島へ海水浴に行った。一夫の繊維古物商時代の友人岸田一家を共だって二家族での旅行である。名古屋港の事を当時は築港と呼んでいた。一時間余りのゆっくりとした船遊びだった。船の生簀では珍しい魚が泳いでいた。鮫の子供やエイの子供、見た事もない鮮やかな色の魚達である。潮風がたまらなく快適で日差しの照り返しが船の鉄板に反射し夏本番を感じさせた。大東館という宿に一家族ずつ部屋を予約して泊った。大時計が玄関に飾られた宿だった。途中に寄った日間賀はオンボロの猟師の家が立ち並び漁師の島を思わせた。篠島は海岸線に添ってしらす干しが行なわれ、独特の臭気を漂わせていた。しらす干しの前に海水浴場はあった。
 岸田家の一人娘京子と姉の里美、政志の三人で泳いだ。泳ぐより波間にただよう南の海を思わせる熱帯魚や紫うにの存在の方に興味が湧いた。ひとでや宿かり、舟虫の大群も居て日頃にはない風情を政志は覚えていた。
 岸田は一夫と同じく駅裏の闇市にある繊維の組合で古着を扱っていた。陸軍の下士官時代は山下兵団に居て、シンガポールへ攻めて行った時は最前線で活躍したと豪語していた。山下将軍はマレーの寅と怖れられ、米軍に勝って降服を促す時にYESかNOかとフォードの会社で迫った将軍である。敗戦の後、シンガポールで開かれた軍事裁判で絞首刑が決まり、ある丘の一本木に吊るされてしまった。
 岸田は要領の良い男で組合の株を買い占め知らぬうちに理事長に納まってしまった。今は勝手に得た地位を良い事に、繊維会館という貸ビルを建てオーナーに納まっていた。戦後すぐは少し目鼻がきく奴の方に権力が集中した時代である。岸田はゴルフに麻雀・囲碁に生活を傾けた。女房が体が弱いせいもあった。愛人に雀荘をビル内に開かせ自分もそこで遊んだ。一夫とはヘタな囲碁仲間だった。美代子も加わり舌戦ばかりやっていた。一夫は守る囲碁、美代子は攻め続ける囲碁、岸田はうかがう囲碁と性格のはっきり現われる対極だった。岸田は男の子のない自分を悲しみ、換わりに政志を可愛がった。プロレスごっこの相手をして遊んだりした。

 夏が過ぎ九月になり、もうすぐ十月という時にそれはやって来た。伊勢湾台風である。風がものすごいうなりを立てて吹いた。今までとは全然違う台風である。一夫の家族は全員集められ宿で一番安全と思われる新館の離れの一室にろうそくの中、肩を傍めあった。家が壊れそうな音がし、かわらが飛んだ。トタン屋根やベニヤ板や色んなものが飛ぶ音が聞こえた。家が壊れると皆が震え上っている時、一夫は意を決して家を守る事を考え、機敏に行動した。雨戸を閉め木材でつっかい棒し家を安定させた。今にも天井から屋根が飛ばされそうで、しっかり柱を持っていた。壁が落ちる反響がすさまじく全てが破壊されてゆく様だった。
 明け方になり、ようやく風も弱くなりヒューヒューという音に変り、静かになってゆくと、皆部屋から抜け出した。近くの公園の木はすべて倒れたり折れたりし、道は川になっている。近所の人も顔を出すようになり、安全を確かめあった。
 宿は壁が相当落ち、瓦も半分程めくれた状態だった。大工の棟梁が駆けつけてくれていた。
 それから二週間程、電気のない生活が続いた。宿には港区や南区からの避難客が泊まりに来ていた。両区は相当やられたらしい。新聞に被害状況が紙面を踊っていた。死人が大分出たらしい。中村区はまだましな様だった。それでも駅周辺や中村区全域に道が水につかり、動けない様子だった。子供は元気だった。川になった道を楽しむように手製の簡単な船を造ったり、トラックの荷台に捕まったりして、避難ゴッコをして遊んだ。
 小学校へも南区から避難の生徒が一時疎開して来た。いかにも農家の子という風情だった。一夫一家の不幸な出来事は台風だけでは済まなかった。

 宿には、いろんな住人がいた。住人といっても人ではなく、青大将の夫婦と家守、むかで、何種類の蟻達、体長十センチ程もあるゴキブリも捕る大型の蜘蛛、井戸にはヒルが居たし夏にはガマ蛙が姿を見せ、秋になると蟋蟀が忍び鳴いた。青大将は昼アベックで逢瀬を楽しみに来る若いカップルの布団の中で寝て居て驚かしたり、時には天井からブラ下ったり一夫を吃驚させたり愛嬌たっぷりだった。ヒルは時々風呂水に居て血を吸って悪さをした。
 天井に蜉蝣が卵を生み付けると、誰かが死ぬと美代子が嫌っていた。この秋の九月末、隠居家の天井に卵を生み付けた。美代子の悪い予感は的中してしまった。
 祖父の牛太郎は中背の整った顔をし田舎の光源氏、プレイボーイと噂され五十半ばに十八歳の女子事務員に手を出し子を生ませる等の醜聞の絶えないお爺さんだった。その娘が結婚しすぐ一年足らずの内に息子を生み日が合わぬと離縁され悲期の最後を遂げてから親類に子は貰われその子をみる度に罪の意識を覚えたのか、その事については口にしなかった。祖母のはくは、十六歳で養子縁組で一緒になったが、次々と子が生れ十四人の子を持った。一夫は次男で長男は美代子と結婚したものの結核で倒れわずか四年足らずで死んでしまった。他の子も五歳まで生きる子は少なく半分は死に戦後まで生き残ったのは七人しかいない。仕方がないことを方言でかんかないと言うが、はくの口ぐせは、いつもかんかないだった。きせるで煙草を吸うのが癖でいつもきせるが手離せなかった。祖父母は二人とも中気で倒れたが、余りひどくなかったのか名古屋へ来る頃は元気になっていた。祖父は来名してから毎晩二合の晩酌を欠かせなかった。礼儀正しいせいか無口の政志とは受けのよい姉の里美とは違い反りが合わなかった。祖母は寒い日、着物の裾を捲くると火鉢にひょいと乗り股火鉢をした。政志も一度真似をして畳を炭で焦がし美代子に叱られた。祖母のはくは、政志をわしの真似をしたのだろうと庇ってくれた。
 牛太郎が倒れたのは来名後五年経た頃だった。伊勢湾台風直後で一夫夫婦が大変な時だ。
 台風が過ぎた二―三日後突然口から悪いものを吐いた。少量だったが、血の固まったものだったろう。それから以後起きれなくなり寝たきりとなった。孝行な一夫は、よく面倒を見た。往診に来た医師の見立ては、胃がんだろうとのこと、命もよくもって三月位だろうとのことだった。
 だがそんなに持たなかった。柱の振子時計がやたらと大きくコチコチと秒針を鳴らしていた。相当痛いのを我慢していたのだろう。牛太郎の体力は残っていなかった。そのまま深い眠りについた。九月末のことだ。
 白い装束に着替えさせられた。頭にも白い三角の頭布が巻かれ、旅立つ準備が整えられた。一夫も喪主として白い袴を履き、やはり真白い着物に着替えた。通夜には元々親類は多かったが他にも政志が会ったこともない豊橋や藤岡からも親類の人達が来た。夜には八百彦から弁当が百五十程届けられた。大きな葬儀となった。坊主も里の寺から曹洞宗の八人が来た。総八と呼ばれる一等格式の高いものだ。チャランポランの大きな鳴物に続き般若心経が読まれ個人の経歴を伝えるお経となった。政志はこの大きな行事に戸惑いながら目新しいものに驚いていた。
 翌日、当時はまだ有った黄金(こがね)の焼場へタクシーを連ねた。焼き上り、骨拾いの儀式となった。大きな箸で二人で小さな喉骨や他の骨を拾った。政志も手伝った。骨は一杯あるのにほんの一部しか骨壺には入れられず残りはうず高く積まれた他の骨と一緒に捨てられた。何故か寂しい思いがした。
 家に帰り庭を見ると、祖父が植え大事に育てていた桜の木が何故か枯れていた。祖父と共に逝きたかったようだ。
 十月に入り半ばに政志の弟の保夫が生まれた。まるで祖父の生まれ変りのようだった。悲しみの後に嬉しさがやって来る。家族皆が喜びに湧いた。一夫は分銅のついた量りで赤ちゃんを乗せ体重を量るのが楽しそうだった。何モンメになったぞと美代子と共に嬉しがった。
 政志も学校から早く帰って弟を見たくなった。死の後にやって来た誕生は光を家族に与えた。病弱だった美代子も血の流れが変化したのか、元気になった。
 ただ政志は死について考え込むようになっていった。一日何時間も空虚に思い悩んでいた。鬱になった息子を心配したのか一夫が担任の先生に相談したことがあった。先生は職員室に政志を呼び出し、こう告げた。「人の一生は、与えられた鰻重をどう食べるかだ。それを考えろ」と。祖父が死んで半年が過ぎた。祖母の元気がなくなって行った。祖母は明治中期の生まれながら大柄で太ってもいたが、急にやせ出し、心配した一夫夫婦は祖母を連れ京都奈良へ家族旅行に行くことにした。まだ寒い三月末春休みになってからの事だ。
 初めに奈良公園へ行った。鹿と戯れ、鹿せんべいをやったり大仏さんを見たり、興福寺の五重塔を見たりし、祖母は興奮したようだ。みやげ品では真鍮製の赤い大仏や五重塔、鹿を売っていた。政志はガラス製の鹿を買った。
 奈良公園の近くの小さな宿に泊り翌日京都へ向った。「おこしやす。可愛いいぼんぼん」京ことばは政志には珍らしかった。一日目は南座へ行き流行のかしまし娘の三人を見た。面白く祖母も喜んだ。翌日早朝宿を出発し嵐山へ向った。嵐山近くの梅の木の下近くで祖母は嬉しさの余りか脱糞をしてしまった。公衆トイレへ行き、美代子が近くの衣料品店まで走り桃色の腰巻きを買って来てあわてて祖母から汚れた下着と交換させた。旅を楽しむどころではなくなった。猿山もそうそうにし、あわてて帰名した。祖母はそれからまもなくして亡くなった。
 祖父母の死、二人の死は政志に無常を嫌おうなく覚えさせた。何の為に、いつも考えるようになって行った。もう一つ政志の心を傷つける事件があった。不用意に女の先生が、彼にマー君の家は、可哀相ね、あんな仕事してるからねと、言った言葉だ。政志は分からなかった。どういうことだろう、どうして可哀相なんだろう。給食費もちゃんと払っているのにといろいろ考えた。家に帰り姉の里美にたずねた。「チャー坊、なんでうちは可哀相なの」姉は少し時間を置いて「うちは、女の人置いとるでしょ、それでいかんのだわ」と、苦しそうに言った。政志は、それでも判然としなかった。分かったのは数日してからだ。せつ子に聞いてからだ。せつ子は、「私達悪いことでお金もらっとるでしょ、それで先生そう言ったんだわ」政志は漠然と分かって来た。うちは特殊な事でお金を得とる所なんだ、よく聞く娼婦ってなんだろう、いろいろ考え分って来た。クラスでは食費や他の経費を払えない子が十人近くいた。彼等はいつも寂しい思いをしていた。子供は意外と敏感なのだ。差別ということを段々考える子供になっていった。他の親達の視線が気になり出した。彼等は他とは違う目で政志を見ている。そう感じるようになった。
 一夫や美代子にも子供に対し負い目はあった。たまに遊びに来る警官達も「売春禁止法が開かれるので、気を付けなかんよ、市川房枝という女代議士さん、いらん事してくれたわ、わし等も大変だわ、娘達が居なくなると、きっと犯罪もふえるで」と、注意してくれた。
 こうして多難な小学校三年生は過ぎて行き、いろんな意味で政志は成長していった。朝は美代子が起きられず、まかないの佐藤のおばちゃんが朝食も作ってくれた。佐藤さんは元芸者さんで、三回結婚歴があり、三回とも夫が死ぬという回り合わせを持った人だった。昔日本髪を結ったせいか頭のてっぺんに大きなハゲがあった。昔の老人の女性は、そんな女の人が多かった。
 政志は毎朝、美代子の背の後で見て覚えた花札のこいこいを佐藤のおばちゃんと一文一円でして目を覚まし朝食を食べるのが日課だった。佐藤さんも嫌がらずつき合ってくれた。花札は芸者時代に覚えたようだ。小学校四年になり新築の分校本陣小学校へ四年生と五年生が行くことになった。一夫の宿からは一キロ余り離れていた。学校の回りは池か田んぼばかりだった。学校の回りをお茶の木がぐるりと植えられていた。四階建てのコンクリートの建物で真新しく入口前には朱呂の木が植えられた小庭があり運動場も広く新鮮だった。
やっと学校不足が解消されゆとりが出来た。政志は美代子の勧めで石川啄木の歌集「一握の砂」や「悲しき玩具」を読むことになった。いつもカバンの中に入れておき、愛読書となった。啄木の歌は何故か子供の心にもすうっと入って来た。情景や心情が素直に感じられるのだ。
 「東海の小島の磯の白砂」の歌や「たらちねの母を背負いて」の歌は愛称歌となった。クラスの担任は歌集を見つけて「こんなの分かるの」と不思議そうな顔をした。紋白蝶や黄色い蝶が菜の花やキャベツ畑を舞う暖かい学校の近くだった。六月に入ると、近くの田んぼが蛙の卵でいっぱいになった。すぐに卵がかえり、おたまじゃくしになった。おたまじゃくしが大きくなり、足や手がはえ段々成長してゆく。そんな長閑な学校だった。

 美代子の姉妹達は何かと集まるのが常だった。姉四人は地名と様で呼ばれ、下の二人が呼びすてだった。一番上の姉は、円頓寺の姉様、二番目は大須の平子花子だから花様、三番目は中村の岩田さわのさあ様、四番目は小山の平子富だからトミ様、五番目は好子、そして六番目が美代子だった。話す時はひどい名古屋弁だった。
 円頓寺の姉様は少しため口、夫は駅前の市場の鰻屋で番台を持っていた。夫の駒瀬又三郎は魚屋の親爺らしく粋でやんちゃだった。二番目の大須の姉が一番美しい名古屋弁の上町言葉を話した。戦前は手焼きせんべい店を開いていたが今は江戸時代からある長屋で土産の卸屋を営業していた。さあ様の夫は、豊田織機に勤め特殊な腕を生かし高級取りだった。四番目だけが農家だった。それぞれが地域の名古屋弁を話した。少しづつ違う名古屋弁でそれぞれ特色のある方言だった。地域地域、場所と職業によって方言はそれぞれ違うように発展したのだろう。姉妹も年によって、各々少しづつ考え方が違っていた。明治生れと大正生れでは違うし、昭和になればもっと違う。人はそれぞれ世相に影響され育つのだ。
 正月には皆好子の家へ集った。政志には好都合だった。お年玉がいっぺんにもらえるから。一人づつ個性豊かな姉妹、一番上の姉様は意地悪で人情家、夫に仕え、しかも牛耳っていた。夫が今夜は遊郭へ遊びに行くと言うと、絹の着物に派手な長襦袢、装飾品の数々を添え喜んで送り出すという明治生れの女の気骨を持っていた。二番目の花は名古屋弁のなもえもを多用し最も丁寧な方言を使い姉妹を宥める役、三番目のさわは新聞は朝日という一徹な生き方をする反面、痩せた人はカマキリの八割などと言う独特な表現の名古屋弁を駆使するユーモアを持った女性、四番目の富はもう女の子供はもう止めるということで名付けられ一人だけ農家に嫁ぎ一所懸命土に生きる女性、夫はふんどし一つで足踏みしたくわんを漬けていた。五番目の女の子はもうよかろうと名付けられた好子が姉妹のリーダーシップを握りいつも親戚全体の相談役、六番目の美代子は生れてすぐ父親が死に母親と共に姉妹の間を預けられ育ち何かと子供扱いされていた。実際長女と美代子では親と子の年の差があり、事実おいの方が年長だった。実家はかつての士族で尾張平氏の流れだった。信長は平氏を名乗ったので平のままだったが、家康の時代になって源氏を名乗ったことから平の下に子をつけて平子にした。徳川に遠慮したようだ。だから姉妹全員、気位が高かった。

 昭和三十年代に入ると、経済も動くようになったのだろう。名古屋のシンボルとして百メートル道路、進駐軍が朝鮮戦争に行きキャンプが空いた処にテレビ塔が出来た。東京タワーより早く出来た塔だった。展望台のある所まで階段を上るのが流行した。名古屋城も同時期に鉄筋で作られた。金鯱が雌雄各々トラックに乗せられ、市中をパレードしたのを政志は広小路へ見に行った。昭和三十年代広小路は華やかで秋祭りには、市電を飾りつけ花電車を走らせたり戦争特需でキャバレー業界も景気が良くホステスがパレードに加わる等して戦後に一時期ぱっと咲いた花の時期だった。
 一夫の宿も客が来るようになって来た。東京からの出張族が客の半分を占めるようになって来た。名古屋駅からの紹介があり、一夫はよく自転車で駅まで客を向かいに行った。駅裏はまだまだ汚なかった。以前にも増して駅前と駅裏の差が出るようになって来ていた。駅内部も戦争当時と変わらず汚れていた。靴みがきが何箇所かあったし、電話もあったが旧式のぐるぐる回して交換台につなぐものしかなかった。食堂はキッチン日本食堂が開き洋食が食べられる唯一の店だった。
 一夫は思いきって隠居屋を壊し商売を拡張しようと考えるようになった。土地も好子の持っていた隣接の九十坪を売ってもらい旧館とくっつけるように改装した。部屋も二十位に増していた。
 段々宿はいそがしくなったが、里美や政志は放っておかれるようになった。政志は五年生の時初めて大須のスケートリンクに行った。平屋の体育館のような建物だった。中に貸靴屋もあり、軽食コーナーもあった。毎日曜美代子に千円小遣いをもらい、稲葉地の姉様の孫の駒瀬正憲、通称マー坊と滑りに行った。スキーの名選手トニーザイラーの映画「白銀は招くよ!」の音楽に乗り何回も只回った。政志はクラスでも一―二番目の背の小さい方なので女の人の股の間を抜けて行くのが爽快だった。帰りには近くの食堂でカレーを食べるのが常だった。大須のリンクの近く大須観音の脇には、納屋橋のたもとにあった蛇の焼いた物やら猿の頭蓋骨や諸々の不思議なものを売る店があった。不可思議というだけで世界は大きく拡がった。大須と円頓寺という二つの商店街は違う動きをした。円頓寺は寂れ、大須は発展したのである。大須は信長ゆかりの町である。ゆかりの寺が幾つもある。円頓寺は清洲越えからの家康の町である。五条橋からの堀川の眺めはとても良い。蔵跡や屋根神様も風情良く残っている。信長の復讐なのか大須が発展し円頓寺が傾いていったのは。ただ息吹はある、円頓寺にも。名古屋駅の発展による影響が近付きつつあるのだ。デザインの良い店が近くに出来始めた。今芽生えの時なのだろう。それぞれの町に好みの店がある。
 円頓寺なら創業以来味の変わらない洋食の勝利亭、和食の麒麟亭、和菓子の美濃忠、大須なら鰻の奴、昔のきしめんを出してくれる演芸場隣の麺類処、大須に近い矢場町にあるとんかつの矢場とんである。
 筆者は五条橋から見える堀川の流れを見ながら勝手にこう思った。水上交通や馬を使えば以外と近いのではないか。信長時代、庄内川のすぐ下の大正橋の近くの手習いをしていた寺まで清洲から馬で走れば早いのではないか、大須までも三十~四十分で行けるのではないか、名古屋城築城の際、清正は篠島近くの無人島から石を船で運んだと言う、築城の為堀川は造られた。船で行けば数時間で着くことが出来たはず、飛騨から材木は木曽川を筏で流し運んだと聞いている。今でも堀川添いには材木問屋が沢山ある。伊勢湾台風の時貯木場の材木が流れ、それで被害は大きくなったが、昭和末まで材木の上で曲乗りの競技が行なわれたはずだ。考えてゆくと、昔は水上路海路がすべてつながっていたのではないか、物資は案外早く流通したのではないか、堀川を遡上するぼらの群のように流れたのではないか、こう思った。
 一夫の里も、岩村藩の西の端にあり一夫が育った祖父母の家は江戸時代は岩村の出城跡だった。霧が城で知られる岩村城は石垣が有名で日本一高い処に建てられた山城である。信長の姉が女城主として居たが武田と内通したことで信長が攻め滅ぼしている。その時の戦いに参戦したであろう一夫の祖先は槍一本携えて逃げ帰ったという伝えがあった。高台には狼煙台跡が残っていて湯が池に湧き出していたことから湯洞と言われた。一夫の祖父母佐久衛門夫婦は湯洞の隠居と呼ばれ、石高は百数十石毎年秋になると蔵に米が運ばれたと聞く。蚕を飼い養蚕農家でもあった。随分女工さんや手伝いの男衆がいたと伝えられる。四百坪の敷地いっぱいに建物は建っており、いろんなものが荷車で運ばれるようになっていた。牛太郎が養子で来たものの才覚がなく子が多く、又死んだことから治療費にかかり、家が傾いていったと伝えられる。現に母のはくが誰それん家は羨ましい。息子は二人とも戦死したので軍事恩給が沢山もらえるらしい。うちは結核ばかりで苦しくてかんかないと嘆いていた程だ。一夫は祖父母に育てられた。大きな屋敷の中で、使用人達と共に育った。先々代の角次郎はやり手で宮大工をし家を富ました。角次郎の頃、養蚕も始めた。
 村の中に中仙道の裏道中馬街道が走っており姫街道とも云われ大名の息女や公家の娘が嫁ぐ時に通ったようだ。湯洞にも立ち寄り茶を楽しんだと伝えられている。又、明治の女官長下田歌子は一夫の縁続きの久保田せつと女学校が一緒で良く馬で岩村から遊びに来たという。歌子は乃木将軍と意見が合わず対立したと聞く。又、卒業式に編み上げの皮靴と袴姿を流行させたことでも有名である。岩村は国学が盛んで多くの儒学者を排出し、郡上一揆を収めたことで有名だった、
 一夫のまだ幼い頃は、こうして村の大隠居の下で育てられた。一夫の親類、弟妹達もそれぞれ個性があった。父牛太郎の弟山内の叔父は藤岡村に居て志野焼の発見と再生に成功した荒川豊蔵と共に丁稚に出た後、第一次大戦の頃騎馬兵として出兵し、戦勝すると近衛騎兵となった。すごい尊皇論を唱える人でもあった。又その弟の安藤浅市は大工でよく政志を可愛がってくれた。その妻がグラマンの機上掃射を受け赤子と共に殺されると、子供の順子と圭治の生き方が変ってしまった。二人とも一夫が引き取り面倒をみるようになった。
 一夫の長姉の小出タカは三菱系の三菱石油を興した小出八十一の下へ嫁ぎ、その家が、村はずれの川の向こうにあったから川向こうと呼ばれていた。築三百年以上の古民家だった。一夫は宿を増築する度に八十一から資金を借りていた。几帳面に利子をつけて毎月返済した。二番目の姉は長江和市という駄知にある陶器を焼く時に欠かせないゴロを焼く家に嫁いでいた。ゴロは陶器が割れないように包んで焼くものだった。駄知というその町は陶器の窯元ばかりだった。カマグレと陶器職人を呼ぶが、宵越しの金は持たない気風があり、食べる事には贅沢だったし、美術品、特に日本画とか陶芸には惜しまず金を使っていた。行くと決って出前の寿司を御馳走してくれた。山間にあるのに非常においしい寿司で政志は鉄火巻が好きだった。甘く多分トロが巻かれていたのだろう。山から水を引き池を造り色鮮やかな鯉が泳いでいた。又、目白やうぐいす等の渡り鳥を捕っては飼って楽しんでいた。政志は従兄姉達と少し山へ入った清流で夏は泳いだ。幼魚が群れ遊び時々あぶが血を吸う小川で石で流れを塞き止め深みを作っては飛び込んだ。三番目からは、一夫にとって妹になる。三番目は同じ姓で遠縁にあたる。一二三は東京の商社を仲間で起こし、働いていた。戦時中は中国へ従軍していた。住まいは赤羽根の団地にあった。子供は二人いて政志とは同じ年の従弟の徹と里美と同じ年の千穂子がいた。お盆になると毎年帰郷して名古屋へも立ち寄った。徹は頭が良く二人で碁の五つ並べをして楽しんだ。始めは政志が優勢だったが、すぐ徹の方に手を読まれ、負けるようになった。次の妹は絹江で今の恵那、当時は大井と呼んだが、恵那郷の近くに一山尾張徳川家の御殿医の家系だった加藤家の別荘があり、そこを南方戦線でマラリアを災った加藤家の二男冬二が養生の為にもらい嫁に絹江を軍隊仲間に紹介され、結婚し一緒にすむようになった。絹江は産婆の資格を持ち市民病院の看護婦だった。別荘は山の一番高い所にあり、陽当たりが良かった。別荘には皮の座布団や冬二が明治大学に行っていた頃集めた書籍等見慣れない物が沢山あった。肝臓を病んだ冬二は時折、病院に入院するようになっていた。別荘の風呂は五右衛門風呂だった。下駄を履いて体を沈めるのだが、慣れぬ政志は同い年の従弟睦に習いながら、一緒に入って遊んだ。睦の下に妹の恵子が三歳違いでいた。睦とは、別荘の前を流れる浅い川を足で渡って恵那郷まで三十分程歩いて行って遊んだ。恵那郷には観光船があり、よく変った岩がある景観を見ながら遊覧した。
 次は男の兄弟で小さい頃に養子として福岡家へもらわれていった。少しやんちゃに育ち若い頃不良だった。博打好き女好きで十八才の時とうとう勘当され、一夫の宿に居候していた。それでも悪い癖は直らず女にちょっかいを出したりヒロポンに溺れたりしていた。美代子が怒ると、一夫に助け船を出し「兄さん兄さん」と甘い声を出した。一夫はそんな弟が不憫でやはり甘やかした。四郎が少し改心したのは義父が京都の南禅寺山門で割腹自殺してからだった。四郎が地元の博打で相当の借金をつくってしまったからだ。最後の妹は鈴子で近くから養子をもらった。婿養子の耕太郎は農業だけでは飽き足らず小原和紙の新人作家山内一生に襖を作らせ売り歩いていた。
 一夫にも美代子にも親類が多く何かと相談に来たりで二人はよく世話をした。政志や里美もよく親類の家に遊びに行ったりした。まだ日本全体が貧しい時代、少し成功した者が身寄りの面倒を見るのは当り前だった。
 小学校五―六年生の頃、保夫を生んだ美代子は体力回復に政志を連れ毎月二十一日に覚王山の弘法さんに月参りをするようになった。赤子の保夫は背負って行った。名古屋駅前から市電に乗りコトコト覚王山まで乗って行った。今池から登り傾斜が強く随分な坂道を電車は上っていた。
 覚王山の山の中には四十八ヶ所巡りが造られ、いろんな地蔵や小さいお堂に各印所があり割といい運動になった。夏になると蝉しぐれの中を歩いた。油蝉が滅茶苦茶多く政志は素手で捕まえて遊んだ。中には卵を生む蝉もいた。覚王山の縁日には店が並び色んな物が売られていた。市電の電停から十メートル程歩くと覚王山の入口があり商店街が並んでいた。その商店街の入口に木造三階建ての特徴ある唐風の望楼があった。覚王山の帰りには必ず電停前に新築された三階建てのビルにある食堂でオムライスを食べた。
 六年生になると、本陣小学校から則武小学校へもどされた。その時生徒は二校に分けられクラスも七クラスに減り、クラスの人数も少なくなった。
別れは寂しかったが今までも転校生は多く、すぐなじんだ。クラスは進学組とすんなり黄金中学へ行く者とに分けられた。私学を希望する者は授業後に補習が行なわれるようになった。生徒の中でも進路の違う者の間でいろいろ問題が起きるようになった。私学を目差す者は裕福な家庭が多く、放ったらかしの多い生徒の方は貧しい家庭の者が多かった。いじめが横行するようになった。政志も少しいじめに合い、校舎裏へ連れて行かれ殴られたことがあった。
 政志は姉が通う南山学園を目差すこととなった。南山は中学高校六年間教育、カソリックの学校で一夫や美代子も安心出来たのだろう。成績さえ良ければ大学まで行く事が出来た。受験の日は緊張した。特に面接は初めての事なので心が高く鳴った。家の宗教は、余暇はいかに過ごしているのか等聞かれた。政志は余暇の言葉さえ知らず、どぎまぎしてしまった。無事面接も通過し結果を待つ事となった。結果は試験会場の南山学園で発表された。
 南山学園は昭和区の杁中という今までの中村区とは違い山の手の環境がすばらしくいい場所にあった。

 名古屋駅の駅長室や旅客、鉄道警察等から紹介された客が来るようになった一夫夫婦は思いきって好子から譲ってもらった隣地に造築することにした。一階に広間三十畳と二階に客室四部屋を造った。同時に玄関にロビーと大きめの男風呂を造った。日本に旅行ブームの魁のような風が吹き始めていた。一夫夫婦もよく観光地の宿に泊り勉強するようになった。今までは素人で何も分からず客層が悪くいろんな雑事に追われた反省もあった。板前を雇い料理も充実させ始めた。そうすると広間が生きるようになり、国鉄の職員が仕事明けの朝や三交代なので朝、昼、晩の三回団体で来るようになった。国鉄の職員達は酒好きが多く良く酒を飲み歌を歌った。まだ軍歌全盛の頃で他には民謡が多く皆口を合わせ合唱した。汽車の乗務員は寒いので酒飲み乗車は常だった。
 美代子はよく駅に挨拶に出掛け営業するようになった。本来営業は好きだった。行商で鍛えられた営業力が有り、すぐ客は友達になった。駅長とも旅客所長とも近付きになり、そうすると輪が広がり、口づてに名が知られるようになっていった。客も増えた。
 一夫は親子でよく定光寺の応夢亭や蒲郡のふきぬきに泊りに出掛けた。定光寺は中央線の汽車で行った。トンネルを幾つも抜け定光寺に着くとすばらしい山々に囲まれ大きな岩の間を流れる川のある景観地だった。駅から川の上に作られた橋の間に工夫を泊める宿千歳楼があった。宿からせせらぎの間を一時間程抜けると、定光寺があった。尾張徳川家の歴代の藩主を弔う墓があった。入口には左甚五郎の眠り猫の彫り物があり、東照宮を意識したものだと分った。
 夏には、川で泳いだ。定光寺の山には、七ふし虫という枝に不思議な化けた虫がいて、興味が湧いた。
 三河の蒲郡ふきぬき湯泉は一時期日本一の規模の宿だった。水車風呂が有名で男女混浴の風呂で着換え室だけが男女別々で中へ入ると一緒になった。大きな岩を組み合わせており、岩を登って周遊することが出来た。木造の大きな造りの宿で幾つも部屋があり、中の壁や天井に絵が雑然と飾られていた。そこで料理を頼むと部屋まで運んでくれた。海は宿全面にありプライベートビーチになっており泳ぎに出たが決して水は綺麗ではなかった。
 五十年以上経った今、偉容を誇ったふきぬきはもうない。定光寺の浮沈と共に大きくなり凋んでいった千歳楼も残骸を無残に晒している。だが応夢亭は昔のまま営業している。筆者は世の中の無常を思うと共に何故応夢亭は生き残ったのか考える。愛岐国道が出来てから定光寺や古虎渓は繁栄し一時期沢山施設が出来た。いずれももはやない。千歳楼は地元の陶芸家と組み文化的に非常に貢献したし陶九郎や鈴木青々等著名な陶芸作家の器を使い人気があった。愛知の宿の中で一番特色があったはずだ。ところが愛岐道路が有料ではなくなりダンプカー道路になると眺めが良く春の桜、秋の紅葉の風情が失われ急速に衰退してしまった。そんな中応夢亭は生き残っている。ただただ拡張せず昔ながらに商っていたから生き残ったのだろう。五十年前から山に一棟ずつ小屋を作り料理を部屋出しするという方式が良かったのではないか、料理も良くサービスも良かった。それを守り続けていたんだろうと勝手に筆者は考える。五十年以上前、一夫は利用する度心付けを女中と板前に渡した。調理長が必ず挨拶に来た。ずっと馴染みの客を大切に来たのだろうと推察された。
 美代子は各地の宿屋へ行き勉強するとすぐに良い処は取り入れた。朝の寝起きには決って砂糖づけの小梅を出した。到着の際にはお菓子ととびきり良いお茶を出した。到着の時の印象はすごく頭に残る。愛知は茶処でもある。一番良い煎茶を名古屋の銘菓と共に出した。
宴会の為にと三味線や西川流の踊りを習った。宴会場で披露するようになった。客が岡崎の方なら岡崎五万石を山梨の方なら風林火山と言うように。すると客は喜び噂を流してくれた。岡崎は岡崎師範が有り当時の名古屋の教職の半分を占めていたし市や県の教育委員会にも力があった。学校が宴会で来るようになり口コミで客は広がった。当時の国鉄は国労、道労等組合組織が強くその方面の客も来るようになった。
国鉄は上意下達の会社でもあった。官僚社会で上部を占める東大出が権力を振るっていた。東大出のエリートは三十歳前後で課長になった。その課長が接待費の使い道を左右させた。一夫も裏金作りの偽の接待費の領収書を作らされた。すべて東大出の課長の為の裏金づくりだった。後々国鉄が民営化されJRになってから体質は随分変わりそんな事はなくなったが、そういう裏金づくりはよく行なわれ、国鉄の赤字体質につながった。
 美代子は器にも気を使うようになった。
輪島の御膳を大小五十組づつ揃えたり、漆は高山まで行って、春慶塗で揃えたり今里有田の器で器を用意したりした。又、着物道楽でもあり大島のや、絞の羽織、名古屋帯等を愛用した。着付けは五分でこなし帯は何十種も自分で考案した。まだブラジャーは一般的ではなくさらしで乳房をぐるぐるに締めるのが常だった。誰もが女性はそうしていた。胸が大きいのを恥とした時代である。すっきり着こなすのがスマートだった。芸者もよく来るようになった。駅近くの旅館へは中京連のお姉さん達が来た。鯱ほこ立ちをする喜久さんは有名だったが、名妓連に属し中京連ではなかった。民謡名古屋名物や名古屋音頭シノノメ節等郷土の音曲をよく三味線の音と共に聞いた。美代子も三味線で覚え、客に披露した。ハシ袋に名古屋名物を印刷してもらい、名古屋弁と共に客に覚えてもらおうとした。時々やって来る杉戸市長の十八番でもあった。おてもやんを編曲したメロディーは覚えやすかった。
 しだいに宿は客がつくようになり、客層は良くなっていった。旅行業者の力も強くなり交通公社や近畿日本ツーリスト、日本旅行会等も客を送ってくるようになり、協定話となった。
 まだ名古屋にホテルは少なく名古屋観光ホテルとあと二軒位しかなかった。
 政志は六年生になり、駅前に名鉄百貨店が四階建てでオープンしたので同級生と遊びに行った。商品は余りなくパンフレットが珍しくもらいに行ったついでに、四階にある食堂へ寄った。食堂ではラーメンかカレーを注文した。その頃にしては、それでも十分な冒険と言えた。
 中京幼稚園の前を通る十八軒通りが舗装されることになり、工事が始った。今の二十二号線である。まだアスファルトの道は少なくつばめが滑走する間を工事車輌はやって来た。
 一夫は旅行業者との協定を考え始め、早速取り組んだ。協定してもらう為には色んな関門をクリアーしなくてはならない。保健所の届け、採点表がいる、又消防署に図面、消防点検の有無、避難訓練の実施の有無等、又警察署には必ず宿帳が必要だった。所轄官庁との繋がりが大切と思い知らされ、準備した。
 さて各旅行業者との折衝も関門が幾つも有った。まず地域の旅館組合に加盟する必要があった。中村区なら中村区の旅館組合へ、そしてその上に愛知県の旅館組合更に上に全国の旅館組合そんな図式だった。中村旅館組合のメンバーは多く、駅前の旅館二十軒程、元遊郭をやっていて旅館に転身した大門の施設、その他に点在する旅館と数十軒あった。元遊郭の旅館街だけで収容千人程、中村だけで総数二千名程の収容があった。団体旅行が増え始め旅行業者もパイが必要となり始め中村旅館組合は重要だった。旅行業者はなるべく沢山の旅館を傘下にするべく協定旅館連盟には力を入れていた。一夫はまず中村旅館組合へ加盟し、次に日本交通公社を狙った。日本交通公社は駅前の小さなビルに有り何度も足を運び加入することが出来た。次に日本旅行会に頼んだ。日本旅行会は駅ビルに間借りしていて知り合いも多く、出張所が名古屋駅の東側の最良の場所にあった。通行する人が多く、旅行を頼む人が多かったのである。日本旅行会もコネですんなり加盟出来た。加入する時は必ず審査が要った。名古屋以外の地域の有力旅館の主人と旅行業者の審査する人と常に一緒だった。近畿日本ツーリストも加入出来た。
 旅行業者にはいろんな規定があり、いずれもクリアーしなければならなかった。たとえば客室には窓側に必ず応接セットが必要だとかトイレが男女別にあるか、風呂も男女別にあるか、風呂付の部屋が幾つあるか、他にテレビの有無、洗面の有無、押し入の数、床の間の有無と花は活けてあるか等、細かい規則がいっぱい有った。一夫はその為に部屋を改装して備えた。大型の木造旅館が度々火災に合うことが多く死者も出て、その度に消防法が厳しく見直され、消防の設備点検も審査された。
 木造の建て物は特に厳しくチェックされ、その度に緊張せざるを得なかった。
 こうして旅行業者とのつながりも深まってゆき観光旅館として体裁を整えて行った。施設が充実してゆく喜びは一夫にも美代子にもあった。各地から団体も来るようになった。一泊二食付きが原則で夕食は部屋出しが多かった。心付けも常識で必ず女中さんの手元には月十万円近く手に入った。女中さんはその中から何割かは板場に渡さなければならずそうしないと板場からいじめに会った。板場は威厳を持ちピリピリしていて、ひどい時は包丁の柄が飛んで来た。板場社会の徒弟制度は厳しかった。反面、仕事が終わると男女が一緒に風呂に入り仕事の憂さを晴らした。恥ずかしさは感じず、農家でも男女混浴は当たり前だったし鷹揚な時代だった。板前は朴歯の一本足の下駄を履き調理用の白衣を伊達に着る粋な職種であった。だから女に良くもて、女中さんとも良く関係が出来た。
広間が出来、部屋も増すと従業員の数も増えていった。常時三十人程を雇うようになっていた。下足番や風呂番等他には居ない職種もあった。雑役が多く必要な仕事であり、流れ着くいろんな過去を持つ人のたまり場でもあった。
 風呂番の稲川さんは相当いい処のおぼっちゃんだったが身を崩し妻と離婚し行く処がなく住み込みで働くようになった。住込みは家もなく身寄りもない人にとっては恰好の逃げ場である。三食めしには困らないし給与までもらえる。考えて見れば別天地である。風呂番という風呂の湯かげんを見て客にうかがいを立てる仕事だった。きついのは灯油を貯灯タンクに入れる時位だ。二十リッター入りの油を幾つか自分の体より高くまで上げいれなければならない。その時は高齢化し体力の衰えた身にはつらかった。逆に女性の体を平気で見れる陰美な快楽もあった。稲川さんは肺を患っていることを隠し倒れ死ぬまでやりぬいた。
 靴番の亀さんも芸者遊びで身を崩し行く処もなく流れて来た老人だった。稲川さんより品が良くかつては大店の亭主だったようだ。彼は仕事にはプロ意識のようなのがあった。靴番はお客さんの靴を預かり間違いなくその客に出すようにするのだが、彼は客がどんな靴を履いて来たか百足あっても客と靴を覚え間違いなく出すことが出来た。預った靴は必ず磨いてピカピカにして出すのもサービスだった。それも必ず行なった。客は汚れた靴が綺麗になってもどって来るので感動した。顧客の顔を必ず覚えなくてはならない有名ホテルのドアーマンと同じことが宿屋の下足番のプロ意識だった。
 亀さんは或る朝出勤しないのを起こしにいった女中が死んでいるのを発見したという突然死だった。一夫夫婦は、そんな薄倖な従業員の死もちゃんと葬儀を出し見送った。政志の世話になったまかないのおばちゃんは直腸ガンに患かり実家の海部郡へ帰って行った。一夫は見舞に行った。風呂に入ると痛みが和らぐと云う。死ぬ前日、やはり見舞に行くと、「死ぬ時は時間がかかるの、苦しいの」と聞いた。一夫は「すぐ済むよ、あっという間だよ、そんなに苦しまないでも逝けるよ」と、答えた。おばさんは甥に看とられ旅立っていった。
 こうして政志の小学校時代は終わり、南山中学に入学した。私立の南山中学は、中村の下町の小学校とはまるで違った。第一生徒の話す言葉が違った。名古屋弁丸出しの中村とは違い上町というか政志にはよそよそしく感じられた。ただし三カ月で悪貨が良貨を駆逐するように皆名古屋弁の方に汚染されていった。姉の里美がすでに南山中学女子部に二年違いで通っていたので当然のように通い出した。ただ女子部と男子部とはまるで違っていた。女子部は昭和区の隼人池の前の抜群に良い環境の中にビルとして燦然と輝いているのに男子部は木造校舎のまま、教室が足らないのかプレハブ教室がある位でその差は歴然としていた。無論能力差もあり常時女子が上であった。入学の際も難しさは女子部の方が上だった。男子は東海という絶対的なライバルがおり、能力差もあった。
 男子部と女子部の間の小高い丘の上に教会があり、その下にピオ館があった。南山学園はイエズス会が経営するカソリックの神学校である。イエズス会は十字軍に参加したことのあったフランシスコ・ザビエルも宣教師をしていた。非常に厳しい教義の下教育が指導される学園だった。女子部の制服は修道女が着ているものを模していた。男子は普通の中学生が着るツメエリの黒い制服である。ただ革靴を履くことになった。カバンは自由で政志は肩から下げるズックの物を選んだ。帽子は着用の義務があり他にも生徒手帳が渡され、細かい校則がふんだんに有った。各記念日には教会でミサが行なわれ生徒は必ず集合しミサ台の前に着座した。その時だけ男子女子も一緒になった。教会に入る時は皆水で頭を清めた。聖歌が聖歌隊によって歌われパイプオルガンの演奏の下ミサが行なわれた。新しい文化との出会いであった。ステンドグラスから入る光で教会の中は、種々の光が屈折し神々しい雰囲気があった。
 教会の下のピオ館には外国人の宣教師やシスターが出入りし日本人しか見たことのなかった政志にはとても奇異なものだった。段々日が経つにつれ日常的な光景になり、慣れ親しんで行く。それは長年異教徒にキリスト教を浸透させる教育を研究して来たイエズス会の方針だったのだろう。毎週宗教の時間は必ずあった。少しづつキリスト教は心に入って行きいつしか身についてゆく、そんな校風南山学園だった。
 生徒は今までの閉鎖された地域と違い広い範囲から集っているので多様だった。名古屋全区ばかりでなく中央線で東濃から来る生徒や関西線で来る三重県の生徒がいた。親の職業もまちまちで多くは中小企業の経営者の息子大企業の部課長の子弟、特に目立つのは差別を受けていた地域の子供だった。親がその地域での差別を嫌ったのだろう南山学園という広い視野を持った教育を願い送り込んだ。特に多かったのはパチンコ屋の息子だった。彼等は日本人以外の国籍、韓国人、朝鮮人、台湾人等が含まれていた。皆そんな事には拘らず交遊するようになった。学校ごとに生徒の親の職業のカラーは違った。東海色は医師の子弟が多いが南山色には余りいなかった。女子部の方が両親の出身は男子部より良かった。エリート校だった。こうして知らぬ間に政志の心にも南山学園の気風が入り込んで行った。
 又も一夫夫婦は造改築を始めた。隣接に六部屋と女中部屋、里美と政志の部屋等を造ったのである。渡り廊下でつないだ女子風呂も森を模した美術タイルをはった目新しい感覚で創った。
 政志と里美は仕事を優先し段々遠くに追いやられる自分達に不満を抱くようになっていた。守られた隠居屋という空間から女中部屋の真向かいという仕事と密着した空間に入り込んでしまった。いつも親と同時に商売という厳しい戦いに対して行かねばならない。常在戦場は子供には余りに過度な対外意識を強いた。
 南山では厳しい授業が始まった。特に英語の中村敬先生の授業は熱血ですさまじかった。質問に答えられないと容赦なくピンタが飛んだ。まだ戦後の気配を残した頃、先生が生徒を殴る事は日常だった。特に南山では、教育には鞭が必要と考えられていた。古文の久田先生は出勤簿の柄でよく叩いた。英会話のラホージ先生はチェコ人で質問に答えられない生徒は罰として広場を何周か黙々と歩かせた。理科の小林先生は殴らなかったがチクチクと生徒を追い込んだ。
 秋になると、学園の木々が色付き紅葉した葉が舞った。生徒は枯葉を拾い集め掃除した。

 旅行業者の協定に成功した一夫夫婦は益々商売熱心になっていった。影のある日影の商売から明るいまっとうな宿屋にもどった喜びは大きかった。しかも子供達は私立の南山学園へ入学した。次男の保夫はまだ幼いが、すべてが軌道に乗り動き始めた。そう確信した。
 一夫は大治自動車学校で習い運転免許を取得し中古のニッサンブルーバードを買った。家族、宿中皆で喜んだ。誰しも車など一生持てるとは思わなかった。その頃から車社会が始まりモーターリゼーションが叫ばれるようになった。道路もどんどん舗装され伸びて行った。事故で死人がよく出るようになった。宿には駅内の日本旅行会から当日客が送客されるようになった。駅内の日本旅行会の所長今井さんは、桑名の人でフィリピンで裸同然で捕虜になった後、昔いた国鉄のコネを生かし日本旅行会に入社し駅内の所長にまで出世した苦労人だった。日本旅行会は国鉄OBの社員が多かった。一夫とは軍隊時代の話でウマがあい、一夫を可愛がった。一夫も日本旅行会を大事に思い毎晩のように接待した。宿は毎日満員になるようになった。予約で部屋が空いていても当日客でほぼ満員になった。当日申し込みは唯一旅行業者として駅内にカウンターを持つ日本旅行会が多かったのだ。ブルーバードが役に立つようになった。駅への出迎いにといそがしく走り回った。職員の為には一夫はあらゆるサービスをした。それだけ送客してもらっているのだ。駅裏の宿は未だに駅前の宿に比べ不利だった。特に松岡旅館、舞鶴館、五月支店等は脅威だった。ビジネスホテルはまだ名古屋にはなく一泊二食付きの日本旅館が一般的だった。東京でやっとビジネスホテルの走りとして上野に法華倶楽部が出来た。都市旅館の衰退とビジネスホテルの興亡が始まろうとしていた。

 政志に友人が出来始めた。一宮奥町から通ういつも殴られ役の山副やバネ屋の息子小笠原等とは仲が良かった。地元の山田香や鬼頭も小学校からの友人だったし隣の牧野小学校から来た坂達とも往復のバスが同じで何かと仲が良かった。則武小学校と牧野小学校では違いがあった。則武小学校の方は古くからこの地に住みつき何代も暮らした人達がおりしきたりを重んじていた。牧野小学校の方は戦争被害者達が多く集まり朝鮮人韓国人が三割を占め闇市に生活する人達の子弟が多く存在した。おのずと考え方も違った。菅洋一郎は南山中学へ入学し政志と同じクラスで友達になった。親は満州からの引き揚げ者で父はシベリア抑留組だった。洋一郎の前に子が六人いたが皆帰国の途中死んでしまっていた。戦後生まれた洋一郎は両親の溺愛のもと育った。駅裏のど真中に小さな工場を借り塩化ビニールを作っていた。南山からの行き帰り一緒になるので自然と近付いた。一宮から通う山副とは家をよく行き来し互いの家に外泊することがあった。山副の家は繊維工場を営み九州から集団就職で来る娘達を雇っていた。いわゆるガチャマンの山副の家は中庭のあるロの字型の大きな家で廊下の行き詰まりに便所があった。手水鉢で手を洗い掛けられた日本タオルで手を拭くという古式ゆかしいものだった。
 喫茶店好きの市民はコーヒー通でもあり近くの店でブルーマウンテンを味わった。クリームを表面に浮かべ飲み味と香を楽しんだ。奥町を流れる川へ遊びに行ったりもした。他に瀬戸から来る生徒は加藤姓が多く陶器を扱う家から、一宮の生徒は繊維を扱う家の子弟そんな地域性があった。小笠原の家は雁道にありバネを造っていた。家は工場とは離れた所に有り裕福だった。一夫の宿の一室を使い山副ととんちゃんパーティを開いた。駅裏のマーケットの中には韓国人がその頃はまだ捨てていた豚の臓物を使いとんちゃんとして売るようになっていた。そんな店が数軒出来た。一夫は時々政志を連れて行き密造のまっこり酒を飲みとんちゃんに舌鼓を打った。一等好きだったのは慶北館という店だった。店の女主人は洗濯するのと同じ手つきで豚の内臓をらっかせいや辛子や七種の薬味を入れもむように味付けをした。たまらなく美味しく一人前八十円だった。それを千円買い大きな袋につめて持って来て七輪の上で焼いた。辺り一面香ばしい臭いがたちこめ、余計おいしく味わうことが出来た。
 娼婦が林のように立つ小道から入った処にある店だった。菅の家のすぐ近くでもあった。
 小笠原家は伊勢湾台風の時、水が入り作っていた石鹸が海水で駄目になりバネ屋に転業していた。父親は若い頃本田会の四天王と呼ばれた渡世人崩れでいつも七部袖の上着をはおっていた。小笠原自体は頭がチリチリで黒人とのハーフみたいで可愛らしい顔をしていた。こうしていろんな友達と知り合い今までの狭い地域性とは違う交流を覚えていった。

 一夫が属する中村旅館組合の主流は大門にある遊郭の店が売春禁止以後料理旅館に転業したものが多く十数軒あり収容人員が多く一大勢力だった。四海波、稲本、松岡は大店でつる屋、久本等は中堅だった。業者は始まった旅行ブーム、団体や組合、各種スポーツ競技の配宿に大きなパイを持つ大門街は便利だった。
 阿部定子を刑期後雇い可愛がった四海波のオーナーは慶応ボーイで地域のボス的存在だった。ノウちゃんと呼ばれ背が高くいつも運転手付きのアメ車に乗っていた。遊郭の転業先にはもう一つあり風俗の流れを組むトルコ風呂(今のソープランド)に転業する店が多く特殊浴場と公式には呼ばれ、組合長に四海波のノウちゃんが選ばれなっていた。中村警察署との話し合いが多く四海波の主人は最適だった。トルコ風呂には蒸し風呂があり健康を売るはずだったがそれが表向きで裏では昔と変わらず春を売っていた。かつての遊郭の造りは客室が四畳半の客を持て成す部屋とその奥に二つの床を敷く寝室の二部屋に別れていた。どの店も改造する意志はなく段々宿泊客の求める形態の部屋とはギャップが出来るようになっていた。
 新しく始めた一夫の宿は旅行業者の求めるように改装され駅に近く大門の旅館に勝るようになっていた。ビジネス客はあまり大門にある宿まで強いて行かなかった。駅から近いと言っても場所が不案内で送迎の必要性があった。一夫は二台新車を買い運転手も雇った。トヨタのクラウンとニッサンのローレルである。クラウンは送迎にローレルは私用に使うことが多かった。運転手の藤井は豆に車を洗い磨きいつもクラウンはぴかぴかだった。
 昭和三十年代の終り、その頃にはどの店も車を持つようになっていた。各家庭も持つようになり道路も整備された。庶民に人気のあったのは大村昆が宣伝するミゼットだった。大衆化の波はすごい勢で浸透し商品もより安価になって行った。国鉄名古屋駅も美化され空襲の跡も消えて行き、中に国鉄案内所が出来、宿に客を紹介するようになった。一夫の宿も国鉄の知人のコネを生かし旅館の内では一番に送客してもらった。日本旅行会と国鉄案内所という二本柱を持ったことで一夫の宿はますます潤うようになった。お客様の送迎は大切だった。他の旅館は今まで通り地図で存在位置を知らせる方法のみだったが、タクシー代が要らず迎えに来てくれる。しかも高級車で、それは重要なことだった。
 日本旅行会での評判は駅前の五月支店が良かった。地理上やはり有利だった。名古屋市内もビルラッシュが始まり栄に中日ビルが名古屋駅前に大名古屋ビルヂングが建ち広小路にはガーデンビルが建った。

 政志の通う南山学園ではミサの度に説教があり、よく旧約聖書の一部が聞かされた。政志が印象に残っているのは三人の息子が才能をどう生かすかという話だった。タレントというユダヤの通貨でそれは現わされた。十タレントもらった長男は無くさないようにそれを土に埋め五タレントもらった次男はそれを元手に商いでもうけ出し三タレントもらった三男はすぐに使ってしまう、そんな話だった。タレントはその後芸能人という意味で日本では使われるようになった。その他毎朝の祈りの時間が有り、毎週宗教の時間が有った。南山中学では英会話が外人教師によって教育され生きた英語が重要とされた。英会話はその後実生活で役に立つようになった。
 中学一年の冬、初めて政志は学校からスキー訓練に新潟の赤倉へ行った。非常に楽しい思い出が残っている。夏は水泳教室も知多の海で開かれ遠泳が行なわれた。政志はカナヅチで遠泳には向かなかった。南山学園は一学年二百人程で小さくホットな学校だった。生徒は皆兄弟のように育ち、一生そのつながりの中で生きるようになる。

 一夫夫婦は商売熱心だった。良く旅もし、他の旅館を見て歩き勉強した。旅行会社から海外旅行が勧められるようになり旅行好きの美代子がいつも率先して同行した。その頃人気だったのは台湾、香港、マカオだった。台湾では売春ツアーが多くペイト温泉が人気で娘が平気で裸で接客した。美代子は助兵衛な男客の中に入り逆に知り合いの男達をからかう程だった。その頃のアジア諸国はまだ貧しく、貧しい国の常で女性が商品になり外貨を集めた。かつての日本がジャパユキとしてアジア各地に飛んだように。日本の各温泉地も枕芸者が居て旅行客を楽しませていた。特に北陸はその頃女性で売っていた。
 美代子の姉の好子は、すでに離婚していた。シベリアから帰って来た夫は商に猛けすぐに儲け出したが、シベリアで失った青春を取り返そうと或る女性に惚れ家を出て女の住む四日市へ逃げてしまったのだ。鉄屑屋の跡は弟の昇が継いでやっていた。残った好子は質屋を始め、質屋組合で知りあった坂野を妻帯者にもかかわらず奪い引き入れていた。好子は多情な女性だった。質屋はよく儲かり姉子気質もあるのか親類一同の面倒を良く見る相談役となった。ぜん息を悪化させた兄平吉が食べれなくなると、麻雀屋を金を出し開かせ何とか食べれるようにした。西元の間に養子でもらった輝夫がいたが坂野の事もあり一時期姉の岩田さわの下へ預けた。さわの長男は名古屋大学へ通う学生であったので家庭教師として最適だった。
 好子は武勇伝の多い女だった。質屋へ通う客の中には犯罪者もいて、刑事と内通して盗品と分かると店を出た後に逮捕される方法でいくつも感謝状をもらっていた。一夫夫婦の良き相談相手で困り事があると、一夫は何んでも相談に行った。土地も義姉の力で広げる事が多かった。平吉の麻雀屋ひばり荘の前に豆腐屋が建っていたが、移転するというのでそれも買い古家を壊し更地にして一夫に駐車場として貸してくれた。駐車場は一夫に非常に助かった。車でやって来る客も増え駐車場は必要不可欠となって来たからである。昇に嫁が必要になり同じ親戚筋から美津子を見合わせ結婚させた。その縁結びも好子が骨折った。
 政志は学校帰りに発売となったコカ・コーラを飲んだ。発売当初コーラは強く何故か喧嘩がしたくなり駅内で通りがかりの同じ位の男の子を殴ったことがある。普段はおとなしい方で暴力など振るったことなどないのに。まだサイダーかラムネ、たまにジュースしか飲んだことがなかった。コーラは怖い飲み物だな、直感的に思った。興奮剤として飲み多分麻薬性があり常習となるんだろうと予感した。事実それ以後コーラはよく飲まれ、飲むと常習者となった。
 中村区には世に知られた会社が三つあった。ラムネ製造の森川飲料、カレーのオリエンタル、ハム製造の鎌倉ハム、いずれも政志の宿から近くにあった。オリエンタルカレーはよくバルコニーのあるバスでウエスタンを歌う女性シンガーを乗せ宣伝に走っていた。政志の宿の近くの公園にもよくやって来て歌いながらカレーの宣伝をしていた。チンドン屋よりも力強くアピール力があった。
 交通公社は駅前の国鉄バス乗り場横の小さなビルの中にあり、たまに一夫の宿にも送客があった。旅行ブームと共に大きくなり旅行業者の中の中核となった。異彩を放ったのは駅前のバス停前で叩き売りみたいに旅行を売る谷川屋旅行会だった。政志は帰りのバスでいつも見て奇異に感じたものである。その頃温泉場や各地の観光地では客の呼び込みをしていたが、その流れを組んだようだ。宿の名の入った旗を持ち、今夜の宿はお決まりですかと呼びかけキャッチセールスするのは何処でも行なわれていた。その客を捕まえる能力が宿の売り上げに直結していた。
 谷川屋旅行会は各温泉ごと観光地ごとに紙を刷り市場感覚で商売していた。地域地域の集客は激しい競争となり始めていた。名古屋からは下呂方面伊豆箱根方面等が人気だった。まだ航空運賃が高く海外旅行はメイン商品ではなかった。ただ各旅行業者は海外旅行の幕開けを予感しルートづくりに懸命となった。まずは旅館のオーナーが狙われ海外旅行客とならされた。
 美代子は海外旅行が好きだった。特に香港マカオは装飾品や時計が安く買い物が楽しかった。旅館の女将は大変な仕事で始終神経を尖らせていなければならない。家庭もあり守って行かねばならない。朝は朝食の準備、お客様のお送り、昼は掃除の点検と昼食客、夜はお出迎えと夕食、お客様のお出掛けと会計、深夜の見回りと激務の連続だ。他に家庭の事もある。海外旅行の時だけが羽根を伸ばせる自由な時間だった。
 一夫も香港や台湾には着いて行った。いずれも海軍時代の青春を過ごした場所だった。戦いのなくなったかつての場所は観光地として蘇り栄えようとしていた。
 台湾はかっての日本の統治ではなく将介石の治める中華民国となっていた。一夫は基隆の港に駐留して台北や他の地は初めてで、日本統治の頃と違い異国として味わうことが出来た。香港もオーストラリア兵の死骸が浮かぶ湾ではなくネオンが美しく湾に彩を浮かべるものであり、美代子に連いて回る買物も楽しく感じられた。
 戦争もなく日本は復興した。そう感じられる日々が続いた。戦争時代が遠く思われ日本の繁栄、日々変わってゆく生活が恐ろしい程だった。テレビはCBCや東海テレビ等民放が参入し日々歌番組やドラマ等見せてくれる。放映時間も長くなった。電化製品も次々と新しい商品が生まれ火鉢が電機ストーブかガスストーブに、洗風機もガタガタうなり声を上げるものから静かなものへ、最近では冷房機を入れなければならなくなった。整備を導入するには金が要る。便利になるごとに沢山の金が必要になって来る。一夫は各室に冷房機を入れなければならなくなった。 
 会計は正規の料金の他に奉仕料として十五パーセントの割増をもらっていた。五千円の宿泊料なら五千七百五十円、一万円を超える場合飲食税として県に十パーセント収めなくてはならなかった。一万円の宿泊料なら一万千五百円と飲食税千百五拾円足してもらっていた。奉仕料で大半の給与がまかなえた。北陸の旅館などは全チップ制で女中さんには給与を払わない地域もあった。北陸の仲居さんは営業マンでもあり客集めから客に二次会の世話、芸者の世話、枕代つまり売春のマージン稼ぎやストリップ小屋への紹介料等が仲居さんの収入となった。北陸の旅館は腕の良い仲居をいかに集めるかが勝負だった。一夫の宿の女中さんも一度北陸のある旅館に全員引き抜かれたことがあった。そんな戦いも旅館にはあったのである。
 一夫の宿の裏側は森になっていて、地元の有力者鵜飼家の茶室と蔵が残っていた。空襲でおお方燃えてしまったが、茶室の横の手洗いの石や渡ってゆく飛び石、蔵は燃え残っていた。鵜飼家はかって造り酒屋を営み、儲け出し庄内川まで自分以外の土地は歩かなくてもよいという程の財力を持っていた。名古屋駅西側の入口を開けるのに尽力した程の有力地主だった。二代続けて株で大損、没落し戦前の勢はなくなったが、まだ地元の有力者の権力だけは持っていた。息子がその茶室跡に幼稚園を造り始めた。雑木が生い茂っていた土地に土木業者が入り整地が始まった。何故か蛇が沢山巣くっていた。池に使われていた奇石や手洗いの石は近くの実家の方へ運ばれて行った。蔵はそのまま残った。鉄骨で校舎は造られ小さな幼稚園は完成した。政志の弟の保夫が通うようになった。保夫は家が隣なので気が向かないとすぐに帰って来る幼い児だった。
 幼稚園から西一歩道を隔てた所に飯田女学院跡があった。空襲はそこまでで駅の西側にあった家はすべて焼失していた。飯田女学院からもう少し西側は以前の通り田舎の風情そのままだった。当時は地域の事を高針地区と呼んでいた。小出、寺島、杉戸、鵜飼が独占したこの地域は江戸時代、もっと下か上ぼれば則武荘、高針荘と呼ばれた平安の荘園時代と変わらずゆったりと時は流れたのだろう。昭和十二年中村区が名古屋市に合併するまで旧弊とした気風のまま人は育ったようだ。昭和十二年は面白い年であった。笹島から東洋一と云われる名古屋駅が現在の場所に移転したのである。すごい工事であった。基礎にはシベリア松を何千本も使い土地を固めた。この駅が出来たことにより中村はいや名古屋全体が発展してゆくことになった。

 この年中村が名古屋市に合併することになり記念に赤鳥居のモニュメントが出来中村公園や太閤神社が設備された。都市計画が発表され田んぼばかりの中村が変貌することになった。遊里ヶ池が埋め立てられ日赤が出来た。楠橋の東の方にはスーパー銭湯の走りのような施設が出来演劇も見せた。文化住宅と称する建て売り住宅が随分建ち人口を増やした。住民は秀吉や清正がシンボルと格付け二人にまつわる地名を名付けた。太閤通り清正通り等である。中村区の骨格が出来、点と線を結び街が広がっていった。
 旅館街は笹島駅近くのものはそのまま残り新しい駅ビルの近く何軒か建つことになった。旧の旅館街には夏目漱石が書いた三四郎の作品に出て来る角屋、その他信忠閣、舞鶴館、五月本店、支店、神谷等があった。名古屋駅前には長谷川旅館、遊郭で儲け出し駅前に出店した松岡、香取旅館、煉瓦屋等があった。
 大名古屋ビルヂングが出来ると香取はその中に入り木造旅館の時程客が来なくなった。松岡駅前店が一角を占め駅前に凛と建って一軒勝ちするようになった。松岡は旅行業者に頼らず顧客だけを対象にし場所が良いせいかそれで十分やってゆけた。一夫は松岡駅前店をうらやましく思った。
 大門の旅館の経営者は昔ながらの旦那衆気質が抜けず趣味に生き商売に熱心とは言えなかった。稲本は茶室があり稲本流という独自の茶道を行なっていた。隣の大観荘にも茶室があり茶道の他に日本画、謡曲等多趣味で松岡西店は木材集めに四海波は水泳にとそれぞれ違っていた。一夫は無趣味で仕事を好んだ。 
 栄に丸栄とオリエンタル中村百貨店が出来、松坂屋も改装し百貨店業界が花開いた。名古屋駅前と栄地区に分断された名古屋の商圏はそれ以来激しく競争することになった。広小路地区は段々しぼんで行った。
 大門地区ではユニーが小さなコンクリートの店を造りスーパー業界の魁となった。政志は学校の帰り寄り道して眺めに行った。駅西銀座通りはファッションの店まどかが流行し大須商店街には米兵が出来た。こうして名古屋の町にシンボル的に店が出来、人が往来するようになった。
 名古屋の町にはそれぞれ特長があった。繊維なら長者町菓子玩具は西区新道、道具漆器は西区の六区古本は上前津その他武家屋敷が連なった黒門町鉄砲鍛冶のあった鉄砲町等々地名でそこがどんな処かすぐ分った。金山には金山体育館があり夏の相撲興業が行なわれた。夏の楽しみの一つであり、小学校からも見物に行く行事が行なわれた。政志の通う則武小学校には土俵があり相撲が盛んだった。冷房設備のない体育館では決った時間に酸素吸入が行なわれ少しは暑さよけというより酸欠対策だった。小学校の冬は寒く皆鼻水を垂らし足袋を二重に履く等して防寒したが押しくらまんじゅうという体を押し当てる遊びが暖かく一番防寒になった。
 商売熱心になった一夫夫婦は一方住ま居には全く無関心で玄関を改造した八畳位の所に二人と保夫が住み里美や政志は女中部屋の前の天井裏の小部屋に追いやられた。その状況を見た好子の姉達が余りに可哀想と言った程である。政志は屋根に上り眼下の風景を見るのが楽しみとなった。宿では三度自殺する人が続いた。二人は男性の一人客で老人だった。一人は服毒でもう一人は首を欄間に掛け首を吊っていた。足が届くのに足を自分で上げ死ねるもんだと皆不思議に思った。二人とも遺書があった。病気を苦にし絶望の末の自殺だった。両方とも遺族が各故郷から来て検死の後運ばれていった。一人は若い女性の服毒だった。両手両足を浴衣のヒモで縛り乱れないようにし枕銭を置いた見事なものだった。余り見事な死に方だったので刑事が不審死を訝った位だ。枕銭と宿に対するお詫びとお金を役所に渡し葬式を上げてくれという遺言が供えられていた。他にも自殺未遂は何度かあった。胃洗浄をしながら救急車で運ばれてゆく姿は醜かった。自殺は宿屋にとって宿命だったが迷惑な事だった。流石に始末したその夜だけは部屋を空け脱臭した。美代子は客にいかに喜んでもらえるか感動を与えることが出来るか、それに自分も喜びを感じると思った。宿屋は客の命さえ預っている。金も命もと思うようになり一期一会を更に考えた。
 美代子は茶を習い始め客の接し方の礼法をますます磨いて行った。器の勉強もし始めた。美代子は実に多趣味だった。娘の里美には和琴を習わせた。宿では盗難もよくあった。貴重品は宿側が預り無くなると責任を負う約束なのだが面倒臭さがりうっかりそのまま部屋に置いてゆく客が多く部屋を空けた隙に狙われた。内部での犯行かも知れず現金は確証がないのでどうしようもなかった。盗る方もそれを知っていて現金ばかりをねらった。
 お尋ね者が泊まる事もありそういう時は警察に連絡し決して宿で逮捕はさせず帰って何処かへ寄った所を捕まえてもらった。お礼参りを恐れたからである。宿は何かと警察に頼む事が多いし警察も犯罪探査に宿の協力は欠かせない。客同志の喧嘩、各種のトラブル、宿はたまに予想外の事件が起きる事がある。近くの貸駐車場にお客様の車を入れていた処そっくり盗まれたことがあった。影も形も無くなった車の所有者のお客は当然宿側の責任を問うたが宿には責任がないことが分かりお客様に迷惑を掛けたことがあった。サービスが悪い設備が悪い等々、宿はクレームをつければ何処にでもクレームを付けることが出来る商売で、一夫夫婦はいつも対処しなければならなかった。食中毒はいつ起こるか分からない。神経が安まることが無かった。
 畢竟二人は仕事漬になり子供達は放任されることになった。麻雀が流行り出した。国鉄や旅行業者は特別ルールがありイーソを鳥と呼び一枚ごとにドラとなりチーピンがあると鉄砲と呼ばれ鳥が撃たれて死ぬという変わったルールでやっていた。三交替なので暇が出来ると集まり雀卓を囲んだ。負けた人がカァーとなり徹夜麻雀になることもあり宿がその場を貸すことになる。客は勝手なもので夜は夜食を持ってこい酒を持ってこい等要求する。女中さんが仕事終りには経営者の美代子が世話をすることになり当然寝不足になり朝は起きられない。不規則な生活が続き体調が悪くなって行く。体に鞭を打ち仕事を続ける。そんな悪循環の連日だった。  変わった客も来るようになった。民音と契約した宿には芸能人が多くやって来た。歌手や有名俳優である。芸能人の生活も朝は遅く夜も遅い仕事で昼まで寝て仕事の舞台に出て、夜遅く帰って来てそれから以後遊ぶ、それにも合わせた。田宮二郎が来た時は女中頭まで余りの美男子にのぼせてしまって食事の世話も出来ない。美代子が代って世話をした。
 政志の中学時代は、成績は鳴かず飛ばず体育と音楽も出来ない駄目な部類の生徒だった。劣等感を覚えたものの中流で行こうなどと安易に生きていた。冬のスキーだけは楽しく同級生達と連れ立って志賀高原へ行った。長野駅で夜行列車は休息を取り、その間に信州ソバを食べに行った。志賀高原パークホテルは木造で食堂からすぐにスキー場のリフトまで行けた。
ガラス窓に幾つも氷の結晶が出き雪の印を浮き上がらし美しかった。雪はさらさらして光に当たるとキラキラ光りスターダストになった。旅館の人達は優しく皆親切だった。高天原の山頂までリフトに乗り直滑降で急斜面を下ったりボーゲンやクリスチャニアを勉強したりし楽しんだ。
 この間テレビでは六十年安保の映像が流れたり山口二矢が社会党委員長浅沼稲次郎を刺殺する場面を写し出し、政志は少なからず社会に対し目を向くようになった。
 日本の成長は加速度を増していた。名古屋では数年前に地下鉄東山線が開通し駅前に巨大な地下街が出来、今度は新幹線が出来東京名古屋間を三時間で走ると言う。駅裏の整理が始まった。元々国鉄用地や名古屋市の土地に戦後のどさくさに不法に建てたバラック街である。それでも土地交渉は難儀な仕事である。話は進みどんどん駅裏は変貌して行った。駅西に新幹線の駅口を造らねばならず工事は急ピッチで進んで行った。懐かしい店がどんどん壊され空地となって行き駅工事が始った。樹林のように客待ちで立ちんぼうしていた女達も消えてゆき駅裏は確実に変わろうとしていた。でん助賭博やガマの油売りの軽快なしゃべりも駅の前に立たず寂しい街となり始めた。市場街はそのままビルを建て残り繊維組合の岸田さんは亀島に名毎ビルを造り組合員ごと移って行った。一夫の宿には夜行列車の汽笛が聞こえなくなりいつしか建築の槌音に変わった。
 駅西口が出来たのは政志が南山中学へ通うようになってからだ。汚れた溝内の柱も装飾され戦後は感じられなくなった。唯一中央コンコースの大時計がそのまま時を刻んでいた。
駅西は椿神社東まで整備されたが銀座商店街から西はそのままだった。椿神社の神主の一色さんは下野一色にあった源氏の流れで極東軍事裁判で処刑された松井岩根大将と血類だった。松井大将は南京虐殺の汚名で死ぬ事になったが攻略の時は提灯行列で名古屋中大変な騒ぎで喜んだという。碑は終戦直後池に沈められ隠されたが、日本が講和条約を結んでから椿神社へもどされたと言う。一色さんの母上は一弦琴の名古屋市の無形文化財で行事がある度に演奏を聞く事が出来た。
 椿神社の南側にあった真弓牧場は牛がいなくなり真弓商店と駐車場になった。丸一のり店は丸一ストアーのビルを造りそこで食料品全般を販売している。カナリヤを駅裏で売っていた井上鳥獣店は駅西銀座通へ移り、何軒かの商店も銀座通へ移転した。
政志は新幹線で豊橋までの一区間同級生の鬼頭と試乗したが余りに早過ぎて何の感慨も残らなかった。一夫の宿は客が一変した。東京からの出張が減り半分程になった。一夫は増えている観光客を伸ばそうと考えるようになった。同時に朝食休憩昼休憩、団体宿泊、修学旅行等も狙い販路を増やそうと考えた。 (第二章に続く)

著者  平子 純
発行者 もぉやぁこ観光㈱
発行日 二〇一六年六月吉日

11/3/21