「手が可哀相」  平子純

 私が手と付き合って六十七年になる。よく私に仕えてくれたものだ。私の手はなよなよしていて指も長くほっそりして労働者の手とは、とても言えない。よく女のようだとか羨ましいと言われる。確かに自分のものながら美しいと思っていた。よく洗い事や包丁で手を使った女性には羨望の的だったかもしれない。
 多分もうすぐ死がやって来てこの手とも別れなくてはならない。そう思うと少し可愛そうな気になった。この一年私は病気で寝込む事が多かった。六十歳から酒を飲み過ぎ、私は運動しなかった。すぐ悪い影響が表われ足もとがままならぬようになり、ほんのちょっとした穴に足を取られ転び大腿骨を骨折し入院したのが昨年の四月。手術してさらに別の病院でリハビリもした。

 ようやく歩けるようになったが今度は腰が痛くなり退院したものの自宅で寝込むことになった。一カ月半ほど寝たきりの状態で妻に下の世話までさせたが、杖でやっと歩行が可能になったものの今度は脳梗塞で再び入院。四十日あまり治療ののち再びリハビリ病院で百日余入院した。病院では主に足の訓練だったが、たまに手のリハビリもした。手の場合は作業療法師が教えることになっていて、よくグーやパーの運動や手を上げたり曲げたりの作業とか、物を並べたり持ち上げたり、と幼児がするような運動をさせられた。
 いまだに健康だった頃のように無意識になんでも出来るとは言えない。特に、左手に障害が残ったようだ。実に怖い病気で人間の脳がよく造られ無意識のうちに脳が神経を通し手や足に命令をするものだと考えさせられた。私の場合、喋りにも障害が出たので本当に人間の体のよく出来たことに再認識させられる。脳からうまく命令を伝達しないと舌は動かないし喉も動かなく声も出せない。呂律も回らず、喉の弁がうまく動かないと音が出せないどころか食も駄目になる。
 食が出来ないことは致命的で、鼻や腹から直接、栄養を注入しなければならなくなる。脳はよく出来ていて無意識のうちにすべての器官が動くようになっていて、手も足も体も動くようになっている。どうやって進化したものかは分からない。人知を越えて長年をかけ出来上がってきたのだろう。コンピューターがいかに高度になっても人体のような完成品は出来ないだろう。

 さて手に話を戻そう。私は思い出している。女性の髪の間を私の手が伸び、髪と髪をすき、撫でた日々のことを。髪は私の手の中を生きもののように自由に流れ、その一雫が私の手を優しくさすり、私がその手触りに歓喜したのを。私の手は乳房をやわらかくもみ、その動きに合わせ乳房は赤らみ少し膨らんだのを。私の手は、さらに下に伸び腰を撫で女性の持つ大切な泉や柔毛の部分に触れたとき、女性はたまらずちいさく声をあげ、さらに愛撫を求め私は泉の部分から愛液が湧き上がるのを悦び、私自身も声を上げたのを。
 私は愛撫をやめ、女性の手に移り手をさすったり噛んだりすると、女性はさらに大きな声を上げ私自身も達してしまった。女性は指の先の爪と指の間の狭い部分に性感帯があるようで、そこを柔らかくさすると女性はちいさな口を開き、からだ自身が細かく動き、さらに泉が液をふきだした。私は、今度はしっかりと二人の手を結び接吻をすると、女性は満足したように微笑を浮かべ、こんどはからだを入れ替え私の体に乗り、私自身を欲しがった。

 私は今、つくづく自分の手を見て、もう出来なくなった恋のうごめきを懐かしく思い、次のリハビリ運動に心を入れ換え、先生の来るのを待っている。きょうの作業療法師の先生は、厳しくて手の動きを大きく要求する。私は先生の要求に合わせ手を垂直に上げたり、右や左に伸ばしたり、と忙しい。
 再び手をじっと見てみる。右手の中指の真ん中には生まれながらの文筆黒子(ほくろ)が残っている。手には潤いが失せ、乾き、皮膚のための乳液を求めているのに私は薬がないまま放置している。太宰治は小説の中で手が可哀相と言っている。私もつくづく私の手が可哀相と思うようになった。 (完)

16年4月21日

「手つかずのPASTEL」  真伏善人

 私が手と付き合って六十七年になる。よく私に仕えてくれたものだ。私の手はなよなよしていて指も長くほっそりして労働者の手とは、とても言えない。よく女のようだとか羨ましいと言われる。確かに自分のものながら美しいと思っていた。よく洗い事や包丁で手を使った女性には羨望の的だったかもしれない。
 多分もうすぐ死がやって来てこの手とも別れなくてはならない。そう思うと少し可愛そうな気になった。この一年私は病気で寝込む事が多かった。六十歳から酒を飲み過ぎ、私は運動しなかった。すぐ悪い影響が表われ足もとがままならぬようになり、ほんのちょっとした穴に足を取られ転び大腿骨を骨折し入院したのが昨年の四月。手術してさらに別の病院でリハビリもした。

 ようやく歩けるようになったが今度は腰が痛くなり退院したものの自宅で寝込むことになった。一カ月半ほど寝たきりの状態で妻に下の世話までさせたが、杖でやっと歩行が可能になったものの今度は脳梗塞で再び入院。四十日あまり治療ののち再びリハビリ病院で百日余入院した。病院では主に足の訓練だったが、たまに手のリハビリもした。手の場合は作業療法師が教えることになっていて、よくグーやパーの運動や手を上げたり曲げたりの作業とか、物を並べたり持ち上げたり、と幼児がするような運動をさせられた。
 いまだに健康だった頃のように無意識になんでも出来るとは言えない。特に、左手に障害が残ったようだ。実に怖い病気で人間の脳がよく造られ無意識のうちに脳が神経を通し手や足に命令をするものだと考えさせられた。私の場合、喋りにも障害が出たので本当に人間の体のよく出来たことに再認識させられる。脳からうまく命令を伝達しないと舌は動かないし喉も動かなく声も出せない。呂律も回らず、喉の弁がうまく動かないと音が出せないどころか食も駄目になる。
 食が出来ないことは致命的で、鼻や腹から直接、栄養を注入しなければならなくなる。脳はよく出来ていて無意識のうちにすべての器官が動くようになっていて、手も足も体も動くようになっている。どうやって進化したものかは分からない。人知を越えて長年をかけ出来上がってきたのだろう。コンピューターがいかに高度になっても人体のような完成品は出来ないだろう。

 さて手に話を戻そう。私は思い出している。女性の髪の間を私の手が伸び、髪と髪をすき、撫でた日々のことを。髪は私の手の中を生きもののように自由に流れ、その一雫が私の手を優しくさすり、私がその手触りに歓喜したのを。私の手は乳房をやわらかくもみ、その動きに合わせ乳房は赤らみ少し膨らんだのを。私の手は、さらに下に伸び腰を撫で女性の持つ大切な泉や柔毛の部分に触れたとき、女性はたまらずちいさく声をあげ、さらに愛撫を求め私は泉の部分から愛液が湧き上がるのを悦び、私自身も声を上げたのを。
 私は愛撫をやめ、女性の手に移り手をさすったり噛んだりすると、女性はさらに大きな声を上げ私自身も達してしまった。女性は指の先の爪と指の間の狭い部分に性感帯があるようで、そこを柔らかくさすると女性はちいさな口を開き、からだ自身が細かく動き、さらに泉が液をふきだした。私は、今度はしっかりと二人の手を結び接吻をすると、女性は満足したように微笑を浮かべ、こんどはからだを入れ替え私の体に乗り、私自身を欲しがった。

 私は今、つくづく自分の手を見て、もう出来なくなった恋のうごめきを懐かしく思い、次のリハビリ運動に心を入れ換え、先生の来るのを待っている。きょうの作業療法師の先生は、厳しくて手の動きを大きく要求する。私は先生の要求に合わせ手を垂直に上げたり、右や左に伸ばしたり、と忙しい。
 再び手をじっと見てみる。右手の中指の真ん中には生まれながらの文筆黒子(ほくろ)が残っている。手には潤いが失せ、乾き、皮膚のための乳液を求めているのに私は薬がないまま放置している。太宰治は小説の中で手が可哀相と言っている。私もつくづく私の手が可哀相と思うようになった。 (完)

16/4/1