「あぁ、淡墨桜」  伊神権太

 私も若かった。二十代の後半から三十になるかならないころ。血気盛んな一線の新聞記者だったころの話である。
 小説家の宇野千代女史に大変、かわいがられたことがある。岐阜県政始まっていらいの大疑獄とされた岐阜県庁汚職事件で大揺れのさなかだった。当時、私は新聞社の記者として岐阜県警と本巣郡回りをしていた。千代さんとは、その本巣郡根尾村板所(現本巣市)にあった樹齢千五百年の淡墨桜(うすずみざくら)の取材を通じて知り合った。これより先、老いさらばえ枯死寸前だった老樹を目の前にした彼女は地元新聞社を通じて、時の知事平野三郎さんに宇野書簡を出し、老樹の再生と保護を訴えた。このひたすらな声に文人知事平野さんらが快く応じ、淡墨桜顕彰保存会が誕生。以降は若い芽の根継ぎや周りの雑草除去、定期的な施肥などの保護再生に力が注がれた。
 私はといえば、志摩半島の鵜方(現三重県志摩市阿児町鵜方)にあった中日新聞志摩通信部から岐阜へ転任してきたころで、あのころは週に一度は、と心に期し、どんなに多忙でも淡墨桜の元を再三訪ねたものである。千代さんとは、その折にたまたま根尾川河畔の桜のお宿・住吉屋さんでお会いし、それ以降は二度、三度と食事を御馳走になり、淡墨桜に関するいろんな話を教えていただいた。お会いするときは決まって、お付きのちょっと美しい女性と一緒で桜の模様が描かれた和服に身を包み「イ・ガ・ミさん。調子はどお」といった具合に微笑みかけてくださった、あの日々は今も大きく目の前に浮かんでくる。ある時など老樹の傍らに立つ民家が根っこの衰えを加速している、何とか移転して頂けないものかといった話になり私が東京の文化庁に電話を入れて自己談判、移転話が本当に実現してしまったこともある。おそらく千代さんの援護射撃があったからに違いない。
 そして。昭和五十一年四月十二日、淡墨桜観桜会の日が訪れた。私は、老樹の再生に情熱を注ぎ続けて、この日を迎えた宇野千代さんの満足そうな顔を永遠に忘れることはないだろう。確か、あの時は、千代さんと平野知事=まもなく県庁汚職加担の責任を取り失脚=、当時千代さんが執筆した小説「薄墨の桜」のなかにも登場する、東京平河町の料亭「一条」の女将室谷秀さん(76歳)の三人に桜の前に立って頂いて写真撮影したと記憶している。傍らでは、今は亡き榎本喬中日新聞岐阜総局(現岐阜支社)長=榎本さんは後の石川テレビ社長=ご自身が、取材しやすいように私のカバンを持ったり、傘をさしてくださった。大先輩に向かって〝エノさん〟というのもおこがましいが、エノさんには随分とお世話になったものである。今から思えば、千代さんが私を大切にしてくださったのは、その背後に元文化部長でもあった〝エノさん〟の無言の力があったからかも知れない。
 観桜会の日は、あいにくの雨天だったが、千代さんが桜の若返りを平野知事らに呼びかけてから十年の月日が流れていた。その日、老巨木は小説「薄墨の桜」にも出てくる通り、雨の一粒ひと粒を吸いこむように生き生きとよみがえっていた。小粒で薄墨色をした銀の小粒にも似た花々を前に千代さんはしみじみと、こう話してくれたのである。
「ショボショボとなんだか、ひとひらひとひらが可哀そうみたい。でも、じっと見ていると、ちぃっちゃくても大きく見える。花弁も薄墨色の光りを放ち、いっそう妖艶だわ。」
 そして最後にこう、おっしゃられた。
「あのね。イ・ガ・ミさん、淡墨桜は年老いても必死に生き、毎年美しい花を咲かせている。村のこどもたちには、こうした根性と同時に、いつまでも失わない若さを保ち続けてほしい」と。私はいまの齢になり、この言葉がよく分かるのである。 (了)

14年12月29日

「母と僕のさくら」  真伏善人

 私も若かった。二十代の後半から三十になるかならないころ。血気盛んな一線の新聞記者だったころの話である。
 小説家の宇野千代女史に大変、かわいがられたことがある。岐阜県政始まっていらいの大疑獄とされた岐阜県庁汚職事件で大揺れのさなかだった。当時、私は新聞社の記者として岐阜県警と本巣郡回りをしていた。千代さんとは、その本巣郡根尾村板所(現本巣市)にあった樹齢千五百年の淡墨桜(うすずみざくら)の取材を通じて知り合った。これより先、老いさらばえ枯死寸前だった老樹を目の前にした彼女は地元新聞社を通じて、時の知事平野三郎さんに宇野書簡を出し、老樹の再生と保護を訴えた。このひたすらな声に文人知事平野さんらが快く応じ、淡墨桜顕彰保存会が誕生。以降は若い芽の根継ぎや周りの雑草除去、定期的な施肥などの保護再生に力が注がれた。
 私はといえば、志摩半島の鵜方(現三重県志摩市阿児町鵜方)にあった中日新聞志摩通信部から岐阜へ転任してきたころで、あのころは週に一度は、と心に期し、どんなに多忙でも淡墨桜の元を再三訪ねたものである。千代さんとは、その折にたまたま根尾川河畔の桜のお宿・住吉屋さんでお会いし、それ以降は二度、三度と食事を御馳走になり、淡墨桜に関するいろんな話を教えていただいた。お会いするときは決まって、お付きのちょっと美しい女性と一緒で桜の模様が描かれた和服に身を包み「イ・ガ・ミさん。調子はどお」といった具合に微笑みかけてくださった、あの日々は今も大きく目の前に浮かんでくる。ある時など老樹の傍らに立つ民家が根っこの衰えを加速している、何とか移転して頂けないものかといった話になり私が東京の文化庁に電話を入れて自己談判、移転話が本当に実現してしまったこともある。おそらく千代さんの援護射撃があったからに違いない。
 そして。昭和五十一年四月十二日、淡墨桜観桜会の日が訪れた。私は、老樹の再生に情熱を注ぎ続けて、この日を迎えた宇野千代さんの満足そうな顔を永遠に忘れることはないだろう。確か、あの時は、千代さんと平野知事=まもなく県庁汚職加担の責任を取り失脚=、当時千代さんが執筆した小説「薄墨の桜」のなかにも登場する、東京平河町の料亭「一条」の女将室谷秀さん(76歳)の三人に桜の前に立って頂いて写真撮影したと記憶している。傍らでは、今は亡き榎本喬中日新聞岐阜総局(現岐阜支社)長=榎本さんは後の石川テレビ社長=ご自身が、取材しやすいように私のカバンを持ったり、傘をさしてくださった。大先輩に向かって〝エノさん〟というのもおこがましいが、エノさんには随分とお世話になったものである。今から思えば、千代さんが私を大切にしてくださったのは、その背後に元文化部長でもあった〝エノさん〟の無言の力があったからかも知れない。
 観桜会の日は、あいにくの雨天だったが、千代さんが桜の若返りを平野知事らに呼びかけてから十年の月日が流れていた。その日、老巨木は小説「薄墨の桜」にも出てくる通り、雨の一粒ひと粒を吸いこむように生き生きとよみがえっていた。小粒で薄墨色をした銀の小粒にも似た花々を前に千代さんはしみじみと、こう話してくれたのである。
「ショボショボとなんだか、ひとひらひとひらが可哀そうみたい。でも、じっと見ていると、ちぃっちゃくても大きく見える。花弁も薄墨色の光りを放ち、いっそう妖艶だわ。」
 そして最後にこう、おっしゃられた。
「あのね。イ・ガ・ミさん、淡墨桜は年老いても必死に生き、毎年美しい花を咲かせている。村のこどもたちには、こうした根性と同時に、いつまでも失わない若さを保ち続けてほしい」と。私はいまの齢になり、この言葉がよく分かるのである。 (了)

14/12/15