連載小説「死神の秘密〈その3〉」

 【前回〈その1〉〈その2〉までのあらすじ】
 目が覚めると死神になっていた少年ユタは、住人全員が死神というアパートの草葉荘に住むことになった。監視者のサク。女の子なのに一人称が『僕』の、おしとやかなシノ。そして双子の元気な女の子ミキと、無愛想なミナト。ユタは仲間の死神たちに振りまわされながらも生活していくことになる。買い物へ行く途中で、ユタは百合子という少女に出会う。「橋から飛び降りて死のうとしていた」と言う彼女を放っておけずに、ユタは自分は死神だと正体を明かす。死神の仕事をしていく中で、ユタは自殺したことを後悔するようになる。
 そんな時、バスの大事故が起こり死神たちは魂の回収へ行くことになった。ユタは人が死ぬ意味に疑問を持ち、死にかけている少女を励まそうとする。が、ミナトに「どうせ死ぬのだからそんなことをしても無駄だ」と言われる。そんなミナトは双子の妹ミキとの過去を気にしていて、共に死んだことをずっと重荷に感じていたことを告白する。ミキを冷たくつき離そうとするミナトに、ユタは苛立ちを隠せない。殴り合いのケンカに発展したが、ユタはミナトの本音を引き出そうとする。しかしミキは離れていってしまい…。
        ☆        ☆

 3

「そっとしておいてって、いったはずだけど」
 なんでまた来てるの、とでも言いたげな表情で、百合子がユタを見下ろしていた。
 昼休みの蒼井戸高校の屋上。やはり今日も彼女はそこに来ていた。もうこの場所には来ないのかもしれないと、不安に思っていたユタは内心ほっとしていた。
「この場所が好きだから」
 すっかり定位置になっているその場所に、ユタは座っていた。校舎の壁に背中を預けていると、とても落ち着く。だから本心からそう言った。別に百合子のためではないと言いたかったが、半分ぐらいその気持ちはあったので言葉を呑みこむ。
 しかし意外だ。もう口を利いてくれないくらい怒っているかと思ったのだが、どうやら思い違いだったらしい。
「どうしたの? その顔」
 百合子にそう尋ねられて、ユタは思わず目を丸くした。
 意外だった。他人が腫れた顔をしていても百合子なら自分には関係ないと、気にも留めないとユタは思っていたのだ。
「ミナトと殴り合ったんだよ」
 ユタは息を吐きながら答えた。
 あれから数時間が経過している。ユタの顔は、絆創膏とガーゼだらけになっていた。誰がどう見たって、殴られたとわかる。
「そう。青春みたい」
 呟くように百合子が言った。
「そんなんじゃないよ。なんと言うかまあ、説教みたいなもん。本当はこんなところで油を売ってる場合じゃないんだけど、ちょっと迷っててね」
 ユタは眉間にしわを寄せる。
「何を」
「ミキを探すかどうか」
 百合子に尋ねられ、ユタはそう答えた。
 ユタはミナトと殴り合った一連の騒ぎを、かいつまんで百合子に話すことにした。
「しばらく離れよっか」ミキはそう言った後、一人でどこかへ行ってしまったのだ。ミナトは追いかけようとはせず、ユタたちはサクに言われるまま、草葉荘へ戻った。ユタはシノに手当てをしてもらってから、部屋をこっそり抜け出した。怪我の度合いはユタの方がひどいが、本当に手当てが必要なのはミナトの心の方だと思う。
「俺はミキとミナトの仲を引き裂くつもりなんてなかった。まさか、あんなことになるとは思ってなかったんだよ」
 ユタは辛い顔をする。
「そうかな。あなたは関係ないと思う。でも、責任を感じているの」
 百合子の問いに、ユタは頷いた。
「関係あるよ。半分ぐらい、俺のせいだろ。俺があんな風にまくし立てなきゃ」
「後悔先に立たず」
「え?」
 唐突な百合子の言葉に、ユタは思わず首を傾げた。
 してしまったことは元に戻せない。取り戻すことが出来ない。という意味のことわざだったと思う。
「ずっと考えてた。あなたたちのこと。あなたたち、死神のこと」
 百合子はそう言いながら、ゆっくりとユタの隣に腰を下した。
「自殺して死ぬ人間はみんな、死んだことに対して後悔なんてしないんだって勝手に思ってた。もちろん今でも思ってる。私は自殺しても後悔しない自信がある。でも、あなたたちは違う」
 百合子の意見に『そうだ。違う』とユタも思う。
 彼女は続ける。
「あの双子がどうなのかはよくわからないけれど、少なくともあなたは後悔している。そしてそれに抗おうとしているように、あたしには思えた。無駄なことだってわかっているのに、正直バカだと思う」
 歯に衣着せぬ物言いの百合子に、ユタは苦笑いする。
「バカって、お前な」
「あなたはどうしたいの。あなたは彼女を探したいの。だったら納得するまで探せばいいと思う。それがあなたでしょう」
 つまり百合子は、こんなところで悩んでないでさっさと探しに行けばいいでしょ、このバカと言いたいらしい。ひどく曲解かもしれないが、反論の余地もなかった。
「わかったよ。探しに行くよ。と言っても、まったく見当がつかないんだけどな。俺、ミキとまだそんなに仲いいってわけじゃないし」
 ため息混じりにユタは言った。もっと仲良くなっていればよかった、と今さらながらに思う。
「そう。なら、見当のつく人に聞いてみたら」
「え?」
 百合子の言葉を聞いて、真っ先に頭の中にミナトが浮かんだ時だった。突然校内放送のチャイムが鳴った。屋上とはいえ一応屋外にいたのではっきりとは聴こえず、代わりに地面が僅かに振動したのが身体に伝わる。
「二年――組。――さん。至急、職員室まで――さい」
「うお、びびった。今、なんて言った?」
 反射的に、ユタは背後の壁に耳を押し付ける。死神の姿のままなので、押しつけた耳は壁を超え頭ごと校内へ入り込んでしまい、間抜けな格好になってしまった。けれど今度ははっきりと放送が聴こえた。
「繰り返します。二年A組。梶川百合子さん。至急、職員室まで来てください」
 ユタは驚愕した表情をしたまま、頭をゆっくりと持ち上げて屋上側にいる百合子を見た。彼女の視線はどこか遠くに注がれていた。まるですべてわかっているかのような、余裕な表情にも見えた。
「お前、何やったんだ?」

 蒼井戸高校の屋上は本来、立ち入り禁止だ。しかし、長らく使われていなかったため老朽化が進み、鍵穴は錆びてしまっていた。鍵は取り換え予定のためにそのまま放置され、百合子が最初に屋上に来た時には壊れたままの鍵は開いていた。
「すみませんでした」
 そう言いながら丁寧にお辞儀をする。生活指導の先生はそれを見てからはもう何も言ってこなかった。いや、言えなかったのだろう。それは百合子の態度が一度言えば十分な生徒に思えたからでは決してない。ないはずだ。百合子がどうして立ち入り禁止の場所にずっと通っていたのか、少し考えればすぐに気付くだろう。よほど鈍い教師でなければ。
「わかったのならいい。次からは気を付けてな」
「はい」
「それから、今度から何かあったら保健室へ行きなさい」
 先生なりの精一杯の気づかいだったのか、最後にそう言って咳払いした。罰が悪いのだろう。あの場所は、学校に居辛い百合子にとって唯一の居場所だった。それは教室内でのいじめを黙認している先生ならば理解できること。
「はい」
 百合子は返事をすると、踵を返して職員室から出ていく。
「失礼しました」
 今度は軽いお辞儀をすると、ゆっくり扉を閉めた。
 さてこれからどうしようかと、緊張を解いてからまず始めに百合子は思った。何せ、校内唯一の逃げ場所を失ったのだ。先生の言う通り保健室にしようか。いや、ダメだ。それでは他の生徒も利用する。それに先生もいるだろうし独りにはなれない。まあ、ここしばらくはあの場所でも独りきりではなかったけれど。
 いろいろ思案しながら、それよりまずこの背後で黒い羽根を生やした、人ではない存在をどうにかしなければと心の隅で思う。
 彼は、ずっと見ていた。百合子が職員室に呼び出されてから、先生に叱られて頭を下げるところまで一部始終。何も言わずにただじっと百合子のことをみつめていた。まあ、ここで彼がしゃしゃり出てきたらどうしようかと思っていたところなので大人しくしていてくれて幾分か助かったが。しかし本当に、彼は他の人には見えていないらしい。廊下を歩いていても、職員室にいても、誰も彼の姿に気付く者はいなかった。
「まあ、仕方ないよ。ほら、元気出して。また別の場所探そう。な?」
 彼が困った顔をしながら、そう声をかけてくる。励ましているつもりだろうか。彼、死神と名乗る彼。死神ユタのことは百合子もよくわからない。ただ人ではないこと。死神であること。既に死んでいて、自殺していることぐらいしかわかっていない。あと、他にも死神の仲間がいることぐらい。
「あなたは別に探さなくてもいいんじゃない? どうせ他の人には見えないんだから」
 周りの人は独り言のように見えるだろう。それが恥ずかしくて、百合子は小声で呟くように言った。表情は変わらず冷静のままで。顔には出ないから、いつも何を考えているかわからないと言われてしまう。
「そ、それはそうだけど。あの場所からお前がいなくなったら意味ないんだよ」
「どうして?」
 聞き返しながら、百合子はゆっくりと歩き出す。なんだか本当に恥ずかしい。こうして、校内で彼と話をしていることなんてあまりなかったから。
 何も言わずともユタが付いてくるのなんてわかっていたから、構わず歩く。
「どうしても。俺はあの場所で、お前と話をしていたい。お前のこともっと知りたいし、理解したい。そういう理由じゃダメ?」
 ユタの言葉に驚きながら、百合子は冷静さを失わない。自分のことを理解したいだなんて言われたのは、もしかしたら初めて。悪い気はしないけれど、そういうのは多分、好意を持った人間に言うべきだと百合子は思う。
「ダメ。だってあたしは、それを望んでいないから」
 だからそう言って拒否する。これ以上、踏み込んでこないでと願う。
「なんでだよ。俺は望んでいる。お前と過ごしたあの屋上が、俺にとっても居場所だった。あの場所にいると心が落ち着くんだ。だから」
「だったら」
 ぽつりと呟いて、百合子は立ち止まる。
「だったら、あたしなんかいなくてもいいじゃない」
 はっきりとそう口にして、百合子は心に何か冷たい物が落ちるのを感じた。気のせいだろうと思って、必死でそう思おうとして。言葉が止まらなくなっていた。
「言っておくけれど、あたしはもう二度とあなたを必要としないし、利用するつもりもない。勘違いしないで、あたしは別にあの場所がなくなっても平気なんだから」
「え? ちょっと、百合子――」
 再び歩きだした百合子に向かって、ユタが名前を呼ぶ。なれなれしいので返事はしない。それでも追いかけてくるのが、どうかと思う。
 思えばあの日。死神ユタと出会ったあの日。百合子は別に死のうとしていたわけではなかった。いや、いつも死にたいとは思っているが死ぬつもりでああしていたわけではない。それをユタは勝手に勘違いをしたのだ。だったらそれに乗ってやろうと百合子は思って、川に飛び込もうとしていた可哀想な女の子を演じた。どうせこれ一回切り。そう思って演じた。本当は、あの川はそれほど深くない。子どもが遊びで橋から飛び降りても平気なくらいだ。そんなことも知らない彼が、地元民ではないのだとあの時すぐにわかった。
 川は好きだ。自分の中の汚い感情をすべて洗い流してくれる気がするから。裸足も好きだ。コンクリートが冷たくて気持ちが良い。季節が夏であったならもっと気持ちが良いだろう。だけれど生憎と寒い冬が近づいてきていて、それだけはどうにも苦手だった。だからだろうか。気まぐれに、百合子は彼に嘘をついた。死のうとしているなんて嘘だった。
『嘘つき』そう言ったのは、本当はどちらに向けた言葉だったのだろうか。
「ところで、どこまでついて来る気?」
 女子トイレの前、仕方なしにそう声をかける。
 百合子は独りになりたかった。流石にここならユタも入ってこられないだろうと思ってわざわざ移動したのだ。
「あ。う、うん。外で待ってる」
 ユタが慌てたようにそう言って、百合子はちょっとだけ安堵した。昼休みが終わるまでここで時間を潰そう、そう思っていた。

「でさー」
「えー、まじで?」
 女の子、二人の声が聞こえる。
 一番奥の洋式便器の配置してある個室。百合子はふたの上で両足を抱えてぼーっと座っていた。だからしばらく気付かなかった。誰かが女子トイレに入ってきたことに、気付くのが遅れてしまった。
 職員室のある階のトイレは、生徒が使う機会がほとんどない。先生と、放送部の部員ぐらいだろうか。もしかしたら上の階のトイレが混んでいて、生徒が下の階を利用するというのもあるのだろうか。いろいろ考えを巡らせる。
「てかさっきの放送さ。誰があのことばらしたの」
 誰かが、気になる言葉を発していた。誰だろうか。あのこととは、あのことだろうか。屋上の件。
「あー、あれね。あたしだよ。ばらしたとか言わないでよ、人聞き悪い」
「そうなんだ。ごめん。だってびっくりしたんだもん」
「そもそもあそこは立ち入り禁止だったんだから。あたしは一生徒として当然のことをしただけよ。悠々とした顔であそこに居座ってるあいつが悪い。自業自得よ」
「だよねえ。でも、変だよね。確かにあの日、あそこに閉じ込めたのに。鎖でぐるぐるに巻いて開かないようにしてやったから、助けを呼ぶしかなかったのにね。まったくどんな手品遣って脱出したんだろう」
「謎ね。もっと早くこうすればよかった。ま、これであいつの居場所はなくなったわけだし。気分いいわ」
「だねえ」
 そんな風に談笑している声が聞こえる。
 やっぱりか。と百合子は半ば呆れたように思う。屋上の件をばらしたやつがいる。大方予想は付いていた。知っていた。誰がそんなことをしたのか。
 死神ユタと二回目に会った日。百合子は屋上に閉じ込められていた。あの時は本当にびっくりして、それから安堵した。助けてもらえると確信してしまったから。でもユタと話をしている間中、ずっと罪悪感を抱いていたのも事実。何故なら、あの嘘をついてしまった日からずっと、そのことについて後悔をしていたから。けれどもう一度彼に会うことがあるなんて、思ってもいなかった。
 死にたいと思っているのは嘘じゃない。けれど、死のうと思ったことは一度もない。それは嘘。百合子はその嘘から、いつの間にか逃れられなくなってしまっていた。ユタを見ていると、本当のことが言えなくなる。彼の必死な表情を見ると、本当のことを言うのをためらってしまう。
「大体あいつ気持ち悪いんだよ。こないだこっそり屋上見に行ったら何してたと思う? ぶつぶつぶつぶつ独り言。気味悪いったら」
「うわー、まじで? 気持ち悪い」
 女生徒たちの言葉に、ユタとの会話を見られていたのかと、かっと顔が熱くなるのを感じる。
「あいつ存在自体がうざいんだよ」
 二つの声が、段々大きく。百合子の中を埋め尽くす。
「消えてほしい」
 言葉が、こんなにも鋭い刃になって突き刺さるものだなんて思わなかった。
 存在否定をされたって平気。いつものこと。大丈夫。そう言い聞かせて。百合子は、身体を震わせる。全身が針に刺されたみたいに痛む感覚。きっと気のせいなのだろうけど。
 今すぐこの場から逃げたい。そう思っても逃げられない。どこから逃げればいいのだろう。窓から? ここは、何階だっただろう。 
 百合子の頭は混乱していた。少なくとも扉から普通に出ていくのはまずい。聞いていたのが丸わかりだ。あの二人はいつまでいるの? 早く出ていって。そう願うしか、百合子には出来ない。
「消えるべきなのはお前らだ」
 ふいに、低い声が聞こえてきた。聞いたことのある低音。最近いつも隣にいるあの人の声。彼の怒りに満ちた声。
 驚いて、百合子はそれまで俯かせていた顔を上げる。
「な、何よ。あんた」
「誰。てか、ここ女子トイレなんですけど」
 二つの声も驚いている様子だった。
「そんなことはどうでもいい。さっきの言葉、訂正しろ」
「は? さっきの言葉って何よ」
 彼の強い言葉に、一人の生徒がそう返す。
「気持ち悪いとか、気味悪いとか、うざいとか、消えてほしいとか。そういう言葉を訂正しろって言っているんだ。百合子の存在を否定する権利は、お前らにはない」
 女子トイレに男子がいることがどうでもいいとか。先生に見つかったら大変なことになるだろうな。と思いながら聞きなれた声が発する言葉をしっかり聞いて、百合子は少しだけ泣きそうになる。
 しかし、会話をしているということは、互いの姿が見えているのだろう。彼は普通の人には見えないはずなのに、どうして? と百合子は疑問に思った。
「何言ってんの。誰のこと言ってんの?」
「男は出てけよ。先生呼ぶぞ、この変態」
 彼女の言葉に、百合子は不安になる。先生を呼ばれたらまずいことになる。低い声の彼が、ユタが捕まってしまう。彼はここの生徒でもなんでもない。部外者なのだ。確実に警察に捕まってしまう。
「いいから、訂正しろ。謝れ。百合子に謝れよ!」
 ユタの叫び声が、響いていた。
 しばらく誰も何も言わなかった。声が聞こえない。百合子は音をたてないようにそっと便器を降りて、扉に耳を近づける。
「冗談言わないでくれる?」
 その言葉と共に、何か小さな音がした。何かはわからない。百合子はただ驚くばかりで、どうしたらいいのかわからない。自分が出ていくべきなんだろうか。それよりもさっきの音はなんだろうか。皮膚を叩くような音だった気がする。
「何するのよ。唯子大丈夫?」
 小さな悲鳴と共にそんな声が聞こえてきて、百合子は理解する。ユタが唯子と呼ばれた彼女を叩いたのだと。頬かどこかだと思う。
 唯子。名前を聞いたことがある。多分、同じクラスの石田唯子。クラスに唯子は一人しかいなかったはずだ。顔を見ればはっきりするけれど、確か彼女とは四月に一度話したきり。何を話したのかは、覚えていない。
「ふざけんな。これだから、人間は……」
 そう言う彼の声が聞こえて、百合子はいやな予感を覚えた。

「あたしなんかいなくてもいいじゃない」
 こうも自分を卑下する言葉を、どうして百合子は吐くのだろう。ユタはそれが知りたかった。すべてを諦めた顔をしている彼女。すべてを望まない彼女。可哀想だと思った。
 ユタは返す言葉を失った。これ以上彼女にどう言ったら納得してもらえるのかがわからなかった。ユタの気持ちは本物だし、嘘は一つも言っていない。出来ることならこれまでと同じようにあの屋上で、百合子と話をしたい。百合子のことをもっと知りたい。もっと理解したい。そしてその上で百合子を救ってあげたい。そう強く望んでいるのに。どうしてもその気持ちが伝わらない。ユタはそれがもどかしいと感じていた。
 だから考える。今の自分に出来る唯一のこと。女子トイレで得意げに語っていた彼女たちのこと。許せないと思ったこと。トイレにこもったまま今も震えているであろう百合子のこと。
 屋上に閉じ込められていたのは不注意だとか自分で言っていたけれど、やっぱり違うんだな。こいつらにやられたんだな。ずるいよ百合子。なんで正直に言ってくれなかったんだよ。そんなことを思いながら、ユタは何かが壊れる音を聞いたような気がした。

「きゃああああああ」
 悲鳴が聞こえる。何が起こっているのか百合子にはわからなかった。ただ、とても恐ろしいことが起こっているのではと何故だか思った。思ってしまったのだから仕方がない。怖いし、彼女たちの悲鳴が聞こえるし、ここでじっとしていることなんてできなかった。
 百合子は長方形の鍵をスライドさせて、扉を開けた。
「ユタ!」
 名を呼んで、個室から飛び出す。
 百合子は、自分の目に飛び込んできたその光景に驚愕した。
「な、何、何? なんなのよ。もう」
「私たちが、何したって」
 唯子とその友人が、震えていた。理由はすぐにわかった。彼女たちは目の前の男に恐怖を感じたのだ。
 そこにはユタがいた。死神がいた。いや、違う。羽根が生えていない。でも、黒い何か羽根のようなものが彼の周りを飛んでいた。まるで生きているかのように動いていた。そして目が、彼の瞳が赤く染まっている。
「ユタ、やめて」
 百合子は急いでユタに駆け寄る。予感がしたのだ。これはよくない予感。とてもよくない。見ればわかる。ユタは何か、とんでもないことになっている。
「あ、あんたどっから出てきたのよ」
 唯子が百合子の姿を見て、さらに驚いた顔をする。そりゃそうだろう。悪口を言っていた相手が突然奥のトイレから出てきたのだから。
 しかし、今はそれどころではない。
「いやあ。なんでもいいから早く止めて」
 彼女の友人も気が動転している。よっぽど驚いたのだろうとわかる。百合子はそれほど驚かない。いや、これでも驚いているつもりだが。彼が死神であることを、知っていたからだろうか。二人よりは冷静だと思う。
「お願い、やめて。ユタ。正気に戻って」
 百合子は言いながら、ユタの体に触れようとした。とたん、静電気みたいなぴりっとした痛みが指に走る。「いっ」思わず声が出て、顔をしかめる。これはダメだ。こんなのダメだ。そう思いながら、どうにもならないと思いながら、百合子は痛む右手をもう片方の手でさする。
「なんなのよ。その化け物! 早くなんとかして。しなさいよ。あんたの知り合いなんでしょ!」
 百合子のことをずっと無視して、数ヶ月間口もきかなかった彼女。唯子がそう言う。この状況だ。さっきから百合子の存在を無視するどころじゃないのだろう。嬉しくない。
「そうだけど、化け物呼ばわりしないで」
 思わず口に出していた。気にすることじゃないのだろうけれど、なんとなくいやで。
「はあ?」
 唯子が首を傾げている。
「確かにこの人は普通の人間じゃないけど」
 死神だし。とは言わない。余計に怖がらせるだけだから。それに、普通の人は信じない。
「騙されやすいし、ストーカーみたいにつきまとって来るし、馬鹿で、いつも真っ直ぐで自分が正しいと思ってる自信過剰なところが正直うざいけど。それでも他人に悪く言われるのはいや。何も知らないくせに、勝手なこと言わないで」
 そう吐き捨てるように言って、百合子はもう一度ユタに右手を伸ばす。
 再びあの痛みが襲ってくる。痛い。痛いけれど、我慢できる痛み。そう思い、百合子は耐える。
「ユタ。もういいから。あたしは大丈夫だから。ユタが壊れることないから。だから―」
 言いながら、百合子はもう一方の手も伸ばしてユタの両腕をつかむ。強く、強くつかむ。自分はどうなってもいい、とにかくユタを止めなければ。そう思っていた。
「戻ってきて!」
 そう叫んだ瞬間、何かがなだれのように百合子の中に入り込んできた。

 白い部屋だった。病院の個室だと思う。ベッドに誰かが横になっていた。その脇にある窓の外を眺めている少年がいた。
「父さん。元気になったら、またどこかへ遊びに行こう」
「そう、だな」
 ベッドで寝ている男性は、何だかぎこちなく言葉を返す。
「どこがいい? 父さんの好きな川に行こうか」
「そうだな。行けるといいな」
 少年が父と呼ぶ男性の言葉に、眉をひそめる。
「どうして」
 少年は言いかけて、口を噤んだ。どうしてそんなことを言うのかと。どうして行こうと、約束してくれないのかと思っていた。
「豊。父さんな」
 豊と呼ばれた少年は、頷く。
「うん」
「父さん、もうすぐ死ぬかもしれない」
「う、ん」
 頷きながら、豊は泣くなと心の中で自分に言い聞かせていた。泣いたら父を余計に哀しませるだけだと、ぐっと涙を堪えることにした。父の顔を見てしまえば泣いてしまうような気がして、どうしても振り向くことは出来なかった。
「だが、心配するな。父さんは死んでも、ずっとお前のことを傍で見守っている」
「傍って?」
 父の言葉に、豊は首を傾げる。
「そうだな。幽霊にでもなってお前の背後にいるかな」
 父は冗談が下手だと豊は思った。けれど、幽霊になった父が自分の背後にいる場面を想像して震えた。
「やめてよ。そんなの怖いよ」
「怖くないだろう。父さんだぞ」
「そ、それでも怖いものは怖いんだよ」
「はははっ」
 豊の返答に、父は軽快に笑った。
 背中に突き刺さる父の視線を感じる。振り向きたい気持ちもあったが、振り向くことはなかった。思えば父が病に伏した頃から、豊は父の顔をまともに見ることがなくなっていった。父の弱りきった顔を見るのが豊は怖かったのだ。しかし、そのことを父がどう思っていたのかはわからない。
「なあ、豊。もうすぐお前の誕生日だろう。父さん、それまで生きていられるかな」
 父のそんな弱々しい言葉を、豊は聞きたくなかった。
「そんなの、知らないよ。医者に聞いてよ」
「ああ、それもそうだな」
 父はそう言って、もう一度笑った。確かに父はよく笑う人であったが、それは病に伏してからも変わらなかった。こうして、笑う。けれど、以前とは何か違うものがあるのではないかと、どうしても豊は思ってしまう。
「ねえ、父さん――」
 記憶はそこで途切れていた。

 気がついた時には床に座り込んでいて、百合子はしばらく呆然としていた。目の前にはユタの姿があったが、もうさっきの黒い羽根のようなものはまとってはおらず、彼は目を閉じたまま誰かに支えられていた。
 百合子は混乱していた。自分が今まで見ていたものはすべて夢であったのか。さっきのは、誰かの記憶であったのか。例えば彼の――。ユタの記憶であったり。
「まったく、いやな気配を感じて来てみたら案の定だよ。勘弁してくれ、戻れなくなったらどうするんだこいつは」
 ユタを支えて立っている長身の男が、ユタの方に視線を注ぎながら呆れたようにそう言う。それから百合子の方に視線を向けてきた。
「彼女たち二人の記憶は消しておいた。安心してくれ。今はもう、何事もなかったかのように教室に戻っている。……さて、君はどうする? 本来ならユタと出会ってから今までのすべての記憶を消したいところだが。それを君が望まないのであれば、君は罰を受けることになるかもしれない」
「罰?」
 どういう意味なのかわからなくて、男の言葉に百合子は尋ね返す。
「君のその目は、死を恐れていない。死は恐れるべきものだ。それが君の罪であって、死神の姿を映してしまった罰だ」
 目の前の男が誰なのか、百合子は知らない。だがこれだけはわかる。彼が、死神のことも、ユタのこともすべて知っていること。
「どうして、知っているんですか。あなたは、誰ですか」
 座り込んだまま、百合子は彼と彼に支えられているユタを見上げている。
 水道の蛇口から漏れ出る水滴の音が、唯一現実を教えてくれていた。今は耳障りなくらい明瞭に聞こえる。彼が答えをくれるまで数十秒。異様な空気が流れているようで気味が悪かった。
「俺は死神サク。こいつらを管理している者だ。君のことはユタの記憶を覗き見た。気に障ったならすまない」
 勝手に人の記憶を覗き見たと聞かされたら、普通はいやな気になるだろう。それが自分の記憶ではなくても。けれど、先ほど百合子もユタの記憶を覗き見てしまった。きっとあれは、ユタの子どもの頃の記憶だ。直感でわかる。だから何も言えなかった。それどころか罪悪感を抱いた。
「君には選ぶ権利がある。君にとって大切なものを消すか、消さない代わりに罰を受けるか」
「大切なもの?」
 サクの言葉に、疑問を持つ。
 百合子にとって大切なものとはなんだろう。さっき彼は何を消したいと言っていた? ユタと出会ってからの記憶を消すと、そう言っていたではないか。それが、大切なものなのか。そんなはずはない。百合子には、大切なものなど何もない。
「違うか? さっき君は、彼女らに向かってユタを悪く言われるのはいやだとはっきり口にした。それはユタが大切だと思うからいやだったのだろう」
「そんなことは、ないです。そんなもの、存在しないんです」
 言いながら百合子は首を振る。自信などないから、顔を俯かせる。
「なら消すが、後悔はしないな」
 その問いに、百合子は顔をしかめた。後悔。そんな聞き方はずるいと思う。そんなことを言われたら、どちらも選べない。きっとどちらを選んだって同じだから。
「する理由が見当たりません」
 百合子はそう言って、僅かに口角を上げる。
 どちらを選んだって同じならば簡単なことだ。自分に嘘をつけばいい。どちらも選べないのなら簡単なことだ。こちらの選択がいい方だと思い込めばいい。百合子はそうやって生きてきた。これからもだ。
「そうか」
 サクが頷いて、それから仕方なさげに頭を掻く。
 しばらくして彼は、急に手の平を返したようにこう言った。
「まったく面倒なことになったもんだ。本当は俺だってこんな悪役みたいなことしたくないんだよ。規則ってやつはどうしてこう融通がきかないかな。記憶ぐらい別にいいのにねえ。君もそう思わないか?」
「え、あ……」
 目を丸くする。突然そんなことを尋ねられても、どう答えていいのかわからない。この人は一体なんなのだ。さっきまで真面目に話していたと思ったのに。
「ユタの瞳が赤く染まったろう。あれは危険な状態なんだ。君が止めてくれなかったらこいつはこのまま死んでいた。正直、助かった。ありがとう」
 サクはそう言いながら、今度は百合子に頭を下げてきた。ころころ変わる人だなと思いながら、彼が今発した言葉が気にかかった。
「このまま死んでいたって、どういう意味ですか」
 百合子の質問に、サクが顔を上げた。哀しげな表情だった。
 そういえば、戻れなくなったらどうするんだとも言っていた気がする。けれど、ユタは自殺して死んだから死神になったと言っていたはずだ。サクの発言は食い違っている。
「君になら話してもいいと俺は判断する。だから、君も今から聞くことは誰にも言わないでほしい。ユタ本人はもちろん、他の死神たちにもね。それを記憶を消さない条件にしよう」
「勝手に、いいんですか?」
 先ほど、規則がどうとか言っていたような。と思いながら百合子は尋ねる。
「責任は俺が持つ。それでいいだろう。君もそれでいいか。理由、気になるのだろう」
「まあ、気にはなります」
「なら決まりだ」
「はい」
 百合子は頷いた。他人のことを気にするなんて珍しいことかもしれないと思いながら。
 サクはユタの顔を一瞥してから、何かをしたみたいだった。一瞬にしてユタの身体がまるで巻き戻し映像みたいに真っ黒い球体に変化した。そしてそれをサクは腕に付けていた時計に押し込め、入れてしまった。サクは完全に球体が腕時計に収まったのを確認したようだった。その後すぐに百合子の腕を掴んできたので、驚いている暇もなく。
「じゃあ、行こうか」
「え?」
 一言だけでなんの説明もなかった。心の準備も出来ていない百合子の身体を持ち上げたサクは、当たり前のようにトイレの窓から飛び降りた。
「!」
 百合子は声にならない悲鳴を上げるはめになった。混乱した頭で何階から飛び降りたのかを急いで考えるが、出てこない。その上このまま地面に着地するのかと思ったら、身体の浮遊感は一向におさまらない。
「な、何?」
 目の前を真っ黒い羽根たちが横切ったかと思うと、下方を見て百合子は絶句した。足元に見えるはずの地面が遥か遠くにある。つまり、二人は空を飛んでいるのだ。
「怖いならば、下を見るな。前だけを見ろ」
 どうして怖いのがわかったのか。と尋ねたかったが声が出なかった。身体の震えが伝わってしまったのだろうかとも思った。
 身体はしっかりとサクの腰あたりで固定されていて、腕の感覚もきちんとあったので、
「安心しろ。悪いようにはしない」
 と言うサクの言葉を信じるしかなかった。
 とりあえず言われた通りに前を見る。
「わっ」
 思わず声が出た。そこには群青色の空が一面に広がっていて、街のすべてが見渡せた。家や学校。スーパー。川。大きく見えていたものがすべてそこにあって、意外と小さいのだと思い知らされる。
「どうだ? 世界は。意外とたいしたことないだろう。視野を広くして見れば、幾分か生きやすい。お前たちが気にしているものすべて、ほんの小さなことなんだ。俺はそれを、あいつらに教えたいんだ。それが俺の使命だと思っている。だから永久に叫び続ける。世界は素晴らしいって。まだまだ知らないことがお前たちにはたくさんあるんだって!」
 サクの語りのような叫びに、百合子は目に熱いものを感じた。そう、彼の言う通りだ。今まで気付いていなかっただけで、小さなことにずっとこだわっていただけで。実際はこんなにも、百合子たちの世界は狭い。本当はもっともっと広い世界がその先に広がっているのに。
「でも、そんなの綺麗事です。あなたが小さいと言っているものも、私たち子どもにとってはとても大きな存在なんです。街も家も学校も。親や先生だってそうです。それに拘って何が悪いんですか」
「別に悪いなんて言ってないぞ。綺麗事言ったっていいじゃないか。小さなことで悩んだっていいじゃないか。嘘をついたっていいじゃないか。認めてやれよ。そんな自分を。そんな小さな自分をきちんと見て、認めてやれ。君はちゃんと生きてるんだから。生きている君にしかできないことがあるんだから。だから今からそれをあいつに証明してやってくれ。あいつに、生きることがどれだけ素晴らしいか教えてやってくれ。まだ戻れるんだあいつは。あの子たちは」
「まだ……死んでないんですか?」
 百合子はサクの話しにまさかと思った。彼らは。死神の彼らは、自殺したのだと言っていたのは、死んだと言っていたのは――。
 疑念を抱く百合子に、サクは答えた。
「あいつらは、まだ自分たちが完全には死んでいないことを知らない。死んだと思っている。俺の言ったことを信じている。まったく面白いよ。自分にとって都合の良い言葉は信じて、都合の悪い言葉は信じようとしないんだから」
「騙したってことですか」
「人聞き悪いこと言うな。誰かのためにつく嘘だってある。今のあいつらに実は死んでいませんなんて言ってみろ。じゃあ殺してくださいって言われるぞ」
「まあ、確かに言いそうですね」
 いや、確実に言うだろうなと百合子は思う。悪いと思っていないからたちが悪い。人のことは言えないけれど。
「だからさ、嘘っていうのは結局誰かのためにつくものだ。それが他人のためか、自分のためかの違いなだけだ。両方のためってのもあるかもな。本当のことを知られたくないから=自分と相手を守るって図式が成り立つんだから」
 サクの言葉を百合子は、自分のついた嘘に置き換えて考えてみる。多分、あれは自分のためについた嘘だ。ユタのことなど考えもしなかった。ただのエゴだ。
「もし君がユタに何か嘘をついていたとして。それは俺の知るところじゃないが、その嘘があるから今があることを忘れるなと言っておこう」
 まるで見透かしたようなサクの言葉が、百合子の心を打つ。
「そういうのが、余計なお世話って言うんですよ」
「違いない」
 そう言ってサクは笑った。

 死神っていうのはみんなこうなんだろうか。と百合子は思う。お節介も度が過ぎるとただの迷惑だ。けれど、一生懸命なことは十分すぎるほど伝わる。彼らは自分の敵ではなく味方なのだ。そう、やっと実感して。彼に。ユタに謝らなければならないなと思った。
「ところで、どこへ行くんですか?」
「着いてからのお楽しみだ」
 そういうの、笑ったまま言わないでほしい。と思いながら、百合子は吸い込まれそうなほど真っ青な空を目に焼き付けるようにじっとみつめた。
 これから、先へ。行くのだ。  (続く)

14年7月22日

小説「天の神様の言うとおり」後編

 【前回〈その1〉〈その2〉までのあらすじ】
 目が覚めると死神になっていた少年ユタは、住人全員が死神というアパートの草葉荘に住むことになった。監視者のサク。女の子なのに一人称が『僕』の、おしとやかなシノ。そして双子の元気な女の子ミキと、無愛想なミナト。ユタは仲間の死神たちに振りまわされながらも生活していくことになる。買い物へ行く途中で、ユタは百合子という少女に出会う。「橋から飛び降りて死のうとしていた」と言う彼女を放っておけずに、ユタは自分は死神だと正体を明かす。死神の仕事をしていく中で、ユタは自殺したことを後悔するようになる。
 そんな時、バスの大事故が起こり死神たちは魂の回収へ行くことになった。ユタは人が死ぬ意味に疑問を持ち、死にかけている少女を励まそうとする。が、ミナトに「どうせ死ぬのだからそんなことをしても無駄だ」と言われる。そんなミナトは双子の妹ミキとの過去を気にしていて、共に死んだことをずっと重荷に感じていたことを告白する。ミキを冷たくつき離そうとするミナトに、ユタは苛立ちを隠せない。殴り合いのケンカに発展したが、ユタはミナトの本音を引き出そうとする。しかしミキは離れていってしまい…。
        ☆        ☆

 3

「そっとしておいてって、いったはずだけど」
 なんでまた来てるの、とでも言いたげな表情で、百合子がユタを見下ろしていた。
 昼休みの蒼井戸高校の屋上。やはり今日も彼女はそこに来ていた。もうこの場所には来ないのかもしれないと、不安に思っていたユタは内心ほっとしていた。
「この場所が好きだから」
 すっかり定位置になっているその場所に、ユタは座っていた。校舎の壁に背中を預けていると、とても落ち着く。だから本心からそう言った。別に百合子のためではないと言いたかったが、半分ぐらいその気持ちはあったので言葉を呑みこむ。
 しかし意外だ。もう口を利いてくれないくらい怒っているかと思ったのだが、どうやら思い違いだったらしい。
「どうしたの? その顔」
 百合子にそう尋ねられて、ユタは思わず目を丸くした。
 意外だった。他人が腫れた顔をしていても百合子なら自分には関係ないと、気にも留めないとユタは思っていたのだ。
「ミナトと殴り合ったんだよ」
 ユタは息を吐きながら答えた。
 あれから数時間が経過している。ユタの顔は、絆創膏とガーゼだらけになっていた。誰がどう見たって、殴られたとわかる。
「そう。青春みたい」
 呟くように百合子が言った。
「そんなんじゃないよ。なんと言うかまあ、説教みたいなもん。本当はこんなところで油を売ってる場合じゃないんだけど、ちょっと迷っててね」
 ユタは眉間にしわを寄せる。
「何を」
「ミキを探すかどうか」
 百合子に尋ねられ、ユタはそう答えた。
 ユタはミナトと殴り合った一連の騒ぎを、かいつまんで百合子に話すことにした。
「しばらく離れよっか」ミキはそう言った後、一人でどこかへ行ってしまったのだ。ミナトは追いかけようとはせず、ユタたちはサクに言われるまま、草葉荘へ戻った。ユタはシノに手当てをしてもらってから、部屋をこっそり抜け出した。怪我の度合いはユタの方がひどいが、本当に手当てが必要なのはミナトの心の方だと思う。
「俺はミキとミナトの仲を引き裂くつもりなんてなかった。まさか、あんなことになるとは思ってなかったんだよ」
 ユタは辛い顔をする。
「そうかな。あなたは関係ないと思う。でも、責任を感じているの」
 百合子の問いに、ユタは頷いた。
「関係あるよ。半分ぐらい、俺のせいだろ。俺があんな風にまくし立てなきゃ」
「後悔先に立たず」
「え?」
 唐突な百合子の言葉に、ユタは思わず首を傾げた。
 してしまったことは元に戻せない。取り戻すことが出来ない。という意味のことわざだったと思う。
「ずっと考えてた。あなたたちのこと。あなたたち、死神のこと」
 百合子はそう言いながら、ゆっくりとユタの隣に腰を下した。
「自殺して死ぬ人間はみんな、死んだことに対して後悔なんてしないんだって勝手に思ってた。もちろん今でも思ってる。私は自殺しても後悔しない自信がある。でも、あなたたちは違う」
 百合子の意見に『そうだ。違う』とユタも思う。
 彼女は続ける。
「あの双子がどうなのかはよくわからないけれど、少なくともあなたは後悔している。そしてそれに抗おうとしているように、あたしには思えた。無駄なことだってわかっているのに、正直バカだと思う」
 歯に衣着せぬ物言いの百合子に、ユタは苦笑いする。
「バカって、お前な」
「あなたはどうしたいの。あなたは彼女を探したいの。だったら納得するまで探せばいいと思う。それがあなたでしょう」
 つまり百合子は、こんなところで悩んでないでさっさと探しに行けばいいでしょ、このバカと言いたいらしい。ひどく曲解かもしれないが、反論の余地もなかった。
「わかったよ。探しに行くよ。と言っても、まったく見当がつかないんだけどな。俺、ミキとまだそんなに仲いいってわけじゃないし」
 ため息混じりにユタは言った。もっと仲良くなっていればよかった、と今さらながらに思う。
「そう。なら、見当のつく人に聞いてみたら」
「え?」
 百合子の言葉を聞いて、真っ先に頭の中にミナトが浮かんだ時だった。突然校内放送のチャイムが鳴った。屋上とはいえ一応屋外にいたのではっきりとは聴こえず、代わりに地面が僅かに振動したのが身体に伝わる。
「二年――組。――さん。至急、職員室まで――さい」
「うお、びびった。今、なんて言った?」
 反射的に、ユタは背後の壁に耳を押し付ける。死神の姿のままなので、押しつけた耳は壁を超え頭ごと校内へ入り込んでしまい、間抜けな格好になってしまった。けれど今度ははっきりと放送が聴こえた。
「繰り返します。二年A組。梶川百合子さん。至急、職員室まで来てください」
 ユタは驚愕した表情をしたまま、頭をゆっくりと持ち上げて屋上側にいる百合子を見た。彼女の視線はどこか遠くに注がれていた。まるですべてわかっているかのような、余裕な表情にも見えた。
「お前、何やったんだ?」

 蒼井戸高校の屋上は本来、立ち入り禁止だ。しかし、長らく使われていなかったため老朽化が進み、鍵穴は錆びてしまっていた。鍵は取り換え予定のためにそのまま放置され、百合子が最初に屋上に来た時には壊れたままの鍵は開いていた。
「すみませんでした」
 そう言いながら丁寧にお辞儀をする。生活指導の先生はそれを見てからはもう何も言ってこなかった。いや、言えなかったのだろう。それは百合子の態度が一度言えば十分な生徒に思えたからでは決してない。ないはずだ。百合子がどうして立ち入り禁止の場所にずっと通っていたのか、少し考えればすぐに気付くだろう。よほど鈍い教師でなければ。
「わかったのならいい。次からは気を付けてな」
「はい」
「それから、今度から何かあったら保健室へ行きなさい」
 先生なりの精一杯の気づかいだったのか、最後にそう言って咳払いした。罰が悪いのだろう。あの場所は、学校に居辛い百合子にとって唯一の居場所だった。それは教室内でのいじめを黙認している先生ならば理解できること。
「はい」
 百合子は返事をすると、踵を返して職員室から出ていく。
「失礼しました」
 今度は軽いお辞儀をすると、ゆっくり扉を閉めた。
 さてこれからどうしようかと、緊張を解いてからまず始めに百合子は思った。何せ、校内唯一の逃げ場所を失ったのだ。先生の言う通り保健室にしようか。いや、ダメだ。それでは他の生徒も利用する。それに先生もいるだろうし独りにはなれない。まあ、ここしばらくはあの場所でも独りきりではなかったけれど。
 いろいろ思案しながら、それよりまずこの背後で黒い羽根を生やした、人ではない存在をどうにかしなければと心の隅で思う。
 彼は、ずっと見ていた。百合子が職員室に呼び出されてから、先生に叱られて頭を下げるところまで一部始終。何も言わずにただじっと百合子のことをみつめていた。まあ、ここで彼がしゃしゃり出てきたらどうしようかと思っていたところなので大人しくしていてくれて幾分か助かったが。しかし本当に、彼は他の人には見えていないらしい。廊下を歩いていても、職員室にいても、誰も彼の姿に気付く者はいなかった。
「まあ、仕方ないよ。ほら、元気出して。また別の場所探そう。な?」
 彼が困った顔をしながら、そう声をかけてくる。励ましているつもりだろうか。彼、死神と名乗る彼。死神ユタのことは百合子もよくわからない。ただ人ではないこと。死神であること。既に死んでいて、自殺していることぐらいしかわかっていない。あと、他にも死神の仲間がいることぐらい。
「あなたは別に探さなくてもいいんじゃない? どうせ他の人には見えないんだから」
 周りの人は独り言のように見えるだろう。それが恥ずかしくて、百合子は小声で呟くように言った。表情は変わらず冷静のままで。顔には出ないから、いつも何を考えているかわからないと言われてしまう。
「そ、それはそうだけど。あの場所からお前がいなくなったら意味ないんだよ」
「どうして?」
 聞き返しながら、百合子はゆっくりと歩き出す。なんだか本当に恥ずかしい。こうして、校内で彼と話をしていることなんてあまりなかったから。
 何も言わずともユタが付いてくるのなんてわかっていたから、構わず歩く。
「どうしても。俺はあの場所で、お前と話をしていたい。お前のこともっと知りたいし、理解したい。そういう理由じゃダメ?」
 ユタの言葉に驚きながら、百合子は冷静さを失わない。自分のことを理解したいだなんて言われたのは、もしかしたら初めて。悪い気はしないけれど、そういうのは多分、好意を持った人間に言うべきだと百合子は思う。
「ダメ。だってあたしは、それを望んでいないから」
 だからそう言って拒否する。これ以上、踏み込んでこないでと願う。
「なんでだよ。俺は望んでいる。お前と過ごしたあの屋上が、俺にとっても居場所だった。あの場所にいると心が落ち着くんだ。だから」
「だったら」
 ぽつりと呟いて、百合子は立ち止まる。
「だったら、あたしなんかいなくてもいいじゃない」
 はっきりとそう口にして、百合子は心に何か冷たい物が落ちるのを感じた。気のせいだろうと思って、必死でそう思おうとして。言葉が止まらなくなっていた。
「言っておくけれど、あたしはもう二度とあなたを必要としないし、利用するつもりもない。勘違いしないで、あたしは別にあの場所がなくなっても平気なんだから」
「え? ちょっと、百合子――」
 再び歩きだした百合子に向かって、ユタが名前を呼ぶ。なれなれしいので返事はしない。それでも追いかけてくるのが、どうかと思う。
 思えばあの日。死神ユタと出会ったあの日。百合子は別に死のうとしていたわけではなかった。いや、いつも死にたいとは思っているが死ぬつもりでああしていたわけではない。それをユタは勝手に勘違いをしたのだ。だったらそれに乗ってやろうと百合子は思って、川に飛び込もうとしていた可哀想な女の子を演じた。どうせこれ一回切り。そう思って演じた。本当は、あの川はそれほど深くない。子どもが遊びで橋から飛び降りても平気なくらいだ。そんなことも知らない彼が、地元民ではないのだとあの時すぐにわかった。
 川は好きだ。自分の中の汚い感情をすべて洗い流してくれる気がするから。裸足も好きだ。コンクリートが冷たくて気持ちが良い。季節が夏であったならもっと気持ちが良いだろう。だけれど生憎と寒い冬が近づいてきていて、それだけはどうにも苦手だった。だからだろうか。気まぐれに、百合子は彼に嘘をついた。死のうとしているなんて嘘だった。
『嘘つき』そう言ったのは、本当はどちらに向けた言葉だったのだろうか。
「ところで、どこまでついて来る気?」
 女子トイレの前、仕方なしにそう声をかける。
 百合子は独りになりたかった。流石にここならユタも入ってこられないだろうと思ってわざわざ移動したのだ。
「あ。う、うん。外で待ってる」
 ユタが慌てたようにそう言って、百合子はちょっとだけ安堵した。昼休みが終わるまでここで時間を潰そう、そう思っていた。

「でさー」
「えー、まじで?」
 女の子、二人の声が聞こえる。
 一番奥の洋式便器の配置してある個室。百合子はふたの上で両足を抱えてぼーっと座っていた。だからしばらく気付かなかった。誰かが女子トイレに入ってきたことに、気付くのが遅れてしまった。
 職員室のある階のトイレは、生徒が使う機会がほとんどない。先生と、放送部の部員ぐらいだろうか。もしかしたら上の階のトイレが混んでいて、生徒が下の階を利用するというのもあるのだろうか。いろいろ考えを巡らせる。
「てかさっきの放送さ。誰があのことばらしたの」
 誰かが、気になる言葉を発していた。誰だろうか。あのこととは、あのことだろうか。屋上の件。
「あー、あれね。あたしだよ。ばらしたとか言わないでよ、人聞き悪い」
「そうなんだ。ごめん。だってびっくりしたんだもん」
「そもそもあそこは立ち入り禁止だったんだから。あたしは一生徒として当然のことをしただけよ。悠々とした顔であそこに居座ってるあいつが悪い。自業自得よ」
「だよねえ。でも、変だよね。確かにあの日、あそこに閉じ込めたのに。鎖でぐるぐるに巻いて開かないようにしてやったから、助けを呼ぶしかなかったのにね。まったくどんな手品遣って脱出したんだろう」
「謎ね。もっと早くこうすればよかった。ま、これであいつの居場所はなくなったわけだし。気分いいわ」
「だねえ」
 そんな風に談笑している声が聞こえる。
 やっぱりか。と百合子は半ば呆れたように思う。屋上の件をばらしたやつがいる。大方予想は付いていた。知っていた。誰がそんなことをしたのか。
 死神ユタと二回目に会った日。百合子は屋上に閉じ込められていた。あの時は本当にびっくりして、それから安堵した。助けてもらえると確信してしまったから。でもユタと話をしている間中、ずっと罪悪感を抱いていたのも事実。何故なら、あの嘘をついてしまった日からずっと、そのことについて後悔をしていたから。けれどもう一度彼に会うことがあるなんて、思ってもいなかった。
 死にたいと思っているのは嘘じゃない。けれど、死のうと思ったことは一度もない。それは嘘。百合子はその嘘から、いつの間にか逃れられなくなってしまっていた。ユタを見ていると、本当のことが言えなくなる。彼の必死な表情を見ると、本当のことを言うのをためらってしまう。
「大体あいつ気持ち悪いんだよ。こないだこっそり屋上見に行ったら何してたと思う? ぶつぶつぶつぶつ独り言。気味悪いったら」
「うわー、まじで? 気持ち悪い」
 女生徒たちの言葉に、ユタとの会話を見られていたのかと、かっと顔が熱くなるのを感じる。
「あいつ存在自体がうざいんだよ」
 二つの声が、段々大きく。百合子の中を埋め尽くす。
「消えてほしい」
 言葉が、こんなにも鋭い刃になって突き刺さるものだなんて思わなかった。
 存在否定をされたって平気。いつものこと。大丈夫。そう言い聞かせて。百合子は、身体を震わせる。全身が針に刺されたみたいに痛む感覚。きっと気のせいなのだろうけど。
 今すぐこの場から逃げたい。そう思っても逃げられない。どこから逃げればいいのだろう。窓から? ここは、何階だっただろう。 
 百合子の頭は混乱していた。少なくとも扉から普通に出ていくのはまずい。聞いていたのが丸わかりだ。あの二人はいつまでいるの? 早く出ていって。そう願うしか、百合子には出来ない。
「消えるべきなのはお前らだ」
 ふいに、低い声が聞こえてきた。聞いたことのある低音。最近いつも隣にいるあの人の声。彼の怒りに満ちた声。
 驚いて、百合子はそれまで俯かせていた顔を上げる。
「な、何よ。あんた」
「誰。てか、ここ女子トイレなんですけど」
 二つの声も驚いている様子だった。
「そんなことはどうでもいい。さっきの言葉、訂正しろ」
「は? さっきの言葉って何よ」
 彼の強い言葉に、一人の生徒がそう返す。
「気持ち悪いとか、気味悪いとか、うざいとか、消えてほしいとか。そういう言葉を訂正しろって言っているんだ。百合子の存在を否定する権利は、お前らにはない」
 女子トイレに男子がいることがどうでもいいとか。先生に見つかったら大変なことになるだろうな。と思いながら聞きなれた声が発する言葉をしっかり聞いて、百合子は少しだけ泣きそうになる。
 しかし、会話をしているということは、互いの姿が見えているのだろう。彼は普通の人には見えないはずなのに、どうして? と百合子は疑問に思った。
「何言ってんの。誰のこと言ってんの?」
「男は出てけよ。先生呼ぶぞ、この変態」
 彼女の言葉に、百合子は不安になる。先生を呼ばれたらまずいことになる。低い声の彼が、ユタが捕まってしまう。彼はここの生徒でもなんでもない。部外者なのだ。確実に警察に捕まってしまう。
「いいから、訂正しろ。謝れ。百合子に謝れよ!」
 ユタの叫び声が、響いていた。
 しばらく誰も何も言わなかった。声が聞こえない。百合子は音をたてないようにそっと便器を降りて、扉に耳を近づける。
「冗談言わないでくれる?」
 その言葉と共に、何か小さな音がした。何かはわからない。百合子はただ驚くばかりで、どうしたらいいのかわからない。自分が出ていくべきなんだろうか。それよりもさっきの音はなんだろうか。皮膚を叩くような音だった気がする。
「何するのよ。唯子大丈夫?」
 小さな悲鳴と共にそんな声が聞こえてきて、百合子は理解する。ユタが唯子と呼ばれた彼女を叩いたのだと。頬かどこかだと思う。
 唯子。名前を聞いたことがある。多分、同じクラスの石田唯子。クラスに唯子は一人しかいなかったはずだ。顔を見ればはっきりするけれど、確か彼女とは四月に一度話したきり。何を話したのかは、覚えていない。
「ふざけんな。これだから、人間は……」
 そう言う彼の声が聞こえて、百合子はいやな予感を覚えた。

「あたしなんかいなくてもいいじゃない」
 こうも自分を卑下する言葉を、どうして百合子は吐くのだろう。ユタはそれが知りたかった。すべてを諦めた顔をしている彼女。すべてを望まない彼女。可哀想だと思った。
 ユタは返す言葉を失った。これ以上彼女にどう言ったら納得してもらえるのかがわからなかった。ユタの気持ちは本物だし、嘘は一つも言っていない。出来ることならこれまでと同じようにあの屋上で、百合子と話をしたい。百合子のことをもっと知りたい。もっと理解したい。そしてその上で百合子を救ってあげたい。そう強く望んでいるのに。どうしてもその気持ちが伝わらない。ユタはそれがもどかしいと感じていた。
 だから考える。今の自分に出来る唯一のこと。女子トイレで得意げに語っていた彼女たちのこと。許せないと思ったこと。トイレにこもったまま今も震えているであろう百合子のこと。
 屋上に閉じ込められていたのは不注意だとか自分で言っていたけれど、やっぱり違うんだな。こいつらにやられたんだな。ずるいよ百合子。なんで正直に言ってくれなかったんだよ。そんなことを思いながら、ユタは何かが壊れる音を聞いたような気がした。

「きゃああああああ」
 悲鳴が聞こえる。何が起こっているのか百合子にはわからなかった。ただ、とても恐ろしいことが起こっているのではと何故だか思った。思ってしまったのだから仕方がない。怖いし、彼女たちの悲鳴が聞こえるし、ここでじっとしていることなんてできなかった。
 百合子は長方形の鍵をスライドさせて、扉を開けた。
「ユタ!」
 名を呼んで、個室から飛び出す。
 百合子は、自分の目に飛び込んできたその光景に驚愕した。
「な、何、何? なんなのよ。もう」
「私たちが、何したって」
 唯子とその友人が、震えていた。理由はすぐにわかった。彼女たちは目の前の男に恐怖を感じたのだ。
 そこにはユタがいた。死神がいた。いや、違う。羽根が生えていない。でも、黒い何か羽根のようなものが彼の周りを飛んでいた。まるで生きているかのように動いていた。そして目が、彼の瞳が赤く染まっている。
「ユタ、やめて」
 百合子は急いでユタに駆け寄る。予感がしたのだ。これはよくない予感。とてもよくない。見ればわかる。ユタは何か、とんでもないことになっている。
「あ、あんたどっから出てきたのよ」
 唯子が百合子の姿を見て、さらに驚いた顔をする。そりゃそうだろう。悪口を言っていた相手が突然奥のトイレから出てきたのだから。
 しかし、今はそれどころではない。
「いやあ。なんでもいいから早く止めて」
 彼女の友人も気が動転している。よっぽど驚いたのだろうとわかる。百合子はそれほど驚かない。いや、これでも驚いているつもりだが。彼が死神であることを、知っていたからだろうか。二人よりは冷静だと思う。
「お願い、やめて。ユタ。正気に戻って」
 百合子は言いながら、ユタの体に触れようとした。とたん、静電気みたいなぴりっとした痛みが指に走る。「いっ」思わず声が出て、顔をしかめる。これはダメだ。こんなのダメだ。そう思いながら、どうにもならないと思いながら、百合子は痛む右手をもう片方の手でさする。
「なんなのよ。その化け物! 早くなんとかして。しなさいよ。あんたの知り合いなんでしょ!」
 百合子のことをずっと無視して、数ヶ月間口もきかなかった彼女。唯子がそう言う。この状況だ。さっきから百合子の存在を無視するどころじゃないのだろう。嬉しくない。
「そうだけど、化け物呼ばわりしないで」
 思わず口に出していた。気にすることじゃないのだろうけれど、なんとなくいやで。
「はあ?」
 唯子が首を傾げている。
「確かにこの人は普通の人間じゃないけど」
 死神だし。とは言わない。余計に怖がらせるだけだから。それに、普通の人は信じない。
「騙されやすいし、ストーカーみたいにつきまとって来るし、馬鹿で、いつも真っ直ぐで自分が正しいと思ってる自信過剰なところが正直うざいけど。それでも他人に悪く言われるのはいや。何も知らないくせに、勝手なこと言わないで」
 そう吐き捨てるように言って、百合子はもう一度ユタに右手を伸ばす。
 再びあの痛みが襲ってくる。痛い。痛いけれど、我慢できる痛み。そう思い、百合子は耐える。
「ユタ。もういいから。あたしは大丈夫だから。ユタが壊れることないから。だから―」
 言いながら、百合子はもう一方の手も伸ばしてユタの両腕をつかむ。強く、強くつかむ。自分はどうなってもいい、とにかくユタを止めなければ。そう思っていた。
「戻ってきて!」
 そう叫んだ瞬間、何かがなだれのように百合子の中に入り込んできた。

 白い部屋だった。病院の個室だと思う。ベッドに誰かが横になっていた。その脇にある窓の外を眺めている少年がいた。
「父さん。元気になったら、またどこかへ遊びに行こう」
「そう、だな」
 ベッドで寝ている男性は、何だかぎこちなく言葉を返す。
「どこがいい? 父さんの好きな川に行こうか」
「そうだな。行けるといいな」
 少年が父と呼ぶ男性の言葉に、眉をひそめる。
「どうして」
 少年は言いかけて、口を噤んだ。どうしてそんなことを言うのかと。どうして行こうと、約束してくれないのかと思っていた。
「豊。父さんな」
 豊と呼ばれた少年は、頷く。
「うん」
「父さん、もうすぐ死ぬかもしれない」
「う、ん」
 頷きながら、豊は泣くなと心の中で自分に言い聞かせていた。泣いたら父を余計に哀しませるだけだと、ぐっと涙を堪えることにした。父の顔を見てしまえば泣いてしまうような気がして、どうしても振り向くことは出来なかった。
「だが、心配するな。父さんは死んでも、ずっとお前のことを傍で見守っている」
「傍って?」
 父の言葉に、豊は首を傾げる。
「そうだな。幽霊にでもなってお前の背後にいるかな」
 父は冗談が下手だと豊は思った。けれど、幽霊になった父が自分の背後にいる場面を想像して震えた。
「やめてよ。そんなの怖いよ」
「怖くないだろう。父さんだぞ」
「そ、それでも怖いものは怖いんだよ」
「はははっ」
 豊の返答に、父は軽快に笑った。
 背中に突き刺さる父の視線を感じる。振り向きたい気持ちもあったが、振り向くことはなかった。思えば父が病に伏した頃から、豊は父の顔をまともに見ることがなくなっていった。父の弱りきった顔を見るのが豊は怖かったのだ。しかし、そのことを父がどう思っていたのかはわからない。
「なあ、豊。もうすぐお前の誕生日だろう。父さん、それまで生きていられるかな」
 父のそんな弱々しい言葉を、豊は聞きたくなかった。
「そんなの、知らないよ。医者に聞いてよ」
「ああ、それもそうだな」
 父はそう言って、もう一度笑った。確かに父はよく笑う人であったが、それは病に伏してからも変わらなかった。こうして、笑う。けれど、以前とは何か違うものがあるのではないかと、どうしても豊は思ってしまう。
「ねえ、父さん――」
 記憶はそこで途切れていた。

 気がついた時には床に座り込んでいて、百合子はしばらく呆然としていた。目の前にはユタの姿があったが、もうさっきの黒い羽根のようなものはまとってはおらず、彼は目を閉じたまま誰かに支えられていた。
 百合子は混乱していた。自分が今まで見ていたものはすべて夢であったのか。さっきのは、誰かの記憶であったのか。例えば彼の――。ユタの記憶であったり。
「まったく、いやな気配を感じて来てみたら案の定だよ。勘弁してくれ、戻れなくなったらどうするんだこいつは」
 ユタを支えて立っている長身の男が、ユタの方に視線を注ぎながら呆れたようにそう言う。それから百合子の方に視線を向けてきた。
「彼女たち二人の記憶は消しておいた。安心してくれ。今はもう、何事もなかったかのように教室に戻っている。……さて、君はどうする? 本来ならユタと出会ってから今までのすべての記憶を消したいところだが。それを君が望まないのであれば、君は罰を受けることになるかもしれない」
「罰?」
 どういう意味なのかわからなくて、男の言葉に百合子は尋ね返す。
「君のその目は、死を恐れていない。死は恐れるべきものだ。それが君の罪であって、死神の姿を映してしまった罰だ」
 目の前の男が誰なのか、百合子は知らない。だがこれだけはわかる。彼が、死神のことも、ユタのこともすべて知っていること。
「どうして、知っているんですか。あなたは、誰ですか」
 座り込んだまま、百合子は彼と彼に支えられているユタを見上げている。
 水道の蛇口から漏れ出る水滴の音が、唯一現実を教えてくれていた。今は耳障りなくらい明瞭に聞こえる。彼が答えをくれるまで数十秒。異様な空気が流れているようで気味が悪かった。
「俺は死神サク。こいつらを管理している者だ。君のことはユタの記憶を覗き見た。気に障ったならすまない」
 勝手に人の記憶を覗き見たと聞かされたら、普通はいやな気になるだろう。それが自分の記憶ではなくても。けれど、先ほど百合子もユタの記憶を覗き見てしまった。きっとあれは、ユタの子どもの頃の記憶だ。直感でわかる。だから何も言えなかった。それどころか罪悪感を抱いた。
「君には選ぶ権利がある。君にとって大切なものを消すか、消さない代わりに罰を受けるか」
「大切なもの?」
 サクの言葉に、疑問を持つ。
 百合子にとって大切なものとはなんだろう。さっき彼は何を消したいと言っていた? ユタと出会ってからの記憶を消すと、そう言っていたではないか。それが、大切なものなのか。そんなはずはない。百合子には、大切なものなど何もない。
「違うか? さっき君は、彼女らに向かってユタを悪く言われるのはいやだとはっきり口にした。それはユタが大切だと思うからいやだったのだろう」
「そんなことは、ないです。そんなもの、存在しないんです」
 言いながら百合子は首を振る。自信などないから、顔を俯かせる。
「なら消すが、後悔はしないな」
 その問いに、百合子は顔をしかめた。後悔。そんな聞き方はずるいと思う。そんなことを言われたら、どちらも選べない。きっとどちらを選んだって同じだから。
「する理由が見当たりません」
 百合子はそう言って、僅かに口角を上げる。
 どちらを選んだって同じならば簡単なことだ。自分に嘘をつけばいい。どちらも選べないのなら簡単なことだ。こちらの選択がいい方だと思い込めばいい。百合子はそうやって生きてきた。これからもだ。
「そうか」
 サクが頷いて、それから仕方なさげに頭を掻く。
 しばらくして彼は、急に手の平を返したようにこう言った。
「まったく面倒なことになったもんだ。本当は俺だってこんな悪役みたいなことしたくないんだよ。規則ってやつはどうしてこう融通がきかないかな。記憶ぐらい別にいいのにねえ。君もそう思わないか?」
「え、あ……」
 目を丸くする。突然そんなことを尋ねられても、どう答えていいのかわからない。この人は一体なんなのだ。さっきまで真面目に話していたと思ったのに。
「ユタの瞳が赤く染まったろう。あれは危険な状態なんだ。君が止めてくれなかったらこいつはこのまま死んでいた。正直、助かった。ありがとう」
 サクはそう言いながら、今度は百合子に頭を下げてきた。ころころ変わる人だなと思いながら、彼が今発した言葉が気にかかった。
「このまま死んでいたって、どういう意味ですか」
 百合子の質問に、サクが顔を上げた。哀しげな表情だった。
 そういえば、戻れなくなったらどうするんだとも言っていた気がする。けれど、ユタは自殺して死んだから死神になったと言っていたはずだ。サクの発言は食い違っている。
「君になら話してもいいと俺は判断する。だから、君も今から聞くことは誰にも言わないでほしい。ユタ本人はもちろん、他の死神たちにもね。それを記憶を消さない条件にしよう」
「勝手に、いいんですか?」
 先ほど、規則がどうとか言っていたような。と思いながら百合子は尋ねる。
「責任は俺が持つ。それでいいだろう。君もそれでいいか。理由、気になるのだろう」
「まあ、気にはなります」
「なら決まりだ」
「はい」
 百合子は頷いた。他人のことを気にするなんて珍しいことかもしれないと思いながら。
 サクはユタの顔を一瞥してから、何かをしたみたいだった。一瞬にしてユタの身体がまるで巻き戻し映像みたいに真っ黒い球体に変化した。そしてそれをサクは腕に付けていた時計に押し込め、入れてしまった。サクは完全に球体が腕時計に収まったのを確認したようだった。その後すぐに百合子の腕を掴んできたので、驚いている暇もなく。
「じゃあ、行こうか」
「え?」
 一言だけでなんの説明もなかった。心の準備も出来ていない百合子の身体を持ち上げたサクは、当たり前のようにトイレの窓から飛び降りた。
「!」
 百合子は声にならない悲鳴を上げるはめになった。混乱した頭で何階から飛び降りたのかを急いで考えるが、出てこない。その上このまま地面に着地するのかと思ったら、身体の浮遊感は一向におさまらない。
「な、何?」
 目の前を真っ黒い羽根たちが横切ったかと思うと、下方を見て百合子は絶句した。足元に見えるはずの地面が遥か遠くにある。つまり、二人は空を飛んでいるのだ。
「怖いならば、下を見るな。前だけを見ろ」
 どうして怖いのがわかったのか。と尋ねたかったが声が出なかった。身体の震えが伝わってしまったのだろうかとも思った。
 身体はしっかりとサクの腰あたりで固定されていて、腕の感覚もきちんとあったので、
「安心しろ。悪いようにはしない」
 と言うサクの言葉を信じるしかなかった。
 とりあえず言われた通りに前を見る。
「わっ」
 思わず声が出た。そこには群青色の空が一面に広がっていて、街のすべてが見渡せた。家や学校。スーパー。川。大きく見えていたものがすべてそこにあって、意外と小さいのだと思い知らされる。
「どうだ? 世界は。意外とたいしたことないだろう。視野を広くして見れば、幾分か生きやすい。お前たちが気にしているものすべて、ほんの小さなことなんだ。俺はそれを、あいつらに教えたいんだ。それが俺の使命だと思っている。だから永久に叫び続ける。世界は素晴らしいって。まだまだ知らないことがお前たちにはたくさんあるんだって!」
 サクの語りのような叫びに、百合子は目に熱いものを感じた。そう、彼の言う通りだ。今まで気付いていなかっただけで、小さなことにずっとこだわっていただけで。実際はこんなにも、百合子たちの世界は狭い。本当はもっともっと広い世界がその先に広がっているのに。
「でも、そんなの綺麗事です。あなたが小さいと言っているものも、私たち子どもにとってはとても大きな存在なんです。街も家も学校も。親や先生だってそうです。それに拘って何が悪いんですか」
「別に悪いなんて言ってないぞ。綺麗事言ったっていいじゃないか。小さなことで悩んだっていいじゃないか。嘘をついたっていいじゃないか。認めてやれよ。そんな自分を。そんな小さな自分をきちんと見て、認めてやれ。君はちゃんと生きてるんだから。生きている君にしかできないことがあるんだから。だから今からそれをあいつに証明してやってくれ。あいつに、生きることがどれだけ素晴らしいか教えてやってくれ。まだ戻れるんだあいつは。あの子たちは」
「まだ……死んでないんですか?」
 百合子はサクの話しにまさかと思った。彼らは。死神の彼らは、自殺したのだと言っていたのは、死んだと言っていたのは――。
 疑念を抱く百合子に、サクは答えた。
「あいつらは、まだ自分たちが完全には死んでいないことを知らない。死んだと思っている。俺の言ったことを信じている。まったく面白いよ。自分にとって都合の良い言葉は信じて、都合の悪い言葉は信じようとしないんだから」
「騙したってことですか」
「人聞き悪いこと言うな。誰かのためにつく嘘だってある。今のあいつらに実は死んでいませんなんて言ってみろ。じゃあ殺してくださいって言われるぞ」
「まあ、確かに言いそうですね」
 いや、確実に言うだろうなと百合子は思う。悪いと思っていないからたちが悪い。人のことは言えないけれど。
「だからさ、嘘っていうのは結局誰かのためにつくものだ。それが他人のためか、自分のためかの違いなだけだ。両方のためってのもあるかもな。本当のことを知られたくないから=自分と相手を守るって図式が成り立つんだから」
 サクの言葉を百合子は、自分のついた嘘に置き換えて考えてみる。多分、あれは自分のためについた嘘だ。ユタのことなど考えもしなかった。ただのエゴだ。
「もし君がユタに何か嘘をついていたとして。それは俺の知るところじゃないが、その嘘があるから今があることを忘れるなと言っておこう」
 まるで見透かしたようなサクの言葉が、百合子の心を打つ。
「そういうのが、余計なお世話って言うんですよ」
「違いない」
 そう言ってサクは笑った。

 死神っていうのはみんなこうなんだろうか。と百合子は思う。お節介も度が過ぎるとただの迷惑だ。けれど、一生懸命なことは十分すぎるほど伝わる。彼らは自分の敵ではなく味方なのだ。そう、やっと実感して。彼に。ユタに謝らなければならないなと思った。
「ところで、どこへ行くんですか?」
「着いてからのお楽しみだ」
 そういうの、笑ったまま言わないでほしい。と思いながら、百合子は吸い込まれそうなほど真っ青な空を目に焼き付けるようにじっとみつめた。
 これから、先へ。行くのだ。  (続く)

08/9/18