「会いたい人々」  伊神権太

 あの人、と聞けばやはり「会いたい人」を連想してしまう。その会いたい人となると、わが人生街道ではたくさんいる。その中でも、皮肉なものでやはり既にこの世の人ではない〝あのひと〟に会いたい。亡き人を〝あのひと〟の対象としていいものかどうか。少しためらいはするが、忘れられない故人の〝あのひと〟から話を進めてゆきたい。
 会いたい人の最右翼はやはり、生涯やんちゃばかりを言い反発し通しだった私の父が思い出される。父は生前、私のことを真剣な顔で見つめ「たかのぶ、おまえほど頭のいい子はいない。良すぎるから考えなくてもいいことまで先回りして考えてしまう。おまえは、そこが欠点だ」とよく言ったものだ。私は、あのときの言葉を忘れることが出来ず、良きにつけ悪しきにつけ、その言葉をかみしめるように、これまで生きてきた。
 次に会いたいのは、温和そのもので小学生の頃の私をことのほか、かわいがってくれた母の父、すなわち〝おじいちゃん〟である。その祖父が私に会うたびに私に投げかけた言葉は「この子は、本当にやさしい」だった。そう言えば、私は祖父が顔を見せるとは、肩たたきをしたり、ナンダカンダと兄妹のなかでも一番まとわりついていたことだけは確かだ。自転車荷台に乗せられ町中のお菓子屋さんまで行き、一緒にボタモチなどをよく食べさせられたものだ。
 そして小、中、高、大学時代、社会に入ってからも私の魂を揺さぶってくれた多くの〝あのひと〟たちが目の前に浮かび上がってくる。こちらも、今は亡き人たちの印象の方がインパクトが強い。なかでも新聞記者時代に取材がきっかけでよくして頂いた方々となると忘れよ、と言われても忘れるわけにいかない。
 上高地の大将と呼ばれ北アルプス木村小屋を基地に遭難者の救出に生涯、情熱を注いだ北ア遭難救助隊長だったヒゲの木村殖(しげる)さん、真珠王御木本幸吉の懐刀でもあり三重県志摩半島の和具漁協組合長で密漁の摘発に厳しい目を光らせていた松田音吉さん、岐阜県根尾村に立つ樹齢千五百年の淡墨桜の再生に命をかけた小説家宇野千代さん、サンズイ(汚職事件)の摘発に力を注いだ良き日々のデカたち、社会福祉の道ひと筋の人生を歩み先年亡くなった小牧の勝野義久さん、和倉温泉隆盛の礎を築いた大井昭平元和倉温泉観光協会長、能登七尾に腰を据え北陸中日新聞の女傑販売店主として知られた笹谷輝子さん等など。
 今となっては声さえ聴けない〝あのひと〟たちには、お世話になり通しだった。いまごろは、どこにおいでか。深い哀悼を捧げたい。そして。今現在会いたい、会いたくてしかたない「あの人」となると、やはり限られてくる。Aさん、Bさん、Cさん、Dさん…。男も女も、仕事であれ、私生活であれ、飲み仲間、趣味の同人であれ、いっときは、それこそ、いつも離れがたかった大切な人たちばかりだが、転任や結婚、移転、母親の介護など、ふとしたことがきっかけで互いに離れ離れになった。私はそうした方々のおかげで「今の自分」があるのだ、とつくづく思っている。
 なかでも能登半島在任中に随分とお世話になった当時のミス和倉温泉の場合。彼女が嫁ぐ日の前夜、私たちはその町のスナック「アダム&イヴ」で待ち合わせ、五十年後の〝今月今夜〟に、もし互いに生きていたなら、この七尾港の矢田新波止場で会おう、とまで約束した、あの日のことは永遠に忘れられない。あの時、私が四十三、四だったので九十歳を過ぎるまでは元気で生きていなければ、と思っている。
 わが人生。こうした辛い別れの繰り返しで、そのつど、あの人は私の元から去っていった。あの人たちがいて僕がいた―と痛切に感じる、きょうこのごろではある。  (了)

14年3月28日

 「心の恩人」  真伏善人

 あの人、と聞けばやはり「会いたい人」を連想してしまう。その会いたい人となると、わが人生街道ではたくさんいる。その中でも、皮肉なものでやはり既にこの世の人ではない〝あのひと〟に会いたい。亡き人を〝あのひと〟の対象としていいものかどうか。少しためらいはするが、忘れられない故人の〝あのひと〟から話を進めてゆきたい。
 会いたい人の最右翼はやはり、生涯やんちゃばかりを言い反発し通しだった私の父が思い出される。父は生前、私のことを真剣な顔で見つめ「たかのぶ、おまえほど頭のいい子はいない。良すぎるから考えなくてもいいことまで先回りして考えてしまう。おまえは、そこが欠点だ」とよく言ったものだ。私は、あのときの言葉を忘れることが出来ず、良きにつけ悪しきにつけ、その言葉をかみしめるように、これまで生きてきた。
 次に会いたいのは、温和そのもので小学生の頃の私をことのほか、かわいがってくれた母の父、すなわち〝おじいちゃん〟である。その祖父が私に会うたびに私に投げかけた言葉は「この子は、本当にやさしい」だった。そう言えば、私は祖父が顔を見せるとは、肩たたきをしたり、ナンダカンダと兄妹のなかでも一番まとわりついていたことだけは確かだ。自転車荷台に乗せられ町中のお菓子屋さんまで行き、一緒にボタモチなどをよく食べさせられたものだ。
 そして小、中、高、大学時代、社会に入ってからも私の魂を揺さぶってくれた多くの〝あのひと〟たちが目の前に浮かび上がってくる。こちらも、今は亡き人たちの印象の方がインパクトが強い。なかでも新聞記者時代に取材がきっかけでよくして頂いた方々となると忘れよ、と言われても忘れるわけにいかない。
 上高地の大将と呼ばれ北アルプス木村小屋を基地に遭難者の救出に生涯、情熱を注いだ北ア遭難救助隊長だったヒゲの木村殖(しげる)さん、真珠王御木本幸吉の懐刀でもあり三重県志摩半島の和具漁協組合長で密漁の摘発に厳しい目を光らせていた松田音吉さん、岐阜県根尾村に立つ樹齢千五百年の淡墨桜の再生に命をかけた小説家宇野千代さん、サンズイ(汚職事件)の摘発に力を注いだ良き日々のデカたち、社会福祉の道ひと筋の人生を歩み先年亡くなった小牧の勝野義久さん、和倉温泉隆盛の礎を築いた大井昭平元和倉温泉観光協会長、能登七尾に腰を据え北陸中日新聞の女傑販売店主として知られた笹谷輝子さん等など。
 今となっては声さえ聴けない〝あのひと〟たちには、お世話になり通しだった。いまごろは、どこにおいでか。深い哀悼を捧げたい。そして。今現在会いたい、会いたくてしかたない「あの人」となると、やはり限られてくる。Aさん、Bさん、Cさん、Dさん…。男も女も、仕事であれ、私生活であれ、飲み仲間、趣味の同人であれ、いっときは、それこそ、いつも離れがたかった大切な人たちばかりだが、転任や結婚、移転、母親の介護など、ふとしたことがきっかけで互いに離れ離れになった。私はそうした方々のおかげで「今の自分」があるのだ、とつくづく思っている。
 なかでも能登半島在任中に随分とお世話になった当時のミス和倉温泉の場合。彼女が嫁ぐ日の前夜、私たちはその町のスナック「アダム&イヴ」で待ち合わせ、五十年後の〝今月今夜〟に、もし互いに生きていたなら、この七尾港の矢田新波止場で会おう、とまで約束した、あの日のことは永遠に忘れられない。あの時、私が四十三、四だったので九十歳を過ぎるまでは元気で生きていなければ、と思っている。
 わが人生。こうした辛い別れの繰り返しで、そのつど、あの人は私の元から去っていった。あの人たちがいて僕がいた―と痛切に感じる、きょうこのごろではある。  (了)

14/3/27