掌編小説「見知らぬ二人」

 雑魚の佃煮をつまみながらの温かいお茶漬けは、どうやらいつの間にか冷めていた。それはどこか倦怠期を迎えた夫婦生活の乾いた味気なさを改めて芙美子は感じた。すでに彼女の夫と一人息子は、慌ただしい朝食を済ませてとっくの前に仕事へ出て、いつの間にか思わずまどろむような昼下がりを迎えていた。
 最後に、冷えたお茶漬けをひと息で食べ終えると、芙美子は静かに箸を置いた。居間の窓からレースのカーテン越しに見える自宅の庭先に眼をやって、綺麗に咲き誇っている花壇の色とりどり花々を物憂げに眺めてから芙美子は満足げに微笑を浮かべた。愉しい園芸作業にいそしむ日課は、単調に繰り返す芙美子の生活にひと時の満足な潤いを与えてくれていた。そうそう、今年の秋が暮れるまでには、花壇の色彩りを少し工夫して黄色いチューリップの球根をいくつか植えてみよう、でも思うようにうまく育ってくれるかしら、と少々気がかりな気分で、芙美子は昼食の食器をまとめて抱えては台所へと足を運んだ。
 ジャバジャバと音が鳴る。流し台の水道の古風な蛇口から流れ落ちる水道水は、春の到来を告げるように、台所用の青いスポンジを握って食器の汚れを洗っている芙美子の華奢な両手をやさしく包んでは流れていく。
 それにしても、と芙美子は思った。あの子供みたいな夫と結婚してから今年でもう何年になったのだろう。そして芙美子は頭の中でその歳月を計算してから思わずため息をついた。でも月日がたつのは本当にあっという間なのね。あの小さな息子が黒いランドセルを背負って学校へ駆け出していく後ろ姿を見送ってから、もう現在では地元の高校を卒業して、近くの大きな製紙工場で事務局の庶務課に勤めて立派に働いている。
 あの子には、もう素敵な彼女でも出来たのかしら。そんなおせっかいな想像をしただけで、母親の芙美子には少し複雑な心境がしてきて、ふっと洗い物の手が止まった。蛇口からは、ひっきりなしに水道の温かい水が流れ落ちている。

 居間にある電話が鳴った。今頃、誰だろう。何かのセールスの案内か、それとも世間を賑わしている、怪しげなオレオレ詐欺かもしれない。用心、用心。やや怪訝な気持ちで、芙美子は、濡れた手を腰に下げたタオルで拭くと居間へ向かった。

 「鍋島さんのお宅ですね。あのう、お忙しいところを失礼いたしますが」
芙美子が受話器を取ると、彼女が名前を告げる前に、突然、中年らしき男性の声が低く聴こえてきた。それは聞き覚えのない声だった。芙美子は応えた。
「ええ、そうですが、どちらさまでしょうか」
「初めてお電話を差し上げます。わたくし、里村と申します。重ねて失礼を申し上げます。実はわたくし、あなた様にとっては見ず知らずの者でして、こうやってお電話するのも、鍋島さんにとっては、はなはだ御迷惑なことでございまして」
 何が何だか分からない。思わぬことに芙美子が戸惑っていると、里村がやさしくフォローするように心を込めた口調で言った。
「ただ、あなた様の声をぜひ、お聞かせいただきたいと存じまして、電話をかけた次第でして」
「といわれましても、私には何のことだか皆目、見当がつきませんわ。あの、申し訳ありませんが、私、いま、仕事が忙しいので、またの機会ということで」
 と、芙美子が言葉を切ると、急に里村が激しい勢いで声を上げた。
「聴かせていただきたいのです。ぜひ、あなたのいつもの素晴らしい暮らしぶりを、このわたくしに少しでも聴かせていただきたいのです」

 驚いた芙美子が黙って唖然としていると、里村が申し訳なさそうに言葉を続けた。
「大声を上げてどうも失礼しました。どうやら怪しい者と、お疑いかもしれませんね。それは充分に承知の上で、このお電話を差し上げております。決してあなたには、一切の悪気はございません。―――ただ、この電話帳を勝手にひらいて、最初に眼に止まった電話番号の鍋島様にかけた、ということでございまして」
 身も知らぬ他人の電話番号にかけてきた、そして私の暮らしぶりが知りたい。いったいどういうことだろう。もしかしたら、この里村という男はどこか頭が変なのだろうか。それとも、何かの裏があるのか。でも、彼の言葉には、どこか真実味と誠実さが感じられた。里村には何かの仕方ない個人的事情があるのかもしれない。そうとも思える。芙美子の心のどこかで少しの好奇心らしきものが芽生えていた。それで芙美子は小声で言った。
「と、仰いますと、いったいどういうことかしら」
 すると、里村は嬉しそうに声を弾ませた。
「今、と或る駅前の電話ボックスから、お電話を差し上げております―――実はわたくし、昨年に交通事故と急病で、立て続けに、妻と娘を失った身の上でして、今はこの近くで部屋を借りて、一人暮らしをしております。まったくのところ、知り合いがいないというのは、とてもつらいことですね。私事ながら、痛感しておりますよ。それに、貧すれば鈍するとは、よく言ったものです。以前まで勤めていた会社を先月に人員整理でクビになりまして、やむなく失業中といった有様で。ああ、つい、余計なことを申しました」
 里村の口調はとても明るいものであったが、その切実な内容は、芙美子に同情心を与えるには充分すぎる印象をもった。やや声を詰まらせて、芙美子が声を出した。
「それは大変ですわね。で、さっき仰っていたのは」
「あなたの暮らしぶりなのです。あなたの声で、あなたの素敵な暮らしぶりを、直接、お聴きしたくて仕方ないのですよ。どうも寂しがり屋なのですね、情けない話です」

 こんな出来事は、芙美子にとって初めてであった。しかし、やりきれない単調な毎日を送る芙美子にとって、自分自身の生活の困惑した有り様を人に話して聞かせるのも、存外に悪い気分でもなかった。それで、少し気を取り直して、芙美子は、毎日の暮らしについての正直な感想や、不平、不満、将来への願望をポツリポツリと語り始めた。毎晩のような夫との口争い、ひとり息子が自分から離れていく不安感、家計のやり繰りや家事の難儀さ。そして芙美子の語る愚痴話のひとつひとつに、里村は実に楽しげに、ええ、ええ、と合いの手を入れて答え、時には、うん、うん、と同意を示してきた。徐々に芙美子のこころは落ち着きをみせて、話す口ぶりも楽しく愉快になってきた。いつの間にか、芙美子の険しい気持ちは穏やかな里村の言葉でやさしく癒されていた。ほんの少しではあったが、芙美子の眼に涙が浮かんでいた。何とはなく、それを察したのか、芙美子の話がひと段落すると、里村が声を低くして言った。
「どうも、毎日、ご苦労さまです。あなたの正直なお話を聴かせていただいて、わたくしもこころより感謝いたします。よく言いますが、人生で苦労しているのは誰も皆、同じなんですよね。思えば、この世の楽園なんて、本当は意外と身近で、小さなところにあるのかもしれません」
 そして急に思いついたように、里村は自分のひとり娘について嬉しそうに話した。去年、急性の癌で命を落とした里村の幼い娘は、生前に、取り分け、可愛いクマのぬいぐるみが好きで、部屋いっぱいに集めては、そのひとつひとつに自分で名前をつけて遊んでいたという。素敵な話ね、と芙美子は正直な気持ちでそう思った。すると里村は、しばらく言葉を噛み締めるようなたどたどしい口調で言った。
「今日の、この電話のことは、わたくしだけの大切な思い出として大事に頂いておきます。本当に感謝します。どうぞ、いつまでも、あなたらしい素敵な人生をお送りください」
 そして何度もお礼を繰り返し述べてから、里村が静かに電話を切った。しばらくの間、芙美子はその場に立ち尽くしたまま、受話器を握り締めて呆然としては、ただ受話器から流れてくる甲高いノイズにじっと耳を澄ましていた。

 食卓に置いた白いティーカップの紅茶は、もうほとんど残っていなかった。居間のテーブルに頬杖をついて、芙美子はボンヤリと、物思いに耽っていた。そうね、里村は寂しい、とても寂しいと繰り返し言っていた。きっとそれは里村にとって逃げることの出来ない辛い現実だったのだろうと思う。芙美子は深くため息をついた。そう、そして里村はあの電話を自分だけの大事な思い出にしたいと告げた。それは何気ない会話の思い出。やがて芙美子のこころに、現在までの多くの人々から残された印象深い言葉たちが浮かんでは消えていった。ちょっとした何気ない言葉が、どれほどその人を励まし、勇気づけてくれるのだろうか。人の思いやりとこころがあればこそ、きっと人は生命と愛情で生きていけるのだろう。
 私は里村に愚痴ばかりをこぼしていた。それでも里村はとても嬉しそうに最後まで私の話に耳を傾けてくれた。何てやさしい人なのだろう。そうそう、里村は失業中だった。果たして彼の仕事はうまくいくだろうか。もしや、悩み、苦しんで、自殺するようなことにならないだろうか。芙美子にふと嫌な気持ちがよぎった。でも、この私にいったい何が出来るだろうか。いったい何が。堪らなくどうしようもない不安な心境で、まるでそれを振り切るように、芙美子はカップに残った紅茶をぐいっと飲み上げた。居間の壁にかけたアンティークな鳩時計が午後の三時前を示していた。

 翌朝の朝食も、無口な夫は味噌汁を半分も残し、無愛想な息子は片方の箸を床の上に落としたまま、せわしなく自宅をあとにしていた。二人分の食器を手際よく流し台に運ぶと、カラフルな布巾で濡れた食卓の上をふき取ってから、芙美子は夫が忘れていった新聞の朝刊にふっと眼が止まった。芙美子は思った。あの人がまさか自殺をしたなんて思いたくない。それでも気になって仕方がない。いつの間にか、芙美子は朝刊を広げては三面記事のページに眼を通していた。しかし、それらしき事件はどこにも見当たらないようだ。やや身体の力が抜けたように、芙美子は食卓の椅子に座り込むと、もう一度、昨日の里村との会話を確認するかのごとく思い返しては自分を納得させた。
 食卓には息子が飲まずに残していった野菜ジュースのコップがあった。少し、口につけて、急に渇いた咽喉を潤してみる。やや気分が落ち着いた。そうね、しばらく、自分の部屋に戻って休んでみよう。それから元気をつけて朝の洗い物と床の掃除にかからないといけない。芙美子は身につけた白いエプロンを外すと丁寧に折りたたんで食卓に置き、どこか険しい表情のままで居間をあとにした。
 芙美子の部屋には組み立て式のコンパクトな書きもの机があった。そこでは、よくロマンティックな小説を読んだり、眠る前に頭の整理をしようと、毎日のように簡単な日記をつけたりしていた。机の上には、いくつかの飾り物があった。丸いデジタル時計とピンク色の眼鏡ケース、そしてとても小さなテディ・ベアのぬいぐるみだった。それは昨年に芙美子の息子が、彼女の誕生日にプレゼントしてくれた記念の品であった。そう、そういえば、里村の娘さんもクマのぬいぐるみをたくさん集めていたらしい。芙美子は書きもの机に向かうと、両手でその小さなテディ・ベアを取り上げた。あらためて、可愛いクマさんね、と思い、少し華やいだ気分になった。
 そしてテディ・ベアのあちらこちらに眼をやって微笑んでみる。どうやらテディも、きょとんとした黒い瞳で芙美子を見つめ返していた。みれば、ぬいぐるみの片隅には、小さな白いタグがついている。芙美子は眼を凝らして、そのタグに書かれた文字を何とか読んでみた。そこには「株式会社 サトムラ」と黒い活字で書かれてある。一瞬の間、芙美子はその不思議な偶然で、奇妙な感覚に襲われた。やがて時がたつにつれて芙美子はすべてを悟っていた。

―もう、あの人と話すことなんてありえない。もう一生の間、あの人と話すことは出来ないのよね。そう思うと、芙美子は深い吐息をついた。そしてテディ・ベアをしみじみと眺めながら、芙美子はしばらく感慨に耽っていた。しかし急に芙美子は思い出した。あら、いけない。さっき、ポットに入れるお湯を沸かしたままにしていたんだわ。早く、コンロの火を止めないと。可愛いテディ・ベアを机に置くと、あわてて芙美子は台所へと足早に向かっていった。  (了) 

13年10月13日

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加藤 行

 

 雑魚の佃煮をつまみながらの温かいお茶漬けは、どうやらいつの間にか冷めていた。それはどこか倦怠期を迎えた夫婦生活の乾いた味気なさを改めて芙美子は感じた。すでに彼女の夫と一人息子は、慌ただしい朝食を済ませてとっくの前に仕事へ出て、いつの間にか思わずまどろむような昼下がりを迎えていた。
 最後に、冷えたお茶漬けをひと息で食べ終えると、芙美子は静かに箸を置いた。居間の窓からレースのカーテン越しに見える自宅の庭先に眼をやって、綺麗に咲き誇っている花壇の色とりどり花々を物憂げに眺めてから芙美子は満足げに微笑を浮かべた。愉しい園芸作業にいそしむ日課は、単調に繰り返す芙美子の生活にひと時の満足な潤いを与えてくれていた。そうそう、今年の秋が暮れるまでには、花壇の色彩りを少し工夫して黄色いチューリップの球根をいくつか植えてみよう、でも思うようにうまく育ってくれるかしら、と少々気がかりな気分で、芙美子は昼食の食器をまとめて抱えては台所へと足を運んだ。
 ジャバジャバと音が鳴る。流し台の水道の古風な蛇口から流れ落ちる水道水は、春の到来を告げるように、台所用の青いスポンジを握って食器の汚れを洗っている芙美子の華奢な両手をやさしく包んでは流れていく。
 それにしても、と芙美子は思った。あの子供みたいな夫と結婚してから今年でもう何年になったのだろう。そして芙美子は頭の中でその歳月を計算してから思わずため息をついた。でも月日がたつのは本当にあっという間なのね。あの小さな息子が黒いランドセルを背負って学校へ駆け出していく後ろ姿を見送ってから、もう現在では地元の高校を卒業して、近くの大きな製紙工場で事務局の庶務課に勤めて立派に働いている。
 あの子には、もう素敵な彼女でも出来たのかしら。そんなおせっかいな想像をしただけで、母親の芙美子には少し複雑な心境がしてきて、ふっと洗い物の手が止まった。蛇口からは、ひっきりなしに水道の温かい水が流れ落ちている。

 居間にある電話が鳴った。今頃、誰だろう。何かのセールスの案内か、それとも世間を賑わしている、怪しげなオレオレ詐欺かもしれない。用心、用心。やや怪訝な気持ちで、芙美子は、濡れた手を腰に下げたタオルで拭くと居間へ向かった。

 「鍋島さんのお宅ですね。あのう、お忙しいところを失礼いたしますが」
芙美子が受話器を取ると、彼女が名前を告げる前に、突然、中年らしき男性の声が低く聴こえてきた。それは聞き覚えのない声だった。芙美子は応えた。
「ええ、そうですが、どちらさまでしょうか」
「初めてお電話を差し上げます。わたくし、里村と申します。重ねて失礼を申し上げます。実はわたくし、あなた様にとっては見ず知らずの者でして、こうやってお電話するのも、鍋島さんにとっては、はなはだ御迷惑なことでございまして」
 何が何だか分からない。思わぬことに芙美子が戸惑っていると、里村がやさしくフォローするように心を込めた口調で言った。
「ただ、あなた様の声をぜひ、お聞かせいただきたいと存じまして、電話をかけた次第でして」
「といわれましても、私には何のことだか皆目、見当がつきませんわ。あの、申し訳ありませんが、私、いま、仕事が忙しいので、またの機会ということで」
 と、芙美子が言葉を切ると、急に里村が激しい勢いで声を上げた。
「聴かせていただきたいのです。ぜひ、あなたのいつもの素晴らしい暮らしぶりを、このわたくしに少しでも聴かせていただきたいのです」

 驚いた芙美子が黙って唖然としていると、里村が申し訳なさそうに言葉を続けた。
「大声を上げてどうも失礼しました。どうやら怪しい者と、お疑いかもしれませんね。それは充分に承知の上で、このお電話を差し上げております。決してあなたには、一切の悪気はございません。―――ただ、この電話帳を勝手にひらいて、最初に眼に止まった電話番号の鍋島様にかけた、ということでございまして」
 身も知らぬ他人の電話番号にかけてきた、そして私の暮らしぶりが知りたい。いったいどういうことだろう。もしかしたら、この里村という男はどこか頭が変なのだろうか。それとも、何かの裏があるのか。でも、彼の言葉には、どこか真実味と誠実さが感じられた。里村には何かの仕方ない個人的事情があるのかもしれない。そうとも思える。芙美子の心のどこかで少しの好奇心らしきものが芽生えていた。それで芙美子は小声で言った。
「と、仰いますと、いったいどういうことかしら」
 すると、里村は嬉しそうに声を弾ませた。
「今、と或る駅前の電話ボックスから、お電話を差し上げております―――実はわたくし、昨年に交通事故と急病で、立て続けに、妻と娘を失った身の上でして、今はこの近くで部屋を借りて、一人暮らしをしております。まったくのところ、知り合いがいないというのは、とてもつらいことですね。私事ながら、痛感しておりますよ。それに、貧すれば鈍するとは、よく言ったものです。以前まで勤めていた会社を先月に人員整理でクビになりまして、やむなく失業中といった有様で。ああ、つい、余計なことを申しました」
 里村の口調はとても明るいものであったが、その切実な内容は、芙美子に同情心を与えるには充分すぎる印象をもった。やや声を詰まらせて、芙美子が声を出した。
「それは大変ですわね。で、さっき仰っていたのは」
「あなたの暮らしぶりなのです。あなたの声で、あなたの素敵な暮らしぶりを、直接、お聴きしたくて仕方ないのですよ。どうも寂しがり屋なのですね、情けない話です」

 こんな出来事は、芙美子にとって初めてであった。しかし、やりきれない単調な毎日を送る芙美子にとって、自分自身の生活の困惑した有り様を人に話して聞かせるのも、存外に悪い気分でもなかった。それで、少し気を取り直して、芙美子は、毎日の暮らしについての正直な感想や、不平、不満、将来への願望をポツリポツリと語り始めた。毎晩のような夫との口争い、ひとり息子が自分から離れていく不安感、家計のやり繰りや家事の難儀さ。そして芙美子の語る愚痴話のひとつひとつに、里村は実に楽しげに、ええ、ええ、と合いの手を入れて答え、時には、うん、うん、と同意を示してきた。徐々に芙美子のこころは落ち着きをみせて、話す口ぶりも楽しく愉快になってきた。いつの間にか、芙美子の険しい気持ちは穏やかな里村の言葉でやさしく癒されていた。ほんの少しではあったが、芙美子の眼に涙が浮かんでいた。何とはなく、それを察したのか、芙美子の話がひと段落すると、里村が声を低くして言った。
「どうも、毎日、ご苦労さまです。あなたの正直なお話を聴かせていただいて、わたくしもこころより感謝いたします。よく言いますが、人生で苦労しているのは誰も皆、同じなんですよね。思えば、この世の楽園なんて、本当は意外と身近で、小さなところにあるのかもしれません」
 そして急に思いついたように、里村は自分のひとり娘について嬉しそうに話した。去年、急性の癌で命を落とした里村の幼い娘は、生前に、取り分け、可愛いクマのぬいぐるみが好きで、部屋いっぱいに集めては、そのひとつひとつに自分で名前をつけて遊んでいたという。素敵な話ね、と芙美子は正直な気持ちでそう思った。すると里村は、しばらく言葉を噛み締めるようなたどたどしい口調で言った。
「今日の、この電話のことは、わたくしだけの大切な思い出として大事に頂いておきます。本当に感謝します。どうぞ、いつまでも、あなたらしい素敵な人生をお送りください」
 そして何度もお礼を繰り返し述べてから、里村が静かに電話を切った。しばらくの間、芙美子はその場に立ち尽くしたまま、受話器を握り締めて呆然としては、ただ受話器から流れてくる甲高いノイズにじっと耳を澄ましていた。

 食卓に置いた白いティーカップの紅茶は、もうほとんど残っていなかった。居間のテーブルに頬杖をついて、芙美子はボンヤリと、物思いに耽っていた。そうね、里村は寂しい、とても寂しいと繰り返し言っていた。きっとそれは里村にとって逃げることの出来ない辛い現実だったのだろうと思う。芙美子は深くため息をついた。そう、そして里村はあの電話を自分だけの大事な思い出にしたいと告げた。それは何気ない会話の思い出。やがて芙美子のこころに、現在までの多くの人々から残された印象深い言葉たちが浮かんでは消えていった。ちょっとした何気ない言葉が、どれほどその人を励まし、勇気づけてくれるのだろうか。人の思いやりとこころがあればこそ、きっと人は生命と愛情で生きていけるのだろう。
 私は里村に愚痴ばかりをこぼしていた。それでも里村はとても嬉しそうに最後まで私の話に耳を傾けてくれた。何てやさしい人なのだろう。そうそう、里村は失業中だった。果たして彼の仕事はうまくいくだろうか。もしや、悩み、苦しんで、自殺するようなことにならないだろうか。芙美子にふと嫌な気持ちがよぎった。でも、この私にいったい何が出来るだろうか。いったい何が。堪らなくどうしようもない不安な心境で、まるでそれを振り切るように、芙美子はカップに残った紅茶をぐいっと飲み上げた。居間の壁にかけたアンティークな鳩時計が午後の三時前を示していた。

 翌朝の朝食も、無口な夫は味噌汁を半分も残し、無愛想な息子は片方の箸を床の上に落としたまま、せわしなく自宅をあとにしていた。二人分の食器を手際よく流し台に運ぶと、カラフルな布巾で濡れた食卓の上をふき取ってから、芙美子は夫が忘れていった新聞の朝刊にふっと眼が止まった。芙美子は思った。あの人がまさか自殺をしたなんて思いたくない。それでも気になって仕方がない。いつの間にか、芙美子は朝刊を広げては三面記事のページに眼を通していた。しかし、それらしき事件はどこにも見当たらないようだ。やや身体の力が抜けたように、芙美子は食卓の椅子に座り込むと、もう一度、昨日の里村との会話を確認するかのごとく思い返しては自分を納得させた。
 食卓には息子が飲まずに残していった野菜ジュースのコップがあった。少し、口につけて、急に渇いた咽喉を潤してみる。やや気分が落ち着いた。そうね、しばらく、自分の部屋に戻って休んでみよう。それから元気をつけて朝の洗い物と床の掃除にかからないといけない。芙美子は身につけた白いエプロンを外すと丁寧に折りたたんで食卓に置き、どこか険しい表情のままで居間をあとにした。
 芙美子の部屋には組み立て式のコンパクトな書きもの机があった。そこでは、よくロマンティックな小説を読んだり、眠る前に頭の整理をしようと、毎日のように簡単な日記をつけたりしていた。机の上には、いくつかの飾り物があった。丸いデジタル時計とピンク色の眼鏡ケース、そしてとても小さなテディ・ベアのぬいぐるみだった。それは昨年に芙美子の息子が、彼女の誕生日にプレゼントしてくれた記念の品であった。そう、そういえば、里村の娘さんもクマのぬいぐるみをたくさん集めていたらしい。芙美子は書きもの机に向かうと、両手でその小さなテディ・ベアを取り上げた。あらためて、可愛いクマさんね、と思い、少し華やいだ気分になった。
 そしてテディ・ベアのあちらこちらに眼をやって微笑んでみる。どうやらテディも、きょとんとした黒い瞳で芙美子を見つめ返していた。みれば、ぬいぐるみの片隅には、小さな白いタグがついている。芙美子は眼を凝らして、そのタグに書かれた文字を何とか読んでみた。そこには「株式会社 サトムラ」と黒い活字で書かれてある。一瞬の間、芙美子はその不思議な偶然で、奇妙な感覚に襲われた。やがて時がたつにつれて芙美子はすべてを悟っていた。

―もう、あの人と話すことなんてありえない。もう一生の間、あの人と話すことは出来ないのよね。そう思うと、芙美子は深い吐息をついた。そしてテディ・ベアをしみじみと眺めながら、芙美子はしばらく感慨に耽っていた。しかし急に芙美子は思い出した。あら、いけない。さっき、ポットに入れるお湯を沸かしたままにしていたんだわ。早く、コンロの火を止めないと。可愛いテディ・ベアを机に置くと、あわてて芙美子は台所へと足早に向かっていった。  (了) 

09/12/13