「ボクがんばるから 泣かんとき」 伊神権太

 泣く。泣く。泣く。私の場合、これまでに記憶に残るほど泣いたことは一体、どれほどあるのか。ということで、覚えているとなると意外や、数えるほどしかない。
 まだ小学校に上がる前、幼稚園から帰る途中にお漏らしをしてしまい、どうしてよいものかが分からず、その場に立ち尽くしたまま路上で泣き続けていた記憶がある。頭に残るのは泣いている場面だけで、それからどうなったかものか、が分からない。
 次は父の転勤で静岡県の掛川市に住んで居たころ。小学校二、三年だった。私は〝ギン坊〟という名の上級生をガキ大将としたグループに所属、〝ギン坊〟からは、ことのほか目をかけられていた。そんなある日だった。
 私は、いきなり五、六人のこどもたちに囲まれ股間を交互に蹴られ、激痛が走り立てないでいるところを兄に助けられた。あの時はギン坊に可愛がられていた私に対する嫉妬からきた復讐劇で、泣きながら少し調子に乗り過ぎていた自身を恥じてもいた。
 そして。私の青春時代を一変させた事件が高校一年生の五月十三日に起きた。小柄ながらも中学生で講道館柔道初段を取り、尾西尾北地方では向かうところ敵なしだった私を、その不幸は突然、襲った。中高一貫の私学で中学入学と同時に入部して以降、一日たりとも稽古を休まなかった私。その私に高校を卒業してまもなく社会人となっていた先輩が乱取り稽古を始めてまもなく、私に全身を浴びせ捨て身小内刈りをかけてきたのだ。
 カキーン、という竹を真っぷたつに割った時のような大音響とともに右足全体に、それまで味わったことのない強烈な痛みが走ったのは、その瞬間だった。すぐに接骨医が駆け付けてくれたが、複雑骨折の診断で私は当然動けないまま自宅に運ばれた。あの時の涙は「この先、ボクはどうなってしまうのか」といった悔しさが先で、涙よりもむしろあぶら汗のようなものが、ふいてもふいても全身から泉の如く噴き出てきた。
 その年、すなわち「高校一年生」になったばかりで、夢も希望もいっぱいあった私はほぼ一年自宅療養を強いられる結果になった。あの時、足さえ折っていなかったなら。その後の進路が大きく変わっていたような気がしてならない。なぜか、療養中も学校の成績だけはよく無事進級できた。高校二年生に辛うじてなった私は、それでも両親が猛反対するなか、またまた柔道を始め進学校でありながら、ただひとり我を張り文武両道をめざした。
 「涙」で次に記憶にあるのは、岐阜県庁汚職事件で当時の知事が収賄容疑で送検された日だった。私は小説家宇野千代さんとともに当時、樹齢千五百年にも及ぶ根尾の老樹・淡墨桜の保存に情熱を燃やした知事がこともあろうに、宇野さんの小説「薄墨の桜」の舞台にもなった東京の料亭で現ナマ三百万円を受け取ったその事実を嘆き、原稿を書く手が何度も震え涙が原稿用紙の上にポタポタと落ちた日のことを忘れるわけにはいかない
 それから。何年たっただろう。あれは七尾で家族そろって住んでいたころに溯る。二歳前の末っ子の胸に突然、ピンポン玉大の嚢胞性リンパ管腫が出来、金沢医科大学で切除してもらった時のことだ。末っ子は私と妻を見つめ片言の、それも能登方言でこう言ってくれたのだった。
「おとうたん、おかあたん。ボクがんばるから。なかんとき、なかんとき」と。
 私と妻の両の目から涙がどっとあふれ出、涙がとめどもなく流れた。あの日のことを私たちは永遠に忘れはしないだろう。その末っ子も早や二十七歳。立派な社会人として活躍してくれている。
 泣く。涙。人はなぜ泣き、あれほどまでに夥しい涙が出るのだろう。涙こそ、人生を生きてゆくうえでの羅針盤のような気がしてならない。涙は不思議で正直者だ。  (完)

13年5月20日

「未来の私に」  黒宮涼

 泣く。泣く。泣く。私の場合、これまでに記憶に残るほど泣いたことは一体、どれほどあるのか。ということで、覚えているとなると意外や、数えるほどしかない。
 まだ小学校に上がる前、幼稚園から帰る途中にお漏らしをしてしまい、どうしてよいものかが分からず、その場に立ち尽くしたまま路上で泣き続けていた記憶がある。頭に残るのは泣いている場面だけで、それからどうなったかものか、が分からない。
 次は父の転勤で静岡県の掛川市に住んで居たころ。小学校二、三年だった。私は〝ギン坊〟という名の上級生をガキ大将としたグループに所属、〝ギン坊〟からは、ことのほか目をかけられていた。そんなある日だった。
 私は、いきなり五、六人のこどもたちに囲まれ股間を交互に蹴られ、激痛が走り立てないでいるところを兄に助けられた。あの時はギン坊に可愛がられていた私に対する嫉妬からきた復讐劇で、泣きながら少し調子に乗り過ぎていた自身を恥じてもいた。
 そして。私の青春時代を一変させた事件が高校一年生の五月十三日に起きた。小柄ながらも中学生で講道館柔道初段を取り、尾西尾北地方では向かうところ敵なしだった私を、その不幸は突然、襲った。中高一貫の私学で中学入学と同時に入部して以降、一日たりとも稽古を休まなかった私。その私に高校を卒業してまもなく社会人となっていた先輩が乱取り稽古を始めてまもなく、私に全身を浴びせ捨て身小内刈りをかけてきたのだ。
 カキーン、という竹を真っぷたつに割った時のような大音響とともに右足全体に、それまで味わったことのない強烈な痛みが走ったのは、その瞬間だった。すぐに接骨医が駆け付けてくれたが、複雑骨折の診断で私は当然動けないまま自宅に運ばれた。あの時の涙は「この先、ボクはどうなってしまうのか」といった悔しさが先で、涙よりもむしろあぶら汗のようなものが、ふいてもふいても全身から泉の如く噴き出てきた。
 その年、すなわち「高校一年生」になったばかりで、夢も希望もいっぱいあった私はほぼ一年自宅療養を強いられる結果になった。あの時、足さえ折っていなかったなら。その後の進路が大きく変わっていたような気がしてならない。なぜか、療養中も学校の成績だけはよく無事進級できた。高校二年生に辛うじてなった私は、それでも両親が猛反対するなか、またまた柔道を始め進学校でありながら、ただひとり我を張り文武両道をめざした。
 「涙」で次に記憶にあるのは、岐阜県庁汚職事件で当時の知事が収賄容疑で送検された日だった。私は小説家宇野千代さんとともに当時、樹齢千五百年にも及ぶ根尾の老樹・淡墨桜の保存に情熱を燃やした知事がこともあろうに、宇野さんの小説「薄墨の桜」の舞台にもなった東京の料亭で現ナマ三百万円を受け取ったその事実を嘆き、原稿を書く手が何度も震え涙が原稿用紙の上にポタポタと落ちた日のことを忘れるわけにはいかない
 それから。何年たっただろう。あれは七尾で家族そろって住んでいたころに溯る。二歳前の末っ子の胸に突然、ピンポン玉大の嚢胞性リンパ管腫が出来、金沢医科大学で切除してもらった時のことだ。末っ子は私と妻を見つめ片言の、それも能登方言でこう言ってくれたのだった。
「おとうたん、おかあたん。ボクがんばるから。なかんとき、なかんとき」と。
 私と妻の両の目から涙がどっとあふれ出、涙がとめどもなく流れた。あの日のことを私たちは永遠に忘れはしないだろう。その末っ子も早や二十七歳。立派な社会人として活躍してくれている。
 泣く。涙。人はなぜ泣き、あれほどまでに夥しい涙が出るのだろう。涙こそ、人生を生きてゆくうえでの羅針盤のような気がしてならない。涙は不思議で正直者だ。  (完)

13/5/17