掌編小説「壁を叩く音」

  壁を叩く音は、ある晩に始まった。
 マンションの一室では、綺麗なインテリアに囲まれて、リズミカルにパソコンのキーボードを打つ音が響いていた。おしゃれな楕円形のガラステーブルに、購入したばかりの白いノートパソコンをおいて、友美恵はインターネットで検索したウェブサイトの私小説に没頭していた。最近まで、友美恵にはこれといった趣味がなかった。一流企業の営業部でOLとして勤めている友美恵だが、毎日繰り返される単調な生活にややマンネリズムを感じ始めていた。といって、気の多い性格の友美恵には、プライベートな趣味として最初に何から手をつけてよいのか分からない。そこで気の合う同僚の真理子に相談を持ちかけた。すると彼女から社内にあった一冊のネット販売のカタログを手渡された。
 これって、あれこれと調べているだけでも、結構、時間がつぶせて楽しめるわよ、というのである。それで友美恵は半信半疑な気持ちではあったが、さっそくノートパソコンを注文して、業者にネット回線のセッティングをしてもらった。始めのうちはランダムに検索の言葉を打ち込んでいたが、しだいに要領をつかんで、あちらこちらとサイトを開くうちにネット・ワールドに魅了されては、毎晩のようにキーボードを打って好奇な気持ちでページを繰っていた。
 ガラステーブルに置いた大きなワイングラスを取り上げて、赤ワインを少し口にする。いつものように夕食後のワインの味わいは格別だった。そしてまたパソコンのディスプレイを丹念に覗き込む。友美恵が読んでいるのは、ウェブサイトの純文学同人誌「文芸」に掲載された私小説の「湖面」であった。主人公の男性は、借金と酒にまみれた悲惨な生活から逃亡して、ある保養地に出向き、湖上でボートに乗って、過去の人生を回想していたが、ある交通事故をきっかけに第二の人生へ力強く歩み出していくという感動的な物語であった。
 そしてあと少しでその小説も終わろうとするころ、友美恵がワイングラスを静かにテーブルへ戻した瞬間に、突然、壁を3回叩く音がした。たぶん、隣の住人が部屋の家具を模様替えでもしているのだろうと、友美恵は軽く判断して、その時は、それほど気にも止めなかった。やがて私小説「湖面」はハッピーエンドを迎えて終了し、さわやかな読後感でよろこびに満たされた友美恵は、パソコンを丁寧に閉じると、ルンルン気分で眠る前のシャワーを浴びた。ベージュ色のバスローブを身にまとい、ベッドに落ち着くと、濡れた髪をバスタオルでよくふき取る。
 壁を3回叩く音がした。ギクッと驚いて、友美恵の動きが止まる。恐る恐る、友美恵は壁にかけた時計を見上げて、午後の十一時を過ぎていることを知った。あら、こんな遅くまで騒がしいわね。明日もうるさいのなら、隣へ行って直接、注意しなくては、と心に決めてから、友美恵は念のためにと、ベッドサイドの引き出しから、ようやく耳栓を探し当てると、それを耳に当てて、勢いよく布団のなかにもぐり込んで眠りについた。

 翌朝になった。シンプルなデザインの鏡面にうつる友美恵のスタイルは、上下が黒のスーツで肩からは紅色のハンドバッグを提げ、スレンダーなボディラインに合わせてビシッと決まっている。これでよし。それでようやく今日の戦闘準備が完了した友美恵は、心地よくラベンダーが香っている玄関に置いた黒いゴミ袋を厄介そうに持ち上げると部屋を出た。今朝は可燃ゴミの収集日であった。いつもどおりに部屋の鍵をかけ、通路を行きかけてふと足を止めると、隣の部屋の扉をしげしげと眺めた。そしてそこに貼りつけられた白いネーム・プレートを見つけると、それが名前もなく白いプレートのままであることが分かって少し不安を感じた。でも、ここの住人がまだ引っ越して来たばかりで、表札の明記までは手が回っていないとも考えられる。また、近いうちに引っ越しの挨拶にでも来るだろうと、安易な発想で自分を納得させておいた。さて、仕事だ! 満員電車を目指して、階下へ降りるマンションのエレベーターの扉へと向かった。

 山積みのコピーでデスクを一杯にした午前の仕事が終わって、ようやく会社の昼休みがやって来た。ホッとした友美恵は、同僚の真理子と一緒に、社内にある明るい雰囲気のカフェ・レストランの丸いテーブルに向かい合って、昼食のシーフードドリアとシーザーサラダを前にして話し込んでいた。最初の話題はいつも口うるさい上司の愚痴話だったが、それが途切れると、友美恵が急に思いついたように例の物音の一件を話し出した。
「―っていう事なのよ。ねえ、真理子はどう思う。やっぱり引っ越しの最中かしら」
 すると真理子があきれた顔をして、とがめるような口ぶりで友美恵に答えた。
「何かの都合で壁を叩くってこともあるだろうし、それに、1、2回のことで騒ぐほどのこともないでしょう。本当に友美恵は神経質な性格なのね。でも、もしかしたら、友美恵の幻覚の一種かもよ? いちど試しに神経科を受診してみては、いかがかしらねー。それで何か分かるかもよー。まあ、たいしたアドバイスなんて私には出来ないわね。ごめん」
 そう言ってから、真理子は、ばっさりと友美恵を黙殺したように、もう彼女の話には返事もしないで、ひたすら食事に専念していた。

 パソコンのディスプレイでは、ネットで配信された青春アニメの「サクラ咲く恋」が放映されていた。そこでは主人公の女子高校生のサクラが、初恋の相手、孝夫に、念願のラブ・レターを心臓バクバク状態で差し出している場面だった。友美恵は、ずいぶん前から飲んでいたワインで少し睡魔に襲われながらも、壁の時計で、もう午後の十一時を過ぎた頃だと分かった。そろそろ眠ろうか、と友美恵は考えていた。画面では、ラブ・レターを渡したサクラが、恥ずかしそうな声を上げて校内の廊下を駆け去っていくところであった。そして、その時、壁を3回叩く音がした。しばらくの間をおいて、また壁が3回叩かれる。そして、また3回叩かれた。それでとうとう、友美恵は頭に来た。これは放っておけない。
 
 やがて友美恵は、まるで壊れそうになるほど強い勢いで、ドンドンと隣の部屋の扉を叩き続けていた。しばらく待ってみたが、何の返事もない。よくみれば、おかしなことに部屋のチャイムもついていなかった。何だか、気味が悪い。それで仕方なく、扉の隙間から中を覗き込んだ。広めのワンルーム・マンションのはずだが、その部屋のなかは明かりもなく、真っ暗である。混乱した友美恵は激しい精神的パニック状態に陥り、顔は青ざめ恐怖と戦慄が友美恵の全身を駆け抜けた。
「ひ、ひいー。だ、誰か、助けてえー」
 と、わけの分からない言葉を繰り返しながら、友美恵は乱れた足取りで自室に戻ると、扉の内側から何度も鍵をかけ直して、急いでパソコンの電源を切り、部屋の明かりをつけたままにして、布団のなかに飛び込んだ。けれど、覚めない恐怖に、心臓はバクバクと飛び出しそうに息苦しい。眠られるはずもなかった。しばらく抵抗した結果、もう観念したのか、恐る恐る布団から這い出ると、友美恵はダイニング・キッチンにゆっくりと向かった。そしてワインラックに寝かせてある赤ワインのボトルを一本抜き出してグラスに注ぎ、一心不乱に三杯を立て続けに飲み込んだ。やがて意識朦朧で前後不覚になると、何やらブツブツとつぶやきながら、ふらついた足取りのまま、友美恵はベッドに倒れた……。

 翌日は土曜日で、休日であった。早朝に、部屋の扉が開くと、中から乱れた髪のままでパジャマ姿の友美恵が現れたかと思うと、彼女はスタスタと小走りにエレベーターに向かい、しばらくして一階の玄関わきにある管理人室の扉をノックしていた。若い女性の演歌歌手らしき甘い歌声が聞こえる。すると中から、管理人の杉村が、妙に、にやけた顔をニュッと出したが、友美恵の姿を認めると、とたんに真面目な顔つきをして無愛想な声で用件を尋ねてきた。気が抜けた調子で友美恵が昨夜に起きた出来事を正直に告白すると、スッと杉村の顔が扉の中へ引っ込んで、ようやく片足にギブスをつけて松葉杖をついた杉村が姿を現した。それでもう一度、寝ぼけたような顔つきで、友美恵は昨夜のことを繰り返して話した。すると杉村は、うんうんと黙って彼女の話に耳を傾けていたが、そのあとで怪訝な表情をしながら、こう語った。
「ふん、あなたが話した部屋のことは今でも憶えていますがな、たしか、前に住んでいた方なら三十代の独身女性でしたが、二年ほど前に結婚退職と同時にあの部屋から出て行かれて、現在では空き部屋になっとりますぞ、……さて真夜中に壁をドンドンとねえ、しかし、それにしても奇妙なことですなあ」
 それではと、友美恵と杉村の二人は問題の部屋を実際に、確認する事になったが、空き部屋のままで、その部屋の鍵はしっかりと掛けられていたことも判明した。では、誰もいない部屋で起きた、あの物音はいったい何なのか。友美恵は頭を抱えて悩みそうになる自分をこらえて、一応、杉村に礼を述べて帰ろうとしたが、それを杉村が引き止めると、一緒に将棋を差してみないかと言い出した。将棋ですって。こんな朝早くから、冗談じゃない。声をかけて来る杉村に無言で頭を下げて背中を向けると、どうやら杉村もあきらめたようで、ブツブツと文句を言いながら退却していく。友美恵は、その場で何度も深呼吸を繰り返しながら、出来るだけ平常心を心がけて隣の部屋の前を冷静に通り過ぎると、あわてて自宅の扉の中に飛び込んだ。そして、ある意味でこれは恐るべき超常現象だ、何とかしてこの原因を突き止めなくては、と友美恵は真剣に考えて、ようやくマンションの近くにある公設の図書館へ出向くことに決めた。
 休日のために多くの客で混雑した図書館の閲覧室の机に、世界中の心霊現象の書物を山積みにして、大きな革表紙の専門書のページを開いた前で、ポルターガイスト、ドッペルゲンガ―、ラップ現象、幽体離脱、ウイッジャ・ボード等々とつぶやきながら、髪を乱した友美恵は何度も襲ってくる睡魔と格闘していたが、これでは埒が明かないと、やがて降参して、トボトボと図書館をあとにした。しかし、このままでは、夜が来るのがとても恐ろしくて仕方がない。そこで友美恵は自宅の電話から真理子の携帯電話に掛けてみた。彼女が一緒に居てくれたら、とても心強い。今夜の一晩だけでも、ともに過ごしてくれないだろうか。すると真理子はいいよ、とすぐに承諾してくれた。二、三時間して、自動車で駆けつけた真理子が、どこかのコンビニで買い込んだ食料品のレジ袋を両手に抱えて、ひと眠りして落ち着いた友美恵の前に姿を見せた。そして友美恵にレジ袋を示して、とても残念だけど、ワインだけはどこにも見当たらなかったの、と軽い冗談で友美恵を笑わせてから、おもむろに友美恵と二人で夕食の準備に取りかかった。
 想い出に残るような楽しく愉快な一夜であった。友美恵自身が驚いたことに、例の物音は一度も鳴らなかったのだった。真理子と二人で、夕食のカルボナーラとコールスローサラダを食べて、ワインを空け、パソコンのネットショップで、近いうちに来る真冬に備えて二人分のロング丈のダウン・ジャケットを買い、またワインを空けては、友美恵が大好物のスップリを夜食に食べて、またワインで乾杯した。あっという間に夜は明けて、朝の小鳥がさえずり出した頃には、二人はベッドの上で、すでにグッスリと眠り込んでいた。

 またね、と笑顔をみせて帰宅していく真理子の自動車を見送ってから、友美恵は気を取り直すと、朝のシャワーで軽く汗を流して、トーストとハムエッグにダージリン・ティーで朝食を済ませて外出し、休日に行きつけのエステティック・サロンに寄り、エスニック料理の専門店で昼食を取り、遠出しては銀座でアクセサリーのショッピングで夢中になった。そして、くたびれた彼女がようやく自宅のマンションに戻ったのは、すでに夕暮れのときであった。
 ダイニングキッチンで、気分よくモーツアルトのピアノ・ソナタを流して、夕食のチョリソーとサルサのピザにワインの準備をしながら、友美恵は幾度か壁のほうへ耳を澄まして、物音がしないのを確かめて安堵のため息をもらした。そして、やはり、あれは私の錯覚だったのかしら、とあらためて首をかしげた。でも、そういえば、と友美恵は思い返す。あれはたしか、どこかで聴いた記憶のあるような物音だ。では、いったいいつの頃かしら。白いレースのカーテンが揺れる窓の外では、早くも夜が訪れていた。ようやく友美恵は焼き上がった熱いピザをオーブンから取り出して、白い器に盛り付けようとした。
 
 突然に、バタンと大きな音を鳴らして、玄関の頑丈な扉が開かれたかと思うと、片手に刃物を握った大男が、黒い覆面をかぶって友美恵の部屋へ侵入してきた。思わず、友美恵は手にした器を床に落とし、それは悲鳴のようなかん高い音を立てて砕け散ってしまった。
 その強盗が、押し殺した低い声で友美恵を脅した。
「おい、そこの女、黙って、おとなしく現金を出してもらおうか。ふん、さもないと………」
 ゆっくりとした動きで、黒いジャンパーを着た大男が友美恵に迫って来た。ガクガクと怯えて震えながら、接近する男の動きに合わせて、友美恵は必死の思いで身を退けていく。しかし友美恵はついに奥の壁際に追い詰められてしまった。その勢いで、ベッドサイドに置いた大型のシェードランプが転がり落ちて壊れた。ついに助けを求めて、誰かに知らせようと、友美恵は無意識のうちに片手の握りこぶしで部屋の壁を叩いていた。1、2、3回と。
 
 そして友美恵は、自分自身でハッと気づいた。それは友美恵の子ども時代のころだった。まだ幼ない友美恵が、夢中になって机に向かい勉強していると、家にやって来た友だちの由香ちゃんが、悪戯をするようにニヤニヤと外から部屋の窓ガラスを1,2,3回と叩いてきた。表に出て、いっしょに遊ぼうという、いつもの合図だった。ねえ、お外に出ようよ………。しかし、友美恵が中学校に上がる時になって、由香ちゃんは突然の交通事故であっけなくこの世を去った。亡くなった由香ちゃん。こんな恐ろしい事態になることを由香ちゃんは知っていた。そして何度も一生懸命に友だちの私に伝えようとしたのだ。
 しだいに薄れていく意識のなかで、友美恵は嬉しさに涙を流しながら、刑事らしき男たちに取り押さえられる大男と、こちらへ駆け寄って来る真理子と若い警官の姿がうっすらと浮かんでいた。よかった、ようやく助かったわ。そして穏やかに心地よく、友美恵はゆっくりと気を失って行った………。    (了)  

                              

13年4月3日

ウェブ作品集

加藤 行

 

  壁を叩く音は、ある晩に始まった。
 マンションの一室では、綺麗なインテリアに囲まれて、リズミカルにパソコンのキーボードを打つ音が響いていた。おしゃれな楕円形のガラステーブルに、購入したばかりの白いノートパソコンをおいて、友美恵はインターネットで検索したウェブサイトの私小説に没頭していた。最近まで、友美恵にはこれといった趣味がなかった。一流企業の営業部でOLとして勤めている友美恵だが、毎日繰り返される単調な生活にややマンネリズムを感じ始めていた。といって、気の多い性格の友美恵には、プライベートな趣味として最初に何から手をつけてよいのか分からない。そこで気の合う同僚の真理子に相談を持ちかけた。すると彼女から社内にあった一冊のネット販売のカタログを手渡された。
 これって、あれこれと調べているだけでも、結構、時間がつぶせて楽しめるわよ、というのである。それで友美恵は半信半疑な気持ちではあったが、さっそくノートパソコンを注文して、業者にネット回線のセッティングをしてもらった。始めのうちはランダムに検索の言葉を打ち込んでいたが、しだいに要領をつかんで、あちらこちらとサイトを開くうちにネット・ワールドに魅了されては、毎晩のようにキーボードを打って好奇な気持ちでページを繰っていた。
 ガラステーブルに置いた大きなワイングラスを取り上げて、赤ワインを少し口にする。いつものように夕食後のワインの味わいは格別だった。そしてまたパソコンのディスプレイを丹念に覗き込む。友美恵が読んでいるのは、ウェブサイトの純文学同人誌「文芸」に掲載された私小説の「湖面」であった。主人公の男性は、借金と酒にまみれた悲惨な生活から逃亡して、ある保養地に出向き、湖上でボートに乗って、過去の人生を回想していたが、ある交通事故をきっかけに第二の人生へ力強く歩み出していくという感動的な物語であった。
 そしてあと少しでその小説も終わろうとするころ、友美恵がワイングラスを静かにテーブルへ戻した瞬間に、突然、壁を3回叩く音がした。たぶん、隣の住人が部屋の家具を模様替えでもしているのだろうと、友美恵は軽く判断して、その時は、それほど気にも止めなかった。やがて私小説「湖面」はハッピーエンドを迎えて終了し、さわやかな読後感でよろこびに満たされた友美恵は、パソコンを丁寧に閉じると、ルンルン気分で眠る前のシャワーを浴びた。ベージュ色のバスローブを身にまとい、ベッドに落ち着くと、濡れた髪をバスタオルでよくふき取る。
 壁を3回叩く音がした。ギクッと驚いて、友美恵の動きが止まる。恐る恐る、友美恵は壁にかけた時計を見上げて、午後の十一時を過ぎていることを知った。あら、こんな遅くまで騒がしいわね。明日もうるさいのなら、隣へ行って直接、注意しなくては、と心に決めてから、友美恵は念のためにと、ベッドサイドの引き出しから、ようやく耳栓を探し当てると、それを耳に当てて、勢いよく布団のなかにもぐり込んで眠りについた。

 翌朝になった。シンプルなデザインの鏡面にうつる友美恵のスタイルは、上下が黒のスーツで肩からは紅色のハンドバッグを提げ、スレンダーなボディラインに合わせてビシッと決まっている。これでよし。それでようやく今日の戦闘準備が完了した友美恵は、心地よくラベンダーが香っている玄関に置いた黒いゴミ袋を厄介そうに持ち上げると部屋を出た。今朝は可燃ゴミの収集日であった。いつもどおりに部屋の鍵をかけ、通路を行きかけてふと足を止めると、隣の部屋の扉をしげしげと眺めた。そしてそこに貼りつけられた白いネーム・プレートを見つけると、それが名前もなく白いプレートのままであることが分かって少し不安を感じた。でも、ここの住人がまだ引っ越して来たばかりで、表札の明記までは手が回っていないとも考えられる。また、近いうちに引っ越しの挨拶にでも来るだろうと、安易な発想で自分を納得させておいた。さて、仕事だ! 満員電車を目指して、階下へ降りるマンションのエレベーターの扉へと向かった。

 山積みのコピーでデスクを一杯にした午前の仕事が終わって、ようやく会社の昼休みがやって来た。ホッとした友美恵は、同僚の真理子と一緒に、社内にある明るい雰囲気のカフェ・レストランの丸いテーブルに向かい合って、昼食のシーフードドリアとシーザーサラダを前にして話し込んでいた。最初の話題はいつも口うるさい上司の愚痴話だったが、それが途切れると、友美恵が急に思いついたように例の物音の一件を話し出した。
「―っていう事なのよ。ねえ、真理子はどう思う。やっぱり引っ越しの最中かしら」
 すると真理子があきれた顔をして、とがめるような口ぶりで友美恵に答えた。
「何かの都合で壁を叩くってこともあるだろうし、それに、1、2回のことで騒ぐほどのこともないでしょう。本当に友美恵は神経質な性格なのね。でも、もしかしたら、友美恵の幻覚の一種かもよ? いちど試しに神経科を受診してみては、いかがかしらねー。それで何か分かるかもよー。まあ、たいしたアドバイスなんて私には出来ないわね。ごめん」
 そう言ってから、真理子は、ばっさりと友美恵を黙殺したように、もう彼女の話には返事もしないで、ひたすら食事に専念していた。

 パソコンのディスプレイでは、ネットで配信された青春アニメの「サクラ咲く恋」が放映されていた。そこでは主人公の女子高校生のサクラが、初恋の相手、孝夫に、念願のラブ・レターを心臓バクバク状態で差し出している場面だった。友美恵は、ずいぶん前から飲んでいたワインで少し睡魔に襲われながらも、壁の時計で、もう午後の十一時を過ぎた頃だと分かった。そろそろ眠ろうか、と友美恵は考えていた。画面では、ラブ・レターを渡したサクラが、恥ずかしそうな声を上げて校内の廊下を駆け去っていくところであった。そして、その時、壁を3回叩く音がした。しばらくの間をおいて、また壁が3回叩かれる。そして、また3回叩かれた。それでとうとう、友美恵は頭に来た。これは放っておけない。
 
 やがて友美恵は、まるで壊れそうになるほど強い勢いで、ドンドンと隣の部屋の扉を叩き続けていた。しばらく待ってみたが、何の返事もない。よくみれば、おかしなことに部屋のチャイムもついていなかった。何だか、気味が悪い。それで仕方なく、扉の隙間から中を覗き込んだ。広めのワンルーム・マンションのはずだが、その部屋のなかは明かりもなく、真っ暗である。混乱した友美恵は激しい精神的パニック状態に陥り、顔は青ざめ恐怖と戦慄が友美恵の全身を駆け抜けた。
「ひ、ひいー。だ、誰か、助けてえー」
 と、わけの分からない言葉を繰り返しながら、友美恵は乱れた足取りで自室に戻ると、扉の内側から何度も鍵をかけ直して、急いでパソコンの電源を切り、部屋の明かりをつけたままにして、布団のなかに飛び込んだ。けれど、覚めない恐怖に、心臓はバクバクと飛び出しそうに息苦しい。眠られるはずもなかった。しばらく抵抗した結果、もう観念したのか、恐る恐る布団から這い出ると、友美恵はダイニング・キッチンにゆっくりと向かった。そしてワインラックに寝かせてある赤ワインのボトルを一本抜き出してグラスに注ぎ、一心不乱に三杯を立て続けに飲み込んだ。やがて意識朦朧で前後不覚になると、何やらブツブツとつぶやきながら、ふらついた足取りのまま、友美恵はベッドに倒れた……。

 翌日は土曜日で、休日であった。早朝に、部屋の扉が開くと、中から乱れた髪のままでパジャマ姿の友美恵が現れたかと思うと、彼女はスタスタと小走りにエレベーターに向かい、しばらくして一階の玄関わきにある管理人室の扉をノックしていた。若い女性の演歌歌手らしき甘い歌声が聞こえる。すると中から、管理人の杉村が、妙に、にやけた顔をニュッと出したが、友美恵の姿を認めると、とたんに真面目な顔つきをして無愛想な声で用件を尋ねてきた。気が抜けた調子で友美恵が昨夜に起きた出来事を正直に告白すると、スッと杉村の顔が扉の中へ引っ込んで、ようやく片足にギブスをつけて松葉杖をついた杉村が姿を現した。それでもう一度、寝ぼけたような顔つきで、友美恵は昨夜のことを繰り返して話した。すると杉村は、うんうんと黙って彼女の話に耳を傾けていたが、そのあとで怪訝な表情をしながら、こう語った。
「ふん、あなたが話した部屋のことは今でも憶えていますがな、たしか、前に住んでいた方なら三十代の独身女性でしたが、二年ほど前に結婚退職と同時にあの部屋から出て行かれて、現在では空き部屋になっとりますぞ、……さて真夜中に壁をドンドンとねえ、しかし、それにしても奇妙なことですなあ」
 それではと、友美恵と杉村の二人は問題の部屋を実際に、確認する事になったが、空き部屋のままで、その部屋の鍵はしっかりと掛けられていたことも判明した。では、誰もいない部屋で起きた、あの物音はいったい何なのか。友美恵は頭を抱えて悩みそうになる自分をこらえて、一応、杉村に礼を述べて帰ろうとしたが、それを杉村が引き止めると、一緒に将棋を差してみないかと言い出した。将棋ですって。こんな朝早くから、冗談じゃない。声をかけて来る杉村に無言で頭を下げて背中を向けると、どうやら杉村もあきらめたようで、ブツブツと文句を言いながら退却していく。友美恵は、その場で何度も深呼吸を繰り返しながら、出来るだけ平常心を心がけて隣の部屋の前を冷静に通り過ぎると、あわてて自宅の扉の中に飛び込んだ。そして、ある意味でこれは恐るべき超常現象だ、何とかしてこの原因を突き止めなくては、と友美恵は真剣に考えて、ようやくマンションの近くにある公設の図書館へ出向くことに決めた。
 休日のために多くの客で混雑した図書館の閲覧室の机に、世界中の心霊現象の書物を山積みにして、大きな革表紙の専門書のページを開いた前で、ポルターガイスト、ドッペルゲンガ―、ラップ現象、幽体離脱、ウイッジャ・ボード等々とつぶやきながら、髪を乱した友美恵は何度も襲ってくる睡魔と格闘していたが、これでは埒が明かないと、やがて降参して、トボトボと図書館をあとにした。しかし、このままでは、夜が来るのがとても恐ろしくて仕方がない。そこで友美恵は自宅の電話から真理子の携帯電話に掛けてみた。彼女が一緒に居てくれたら、とても心強い。今夜の一晩だけでも、ともに過ごしてくれないだろうか。すると真理子はいいよ、とすぐに承諾してくれた。二、三時間して、自動車で駆けつけた真理子が、どこかのコンビニで買い込んだ食料品のレジ袋を両手に抱えて、ひと眠りして落ち着いた友美恵の前に姿を見せた。そして友美恵にレジ袋を示して、とても残念だけど、ワインだけはどこにも見当たらなかったの、と軽い冗談で友美恵を笑わせてから、おもむろに友美恵と二人で夕食の準備に取りかかった。
 想い出に残るような楽しく愉快な一夜であった。友美恵自身が驚いたことに、例の物音は一度も鳴らなかったのだった。真理子と二人で、夕食のカルボナーラとコールスローサラダを食べて、ワインを空け、パソコンのネットショップで、近いうちに来る真冬に備えて二人分のロング丈のダウン・ジャケットを買い、またワインを空けては、友美恵が大好物のスップリを夜食に食べて、またワインで乾杯した。あっという間に夜は明けて、朝の小鳥がさえずり出した頃には、二人はベッドの上で、すでにグッスリと眠り込んでいた。

 またね、と笑顔をみせて帰宅していく真理子の自動車を見送ってから、友美恵は気を取り直すと、朝のシャワーで軽く汗を流して、トーストとハムエッグにダージリン・ティーで朝食を済ませて外出し、休日に行きつけのエステティック・サロンに寄り、エスニック料理の専門店で昼食を取り、遠出しては銀座でアクセサリーのショッピングで夢中になった。そして、くたびれた彼女がようやく自宅のマンションに戻ったのは、すでに夕暮れのときであった。
 ダイニングキッチンで、気分よくモーツアルトのピアノ・ソナタを流して、夕食のチョリソーとサルサのピザにワインの準備をしながら、友美恵は幾度か壁のほうへ耳を澄まして、物音がしないのを確かめて安堵のため息をもらした。そして、やはり、あれは私の錯覚だったのかしら、とあらためて首をかしげた。でも、そういえば、と友美恵は思い返す。あれはたしか、どこかで聴いた記憶のあるような物音だ。では、いったいいつの頃かしら。白いレースのカーテンが揺れる窓の外では、早くも夜が訪れていた。ようやく友美恵は焼き上がった熱いピザをオーブンから取り出して、白い器に盛り付けようとした。
 
 突然に、バタンと大きな音を鳴らして、玄関の頑丈な扉が開かれたかと思うと、片手に刃物を握った大男が、黒い覆面をかぶって友美恵の部屋へ侵入してきた。思わず、友美恵は手にした器を床に落とし、それは悲鳴のようなかん高い音を立てて砕け散ってしまった。
 その強盗が、押し殺した低い声で友美恵を脅した。
「おい、そこの女、黙って、おとなしく現金を出してもらおうか。ふん、さもないと………」
 ゆっくりとした動きで、黒いジャンパーを着た大男が友美恵に迫って来た。ガクガクと怯えて震えながら、接近する男の動きに合わせて、友美恵は必死の思いで身を退けていく。しかし友美恵はついに奥の壁際に追い詰められてしまった。その勢いで、ベッドサイドに置いた大型のシェードランプが転がり落ちて壊れた。ついに助けを求めて、誰かに知らせようと、友美恵は無意識のうちに片手の握りこぶしで部屋の壁を叩いていた。1、2、3回と。
 
 そして友美恵は、自分自身でハッと気づいた。それは友美恵の子ども時代のころだった。まだ幼ない友美恵が、夢中になって机に向かい勉強していると、家にやって来た友だちの由香ちゃんが、悪戯をするようにニヤニヤと外から部屋の窓ガラスを1,2,3回と叩いてきた。表に出て、いっしょに遊ぼうという、いつもの合図だった。ねえ、お外に出ようよ………。しかし、友美恵が中学校に上がる時になって、由香ちゃんは突然の交通事故であっけなくこの世を去った。亡くなった由香ちゃん。こんな恐ろしい事態になることを由香ちゃんは知っていた。そして何度も一生懸命に友だちの私に伝えようとしたのだ。
 しだいに薄れていく意識のなかで、友美恵は嬉しさに涙を流しながら、刑事らしき男たちに取り押さえられる大男と、こちらへ駆け寄って来る真理子と若い警官の姿がうっすらと浮かんでいた。よかった、ようやく助かったわ。そして穏やかに心地よく、友美恵はゆっくりと気を失って行った………。    (了)  

                              

09/12/13