掌編小説「雪葬」

 おいしいパン屋さんがある街に住みたいと思っていた。 それを伝えると、クールな店主は、少し動揺して、そのことにはなにも触れず、他の話をした。
        ×        ×
 初めてその店を訪れたのは、私が独身の頃だから、少なくとも10年以上は前になる。仕事に行く道すがら、パン屋があることに気付いた。 同じ市内とはいえ、当時の私の家は市の西部、その店は東部にあったから、パン屋ができていることに気付かなかったのだ。 パンが好きなので、近郊のパン屋の味はすべてチェックしていた。  
 私にとってパンの味は、食パンが基準になる。 耳がパリッとして、中の生地は上品なキメの細かさ、焼くとバターがすっとのってしみこむ。ああ、本物だ、と思った。 専門店に挽いてもらったコーヒーとよく合う。 運良く焼きたてに出合ったら、そのままちぎって食べた。 それまで数あるパン屋さんを巡っては、味を確かめることを密かな喜びとしていたが、その店は、私のお気に入りのベスト2のうちのひとつになった。

 それからしばらくして私は結婚し、偶然にもそのパン屋さんの近くの団地に住む事になったのである。  
 冒頭の会話は、その時に交わした会話である。
 ある日パン屋に行くと、保育園の案内パンフが置いてあった。小さな子どもを連れていた私は、その保育園について尋ねた。
 その会話の中で、さりげなく、本当にさりげなく、自分の子どもに障害があったこと、それも重度であることを話された。そして、離婚していることも、さらりと言われた。

 いつも店主は、ひとりでパンを焼いていた。
 仕込み、こねて、ねかせて、焼いて。その味は確かでいつも狂いがなかった。  
 店は、店主一人できりもりしている。
 たまにレジにパートさんがいたが、パンをつくる行程は、あくまで一人で作業しているようだった。 あまりに忙しそうなので、助手を雇えばいいのに・・・と思うその言葉をぐっと飲み込んだ。
 職人の頑なさは、弟子を拒んでいるようにも見えた。
 
 12月31日まで営業、正月は3日から。何故かと聞くと、31日に、いつも決まって訪れるお坊さんがいるので、その人の為に店を開けているのだという。また、パンをおいしく食べられるのは2日ほど。大晦日に買ってもらったパンがもつのはせいぜい1月2日まで。1月3日には、パン党のお客の為に店を開くのだと。

 更なる高みを求めて、ドイツのある高名なパン職人が来日した際は、東京まで行き、教えを乞うた。 総菜パン、おやつパンは殆ど置かず、味で勝負の横文字のパンたち。万人受けするメロンパンやホットドック、ドーナツや揚げパンを焼けば、店はもっと繁盛するはずだった。
 しかし店主はいつもひとりで、もっと崇高な山の頂上を目指していた。きっと、険しい山だったに違いない。
 
 店主はお客と話をしていても、けっして話し過ぎることはなかった。でもまったく話さないでもなかった。私は名乗った覚えはなかったのだが、きっと自分で何かの拍子に言ったのだろう、ちゃんと名前を知っていた。息子の名前も、娘の名前も、一度で覚えてくれて、訪れると気のいいお兄さんといった風で、いつも名前で呼んでくれた。 私の名前はもちろん、私の友だちの名前も知っていた。店にはたまにしか行かない人なのにも関わらず、話しているうちにふと話題に出てきて、その人のこともよく記憶していたので驚いた。

 しばらくして、店はドイツの新聞に紹介された。ドイツ釜で焼くこだわりのパンが評判になって、ドイツ紙の記者が取材に来たのだった。しかしそのような出来事があろうとも、店主は決して、おごり高ぶるようなことはなかった。自分はたいした人間じゃない、と頭を横に振るのだった。パンの味を褒めても、いつも心から謙遜した。
 褒められる事を拒む、まるで自分自身の過去への懺悔のようであった。

 店主さんへ
 いつも、ありがとうございます。   
 ぼくは、店主さんのことが大好きです。 いつも、ぼくのことをやさしくしてくれて、うれしいです。
 ぼくは、お店のパンがすごくおいしいと、毎日、おもっていました。   
 ぼくは、店主さんがなくなって、ほんとうに、悲しいです。
  もう、お店のパンをにどと、食べられないと思ったら、ざんねんです。   
 毎日本当にありがとうございました。(店主さんの絵と食パンの絵)
   
 店主様   店主さんがこの世におられないなんて、まだ信じられません。
 あの、42年ぶりの大雪が街に降り積もったあの日、私は発熱で床に伏しておりました。思えばここ1か月、体調が思わしくなくて、お店へ行けなかったのが本当に悔やまれます。 友人からの一報にも 「まさか」 なにかの間違いに決まってる・・・
 この目でお店のシャッターの貼り紙 これを見るまでは、信じられなかったし、信じたくもなかったのです。   
 月に数回、ほんの半斤のパンを買いに行く私に「少しずつ買いに来てくれて、焼きたての新鮮なパンを食べてもらうのが、一番嬉しいんです」と言ってくださいました。  
 店の奥で、こだわりのパンを焼く店主さんの姿を見るのも好きでしたし(忙しい中、私が来店していることは気付いてみえた)、たまに一言、二言会話するほんの2、3分が私にとっての癒しでした。
 家族の事、悩み、不安、いつも真面目に明るく応えてくださって、励まされてばかりでした。息子が試食のパンを何度も口に運ぶのを見ても、嫌なお顔ひとつなさらず、優しかった。
 お声が、いまもまざまざと耳に甦ります。   
 あのパンは、もう食べられないのですね。  
 お葬式に行きたかった、
 行けなくてごめんなさい。

 いろいろな会話を思い出しますが、私にとって人生最大の絶望と不安の中で迎えた第2子出産の前に、「足首を冷やしちゃダメですよ。足首を暖めてね」   
 あのお言葉が、涙が出る程嬉しかったんです。きっと店主さんは、お客さんをいっぱい励まして、おいしいパンと元気を与えてくれていたんでしょうね。   
 ご自身の事は殆ど話されませんでしたが、なんとなく想像するに悲しみを抱えて地獄も見て来られたようにお見受けしておりました。
 そんな方だから、お仕事に対する気持ち、姿勢が他とは比べ物になりませんでした。お客たちはみんなそこに惚れてついてきたんです。  

 店の前の貼り紙を見て、居合わせた見ず知らずのお客さんと泣きました。
 隣の呉服屋さんで、詳細も聞きました。  
 ぜんそくの持病があって、毎日咳き込んで吸引してからお仕事されていた事、あの日の猛烈な寒さで呼吸が苦しくなって倒れ、出勤してきたパートさんに発見されて救急車を呼んで、病院に向かう途中でもう息があったかないかだったって・・・。
  
 舞台の上で死にたいと願う役者のように、最後の最後まで立派にお仕事されました。   
 どこに住んで居られたかも分からなかったので、息子と書いた、このあてのないお手紙をお店のポストへ入れておきます。   
 あなたの命を賭けたパン、
 いつまでも忘れません。

 いままで 本当に ありがとう                  (完)     

12年12月27日

エッセイ 「ババーンっていうピアノ」

 おいしいパン屋さんがある街に住みたいと思っていた。 それを伝えると、クールな店主は、少し動揺して、そのことにはなにも触れず、他の話をした。
        ×        ×
 初めてその店を訪れたのは、私が独身の頃だから、少なくとも10年以上は前になる。仕事に行く道すがら、パン屋があることに気付いた。 同じ市内とはいえ、当時の私の家は市の西部、その店は東部にあったから、パン屋ができていることに気付かなかったのだ。 パンが好きなので、近郊のパン屋の味はすべてチェックしていた。  
 私にとってパンの味は、食パンが基準になる。 耳がパリッとして、中の生地は上品なキメの細かさ、焼くとバターがすっとのってしみこむ。ああ、本物だ、と思った。 専門店に挽いてもらったコーヒーとよく合う。 運良く焼きたてに出合ったら、そのままちぎって食べた。 それまで数あるパン屋さんを巡っては、味を確かめることを密かな喜びとしていたが、その店は、私のお気に入りのベスト2のうちのひとつになった。

 それからしばらくして私は結婚し、偶然にもそのパン屋さんの近くの団地に住む事になったのである。  
 冒頭の会話は、その時に交わした会話である。
 ある日パン屋に行くと、保育園の案内パンフが置いてあった。小さな子どもを連れていた私は、その保育園について尋ねた。
 その会話の中で、さりげなく、本当にさりげなく、自分の子どもに障害があったこと、それも重度であることを話された。そして、離婚していることも、さらりと言われた。

 いつも店主は、ひとりでパンを焼いていた。
 仕込み、こねて、ねかせて、焼いて。その味は確かでいつも狂いがなかった。  
 店は、店主一人できりもりしている。
 たまにレジにパートさんがいたが、パンをつくる行程は、あくまで一人で作業しているようだった。 あまりに忙しそうなので、助手を雇えばいいのに・・・と思うその言葉をぐっと飲み込んだ。
 職人の頑なさは、弟子を拒んでいるようにも見えた。
 
 12月31日まで営業、正月は3日から。何故かと聞くと、31日に、いつも決まって訪れるお坊さんがいるので、その人の為に店を開けているのだという。また、パンをおいしく食べられるのは2日ほど。大晦日に買ってもらったパンがもつのはせいぜい1月2日まで。1月3日には、パン党のお客の為に店を開くのだと。

 更なる高みを求めて、ドイツのある高名なパン職人が来日した際は、東京まで行き、教えを乞うた。 総菜パン、おやつパンは殆ど置かず、味で勝負の横文字のパンたち。万人受けするメロンパンやホットドック、ドーナツや揚げパンを焼けば、店はもっと繁盛するはずだった。
 しかし店主はいつもひとりで、もっと崇高な山の頂上を目指していた。きっと、険しい山だったに違いない。
 
 店主はお客と話をしていても、けっして話し過ぎることはなかった。でもまったく話さないでもなかった。私は名乗った覚えはなかったのだが、きっと自分で何かの拍子に言ったのだろう、ちゃんと名前を知っていた。息子の名前も、娘の名前も、一度で覚えてくれて、訪れると気のいいお兄さんといった風で、いつも名前で呼んでくれた。 私の名前はもちろん、私の友だちの名前も知っていた。店にはたまにしか行かない人なのにも関わらず、話しているうちにふと話題に出てきて、その人のこともよく記憶していたので驚いた。

 しばらくして、店はドイツの新聞に紹介された。ドイツ釜で焼くこだわりのパンが評判になって、ドイツ紙の記者が取材に来たのだった。しかしそのような出来事があろうとも、店主は決して、おごり高ぶるようなことはなかった。自分はたいした人間じゃない、と頭を横に振るのだった。パンの味を褒めても、いつも心から謙遜した。
 褒められる事を拒む、まるで自分自身の過去への懺悔のようであった。

 店主さんへ
 いつも、ありがとうございます。   
 ぼくは、店主さんのことが大好きです。 いつも、ぼくのことをやさしくしてくれて、うれしいです。
 ぼくは、お店のパンがすごくおいしいと、毎日、おもっていました。   
 ぼくは、店主さんがなくなって、ほんとうに、悲しいです。
  もう、お店のパンをにどと、食べられないと思ったら、ざんねんです。   
 毎日本当にありがとうございました。(店主さんの絵と食パンの絵)
   
 店主様   店主さんがこの世におられないなんて、まだ信じられません。
 あの、42年ぶりの大雪が街に降り積もったあの日、私は発熱で床に伏しておりました。思えばここ1か月、体調が思わしくなくて、お店へ行けなかったのが本当に悔やまれます。 友人からの一報にも 「まさか」 なにかの間違いに決まってる・・・
 この目でお店のシャッターの貼り紙 これを見るまでは、信じられなかったし、信じたくもなかったのです。   
 月に数回、ほんの半斤のパンを買いに行く私に「少しずつ買いに来てくれて、焼きたての新鮮なパンを食べてもらうのが、一番嬉しいんです」と言ってくださいました。  
 店の奥で、こだわりのパンを焼く店主さんの姿を見るのも好きでしたし(忙しい中、私が来店していることは気付いてみえた)、たまに一言、二言会話するほんの2、3分が私にとっての癒しでした。
 家族の事、悩み、不安、いつも真面目に明るく応えてくださって、励まされてばかりでした。息子が試食のパンを何度も口に運ぶのを見ても、嫌なお顔ひとつなさらず、優しかった。
 お声が、いまもまざまざと耳に甦ります。   
 あのパンは、もう食べられないのですね。  
 お葬式に行きたかった、
 行けなくてごめんなさい。

 いろいろな会話を思い出しますが、私にとって人生最大の絶望と不安の中で迎えた第2子出産の前に、「足首を冷やしちゃダメですよ。足首を暖めてね」   
 あのお言葉が、涙が出る程嬉しかったんです。きっと店主さんは、お客さんをいっぱい励まして、おいしいパンと元気を与えてくれていたんでしょうね。   
 ご自身の事は殆ど話されませんでしたが、なんとなく想像するに悲しみを抱えて地獄も見て来られたようにお見受けしておりました。
 そんな方だから、お仕事に対する気持ち、姿勢が他とは比べ物になりませんでした。お客たちはみんなそこに惚れてついてきたんです。  

 店の前の貼り紙を見て、居合わせた見ず知らずのお客さんと泣きました。
 隣の呉服屋さんで、詳細も聞きました。  
 ぜんそくの持病があって、毎日咳き込んで吸引してからお仕事されていた事、あの日の猛烈な寒さで呼吸が苦しくなって倒れ、出勤してきたパートさんに発見されて救急車を呼んで、病院に向かう途中でもう息があったかないかだったって・・・。
  
 舞台の上で死にたいと願う役者のように、最後の最後まで立派にお仕事されました。   
 どこに住んで居られたかも分からなかったので、息子と書いた、このあてのないお手紙をお店のポストへ入れておきます。   
 あなたの命を賭けたパン、
 いつまでも忘れません。

 いままで 本当に ありがとう                  (完)     

08/5/8