特集『4000字小説』「白樺にて」

 生活感のしない広々とした空間、小ざっぱりとしたマンションの一室、そこは自由気ままな空気が漂う一人暮しの部屋だった。
 僕は、ぼんやりと眠りから目覚めて、カレンダーの赤色の日曜日を見上げていた。そして布団の中で両手を広げ大きなあくびをして、未練が残るベッドからしぶしぶ抜け出すと、サイドテーブルにある何故だかキラキラと虹色に輝いた円筒形の置時計に目がいった。
 朝の九時五分を指している。テーブルの上にはシガレットケースがあった。覗いている二本の煙草は『ピースサイン』のように僕を誘っている。悪魔の手にかかるように指を伸ばした時、グウーと腹の虫が耳に大きく響いた。
 小型冷蔵庫のドアを開けると、コーラ瓶が一本半、ネズミにかじられたようなチーズの欠けら、サンドイッチにはカビが花模様を描いていた。僕は『芸術作品だな…』と妙な感心をした。
 パジャマを脱ぎすて、赤いTシャツと黒のジーパンに着替え朝食に出ようとしたその時、壁に掛けてあるビキニ姿のカレンダーガールが浮き出て、微笑みながら手を振っていた。びっくりもせず、僕は『最近のカレンダーの仕組みもリアルだな』と満足した。
「それでは行ってくるよ」
「行ってらっしゃいませ! ご主人様」と、後で可愛い声がした。マンションの七階廊下に出ると、突き当たりのエレベーターに『本日は安全管理点検中』のプレートがぶらさがっていた。それで僕は階段に向かった。すると自分の身体が心地よく軽く、ピヨーン、ピヨーンと空をジャンプするように階段を駆け降りていった。
 街は静かでひとけもない。歩いているとオープンカフェ『白樺』が目に入った。ふと、『これは、いつものコースだったのか…』と首を傾げた。
 オープンカフェ『白樺』はガランとして空席だらけだ。道路側のテーブルを無表情なウエイターが忙しげに片付けている。
『暇なのに変な奴だな…』と僕は不思議な雰囲気に首を傾げた。
 腕時計は朝の九時三十分を示していた。風が爽やかに吹いている。どこに座ろうかと視線を向けると、片隅のテーブルに座っている赤いドレスの女性の背中が眼に止まった。彼女は僕を待っているのだと感じていた。その時、僕は冷気を吸った刺激で咳き込んでいた。
 赤いドレスの女性が振り向いた。
『あっ!僕の部屋のカレンダーガールが抜け出して来ている』
 驚くこともなかった。すかさず僕は彼女に声をかけた。
「あのう―」
「ええ、よろしければここにどうぞ」
 あうんの呼吸というのか、すぐに彼女は同席に応じた。僕は当然の成り行きだと、向かいの籐椅子に飛び乗った。
 僕たちはしばらくの間、取りとめもない退屈な世間話に口を動かせていた。そうするうちに僕の眼が鋭く一点を見詰めた。
 彼女の右手の指輪は、極彩色に光り輝き高貴な美しさを称えていた。
「その指輪はすばらしい。どうしてあなたの指に……」
 彼女は微笑んで、
「父から誕生日の贈りものに頂いたものですの。とても珍しい鉱石を加工したのですって」
「良かったら、あなたにもプレゼントしましょうね」
 突然のことに僕は有頂天だった。珍しい高価なものが貰えるとは…。
「あのう、これ、ニューヨークで公演されるクラッシックコンサートのチケットですの。是非ご一緒しましょうね」
「もちろん、ご一緒しますよ」
 と、僕は大きく頷いた。
 おだやかな風に褐色の枯葉がニ枚、僕たちの白いテーブルに舞い降りて、くるくるとダンスを踊り始めた。すばらしいダンスショーに二人は一生懸命に拍手をしていた。
 そして、直ぐに僕たちは結婚の約束をしていた。彼女の祖父は有名な財閥、Kグループの会長だった。そして僕は有名なご令嬢のハートを射止めた幸運な男だった。
『僕の人生は、バラ色だよ!』
 夜空には満天の星が僕を祝福してキラキラと輝いてエールを送っている。『当然の成り行きなのだな』と僕が言った。
 婚約はホテルインターナショナルのスカイレストランで行われた。『ああ、百万ドルの夜景だ! この限りなく広がるすばらしさも僕が手に入れたものだ』
 結婚式の披露宴はビルトンホテルを借り切って、五百人以上の関係者を招いて盛大に行われた。
『全てが順調だ。僕のラッキースイッチが機能を始めたのだ』
 僕たちは新婚旅行に行くのに国際空港へ車で向かっていた。僕は有頂天で興奮の真っ只中、握るハンドルも空飛ぶジェット機なみの猛スピードを上げているかのようだった。
 僕は彼女を振り向いて声をかけた。
「ねえ、爽快だよね。自由に空を飛ぶ鳥になったみたいだよ」
「そうね、そう――あっ、あれ、危なーい!」
 ハンドルを切れ損ねた車は、悲鳴とともに暗い崖の底へとガラガラと落ちていった――。
 そこで僕は、長い、長い夢から目覚めた。
「ああ、悪夢を見ていたのか………」
 僕は、どこにでもいるような、ごく平凡なサラリーマンだ。
 そこはありふれたアパートの部屋の中。
『ああ、残念無念、しかしリアルな夢だったな』
 その時に突然、枕もとの置時計の目覚ましがジリジリ鳴った。ジロリと眼をやる。そこには白い円筒形の置時計がある。
 うむ。夢と同じではないか。そして時刻も同じ午前九時五分を指している。ほうほう。しかし何やら嫌な予感が僕の脳裏をよぎる。
「これは正夢になるのかな………」
 しかし、僕はやがて覚悟を決めた。
「それでも本当に正夢なら、その運命に身をゆだね、奇跡のチャンスに命を賭けてみようではないか。僕も男だ…」
 ジャジャーン、百パーセント勇気の塊。僕は強運の持ち主。
「ヨッシャー!――」意を決して、Tシャツとジーパンに着替えて僕はアパートをあとにした。
 オープンカフェ『白樺』に客の姿はほとんどなかった。街路樹に包まれて白いテーブルが散在していた。夢と同じように無表情な若いウエイターが無愛想にテーブルの準備に専念している。
 あちらこちらから樹々の枯葉がハラハラと舞い落ちていた。そして、運命の女性がいるべき席には、赤いドレスの女性ではなく、な、なんと、背中を曲げた小さなお婆さんが、ひとりでせっせっと編物をしているではないか。それで僕は少しビビリながら声をかけた。
「あ、あのう………」
 すると、そのお婆さんはクルリと振り向くと、にっこりと微笑み、
「どうしたのだい、お兄さん」
「いいえ、僕の思い違いで…」
 何という奇々怪々な展開になってしまったのだろうか。まさかお婆さんの出現になるとは、運命の糸はどこで……
 僕は思わず自分の腕時計に眼をやった。九時三十分。まさしく運命の時刻ではある。僕はきっちり、百八十度、方向転換すると、その場を離れた。うむ、それでは、近くの公園でまず自分の顔を洗って、それから、今後の行動に関してよく考察してみよう。
 それが賢明である。
「これで良し」
 洗った顔を、タオルハンカチで拭きながら、傍にあったベンチに腰かけた。そして、おもむろに辺りを高みの見物。さすが、公園のよくある光景だなあ。足もとには、餌をねだる鳩たちがたむろし、あちらこちらで子供たちがボールを持って駆け回り、中央の噴水からは勢いよく虹色の水が噴き出し、そして、てっぺんの時計台の針は朝の九時三十分を指している。
「あーあー、残念無念。やはり夢は夢か」
『おやっ、待てよ。時計台の針は九時三十分』
「あっ、そうだった!」
 何という不覚。きのうの晩に腕時計の針が、電池切れで止まっていたことを、僕は忘れていたのだ。
 わああああああ。
「ということは、今ごろ、あのオープンカフェ『白樺』で……」
 枯れ葉、舞い散るオープンカフェ『白樺』の片隅。彼女はしゃれた籐椅子に軽くすわり、ウエイターに朝のレモンティを注文すると、白いテーブルに片肘を突いて小首をかしげた。
「何だか変な感じだわね。今にも誰か、タイプの男性が現われて私に声をかけ、おしゃべりして意気投合しているような…。気のせいかしら」
 何も知らぬ若いウエイターは、あくびをしながら、いつものようにせっせとテーブルを拭いているのだった。
      (了)

11年9月8日

ウェブ作品集

加藤 行

 

 生活感のしない広々とした空間、小ざっぱりとしたマンションの一室、そこは自由気ままな空気が漂う一人暮しの部屋だった。
 僕は、ぼんやりと眠りから目覚めて、カレンダーの赤色の日曜日を見上げていた。そして布団の中で両手を広げ大きなあくびをして、未練が残るベッドからしぶしぶ抜け出すと、サイドテーブルにある何故だかキラキラと虹色に輝いた円筒形の置時計に目がいった。
 朝の九時五分を指している。テーブルの上にはシガレットケースがあった。覗いている二本の煙草は『ピースサイン』のように僕を誘っている。悪魔の手にかかるように指を伸ばした時、グウーと腹の虫が耳に大きく響いた。
 小型冷蔵庫のドアを開けると、コーラ瓶が一本半、ネズミにかじられたようなチーズの欠けら、サンドイッチにはカビが花模様を描いていた。僕は『芸術作品だな…』と妙な感心をした。
 パジャマを脱ぎすて、赤いTシャツと黒のジーパンに着替え朝食に出ようとしたその時、壁に掛けてあるビキニ姿のカレンダーガールが浮き出て、微笑みながら手を振っていた。びっくりもせず、僕は『最近のカレンダーの仕組みもリアルだな』と満足した。
「それでは行ってくるよ」
「行ってらっしゃいませ! ご主人様」と、後で可愛い声がした。マンションの七階廊下に出ると、突き当たりのエレベーターに『本日は安全管理点検中』のプレートがぶらさがっていた。それで僕は階段に向かった。すると自分の身体が心地よく軽く、ピヨーン、ピヨーンと空をジャンプするように階段を駆け降りていった。
 街は静かでひとけもない。歩いているとオープンカフェ『白樺』が目に入った。ふと、『これは、いつものコースだったのか…』と首を傾げた。
 オープンカフェ『白樺』はガランとして空席だらけだ。道路側のテーブルを無表情なウエイターが忙しげに片付けている。
『暇なのに変な奴だな…』と僕は不思議な雰囲気に首を傾げた。
 腕時計は朝の九時三十分を示していた。風が爽やかに吹いている。どこに座ろうかと視線を向けると、片隅のテーブルに座っている赤いドレスの女性の背中が眼に止まった。彼女は僕を待っているのだと感じていた。その時、僕は冷気を吸った刺激で咳き込んでいた。
 赤いドレスの女性が振り向いた。
『あっ!僕の部屋のカレンダーガールが抜け出して来ている』
 驚くこともなかった。すかさず僕は彼女に声をかけた。
「あのう―」
「ええ、よろしければここにどうぞ」
 あうんの呼吸というのか、すぐに彼女は同席に応じた。僕は当然の成り行きだと、向かいの籐椅子に飛び乗った。
 僕たちはしばらくの間、取りとめもない退屈な世間話に口を動かせていた。そうするうちに僕の眼が鋭く一点を見詰めた。
 彼女の右手の指輪は、極彩色に光り輝き高貴な美しさを称えていた。
「その指輪はすばらしい。どうしてあなたの指に……」
 彼女は微笑んで、
「父から誕生日の贈りものに頂いたものですの。とても珍しい鉱石を加工したのですって」
「良かったら、あなたにもプレゼントしましょうね」
 突然のことに僕は有頂天だった。珍しい高価なものが貰えるとは…。
「あのう、これ、ニューヨークで公演されるクラッシックコンサートのチケットですの。是非ご一緒しましょうね」
「もちろん、ご一緒しますよ」
 と、僕は大きく頷いた。
 おだやかな風に褐色の枯葉がニ枚、僕たちの白いテーブルに舞い降りて、くるくるとダンスを踊り始めた。すばらしいダンスショーに二人は一生懸命に拍手をしていた。
 そして、直ぐに僕たちは結婚の約束をしていた。彼女の祖父は有名な財閥、Kグループの会長だった。そして僕は有名なご令嬢のハートを射止めた幸運な男だった。
『僕の人生は、バラ色だよ!』
 夜空には満天の星が僕を祝福してキラキラと輝いてエールを送っている。『当然の成り行きなのだな』と僕が言った。
 婚約はホテルインターナショナルのスカイレストランで行われた。『ああ、百万ドルの夜景だ! この限りなく広がるすばらしさも僕が手に入れたものだ』
 結婚式の披露宴はビルトンホテルを借り切って、五百人以上の関係者を招いて盛大に行われた。
『全てが順調だ。僕のラッキースイッチが機能を始めたのだ』
 僕たちは新婚旅行に行くのに国際空港へ車で向かっていた。僕は有頂天で興奮の真っ只中、握るハンドルも空飛ぶジェット機なみの猛スピードを上げているかのようだった。
 僕は彼女を振り向いて声をかけた。
「ねえ、爽快だよね。自由に空を飛ぶ鳥になったみたいだよ」
「そうね、そう――あっ、あれ、危なーい!」
 ハンドルを切れ損ねた車は、悲鳴とともに暗い崖の底へとガラガラと落ちていった――。
 そこで僕は、長い、長い夢から目覚めた。
「ああ、悪夢を見ていたのか………」
 僕は、どこにでもいるような、ごく平凡なサラリーマンだ。
 そこはありふれたアパートの部屋の中。
『ああ、残念無念、しかしリアルな夢だったな』
 その時に突然、枕もとの置時計の目覚ましがジリジリ鳴った。ジロリと眼をやる。そこには白い円筒形の置時計がある。
 うむ。夢と同じではないか。そして時刻も同じ午前九時五分を指している。ほうほう。しかし何やら嫌な予感が僕の脳裏をよぎる。
「これは正夢になるのかな………」
 しかし、僕はやがて覚悟を決めた。
「それでも本当に正夢なら、その運命に身をゆだね、奇跡のチャンスに命を賭けてみようではないか。僕も男だ…」
 ジャジャーン、百パーセント勇気の塊。僕は強運の持ち主。
「ヨッシャー!――」意を決して、Tシャツとジーパンに着替えて僕はアパートをあとにした。
 オープンカフェ『白樺』に客の姿はほとんどなかった。街路樹に包まれて白いテーブルが散在していた。夢と同じように無表情な若いウエイターが無愛想にテーブルの準備に専念している。
 あちらこちらから樹々の枯葉がハラハラと舞い落ちていた。そして、運命の女性がいるべき席には、赤いドレスの女性ではなく、な、なんと、背中を曲げた小さなお婆さんが、ひとりでせっせっと編物をしているではないか。それで僕は少しビビリながら声をかけた。
「あ、あのう………」
 すると、そのお婆さんはクルリと振り向くと、にっこりと微笑み、
「どうしたのだい、お兄さん」
「いいえ、僕の思い違いで…」
 何という奇々怪々な展開になってしまったのだろうか。まさかお婆さんの出現になるとは、運命の糸はどこで……
 僕は思わず自分の腕時計に眼をやった。九時三十分。まさしく運命の時刻ではある。僕はきっちり、百八十度、方向転換すると、その場を離れた。うむ、それでは、近くの公園でまず自分の顔を洗って、それから、今後の行動に関してよく考察してみよう。
 それが賢明である。
「これで良し」
 洗った顔を、タオルハンカチで拭きながら、傍にあったベンチに腰かけた。そして、おもむろに辺りを高みの見物。さすが、公園のよくある光景だなあ。足もとには、餌をねだる鳩たちがたむろし、あちらこちらで子供たちがボールを持って駆け回り、中央の噴水からは勢いよく虹色の水が噴き出し、そして、てっぺんの時計台の針は朝の九時三十分を指している。
「あーあー、残念無念。やはり夢は夢か」
『おやっ、待てよ。時計台の針は九時三十分』
「あっ、そうだった!」
 何という不覚。きのうの晩に腕時計の針が、電池切れで止まっていたことを、僕は忘れていたのだ。
 わああああああ。
「ということは、今ごろ、あのオープンカフェ『白樺』で……」
 枯れ葉、舞い散るオープンカフェ『白樺』の片隅。彼女はしゃれた籐椅子に軽くすわり、ウエイターに朝のレモンティを注文すると、白いテーブルに片肘を突いて小首をかしげた。
「何だか変な感じだわね。今にも誰か、タイプの男性が現われて私に声をかけ、おしゃべりして意気投合しているような…。気のせいかしら」
 何も知らぬ若いウエイターは、あくびをしながら、いつものようにせっせとテーブルを拭いているのだった。
      (了)

09/12/13